第二話 ザイクロトル覚醒
薄明の空を、観音丸は低く飛んでいた。
眼下の荒方台は、もう藍色には光っていない。
野太い呼吸音も消えていた。
代わりに満ちていたのは、鉄を打つような大音響だった。
ガシャン......ガシャン......
灰色の木々の根が、大地を打つ。
ブゥン、ブゥン......
幹のまわりから伸びた枝が空を薙ぐ。
それらが今、荒方台じゅうを覆っている。
「脅威度ゼロだって? これで!?」
御御明神から返ってきた声は、およそ人の喉から発せられるものではなかった。
だが観音丸にとって、意思疎通に支障はない。
「たった今、我々の目の前で、転移船動力炉の影響力は消失した」
「“動力炉は”でしょ? じゃあ、この状況は何?」
「管理対象の危険は去った。眼下の現象は二次的事象である」
「二次的でも何でもいいよ! 下に人が住んでるんだよ!」
返答はない。
御御明神の状況分析は、ひどく楽観的だった。
だが、眼下で起きていることは真逆である。
薄明が広がるにつれ、地上の様子がはっきりしてきた。
もう、灰色の木々は光を発していない。
それでも、静かになるどころか、むしろ生き物として輪郭を得ていた。
(......これ、木なんかじゃないよね)
見間違えようがなかった。
あれは地に生えているのではない。
立っている。
いや、動いている。
「我らが事業の興廃は君の双肩にかかっている。一層奮励努力せよ」
力強い激励と共に、ぶつり、と通信が切れた。
「えっと......あの......御御明神様のバカー!」
罵ったところで状況は好転しない。
朝日が、山の端から差し始めた。
ガシャン......
ガシャン......
ガシャン......
ついに灰色の木が、歩き出した。
一本や二本ではない。
何本も、何本もだ。
地響きが荒方台を揺らす。
観音丸は、息を呑んだ。
幹は樹皮ではない。
濡れた金属めいた光沢を帯びた、灰色の円柱だ。
その天辺――昨夜まで芽に見えていた部分は、もう大きく開いている。
内側には、銀色の牙。
それが螺旋を描いて並んでいた。
(......やっぱり、口だったんだ)
さらに、根だと思っていたものが広がった。
先端は円盤のように平たくなっている。
それが大地を打つ。
反動で巨体が前へ出る。
もう一度打つ。
また一歩、前へ出る。
(歩いてる......!)
観音丸の背筋を冷たいものが走った。
(ザイクロトル......あの怪物か)
名前だけは聞いたことがあった。
シャッガイの昆虫族の下僕。
まっすぐ伸びた樹木のような姿をしていながら、木ではない。
葉も花もつけず、ただ獲物を食らうために立つ怪物。
それを、ようやく実感として理解する。
まさか、荒方台に生えていた灰色の木々が、それだとは思わなかった。
(突然変異の木だと思って油断してたよ。こうなる事を知っていたら伐ってたのに)
その群れが向かっている先は一つしかない。
荒方台の出口だ。
そこから道沿いに下れば、人里へ出る。
「っ、まずい」
観音丸は青ざめた。
先頭の一体が、重たい音を立てながら、出口へ向かって進んでいる。
その歩みは遅い。だが、止まらない。
観音丸は薙刀を握り直し、宙で身を捻った。
「うぉいゃあー!」
渾身の光が、先頭の個体へ叩きつけられる。
命中。
灰色の幹の一部が黒く焦げた。
それだけだった。
「うそでしょ!?」
次の瞬間、
フモォォォォォォォ
荒方台じゅうの空気が震えた。
咆哮だった。
木であるはずのものが、獣のように吠えたのだ。
先頭の個体の枝が、鞭のようにしなって伸びてくる。
観音丸はそれをひらりと躱す。
だが、一体だけではない。
左右から。
後ろから。
他の個体の枝もいっせいに伸びてきた。
何本も。
何本も。
何本もだ。
「うわ、ちょ、ちょっと、数が多いって!」
枝は円筒そのものの形を保ったまま、槍のように突き出され、鞭のようにも薙ぎ払ってくる。
その一本一本が重く、速い。
観音丸は薙刀で二本、三本と受け流したが、受けきれない。
たまらず高度を上げ、間合いを切る。
眼下で、灰色の木々は悠然と進み続けている。
観音丸を追って暴れながらも、歩みそのものは止めていない。
(僕一人じゃ、手に負えないや)
その事実を、ようやく認めるしかなかった。
少し前に聞いた声が脳裏をよぎる。
――よくやった。待ちかねたぞ。
――これで、荒御魂は封じられた。
塚に飛び込んだ人影は、確かに何かをした。
そして、塚の中の動力炉の影響力は消えた――御御明神もそう言った。
(動力炉は封じられた。だけど、その代わりにこれが目覚めた)
観音丸の心の中に、沸々としたものが湧き上がった。
(シャッガイの昆虫――君たちだね、こんな仕掛けをしたのは)
理解したところで、どうしようもない。
視界の端で一体が動いた。
最後方にいた個体が、道ではなく脇の斜面へと向きを変えたのだ。
幹の上の口が、かぱりと開く。
螺旋の牙の奥で、ぬらりと暗いものが蠢いた。
斜面には、先ほど斬り倒した黒い怪物の残骸が転がっている。
「あっ」
灰色の木が、枝を伸ばした。
円筒の枝が獲物を絡め取り、そのまま持ち上げる。
ゆっくりと、確実に、幹の天辺の口へ運ぶ。
ばきり。
めきり。
ぐしゃり。
銀の牙が閉じた。
黒い翼が砕け、尾が千切れ、肉とも殻ともつかぬものが滴った。
それらを、灰色の木は、一片も残さず食い砕いていく。
観音丸は総毛立った。
(食べた)
ただ歩くだけではない。
ただ暴れるだけでもない。
あれは、喰う。
しかも一体が食らい始めると、周囲の個体も反応した。
口を開く。
枝を揺らす。
地を打つ音が、わずかに早まる。
「冗談じゃない......!」
観音丸は反射的に空を蹴った。
薄明の空を裂いて、観音丸は人里へ向かう。
背後ではなお、
ガシャン......
ガシャン......
ガシャン......
灰色の木々が、重々しく、確実に、荒方台の出口へと進んでいく。
その先には、道がある。
道の先には、村がある。
人がいる。
観音丸は、唇を噛んだ。
(まだ遅くない。歩みは遅いんだ)
今なら間に合う。
今なら、まだ。
自分一人では倒せない。
今すべきことは、人里へ先回りし、知らせ、備えさせることだ。




