第五章 日常に戻るということ
盛岡駅を出てからしばらくすると、車内を巡回していた車掌が真尋たちの事情を聞き、空いている二人掛けの席へ案内してくれた。
「よかったですね」
葵は窓側へ座り、ほっとしたように笑った。
「それほど離れていたわけではないでしょう」
「同じ列車でも、話せないのは寂しいです」
「少しくらい一人で過ごしても」
「真尋さんは、一人の時間を大事にしすぎです」
葵が口を尖らせる。
真尋は通路側へ腰を下ろし、コートを膝に掛けた。
同じ列車に乗っていながら、わざわざ席を移る必要があるのかと思っていた。
だが葵が隣へ座った瞬間、先ほどまで感じていた車内の広さが、ちょうどいいものに変わった。
窓の外には、山あいの景色が流れている。
紅葉は少しずつ少なくなり、代わりに葉を落とした木々が目立ち始めていた。
葵はスマートフォンで撮った写真を見返している。
「これ、真尋さんに送ります」
画面には、紅葉の下に立つ真尋が写っていた。
「もう送ってもらいましたよ」
「こっちは別の写真です」
葵が差し出した画面には、真尋が振り返りながら笑っている姿があった。
自分では、撮られたことに気づいていなかった。
「いつ撮ったんですか?」
「帰る前です。真尋さんが駅のほうを見てた時」
「隠し撮りですね」
「自然な顔が一番いいって、真尋さんが言ったんですよ」
「だからといって、勝手に撮っていいわけではありません」
「嫌なら消します」
葵は画面を見つめた。
真尋はもう一度、写真へ目を向ける。
そこに写っている自分は、少し寂しそうで、それでも穏やかだった。
旅が終わることを惜しんでいる顔。
その表情を、自分では見ることができない。
「消さなくて大丈夫です」
「送ってもいいですか?」
「はい」
「よかった」
すぐに写真が届く。
真尋は保存した。
これまで旅先で撮った写真は、景色ばかりだった。
今回は、葵の写真と、自分の写真がある。
二人が同じ場所に写っている写真はない。
それでも、それぞれの写真を見れば、そこにもう一人がいたことがわかる。
撮った人の視線が、写真の中に残っている。
「次は、二人で撮りましょう」
葵が言った。
「誰に頼むんですか?」
「通りすがりの人に」
「葵さんなら、すぐ頼めそうですね」
「真尋さんが撮ってくれそうな人を選びます」
「どういう人ですか?」
「カメラを持っていて、一人で旅している、格好いい女性」
「同じ出会いを作るつもりですか」
「そうしたら、また友達が増えるかもしれません」
葵は楽しそうに笑った。
「友達、と言っていいんですか?」
真尋は何気なく尋ねた。
葵の笑顔が少し止まる。
「だめですか?」
「いえ。そうではなくて」
「私は、もう友達だと思ってました」
葵は少し不安そうに真尋を見る。
「真尋さんは違いますか?」
真尋はすぐに答えなかった。
友達。
その言葉は簡単なようで、真尋には少し難しい。
友人と呼ぶまでに必要な時間を、どこかで測ってしまう。
何度会ったか。
どれくらい相手を知っているか。
これからも関係が続くのか。
だが、友人になるために明確な条件があるわけではない。
自分がそう思い、相手もそう思っていれば、それでいいのかもしれない。
「私も友達だと思っています」
真尋が答えると、葵の表情が明るくなった。
「よかった」
「ただ、会って二日ですけど」
「時間は関係ないって、真尋さんが言ってたでしょう」
「私が?」
「数時間しか知らなくても、本音を話せる人がいるって」
「あれは、心の中で考えていただけです」
「そうなんですか?」
葵は不思議そうな顔をした。
真尋は少し慌てた。
「似たようなことを言った気がしただけです」
「真尋さん、時々変なこと言いますね」
「忘れてください」
「忘れません」
葵は笑いながら、スマートフォンをバッグへ入れた。
「友達なら、敬語やめませんか?」
「急ですね」
「ずっと気になってたんです」
「私は年上ですよ」
「友達に年齢は関係ないでしょう?」
「葵さんが言うと、都合よく聞こえます」
「十一歳も上だから、最初は敬語にしてましたけど」
「私も葵さんに敬語を使っています」
「それも変です」
「急に変えるのは難しいです」
「じゃあ、少しずつ」
「どうやって?」
「まず、私のことを葵さんじゃなくて、葵って呼んでください」
真尋は葵を見た。
名前を呼び捨てにする。
職場では、部下も年下も必ず名字にさんをつける。
友人の香織は、学生時代から呼び捨てだ。
だが、知り合って二日の相手を呼び捨てにすることには抵抗がある。
「難しいです」
「一回だけ」
「葵」
真尋が言うと、葵は満面の笑みになった。
「はい」
「返事をしなくても」
「うれしくて」
「次は真尋さんじゃなくて、真尋?」
「それは、もっと違和感があります」
「でも友達でしょう?」
「そうですけど」
「真尋」
葵が試すように呼んだ。
声に出された自分の名前が、いつもと違って聞こえる。
香織や母から呼ばれる時とも違う。
葵の声で呼ばれると、少し幼い頃へ戻ったような、役職や年齢から解放されたような感覚があった。
「どうですか?」
「慣れません」
「嫌ですか?」
「嫌ではありません」
「じゃあ、これから真尋って呼びます」
「人前では少し恥ずかしいです」
「会社じゃないんだから」
「まあ、いいです」
「真尋」
葵がもう一度呼ぶ。
「何ですか?」
「呼びたかっただけ」
葵は笑う。
真尋もつられて笑った。
*
列車が仙台へ近づく頃、葵は話の途中で何度もあくびをするようになった。
「眠いなら寝てもいいですよ」
「寝ません」
「どうして?」
「せっかく隣の席になれたのに」
「東京まではまだ時間があります」
「寝たら、すぐ着いちゃう気がする」
「寝なくても着きます」
「真尋は現実的すぎます」
敬称のない名前に、真尋はまだ慣れない。
ただ、葵が呼ぶたび、距離が少し縮まるようで嫌ではなかった。
「無理して起きていると、明日つらいですよ」
「明日のことを考えたくないです」
「仕事が嫌ですか?」
「仕事は嫌じゃないです」
「彼のこと?」
葵はしばらく黙った。
「東京に着いたら、連絡しようと思います」
「会いたいと?」
「はい」
「決めたんですね」
「怖いですけど」
「怖いままでいいと思います」
「真尋も、黒田さんに連絡しますか?」
「名前を覚えていたんですか」
「大事な人かもしれないから」
「大事な人ではありません」
「まだ、でしょう?」
「葵は、すぐ先のことを決めますね」
「私は始まると思いすぎる。真尋は終わることを考えすぎる」
橋の上で二人が話したことを、葵は覚えている。
「だから、真尋には少し先を考えてもらいます」
「余計なお世話です」
「友達なので」
「便利な言葉ですね」
葵は笑った後、シートへ深く座り直した。
「私、彼に何て送ればいいと思います?」
「自分で考えたほうがいいです」
「冷たい」
「葵が伝えたいことは、葵にしかわかりません」
「会いたい。話したい。最近、不安だったって言いたい」
「それを、そのまま伝えればいいのでは?」
「重くないですか?」
「またそれですか」
「だって」
「重いと思われたくないから、言葉を軽くするんですか?」
「少しは」
「それで本当に伝わります?」
葵は黙った。
真尋は続ける。
「重いかどうかは、言葉の内容だけでは決まりません。相手との関係によるでしょう」
「二年付き合ってるなら、言っていい?」
「言っていいと思います」
「じゃあ、書いてみます」
葵はスマートフォンを取り出した。
文章を打ち始める。
途中で止まり、何度か消す。
「見てもらっていいですか?」
「内容を?」
「はい」
「送りたいなら」
葵は画面を真尋へ見せた。
『東京に戻ったら、少し会って話したいです。最近、連絡が減ったことや、将来の話を避けられているように感じることが不安です。責めたいわけではないけど、今のまま何も聞かずにいるのはつらいです。時間を作ってもらえませんか』
真尋はゆっくり読んだ。
「いいと思います」
「重くないですか?」
「正直です」
「送ってもいい?」
「それを決めるのは葵です」
「真尋が隣にいるうちに送ろうかな」
「私をお守りにしないでください」
「少しだけ」
葵は深く息を吸った。
送信ボタンを押す。
画面に既読はつかない。
葵はスマートフォンを伏せ、両手を膝の上へ置いた。
「送っちゃった」
「お疲れさま」
「手が震えてます」
「見せてください」
葵が手を差し出す。
指先がわずかに震えていた。
真尋はその手を握った。
「真尋」
「何ですか?」
「ありがとう」
「まだ返事は来ていませんよ」
「送れたことに」
「送ったのは葵です」
「でも、一人だったら送れなかった」
真尋は握った手を少し強めた。
「一人で送れなくても、誰かが隣にいれば送れるなら、それでいいのかもしれません」
「真尋も、黒田さんに送る時、私を隣に置けば?」
「それは嫌です」
「どうして?」
「文章を全部見られそうだから」
「見るつもりです」
「絶対に連絡しません」
「じゃあ、見ないから」
「信用できません」
二人は笑った。
葵の手の震えは、少しずつ止まっていった。
*
東京駅へ到着したのは、午後四時を少し過ぎた頃だった。
新幹線を降りた瞬間、周囲の音と人の多さに包まれる。
足早に歩く人々。
繰り返されるアナウンス。
キャリーケースの車輪が床を転がる音。
角館の静かな駅とは、まるで別の世界だった。
「戻ってきちゃいましたね」
葵が言う。
「そうですね」
「人が多い」
「東京ですから」
二人は人の流れを避けながら、改札へ向かった。
旅先では、互いの歩調を意識しながら歩いていた。
東京駅では、少しでも離れると、人の間に飲み込まれそうになる。
葵が真尋のコートの袖をつかんだ。
「迷子になりそう」
「子どもじゃないんですから」
「真尋は歩くのが速いです」
「合わせています」
「もっとゆっくり」
真尋は歩調を落とした。
袖をつかんでいた葵の手が、自然に離れる。
二人でいることは、常に手を握ることではない。
離れないように、時々歩調を確かめることなのだと真尋は思った。
改札を出ると、葵がスマートフォンを確認した。
表情が変わる。
「返事、来ましたか?」
真尋が尋ねる。
「はい」
「何て?」
葵はすぐには答えなかった。
行き交う人々の中で立ち止まり、画面を見つめる。
「わかった。今週は忙しいから、来週でいい? って」
「会ってくれるんですね」
「はい」
「よかった」
「でも」
「何か気になりますか?」
「私が書いたことには、何も触れてない」
真尋は葵の画面を見なかった。
文面を知る必要はない。
「文章では話しにくいと思ったのかもしれません」
「そうですよね」
「会って話すつもりだから、今は答えなかった可能性もあります」
「うん」
葵は頷いたが、不安は消えていない。
「会う日は決めたんですか?」
「来週の土曜日」
「それまでは?」
「待ちます」
「苦しくなったら連絡してください」
真尋が言うと、葵は顔を上げた。
「夜中でも?」
「できれば、常識的な時間に」
「やっぱり」
「ただ、本当に一人でいられないくらいつらければ、時間は気にしなくていいです」
葵は少し笑った。
「真尋、優しいですね」
「今頃ですか?」
「最初は、冷たい人かと思いました」
「どうして?」
「写真を撮ってくれた時、きれいだったけど、近寄りがたい感じがしたから」
「声をかけたのは葵でしょう」
「カメラを持ってたから。写真は上手そうだと思って」
「人柄ではなかったんですね」
「でも、声をかけてよかったです」
葵は迷いなく言う。
「もしあの日、別の人に頼んでいたら、真尋とは会ってなかったかもしれない」
「宿で会っていたかもしれません」
「その時は、話しかけなかったかも」
「そうですね」
「写真を頼んだ私、偉い」
「自分で言います?」
「言います」
葵は笑った。
真尋も笑う。
東京駅の喧騒の中で、その笑い声だけが近くに感じられた。
「真尋は、どの線ですか?」
「中央線です」
「私は山手線」
「ここで別れますね」
「本当に?」
「路線が違いますから」
「少しくらい送ってくれても」
「遠回りになります」
「タイトルみたい」
「何の話ですか?」
「なんでもないです」
葵は少し寂しそうに笑った。
真尋は、ここで別れればいいと思っていた。
旅は終わった。
それぞれの家へ帰る。
明日から日常へ戻る。
だが、葵の顔を見ていると、もう少し一緒にいたいという気持ちが湧いた。
「途中まで送ります」
「いいんですか?」
「新宿までなら同じ方向です」
「本当?」
「はい」
「じゃあ、行きましょう」
葵の顔が明るくなる。
二人は再び歩き始めた。
*
新宿駅へ着く頃には、外は暗くなり始めていた。
ホームへ降りる人々に押されながら、二人は乗り換え通路へ進む。
「ここで本当に別れますね」
葵が言った。
「はい」
「次、いつ会います?」
真尋は予定を思い出す。
来週は仕事が詰まっている。
月曜は提案資料の確認。
水曜は取引先との打ち合わせ。
金曜は部内の懇親会。
「再来週の土曜日なら」
「遠いです」
「二週間ですよ」
「その前にご飯だけでも」
「平日は遅くなるかもしれません」
「金曜日は?」
「懇親会があります」
「木曜日」
「会議が長引く可能性があります」
「真尋」
「何ですか?」
「会いたくないですか?」
葵は、まっすぐ尋ねた。
真尋はまた、予定や理由を並べていた。
本当に忙しい。
だが、会いたいかどうかとは別の話だ。
「会いたいです」
「じゃあ、会える日を探しましょう」
「火曜日なら、七時半頃には終われると思います」
「私は六時に終わります。待ちます」
「一時間半も?」
「近くで買い物してます」
「無理しなくても」
「それ、禁止です」
葵が真尋の言葉を遮る。
「私が待ちたいんです」
「わかりました」
「火曜日、真尋の会社の近くへ行きます」
「場所、わかります?」
「後で送ってください」
「はい」
「地酒は?」
「平日に飲むんですか?」
「少しだけ」
「翌日も仕事ですよ」
「真尋の部屋に行くのは、土曜日にします」
「いつ決まったんですか?」
「今」
「勝手ですね」
「嫌ですか?」
「嫌ではありません」
「じゃあ、決まり」
葵は満足そうに笑った。
「火曜日はご飯だけ。土曜日は真尋の家で地酒」
「土曜日は、彼と会う予定では?」
葵の笑顔が少し曇る。
「そうでした」
「忘れないでください」
「じゃあ、その次の土曜日」
「予定を確認してから」
「また逃げる」
「仕事の予定があります」
「わかりました。後で決めましょう」
葵は不満そうだが、以前より自分の希望をはっきり言っている。
真尋は、その変化を嬉しく思った。
「では、火曜日に」
「連絡します」
「帰ったら、一度連絡してください」
「真尋も」
「はい」
葵は改札へ向かいかけ、数歩進んでから振り返った。
「真尋」
「何ですか?」
「秋田、一緒に行ってくれてありがとう」
「こちらこそ」
「次の旅も、一緒に行きましょう」
「行きましょう」
「約束ですよ」
「はい」
葵は大きく手を振り、人の流れの中へ入っていった。
真尋はその後ろ姿が見えなくなるまで、立ったまま見送った。
別れた後、不思議な静けさが訪れた。
周囲には多くの人がいる。
アナウンスも響いている。
それでも、さっきまで隣にいた葵がいないことで、急に世界が広くなったように感じた。
真尋は一人で歩き始めた。
来た時と同じ、一人。
だが胸の中には、次に会う約束がある。
それだけで、一人という言葉の意味が少し変わっていた。
*
自宅へ着いたのは午後六時半だった。
玄関の扉を開け、照明をつける。
「ただいま」
いつものように口にする。
誰も返事をしない。
それは旅へ出る前と同じだ。
けれど、部屋の静けさが以前ほど冷たく感じられなかった。
真尋はキャリーケースを玄関脇へ置き、コートを脱いだ。
リビングへ入る。
見慣れたソファ。
丸いテーブル。
壁に飾った旅の写真。
秋田へ出発する前は、完成された一人の空間だと思っていた。
今は、ここに葵が座る姿を想像できる。
地酒を飲み、洗濯物の話をし、真尋の恋愛に口を出す。
その光景を思い浮かべると、部屋が少し広く見えた。
誰かを迎える余白がある。
これまで、その余白を空白だと思っていた。
何かが欠けている場所。
けれど、まだ決まっていない可能性と考えることもできる。
真尋はキャリーケースを開け、荷物を片づけ始めた。
洗濯物を洗濯機へ入れる。
化粧品を洗面所へ戻す。
母への土産をテーブルに置く。
カメラを取り出し、机の上へ置く。
荷物を片づけているうちに、旅が少しずつ過去へ変わっていく。
宿の匂い。
秋田の冷たい風。
薪ストーブの火。
葵の笑い声。
どれも、もうこの部屋にはない。
それでも、写真と記憶の中には残っている。
スマートフォンが震えた。
『家に着きました』
葵からだった。
『私も今、着きました』
『部屋が散らかってます』
『旅行前に片づけなかったんですか』
『帰ってからやろうと思ってました』
『今やってください』
『今日は疲れました』
『明日もやらないでしょう』
『真尋が来る前には片づけます』
真尋は笑った。
『期待しています』
『黒田さんには?』
突然の質問に、真尋の指が止まる。
『まだです』
『今日中に送ってください』
『どうして葵が決めるんですか』
『私は彼に送ったので』
『別の話です』
『真尋も怖いままでいいって言ったでしょう』
自分の言葉が、次々と返ってくる。
真尋は苦笑した。
『考えます』
『また考える』
『送るなら、自分の言葉で送りたいんです』
『わかりました。待ってます』
『待たなくていいです』
『報告してください』
葵には敵わない。
真尋はスマートフォンを置き、シャワーを浴びた。
髪を乾かし、部屋着へ着替える。
夕食を作る気力はなく、冷凍していたご飯とスープを温めた。
一人分の食事。
角館で葵と食卓を囲んだ後では、少し物足りなく感じる。
真尋はテレビをつけたが、内容は頭へ入らなかった。
テーブルの端に置いたスマートフォンが気になる。
黒田へ連絡する。
そのことばかり考えている。
連絡したいのか。
葵に言われたから、しなければならないと思っているだけなのか。
真尋は食事を終え、食器を片づけた。
温かいお茶を淹れ、ソファへ座る。
スマートフォンを手に取った。
連絡先から、黒田俊介の名前を開く。
最後のやり取りは三か月前。
彼の文章は、今読み返しても穏やかだった。
『こちらこそ、ありがとうございました。水口さんと話す時間は楽しかったです。仕事でもどこかで会うかもしれませんが、その時は普通に話してください』
真尋は、そのメッセージへ返信する形で文章を打ち始めた。
『お久しぶりです。突然すみません』
そこで止まる。
何を伝えたいのか。
以前は断ってしまった。
今は会いたい。
その理由を、すべて説明しなければならない気がする。
だが、理由を並べすぎると、自分の気持ちから離れていく。
真尋は何度か文章を消した。
葵の言葉を思い出す。
自分が会いたいかどうかは、考えました?
会いたい。
少なくとも、もう一度話してみたい。
彼がどんな建物を好きなのか。
仕事をどう考えているのか。
以前聞いた話の続きを、もう一度聞きたい。
真尋は、短い文章を打った。
『お久しぶりです。以前は、きちんと向き合わないままお断りしてしまい、すみませんでした。勝手だとわかっていますが、もう一度お会いして話したいと思っています。ご迷惑でなければ、食事に行きませんか』
読み返す。
重い。
勝手だ。
断られるかもしれない。
黒田には、すでに恋人がいるかもしれない。
あれから三か月も経っている。
今さら連絡して、何を期待しているのかと思われるかもしれない。
指が送信ボタンの上で止まる。
慎一へ連絡できなかった夜を思い出す。
何度も画面を開き、結局何も送れなかった。
あの時、送っていたら何かが変わったかはわからない。
ただ、自分の気持ちを伝えなかったことは残った。
真尋は深く息を吸った。
送信する。
メッセージが画面へ表示された。
取り消したい衝動が湧く。
だが、すぐにスマートフォンを伏せた。
「送った」
誰もいない部屋で呟く。
心臓が速く打っている。
たった一通のメッセージ。
仕事なら、もっと重大な内容のメールを毎日送っている。
何億円の案件について判断することもある。
それなのに、自分の気持ちを伝える短い文章のほうが、ずっと怖い。
スマートフォンが震えた。
早すぎる。
黒田からかと思い、慌てて画面を見る。
葵だった。
『送りましたか?』
真尋は思わず笑った。
『今、送りました』
すぐに返信が来る。
『すごい!』
『大げさです』
『返事は?』
『まだです』
『来たら教えてください』
『待たなくていいです』
『待ってます』
葵は本当に待つつもりなのだろう。
真尋はスマートフォンをテーブルへ置いた。
落ち着こうと思い、カメラから写真をパソコンへ移した。
角館の風景が、大きな画面に映る。
紅葉。
黒塀。
川。
古い屋敷。
葵。
真尋。
同じ場所で撮った写真でも、見るたびにその時の会話まで蘇る。
木彫りの猫を見つけた時の葵の声。
橋の上で話したこと。
喫茶店で握った冷たい手。
真尋は写真を整理しながら、数枚を印刷用のフォルダへ入れた。
いつか部屋に飾ろうと思う。
風景だけではなく、葵の写った写真を。
それは、真尋にとって大きな変化だった。
これまで自宅の壁には、誰のものでもない景色だけを飾ってきた。
人の顔を飾れば、その関係が変わった時に苦しくなると思っていた。
別れた人。
疎遠になった友人。
失った家族。
写真は、過去を残す。
だから景色だけなら、安全だった。
だが葵が言った。
終わるから意味がないわけではない。
関係が永遠である保証がなくても、今、大切だと思うなら残していい。
真尋は橋の上に立つ葵の後ろ姿を選んだ。
顔は写っていない。
それでも、そこにいるのが葵だとわかる。
プリンターがないため、後日写真店で印刷することにする。
フォルダ名を入力する。
最初は「秋田」と打った。
少し考え、「葵と秋田」に変えた。
その時、スマートフォンが再び震えた。
今度は黒田だった。
真尋はしばらく画面へ触れられなかった。
メッセージの通知には、文章の冒頭だけが表示されている。
『ご連絡ありがとうございます。驚きましたが……』
驚いた。
当然だ。
真尋はスマートフォンを手に取り、メッセージを開いた。
『ご連絡ありがとうございます。驚きましたが、うれしいです。僕も水口さんと、もう一度話したいと思っていました。今週は少し難しいのですが、来週の水曜日か金曜日なら時間を作れます。ご都合はいかがですか』
真尋は何度も読み返した。
うれしい。
もう一度話したい。
断られていない。
それどころか、黒田も会いたいと言っている。
胸の奥が、ゆっくり温かくなる。
同時に、怖さも増した。
会えば、何かが始まるかもしれない。
始まらないかもしれない。
もう一度断ることになる可能性もある。
黒田に断られる可能性もある。
それでも今は、会うことだけを考えればいい。
真尋は予定を確認した。
水曜日は取引先との打ち合わせがある。
終わる時間は読めない。
金曜日は部内の懇親会だが、参加は必須ではない。
これまでは、管理職として顔を出すべきだと思っていた。
だが今回は、欠席しても問題はない。
真尋は返事を打った。
『ありがとうございます。金曜日でしたら大丈夫です。以前と同じ新宿でもよろしいでしょうか』
送信する。
数分後、黒田から店を探しておくという返事が届いた。
真尋はスマートフォンを胸へ当てた。
うれしい。
その気持ちを認める。
すぐに葵へメッセージを送った。
『返事が来ました。金曜日に会うことになりました』
葵からは、すぐに電話がかかってきた。
「もしもし」
『真尋! よかったですね!』
大きな声に、真尋はスマートフォンを耳から少し離した。
「声が大きいです」
『だって、うれしくて』
「葵のことではないでしょう」
『友達が一歩進んだら、うれしいです』
「会うだけです」
『最初はそれでいいんです』
「恋愛になるとは限りません」
『それも会ってから考えればいいです』
「葵に言われなくても」
『何を着ていくんですか?』
「まだ一週間近くあります」
『美容院は?』
「行きません」
『ネイルは?』
「普段通りです」
『真尋、恋愛から離れすぎてます』
「食事をするだけです」
『でも、会いたいと思って連絡したんでしょう?』
「そうですけど」
『じゃあ、少しくらい楽しみにしてもいいでしょう』
真尋は黙った。
楽しみにしている。
黒田と会うことを。
それを認めると、少し恥ずかしい。
「楽しみです」
『え?』
「楽しみにしています」
葵が電話の向こうで、息を呑んだ。
『真尋が素直』
「切りますよ」
『待って。うれしいだけです』
「葵は彼と会う日が決まっているんでしょう。自分のことも考えてください」
『考えてます』
「怖いですか?」
『怖いです』
葵の声が少し静かになる。
「でも、会うんですね」
『はい』
「葵も一歩進んでいます」
『真尋と一緒ですね』
「そうですね」
真尋はソファへ座り直した。
電話の向こうから、何かを動かす音がする。
「何をしているんですか?」
『洗濯物を畳んでます』
「珍しい」
『真尋に言われたから』
「私のためではなく、自分のためにしてください」
『でも、真尋が来る時にきれいにしておきたいです』
「私の家に来る予定では?」
『私の家にも来てください』
「どうして?」
『私がどんな生活してるか、見てほしいから』
「散らかっていることは知っています」
『それだけじゃなくて』
葵は少し間を置いた。
『私のこと、もっと知ってほしいです』
真尋は、その言葉を静かに受け取った。
「私も、葵のことをもっと知りたいです」
『じゃあ、今度来てください』
「はい」
『真尋の家にも行きます』
「それも、はい」
『約束が増えましたね』
「少しずつ決めましょう」
『楽しみです』
葵の声が明るい。
真尋も笑った。
*
翌朝、真尋はいつもの時間に目を覚ました。
旅行の疲れが残っていると思ったが、体は意外と軽かった。
窓の外には、見慣れた東京の朝がある。
隣のマンション。
電線。
狭い空。
角館の広い空とは違う。
それでも、旅から戻った後の街には、少し新しい表情がある。
真尋はカーテンを開け、コーヒーを淹れた。
スマートフォンには、葵から朝のメッセージが届いている。
『おはよう。今日は仕事、がんばりましょう』
敬語をやめると言った通り、文章も変わっている。
『おはよう。寝坊しませんでしたか』
『しました』
『何時に起きたんですか』
『七時四十分』
『間に合うんですか』
『今、駅です』
葵の会社の始業時間を真尋はまだ知らない。
『始業は何時ですか』
『九時です』
『なら大丈夫ですね』
『朝ご飯は食べてません』
『旅行中に話した意味がありません』
『会社でお菓子食べます』
『効率が悪いです』
『また同じこと言ってる』
真尋は笑いながら、返信を終えた。
コーヒーを飲み、仕事の準備をする。
白いシャツ。
濃紺のパンツ。
ジャケット。
鏡の前で髪を整える。
旅先では真尋と呼ばれていた。
会社へ着けば、水口課長になる。
どちらも自分だ。
以前は、仕事の自分と私生活の自分を完全に分けなければならないと思っていた。
今は、その境界を少し緩めてもいい気がする。
弱さを見せたからといって、上司としての信頼が失われるわけではない。
仕事ができる自分も、恋愛に迷う自分も、同じ一人の人間だ。
*
午前八時四十分、真尋は会社へ着いた。
フロアにはすでに多くの社員がいる。
「おはようございます」
真尋が声をかけると、部下たちが挨拶を返した。
佐伯が席から立ち上がる。
「水口課長、お帰りなさい」
「ただいま」
「秋田、どうでしたか?」
「よかったですよ」
「写真、撮れました?」
「たくさん」
以前なら、楽しかったです、で会話を終えていただろう。
だが真尋は、もう少し話したくなった。
「雨上がりの紅葉が、とてもきれいでした。旅先で知り合った人と、一緒に町を歩いたんです」
「旅先で?」
佐伯が目を輝かせる。
「女性です。偶然、同じ宿で」
「すごいですね。そういう出会い、本当にあるんだ」
「私も驚きました」
「連絡先は交換したんですか?」
「はい。明日、食事に行きます」
佐伯は嬉しそうに笑った。
「いいですね」
「佐伯さんの週末は?」
「資料が気になりましたけど、課長に言われた通り、日曜日は何もしませんでした」
「それでいいです」
「友達と映画を見ました」
「楽しめました?」
「はい」
「では、良い休みでしたね」
真尋は自分の席へ向かった。
部下に旅先の出会いを話したことが、少し不思議だった。
以前なら、私生活を職場へ持ち込む必要はないと思っていた。
だが、何もかも隠す必要もない。
人がどんな時間を過ごしているかを知ることで、互いの見え方が変わることもある。
午前九時から、提案資料の確認が始まった。
佐伯が作った競合比較のページには、金曜日よりも具体的な数字が追加されていた。
「ここ、見やすくなりましたね」
真尋が言うと、佐伯の顔が明るくなる。
「ありがとうございます」
「ただ、この数字を入れた理由を説明できますか?」
「競合商品が売れている年齢層を比較するためです」
「その先は?」
「私たちの商品が狙う層と重なるので」
「では、それを資料へ入れましょう。数字だけでは、見る側に意図が伝わりません」
「わかりました」
佐伯がすぐに修正する。
真尋はその様子を見ながら、葵との会話を思い出した。
感覚を、人に伝わる形へ変える。
数字だけでは作れないものがある。
葵の仕事の話を聞いたことで、真尋自身も、部下への伝え方を少し考えるようになっていた。
「佐伯さん」
「はい」
「このページを見た時、最初に何を感じました?」
「感じたこと、ですか?」
「はい。数字を入れる前に」
佐伯は少し戸惑った。
「競合は若い人に売れているけど、私たちの商品は年齢層が高いと思いました」
「では、若い人に買ってもらう必要があると思った?」
「はい」
「その感覚は大事です。ただ、それだけでは提案にならない。だから、数字で裏づける」
「なるほど」
佐伯は頷いた。
「課長、少し教え方が変わりました?」
「そうですか?」
「前は、先に数字の不足を指摘されていた気がします」
真尋は少し驚いた。
「どちらのほうがわかりやすいですか?」
「今のほうです」
「では、私も覚えておきます」
「課長でも、教え方を変えるんですね」
「当然でしょう」
佐伯は少し笑った。
「何ですか?」
「いえ。課長は、最初から全部できると思っていたので」
旅先で葵から言われたことと同じだった。
「私も、毎日覚えています」
「そうなんですね」
「役職がついても、完成するわけではありませんから」
佐伯は真剣な顔で頷いた。
真尋は、葵の言葉を職場へ持ち帰っている自分に気づいた。
人と出会うことは、その人との関係だけを変えるのではない。
自分がほかの誰かへ向ける言葉まで変えていく。
それが少し嬉しかった。
*
昼休み、真尋は香織からのメッセージに気づいた。
『秋田どうだった? いい出会いあった?』
真尋は迷った後、返信した。
『あったよ。二十五歳の女性と友達になった』
『女性か(笑)』
『何を期待してたの』
『でもいいね。旅先で友達って素敵』
『東京でも会う予定』
『珍しい。真尋が自分から関係を続けるなんて』
香織の言葉に、真尋は少し引っかかった。
責められているわけではない。
だが、自分でも同じことを感じていた。
『私って、そんなに人間関係を続けない?』
『続けないっていうより、相手から来なくなったら、そのままにするでしょう』
図星だった。
真尋は、相手から連絡がなければ、自分も連絡しない。
忙しいのだろう。
迷惑かもしれない。
気持ちが離れたのかもしれない。
そう考え、自分から距離を置く。
その結果、自然に消えていった関係がいくつもある。
『今回は、自分からも連絡しようと思ってる』
『いい変化じゃない』
『それと、前に紹介してもらった黒田さんに連絡した』
しばらく既読だけがつき、返信が来なかった。
真尋は、驚いている香織の顔を想像した。
『え? 本当に?』
『金曜日に会う』
『どうしたの? 秋田で何があったの?』
『少し、考え方が変わっただけ』
『よかった』
香織から届いた短い言葉に、真尋の胸が温かくなった。
『黒田さん、ずっと真尋のこと気にしてたと思う』
『どうして?』
『断られた後も、私に真尋のことを悪く言わなかったから』
『何か聞いたの?』
『詳しくは聞いてない。でも、タイミングが違ったのかなって言ってた』
タイミング。
三か月前の自分には、誰かと向き合う準備ができていなかった。
今ならできるのかは、まだわからない。
ただ、会ってみようと思える。
『ありがとう。今度は、ちゃんと話してみる』
『それでいいと思う』
真尋はスマートフォンを閉じた。
*
午後の会議が終わったのは、六時半だった。
真尋は自分の席へ戻り、残っている仕事を確認した。
明日、葵と食事をする約束がある。
七時半には会社を出たい。
これまでなら、今日のうちにできる仕事はすべて終わらせていた。
だが、緊急ではない資料が二つ残っている。
明日の午前中でも間に合う。
真尋は一瞬、今日中に済ませようと考えた。
そして手を止めた。
自分の生活を守ることは、仕事を後回しにすることではない。
仕事の優先順位を正しく決めることだ。
「水口課長」
佐伯が声をかけてきた。
「まだ帰らないんですか?」
「もう少しで帰ります」
「金曜日と逆ですね」
「何が?」
「課長が私に、休むことも仕事だって言ったでしょう」
「覚えていたんですね」
「はい。だから課長も帰ってください」
「わかりました」
真尋は笑い、パソコンを閉じた。
誰かへかけた言葉が、自分へ戻ってくる。
葵だけではない。
部下もまた、真尋を見ている。
上司は、教えるだけの存在ではない。
時には、部下から教えられる。
「佐伯さんも帰ってくださいね」
「はい」
真尋は会社を出た。
外の空気は冷たい。
秋田ほどではないが、東京にも冬が近づいている。
駅へ向かいながら、葵へメッセージを送る。
『仕事が終わりました』
『お疲れさま。私は今帰りです』
『今日はどうでしたか』
『先輩に企画を出しました』
『どうでした?』
『数字が弱いって言われました』
真尋は少し立ち止まった。
『でも、感覚を数字に変えるだけだと思って、もう一度考えます』
葵は、自分の言葉を受け取っている。
『いいと思います』
『真尋が言ってくれたから』
『役に立てたならよかったです』
『明日、相談してもいい?』
『もちろん』
『ご飯、何食べたい?』
真尋は少し考えた。
葵へ任せるのではなく、自分の希望を言う。
『温かいものがいいです。鍋か、煮込み料理』
『私も鍋がいい』
『では、鍋にしましょう』
『決まり』
短いやり取り。
それだけで、明日が楽しみになる。
真尋はスマートフォンをしまい、駅へ向かった。
*
火曜日の午後七時二十分。
真尋が会社の入るビルを出ると、正面の広場に葵が立っていた。
グレーのコートに、秋田で巻いていた淡い黄色のマフラー。
スマートフォンを見ながら、足元で小さくリズムを取っている。
「葵」
真尋が呼ぶと、葵は顔を上げた。
「真尋」
笑顔で駆け寄ってくる。
「お疲れさま」
「待たせましたね」
「四十分くらいです」
「長いでしょう」
「本屋にいたから平気」
「無理しなくても、近い場所でよかったのに」
「また言った」
「事実です」
「私が来たかったんです」
「わかりました」
二人は駅近くの鍋料理店へ向かった。
東京で葵と並んで歩くことが、不思議だった。
角館では、旅先の景色の中に二人がいた。
今は、高層ビルと人混みの中を歩いている。
それでも、隣にいる感覚は変わらない。
「真尋の会社、きれいなビルですね」
「中は普通です」
「真尋が働いてるところ、見られてよかった」
「外だけでしょう」
「でも、ここに毎日来てるんだってわかるから」
葵は、真尋の日常を知ろうとしている。
それが少し照れくさい。
店へ入り、二人は鶏団子と野菜の鍋を注文した。
湯気の立つ鍋を挟むと、秋田の居酒屋を思い出す。
「また鍋ですね」
真尋が言う。
「私たちらしいです」
「会ってから、まだ三回目です」
「でも、二回鍋を食べてます」
「確かに」
葵は楽しそうに、鶏団子を鍋へ入れた。
「真尋、黒田さんとは金曜日ですよね」
「はい」
「服、決めました?」
「まだです」
「何を着る予定?」
「会社帰りなので、普段通りです」
「少しは変えてください」
「どうして?」
「気持ちが変わったことを、自分でも感じるためです」
「服で?」
「服でも」
葵は鍋の中を箸で混ぜながら言った。
「いつもと同じ格好だと、いつもと同じ自分で行くでしょう?」
「いつもと違う自分を作る必要はありません」
「作るんじゃなくて、少しだけ新しくするんです」
真尋は葵を見る。
「葵は、恋愛に関しては積極的ですね」
「自分のこと以外なら」
「自分のことも、会う約束をしました」
「怖いですけど」
「彼から、その後連絡は?」
「普通に来てます」
「普通?」
「おはようとか、仕事が終わったとか」
「以前より増えた?」
「少し」
「葵が話したいと言ったから、気にしているのかもしれませんね」
「でも、土曜日のことには触れないです」
「会って話すつもりでしょう」
「そう思いたいです」
葵は鍋から鶏団子を取り分けた。
「真尋」
「何ですか?」
「もし、別れることになったら、私どうなると思います?」
「泣くでしょうね」
「それはわかってます」
「しばらく食欲がなくなる」
「もっと前向きなこと言ってください」
「でも仕事へ行く」
「真尋みたいに?」
「葵なりに」
「一人でいられないかもしれません」
「うちへ来ればいいです」
真尋は自然に言っていた。
葵が箸を止める。
「いいんですか?」
「一人でいられないなら」
「何日いても?」
「何日もいるつもりですか?」
「そのくらい悲しいかもしれない」
「着替えは持ってきてください」
葵の目が少し潤む。
「まだ別れてないのに泣かないでください」
「真尋が優しいこと言うから」
「普通でしょう」
「普通じゃないです」
葵は目元を指で押さえた。
「誰かの家に行けばいいって言ってもらえるだけで、こんなに安心するんですね」
「私も、誰かにそう言ってほしかった時があります」
「慎一さんと別れた時?」
「はい」
「誰にも言えなかった?」
「香織には言いました。でも、結婚したばかりで、夜中に呼び出せなくて」
「実家は?」
「母に心配をかけたくありませんでした」
「一人で泣いたんですね」
「そうです」
葵は真尋を見た。
「その時の真尋のところに行けたらよかった」
「葵は十四歳ですよ」
「何もできないですね」
「話も合わないでしょう」
「でも、隣に座るくらいはできます」
真尋は笑った。
「そうですね」
「今度は私がいます」
「ありがとう」
「本当に来ていいですからね。私の部屋は散らかってますけど」
「片づけてください」
「そればっかり」
二人は笑った。
鍋の湯気が、二人の間に立ち上る。
秋田から東京へ戻っても、同じ温かさが続いている。
旅先だけの関係ではない。
真尋は、そのことを改めて感じた。
*
食事の後、二人は駅まで歩いた。
午後九時を過ぎている。
平日の街には、仕事帰りの人が多い。
「次は金曜日ですね」
葵が言う。
「私たちが会うのは、その次です」
「黒田さんとのことを報告してください」
「どうしてそこまで気になるんですか?」
「真尋が幸せになるかもしれないから」
「会うだけです」
「でも、会わなかったら何も始まらない」
「それは、葵に教えられました」
「役に立ってますね、私」
「はい」
「もっと言ってください」
「調子に乗りますから、やめます」
葵が笑う。
改札前で立ち止まる。
「真尋」
「何ですか?」
「土曜日、私が彼と会う時、連絡を待っていてくれますか?」
「もちろん」
「終わったら、たぶん連絡します」
「何時でも?」
「常識的な時間じゃないかもしれない」
「その日は大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「真尋も、金曜日が終わったら連絡してください」
「何時でも?」
「起きてます」
「無理しないでください」
「待ちたいんです」
葵は笑った。
二人は互いの未来を待つ約束をしている。
恋愛の相手ではない。
家族でもない。
それでも、何かが起きた時に最初に声を聞きたいと思える人。
真尋は、こういう関係に名前をつける必要はないと思った。
友達。
年の離れた友達。
旅先で出会った友達。
どの言葉でも足りず、どれも間違いではない。
「では、金曜日に」
「はい」
「葵は土曜日」
「はい」
「お互い、逃げないようにしましょう」
真尋が言うと、葵は少し驚いた。
「真尋から言うなんて」
「葵に何度も言われましたから」
「成長しましたね」
「上から言わないでください」
葵は笑い、改札へ入った。
真尋はその姿を見送り、自分の電車へ向かった。
*
水曜日。
木曜日。
日常は淡々と進んだ。
会議。
資料の確認。
部下からの相談。
取引先との打ち合わせ。
黒田と会う金曜日が近づくにつれ、真尋は自分が落ち着かなくなっていることに気づいた。
仕事中は集中できる。
だが、ふとした瞬間に考える。
何を話せばいいのか。
なぜ今さら連絡したのか、どう説明するのか。
黒田は本当に嬉しいと思っているのか。
断れなかっただけではないか。
恋愛へ進むつもりで来るのか。
ただ友人として会うのか。
答えの出ないことを、何度も考える。
木曜日の夜、クローゼットを開けた。
普段仕事で着るスーツ。
白や淡いブルーのシャツ。
休日用のニット。
ワンピース。
葵に、少しだけ新しくするよう言われた。
真尋は深い緑色のブラウスを手に取った。
去年買ったが、数回しか着ていない。
仕事には少し華やかで、休日には少しきちんとしすぎている。
黒田と会う夜には、ちょうどいいかもしれない。
黒のパンツと合わせ、鏡の前に立つ。
いつもの自分と大きくは変わらない。
それでも白いシャツより、顔色が柔らかく見える。
真尋は写真を撮り、葵へ送った。
『これで行こうと思います』
数分後、葵から電話がかかってきた。
『いいです』
「それだけですか?」
『すごくいいです』
「大げさです」
『髪は下ろしてください』
「仕事があります」
『会う前にほどけばいいでしょう』
「跡がつきます」
『じゃあ、最初から下ろす』
「仕事中、邪魔です」
『真尋は面倒ですね』
「葵に言われたくありません」
『ピアスは?』
「小さいものをつけます」
『口紅、いつもより少し明るく』
「持っていません」
『明日買ってください』
「そこまでしません」
『じゃあ、私の貸します』
「色が合わないでしょう」
『真尋、恋愛の準備を楽しんでください』
葵の声が少し真剣になる。
『怖いことばかり考えないで』
真尋は鏡の中の自分を見た。
「そうですね」
『黒田さんにどう見られるかだけじゃなくて、自分が会う時間を楽しむために』
「わかりました」
『素直』
「もう切ります」
『待って。明日、報告してくださいね』
「はい」
『真尋』
「何ですか?」
『うまくいくといいですね』
真尋は少し笑った。
「葵も、土曜日」
『はい』
「うまくいくといいですね」
二人は互いに、同じ言葉を送り合った。
うまくいくとは、何を意味するのだろう。
関係が続くこと。
恋が始まること。
別れずに済むこと。
それだけではない。
本当の気持ちを伝えられること。
相手の気持ちを知ること。
結果が望んだものではなくても、自分を偽らずに向き合うこと。
それも、うまくいくということなのかもしれない。
*
金曜日の午後六時。
真尋は会議を終え、自分の席へ戻った。
黒田との待ち合わせは午後七時半。
会社から店までは三十分ほど。
時間は十分にある。
それでも胸が落ち着かない。
部下の吉田が、真尋の服装を見て首を傾げた。
「課長、今日なんか違いますね」
「何がですか?」
「いつもより柔らかい感じです」
「服の色でしょう」
「デートですか?」
隣にいた佐伯が、吉田を小さく睨んだ。
「そういうこと、聞いたらだめですよ」
「すみません」
真尋は二人を見て、少し迷った。
「食事です」
「やっぱり」
「吉田さん」
「はい」
「来週の資料、月曜の朝に確認します」
「急に仕事の話へ戻さないでください」
周囲に小さな笑いが起きる。
真尋も笑った。
「皆さんも、今日は早く帰ってください」
「課長も楽しんできてください」
佐伯が言う。
「ありがとうございます」
真尋は素直に答えた。
以前なら、楽しむという言葉を曖昧に受け流していた。
今は、楽しんでいいと思う。
仕事ではない時間を。
誰かと会うことを。
何かが始まるかもしれない夜を。
午後六時半、真尋は会社を出た。
駅の化粧室で髪をほどき、軽く整える。
口紅を塗り直す。
鏡の中の自分は、三か月前に黒田と会った時より少しだけ違って見えた。
外見ではない。
会いたいと思って、ここへ向かう自分。
相手から求められたからではなく、自分で選んだ。
それが、表情を変えているのかもしれない。
真尋はスマートフォンを確認した。
葵からメッセージが届いている。
『楽しんできて』
その下に、紅葉の絵文字が一つ。
秋田で最初に交換した時と同じ絵文字。
真尋は返信する。
『行ってきます』
改札を通る。
電車へ乗る。
窓に映る自分の顔を見ながら、真尋は深く息を吸った。
怖さは消えていない。
期待もある。
どちらも抱えたまま、会いに行く。
一人で立つことと、誰かへ歩み寄ることは矛盾しない。
自分の生活を守りながら、新しい人へ扉を開くこともできる。
真尋はまだ、それを確かめる途中にいる。
だが、確かめるためには、扉の前に立つだけでは足りない。
自分の手で、開かなければならない。
電車が新宿駅へ着く。
真尋は人の流れに沿ってホームへ降りた。
待ち合わせの店へ向かう。
一歩進むたび、心臓の音が近くなる。
それでも足は止まらなかった。
遠回りを重ねてきた。
選ばなかった道を何度も振り返った。
失うことを恐れ、始まる前から扉を閉じてきた。
けれど今夜は、自分から会いに行く。
それだけで、真尋にとっては十分に新しい一歩だった。
店の前に着くと、黒田が入口の横に立っていた。
濃紺のコート。
眼鏡。
三か月前と変わらない、穏やかな表情。
真尋に気づくと、少し驚いたように目を見開き、それから笑った。
「水口さん」
「お久しぶりです」
「本当に」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
気まずくはない。
ただ、これから始まる時間を互いに確かめているような沈黙だった。
「今日は、来てくださってありがとうございます」
真尋が言う。
「こちらこそ。連絡をもらえて、うれしかったです」
黒田はまっすぐ答えた。
真尋は、その言葉を受け取った。
疑わずに。
理由を探さずに。
「入りましょうか」
「はい」
黒田が扉を開ける。
真尋は店の中へ入った。
暖かな空気と、料理の香りが流れてくる。
扉が閉まる。
外の冷たい風が遠ざかる。
その夜が、どこへ続くのかはまだわからない。
それでも真尋は、わからないことを、以前ほど怖いとは思わなかった。
答えが見えないからこそ、歩いていける道もある。
誰かと出会うことでしか見えない自分もいる。
幸せには、一つの形しかないと思っていた。
けれど、その形は今、真尋の中で少しずつほどけ始めていた。




