第7章 なかった決裁
貸金庫から出てきたのは、厚みのある茶封筒だった。
郷田の委任を確認した弁護士が、開封の前後を記録した。沢渡のノートと、内部通報書の控え、委託先の保管仕様書。馬淵は受け取った紙の枚数を数えた。
死者の遺したノートが、すべて正しいとは限らない。書き損じも推測もあり、取り消し線の横には、筆圧の違う字で「未確認」と書かれていた。その文字だけ、何度も読み返した跡があった。
乾はその文字を指で押さえた。
「この人、わからないことを残してる」
馬淵はうなずいた。
仕様書には、大阪の外部保管拠点があった。審査システムの変更前後のデータと、特権操作の記録を、一定の単位で保管する。通常の監査画面とは別の系統だった。
「災害復旧用の全データと、操作証跡の保管は、同じではない」
乾はページを分けた。
「欲しいのは、保証が書き足される前後の記録と、誰がどの経路で訂正したか。両方が揃うかは、照会しないとわからない」
通報書の受領欄には、滲んだ丸い印があった。誰の名か読めなかった。馬淵は光へかざしたが、見えるものは変わらなかった。
乾は紙を封筒へ戻した。
「読めないものを、読みたい名前にしないで」
「まだ、何も言ってない」
「顔に出てた」
馬淵は笑えなかった。
荻野の控えを調べる前に、乾は、何を含む一覧なのかを確認した。
画面に出ている12件を見て、そこにない案件は存在しなかったと、すぐに言うことはできない。表示条件が違えば、一覧から外れる。決裁が翌日へ回った案件もある。支店の担当範囲が変わった可能性もある。
荻野は当時の手順を、紙へ書いた。
「日付を入れて、支店コードを選んで、完了したものだけ出しています」
「差戻しは」
「出ません」
「保留は」
「出ません」
乾はうなずいた。
「では、保証の案件が差戻しだった可能性を、先に確かめる」
馬淵は椅子を引いた。
「現在の画面では、完了になっている」
「現在の画面は、いま、疑っている対象でしょう」
馬淵は口を閉じた。
荻野は翌日と翌々日の控えも開いた。保証の案件は、どこにもなかった。だが、ないというだけでは足りない。
乾は、同じ日に正常に処理された別の案件を選んだ。紙の受付簿、支店の決裁一覧、現在の統合画面を照合した。日付と番号が揃った。別の日の案件でも、同じことをした。
荻野の控えが、当時の通常の処理を反映していることを、少しずつ確かめた。
馬淵は、何度も同じ画面を見た。早く結論を出したかった。柏原製作所は、その間にも金を失っている。だが、急いで間違った結論を出せば、次の確認の道まで閉じる。
佐野は確認した項目を、表にした。
表示条件。対象日。対象支店。処理状態。欠落の可能性。独立した記録との一致。
荻野は、その表を見て言った。
「僕の控え、役に立たないかもしれないんですね」
「役に立つかどうかを、調べている」
乾は答えた。
「役に立ってほしいから、確かめるの。役に立つと決めたから、使うんじゃない」
荻野はうなずいた。
その日の午後、通常の一覧に出ない例外処理が、1つ見つかった。
保証の案件ではなかった。別の顧客の担保変更だった。馬淵は、顔が熱くなるのを感じた。もし先に、一覧にないから偽造だと主張していたら、この1件で全体を否定されただろう。
乾は例外処理の経路を調べた。例外には別の受付番号があり、紙の承認が残っていた。柏原製作所の保証には、その番号がなかった。
違いが、1つ増えた。
決定的な証拠が、光るように現れるわけではない。似ているものを比べ、違うところを分け、説明できない部分を残す。その積み重ねが、疑いを少しずつ狭めた。
馬淵はその夜、佳織へ伝えるための報告を佐野と作った。
不正が証明できた、とは書かなかった。当時の一覧と現在の記録に不一致があり、通常の例外処理では説明できない点を確認している、と書いた。
佳織からは、わかりました、と返ってきた。
続けて、給料の支払いの見通しが1週間延びたとあった。
馬淵は画面を見た。自分たちの確認の丁寧さが、相手の時間を使っている。その重さを忘れずに、丁寧さを捨てない方法を探すしかなかった。
荻野の媒体は、銀行の調査窓口へ所在を申告したうえで、外部弁護士の立会いのもと保全されることになった。
吉岡はその手続きの調整に関わったが、馬淵個人の弁護は引き受けなかった。
「私は銀行の代理人です。あなたの利益と銀行の利益が一致するとは限りません。別の弁護士に相談してください」
馬淵は紹介された弁護士へ連絡した。自分の金で相談料を払った。口座残高を見て、初めて、職務停止が長引くことの重さを考えた。
保全された荻野の控えには、2025年3月14日の決裁が12件あった。
柏原製作所の保証は、なかった。
「支店を通らない案件なら、出ないのでは」
馬淵が聞いた。
「その可能性はある」
乾は答えた。
「だから、この一覧にないことだけでは足りない。ただ、あなたが支店で最終承認したという帳票とは、食い違う」
荻野は膝の上で手を組んでいた。
「僕の控えが、役に立つんですか」
「立つ。でも、君の控えだけで全部決まるわけではない」
馬淵は言った。
「それで、十分だと思う」
荻野は長く息を吐いた。
大きな事件を救う唯一の証拠でなくても、自分が続けてきたことに意味がある。そのくらいの言い方が、彼にはちょうどよかった。
多賀谷の金庫には、紙の稟議綴りが残っていた。
本部が電子化を進めたあとも、支店内の照合用に保管していたものだった。原本と写しの区分、保管担当者、出し入れの記録。多賀谷はそれを先に説明した。
「私が勝手に続けていた慣習もある。全部が正式な証拠として扱われるかは、知らん」
取り出したのは2024年度の綴りだった。2025年3月は、その年度に入る。
馬淵は背表紙の数字を見た。日付と年度を取り違えれば、あるものをないと言ってしまう。そんな小さな間違いを、不正を暴く側もする。
綴りにも、保証の決裁はなかった。
ただし、3月14日には柏原製作所への訪問記録があった。
「創業50周年」
馬淵は声に出した。
覚えていた。いや、覚えていると思った瞬間に、細部があとから並び始めた。紅白の幕、工員の笑い、松井の声。
佳織に確認すると、写真があると言った。
翌日、事務所でデータを見せてもらった。14時30分の集合写真。中央に馬淵がいた。
「2分後に、決裁したことになっています」
佐野が言った。
佳織は写真を見た。
「工場の中、携帯が入りにくいんです」
「それだけで、操作できなかったとは言えません」
馬淵は言った。
自分の無実を、いま、簡単な話にしたくなかった。
佐野が続けた。
「当時の決裁は支給端末と認証が必要です。写真の時刻だけでなく、端末の所在と認証記録を照合します」
佳織はうなずいた。
「じゃあ、写真は、何の役に」
「その照合を始める、確かな手掛かりになります」
佳織は写真を拡大した。後列に、すでに辞めた工員がいた。まだ工場が動いていた日の顔だった。
「これ、皆にも渡してなかった」
彼女はつぶやいた。
証拠になる前に、写真は写真だった。その日そこにいた人間の時間だった。
写真を見た帰り、佐野は馬淵を呼び止めた。
「いま、少し話せますか」
2人は工場の外の堤防へ歩いた。仕事の資料は鞄にしまった。佐野は海ではなく、舗装の継ぎ目を見ていた。
「私、本部の審査企画へ、応募したことがあります」
「知らなかった」
「言っていませんから」
馬淵は黙った。
「現場に向いていると言われました。たぶん、悪い意味ではない。でも、私は、基準を作る側へ行きたかった。馬淵さんは、私が支店にいてくれて助かると言いますよね」
「言う」
「嬉しいです。でも、それが、私がずっとここにいる理由にはならない」
馬淵は堤防の向こうを見た。
佐野が自分の隣にいることを、物語の前提のように考えていた。彼女が有能で、自分を支えてくれるから。だが、彼女の人生の中で、自分は上司の1人でしかない。
「俺が、邪魔をしていたか」
「そういう聞き方をされると、違いますと言わなきゃいけなくなる」
馬淵は息を吐いた。
「何を、変えればいい」
「私が何をしたいか、決めつけないで聞いてください。今回の調査も、馬淵さんを助けるためだけにやっているわけじゃありません」
「わかった」
「わかったかどうかは、これからでいいです」
佐野は鞄の紐を持ち直した。
ありがとう、と言えば話がきれいに終わってしまう。馬淵は礼を飲み込み、佐野が以前語った希望を、いまも持っているのかと尋ねた。
「持っています。ただ、同じ部署へ行きたいかは、もう少し考えたい」
「考えるために、必要な情報があれば言ってくれ。俺が持っていなければ、持っている人を探す」
佐野は初めて、馬淵を見た。
「それは、助かります」
工場の門で佳織が電話をしていた。佐野は立ち止まらずに距離を取った。声が聞こえる場所にいることと、それを聞く資格があることは違う。以前なら、支店へ戻るための情報を少しでも拾おうとしたかもしれない。
佳織が電話を切ると、佐野は別の相談をした。
「保証契約を否定するための資料と、会社を続けるための資料を、分けませんか」
「どういうことですか」
「いまは、銀行に出すものが、全部、事件の説明になっています。でも、来月の受注や、他行への相談に必要な資料は、別です」
佳織は事務所へ戻り、机の上の束を見た。
契約書、印鑑証明書、銀行からの通知。そこへ受注表と材料の見積りが混ざっていた。1枚を探すたびに、自分が保証人にされた紙を見なければならなかった。
佐野は箱を2つ用意した。
「過去を確かめるものと、これから決めるものです」
佳織は受注表を取り、右の箱へ入れた。通知書を左へ入れた。たったそれだけで、机の上に、未来のための場所ができた。
「銀行の人に、こんなことまでしてもらうのは」
「銀行の仕事かどうかは、あとで考えます。ただ、私がここで見た情報を、どこへ出すかは、先に確認します」
佐野は、他行へ相談するための資料は、佳織自身が渡す形にすると説明した。銀行同士で勝手に話を進めない。
佳織はうなずいた。
「私が、説明できるようにしたいです」
佐野は椅子に座った。
「では、最初から、一緒に作りましょう」
馬淵はその横で、余った紙を揃えた。自分が話さないほうが進む仕事がある。それを、役に立っていないことと取り違えないようにした。
保証契約の原本は、本店の集中保管室にあると回答された。
最初に照会してから、何度も同じ答えを受け取っていた。だが、今度は保管番号がついていた。佐野は番号を手帳へ写し、誰がいつ確認したかを聞いた。
「所在の一覧で確認しています」
「現物は」
「現物の取出しには、依頼部署の承認が必要です」
佐野は多賀谷へ連絡した。支店長は、顧客からの照会に回答するための確認として申請を出した。馬淵は同行できなかった。自分の名がある書類なのに、本人であることが、見る理由にも、見せない理由にもなった。
3日後、佐野と多賀谷は本店の閲覧室へ入った。
長机の上に、灰色の箱があった。保管担当者が目録を読み、箱から封筒を出した。封筒の表には、ネクサス・ロジテック関連、とある。柏原製作所の名はなかった。
「保証人別ではなく、被保証先別なんですね」
佐野が聞くと、担当者はうなずいた。
契約書は薄い綴りだった。保証人の欄に柏原製作所。代表者、柏原佳織。押された印は、写しで見たものと同じに見えた。原本があれば、本当の契約に近づくと思っていた。だが、紙になった偽物も、紙としては原本だった。
佐野は頁をめくり、添付書類の欄を確かめた。
印鑑証明書。代表者本人確認。契約意思確認票。
最後の書類が、なかった。
「別の封筒ですか」
担当者は目録を見直した。箱を確かめ、保管台帳を開いた。入庫時の枚数と、いま机にある枚数は一致していた。
「入庫した時点から、この枚数です」
「確認票は、入庫の対象ではなかった可能性は」
多賀谷が聞いた。
「受付部署で保管するものもあります。そちらの取扱いは、こちらではわかりません」
佐野は、確認票なし、と書きかけて止めた。ここにないことと、どこにもないことは違う。集中保管室で提示された綴りには含まれず、と書いた。
契約書の隅に、鉛筆の小さな数字があった。
本文とは別の筆跡だった。佐野は担当者へ、何の番号か聞いた。
「入庫前の整理番号だと思います」
「誰がつけたか、わかりますか」
「当室では、鉛筆の番号は使いません」
多賀谷が顔を上げた。
番号は、佐野が別の資料で見たものと似ていた。三隅の系列会社から佳織へ届いた提案書の管理番号。だが、桁数も、区切り方も違う。似ていることだけを理由に、線を引くことはできなかった。
佐野は番号をそのまま記録した。意味の欄は空けた。
複写を依頼すると、担当者は、印影のある面だけでいいですかと聞いた。
「裏面と、封筒もお願いします」
「何も書いていませんが」
「何も書いていないことも、確認したいので」
複写機が動く間、佐野は契約書を見た。佳織の名は、ほかの文字より少し右へ寄っていた。余白の使い方が、普段の彼女と違う気がした。だが、自分が知っている佳織の字は、手帳や受注表の字だった。契約書へ書くときにも同じだと、どうして言えるのか。
その印象は、報告に入れなかった。
閲覧を終え、2人は本店の食堂へ行った。
多賀谷は定食を取り、佐野は麺を選んだ。会議室では話し続けていたのに、向かい合って食べ始めると、言葉が出なかった。
「原本があれば、早いと思っていました」
佐野が言うと、多賀谷は箸を止めた。
「私もだ」
「原本を見ても、誰が書いたかは、わかりませんね」
「紙は、自分がどこから来たかを、全部は言わん」
多賀谷は味噌汁を飲んだ。
「ただ、入庫の枚数が合った。あとで、支店が抜いたとは言わせずに済む」
「それを、成果と呼んでいいんでしょうか」
「顧客には、成果より、何がわかったかを伝えればいい」
佐野は麺を持ち上げた。冷めかけていた。
支店へ戻る途中、馬淵へ電話した。彼は、意思確認票がないという箇所で声を強めた。
「やっぱり、契約していない」
「提示された綴りに、入っていませんでした。別の保管先を照会します」
電話の向こうが静かになった。
「そうだな。すまない」
佐野は、謝らなくていいとは言わなかった。自分も同じ結論へ飛びつきかけた。だが、どちらかが止めれば、その先へ行かずに済む。
佳織は、複写された封筒を長く見ていた。
契約書ではなく、封筒だった。
「この会社の名前で、うちの書類が入っていたんですね」
「はい」
「私が、知らない会社のために、何を保証したことになっているか。銀行の中では、その会社の箱を開けないと、出てこない」
佐野はうなずいた。
佳織は封筒の写しを、左の箱へ入れた。過去を確かめるための箱だった。
「この印鑑証明書、取った日は、覚えています」
佐野は顔を上げた。
「何のために」
「銀行へ、取引内容の更新で出しました。ほかにも書類を求められて、まとめて。保証のためではありません」
佳織は受領の控えを探した。見つかった紙には、提出した書類の名が並んでいた。提出先は東栄銀行。用途は、取引情報の定期確認。
印鑑証明書が本物でも、保証の意思が本物になるわけではない。その違いを、佳織は自分の手で示せた。
「これ、写しを取ってください」
差し出された紙の端に、当時の窓口の受領印があった。誰かが、普通の仕事として受け取ったものだった。
佐野は受領日を照会表へ加えた。保証契約が作られたとされる日より、前だった。どこで別の用途へ流れたかは、まだわからない。だが、紙が動き始めた場所が、1つ見えた。
有働は、大阪への照会に時間がかかると言った。
「役員の承認と、委託先の確認が必要だ。1か月は見ておけ」
「照会の受付番号を教えてください」
馬淵が言うと、有働は少し間を置いた。
「まだ、事前調整だ」
「では、申請日を」
「急ぐ気持ちはわかる」
「日付を、お聞きしています」
有働は机のペンを揃えた。
「確認して連絡する」
部屋を出てから、馬淵はそのやり取りを書いた。疑うことが、相手を憎むことと同じではないと、何度も自分に言い聞かせた。
乾は外部保管の契約管理担当者へ、保全照会を出した。
返ってきたのは、照会受付の回答ではなかった。記録媒体の統合に伴う、旧媒体廃棄予定の通知だった。
対象には2025年3月の記録が含まれていた。移行先の確認が済めば、旧媒体を廃棄する。実施は10月8日、午前0時。
「移行先に、同じ記録があるとは限らない」
乾は言った。
「仕様変更で、訂正前の項目が落ちる可能性がある。確認が済むまで止めるべきなのに、確認済になってる」
申請者はAUD-0001。監査部長権限だった。
馬淵は画面を見た。
「有働さんのIDも、使われたのかもしれない」
乾はうなずいた。
「その可能性は、残る」
「俺は、そう思いたい」
「思いたいことも、捨てずに書いておいてください。ただし事実とは別の場所に」
馬淵は手帳を開いた。余白に、思いたい、と書いた。
馬淵はその4文字を見つめた。数字の誤りなら訂正できる。自分の願望には、訂正印を押す欄がなかった。




