↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/46

第八章 悲しみの置き場所

葵が目を覚ましたのは、午前九時を少し過ぎた頃だった。

 眠っていた時間は、それほど長くない。けれど一度も目を覚まさずに眠れたらしく、呼吸は昨夜よりも穏やかになっていた。

 真尋はリビングのソファに座り、読みかけの本を開いていた。文字を追ってはいたが、内容はほとんど頭へ入っていない。寝室から物音がするたびに顔を上げ、葵が起きたのではないかと耳を澄ませていた。

 九時十分。寝室の扉が、ゆっくり開いた。

 真尋の部屋着を着た葵が、ぼんやりした顔で立っている。髪は乱れ、目元は腫れていた。今がどこなのか、すぐにはわからないような表情だった。

「おはようございます」

 真尋が声をかける。葵は数秒、真尋を見つめた。

「おはよう」

 声が掠れている。

「眠れましたか」

「少し」

「朝方からは、よく眠っていましたよ」

「今、何時?」

「九時過ぎです」

「そんなに」

「日曜日ですから、急ぐ必要はありません」

 葵はゆっくりリビングへ入ってきた。ソファの端へ腰を下ろす。テーブルの上には、白湯と水が置かれている。

「喉、渇いていませんか」

「うん」

 葵は白湯の入ったカップを持ち、一口飲んだ。そのまま両手で包み、湯気を見つめる。しばらく何も言わない。

 真尋も、話しかけなかった。

 目を覚ました瞬間、昨夜の出来事がどのように戻ってくるのか、真尋にはわかっていた。

 最初の数秒は、ただ朝が来たと感じる。それから少しずつ、現実が形を取り戻す。

 別れたこと。もう恋人ではないこと。昨日までの未来が、なくなったこと。

 眠っている間だけ忘れていた痛みが、再び胸へ戻ってくる。

 葵の目から、涙が一粒落ちた。

「夢じゃなかった」

「はい」

「別れたんだね」

「はい」

「起きたら、元に戻ってる気がしてた」

 真尋は何も言わず、葵の隣へ移動した。葵はカップをテーブルへ置き、両手で顔を覆った。

「つらい」

「そうですね」

「昨日よりつらいかもしれない」

「朝は、現実がはっきりしますから」

「今日、何したらいいの」

「何もしなくていいですよ」

「でも、ずっとここにいるわけにいかない」

「今日中に帰る必要はありません」

「仕事の服もない」

「明日の朝、家へ戻って着替えてから会社へ行くこともできます」

「会社、行けるかな」

「今、決めなくていいです」

 葵が顔を上げる。

「何でも今決めなくていいって言うね」

「今決めようとすると、全部が重くなるからです」

「でも、明日は来る」

「来ます」

「何も決めてなくても」

「はい」

     *

 葵は唇を噛んだ。

「怖い」

「仕事へ行くことが?」

「普通の顔をすることが」

 葵は目元を拭った。

「会社の人は、私が昨日別れたことなんて知らないでしょう。いつも通り挨拶して、メール返して、企画の話をして」

「無理に元気な顔をする必要はありません」

「でも、泣いたら困る」

「泣きそうになったら、席を外せばいいです」

「そんな簡単に」

「簡単ではありません。でも、逃げ場所を作っておくと少し違います」

 真尋は自分の会社で、どこなら一人になれるか考えた。非常階段。空いている会議室。化粧室。誰にも見られずに呼吸を整えられる場所。

「葵の会社に、一人になれる場所はありますか」

「屋上は入れないし、会議室はいつも使ってる」

「化粧室は?」

「人が多い」

「近くにカフェは?」

「あります」

「昼休みに、そこへ逃げてもいいでしょう」

「逃げてもいいの?」

「戻るための逃げ道なら」

 葵は考えるように、テーブルの木目を見た。

「休んだほうがいいかな」

「休みたいですか」

「わからない」

「休むことで、一人で考え続けそうなら、会社へ行くのも一つです」

「仕事してたら、少し忘れられるかもしれない」

「そうかもしれません」

「でも、途中で苦しくなったら」

「帰ればいいです」

「そんな簡単に帰れないよ」

「早退する理由は、体調不良で十分です」

「失恋で体調不良」

「眠れていないし、食事も取れていません。十分、体調不良です」

 葵は笑った。ほんのわずかな笑いだった。それでも真尋は、無理にその笑顔を広げようとはしなかった。

     *

「何か食べられそうですか」

「いらない」

「お腹は空いていません?」

「空いてない」

「昨日、ほとんど食べていません」

「でも、食べたくない」

 真尋はキッチンへ視線を向けた。朝のうちに、柔らかい雑炊を作る準備をしていた。葵が起きたら、すぐ温められる。

「一口だけでも」

「真尋」

「はい」

「今、食べたら吐きそう」

 その言葉に、真尋は勧めるのをやめた。

「わかりました」

「怒らない?」

「どうして怒るんですか」

「せっかく作ってくれたのに」

「葵が食べるために作ったのであって、私の気持ちを満足させるためではありません」

 葵は真尋を見た。

「真尋は、そういうことを言える人なんだね」

「以前は言えなかったかもしれません」

「どうして?」

「作ったのだから食べてほしい。心配しているのだから、元気になってほしい。そう思う気持ちを、相手のためだと勘違いすることがあったからです」

「今も、元気になってほしいでしょう?」

「もちろん」

「でも、急がせない」

「葵の悲しみは、私の都合では消えませんから」

 葵はまた涙を流した。

「消したい」

「はい」

「今すぐ」

「はい」

「どうしたらいい?」

 真尋はすぐには答えなかった。

 忘れる方法。気持ちを切り替える方法。新しい恋を見つける方法。そのような言葉は、世の中にいくらでもある。

 だが今の葵に必要なのは、悲しみを追い出すことではない。

「消さなくていいと思います」

 真尋は言った。

「どうして?」

「今は、消そうとするほど直哉さんのことを考えるからです」

「じゃあ、ずっと苦しいまま?」

「悲しみを置く場所を、少しずつ作るんです」

「置く場所?」

「今は、胸の中全部に広がっているでしょう」

 葵は小さく頷いた。

「仕事をする時間。食事をする時間。眠る時間。少しずつ、直哉さんを考えない時間が増えていきます」

「忘れるってこと?」

「忘れるのではなく、悲しみが占める場所が小さくなる」

「本当に?」

「私は、そうでした」

 葵は真尋の顔を見る。

「慎一さんの時?」

「はい」

「どのくらいかかった?」

「正確には覚えていません」

「一か月?」

「もっとです」

「半年?」

「その頃には、毎日泣くことはなくなっていました」

「半年も」

 葵の顔が歪む。

「長い」

「同じではありません」

「私は、もっと長いかもしれない?」

「もっと短いかもしれない」

「わからないんだ」

「はい」

「でも、いつかは小さくなる?」

「はい」

 真尋は迷わず答えた。

「今のままの大きさではありません」

 葵は白湯をもう一口飲んだ。少しぬるくなっている。

「悲しみの置き場所」

「はい」

「ここに置いてもいい?」

 葵は部屋を見回した。

「真尋の部屋に」

「いいですよ」

「でも、ずっとあったら嫌じゃない?」

「葵が持って帰れるようになるまで、置いておきます」

 葵は泣きながら笑った。

「重そう」

「部屋は広いので」

「一LDKなのに」

「一人には十分です」

「二人には?」

 真尋は考えた。

「今朝は、ちょうどいいです」

 葵は毛布を胸元まで引き上げた。

「ありがとう」

     *

 午前十時を過ぎた頃、真尋のスマートフォンが震えた。黒田からのメッセージだった。

『おはようございます。お二人とも、少しは眠れましたか』

 真尋は画面を見た後、葵へ尋ねた。

「黒田さんからです。葵のことを心配しています」

「私のこと、話したんだよね」

「はい」

「嫌じゃなかった?」

「何が?」

「知らない人に、失恋したことを知られるの」

 葵は考えた。

「黒田さんなら、いい」

「会ったことはありませんよ」

「真尋が信じてる人だから」

 その言葉が、真尋の胸へ静かに届いた。

 信じている人。黒田を、そこまで深く知っているわけではない。それでも昨夜、事情を説明しようと思えた。黒田なら受け止めてくれると、どこかで信じていた。

『少し眠れました。今朝はまだ食事が取れていませんが、話はできています』

 送信する。すぐに返事が来た。

『水口さんも食べていますか』

 真尋は、自分が朝からコーヒーしか飲んでいないことに気づいた。葵のことを心配するあまり、自分の食事を忘れていた。

「何て?」

 葵が尋ねる。

「私も食べているかと」

「食べてないでしょう」

「コーヒーは飲みました」

「それは食事じゃない」

 葵が強い口調で言った。

「私に食べろって言うのに」

「葵が食べられないので、私だけ食べるのも」

「どうして?」

「目の前で食べにくいでしょう」

「お腹すいてないの?」

 真尋は自分の体へ意識を向けた。言われてみれば、空腹を感じる。

「少し」

「食べて」

「でも」

「私のために食べないの、嫌」

 葵は真尋を見つめた。

「私が悲しいからって、真尋までお腹を空かせないで」

「葵」

「真尋が普通に食べてるのを見たら、私も食べられるかもしれない」

 真尋はその言葉を受け取った。

 支えることと、一緒に弱ることは違う。

 相手が食べられないから、自分も食べない。相手が眠れないから、自分も眠らない。それを優しさだと思えば、いつか二人とも倒れてしまう。

「では、食べます」

「うん」

「雑炊を温めます。葵は、食べられそうなら一口だけ」

「無理なら?」

「食べなくていいです」

「約束?」

「はい」

     *

 真尋はキッチンへ立った。鍋を火にかける。出汁の香りが、少しずつ部屋へ広がる。

 炊いた米。柔らかく煮た大根と人参。卵。

 葵はソファに座ったまま、キッチンを見ている。

「真尋って、料理するんだね」

「普通に」

「もっと、外食ばかりだと思ってた」

「忙しい時はそうです」

「慎一さんにも作ってた?」

 質問の後、葵は気まずそうに口を閉じた。

「ごめん」

「大丈夫です」

「今、直哉のことばかり考えてるから、真尋の昔の恋も気になって」

「よく作っていました」

「何を?」

「煮物やスープ。慎一は、味の濃い料理が好きでした」

「別れた後、同じもの作れた?」

 真尋は鍋を混ぜる手を止めた。

「しばらくは作れませんでした」

「思い出すから?」

「はい」

「今は?」

「作れます」

「味、変わった?」

「少し」

「どうして?」

「自分の好きな味にしたからです」

 葵は黙ってその言葉を聞いていた。

 真尋は二つの器へ雑炊をよそった。一つは普通の量。もう一つは、小さな茶碗に二口ほど。テーブルへ運ぶ。

「葵は、これだけ」

「子どもみたい」

「食べられそうなら」

 真尋は先にスプーンを取った。一口食べる。温かい。昨夜から緊張していた胃が、ようやく食べ物を受け入れる。

「おいしいです」

「自分で言うんだ」

「葵が何も言わないので」

「まだ食べてない」

「無理しなくていいですよ」

 葵は小さな器を見た。湯気が上がっている。しばらくして、スプーンを手に取った。一口。ゆっくり噛み、飲み込む。

「どうですか」

「味する」

「昨日のスープより?」

「うん」

「もう一口いけそうですか」

 葵は考え、もう一口食べた。器が空になる。

「食べられた」

「はい」

「もっと、食べたほうがいい?」

「今は十分です」

「真尋、全部食べて」

「食べます」

 真尋は自分の器を食べ進めた。葵は白湯を飲みながら見ている。

「誰かが食べてる音って、落ち着く」

「そうですか?」

「生活が続いてる感じがする」

 真尋はスプーンを置いた。

「続いていますよ」

「私が別れても」

「はい」

「真尋が黒田さんと会えなくなっても」

「延期しただけです」

「会社があって、朝ご飯を食べて」

「はい」

「普通の日みたい」

「普通の日の中に、悲しいことがあるんです」

「悲しい日が、全部特別な日になるわけじゃない?」

「全部を止めるわけではありません」

 葵は窓の外を見た。雲の間から、薄い光が差している。

「残酷だね」

「そうですね」

「でも、少し安心する」

「私もそうでした」

 真尋は空になった器を持ち、キッチンへ立った。洗い物をする。水の音。食器が触れる音。

 部屋の中へ、日常の音が戻ってくる。

     *

 昼前、葵は自分のスマートフォンを開いた。

 直哉から届いたメッセージは、昨夜の一通だけだった。返信はしていない。

 トーク画面を開いたまま、何度も文字を打っては消す。

「何を書いているんですか」

 真尋が尋ねる。

「ありがとうって」

「送りたいですか」

「わからない」

「今、送らなくてもいいでしょう」

「でも、既読をつけたままなのが気になる」

「直哉さんがどう思うかを考えています?」

「うん」

「葵は、今どうしたいですか」

「何も返したくない」

「なら、返さなくてもいいです」

「でも、失礼じゃない?」

「別れた直後です。すぐに丁寧な返事をしなければならないとは思いません」

「直哉は謝ってくれた」

「葵が傷ついていないことにはなりません」

「怒ってもいい?」

「いいですよ」

「嫌いって思っても?」

「思ってもいいです」

「本当は、嫌いじゃない」

「それも、いいです」

「何でもいいって言う」

「感情には、正しい順番がありませんから」

 葵はスマートフォンを伏せた。

「返すの、やめる」

「はい」

「三日後に返してもいい?」

「葵が返したい時に」

「一週間後でも?」

「はい」

「返さなくても?」

「荷物の連絡は必要でしょうが、昨夜のメッセージへ返事をする義務はありません」

 葵は少し肩の力を抜いた。

「真尋に聞くと、許可をもらった気がする」

「私は許可を出す立場ではありません」

「でも、いいって言ってもらえると安心する」

「いつか、自分で自分に言えるようになるといいですね」

「今は無理」

「今は、私が言います」

 葵は小さく笑った。

「返事しなくていい?」

「いいです」

「泣いていい?」

「いいです」

「今日は帰らなくていい?」

「いいです」

「会社、休んでもいい?」

「それは、明日の朝に考えましょう」

「全部いいじゃないんだ」

「仕事は、葵の生活に関わるので」

「真尋らしい」

     *

 葵は毛布の上へ顎を乗せた。

「黒田さんは、今何してるかな」

「どうして急に?」

「真尋と出かける予定だったでしょう」

「別の予定を入れたかもしれません」

「怒ってないかな」

「さっきも連絡をくれました」

「優しい」

「はい」

「真尋、好きになりそう?」

 葵の質問に、真尋は驚いた。

「今、それを聞きます?」

「自分の恋が終わったから、人の恋を見たい」

「逃避ですね」

「少し」

 真尋はソファの反対側へ座った。

「好きになるかは、まだわかりません」

「でも、会いたい?」

「はい」

「声を聞くと、うれしい?」

「はい」

「メッセージが来たら?」

「うれしいです」

「じゃあ、好きなんじゃない?」

「それだけで決めるんですか」

「私の時は、そうだった」

「いつから直哉さんを好きになったんですか」

 葵は考えた。

「最初に二人でご飯へ行った時かも」

「一度目?」

「うん。私の話を、すごく楽しそうに聞いてくれた」

「どんな話を?」

「会社で新しいお菓子の企画を考えてる話。まだ入社したばかりで、何もできなかったのに、面白そうって言ってくれた」

 葵の顔が、柔らかくなる。

「直哉は、私が話すことを全部覚えてくれた。次に会った時、あの企画どうなったって聞いてくれて」

 真尋は、黒田が自分の話したことを覚えていた場面を思い出した。静かな店が好きなこと。赤ワインが得意ではないこと。

 自分の言葉を覚えてもらえると、人は大切にされていると感じる。

「うれしかったんですね」

「うん」

「その頃の直哉さんを好きだった」

「今も、その人は直哉の中にいると思う」

「そうかもしれません」

「でも、私には見せなくなった」

「はい」

「だったら、またいつか戻るかもしれない」

 葵の声に期待が混じる。真尋は否定も肯定もしなかった。

「戻った時に、葵がまだ一緒にいたいと思っているかは、今はわかりません」

「私の気持ちも変わる?」

「変わるかもしれません」

「変わりたくない」

「どうして?」

「直哉を好きだった自分まで、なくなる気がする」

「気持ちが変わっても、好きだったことはなくなりません」

「でも、忘れたくない」

「忘れなくていいです」

     *

 葵は壁に飾られた写真を見る。

「真尋、慎一さんの写真は?」

「ありません」

「捨てた?」

「箱へ入れています」

「まだ持ってるんだ」

「はい」

「見たりする?」

「ほとんど」

「でも、捨てない」

「捨てる必要がないと思えるようになったからです」

「私は、どうしよう」

「今は、何もしなくていいでしょう」

「写真も、トークも?」

「削除したいなら、してもいいです。ただ、後から戻せないものもあります」

「残ってたら見ちゃう」

「見ないように、別の場所へ移す方法もあります」

「非表示にする?」

「はい」

「写真も、別のフォルダに入れる」

「今すぐしなくても」

「少しやりたい」

 葵はスマートフォンを開いた。直哉との写真を選ぶ。

 二人で海へ行った写真。誕生日のケーキ。水族館。クリスマスのイルミネーション。

 どの写真の中でも、二人は笑っている。

 葵の目に涙が浮かぶ。

「楽しかった」

「はい」

「嘘じゃなかった」

「はい」

「この時は、直哉も好きだったよね」

「そうだと思います」

「じゃあ、残していいよね」

「もちろん」

 葵は新しいフォルダを作った。名前を入力する欄で、指が止まる。

「何て名前にしよう」

「葵が決めてください」

「思い出?」

「いいと思います」

「直哉、だと見るのがつらい」

「では、日付でも」

「二年間」

 葵はそう入力した。写真をすべて、そのフォルダへ移す。ホーム画面からは見えなくなる。

「消えてない」

「はい」

「でも、すぐには見えない」

「今は、それでいいのでは」

 葵はスマートフォンを胸へ抱えた。

「悲しみの置き場所みたい」

「そうですね」

「消さないで、置いておく」

「はい」

「いつか、見られるかな」

「見たいと思う時が来たら」

 葵は頷いた。

     *

 午後一時過ぎ、真尋は黒田から電話を受けた。

 葵はソファで毛布に包まり、テレビをつけている。画面では旅番組が流れていたが、ほとんど見ていない。

「電話、出て」

 葵が言う。

「ここで?」

「私、聞かないふりする」

「別の部屋へ行きます」

「寂しい」

 真尋は困ったように葵を見た。

「数分ですよ」

「わかってる」

「リビングにいます」

「うん」

 真尋は窓際へ移動し、電話へ出た。

「もしもし」

『水口さん。お休み中にすみません』

「大丈夫です」

『その後、どうですか』

「朝は少し食べられました。今はテレビを見ています」

『少し落ち着いたんですね』

「波があります」

『そうですよね』

 黒田の声は穏やかだった。真尋は、電話越しの声を聞いて安心する自分に気づいた。

「今日は、すみませんでした」

『また謝っていますね』

「楽しみにしていたので」

『僕もです』

 黒田は正直に答えた。

『でも、会えないことを残念に思うのと、事情を理解することは同時にできます』

 真尋は窓の外を見る。

 相手が優しければ、残念に思わないはずだと勝手に考えていた。黒田は違う。残念だと認めながら、責めない。

 その正直さが、真尋には心地よかった。

「私も、会いたかったです」

『ありがとうございます』

「でも、今日は葵といたいと思いました」

『それも、わかっています』

「黒田さん。今の言い方、嫌ではありませんでしたか」

『どの部分ですか』

「葵といたいから、会わないということ」

 黒田は黙った。

『正直に言えば、少し寂しいです』

 真尋の胸が揺れる。

『ただ、水口さんにとって大切な人がいることは、僕にとって悪いことではありません』

「どうして?」

『誰かを大切にできる水口さんだから、好きになったのだと思います』

 真尋は返事ができなかった。

『重かったですか』

「いえ」

『すみません。急がないと決めたのに』

「今のは、うれしかったです」

 真尋は小さく答えた。

『そうですか』

「はい」

『では、言ってよかったです』

 黒田の声が笑う。

     *

「黒田さんは、今日はどうするんですか」

『家の片づけをしています』

「珍しいですね」

『僕の部屋を見たことがないのに』

「建築士だから、いつも整っているのかと思っていました」

『机の上は図面でいっぱいです』

「意外です」

『水口さんに、いつか来てもらうために片づけています』

 真尋は思わず笑った。

「まだ先でしょう」

『待つ時間も、準備になります』

「黒田さんらしいですね」

『水口さん。支える人が倒れないようにしてください』

 真尋は、葵からも同じことを言われた気がした。

「朝は、食事を忘れていました」

『やはり』

「葵に怒られました」

『いい友人ですね』

「はい」

『水口さんは、相手のためなら自分を後回しにしそうです』

「以前は、そうではなかったと思います」

『以前は、誰にも頼られないようにしていたのかもしれません』

 黒田の指摘に、真尋は黙った。

 誰かを優先しすぎる自分を恐れていたからこそ、最初から距離を置いていた。近づかなければ、背負わずに済む。期待されなければ、自分を後回しにしなくて済む。

「そうかもしれません」

『大切にすることと、全部背負うことは違います』

「はい」

『僕にも、少しくらい頼ってください』

「黒田さんに?」

『今すぐ何かできるわけではありませんが、話を聞くことはできます』

 真尋は迷った。

 頼る練習。葵と約束した。黒田とも、もう一度知り合うことにした。

「では、聞いてください」

『はい』

「葵を支えたいです。でも、どこまでしていいのかわかりません。ここにいてほしいと言われれば、いてほしいと思います。仕事を休みたいと言えば、休んでもいいと言いたくなる。でも、私がいることで、一人で立つ力を奪ってしまうのではないかとも思います」

『難しいですね』

「答えがないでしょう」

『はい』

 黒田は、安易に答えを出さなかった。

『ただ、水口さんが何でも決めてしまわなければ、大丈夫ではないでしょうか』

「何でも決めない?」

『葵さんがどうしたいかを聞く。水口さんができることと、できないことを伝える。その間で決める』

「一方的に支えない」

『はい。二人で考える』

 真尋は、昨夜黒田と話したことを思い出した。二人で確かめる。関係の形を、最初から決めない。

「ありがとうございます」

『役に立ちましたか』

「はい」

『では、少し頼ってもらえましたね』

 黒田の声が穏やかに笑う。真尋も笑った。

「来週は、必ず会いたいです」

『必ず、は重くありませんか』

「会いたいです」

『僕もです』

「楽しみにしています」

『僕も、楽しみにしています』

     *

 電話を切る。真尋が振り返ると、葵が毛布から顔だけを出している。

「聞かないふりは?」

「少し聞こえた」

「どこまで?」

「来週は必ず会いたい」

 真尋は顔が熱くなるのを感じた。

「そこだけですか」

「いいところだけ」

「忘れてください」

「嫌」

 葵は笑った。失恋した翌日の顔で、それでも人の恋を喜んでいる。

「黒田さん、やっぱり優しいね」

「はい」

「真尋も、声が柔らかかった」

「またそれですか」

「好きになり始めてる顔」

「顔は見えなかったでしょう」

「声でわかる」

 真尋は言い返さず、葵の隣へ座った。

「葵。これからのことを、二人で決めましょう」

「何を?」

「今日は泊まるか。明日、仕事へ行くか。私がどこまで手伝うか」

「真尋が決めてくれないの?」

「葵の生活ですから」

「今は、決める力ない」

「では、一つずつ聞きます。今日は、ここにいたいですか」

 葵はすぐに頷いた。

「いたい」

「では、泊まってください」

「明日は?」

「明日の朝、起きてから決める」

「仕事は?」

「行けそうなら行く。難しければ、休む連絡をする」

「真尋が連絡してくれる?」

「それは葵がしてください」

「無理かも」

「文章を一緒に考えることはできます」

「うん」

「自宅へ着替えを取りに行く必要がありますね」

「一人で行けない」

「一緒に行きます」

「真尋、明日仕事は?」

「私は仕事です」

「じゃあ、今日?」

「夕方、少し落ち着いたら」

 葵は不安そうな顔をした。

「直哉の家の近くじゃないよ」

「わかっています」

「でも、自分の部屋に戻ったら、写真とか、もらったものがいっぱいある」

「必要なものだけ取って、すぐ戻りましょう」

「真尋も入ってくれる?」

「はい」

「待っていてくれる?」

「はい」

 葵は息を吐いた。

「じゃあ、行く」

「葵が決めましたね」

「真尋が一緒だから」

「それでも、決めたのは葵です」

     *

 午後三時を過ぎる頃、葵はシャワーを浴び、昨日着ていた服へ着替えた。

 同じ白いニットと青いスカート。昨日、直哉へ会うために選んだ服。

 鏡の前に立った葵は、スカートの裾を見つめた。

「これ、もう着たくない」

「今日は、ほかの服がありませんから」

「直哉と別れた服」

「服に罪はありませんよ」

「真尋のピアスと同じ?」

 真尋は驚いた。

 秋田へ出発する朝、慎一からもらったピアスをつけた。その話は、葵に詳しくしていなかったはずだ。

「慎一さんからもらったもの、今も使ってるって言ってたでしょう」

「覚えていたんですね」

「うん」

 葵は鏡の中の自分を見る。

「いつか、普通に着られるかな」

「着たいと思えば」

「捨ててもいい?」

「もちろん」

「でも、好きな服だった」

「では、今はしまっておけばいいです」

「悲しみの置き場所」

「はい」

 葵はコートを着た。真尋も支度をする。二人で部屋を出た。

 駅へ向かう道。昨日と同じように、真尋は葵の歩調へ合わせる。

 葵は何度もスマートフォンを確認した。直哉から新しい連絡はない。

「連絡、待ってる?」

 真尋が尋ねる。

「少し」

「来たら、うれしい?」

「戻りたいって書いてあったら」

「そうですね」

「でも、来ない」

「はい」

「何回も見ないほうがいいよね」

「見たい時は見てもいいです。ただ、見るたびに苦しくなるなら、バッグへ入れましょう」

 葵はスマートフォンをバッグへ入れた。

「真尋、私から連絡するの止めてね」

「止めることはできません」

「どうして?」

「葵のスマートフォンですから」

「でも、送りそうになったら」

「一度、私に見せてください」

「送らないほうがいいって言って」

「内容を見て、葵が本当に送りたいのか一緒に考えます」

「絶対に止めるとは言わないんだ」

「葵が戻りたいと決める可能性もあります」

「真尋は、それでもいい?」

「葵の人生です」

「でも、また苦しむかも」

「その時も、話を聞きます」

 葵は真尋を見た。

「止めてくれたほうが楽なのに」

「私が決めれば、うまくいかなかった時に葵が私を責めるかもしれません」

「責めないよ」

「自分を責めるかもしれない」

「どういうこと?」

「真尋に言われたから別れた。真尋に止められたから戻れなかった。そう思うかもしれません」

 葵はしばらく黙った。

「自分で決めるの、怖い」

「はい」

「間違えるかもしれない」

「はい」

「でも、真尋も間違える?」

「もちろん」

「誰も正解を知らない」

「そうです」

「大人って、もっと答えがあると思ってた」

「私もです」

 二人は駅へ入り、電車へ乗った。

     *

 葵の部屋へ入ると、昨日までとは違う空気が流れているように感じた。

 実際には何も変わっていない。ソファ。白いローテーブル。壁の写真。窓辺の観葉植物。真尋が昨日作った朝食の皿も、きれいに片づけられている。

 それでも葵にとっては、恋人がいる自分の部屋から、恋人を失った自分の部屋へ変わっている。

 葵は玄関へ入ったまま、動かなかった。

「大丈夫ですか」

「匂いがする」

「直哉さんの?」

「前に使ってた香水」

 真尋にはわからない。もう部屋には残っていないほど微かな匂いなのだろう。記憶が、匂いを作り出しているのかもしれない。

「入れそうですか」

「うん」

 葵は靴を脱いだ。リビングへ入る。

 壁に飾られている友人との写真の横に、小さな棚がある。そこに、男性用のマグカップが一つ置かれていた。

 葵はそれを見た瞬間、立ち止まった。

「直哉の」

「持って帰らなかったんですね」

「うちで使うために買ったから」

 白いカップに、青い線が入っている。葵は手に取った。

「捨てたほうがいい?」

「今、決めます?」

「見てると苦しい」

「箱へ入れましょうか」

「うん」

 真尋は棚の下から空き箱を見つけた。葵がマグカップを入れる。

 そのほかにも、直哉が置いていったものがあった。小さな傘。歯ブラシ。部屋着のTシャツ。充電器。

 葵は一つずつ集め、箱へ入れた。

「荷物、返さないと」

「落ち着いてからでいいと言っていましたね」

「うん」

「この箱にまとめておけばいいでしょう」

「全部入れたら、本当にいなくなる」

「今すぐ、全部集めなくてもいいです」

「でも、中途半端に残ってたら探しちゃう」

 葵は涙を拭きながら、部屋の中を見回した。洗面所。寝室。クローゼット。

 思い出の物を探す行為は、傷を何度も触ることに似ている。それでも葵は、自分で一つずつ選んだ。

 真尋は手伝おうとせず、近くにいた。

 これは葵の部屋であり、葵と直哉の時間だ。勝手に物へ触れてはいけないと思った。

 最後に、ベッドの横から一冊の本が出てきた。

「これ、直哉の」

 建築写真の本だった。真尋は驚いた。

「建物が好きだったんですか」

「直哉じゃなくて、私が見たいって言ったら買ってくれた」

「そうなんですね」

「真尋と黒田さんが建物を見に行くって聞いて、思い出した」

 葵は本の表紙を撫でた。

「これは、返したくない」

「葵への贈り物なら、返す必要はありません」

「見たら思い出す」

「それでも持っていたい?」

「うん」

「では、残しましょう」

 葵は本を自分の本棚へ戻した。マグカップや歯ブラシとは違う場所。

 悲しみの置き方は、物によって違う。返すもの。見えない場所へ置くもの。残しておくもの。

 すべてを同じように処理する必要はない。

     *

「着替えを取ります」

 葵はクローゼットから仕事用の服と下着、化粧品をバッグへ入れた。

「何日分?」

「二日」

「火曜日までは、うちにいるつもりですか」

「だめ?」

「だめではありません」

「真尋、仕事でしょう」

「葵もです」

「夜、一人になるのが怖い」

「では、二日分」

「水曜日は?」

「火曜日の夜に考えましょう」

「また後で」

「はい」

 葵は必要なものをバッグへ詰めた。最後に、部屋の鍵を見つめる。

「ここに帰れるかな」

「今日は、戻らなくていいです」

「いつかは帰らないと」

「はい」

「真尋、一緒に来てくれる?」

「最初は」

「ずっとは?」

「毎日は無理です」

 葵は寂しそうな顔をした。真尋は、その表情を見て胸が痛んだ。

 何でもしてあげたいと思う。だが、それでは葵の生活を真尋が背負うことになる。

「葵。私は、ずっと一緒にはいられません」

「わかってる」

「でも、一人で帰る日を一緒に決めることはできます。電話をつないでおくこともできます。最初の夜だけ、泊まりに来ることもできます」

「本当?」

「予定が合えば」

「真尋」

「はい」

「できないことも言うようになったね」

 真尋は驚いた。

「以前は、できることしか言わなかったですか」

「私が一人になりたくないって言ったら、ずっといてくれそうだった」

「そのほうがよかった?」

 葵は首を振った。

「怖かった」

「どうして?」

「真尋が疲れて、急にいなくなるかもしれないから」

 真尋は言葉を失った。

 何もかも引き受ければ、いつか限界が来る。その時、相手から離れたくなるかもしれない。葵はそれを直感的に感じていた。

「できることと、できないことを話します」

 真尋は言った。

「はい」

「そのほうが、長く一緒にいられると思うので」

 葵は静かに頷いた。

「うん」

     *

 真尋の部屋へ戻る途中、二人はスーパーマーケットへ寄った。

 葵は食欲が戻っていない。それでも夕食に何が食べられそうか、二人で店内を歩いた。

「うどんは?」

「少しなら」

「温かいものがいいですね」

「卵も入れて」

「野菜は?」

「いらない」

「少し入れます」

「真尋」

「栄養が必要です」

「お母さん」

「十一歳しか違いません」

 いつものやり取り。葵が笑う。真尋は、その笑いを大切に思った。

 大きく元気になる必要はない。一日の中に数秒でも、悲しみ以外の感情が現れる。それだけで、心が休める。

 うどん。卵。ねぎ。鶏肉。ヨーグルト。果物。真尋は自分の食事用に、魚と野菜も買った。

 葵がかごの中を見る。

「私が食べないものも買うんだ」

「私は食べますから」

「うん」

 葵は満足そうに頷いた。

「真尋が普通に生活してるの、安心する」

「葵も、少しずつ戻りますよ」

「普通に?」

「葵の普通へ」

「直哉がいない普通」

「はい」

 葵の表情が曇る。真尋は、言わないほうがよかったかと思った。だが葵は、考えた後に頷いた。

「まだ想像できない」

「今は」

「でも、作るんだよね」

「少しずつ」

「新しい普通」

「はい」

     *

 夕方、二人は真尋の部屋でうどんを食べた。葵は半分ほど食べることができた。

「昨日より食べられた」

「はい」

「明日はもっと?」

「同じでもいいです」

「減ったら?」

「そういう日もあります」

「真尋は、すぐ良くならなくても怒らないね」

「失恋は病気ではありませんから、治療の予定は立てられません」

「でも、心が痛い」

「はい」

「薬があればいいのに」

「本当に」

 食後、葵は仕事用のパソコンを開いた。月曜日の予定を確認する。

 午前十時から企画会議。午後は販促資料の修正。先輩へ提出する案もある。

「休めない」

 葵が呟いた。

「有給は?」

「あります」

「使ってもいいのでは」

「会議、私が出さなきゃいけない案がある」

「誰かへ引き継げますか」

「今日連絡すれば」

「休みたいですか」

 葵は画面を見つめた。

「家にいたら、直哉に連絡すると思う」

「会社へ行く?」

「行きたい」

「では、行く準備をしましょう」

「朝、起きられなかったら」

「私が起こします」

「途中で泣いたら」

「カフェへ逃げる」

「先輩に何て言う?」

「体調が悪いと言う」

「真尋に電話していい?」

「仕事中なので、すぐ出られないかもしれません」

「葵、って呼んで」

 真尋は吹き出した。

「葵」

「うん」

「すぐ出られなくても、折り返します。メッセージなら、見られる時に見ます」

「黒田さんにも?」

「どうして黒田さんが?」

「真尋が仕事で出られなかったら」

「まだ会ったこともないでしょう」

「でも、優しいから」

「葵は頼る範囲を広げすぎです」

「冗談」

 葵の口元が緩んだ。

「じゃあ、真尋だけ」

「会社の友人はいませんか」

「いるけど、失恋の話はしたくない」

「話さなくても、体調が悪い時に一緒にいてもらうことはできます」

「迷惑じゃない?」

「決めるのは、その人です」

 真尋は自分にも言い聞かせるように言った。

「葵が先に迷惑だと決めない」

「うん」

「頼れそうな人を、一人考えておいてください」

 葵はしばらく考えた。

「同期の美月」

「どんな人ですか」

「大学は違うけど、同じ年に入社した。時々、一緒にご飯食べる」

「その人なら?」

「体調悪いって言えば、昼に一緒にいてくれるかも」

「では、明日の朝、連絡してみてください」

「失恋って言わなくていい?」

「葵が話したくなければ」

「うん」

 葵は安心した表情になった。

 支える場所を、真尋一人にしない。それは葵のためでもあり、真尋のためでもある。

 人は、一人の人だけを帰る場所にしなくてもいい。いくつもの小さな場所を持てばいい。

     *

 夜、葵は再び真尋のベッドへ入った。昨夜よりは落ち着いている。

 それでも照明を消すと、直哉のことを思い出すらしく、何度か深く息を吐いた。

「スマートフォン、見たい?」

 真尋が尋ねる。

「見たくない。でも、気になる」

「通知は切ったままです」

「うん」

「今夜は、リビングへ置いておきましょうか」

「それがいい」

 葵のスマートフォンは、寝室の外へ置いた。真尋のスマートフォンだけが、サイドテーブルにある。

「真尋。黒田さんから連絡来た?」

「さっき、おやすみなさいと」

「返した?」

「はい」

「何て?」

「おやすみなさい」

「それだけ?」

「何を期待しているんですか」

「会いたいです、とか」

「来週会います」

「好きになりそうです、とか」

「言いません」

「つまらない」

「葵の恋愛番組ではありません」

 葵が小さく笑った。

「でも、黒田さんがいてよかったね」

「はい」

「私がずっと真尋の時間を取っても、全部なくならない」

「どういう意味ですか」

「真尋には、黒田さんがいる。仕事も、香織さんも、お母さんもいる」

「葵もいます」

「うん」

「葵にも、私以外の人がいます」

「美月とか?」

「ご両親も」

「今は話したくない」

「今は、でいいです」

「会社も」

「はい」

「直哉がいなくなっても、全部なくならない」

「はい」

「頭ではわかる」

「心は?」

「まだ、全部なくなった感じ」

「今夜は、それでいいです」

「いつか、頭と同じになる?」

「少しずつ」

     *

 葵は布団の中で体を丸めた。

「真尋。私、直哉がいなくても生きられる?」

「生きられます」

「すぐ答えた」

「はい」

「どうしてわかるの?」

「今、生きているからです」

「まだ一日しか経ってない」

「その一日を生きました」

「真尋がいたから」

「それでも、息をして、食べて、歩いたのは葵です」

 葵はしばらく黙った。

「今日、うどん食べた」

「はい」

「写真、フォルダへ入れた。仕事、行くって決めた。部屋にも戻った」

「はい」

「私、少しやったね」

「たくさんやりました」

「褒めて」

「よく頑張りました」

 葵は思わず笑った。

「本当にお母さんみたい」

「もう言わないでください」

「真尋。今日は、手を握らなくても眠れるかもしれない」

「そうですか」

「でも、近くにいて」

「います」

 真尋は隣に横になった。手はつながない。葵はそれでも、目を閉じた。

 しばらくして、規則正しい寝息が聞こえ始める。

 真尋は暗い天井を見た。

 昨日より、ほんの少しだけ距離がある。その距離が、寂しいのではなく、嬉しかった。

 葵が一人で眠る力を、少し取り戻している。

 支えることは、ずっと手を握り続けることではない。必要な時に差し出し、離せる時には離す。その繰り返しなのだろう。

     *

 翌朝、午前六時半。真尋はアラームで目を覚ました。

 隣では、葵がまだ眠っている。泣き腫らした目元。静かな寝息。

 真尋は起こさないよう、そっとベッドを出た。洗面所で顔を洗い、仕事の支度をする。キッチンで朝食を作る。トースト。ゆで卵。温かいスープ。

 葵が食べられるかはわからない。それでも、用意しておく。

 午前七時。真尋は寝室の扉を開けた。

「葵」

 小さく呼ぶ。葵が眉を寄せ、目を開けた。

「朝?」

「はい」

「仕事」

「どうしますか」

 葵は布団の中でしばらく考えた。真尋は急かさず待った。

「行く」

「本当に?」

「行ってみる」

「途中で難しくなったら?」

「帰る」

「はい」

「美月に連絡する。真尋にも」

「はい」

 葵はゆっくり起き上がった。目をこすり、深く息を吸う。

「直哉のこと、思い出した」

「はい」

「朝は、つらい」

「そうですね」

「でも、昨日より少しだけ立てる」

 葵はベッドから足を下ろした。床へ立つ。

「立てた」

「はい」

「今日も、生きる?」

「はい」

 真尋は葵の前に立った。

「今日も、生きます」

 葵は声を立てて笑った。

「一緒に?」

「それぞれの会社で」

「でも、同じ東京で」

「はい」

「夜は、ここに帰る」

「はい」

 葵は頷いた。

     *

 二人は向かい合って朝食を取った。葵はトーストを半分と、スープを少し飲んだ。昨日よりも多い。

 真尋は何も言わず、自分の食事を続けた。

「褒めないの?」

 葵が尋ねる。

「食べられたことを?」

「うん」

「よく食べました」

「子どもみたい」

「自分で言わせたんでしょう」

 二人は笑った。

 食後、葵は同期の美月へメッセージを送った。

『今日、少し体調が悪くて。昼、一緒にいてもらってもいい?』

 数分後、返信が届く。

『もちろん。大丈夫? 会社着いたら連絡して』

 葵は画面を真尋へ見せた。

「優しい」

「頼ってよかったですね」

「失恋って言ってないのに」

「話さなくても、そばにいてくれる人はいます」

「うん」

 葵はスマートフォンをバッグへ入れた。真尋はコートを着る。葵も、昨日持ってきた仕事用のジャケットへ袖を通した。

 鏡の前で髪を整える。目元の腫れは、化粧をしても完全には隠れない。

「ひどい顔」

 葵が言う。

「昨日よりは落ち着いています」

「会社の人に聞かれたら?」

「眠れなかったと言えばいいです」

「嘘じゃない」

「はい」

「直哉には、連絡しない」

「今は?」

「今日は」

「はい」

「明日は、明日の私が決める」

「覚えましたね」

「真尋が何度も言うから」

     *

 二人は玄関へ向かった。真尋が先に靴を履く。葵も続く。

 扉を開ける前に、葵が真尋の袖をつかんだ。

「怖い」

「はい」

「でも、行く」

「はい」

「真尋。帰ってきてもいい?」

「もちろん」

「元気になってなくても?」

「もちろん」

「泣いても?」

「もちろん」

 葵は深く息を吸った。

「行ってきます」

 真尋は扉を開けた。

「行ってらっしゃい」

 二人は廊下へ出た。朝の空気が冷たい。エレベーターを待つ。扉が開き、二人で乗り込む。

 一階へ降りる間、葵は鏡の中の自分を見ていた。泣いた顔。眠れていない顔。それでも、仕事へ向かう顔。

「真尋。昨日の私より、少し強い?」

 真尋は鏡越しに葵を見る。

「強くならなくてもいいです」

「でも」

「昨日より、自分で立っています」

 葵はその言葉を聞き、少しだけ背筋を伸ばした。

 マンションを出る。駅までの道を、二人で歩く。途中で、路線が分かれる。

「ここで」

 真尋が立ち止まる。

「うん」

「着いたら連絡してください」

「真尋も」

「はい」

「昼休みも」

「仕事の状況によります」

「わかってる」

「無理なら、退勤後に」

「うん」

 葵は一歩進み、振り返った。

「真尋。昨日、ここに帰ってきてよかった」

「私も、帰ってきてくれてよかったです」

 葵は笑った。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

     *

 葵は駅へ向かって歩き出した。真尋はその背中を見送った。

 足取りは、まだ軽くない。時々、立ち止まりそうになる。それでも一歩ずつ、自分の会社へ向かっている。

 真尋も反対側の改札へ歩き始めた。

 一緒に歩く時間は終わった。今は、それぞれの道を進む時間だ。

 離れていても、戻る場所は消えない。

 誰かを支えることと、その人の代わりに歩くことは違う。

 葵は、葵の足で。真尋は、真尋の足で。それぞれの日常へ戻っていく。

 悲しみを抱えたままでも、朝の電車には乗れる。心が置いていかれたように感じても、体を前へ運ぶことはできる。

 その小さな一歩が、いつか新しい日常へ続いていく。

 真尋のスマートフォンが震えた。黒田からだった。

『おはようございます。今日も無理をしすぎずに』

 真尋は歩きながら返信した。

『おはようございます。葵は仕事へ向かいました。私も今から会社です』

 考え、もう一文を加える。

『昨日、話を聞いてもらえて助かりました』

 送信する。すぐに返事が来た。

『いつでも聞きます』

 真尋は画面を見て、静かに笑った。

 帰る場所は、一つでなくていい。支える人も、一人でなくていい。

 悲しみの置き場所も、幸せの形も。人生の中に、いくつあってもいい。

 真尋はスマートフォンをしまい、駅の階段を上った。

 朝の光が、ビルの間から差し込んでいる。

 新しい一日は、すでに始まっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。