第2章 名前を貸した人たち
9月8日、夜の融資課で、佐野は検索条件を3回変えた。
最初は本部一括処理の保証契約。次に被保証先の延滞。最後は保証人の区分変更日。条件を厳しくするほど、別々の支店に同じ形の傷が見つかった。
「33社です」
佐野が言った。
12支店、33社。機械部品、食品加工、運送、印刷。業種も住所も違う。ただ、保証が登録される直前の資金繰りが比較的安定していた点だけは、気味が悪いほど似ていた。
「いい会社を選んでる」
荻野が言った。
「いい、の定義は」
佐野に聞かれ、荻野は首を縮めた。
「返せる会社、という意味です」
「そうね。少なくとも、返せそうに見える会社」
馬淵は承認者の列を見た。閲覧できる帳票だけでも、知った名があった。石倉、高瀬。本部で異論を唱え、支店へ出た行員だった。
自分と同じだ、と思った。その一致が、あまりにも早く答えをくれた。
「本部に逆らった人間の名前を使ってる」
佐野はうなずきかけ、やめた。
「まだ、全員は確認できていません」
「でも、石倉さんも高瀬さんも」
「人事の噂と、不正の記録は別です」
馬淵は画面から手を引いた。
佐野は冷たく言ったのではなかった。言いながら、33社の表に確認済という列を足していた。
3人は、それぞれの担当先に関係する範囲から照会を始めた。支店の権限で見られないものは、見られないと記録した。知らないことを埋めない。その作業は、犯人を見つけることより遅く、手応えがなかった。
荻野が日次照合表の保管先を開いた。
「僕、前日の出力を残しています。支店の共有領域です。翌日、件数が合わないときに使うので」
「いつから」
「配属されてから、ずっと」
馬淵は2025年3月14日を指定した。荻野の指が止まった。
「古い分は、個人の作業領域に移しています。容量が足りなくて」
「行内か」
「はい。でも、一部は家でも見ようとして」
荻野は口を閉じた。
「持ち出したのか」
「顧客名を消したつもりでした。あとで、消し残しがあると気づいて」
佐野が椅子を寄せた。
「その媒体を、いま開かないで。消さないで。何を、いつ、どこへ移したか、先に書いて」
「処分されますか」
「私には決められない。でも、なかったことにはしない」
荻野はうなずいた。馬淵は助け舟を出しかけた。いまは不正の調査が先だ、と言えば、この場は楽になる。だが、その言い方で何を後回しにしてきたのか、自分たちは調べているのだった。
「記録しよう。俺も、確認する」
荻野は白紙を取り出した。
翌日、馬淵は海老原水産を訪ねた。
33社の中で、すでに営業をやめている会社だった。工場のシャッターには、売物件の紙が貼られていた。角が剥がれ、裏側が雨で灰色になっている。
隣の作業場で網を直していた人が、社長は入院していると教えた。
「銀行さんか」
「東栄銀行です」
「だったら、娘さんに電話してやれ。ここの前で頭下げても、誰も見ちゃいない」
馬淵は名刺を持ったまま立っていた。
謝る相手のいない場所で頭を下げれば、自分だけが少し楽になる。そのことを、見透かされた気がした。
教わった番号へ電話をした。娘は、銀行とはもう話したくないと言った。
「父は、銀行さんには迷惑をかけられないって、家の貯金まで出したんです。あなたも、同じ銀行でしょう」
「はい」
「だったら、まず返してください」
馬淵は、返せると約束できなかった。調べていると説明した。娘は途中で電話を切った。
通話の終わった画面に、自分の顔が映った。
正しい側に立ったつもりでも、相手から見える看板は変わらない。
港南支店へ戻ると、廊下に本部の一団がいた。
先頭の郷田康臣常務を見て、馬淵の身体は先に固くなった。7年前、会議で架空売掛金の疑いを指摘したとき、話を打ち切った男だった。
「郷田常務」
呼び止めると、随行の行員が足を止めた。
「柏原製作所の区分変更について、お聞きしたいことがあります」
「照会は、支店長を通せ」
「通しています。回答が来る前に、会社が止まります」
郷田は馬淵を見た。58歳の顔には、以前より深い線が刻まれていた。
「お前は、まだ、自分の目で見たものだけが全部だと思っているのか」
「私の名前が使われています」
「なら、なおさら、軽々しく口を開くな」
低い声だった。随行者には聞こえない距離まで、郷田は近づいた。
「港南にいる意味を、考えろ」
郷田は去った。
馬淵は、その言葉を脅しとして受け取った。ほかの受け取り方を、7年間準備していなかった。
33社のうち、港南支店が直接担当していたのは3社だった。
柏原製作所、海老原水産、宮坂運送。最後の会社について、馬淵は自分が担当した記憶がなかった。2年前、隣の支店から移管された先で、荻野の前任者が受け持っていた。
社長の宮坂は、電話に出ると、銀行の話なら午後にしてくれと言った。
「いま、運転中ですか」
「助手席だ。荷下ろしがある」
馬淵は午後2時に訪ねる約束をした。
営業所は、高架道路の下にあった。車庫の奥に、コンテナを改造した事務所がある。宮坂は軍手を外し、冷蔵庫から缶の茶を出した。
「何を聞きに来た」
「保証の記録についてです」
「した覚えはない。前の人にも、言った」
馬淵は持参した照会の控えを見た。前任者の記録には、先方へ説明済とだけあった。
「どんな説明を、受けましたか」
「銀行の処理だから、こちらで何かする必要はないと。あんたたちが勝手に作った紙を、あんたたちが勝手に直す。そういう話だと思った」
宮坂は茶を開けなかった。
「ところが、今度は、うちの借入を減らすと言う。何でだと聞いたら、保証があるからだと。俺は、同じ話を、何回すればいい」
馬淵は前任者の名を出しかけた。あの人の対応が悪かったと説明すれば、自分は違う担当者として座れる。だが、宮坂にとって、担当者の交代は銀行の都合だった。
「前の説明を含めて、確認します。今日は、同じことを繰り返し聞かないために、記録を一緒に確かめたいんです」
「記録なら、ある」
宮坂は机の引出しから、大学ノートを出した。
電話した日、相手の名、言われたこと。ボールペンの色が途中で変わっていた。ある日は、折返しなし、とだけ書かれている。
「会社を始めたとき、親父に言われた。金の話は、相手が書かなくても、自分で書けと」
馬淵はノートを読んだ。銀行の記録より、ずっと具体的だった。説明済の4文字の向こうに、宮坂が何度も電話をかけた時間があった。
「写しを、いただけますか」
「その前に、何に使うか、書いてくれ」
宮坂は白紙を出した。
馬淵は用途と提出先、必要な範囲を書いた。宮坂は読み、会社と関係のないページを折り込んだ。
「家のことも、書いてある。そこは、持っていくな」
馬淵はうなずいた。
帰り際、宮坂は車庫へ案内した。
トラックが8台並んでいた。1台は修理中で、前の部分が開いている。
「これを直す金が、止まった」
「いつからですか」
「先月。だから、俺が夜も走ってる。1台減ると、仕事が減るだけじゃない。残った車と人に、無理が来る」
馬淵は、柏原製作所の機械を思った。止まった機械の横で、人間だけが余計に動く。
宮坂は車のタイヤを蹴った。
「銀行の数字じゃ、俺が走った分は、売上を維持したことになるんだろう。だから、まだ大丈夫だと」
「そう見えていたかもしれません」
「俺が倒れたら、急に、業況悪化か」
馬淵は答えられなかった。
数字に出ない負担を、数字が悪くなるまで待っている。自分たちの仕事には、そういう遅さがあった。
宮坂は事務所へ戻った。馬淵は車庫の入口で頭を下げた。謝罪を受け取ってもらうためではなく、時間を使ってもらったことへの礼だった。
支店へ戻り、前任者の説明を確認した。
異動先の行員は、最初、覚えていないと言った。案件番号を伝えると、ああ、あれかと声が変わった。
「本部から、誤登録の可能性があるから、先方には手続き不要と伝えろと言われた」
「誰からですか」
「担当部署の人だ。名前は、メールにあると思う」
馬淵は、そのメールを正式に照会した。個人宛てに転送してもらうのではなく、支店長を通じて保全を求めた。
前任者は、俺が悪いことになるのかと聞いた。
「何があったかを、確かめたいんです」
「そう言って、最後は、現場の説明不足になる」
馬淵は黙った。自分も同じ恐れを持っていた。だが、同じ恐れを持つことを理由に、確認をやめるわけにはいかなかった。
「説明不足があったなら、それも残します。本部の指示があったなら、それも残します。どちらかだけにしないために、記録が必要です」
前任者は、少し待ってくれと言った。
翌朝、メールの所在が確認できた。件名は、関連債務表示に関する顧客説明。本文には、暫定表示であり、顧客側の手続きは不要とあった。
保証契約が成立しているという現在の説明と、食い違っていた。
馬淵は、そのメールを決定打とは呼ばなかった。暫定表示から正式登録へ変わることもある。だが、変わったなら、その間に何があったかを、銀行が説明しなければならない。
佐野は照会事項を1つ足した。
暫定表示の根拠と、正式登録への変更経緯。
表の行が増えた。増えるほど、仕事が進んだ気にも、終わらなくなった気にもなった。
その夜、宮坂から電話が来た。
「今日、銀行の別の人から、電話があった。あんたに、何を話したかと」
馬淵は椅子を起こした。
「どなたでしたか」
「監査の関係だと言った。名前は、聞いた。ノートにある」
宮坂は名前を読み上げた。馬淵の知らない名だった。
「その人に、何と」
「同じことを何回も言わせるなと。そしたら、確認のためだと言う。あんたも、そう言ったな」
馬淵は受話器を握り直した。
「はい」
「銀行の中で、話をつないでくれ。俺は、荷物を運ぶ仕事をしてる。あんたたちの伝言係じゃない」
電話が切れた。
馬淵は、多賀谷へ報告した。支店長は、顧客への照会窓口を一本化するよう、本部へ申し入れると言った。
「一本化すると、隠されるかもしれません」
「ばらばらに聞けば、顧客が潰れる。一本化したうえで、何を聞き、何を受け取ったか、別に記録を残す」
多賀谷は言った。
「便利な方法には、必ず、別の危険がある。だから、方法を選んだ責任を残すんだ」
馬淵は宮坂のノートを思い出した。銀行の中で記録を残す技術を学んだつもりだった。だが、銀行の外で、銀行に負けないために記録している人がいた。
石倉への照会は、支店長名で送った。
電話で先に事情を伝えると、石倉は案件番号を読み返し、明日までに回答すると言った。馬淵が、ほかにも本部で異論を唱えた人間の名があると伝えると、声が低くなった。
「俺の異動が、報復だったと決めているのか」
「そう聞いていました」
「親の近くへ戻る希望も出していた。嫌われたのも事実だが、希望したのも事実だ。人事の理由を1つにすると、間違えるぞ」
馬淵は手帳の文字を見た。正しい人間ほど飛ばされる。そう書けば、自分の7年間にも意味が生まれた。だが、他人の人生までその説明に使う権利はなかった。
「本人の事情を、確認していませんでした」
「これから確認すればいい。俺が知らないと言ったことも、鵜呑みにするな」
電話を切り、馬淵は承認者の異動理由という列を削除した。佐野は横で照会先を整理していた。
「石倉さん、何と」
「俺の話も確かめろって」
「いいですね」
彼女は短く答えた。
荻野を工場へ連れていったのは、その翌朝だった。
松井は黄色い線の外で見ろと言った。荻野は靴の先を揃え、作業を見ていた。削り終えた軸を渡されると、思ったより重かったのか、肘が下がった。
「これが、何になるんですか」
「こいつだけじゃ、何にもならん。組み込まれて、初めて仕事をする」
松井は測定器を見せた。荻野が数字を手帳へ書こうとすると、首を振った。
「その数字は、外へ出すな」
「すみません」
「聞けばいい。聞く前に、何でも書くな」
馬淵は横で聞いた。自分たちの書類には秘密保持を求めるのに、審査先の数字は見せてもらって当然だと思っていた。
「何なら、書いてもいいですか」
荻野が聞くと、松井は部品を受け取った。
「うちが、ちゃんと測ってるってことだ」
事務所で佳織は資金繰り表を広げた。材料商が前払いを求めてきたため、先月の表は使えなくなっていた。注文が増えるほど材料と残業の金が先に出る。売上の増加と口座の残高は、同じ方向へ動くとは限らない。
荻野は電卓を叩き、馬淵は入金の予定を確かめた。その間にも佳織は電話に出た。納期を聞かれ、答え、次の電話で同じことを繰り返した。
工場を出ると、荻野は爪の際の油を見ていた。
「落ちないな」
「石鹸が、空でした」
2人は少し笑った。何かを学んだ若者の場面にしたがっていたのは、馬淵のほうだった。
車の中で、荻野が聞いた。
「保証の問題がなくなったときには、売上も資金も、いまより悪くなっているかもしれません。そのときは、貸せないんですか」
馬淵は信号で止まった。
「悪くなった理由を、見なきゃいけない」
「理由が銀行でも、返す金がなければ」
「融資で解決する部分と、銀行が別に責任を取る部分を、分ける必要がある」
自分たちが傷つけた会社へ、借金を増やして助けたことにする。それは救済の形をした、別の負担かもしれなかった。
荻野は窓の外を見た。
「難しいですね」
「難しい」
簡単だとは、言わなかった。
佐野は海老原水産の娘へ、改めて電話した。
同じことを説明したくない、と相手は言った。佐野は質問を3つに絞った。保証を依頼したか。契約に立ち会った行員がいたか。署名したとされる日に、父はどこにいたか。
最初の2つは否定された。3つ目は、わからないと言った。
「わからないことは、そのままで大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょう」
娘の声が強くなった。
「わからなかったから、父は払ったんです。昔、何かに判を押したのかもしれないって。私は、してないなら、してないと言えばいいって言いました。でも、銀行の紙に書いてあるからって」
佐野はメモを取る手を止めた。
偽の記録は、相手を騙すだけではない。相手に、自分の記憶を疑わせる。忘れたのは自分かもしれない。読まずに押したのは自分かもしれない。その不安を使えば、契約した人間がいなくても、支払う人間は生まれる。
「今日のお話を記録して、確認をお願いしてもいいですか。繰り返し説明していただかなくて済むように」
「その記録も、銀行が持つんですね」
「写しをお渡しします。訂正したいところは、履歴を残して直します」
娘は、送ってくださいと言った。
通話を切っても、佐野はしばらく受話器から手を離せなかった。馬淵にすぐ話したかった。だが、娘が語ったことを、自分たちに便利な証言として使ってよいのか。佐野は録音や転送をせず、まず同意の範囲を確認するためのメモを作った。
宮坂運送の照会をまとめるうち、荻野は数字の違いを見つけた。
関連債務の一覧は保証残高3億円。別の画面では2億7000万円。差額は3000万円。返済なのか、訂正なのか、時点のずれなのか。荻野は画面の数字を何度も往復した。
馬淵は最初、更新の遅れだろうと言った。
荻野はうなずかなかった。
「どちらの数字を、社長へ説明するんですか」
馬淵は椅子を寄せた。
同じ顧客番号でも、保証の対象となる債務の範囲が違っていた。1つの画面は元本だけ、別の画面は付随する項目を含む表示だった。数字が違うこと自体は、直ちに不正ではなかった。
「よかったですね」
荻野が言った。
馬淵は画面を閉じかけた。
「待て。何が、よかったんだ」
荻野は困った顔をした。
「不正では、なかったので」
「数字の違いが説明できたのは、よかった。でも、保証をしたかどうかは、まだ、何も変わっていない」
荻野はうなずいた。
馬淵も、自分へ言っていた。疑いの一部が説明できると、全体が説明された気になる。逆に、一部に不正があれば、全部が不正に見える。
2人は、説明できた点と、未解決の点を分けた。
佐野が戻ってきて、その表を見た。
「説明できた点も、消さないでください」
「消してない」
「あとで、こちらに不利なものを隠したと言われないためだけじゃありません。何が正常だったかも、仕組みを直す材料になるので」
荻野は表の色を変えようとして、やめた。赤と緑に分ければ、悪いものとよいものに見える。確認済と未確認という文字だけを残した。
帰宅する前、荻野は兄へ電話した。
母の施設から、次の面談の日程が来ていた。いつもなら、自分の休みに合わせて返事をしていた。
「今度の面談、兄ちゃん、行ける」
兄は少し驚いた声を出した。
「いつ」
荻野が日付を言うと、予定を確認すると答えた。
「無理なら、僕が」
言いかけて、止めた。
兄は、行けると言った。
「必要な書類、送ってくれ」
荻野は携帯を持ったまま、しばらく黙った。
「何だよ」
「いや。ありがとう」
「今まで、俺に、日程を聞かなかっただろう」
荻野は、遠いからと思っていたと言った。
「遠いのは、そうだ。でも、行けないかどうかは、聞いてくれ」
電話を切り、荻野は面談の案内を撮った。母の情報が写りすぎないよう、必要な部分だけを送った。仕事で覚えたことを、家でも使えた。
自分が全部知っていることと、自分が全部しなければならないことは、同じではなかった。
海老原水産の娘から、佐野へ折返しが来たのは、閉店後だった。
電話を受けた佐野は、馬淵を呼ばなかった。相手は、話すなら佐野がいいと言っていた。理由は聞かなかった。希望を受け取るのに、理由まで提出してもらう必要はない。
「父のことを、聞きたいんですか」
「保証の契約について、確認したいことがあります。お父さんの病気のことを、詳しく伺うつもりはありません」
「だったら、会社の資料だけ、見てください。父には、いま、会わないで」
佐野は約束した。娘は、病院から帰る途中だと言った。電車の音がしていた。
「私、会社のこと、何も知らなかったんです」
声が少し小さくなった。
「父が、仕事は自分で何とかするって。家へ帰ると、魚の匂いがするから、嫌だった。だから、手伝わなかった。いまになって、帳面を見ても、何もわからない」
佐野は、わからないことを整理するところから始めましょう、と言いかけた。相談窓口の言葉に聞こえると思い、止めた。
「資料を見て、こちらでわかることを、先にお伝えします。何が足りないかも。そのうえで、必要なことだけ、伺います」
娘は、そうしてくださいと言った。
資料の受渡しは、支店で行うことになった。工場へ行けば、近所の人に見られる。自宅へ来られるのも困る。銀行へ行くのは嫌だが、それがいちばん、余計な説明をせずに済むという。
佐野は翌日の面談を入れた。馬淵へ伝えると、彼は自分も同席すると言った。
「今回は、私が受けます」
「俺が、最初に訪ねた」
「だから、相手が、別の人を希望しているのかもしれません」
馬淵は黙った。
佐野は、あなたが悪いと言っているのではない、と付け足さなかった。悪いかどうかを先に決めると、相手の希望が、誰かを裁く材料になってしまう。
「受け取った資料は、必要な範囲で共有します」
馬淵は、頼むと言った。
娘は、紙袋を2つ持って来た。
1つは契約書、もう1つは、父が自宅に置いていた封筒だった。封筒の中には、会社の通帳の写しと、個人の定期預金の解約書類があった。
「これ、返してもらえるんですか」
佐野は、すぐには答えられないと伝えた。
娘は唇を結んだ。予想していた答えだったのだろう。それでも、聞かずにはいられなかった。
「父は、保証したなら、払わなきゃいけないと言ったんです。でも、誰の保証か聞くと、説明しない。自分がわからないことを、私に知られたくなかったんだと思います」
佐野は書類を並べた。契約の相手、日付、金額。娘は父の署名がある場所を指した。
「これ、父の字に見えます」
佐野は顔を上げた。
「でも、書いたところを見たわけではありません。似ているって、言っていいのかも、わからない」
「見えたとおりに、伺います。署名が似ていることと、契約の内容に同意したことは、別に確かめます」
娘は少し息を吐いた。
父の字に見えると言えば、銀行に有利になる。違うと言えば、父の字を忘れた娘になる。どちらを選んでも、父を裏切る気がしていたのかもしれない。
佐野は、そう推測したことを、面談記録には書かなかった。相手が言ったことと、自分が感じたことを、混ぜなかった。
書類の中に、父が書いた手紙があった。
宛名は銀行の担当者だった。保証の説明をもう1度してほしい、会社の運転資金が必要なので、先にそこを相談したい。丁寧な字だった。最後に、いつもお世話になっております、とある。
送ったかどうかは、わからなかった。封筒には切手がなかった。
「父、こういう文章ばかり、書いていました」
娘は言った。
「怒ってるのに、お世話になってますって。私なら、書けない」
佐野は、机の上の紙を見た。銀行へ来る文章は、たいてい丁寧だった。丁寧な文章の中に、どれだけの怒りや恐れが入っているかを、読む側は簡単に見落とす。
「この手紙も、写しを取っていいですか」
「原本は、持って帰ります」
「はい」
佐野は必要な範囲を説明し、同意を得た。複写機の前で、紙の角が折れないように押さえた。手紙は証拠になるかもしれない。だが、娘が持って帰りたいのは、証拠だけではなかった。
面談の終わりに、娘は、父の会社を戻してほしいわけではないと言った。
「戻っても、父は、もう働けない。私も、継ぎません。だから、会社を再開できるようにする話だけで、終わらせないでください」
佐野はうなずいた。
再生という言葉で、すべての人を同じ方向へ向かせることはできない。終えるために必要な金と説明もある。
娘が帰ったあと、馬淵は面談記録を読んだ。
署名が本人のものに見えるという発言で、目が止まった。
「柏原さんの件とは、違うかもしれない」
「違う部分は、あります」
「だったら、33社をまとめて」
「まとめて調べることと、同じ結論にすることは違います」
佐野は手紙の写しを出した。
馬淵は読んだ。父の字を思い出した。丸い字だった。銀行へ出す文章だけ、角張っていた。
「返せるかどうか、聞かれたんだな」
「はい。まだ、答えられないと伝えました」
馬淵は、自分なら、必ず調べますと言っただろうと思った。言ったところで、相手が知りたいことの答えにはならない。
「次の連絡日は」
「3日後です。結論がなくても、何を確認できたか、伝えます」
馬淵はその日付を手帳へ書いた。
その夜、娘は病室へ寄った。
父は、銀行へ行ったのかと聞いた。娘は、行ったと答えた。
「余計なことは、言うなよ」
「余計なことって、何」
父は窓を見た。
娘は、怒りそうになった。父を助けようとしているのに、まだ、自分を子ども扱いする。だが、父が恐れているのは、自分の知らないところで話が進むことかもしれなかった。
銀行から説明されなかった人が、娘にも説明しない。その輪の中へ、自分まで入る必要はない。
「今日は、資料を渡した。何を渡したか、ここに書いてある。病気のことは、話してない。会社を継がないことは、話した」
父は娘を見た。
「継がないのか」
「継がない」
初めて、はっきり言った。
父は長く黙った。娘は謝らなかった。継がないことと、父を見捨てることは違う。その違いを、これから何度も説明しなければならないのだろう。
「そうか」
父は言った。
娘は、手紙を入れた封筒を枕元へ置いた。
「これは、持って帰ってきた」
父は封筒へ手を伸ばしかけ、止めた。
「捨てていい」
「まだ、捨てない」
娘は椅子に座った。テレビでは、知らない町の市場が映っていた。父は画面の魚を見て、あれは、まだ小さいと言った。
娘は、その魚の名前を聞いた。会社を継ぐためではなく、父が何を見ているか、知りたかった。
その夜、多賀谷に呼ばれた。
「調査をやめろ、と本部は言っている」
「支店長は、どうお考えですか」
「私の考えを聞けば、従うのか」
馬淵は答えなかった。
多賀谷は窓の外を見た。隣の駐車場で、白線を引き直していた。支店の統廃合候補という話が出てから、建物の補修は何も進まないのに、駐車場の線だけは予定どおり白くなる。
「ここがなくなれば、取引先は遠い支店へ行く。行員も、半分は残れない。私は、この支店を守る仕事をしている」
「そのために、お客様を切るんですか」
多賀谷の顔が動いた。
「そうやって、答えが1つしかない聞き方をするな」
馬淵は唇を噛んだ。
「佐野と荻野を、お前の正しさの担保にするな。あの2人にも、生活がある」
「わかっています」
「わかっていない。お前は、自分が損をする覚悟があれば、他人を巻き込んでもいいと思っている」
馬淵は初めて、支店長の顔をまっすぐ見た。
反論は出てこなかった。
通用口には雨が降っていた。
佐野が傘を開いた。馬淵は一歩下がった。
「ここからは、俺がやる」
「支店長に言われましたか」
「お前たちの生活まで、責任を持てない」
「持てると思われても困ります」
佐野は傘を自分の肩へ戻した。
「私は、自分で決めます。ただ、やることと、やらないことは決めたい。権限のないところへ入らない。個人のメールに送らない。確認できていないことを、断定しない」
「それで、間に合うか」
「間に合わせるために何でもやって、証拠ごと潰されたら、もっと間に合いません」
荻野が遅れて出てきた。濡れた階段で足を止める。
「僕も、やります。でも、母のことで、夜に帰らなきゃいけない日があります」
初めて聞く話だった。
「わかった」
馬淵は言った。
「言ってくれて、ありがとう」
荻野は少しだけ肩を下げた。
3人で1本の傘に入ることはできなかった。佐野は駅へ向かい、荻野は自転車置き場へ走った。馬淵は自分の傘を取りに戻った。
同じことをする人間が、同じ場所へ帰るわけではない。その当たり前を、馬淵はようやく覚え始めていた。
帰宅すると、台所の換気扇が止まっていた。
馬淵は修理を頼むための紙を冷蔵庫から剥がした。2週間前に管理会社の番号を書いたまま、電話をしていなかった。仕事の問題なら相手の都合を聞き、必要な書類を揃え、期限を決める。自分の部屋のことになると、窓を開ければいいと思ってしまう。
流しに朝の茶碗が残っていた。洗ってから、冷凍庫の米を温めた。電子レンジの残り時間を見ながら、母へ電話した。
「珍しいね」
「用がないと、かけないから」
「用があるの」
「ない」
母は少し笑った。
工場のことを聞きたかった。25年前、何があったのか。だが、馬淵は問いを言葉にできなかった。
「父さん、工場をやめたあと、銀行のこと、何か言ってた」
「何かって」
「恨んでたとか」
母はすぐには答えなかった。受話器の向こうで、テレビの音が小さくなった。
「私に聞いても、お父さんの中まではわからないよ」
「そうか」
「私は、恨んだよ」
馬淵は茶碗を置いた。
「あなたが銀行へ入るって言ったときも、どうしてって思った」
「反対しなかった」
「反対したら、やめたの」
馬淵は答えられなかった。
「ほら。あなたが決めたことでしょう」
母の声は責めていなかった。だからこそ、言葉が残った。
銀行へ入れば、父が説明しなかったものを説明できると思っていた。金を貸す側になれば、金を借りる人間の困り方を変えられる。入行の面接では、地域産業の発展に寄与したい、と答えた。嘘ではなかった。だが、その言葉で、自分の小さな復讐心まで包んでいた。
「いま、困ってる会社がある」
「そう」
「助けたいんだけど、何をしていいか、わからなくなる」
母は言った。
「その人に聞いたら」
馬淵は何も答えられなかった。
「お父さんを助ける話じゃないでしょう。いま困ってる人に、どうしてほしいか聞いてごらん」
電子レンジが鳴った。馬淵は立ち上がらなかった。
「聞くよ」
「うん。ご飯は食べなさい」
温めた米は端が固くなっていた。窓を開けると、潮と排気の混ざった夜気が入ってきた。食べる気になれず、それでも馬淵は箸を取った。
管理会社への連絡を、翌朝の最初の用事に書き込んだ。家の小さな不調を放置してまで他人の暮らしを救う、という考えの中に、奇妙な自惚れが混じっている気がした。




