第六章 もう一度、知り合うために
第六章 もう一度、知り合うために
店の中は、外から想像していたよりも静かだった。
入口から細い通路を進むと、木の格子で緩やかに仕切られた席が並んでいる。天井から下がる小さな照明が、テーブルの上だけを柔らかく照らしていた。
黒田が予約していたのは、窓際の二人掛けの席だった。
ガラスの向こうには新宿の夜景が広がっている。高層ビルの窓に灯る明かりと、道路を流れる車の光。角館で見た夜とは、まるで違う。
静かな暗闇の中に家々の灯りが点在していた町。
光が絶えることなく重なっている東京。
どちらも美しい。
けれど東京の夜景を眺めていると、美しさの中に自分の仕事や日常が混ざって見える。
「こちらでよかったですか」
黒田が椅子を引きながら尋ねた。
「はい。落ち着いたお店ですね」
「以前、水口さんが静かな店のほうが好きだと話していたので」
真尋は一瞬、返事が遅れた。
以前の会話を覚えていたことに驚いた。
三か月前、二度目に会った時のことだったと思う。騒がしい店では相手の声を聞き取ろうとして疲れると、何気なく話した。
「覚えていたんですね」
「覚えています」
黒田は当然のことのように答え、向かいの席へ座った。
「水口さんが話してくれたことは、できるだけ覚えていたかったので」
真尋は膝の上で指を組んだ。
黒田の言葉は穏やかだ。
責める響きはない。
それでも、自分が彼との時間をどれほど怖がり、早く終わらせようとしていたかを思い知らされる。
「ありがとうございます」
「お礼を言われることではありません」
黒田はメニューを開き、真尋の前へ置いた。
「何か苦手なものはありましたか」
「特にありません」
「お酒は?」
「少しなら」
「以前、赤ワインはあまり得意ではないと言っていましたね」
「それも覚えているんですか」
「困りますか?」
「いえ。少し驚いているだけです」
黒田は微笑んだ。
「僕は、人の話を覚えるのが仕事みたいなところがありますから」
「建築の仕事で?」
「依頼主がどんな暮らしをしたいか聞かないと、図面は描けません。何気なく言った言葉の中に、本当に大事なことが隠れている場合もあります」
「では、仕事の習慣なんですね」
「水口さんに関しては、仕事ではありません」
真尋はまた言葉に詰まった。
黒田は自分が率直なことを言ったと気づいたらしく、少し視線を落とした。
「すみません。久しぶりに会えたので、少し浮かれているのかもしれません」
「黒田さんでも、浮かれるんですね」
「どういう人だと思っていたんですか」
「もっと落ち着いている人だと」
「落ち着いているつもりですが」
「今、浮かれていると自分で」
「水口さんの前では、落ち着いて見せたかったんです」
真尋は黒田の顔を見た。
眼鏡の奥の目は、笑っている。
三か月前に会っていた時には、この人が何を考えているのか、ほとんどわからないと思っていた。
穏やかで、礼儀正しく、話をよく聞く。
感情を大きく表へ出さない。
真尋と似ていると思った。
似ているから、何かが始まれば互いに遠慮し続けるような気がした。
けれど今の黒田は、自分が嬉しいことも、緊張していることも、言葉にしている。
以前からそうだったのかもしれない。
真尋が受け取る余裕を持っていなかっただけなのだ。
店員が飲み物を聞きに来た。
真尋は白ワインをグラスで、黒田はビールを頼んだ。
料理は小皿をいくつか選ぶことにした。
季節野菜の温かいサラダ。
鶏肉の香草焼き。
白身魚のカルパッチョ。
栗と茸のリゾット。
二人でメニューを見ながら決める。
「量は、このくらいで大丈夫ですか」
黒田が尋ねる。
「十分だと思います」
「足りなければ追加しましょう」
「はい」
注文が終わると、短い沈黙が訪れた。
先ほどまでは、店や料理の話があった。
今は、二人とも本当に話さなければならないことを意識している。
真尋はテーブルの木目を見た。
連絡したのは自分だ。
最初に話すべきなのも、自分だろう。
「黒田さん」
「はい」
「最初に、謝らせてください」
黒田の表情がわずかに引き締まる。
「以前、付き合ってほしいと言っていただいた時、私はきちんと向き合いませんでした」
「そんなことは」
「あります」
真尋は黒田の言葉を遮った。
ここで相手の優しさに甘えてはいけない。
「仕事が忙しいから、恋愛をする余裕がないと答えました。でも、本当は違います」
黒田は黙って聞いている。
「余裕がなかったわけではなくて、怖かったんです」
「怖かった?」
「黒田さんと付き合うことが、という意味ではありません。誰かと関係を始めることそのものが」
真尋は一度、息を整えた。
「自分の生活が変わることや、相手に期待されること。私も相手に期待すること。それから、始まったものが、いつか終わるかもしれないこと」
言葉にすると、自分が何を恐れていたのかが、以前よりはっきり見えた。
「黒田さんの気持ちを考える前に、起こるかどうかもわからない先のことばかり考えて、扉を閉じました。失礼だったと思います」
黒田はすぐには答えなかった。
グラスの水へ手を伸ばし、一口飲む。
その沈黙に、真尋の不安が膨らむ。
やはり連絡すべきではなかったのではないか。
自分の事情を説明して、許してほしいだけなのではないか。
彼の生活をまた乱しているのではないか。
「水口さん」
「はい」
「僕は、失礼だったとは思っていません」
「でも」
「正直に言えば、残念でした」
真尋は黒田を見る。
「何度か会って、僕はもっと水口さんのことを知りたいと思っていました。だから、断られた時は落ち込みました」
「すみません」
「謝らないでください」
黒田は穏やかに首を振った。
「誰かの気持ちは、お願いして変えてもらうものではないでしょう。水口さんには水口さんの事情があると思いました」
「香織から、黒田さんがタイミングの問題だったのかもしれないと話していたと聞きました」
「香織さん、話したんですね」
「詳しくは聞いていないと言っていました」
「僕も詳しくは話していません」
黒田は少し笑った。
「ただ、僕の伝え方も急だったと思っています」
「急?」
「三度会っただけで、付き合ってほしいと言いましたから」
「私は、驚きました」
「そうでしょうね」
「でも、それが嫌だったわけではありません」
「水口さんが、僕をどう思っているのか、もっと聞けばよかったんです」
「黒田さんは、十分待ってくれました」
「一週間だけです」
「それでも」
「水口さんは、返事を出さなければならないと思ったでしょう?」
真尋は頷いた。
一週間、毎日考えた。
黒田が嫌いではない。
むしろ会う時間は楽しかった。
だが、付き合うと答えた瞬間、何かが決定してしまう気がした。
会う回数。
休日。
将来。
まだ何も始まっていないのに、すべてが一本の道へ続いて見えた。
「僕は、付き合うという形を先に求めすぎたのかもしれません」
黒田が言う。
「水口さんを知る時間が楽しかった。だから、それを失いたくなくて、名前をつけようとしたんです」
「名前?」
「恋人という名前です」
黒田は、少し恥ずかしそうに笑った。
「関係をはっきりさせれば、これからも会えると思いました」
その言葉に、真尋は葵を思い出した。
結婚すれば、関係が終わらない保証を得られる気がする。
葵はそう話していた。
黒田もまた、曖昧な関係を失うことが怖くて、形を求めたのかもしれない。
「私たちは、違う方向から同じことを怖がっていたのかもしれませんね」
真尋が言うと、黒田は少し考えた。
「水口さんは、形ができることを怖がった。僕は、形がないまま終わることを怖がった」
「はい」
「確かに、逆ですね」
二人は顔を見合わせた。
飲み物が運ばれてくる。
真尋の前に白ワイン。
黒田の前にビール。
店員が去った後、黒田がグラスを持ち上げた。
「何に乾杯しましょうか」
真尋は秋田の居酒屋を思い出した。
旅先の偶然に。
葵がそう言った。
「もう一度、会えたことに」
真尋が答えると、黒田の表情が柔らかくなる。
「それがいいですね」
グラスが軽く触れ合う。
「もう一度、会えたことに」
「乾杯」
真尋は白ワインを口へ含んだ。
冷たく、少し酸味がある。
以前なら、この乾杯にも意味を持たせすぎていただろう。
何かを始める約束なのか。
恋人になる可能性を認めたことになるのか。
そう考え、言葉を選べなくなる。
今は、今夜会えたことを喜べばいい。
それだけで十分だと思えた。
「秋田へ行っていたんですよね」
黒田が尋ねる。
「香織さんから聞きましたか?」
「いえ。メッセージに、建物のことを思い出したと最初に書いて、消したでしょう」
真尋は目を見開いた。
「どうしてわかるんですか」
「送られてきた文章には書いていませんでしたけど、連絡をもらった日の少し前に、香織さんが秋田の写真を載せた水口さんの投稿に反応していたので」
「黒田さん、私の投稿を見ていたんですか」
「すみません」
黒田が少し気まずそうに眼鏡へ触れた。
「友達としてつながっていましたから。こちらから連絡はしませんでしたが、写真は時々見ていました」
「そうだったんですね」
「角館の古い家の写真がありました。以前、僕が町家の改修をした話をしたので、それを思い出したのかと思いました」
「実際、思い出しました」
「そうですか」
「古い建物を見て、そこに暮らしていた人の生活を想像したんです。黒田さんも、そういうことを考えながら設計するのかなと」
黒田は嬉しそうに目を細めた。
「考えます」
「どんなふうに?」
「建物は、完成した瞬間が一番美しいとは限りません。住む人が傷をつけたり、家具を置いたり、子どもの背を柱へ記録したりして、その家だけの時間が積み重なっていく」
「人が住んで、完成していく?」
「完成というより、変わり続けるんです」
最初の料理、白身魚のカルパッチョが運ばれてきた。
薄く切られた魚の上に、柑橘と細かな野菜が添えられている。
黒田は取り分け用のフォークへ手を伸ばした。
「取り分けましょうか」
「お願いします」
真尋は以前なら、自分が先に取り分けていた。
相手に任せることに少し慣れたのか、自然に皿を差し出せた。
黒田が丁寧に二つへ分ける。
「家も、人の関係に似ていますね」
真尋が言う。
「どういうところが?」
「最初から完成した形を求めても、その通りにはならない。時間の中で変わっていく」
黒田は少し驚いたように真尋を見る。
「以前の水口さんなら、そういうことは言わなかった気がします」
「そうですか?」
「関係は最初に決めるものだと思っているように見えました」
「黒田さんから告白された時には、付き合うか、二度と会わないかのどちらかだと思いました」
「僕の伝え方も、そう受け取らせたんでしょうね」
「でも今は、もう一度知り合うところから始めてもいいのではないかと思っています」
真尋は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり話した。
「恋人になると決めるのではなくて、食事をしたり、話をしたり。その時間の中で、自分がどう感じるのかを知りたいです」
黒田は真尋を見つめた。
返事を待つ間、緊張はした。
それでも真尋は目をそらさなかった。
「僕も、そうしたいです」
黒田が答える。
「今度は、形を急がずに」
「はい」
「ただ、一つだけ正直に言ってもいいですか」
「何でしょう」
「僕は、水口さんを友人としてだけ見ているわけではありません」
真尋の胸が、少し強く鳴った。
「今も?」
「今もです」
黒田は落ち着いた声で言った。
「でも、それを理由に答えを急がせるつもりはありません。水口さんが、もう一度会ってみようと思ってくれたことを大事にしたいです」
「ありがとうございます」
「水口さんも、無理に期待へ応えようとしないでください」
真尋はその言葉に、少し驚いた。
「僕がまだ好意を持っていると知ったら、水口さんは、会った以上は何か答えなければならないと思いそうなので」
「そう見えますか」
「見えます」
黒田は微笑んだ。
「水口さんは、相手に期待させたことへ責任を感じすぎるところがあります」
「期待へ応えられないなら、最初から近づかないほうがいいと思っていました」
「それだと、水口さんの気持ちはいつ確かめられるんですか?」
葵にも同じようなことを言われた。
会いたいなら、会えばいい。
始まらなければ、何も残らない。
自分の気持ちを、先に考えたのか。
「今、確かめようとしています」
真尋が答えると、黒田は静かに頷いた。
「それなら、僕も一緒に確かめます」
「黒田さんの気持ちは、もう決まっているのでは?」
「好意があることと、一緒に生活できるかは別でしょう」
真尋は目を瞬いた。
「僕も三十九歳です。恋愛だけで生活のすべてを変えられるほど、身軽ではありません」
黒田はビールを一口飲んだ。
「仕事は忙しいですし、一人で暮らして十年以上になります。自分の時間も好きです。水口さんと付き合えたとして、毎週末会いたいのか、将来結婚したいのか、正直、僕もまだわかりません」
「告白した時には、わかっていたのでは?」
「水口さんを失いたくない気持ちのほうが先でした」
「それで、恋人という形を?」
「はい」
黒田は少し苦笑した。
「格好よくないでしょう」
「安心しました」
「どうして?」
「私だけが、わからないままなのではないと知れたからです」
真尋は葵へ言われたことを思い出す。
三十六歳でも迷うなら、二十五歳の自分が迷っていてもいいと思える。
今、真尋も同じように感じていた。
三十九歳の黒田も、すべての答えを持っているわけではない。
大人になれば、恋愛や結婚への考えが自然に固まると思っていた。
実際には、経験が増えるほど、簡単には決められないことも増えていく。
「では、二人ともわからないところからですね」
「そうですね」
「少し気が楽になりました」
「僕もです」
温かい野菜のサラダが届いた。
根菜と葉野菜に、軽く焼いたチーズがのっている。
二人で取り分け、食べる。
料理を味わいながら会話を続けられることが、真尋には嬉しかった。
三か月前の食事では、相手にどう見られるかを意識しすぎていた。
沈黙が生まれれば、話題を探した。
相手の質問には、正しく答えようとした。
自分がどう感じているかより、会話を滞りなく進めることを優先していた。
今夜は、言葉が途切れても怖くない。
黒田が料理を味わっている時間を、ただ待つことができる。
「旅先で、何かあったんですか」
黒田が尋ねた。
「何か?」
「水口さんが連絡をくれた理由です」
「友人ができました」
「秋田で?」
「はい。十一歳年下の女性です」
「旅先で知り合ったんですか」
「写真を頼まれて、その後、偶然同じ宿で再会しました」
「映画みたいですね」
「本人も、そういうことを言っていました」
真尋は葵との出会いを話した。
武家屋敷で写真を撮ったこと。
宿で再会したこと。
居酒屋で話したこと。
二人で町を歩いたこと。
恋愛や仕事について、互いの迷いを打ち明けたこと。
黒田は口を挟まず、時々質問をしながら聞いた。
「ずいぶん親しくなったんですね」
「自分でも不思議です」
「年齢が離れているから、話しやすかったんでしょうか」
「最初は、そうだと思いました。でも、今は年齢より、その人だから話せたのだと思っています」
「大切な友人ですね」
「はい」
大切な友人。
黒田に言われると、その言葉がより確かなものになる。
「葵と話しているうちに、自分が始まる前から先のことを考えすぎていると気づきました」
「それで僕へ?」
「はい」
「感謝しないといけませんね」
「葵は、黒田さんに連絡するよう、かなり強く勧めました」
「僕のことを知らないのに?」
「真尋がまた誰かを好きになったら素敵だから、と」
真尋は口にしてから、少し恥ずかしくなった。
黒田は笑わなかった。
むしろ、穏やかな表情で真尋を見た。
「いい友人ですね」
「はい」
「水口さんのことを、よく見ている」
「会って数日なのに」
「時間の長さではないのかもしれません」
「黒田さんもそう思いますか」
「建物も、人間関係も、長ければいいわけではないでしょう」
「黒田さんは、何でも建物に例えますね」
「職業病です」
二人は笑った。
真尋は、黒田の笑う顔を以前より近く感じた。
落ち着いた人という印象は変わらない。
ただ、その中にあるおかしさや、少し不器用なところが見えるようになった。
「黒田さんは、一人暮らしが長いと言いましたね」
「はい。二十七歳からです」
「ご実家は?」
「神奈川です。両親と兄夫婦が近くに住んでいます」
「結婚について、何か言われますか」
「母は時々。父は何も言いません」
「困りません?」
「慣れました」
その言葉に、真尋は思わず笑った。
「何ですか?」
「私も、何でも慣れたと言うと葵に指摘されました」
「慣れたことと、平気なことは違う?」
真尋は驚いた。
「どうしてわかったんですか」
「今の水口さんの顔で」
「そう言われました」
「僕も、慣れただけで、平気ではないかもしれません」
黒田は少し遠くを見るような表情になった。
「兄には二人子どもがいます。実家へ帰ると、家族が増えていることを感じます。両親も兄夫婦も、僕が一人でいることを責めません。でも、皆が帰った後の家を出る時、少しだけ自分が外側にいるように感じることがあります」
真尋は静かに頷いた。
自分にも覚えのある感覚だった。
友人たちが家庭を持ち、話題の中心が子どもや夫婦のことへ変わっていく。
その輪に入れないわけではない。
けれど完全には同じ場所に立てない。
「一人の家へ帰る時ですか」
「はい。家へ着けば、自分の部屋が一番落ち着くんですけど」
「わかります」
「一人でいるのは好きなのに、一人でいることを意識させられると、寂しくなる」
「それも、わかります」
二人は顔を見合わせた。
同じ感覚を持つ人がいる。
それだけで、孤独の形が少し変わる。
「水口さんは、マンションを買ったんですよね」
「はい」
「すごいと思いました」
「黒田さんは建築の仕事をしているから、部屋を見られると緊張しそうです」
「呼んでもらえるんですか?」
黒田の反応が思ったより早く、真尋は戸惑った。
「いえ、仮の話です」
「残念です」
黒田は冗談めかして言った。
「でも、いつか見てみたいです」
「人の家を見るのが好きなんですか?」
「間取りを見るのは好きですが、水口さんの暮らしにも興味があります」
「特別なものはありません」
「どんな椅子を選び、どこに写真を飾るのか。そういうものに、その人が表れます」
「部屋を見られたら、全部知られそうですね」
「全部はわかりません。ただ、話すきっかけは増えます」
真尋は、自宅へ葵が来る約束をしていることを思い出した。
以前なら、部屋へ人を入れることに大きな抵抗があった。
自分だけの場所を守りたかった。
黒田にいつか来てもらうことを想像する。
まだ、少し緊張する。
だが、完全に嫌ではない。
「いつか」
真尋が言うと、黒田は穏やかに頷いた。
「はい。いつか」
その言葉に、急かす響きはなかった。
*
食事が進むにつれ、二人の会話は仕事のことへ移った。
黒田は最近、古い集合住宅を改修し、若い世代と高齢者が暮らせる住まいへ変える仕事に関わっているという。
「古い建物を壊さずに使うんですか?」
「全部残せるわけではありません。耐震性や設備の問題もありますから。ただ、使える部分は残します」
「住む人の世代が違うと、求めるものも違いそうですね」
「違います。高齢者は階段を避けたい。若い人は、多少不便でも家賃が安く、共有スペースがあることを喜ぶこともある」
「共有スペース?」
「小さな台所や庭です。住人同士が、使いたい時だけ使える」
「一人で暮らしながら、誰かの気配がある場所ですね」
真尋は興味を惹かれた。
「そうです。誰かと同居するほど近くなく、完全に孤立するほど遠くない」
「それは、いいですね」
「水口さんも、そういう暮らしが合いそうですか」
「今は一人の部屋が好きです。でも将来は、近くに話せる人がいるほうが安心かもしれません」
「結婚ではなくても?」
「はい」
真尋は自分で口にした言葉を考えた。
これまで、老後の選択肢は一人か結婚かのどちらかだと思っていた。
結婚しなければ、ずっと一人。
だが、友人の近くに住む。
適度に人の気配がある場所を選ぶ。
血縁や恋愛だけではない関係の中で暮らす。
幸せの形は、思っていたより多いのかもしれない。
「黒田さんは、どんな暮らしがしたいですか」
「難しい質問ですね」
「いつも聞く側だから?」
「そうかもしれません」
黒田は少し考えた。
「自分の仕事を続けられる場所。朝、光が入る部屋。本が置ける壁。料理をするので、台所は少し広いほうがいい」
「料理をするんですか」
「簡単なものです」
「意外です」
「よく言われます」
「どんなものを?」
「煮込み料理が多いです。材料を入れて待つだけなので」
「今度、食べてみたいです」
真尋は自然に言った。
黒田が目を見開く。
自分も言ってから気づいた。
今度。
相手の家か、自分の家か。
どこで食べるのかは決めていない。
それでも、また会う未来を前提にした言葉が出た。
「作ります」
黒田が答える。
「いつか」
「また、いつかですね」
「急がない約束には、便利な言葉です」
「逃げるためではなく?」
「待つための言葉なら、いいと思います」
黒田の言葉に、真尋は微笑んだ。
「では、いつか食べさせてください」
「はい」
「黒田さんの理想の暮らしは、ほかには?」
「誰かと暮らすなら、互いに一人になれる部屋が欲しいです」
真尋は葵との会話を思い出した。
「私も、同じことを話しました」
「友人と?」
「はい。結婚しても別々の部屋があればいいのではないかと」
「いいと思います」
「世間には、仲が悪いと思われるかもしれないと言ったら、世間が一緒に暮らすわけではないと答えました」
「それは水口さんが?」
「私です」
「水口さんらしいですね」
「葵にも言われました」
「良い意味です」
「どういうところが?」
「自分たちの暮らしは、自分たちで決めればいいというところです」
「でも私は、世間が決めた形に縛られてきた気がします」
黒田は少し考えた。
「縛られたというより、その形しか見えていなかったのでは?」
真尋は黒田を見る。
「選択肢が一つしか見えなければ、それを選ぶか拒むかしかありません。でも、別の形があると知れば、自分に合うものを探せます」
「黒田さんは、いつも依頼主へそう話すんですか」
「住まいには、正解が一つではないと話します」
「人生にも?」
「そう思いたいです」
黒田は穏やかに笑った。
「僕自身、結婚して家を買い、子どもを持つことが幸せだと考えていた時期があります」
「今は違う?」
「それも幸せだと思います。ただ、それだけではない」
「どうして変わったんですか」
「仕事で、さまざまな家を作ったからかもしれません」
黒田は、これまで担当した住まいについて話した。
姉妹で暮らすための小さな平屋。
離婚後、一人で子どもを育てる女性のための家。
老後に友人同士で近くへ住むため、二軒を小さな庭でつないだ住まい。
結婚せず、長く付き合う男女が、それぞれの部屋を持ちながら暮らす家。
「いろいろな暮らしがあるんですね」
「あります」
「その人たちは、周りから何か言われなかったのでしょうか」
「言われた人もいると思います。でも、住むのはその人たちです」
「世間が一緒に暮らすわけではない」
「そういうことです」
二人は笑った。
真尋は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
幸せには、一つの形しかないと思っていた。
誰かと暮らすなら、結婚。
結婚するなら、同じ家、同じ部屋、共有する休日。
それができない自分は、誰かと生きることに向いていないと思っていた。
けれど、二人で相談しながら暮らしを作ることもできる。
最初から決まった型へ自分を押し込めなくてもいい。
黒田とそうなると決まったわけではない。
それでも、未来を想像した時に、息苦しさだけではなく、少しの興味が生まれている。
*
食事を終えた後、黒田が会計を済ませようとした。
「私も払います」
真尋は財布を出した。
「今日は、僕が誘われた側なので」
「連絡したのは私です」
「では、次は水口さんにお願いします」
「次がある前提ですね」
黒田は一瞬黙り、少し困ったように笑った。
「すみません。急がないと決めたばかりなのに」
「嫌ではありません」
真尋は自分の分を支払おうとしていた手を止めた。
「では、次は私が」
「ありがとうございます」
「いつにしますか」
黒田が驚いたように真尋を見る。
「私から誘っておいて、次を決めずに帰ると、また連絡できなくなるかもしれません」
「正直ですね」
「練習中です」
「何の?」
「自分の希望を言う練習です」
葵へ話したのと同じ言葉。
黒田は嬉しそうに笑った。
「僕は、来週の日曜なら空いています」
「日曜日」
「昼でも、夜でも」
真尋は予定を思い出した。
土曜日は、葵が恋人と会う。
何かあれば、連絡を待つことになっている。
日曜日は、今のところ予定がない。
「午後なら大丈夫です」
「どこか行きたい場所はありますか」
「建物を見てみたいです」
「建物?」
「黒田さんが好きな建物を、一緒に見てみたいです」
今度は黒田が、しばらく言葉を失った。
「変でしたか?」
「いえ。うれしくて」
「また浮かれています?」
「かなり」
黒田は笑った。
「では、僕が場所を考えます」
「お願いします」
会計を済ませ、二人は店を出た。
外はさらに冷えていた。
ビルの間を通り抜ける風に、真尋はコートの襟を閉じる。
「寒いですね」
黒田が言う。
「秋田よりはましです」
「雪は降りました?」
「一粒だけ」
「一粒?」
「夜、空から一つだけ落ちてきたんです」
「見間違いでは?」
「葵も見ました」
「では、本当ですね」
二人は新宿駅へ向かって歩いた。
金曜日の夜の街は、人であふれている。
酔った声。
信号の音。
店の呼び込み。
人の波の中で、黒田は真尋より半歩ほどゆっくり歩いていた。
真尋は自分の歩く速さを意識した。
葵と角館を歩いた時、速いほうが少し遅く歩けばいいと話した。
今は、黒田が真尋に合わせているのかもしれない。
「黒田さん、歩くのが遅いですか?」
「水口さんが速いんです」
「やはり」
「誰かに言われました?」
「葵に」
「その友人は、短い時間で水口さんをよく知りましたね」
「私は、わかりやすいのでしょうか」
「隠しているつもりの部分ほど、見える人には見えるのかもしれません」
「黒田さんにも?」
「少しずつ」
黒田が笑う。
真尋は照れくさくなり、前を向いた。
駅前の大きな交差点で、信号が赤になる。
二人は並んで立ち止まった。
向かい側にも、多くの人が待っている。
「水口さん」
「はい」
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
「連絡するのは、怖かったですか」
「とても」
「それでも、送ってくれた」
「友人に背中を押されました」
「それだけですか?」
真尋は黒田を見る。
「私も、会いたいと思ったからです」
黒田は、しばらく何も言わなかった。
信号が青へ変わる。
人々が一斉に歩き始める。
黒田も歩き出したが、表情は笑ったままだった。
「何ですか?」
「水口さんが、それを言ってくれたことがうれしいです」
「大げさです」
「僕にとっては大きいことです」
真尋は否定しなかった。
言葉は、相手に渡した瞬間から、自分だけのものではなくなる。
真尋には短い一言でも、黒田には長く待っていた言葉かもしれない。
「黒田さん」
「はい」
「今度は、言わないまま決めないようにします」
「何を?」
「怖いから会わない。迷うから断る。そういうことを」
黒田はゆっくり頷いた。
「僕も、形を急がないようにします」
「では、もう一度、知り合うところから」
「はい」
二人は駅の入口へ着いた。
改札は別の方向だった。
「ここで」
黒田が立ち止まる。
「はい」
「日曜日の場所は、明日連絡します」
「楽しみにしています」
真尋が言うと、黒田はまた少し驚いた顔をした。
「水口さん」
「何ですか?」
「以前より、ずっと言葉がまっすぐですね」
「以前は、まっすぐではなかったですか」
「届く前に、少し曲げていた気がします」
真尋は笑った。
「今も練習中です」
「僕も、練習します」
「何を?」
「嬉しい時に、嬉しいと言うことを」
黒田は、真尋を見た。
「今日は、会えて嬉しかったです」
真尋はその言葉を、胸の奥で受け止めた。
「私も、会えて嬉しかったです」
「では、また」
「また」
黒田が改札へ向かう。
真尋はその背中を見送った。
葵を見送った時と似ている。
だが、胸の中にある感情は少し違った。
葵に対しては、温かく守りたい気持ちと、頼りたい気持ちが同時にある。
黒田には、まだ名前のつかない緊張と期待がある。
もっと知りたい。
次に会った時、どんな話をするのか楽しみだ。
それを恋と呼ぶには、まだ早い。
けれど、恋ではないと否定する必要もない。
真尋は自分の改札へ向かった。
*
電車へ乗ると、すぐにスマートフォンが震えた。
葵からだった。
『終わった?』
真尋は時刻を見る。
午後十時十二分。
『今、帰りです』
送信した直後、電話がかかってきた。
「もしもし」
『どうでした?』
「最初に、お疲れさまと言いません?」
『お疲れさま。それで?』
「落ち着いてください」
『待ってたんです』
「本当に起きていたんですね」
『まだ十時です』
「そうでした」
真尋は座席の端へ座り直した。
車内は混んでいる。
電話の声が周囲へ聞こえないよう、小さな声で話す。
「もう一度、知り合うところから始めることにしました」
『付き合うんですか?』
「始めるところからと言ったでしょう」
『じゃあ、次の約束は?』
「日曜日に会います」
『すごい!』
「声が大きいです」
『ごめんなさい。それで、黒田さんはまだ真尋が好きなんですか?』
「本人から、そう言われました」
『真尋は?』
葵の質問は容赦がない。
「まだ、わかりません」
『楽しかった?』
「はい」
『また会いたい?』
「はい」
『じゃあ、それで十分です』
葵の声が、少し柔らかくなる。
『よかったですね』
「葵のおかげです」
『もっと言ってください』
「調子に乗るので、これ以上は言いません」
『服は褒められました?』
「服の話はしませんでした」
『髪は?』
「それも」
『黒田さん、そこは言わないと』
「そういう人ではありません」
『真尋は、きれいだったのに』
「見ていないでしょう」
『写真で見ました』
「試着した時の写真です」
『同じです』
葵は、本当に自分のことのように喜んでいる。
真尋の胸が温かくなる。
「葵」
『何ですか?』
「明日は、大丈夫ですか」
電話の向こうが少し静かになった。
『怖いです』
「何時に会うんですか」
『午後六時』
「場所は?」
『彼の家の近くのカフェです』
「カフェ?」
『人がいる場所のほうが、感情的にならずに話せると思って』
「葵が決めたんですか」
『はい』
「いいと思います」
『真尋みたいに、うまく話せるかな』
「今日、私はうまく話せたわけではありません」
『でも、本当のことを言えたんでしょう?』
「言いました」
『私も言えるかな』
「一度に全部言わなくてもいいです」
『でも、聞かなきゃ』
「言葉を用意しすぎると、相手の話を聞けなくなるかもしれません」
『相手の話』
「葵が何を伝えたいかは大事です。でも、彼が何を考えていたのかも聞きたいでしょう」
『聞くのが怖いです』
「はい」
『真尋』
「何ですか」
『明日、終わったら電話していい?』
「もちろん」
『もし、別れることになったら』
葵の声が震える。
『一人で家に帰れないかもしれない』
「うちへ来てください」
真尋は迷わず答えた。
『本当に?』
「前にも言いました」
『何時でも?』
「何時でも」
『迷惑じゃない?』
「葵」
『はい』
「私が来てほしいと思っています」
電話の向こうで、葵が息を吸う音がした。
『真尋』
「何ですか」
『ありがとう』
「まだ何も起きていません」
『うん』
「話して、関係がよくなる可能性もあります」
『そうですよね』
「どんな結果でも、一人で抱えなくていいです」
『はい』
葵の声が少し落ち着いた。
「今日は、なるべく眠ってください」
『眠れるかな』
「温かいものを飲んで」
『真尋、課長みたい』
「もう切ります」
『待って』
「まだ何か?」
『日曜日、黒田さんと何をするんですか』
「建物を見に行きます」
『デートですね』
「建物を見に行くだけです」
『真尋、それをデートって言うんですよ』
「おやすみなさい」
『逃げた』
「逃げていません。電車の中です」
『じゃあ、家に着いたら連絡して』
「わかりました」
『真尋』
「何ですか」
『今日は、よく頑張りました』
真尋は少し笑った。
「葵も、メッセージを送ったでしょう」
『はい』
「お互いに」
『お互いに』
電話を切る。
真尋はスマートフォンを膝へ置いた。
窓の外へ、夜の街が流れている。
黒田と会った余韻。
葵への心配。
二つの感情が、同じ胸の中にある。
以前の真尋なら、どちらかに集中しなければならないと思ったかもしれない。
自分の恋愛を考えるなら、葵の問題まで抱えられない。
葵を支えるなら、自分の感情は後回しにする。
だが、人の心は一つのことしか持てないほど狭くはない。
自分の未来を楽しみにしながら、友人を心配することもできる。
誰かを支えながら、自分も支えてもらうことができる。
*
自宅へ着くと、真尋はコートを脱ぎ、すぐに葵へ連絡した。
『着きました』
『お帰り』
『ただいま』
ただいま。
誰もいない部屋で、その言葉を誰かへ返せる。
それだけで、部屋の静けさが変わった。
真尋は鏡の前に立ち、髪をまとめた。
緑色のブラウス。
小さなピアス。
少し落ちた口紅。
葵が服を変えることで、いつもと少し違う自分になれると言っていた。
確かに今夜の真尋は、三か月前とは違った。
服だけではない。
相手の言葉を受け取り、自分の言葉を渡せた。
会いたいと言った。
嬉しいと言った。
次の約束を自分から尋ねた。
どれも、以前の真尋には難しかったことだ。
洗面所で化粧を落とし、部屋着へ着替える。
キッチンで水を飲む。
テーブルの上には、秋田で買った母への土産がまだ置いてある。
今週末、実家へ届けるつもりだったが、日曜日に黒田と会うことになった。
母へ電話し、来週でもよいか聞かなければならない。
自分の予定を、誰かのために変える。
以前なら、少し抵抗があった。
今は、その変更が嫌ではない。
真尋は母へ短いメッセージを送った。
『お土産、来週持っていってもいい? 日曜日に予定ができました』
すぐに既読がついた。
『いいよ。デート?』
真尋はスマートフォンを見つめた。
なぜ母までそういう反応をするのか。
『友人と出かけます』
『男性?』
『建築士の人』
『前に香織ちゃんが紹介してくれた人?』
母は、どこまで知っているのだろう。
『そう』
『よかったじゃない』
『まだ何も決まってないよ』
『決まらなくても、楽しく出かければいいでしょう』
母の返事に、真尋は少し驚いた。
もっと、今度こそ結婚へつなげなさいと言われる気がしていた。
『お母さん、そういうこと言うんだ』
『何を?』
『結婚とか言わないんだと思って』
しばらく返信がなかった。
やがて、少し長い文章が届いた。
『お母さんは、あなたに結婚してほしいんじゃなくて、あなたが寂しい時に話せる人がいてほしいの。結婚するかどうかは、あなたが決めればいいよ』
真尋は画面を見つめた。
これまで母が親戚の結婚や近所の孫の話をするたび、結婚を急かされていると思っていた。
もちろん、母の中に結婚への期待がないわけではないだろう。
けれど、その奥にあるのは、娘が一人で何もかも抱えることへの心配だったのかもしれない。
『話せる友達ができたよ』
真尋は送った。
『秋田で?』
『そう。二十五歳の女の子』
『旅行の写真に写っていた子?』
母には、帰りの新幹線から写真を何枚か送っていた。
『そう』
『いい顔してたね、真尋』
『葵が撮ってくれた』
『あなたがあんなふうに笑ってる写真、久しぶりに見た』
真尋は、紅葉の下で笑う自分の写真を開いた。
葵へ向けた顔。
画面の外にいる人の存在が、写真の中に残っている。
『また今度、話すね』
『楽しみにしてる。明日はゆっくり休みなさい』
『おやすみ』
『おやすみ』
真尋はスマートフォンを置いた。
母とも、もっと話せることがあるのかもしれない。
真尋が勝手に、心配をかけない娘でいようとしていただけで。
*
翌朝、真尋は七時過ぎに目を覚ました。
カーテンを開けると、薄い雲の間から朝の光が差している。
土曜日。
会社へ行く必要はない。
それでも昨日の余韻で、頭は冴えていた。
コーヒーを淹れ、ソファへ座る。
スマートフォンには黒田からメッセージが届いている。
『昨日はありがとうございました。日曜日ですが、上野にある旧岩崎邸庭園はいかがでしょう。建物を見た後、近くで昼食を取りませんか』
真尋は名前だけ知っていたが、行ったことはない。
検索すると、洋館と和館が並ぶ歴史的な建物の写真が表示された。
美しい。
黒田がどこを見て、何を話すのか興味が湧く。
『ぜひ行きたいです』
返信する。
数分後、待ち合わせ時間と場所が届いた。
明日が楽しみだと思う。
その気持ちと同時に、今日は葵が恋人と会う日だと意識した。
午後六時。
まだ十時間以上ある。
真尋は、葵へ連絡しようか迷った。
考えすぎないようにしているかもしれない。
こちらから緊張を思い出させないほうがいいのではないか。
そう考えた時、葵から先にメッセージが届いた。
『起きてますか』
『起きています』
『今日、どうしよう』
『何が?』
『服』
真尋は思わず笑った。
昨日、自分が葵に服装を細かく聞かれた。
今度は自分の番らしい。
『話しやすい服でいいのでは』
『真尋、昨日私に言われたこと忘れた?』
『気持ちを変えるために、少し新しくする?』
『そう』
『では、自分が一番落ち着く服』
『新しくない』
『葵は、彼にどう見られたいんですか』
しばらく返信が来なかった。
『かわいいと思われたい』
率直な答えだった。
『それでいいと思います』
『別れ話になるかもしれないのに?』
『それでも、かわいいと思われたいんでしょう』
『うん』
『では、自分がかわいいと思える服を着てください』
『真尋、うまいこと言うようになった』
『葵のおかげです』
『今、家に来てほしい』
真尋は画面を見た。
『服を選ぶため?』
『それもある。話す前に、一人でいたくない』
真尋は時計を見る。
午前七時半。
葵の家の場所は、以前送ってもらっている。
電車で四十分ほど。
『何時に行けばいい?』
『来てくれるの?』
『午前中でよければ』
『今から』
『まだ朝です』
『九時』
『わかりました』
真尋はコーヒーを飲み干し、支度を始めた。
*
葵の住むマンションは、駅から十分ほど歩いた住宅街にあった。
五階建ての、少し古い建物。
オートロックの入口で部屋番号を押すと、葵の声が聞こえた。
『真尋?』
「そうです」
『今開けます』
扉が開く。
エレベーターで四階へ上がり、廊下の一番奥へ向かう。
葵は玄関の前で待っていた。
髪を一つにまとめ、部屋着のスウェット姿。
「おはよう」
「おはようございます」
「敬語」
「人の家に来たので」
「関係ないでしょう」
葵は笑おうとしたが、顔には緊張が見える。
「どうぞ」
「お邪魔します」
玄関へ入る。
靴が三足ほど出たままになっている。
廊下の隅には、届いたままの宅配便の箱が置かれていた。
「先に言いますけど、片づけました」
葵が言う。
「これで?」
「これでも」
「洗濯物は?」
「押し入れ」
「畳んでいないんですね」
「見えなければ大丈夫です」
「大丈夫ではないと思います」
真尋が言うと、葵は少し笑った。
リビングは八畳ほど。
小さなソファ。
白いローテーブル。
壁際には本棚とテレビ。
窓辺に、葉の少し元気のない観葉植物が置かれている。
部屋は散らかっているというほどではないが、物が多い。
テーブルの下に雑誌が重なり、椅子の背にはバッグとカーディガンが掛かっている。
「思ったより、きれいです」
「思ったよりって何ですか」
「歩く場所もないかと」
「そこまでじゃないです」
真尋はコートを脱ぎ、葵に渡した。
「座ってください。今、コーヒー淹れます」
「朝ご飯は食べました?」
「食べてません」
「何かありますか」
「パン」
「では、食べましょう」
真尋はキッチンへ向かった。
「真尋、お客さんですよ」
「葵に任せると、コーヒーだけで終わるでしょう」
「そうですけど」
小さな冷蔵庫を開ける。
卵。
チーズ。
ヨーグルト。
使いかけの牛乳。
野菜はほとんどない。
「パンだけですか」
「卵もあります」
「目玉焼きを作ります」
「真尋が?」
「嫌なら、葵が」
「お願いします」
真尋は手を洗い、フライパンを探した。
棚の下から、小さなフライパンが出てくる。
「料理、しないんですか」
「時々」
「いつ?」
「鍋」
「材料を入れるだけですね」
「黒田さんと同じ」
葵が言った。
「どうして知っているんですか」
「電話で聞きました」
「そこまで話しました?」
「話してました」
真尋は卵を割りながら、昨夜の会話を思い出した。
黒田が煮込み料理を作ること。
いつか食べてみたいと言ったこと。
葵へどこまで報告したのか、自分でも曖昧だ。
「楽しかったんですね」
葵が背後から言う。
「はい」
「声が違いました」
「電話の?」
「柔らかかった」
「そうですか」
「今も、思い出してるでしょう」
真尋は返事をせず、フライパンへ蓋をした。
「図星」
「葵は、自分のことを考えてください」
「考えてると怖いから、真尋の話をしたい」
葵の声が少し沈んだ。
真尋は火を弱め、振り返る。
葵はキッチンの入口へ立ち、腕を組んでいる。
「眠れませんでした?」
「少しだけ」
「何時まで?」
「三時くらい」
「もっと早く連絡してくれてもよかったのに」
「真尋、黒田さんと会ってたし」
「終わった後なら」
「楽しそうだったから、邪魔したくなかった」
真尋はフライパンから目玉焼きを皿へ移した。
「葵」
「はい」
「私が楽しい時に、葵がつらいと言ってはいけないわけではありません」
「でも」
「同じ時に、二つのことを持てます」
真尋はパンをトースターへ入れた。
「私が黒田さんと会えて嬉しかったことと、葵を心配することは別です。どちらかを選ばなくていい」
葵は黙っている。
「友達に遠慮するのも禁止です」
「真尋も、遠慮するのに」
「だから、一緒に練習するんでしょう」
葵は少しだけ笑った。
「うん」
二人で簡単な朝食を食べた。
焼いたパン。
目玉焼き。
ヨーグルト。
真尋が淹れたコーヒー。
「人に朝ご飯作ってもらうの、久しぶりです」
葵が言う。
「実家では?」
「二年前に出てからは、ほとんど帰ってません」
「ご実家は遠いんですか」
「千葉です。遠くはないけど」
「ご家族と仲が悪い?」
「悪くないです。ただ、帰るといろいろ聞かれるから」
「彼のこと?」
「結婚はどうするの。仕事は続けるの。いつまで一人暮らしするのって」
「お母様?」
「母も父も」
葵はパンをちぎった。
「私、家を出る時、彼と結婚するつもりだったんです」
「二年前から?」
「いつかは、ですけど」
「ご両親も知っている?」
「付き合ってる人がいることは」
「だから聞かれるんですね」
「はい。今日、もし別れることになったら、家族にも何て言えばいいかわからない」
「すぐに言わなくてもいいでしょう」
「でも、母から毎週みたいに連絡が来るんです」
「葵は、彼と別れることだけではなく、思い描いていた未来がなくなることを怖がっているんですね」
葵はしばらく黙っていた。
「そうかもしれない」
「彼本人と、彼と結婚した自分の未来。どちらを失うのが怖いのか、まだ混ざっている?」
「はい」
葵は目を伏せた。
「真尋に、結婚したいのか、安心が欲しいのかわからないって話したでしょう」
「覚えています」
「考えたけど、まだわからない」
「今日、全部わからなくてもいいと思います」
「でも、彼に聞かれたら?」
「今わからないと答えればいい」
「それでいいのかな」
「私たちは、答えがないと話してはいけないと思いすぎるのかもしれません」
真尋はコーヒーカップへ手を添えた。
「迷っていることを、そのまま伝えることもできます」
「真尋も昨日、そうした?」
「はい。黒田さんへ、好きかどうかはまだわからない。でも、もう一度会いたいと伝えました」
「黒田さんは怒らなかった?」
「怒りませんでした」
「待ってくれるって?」
「二人で確かめることになりました」
「二人で」
葵は小さく繰り返した。
「いいですね、それ」
「葵と彼も、二人で考えられるかもしれません」
「彼が考える気持ちを残していれば」
「それを、今日聞くんでしょう」
葵は深く息を吐いた。
「怖い」
「はい」
「逃げたい」
「はい」
「今日、熱が出たことにしていい?」
「本当に逃げたいなら、止めません」
葵が顔を上げる。
「止めないの?」
「会うのは葵です」
「でも、真尋は行けって言うと思った」
「私は、葵の代わりに結果を引き受けられません」
「冷たい」
「ただ」
真尋は葵を見る。
「今日行かなければ、不安な時間が続くと思います」
「うん」
「葵は、それに耐えられますか」
「無理です」
「なら、行ったほうがいいと私は思います」
「やっぱり」
「でも、決めるのは葵です」
葵はしばらく考え、頷いた。
「行きます」
「はい」
「真尋、一緒に服選んで」
「そのために来たんでしょう」
二人は食器を片づけ、寝室のクローゼットを開けた。
クローゼットの中には、色の明るい服が多かった。
白。
淡いピンク。
水色。
花柄のワンピース。
真尋の服とは対照的だ。
「葵らしいですね」
「何が?」
「色が明るい」
「会社では、もっと地味です」
「今日はどうしたいですか」
「かわいいと思われたい。でも、話し合いに行くのに、頑張りすぎてると思われたくない」
「彼のために選ぶと決めたんですか」
「自分がかわいいと思える服」
「そうでしたね」
葵は何着か取り出した。
淡い黄色のニット。
細い花柄のワンピース。
濃いブルーのスカート。
「これ、秋田で着たコートに合います?」
葵が黄色いニットを胸へ当てる。
「似合うと思います。ただ、いつもと同じ印象になりますね」
「少し変えたほうがいい?」
「変えたいなら」
「真尋なら、どれが好き?」
真尋は服を見比べた。
深い青色のスカートへ手を伸ばす。
「これに、白いニットは?」
「地味じゃない?」
「葵の顔が明るいので、大丈夫です」
「褒めてる?」
「褒めています」
葵は白いニットと青いスカートを合わせ、鏡の前に立った。
「大人っぽい」
「似合います」
「彼、こういうの好きかな」
「また彼を基準にしています」
「あ」
「葵は?」
葵は鏡の中の自分を見る。
「好きです」
「では、それで」
「決めた」
葵は服をベッドへ置いた。
「髪は?」
「自分で決めてください」
「真尋、昨日葵に口出しされた仕返ししてる?」
「少し」
「ひどい」
二人は笑った。
笑った後、葵の表情がまた少し固くなる。
服が決まると、会うことが現実に近づいたのだろう。
「真尋」
「何ですか」
「何を聞けばいいと思う?」
「一番知りたいことは?」
「私と、これからも付き合いたいか」
「それを聞けばいいです」
「直接すぎない?」
「遠回しに聞いて、曖昧な答えが返ってきたら、また悩みます」
「そうだけど」
「それから、葵がどうしたいかも伝える」
「別れたくない」
「なぜ?」
「好きだから」
「それも伝えればいい」
「将来の話は?」
「彼がどう考えているのか聞く」
「結婚する気があるか?」
「結婚という言葉だけでなく、葵との未来を考えているか」
葵は真剣に頷く。
「仕事が忙しいことは理解している。でも、連絡が減ったり、会えない状態が続くことがつらい。どうすれば二人が無理なく続けられると思っているか」
「そこまで言えるかな」
「全部を一度に言う必要はありません」
「メモしていい?」
「見ながら話すんですか」
「忘れそうだから」
「書くことで、自分の考えを整理するのはいいと思います」
葵はノートを取り出した。
真尋が言ったことを、そのまま書こうとする。
「私の言葉ではなく、葵の言葉で書いてください」
「難しい」
「時間はあります」
「真尋、隣にいて」
「います」
葵はノートへ向かった。
真尋はソファへ座り、部屋を見回した。
壁には友人たちとの写真が飾られている。
大学の卒業式。
海。
結婚式。
その中に、恋人と写った写真はなかった。
「彼との写真は?」
真尋が尋ねると、葵は書く手を止めた。
「スマートフォンにはあります」
「飾らないんですか」
「彼が、写真を撮られるのを嫌がるから」
「そうなんですね」
「最初は、撮ってくれたんですけど」
葵はまたノートへ目を落とす。
「最近は、会っても写真を撮らなくなりました」
真尋は何も言わなかった。
過去の変化を一つずつ拾えば、関係が離れている証拠はいくらでも見つかる。
だが、その意味を決められるのは、二人だけだ。
葵はしばらく書き、ノートを真尋へ見せた。
『最近、連絡が減って、会える日も少なくなって、私との関係を続けたいと思っているのかわからなくなった。私は今も好きだし、別れたいとは思っていない。でも、何も言わずに我慢し続けるのは苦しい。仕事が忙しいことは理解したい。これから二人がどうしたら続けられるか、一緒に考えたい』
「いいと思います」
「重い?」
「真尋へ聞かない」
「また言った」
「葵が伝えたいことなら、それでいいんです」
「彼が重いと思ったら?」
「それも、彼の答えの一部でしょう」
葵はノートを閉じた。
「怖いこと言う」
「でも、相手にどう思われるかをすべて避けていたら、本音は言えません」
「真尋も、昨日そうした?」
「はい」
「怖かった?」
「とても」
「今は?」
「会ってよかったと思っています」
葵は小さく頷いた。
「私も、そう思えるかな」
「そうなるといいですね」
「ならなかったら?」
「うちへ来てください」
真尋が答えると、葵は少し笑った。
「それがあるから、行ける気がする」
「私は逃げ道ですか」
「帰る場所」
葵の言葉に、真尋は息を止めた。
帰る場所。
誰かにそう思われることは、重いはずだった。
期待される。
必要とされる。
それを恐れてきた。
だが今は、葵の帰る場所になれることが嬉しい。
「待っています」
真尋は言った。
葵は目を潤ませたが、泣かなかった。
「行ってきます」
「まだ何時間もあります」
「練習」
「では、私は何と答えるんですか」
「行ってらっしゃい」
「帰ってきてくださいね」
「うん」
葵は笑った。
*
午後一時を過ぎると、葵は少し落ち着きを取り戻した。
二人で近所の店へ昼食を買いに出た。
温かいスープとサンドイッチ。
部屋へ戻り、テレビをつけながら食べる。
恋愛の話ばかりでは疲れるため、仕事や次の旅行について話した。
「次、どこへ行きたい?」
葵が尋ねる。
「冬なら、雪のある場所」
「秋田も雪が降るでしょう」
「今度は違うところがいいですね」
「金沢は?」
「行ったことがあります」
「一人で?」
「はい」
「じゃあ、今度は二人で行けば、違う景色になります」
葵の言葉に、真尋は微笑んだ。
「そうですね」
「海鮮も食べたい」
「雪が多い時期は移動が大変かもしれません」
「真尋、すぐ現実的なこと言う」
「必要でしょう」
「じゃあ、伊豆」
「雪はありませんよ」
「温かい場所もいい」
「どちらなんですか」
「真尋と行ければ、どちらでも」
「自分の希望を言う練習は?」
「温泉と美味しいもの」
「かなり広いですね」
二人は笑った。
「次の旅行、彼に嫌がられるかな」
葵が言う。
「どうして?」
「女友達と旅行へ行くと、前は少し嫌そうだったから」
「束縛する人?」
「束縛ではないです。自分が休めない時に、私だけ楽しそうなのが嫌だって」
「それは、葵が旅行をやめる理由になりますか」
「ならない」
葵は少し考えて答えた。
「今までは、彼が不機嫌になるならやめようと思ったかもしれない。でも、真尋との旅行は行きたい」
「それも伝えればいいと思います」
「嫌がっても?」
「二人の関係を続けるために、葵が自分の楽しみをすべて手放す必要はないでしょう」
「真尋は、恋人ができても旅行へ行く?」
「一人旅も、葵との旅行も?」
「うん」
「行きたいです」
「黒田さんが嫌がったら?」
真尋は考えた。
「理由を聞きます。その上で、話し合います」
「やめない?」
「最初からやめるとは言いません」
「変わりましたね」
「葵のおかげです」
「もっと言って」
「今言ったでしょう」
葵は嬉しそうに笑った。
自分の時間を持ちながら、誰かと関係を作る。
どちらかを諦めるのではなく、相談しながら形を探す。
黒田とそれができるかは、まだわからない。
だが、できる可能性を最初から閉じる必要はない。
*
午後四時半。
葵はシャワーを浴び、選んだ服へ着替えた。
白いニット。
深い青色のスカート。
髪は半分だけまとめている。
薄く化粧をし、鏡の前で何度も確認する。
「変じゃない?」
「似合っています」
「顔、疲れてない?」
「少し」
「どうしよう」
「昨日眠っていないので、仕方ありません」
「コンシーラー塗る」
「塗りすぎないように」
「真尋、お母さんみたい」
「十一歳しか違いません」
「秋田でも同じこと言ってた」
葵は笑いながら化粧を直した。
笑顔が出ることに、真尋は少し安心する。
午後五時十五分。
家を出る時間が近づく。
葵はバッグの中を確認した。
財布。
スマートフォン。
ハンカチ。
化粧ポーチ。
ノート。
「ノート、本当に持っていくんですか」
「お守りです」
「見るかどうかは、葵が決めればいいです」
「うん」
葵はコートを着た。
玄関へ立つ。
靴を履いた後、なかなか扉を開けない。
「真尋」
「何ですか」
「やっぱり、一緒に来てほしい」
「カフェまで?」
「近くまで」
真尋は一瞬考えた。
葵を一人で行かせることも必要だと思う。
だが、目的地の近くまで一緒に歩くことで行けるなら、それでいい。
「行きましょう」
「本当?」
「ただし、店には入りません」
「わかってる」
二人は部屋を出た。
駅までの道を並んで歩く。
葵はあまり話さない。
真尋も無理に話題を作らなかった。
電車へ乗る。
夕方の車内は混んでいる。
二人はドアの近くへ立った。
葵が吊り革を握る手に力を入れている。
真尋はその横に立つ。
「真尋」
「はい」
「手、握っていい?」
真尋は黙って手を差し出した。
葵が握る。
冷たい。
秋田の喫茶店で握った時と同じだ。
だが今は、少しずつ温かくなる。
「大丈夫」
真尋は言った。
「何があっても?」
「何があっても、葵がいなくなるわけではありません」
「でも、彼はいなくなるかもしれない」
「それでも、葵の人生は続きます」
「すぐには、そう思えないかも」
「すぐに思わなくていいです」
葵は黙って頷いた。
目的の駅へ着く。
二人は改札を出た。
カフェは駅から五分ほど。
まだ待ち合わせまで二十分ある。
近くの公園で時間を過ごすことにした。
ベンチへ座る。
夕方の空は、すでに暗くなり始めている。
子どもを連れた親子が帰っていく。
犬の散歩をする人。
自転車で通り過ぎる学生。
世界は普段通り動いている。
葵にとっては、人生が変わるかもしれない夕方。
それでも周囲の人々には、何気ない一日だ。
「不思議ですね」
葵が言う。
「何が?」
「こんなに怖いのに、みんな普通に歩いてる」
「そうですね」
「彼と別れたら、世界が終わる気がするのに」
「終わりません」
「わかってる」
「でも、そう感じる?」
「はい」
真尋は空を見た。
慎一と別れた夜も、同じだった。
部屋の中で泣いているのに、外では電車が走り、隣の部屋から笑い声が聞こえた。
世界が自分の痛みと無関係に動くことが、残酷に思えた。
後になれば、それが救いだったとわかる。
自分が立ち止まっても、朝は来る。
仕事へ行く。
食事をする。
眠る。
少しずつ、日常が傷の周りを包んでいく。
「葵」
「はい」
「もし、つらい結果になっても、今日は終わります」
「うん」
「夜が来て、明日が来ます」
「うん」
「すぐに元気にならなくていい。でも、時間は進みます」
「真尋も、そうだった?」
「はい」
「今は、黒田さんと会えてよかった?」
「よかったです」
「慎一さんと別れたから、黒田さんに会えた?」
真尋は考えた。
「そう単純には言えません」
「うん」
「慎一と別れたことを、黒田さんと会うために必要だったとは思いません。あの別れには、あの別れの意味がありました」
「終わるから意味がないわけではない」
「そうです」
「でも、遠回りしたから会える人もいる」
真尋は葵を見る。
「そうかもしれません」
「私も、もし今日終わっても」
葵は言葉を止めた。
唇を噛む。
「ごめん。まだ、終わるって言いたくない」
「言わなくていいです」
「続けたい」
「それを、伝えてきてください」
葵は頷いた。
スマートフォンの時刻を見る。
午後五時五十二分。
「行かなきゃ」
「はい」
葵は立ち上がる。
真尋も立った。
公園の出口まで一緒に歩く。
カフェの看板が見える。
その前に、一人の男性が立っていた。
濃いグレーのコート。
スマートフォンを見ている。
「あの人です」
葵が小さく言った。
声が震えている。
男性が顔を上げる。
葵に気づいたようだ。
その視線が真尋へ移る。
「行ってきます」
葵が言う。
「行ってらっしゃい」
真尋は答えた。
葵が一歩進み、また振り返る。
「真尋」
「何ですか」
「帰るから」
「待っています」
葵は頷き、男性のもとへ歩いていった。
男性が何かを言う。
葵が短く答える。
二人は並んで、カフェの中へ入った。
扉が閉まる。
真尋はその場に一人残った。
冷たい風が吹く。
すぐに帰ろうと思った。
けれど足が動かない。
葵が扉の向こうで、どんな顔をしているのか。
最初に何を話すのか。
彼は何と答えるのか。
考えてもわからない。
真尋が隣へ座ることはできない。
葵が、自分の言葉で向き合う時間だ。
支えることは、常に一緒にいることではない。
相手が一人で歩く時に、戻れる場所で待つことも支えだ。
真尋はカフェの入口へ背を向け、駅へ向かって歩き始めた。
自分にできることは、待つことだけだった。




