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決裁印は嘘をつく  作者: ぽむぽむ


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3/10

第3章 止まった機械

柏原製作所の門には、見慣れない白い車が停まっていた。

 9月10日、午後4時過ぎ。佳織は工場の電話で呼び戻された。旋盤の前には執行官と、銀行の代理人を名乗る弁護士が立っていた。作業者は手を止め、何が始まるのか互いの顔を見ている。

 吉岡聡一。名刺の角が、佳織の指に当たった。

「動産の仮差押えです。対象と、保管条件を説明します」

 説明を聞く間、佳織は機械の台数を数えた。導入した順とは逆に、新しいものから。父が中古で買った古い旋盤が、いつも最後に残った。

「全部、止めるんですか」

「使用については、執行上の条件を確認します。封印を剥がしたり、移動したりはしないでください」

「条件って、誰が決めるんですか」

 吉岡は答えた。佳織には、名前と手続きの順番だけが聞こえた。

 松井が声を荒らげた。佳織は、松井さん、と呼んだ。止めたいのか、助けてほしいのか、自分でもわからなかった。

 馬淵が来たとき、工員たちは機械から離れていた。

「契約の成立に疑義があります」

 馬淵は吉岡に言った。

「原本の確認と、保全措置の見直しをお願いします」

「その疑義は、銀行の内部で共有されていますか」

「支店から、正式に照会しています」

 吉岡は書類を見た。34歳だと、あとで佳織は知った。いまは年齢のない顔に見えた。どんな答えを聞いても、自分の表情を相手に渡さない人だった。

 佳織は印鑑証明書と実印を出した。

「私が押したものと、違います」

 吉岡は比較した。長く見たあと、書類を自分の鞄へしまわず、机に戻した。

「原本と取得経緯を、確認します。銀行には、請求と保全の根拠を再点検するよう伝えます」

「それで、明日は動かせますか」

 佳織が聞くと、吉岡は首を振った。

「私の判断だけで、いま、動かしていいとは言えません」

 佳織は名刺を握った。

「できないことばかり、はっきりしてるんですね」

 吉岡は、はい、と答えた。

 その答えを、佳織は憎んだ。曖昧な希望を言わないことを、あとで感謝するかもしれない自分も憎かった。


 吉岡は車へ戻ると、事務所へ電話した。

「契約原本の所在と、取得経緯を、急いで確認してください。印影の比較で、看過できない相違があります」

 相手は、すでに照合済だと言った。

「誰が、何と何を照合したんですか」

「銀行の担当部署が」

「その担当者の記録を、ください」

 吉岡は窓の外を見た。工場の門に人が集まっていた。さっきまで自分の説明を聞いていた人たちだった。説明したことで、責任を果たした気になりたかった。だが、説明が正確でも、前提が違えば、正確な言葉で人を傷つける。

 事務所の上席は、銀行の資料に依拠して動くのが代理人の仕事だと言った。

「依拠できない事情を、いま知りました」

「相手方の言い分だろう」

「印影は、私も見ました」

 吉岡は受話器を持ち替えた。相手方の言い分。その言葉は便利だった。自分が見たことまで、相手方の言い分へ押し戻せる。

「確認するまで、追加の処分は慎重に進めるべきです。銀行へ、書面で意見を出します」

 電話の向こうで、溜息が聞こえた。

「君が責任を取れるのか」

「確認しなかった責任は、取れません」

 言ってから、吉岡は自分の言葉が格好よすぎると思った。実際には、怖かった。大口の依頼者を失えば、事務所の中で自分の仕事は減る。34歳で、正しさだけを理由に仕事を選べるほどの蓄えはない。

 それでも、意見書を出した。工場で見た相違を、見なかったことにしないためだった。


 佳織は工員を集めた。

 全員の顔が見えるように、事務所ではなく、工場の中央で話した。動かない機械の間に立つと、自分の声がよく響いた。

「銀行の請求について、契約した事実はありません。確認と、手続きの見直しを求めています」

 1人が、いつ動くのかと聞いた。

「まだ、決まっていません」

「給料は」

「払うために、資金を集めています」

「払えるんですか」

 佳織は唇を噛んだ。払うと言い切れば、その場は収まる。父なら、俺が何とかすると言っただろう。自分も、そう言いたかった。

「全額を期日どおり払えるか、今日の時点では、確定していません。明日の夕方、金額と日付を説明します」

 工場の奥で、誰かが舌打ちした。

 佳織はその音を聞いた。怒られるのは当然だと思った。だが、当然だと思うことと、傷つかないことは違う。

「仕事を探していただくことを、止めません。必要な証明書は出します。ここに残るかどうかを、会社への恩で決めないでください」

 松井が腕を組んだ。

「社長は、どうする」

「私は、会社を続ける方法を探します。ただ、続けるために、皆さんが無期限に待つことを前提にはしません」

 工員たちは少しずつ散った。慰めに来る人はいなかった。佳織は、それでいいと思った。自分が泣けば、彼らが慰める役を引き受けることになる。

 誰もいなくなってから、機械の陰へ入った。冷たい鉄に手をついた。涙は出なかった。出れば楽になる気がしたが、身体は、まだ次の電話を待っていた。


 松井はロッカーから弁当箱を出した。

 家へ帰るには早かった。妻には、機械の調整で少し遅れると連絡した。嘘をついたことが、喉に残った。

 工場が止まるのは、初めてではなかった。景気の悪い年、台風のあと、先代が倒れた日。そのたびに、機械はまた動いた。今回もそうだと、自分に言い聞かせた。

 だが、今回の止まり方は違った。壊れた箇所が見えない。交換する部品もない。紙に書かれた名前が、機械を止めている。

 松井は事務所の前で立ち止まった。佳織が電話をしていた。

「わかりました。では、こちらから書面を出します」

 声は落ち着いていた。先代よりも、ずっと落ち着いていた。その落ち着きが、工員には冷たく見えることもあった。

 松井は先代を思った。大きな声で笑い、困ると頭を掻き、銀行の担当者へ酒を注いだ。皆があの人を好きだった。だが、あの人の好き嫌いで、給料が変わることもあった。

 佳織が作った賃金表を、松井は最初、気に入らなかった。長く働いた自分の価値を、表の枠に入れられた気がした。

 いまは、その表があるから、自分の給料がいくら未払いなのか、はっきりわかる。社長の気持ちを待つ必要がない。

 松井は弁当箱を鞄へしまった。佳織が電話を切るのを待ち、言った。

「明日、掃除に来る。機械は触らん。掃除だけだ」

「出勤には、できないかもしれません」

「だったら、先に言え。俺が、勝手に来たことにするな」

 佳織は顔を上げた。

「そうですね。来てもらうなら、会社の仕事として記録します」

 松井はうなずいた。善意で働くことが、記録から消えることではない。娘の代になってから覚えたことを、先代の言葉のように思い出していた。


 佳織は、封印の紙に触れないよう、機械の横を通った。

 紙は薄かった。油を含んだ鉄の上で、そこだけが乾いて見えた。こんなものが剥がれれば機械は動く。だが、剥がしてはいけない。動かせることと、動かしてよいことが、違っていた。

 事務所へ入ると、叔父が待っていた。

「電話をくれれば、よかったのに」

「電話じゃ、話にならんだろう」

 叔父は椅子に座らず、窓から工場を見た。父の弟だった。顔は似ていたが、手が違った。叔父は長く会社員をしていて、爪の際に油が残ることはなかった。

「売る話を、もう1度、考えろ」

 佳織は鞄を置いた。

「いま売れば、足元を見られます」

「続ければ、値が戻るのか」

 答えられなかった。

 叔父は、買手を知っていると言った。土地と建物をまとめて引き取る。従業員の一部も、別の工場で雇えるかもしれない。話を聞くだけでも、という。

「誰の紹介ですか」

「地域の再生をやっている会社だ」

 佳織は名刺を受け取った。三隅パートナーズの系列会社だった。まだ、その名に特別な意味はなかった。

「銀行の保証の問題を、知っているんですか」

「知っているから、相談に乗れると言っている」

 佳織は名刺を机へ置いた。

 困っていることを知っている相手が、助けると言う。父が亡くなったとき、馬淵もそうだった。知っていることは、安心の理由にも、弱みを握られている理由にもなる。

「資料をください。価格と、従業員の扱いと、引き継ぐものの範囲を、書面で」

「そんなに、疑うな」

「疑うためではなく、考えるためです」

 叔父は口を閉じた。

「お前は、兄貴と違って、何でも紙にするな」

 佳織は名刺を裏返した。

「父は、紙にしなかったことで、困らなかったんでしょうか」

 叔父は答えなかった。


 夕方、提案書がメールで届いた。

 土地の価格は、佳織が知っている評価より低かった。設備は一括で引き取るが、従業員の雇用は、別途協議とある。叔父が言った、一部を雇えるかもしれない、という言葉より、さらに薄い表現だった。

 佳織は税理士へ送り、意見を求めた。税理士は、いまの状態で急いで決めるべきではないと答えた。ただし、続ける場合の資金が尽きる日も、同時に見なければならないと言った。

 佳織は机に2枚の紙を並べた。

 売った場合と、続けた場合。

 どちらも、誰かが困る。売れば、工場を失う人がいる。続けて失敗すれば、もっと多くの支払いを残すかもしれない。

 父なら続けた、という答えは、簡単だった。だが、父はもう、支払わない。決めるのは自分だった。

 佳織は、売却の提案を断らなかった。条件の説明を求め、回答期限を確認した。会社を続ける覚悟を示すために、選択肢を捨てる必要はなかった。


 翌朝、松井が提案書を見た。

 佳織が見せたのは、雇用に関する部分だけだった。個別の賃金や退職金の情報を、工場全体へ出すわけにはいかない。

「俺たちを、売るのか」

 松井は言った。

 佳織は顔を上げた。

「人を売ることは、できません。働く先を変えるかどうかは、それぞれが決めることです」

「言い方の話じゃない」

「言い方も、大事です」

 声が強くなった。

 松井は紙を机へ置いた。

「先代の工場を、守ると言っただろう」

「守るために、皆さんが給料を待ち続けることを、決めていいんですか」

 松井は窓の外を見た。

 佳織は椅子に座った。怒鳴れば、父の工場を売る冷たい娘と、先代を慕う職人の話になる。その話では、来月の支払いは決まらない。

「私は、売ると決めたわけではありません。続けるときの資金も、探しています。どちらも、条件を見て決めたいんです」

 松井は長く黙った。

「俺が、ここにいたいだけなのかもしれん」

 声が低くなった。

「それは、悪いことではありません」

「だが、それで、あんたを縛ってる」

 佳織は首を振りかけ、やめた。縛られていないとは言えなかった。

「私も、父の会社だからという理由で、皆さんを縛っていたかもしれません」

 2人は、同じ紙を見た。売るか、続けるか。その2つだけではない。規模を小さくする、仕事を絞る、設備を一部手放す。税理士が書いた別の案を、佳織は出した。

 松井は、古い旋盤の番号を指した。

「これは、残したい。理由は、先代のものだからじゃない。いまの仕事で、まだ使える」

 佳織はその理由を書いた。

 思い出ではなく、仕事の言葉で、残すものを決め始めた。


 昼過ぎ、馬淵が電話してきた。

 佳織は売却の提案を受けたことを伝えた。相手の名を聞いた馬淵は、少し黙った。

「その資料を、拝見してもいいですか」

「融資の判断のためですか」

「関係先の確認のためです」

「では、どこへ出すか、先に教えてください」

 馬淵は提出先と用途を説明した。佳織は税理士と相談し、必要な部分の写しを渡すと答えた。

 以前なら、馬淵へ全部渡しただろう。自分よりわかる人が、何とかしてくれると思って。

 電話を切り、佳織は提案書へ受領日を書いた。会社を守る仕事の中に、銀行からも距離を取ることが入った。



 翌日から、工場の音が変わった。

 何も鳴らないわけではなかった。冷蔵庫が鳴り、換気扇が回り、誰かが工具を置く。旋盤が動いていたときには聞こえなかった小さな音が、やけに大きかった。

 佳織は取引先へ電話をかけた。納期の延長を頼むたび、相手の声が少しずつ遠くなった。

「銀行の手違いで」

 最初はそう説明した。

 3件目から、資金と設備の問題で、と言い換えた。手違いなら、なぜ直らないのかと聞かれたからだった。

 若い工員が、事務所の入口に立った。

「社長、別の工場から、話が来てます」

 佳織は顔を上げた。

「行ったほうがいいと思う」

 自分の口から、すぐにその言葉が出たことに驚いた。

「まだ、決めたわけじゃ」

「うん。でも、決まったら教えて。書類は、遅れないようにする」

 工員は何度も頭を下げた。佳織は、頭を下げないで、と言わなかった。そう言うと、彼が申し訳なさを置く場所まで奪ってしまう気がした。

 出ていったあと、従業員名簿を開いた。名前を消すことはできなかった。右端に、小さく退職予定と書いた。

 38人という数が、自分の会社を守るための言葉になっていた。だが、38人にはそれぞれ、ここを離れる権利があった。

 佳織は名簿を閉じた。


 松井の家には、工場のものがほとんどなかった。

 仕事着は玄関の脇へ掛け、工具は持ち帰らない。妻が、食卓へ仕事の匂いを持ち込まないでほしいと言ったのは、結婚した頃だった。松井は、その約束だけは守ってきた。

 工場が止まった日の夜、妻はいつもどおり食事を出した。

「今日は、早いね」

「機械が、止まった」

「壊れたの」

「壊れてはいない」

 松井は箸を持った。説明しようとすると、銀行、保証、裁判所という言葉が出る。どれも、自分の手で確かめられないものだった。

「会社が、金を払えないことになっている」

「払えないの」

「そういうことになっている」

 妻は箸を置いた。

「あなたが、そういう言い方をするときは、よくわかっていないときでしょう」

 松井は顔を上げた。

 怒りたかった。だが、そのとおりだった。社長が否定している。銀行の担当者も調べると言っている。自分が知っているのは、その2つだけだった。

「わからん」

 松井は言った。

「だが、機械は、止まった」

 妻はうなずいた。

「給料は」

「まだ、聞いていない」

「聞きなさい」

 松井は、社長も困っていると言いかけた。妻は先に言った。

「社長が困っていることと、うちが困ることは、別でしょう」

 その言葉は、あとで佳織からも聞くことになる。別々の人間が、別々の場所で、同じところへたどり着く。

 松井は食事を終え、手を洗った。爪の際の黒い筋を、いつもより長く擦った。工場が止まった日にも、手の汚れは残る。自分が働いたことは、身体に残っているのに、明日の仕事はなかった。


 翌日、松井は昔の同僚へ電話した。

 別の工場で、短い仕事がないかと聞いた。自分のためではなく、若い工員のためだと言った。相手は、あんたはどうする、と聞いた。

「俺は、残る」

「残って、何をする」

 松井は答えられなかった。

 機械を磨く。道具を片づける。再開に備える。どれも必要だった。だが、それを何日続ければいいかは、わからない。

 相手は、見学だけでも来いと言った。

 松井は断った。断ったあと、自分が何を守ったのか、わからなくなった。

 先代への恩。佳織への責任。若い工員の手本。その言葉を並べれば、残る理由になる。だが、新しい場所で、自分のやり方が通じないことを知るのが怖い。それも、確かにあった。

 松井は佳織の事務所へ行き、電話したことを伝えた。

「若い連中に、話があるかもしれん」

「ありがとうございます」

「俺にも、来いと言われた」

 佳織は顔を上げた。

「行ってください」

 答えが早かった。

 松井は、少し傷ついた。引き止めてほしかったのだと、すぐにわかった。

「見学だけでも、行ってください。ここに残るとしても、ほかを見たうえで決めてほしいです」

 佳織は続けた。

 松井は椅子へ座った。

「社長は、俺がいなくても、いいのか」

「いてほしいです。でも、いてほしいことと、ここにいてくださいと頼めることは、違います」

 松井は机の上の紙を見た。給与の一覧だった。自分の名があった。数字の横に、支払予定と書いてある。

「俺の分は、後でいい」

 言いかけて、止めた。妻に聞きなさいと言われたばかりだった。

「いつ、払える」

 佳織は一覧を自分の方へ引き、わかっている範囲を説明した。

 松井は、最後まで聞いた。


 見学に行った工場は、明るかった。

 床に油が少なく、機械の音が均一だった。案内したのは、松井よりずっと若い人だった。図面を端末で開き、作業の手順を説明した。

 松井は、手で触ればわかると言いかけた。

 言わずに、測定の方法を聞いた。若い人は丁寧に答えた。松井が知らない道具もあった。知っている道具の、知らない使い方もあった。

「経験のある方には、教えていただきたいことが多いです」

 案内役は言った。

 松井は、そうだろうと思いかけた。だが、続けて、こちらの手順も覚えていただく必要があります、と言われた。

 教えるだけの場所ではない。教わる場所でもある。

 帰り道、松井は佳織へ電話した。

「見てきた」

「どうでしたか」

「いい工場だった」

 電話口で、松井が息を吸う音がした。続いた声には、自分でも意外だったような正直さがあった。

「うちだけが、真面目にやってきたわけじゃないな」

 佳織は黙って聞いていた。

「残るかどうかは、もう少し考える。ただ、残るなら、先代への恩だけで残ったことにはしない」

 佳織は、わかりましたと答えた。

 松井は電話を切った。工場の前を通るバスに乗った。窓から見える町は、いつも車で通るより、少し高いところにあった。


 佳織は、松井がいない午後、工員の1人と話した。

 その人は、会社を続けてほしいが、社長には無理をしてほしくないと言った。佳織は礼を言った。言い終えてから、何を受け取ったのか考えた。

 続けてほしい。無理はしないでほしい。

 どちらも本心だろう。だが、その2つを同時に実現する方法は、まだない。

「もし、仕事を減らして続けることになったら、勤務の日数も変わるかもしれません」

 佳織は言った。

「そのとき、何を先に知りたいですか」

 工員は、給料と、いつまでその状態が続くかだと答えた。

 佳織は手帳へ書いた。皆の気持ちを聞くことと、皆が決めるための条件を聞くことは、違った。

 父は、人の気持ちをつかむのがうまかった。自分は、その点では父に及ばないと思っていた。だが、条件を明らかにすることなら、少しずつできる。

 事務所の壁へ、次の説明日を書いた紙を貼った。結論が出る日ではない。何が決まり、何が決まっていないかを伝える日だった。


 夕方、馬淵は工場へ電話した。

 佳織は、今日は、銀行の話を聞く余裕がないと言った。馬淵は、短く報告だけでもと言いかけた。

「明日の午前で、いいですか」

 佳織は聞いた。

「はい」

 馬淵は答えた。

 電話を切ると、佐野が見ていた。

「いま、聞いてもらいたかったんですね」

「進んだことを、伝えたかった」

「こちらが進んだと感じることと、相手が今日聞く必要があることは、同じではないです」

 馬淵は手帳を閉じた。

 報告することで、自分が何もしていないわけではないと知ってほしかった。その気持ちが、顧客の時間を使おうとしていた。

 翌朝、佳織は約束の時刻に電話へ出た。馬淵は、確認できたことを3つに絞って伝えた。佳織は質問を2つした。1つは答えられ、1つは確認が必要だった。

 通話は8分で終わった。

 短いことが、冷たいことではなかった。相手が次の仕事へ戻れることも、説明の質の一部だった。


 馬淵と佐野は、本店の金融犯罪対策室を訪ねた。

 乾志津香は、応接室ではなく、小さな会議室を指定した。扉の予約表示には、取引監視運用点検とあった。

「秘密の相談に見える部屋を選ぶと、相談そのものが目立つの」

 37歳の乾は、机の上に持込記録簿を置いた。

「見せる資料は、ここに書く。あなたたちの権限外の口座番号は隠してある。持ち帰りはなし」

 馬淵は署名した。

「他行に出た資金は、どこまで追えますか」

「うちの送金記録だけで、世界中の口座が見えると思わないで。わかる部分と、照会が必要な部分を分ける」

 乾は図を広げた。実線と点線があった。

 33社に関係する融資の合計は104億円。そのうち、行内の口座移動と、保有する取引資料で接続を確認できたものが実線になっている。外へ出たあとに戻ってきた資金もあった。

「全額が消えた、と言うのはまだ早い。ただ、三隅パートナーズに関係する複数の口座へ、同じ日に似た金額が集まる。そこから先は、追加の資料が要る」

「三隅裕隆」

 佐野が名前を読んだ。

 新聞で見たことがあった。企業再生の講演をし、東栄銀行の取引先交流会にも出ていた。

「私は2024年から、この系列の取引について17件の内部報告を出した。外部への届出要否を判断する前の段階で、調査済になっている」

「誰の判断で」

「帳票上は郷田常務の確認。ただし、私はその表示だけで本人がやったとは言わない」

 馬淵は口を閉じた。

 乾は実線の端を指で押さえた。

「あなたの印影が偽物なら、ほかの人の印影も、疑わないとね」

 自分だけは無実で、嫌いな相手の名は真実だと思っていた。その矛盾を、馬淵は初めて正面から見た。


 資料に出てきた会社の登記住所は、古い雑居ビルに集中していた。

 馬淵と佐野は、外から郵便受けを確認した。1つの箱に社名のシールが重なっている。管理人は、訪問先の人間は常駐していないと言った。

「郵便を取る人は来るよ。まとめて持っていく」

 佐野は聞いた内容を手帳に書き、管理人に読み返した。馬淵は上階の暗い窓を見ていた。

 100億円の幽霊、という言葉が浮かんだ。

 言えば、何かを掴んだ気になれた。だが、この建物に人がいないことと、104億円の行方は、まだ同じ事実ではない。

 馬淵は、その言葉を口にしなかった。


 乾が17件目の報告を出した日は、雨だった。

 2026年6月。金融犯罪対策室の窓には、向かいの建物の壁しか見えなかった。以前は窓のない部屋だったから、改善されたのだと上司は言った。乾は、その壁に雨の筋が増えるのを見ていた。

 報告書の最後に、前回と同じ文章を書いた。追加調査を要する。実質的支配者の確認が不十分。取引目的と資金移動に乖離がある。

 書き慣れた文章だった。書き慣れたことが、怖かった。

 最初の報告では、眠れなかった。自分の見落としではないか、相手の事情を知らないだけではないか。何度も資料を読み直し、上司へ説明した。2件目では、前回との共通点を示した。5件目では、取引先の一覧を作った。10件目では、以前の回答を引用した。

 17件目には、驚きがなかった。

 驚かなくなった自分を、専門家として落ち着いたのだと思いたかった。だが、何も変わらないことに慣れただけかもしれなかった。

 上司は、また同じ系列かと言った。

「はい。ただ、今回は、保証人の変更が重なっています」

「監査へ回そう」

「前の16件も、回しました」

「だから、監査で見ている」

「見ていることと、調べていることは違います」

 上司は眼鏡を外した。

「君の言い方だと、誰も仕事をしていないことになる」

 乾は口を閉じた。誰も仕事をしていないとは思わなかった。皆、仕事をしていた。受け取り、回し、期限を管理し、回答を保存した。仕事をしているのに、疑問だけが次の部署へ渡り、答えが戻ってこなかった。

「調査した内容を、確認したいんです」

「結果は問題なしだ」

「その根拠を」

「必要な範囲で、共有される」

 乾は自分の席へ戻った。

 以前なら、上司を敵だと思っただろう。だが、その上司も、もっと上から同じ言葉を受け取っている。言葉を受け取り、同じ形で下へ渡す。その間に、自分の判断があったことだけが消える。

 乾は報告書の控えに、質問した日付と回答を書いた。怒りを記録するのではなく、問いがどこで止まったかを記録した。

 その記録が役に立つかは、わからなかった。

 役に立つと信じなければ続けられない仕事もある。だが、信じているだけでは、続けていること自体が目的になる。乾は毎月末に、未解決の報告を読み返す日を決めた。自分が同じ文章を書いて満足しないためだった。


 9月の会議室で、馬淵はその経緯を聞いた。

「17件も出して、止まらなかったんですね」

「止まらなかった」

「外へ出すことは、考えなかったんですか」

 乾は机の上の資料を閉じた。

「考えた。でも、何を、どこへ、どの範囲で出すかを決められなかった。顧客情報を、私の正義でばらまくわけにはいかない。そう言いながら、怖がっていたのも事実」

 馬淵は顔を上げた。

 乾は自分を、孤独に戦ってきた専門家として語らなかった。

「だから、いま、外へ出す必要があるなら、経路を確認する。通報者を守る仕組みも、資料を受け取る側の権限も。私が怖くない人間になるのを待っていたら、いつまでも動けないから」

 馬淵は手帳に書こうとした。

「そのまま書かなくていい」

 乾が言った。

「あなたが、何をするかを書いて」

 馬淵はペンを止めた。誰かのよい言葉を集めることは、行動した気になる近道だった。


 フォーラムの案内状は、支店の棚にあった。

 地域再生と事業承継。三隅の講演題目の下に、東栄銀行の後援と書かれている。柏原製作所にも同じ案内が届いていた。

 佳織は、捨てようとして、机の端へ置いた。

「行くんですか」

 松井が聞いた。

「行きません」

「話を聞けば、何かあるかもしれんぞ」

「何かって」

 松井は答えなかった。

 佳織は案内状を裏返した。参加費は無料。交流会は別料金。父なら行っただろう。人に会うことを、仕事だと思っていた。佳織も、それが間違いだとは思わない。だが、困っている人間ほど、会場へ行く時間も、名刺を配る余裕もない。

「いま、うちに必要なのは、講演じゃないです」

 言い方がきつくなった。松井は黙って工場へ戻った。

 佳織は追いかけようとして、やめた。松井は何とかしたいと思ってくれた。それはわかる。わかるから、傷つけない言い方を探し続ける余裕が、いまはなかった。

 夕方、松井の作業台に、新しい布を置いた。

「朝は、すみません」

 松井は布を見た。

「俺も、何かあるかもしれんで済ませた。何があるか、調べてもいないのにな」

 佳織はうなずいた。

 互いに謝ったからといって、工場は動かない。それでも、同じ場所で仕事を続けるために、必要な手間だった。


 乾は、33社の一覧を、業種ではなく登録日で並べ直した。

 月末に集中している。年度末にも多い。それだけなら、通常の融資にもある偏りだった。だが、保証の登録日と、保証人の信用判定が下がる日には、一定の間隔があった。

 馬淵は表へ身を乗り出した。

「最初から、落とすつもりで」

「まだ、言わないで」

 乾は別の表を出した。正常な保証登録の例だった。こちらにも、同じ間隔で信用判定が変わるものがある。システムの定例処理の日程が影響していた。

 馬淵は椅子へ戻った。

「何を見ても、説明がつくんだな」

「説明がつく部分を、先に除く。残ったところを調べる」

 乾は表の1行を指した。

 保証が登録された日より前に、保証人の信用判定へ影響するフラグが立っていた。通常の定例処理では、順番が逆だった。

「予約処理かもしれない。移行の都合かもしれない。でも、理由が要る」

 馬淵は案件番号を書いた。

 その会社は、港南支店の担当ではなかった。直接、社長へ電話することはできない。担当支店へ照会し、顧客の同意を得て、説明を確認する必要があった。

 待っている間、馬淵は他の行を見た。表は、見る順番で違う物語になった。金額で並べれば、大きな会社が先に来る。登録日で並べれば、処理の癖が見える。業種で並べれば、地域の産業が見える。

 どの並べ方も、間違いではない。どれか1つを全体だと思うことが、間違いになる。


 担当支店から返事が来たのは、翌日だった。

 顧客は契約を否定している。ただし、社長が交代したばかりで、前社長の手続きまではわからないという。馬淵は、同じ被害だと書きかけた文章を止めた。

 乾は、契約否定と、契約経緯不明を分けた。

「数が減ったように見えるな」

 馬淵が言うと、乾はうなずいた。

「見える。でも、強く言うために、違うものを同じにしない」

 その会社の原本確認は、担当支店が続けることになった。33社は、不正が確定した33社ではない。同じ不審な処理の影響を受けている可能性のある33社だった。

 馬淵は説明の最初に、その1文を入れた。迫力が弱くなる気がした。だが、迫力のために正確さを削れば、相手も同じことをする。


 乾は昼休みに、食堂へ行かなかった。

 机でパンを食べながら、古い報告の回答を読み返した。調査済、問題なし、経営判断の範囲。似た言葉が並んでいたが、全く同じではなかった。

 1件だけ、確認資料が不足しているため継続照会、とあった。その報告も、一覧では完了になっていた。

 乾は回答を作った担当者へ連絡した。相手は、もう監査部にいなかった。

「私は、完了にしていません」

 電話の向こうで、行員は言った。

「回答を出したあと、上で処理が変わったのかもしれません。私の画面では、見えません」

「そのときの控えは、ありますか」

「探します。ただ、私が持っていていいものか」

 乾は、個人で送らず、所属長を通じて所在を知らせてほしいと頼んだ。

 相手は、私が通報したことになるのかと聞いた。

「事実の確認に協力したことになります。あなたの立場に関わることは、必要な範囲でしか共有しないよう求めます。ただ、絶対に誰にも知られないとは、約束できません」

 相手は黙った。

 安心させる言葉を、乾は持っていた。大丈夫です、守ります。だが、その言葉を実行する権限が、自分にないことを知っていた。

「考えてから、返事をしてもいいですか」

「もちろんです」

 電話を切ると、パンが乾いていた。

 協力を求めることは、相手の生活へ危険を持ち込むことでもある。正しい調査だから、協力して当然だとは言えなかった。


 夕方、その行員から所属長を通じて連絡が来た。

 当時の回答案が、行内の保管領域に残っている。個人の持出しではない。正式な照会があれば、提出できる。

 乾は照会を出した。馬淵は、そのやり取りを見ていた。

「直接、送ってもらったほうが、早いのに」

「早い。でも、その人が規程違反をしたことにされるかもしれない」

「規程が、不正を守っている」

「そういう使われ方をしている。だから、規程を破るしかない形に、協力者を追い込まない」

 馬淵は荻野の媒体を思った。役に立つものを持っていたから、持ち出したことまでよかったことにしたくなる。だが、その考え方では、次の荻野がまた家で仕事をする。

 乾は新しい照会番号を控えた。

「遅いことが、全部、悪いわけじゃない。ただ、遅くした責任を、待つ人だけに負わせないようにする」


 フォーラムの前日、三隅の事務所から支店へ電話が来た。

 地域企業の相談を受けているので、柏原製作所の担当者と話したいという。馬淵は、顧客の同意なく取引内容は話せないと答えた。

「こちらは、社長の親族から相談を受けています」

「親族からの相談と、会社の同意は別です」

 相手は、融通が利かないと言わなかった。ただ、銀行の対応が遅いために困っている企業を支援したいのだと、丁寧に説明した。

 馬淵は、その言葉を否定できなかった。実際、銀行の対応は遅く、佳織は困っていた。

「支援の内容を、書面でいただけますか。顧客へ、こちらから確認します」

 相手は、検討すると答えた。

 電話を切り、馬淵は自分が銀行の縄張りを守っているだけではないかと考えた。三隅が本当に助けられるなら、自分が邪魔をする理由はない。

 佳織へ確認すると、売却の提案は受けたが、銀行との交渉を委任した覚えはないと言った。

 馬淵は、その回答を記録した。

 相手を怪しいと感じたことではなく、誰が何を委任したか。それなら、確かめられる。


 夜、佐野はフォーラムの登壇者を調べた。

 行内で配られた紹介資料と、主催者が公開している経歴を照合した。三隅は銀行系のコンサル会社にいた。地域再生の実績として、いくつもの企業名が並んでいた。

 そのうちの1社は、再生後に工場を閉じていた。別の1社は、雇用を維持していた。どちらも、実績という同じ見出しの下にあった。

 佐野は、再生という言葉の意味を、馬淵へ聞いた。

「会社が残ることだろう」

「法人が残れば、工場がなくなっても、再生ですか」

 馬淵は答えを考えた。

「誰の立場で見るかに、よる」

「だったら、明日は、何を残す再生なのか、聞きたいです」

 馬淵はうなずいた。

 馬淵は、その質問を手帳に残した。



 三隅と会ったのは、翌週の地域金融フォーラムだった。

 講演を終えた三隅は、名刺を持つ人々に囲まれていた。55歳。白い髪が耳の上に混じっている。馬淵は列の最後に並んだ。

 少し前で、郷田が三隅と握手した。短い言葉を交わしたが、聞こえなかった。

 佐野が馬淵の袖を引いた。

「会った、という事実だけです」

「わかってる」

 わかっていない声だった。

 三隅は、名刺を見ずに馬淵の名を呼んだ。

「港南の。柏原さんの件では、ご心配でしょう」

「ご存じなんですね」

「地域のことですから」

「ネクサス・ロジテックも、地域の会社ですか」

 三隅は少し笑った。

「器には、器の役目があります」

「保証人は、その器の役目を知っていたんでしょうか」

「それは、銀行にお尋ねになるべきでしょう」

 馬淵は名刺を受け取った。紙が厚かった。

 三隅は声を落とした。

「馬淵鉄工所。あちらも、難しい案件でした」

 馬淵の指が止まった。

「父の工場を、ご存じなんですか」

「25年前です。私はまだ、銀行系のコンサル会社にいました。旋盤が6台。社長は、土地を手放す話に最後まで同意しなかった」

 会場の食器の音が、遠くなった。

「あの土地は、いま」

「駐車場ですね。便利になりました」

 馬淵は一歩出た。佐野の手が、肘に触れた。

 三隅は馬淵ではなく、その手を見た。

「いい同僚をお持ちだ。失わないように」

 帰りの電車で、佐野は何も聞かなかった。

 夜の電車の窓に、自分の顔が重なった。父の工場を潰した理由が知りたい。柏原製作所を救いたい。その2つが同じ熱を帯びていることが、馬淵には怖かった。

 自分が長いあいだ欲しかった答えを、佳織の危機に紛れ込ませてはいけない。そう思うほど、父の旋盤の音が耳に戻った。

「佐野」

「はい」

「俺が、柏原さんより父の話を先にしたら、止めてくれ」

 佐野はすぐには答えなかった。

「止めます。でも、お父さんのことを調べるのも、悪いことではありません」

 電車は海沿いへ出た。外は暗い。窓に映る佐野と自分の姿だけが、停車するたび少しずつ揺れた。


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