第10章 最後の決裁
稟議書の紙は、薄い黄色に変わっていた。
独立調査の対象として取り寄せられた2001年の破綻処理記録。その束の中に、「馬淵鉄工所」と書かれた表紙があった。
閲覧室で手袋をはめた馬淵は、最初の紙をめくるまでに時間がかかった。心臓の音ではなく、紙の端が擦れる小さな音が怖かった。
父の工場の売上が、月ごとに並んでいた。14歳の馬淵は、学校から帰ると半分まで下りたシャッターをくぐろうとして叱られた。機械が動かない理由を聞く勇気はなかった。通りを歩く友達に見られるのが嫌で、鞄だけを先に家へ放り投げた。
当時の資料には、主要取引先の回収遅延を過大に見積もった記述があった。担保評価の引下げ、再生会社への土地売却の提案。どこまでが当時の判断の誤りで、どこからが意図的な誘導かは、さらに確認が必要だった。
担当者欄に、有働の印があった。
その印を見た瞬間、過去の出来事がひとつにつながったような気がした。
父が黙っていたこと。母が通帳を隠したこと。自分が銀行員になったこと。どれも有働の印が説明してくれる、そんな乱暴な安堵が押し寄せた。
だが、1つの印影に25年を押し込めることはできない。
馬淵は紙を置いた。
隣で佐野が待っていた。
「今日は、ここまでにしますか」
「いや。最後まで読む」
父が若い行員を守って黙ったのか、それとも口にする力さえ残っていなかったのか。書類には載っていない。馬淵にも判断できなかった。
父が銀行の名を口にしなかったことだけは覚えている。倒産後は別の工場で働き、帰宅すると工具を拭いた。恨む相手の名を、息子には渡さなかった。
その沈黙を立派な行為に仕立て、有働を許す理由として使うのは嫌だった。
父が話さなかったことを、いまさら父の言葉にしてはいけない。馬淵は手袋の指先を揃え、次のページを開いた。
母に会ったのは、古い稟議書を読んだ翌日だった。
馬淵は、父の工場の記録に有働の名があったと伝えた。母は台所の椅子に座り、湯呑みを両手で持った。
「若い人が、来ていたよ」
「有働さんだったの」
「名前は、覚えていない」
馬淵は鞄へ手を伸ばしかけた。写真を見せれば、思い出すかもしれない。だが、思い出したのではなく、写真の顔を記憶に重ねることもある。
「どんな人だった」
「真面目そうだった。靴を、きちんと揃えた」
それだけだった。
母が覚えていたのは、その青年が父に頭を下げた日の夕飯だった。台所にいたので、話の中身は聞こえない。男が帰ったあと、父は冷めた味噌汁を温め直した。母が手を貸そうとすると、「いい」とだけ言ったという。
「父さんは、その人を、庇っていたのかな」
母は首を振った。
「知らない。私は、あの人が誰かを庇っていると思ったことはないよ。ただ、もう、その話をしたくなかったんだと思ってた」
馬淵は黙った。
父が誰かを庇ったと信じたかった。そうすれば、有働を憎む理由にも、許す理由にも父の名を借りられる。馬淵は、母の湯呑みから立つ細い湯気を見ていた。
母は続けた。
「お父さんは、家で、よく怒ったよ。あなたには、見せなかったけど」
「何に」
「いろんなこと。役所の紙が多いとか、電話の相手が違うとか。私にも、当たった」
馬淵は工具箱を思い出した。黙って丁寧に道具を拭く父を、都合よく1人だけ残していたのだ。
「立派な人だった、だけじゃ、私は困る」
母は湯呑みを置いた。
「いい人だったし、嫌なところもあった。一緒に暮らしたのは、そういう人だよ」
馬淵はうなずいた。
馬淵は父を小さくされたように感じた。けれど帰り支度をする頃には、工具を拭くだけの立派な人より、腹を立て、ときには家族に当たり、冷めた味噌汁を食べた人間のほうが近くに感じられた。
「俺、父さんのために、銀行へ入ったつもりだった」
「あなたのためでしょう」
母は言った。
「お父さんが、そうしろって言ったの」
「言ってない」
「じゃあ、あなたが選んだんだよ」
向かいの家の洗濯物が風に揺れていた。母の家の窓からは、銀行も工場も見えない。それが少し救いだった。
父が決めた人生ではない。馬淵が選び、続けてきた人生だった。そう言われると、背負っていたと思っていた約束の中に、自分が勝手に書き足した部分があるとわかった。
帰る前に、母が小さな缶を出した。
中には領収書と、古い写真があった。銀行の書類ではなかった。父が再就職した工場の忘年会、町内の清掃、母と行った温泉。馬淵が知らない父が、何枚もいた。
「工場をなくしたあとも、生活はあったんだよ」
母は言った。
「あなたは、なくした日の話ばかりするけど」
馬淵は写真を見た。
父が笑っていた。倒産した人間は、ずっと倒産した顔で生きるわけではない。その当たり前を、息子が忘れていた。
「1枚、もらっていい」
「写しを作りなさい。私も、見るから」
馬淵はうなずいた。父の記憶を、自分だけのものにしない。その小さな手続きが、いまは大切だった。
独立調査委員会の聴取は、10月下旬に始まった。
テレビの会見のような席ではなかった。何日もかけて、別々の人間が、同じ質問に答えた。馬淵の説明も、何度も止められた。
「そこは、直接見たことですか」
「いいえ。乾から聞いたことです」
「では、そのように記録します」
自分の言葉が小さくされていく気がした。だが、誰がどこまで知っていたかを分けなければ、また名前だけが独り歩きする。
有働の聴取結果について、馬淵が知ったのは、後日示された要旨からだった。
特権訂正の関与は認める。一部は移行時の整備だったと説明する。三隅との資金の流れについては、地域再生の準備だったと主張する。
何もかもを一気に認め、崩れ落ちるような結末ではなかった。
有働は、最後まで言葉を選んでいた。
馬淵と有働が同席したのは、確認事項を突き合わせる席だった。
委員と双方の代理人がいた。机の上に、馬淵が有働へ渡した晩餐会の資料が置かれた。表紙には受領時刻と有働の署名がある。
「この資料のうち、監査委員へ報告しなかった部分はどこですか」
委員が聞いた。
有働は紙を見た。
「未確認の情報を、そのまま上げることはできませんでした」
「では、確認するために、何をしましたか」
有働は答えた。照会、聴取、資料の精査。その一覧には、大阪の記録の保全はなかった。
馬淵は、口を挟まなかった。
委員が廃棄申請を示した。
「未確認だから報告しなかった。一方で、確認に必要な旧媒体は廃棄しようとした。その判断の整合性を説明してください」
有働の指が、紙の端を揃えた。
その所作を、馬淵は何度も見ていた。話をまとめる前の癖だと思っていた。いまは、答えを待つために見た。
「銀行を残すためでした」
有働は言った。
委員は質問を変えなかった。
「そのために、この記録を失わせる必要が、なぜあったのですか」
長い沈黙があった。
馬淵は、感情で戦うな、という声を思い出した。あの言葉を、自分を黙らせるためのものにしない。問いを、相手の人格の話へ逃がさない。それが、いま自分にできることだった。
休憩の前、有働が馬淵を見た。
「お前は、私が何もかも嘘を言っていたと思うのか」
馬淵は答えなかった。委員が、必要なら質問として記録すると言った。
「記録してください」
馬淵は言った。
「全部が嘘だったとは思っていません。だから、疑うのが遅れました」
有働は目を伏せた。
「私は、お前を買っていた」
「知っています」
「お前なら、銀行を変えられると」
「だったら、私の名前を使わないでほしかった」
有働の手が止まった。
馬淵は続けた。
「私の正しさを、あなたの計画に使わないでほしかった。郷田さんへの恨みも、父のことも。私が自分で判断するための材料を、隠さないでほしかった」
声は大きくならなかった。
「柏原さんにも、同じことをしたんです。あの人が選ぶための事実を奪って、保証人という名前だけを置いた」
有働は、銀行の将来について話し始めた。
委員が止めた。
「いま確認しているのは、個別の行為です」
馬淵は机の上の自分の名を見た。
大きな理念の下に隠された小さな行為を、1つずつ元へ戻す。その仕事には、喝采がなかった。
植草は、最終報告の前に退任の意向を示した。
だが、辞めれば終わるわけではなかった。調査への協力と、経営判断の検証は続いた。郷田も再建の責任者には選ばれなかった。通報を出したことと、その後の沈黙は、別に評価された。
「当然だ」
郷田は馬淵に言った。
「私が被害者であることは、私の責任を消さない」
新しい経営体制には外部の人間が入った。資本の補強は、複数の選択肢を比較して進められた。地元だから善い、外から来るから悪い、という説明はしなかった。
アークライトの提案は、条件と関与の検証が終わるまで進めないとされた。関連する取引の調査は、国外の関係先も含めて続いた。
有働と三隅については、捜査機関へ資料が渡された。馬淵は新聞の見出しで、有働の名を見た。自分が疑われたときと同じように、短い文字が人間の輪郭を決めていた。
だからといって、したことが消えるわけではない。
したこと以上のものを、見出しに足さない。その難しさを、馬淵は覚えておこうと思った。
銀行から届いた説明文の案には、馬淵に対する疑義は解消に向かっている、とあった。
弁護士の事務所でその1行を読んだとき、馬淵は、向かっている、という言葉に目を止めた。
「まだ、途中という意味ですか」
「銀行へ確認しましょう」
弁護士は赤いペンを取らず、別の紙へ質問を書いた。本人が口座を開いたという説明を撤回するのか。資金を受け取ったとする説明はどうなるのか。廃棄申請へ本人が関与したという扱いは訂正するのか。
馬淵は、全部違うのだから、全部訂正すればいいと言った。
「あなたにとっては、そうです。ただ、どの説明を、誰へ出したかが違います。1枚の謝罪文で、全部へ届いたことにはできません」
弁護士は、提出先の一覧を求めると説明した。行内の関係部署、調査担当者、捜査機関。外へ出た情報については、銀行が何を伝えたかと、報道された内容を分ける。
馬淵は窓の外を見た。疑われたときは、一晩で町の見え方が変わった。訂正は、1か所ずつ宛先を確かめなければならない。
「誰が読んだかまで、戻せるんですか」
「全部は、戻せません」
弁護士は答えた。
馬淵は、その言葉を聞いて、初めて腹が立った。誰に腹を立てればいいのか、わからなかった。目の前の弁護士ではない。だが、何も戻せないことを、落ち着いて説明されるのもつらかった。
「すみません。いま、うまく話せません」
「では、質問の紙だけ、今日は確認してください」
馬淵は紙を受け取った。うまく話せないままでも、できることが残された。
数日後、銀行の担当者との面談で、馬淵は、調査中という言葉を何度も聞いた。
担当者は、全体の調査が終わっていないと説明した。馬淵は、自分の口座への関与と、全体の資金の行方を分けて答えてほしいと頼んだ。
「資金の最終的な行方が全部わからないと、私が受け取っていないことも訂正できないんですか」
担当者は資料を見た。
「その点は、整理できます」
「では、整理した内容を、前に私の関与を伝えた相手へ届けてください」
弁護士が、訂正の範囲と実施日を確認した。馬淵は横で聞いた。大きな声で潔白を叫ぶより、短い質問の方が先へ進む。だからといって、叫びたかった気持ちまで間違いだったとは思いたくなかった。
面談の終わりに、担当者が、今後のご活躍を期待しています、と言った。
馬淵は顔を上げた。
「戻ったあと、何事もなかったように働けるかは、まだわかりません」
担当者は口を閉じた。
「働きたいとは、思っています。ただ、そのことを、今回の対応に納得したという意味にはしないでください」
言い終えると、胸の奥が少し痛んだ。銀行へ戻るためには、銀行を許さなければならないと思っていた。許すかどうかを決める前に、仕事へ戻る選択もできる。その順番を、自分で決めたかった。
帰りに、いつもの弁当屋へ寄った。
店主は馬淵を見ると、今日は1つかと聞いた。荻野と買いに来たことを覚えていたのだろう。馬淵は、1つです、と答えた。
「魚、まだあるよ」
「それを」
店主は蓋を閉め、輪ゴムをかけた。銀行の話はしなかった。知っていて聞かないのか、知らないのか、馬淵にはわからなかった。わからないまま、弁当を受け取った。
アパートへ戻り、食卓で食べた。魚の骨を外していると、荻野の手つきを思い出した。以前、自分は、彼の食べ方に母親の話を聞いた。仕事の話へ戻りたくて、その先を聞かなかった。
携帯を取り、荻野へ連絡しようとした。母親はどうだ、と書きかけ、消した。自分が少し楽になったからといって、相手が話せる日だとは限らない。
代わりに、支店への復帰に向けた面談をしていることを、多賀谷へ伝えた。返事は短かった。復帰日が決まったら、引継ぎの時間を取る。
馬淵はその文を読み、弁当の残りを食べた。自分の席を、記念の場所にせず、仕事の場所として空けてくれている。そのことがありがたかった。
夜、母へ電話した。
「銀行へ、戻れそうだ」
「そう」
「まだ、決まったわけじゃないけど」
「戻りたいの」
馬淵は、うん、と答えた。
母は、よかったねとは言わなかった。戻りたいのなら、その準備をしなさいと言った。シャツはあるか、靴は傷んでいないか。馬淵は、ある、まだ履ける、と1つずつ答えた。
「無理なら、やめてもいいんだよ」
母が最後に言った。
「知ってる」
馬淵は答えた。以前なら、簡単に言うなと思っただろう。いまは、やめてもいい場所へ、戻りたいと思っている。その違いを、少しだけ説明できる気がした。
電話を切り、靴を磨いた。父が道具を拭いていたからではない。明日、履くためだった。
馬淵への職務停止は、11月に解除された。
名義口座の開設と資金移動への本人の関与を認める資料はなく、偽装に用いられた経路が確認された。銀行は疑義の説明を訂正し、捜査機関にも追加の記録を提出した。馬淵は、自分の弁護士を通して、その内容を確かめた。
人事部員は、復帰にあたり、ご心労をおかけしましたと言った。
「何を、どう訂正したか、書面をください」
馬淵は頼んだ。
謝罪を拒みたかったのではない。謝罪だけを受け取ると、明日からまた、何もなかったように働いてしまいそうだった。
支店へ戻った朝、荻野が椅子を引いた。佐野は、未処理の案件を机に置いた。多賀谷は、まず引継ぎを読めと言った。
誰も拍手をしなかった。
馬淵は鞄を置き、椅子に座った。机の端に、自分が使っていた朱肉があった。蓋の上に薄く埃がついていた。
佐野が言った。
「柏原さんの資金繰りは、私が引き続き担当します。馬淵さんには、取引先への説明の経過を見てほしいです」
「わかった」
仕事が元へ戻るのではなかった。いない間に、別の人間が進めたところから、続きを受け取るのだった。
被害企業への説明会で、佳織は最前列に座った。
銀行は、根拠を確認できない保証の請求を停止し、記録の訂正を進めると説明した。保全処分の取下げ、信用判定の再点検、損害の申告窓口。担当者は順に読み上げた。
「全部、補償されるんですか」
後ろの席から声がした。
銀行の担当者は、因果関係と金額を確認すると答えた。
佳織は手を挙げた。
「その確認を待つ間の資金は、どうするんですか」
担当者が資料をめくった。
「事業継続のための相談窓口を」
「窓口の名前ではなく、決められる人を教えてください」
会場が静かになった。
佳織は机に手を置いた。
「私たちは、待っている間にも支払っています。失った受注は、記録を直しても戻りません。辞めた人に、戻れとは言えません。何を待てば、何が決まるのか、日付を出してください」
馬淵は会場の後ろにいた。
最初に自分へ向けられた問いが、今度は銀行全体へ向けられていた。
担当者は即答できなかった。だが、答えられなかったことを議事録に残し、回答日を決めた。
それが、以前との小さな違いだった。
海老原水産は、再開しなかった。
補償の協議は始まったが、工場は別の事業者へ売却されていた。社長の娘は、父の代わりに説明を聞いた。
馬淵は謝罪に同行した。
「遅かったですね」
娘は言った。
「はい」
それ以外の言葉を、馬淵は足さなかった。
「父は、銀行さんに迷惑をかけたくないと言っていました。私は、その言葉が嫌いでした。家族には、迷惑をかけていいのかって」
馬淵は顔を上げた。
「立派な社長だった、で終わらせないでください。父は、間違えたんです。あなたたちを信じて、私たちに相談しなかった」
馬淵はうなずいた。
父親の沈黙を、子がどう受け取るか。自分だけが答えを持っているわけではなかった。
帰り道、海が見えた。馬淵は、父が黙っていた理由を、もう1つの物語に閉じ込めないと決めた。
再建の相談は、工場の事務所で行われた。
銀行の担当者、佳織の代理人、税理士、佐野が集まった。馬淵は資料の説明を補助したが、銀行の補償判断をする側には入らなかった。自分が被害を受けたことと、顧客の損害を判断することを、混ぜないためだった。
机の上には、3つの表があった。過去に生じた損失、再開までに必要な資金、再開後の返済計画。
銀行の担当者は、つなぎ融資の案を出した。
佳織は表を見た。
「その借入を返す原資に、補償金が入っていますね」
「協議が整えば、返済に充てていただく想定です」
「協議が整わなかったら」
「その場合は、改めて」
「改めて、では、計画になりません」
佳織はペンを置いた。
担当者は困った顔をした。佐野は口を出さず、資料の該当箇所を開いた。佳織の代理人が、補償の確定していない部分を返済の前提にしない案を求めた。
会議は長くなった。誰も怒鳴らなかったが、何度も同じ数字へ戻った。銀行の都合で資金を止めたのに、その銀行が貸す金の条件を、また銀行が決める。佳織は、その構造から少しでも距離を取ろうとしていた。
最終的に、既存債務の返済条件の見直しと、再開に必要な資金の取扱い、損害協議の進め方を、別々に書面化することになった。すべてが佳織の希望どおりではなかった。だが、何を認め、何をまだ争っているかが、同じ紙の中で曖昧にならなかった。
会議が終わると、佳織は窓を開けた。
「これで、再開できるんですか」
馬淵が聞くと、彼女は首を振った。
「お金の入口が、少し見えただけです。仕事の入口は、これからです」
失った受注を戻すため、佳織は取引先を回った。
銀行の記録が訂正されたことを説明しても、発注先はすでに別の工場へ移っていた。
「事情は、わかりました。ただ、いまの先も、設備を空けてくれていますので」
担当者は言った。
佳織はうなずいた。自分が困ったときに助けてくれた工場を、こちらが再開したから切れとは言えない。
「全部を戻してほしいとは、言いません。試作だけでも、出せるものはありますか」
担当者は予定表を開いた。
小さな仕事が1つ、戻った。以前の単価より低かった。佳織は、その場で受けなかった。材料と工数を持ち帰って確認すると答えた。
車へ戻ると、松井が待っていた。技術の説明のために同行していた。
「受ければよかったのに」
「赤字で受けたら、再開した分だけ苦しくなります」
「最初は、顔をつなぐ仕事もある」
「顔をつなぐために、誰の給料を削るんですか」
言いすぎたと思った。松井は窓の外を見た。
「そうだな」
佳織はエンジンをかけた。
会社を続けることは、仕事を何でも受けることではない。父の代からの取引先へ断ることも、再建の中に入っていた。
工場へ戻り、松井と工数を計算した。古い旋盤なら時間がかかる。新しい機械なら早いが、まだ入っていない。作業の順番を変えれば、少し短くできる。
松井は図面の端へ線を引いた。
「ここを、まとめて削れる」
佳織は電卓を叩いた。採算が合う単価を出し、翌日、取引先へ提示した。
返事は、検討する、だった。
待つことは、また始まった。だが、今度は、自分たちが計算した数字を出して待っていた。
退職した工員へ、再開の連絡をした。
戻りたいと言った人もいた。新しい職場で続けると言った人もいた。返事をしない人もいた。佳織は、返事がないことを、恨まれている証拠にしないようにした。
子どもが生まれると言っていた工員から、写真が届いた。小さな手が写っていた。
佳織は、おめでとう、と返信した。戻る話は書かなかった。
数日後、工員が事務所へ来た。書類の追加を受け取りに来たのだった。
「新しいところ、どうですか」
「まだ、慣れません。でも、給料は、ちゃんと出ます」
佳織はうなずいた。その言葉が胸に刺さった。刺さったからといって、相手に言い直させるわけにはいかない。
「よかったです」
工員は頭を下げた。
「ここが、また動くのは、嬉しいです」
「ありがとう」
嬉しいと言ってくれたことと、戻らないことは、矛盾しない。佳織は、その2つを一緒に受け取った。
再開準備の初日、松井は測定器の箱を作業台へ並べた。
機械の電源はまだ入れなかった。保全処分をめぐる手続きは終わったが、点検を担当する業者が来るのは翌週だった。工場の入口に掛けた予定表には、清掃、点検、試運転と、別々の日が書かれていた。
佳織は戻る予定の工員と、残っていた材料の数量を数えた。途中まで加工した部品が、油紙に包まれていた。松井が紙を開くと、端に薄く錆が出ていた。
「これは、納められますか」
「削ってみないと、わからん」
松井は答え、部品を脇へ置いた。使えるものと使えないものを分けるために持ってきた箱が、2つあった。どちらにも入れなかった。
佳織はもう1つ、空箱を探した。確認が要るものを置く場所だった。
数を数え終える頃、点検会社から電話があった。交換部品の入荷が遅れ、当初の日に全台を終えることはできないという。佳織は予定表を見た。試運転の翌日に、取引先が見に来ることになっていた。
「動かせる機械だけでも、先にお願いします」
言ってから、松井へ顔を向けた。彼は部品の包みを閉じていた。
「どれを先にするかは、こちらで確認して連絡します」
佳織は電話を切った。
松井は、古い旋盤を指した。先代が使っていた機械だった。佳織も、それを最初に動かすつもりでいた。
「これは、後だ」
「残したいと言っていたのは、松井さんでしょう」
「残す。だが、いま来てる試作は、あっちのほうが早い」
別の機械を指した。松井があまり好まない、操作盤のついたものだった。
佳織は予定表の順番を直した。工場が戻ったことを誰かに見せるための日程を、自分が作りかけていた。取引先へ連絡し、訪問日を変えてもらった。
午後、戻る予定の工員が、作業着の寸法を確かめに来た。
以前のものは家にあるが、洗っても油が落ちないので、新しくしていいかという。佳織は注文票を渡した。工員は、自分で払います、と言った。
「会社で用意する分です」
「いま、お金が大変でしょう」
佳織は、ありがとうと言いかけ、注文票を机へ置いた。
「その費用も入れて、再開する計画です。合わなくなったら、先に計画を見直します」
工員は、では、と寸法を書いた。前より1つ大きい番号だった。
「休んでる間に、太りました」
笑って言ったが、佳織は一緒に笑えなかった。工員は、家で子どもと飯を食べる回数が増えたから、と続けた。
工場が止まっていた時間を、全部、失われた時間と呼ぼうとしていた。そう呼ばなければ損害を訴えられない気がした。だが、会社が止まった間にも、彼の家では食卓が続いていた。
佳織は注文票を受け取り、納品予定日を伝えた。
工員が帰ると、松井は作業台の上の箱を閉じた。中には、測定器が1つだけ残っていた。
「これ、点検へ出す」
「壊れているんですか」
「基準のものと比べると、少し違う。俺が慣れて、ずれを見込んで使ってた」
佳織は箱を見た。松井が長く使ってきたものだった。
「前の製品は」
「別の器具でも測ってる。記録を見直す。何もないとは、まだ言えん」
佳織は出荷の一覧を開いた。再開の準備だけでも手が足りない。過去の確認まで増やしたくなかった。だが、いま黙れば、工場が忙しくなったあとには、もっと言いにくくなる。
「いつから違っていたか、わかりますか」
「前の点検までは、合ってた」
「では、そのあとの分を出します。必要なら、取引先にも説明します」
松井はうなずき、箱の蓋へ、使用停止、と紙を貼った。使い慣れた道具を脇へ置いた手が、しばらく空いたままだった。
夕方、馬淵が来た。佳織は、測定器の確認で仕事が増えたことを話した。
彼は、銀行の問題で長く止まった影響ですか、と聞いた。
「それは、まだわかりません。以前から、ずれていたかもしれません」
佳織は答えた。
馬淵は手帳を閉じかけ、もう1度開いた。損害の申告に加える話だと思って聞いていたのだろう。佳織自身も、何でも銀行のせいにできれば楽だと思う瞬間があった。
「確認した結果は、融資の相談にも必要になりますか」
「製品への影響があれば、必要です。なければ、点検をしたという記録で説明できます」
「では、結果が出たら渡します」
馬淵はうなずいた。
工場の奥で、松井が棚を動かす音がした。戻ってくる人数に合わせ、通路を広くしていた。佳織は手伝いに行った。馬淵は入口の黄色い線の外へ下がった。
棚の下から、短い鉛筆が出てきた。松井は拾い、まだ使えるな、と言った。佳織が笑うと、彼は、これは測る道具じゃない、と付け足した。
鉛筆は事務所の机へ戻した。測定器の箱は、点検へ出す荷物の側に置いた。
柏原製作所の機械が再び動いたのは、12月だった。
法的な手続きが終わり、点検と調整を済ませたあとだった。封印を剥がせば、すぐに元へ戻るわけではない。刃物を替え、油を回し、精度を確かめる必要があった。
38人いた従業員は、再開時には29人だった。戻った人も、戻らなかった人もいた。佳織は新しい名簿を作った。古い名簿は捨てなかった。
松井が旋盤の前に立った。
「代理さん、押すか」
スイッチを指した。
馬淵は首を振った。
「これは、松井さんの仕事です」
松井はうなずき、電源を入れた。
音は、記憶していたものより少し低かった。調整のせいか、自分の耳のせいか、馬淵にはわからなかった。
佳織は父の遺影へ手を合わせなかった。最初に見たのは、測定器の数字だった。
「寸法、どうですか」
松井が答えた。
「出てる」
佳織はそこで、ようやく笑った。
工場が再開した週、宮坂運送のトラックが門へ入ってきた。
荷台に積まれていたのは、新しい材料だった。宮坂は納品書を持って事務所へ来た。佳織が受領欄へ署名すると、彼は工場の音を聞き、動いたな、と言った。
「そちらの修理は」
「終わった。あの1台は、戻した」
宮坂は車の鍵を指へ掛けた。以前は夜も自分で走っていたが、今週から運転を交代できるという。
佳織は茶を出そうとした。宮坂は時計を見て、今日はいい、と断った。次の荷がある。そのことが、佳織には嬉しかった。
門のところで、馬淵と行き会った。宮坂は足を止め、鞄から折った紙を出した。
「これ、まだ返事がない」
補償の申告に関する質問だった。馬淵は、その場で読んだ。社長が代わりに走った時間をどう扱うか。失った契約の説明に、何を添えるか。修理費のうち、もともと予定していた分をどう分けるか。
「窓口へ、確認します」
「また、同じことを説明するのか」
「この紙を、提出した日から確認します。返事が止まった場所も」
宮坂は紙を渡しかけ、戻した。
「写真でいいか。これは、俺が持つ」
馬淵はうなずいた。宮坂は自分の携帯で撮り、指定された窓口へ送ると答えた。馬淵は、送ったあとに受付の連絡が来るかを確かめてほしいと頼んだ。
話が終わると、宮坂は車へ戻った。以前より少しゆっくり歩いていた。疲れが取れたのか、別の理由かは、馬淵にはわからなかった。
事務所で佳織は、点検へ出した測定器の報告を見せた。
器具には調整が必要だった。だが、出荷時に別の器具で行った検査記録と、保管していた見本の再測定では、対象の製品に規格を外れたものは確認されなかった。佳織は結果と調査した範囲を、関係する取引先へ送った。今後は、作業中の測定器も点検の時期を一覧で管理するという。
「何もなくて、よかったですね」
馬淵が言うと、佳織は、出荷したものについては、と答えた。
「松井さんは、少し落ち込んでいます。慣れているから大丈夫だと思っていたって」
窓の外で、松井が若い工員へ器具の保管場所を教えていた。以前なら自分の作業台へ置いていたものを、皆が使える棚へ戻している。
馬淵は報告書を読み終え、返した。
「銀行へ渡す写しは、用意しています。こっちは、うちの分です」
佳織は原本を綴じた。銀行のために作ったのではない。その順番を、馬淵は取り違えないようにした。
午後、宮坂の申告書が、支店を通じて正式に照会された。
回答は、別の部署が資料を求めたまま、担当窓口へ戻していなかったというものだった。馬淵は、担当者が悪かった、と書きかけた。誰かの不注意にすれば、直ったことにできる。
多賀谷は、申告を受け取った側が、他部署へ回したあとも期限を追う仕組みになっているかを聞いた。馬淵には答えられなかった。
照会を1つ足した。宮坂への回答を、その確認が終わるまで待たせることはしなかった。判明した経緯と、個別の質問への回答日を先に伝えた。
夕方、宮坂から電話が来た。
「わかった。次は、その日に聞く」
それだけだった。
馬淵は受話器を置いた。許してもらえたわけではない。次の電話が来る日を、相手も手帳へ書いた。それを、自分たちがまた空欄にしてはいけなかった。
佐野の異動は見直された。乾の権限停止も解除されたが、彼女は元の仕組みに戻ることを拒んだ。
「私が正しい判断をすれば大丈夫、という制度にはしないでください」
会議でそう言った。
特権訂正には複数の承認を要し、訂正前後の記録を別系統で保全する。通報の受付と調査判断を分ける。調査対象の部署が、通報者の人事を単独で決めない。
紙にすれば短い変更にも、反対はあった。費用、手間、責任の所在。乾は議事録を取り、反対の理由も残した。
荻野の持出しについては、事情を調べたうえで処分と再教育が行われた。不正を明らかにした協力については、別に記録された。
「表彰と処分が、両方あるんですね」
荻野が言った。
多賀谷は答えた。
「どちらかだけにしたら、また都合のいい話になる」
荻野はうなずいた。
自分の控えが役に立ったから、持ち出してよかったのではない。持ち出したから、役に立ったことまで消えるのでもない。その2つを、彼は自分の言葉で説明できるようになった。
新しい訂正手続きの試行には、港南支店も加わった。
最初の説明会で、担当者は、承認する人を増やしたと話した。画面には、申請、確認、承認の箱が並んでいた。佐野は配られた手順書をめくり、差戻しの欄で指を止めた。
「確認する人が、根拠を見られない場合は」
「必要な権限を申請していただきます」
「その申請を、誰が承認しますか」
担当者は画面を戻した。訂正を求めた部署の責任者だった。
佐野は、自分が聞きたかったことを、もう1度説明した。訂正の理由に疑問があるから根拠を見たい。その閲覧を、訂正を求めた側が止められるなら、承認者を増やしても同じところへ戻る。
担当者は、想定外です、と答えた。
「では、今日の試行で、想定に入れてください」
乾が言った。声は静かだった。担当者は資料へ書き込み、回答を持ち帰ると伝えた。
多賀谷は、試行中の案件をどの手順で扱うかを聞いた。新しい手続きの完成まで、すべてを止めるわけにはいかない。別系統の責任者へ照会する暫定の経路を決め、その間の記録を残すことになった。
佐野は、その部分を自分の手順書へ足した。印刷されたものに、自分の字が混じった。あとで正式版が来たとき、この書込みが消えたかどうかも確かめるつもりだった。
説明会のあと、佐野は乾に、審査の基準を作る仕事へ応募したいと話した。
「今回の調査に協力したから、行けるという話にはしたくありません」
「では、何をしたいかを書けばいい」
乾は答えた。
佐野は、以前出した応募書類を開いた。現場の経験を生かしたい、と書いてある。嘘ではない。だが、それでは、何を変えたいのかが相手に伝わらない。
保証の登録に疑義が出たとき、信用判定をどう扱うか。調査中という表示が、回収を続ける理由にも、支援を止める理由にもなる。その間に生じた負担を、誰が見るのか。
佐野は、応募書類とは別に、短い提案を書いた。事件の固有名は出さず、問題が起きたときの判断の順番を示した。すべての疑義で融資を続けるとは書けない。止めればよいとも書けない。判断に必要な材料と、暫定措置を見直す日を、最初に決める案にした。
馬淵へ見せると、彼は、ここがわかりにくい、と1か所を指した。
「顧客の申告を受けたら、すぐに区分を戻すという意味に読める」
「そういう意味ではありません」
「なら、分けて書いたほうがいい」
佐野は文章を直した。以前なら、自分の希望を否定された気がしたかもしれない。いまは、読み違えられる箇所を、出す前に知ることができた。
馬淵は、推薦文が必要なら書く、と言った。
「募集要項を確認してから、お願いします」
佐野は答えた。彼は、そうだな、と笑った。
応募は、支店長との面談を経て出した。採否が決まるのは先だった。佐野は自分の机を片づけず、翌日の訪問予定を入れた。いまの仕事を続けることと、別の仕事を望むことを、どちらかだけにしなくてよかった。
数日後、試行の回答が届いた。
閲覧を拒まれた場合は、申請した部署とは別の責任者が理由を確認する。暫定の経路を正式な手順へ残すという。佐野は、手書きの箇所と照らし合わせた。
ただ、回答の期限は、速やかに、とだけ書かれていた。
多賀谷へ見せると、支店長は、自分なら忙しいときに何日待たせるかを考えろと言った。佐野は日数を入れる案と、期限内に答えられない場合の連絡を分けて返した。
返答は、翌日には来なかった。佐野は照会した日を残し、次の確認日を予定表へ入れた。自分が別の部署へ移っても、誰かが続きを読めるように、共有の案件番号も添えた。
帰り際、荻野がその番号を見て、僕が来週確認します、と言った。
「では、お願いします。私が先に返事を受けたら、ここへ残します」
佐野は画面を指した。
荻野はうなずき、自分の手帳にも日付を書いた。以前のように、個人の控えへ資料を集めてはいなかった。皆が見られる場所に、仕事の続きがあった。
佐野は端末を閉じた。提案を出しただけで銀行が変わるわけではない。それでも、明日の確認を自分だけの仕事にせず帰れることは、以前と違っていた。
その週末、荻野は母の施設で、兄と洗濯物を分けた。
兄が持ってきた袋には、母が使わない厚手の靴下が入っていた。荻野は、それじゃ駄目だと言いかけた。兄は、どれならいい、と聞いた。
2人で母へ聞いた。母は薄いものを指し、こっちのほうが履きやすいと言った。兄は包装を戻し、次はこれにすると携帯へ記録した。
面談のあと、兄が夕食へ誘った。荻野は、家で明日の資料を、と答えかけた。家へ持って帰る資料は、もうなかった。
「行く。何を食べる」
「お前、いつも、何でもいいって言うだろう」
荻野は施設の窓から、通りを見た。以前、母と行った定食屋の看板が見えた。まだ開いている。
「あそこがいい」
兄は、じゃあ、と車の鍵を出した。
焼き魚を頼むと、兄は骨を大きく残した。荻野は黙って自分の皿だけ片づけた。母の世話の仕方も、魚の食べ方も、兄弟だから同じになるわけではない。
荻野は自分の皿の骨を外した。兄の皿へ手を出さず、母の次の面談の日を聞いた。兄は予定表を開いた。今度は、2人の予定を並べて決めた。
郷田から、本部へ戻る気はあるかと聞かれた。
「私が決める話ではない。ただ、希望は出せる」
以前なら、馬淵は港南に残ると即答しただろう。町のためだと言えば、きれいな答えになった。
「考えます」
馬淵は言った。
「港南でしか見えないこともあります。本部に行かなければ変えられないことも、たぶんあります」
郷田は少し笑った。
「答えが遅くなったな」
「急いで答えて、前に痛い目を見ましたから」
窓の外で、港のクレーンが動いていた。
年が明けて、柏原製作所の設備資金の稟議が上がった。
発注を見送った新型旋盤について、佳織は受注と設備能力を計算し直していた。機種も返済期間も、去年の計画とは違う。他行との取引も始めていた。
「東栄さんを、もう信用しないという意味じゃありません」
彼女は言った。
「1つの銀行に、会社の明日まで預けないという意味です」
馬淵はうなずいた。
「そのほうが、いいと思います」
賛成です、と答えるまでに少し勇気がいった。自分の銀行の融資を減らす選択が、佳織にとって最良である場合もある。
稟議には佐野の調査と支店長の意見が添えられ、最終承認は本部が行う。馬淵が押すのは、担当責任者としての確認印だった。
かつては自分の判ひとつで何かを救えると思いたかった。だが、その思い上がりこそが、相手の声を聞き損なわせる。
馬淵は、返済の前提をもう1度読んだ。
受注の減少、材料価格の上昇、補償入金の遅れ。都合の悪い条件にも、見積もった根拠と確認日を付けた。
隣の席で、荻野が言った。
「ここ、確認してもいいですか」
馬淵は印鑑を置いた。
「どこだ」
「売上の計上月と、入金の月がずれています。資金繰り表は、直したほうがいいと思います」
馬淵は資金繰り表を開き、計上月と入金月を指でなぞった。荻野が正しい。自分の目はそこを通り過ぎていた。
「ありがとう。直そう」
朱肉の蓋を閉めた。
今日も判を押すより先に、直すべきことがあった。
荻野の指摘を直し、佐野と数字を突き合わせ、佳織にも前提を聞いた。夕方、港の水面に建物の灯りが落ちる頃、馬淵は机へ戻った。
認印を指に挟むと、使い慣れた柄の傷が触れた。
この欠けた印鑑は、父の遺言でも、お守りでもない。ここへ押せば正しくなるわけではなく、押さずに済ませても責任は消えない。
馬淵は最後に、今日直した数字をもう1度読んだ。佳織と話した声を思い出し、確認できなかった条件はそのまま残した。
それから、確認欄へ印を押した。
赤い輪の左上に、いつもの細い白が残った。
隣の机から、佐野が声をかけた。
「終わりましたか」
「俺の分は」
「じゃあ、次へ回します」
馬淵は書類を渡した。
自分の手を離れた紙を、別の人間が読み始めた。
了




