第七章 帰る場所の灯り
カフェの扉が閉じた後も、葵はしばらく入口の近くに立ったまま動けなかった。
店内には、低い音量でピアノ曲が流れている。
窓際の席では若い女性が一人で本を読み、奥のテーブルでは家族連れが夕食前の時間を過ごしていた。コーヒーの香り。ミルクを温める音。食器が重なる小さな音。
何も変わらない日常の中に、自分だけが場違いなほど緊張している。
「葵」
名前を呼ばれ、葵は顔を上げた。
恋人の直哉が、少し離れたところに立っている。
最後に会ったのは三週間前だった。
その時も仕事帰りだった。直哉は疲れた顔をし、食事を終えると、明日も早いからと一時間ほどで帰った。
三週間という時間は、それほど長くないはずだった。
それなのに目の前の直哉は、葵の知っている人でありながら、少し遠い人に見えた。
短く整えられた黒い髪。
濃いグレーのコート。
右手に持ったスマートフォン。
何度も見てきた姿なのに、その表情から何を考えているのか読み取れない。
「待った?」
直哉が尋ねる。
「少しだけ」
本当は真尋と早くから近くにいた。
だが、それを説明する必要はないと思った。
「外にいた人、友達?」
「うん。秋田で知り合った人」
「秋田?」
「旅行の時に話したでしょう」
「ああ」
直哉は思い出したように頷いた。
その反応に、葵の胸が小さく痛む。
自分にとっては大きな出来事だった。
人生の中で大切な人になるかもしれない女性と出会った旅。
けれど直哉には、葵が秋田へ行ったことさえ、すぐには思い出せない程度の出来事なのだ。
「入ろうか」
「うん」
二人は店の奥へ進んだ。
直哉が選んだのは、壁際の二人掛けの席だった。
向かい合って座る。
テーブルの幅は狭い。
手を伸ばせば触れられる距離なのに、ずっと遠くに感じる。
店員が水とメニューを運んでくる。
「何か飲む?」
直哉が尋ねた。
「カフェラテにする」
「俺はコーヒー」
直哉が二人分を注文した。
店員が去ると、沈黙が落ちる。
葵は膝の上に置いたバッグへ手を添えた。
中には、真尋と一緒に書いたノートが入っている。
何を伝えたいか。
何を聞きたいか。
何度も確認した。
それなのに直哉を前にすると、用意した言葉がすべて遠ざかっていく。
「旅行、どうだった?」
直哉が先に尋ねた。
「楽しかったよ」
「紅葉、きれいだった?」
「うん。少し終わりかけてたけど、雨の後がすごくきれいだった」
「写真、撮った?」
「撮ったよ」
葵はスマートフォンを取り出しかけ、やめた。
以前なら、すぐに見せていた。
見せれば直哉も笑ってくれると思った。
だが今は、写真を見せることで話し合いを先延ばしにする気がした。
「秋田で会った人とは、仲良くなったんだ」
「うん」
「年上?」
「十一歳上。三十六歳」
「結構離れてるね」
「でも、話しやすいの」
「へえ」
直哉の返事は短い。
質問も続かない。
葵は、また自分ばかりが会話をつなごうとしていると気づいた。
以前の直哉は、もっと聞いてくれた。
どんな宿だったのか。
何を食べたのか。
写真を見たい。
今度は一緒に行こう。
いつから、その言葉がなくなったのだろう。
葵は水の入ったグラスへ手を伸ばした。
冷たい。
指先まで冷えていく。
「直哉」
「うん」
「今日は、ちゃんと話したい」
直哉の表情が少し硬くなった。
「メッセージに書いてたこと?」
「うん」
「わかった」
直哉はそう言ったが、自分から話し始めようとはしなかった。
葵は息を吸う。
「最近、連絡が減ったでしょう」
「仕事が忙しいから」
「それはわかってる」
「前にも言ったよね」
その言葉に、責められているような響きを感じる。
葵は反射的に謝りそうになった。
忙しいと説明されているのに、理解できない自分が悪い。
以前なら、そう考えて話を引っ込めていただろう。
けれど今日は、そのために来たのではない。
「わかってるよ。忙しいことを責めたいんじゃないの」
「じゃあ、何?」
「忙しくなってから、連絡だけじゃなくて、会う回数も減った。私が会いたいって言っても、仕事だからって断られることが増えた」
「本当に仕事なんだから、仕方ないだろ」
「うん。仕方ない時もある」
葵は自分の声が震えないよう、ゆっくり話した。
「でも、この前、私が秋田に行ってることを忘れて、会おうと思ってたって言ったでしょう」
「急に予定が空いたから」
「その次の日は無理だった」
「予定があったから」
「何の予定?」
直哉は一瞬、視線をそらした。
「会社の人と会う予定」
「仕事?」
「仕事というか、付き合い」
「前から決まってた?」
「そうだよ」
「私は、秋田へ行くことを前から伝えてた」
「忘れてたって言っただろ」
「それが、悲しかったの」
葵は両手を膝の上で握った。
相手を責める言葉にならないように。
自分の気持ちを伝える。
真尋と何度も確認した。
「私の予定を全部覚えていてほしいわけじゃない。でも、前は覚えてくれてた。どこへ行くのか聞いてくれたし、着いたら連絡してって言ってくれた」
「いつまでも付き合い始めと同じにはできないだろ」
直哉の言葉は、小さな刃物のように葵の胸へ刺さった。
「同じにしてほしいんじゃない」
「じゃあ、何を求めてるの?」
「私との関係を、今も大切だと思ってるのか知りたい」
直哉は答えなかった。
店員が飲み物を運んでくる。
葵の前へカフェラテ。
直哉の前へコーヒー。
「ごゆっくりどうぞ」
店員が去る。
カップから湯気が立っている。
誰も口をつけない。
「直哉」
「大切じゃないとは言ってない」
「じゃあ、大切?」
「そういう聞き方、答えにくいよ」
「どうして?」
「大切って言ったら、今まで通り毎週会わなきゃいけないのかとか、毎日連絡しなきゃいけないのかとか、そういう話になるだろ」
「ならないよ」
「なるよ。葵は、俺が少し連絡しないだけで不安になる」
「不安になるのは、少しじゃないから」
「俺だって、好きで忙しくしてるわけじゃない」
「わかってる」
「わかってないから、こういう話になるんだろ」
葵は唇を噛んだ。
また謝りたくなる。
直哉が大変なのに、自分の寂しさを押しつけている。
忙しい人へ、さらに負担をかけている。
けれど、真尋の声が頭の中に浮かぶ。
相手を気遣うことと、自分の気持ちを消すことは違う。
「私も、仕事を頑張ってる直哉を応援したいよ」
葵は言った。
「でも、応援することと、何も言わずに待ち続けることは違うと思う」
直哉はコーヒーカップを持ち上げた。
一口飲み、ゆっくり置く。
「葵は、どうしたいの」
ようやく返ってきた質問だった。
葵はバッグの中のノートを意識した。
開かなくても、書いた言葉を覚えている。
「私は、直哉と別れたいとは思ってない」
声にすると、胸が締めつけられる。
「今も好き。できれば、これからも一緒にいたい」
直哉の表情は動かない。
「でも、今みたいに、私が何を言っても面倒そうにされるのはつらい。会いたいと言うたびに、我慢が足りないみたいに言われるのも」
「面倒だなんて言ってない」
「言葉では言ってない。でも、そう感じる」
「感じるって言われても」
「だから聞きたいの」
葵は直哉をまっすぐ見た。
「直哉は、これからも私と付き合いたいと思ってる?」
心臓が激しく打つ。
店内の音が遠くなる。
直哉の返事を聞くのが怖い。
それでも、目をそらさなかった。
直哉は眉間へ少し力を入れ、テーブルの上へ視線を落とした。
「わからない」
小さな声だった。
葵は、聞き間違いであってほしいと思った。
「わからないって?」
「今、恋愛のことを考える余裕がない」
「余裕ができるまで、待ってほしい?」
「そういうことでもなくて」
「じゃあ、どういうこと?」
直哉は片手で額へ触れた。
「仕事が忙しくなって、自分のことで精いっぱいなんだ。休みの日も、次の週のことを考えてる。誰かと会って、相手の気分を気にして、楽しくしなきゃって思うことが疲れる」
「私と会うことも?」
「今は」
葵は呼吸の仕方を忘れたような感覚になった。
直哉にとって、自分と会うことは疲れることになっている。
一緒にいることで休める相手ではない。
気を使わなければならない相手。
「私、楽しくしてなんて言ってない」
「言われなくても思うんだよ」
「何もしなくてもいいよ。ただ一緒にいたいって思ってた」
「葵はそうでも、俺はそう思えない」
葵はカフェラテへ視線を落とした。
表面に描かれていた模様は、時間とともに崩れている。
まだ一口も飲んでいない。
「それって、私だから?」
尋ねるのが怖かった。
「今は、誰といても同じだと思う」
「じゃあ、仕事が落ち着けば戻る?」
「わからない」
「また、わからない」
「本当にわからないんだよ」
直哉の声に、苛立ちが混じった。
「葵は、答えを急ぎすぎる」
「二年付き合ってきたから聞いてるの」
「二年付き合ったら、全部決めなきゃいけないの?」
「全部じゃない」
「結婚の話も何度かしただろ」
「将来をどう考えてるか聞いただけ」
「それが重いんだよ」
その言葉が、葵の中で何度も響いた。
重い。
ずっと恐れていた言葉。
会いたいと言うこと。
将来を考えたいと言うこと。
不安だと伝えること。
すべてが直哉には重かったのだ。
「やっぱり、重かったんだね」
葵は笑おうとした。
頬がうまく動かなかった。
「責めてるわけじゃない」
「でも、そう思ってたんでしょう」
「葵が悪いわけじゃない。俺が応えられないだけ」
「いつから?」
「何が?」
「私と会うのが疲れるって、いつから思ってたの?」
直哉は答えに迷った。
その迷いで、葵はある程度わかった。
最近始まったことではない。
「部署が変わった頃?」
「そのくらいかもしれない」
「半年前」
「うん」
「半年間、言わなかったの?」
「言ったら、葵が傷つくだろ」
「今は傷つかないと思う?」
「だから、言えなかった」
「私が聞かなかったら、ずっとこのままだった?」
「仕事が落ち着けば、何か変わるかもしれないと思ってた」
「変わった?」
直哉は黙った。
葵の胸の中で、何かがゆっくり崩れていく。
半年間、自分は直哉の忙しさを理解しようとしていた。
会えないことを我慢した。
連絡が少なくても、自分から送りすぎないようにした。
将来の話を避けられても、仕事が落ち着くまで待とうと思った。
その間、直哉は二人の関係を続けたいかどうかわからないまま、葵へ伝えずにいた。
優しさだったのかもしれない。
傷つけたくなかったのかもしれない。
けれど、その優しさの中で、葵は理由も知らずに苦しみ続けた。
「私、一人で頑張ってたんだね」
葵は呟いた。
「何を?」
「この関係を続けること」
「そんな言い方」
「違う?」
「俺だって、別れようとは言わなかった」
「それは、続けたいと思ってたから?」
直哉は答えない。
「それとも、別れる話をするのが面倒だったから?」
「面倒だったわけじゃない」
「じゃあ、どうして?」
「情はあるよ」
葵は息を止めた。
好きではなく、情。
二年の時間。
思い出。
慣れ。
それらがあるから、別れを言い出せなかった。
「私のこと、好き?」
聞かずにはいられなかった。
直哉は、長い間答えなかった。
葵は、その沈黙が答えなのだと思った。
「以前は、好きだった」
「今は?」
「嫌いじゃない」
「そうじゃなくて」
葵の目に涙が浮かぶ。
「好きかどうかを聞いてるの」
直哉は苦しそうに目を伏せた。
「今は、わからない」
また同じ答え。
けれど今度は、その意味がはっきりわかった。
直哉は、好きだとは言えない。
葵は唇を噛んだ。
泣きたくない。
カフェの中には人がいる。
直哉の前で泣けば、また感情的だと思われるかもしれない。
重いと思われるかもしれない。
それでも涙は、意思とは関係なく頬を流れた。
「葵」
「触らないで」
直哉が差し出しかけた手を、葵は拒んだ。
自分でも驚くほど強い声が出た。
「ごめん」
直哉が手を戻す。
葵はバッグからハンカチを出し、涙を拭いた。
真尋が隣にいたら。
一瞬そう思った。
だが、ここでは自分で言わなければならない。
「直哉」
「うん」
「私、別れたくないって言った」
「うん」
「今も、その気持ちは嘘じゃない」
葵は涙を拭きながら続けた。
「でも、私だけが続けたいと思っても、二人の関係にはならない」
「少し時間を置くのは?」
直哉の言葉に、葵は顔を上げた。
「時間?」
「すぐに別れるって決めなくてもいいだろ。しばらく会わずに、お互い考えて」
「どのくらい?」
「わからない」
「一か月? 三か月?」
「期限を決めなきゃいけない?」
「決めなかったら、私はずっと待つことになる」
「待たなくていい」
「それは、ほかの人を好きになってもいいってこと?」
直哉は返事をしなかった。
「直哉も、そうするの?」
「今、そういう相手はいない」
「今はいなくても、できたら?」
「その時は話す」
「私は、いつまで恋人なの?」
葵の質問に、直哉は答えられない。
会わない。
連絡もしない。
ほかの誰かを好きになるかもしれない。
それでも別れたとは言わず、形だけを残す。
葵には、それが何より残酷に思えた。
「時間を置くって、直哉が自分から別れるって言いたくないだけじゃない?」
「そんなことは」
「私は、待つと思う」
葵は自分の胸へ手を当てた。
「直哉が戻ってくるかもしれないって、毎日連絡を待つ。仕事が落ち着いたら、また好きになってくれるかもしれないって」
「それは、葵が」
「そう。私が勝手にすること」
葵は頷いた。
「だから、自分で終わらせないといけないんだと思う」
口にした瞬間、胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。
終わらせる。
あれほど避けてきた言葉。
自分から言うことになるとは思わなかった。
「葵、本当にそれでいいの?」
「よくないよ」
涙が次々と頬を流れる。
「よくない。別れたくない。まだ好きだし、また前みたいに戻りたい」
「だったら」
「でも、直哉は戻りたいと思ってないでしょう?」
直哉は黙った。
「私だけが望んでる」
「今は余裕がないだけで」
「好きなら、好きって言って」
葵は直哉を見た。
「今でも私が好きで、仕事が落ち着くまで待ってほしいって言って」
直哉の唇が動く。
けれど、言葉は出ない。
葵は目を閉じた。
わかっていた。
それでも最後に聞きたかった。
直哉の中に、自分をつなぎ止めるほどの気持ちが残っているのか。
答えはなかった。
「わかった」
葵は目を開けた。
涙で、直哉の顔が滲んでいる。
「別れよう」
声は震えていた。
それでも、言葉ははっきりしていた。
直哉が顔を歪める。
「葵」
「ありがとう」
「何が?」
「二年間」
葵はハンカチを握った。
「楽しかったことも、たくさんあった。直哉と付き合ってよかったと思ってる」
「俺も」
「でも、今はもう、同じ方向を見てないんだと思う」
「ごめん」
「謝らないで」
謝られれば、自分が捨てられた人のように感じる。
直哉だけが悪いわけではない。
気持ちは変わる。
誰にも止められない。
葵も、直哉の変化を認めたくなくて、自分の望む形へ戻そうとしていた。
「私も、ごめんね」
「葵は悪くない」
「直哉が苦しいのに、気づかないふりしてた」
「言わなかった俺が悪い」
「どっちが悪いか決めなくていいよ」
葵は真尋の言葉を思い出した。
終わったものに意味がないわけではない。
二年間を、失敗にしたくない。
「写真とか、どうする?」
直哉が尋ねた。
「今は決められない」
「荷物、うちに少しあるよね」
「また連絡して」
「わかった」
「でも、今日は無理」
「うん」
葵はバッグを持った。
カフェラテは、ほとんど手をつけていない。
代金を払おうと財布を出す。
「俺が払うよ」
「自分の分は払う」
「最後くらい」
「最後だから、自分で払う」
葵は千円札をテーブルへ置いた。
きっちりした金額ではない。
それでも今は、細かく計算する余裕がなかった。
「先に出るね」
「送るよ」
「一人で大丈夫」
言った後、真尋の顔が浮かんだ。
一人ではない。
待っている人がいる。
「友達が近くにいるから」
「さっきの人?」
「うん」
「そう」
直哉は何か言いたそうだったが、結局言わなかった。
「じゃあね」
葵は言った。
またね、ではない。
これから荷物のやり取りで連絡することはある。
どこかで偶然会うかもしれない。
それでも、恋人として会うことはもうない。
「葵」
扉へ向かう背中へ、直哉が声をかけた。
葵は振り返る。
「幸せになって」
その言葉は優しかった。
優しいからこそ、苦しかった。
「直哉も」
葵は答え、店を出た。
*
外へ出た瞬間、冷たい風が涙で濡れた頬へ当たった。
葵は歩こうとした。
けれど、足に力が入らない。
カフェの壁へ手をつく。
息がうまく吸えない。
別れた。
頭ではわかっているのに、現実として受け止められない。
さっきまで恋人だった人が、もう恋人ではない。
二年分の連絡。
写真。
約束。
来年行こうと話していた場所。
いつか一緒に住もうと見ていた家具。
すべての行き先が、急になくなった。
葵は震える手でスマートフォンを取り出した。
画面が涙で滲む。
真尋の名前を押す。
呼び出し音は一度で途切れた。
『葵?』
真尋の声。
それだけで、葵の中に残っていた力が崩れた。
「真尋」
『終わった?』
「別れた」
声にした瞬間、葵は泣き崩れた。
「別れちゃった」
『今、どこにいますか』
「カフェの外」
『動けます?』
「わからない」
『そこにいてください。今から行きます』
「真尋、家に帰ったんじゃ」
『まだ近くにいます』
「どうして?」
『葵の連絡を待っていました』
葵は壁へ背中を預けた。
「来て」
『行きます。店の名前は、さっきのカフェで合っていますね』
「うん」
『入口の近くから動かないで』
「うん」
『寒いから、できれば店の中へ戻って』
「無理」
『では、風の当たらない場所にいてください』
「真尋」
『はい』
「切らないで」
少しの沈黙。
『わかりました。着くまで話します』
「何を話せばいいかわからない」
『話さなくていいです』
「でも」
『私の声だけ聞いていてください』
葵はスマートフォンを耳へ当てたまま、しゃがみ込んだ。
通行人が心配そうに見ている。
それでも立ち上がれない。
『今、駅を出ました』
真尋の声が聞こえる。
『信号を渡ります』
真尋は、わざと自分の動きを伝えてくれている。
その声を頼りに、葵は呼吸をした。
「真尋」
『はい』
「私、間違えたかな」
『何を?』
「別れるって言ったこと」
『今、決め直す必要はありません』
「待てばよかったかな」
『今は考えなくていいです』
「でも」
『葵』
真尋の声が少し強くなる。
『今は、立っていることだけ考えてください』
「立てない」
『では、座っていていいです』
「泣いてる」
『泣いていていいです』
「みんな見てる」
『見られてもいいです』
葵はまた涙を流した。
何をしてもいいと言ってもらえる。
立てなくても。
泣いても。
答えを出せなくても。
それだけで、少しだけ息が吸える。
『もうすぐ見えます』
真尋の声とほぼ同時に、交差点の向こうからグレーのコートが見えた。
真尋が走ってくる。
普段、急いでいる時でさえ姿勢を崩さない人が、髪を揺らして走っている。
「真尋」
葵は立ち上がろうとした。
足がもつれる。
真尋が駆け寄り、葵の腕を支えた。
「大丈夫ですか」
大丈夫ではない。
答えようとしたが、声にならなかった。
葵は真尋の胸へ顔を押しつけた。
真尋のコートは冷たい。
その下から、体温が伝わってくる。
「真尋」
「はい」
「別れちゃった」
「はい」
「本当に、終わっちゃった」
真尋の腕が、葵の背中へ回る。
「はい」
大丈夫とは言わない。
忘れられるとも。
もっといい人がいるとも。
真尋はただ、葵が言うことを受け止めた。
「帰りましょう」
「帰る場所、ない」
「私の家へ」
葵は顔を上げた。
真尋の頬も、少し赤くなっている。
走ってきたからだろう。
「行っていい?」
「そのために来ました」
「迷惑じゃない?」
「来てほしいと言ったでしょう」
葵はまた泣いた。
「真尋」
「何ですか」
「歩けないかも」
「ゆっくりでいいです」
真尋は葵のバッグを持ち、片腕を支えた。
二人は駅へ向かって歩き出した。
葵の歩幅に合わせ、ゆっくりと。
*
電車の中で、葵はほとんど話さなかった。
座席へ座り、真尋の肩へ頭を預ける。
涙は止まったり、また流れたりした。
真尋は何も聞かなかった。
直哉が何と言ったのか。
葵がどう答えたのか。
別れを言い出したのはどちらか。
今は尋ねる時ではないとわかっている。
ただ隣に座り、時々葵の手を握った。
向かい側の窓には、二人の姿が映っている。
泣き腫らした目の若い女性。
その肩を支える、少し年上の女性。
姉妹にも見えるかもしれない。
親子には見えないだろう。
恋人でもない。
けれど今、二人は誰より近くにいる。
真尋は、葵の頭の重みを肩に感じながら考えた。
支えることは、自分の力で相手を立たせることではない。
立てない時に、一緒に座る。
歩けない時に、同じ速さまで落とす。
それだけでいい時間がある。
葵のスマートフォンが何度か震えた。
葵は見ようとしなかった。
「直哉さんかもしれません」
真尋が言うと、葵は首を振った。
「今は見たくない」
「わかりました」
「消してもいいかな」
「今は決めないほうがいいです」
「でも、名前を見るだけで苦しい」
「通知を切りましょうか」
「うん」
葵がスマートフォンを差し出す。
真尋は直哉とのトーク画面を開かず、通知だけを止めた。
「これで鳴りません」
「ありがとう」
葵はスマートフォンをバッグへ入れた。
「真尋」
「はい」
「明日、黒田さんと会うんでしょう」
「はい」
「ごめん」
「何がですか」
「私が家に行ったら、邪魔になる」
「明日は午後からです」
「でも、私、帰れないかもしれない」
「帰らなくていいです」
「黒田さんは?」
「事情を話せばわかってくれます」
「約束を断るの?」
「必要なら」
葵は顔を上げた。
「だめ」
「どうして?」
「真尋まで、私のために自分の時間をやめないで」
「やめると決めたわけではありません」
「でも」
「明日の葵の状態を見て決めます」
葵は唇を噛んだ。
「私は大丈夫だから行ってって言っても?」
「私が判断します」
「課長みたい」
「今はそれでいいです」
「私のために、黒田さんとの時間をなくしてほしくない」
葵の声が震える。
「真尋には、幸せになってほしい」
自分が別れたばかりなのに。
それでも真尋のことを考える。
真尋は胸が痛んだ。
「葵」
「うん」
「私が黒田さんと会うことも、葵を心配することも、どちらか一つではありません」
「でも、同じ時間にはできない」
「そうですね」
「だから」
「必要なら、予定を変えます。それは葵に奪われることではありません」
真尋は葵の手を握った。
「私が選ぶことです」
葵は何も言わなかった。
しばらくして、小さく頷いた。
*
真尋の部屋へ着いたのは、午後八時半を過ぎた頃だった。
玄関の灯りをつける。
「ただいま」
真尋が言う。
葵は少し遅れて、小さな声で続けた。
「ただいま」
真尋は振り返った。
この部屋で、自分以外の人がただいまと言う。
不思議な響きだった。
「お帰りなさい」
真尋が答えると、葵の目からまた涙が落ちた。
「どうして泣くんですか」
「わからない」
「靴を脱いでください」
「うん」
葵はゆっくり靴を脱いだ。
真尋はバッグとコートを受け取り、リビングへ案内する。
「ここが、真尋の部屋」
「初めてですね」
「きれい」
「普通です」
「本当に写真がいっぱい」
葵は壁に飾られた風景写真を見た。
函館。
金沢。
鹿児島。
尾道。
人のいない景色。
「私の写真は?」
「まだ印刷していません」
「飾ってくれるの?」
「そのつもりです」
葵は少し笑った。
泣きながらも、笑える。
そのことに真尋は安堵した。
「先に温かいものを飲みましょう」
「何もいらない」
「少しは飲んだほうがいいです」
真尋はキッチンで湯を沸かした。
カフェインの少ないハーブティーを淹れる。
葵をソファへ座らせ、毛布を渡した。
「寒いですか?」
「少し」
「風に当たったからですね」
葵は毛布へ包まり、テーブルの上に置かれたカップを両手で持った。
湯気が顔を包む。
「真尋の匂いがする」
「お茶から?」
「部屋」
「自分ではわかりません」
「落ち着く」
葵はカップへ口をつけた。
一口だけ飲み、またテーブルへ置く。
「何か食べられますか?」
「無理」
「昼から何も食べていないでしょう」
「お腹すいてない」
「スープだけでも」
「いらない」
真尋は無理に勧めなかった。
冷蔵庫から水を出し、テーブルへ置く。
「食べたくなったら言ってください」
「うん」
真尋は葵の隣へ座った。
話を聞くべきか。
黙っているべきか。
迷った。
葵はカップを見つめたまま、ぽつりと話し始めた。
「直哉、私のこと好きかわからないって」
真尋は黙って聞いた。
「会うのも疲れるって」
「そうですか」
「半年くらい前から、そう思ってたって」
葵の指が、カップの縁をなぞる。
「私、半年間、一人で頑張ってた」
「はい」
「忙しいから仕方ない。私が我慢すればいい。仕事が落ち着けば戻るって」
「はい」
「でも、直哉は戻りたいって思ってなかった」
涙がカップの中へ落ちそうになる。
真尋はそっとカップを受け取り、テーブルへ置いた。
「時間を置こうって言われた」
「それで?」
「待っててとは言われなかった。ほかの人を好きになってもいいみたいなことも、否定しなかった」
「葵は、どう答えたんですか」
「別れようって言った」
葵の声が崩れる。
「私から言った」
「はい」
「別れたくなかったのに」
真尋は葵の肩を抱いた。
葵が胸へ顔を埋める。
「好きなのに、別れようって言った」
「はい」
「間違えた?」
「今は、間違いかどうかを決めなくていいです」
「でも、明日になって後悔したら」
「後悔するかもしれません」
「真尋」
「好きな人と別れたのだから、戻りたいと思う日はあるでしょう」
「じゃあ、連絡してもいい?」
「今すぐは、やめたほうがいいと思います」
「どうして?」
「今連絡すれば、苦しさから逃れるために、言ったことを取り消したくなるからです」
葵は泣きながら真尋を見る。
「取り消したらだめ?」
「だめとは言いません」
「じゃあ」
「ただ、葵がなぜ別れると言ったのか、忘れないでください」
「直哉が私を好きじゃないから」
「それだけではないでしょう」
真尋は葵の目を見た。
「葵だけが待ち、葵だけが我慢し、いつ戻るかわからない人を待ち続けるのが苦しいと思ったからでは?」
葵は涙を拭った。
「うん」
「その苦しさは、今、寂しいからといって消えるわけではありません」
「でも、直哉がいないほうが苦しい」
「今は」
「ずっとかもしれない」
「今は、ずっと先のことを決めなくていいです」
真尋は何度も、同じことを伝えた。
今。
今夜。
次の一時間。
それだけを考える。
「今日は連絡しない」
葵が言う。
「はい」
「明日も?」
「明日、また考えましょう」
「一週間?」
「一週間後の葵が考えます」
「真尋は、私に戻ってほしくない?」
思いがけない質問だった。
「私が決めることではありません」
「でも、直哉のこと嫌いになったでしょう」
「会ったこともありません」
「さっき見た」
「遠くからだけです」
「私を泣かせた」
「人の気持ちは、誰かを傷つけないように変わることはできません」
真尋は慎重に言葉を選んだ。
「直哉さんの伝え方が遅かったことは、葵を苦しめたと思います。でも、気持ちが変わったこと自体を責めることはできません」
「優しいね」
「誰に?」
「直哉に」
「優しいのではありません」
真尋は葵の髪を撫でた。
「葵が好きだった人を、私が悪い人にしたくないだけです」
葵は目を閉じた。
「悪い人だったら、忘れやすいのに」
「そうかもしれません」
「でも、悪い人じゃない」
「はい」
「私のことを好きじゃなくなっただけ」
葵はまた泣いた。
真尋は、何も言わずに抱きしめた。
*
午後十時を過ぎても、葵は食事を取れなかった。
真尋は小さな器に温かいスープだけを用意した。
「一口でいいです」
「いらない」
「倒れますよ」
「倒れてもいい」
「私は困ります」
葵が真尋を見る。
「真尋が?」
「はい。葵が倒れたら心配です」
「じゃあ、一口」
葵はスプーンを持った。
豆腐と野菜の入った薄味のスープ。
一口。
もう一口。
「味、しない」
「今は、それでいいです」
「食べたくない」
「無理に全部食べなくていいです」
葵は半分ほど飲み、スプーンを置いた。
「十分です」
真尋が器を下げる。
葵はソファへ横になった。
真尋は新しい歯ブラシと部屋着を用意した。
「これ、使ってください」
「真尋の?」
「未使用です。部屋着は、少し大きいと思います」
「泊まる人用の服、あるんだ」
「母が泊まった時のために買いました」
「私が最初?」
「母は自分で持ってきますから」
「じゃあ、私用」
「今日からは」
葵は部屋着を胸へ抱えた。
「うれしい」
「泣かないでください」
「無理」
「そうですね」
葵がシャワーを浴びている間、真尋はリビングを片づけた。
ソファの横へ水とティッシュを置く。
寝室には自分のベッドがある。
葵をベッドへ寝かせ、自分はソファで眠るつもりだった。
その時、スマートフォンが震えた。
黒田からだった。
『明日の天気は良さそうです。十一時に上野駅でいかがでしょう』
真尋は画面を見つめた。
明日。
黒田との二度目の約束。
楽しみにしていた。
今も会いたいと思う。
だが葵を一人で置いていける状態ではないかもしれない。
何と返すべきか迷っていると、浴室の扉が開いた。
葵が真尋の部屋着を着て出てくる。
予想通り、袖が少し長い。
「誰から?」
葵が尋ねた。
「黒田さんです」
「明日の?」
「はい」
「行って」
「まだ何も言っていません」
「行ってほしい」
葵はソファへ座った。
「私は大丈夫」
「今の葵の大丈夫は、信用できません」
「ひどい」
「事実です」
「でも、真尋が行かなかったら、私のせいになる」
「なりません」
「私が来なかったら、普通に会えたでしょう」
「はい」
「じゃあ、私のせい」
「私が葵を一人にしたくないと思って予定を変えるなら、私の選択です」
「でも」
「それに、黒田さんなら事情を理解してくれると思います」
「せっかく、もう一度始めようとしてるのに」
「一度予定を変更したくらいで終わる関係なら、どちらにしても難しいでしょう」
葵は黙った。
真尋は自分の言葉を聞きながら、以前の自分との違いを感じていた。
三か月前なら、約束を変更することで相手に嫌われると考えただろう。
迷惑をかけてはいけない。
始まったばかりの関係だから、完璧に振る舞わなければならない。
今は、事情を話してみようと思える。
相手がどう受け取るかを、最初から決めつけない。
「正直に話します」
真尋は黒田へ電話をかけた。
「電話するの?」
「文章より伝わると思うので」
数回の呼び出し音の後、黒田が出た。
『もしもし、水口さん』
「夜分にすみません」
『大丈夫です。何かありましたか』
「明日のことで、相談があって」
真尋は葵へ視線を向けた。
葵は毛布へ包まり、不安そうに見ている。
「秋田で知り合った友人が、今日、恋人と別れました」
『葵さんですか』
「はい。今、私の家にいます」
『そうでしたか』
「かなり落ち込んでいて、一人にするのが心配です。明日の約束を、変更していただくことはできますか」
黒田はすぐに答えた。
『もちろんです』
あまりにも迷いのない返事だった。
「すみません」
『謝らないでください』
「でも、せっかく予定を」
『建物は逃げませんから』
黒田の穏やかな声に、真尋の肩から力が抜ける。
『それより、友人の方は大丈夫ですか』
「今は、少し落ち着いています」
『水口さんは?』
「私?」
『ずっと支えていて、疲れていませんか』
真尋は答えに詰まった。
葵のことばかり考えていた。
自分が疲れているかを、気にしていなかった。
「大丈夫です」
『水口さんの大丈夫も、どこまで信用していいのかわかりませんね』
真尋は少し笑った。
「友人にも、似たようなことを言われました」
『無理をしすぎないでください』
「はい」
『来週の日曜日はどうですか』
「大丈夫です」
『では、同じ時間にしましょう』
「ありがとうございます」
『葵さんにも、焦らなくていいと伝えてください』
「はい」
『水口さん』
「何ですか」
『事情を話してくれて、うれしかったです』
「うれしい?」
『以前なら、理由をぼかして断っていたのではないかと思って』
その通りだった。
急用ができた。
体調が悪い。
詳しい事情を話さず、自分だけで処理していただろう。
「話してもいいと思えました」
『ありがとうございます』
「こちらこそ」
『また連絡します。今夜は、少しでも休んでください』
「はい。おやすみなさい」
『おやすみなさい』
電話を切る。
葵が真尋を見ている。
「黒田さん、何て?」
「来週に変更してくれました」
「怒ってなかった?」
「全然」
「本当に?」
「建物は逃げないと」
葵の目に涙が浮かぶ。
「優しい人ですね」
「はい」
「真尋、よかったね」
「葵が泣くところではないでしょう」
「うれしくて」
葵は毛布で目元を拭いた。
「黒田さんに会えなくなったのに、うれしいの?」
「正直に話して、受け止めてもらえたから」
「それだけ?」
「それだけではありません」
真尋はソファの端へ座った。
「私が葵を大切にしていることを、黒田さんが否定しなかった。それがうれしいです」
「恋人になるかもしれない人より、私を選んだのに?」
「選んだわけではありません」
「でも、明日は私といる」
「はい」
「幸せって、そういうこともあるのかな」
葵が呟いた。
「どういうことですか?」
「恋人が一番じゃなくてもいい」
真尋は葵を見る。
「彼氏がいた時、何でも彼を一番にしなきゃいけない気がしてた。休みも、旅行も、将来も」
葵は毛布の端を握った。
「でも、真尋がいて、黒田さんがいて、仕事もあって。大切なものは、一つじゃなくていいんだね」
別れたばかりの葵が、すぐにそう思えるわけではない。
今夜はまた何度も、直哉を失った痛みに戻るだろう。
それでも、恋人を失えばすべてがなくなるわけではないと、少しだけ感じ始めている。
「はい」
真尋は答えた。
「一つではなくていいと思います」
「真尋も?」
「私も、黒田さんと会うことだけが幸せではありません」
「私といることも?」
「もちろん」
「仕事は?」
「それも」
「一人旅は?」
「それも大切です」
「欲張り」
「葵もでしょう」
二人は少し笑った。
*
寝室のベッドへ葵を寝かせると、葵は布団の中から真尋を見上げた。
「真尋は?」
「ソファで寝ます」
「一緒に寝て」
「狭いですよ」
「秋田でも、同じ部屋で話したでしょう」
「寝たのは別の部屋です」
「一人だと、また考えそう」
真尋は少し迷った。
ベッドはセミダブル。
二人で眠れないほどではない。
「わかりました」
真尋は部屋の照明を落とし、葵の隣へ入った。
葵は壁側へ寄る。
暗い部屋。
カーテンの隙間から、街灯の光が入っている。
「真尋」
「はい」
「眠れなかったら、話していい?」
「いいですよ」
「何を話そう」
「話したいことを」
「直哉の話、嫌じゃない?」
「嫌ではありません」
「黒田さんの話もして」
「葵が落ち着いたら」
「今して」
真尋は少し笑った。
「何を聞きたいんですか」
「黒田さん、どんな顔で真尋を見てた?」
「わかりません」
「好きって言われた時、うれしかった?」
「少し」
「少し?」
「かなり」
葵が暗闇の中で笑う気配がした。
「真尋が幸せそうだと、うれしい」
「ありがとう」
「でも、少し寂しい」
「どうして?」
「黒田さんが大切になったら、私と会う時間が減るかもしれない」
真尋は少し驚いた。
「まだ、何も始まっていません」
「始まったら」
「葵との時間がなくなるわけではありません」
「彼氏ができた友達って、会わなくなること多いから」
「私は、そうしません」
「約束できる?」
「会う回数が変わることはあるかもしれません」
「やっぱり」
「でも、葵が大切でなくなることはありません」
真尋は暗闇の中で葵の手を探し、握った。
「大切な人は、一人でなくていいと言ったでしょう」
「うん」
「黒田さんと葵を、比べる必要もありません」
「種類が違う?」
「違います」
「私は、どんな種類?」
「難しいですね」
「大切な友達?」
「それも合っています」
「妹みたい?」
「少し」
「娘?」
「十一歳しか違いません」
葵が小さく笑った。
「私は、真尋のこと、お姉さんみたいで、友達みたいで、時々お母さんみたいだと思ってる」
「お母さんはやめてください」
「でも、それだけじゃない」
「ほかに?」
「帰る場所」
昼間にも言われた言葉。
真尋は葵の手を握ったまま、目を閉じた。
「葵も、私の帰る場所です」
「本当?」
「はい」
「私、何もできないよ」
「話を聞いてくれます」
「それだけ?」
「私に、自分の気持ちを言うよう教えてくれました」
「黒田さんに会えた」
「はい」
「役に立ったね」
「とても」
葵は少し満足そうに息を吐いた。
しばらく静かになる。
眠ったのかと思った頃、葵が呟いた。
「直哉も、私の帰る場所だった」
「はい」
「もう、帰れない」
また涙声になっている。
真尋は葵のほうへ体を向けた。
「今は、私のところに帰ってきました」
「うん」
「これから先、別の帰る場所が増えるかもしれません」
「今は、考えられない」
「考えなくていいです」
「真尋は、ずっといる?」
ずっと。
簡単には約束できない言葉。
人は変わる。
関係も変わる。
永遠を軽々しく口にすれば、葵を安心させられるかもしれない。
だが真尋は、嘘を言いたくなかった。
「ずっと同じではないかもしれません」
葵の手に力が入る。
「でも、離れたくない時に、自分から黙って離れることはしません」
「どういうこと?」
「関係が変わる時は、話します。何も言わずに、葵を一人で悩ませません」
葵はしばらく黙っていた。
「それなら、いい」
「はい」
「直哉にも、そうしてほしかった」
「そうですね」
「真尋」
「何ですか」
「別れてよかったって、いつか思えるかな」
「思える日も、思えない日もあると思います」
「どっちかじゃない?」
「人の気持ちは、そんなにきれいに一つにはなりません」
「好きだった。別れてよかった。戻りたい。戻りたくない。全部あっていい?」
「いいです」
「真尋も、慎一さんにそう思う?」
「はい」
「今でも?」
「時々」
「黒田さんに会っても?」
「黒田さんと会うことと、慎一を思い出すことは別です」
「忘れなくてもいいんだね」
「忘れなくていいです」
葵は小さく息を吐いた。
「少し、眠くなった」
「眠ってください」
「真尋、起きてる?」
「眠るまで」
「手、離さないで」
「はい」
葵の呼吸が、少しずつゆっくりになる。
時々、喉の奥で小さく震える。
それでも、やがて眠りに落ちた。
真尋は葵の手を握ったまま、暗い天井を見つめた。
*
葵が眠った後も、真尋はなかなか眠れなかった。
隣に人がいる。
小さな寝息。
布団の重み。
体温。
誰かと同じベッドで眠るのは、慎一と別れて以来だった。
恋人ではない。
それでも、人の気配があるだけで、部屋の夜はまるで違う。
以前は、誰かと暮らせば自分の自由が失われると思っていた。
一人で眠る静けさを手放さなければならないと。
今夜は、葵の寝息を聞きながら、静けさには一種類しかないわけではないと感じる。
誰もいない静けさ。
誰かが安心して眠る隣の静けさ。
どちらも違う温かさを持っている。
葵を支えることに、責任の重さがないわけではない。
自分に依存されすぎたらどうするのか。
葵の痛みを背負いすぎて、自分が疲れたら。
黒田との時間や仕事へ影響が出たら。
先のことを考えれば、不安はいくらでもある。
けれど今夜、葵を一人にしないと決めたことを、真尋は後悔していない。
未来の問題を恐れ、今必要な手を差し出さない。
以前の真尋は、そうしてきた。
関係が重くなる前に距離を置く。
相手から必要とされすぎる前に、自分で扉を閉じる。
だが、誰かを大切にすることは、未来のすべてを引き受ける約束ではない。
今夜、隣にいる。
明日、朝食を作る。
話したくなったら聞く。
それを一つずつ選べばいい。
真尋のスマートフォンが小さく光った。
音は消してある。
画面には、黒田からメッセージが届いていた。
『友人の方が、少しでも眠れていますように。水口さんも休んでください』
真尋は片手で返信する。
『今、眠りました。お気遣いありがとうございます』
すぐに既読がつく。
『よかったです。おやすみなさい』
『おやすみなさい』
真尋は画面を伏せた。
黒田が理解してくれた。
葵が隣にいる。
母にも、話せる友人ができたと伝えた。
自分の周りに、少しずつ温かなつながりが増えている。
幸せには、一つの形しかないと思っていた。
一人で生きるなら、一人で強くなければならない。
誰かと生きるなら、その人を何より優先しなければならない。
けれど本当は、いくつもの場所に灯りをともしてもいい。
恋人。
友人。
家族。
仕事。
一人で過ごす部屋。
旅先の景色。
そのどれか一つだけに、人生のすべてを預けなくてもいい。
葵は今、一つの大きな灯りを失った。
だから世界が暗く見えている。
けれど、ほかの灯りが消えたわけではない。
真尋は、今夜だけでも、その一つになりたいと思った。
葵が自分の力で朝を迎えられるまで。
暗い道で立ち止まった時に、戻る方向がわかるように。
真尋は葵の手を包み直した。
指先は、もう冷たくなかった。
*
明け方近く、葵は一度目を覚ました。
「真尋」
暗闇の中で呼ぶ。
「いますよ」
真尋も浅い眠りから目を覚ました。
「夢だったらいいのに」
「はい」
「起きたら、別れてなかったらいいのに」
葵は天井を見たまま言った。
「そう思いますよね」
「スマートフォン見たい」
「今ですか」
「直哉から何か来てるかも」
真尋は時計を見る。
午前四時十一分。
「見ますか?」
「怖い」
「私が先に確認します?」
葵は少し迷い、頷いた。
真尋はベッドを出て、リビングに置いていた葵のバッグを取ってきた。
スマートフォンを渡す。
通知は切ってある。
葵が画面を開き、直哉とのトークを表示する。
メッセージが一通届いていた。
葵は読まずに、真尋へ差し出した。
「読んで」
「いいんですか」
「うん」
真尋は画面を見る。
『今日はごめん。葵と過ごした二年間を、俺も大切に思ってる。傷つけたくなくて言えなかったけど、結果的にもっと傷つけたと思う。本当にごめん。荷物のことは、落ち着いてからでいいから連絡して』
真尋は、そのまま読み上げた。
葵は目を閉じる。
「戻りたいとは書いてない」
「はい」
「好きとも」
「はい」
「本当に終わったんだ」
涙がこぼれる。
真尋はスマートフォンをサイドテーブルへ置いた。
「返事、したほうがいい?」
「今はしなくていいと思います」
「既読つけちゃった」
「既読がついても、すぐ返さなくていいです」
「何て返せばいい?」
「落ち着いてから考えましょう」
「ありがとうって?」
「そう思うなら」
「今は、ありがとうって思えない」
「なら、書かなくていいです」
「ひどいって言いたい」
「それも、今すぐ送らなくていいです」
「真尋は、何を言っても明日でいいって言う」
「明日ではなく、少し落ち着いてからです」
「いつ落ち着くの?」
「わかりません」
葵は泣きながら笑った。
「真尋も、わからないって言うんだ」
「わからないことは、わからないです」
「でも、いてくれる」
「はい」
葵は真尋のほうへ体を寄せた。
「もう少し、手を握って」
「はい」
二人は再び手をつないだ。
窓の外が、少しずつ明るくなり始めている。
夜は終わる。
葵が望まなくても。
直哉との関係が戻らなくても。
朝は来る。
それは残酷であり、救いでもあった。
*
午前七時を過ぎた頃、葵はようやく深く眠った。
真尋は静かにベッドを出て、カーテンを少しだけ開けた。
薄い朝日が部屋へ入る。
葵を起こさないよう、寝室の扉を半分閉める。
キッチンで湯を沸かし、コーヒーを淹れた。
一人分ではなく、二人分。
葵が起きた時に飲めるよう、もう一つのカップへは白湯を入れる。
冷蔵庫を開ける。
卵。
パン。
野菜。
何か食べられそうなら、柔らかい雑炊を作ろうと思う。
昨日までは、日曜日に黒田と出かける予定だった。
今は、葵が眠っている。
予定は変わった。
けれど、何かを失ったとは感じていない。
黒田との時間は、来週へ延びただけだ。
葵と過ごす朝もまた、今しかない時間だった。
真尋はコーヒーを持ち、窓際へ立った。
東京の朝。
向かいのマンションの窓に、次々と灯りがつく。
誰かが起きる。
朝食を作る。
仕事へ行く。
家族を送り出す。
一人でコーヒーを飲む。
同じ街の中に、無数の暮らしがある。
幸せにも、悲しみにも、一つの形しかないわけではない。
誰かと別れた朝。
誰かと出会い直した朝。
友人の家で眠る朝。
約束を延期した朝。
どれも、人生の途中にある。
寝室から小さな寝息が聞こえる。
真尋はその音を確かめ、カップへ口をつけた。
葵が目を覚ませば、また泣くかもしれない。
直哉へ連絡したいと言うかもしれない。
何も食べられないかもしれない。
笑える瞬間もあるかもしれない。
どの葵も、今の葵だ。
早く立ち直らせる必要はない。
失恋を成長や新しい出会いへ、すぐに結びつける必要もない。
悲しむ時間には、悲しむ時間の意味がある。
真尋は、窓の外へ広がる朝の光を見た。
帰る場所の灯りは、暗闇をすべて消すものではない。
遠くからでも、そこへ向かう道を見失わないためにある。
葵がまた自分の足で歩けるようになるまで、真尋はこの部屋の灯りをつけておこうと思った。
そしていつか、自分が道に迷った時には、葵の灯りを探せばいい。
支える人と、支えられる人。
その役割は、ずっと同じではない。
互いに入れ替わりながら、二人は歩いていく。
朝日が少し強くなり、床の上へ長い光を落とした。
新しい一日が、静かに始まっていた。




