第四章 旅の終わりに残るもの
店の引き戸を開けると、炊きたての米と甘辛い醤油の香りが二人を迎えた。
昼時を少し過ぎていたが、店内はまだ混み合っている。観光客らしい家族連れや夫婦、地元の人らしい作業着姿の男性たちが、木のテーブルを囲んでいた。
壁には、比内地鶏の親子丼、稲庭うどん、山菜の天ぷらと書かれた品書きが並んでいる。
「二名です」
葵が店員へ告げる。
真尋は、少し前までなら自分が先に答えていただろうと思った。
店へ入れば人数を伝える。
注文をまとめる。
会計を気にする。
誰かと一緒にいる時ほど、自分が動かなければならないと考える癖があった。
葵が自然に前へ出たことで、真尋は何もせず、その隣に立っている。
それだけのことが、妙に新鮮だった。
「奥のお席へどうぞ」
案内されたのは、窓際の二人掛けの席だった。
窓の外には細い通りが見える。雨上がりの路面が陽射しを反射し、歩く人の影が長く伸びていた。
葵はメニューを開いた。
「本当に親子丼とうどんのセットがあります」
「調べた通りですね」
「真尋さんも同じものにします?」
「そうします」
「二人とも同じでいいんですか?」
「食べたいものが同じなら」
「真尋さん、無理してません?」
「していません」
「さっきから確認してばかりですね、私」
葵は苦笑した。
「私が人に合わせるのが得意そうに見えるからでしょう」
「得意そうというより、合わせていることを相手に気づかせなさそうです」
「それは、あまり良いことではありませんね」
「どうしてですか?」
「気づかれないまま、こちらだけ疲れるからです」
葵はメニューから顔を上げた。
「あります。そういうこと」
「葵さんもでしょう?」
「はい」
注文を済ませると、店員が温かいお茶を置いた。
葵は湯呑みを両手で包む。
「真尋さんって、会社では人に合わせますか?」
「必要な範囲では」
「嫌なことも?」
「仕事ですから」
「そうやって、ずっと我慢してきたんですか?」
真尋は少し考えた。
「我慢しているつもりはありませんでした」
「でも、泣かないようにしてたって」
「それは、我慢というより武器でした」
「武器?」
「感情的だと思われないための」
葵は黙って聞いている。
真尋は湯呑みを持ち上げた。
「若い頃、同じ意見を言っても、男性社員なら冷静で、女性社員なら感情的だと言われることがありました。だから、できるだけ声の調子を変えずに話すようにしていました」
「腹が立っても?」
「特に、腹が立っている時ほど」
「つらそうです」
「慣れました」
「真尋さん、すぐ慣れたって言いますね」
「そうですか?」
「はい。寂しいのも、一人でいるのも、仕事で泣かないのも。慣れたから大丈夫って」
真尋は返事をしなかった。
葵は責めるような言い方ではなかった。
ただ、気づいたことを口にしただけだ。
だが、その言葉は真尋の内側へ鋭く入ってきた。
慣れることは、生きるために必要だった。
傷つかないために。
仕事を続けるために。
誰かに頼れない時でも立っているために。
けれど慣れることで、感じなくなったふりをしてきたものもある。
「慣れたことと、平気なことは違うのかもしれませんね」
真尋が言うと、葵は少し目を細めた。
「真尋さんでも、そう思うんですね」
「葵さんと話していると、思わされます」
「私、何か失礼なことを言ってません?」
「言っています」
「えっ」
「でも、嫌ではありません」
葵は安堵したように笑った。
「よかった」
「葵さんは、思ったことをそのまま言いますね」
「前はもっと言えたんです」
「前?」
「彼と付き合い始めた頃とか、会社に入りたての頃です」
「今は言えない?」
「言う前に、相手がどう思うかを考えるようになりました」
「大人になったということかもしれません」
「それって、良いことですか?」
「必要なことではあります」
「でも、言えなくなりすぎるのは違いますよね」
「そうですね」
葵は湯呑みの中を見つめた。
「私、会社で企画の仕事をしてるんです」
「昨日、若手社員だと聞きましたが、詳しくは聞いていませんでしたね」
「食品会社の販売促進です。スーパーやコンビニ向けのお菓子のキャンペーンを考えたり、売り場のPOPを作ったり」
「楽しそうですね」
「楽しいです。本当は」
「本当は?」
「最近、自分の意見を言えなくなってきて」
葵の表情が少し曇る。
「先輩がすごく仕事のできる人なんです。判断も早いし、数字にも強くて。私は、その人の下について一年くらいになるんですけど」
「厳しい?」
「厳しいです。でも、間違ったことは言わないんです」
「それが余計につらい?」
葵は驚いたように真尋を見た。
「どうしてわかるんですか?」
「正しい人から責められると、自分が全部間違っているように思えるからです」
「そうなんです」
葵は少し身を乗り出した。
「企画を出しても、根拠が弱い、数字で説明してって言われます。私は、これなら楽しそうとか、女性が手に取りたくなるとか、そういう感覚から考えるんですけど」
「感覚を数字へ置き換えるよう求められる?」
「はい。でも、うまくできなくて」
「感覚が悪いわけではありませんよ」
「でも、企画は感覚だけじゃ通らないって」
「それも正しいです」
「やっぱり」
葵が肩を落とす。
「ただ、感覚を持っている人が、数字を覚えれば強くなります」
「本当ですか?」
「数字だけで考える人には、作れないものがありますから」
葵は真尋を見つめた。
「先輩に言われた時は、自分には向いてないって思ったのに」
「向いていないと決めるには早いです」
「どうしたらいいですか?」
「自分が良いと思った理由を、もう少し細かく言葉にしてみるといいです」
「細かく?」
「たとえば、女性が手に取りたくなると思ったなら、どの年代の、どんな生活をしている女性なのか。その人が、どの時間帯に、どんな気持ちで商品を見るのか」
葵は真剣な表情で聞いている。
「それを考えた上で、過去の売上や市場のデータと結びつける。感覚を捨てる必要はありません。感覚を、人に伝わる形へ変えるだけです」
「真尋さん、仕事の時もこんな感じなんですか?」
「どんな感じですか?」
「相手ができないって言っても、できる方法を探す」
「それが仕事なので」
「やっぱり、真尋さんの部下になりたいです」
「やめたほうがいいですよ。厳しいですから」
「でも、頭ごなしに向いてないとは言わないでしょう?」
「向いていないと思えば言うかもしれません」
「言うんですか?」
「ただし、理由と別の可能性も一緒に伝えます」
「それなら、言われても納得できそう」
「納得できない時もあると思います」
「真尋さんでも、部下に嫌われるんですか?」
「ありますよ」
「意外です」
「上司が全員に好かれるのは無理です」
「嫌われるの、怖くないですか?」
真尋は少し笑った。
「怖いですよ」
「でも、必要なことは言う?」
「言わないほうが、その人のためにならないこともあるので」
「私には無理かも」
「今は、できなくてもいいです」
「真尋さんは、いつからできるようになったんですか?」
「できるようになったと思っていません」
「でも、課長でしょう?」
「役職が、人を完成させるわけではありません」
葵はその言葉を聞き、少し笑った。
「今日は何度も安心させられます」
「私が迷うことに?」
「はい。真尋さんみたいな人でも、まだ完成してないなら、私も急がなくていい気がして」
真尋は湯呑みを置いた。
葵は、自分の未完成さを隠さずに見せることで、誰かを安心させる人だった。
真尋はこれまで、未熟さは人へ見せてはいけないものだと思っていた。
頼られるためには、迷いを見せない。
信頼されるためには、正しい答えを出す。
けれど葵と話していると、わからないと言うことが相手を遠ざけるのではなく、近づけることもあるのだと知る。
「お待たせしました」
店員が料理を運んできた。
つやのある親子丼。
透き通るような細い稲庭うどん。
小さな器に入った漬物。
親子丼の卵は半熟で、中央には三つ葉が添えられている。
「おいしそう」
葵の声が明るくなる。
「熱いうちに食べましょう」
二人は箸を取った。
真尋は親子丼を一口食べる。
鶏肉は弾力があり、卵は柔らかい。出汁の甘みと醤油の塩気が、炊きたての米によく合っている。
「おいしい」
葵が言った。
「本当に」
「昨日も思いましたけど、美味しいって言う人が隣にいると、もっと美味しく感じますね」
真尋は葵を見た。
同じことを、自分も考えていた。
「そうですね」
「一人旅も好きですけど、今は真尋さんと来てよかったです」
「私もです」
今度は、ためらわずに答えた。
葵が嬉しそうに笑う。
「真尋さん、素直になってきましたね」
「葵さんが何度も確認するからです」
「確認しないと、真尋さんはすぐ一人で大丈夫な顔をするので」
「そう見えますか?」
「見えます」
「葵さんは、すぐ一人では無理な顔をしますね」
「ひどい」
「でも、それが悪いとは言っていません」
「じゃあ、どう思ってます?」
真尋はうどんを箸で持ち上げながら考えた。
「助けてほしい時に、助けてほしいと言えそうで羨ましいです」
葵は箸を止めた。
「言えないですよ」
「昨日、居酒屋へ誘ったでしょう」
「それは、助けてほしいとは違います」
「今日も、泣いた時に私の手へ触れました」
葵の頬がわずかに赤くなる。
「あれは、無意識です」
「無意識でも、誰かへ手を伸ばせる」
「真尋さんは伸ばせないんですか?」
「苦手です」
「じゃあ、困った時は私に言ってください」
「葵さんに?」
「年下だから頼りないかもしれませんけど」
「そんなことはありません」
「仕事のことは何もわからないし、恋愛も自分がこんな状態ですけど」
「話を聞いてくれるだけでいい時もあるでしょう?」
昨日、自分が葵へ言った言葉だった。
葵は少し驚いた後、笑った。
「真尋さん、ちゃんと覚えてたんですね」
「自分で言ったことですから」
「じゃあ、約束です」
「何が?」
「困った時は、私にも言う」
真尋はすぐに答えなかった。
誰かへ頼る約束。
それは思っていたより重かった。
頼るということは、弱いところを見せることだ。
相手に期待することだ。
期待した相手が応えてくれなければ、傷つく。
だから真尋は、最初から期待しないようにしてきた。
けれど葵は、真尋の返事を急かさずに待っている。
「努力します」
「約束になってません」
「では、困った時は連絡します」
「本当に?」
「はい」
葵は満足そうに頷いた。
「私も連絡します」
「葵さんは、しそうですね」
「遠慮なくします」
「夜中は寝ているかもしれません」
「起こします」
「それは困ります」
二人は笑った。
*
昼食を終えた後、二人は土産物店が並ぶ通りを歩いた。
店先には、いぶりがっこ、稲庭うどん、地酒、菓子などが並んでいる。
真尋は母への土産を探していた。
「何でもいいって言われたんですけど」
「そういう人が一番難しいですよね」
「そうなんです」
「甘いものは?」
「好きです。でも、たくさんは食べません」
「じゃあ、小さいお菓子がいいですね」
葵は棚を見ながら、栗を使った小さな菓子箱を手に取った。
「これはどうですか?」
「よさそうですね」
「箱もきれいです」
淡い金色の箱に、秋田の山が描かれている。
真尋はそれを母への土産に選んだ。
「葵さんは?」
「会社にお菓子を買います」
「彼には?」
聞いた瞬間、葵の手が止まった。
真尋は後悔した。
「ごめんなさい」
「いえ」
葵は棚に並ぶ地酒を見つめた。
「買おうと思ってました」
「無理にやめなくても」
「でも、今は選べないです」
「そうですね」
「彼が好きそうなものを見つけても、渡す時のことを考えると苦しくて」
葵は小さく息を吐いた。
「せっかく旅行に来たのに、こんなことばかり考えてますね」
「考えてもいいんじゃないですか」
「でも、真尋さんとの時間を台なしにしてる気がします」
「していません」
「本当ですか?」
「葵さんが恋人のことで悩んでいることも、今の葵さんの一部でしょう」
葵は真尋を見た。
「楽しい話だけをしないと、一緒にいられない関係ではないと思っています」
「まだ会って二日目なのに?」
「二日目だから話せることもあります」
「東京に戻っても?」
葵は少し不安そうに尋ねた。
「戻っても」
真尋は迷わず答えた。
葵は目を伏せ、しばらくしてから笑った。
「じゃあ、彼へのお土産は今日は買わないことにします」
「いいと思います」
「自分の分を買います」
「何にします?」
「地酒」
「昨日、あまり飲めなかったでしょう」
「真尋さんと飲む用です」
真尋は思わず葵を見た。
「東京で?」
「はい。次に会う理由になります」
「理由がなくても会いますよ」
葵の目が丸くなる。
「真尋さん、すごく素直」
「何度も言わないでください」
「でも、嬉しいです」
葵は、小さな瓶に入った地酒を選んだ。
ラベルには、薄紅色の花が描かれている。
「これ、二人で飲みましょう」
「いいですね」
「真尋さんの部屋で」
「どうして私の部屋なんですか?」
「きれいそうだから」
「葵さんの部屋でもいいでしょう」
「洗濯物が」
「片づけてください」
「じゃあ、真尋さんの家で」
葵は当然のように言った。
真尋の部屋へ誰かを招く。
慎一と別れてから、家族や親しい友人以外を呼ぶことはほとんどなかった。
自宅は、完全に自分だけの場所だった。
誰かに見られることを前提にしていない空間。
そこへ葵がいる光景を想像する。
ソファに座り、あの地酒を飲みながら、洗濯物を畳まない話をしている。
不思議と嫌ではなかった。
「予定を合わせましょう」
「本当にいいんですか?」
「言い出したのは葵さんでしょう」
「断られると思ってました」
「どうして?」
「真尋さん、一人の部屋を大事にしてそうだから」
「大事です」
「じゃあ、無理しなくても」
「また逃げ道を作っていますね」
真尋が言うと、葵は口を閉じた。
「来てもらって大丈夫です」
「はい」
「ただし、酔いつぶれないこと」
「努力します」
「約束になっていません」
今度は真尋が返した。
葵は笑った。
*
午後三時を過ぎると、空に再び雲が広がり始めた。
二人は宿へ戻る道を歩いていた。
明日の新幹線は、真尋が午後一時過ぎ、葵が午後二時過ぎだった。
予約した時間が違うため、帰りは別になる。
葵はそのことを、少し残念そうに話した。
「時間、変更できるか見てみます」
「無理に合わせなくてもいいですよ」
「一緒に帰りたいんです」
真尋は口を閉じた。
また自分が、相手の気持ちより先に遠慮していた。
「では、空席があれば」
「はい」
葵はすぐにスマートフォンを操作した。
真尋と同じ列車には空席があった。
ただし、隣同士ではない。
「別の号車ですね」
「同じ列車なら十分でしょう」
「せっかくなら隣がいいです」
「車内でずっと話すんですか?」
「寝るかもしれません」
「それなら別でも同じでは?」
「同じ列車に乗ってるっていうのが大事なんです」
真尋は、その感覚を完全には理解できなかった。
けれど葵が大事だと言うなら、そうなのだろうと思った。
「変更しますか?」
「します」
葵は予約を変更した。
「これで明日も一緒ですね」
「席は離れていますよ」
「盛岡まで、空いてたら移動できるかもしれません」
「車掌さんに確認してください」
「真尋さん、真面目」
「勝手に移動してはいけません」
「わかってます」
葵は笑いながらスマートフォンをしまった。
真尋は、誰かと同じ列車に乗ることを、これほど喜ばれた経験がなかった。
旅行の帰りは、一人で余韻に浸る時間だと思っていた。
写真を見返し、眠り、東京が近づくにつれて日常へ戻る準備をする。
だが葵と同じ列車で帰るなら、旅と日常の境目が少し曖昧になる。
それも悪くないと思った。
宿へ戻ると、玄関脇の談話室には、昨日と同じように薪ストーブの火が入っていた。
女将が帳場から顔を出す。
「お帰りなさい。今日はよく歩かれましたか?」
「はい」
葵が明るく答える。
「朝は少し雨でしたけど、きれいでした」
「雨上がりの角館もいいでしょう」
「すごくよかったです」
「夕方から冷えるそうです。お風呂で温まってください」
「ありがとうございます」
二人は階段を上がった。
部屋の前で、葵が立ち止まる。
「少し休んだら、また下で会いませんか?」
「夕食まで?」
「はい。昨日の地ビール、もう一本飲みたいです」
「飲みすぎでは?」
「半分ずつなら」
「夕食前に酔いますよ」
「じゃあ、お茶にします」
「そうしましょう」
五時に談話室で待ち合わせることにし、それぞれの部屋へ入った。
*
真尋はコートを脱ぎ、窓際の椅子へ腰を下ろした。
朝から長い時間歩いたはずなのに、不思議と疲労は少なかった。
一人旅の時は、気づけば何時間も歩いている。
自分の足の速さで進み、気になる場所では立ち止まる。
今日は葵の歩調へ合わせ、話しながら歩いた。
同じ距離でも、体の疲れ方が違う。
真尋はカメラを取り出し、撮った写真を確認した。
雨粒のついた紅葉。
木彫りの猫。
橋。
川。
古い屋敷の縁側。
そして、葵。
昨日までの写真には、風景しかなかった。
今日は、何枚も葵が写っている。
紅葉の下で笑う姿。
橋から川を見る後ろ姿。
喫茶店の窓際で、ミルクティーを持つ横顔。
本人に気づかれないよう、何気ない瞬間も撮っていた。
真尋は一枚ずつ見返した。
葵は表情がよく変わる。
笑う。
驚く。
考え込む。
泣く。
不安になる。
そしてまた笑う。
真尋は、自分にはないものだと思った。
真尋の写真を誰かが撮れば、きっと似たような顔ばかりだろう。
落ち着いている。
冷静。
少し微笑む。
感情を大きく見せない。
葵のように、心の動きがそのまま顔へ出る人を、若い頃の真尋は未熟だと思っていた。
今は、その率直さを美しいと思う。
写真の中の葵は、完璧ではない。
だから、目が離せない。
真尋は数枚をスマートフォンへ転送した。
どれを送るか選ぶ。
葵が最初に気に入った紅葉の写真。
橋の上の後ろ姿。
横顔。
真尋は一枚の写真で指を止めた。
橋を渡った後、葵が何かを見つけて振り返った瞬間。
笑いかける直前の、柔らかな顔。
真尋はこの写真が一番好きだった。
ただ、本人が気に入るかはわからない。
写真を数枚選び、葵へ送った。
『今日の写真です』
すぐに既読がつく。
『すごい! ありがとうございます!』
続けて、何度もメッセージが届いた。
『全部きれい』
『自分じゃないみたいです』
『橋の写真、特に好きです』
真尋は少し笑った。
『私も橋の写真が好きです』
『真尋さんと好みが同じですね』
『そうですね』
『真尋さんの写真も撮ればよかった』
真尋は、その文章を見て手を止めた。
自分の写真。
旅先では、ほとんど残さない。
『私は大丈夫です』
そう入力しかけ、削除した。
また、一人で大丈夫な顔をしている。
葵に言われた言葉を思い出す。
『明日、撮ってください』
送信する。
しばらくして、葵から大きな笑顔の絵文字が届いた。
『任せてください』
真尋はスマートフォンを膝へ置いた。
明日、この旅にいる自分の姿が写真に残る。
そのことが、少し照れくさく、嬉しかった。
*
五時前、真尋は談話室へ降りた。
葵はまだ来ていない。
薪ストーブの前のソファへ座り、火を眺める。
昨日は、ここで二人の関係が始まった。
たった一日しか経っていないのに、ずっと前のことのようにも感じる。
誰かと距離が縮まる時、時間の長さは関係ないのかもしれない。
何年付き合っても、本音を言えない人がいる。
数時間しか知らなくても、不思議と話せる人もいる。
真尋が火を眺めていると、階段を下りる足音がした。
「お待たせしました」
葵が現れる。
髪を下ろし、薄い紺色のセーターへ着替えていた。
「お風呂に入ったんですか?」
「はい。少し眠りそうになりました」
「まだ寝てもよかったのに」
「真尋さんを待たせるので」
「待てますよ」
「知ってます。でも、会いたかったので」
葵はあまりにも自然に言った。
真尋は、一瞬返事に困った。
「私もです」
小さく答える。
葵は驚かなかった。
ただ、嬉しそうに笑った。
二人は女将が用意してくれた温かいほうじ茶を飲んだ。
薪がぱちりと音を立てる。
「東京へ戻ったら、何をしますか?」
葵が尋ねた。
「次の日から仕事です」
「現実ですね」
「葵さんもでしょう?」
「はい。月曜日から」
「彼とは?」
葵は湯呑みを両手で包んだ。
「まだ、わかりません」
「明日は会えないと言っていましたね」
「はい」
「連絡は?」
「その後は来てません」
「そうですか」
「帰ってから、私から連絡したほうがいいと思いますか?」
真尋は少し考えた。
「葵さんは、どうしたいですか?」
「会って話したいです」
「なら、それを伝えればいいと思います」
「怖いです」
「昨日から何度も言っていますね」
「何度言っても怖いです」
「そうですよね」
葵は少し笑った。
「真尋さんは、答えを急がせないですね」
「急いでも、気持ちが追いつかないでしょう」
「でも会社では、決断させるんですよね」
「期限がある仕事では」
「恋愛には期限がない?」
「あります。ただ、誰かが決めるものではないです」
葵は火を見つめた。
「私、彼と結婚したかったのかな」
「わからなくなりました?」
「昨日までは、したいと思ってました」
「今は?」
「彼と結婚したいのか、結婚することで安心したいのか、わからなくなりました」
「安心?」
「この関係が終わらないっていう保証が欲しいだけかもしれません」
真尋は黙って聞いた。
「結婚したら、別れないわけじゃないのに」
「そうですね」
「でも、恋人だと、いつでも終わる気がする」
「結婚も、終わることはあります」
「真尋さんは、結婚したら安心できると思いますか?」
「私は、逆に怖くなるかもしれません」
「どうして?」
「簡単には終われないからです」
葵が真尋を見る。
「同じものを見ても、逆に感じるんですね」
「葵さんは、終わらない保証が欲しい。私は、終われないことが怖い」
「どっちが正しいんでしょう」
「どちらも正しくて、どちらも間違っているのかもしれません」
「また、答えがない」
「人の気持ちに、いつも正解があるわけではないでしょう」
葵は膝を抱えるように座り直した。
「真尋さんは、結婚しないって決めてるんですか?」
「決めていません」
「恋愛もしない?」
「それも決めていません」
「でも、今はいない」
「はい」
「出会いがない?」
「なくはないです」
「告白されたことは?」
真尋は少し笑った。
「質問が直接的ですね」
「知りたいので」
「少し前に、会社の知人から紹介された人に、付き合ってほしいと言われました」
葵が大きく目を開いた。
「初耳です」
「今、初めて話しましたから」
「どうしたんですか?」
「断りました」
「どうして?」
「良い人でしたが、生活へ入ってきてほしいと思えなかったからです」
「一回も付き合わずに?」
「何度か食事はしました」
「好きになるかもしれなかったのに」
「そうかもしれません」
「もったいない」
葵は率直に言った。
「私も、そう思う時があります」
「今から連絡できないんですか?」
「できますが、相手には失礼でしょう」
「どうして?」
「一度断ったのに、自分が寂しくなったから戻るのは」
「寂しいから会いたいって、だめなんですか?」
真尋は答えに詰まった。
「相手を都合よく扱っているように思えます」
「でも、本当に会いたいと思ったなら?」
「それは……」
「真尋さん、始まる前から終わる時のことを考えるって、今日言ってましたよね」
「言いました」
「その人と会う前から、失礼になるかとか、傷つけるかとか考えてる」
葵は真尋をまっすぐ見た。
「自分が会いたいかどうかは、考えました?」
真尋は火へ視線を落とした。
紹介された男性、黒田俊介。
三十九歳。
建築設計事務所に勤めている。
穏やかで、話を急がない人だった。
真尋の仕事を尊重し、一人旅の話も興味深そうに聞いてくれた。
三度目の食事の後、彼は付き合ってほしいと言った。
真尋は考える時間をもらった。
そして一週間後、断った。
理由は、恋愛を始める余裕がないから。
そう伝えた。
本当は余裕がなかったのではない。
彼を自分の生活へ迎えた後のことを想像し、怖くなったのだ。
期待されること。
自分も期待すること。
会う回数が増えること。
関係が深くなり、いつか結婚の話になること。
そして、また別れるかもしれないこと。
好きになる前に、すべてを考えた。
「会いたいと思ったことはあります」
真尋は静かに答えた。
「じゃあ、会えばいいのに」
「そんなに簡単ではありません」
「簡単じゃないから、会わないんですか?」
「葵さん」
「すみません」
葵は少し身を引いた。
「でも、真尋さんが私に、自分の気持ちを言ったほうがいいって言うから」
「その通りですね」
真尋は苦笑した。
自分が葵へ言った言葉は、そのまま自分へ返ってくる。
相手の気持ちは決められない。
自分がどうしたいかを考える。
怖くても、伝えなければわからない。
「東京へ戻ってから、考えてみます」
「連絡するか?」
「はい」
「連絡してください」
「葵さんが決めることではありません」
「でも、私はしてほしいです」
「どうして?」
「真尋さんが、また誰かを好きになったら素敵だから」
葵の言葉には、打算がなかった。
自分の恋愛がうまくいっていない時に、他人の恋を願う。
その優しさに、真尋は胸を打たれた。
「恋愛が始まるとは限りませんよ」
「始まらなくても、会いたいなら会えばいいんです」
「そうですね」
「約束してください」
「約束ばかりですね」
「真尋さんは逃げるから」
「連絡するかどうか、考えます」
「弱い」
「これ以上は約束できません」
葵は不満そうだったが、やがて笑った。
「じゃあ、東京で地酒を飲む時に聞きます」
「覚えていたら」
「絶対覚えてます」
薪ストーブの炎が揺れた。
真尋は、黒田の連絡先を思い出していた。
削除してはいない。
彼から最後に届いたメッセージも残っている。
『こちらこそ、ありがとうございました。水口さんと話す時間は楽しかったです。仕事でもどこかで会うかもしれませんが、その時は普通に話してください』
責める言葉はなかった。
その優しさに甘えて、自分は扉を閉じた。
今さら連絡することが正しいかはわからない。
けれど正しさばかり探すから、何も始められないのかもしれなかった。
*
夕食は、宿から少し離れた郷土料理店へ行った。
昨夜ほど深い話はせず、二人は食事を楽しんだ。
山菜の天ぷら。
ハタハタの塩焼き。
だまこ鍋。
葵は一つひとつ写真を撮り、今度は恋人へ送ろうとはしなかった。
「会社の友達に送ります」
「彼には?」
真尋が尋ねると、葵は少し考えた。
「今は送りません」
「それでいいんですか?」
「送りたいと思ったら送ります」
「自分の希望を言う練習?」
「はい。送らないのも、自分で選びます」
葵は少し誇らしそうだった。
「いいと思います」
「真尋先生のおかげです」
「先生ではありません」
「真尋課長?」
「もっと嫌です」
「じゃあ、真尋さん」
「最初からそう呼んでいるでしょう」
二人は笑った。
食後、宿へ戻る道で、小さな雪が一粒だけ舞った。
葵が空を見上げる。
「雪?」
「たぶん」
「今年、初めて見ました」
「私もです」
二人は立ち止まり、暗い空を見た。
次の雪はなかなか落ちてこない。
一粒だけだったのかもしれない。
「写真に撮れませんでしたね」
葵が言う。
「撮れないものもあります」
「でも、覚えてますよね」
「はい」
真尋は、葵の横顔を見た。
写真に残らないもの。
冬の最初の一粒。
冷たい空気。
隣にいる人の声。
それらは、記録には残らなくても、心の中に残る。
「真尋さん」
「何ですか?」
「この旅行、来てよかったです」
「朝は失敗したと思っていたのに?」
「今は、来てよかった」
「それならよかったです」
「真尋さんは?」
「私も」
「私と会えたから?」
葵が冗談めかして尋ねる。
真尋は少しだけ間を置いた。
「はい」
葵は足を止めた。
「真尋さん」
「何ですか?」
「本当に素直になりましたね」
「何度言うんですか」
「嬉しいから」
葵はまた歩き出した。
真尋もその隣へ並ぶ。
夜の道に、二人の足音が重なる。
*
翌朝は、前日よりも空が明るかった。
真尋は六時半に目を覚まし、温泉へ入った。
部屋へ戻ると、葵からメッセージが届いていた。
『起きました』
時刻は六時四十分。
『早いですね』
『昨日、真尋さんに笑われたので』
『今日は寝癖、大丈夫ですか』
『まだ見てません』
真尋は笑った。
朝食の席に現れた葵の髪は、今日はきれいに整っていた。
「寝癖、ありません」
「確認しました」
「真尋さんに笑われないように、早起きしました」
「私のためですか?」
「半分は」
「残り半分は?」
「最後の朝だから、ゆっくりしたくて」
二人は朝食を食べながら、帰りの予定を確認した。
十時に宿を出る。
駅へ荷物を預け、午前中は昨日見られなかった店を少し回る。
十二時前に昼食。
午後一時過ぎの新幹線で東京へ戻る。
「帰りたくないですね」
葵が味噌汁を飲みながら言った。
「仕事がありますから」
「現実的」
「旅は終わるから、また来られるんです」
「終わるから意味がないわけじゃない」
「覚えていましたね」
「大事な言葉なので」
葵は真尋を見た。
「東京に戻っても、終わりじゃないですよね」
「もちろんです」
「よかった」
その一言に、真尋も安堵した。
葵だけではない。
自分も、この関係が続くことを望んでいる。
それを認めることが、もう怖くなかった。
*
宿を出る前、女将が玄関で二人を見送ってくれた。
「仲の良いご姉妹みたいですね」
女将が言う。
二人は顔を見合わせた。
「旅先で知り合ったんです」
葵が答える。
「まあ、本当に?」
「昨日会ったばかりで」
「そうは見えませんでした」
女将は穏やかに笑った。
「旅先のご縁は、不思議なものですね。短い時間でも、長く残ることがありますから」
真尋は、その言葉を胸へ留めた。
「お世話になりました」
「またお越しください」
「はい」
二人は宿を出た。
振り返ると、女将がまだ手を振っている。
葵も大きく手を振り返した。
「また来たいです」
「そうですね」
「次も一緒に?」
真尋は頷いた。
「一緒に来ましょう」
葵は嬉しそうに笑った。
*
駅へ荷物を預けた後、二人は町をゆっくり歩いた。
昨日までとは違い、帰る時間を意識している。
同じ景色も、もうすぐ離れると思うと、少し寂しく見える。
葵は約束通り、真尋の写真を撮った。
「そこに立ってください」
紅葉の残る木の下。
真尋は言われた通りに立つ。
「どうしたらいいですか?」
「自然に」
「それが一番難しいと言っていたでしょう」
「真尋さんならできます」
葵はスマートフォンを構えた。
「笑ってください」
「急に言われても」
「私を見て」
真尋は葵を見る。
「真尋さん、昨日よりずっと柔らかい顔してます」
「そうですか?」
「はい」
「撮らないんですか?」
「今撮ります」
シャッター音が鳴る。
「もう一枚」
「何枚撮るんですか?」
「真尋さん、写真が少ないって言ってたから」
「言っていません」
「部屋に飾ってある写真に、人がいないって言ってました」
「自分の写真が少ないとは言いました」
「じゃあ、たくさん撮ります」
葵は角度を変えながら何枚も撮った。
真尋は最初、どう立てばいいかわからなかった。
だが葵が笑いながら指示するうちに、次第に緊張がほどけた。
「今の、いいです」
「どれですか?」
葵が画面を見せる。
そこには、紅葉の下で笑っている真尋がいた。
作った笑顔ではない。
カメラの向こうにいる葵へ向けた顔。
自分でも知らないほど、穏やかな表情だった。
「これ、私ですか?」
「真尋さんです」
昨日、自分が葵へ言った言葉だった。
「真尋さんには、こういう顔もあるんです」
葵が言う。
「私には?」
「はい」
真尋は写真を見つめた。
写真の中の自分は、一人で立っている。
けれど、一人には見えなかった。
画面の外に、葵がいるとわかるからだ。
「送ってください」
「もちろん」
葵がすぐに写真を送る。
真尋はスマートフォンへ届いた画像を保存した。
旅先で自分の姿を残したのは、いつ以来だろう。
誰かに撮ってもらった写真には、撮った人との関係まで写り込む。
真尋は初めて、そのことを知った。
*
昼食を済ませ、駅へ戻る頃には、空が再び曇り始めていた。
ホームには、東京へ向かう観光客が並んでいる。
二人はキャリーケースを引きながら、指定された号車へ向かった。
「席、離れてますね」
葵が何度目かに言う。
「同じ列車だからいいのでしょう?」
「そうですけど」
真尋は少し考えた。
「発車して、空席があれば車掌さんに聞いてみましょう」
「真尋さんから言ってくれるんですか?」
「葵さんが言ってください」
「そこは課長らしく」
「プライベートでは課長ではありません」
「じゃあ、一緒に聞いてください」
「わかりました」
新幹線がホームへ入ってくる。
赤い車体が、ゆっくりと目の前で止まった。
扉が開く。
二人は車内へ乗り込んだ。
真尋の席は前方。
葵は後ろの号車。
「では、後で」
真尋が言うと、葵は少し寂しそうに頷いた。
「連絡します」
「同じ列車の中ですよ」
「それでも」
葵は手を振り、自分の号車へ向かった。
真尋は席へ座り、窓の外を見た。
ホーム。
駅舎。
町の向こうに見える山。
二日前、ここへ降りた時には、一人だった。
今も席には一人で座っている。
それなのに、来た時と同じ一人ではない。
スマートフォンが震えた。
葵からのメッセージ。
『座りました』
『私もです』
『寂しいです』
『同じ列車にいます』
『知ってます』
『東京に着いたら一緒に帰りましょう』
真尋は画面を見つめた。
東京に着けば、二人はそれぞれの家へ戻る。
明日からは、別々の会社。
別々の生活。
旅先のように、朝から晩まで一緒にはいられない。
それでも、東京の中に葵がいる。
会いたいと思えば、連絡できる距離にいる。
『はい。一緒に帰りましょう』
送信する。
列車が動き出した。
角館のホームがゆっくりと遠ざかる。
真尋は窓へ顔を向けた。
旅の終わりには、いつも少し寂しさがある。
だが今回は、すべてを置いて帰る感覚ではなかった。
写真。
言葉。
約束。
そして、これからも会いたいと思える人。
旅が終わっても、持ち帰れるものがある。
真尋は、自分のスマートフォンに保存された写真を開いた。
紅葉の下で笑う自分。
その顔を見ても、もう知らない人のようには思わなかった。
誰かと出会ったことで、初めて見つけた自分。
それもまた、自分なのだ。
車内アナウンスが流れる。
列車は山あいを抜け、東京へ向かって走っていく。
真尋は一度、仕事用の通知を確認しようとして、手を止めた。
まだ旅は終わっていない。
東京へ着くまで、この時間を急いで日常へ戻す必要はない。
代わりに、連絡先の一覧を開いた。
黒田俊介。
名前はまだ残っている。
最後のメッセージは三か月前。
真尋は画面を見つめた。
連絡する理由を探そうとする。
秋田へ行ったこと。
写真を撮ったこと。
旅先で考えたこと。
だが、理由がなければ連絡してはいけないわけではない。
会いたいなら、会いたいと伝えればいい。
葵にそう言った。
真尋は文章を打ち始めた。
『お久しぶりです。突然すみません。以前は、きちんと向き合わないままお断りしてしまった気がしています』
そこまで書き、指を止めた。
重すぎる気がする。
全部削除する。
もう一度、入力する。
『お久しぶりです。秋田へ旅行に来ていて、以前お話しした建物のことを思い出しました』
嘘ではないが、言い訳のように見える。
また削除する。
真尋はスマートフォンを膝へ置いた。
簡単ではない。
葵には、自分の気持ちを伝えればいいと言える。
自分のことになると、何度も言葉を選び、送れなくなる。
それでも、以前とは少し違う。
連絡しようと思っている。
会いたいかもしれないと認めている。
その小さな変化を、今は大切にしたかった。
スマートフォンが再び震えた。
『盛岡を過ぎたら、席のこと聞きませんか?』
葵からだった。
真尋は笑った。
『はい。一緒に聞きましょう』
返信する。
窓の外には、山の紅葉が流れている。
赤。
黄。
緑。
色の違う木々が、同じ山の中で並んでいる。
幸せには、一つの形しかないと思っていた。
仕事を選ぶなら、恋愛は諦める。
一人の自由を守るなら、誰かと暮らす温かさは持てない。
強くあるなら、頼ってはいけない。
けれど旅の途中で出会った葵は、その境目を少しずつ曖昧にした。
一人で歩けることと、誰かと歩きたいと思うことは、矛盾しない。
自分の生活を愛しながら、新しい誰かを迎えることもできるかもしれない。
頼ることは、弱くなることではない。
誰かのために立つことと、自分が支えてもらうことは、同時にあっていい。
真尋はまだ、そう信じ始めたばかりだった。
答えは出ていない。
黒田へ連絡できるかもわからない。
葵の恋がどうなるのかもわからない。
二人の関係が、この先どれほど続くのかも。
けれど、わからないことを恐れて、最初から扉を閉じる必要はない。
窓の外で、紅葉の山が遠ざかっていく。
真尋はその景色を、カメラではなく自分の目で見た。
撮らなくても残るものがある。
終わっても消えないものがある。
遠回りした時間の先でしか、会えない人がいる。
真尋は静かに息を吐いた。
東京へ戻れば、また日常が始まる。
けれど、戻る自分は、出発した時とまったく同じではなかった。
ほんの少しだけ、誰かへ手を伸ばすことを覚えた。
ほんの少しだけ、誰かが隣にいる未来を想像できるようになった。
列車は速度を上げ、二人を東京へ運んでいく。
旅の終わりではなく、新しい日々の始まりへ向かうように。




