第九章 それぞれの場所で息をする
駅の改札を抜けた後、葵は何度も振り返りそうになった。
けれど、真尋が立っていた場所はもう見えない。朝の通勤客が次々と流れ込み、少しでも歩みを緩めれば、背中から押されるように前へ運ばれていく。
葵はバッグの持ち手を握り直した。
会社へ向かう。いつもと同じ月曜日。同じ電車。同じ時間。同じホーム。
それなのに、自分だけが昨日までとは違う人間になったように感じる。
金曜日まで、葵には恋人がいた。週末に会う予定があり、仕事が終われば連絡を送る相手がいた。
今はもういない。
直哉という名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が急に冷える。
満員電車の中には、暖房が入っている。人の体温もある。それでも指先が冷たい。
葵は吊り革につかまり、窓へ視線を向けた。黒いガラスに、自分の顔が映っている。
目元の腫れは、化粧で完全には隠れていない。眠れていないこともわかる。いつもより顔色も悪い。
会社で聞かれたら、何と答えよう。昨夜考えた通り、眠れなかったと言えばいい。嘘ではない。
けれど、誰かに大丈夫と聞かれた瞬間、涙が出るかもしれない。
葵は奥歯を軽く噛んだ。
大丈夫ではない。大丈夫でなくても、会社へ向かっている。
それでいいと真尋は言った。強くならなくてもいい。昨日より、自分で立っている。
葵はその言葉を、電車の揺れに合わせて何度も胸の中で繰り返した。
スマートフォンがバッグの中で震えた。真尋からだろうか。確認したい。けれど、この混雑の中で取り出すのは難しい。
直哉からかもしれないと思うと、手を伸ばすことも怖かった。通知は切っている。それでも画面を開けば、名前が見えるかもしれない。
葵はスマートフォンをそのままにした。
次の駅で人が入れ替わる。目の前の座席が空いたが、離れたところにいた年配の女性へ譲った。
「どうぞ」
「あら、ありがとう」
女性が座り、穏やかに笑った。その笑顔に、葵は胸が痛くなった。
誰かの小さな優しさに触れると、今は涙が出そうになる。葵はすぐに顔をそらした。
*
真尋は、葵と別れた後、自分の会社へ向かう電車の中で何度も時計を確認していた。
葵は無事に乗り換えられただろうか。途中で苦しくなっていないか。会社へ着けるのか。
連絡をしたい。けれど、改札で別れたばかりだ。葵は今、自分の足で会社へ向かっている。
真尋が何度も大丈夫かと尋ねれば、葵は自分が一人では何もできないように感じるかもしれない。
支えることと、見張ることは違う。
真尋はスマートフォンをバッグへ戻した。葵から連絡が来るまで待とう。
そう決めた直後、スマートフォンが震えた。取り出すと、葵ではなく黒田からだった。
『おはようございます。今日も無理をしすぎずに』
先ほど一度返信したばかりだ。その後に、もう一通届いている。
『水口さんも、仕事へ戻る切り替えが難しいのではないかと思いました。昼食は忘れずに』
真尋は小さく笑った。
黒田は、葵だけではなく真尋のことも気にかけている。昨夜の電話で、支える人が倒れないようにと話していた。
自分では大丈夫だと思っていても、週末はほとんど眠れていない。土曜日は葵を迎えに走り、夜中まで話を聞いた。日曜日も一日、葵の状態を気にしていた。
仕事へ向かう今朝になって、体の奥に疲れが残っていることに気づく。
『ありがとうございます。昼食を忘れないようにします』
返信する。迷い、もう一文加えた。
『黒田さんも、忙しい時ほど食事を抜きそうなので気をつけてください』
送信すると、すぐに笑顔の絵文字が返ってきた。黒田が絵文字を使うことに、少し意外な気持ちになる。
真尋は画面を見ながら、葵との最初のやり取りを思い出した。紅葉の絵文字。相手に合わせて一つだけ使った。
言葉以外の小さな印が、関係の温度を伝えることもある。
駅へ着き、真尋は電車を降りた。
仕事へ意識を切り替えなければならない。葵のことを忘れるのではない。今は会社で果たすべき役割へ戻る。
自分には、自分の生活がある。それを保つことも、葵を長く支えるために必要なのだ。
*
葵が会社の最寄り駅へ着いたのは、午前八時三十分だった。いつもより早い。
改札を出ると、冷たい風が頬へ当たる。会社までは徒歩七分。葵は人の流れに沿って歩いた。
コンビニの前。毎朝、直哉へ送っていたメッセージを思い出す。
『今、会社の近く』
『今日も頑張ろう』
返事が来る日もあった。来ない日もあった。最近は、来ないことのほうが多かった。
葵はバッグの中のスマートフォンを意識した。
習慣は、相手がいなくなってもすぐには消えない。今朝も無意識に、直哉へおはようと送りそうになった。
もう送ってはいけないわけではない。だが送れば、返事を待つ。返事の言葉に、一日中振り回される。
今日は送らないと決めた。明日は、明日の自分が決める。
会社の入るビルが見えてくる。ガラス張りの入口。いつも通り、社員証をかざす人々。
葵は一度立ち止まった。胸が苦しい。
建物へ入れば、仕事が始まる。笑顔で挨拶しなければならない。上司へ報告する。先輩へ企画を見せる。
自分が失恋したことなど、誰も知らない世界へ戻る。
葵はスマートフォンを取り出した。真尋へ送ろうとして、手を止める。
会社へ着いたら連絡すると約束した。送っていい。
『着きました』
それだけ入力する。すぐに既読はつかなかった。真尋も会社へ向かっている。
葵はスマートフォンをバッグへ入れた。
「おはよう」
背後から声をかけられる。振り向くと、同期の美月が立っていた。肩までの短い髪。黒いコート。片手にコンビニのコーヒーを持っている。
「美月」
「早いね。体調、大丈夫?」
葵は、その言葉だけで涙が出そうになった。大丈夫ではない。けれどここで泣けば、会社へ入れなくなる。
「少し、寝不足」
「顔、腫れてない?」
「昨日、ちょっと泣いて」
美月の表情が変わる。
「何かあった?」
葵は答えようとして、声が詰まった。失恋した。その言葉を、会社の入口で口にできない。
「今は、聞かないで」
ようやく言う。美月はすぐに頷いた。
「わかった」
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
美月は葵の隣へ並んだ。
「朝ご飯、食べた?」
「少し」
「昼、一緒に食べよう」
「うん」
「無理になったら言って。会議の資料くらいなら、私も手伝えるから」
葵は目を伏せた。
美月に頼ることを、これまでほとんどしてこなかった。同期ではあるが、部署が違う。互いに忙しく、時々昼食を一緒に取る程度だった。
それでも、葵が詳しい事情を話さなくても、そばにいてくれる。
真尋の言った通りだった。話さなくても頼れる人がいる。
「ありがとう」
「うん」
二人は一緒にビルへ入った。
*
真尋がオフィスへ着くと、佐伯がすでに資料を広げていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
真尋は自分の席へバッグを置く。
「課長、少しお疲れですか?」
佐伯に言われ、真尋は自分の顔へ手を触れた。
「そう見えます?」
「いつもより、少し」
「週末、あまり眠れなくて」
「旅行の疲れですか?」
詳しい事情を話すか迷う。葵のことは、葵の個人的な出来事だ。勝手に話すべきではない。
「友人の相談に乗っていました」
「そうだったんですね」
「でも、仕事は大丈夫です」
言った直後、自分の言葉に引っかかった。大丈夫。また、すぐに使った。
「大丈夫ですが、少し疲れています」
真尋は言い直した。佐伯が驚いたように目を瞬く。
「なので、今日の会議で私が見落としていたら、遠慮なく言ってください」
「はい」
「昼休みも、きちんと取ります」
「私が確認します」
「そこまでは」
「金曜日、課長が私に言ったでしょう。休むことも仕事だって」
真尋は吹き出した。
「では、お願いします」
「任せてください」
自分の弱さを少し言葉にしたからといって、部下の信頼が崩れるわけではない。むしろ佐伯は、安心したように見えた。
真尋はパソコンを開いた。未読メールを確認する。
午前九時半から部内会議。午後一時に取引先とのオンライン打ち合わせ。午後四時には人事との面談。忙しい一日だ。
真尋は手帳へ、昼食と書き込んだ。予定として入れなければ、また後回しにする。
その下へ、葵へ連絡と書きかけ、やめた。葵が必要な時に連絡すると言っている。真尋の都合で時間を決めて確認するのではなく、昼休みに一度だけメッセージを送ろう。
スマートフォンを見る。葵から『着きました』と届いている。時刻は八時三十七分。
真尋はほっと息を吐いた。
『よく着きました。仕事を始められそうですか』
送信する。すぐには返事が来ない。会社へ入ったのだろう。それでいい。
真尋はスマートフォンを伏せ、仕事へ意識を向けた。
*
葵が自分の部署へ入ると、いつもの声が飛び交っていた。
「おはようございます」
入口で挨拶する。何人かが顔を上げ、同じ言葉を返す。
誰も、葵の中で何かが終わったことを知らない。それが少し寂しく、同時にありがたかった。
自分の席へ座る。パソコンを起動する。机の上には、金曜日に途中まで作っていた企画資料が置いてある。
新商品のキャンペーン案。二十代から三十代の働く女性を対象に、午後の休憩時間へ小さな楽しみを提案する企画。
金曜日まで、葵はこの資料を作りながら、直哉へ商品を送ったら喜ぶだろうかと考えていた。仕事の中にも、恋人の存在が混ざっていた。
今は、その部分だけが切り取られたように感じる。
「小野寺さん」
背後から声をかけられる。先輩の石橋だった。三十二歳。仕事が速く、数字に強い。髪を一つにまとめ、いつも落ち着いた色の服を着ている。
「おはようございます」
「おはよう。金曜日に頼んだ案、十時の会議で見せてもらえる?」
「はい」
葵は答えた後、資料へ視線を落とした。
数字の裏づけは、まだ十分ではない。週末に直すつもりだった。けれど秋田から戻った後、直哉との話し合いと別れで、それどころではなかった。
「すみません」
葵は言った。
「数字の整理が、まだ終わっていません」
石橋の眉がわずかに動く。
「金曜日に、月曜の朝までって話したよね」
「はい」
「できなかった理由は?」
葵の胸が詰まる。
失恋したから。恋人と別れて、週末はほとんど眠れなかったから。そんなことは仕事の理由にならない。言えない。
「私の管理不足です」
「そう」
石橋の声は冷たく聞こえた。
「会議で出せないなら、私の案を先に使うことになるけど」
「あと一時間で、できるところまでまとめます」
「できるところまで、では困るの」
葵は唇を噛んだ。
「企画を出すなら、なぜこの層に届くのか説明できないと通らない。感覚だけで出しても、会議の時間を使うだけでしょう」
正しい。石橋の言っていることは、間違っていない。だからこそ、胸に刺さる。
以前なら、すみませんと繰り返し、自分には向いていないのだと思っただろう。今も同じ気持ちが湧く。
けれど真尋に言われた言葉を思い出す。感覚が悪いわけではない。感覚を、人に伝わる形へ変える。
「石橋さん」
葵は顔を上げた。
「十時までに、対象の購買データと、過去のキャンペーンの反応を追加します」
「一時間で?」
「はい。企画の意図は変えません」
石橋が葵を見る。
「どうして?」
「働く女性が、午後に商品を手に取る理由はあると思っています。ただ、今の資料ではその根拠が弱いです」
「わかっているなら、最初から入れて」
「はい」
「十時までに出せる?」
「出します」
葵の声は震えていた。それでも、謝るだけで終わらなかった。
石橋は数秒、葵を見つめた後、頷いた。
「わかった。九時五十分に一度見せて」
「はい」
石橋が離れていく。葵は息を吐いた。心臓が速い。泣きそうだ。
直哉のことではなく、仕事で。それが少し嬉しかった。
悲しみ以外の感情が、自分の中にまだ残っている。
葵はパソコンへ向かった。
*
九時十五分。会議資料を確認していた真尋のスマートフォンが、机の上で小さく震えた。葵からの返信だった。
『会社に入りました。今、資料を直しています』
短い文章。真尋は何度も読んだ。
会社へ着いた。仕事を始めている。それだけで十分だ。
『返事は不要です。無理になったら、席を外してください』
送信する。葵の集中を邪魔しないよう、返事は不要と書いた。スマートフォンを伏せる。
「課長」
佐伯が会議資料を持ってきた。
「この表現、少し迷っています」
「見せてください」
真尋は資料を受け取った。仕事へ戻る。
葵は葵の場所で頑張っている。自分も、自分の役割を果たす。
*
葵は、過去の購買データを開いた。
キャンペーン期間中、午後二時から五時の購入率が高い商品。女性の購入比率。年代。店舗別の差。
数字を並べるだけでは、企画の意図は伝わらない。
真尋が話していたことを思い出す。どの年代の、どんな生活をしている女性なのか。どの時間帯に、どんな気持ちで商品を見るのか。
葵は資料の冒頭へ、一人の女性像を書いた。
三十歳。都内勤務。昼食後、午後三時を過ぎると集中力が落ちる。帰宅後は夕食を考えなければならない。仕事中に買える、小さな甘いものを、自分のための区切りとして選ぶ。
その人物像へ、購買データを重ねる。二十代後半から三十代女性の購入率。午後三時台の売上。個包装商品の人気。
葵の頭が、少しずつ仕事へ向かっていく。直哉のことを考えない時間が、数分続いた。
そのことに気づいた瞬間、再び胸が痛んだ。
忘れていた。別れた翌日なのに。自分は仕事に集中していた。直哉を忘れるなんて薄情なのではないか。
そんな思いが浮かぶ。葵は手を止めた。
悲しみを考えない時間が増える。真尋はそう言った。忘れるのではなく、占める場所が小さくなる。
今の数分は、その最初なのかもしれない。
葵はパソコンの画面へ戻った。
九時四十八分。資料を保存し、印刷する。石橋の席へ向かった。
「確認をお願いします」
石橋は時計を見た。
「間に合ったね」
「はい」
資料を受け取り、ページをめくる。葵は隣に立ったまま、緊張して待った。
「人物像を入れたんだ」
「はい。誰が、どの時間に、どういう理由で買うのかを先に示しました」
「データは?」
「過去二年の販売実績です。午後三時から五時に、二十代後半から三十代女性の購入が上がっています」
「この数字、コンビニだけ?」
「スーパーも入っています。店舗別の差は、後ろのページに」
石橋が資料をめくる。
「なるほど」
短い言葉。葵は呼吸を止める。
「金曜日より、かなりよくなった」
「本当ですか」
「数字と感覚がつながったから」
真尋と同じ言葉だった。感覚と数字。どちらかだけではない。
「会議で出していいと思います」
葵の胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
「ただ、予算の見積もりが甘い」
「はい」
「会議でそこを聞かれるから、答えを用意して」
「わかりました」
石橋は資料を返した。
「あと。今日、顔色が悪いけど大丈夫?」
葵は一瞬、言葉を失った。
石橋は仕事に厳しい。葵の体調など気にしない人だと思っていた。
「少し、眠れていなくて」
「体調が悪いなら、会議の後で帰ってもいいよ」
「でも」
「無理して倒れたら、もっと困るから」
「はい」
「会議は出られる?」
「出ます」
「なら、終わった後に考えて」
石橋は次の資料へ視線を戻した。
葵は自分の席へ戻りながら、胸の中が揺れるのを感じた。
正しいことしか言わない厳しい先輩。それだけの人ではなかった。葵が見ようとしていなかっただけかもしれない。
人は、一つの面だけではない。直哉も。真尋も。石橋も。葵自身も。
*
午前九時半から始まった真尋の部内会議では、来期の予算配分について意見が割れていた。
営業支援へ予算を増やすべきだという吉田。開発側の調査費を優先したいという佐伯。
真尋は二人の意見を聞きながら、資料へ目を落とした。
普段なら、早い段階で方向性を示す。今日は頭の切り替えが遅い。葵のことが気になる。
それを理由に会議を曖昧に終わらせるわけにはいかない。
「一度、前提を分けましょう」
真尋は言った。
「営業支援を増やす目的は、今期の契約件数を上げること。調査費を増やす目的は、来期以降の商品力を上げることです」
ホワイトボードへ二つの項目を書く。
「短期と中長期のどちらかを選ぶ話ではありません。それぞれに最低限必要な金額を出してください」
「でも、総額は決まっています」
吉田が言う。
「だからこそ、全部を同じ重さで比べない。削った時の損失を数字で出しましょう」
佐伯が頷く。
「営業支援を減らした場合の契約機会の損失と、調査費を減らした場合の開発遅延を比較するということですか」
「はい」
真尋は自分の声が、いつもの調子へ戻っていることを感じた。
仕事へ集中すると、葵への心配が消えるわけではない。ただ、心配の置き場所が一時的に変わる。
今は会議。昼になれば、葵へ連絡する。真尋はその境界を意識した。
「水口課長」
部長が口を開いた。
「今日は、結論を急がないんですね」
「急いで間違えるより、必要な情報を揃えたほうがいいと判断しました」
「以前なら、この場で配分案を出していた気がします」
「以前は、早く決めることを優先しすぎていたかもしれません」
部長が意外そうに真尋を見る。
「何かあった?」
「人と話す中で、待つことも必要だと気づきました」
葵。黒田。二人との会話が、仕事の判断にまで影響している。
「では、明日の午後までに数字を揃えて、もう一度確認しましょう」
真尋は会議を締めた。
会議室を出る時、佐伯が隣へ並ぶ。
「課長。今の進め方、わかりやすかったです」
「そうですか?」
「前は、課長が答えを出してくれるから安心でした。でも、自分で考える前に決まってしまうこともあって」
真尋は足を止めた。
「言いにくかったですか」
「少し」
「話してくれて、ありがとうございます」
「課長が、自分も変わるって言ったから」
佐伯は照れたように笑った。
「私も、意見を言ってみようと思いました」
「これからも言ってください」
「怒りません?」
「内容によります」
「やっぱり厳しい」
二人の間に短い笑いが起きた。
真尋は自分の席へ戻った。
完璧な上司であろうとするより、変わる姿を見せることが、部下の言葉を引き出すこともある。
*
葵の企画会議は、午前十時に始まった。
長いテーブルを囲み、部長と課長、石橋、ほかの担当者が座る。葵は資料を配った。手が震えている。
失恋のこと。眠れていないこと。それらを会議室の外へ置いてきたつもりでも、体は正直だった。
「小野寺さんからお願いします」
石橋が言う。葵は立ち上がった。
「新商品の販売促進案についてご説明します」
声が掠れた。一度咳払いをし、続ける。
「今回の企画では、二十代後半から三十代の働く女性を主な対象とします」
画面へ人物像を映す。
「午後三時から五時は、甘味商品の購入が増える時間帯です。特に個包装の商品は、自宅用ではなく、その場で食べる目的で購入される割合が高くなっています」
数字を示す。店舗別。年代別。時間帯別。
金曜日には説明できなかった根拠が、今は資料の中にある。
「単なる間食ではなく、仕事の区切りとして自分へ与える小さな楽しみを提案します」
葵は一瞬、真尋の部屋で食べた雑炊を思い出した。
食べ物は、空腹を満たすだけではない。生活が続いていることを感じさせる。小さな温かさが、人を次の時間へ運ぶ。
「パッケージには、午後の気分を切り替える短い言葉を入れます。たとえば、あと少しだけ、やさしく頑張るために、というような」
部長が資料へ目を落とす。
「働く女性に限定する理由は?」
想定していた質問だった。
「購入データでは、午後の個包装菓子の購入割合が、この年代の女性で最も高くなっています。また、社内アンケートでも、仕事中に甘いものを買う理由として、気分転換が上位でした」
「男性は対象外?」
「対象外にはしません。ただ、最初の訴求を明確にするため、女性の生活場面へ絞ります」
「予算は?」
「店頭POPとSNS広告を中心にし、初期費用を抑えます。インフルエンサー施策は、最初の反応を見て第二段階で検討します」
葵は一つずつ答えた。途中で言葉に詰まる場面もあった。石橋が補足してくれた。
質問が続く。葵は自分の案を守ることと、相手の意見を受け入れることの間で揺れた。
以前なら、否定されたと感じた瞬間に、自信を失っていた。今日は違う。
企画への質問は、葵自身への否定ではない。答えられないことは、次に考えればいい。
会議が終わった時、部長が言った。
「方向性は面白い。予算をもう少し詰めて、次回もう一度」
採用ではない。却下でもない。次へ進んだ。
「ありがとうございます」
葵は頭を下げた。
会議室を出た瞬間、全身から力が抜けた。
*
「小野寺さん」
石橋が後ろから呼ぶ。
「はい」
「よかったよ」
葵は目を見開いた。石橋が、はっきり褒めることは珍しい。
「朝の一時間でよくまとめたね」
「ありがとうございます」
「人物像のところ、あなたらしかった」
「私らしい?」
「数字だけじゃなくて、実際にどんな人が買うのか見えていた」
葵の胸が熱くなる。
「前から、そこは強みだと思ってた」
「でも、感覚だけではだめだって」
「感覚だけではね」
石橋は思わず笑った。
「私は数字から考えるのは得意だけど、人の気持ちを想像するのは小野寺さんほど上手くない」
「石橋さんでも?」
「私を何だと思ってるの」
「全部できる人だと」
「できないことばかりだよ」
その言葉に、真尋を思い出す。役職が、人を完成させるわけではない。年齢が上がれば、答えが出るわけでもない。
「だから、一緒にやるんでしょう」
石橋は言った。
「あなたの感覚を、私が数字へつなぐ。私が見落とす生活の場面を、あなたが拾う」
「一緒に」
「そう。今までは、私のやり方に合わせさせすぎたかもしれない」
葵は言葉を失った。石橋も、自分のやり方を変えようとしている。
「すみませんでした」
「どうして石橋さんが謝るんですか」
「泣かせたこともあったでしょう」
入社二年目。確認不足を指摘され、会議後に化粧室で泣いた。石橋には見られていないと思っていた。
「知ってたんですか」
「目、真っ赤だったから」
「恥ずかしい」
「泣くのは悪くない。でも、何が悔しかったかは考えて」
石橋の言葉は厳しい。それでも以前とは違って聞こえる。
葵は、石橋が自分を否定していたのではなく、成長させようとしていた可能性を初めて考えた。
伝え方が苦しかったことは事実だ。けれど、自分が受け取れなかったものもあった。
「今日、少し体調悪いんでしょう」
「はい」
「午後、無理なら帰って」
「もう少しやってみます」
「無理しないで」
「はい」
石橋が席へ戻る。葵はその背中を見つめた。
人は、話してみなければわからない。直哉とも、もっと早く話せば何かが変わったのかもしれない。
その考えが浮かび、胸が痛む。けれど、今は仕事の場所にいる。悲しみは、少し横へ置く。
葵は自分の席へ戻った。
*
正午。真尋は予定通り、仕事の手を止めた。佐伯が腕時計を指す。
「課長、昼です」
「わかっています」
「食べてください」
「佐伯さんも」
「一緒に行きますか?」
真尋は迷った。昼休みに葵へ連絡したい。だが、一人で食べればまた仕事をしながら済ませるかもしれない。
「行きましょう」
会社近くの定食店へ向かう。吉田も加わり、三人で席へ座った。
「課長と昼食、珍しいですね」
吉田が言う。
「そうですか?」
「いつも机で食べているので」
「改めます」
「何かあったんですか」
「自分の生活を後回しにしすぎると、長く働けないと思っただけです」
「急に健康的ですね」
「吉田さんも、人のことを言えないでしょう」
吉田は毎日、昼を菓子パンだけで済ませることが多い。
「今日は定食です」
「続けてください」
三人はそれぞれ注文した。真尋は焼き魚定食。佐伯は生姜焼き。吉田は唐揚げ。
料理を待つ間、真尋はスマートフォンを確認した。葵から新しいメッセージはない。会議中かもしれない。
『昼休みです。午前中はどうでしたか。返せる時で大丈夫です』
送信する。
料理が運ばれてくる。真尋はスマートフォンを伏せ、箸を取った。温かい味噌汁を飲む。
黒田に言われ、佐伯に見張られ、ようやく昼食を取っている。
「課長」
佐伯が言う。
「何ですか」
「何か良いことありました?」
「急ですね」
「最近、少し雰囲気が変わったので」
吉田も頷く。
「前より、話しかけやすいです」
「前は話しかけにくかった?」
「少し」
「かなり」
佐伯が吉田を睨む。
「正直に言えって課長が」
「言いましたが、言い方はあります」
真尋は声を立てて笑った。
「何が変わったと思います?」
逆に尋ねると、二人は顔を見合わせた。
「自分の話をするようになった」
佐伯が答える。
「旅行のこととか」
「疲れているって言ったのも、初めて聞きました」
吉田が続ける。
「前は、何でも一人でできる人だと思っていました」
「今は違いますか」
「できるけど、疲れる人」
吉田の言い方に、真尋は笑った。
「人間ですから」
「知ってましたけど」
佐伯も笑う。
真尋は、自分が少しずつ周囲へ開かれているのを感じた。葵や黒田に対してだけではない。仕事の場でも、完璧であることをやめ始めている。
それで失うものより、得るもののほうが多いのかもしれない。
*
葵は昼休みになると、美月と会社近くの小さなカフェへ入った。
朝、真尋が逃げ場所として話していた店だった。店内は比較的静かで、奥の席なら会社の人に会いにくい。
葵はスープと小さなパンのセットを注文した。美月はパスタ。
「朝より、顔色少しよくなったね」
美月が言う。
「会議、終わったから」
「うまくいった?」
「次に進んだ」
「よかったじゃん」
「うん」
葵はスープへスプーンを入れた。温かい湯気。朝、真尋の部屋で食べたスープを思い出す。
「食べられそう?」
「少し」
「無理しなくていいよ」
同じ言葉。真尋だけではない。美月も言ってくれる。
葵は一口飲んだ。味がする。
「美月。聞かないって言ってくれたけど」
「うん」
「言ってもいい?」
美月はフォークを置いた。
「もちろん」
葵は口を開いた。別れた。それだけ言えばいい。けれど声が出ない。代わりに涙が浮かぶ。
美月は何も急かさなかった。
「彼と、別れた」
ようやく言えた。美月の表情が変わる。
「昨日?」
「うん」
「そっか」
驚きや質問より先に、静かな言葉が返ってきた。
「二年付き合ってた人?」
「うん」
「つらいね」
その一言で、葵は涙をこぼした。美月が紙ナプキンを差し出す。
「会社で泣かないようにしてたんだけど」
「ここは会社じゃないよ」
「でも、昼休み」
「泣いていいでしょう」
葵は目元を押さえた。
「詳しくは、まだ話せない」
「話さなくていいよ」
「ありがとう」
「今日、家に帰れる?」
「今、友達の家に泊まってる」
「秋田で会った人?」
葵は驚いた。
「話したっけ」
「朝、少し言ってたよ。年上の友達がいるって」
「真尋っていうの」
「その人がいてくれてよかったね」
「うん」
「でも、一人に頼りすぎないでね」
美月の言葉に、葵は顔を上げた。
「真尋が疲れちゃうから?」
「それもあるけど、葵がその人なしでは何もできないって思わないために」
真尋と黒田が話していたことに近い。支える人を一人にしない。
「美月にも、頼っていい?」
「もちろん」
「迷惑じゃない?」
「迷惑な時は、今日は無理って言うよ」
「言ってくれる?」
「言う」
美月は笑った。
「だから、葵も何でも大丈夫って言わないで」
「みんな同じこと言う」
「みんな?」
「真尋と、会社の先輩と」
「葵が、大丈夫なふりするからでしょう」
葵はスープをもう一口飲んだ。
「美月。今日、午後も一緒にいて」
「部署違うから、ずっとは無理」
「そうだよね」
「でも、三時に休憩取れる。飲み物買いに行こう。帰る時も、時間合えば駅まで一緒に行く」
「ありがとう」
「私にできるのは、そのくらい」
「そのくらいが、うれしい」
葵は笑った。
真尋と同じように、美月にもできることとできないことがある。それをはっきり言ってもらえると、安心する。
全部を引き受けると言われるより、信じられる。
*
昼食を終えた真尋がオフィスへ戻る途中、葵から返信が届いた。
『午前の会議は終わりました。企画、次に進みました』
真尋は歩きながら笑った。
『よかったですね。よく頑張りました』
送信する。すぐに返信が来る。
『褒めてくれると思った』
『褒めてほしくて報告したんですか』
『少し』
『昼食は?』
『スープとパン』
『食べられましたか』
『半分』
『十分です』
次のメッセージは、少し時間が空いて届いた。
『美月に、別れたことを話しました』
真尋は足を止めた。
葵が、自分以外の人へ話した。それが嬉しい。
『話せたんですね』
『泣いた』
『泣いても話せた』
『うん』
『美月さんにも頼れそうですか』
『三時に一緒に休憩する』
『よかったです』
『真尋、寂しくない?』
予想していなかった質問だった。
『どうして?』
『私が美月に頼ったら』
真尋は画面を見つめた。
葵の中で、頼ることと、大切にすることがまだ一つになっている。真尋だけを必要としなくなれば、真尋との関係が薄くなると思っているのかもしれない。
『寂しくありません。安心しています』
『本当?』
『はい。葵が頼れる人が増えることは、私にとってもうれしいです』
『真尋じゃなくてもいいってこと?』
真尋は考えた。
『私でなくてもいい時があっても、私は葵の友達です』
送る。しばらく返事が来ない。やがて。
『わかった』
短い返事。まだ完全には納得していないのかもしれない。それでも、少しずつ知っていけばいい。
大切な人が増えても、誰かの価値が減るわけではない。
*
午後一時のオンライン打ち合わせで、真尋は取引先から厳しい質問を受けていた。
「この機能の導入効果が、資料からは見えません」
相手企業の担当者が言う。
「導入後の作業時間削減について、実測値はありますか」
真尋は佐伯へ視線を向けた。
以前なら、自分がすぐに答えていただろう。だが今回は、佐伯が調査を担当している。
「佐伯さん、お願いします」
佐伯が一瞬緊張した表情を見せる。
「はい」
画面を共有し、データを説明する。最初は声が硬い。真尋は口を挟まず待った。
「三社での試験導入では、平均二十二パーセントの時間削減が確認できました。ただし、業務量が多い部署ほど効果が高いため、御社では二十五パーセント前後を想定しています」
取引先がさらに質問する。
「二十五パーセントという根拠は?」
佐伯が一瞬言葉に詰まる。真尋は助けようとしたが、思いとどまった。
佐伯は資料を確認し、答えた。
「御社からいただいた業務件数を、試験導入企業の件数へ当てはめた試算です。正式な数値は、実際の運用環境で確認する必要があります」
「なるほど」
取引先が頷く。打ち合わせはそのまま進んだ。
終了後、佐伯が深く息を吐く。
「緊張しました」
「よく答えられました」
「途中、課長が助けてくれると思いました」
「助けたほうがよかったですか?」
「いえ」
「自分で答えられたので、よかったです」
「そう思ったので待ちました」
「信じてくれた?」
「はい」
真尋は、自分が葵に対しても同じことを学んでいるのだと気づいた。
助けられるからといって、すぐに手を出す必要はない。相手が自分で立てる時には、待つ。必要な時だけ支える。
仕事と人間関係は違う。それでも、相手を信じて待つことは同じだった。
*
午後三時。葵は美月と一階の自動販売機前にいた。美月はカフェオレ。葵は温かいココアを選んだ。
「甘いもの、少しは飲めそう?」
「うん」
二人は休憩スペースの椅子へ座った。窓の外には、冬の薄い空が広がっている。
「午後、大丈夫だった?」
美月が尋ねる。
「何回か、直哉のこと考えた」
「連絡した?」
「してない」
「えらいね」
「真尋にも褒められそう」
「その真尋さんって、どんな人?」
葵は考えた。
「仕事ができて、何でも一人でできる人に見える」
「見える?」
「本当は、迷うし、寂しい時もある」
「会ってどのくらい?」
「一週間くらい」
美月が目を丸くする。
「一週間?」
「秋田で会って、同じ宿で」
「それで、今泊めてもらってるの?」
「うん」
「大丈夫な人?」
「大丈夫」
葵は即答した。
「仕事も会社も知ってるし、家族の話も聞いてる」
「心配してるわけじゃないけど、出会ってすぐでしょう」
「時間じゃないの」
葵は真尋へ言った言葉を繰り返した。
「真尋といると、自分でいていいと思える」
美月は黙った。
「その人のこと、すごく好きなんだね」
「友達として?」
「それ以外にあるの?」
「ないよ」
葵は吹き出した。
真尋への気持ちは、恋愛ではない。けれど恋人だった直哉とは違う深さがある。
安心。憧れ。頼りたい気持ち。守りたい気持ち。どれか一つではない。
「ただ」
葵はココアの缶を両手で包んだ。
「真尋に恋人ができたら、少し寂しい」
「嫉妬?」
「違うと思う」
「自分の場所がなくなるのが怖い?」
美月の言葉に、葵は黙った。
「たぶん」
「でも、その人に恋人ができても、葵の友達であることは変わらないでしょう」
「真尋もそう言った」
「なら、信じてみたら」
「頭ではわかる」
「心は?」
「まだ不安」
「失恋したばかりだから、誰かが離れることに敏感になってるんじゃない?」
葵は美月を見る。その可能性を考えていなかった。
直哉の気持ちが、知らない間に離れていた。だから真尋も、いつか同じように離れるのではないかと怖い。
「そうかもしれない」
「真尋さんに、言った?」
「言った」
「何て?」
「関係が変わる時は、話す。何も言わずに一人で悩ませないって」
「いい人だね」
「うん」
「だったら、今はその言葉を信じるしかないんじゃない」
「美月も、急に大人みたいなこと言う」
「同い年です」
二人は同時に吹き出した。
数秒だけ、葵は直哉のことを忘れた。笑った後に、また胸が痛む。でも、その痛みは午前中より少し薄い。
*
午後四時の人事面談を終えた頃、真尋は疲れをはっきり感じていた。
週末の睡眠不足。一日の会議。葵への心配。体が重い。
それでも机の上には、確認すべき資料が残っている。今日中に終わらせようと思えば、午後八時近くまでかかる。
葵は今夜も真尋の部屋へ戻る。夕食を作る必要がある。
真尋は資料を開いたまま、しばらく迷った。
仕事を残して帰ることへの抵抗。部下より先に帰る罪悪感。管理職として、最後までいるべきだという思い。
「水口課長」
佐伯が声をかけた。
「何ですか」
「顔色、悪いです」
「そうですか」
「今日は帰ってください」
「資料が」
「明日の朝で間に合います」
金曜日、真尋が佐伯へ言った言葉だった。
「でも」
「今の課長、完成させたという安心が欲しいだけじゃないですか」
真尋は思わず笑った。
「覚えていたんですね」
「そのまま返しました」
「わかりました」
真尋はパソコンを閉じた。
「今日、家に友人が来ているので、帰ります」
「旅行で知り合った人?」
「はい」
「楽しんでください」
真尋は一瞬、言葉に迷った。楽しい時間ではない。けれど詳しく話す必要はない。
「友人が少し落ち込んでいるので、今日は一緒にいます」
「そうなんですね」
「仕事は、明日の朝に確認します」
「任せてください」
「佐伯さんも、遅くならないように」
「はい」
真尋は会社を出た。外はすでに暗い。駅へ向かいながら、葵へ連絡する。
『私は今、仕事が終わりました。葵はどうですか』
数分後、返信が来る。
『六時に終わります。美月と駅まで一緒に帰ります』
『よかったです』
『真尋の家に帰っていい?』
真尋は立ち止まった。
帰る。葵にとって、すでに真尋の部屋は帰る場所になり始めている。
重いと感じる自分はいなかった。ただ、長く続けるためには、言葉を丁寧に選びたい。
『もちろん。今日は私のほうが少し早いので、先に帰っています』
『ただいまって言っていい?』
『言ってください』
『うん』
真尋はスマートフォンをしまった。
*
午後六時。葵は仕事を終えた。
午前中に比べれば、顔色も少し戻っている。直哉へ連絡はしなかった。トーク画面も開いていない。
何度も見たいと思った。そのたびに、美月と話したり、企画の修正へ戻ったりした。
「帰れる?」
美月が尋ねる。
「うん」
「真尋さんの家?」
「今日も泊めてもらう」
「明日は?」
「まだ決めてない」
「ずっといるの?」
美月の質問に、葵は少し不安になった。
「迷惑かな」
「そうじゃなくて、自分の家へ戻れなくならないかなって」
「真尋も同じこと言う」
「いつかは戻るんでしょう?」
「うん」
「なら、戻る日を決めたほうがいいかもね」
「今は怖い」
「明日でも、明後日でもいいけど」
「一人で寝られない」
「真尋さんに泊まってもらえば?」
「仕事があるから、ずっとは無理」
「じゃあ、一晩だけとか」
葵は考えた。
自分の部屋へ戻る。直哉の物を箱へ入れた部屋。一人のベッド。怖い。
けれど、いつまでも真尋の部屋にいるわけにはいかない。
「水曜日」
「明後日?」
「うん。水曜日に、自分の家へ帰る」
「決めたの?」
「今、決めた」
「真尋さんに相談しなくていい?」
「相談する。でも、自分で決めたい」
美月は思わず笑った。
「いいと思う」
二人は会社を出た。駅へ向かう。途中で、美月がコンビニへ寄った。
「何か買う?」
「真尋と食べるもの」
「夕食、作ってくれるの?」
「たぶん」
「甘えすぎないでね」
「わかってる」
「手伝うとか」
「うん」
葵は真尋に任せきりにしていたことに気づく。食事。洗濯。朝の支度。
心配してくれることへ甘えて、自分は受け取るばかりだった。今夜は、何かしたい。
「デザート買う」
「食べられるの?」
「真尋が食べる」
「自分も少し食べたら」
葵は小さなプリンを二つ買った。
以前、真尋がスーパーで二個入りのプリンを買わなかったことを、葵は知らない。ただ、二人分を選ぶことが自然に感じられた。
駅のホームで、真尋へメッセージを送る。
『今から帰ります。プリン買いました』
すぐに返信が来る。
『夕食は食べられそうですか』
『少し』
『うどんにしますか』
『私も手伝う』
送る。真尋から、笑顔の絵文字が返ってきた。
*
真尋は自宅へ着くと、まず窓を少し開けた。冷たい空気が流れ込む。朝から閉め切っていた部屋へ、新しい空気を入れる。
寝室には、葵の部屋着が畳んで置かれている。洗面所には、葵の歯ブラシ。玄関には、葵の靴を置く場所が空いている。
一人暮らしの部屋へ、少しずつ別の人の物が増えている。
以前なら、それを自分の領域が侵されるように感じたかもしれない。今は、温かい。
ただし、葵がこのまま長く居続ければ、互いの生活の境界が曖昧になる。
黒田が話していた。できることと、できないことを伝える。二人で決める。
真尋は、葵が落ち着いたら、自宅へ戻る時期を話そうと思った。追い出したいわけではない。葵が自分の生活を取り戻すために必要なことだ。
キッチンで米を研ごうとして、葵が手伝うと送ってきたことを思い出す。うどんにするなら、準備は簡単だ。野菜を切るだけにして待つ。
冷蔵庫を確認する。鶏肉。ねぎ。白菜。卵。鍋焼きうどんにしよう。
その時、インターホンが鳴った。葵には合鍵を渡していない。画面を見ると、葵が立っている。
真尋は解錠した。玄関の前で待つ。数分後、廊下を歩く足音。扉が開く。
「ただいま」
葵が言った。
「お帰りなさい」
真尋は答えた。
葵の顔は朝より明るい。疲れている。目元も腫れている。それでも、自分の足で一日を終えて帰ってきた顔だった。
「仕事、行けました」
「はい」
「最後までいた」
「よく頑張りました」
「企画も、次に進んだ」
「聞きました」
「先輩に褒められた」
「それは初耳です」
葵は靴を脱ぎながら、誇らしそうに笑った。
「私らしいって」
「よかったですね」
「真尋が教えてくれたから」
「葵が自分で作った資料です」
「でも、考え方を教えてくれた」
「少し役に立てたなら、うれしいです」
葵はバッグからプリンを取り出した。
「これ、二人分」
「ありがとうございます」
「食後に」
「食べられそうですか?」
「半分くらい」
「残りは明日でいいです」
「真尋は一つ食べる?」
「はい」
真尋は二個並んだプリンを見た。
金曜日の夜、一人でスーパーに入り、二個入りを買わなかったことを思い出す。あの時は、一人で二つ食べるだけだと思った。
今は、二人で一つずつ。小さな違い。それだけで、生活の景色が変わる。
*
「何をすればいい?」
葵が尋ねる。
「着替えなくていいんですか」
「先に手伝う」
「では、白菜を切ってください」
「できる」
「包丁は、ここです」
二人はキッチンへ並んだ。広い台所ではない。一人なら十分だが、二人で立つと少し狭い。
葵がまな板を使い、真尋が鍋を出す。肩が時々触れる。
「狭いですね」
葵が言う。
「一人用なので」
「でも、二人でも使える」
「少し譲り合えば」
「結婚したら、こういう感じ?」
「どうして急に?」
「一緒に料理する」
「恋人や夫婦だけではありません」
「そうだね」
葵は白菜を切った。大きさが不揃いだ。
「少し大きいです」
「煮たら同じ」
「火の通りが違います」
「細かい」
「料理は、ある程度必要です」
葵は声を立てて笑った。
「真尋、会社でもこんな感じ?」
「もっと厳しいです」
「部下の人、大変」
「今日、話しかけやすくなったと言われました」
「前は怖かった?」
「かなり、と」
「やっぱり」
「葵まで」
二人は笑った。
その笑い声を聞きながら、真尋は安心した。
葵が一日を過ごし、笑って帰ってきた。悲しみは消えていない。それでも、その外側に仕事や友人や夕食が戻り始めている。
*
鍋焼きうどんが完成すると、二人はテーブルへ向かい合って座った。湯気が立つ。葵は卵の黄身を箸で崩した。
「おいしそう」
「食べられる分だけ」
「今日は、朝よりお腹すいてる」
「仕事をしたからでしょう」
葵はうどんを一口食べた。
「おいしい」
「よかったです」
「真尋も食べて」
「食べています」
二人はしばらく黙って食べた。生活の音だけがする。箸。器。湯気。外を走る車の音。
葵は半分以上食べた。
「食べられましたね」
「うん」
「無理していません?」
「本当にお腹すいてた」
「よかったです」
「褒めて」
「よく食べました」
「やっぱりお母さん」
「もう言わないでください」
葵は笑った後、少し表情を曇らせた。
「今日、直哉のことを考えなかった時間があった」
「はい」
「仕事してた時。少し罪悪感があった」
「どうして?」
「別れたばかりなのに、忘れたから」
「忘れたのではありません」
「でも、考えてなかった」
「それでいいんです」
「直哉は、もう私のこと考えてないのかな」
真尋は箸を置いた。
「わかりません」
「仕事して、普通にご飯食べてるかな」
「そうかもしれません」
「私だけ、こんなに苦しい?」
「苦しみ方は、人によって違います」
「直哉も少しはつらいと思う?」
「二年過ごした人と別れたのだから、何も感じていないとは思いません」
「でも、好きじゃない」
「好きではなくなっても、寂しさや罪悪感はあるかもしれません」
「そうだといい」
「どうして?」
「私だけが傷ついてるのは悔しい」
葵は正直に言った。
「直哉にも、少し苦しんでほしい」
「そう思ってもいいです」
「性格悪い?」
「人間らしいと思います」
「真尋も、慎一さんに思った?」
「幸せになってほしいと思う一方で、私を忘れないでほしいとも思いました」
「今も?」
「今は、忘れていても構いません」
「どうして変わったの?」
「私の人生が、慎一の記憶に残ることで証明されるわけではないと思えるようになったからです」
葵は意味を考えるように黙った。
「直哉が私を忘れても、二年間はあった?」
「はい」
「私が覚えてる」
「はい」
「それでいい?」
「葵がいつか忘れても、なくなりません」
「忘れたくない」
「今は」
葵は小さく頷いた。
「今は、覚えていたい」
「はい」
*
食後、二人はプリンを食べた。葵は半分だけ。真尋は一つ食べ切った。
「二個入りを買うの、初めてじゃないでしょう?」
葵が尋ねる。
「もちろん、あります」
「でも、なんかうれしそう」
「そうですか?」
「二人分があるのが?」
真尋は驚いた。葵は、人の表情をよく見ている。
「出発前の夜、スーパーで二個入りのプリンを見たんです」
「買わなかった?」
「一人で二つ食べるだけだと思って」
「今日は二人」
「はい」
「小さい幸せですね」
「そうですね」
葵はプリンを一口食べた。
「幸せって、恋人だけじゃない。仕事の企画が進んだことも。美月が昼にいてくれたことも。真尋とプリン食べることも」
「はい」
「でも、直哉がいないことは悲しい」
「はい」
「幸せと悲しいが一緒にある」
「あります」
「どっちかにならなくていい?」
「いいです」
葵はゆっくり息を吐いた。
「今日、少しわかった気がする」
「何を?」
「悲しいから、幸せじゃないわけじゃない」
真尋は葵を見る。大切な気づきだと思った。
人は、幸せか不幸かのどちらかではない。
失恋して泣きながら、仕事で認められる。悲しい夜に、温かい食事を美味しいと思う。誰かを失いながら、別の誰かとのつながりを知る。
相反する感情が、同じ一日の中にある。
「そうですね」
真尋は答えた。
「今日の葵には、悲しみも、うれしいこともありました。どちらも本当です」
「幸せには、一つの形しかないと思ってた」
葵が呟いた。真尋は驚いた。自分の中で何度も考えていた言葉。それを葵も口にする。
「彼氏がいて、仕事もうまくいって、いつか結婚して。全部揃ったら幸せなんだと思ってた」
葵は空になったプリンの容器を見た。
「一つなくなったら、全部不幸になると思ってた」
「今は?」
「まだ、すごく悲しい。でも、全部なくなったわけじゃない」
「はい」
「真尋は、最初から知ってた?」
「いいえ」
「今も?」
「学んでいる途中です」
葵は笑った。
「一緒ですね」
「はい」
*
食器を片づけた後、葵は真尋へ水曜日に自宅へ戻りたいと話した。
「水曜日?」
「うん」
「急に決めましたね」
「美月と話して」
「怖くないですか」
「怖い」
「それでも?」
「ずっとここにいたら、戻れなくなりそう」
真尋は葵の言葉を慎重に受け止めた。自分から戻る日を決めた。それは大きな一歩だ。
「一緒に行きますか」
「来てほしい」
「泊まる?」
「最初の夜だけ」
「木曜日は?」
「一人で寝てみる」
「無理だったら?」
「電話する」
「はい」
「真尋、仕事は?」
「水曜日なら、定時に近い時間で帰れると思います」
「本当に?」
「予定を確認します」
「無理しないで」
葵が言った。以前なら、真尋が無理をすることを当然のように受け取っていたかもしれない。今は気にしている。
「無理なら、別の日にします」
「うん」
「でも、葵が水曜日に戻りたいなら、できるだけ合わせます」
「ありがとう」
「自分で決めましたね」
「うん」
葵は誇らしそうだった。
*
夜、寝る前。葵は自分のスマートフォンを確認した。直哉から新しい連絡はない。
葵は数秒、画面を見つめた。そして閉じた。
「連絡、しない?」
真尋が尋ねる。
「今日は」
「はい」
「明日は、明日の私が決める」
「はい」
「真尋。今日、美月に真尋のこと話した」
「どんなふうに?」
「秋田で会った、大切な友達」
「大切な?」
「嫌?」
「うれしいです」
「美月も、いい人だって」
「会ったことがないのに」
「私が信じてるからって」
黒田と同じ言葉。
葵が信じる真尋だから、黒田も葵を信じる。真尋が信じる黒田だから、葵も黒田を受け入れる。
人への信頼は、少しずつつながっていく。
「いつか、美月にも会ってみたいです」
「本当?」
「葵の大切な人なら」
「黒田さんにも?」
「いきなり全員で会うんですか」
「楽しそう」
「私は緊張します」
「真尋でも?」
「もちろん」
葵は笑った。ベッドへ入る。今日は、最初から距離を空けて横になった。
「手、握らなくていい?」
真尋が尋ねる。
「大丈夫。でも、話して」
「何を?」
「黒田さんとの次の予定」
「来週の日曜日です」
「どこ?」
「旧岩崎邸庭園」
「写真、送って」
「行けたら」
「今度は絶対?」
「葵が元気なら」
真尋が言うと、葵は真剣な顔になった。
「私が元気じゃなくても、行って」
「でも」
「私は、水曜日に家へ戻る。日曜日は一人でも過ごす」
「無理しなくても」
「真尋。できることと、できないことを言うんでしょう」
「はい」
「日曜日は、私も真尋に頼らない練習する」
「誰にも頼らない必要はありません」
「美月に連絡するかもしれない」
「いいと思います」
「お母さんにも、話すかもしれない」
「それも」
「真尋は、黒田さんと会って」
葵は笑った。
「幸せを一つ増やしてきて」
真尋の胸が温かくなる。
「まだ、幸せになるとは限りません」
「会いたい人に会うことが、幸せでしょう」
葵の言葉は、以前より強くなっていた。
「そうですね」
「だから、行って」
「わかりました」
「約束」
「はい」
葵は安心したように目を閉じた。
「真尋。今日も、生きた」
「はい」
「昨日より、少し普通だった。明日も?」
「明日も」
「悲しくても?」
「悲しくても」
葵の呼吸がゆっくりになる。真尋は隣で目を閉じた。
*
翌朝。真尋が目を覚ますと、葵はまだ眠っていた。
昨日よりも穏やかな寝顔。手はつないでいない。それでも、同じ部屋の中で安心して眠っている。
真尋は静かに起き、カーテンを開けた。曇り空。薄い朝の光。
キッチンへ立ち、二人分のコーヒーと、簡単な朝食を用意する。パンを二枚。卵を二つ。ヨーグルトも二つ。
何もかもが二人分になっている。一人分の生活へ、もう一人の時間が重なっている。
真尋は、それが永遠に続けばいいとは思わなかった。葵は自分の部屋へ戻る。真尋も、一人の生活へ戻る。
だが、一度誰かと共有した部屋は、以前とまったく同じにはならない。
葵がいなくなっても、ここで二人で食べた朝食や、泣いた夜、笑った声が残る。空っぽではない静けさになる。
寝室の扉が開く。葵が眠そうな顔で現れた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は、昨日より眠れた」
「よかったです」
「直哉の夢、見なかった」
「はい」
「少し寂しい」
「夢でも会いたかった?」
「うん」
「それも、自然です」
葵はテーブルに並ぶ朝食を見た。
「二人分」
「はい」
「水曜日には、一人分に戻るね」
真尋は考えた。
「量は一人分に戻ります」
「量は?」
「葵がいた時間は残ります」
葵は真尋を見る。
「悲しみだけじゃなく?」
「もちろん」
「プリン食べたことも。鍋作ったことも。朝、会社へ行ったことも」
「はい」
葵は笑った。
「じゃあ、この部屋にいろいろ置いていく」
「物は増やさないでください」
「思い出」
「それなら」
*
二人は向かい合って座った。新しい朝食を食べる。
悲しみは、まだそこにある。けれど昨日より、少し小さな場所へ収まり始めている。
仕事。美月。石橋。真尋。温かい食事。自分の部屋へ戻る決意。
葵の一日の中へ、別のものが戻ってきた。
真尋の生活にも、黒田や部下や葵との時間が、それぞれ違う温度で並び始めている。
どれか一つだけを選び、ほかを捨てる必要はない。誰か一人だけを、人生のすべてにしなくてもいい。
それぞれの場所で息をしながら、会いたい時には会い、支えが必要な時には手を伸ばす。
離れている時間があるからこそ、互いに自分の足で立てる。
「真尋。今日も会社、行けそう」
「はい」
「夜は、ここに帰る」
「お帰りなさいと言います」
「うん」
葵はパンを一口食べた。
「明日は、自分の家に帰る」
「一緒に行きます」
「その次の日は、一人」
「電話できます」
「でも、まず一人でやってみる」
「はい」
「真尋も、黒田さんに会う」
「日曜日に」
「楽しみ?」
真尋は迷わず答えた。
「楽しみです」
葵は嬉しそうに笑った。
「よかった」
窓の外では、雲の切れ間から少しずつ光が広がっている。
昨日と同じ東京。同じ朝。
けれど、二人は少しずつ違う自分で、新しい一日へ向かおうとしていた。




