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決裁印は嘘をつく  作者: ぽむぽむ


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第4章 守るという言葉

午前2時14分、荻野のIDでファイルが消された。

 9月16日、出勤した佐野が共有領域を開くと、33社の照合表と照会控えが消えていた。画面を動かしたい衝動を抑え、彼女は時刻を記録し、手元の端末から指を離した。

「触らないで。復元より先に、保全を依頼します」

 多賀谷が人事部員と現れた。荻野は出勤するなり会議室へ呼ばれた。馬淵が入ろうとすると、多賀谷に止められた。

「同席させるかは、本人に確認する」

「1人にしたら」

「お前がいたら、言えないこともある」

 昼前、荻野が出てきた。

「家にいたと、言いました。本当は、母の付き添いで病院にいました」

「それは、伝えたか」

 荻野は首を振った。

 馬淵は、なぜ、と聞きかけた。自分なら言う。だが、自分ならという基準で部下を測るのは、もうやめたかった。

「いまから伝えよう。病気の中身まで話す必要はない。付き添いの事実を、必要な範囲だけ」

 荻野は廊下の椅子に座った。

「先月、本部の人から電話がありました。支店の様子を教えれば、本部へ呼ぶこともできるって。断りました。でも、少し、行きたいと思いました」

「思ったことは、責められることじゃない」

「佐野さんは、疑ってますよね」

 馬淵は答えを急がなかった。

「記録を確かめる。信じているから確認しない、というのは違うと思う」

 荻野は鞄の取っ手を握り直した。

「それなら、確認してください」

 乾から情報システム部の事故対応窓口へ調査依頼が出た。支店から消えたデータと、復旧用の記録は同じではなかった。何もかも消えたと思ったのは、支店の権限で見える範囲が消えたからだった。ただし復旧申請は、監査部の承認待ちになった。

 接続元の一次報告には、本部管理系ネットワークとあった。18階を含む区画だが、個別端末は未確定。通常とは異なる特権経路を通っていた。

「IDだけで、本人だとは決められない」

 乾は言った。

「あなたの件と、同じです」

 多賀谷はその報告と、荻野の同意を得て取り寄せた付き添い記録を持ち、本部へ行った。

「聴取は続く。ただし、本人が削除したとする報告は撤回させた」

 夕方、戻ってきた支店長は言った。

 荻野が頭を下げると、多賀谷は手で制した。

「最初に事実と違うことを言った件は、別だ。持出しの件も、別に調べる。何かをしたから、していないことまでしたことにはならない。逆も同じだ」

 馬淵はその言葉を手帳に書いた。


 荻野は療養施設の売店で、母の好きな飴を買った。

 施設の居室では、母がテレビを見ていた。音は小さく、画面の中の人間だけが大きく口を動かしていた。

「仕事は」

「終わった」

「こんなに早く」

 荻野は時計を見た。午後6時だった。母の中では、銀行員は夜まで帰らない仕事だった。父が生きていた頃、家に来る担当者は、いつも夕食のあとだった。

「今日は、早く終わった」

 嘘ではなかった。聴取が終わり、仕事をする権限が戻るまで待つように言われた。早く終わったことだけを、母へ渡した。

 飴を引き出しへ入れると、母は笑った。

「まだ、あるよ」

 前に買った袋が2つあった。荻野は忘れていた。母の忘れ方を気にするうちに、自分が何をしたかを覚えていなくなっていた。

「兄ちゃんから、電話あった」

 母が言った。

「今度の日曜、来るって」

「そう」

「良太も、休みなさい」

 荻野は椅子に座った。休めと言われると、何をすればいいかわからなかった。仕事へ行かず、療養施設へも来ない日を、長く持っていない。

 母は窓の外を見た。

「お父さんのときも、あんたは、全部、自分でやろうとした」

「そんなことない」

「お兄ちゃんは、何をしたらいいかわからなかったって、言ってたよ」

 荻野は黙った。兄は遠くに住んでいる。だから頼まなかった。頼まなかったことを、兄が来ない理由にしていた。

 職場でも同じだった。自分の控えを作り、自分で照合し、容量が足りなくなると自分で移した。誰かに相談すれば、もっとよい方法があったかもしれない。だが、相談すると、自分が仕事をできない人間だとわかる気がした。

「僕、会社で、間違えた」

 母は荻野を見た。

「何を」

「持ち出してはいけないものを、持ち出した」

 母は少し考えた。

「返したの」

「返すというか、いま、確認してもらってる」

「じゃあ、確認してもらいなさい」

 それだけだった。

 大丈夫とも、悪くないとも言わなかった。荻野は、その答えで少し楽になった。


 翌朝、佐野は荻野の作業記録を読んだ。

 日時、ファイル名、移した理由。理由の欄には、翌朝の照合を早くするため、と書かれていた。

「家で、何時間やっていたの」

「日によります」

「時間を、書いて」

「それも、問題になりますか」

「問題にしないと、いけないと思う」

 荻野は顔を上げた。

 佐野は椅子を寄せた。

「君が規程を破ったことは、調べる。でも、家で仕事をしないと回らない状態を、私たちが見ていなかったことも、調べる必要がある」

「僕が、遅いからです」

「遅いかどうかを決める前に、何をしていたか見たい」

 荻野は作業の手順を書いた。佐野はそれを読み、重複している照合に印をつけた。3つの部署が、それぞれ違う様式で同じ数字を求めていた。

「これ、全部、手で写してたの」

「はい」

「なぜ、言わなかったの」

 言ってから、佐野は口を閉じた。

 なぜ言わなかったのか。言える場所を作っていない側が、よく使う質問だった。

「ごめん。私が、聞いていなかった」

 荻野は首を振った。

「佐野さんも、忙しかったので」

「忙しいことを、相談を断る理由にしていたかもしれない」

 2人は手順を見直した。不正の調査とは別の、小さな仕事だった。だが、誰かが善意で穴を埋め、その穴を埋めていることが見えなくなる。そういう職場の形が、大きな不正を支えることもある。

 佐野は見直しの記録を多賀谷へ送った。荻野の持出しを正当化するためではないと、最初に書いた。

 多賀谷からは、確認する、と返ってきた。


 荻野は、聴取の日を思い返していた。あの日使われた会議室には、窓がなかった。

 人事部員は、事実を確認するだけですと言った。荻野は、その言葉を聞いても、背中の汗が引かなかった。事実を知っているのは自分だと思っていたのに、机の上の紙には、自分の知らない自分の行動が書かれていた。

「午前2時14分に、接続しています」

「していません」

「では、誰が、あなたのIDを使ったのですか」

 荻野は答えられなかった。していないことを説明するには、した人間を見つけなければならないようだった。

「パスワードを、誰かへ教えましたか」

「教えていません」

「紙に書いて、置いていませんか」

「置いていません」

 質問が続いた。荻野は、自分の記憶を探した。紙に書いたことはない。だが、端末を開いたまま席を離れたことはあるかもしれない。ないと言い切れば、あとで映像が出たとき、嘘になる。

「席を離れたことは、あるかもしれません」

 人事部員のペンが動いた。

「いつですか」

「覚えていません」

 覚えていないという言葉が、紙へ残る。荻野は、何を言っても、自分の知らないところで意味が変わる気がした。

 休憩になり、水を渡された。飲むと、紙コップの縁が唇へ貼りついた。

 荻野は、昨夜は家にいたと答えたことを、訂正したいと思った。だが、最初の答えが違ったと認めれば、ほかの答えまで疑われる。

 訂正しないまま、聴取が再開した。


 多賀谷は廊下で、終了を待っていた。

 部下を1人で座らせていることに、後ろめたさがあった。だが、自分が同席すれば、荻野は支店に不利なことを言えないかもしれない。自分は、守る上司として座りながら、支店を守るために部下の言葉を抑えるかもしれない。

 人事部員が出てきた。

「本人の説明に、曖昧なところがあります」

「何が、曖昧ですか」

「端末の管理です」

「管理の不備と、本人が削除したことを、分けてください」

 人事部員は、もちろんですと言った。

 多賀谷は、そのもちろんを、記録へ残すよう頼んだ。相手は少し眉を動かした。

「こちらを、疑っているんですか」

「あとで、互いに、言ったことが違わないためです」

 多賀谷は答えた。

 自分も、同じ言葉を顧客へ何度も使ってきた。記録を求められる側になると、それがどれほど身構える要求か、初めてわかった。


 聴取のあと、荻野は馬淵へ、病院にいたことを伝えた。

 付き添いの記録を確認するため、母へ説明する必要があった。母は、会社に病気を知られたくないのかと聞いた。

「そうじゃない」

「じゃあ、私が、あなたの仕事の邪魔になると思ったの」

 荻野は首を振った。

 母は、付き添ってくれたことを証明するのは構わないと言った。ただ、病名や治療のことまで、必要があるかは確かめてほしい。

 荻野は病院の窓口へ相談した。何を出せるか、何が必要か、説明を聞いた。すぐに紙が出るわけではなかった。担当者が確認し、本人の同意を取り、必要な範囲を決める。

 会社で求められている速さと、病院で必要な確認の速さが違った。

 荻野は、早くしてくださいと言いかけた。窓口の人は、すでに急いでくれていた。自分の切迫を、相手が怠けている理由に変えてはいけない。

「会社へ、いつ回答できるかを伝えたいんです。見通しだけでも、教えてください」

 担当者は確認し、翌日の午後までに連絡すると答えた。

 荻野は礼を言った。仕事で覚えた質問を、仕事の外で使った。


 翌朝、削除の記録を調べる担当者から、接続経路が通常と違うという報告が来た。

 荻野は、これで終わったと思った。だが、多賀谷は、終わってはいないと言った。

「本人が操作したという前提は、見直す必要がある。だが、誰がしたかは、まだ、わからない」

「僕じゃないことは」

「君の説明を裏づけるものが、増えた」

 荻野は机へ手を置いた。

 無実という言葉を、誰かに渡してほしかった。代わりに、裏づけが増えたと言われた。物足りなかった。だが、その物足りなさを埋めるために、他人を犯人にするわけにはいかない。

 佐野が来て、削除された一覧の控えを、別の行内領域で確認できたと伝えた。完全ではないが、照会番号の一部は戻せる。

「僕が、家へ持っていったものは、使わなくても」

「使うかどうかは、保全と確認をしたあとに決める。使わないから、持出しがなかったことになるわけでもない」

 荻野はうなずいた。

 自分を救うために、持ち出した資料が必要だと思っていた。必要なら、したことも許される気がした。その期待を、手放さなければならなかった。


 夕方、兄から電話が来た。

「母さんから聞いた。会社で、何かあったのか」

 荻野は、詳しくは話せないと言った。

「話せないことは、話さなくていい。今週、何を手伝えばいい」

 荻野は手帳を開いた。施設への連絡、洗濯物、面談の日程。自分が全部覚えていることを、1つずつ兄へ渡した。

 兄は、もっと早く言えよと言った。

 荻野は、そうだねと答えた。いつもなら、兄が聞かなかったからだと言い返しただろう。言い返せば、どちらが悪いかの話になる。いまは、来週の面談へ誰が行くかを決めたかった。

 電話を切ると、机の上に、自分がしなくていい仕事が3つできていた。

 減った仕事を見て、初めて疲れを感じた。

 帰る前に、馬淵へ、明日は定時で帰りたいと伝えた。馬淵は理由を聞かず、引継ぎが必要なものを教えてくれと言った。

 荻野は、少し驚いた。

 理由を聞かれないことが、関心を持たれていないことではなかった。帰ることを、許可してもらうための事情を並べなくて済んだ。

 引継ぎを書き、鞄を閉じた。机の端に、削除された一覧の復旧申請があった。自分のIDが、まだ、そこに残っていた。

 名前を消してもらうことだけが、解決ではない。誰が、何の権限で使ったかを、確かめなければならない。荻野は、その紙を裏返さずに帰った。


 給料日まで、あと2日だった。

 佳織は軽トラックを売った。母の指輪も買い取り店へ持っていった。店員は石ではなく地金の重さを量った。提示された金額を見て、佳織は笑いそうになった。母がどれほど大切にしていたかは、査定の項目にない。当たり前だった。それでも、持ち込む前には、その時間も少しは買ってもらえる気がしていた。

 工場へ戻ると、松井が旋盤を磨いていた。

「動かないのに」

「動くときに、錆びてたら困る」

「動かなかったら」

 松井は布を止めた。

「そのときは、よく磨いた機械を売る」

 佳織は顔を上げた。

「先代の機械だから売れない、なんて言うな。あの人は機械より人に金を使った。お前が困ったら、俺の旋盤から売れ、と言っていた」

「初めて聞いた」

「言う時を、ずっと間違えていたんだ」

 父の工場を守る。それは父が残した形を変えないことだと思っていた。だが、形を守るために、そこにいる人間を縛っていたのかもしれなかった。

「松井さんの給料も、払います」

「俺は、少し待てる」

「待てるかどうかは、聞きます。でも、いらないって言わないでください。私が、それに甘えるから」

 松井は布を畳んだ。

「じゃあ、待つ分は紙に書け」

 佳織はノートを持ってきた。2人で金額と日付を確認した。恩を借りることと、なかったことにすることは違う。書いた数字を見て、少しだけ息ができた。


 雨は、夜になって強くなった。

 佳織は事務所の窓を閉め、工場の奥へ行った。屋根の継ぎ目から水が落ちていた。以前から雨漏りはあったが、機械が動いているときは、熱と音の中へ紛れていた。

 バケツを置くと、底へ当たる音が工場に響いた。

 松井へ電話するのをためらった。勤務時間は終わっている。だが、どこへ水が回ると困るのか、自分にはわからない。

 電話をすると、松井は、行くと言った。

「来てもらうなら、勤務として記録します」

「わかった。鍵は開けておけ」

 20分後、松井が合羽で来た。後ろに、近所に住む工員もいた。佳織は、頼んでいない人まで来たことに戸惑った。

「俺が呼んだ。1人じゃ、シートを持てん」

 松井は言った。

 3人で、封印に触れない範囲を確かめ、濡れてはいけないものへシートを掛けた。機械を動かしたり、位置を変えたりはしなかった。必要な作業は、写真と時刻を残した。

 工員が脚立を持ってきた。松井が止めた。

「屋根へは、上がるな」

「でも、ここからなら」

「いま、落ちたら、何を守ったことになる」

 佳織は脚立を畳んだ。

 雨漏りを止めることより、人が怪我をしないことが先だった。工場を守るという言葉は、簡単に、その順番を逆にする。

 作業を終えると、3人は事務所で茶を飲んだ。佳織は勤務の開始と終了を書き、確認してもらった。

 工員は、こんなことまで書くのかと笑った。

「書きます。来てくれたことを、なかったことにしないために」

 松井は紙を読み、署名した。

 外で雨が鳴っていた。工場の中には、バケツへ落ちる音だけが残った。


 翌朝、設備会社へ連絡した。

 新しい旋盤の発注を、いったん止めたい。担当者は、製造の工程が進んでいるため、費用が発生する可能性があると言った。

 佳織は契約書を出した。解約の条件を読んだのは、署名した日以来だった。

 馬淵が大丈夫と言ったから発注した。その事実はある。だが、契約したのは自分だった。銀行の責任を問うことと、自分の契約を相手へ説明することは、別だった。

「こちらの事情で、止める相談です。費用の内訳と、再発注した場合の扱いを、教えてください」

 担当者は、上へ相談すると答えた。

「機械を、別の注文へ回せるかもしれません。ただ、同じ条件で戻せるかは、わかりません」

 佳織はうなずいた。

 何も失わずに待ってもらうことは、できない。相手の会社にも、工程と支払いがある。

 電話を切り、佳織は新しい機械の図面を筒へ戻した。空いた場所を、何かで埋めたくなった。棚を戻せば、発注前の工場に見える。だが、発注前には戻れない。

 その場所を、空けたままにした。


 松井は、古い機械の保守記録を探した。

 佳織が設備を替えようとした理由は、作業を速くするためだけではない。部品が手に入りにくくなり、故障したときに長く止まる恐れがあった。

 記録の中に、先代の字があった。修理した日と、替えた部品。数字の横に、まだ使える、と書いてある。

 松井はその文字を見て、少し腹が立った。

 先代は、まだ使えると言いながら、自分の身体も使い続けた。倒れるまで、休まなかった。あの人らしいと、皆が言った。だが、倒れたあとに困ったのは、残った人間だった。

 松井は保守記録へ、次の点検で交換を要する、と書いた。

 先代の字を消さず、その下へ書いた。尊敬する人間の判断を、続けて守ることだけが、仕事を継ぐことではなかった。


 昼、佳織の叔父から電話が来た。

 売却の返事を急いでほしいという。買手にも予定がある。

「雇用の条件が、まだ、出ていません」

「全部が決まってからじゃ、話が進まん」

「何が決まっていなくても進められるかを、決めたいんです」

 叔父は苛立った声を出した。

「お前は、会社を続けたいのか、正しいことを言いたいのか」

 佳織は受話器を持ち直した。

「続けたいです。でも、続けたいから、何でも同意することはできません」

 叔父は、兄貴なら、もっと早く決めたと言った。

 佳織は窓の外を見た。雨が上がり、空いた機械の場所へ光が入っていた。

「父は、もう、決めません」

 言ったあと、喉が痛くなった。

「私が決めます。だから、私が判断できる条件をください」

 叔父は電話を切らなかった。しばらくして、もう1度、先方へ聞くと言った。

 佳織は礼を言った。叔父を敵にする必要はなかった。叔父の提案に従わないことと、叔父を拒むことは、同じではない。


 その日の夕方、馬淵は雨漏りの写真を見た。

 佳織が損害の記録として送ってきたものだった。機械が止まったために雨漏りが始まったわけではない。だが、工場が止まり、資金が止まると、以前からの不具合へ手を打つ余裕もなくなる。

 どこまでが銀行の責任か。線を引く仕事は、いずれ必要になる。

 馬淵は、いま、自分がその線を勝手に引かないようにした。写真を受け取ったこと、撮影日、説明された状況を記録した。

 荻野が、バケツの数を数えていた。

「何を見てる」

「母の家も、雨漏りしていたので。直すのを、ずっと後回しにしていました」

 馬淵は写真を閉じた。

「工場の話と、お前の家の話は、別だ」

「はい」

「でも、思い出したなら、そっちも、後回しにしすぎるな」

 荻野はうなずいた。

 馬淵は、部下の生活へ踏み込みすぎたかと思った。だが、仕事の外に何もない人間として扱うことも、違っていた。



 多賀谷は帰宅すると、玄関に置かれた靴を揃えた。

 娘の靴が増えていた。大学の見学から戻り、夕食を食べていくという。食卓には、支店の机で見ていたものと同じ大学の冊子があった。

「どうだった」

「よかった。行けるかどうかは、別だけど」

 娘は箸を取った。多賀谷は、学費のことかと思った。だが、娘は成績の話を始めた。父親の心配と、娘の心配は、同じ冊子を見ていても違った。

 妻が汁をよそった。

「銀行、また店が減るの」

「まだ、決まっていない」

「あなたのところは」

「候補には、入っている」

 初めて口にした。妻は驚かなかった。

「そう。遠くなる人が、いるね」

 多賀谷はうなずいた。自分の立場や退職金の話をされると思っていた。妻は長く町で暮らしている。支店がなくなることを、夫の人事より先に、近所の人の足の問題として考えた。

「止められるの」

「わからない」

 娘が顔を上げた。

「お父さんでも、わからないんだ」

 多賀谷は笑おうとして、うまくいかなかった。

「支店長が決められることは、思っているより少ない」

「じゃあ、何を決めるの」

 娘は責めていなかった。ただ、仕事を知りたがっていた。

 多賀谷は箸を置いた。

 毎朝、誰を窓口へ置くか。誰に難しい客を任せるか。誰の残業を見て見ぬふりをするか。本部の指示を、どの言葉で伝えるか。小さな決定は、いくらでもあった。自分が決められない大きなことを理由に、その小さな決定の責任まで薄めていた。

「たくさん、あるな」

 多賀谷は答えた。

「決められないことばかり、数えていた」

 娘は首を傾げた。妻は何も言わず、汁の椀を置いた。


 翌朝、多賀谷は本部へ電話した。

 柏原製作所への請求停止を、改めて上申した。担当者は、監査が確認中だと言った。

「確認中の間に生じる損失を、誰が管理するんですか」

「支店で、状況を把握してください」

「把握はしています。止める権限を持つ部署の判断を、求めています」

 電話を切ってから、照会の控えへ時刻を書いた。馬淵の真似だった。真似だと思うと少し腹が立った。だが、部下のよいところを真似できない管理職でいることのほうが、もっと情けなかった。

 人事部から、荻野の持出しについて、上司の監督状況を問う書面が来ていた。多賀谷は、規程を周知していたとだけ書きかけた。

 ペンを止めた。

 周知したことは事実だ。だが、荻野が家で照合していたことを知らなかった。知らなかった理由は、本人が言わなかったからだけではない。

 作業量の確認をしていなかった、と書いた。自分の評価に響くかもしれない。その恐れを、書かない理由にしなかった。


 佳織は給料の一覧を、何度も足した。

 全員へ同じ割合で払うべきか。家賃や学費が迫っている人を先にするべきか。生活の事情を聞けば、会社が踏み込んではいけないところまで聞くことになる。

 松井に相談すると、松井は首を振った。

「俺に決めさせるな」

「相談も、駄目ですか」

「相談はいい。だが、俺があいつは待てると言っても、あいつの家の中までは知らん」

 佳織はうなずいた。

 従業員へ説明し、個別の相談を受けることにした。自分が一方的に順番を決めるのではなく、払える額と日付を示し、急ぐ事情がある人には申し出てもらう。申し出た理由は、必要な範囲しか記録しない。

 説明のあと、若い工員が来た。

「来月、子どもが生まれます」

 佳織は、知っていたと言いかけた。聞いていた。祝いを渡す予定も立てていた。だが、知っていることと、その家の口座の残高を知ることは違う。

「いつまでに、いくら必要ですか」

 工員は金額を言った。

 佳織はその数字を書いた。小さな数字ではなかった。だが、8億円という見知らぬ債務より、ずっと具体的だった。

「確認して、今日中に答えます」

「会社、なくなるんですか」

 佳織は顔を上げた。

「なくならないように、動いています。でも、絶対に大丈夫とは言えません」

 工員はうなずいた。

「じゃあ、仕事、探してもいいですか」

「もちろん」

 声が詰まりそうになった。佳織は、もちろん、ともう1度言った。

 工員が出ていったあと、母の指輪を入れていた箱を開けた。空の溝が、指の形に見えた。売ったことを母へ報告しようとして、電話を手に取った。母はもういなかった。そういう間違いを、疲れるとする。

 佳織は箱を閉めた。父の会社を守るために母の指輪を売った、という物語にしたくなかった。母がそれを望んだかは、わからない。自分が選んだ。自分の選択として、覚えておくしかなかった。


 創業105周年の晩餐会は、9月18日に開かれた。

 港南支店は柏原製作所の事業承継支援で表彰される。推薦されたのは春だった。機械が止まったことは、式次第に反映されていなかった。

 多賀谷は担当者の同行枠に馬淵を入れた。

「頭取に会わせるためですか」

「表彰の担当者は、お前だ」

「資料を持っていきます」

「顧客情報を宴会場で広げるな。提出先と受領者を決めろ」

 馬淵は資料を作り直した。口座番号を伏せ、詳細は行内の保全依頼番号で参照できるようにした。求めるのは犯人の処分ではない。回収の停止と、監査部の外に調査経路を設けることだった。

 それでも、上の誰かが正しく決めてくれれば解決する、という期待は残っていた。

 会場の廊下で、有働に会った。

「表彰、おめでとう。何を持ってきた」

「頭取に、お渡ししたい資料です」

「私に預ければいい」

「監査部の処理にも、疑義があります」

 馬淵は恩師の顔をうかがった。有働は怒りも驚きも見せず、会議で部下の提案を聞くときと同じようにうなずいた。

「だからこそ、私が引き受ける。身内を調べるのが、監査の仕事だ」

 その声に馬淵は救われてきた。7年前、辞令を握り潰しかけた夜、有働は「正しさを通る形にして出せ」と言った。湯気の立つ椀と酒の匂いまで鮮明に蘇る。助けられた記憶が、目の前の男の言葉を疑いにくくしていた。

「今日は、自分で渡します」

 有働は肩を叩いた。

「そうか。お前らしいな」

 肩に残った手の重さは、昔と変わらなかった。それが今夜は、なぜか長く残った。



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