第5章 白い食卓
盾に刻まれた柏原製作所の名を、馬淵は正面から見られなかった。金属の文字は照明を跳ね返して白く光っていた。
頭取の植草富雄は、地域とともに歩む銀行、と言った。64歳の声は会場の奥まで通った。馬淵は盾を受け取り、拍手の中で頭を下げた。
その日、工場で佳織が払った給料の一部は、母の指輪を手放して工面した金だった。壇上の馬淵は、まだそのことを知らない。
受賞者の食事会は奥の小部屋で開かれた。白い布をかけた円卓には席札がない。それでも誰がどこへ座るか、誰も迷わなかった。植草の隣が郷田、斜め向かいが有働。多賀谷は入口が見える椅子を選んだ。
魚料理が下げられたとき、馬淵は資料を出した。
「頭取。表彰いただいた柏原製作所が、当行の請求で操業を止めています」
植草はフォークを置いた。
「どういうことかね」
「成立に疑義のある保証契約が、信用判定の根拠になっています。同じ処理が現時点で33社。関連融資は104億円です」
役員の1人が椅子を引いた。
馬淵は、支店で確認できた事実だけを順番に話した。自分の名が付いた承認記録、ない原本、契約を否定する顧客、調査済とされた内部報告。隣で多賀谷のグラスが鳴ったが、目を向けなかった。
「独立した調査と、当面の回収停止をお願いします」
植草は資料をめくった。
「郷田くん」
郷田は表紙を見ていた。
「取得経緯と保全を確認すべきです。関係者のIDが使われている以上、本人に調査を任せるのも適切ではありません」
「任せろとは言っていません」
声が大きくなったのが、自分でもわかった。
「止めてほしいんです。会社を止める手続きを」
「馬淵」
多賀谷が小さく呼んだ。
植草は資料を閉じた。
「重大な話だ。なおさら、正式な手順で扱わなくては」
「その手順で、支店から照会しています」
「回答は、必ずさせる」
「いつですか」
植草は答えなかった。
白い皿の上で肉が冷えていた。表面のソースに薄い膜が張り、誰もナイフを手に取らない。
有働が手を差し出した。
「受領記録をつけて預かります。監査委員への報告も含め、経路を整理しましょう」
植草がうなずき、馬淵は資料を渡した。有働は表紙に受領時刻と署名を残した。馬淵はそれを見て安堵しかけた。名前を書くことと責任を負うことは、いつから同じになったのだろう。
食事会を出てまもなく、人事から職務停止の通知が届いた。理由は、自身が関係する不正疑義案件への介入と、調査の公正確保。画面の一番下には、異議申立ての窓口が小さく記されていた。
車寄せで多賀谷が待っていた。
「俺を連れてきたこと、後悔していますか」
「している。もっと上手く話すと思った」
馬淵はうつむいた。
「だが、言ったことまでなかったことにはしない。私もあの席にいた」
多賀谷はタクシーを止めた。
「帰れ。止められた仕事と、できることを分けろ」
窓の外で支店長が、盾を抱えて立っていた。
晩餐会の翌朝、馬淵はいつもの時刻に目を覚ました。
出勤するなと言われても、身体は変わらなかった。顔を洗い、髭を剃り、ワイシャツを着たところで、行く場所がないことを思い出した。
台所の換気扇が回っていた。先月、管理会社へ連絡したら修理に来てくれた。電話1本で直るものが、この世にある。それがひどく羨ましかった。
携帯に人事部から連絡が来た。私物の引取りは、指定の時間に行う。業務資料には触れない。顧客への連絡は、支店を通す。
馬淵は返信を打ち、消した。自分が顧客を守ろうとしていることを、長く説明したかった。だが、相手が求めているのは指定時刻の確認だった。
承知しました、と送った。
銀行へ入ってから、何度、その言葉を送っただろう。承知していないことにも、承知しましたと書いた。書けば、仕事が次へ進んだ。いまは、その言葉の後ろに、自分が何を承知したのかを短く添えた。
指定時刻に私物を受け取り、業務資料には触れない。顧客への連絡は支店を通す。
それ以上のことまで、同意したわけではなかった。
支店へ行くと、荻野が箱を持ってきた。
机の上の私物が、思ったより少なかった。湯呑み、替えのネクタイ、使いかけの付箋。父の工具箱のほうが、ずっと重かった。
「これも、私物ですか」
荻野が小さな紙を出した。
柏原製作所の創業記念の礼状だった。佳織の字で、今後ともよろしくお願いします、とある。
「会社の記録へ、残してくれ」
馬淵は言った。
荻野はうなずいた。
「僕、何かできることは」
「いまの仕事を、してくれ」
言ったあと、馬淵は言い直した。
「それと、無理な仕事があれば、無理だと言ってくれ。俺が戻るかどうかとは、関係なく」
荻野は箱の底を持ち直した。
多賀谷が廊下へ出てきた。
「接触を控えるように言われている。ここで、長く話すな」
冷たい声に聞こえた。だが、続けて言った。
「必要な確認は、正式に窓口を設ける。誰にも話せない状態にはしない」
馬淵は箱を抱えた。銀行の外へ出ると、窓口の客がこちらを見た。知った顔だった。声をかけるべきか迷っているうちに、相手が目を逸らした。
自分の名札がないだけで、町とのつながりがこんなに細くなるとは思わなかった。
植草は、その朝、役員向けの説明資料を読んでいた。
職務停止の行員に関する不正疑義。郷田常務の確認を含む関連案件。監査部による調査継続。資料の文章は整っていた。昨夜、円卓で馬淵が話したときの切迫した声は、どこにもなかった。
植草は、現場の人間は感情的になるものだと思った。自分も支店にいた頃はそうだった。だが、銀行全体を見れば、個別の会社だけを優先するわけにはいかない。
その考え方で、いくつもの判断をしてきた。間違いばかりではなかった。店舗を減らし、費用を下げ、収益を戻した。株主からも評価された。
だから、今回も、まず全体を守るべきだと思った。
資料の端に、33社と書いてあった。植草は、その数字を見た。個別の会社が33集まれば、全体になるのか。どこからが、守るべき全体なのか。
問いが浮かび、すぐに次の会議の予定で消えた。
秘書が入ってきた。
「監査部長が、お見えです」
植草は資料を閉じた。
「通してくれ」
問いを消したのは、忙しさではなかった。忙しさを理由に、消すことを選んだのだった。そのことを、まだ自分の言葉にはできなかった。
翌朝、吉岡が調査担当者を伴って来た。
馬淵名義の口座に、三隅の関連会社から合計2億8000万円が入っていた。
「知らない口座です」
「そのお話も含めて、確認します」
本店の小会議室で見せられた書類には、似た筆跡があった。届出印には馬淵とある。入金後、資金は関連口座へ振り替えられ、現金化された記録もあった。
「私が受け取った証拠は、あるんですか」
「現段階では、口座名義と処理記録です」
「名義だけで、ここへ呼んだんですか」
吉岡は少し黙った。
「名義だけで結論を出さないために、伺っています」
馬淵は椅子の背に寄りかかった。相手に1つしか答えを許さない聞き方を、またしていた。
「何を確認すればいいですか」
吉岡は口座開設と資金移動の日時を示した。馬淵は手帳を出した。古い予定表は自宅にあった。
届出印を見ているうち、違和感が残った。円が閉じている。
自分の認印を白紙に押した。左上が欠けた。
「電子印影には、この欠けがありましたね」
吉岡が言った。
「口座の届出印には、ない」
「偽物です」
「別の印鑑である可能性を確認します。ただ、それだけで口座への関与まで全部否定できるわけではありません」
馬淵はうなずいた。すぐに無実になるわけではない。その遅さが、いまは正しいと思えた。
吉岡は照合結果を記録し、馬淵にも読ませた。
「訂正はありますか」
「ありません」
署名する前に、馬淵は全文をもう1度読んだ。
報道は翌週に出た。行員に巨額の不正疑惑。名は伏せられていたが、支店と役職が書かれていた。アパートの前に知らない車が停まった。
馬淵は工場へ行くのをためらった。自分が出入りすれば、柏原製作所まで不正の関係先だと思われるかもしれない。電話で伝えると、佳織は言った。
「じゃあ、別の担当者を寄こしてください。あなたが来られないことと、うちの資金繰りが止まっていいことは、別です」
「佐野に引き継ぎます」
「お願いします」
信じています、とは言われなかった。言われなかったことに救われた。彼女が自分の無実を支える役まで引き受ける必要はなかった。
人事部の聴取が終わったあと、馬淵は本店の外で吉岡を待った。
口座開設の書類について、追加の確認を求めるためだった。吉岡は、ここでは資料を出せないと言った。
「では、何を確認したか、書面でください」
「あなたへ直接渡せる範囲は、確認が必要です」
「確認に、何日かかりますか」
吉岡は時計を見た。
「明日の午後までに、回答の可否を連絡します」
馬淵はうなずいた。
以前なら、吉岡を「銀行側の人間」と呼んで話を終えただろう。いまも銀行の代理人には違いない。しかし、職務上の義務まで銀行へ売り渡したと決めつければ、必要な問いを聞かずに済んでしまう。
「工場で、印影の違いを確認してくれましたね」
「確認しました」
「それは、記録に残っていますか」
「残しています」
馬淵は礼を言った。吉岡は、礼を言われることではないと答えた。
2人は別れた。
馬淵は駅へ向かい、途中の店で白いシャツを買った。朝から着ていたシャツの襟に、汗の跡があった。自分の潔白を訴えるために、清潔に見せなければならない。そのことが腹立たしかった。
だが、汗の跡を残していれば正直に見えるわけでもない。自分の見た目へ意味を与え続けることに疲れた。
駅の洗面所で着替えた。古いシャツを袋へ入れると、肩が少し軽くなった。
佐野は、馬淵が横領したという噂を、取引先から聞いた。
正式な照会ではなかった。電話の終わりに、ところで、と付け加えられた。
「大変ですね。真面目な人だと思っていたのに」
佐野は手元の資料を閉じた。
「調査中です。事実が確定したような言い方は、できません」
「いや、私は、心配して」
「心配していただくことと、事実の確認は別です」
相手は少し黙り、そうですねと言った。
電話を切ると、佐野の手が震えていた。言い返したことが、取引に響くかもしれない。自分の感情で顧客へきつく言ったのではないか。何度も会話を思い返した。
多賀谷へ報告すると、彼は相手の名と発言を記録するように言った。
「こちらから、補足する。君が、1人で背負う話ではない」
佐野は顔を上げた。
「私の言い方にも、問題があったかもしれません」
「それは、別に確認する。噂を事実にしないことは、必要だ」
多賀谷は電話を取った。
佐野は席へ戻った。支店長が自分を守ったという話にする前に、電話の内容を記録した。守られたことに感謝して、その人の次の判断を疑えなくなる。その形を、いまは増やしたくなかった。
夕方、馬淵は柏原製作所の前を通った。
門は閉まっていた。事務所の灯りだけがついていた。電話をかけようとして、やめた。連絡は支店を通すという指示を受けている。指示が不当だと思っても、破れば、顧客との連絡まで調査の争点になる。
佐野へ、佳織の様子を確認してほしいと送った。返事は、すでに連絡しています、だった。
自分が動かなくても、仕事は続いている。そのことに安心し、少し寂しくなった。自分だけが工場を救えると思っていたわけではない。だが、自分がいなければ困ると思いたい気持ちは、確かにあった。
港へ向かう道で、馬淵は携帯を鞄へしまった。
その夜、馬淵は押入れの奥から、7年前の手帳を出した。
背の糸が切れかけていた。異動の日の欄に、港南、とだけ書いてある。前後のページは、取引先の名を残さないよう、退職した先輩に教わった略号で埋まっていた。いまでは読めない略号もあった。自分が書いたものなのに、自分だけでは意味を戻せなかった。
会議の翌日、馬淵は郷田に呼ばれた。
机の上には、彼が疑問を出した会社の資料があった。売掛先へ確認を取るべきだと、会議で主張した。相手先の売上と仕入れを比べれば、帳簿の数字には無理がある。そう説明したとき、郷田は、いまはその話をする場ではない、と言った。
翌日の部屋では、もっと短かった。
「担当を替える」
馬淵は、資料をもう1度見てくださいと言った。
「見た」
「だったら、どうして」
「お前が取引先へ直接照会すれば、こちらが疑っていることが伝わる」
「疑っているんです」
「だから、誰が、どの権限で、何を聞くかを決める」
郷田は資料を閉じた。馬淵は、その手を見ていた。正しい指摘をした人間の口を塞ぐ手だと思った。
いま思い返しても、あのとき郷田が言ったことの全部が間違いだったとは言えない。だが、説明を打ち切り、次の担当者の名も教えず、自分だけを外したことは変わらない。手続きの必要を語る人間が、手続きの先を見せなかった。
馬淵は、引継ぎのために資料の所在を書いた。疑義についても書いた。上司に渡すと、これは引継ぎではなく意見書だ、と戻された。
書き直した紙には、継続確認事項、とだけ残った。
港南へ来てから、その会社がどうなったかを何度か調べた。担当外の案件を追うなと言われ、やめた。やめたことを、いつの間にか、調べさせてもらえなかった記憶へ変えていた。
手帳の余白には、辞める、と書いてあった。
その2文字に線を引いたのは、有働と酒を飲んだ翌朝だった。
翌日、馬淵は自分名義の口座について、確認したい項目を紙へ書いた。
いつ作られたか。どこで作られたか。何を見て本人だと確認したか。誰が書類を持ってきたか。口座があると知っていた人間は誰か。
質問を書いていると、以前、取引先の社長へ、保証人の欄はご本人が書いてください、と言った場面を思い出した。社長は、家族だから自分が書いても同じだと言った。馬淵は、同じではありませんと答えた。
そのとき、自分は規則を説明していた。名前を使われる人間が、その紙の前にいないことを、どれだけ考えていたのだろう。
吉岡から約束どおり連絡が来た。直接渡せる資料は限られるが、口座開設時の確認経路について、追加照会をしたという。
「何がわかったんですか」
「通常の窓口受付とは違う経路です。例外として扱った理由を確認しています」
「誰が例外にしたんですか」
「その点も含めて、まだ回答がありません」
馬淵は、また確認ですか、と言いかけた。机に置いた質問の紙を見た。
「照会した日と、回答の期限は」
吉岡は日付を伝えた。
「私が本人だとされた理由を、先に知りたいです。名前と印鑑があれば、本人になるんですか」
「そういう結論にはしません。ただ、いま私から、全く関与していないと認定することもできません」
「あなたは、誰のために調べているんですか」
電話の向こうで、紙を動かす音が止まった。
「銀行が、根拠のない主張をしないためです」
馬淵は受話器を耳から少し離した。自分のためだと言ってほしかったのだと気づいた。そう言われれば、この人へ任せられる。だが、任せていい相手かを決めるには、相手が誰のために働いているかを知る必要がある。
「わかりました。回答が来たら、連絡をお願いします」
電話を切り、吉岡の名の横に、銀行の代理人、と書いた。味方か敵かの欄は作らなかった。
昼過ぎ、アパートの呼鈴が鳴った。
馬淵は息を止めた。ドアの向こうで、宅配便です、と声がした。差出人は母だった。頼んだ覚えはなかった。
箱には米と、缶詰と、使い古した布巾が入っていた。布巾に包まれた小さな容器には、煮物があった。紙に、冷蔵庫へ、とだけ書かれている。
母へ電話すると、テレビで銀行の話を見たと言った。
「俺のこと、何か聞いた」
「聞いてない。あなたから電話がないから、食べてないかと思って」
「食べてる」
「だったら、いい」
馬淵は、疑われていると伝えた。自分名義の口座がある。知らない金が入っている。説明しているが、まだ終わらない。
母は途中で口を挟まなかった。
「私が、何か言ったほうがいいの」
「いや。そうじゃない」
「あなたがしてないと言うなら、私はそう聞くよ。でも、銀行へ私が電話しても、わからないことは増えるだけでしょう」
馬淵は容器の蓋を開けた。大根の角が崩れていた。
「父さんのときも、こんなふうに、何もできなかったの」
「同じにしないで」
母の声が硬くなった。
「お父さんのときは、私も借りたお金を返す側だった。あなたのいまの話は、私にはわからない。わからないから、何を食べたか聞いてるの」
馬淵は謝った。
母は「謝るくらいなら食べなさい」と言った。電話を切る寸前、容器を冷蔵庫に入れたかと、もう1度念を押した。
昼の陽が煮物の皿を照らしていた。平日の昼に家で食事をすることが、こんなに落ち着かないとは思わなかった。
食べ終え、容器を洗った。母が送った布巾で拭き、箱へ戻した。空の容器を返す用事ができた。その用事を、ありがたいと思った。
港の屋台で、有働が隣に座った。
「顔色が悪い」
「よく眠れません」
「やっていないんだろう」
「はい」
「なら、その事実は変わらない」
有働は熱燗を頼み、馬淵には茶を注文した。疑われ続けた人間には、疑わない声が麻酔のように効く。馬淵は茶碗へ伸ばした手を止められなかった。
「私も若い頃、1社を潰した。配属2年目だ。上の指示どおり格付けを下げる書類を書いた。自分で決めたわけじゃない。それで、自分には責任がないと思えた」
有働は熱燗の徳利を見た。指先が口の近くで止まっている。
「いまでも社長の顔を覚えている。だが、覚えているだけだ」
馬淵の脳裏に、父の薄い肩が浮かんだ。どこの会社かと聞きかけ、言葉を飲んだ。傷を見せた相手を問い詰めるのは、卑怯な気がした。その遠慮を、あとで何度も思い出すことになる。
「そのあと、監査へ行かれたんですか」
「間違いを止める側へ回りたかった」
有働はカードを出した。AUD-SP03。特別調査参考人。
「閲覧範囲を限定した端末を用意した。職務停止は続くが、監査への説明と確認はできる。人事とも調整済みだ」
馬淵はカードを取った。
有働は静かに言った。
「感情で戦うな。証拠で戦え」
馬淵はその言葉を、以前と同じように信じたかった。信じる理由は、言葉の正しさだけではなかった。




