第三話 進撃始まる
観音丸は飛びに飛んだ。
木地師の集落、円霧保、隱田の本郷、別在の郡衙まで。
伝えるべき相手には、すべて伝えた。
本来、飛ぶ姿を人に見られるのは禁忌である。
御御明神から科せられた戒めだ。
だが、そんなことを気にしていられない。
事業の興廃が懸かっている。
しかも、一層奮励努力せよとは御御明神自身の言葉であった。
ならば、罰せられる謂れはない。
それに、空を飛ぶ姿を見せたことで、観音丸が健在であることを、周辺に知らしめた。
それまでは、観音丸は死んだという誤報が流れていた。
荒方台で放棄した身体を人に見られたせいで、行者はとうに化け物へ食われたのだと噂されたのである。
今まで、徳を積んだ効果は絶大だった。
隱田郷の郷長、別在郡の大領は、直ちに軍勢を送り込むことを約束してくれた。
だが、観音丸が人々を説き伏せている間にも、荒方台から溢れ出した灰色の怪物どもは、轟音を響かせながら、着実に山道を下っていた。
観音丸は再び空へ上がり、その進路を追った。
先頭の動きが鈍り、止まった。
「よし、引っ掛かった」
木地師の長、玄蕃はしてやったりとニンマリした。
山道の両側の木々、そのあいだに、太い縄が何本も何本も渡してある。
観音丸が玄蕃に頼み込んで用意した足止め策だった。
巨体を相手にできる手立てなど、まともには思いつかない。
観音丸としては、転ばせることまでは望まない。
せめて足運びを乱し、進みを鈍らせられれば、それでよかった。
その程度の見込みしかなかったのだ。
観音丸も空から見下ろし、息を詰めた。
(止まれ......止まれ、止まって)
灰色の怪物は、根の先の円盤を持ち上げる。
一本、二本と、縄に触れた。
次の瞬間。
パキリ、メキメキ、バチン、バチン......
縄を張った周囲の木々からは亀裂音、次には縄が切れる破裂音が間断なく鳴り響いた。
灰色の怪物は、何事もなかったかのように、また一歩を踏み出した。
ガシャン......
もう一歩。
ガシャン......
観音丸の顔から血の気が引いた。
(だめだ。全然、止まらない)
「い、いかん! 逃げるぞ、逃げろー!」
玄蕃が裏返った声で怒鳴る。
木地師の一団は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
それを確認しながら、観音丸はさらに飛ぶ。
少し下ると、山壁が迫り、崖下へ誘う狭隘な難所がある。
上から叩けば、今度こそ少しは効くかもしれない。
山壁の上には、すでに男たちが陣取っていた。
枝打ちした大木、大小の岩、石礫。
急ごしらえにしては、できることを全部かき集めた布陣である。
眼下を、玄蕃らが走り抜けていく。
「来るぞ、来るぞー! 抜かるなー!」
玄蕃の声に、上の男たちが大きく手を振って応じた。
「よし、野郎ども! 一発喰らわしてやろうぜ!」
「「「おう!」」」
観音丸はその上空で旋回しながら、後方を振り返った。
ガシャン......
ガシャン......
ガシャン......
騒音がさらに大きくなる。
やがて灰色の怪物の先頭が視界に現れた。
濡れた金属のように光る円柱の幹。
その天辺では、卵じみた口が開き、螺旋を描く銀の牙が鈍く光っている。
フヒュウウウ......
フヒュウウウ......
呼吸のような音まで混じり始めた。
「今だ!」
「「「おりゃあー!」」」
大木が押し出される。
ボコン、ゴロ、ガンガン、ドシャシャー、ズウゥーン
大音響と共に、大木が山道へ落ちた。
続けて岩が転がり、石礫が雪崩れ込む。
フモォォォォォォォ
下から、怪物の咆吼が響き渡った。
観音丸は思わず目を見開いた。
大木は先頭の一体へまともに叩きつけられていた。
だが――
「......止まった?」
そう見えたのは、ほんの一瞬だけだった。
次の瞬間には、そのまま押し返すように一歩を踏み出し、落ちてきた木も石も押し分けて進み始める。
「落とせ! 落とせ! 手を休めるな!」
山壁の上の男たちが、半ば悲鳴のような声で叫びながら、次々に石を投げ落とす。
石は当たる。だが砕けるのは石の方だった。
観音丸は歯を食いしばった。
(少しは効いてる。けど、少しだけだ)
その時だった。
怪物の枝が、音もなくするすると伸び、山壁の縁を越えて――
ぬっ
男たちには、灰色の筒が、突然目の前に現れたように見えた。
ドン......
ドン......
何かを探るように、山壁の縁を叩き始める。
「「「「ぎゃー!」」」」
山壁の上の男たちは石を放り出し、転ぶように縁から離れた。
這うように逃げる背へ、灰色の枝がなおも探るように伸びる。
観音丸は慌てて急降下し、その枝めがけて光を放った。
命中した枝の表面が焦げ、先がわずかに揺れる。
だが、引っ込まない。
むしろその隙に、別の枝がもう一本、さらにもう一本と、壁の上を探り始めた。
「だめだ、下がって! もう下がって!」
観音丸の声を待つまでもなく、男たちは我先にその場から逃げ出した。
灰色の怪物は、そのまま難所を抜けてくる。
ガシャン......
ガシャン......
ガシャン......
ついに、円霧保へ続く本道と、木地師の集落へ続く脇道が交わる辻へ到達した。
観音丸は固唾を呑んで見守る。
もし木地師の集落へ向かえば、多少の猶予ができる。
人ですら狭く感じる細道だ。
歩みが鈍くなるのは間違いない。
だが怪物は、木地師の脇道には目もくれず、まっすぐ本道を進む。
「......そっちを選ぶよね」
観音丸は低く呟くと、円霧保へと飛んだ。
避難は終わっていた。
既に女子供や老人の姿はない。
男たちが、山道の出入口に粗末な柵を築いていた。
杭を打ち、縄を結び、ありあわせの板を渡している。
ここに郡や郷から送られてきた軍勢が拠り、怪物どもを迎え討つ目論見なのだが......
(だめだ。これじゃ持ち堪えられない)
「行者様、お戻りで!」
「郷と郡は軍勢を出してくれるよ!だけど、足止めがうまくいってないんだ」
観音丸は一呼吸おいて言った。
「軍勢が来るまでの時間は僕が稼ぐ。万が一、怪物が見えたら、すぐに逃げてね。いい?」
「待たれい!」
傍から大音声がした。
見ると、身の丈七尺を超え、目方三十貫はあろうかという巨漢がいた。
「瀞具山に籠りて幾星霜、世に瀞具法師と呼ばれたるは、我がことなり。仁に従い、助太刀いたす!」
肩に抱えた、巨大な丸太を、地面に立ててドンと突く。
「我に策あり。道中に片端の欠け落ちたる洞門あり。かしこに留まり、敵を突いて留めん」
空気を震わす声は、万夫不当の豪傑を思わせた。
「巨体とて、腹這いにでもならねば通れぬ狭みよ。いかな化け物とて、頭を打たれれば堪るまい」
観音丸は、はっとした。
狭所なら、あの怪物どもは巨体を活かし切れない。
しかも列をなして下ってきている以上、一体ごと討てば良い。
だが......
「まず、戻って来れないよ?怪物どもは、あなたより大きくて強いんだ」
巨漢は腰を曲げて、観音丸に顔を近づけ、小声で言った。
「唐土で命を落としていたと思えば悔いはありませぬ」
芝居がかった口調ではなかった。そして皆に呼ばった。
「我と思わん者は続けや!」
「「「おう!」」」
瀞具法師に煽られた何人かが、山道を登っていく。
その先、山道の折れた奥には、片端の崩れた洞門が黒く口を開けていた。
観音丸は空へ舞い上がった。
ガシャン、ガシャンという地響きは、もう猶予の薄いことを告げていた。




