第一話 夜空の戦と、封じられたもの
荒方台に封じられていたものが沈黙した時、山に立つ灰色の木々が、いっせいに歩き出した。
夜空を、幾筋もの光が流れていた。
細い尾を引くそれは、一つや二つではない。もう何刻も、絶えず空を裂き続けている。
その下で、二つの影が舞っていた。
人影が一つ。
小さな影が一つ。
「ていや!」
甲高い気合と共に、人影の手元から光が走る。
だが相手はひらりと躱し、逆に鋭い光を撃ち返してきた。
「わっ、ととっ!」
それを薙刀で打ち払い、人影――髪を高く結った童子は、空中で器用に体勢を立て直す。
白衣に緋袴、胴丸姿の小柄な行者。名を観音丸という。
人ならざる力を借り、宙を駆ける行者である。
(速いね。ぜんぜん捕まらない)
追っているのは、烏ほどの大きさの奇怪な生き物だった。
空を裂くように飛び、距離を保ったまま、執拗に観音丸を翻弄してくる。
(あいつら、まだ諦めてないんだね)
シャッガイの昆虫族――
阿邪都須塚の中にある“あれ”を弄ろうとしている連中だ。
薙刀で叩き斬ってやりたい。
だが、近づけない。
ふっと、相手の動きが鈍った。
(今だ)
観音丸は薙刀を振りかぶり、一気に間合いを詰めた。
「りゃあ、って、うわぁっ!?」
振り下ろす寸前、身を捩る。
脇を、図太い光が掠めていったのだ。
錐揉みのように回転しながら体勢を崩しかけ、それでもどうにか立て直し、高度を取る。
追撃は来なかった。
観音丸は息を整えつつ、暗い空を見回した。
(......見失っちゃった)
相手の勝ち筋は逃げ切ること。
観音丸の勝ち筋は仕留めること。
今のは、どう取り繕っても完敗だった。
「はぁ……」
肩を落とし、そのまま向きを変える。
向かう先は、円霧山の山頂近くにある荒方台。
そして、その外れにある、阿邪都須塚。
塚の中には、長く封じられてきた“触れてはならないもの”がある。
それが開けば、災禍の広がりは、荒方台だけでは済まされない。
本来なら、決して人の手に触れさせてはならぬものだ。
だが今は、封じが崩れ、誰でも近づける状態になっていた。
しかも、それを目覚めさせようとしている者がいる。
(あと一手で、完全に開くよね、あれは)
開通口から潜り込めば、塚の内に収めた動力炉へ、誰でも手を触れられる。
それだけは、絶対に避けなければならなかった。
思うだけで胃が痛む。
荒方台が見えてきた。
(だから、あれを大深淵へ捨てようとしたのに......)
脳裏に、嫌な記憶がよぎる。
阿邪都須塚の中にある、シャッガイの昆虫族の転移船動力炉。
稼働状態になってしまったあれを、このまま地上に置いておくのは危険すぎる。
だからこそ、あの旧き神が支配する大深淵へ投げ込んでしまおうとしたのだ。
だが、あの時はぎりぎりで阻まれた。
操作系統を妨害され、自分の身体を放棄する羽目になった。
(千載一遇の機会、って思ったんだけど)
地上に、光の点が一つ見えた。
松明だ。
誰かが、夜の山道を、荒方台めがけて駆け上がっている。
(こんな刻限に、何やってるのかな)
その人影は、よろめきながらも止まらない。
転びそうになっても、決して引き返さず、まっすぐに阿邪都須塚へ向かっている。
観音丸の胸に、不吉なものが走った。
「おおーい! おおーい!」
力の限り呼びかけると、人影は一度だけ足を止めた。
少しだけ安堵して、できるだけ優しい声を作る。
「そのまま待っててねー! すぐ着くよー!」
次の瞬間、人影は猛然と走り出した。
「えぇっ!?」
観音丸は慌てて追う。
人影は塚のそばの小屋へ飛び込むと、細長いものを抱えて飛び出し、そのまま塚をよじ登り始めた。
「待って、待って、何をする気なの!?」
ぞっとした。
意図がまるで読めない。
観音丸は必死に飛ぶ。
ようやく真後ろまで迫った時には、人影はすでに、開通口を封じていた扉の関貫へ手をかけていた。
「待っててって言ってるでしょ――うわぁっ!?」
突如、片脚を何者かに掴まれた。
下へ、強く引かれる。
観音丸はとっさに、人影の持っていた棒の端を掴んだ。
だが人影は、あっさりそれを手放してしまう。
ずるり、と体が傾いた。
塚の斜面を滑り落ちる。
次の瞬間、地面に叩きつけられた。
剥き出しの太腿と脹脛に、ぬめるような圧迫が絡みつく。
「ひぃっ!?」
反射的に、薙刀の石突を叩き込む。
ぐにゃり、と嫌な感触。
しがみついていたものが吹き飛んだ。
その時にはもう、開通口から溢れ出した藍色の光が、あたり一面を昼のように照らしていた。
その光の中で、相手がゆらりと立ち上がる。
真っ黒な身体。
蝙蝠じみた翼。
長い尾。
そして――顔がない。
目も、鼻も、口もなかった。
ぶん、と風を裂く音。
尾の一撃が観音丸を薙ぎ払った。
「ぐっ!」
胴丸がなければ危なかった。
相手はそのまま羽ばたき、音もなく宙へ浮かんだ。
次の瞬間、急降下。
鋭い爪が観音丸を掴もうとしたが空を切る。
観音丸もまた、空へ躍り上がっていた。
薙刀と爪がぶつかる。
一合。二合。三合。四合。
五合目で、観音丸が打ち勝った。
刃は相手を袈裟懸けに裂き、黒い影は声もなく山の斜面を転げ落ちていった。
だが、それを見届けている暇はない。
観音丸はすぐに阿邪都須塚の開通口を見た。
藍色の光が、激しく脈打っている。
「くっ......どうしよう。考える時間、ある?」
その時だった。
――よくやった。
脳裏に、雷のような声が響き渡った。
――よくやった。待ちかねたぞ。
――これで、荒御魂は封じられた。
歓喜に満ちた大音声だった。
(......あの御仁の声だ)
観音丸は息を呑んだ。
その声の主の技により、前の身体を遺棄させられたのだ。忘れるはずもない。
だが、今の言葉の意味までは分からない。
確かに、封じたと聞こえた。
けれど、あの状態の動力炉を、そんなに簡単に封じることができるのか。
何が起きて“よくやった”に繋がったのか、観音丸には想像がつかない。
(さっき中に入った人を褒めてるんだよね。何をしたの?)
直後、あたりが急に暗くなり始めた。
開通口から迸っていた藍色の光が、見る間に弱まっていく。
(動力炉の働きが......落ちてる?)
やがて、闇が荒方台へ戻ってきた。
かろうじて、開通口の奥だけが、淡く白く光っている。
フヒュウウウ......
どこからともなく、野太い呼吸のような音が聞こえ始めた。
フヒュウウウ......
フヒュウウウ......
フヒュウウウ......
一つではない。
幾重にも重なり合い、今や荒方台全体が、生き物のように息をしている。
観音丸は反射的に空へ退いた。
見下ろした荒方台で、灰色の木々が、ぼんやりと光を帯びていた。
幹が揺れる。枝が揺れる。
その先端にあったものが、ゆっくりと開いていく。
芽ではなかった。
それは、眠っていた者の何かの口のように見えた。
(何......これ)
理解が追いつかない。
(まずい。完全にまずい)
観音丸は唇を引き結ぶ。
(御御明神の皆に、すぐ知らせないと)




