第8章 恩師の輪郭
有働が最初にかけてきた電話は、何のためのものだったのか。
馬淵は会話を記憶だけで再現するのをやめた。内線の着信履歴を開き、佐野がその日に書いたメモと突き合わせた。恩師の声なら、忘れないつもりでいた。だが覚えているのは内容ではなく、安心したという感覚かもしれなかった。
制限情報を見たから、監査に通知が来た。有働はそう説明していた。
乾が確認できた監視設定には、柏原製作所の顧客番号と、将来登録される保証の管理番号が含まれていた。設定日は2025年3月15日。保証項目が統合データへ現れる5日前だった。
「予約された管理番号かもしれない。通常の事前登録かもしれない」
乾は可能性を並べた。
「でも、誰が何の目的で設定したか、説明が必要になる」
設定者はAUD-0001だった。
馬淵は自分の手帳の、思いたい、という文字を見た。
有働が無実である可能性を残すことと、有働にしか見えない情報を渡し続けることは違う。ようやく、その2つを分けられた。
馬淵は、荻野の控えを入れた媒体が支店のロッカーにあると、有働にだけ伝えた。
実際の媒体は、すでに外部で保全されていた。空のUSBを置くことは、多賀谷と事前に相談した。職場へ侵入者を呼び込む危険がある。人を残して待ち伏せはしない。異常があれば警備へ通報する。馬淵は自分の考えを紙に書き、支店長の反対も、そのまま残した。
「これは、正しい調査なのか」
多賀谷は聞いた。
「わかりません」
「わからないなら、なおさら、あとで説明できるようにしておけ」
多賀谷は警備担当へ連絡した。既存のカメラの死角を補う機器を置き、記録の保管先を監査部の管理外にした。
その夜、ロッカーが開けられた。
入館記録には、監査補助の外部業者とあった。映像に映った男は、三隅のフォーラムで受付をしていた人物と似ていた。ただ、似ているだけで身元は決まらない。
多賀谷は映像を保存し、警備と外部弁護士へ渡した。
有働にしか伝えていない情報が、外へ流れた。
それでも馬淵は、口頭の伝達だけでは経路を断定できないと、報告に書いた。疑う相手が変わっただけで、確かめ方まで変えてはいけなかった。
ロッカーの映像を見た夜、馬淵は眠れなかった。
有働にしか伝えていない。その事実を、頭の中で繰り返した。だが、繰り返すほど、有働が無実である道も探した。部屋で誰かが聞いていた。監査部員へ通常の報告として伝えた。三隅の関係者が、別の経路で知った。
どれも、あり得る。
あり得ることを、全部同じ重さで並べれば、何も判断しなくて済む。その逃げ方を、自分は確かめる慎重さと呼んでいないか。
馬淵は起き上がり、台所で水を飲んだ。
恩師を疑うことが、なぜ、こんなに怖いのか。
自分が騙されたと認めるからではない。7年前の夜に救われた自分まで、間違っていたことになる気がするからだった。あの言葉で生き延びた。あの人がいるから、銀行に残った。その過去を失うのが怖かった。
だが、救われたことは、救われたこととして残る。救った人間が不正をしたなら、その不正も残る。どちらかを消さなければ、もう片方を持てないわけではない。
馬淵は、ようやく、その考えを自分の言葉で書いた。
朝、乾へ送ったのは、その文章ではなかった。映像と入館記録を照合するために必要な項目の一覧だった。
気持ちを整理することと、仕事を進めることは、同じ速度でなくてよかった。
佐野は佳織と、別の金融機関を訪ねた。
同行することは、事前に双方へ伝えた。佐野が東栄銀行の立場で融資を求めるのではなく、佳織が資料を説明する補助として来ることも確認した。
応接室は港南支店より明るかった。壁に地域の写真が飾られていた。担当者は資料を読み、保証の問題が解決するまで、新規の融資は難しいと言った。
佳織はうなずいた。断られることは、予想していた。予想していても、身体は少し沈んだ。
「では、解決したあとに、何が必要ですか」
担当者は顔を上げた。
「再開後の受注と、資金繰りです」
「再開するための資金が、先に要ります」
「そこは、東栄銀行の対応を」
佳織は佐野を見なかった。
「東栄銀行だけに頼らない形を、作りたいんです」
担当者は椅子を引き寄せた。すぐに貸すとは言わなかった。だが、必要な資料と、判断の順番を説明し始めた。
佐野は横でメモを取った。自分の銀行の顧客が、別の銀行へ相談する。その場にいることを、裏切りだと思う人間もいるだろう。だが、顧客が選べない状態を作っておいて、信頼関係と呼ぶことのほうが、ずっと危うかった。
帰り道、佳織は言った。
「断られましたね」
「はい」
「でも、次に何を出すかは、わかりました」
佐野はうなずいた。
佳織は鞄から名刺を出し、手帳に挟んだ。東栄銀行の名刺と、別のページへ入れた。
工場では、退職する工員が工具を返していた。
入社したとき会社から渡されたものと、自分で買ったものを、松井と分けていた。長く使ううちに、どちらのものかわからなくなった工具もあった。
「それは、持っていけ」
松井が言うと、工員は首を振った。
「会社のものです」
「次で使うだろう」
「使います。でも、買います」
佳織は入口で聞いていた。
工員は自分の工具箱を閉めた。箱の中に空いた場所があった。ここで働いた時間を、全部持っていくことはできない。置いていくものを、自分で決めたかったのだろう。
「お世話になりました」
佳織は頭を下げた。
「こちらこそ。書類に不足があったら、連絡してください」
戻ってきてくださいとは言わなかった。
工員が去ったあと、松井は返された工具を拭いた。
「いい腕になったのにな」
佳織はうなずいた。
「次でも、使ってくれます」
「そうだな」
松井は工具を棚へ戻した。誰かの成長が会社の所有物ではないことを、頭ではわかっていた。手が覚えた仕事を別の工場へ持っていかれる寂しさは、頭の理解とは別に残った。
有働は馬淵へ、父親のことを聞いた。
廊下で会ったときだった。何気ない調子で、最近、お母さんは元気かと言った。馬淵は足を止めた。
「元気です」
「そうか。お父さんのことを、まだ、よく思い出すのか」
「思い出します」
「人は、過去に引かれる。だが、過去のために、いまの仕事を間違えるな」
馬淵は有働を見た。
以前なら、心配してくれたと思った。いまは、自分の弱いところを知っている人間の言葉として聞いた。
「そうしないように、記録を確かめています」
「記録だけで、人間はわからない」
「はい。でも、人間がわかると思って、記録を見ないのも違います」
有働は少し笑った。
「難しい言い方を、覚えたな」
馬淵は頭を下げ、廊下を歩いた。背中へ声が来ると思ったが、来なかった。
角を曲がってから、手が冷たくなっていることに気づいた。言い返せたから、怖くなくなるわけではなかった。
有働と三隅が会ったという情報は、乾ではなく、銀行の会合予定表から出た。
地域再生資本研究会。相手先にアークライト・キャピタルの名があった。乾は公開された出席者と、行内の面談記録を照合した。会合の中身はわからない。
だが、三隅の関連会社へ出た金と、資本提携の検討資料には、同じ管理番号があった。
再生のための資金が、再生の対象を傷つけるために使われているのではないか。
馬淵は、その仮説を初めて紙にした。
104億円の融資が、そのまま104億円の損失になるとは限らない。まして、それだけで銀行が破綻するとは言えない。乾は、資本の計算を別に分けた。
以前から繰り延べられてきた損失、追加の引当て、預金の流出、調達の悪化。複数の弱点が重なると、安い価格での資本受入れを拒めなくなる。
「不正を隠すだけじゃない。出す時期まで、誰かが選ぼうとしてる」
佐野が言った。
馬淵は有働の中間報告を見た。郷田を外し、植草を追い詰め、自分は調査した側に残る。線を引けば、筋は通った。
筋が通るから、本当だとは限らない。
そのことを、馬淵は手帳の最初のページに書いた。
10月に入ると、工場の事務所へ差す光が短くなった。
佳織は暖房をつけず、作業着の下へもう1枚着た。工場全体を温める必要はない。そう考えてから、機械が動いていた頃には、人が働くための温度を、機械の熱に任せていたのだと気づいた。
叔父は、昼前に来た。
今度は提案書ではなく、買手との面談日を持ってきた。日付は10月3日。翌週ではなく、すぐそこだった。
「先方が、ここまで来てくれる」
「私は、約束していません」
「話を聞くだけだ。断るにしても、顔を見て断れ」
佳織は予定表を開いた。税理士との打合せが入っていた。
「税理士にも同席してもらいます」
「そこまで大げさにすることか」
「会社を売る話です」
叔父は椅子へ座った。父の椅子ではなく、来客用の椅子だった。以前は断りなく父の席へ座っていた人が、今日はそこを選ばなかった。
「俺も、怖いんだよ」
佳織は顔を上げた。
「株を持っているからですか」
「それもある。だが、兄貴が死んだとき、お前の母さんに、何かあったら頼むと言われた」
「初めて聞きました」
「言えば、お前が嫌がるだろう」
佳織は電卓を机の端へ移した。知らないところで母は叔父に何かを頼んでいたらしい。頼ることを責める気はない。ただ、その約束が自分の決断の上に置かれれば、守られるはずの会社から自分の居場所が消える。
「母は、何を頼んだんですか」
「困らせないでやってくれ、と」
「会社を売ってくれ、ではないですね」
叔父は黙った。
佳織は、責めすぎたかと思った。だが、ここで曖昧にすれば、亡くなった母の言葉が、売却を急ぐ理由になる。
「私が困っているのを、見ていられないんでしょう」
「そうだ」
「私も、困っている自分を、見ていたくありません」
言うと、少し息が詰まった。
「だから、早く終わる話に、乗りたくなる。でも、終わったあとに何が残るかを、見てから決めたいです」
叔父は膝の上で手を開いた。
「お前は、いつまで待つ」
「待てる日を、今日、税理士と計算します。その数字は、叔父さんにも見せます」
叔父はうなずいた。佳織は予定表の面談日に、条件未確定、と書いた。
午後、買手側の担当者から電話が来た。
佳織は税理士と話したうえで、面談の前に確認したい事項を送っていた。買手の資金の出所。土地と設備の評価の内訳。従業員の雇用条件。銀行との交渉を誰が担うのか。
「そこまでの資料は、基本合意のあとになります」
担当者は言った。
「基本合意をするために、必要なんです」
「秘密保持の問題もありますので」
「では、秘密保持の書面を先に確認します」
相手は少し黙った。
「社長。率直に言って、いまの状態では、条件を選べる買手は多くありません」
佳織は受話器を握り直した。
「承知しています」
「でしたら、まず、前へ進める形を」
「誰の、何を、前へ進めるんですか」
相手は、会社の再生です、と答えた。
佳織は窓の向こうを見た。松井が、返された工具を棚へ並べていた。工具の間隔が、以前より広かった。
「明日の面談は、延期してください。条件がわからないまま、合意するつもりはありません」
「この機会を逃すと、同じ価格は出せないかもしれません」
「そのことも、書面でください」
電話を切ったあと、佳織は椅子へ深く座った。断れたことを、勝ったとは思わなかった。これで本当に、選べる道が1つ減ったのかもしれない。
税理士へ電話した。相手は、では、続ける場合の数字をもう1度見ましょう、と言った。勇気がありますねとも、正しい判断ですとも言わなかった。
その返事で、佳織は机へ戻れた。
夜、叔父から連絡が来た。
「延期したと聞いた」
「はい」
「先方は、残念だと言っていた」
佳織は、すみませんと言いかけた。叔父の面子を潰したことと、会社の条件を確かめたことを、同じ謝罪にしたくなかった。
「叔父さんが約束した面談を、私が変えたことは、申し訳ないと思っています。でも、次からは、私に確認してから日を決めてください」
「わかった」
思ったより早い返事だった。
「明日、飯でも持っていく。会社の話をしないで、食う時間くらいはあるだろう」
佳織は壁の時計を見た。昼に食べたものを思い出せなかった。
「12時なら」
「12時に行く」
電話を切り、佳織は予定表へ、叔父、昼食、と書いた。売却の面談の上に書かず、別の欄へ書いた。
翌日、叔父は弁当を2つ持ってきた。松井の分はなかった。佳織が、松井さんもいます、と言うと、叔父は慌てて買い足しに出た。
その背中を見て、佳織は初めて少し笑った。会社を救う話を持ってくる人も、昼食の人数は間違える。
戻った叔父は、割箸を3膳並べた。3人で食べている間、銀行から電話があった。佳織は、折返しますと伝えた。温かいうちに食べることを、今日は先にした。
10月5日、有働の部屋へ行った。
写真や資料を机へ叩きつけることはしなかった。保全された原本は持たず、確認を求める事項だけを持った。
「廃棄を止めてください」
有働は椅子に座ったまま、馬淵を見た。
「移行の話だ。お前には、全体が見えていない」
「移行先の項目を確認するまで、旧媒体を残してください」
「コストがかかる」
「会社を止めるときには、根拠の確認を待たなかった。記録を残すときには、なぜ待てないんですか」
有働はペンを置いた。
「誰に、何を聞いた」
「質問に、答えてください」
初めて、有働の顔から、会話を助ける表情が消えた。
「お前は、私を疑っているんだな」
「はい」
はい、と答えた瞬間、身体のどこかが切れると思った。けれど何も起きなかった。空調は低く鳴り続け、窓の向こうでは曳船が貨物船の横腹を押していた。
「お前をここまで育てたのは、誰だ」
「有働さんです」
「なら」
「だから、うかがっています。僕を育てた人が、何をしたのか」
有働の唇に笑いの形が浮かび、すぐ消えた。
「乾の言い方だな」
馬淵は答えなかった。
有働は窓へ歩いた。
「この銀行は、何年もかけて衰えている。植草さんの改革は店と人を減らして、面倒な客を切っただけだ。このままでは外から資本を入れるしかなくなる」
「外の資本が必要になるように、先に傷をつけたんですか」
「お前には、わからない」
「だから、記録が要るんです。僕が有働さんを信じたいと思うのと、ここに何が残っているかは別です」
有働は振り向いた。
「私は、銀行を残すためにやった」
「銀行に残るのは、誰ですか」
室内は静まった。港の汽笛が遠くで鳴った。馬淵は答えを急がせなかった。
有働は、馬淵の胸元を見た。
「録音しているのか」
「正式な面談記録は退出後に作ります。有働さんにも確認をお願いできます」
有働は椅子へ戻った。
「もう、帰れ」
馬淵は立った。扉へ向かうと、声がした。
「自分の名前が、ほかにどこへ使われているか確かめろ」
廃棄申請の補助作業者欄に、AUD-SP03が追加されていた。
馬淵のカードのIDだった。登録時刻には、馬淵は18階で有働と面談していた。だが、面談していたことだけでは、遠隔操作の可能性まで消えない。
乾は記録の保全を申請した。
その直後、彼女の閲覧権限が止まった。
佐野には事務センターへの異動が出た。多賀谷には、紙の綴りを監査部へ提出するよう命令が来た。
「渡す。ただし、目録と受領記録を取る。写しも、外部調査窓口に保全する」
多賀谷は言った。
「私の机から出たあと、何がなくなったか、わからなくさせない」
馬淵には、警察から任意の事情聴取の連絡が来た。銀行から提出された資料には、口座名義と、廃棄申請のIDが並んでいた。
個人の弁護士と相談し、出頭した。
取調室の机は、銀行の応接室より小さかった。
「あなたの名前が、どこにでも出てきます」
担当者が言った。
「はい」
「説明できますか」
「説明できることから話します。確認できないところは、確認できないと伝えます」
馬淵は、日付から話し始めた。
佐野は、事務センターの更衣室で名札を外した。
異動が撤回されるかもしれない。されなくても、明日の勤務場所は決まっている。佐野は名札の裏に残ったテープの跡を剥がし、自分の人事を誰かの勝敗の証拠にしたくないと思った。
審査の基準を作る側へ行きたいという希望は、いまも残っていた。
その話を、馬淵にも初めて伝えたばかりだった。
馬淵に頼られるのは嬉しかった。しかし、彼の正しさを証明するためだけに働いているのではない。異動先でも、戻った先でも、自分の仕事を自分の言葉で選びたかった。
佐野は大阪へ持っていく資料の目録を開いた。馬淵の名が載っていない書類も、確かめなければならない。指で番号を追い、抜けがないことを確認した。
ロッカーを閉め、駅へ向かった。電車の窓に映る名札の跡を、指で直した。




