第八章 悲しみの置き場所
葵が目を覚ましたのは、午前九時を少し過ぎた頃だった。
眠っていた時間は、それほど長くない。けれど一度も目を覚まさずに眠れたらしく、呼吸は昨夜よりも穏やかになっていた。
真尋はリビングのソファに座り、読みかけの本を開いていた。文字を追ってはいたが、内容はほとんど頭へ入っていない。寝室から物音がするたびに顔を上げ、葵が起きたのではないかと耳を澄ませていた。
九時十分。寝室の扉が、ゆっくり開いた。
真尋の部屋着を着た葵が、ぼんやりした顔で立っている。髪は乱れ、目元は腫れていた。今がどこなのか、すぐにはわからないような表情だった。
「おはようございます」
真尋が声をかける。葵は数秒、真尋を見つめた。
「おはよう」
声が掠れている。
「眠れましたか」
「少し」
「朝方からは、よく眠っていましたよ」
「今、何時?」
「九時過ぎです」
「そんなに」
「日曜日ですから、急ぐ必要はありません」
葵はゆっくりリビングへ入ってきた。ソファの端へ腰を下ろす。テーブルの上には、白湯と水が置かれている。
「喉、渇いていませんか」
「うん」
葵は白湯の入ったカップを持ち、一口飲んだ。そのまま両手で包み、湯気を見つめる。しばらく何も言わない。
真尋も、話しかけなかった。
目を覚ました瞬間、昨夜の出来事がどのように戻ってくるのか、真尋にはわかっていた。
最初の数秒は、ただ朝が来たと感じる。それから少しずつ、現実が形を取り戻す。
別れたこと。もう恋人ではないこと。昨日までの未来が、なくなったこと。
眠っている間だけ忘れていた痛みが、再び胸へ戻ってくる。
葵の目から、涙が一粒落ちた。
「夢じゃなかった」
「はい」
「別れたんだね」
「はい」
「起きたら、元に戻ってる気がしてた」
真尋は何も言わず、葵の隣へ移動した。葵はカップをテーブルへ置き、両手で顔を覆った。
「つらい」
「そうですね」
「昨日よりつらいかもしれない」
「朝は、現実がはっきりしますから」
「今日、何したらいいの」
「何もしなくていいですよ」
「でも、ずっとここにいるわけにいかない」
「今日中に帰る必要はありません」
「仕事の服もない」
「明日の朝、家へ戻って着替えてから会社へ行くこともできます」
「会社、行けるかな」
「今、決めなくていいです」
葵が顔を上げる。
「何でも今決めなくていいって言うね」
「今決めようとすると、全部が重くなるからです」
「でも、明日は来る」
「来ます」
「何も決めてなくても」
「はい」
*
葵は唇を噛んだ。
「怖い」
「仕事へ行くことが?」
「普通の顔をすることが」
葵は目元を拭った。
「会社の人は、私が昨日別れたことなんて知らないでしょう。いつも通り挨拶して、メール返して、企画の話をして」
「無理に元気な顔をする必要はありません」
「でも、泣いたら困る」
「泣きそうになったら、席を外せばいいです」
「そんな簡単に」
「簡単ではありません。でも、逃げ場所を作っておくと少し違います」
真尋は自分の会社で、どこなら一人になれるか考えた。非常階段。空いている会議室。化粧室。誰にも見られずに呼吸を整えられる場所。
「葵の会社に、一人になれる場所はありますか」
「屋上は入れないし、会議室はいつも使ってる」
「化粧室は?」
「人が多い」
「近くにカフェは?」
「あります」
「昼休みに、そこへ逃げてもいいでしょう」
「逃げてもいいの?」
「戻るための逃げ道なら」
葵は考えるように、テーブルの木目を見た。
「休んだほうがいいかな」
「休みたいですか」
「わからない」
「休むことで、一人で考え続けそうなら、会社へ行くのも一つです」
「仕事してたら、少し忘れられるかもしれない」
「そうかもしれません」
「でも、途中で苦しくなったら」
「帰ればいいです」
「そんな簡単に帰れないよ」
「早退する理由は、体調不良で十分です」
「失恋で体調不良」
「眠れていないし、食事も取れていません。十分、体調不良です」
葵は笑った。ほんのわずかな笑いだった。それでも真尋は、無理にその笑顔を広げようとはしなかった。
*
「何か食べられそうですか」
「いらない」
「お腹は空いていません?」
「空いてない」
「昨日、ほとんど食べていません」
「でも、食べたくない」
真尋はキッチンへ視線を向けた。朝のうちに、柔らかい雑炊を作る準備をしていた。葵が起きたら、すぐ温められる。
「一口だけでも」
「真尋」
「はい」
「今、食べたら吐きそう」
その言葉に、真尋は勧めるのをやめた。
「わかりました」
「怒らない?」
「どうして怒るんですか」
「せっかく作ってくれたのに」
「葵が食べるために作ったのであって、私の気持ちを満足させるためではありません」
葵は真尋を見た。
「真尋は、そういうことを言える人なんだね」
「以前は言えなかったかもしれません」
「どうして?」
「作ったのだから食べてほしい。心配しているのだから、元気になってほしい。そう思う気持ちを、相手のためだと勘違いすることがあったからです」
「今も、元気になってほしいでしょう?」
「もちろん」
「でも、急がせない」
「葵の悲しみは、私の都合では消えませんから」
葵はまた涙を流した。
「消したい」
「はい」
「今すぐ」
「はい」
「どうしたらいい?」
真尋はすぐには答えなかった。
忘れる方法。気持ちを切り替える方法。新しい恋を見つける方法。そのような言葉は、世の中にいくらでもある。
だが今の葵に必要なのは、悲しみを追い出すことではない。
「消さなくていいと思います」
真尋は言った。
「どうして?」
「今は、消そうとするほど直哉さんのことを考えるからです」
「じゃあ、ずっと苦しいまま?」
「悲しみを置く場所を、少しずつ作るんです」
「置く場所?」
「今は、胸の中全部に広がっているでしょう」
葵は小さく頷いた。
「仕事をする時間。食事をする時間。眠る時間。少しずつ、直哉さんを考えない時間が増えていきます」
「忘れるってこと?」
「忘れるのではなく、悲しみが占める場所が小さくなる」
「本当に?」
「私は、そうでした」
葵は真尋の顔を見る。
「慎一さんの時?」
「はい」
「どのくらいかかった?」
「正確には覚えていません」
「一か月?」
「もっとです」
「半年?」
「その頃には、毎日泣くことはなくなっていました」
「半年も」
葵の顔が歪む。
「長い」
「同じではありません」
「私は、もっと長いかもしれない?」
「もっと短いかもしれない」
「わからないんだ」
「はい」
「でも、いつかは小さくなる?」
「はい」
真尋は迷わず答えた。
「今のままの大きさではありません」
葵は白湯をもう一口飲んだ。少しぬるくなっている。
「悲しみの置き場所」
「はい」
「ここに置いてもいい?」
葵は部屋を見回した。
「真尋の部屋に」
「いいですよ」
「でも、ずっとあったら嫌じゃない?」
「葵が持って帰れるようになるまで、置いておきます」
葵は泣きながら笑った。
「重そう」
「部屋は広いので」
「一LDKなのに」
「一人には十分です」
「二人には?」
真尋は考えた。
「今朝は、ちょうどいいです」
葵は毛布を胸元まで引き上げた。
「ありがとう」
*
午前十時を過ぎた頃、真尋のスマートフォンが震えた。黒田からのメッセージだった。
『おはようございます。お二人とも、少しは眠れましたか』
真尋は画面を見た後、葵へ尋ねた。
「黒田さんからです。葵のことを心配しています」
「私のこと、話したんだよね」
「はい」
「嫌じゃなかった?」
「何が?」
「知らない人に、失恋したことを知られるの」
葵は考えた。
「黒田さんなら、いい」
「会ったことはありませんよ」
「真尋が信じてる人だから」
その言葉が、真尋の胸へ静かに届いた。
信じている人。黒田を、そこまで深く知っているわけではない。それでも昨夜、事情を説明しようと思えた。黒田なら受け止めてくれると、どこかで信じていた。
『少し眠れました。今朝はまだ食事が取れていませんが、話はできています』
送信する。すぐに返事が来た。
『水口さんも食べていますか』
真尋は、自分が朝からコーヒーしか飲んでいないことに気づいた。葵のことを心配するあまり、自分の食事を忘れていた。
「何て?」
葵が尋ねる。
「私も食べているかと」
「食べてないでしょう」
「コーヒーは飲みました」
「それは食事じゃない」
葵が強い口調で言った。
「私に食べろって言うのに」
「葵が食べられないので、私だけ食べるのも」
「どうして?」
「目の前で食べにくいでしょう」
「お腹すいてないの?」
真尋は自分の体へ意識を向けた。言われてみれば、空腹を感じる。
「少し」
「食べて」
「でも」
「私のために食べないの、嫌」
葵は真尋を見つめた。
「私が悲しいからって、真尋までお腹を空かせないで」
「葵」
「真尋が普通に食べてるのを見たら、私も食べられるかもしれない」
真尋はその言葉を受け取った。
支えることと、一緒に弱ることは違う。
相手が食べられないから、自分も食べない。相手が眠れないから、自分も眠らない。それを優しさだと思えば、いつか二人とも倒れてしまう。
「では、食べます」
「うん」
「雑炊を温めます。葵は、食べられそうなら一口だけ」
「無理なら?」
「食べなくていいです」
「約束?」
「はい」
*
真尋はキッチンへ立った。鍋を火にかける。出汁の香りが、少しずつ部屋へ広がる。
炊いた米。柔らかく煮た大根と人参。卵。
葵はソファに座ったまま、キッチンを見ている。
「真尋って、料理するんだね」
「普通に」
「もっと、外食ばかりだと思ってた」
「忙しい時はそうです」
「慎一さんにも作ってた?」
質問の後、葵は気まずそうに口を閉じた。
「ごめん」
「大丈夫です」
「今、直哉のことばかり考えてるから、真尋の昔の恋も気になって」
「よく作っていました」
「何を?」
「煮物やスープ。慎一は、味の濃い料理が好きでした」
「別れた後、同じもの作れた?」
真尋は鍋を混ぜる手を止めた。
「しばらくは作れませんでした」
「思い出すから?」
「はい」
「今は?」
「作れます」
「味、変わった?」
「少し」
「どうして?」
「自分の好きな味にしたからです」
葵は黙ってその言葉を聞いていた。
真尋は二つの器へ雑炊をよそった。一つは普通の量。もう一つは、小さな茶碗に二口ほど。テーブルへ運ぶ。
「葵は、これだけ」
「子どもみたい」
「食べられそうなら」
真尋は先にスプーンを取った。一口食べる。温かい。昨夜から緊張していた胃が、ようやく食べ物を受け入れる。
「おいしいです」
「自分で言うんだ」
「葵が何も言わないので」
「まだ食べてない」
「無理しなくていいですよ」
葵は小さな器を見た。湯気が上がっている。しばらくして、スプーンを手に取った。一口。ゆっくり噛み、飲み込む。
「どうですか」
「味する」
「昨日のスープより?」
「うん」
「もう一口いけそうですか」
葵は考え、もう一口食べた。器が空になる。
「食べられた」
「はい」
「もっと、食べたほうがいい?」
「今は十分です」
「真尋、全部食べて」
「食べます」
真尋は自分の器を食べ進めた。葵は白湯を飲みながら見ている。
「誰かが食べてる音って、落ち着く」
「そうですか?」
「生活が続いてる感じがする」
真尋はスプーンを置いた。
「続いていますよ」
「私が別れても」
「はい」
「真尋が黒田さんと会えなくなっても」
「延期しただけです」
「会社があって、朝ご飯を食べて」
「はい」
「普通の日みたい」
「普通の日の中に、悲しいことがあるんです」
「悲しい日が、全部特別な日になるわけじゃない?」
「全部を止めるわけではありません」
葵は窓の外を見た。雲の間から、薄い光が差している。
「残酷だね」
「そうですね」
「でも、少し安心する」
「私もそうでした」
真尋は空になった器を持ち、キッチンへ立った。洗い物をする。水の音。食器が触れる音。
部屋の中へ、日常の音が戻ってくる。
*
昼前、葵は自分のスマートフォンを開いた。
直哉から届いたメッセージは、昨夜の一通だけだった。返信はしていない。
トーク画面を開いたまま、何度も文字を打っては消す。
「何を書いているんですか」
真尋が尋ねる。
「ありがとうって」
「送りたいですか」
「わからない」
「今、送らなくてもいいでしょう」
「でも、既読をつけたままなのが気になる」
「直哉さんがどう思うかを考えています?」
「うん」
「葵は、今どうしたいですか」
「何も返したくない」
「なら、返さなくてもいいです」
「でも、失礼じゃない?」
「別れた直後です。すぐに丁寧な返事をしなければならないとは思いません」
「直哉は謝ってくれた」
「葵が傷ついていないことにはなりません」
「怒ってもいい?」
「いいですよ」
「嫌いって思っても?」
「思ってもいいです」
「本当は、嫌いじゃない」
「それも、いいです」
「何でもいいって言う」
「感情には、正しい順番がありませんから」
葵はスマートフォンを伏せた。
「返すの、やめる」
「はい」
「三日後に返してもいい?」
「葵が返したい時に」
「一週間後でも?」
「はい」
「返さなくても?」
「荷物の連絡は必要でしょうが、昨夜のメッセージへ返事をする義務はありません」
葵は少し肩の力を抜いた。
「真尋に聞くと、許可をもらった気がする」
「私は許可を出す立場ではありません」
「でも、いいって言ってもらえると安心する」
「いつか、自分で自分に言えるようになるといいですね」
「今は無理」
「今は、私が言います」
葵は小さく笑った。
「返事しなくていい?」
「いいです」
「泣いていい?」
「いいです」
「今日は帰らなくていい?」
「いいです」
「会社、休んでもいい?」
「それは、明日の朝に考えましょう」
「全部いいじゃないんだ」
「仕事は、葵の生活に関わるので」
「真尋らしい」
*
葵は毛布の上へ顎を乗せた。
「黒田さんは、今何してるかな」
「どうして急に?」
「真尋と出かける予定だったでしょう」
「別の予定を入れたかもしれません」
「怒ってないかな」
「さっきも連絡をくれました」
「優しい」
「はい」
「真尋、好きになりそう?」
葵の質問に、真尋は驚いた。
「今、それを聞きます?」
「自分の恋が終わったから、人の恋を見たい」
「逃避ですね」
「少し」
真尋はソファの反対側へ座った。
「好きになるかは、まだわかりません」
「でも、会いたい?」
「はい」
「声を聞くと、うれしい?」
「はい」
「メッセージが来たら?」
「うれしいです」
「じゃあ、好きなんじゃない?」
「それだけで決めるんですか」
「私の時は、そうだった」
「いつから直哉さんを好きになったんですか」
葵は考えた。
「最初に二人でご飯へ行った時かも」
「一度目?」
「うん。私の話を、すごく楽しそうに聞いてくれた」
「どんな話を?」
「会社で新しいお菓子の企画を考えてる話。まだ入社したばかりで、何もできなかったのに、面白そうって言ってくれた」
葵の顔が、柔らかくなる。
「直哉は、私が話すことを全部覚えてくれた。次に会った時、あの企画どうなったって聞いてくれて」
真尋は、黒田が自分の話したことを覚えていた場面を思い出した。静かな店が好きなこと。赤ワインが得意ではないこと。
自分の言葉を覚えてもらえると、人は大切にされていると感じる。
「うれしかったんですね」
「うん」
「その頃の直哉さんを好きだった」
「今も、その人は直哉の中にいると思う」
「そうかもしれません」
「でも、私には見せなくなった」
「はい」
「だったら、またいつか戻るかもしれない」
葵の声に期待が混じる。真尋は否定も肯定もしなかった。
「戻った時に、葵がまだ一緒にいたいと思っているかは、今はわかりません」
「私の気持ちも変わる?」
「変わるかもしれません」
「変わりたくない」
「どうして?」
「直哉を好きだった自分まで、なくなる気がする」
「気持ちが変わっても、好きだったことはなくなりません」
「でも、忘れたくない」
「忘れなくていいです」
*
葵は壁に飾られた写真を見る。
「真尋、慎一さんの写真は?」
「ありません」
「捨てた?」
「箱へ入れています」
「まだ持ってるんだ」
「はい」
「見たりする?」
「ほとんど」
「でも、捨てない」
「捨てる必要がないと思えるようになったからです」
「私は、どうしよう」
「今は、何もしなくていいでしょう」
「写真も、トークも?」
「削除したいなら、してもいいです。ただ、後から戻せないものもあります」
「残ってたら見ちゃう」
「見ないように、別の場所へ移す方法もあります」
「非表示にする?」
「はい」
「写真も、別のフォルダに入れる」
「今すぐしなくても」
「少しやりたい」
葵はスマートフォンを開いた。直哉との写真を選ぶ。
二人で海へ行った写真。誕生日のケーキ。水族館。クリスマスのイルミネーション。
どの写真の中でも、二人は笑っている。
葵の目に涙が浮かぶ。
「楽しかった」
「はい」
「嘘じゃなかった」
「はい」
「この時は、直哉も好きだったよね」
「そうだと思います」
「じゃあ、残していいよね」
「もちろん」
葵は新しいフォルダを作った。名前を入力する欄で、指が止まる。
「何て名前にしよう」
「葵が決めてください」
「思い出?」
「いいと思います」
「直哉、だと見るのがつらい」
「では、日付でも」
「二年間」
葵はそう入力した。写真をすべて、そのフォルダへ移す。ホーム画面からは見えなくなる。
「消えてない」
「はい」
「でも、すぐには見えない」
「今は、それでいいのでは」
葵はスマートフォンを胸へ抱えた。
「悲しみの置き場所みたい」
「そうですね」
「消さないで、置いておく」
「はい」
「いつか、見られるかな」
「見たいと思う時が来たら」
葵は頷いた。
*
午後一時過ぎ、真尋は黒田から電話を受けた。
葵はソファで毛布に包まり、テレビをつけている。画面では旅番組が流れていたが、ほとんど見ていない。
「電話、出て」
葵が言う。
「ここで?」
「私、聞かないふりする」
「別の部屋へ行きます」
「寂しい」
真尋は困ったように葵を見た。
「数分ですよ」
「わかってる」
「リビングにいます」
「うん」
真尋は窓際へ移動し、電話へ出た。
「もしもし」
『水口さん。お休み中にすみません』
「大丈夫です」
『その後、どうですか』
「朝は少し食べられました。今はテレビを見ています」
『少し落ち着いたんですね』
「波があります」
『そうですよね』
黒田の声は穏やかだった。真尋は、電話越しの声を聞いて安心する自分に気づいた。
「今日は、すみませんでした」
『また謝っていますね』
「楽しみにしていたので」
『僕もです』
黒田は正直に答えた。
『でも、会えないことを残念に思うのと、事情を理解することは同時にできます』
真尋は窓の外を見る。
相手が優しければ、残念に思わないはずだと勝手に考えていた。黒田は違う。残念だと認めながら、責めない。
その正直さが、真尋には心地よかった。
「私も、会いたかったです」
『ありがとうございます』
「でも、今日は葵といたいと思いました」
『それも、わかっています』
「黒田さん。今の言い方、嫌ではありませんでしたか」
『どの部分ですか』
「葵といたいから、会わないということ」
黒田は黙った。
『正直に言えば、少し寂しいです』
真尋の胸が揺れる。
『ただ、水口さんにとって大切な人がいることは、僕にとって悪いことではありません』
「どうして?」
『誰かを大切にできる水口さんだから、好きになったのだと思います』
真尋は返事ができなかった。
『重かったですか』
「いえ」
『すみません。急がないと決めたのに』
「今のは、うれしかったです」
真尋は小さく答えた。
『そうですか』
「はい」
『では、言ってよかったです』
黒田の声が笑う。
*
「黒田さんは、今日はどうするんですか」
『家の片づけをしています』
「珍しいですね」
『僕の部屋を見たことがないのに』
「建築士だから、いつも整っているのかと思っていました」
『机の上は図面でいっぱいです』
「意外です」
『水口さんに、いつか来てもらうために片づけています』
真尋は思わず笑った。
「まだ先でしょう」
『待つ時間も、準備になります』
「黒田さんらしいですね」
『水口さん。支える人が倒れないようにしてください』
真尋は、葵からも同じことを言われた気がした。
「朝は、食事を忘れていました」
『やはり』
「葵に怒られました」
『いい友人ですね』
「はい」
『水口さんは、相手のためなら自分を後回しにしそうです』
「以前は、そうではなかったと思います」
『以前は、誰にも頼られないようにしていたのかもしれません』
黒田の指摘に、真尋は黙った。
誰かを優先しすぎる自分を恐れていたからこそ、最初から距離を置いていた。近づかなければ、背負わずに済む。期待されなければ、自分を後回しにしなくて済む。
「そうかもしれません」
『大切にすることと、全部背負うことは違います』
「はい」
『僕にも、少しくらい頼ってください』
「黒田さんに?」
『今すぐ何かできるわけではありませんが、話を聞くことはできます』
真尋は迷った。
頼る練習。葵と約束した。黒田とも、もう一度知り合うことにした。
「では、聞いてください」
『はい』
「葵を支えたいです。でも、どこまでしていいのかわかりません。ここにいてほしいと言われれば、いてほしいと思います。仕事を休みたいと言えば、休んでもいいと言いたくなる。でも、私がいることで、一人で立つ力を奪ってしまうのではないかとも思います」
『難しいですね』
「答えがないでしょう」
『はい』
黒田は、安易に答えを出さなかった。
『ただ、水口さんが何でも決めてしまわなければ、大丈夫ではないでしょうか』
「何でも決めない?」
『葵さんがどうしたいかを聞く。水口さんができることと、できないことを伝える。その間で決める』
「一方的に支えない」
『はい。二人で考える』
真尋は、昨夜黒田と話したことを思い出した。二人で確かめる。関係の形を、最初から決めない。
「ありがとうございます」
『役に立ちましたか』
「はい」
『では、少し頼ってもらえましたね』
黒田の声が穏やかに笑う。真尋も笑った。
「来週は、必ず会いたいです」
『必ず、は重くありませんか』
「会いたいです」
『僕もです』
「楽しみにしています」
『僕も、楽しみにしています』
*
電話を切る。真尋が振り返ると、葵が毛布から顔だけを出している。
「聞かないふりは?」
「少し聞こえた」
「どこまで?」
「来週は必ず会いたい」
真尋は顔が熱くなるのを感じた。
「そこだけですか」
「いいところだけ」
「忘れてください」
「嫌」
葵は笑った。失恋した翌日の顔で、それでも人の恋を喜んでいる。
「黒田さん、やっぱり優しいね」
「はい」
「真尋も、声が柔らかかった」
「またそれですか」
「好きになり始めてる顔」
「顔は見えなかったでしょう」
「声でわかる」
真尋は言い返さず、葵の隣へ座った。
「葵。これからのことを、二人で決めましょう」
「何を?」
「今日は泊まるか。明日、仕事へ行くか。私がどこまで手伝うか」
「真尋が決めてくれないの?」
「葵の生活ですから」
「今は、決める力ない」
「では、一つずつ聞きます。今日は、ここにいたいですか」
葵はすぐに頷いた。
「いたい」
「では、泊まってください」
「明日は?」
「明日の朝、起きてから決める」
「仕事は?」
「行けそうなら行く。難しければ、休む連絡をする」
「真尋が連絡してくれる?」
「それは葵がしてください」
「無理かも」
「文章を一緒に考えることはできます」
「うん」
「自宅へ着替えを取りに行く必要がありますね」
「一人で行けない」
「一緒に行きます」
「真尋、明日仕事は?」
「私は仕事です」
「じゃあ、今日?」
「夕方、少し落ち着いたら」
葵は不安そうな顔をした。
「直哉の家の近くじゃないよ」
「わかっています」
「でも、自分の部屋に戻ったら、写真とか、もらったものがいっぱいある」
「必要なものだけ取って、すぐ戻りましょう」
「真尋も入ってくれる?」
「はい」
「待っていてくれる?」
「はい」
葵は息を吐いた。
「じゃあ、行く」
「葵が決めましたね」
「真尋が一緒だから」
「それでも、決めたのは葵です」
*
午後三時を過ぎる頃、葵はシャワーを浴び、昨日着ていた服へ着替えた。
同じ白いニットと青いスカート。昨日、直哉へ会うために選んだ服。
鏡の前に立った葵は、スカートの裾を見つめた。
「これ、もう着たくない」
「今日は、ほかの服がありませんから」
「直哉と別れた服」
「服に罪はありませんよ」
「真尋のピアスと同じ?」
真尋は驚いた。
秋田へ出発する朝、慎一からもらったピアスをつけた。その話は、葵に詳しくしていなかったはずだ。
「慎一さんからもらったもの、今も使ってるって言ってたでしょう」
「覚えていたんですね」
「うん」
葵は鏡の中の自分を見る。
「いつか、普通に着られるかな」
「着たいと思えば」
「捨ててもいい?」
「もちろん」
「でも、好きな服だった」
「では、今はしまっておけばいいです」
「悲しみの置き場所」
「はい」
葵はコートを着た。真尋も支度をする。二人で部屋を出た。
駅へ向かう道。昨日と同じように、真尋は葵の歩調へ合わせる。
葵は何度もスマートフォンを確認した。直哉から新しい連絡はない。
「連絡、待ってる?」
真尋が尋ねる。
「少し」
「来たら、うれしい?」
「戻りたいって書いてあったら」
「そうですね」
「でも、来ない」
「はい」
「何回も見ないほうがいいよね」
「見たい時は見てもいいです。ただ、見るたびに苦しくなるなら、バッグへ入れましょう」
葵はスマートフォンをバッグへ入れた。
「真尋、私から連絡するの止めてね」
「止めることはできません」
「どうして?」
「葵のスマートフォンですから」
「でも、送りそうになったら」
「一度、私に見せてください」
「送らないほうがいいって言って」
「内容を見て、葵が本当に送りたいのか一緒に考えます」
「絶対に止めるとは言わないんだ」
「葵が戻りたいと決める可能性もあります」
「真尋は、それでもいい?」
「葵の人生です」
「でも、また苦しむかも」
「その時も、話を聞きます」
葵は真尋を見た。
「止めてくれたほうが楽なのに」
「私が決めれば、うまくいかなかった時に葵が私を責めるかもしれません」
「責めないよ」
「自分を責めるかもしれない」
「どういうこと?」
「真尋に言われたから別れた。真尋に止められたから戻れなかった。そう思うかもしれません」
葵はしばらく黙った。
「自分で決めるの、怖い」
「はい」
「間違えるかもしれない」
「はい」
「でも、真尋も間違える?」
「もちろん」
「誰も正解を知らない」
「そうです」
「大人って、もっと答えがあると思ってた」
「私もです」
二人は駅へ入り、電車へ乗った。
*
葵の部屋へ入ると、昨日までとは違う空気が流れているように感じた。
実際には何も変わっていない。ソファ。白いローテーブル。壁の写真。窓辺の観葉植物。真尋が昨日作った朝食の皿も、きれいに片づけられている。
それでも葵にとっては、恋人がいる自分の部屋から、恋人を失った自分の部屋へ変わっている。
葵は玄関へ入ったまま、動かなかった。
「大丈夫ですか」
「匂いがする」
「直哉さんの?」
「前に使ってた香水」
真尋にはわからない。もう部屋には残っていないほど微かな匂いなのだろう。記憶が、匂いを作り出しているのかもしれない。
「入れそうですか」
「うん」
葵は靴を脱いだ。リビングへ入る。
壁に飾られている友人との写真の横に、小さな棚がある。そこに、男性用のマグカップが一つ置かれていた。
葵はそれを見た瞬間、立ち止まった。
「直哉の」
「持って帰らなかったんですね」
「うちで使うために買ったから」
白いカップに、青い線が入っている。葵は手に取った。
「捨てたほうがいい?」
「今、決めます?」
「見てると苦しい」
「箱へ入れましょうか」
「うん」
真尋は棚の下から空き箱を見つけた。葵がマグカップを入れる。
そのほかにも、直哉が置いていったものがあった。小さな傘。歯ブラシ。部屋着のTシャツ。充電器。
葵は一つずつ集め、箱へ入れた。
「荷物、返さないと」
「落ち着いてからでいいと言っていましたね」
「うん」
「この箱にまとめておけばいいでしょう」
「全部入れたら、本当にいなくなる」
「今すぐ、全部集めなくてもいいです」
「でも、中途半端に残ってたら探しちゃう」
葵は涙を拭きながら、部屋の中を見回した。洗面所。寝室。クローゼット。
思い出の物を探す行為は、傷を何度も触ることに似ている。それでも葵は、自分で一つずつ選んだ。
真尋は手伝おうとせず、近くにいた。
これは葵の部屋であり、葵と直哉の時間だ。勝手に物へ触れてはいけないと思った。
最後に、ベッドの横から一冊の本が出てきた。
「これ、直哉の」
建築写真の本だった。真尋は驚いた。
「建物が好きだったんですか」
「直哉じゃなくて、私が見たいって言ったら買ってくれた」
「そうなんですね」
「真尋と黒田さんが建物を見に行くって聞いて、思い出した」
葵は本の表紙を撫でた。
「これは、返したくない」
「葵への贈り物なら、返す必要はありません」
「見たら思い出す」
「それでも持っていたい?」
「うん」
「では、残しましょう」
葵は本を自分の本棚へ戻した。マグカップや歯ブラシとは違う場所。
悲しみの置き方は、物によって違う。返すもの。見えない場所へ置くもの。残しておくもの。
すべてを同じように処理する必要はない。
*
「着替えを取ります」
葵はクローゼットから仕事用の服と下着、化粧品をバッグへ入れた。
「何日分?」
「二日」
「火曜日までは、うちにいるつもりですか」
「だめ?」
「だめではありません」
「真尋、仕事でしょう」
「葵もです」
「夜、一人になるのが怖い」
「では、二日分」
「水曜日は?」
「火曜日の夜に考えましょう」
「また後で」
「はい」
葵は必要なものをバッグへ詰めた。最後に、部屋の鍵を見つめる。
「ここに帰れるかな」
「今日は、戻らなくていいです」
「いつかは帰らないと」
「はい」
「真尋、一緒に来てくれる?」
「最初は」
「ずっとは?」
「毎日は無理です」
葵は寂しそうな顔をした。真尋は、その表情を見て胸が痛んだ。
何でもしてあげたいと思う。だが、それでは葵の生活を真尋が背負うことになる。
「葵。私は、ずっと一緒にはいられません」
「わかってる」
「でも、一人で帰る日を一緒に決めることはできます。電話をつないでおくこともできます。最初の夜だけ、泊まりに来ることもできます」
「本当?」
「予定が合えば」
「真尋」
「はい」
「できないことも言うようになったね」
真尋は驚いた。
「以前は、できることしか言わなかったですか」
「私が一人になりたくないって言ったら、ずっといてくれそうだった」
「そのほうがよかった?」
葵は首を振った。
「怖かった」
「どうして?」
「真尋が疲れて、急にいなくなるかもしれないから」
真尋は言葉を失った。
何もかも引き受ければ、いつか限界が来る。その時、相手から離れたくなるかもしれない。葵はそれを直感的に感じていた。
「できることと、できないことを話します」
真尋は言った。
「はい」
「そのほうが、長く一緒にいられると思うので」
葵は静かに頷いた。
「うん」
*
真尋の部屋へ戻る途中、二人はスーパーマーケットへ寄った。
葵は食欲が戻っていない。それでも夕食に何が食べられそうか、二人で店内を歩いた。
「うどんは?」
「少しなら」
「温かいものがいいですね」
「卵も入れて」
「野菜は?」
「いらない」
「少し入れます」
「真尋」
「栄養が必要です」
「お母さん」
「十一歳しか違いません」
いつものやり取り。葵が笑う。真尋は、その笑いを大切に思った。
大きく元気になる必要はない。一日の中に数秒でも、悲しみ以外の感情が現れる。それだけで、心が休める。
うどん。卵。ねぎ。鶏肉。ヨーグルト。果物。真尋は自分の食事用に、魚と野菜も買った。
葵がかごの中を見る。
「私が食べないものも買うんだ」
「私は食べますから」
「うん」
葵は満足そうに頷いた。
「真尋が普通に生活してるの、安心する」
「葵も、少しずつ戻りますよ」
「普通に?」
「葵の普通へ」
「直哉がいない普通」
「はい」
葵の表情が曇る。真尋は、言わないほうがよかったかと思った。だが葵は、考えた後に頷いた。
「まだ想像できない」
「今は」
「でも、作るんだよね」
「少しずつ」
「新しい普通」
「はい」
*
夕方、二人は真尋の部屋でうどんを食べた。葵は半分ほど食べることができた。
「昨日より食べられた」
「はい」
「明日はもっと?」
「同じでもいいです」
「減ったら?」
「そういう日もあります」
「真尋は、すぐ良くならなくても怒らないね」
「失恋は病気ではありませんから、治療の予定は立てられません」
「でも、心が痛い」
「はい」
「薬があればいいのに」
「本当に」
食後、葵は仕事用のパソコンを開いた。月曜日の予定を確認する。
午前十時から企画会議。午後は販促資料の修正。先輩へ提出する案もある。
「休めない」
葵が呟いた。
「有給は?」
「あります」
「使ってもいいのでは」
「会議、私が出さなきゃいけない案がある」
「誰かへ引き継げますか」
「今日連絡すれば」
「休みたいですか」
葵は画面を見つめた。
「家にいたら、直哉に連絡すると思う」
「会社へ行く?」
「行きたい」
「では、行く準備をしましょう」
「朝、起きられなかったら」
「私が起こします」
「途中で泣いたら」
「カフェへ逃げる」
「先輩に何て言う?」
「体調が悪いと言う」
「真尋に電話していい?」
「仕事中なので、すぐ出られないかもしれません」
「葵、って呼んで」
真尋は吹き出した。
「葵」
「うん」
「すぐ出られなくても、折り返します。メッセージなら、見られる時に見ます」
「黒田さんにも?」
「どうして黒田さんが?」
「真尋が仕事で出られなかったら」
「まだ会ったこともないでしょう」
「でも、優しいから」
「葵は頼る範囲を広げすぎです」
「冗談」
葵の口元が緩んだ。
「じゃあ、真尋だけ」
「会社の友人はいませんか」
「いるけど、失恋の話はしたくない」
「話さなくても、体調が悪い時に一緒にいてもらうことはできます」
「迷惑じゃない?」
「決めるのは、その人です」
真尋は自分にも言い聞かせるように言った。
「葵が先に迷惑だと決めない」
「うん」
「頼れそうな人を、一人考えておいてください」
葵はしばらく考えた。
「同期の美月」
「どんな人ですか」
「大学は違うけど、同じ年に入社した。時々、一緒にご飯食べる」
「その人なら?」
「体調悪いって言えば、昼に一緒にいてくれるかも」
「では、明日の朝、連絡してみてください」
「失恋って言わなくていい?」
「葵が話したくなければ」
「うん」
葵は安心した表情になった。
支える場所を、真尋一人にしない。それは葵のためでもあり、真尋のためでもある。
人は、一人の人だけを帰る場所にしなくてもいい。いくつもの小さな場所を持てばいい。
*
夜、葵は再び真尋のベッドへ入った。昨夜よりは落ち着いている。
それでも照明を消すと、直哉のことを思い出すらしく、何度か深く息を吐いた。
「スマートフォン、見たい?」
真尋が尋ねる。
「見たくない。でも、気になる」
「通知は切ったままです」
「うん」
「今夜は、リビングへ置いておきましょうか」
「それがいい」
葵のスマートフォンは、寝室の外へ置いた。真尋のスマートフォンだけが、サイドテーブルにある。
「真尋。黒田さんから連絡来た?」
「さっき、おやすみなさいと」
「返した?」
「はい」
「何て?」
「おやすみなさい」
「それだけ?」
「何を期待しているんですか」
「会いたいです、とか」
「来週会います」
「好きになりそうです、とか」
「言いません」
「つまらない」
「葵の恋愛番組ではありません」
葵が小さく笑った。
「でも、黒田さんがいてよかったね」
「はい」
「私がずっと真尋の時間を取っても、全部なくならない」
「どういう意味ですか」
「真尋には、黒田さんがいる。仕事も、香織さんも、お母さんもいる」
「葵もいます」
「うん」
「葵にも、私以外の人がいます」
「美月とか?」
「ご両親も」
「今は話したくない」
「今は、でいいです」
「会社も」
「はい」
「直哉がいなくなっても、全部なくならない」
「はい」
「頭ではわかる」
「心は?」
「まだ、全部なくなった感じ」
「今夜は、それでいいです」
「いつか、頭と同じになる?」
「少しずつ」
*
葵は布団の中で体を丸めた。
「真尋。私、直哉がいなくても生きられる?」
「生きられます」
「すぐ答えた」
「はい」
「どうしてわかるの?」
「今、生きているからです」
「まだ一日しか経ってない」
「その一日を生きました」
「真尋がいたから」
「それでも、息をして、食べて、歩いたのは葵です」
葵はしばらく黙った。
「今日、うどん食べた」
「はい」
「写真、フォルダへ入れた。仕事、行くって決めた。部屋にも戻った」
「はい」
「私、少しやったね」
「たくさんやりました」
「褒めて」
「よく頑張りました」
葵は思わず笑った。
「本当にお母さんみたい」
「もう言わないでください」
「真尋。今日は、手を握らなくても眠れるかもしれない」
「そうですか」
「でも、近くにいて」
「います」
真尋は隣に横になった。手はつながない。葵はそれでも、目を閉じた。
しばらくして、規則正しい寝息が聞こえ始める。
真尋は暗い天井を見た。
昨日より、ほんの少しだけ距離がある。その距離が、寂しいのではなく、嬉しかった。
葵が一人で眠る力を、少し取り戻している。
支えることは、ずっと手を握り続けることではない。必要な時に差し出し、離せる時には離す。その繰り返しなのだろう。
*
翌朝、午前六時半。真尋はアラームで目を覚ました。
隣では、葵がまだ眠っている。泣き腫らした目元。静かな寝息。
真尋は起こさないよう、そっとベッドを出た。洗面所で顔を洗い、仕事の支度をする。キッチンで朝食を作る。トースト。ゆで卵。温かいスープ。
葵が食べられるかはわからない。それでも、用意しておく。
午前七時。真尋は寝室の扉を開けた。
「葵」
小さく呼ぶ。葵が眉を寄せ、目を開けた。
「朝?」
「はい」
「仕事」
「どうしますか」
葵は布団の中でしばらく考えた。真尋は急かさず待った。
「行く」
「本当に?」
「行ってみる」
「途中で難しくなったら?」
「帰る」
「はい」
「美月に連絡する。真尋にも」
「はい」
葵はゆっくり起き上がった。目をこすり、深く息を吸う。
「直哉のこと、思い出した」
「はい」
「朝は、つらい」
「そうですね」
「でも、昨日より少しだけ立てる」
葵はベッドから足を下ろした。床へ立つ。
「立てた」
「はい」
「今日も、生きる?」
「はい」
真尋は葵の前に立った。
「今日も、生きます」
葵は声を立てて笑った。
「一緒に?」
「それぞれの会社で」
「でも、同じ東京で」
「はい」
「夜は、ここに帰る」
「はい」
葵は頷いた。
*
二人は向かい合って朝食を取った。葵はトーストを半分と、スープを少し飲んだ。昨日よりも多い。
真尋は何も言わず、自分の食事を続けた。
「褒めないの?」
葵が尋ねる。
「食べられたことを?」
「うん」
「よく食べました」
「子どもみたい」
「自分で言わせたんでしょう」
二人は笑った。
食後、葵は同期の美月へメッセージを送った。
『今日、少し体調が悪くて。昼、一緒にいてもらってもいい?』
数分後、返信が届く。
『もちろん。大丈夫? 会社着いたら連絡して』
葵は画面を真尋へ見せた。
「優しい」
「頼ってよかったですね」
「失恋って言ってないのに」
「話さなくても、そばにいてくれる人はいます」
「うん」
葵はスマートフォンをバッグへ入れた。真尋はコートを着る。葵も、昨日持ってきた仕事用のジャケットへ袖を通した。
鏡の前で髪を整える。目元の腫れは、化粧をしても完全には隠れない。
「ひどい顔」
葵が言う。
「昨日よりは落ち着いています」
「会社の人に聞かれたら?」
「眠れなかったと言えばいいです」
「嘘じゃない」
「はい」
「直哉には、連絡しない」
「今は?」
「今日は」
「はい」
「明日は、明日の私が決める」
「覚えましたね」
「真尋が何度も言うから」
*
二人は玄関へ向かった。真尋が先に靴を履く。葵も続く。
扉を開ける前に、葵が真尋の袖をつかんだ。
「怖い」
「はい」
「でも、行く」
「はい」
「真尋。帰ってきてもいい?」
「もちろん」
「元気になってなくても?」
「もちろん」
「泣いても?」
「もちろん」
葵は深く息を吸った。
「行ってきます」
真尋は扉を開けた。
「行ってらっしゃい」
二人は廊下へ出た。朝の空気が冷たい。エレベーターを待つ。扉が開き、二人で乗り込む。
一階へ降りる間、葵は鏡の中の自分を見ていた。泣いた顔。眠れていない顔。それでも、仕事へ向かう顔。
「真尋。昨日の私より、少し強い?」
真尋は鏡越しに葵を見る。
「強くならなくてもいいです」
「でも」
「昨日より、自分で立っています」
葵はその言葉を聞き、少しだけ背筋を伸ばした。
マンションを出る。駅までの道を、二人で歩く。途中で、路線が分かれる。
「ここで」
真尋が立ち止まる。
「うん」
「着いたら連絡してください」
「真尋も」
「はい」
「昼休みも」
「仕事の状況によります」
「わかってる」
「無理なら、退勤後に」
「うん」
葵は一歩進み、振り返った。
「真尋。昨日、ここに帰ってきてよかった」
「私も、帰ってきてくれてよかったです」
葵は笑った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
*
葵は駅へ向かって歩き出した。真尋はその背中を見送った。
足取りは、まだ軽くない。時々、立ち止まりそうになる。それでも一歩ずつ、自分の会社へ向かっている。
真尋も反対側の改札へ歩き始めた。
一緒に歩く時間は終わった。今は、それぞれの道を進む時間だ。
離れていても、戻る場所は消えない。
誰かを支えることと、その人の代わりに歩くことは違う。
葵は、葵の足で。真尋は、真尋の足で。それぞれの日常へ戻っていく。
悲しみを抱えたままでも、朝の電車には乗れる。心が置いていかれたように感じても、体を前へ運ぶことはできる。
その小さな一歩が、いつか新しい日常へ続いていく。
真尋のスマートフォンが震えた。黒田からだった。
『おはようございます。今日も無理をしすぎずに』
真尋は歩きながら返信した。
『おはようございます。葵は仕事へ向かいました。私も今から会社です』
考え、もう一文を加える。
『昨日、話を聞いてもらえて助かりました』
送信する。すぐに返事が来た。
『いつでも聞きます』
真尋は画面を見て、静かに笑った。
帰る場所は、一つでなくていい。支える人も、一人でなくていい。
悲しみの置き場所も、幸せの形も。人生の中に、いくつあってもいい。
真尋はスマートフォンをしまい、駅の階段を上った。
朝の光が、ビルの間から差し込んでいる。
新しい一日は、すでに始まっていた。




