第1章 欠けた輪郭
父は旋盤を止めても、すぐには顔を上げなかった。
刃が金属から離れ、床に落ちた切り粉が最後の音を立てる。それを聞き届けてから、父はやっと振り向いた。馬淵敬一は大人になっても、その短い沈黙を忘れられなかった。誰かに返事を迫られるたび、先に答えてはいけないような気がするのだった。
2026年9月7日、午前8時12分。東栄銀行港南支店の融資課で、馬淵は引き出しの奥から認印を取り出した。左上がわずかに欠けている。入行の日、真新しい机の前で落とした傷だ。
欠けた部分には朱肉が乗らず、紙には細い白い切れ目が残る。39歳になっても、馬淵は印鑑を買い替えていなかった。傷に愛着があるのか、捨てる理由を思いつけないだけなのか、自分でも決めかねていた。
「それ、買い替えたらどうですか」
佐野菜摘がコーヒーの紙カップを机に置いた。蓋には油性ペンで「無糖」とある。
「まだ使える」
「物持ちの話じゃなくて。朱肉、指につきますよ」
馬淵の親指には朱肉がついていた。佐野はそれを確認すると、もう昨日の融資残高を画面に呼び出している。32歳の彼女には、相手の答えを待ち続けない潔さがあった。頼もしい、と馬淵は思う。その速さに、ときどき取り残される。
隣の島で書類が崩れた。荻野良太が椅子を蹴るように立ち、床に散った稟議書の表紙を拾い集めている。
「すみません」
「謝るより、順番を戻そう」
馬淵も膝をついた。荻野の手が止まる。
「それ、僕のミスじゃないです」
荻野の声は、紙が擦れる音より小さかった。
馬淵は顔を上げた。荻野はすぐ目を伏せた。
「すみません。そういう意味じゃ」
「いや。誰のミスかは、あとで確かめよう」
馬淵は、庇うつもりで「失敗した部下」を作ってしまったのだと気づいた。27歳の荻野は書類を揃えながら、何も言わない。馬淵も言葉を足せず、角を揃える指先だけがぎこちなくなった。
9時、シャッターが上がった。ロビーに潮の匂いが流れ込む。この町では、晴れた日にも建物の奥まで海が入ってくる。
柏原佳織が来たのは、開店から6分後だった。
作業着の胸ポケットには青いボールペンが2本。いつもは窓口の行員に会釈して番号札を取る人が、その朝は機械の前で立ち止まりもせず、まっすぐ馬淵を探した。
「これ、どういうことですか」
応接室で差し出された封筒には、東栄銀行本部債権管理部の名があった。
封書には、既存融資2億4000万円の一括返済請求と新規融資実行の停止が記されていた。別紙には保証債務の履行請求予告。回答期限は9月18日。見慣れた銀行の書式が、初めて外国語のように思えた。
「うちは、返済を遅らせたことがありましたか」
「ありません」
「じゃあ、これは何ですか」
佳織の声は低いままだった。怒鳴られれば頭を下げ、相手が言い終えるのを待つことができる。だが、理由を尋ねられたときに馬淵が差し出せるものは、まだ何もなかった。
「先週の設備資金の件は」
「支店の審査は終わっています。本部の承認待ちです」
「先週は、大丈夫だとおっしゃいました」
馬淵は確かに言った。新しい旋盤の見積書を開き、来年の受注が続けば返済は可能でしょう、と。支店の判断と本部の決裁との間にある距離を、言葉で埋めてしまった。
「すみません。私の説明が、先走りました」
「謝ってほしいんじゃありません。機械は発注しました。38人分の給料が、今月も要るんです」
机に置かれた佳織の手には、爪の際に落ちない黒い筋があった。父の指にもあった汚れだ。馬淵は、彼女の目ではなくその筋を見ている自分に気づいた。
「まず、根拠を確認させてください」
「今日中にお願いします」
必ず助けます。その言葉が喉まで出た。だが佳織の手を見て、午後3時までに確認して連絡します、と言い直した。
約束の言い直しだけで、目の前の38人の給料が用意できるわけではなかった。
審査システムTOSSの画面では、柏原製作所は破綻懸念先になっていた。
先月の売上、手元資金、受注残。どの欄を見直しても、破綻懸念先という表示にはつながらない。佐野は隣で、項目を1つずつ照合していた。
「通常の借入だけなら、返済余力はあります。何か、別の債務を拾ってる」
馬淵は関連債務のタブを開いた。
保証債務残高、8億円。
被保証先、株式会社ネクサス・ロジテック。
延滞日数の欄だけが、警告色の赤だった。
「この会社、知ってますか」
「知らない」
「柏原さんにも、確認します」
佐野が電話を取った。短い会話のあと、受話器を置いた。
「知らないそうです。保証もしていない」
馬淵は承認経路を開いた。権限がない、という表示が出る。
7年間、毎月の数字を追ってきた会社の信用が、会ったこともない誰かの操作で変わる。その経路を調べる権限だけが、担当者である馬淵には与えられていなかった。
多賀谷哲郎支店長は、報告を聞くと時計を見た。
「本部案件だろう。照会を出せ」
「出します。回答までの間、回収手続きを止めていただけませんか」
「私には止める権限がない」
「止めるよう、上申していただきたいんです」
54歳の支店長は椅子に深くもたれた。机には大学の案内冊子が開かれている。伏せた電卓が、風でめくれないようにその端を押さえていた。
「馬淵。お前が熱心なのは知っている。だが、私にできないことを、私の良心の問題にするな」
馬淵は口を閉じた。
言い返せなかった。支店長が正しいからではない。権限のない男に、良心さえあれば何でもできると迫ったからだった。
「では、止められる部署を教えてください」
「債権管理部だ。照会は私の名前で出せ」
多賀谷は大学の冊子を引き出しへしまった。
午後2時40分、馬淵は柏原製作所へ行った。
工場は稼働していた。切削油の匂いが門の外まで漂い、金属を削る高い音が途切れず続く。63歳の松井は若い工員の手元を見ていた。馬淵に気づくと顎を上げたが、機械から目は離さなかった。
柏原は事務所の窓を閉めた。音が少し遠くなった。
「その8億円を、うちが返すことになってるんですか」
「銀行の記録上は、そうなっています。ただ、契約の確認が必要です」
「銀行の画面に出たら、それが本当になるんですか」
「そうではありません」
「でも、その画面ひとつで、うちの融資が止まった」
馬淵は返事を探した。どれも銀行の内側でしか通じない言葉だった。
柏原は壁の写真を見た。先代の柏原善治が、工員たちの真ん中で椅子に座っている。父親が亡くなって5年。佳織が社長になってから、写真は増えていない。
「父のときから、東栄さんには世話になったんです。だから、ほかの銀行から声をかけられても、借入はまとめてきた。それが間違いでしたか」
「いま、それを柏原さんの判断の問題にするのは違います」
「じゃあ、誰の問題なんですか」
馬淵は窓の向こうの松井を見た。工員の手から刃物を受け取り、刃先を光にかざしている。
「銀行の問題です」
言ってから、主語が大きすぎると思った。
「私も、その銀行の人間です」
柏原はうなずかなかった。
応接室の扉が閉まると、融資課の音が戻ってきた。
プリンターが紙を吐き、電話が鳴り、誰かが、少々お待ちくださいと言った。柏原の前では止まっていた時間が、廊下のこちら側では何事もなく進んでいた。
馬淵は端末へ戻り、前週の面談記録を開いた。
設備資金について前向きに検討。業況堅調。先方の投資意欲高い。
自分が書いた文章だった。佳織が何度も返済期間を確かめたことは、書いていなかった。父の代の機械を残すか、新しいものへ替えるか迷っていたことも。書類の中の彼女は、迷わず投資する社長になっていた。
馬淵は追記の欄を開いた。過去の記録を上書きするのではなく、今日わかったことを今日の日付で足した。
先方は融資実行が確実との認識を持った可能性あり。担当者の説明内容を要確認。
担当者とは、自分だった。自分の名前を書かずに済む言葉を、自然に選んでいた。
文章を消し、馬淵の説明によって、と書き直した。
「そこまで、書くんですか」
隣で荻野が言った。
「書いておかないと、次の担当者が、社長が勝手に思い込んだと思うかもしれない」
「自分に不利でも」
馬淵は指を止めた。
「有利か不利かは、あとで決まる。いまは、何があったかだ」
言いながら、自分の心臓が少し速くなった。自分の失敗を記録することを、部下へ見せるための演技にしたくなかった。保存を押し、荻野がいなくなってから、もう1度読んだ。
昼前、支店のロビーで客が声を上げた。
振込の名義が違うという。窓口の行員は、振込先へ確認が必要だと説明していた。客は、ここで直せないのかと繰り返した。
馬淵は席を立ちかけた。多賀谷が先にロビーへ出た。
支店長は、すぐには謝らなかった。何を依頼し、何を入力し、どこで違いが生じたかを聞いた。客の持ってきた紙と、窓口の記録を並べた。
客が書いた名義の読みが、1字違っていた。
「こちらの記載と、口座の登録が違っています。訂正の手続きが必要です」
多賀谷は言った。
「私が間違えたってことか」
「どなたが悪いかより、まず、届くようにする手続きをご説明します」
客はしばらく黙り、椅子に座った。
馬淵はその様子を見ていた。支店長の仕事を、上から来た指示を下へ流すことだと思う日があった。だが、目の前の相手の面子を潰さず、事実を曖昧にしないための技術を、多賀谷は持っていた。
ロビーから戻ると、多賀谷は馬淵の机へ来た。
「柏原さんへの説明、何を残した」
馬淵は面談記録を見せた。
支店長は最後まで読み、1か所を指した。
「可能性あり、ではなく、本人がそう言ったと書け。お前の推測と、相手の発言を分けろ」
馬淵は直した。
「俺が、悪かったということですか」
「それは、調べる。だが、相手が何を言ったかは、いま残せる」
多賀谷は自分の席へ戻った。
馬淵は、支店長の言葉を、自分に不利な証拠を作れという意味で受け取りかけた。そう受け取れば、相手を敵にできる。敵にすれば、自分の説明を見直さずに済む。
保存を押した。画面の右下に、更新時刻が出た。
佳織が社長になったのは、父の葬儀から19日後だった。
取締役会といっても、母と、叔父と、佳織の3人だった。叔父は工場の仕事をしていなかったが、株を持っていた。会社を売る話を、最初に出したのも叔父だった。
「お前が苦労することはない」
その言葉を、佳織は、自分にはできないという意味で聞いた。
「やります」
言ったのは、事業計画を作る前だった。父の机の中に何があるかも、知らなかった。
母は、やるなら、報酬を取れと言った。
「最初は、いらない」
「いらないと言う人が上にいると、下も、いらないと言わなきゃいけなくなる」
佳織はそのとき、母が金に細かいと思った。いまは、その言葉を、従業員へ説明するたびに思い出す。
父の死後、最初に来た銀行員は馬淵だった。まだ34歳で、いまより声が硬かった。葬儀の香典とは別に、返済予定表を持ってきた。
佳織は、こんなときにと思った。
馬淵は、こんなときだから、支払いの日付だけ先に確認したいと言った。父の口座から自動で落ちていたもの、会社の口座から落ちるもの、母が知らない保証の有無。1つずつ確認した。
そのときは、ありがたかった。
悲しむ時間を奪われたのではなく、悲しんでいる間にも来る日付を、誰かが一緒に見てくれた。
だから、今回も、馬淵なら何とかしてくれると思った。
佳織は工場の事務所で、その記憶を手帳へ書いた。銀行へ提出するためではない。なぜ自分が信じたのかを、自分の中で、愚かだったの一言にしないためだった。
信じる理由はあった。信じた結果、傷ついた。その両方が、事実だった。
夕方、柏原製作所へ小包が届いた。
新しい旋盤の販売会社から、設置前の確認資料が入っていた。床の強度、搬入口の幅、電源。佳織は封を開け、図面を広げた。
工場の一角を空けるため、松井はすでに古い棚を移していた。床には、棚の脚があった場所だけ、色の違う四角が残っていた。
「ここへ、入る予定だったんですね」
若い工員が言った。
「予定です。まだ、取り消したわけではありません」
佳織は答えた。
工員は図面を覗き込み、自分が教習を受ける予定だった機械を指した。
「これ、触ってみたかったんです」
佳織は、触れるよ、と言いかけた。言わなかった。
「そうですね」
それだけでは冷たく聞こえた。だが、希望を約束に変えて渡すことが、いまはできなかった。
工員が去ると、松井が図面の端を押さえた。
「社長、俺は、これに替えるの、最初は嫌だった」
「知っています」
「知ってたか」
「毎日、言っていました」
松井は少し笑った。
「俺のやり方が、いらなくなると思った。だが、教える相手がいるなら、まだ仕事はある」
佳織は図面を見た。設備投資の数字の中に、松井が何を失うと思っていたかは、入っていなかった。
「新しい機械が来ても、松井さんの仕事は、なくなりません」
言ってから、言い切りすぎたと思った。仕事の形は変わる。変わらないと約束すれば、また別の嘘になる。
「なくならないように、ではなく、どう変えるか、一緒に決めたいです」
松井はうなずいた。
「そっちのほうが、いい」
2人は図面を畳んだ。まだ来ない機械のために、空いた場所だけが残った。
佳織が銀行へ来る前の週、馬淵は工場で昼食を取っていた。
事務所の机には、旋盤の見積書と、近所の弁当屋の注文票が並んでいた。佳織は電話をしながら、注文票の数字を直した。工員が1人、子どもの用事で早く帰るという。
「社長の分は」
馬淵が聞くと、佳織は、残っているものを食べると言った。
冷蔵庫から出した容器には、昨日の煮物が入っていた。温める間、佳織は見積書を馬淵の方へ押した。
「これを買えば、何人減らせますかと、別の銀行で聞かれました」
「人を減らすための投資ではないでしょう」
「そう説明しました。でも、減らさないなら、どうして利益が増えるんですかって」
馬淵は試算表を開いた。加工時間の短縮、不良率の低下、外注費の削減。数字にできる理由はいくつもあった。佳織は、どれも、計画どおりになるとは限らないと言った。
「松井さんは、教える時間が要ると言っています。最初は、いまより遅くなるかもしれない」
馬淵は、その期間を資金計画へ入れましょうと答えた。そう言った自分を、覚えていた。相手の心配を計画の中へ置くことができる。自分は、そういう銀行員になったのだと思った。
弁当が届くと、工員が事務所へ顔を出した。佳織は人数を確かめ、1つずつ渡した。最後の1つを馬淵へ差し出した。
「僕は、頼んでいません」
「私の分です。私は、これがあるので」
電子レンジが鳴った。
馬淵は弁当代を払った。佳織は受け取り、領収書を切った。小さな金でも、会社と個人を混ぜない。父親の代からの付き合いで、曖昧になりやすいことを、彼女は曖昧にしなかった。
食べ終えると、佳織は機械の前へ案内した。松井が、削り終えた部品を布で拭いていた。指で触れただけで、仕上がりが違うと言う。
「数字では、同じなんですけどね」
松井は測定器を見せた。
「同じなら、いいんじゃないですか」
馬淵が言うと、松井は首を振った。
「測る場所が違えば、違う数字になる。同じ場所で測って、同じ条件で比べないと」
馬淵は、わかったようにうなずいた。
あとになって思い返せば、その言葉は、自分の仕事にも当てはまった。だが、その場では、職人の細かさを示す話として聞いた。自分が教わっているとは思わなかった。
支店へ戻る途中、馬淵は車を止めた。
道路の向こうには、かつて父が部品を納めていた会社の建物が残っていた。看板だけが替わった。門は父の軽トラックがミラーを畳んで通り抜けた頃と同じ幅で、錆の浮いた蝶番まで昔のままだった。
馬淵は子どもの頃、会社が消えるとは建物が取り壊されることだと思っていた。現実には建物が残り、看板が替わり、知らない誰かが出入りする。父の働く場所だけが、そこから抜き取られた。
携帯が鳴った。佐野からだった。
「設備資金の稟議、返済開始月の確認です」
馬淵は手帳を開いた。車の窓を閉め、佳織と話した内容を伝えた。
「試運転と習熟の期間を、別に見たい。最初から、フル稼働の数字にしないでくれ」
「了解です。先方の希望と、こちらの見立ては分けます」
電話を切り、馬淵は門をもう1度見た。
父の工場のためには、もう何もできない。その代わりに、佳織の工場を守る。そう考えると、仕事の意味がはっきりした。
そのはっきりしすぎる意味を、疑わなかった。
佳織が母へ設備投資の相談をしたのは、まだ母が健在だった頃だ。今回より小さな設備だったが、見積書を自宅へ持ち帰った夜を、いまも覚えている。
母は食卓で、古い写真を整理していた。父の写真を集めているのではない。自治会の冊子に使う写真を探しているという。工場の旅行、町内の祭り、誰のものかわからない海岸。
「これ、いつだろう」
母が1枚を出した。父が、見知らぬ男と並んでいた。
佳織は裏を見た。日付はなかった。父の字で、納品後、とだけある。
「仕事の人じゃない」
「そうだろうけど、名前が出てこない」
母は写真を別の箱へ入れた。わからないものを、捨てる箱ではなかった。
佳織は見積書を広げた。
「機械を、買おうと思う」
母は金額を見た。驚いた顔はしなかった。長く工場の帳面をつけていた人だった。
「払えるの」
「銀行に、相談してる」
「相談してることと、払えることは違うよ」
佳織は、わかっていると答えた。わかっていると言う声が、少し強くなった。
母は写真を箱へ戻した。
「反対してるんじゃない。私に、わかるように話して」
佳織は椅子を引き、資金計画を出した。毎月の返済額、いまの機械で続けた場合の修理費、受注の見込み。母は、売上ではなく、入金の日を聞いた。
「仕事が増えても、お金が入る前に、材料代は出るでしょう」
佳織は紙へ印をつけた。
母を安心させるための説明を始めたつもりだった。話すうちに、自分が見ていなかったところが出てきた。
「お父さんは、こういうとき、どうしてた」
佳織が聞くと、母は少し笑った。
「私に、見せなかった」
「じゃあ、どうやって」
「あとで、通帳を見て、わかった。だから、よく喧嘩した」
佳織は写真の箱を見た。自分の中の父は、何でも1人で決め、従業員を守った社長だった。母の中には、別の父がいた。
「お父さんと同じにしなくていい」
母は言った。
「違うことをしたから、裏切ったことにはならない」
佳織は資金計画を畳まなかった。母が読める向きに置いたまま、茶を淹れた。
翌日、馬淵は融資の相談を受けた別の会社へ行った。
社長は、銀行が貸すと言ったら投資する、と繰り返した。何に投資するかを聞くと、まだ決めていないと言う。補助金の話を聞いたので、使えるものがあれば使いたい。
馬淵は、資金があることと、投資が必要なことは別ですと説明した。社長は、貸したくないのかと聞いた。
「そうではありません。何を変えたいかを、先に伺いたいんです」
自分の声が、よく通った。相手に必要な問いを返せていると思った。
支店へ戻ると、佳織から、機械の発注期限についてメールが来ていた。馬淵は、前向きに進めていますと返した。正式な承認ではないという注意書きも添えた。
注意書きがあれば、相手は区別できる。そう思っていた。
佳織はメールを読み、税理士へ進捗を伝えた。正式な承認ではないという行は、口にしなかった。相手を安心させたかった。自分も、安心したかった。誰も嘘をつくつもりのないまま、決まっていない話が、決まった話に近づいていった。
その日の終業後、佐野は稟議の添付資料を点検した。設備の導入効果、資金使途、返済原資。保証の欄へ移ったとき、見慣れない表示が一瞬出て、通常の画面へ戻った。
佐野は操作をやり直した。同じ表示は出なかった。
通信が遅かったのだろうと思い、確認済の欄へ印をつけた。あとで、その一瞬を思い出すことになる。だが、思い出したということと、何が表示されたかを確かめられることは、違っていた。
閉店後のロビーには、掃除機の音がしていた。窓の外で、工場から帰る人が信号を待っていた。銀行の中の未確定なものは、まだ、誰の生活も止めていないように見えた。
馬淵は、その週の記憶から、今日の応接室へ意識を戻した。
柏原が帰ったあと、佐野は応接室の机を拭いた。使われなかった茶が2つ、盆の上に残っていた。馬淵は湯呑みを片づけようとして、どちらに手を伸ばせばいいかわからなくなった。
「今日、何を約束しましたか」
佐野が聞いた。
「午後3時までに、連絡すること」
「明日からも、決めましょう。わからないままでも、連絡する時間を」
「答えがないのに、電話するのか」
「答えがないことを、待っている人にだけ背負わせないためです」
馬淵は机の縁を見た。自分がわかるまで連絡しない。そのほうが親切だと思っていたことが、何度もあった。相手はその間、電話が鳴るたびに手を止めていたのかもしれなかった。
佐野は湯呑みを持ち、給湯室へ行った。馬淵は電話を取った。柏原製作所ではなく、保証の登録を担当する本部の部署へかけた。
最初の相手は、審査担当へ聞いてくれと言った。審査担当は、債権管理へ回した。債権管理の行員は、契約原本を確認してから答えると言った。
「原本は、どこにありますか」
「集中保管です」
「保管番号を、教えてください」
「いま、画面が開けないんです」
電話の向こうで、別の電話が鳴っていた。相手も仕事を抱えている。それはわかった。だからといって、いまの問いを消していい理由にはならなかった。
「折返しを、何時にいただけますか」
相手は名前を名乗り直し、午後4時と答えた。
馬淵はその名を手帳に書いた。責めるためではない。次に電話したとき、最初から話し直さなくて済むようにしたかった。
その日の昼休み、荻野は裏の弁当屋で焼き魚を2つ買った。1つを馬淵の机に置いた。
「頼んでないぞ」
「佐野さんに、食べていないから買ってきてって」
馬淵は財布を出した。荻野は釣銭まで用意していた。
2人は会議室で弁当を開いた。荻野は魚の骨をきれいに外してから食べた。馬淵は先に米を半分食べた。
「お前、いつも、そんなに丁寧に食べるのか」
「母が、骨を残すと怒るので」
「大人になってもか」
「いまは、怒りません」
荻野はそれだけ言って、箸を動かした。馬淵は聞き返さなかった。聞き返さないことが、相手への配慮だと思った。あとになって、聞いてもよかったのかもしれないと思った。
「柏原さんの会社、見たことあるか」
「書類でしか」
「今度、一緒に行こう。数字が何でできているか、見ておくといい」
荻野はうなずいた。
「でも、数字だけでわかることも、ありますよね」
馬淵は箸を止めた。
「あります。人に会うと、断りにくくなることも」
荻野は急いで続けた。
「僕は、まだ、そういうのが怖くて」
「そうだな」
馬淵は魚を裏返した。
「会ったから貸す、じゃない。会わなかったから、困っていないことにもしない。その両方が、必要なんだと思う」
自分で言いながら、できていないことばかりだった。
荻野は弁当の蓋を畳んだ。
「馬淵さんでも、わからないこと、あるんですね」
「たくさんある」
「そう言ってもらったほうが、質問しやすいです」
会議室の時計が午後1時を示した。2人は急いで片づけた。馬淵は弁当屋の袋を捨てず、手帳の下に敷いた。机に残った油の染みを見て、佐野が何も言わずに布巾を持ってきた。
柏原は銀行を出てから、工場へまっすぐ戻らなかった。
港の手前の駐車場へ車を入れ、エンジンを止めた。車内に熱がこもった。窓を開けると、荷を積むトラックの警告音が聞こえた。
父なら、どうしただろう。
考えるたびに、父は自分よりうまくやった人になった。実際には、父も何度も支払いを遅らせ、母に怒鳴られ、工員に頭を下げていた。子どもの頃の佳織は、そういう父を見ていた。社長になってからの佳織は、その記憶を都合よく隠した。
父にできたのだから、自分にもできる。その言葉で会社を継いだ。だが父ができたことの中には、娘にできないことも、娘がやりたくないこともあった。
たとえば、取引先の酒席へ毎晩出ること。たとえば、従業員の結婚相手の家まで訪ねること。たとえば、銀行の担当者を名前で呼び、頼むよ、と肩を叩くこと。
佳織は、そういう近さを経営から減らしてきた。賃金表を作り、残業の申請を決め、社長が気に入った人間だけを得させないようにした。父の代からいる工員に、冷たいと言われたこともあった。
それでも、銀行だけは、父の付き合いをそのまま引き継いだ。
東栄さんは、うちを知っている。その一言で、他行の提案を断った。知っていることと、守ってくれることを、同じにしていた。
携帯が鳴った。松井だった。
「材料屋が来てる。来月の発注、どうする」
「戻ります」
佳織はエンジンをかけた。
戻る前に、手帳へ銀行への質問を書いた。保証契約の原本。署名したとされる日。誰が立ち会ったのか。印鑑証明書は、どこから出たのか。
質問は、父の代わりを探すより、少し役に立った。
工場の事務所では、材料商の担当者が椅子の端に座っていた。
「噂を聞きまして」
佳織は鞄を置いた。
「どんな噂ですか」
「銀行さんが、融資を止めたと」
「止まっています。ただ、うちが認めていない保証の記録が原因です。確認を求めています」
担当者は膝の上で指を組んだ。
「こちらも、与信の枠を見直すように言われていまして」
佳織は、わかります、と言いかけた。わかると言えば、相手は帰りやすくなる。だが、わかることと、受け入れられることは違った。
「来月分を、全部現金に変えるということですか」
「できれば」
「全部は無理です。必要な材料を絞ります。発注の半分を前払い、残りを納入後にする相談はできますか」
担当者は会社へ電話した。佳織は、その間に必要な材料を赤で囲んだ。受注があるから、作れる。作れるから、返せる。その輪が、銀行の1つの記録で、逆向きに回り始めていた。
電話を終えた担当者は、上司へ持ち帰ると言った。
「回答は、明日の午前中にください」
佳織は言った。
馬淵へ求めたのと同じように、日付を決めた。相手を信用するためではない。自分が次の手を選ぶためだった。
夜、馬淵は父の古い工具箱を開けた。
母が引越しのときに持ってきたものだった。使い方のわからないゲージと、短くなった鉛筆、折れた定規が入っていた。底に、銀行の封筒が1枚あった。中身はなかった。
父は書類を捨てるのが下手だった。電気料金の領収書まで缶に入れていた。それなのに、工場を閉じたときの銀行の書類は、ほとんど残っていない。
残さなかったのか。残せなかったのか。母が処分したのか。
馬淵は封筒を戻した。いま確かめるべきは、父の過去ではない。そう自分に言ったが、柏原製作所の数字を見たとき、すでに父を重ねていた。
父の工場には6台の旋盤があった。倒産のあと、機械が運び出される日、父は家にいた。見に行かないのかと聞くと、もう俺のものじゃないと言った。
その声を、馬淵は諦めだと思っていた。
いまは、別の意味も考えた。自分のものではなくなった機械を、持ち主のように見送ることが、父にはできなかったのかもしれない。あるいは、ただ見たくなかっただけかもしれない。
父の気持ちは、息子の成長に合わせて都合よく変わる。変えているのは自分だと、馬淵は気づいた。
工具箱の蓋を閉め、柏原製作所の資料を開いた。数字の横に、確認済と未確認の欄を作った。父の記憶を、そのどちらにも入れないようにした。
翌朝、契約書の写しが届いた。
柏原が封筒を持ってきた。実印と印鑑証明書も、別の袋に入っていた。
「この印、違います」
保証人欄に押された印影は、たしかに似ていた。だが原の字の最後の払いが、実物より長い。
「写しだけでは断定できません。原本を確認します」
「似てるから、うちの責任になるんですか」
「なりません。ただ、違うことを、相手にも確認させる必要があります」
佐野が拡大鏡を持ってきた。柏原は何も言わず、自分の実印を紙に押した。
その手つきは乱暴ではなかった。押し終えてから印面を拭き、ケースへ戻した。使い慣れた道具を片づける所作だった。
馬淵は次の紙をめくった。
融資稟議決裁書の出力帳票。
最終承認者の欄に、自分の名があった。
馬淵敬一。承認済。
赤い円の左上が、欠けていた。
2025年3月14日、14時32分。
その日時を、馬淵は頭の中で繰り返した。何をしていたのか、すぐには出てこなかった。覚えていないという事実が、自分の中に小さな穴を開けた。
「馬淵さん」
柏原が呼んだ。
「これ、あなたですか」
「名前は、私です」
「名前の話をしていません」
馬淵は紙を置いた。自分の手が震えているのを、見られたくなかった。
「私は、この保証を承認していません」
「じゃあ、誰が」
内線が鳴った。
内部監査部長、有働克典からだった。
馬淵は受話器を取った。7年前、異動の辞令を受けた夜に、酒を注いでくれた人の声がした。
「馬淵。いま、何を見ている」
「柏原製作所の保証契約です。私の名前が」
「その件は、いったん手を止めなさい」
穏やかな声だった。穏やかだからこそ、命令として聞こえた。
「どうして、私が見ていると」
「制限情報へのアクセスは監査に通知される。お前を、また同じ目に遭わせたくない」
馬淵は柏原を見た。彼女は受話器ではなく、机の上の紙を見ていた。
「いま、お客様が目の前にいます」
「私が調べる。任せてくれ」
返事をする前に、電話は切れた。
柏原が立った。
「その人に任せたら、給料日には間に合いますか」
馬淵は、わからない、と答えた。
柏原は決裁書の写しを置いていった。契約書と印鑑証明書は持ち帰った。馬淵の名のある紙だけが、応接室に残った。
佐野が向かいの椅子に座った。
「最初に、事実を並べましょう」
「俺が押していないことは、信じてくれるか」
口にした途端、馬淵は自分の声を後悔した。さっき佳織に差し出せなかった無条件の信用を、今度は部下に要求していた。
佐野は少し間を置いた。
「信じています。でも私の気持ちを書類に添えても、柏原さんの融資は戻りません」
馬淵はうなずいた。
応接室の机に残された写しで、欠けた印影の白い部分だけが窓明かりを受けていた。




