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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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3/8

第三章 同じ朝を歩く

真尋は、障子の向こうが少しずつ明るくなっていく気配で目を覚ました。

 枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。

 午前六時十二分。

 アラームを設定していた七時より、かなり早い。

 昨夜は地酒と地ビールを飲み、葵と遅くまで話していた。それでも不思議と眠気は残っていなかった。

 布団の中で、しばらく天井を見つめる。

 古い木の梁。

 わずかに色の違う漆喰の壁。

 耳を澄ますと、遠くで水の流れる音がする。

 誰かが風呂を使っているのかもしれない。

 東京の朝なら、目を覚ました瞬間に仕事の予定を思い出す。

 会議。

 部下からの報告。

 返信していないメール。

 起き上がる前から、頭の中で一日が始まっている。

 けれど今朝は、何も急ぐ必要がなかった。

 朝食は八時。

 それまでは自由だ。

 真尋は布団から出て、窓際へ歩いた。

 カーテンを開ける。

 夜の間に雨が降ったらしく、向かいの屋根が濡れていた。空は薄い灰色だが、雲の切れ間から淡い光が差している。

 路地の端には、昨夜より多くの落ち葉が重なっていた。

 赤い葉。

 黄色い葉。

 茶色く乾いた葉。

 濡れた地面の上で、色だけが鮮やかに浮かんでいる。

 真尋は窓を少し開けた。

 冷たい空気が流れ込み、頬に触れる。

 雨上がりの土と木の匂い。

 東京ではなかなか感じられない、湿った朝の匂いだった。

「寒い」

 小さく呟いて、すぐに窓を閉める。

 真尋はカメラを手に取った。

 窓越しに、濡れた屋根と路地を撮る。

 朝の光は弱い。

 それでも、雨上がりの静かな町には、昨日とは違う表情があった。

 一枚。

 もう一枚。

 撮った写真を確認する。

 画面の中には、誰もいない路地が写っている。

 いつもの自分らしい写真だった。

 人のいない道。

 静かな建物。

 風景の中に残る生活の痕跡。

 真尋は写真を見つめたまま、昨夜の葵の言葉を思い出した。

 ——私、本当に真尋さんと会えてよかったです。

 会ってから、まだ一日も経っていない。

 互いのことを、ほとんど知らない。

 それなのに葵は、まっすぐそう言った。

 真尋自身も、同じ気持ちだった。

 だが、誰かに会えてよかったと思うことに慣れていない。

 仕事では、多くの人と出会う。

 部下。

 取引先。

 協力会社。

 新しく入社する人。

 毎日、誰かと話し、誰かの考えを聞き、誰かのために判断をする。

 それでも、仕事を離れた場所で、ただその人と出会えたことを嬉しいと思う機会は少なかった。

 役割も利益もない関係。

 今夜限りかもしれないからこそ話せること。

 それが旅先の出会いなのだろう。

 けれど真尋は、葵との時間を旅の思い出だけで終わらせたくないと、すでにどこかで思い始めていた。

 その気持ちに気づき、真尋は戸惑った。

 誰かとの距離を縮める時、真尋はいつも慎重になる。

 相手がどう思っているか。

 近づきすぎて迷惑ではないか。

 自分だけが関係を続けたいと思っているのではないか。

 そう考えるうちに、連絡する機会を失う。

 友人関係でも恋愛でも、真尋は自分から手を伸ばすことが苦手だった。

 拒まれた時に傷つかないよう、相手が来るのを待つ。

 慎一との交際も、最初に誘ったのは彼だった。

 別れた後、何度も連絡しようと思った。

 けれど結局、一度もできなかった。

 自分の気持ちを差し出し、受け取ってもらえなかった時の痛みを恐れたからだ。

 真尋はカメラを置き、洗面所へ向かった。

 顔を洗い、髪を整える。

 朝食までまだ時間がある。

 温泉へ行こうと思い、部屋に用意されていた浴衣へ着替えた。

 廊下へ出る。

 隣の撫子の部屋は静かだった。

 葵はまだ眠っているのだろう。

 昨夜、七時半に起きると言っていた。

 真尋は足音を立てないように階段を下りた。

 一階の廊下には、朝の冷たい空気が残っている。

 風呂場の札を見ると、二つとも空いていた。

 真尋は奥の小さな風呂を選んだ。

 脱衣所には籠が二つ。

 洗面台の上に、雪椿の絵が描かれた小さな鏡が掛かっている。

 浴衣を脱ぎ、引き戸を開けると、白い湯気が顔を包んだ。

 石造りの浴槽。

 木の壁。

 小さな窓の外には、濡れた庭が見える。

 真尋は体を洗い、ゆっくり湯へ浸かった。

「ああ……」

 思わず声が漏れる。

 熱すぎない湯が、足先から肩まで包み込む。

 昨日一日歩いた疲れが、少しずつほどけていった。

 窓の外では、細い枝から水滴が落ちている。

 湯に浸かりながら、真尋は昨夜の会話を思い返した。

 自由でいたいのに、必要とされたい。

 自分が口にした言葉。

 あれほど素直に本音を話したのは、いつ以来だろう。

 香織とは長い付き合いだ。

 母ともよく連絡を取る。

 職場にも信頼できる人はいる。

 それでも、真尋は相手に応じて話す内容を選んでいる。

 香織には、独身生活が楽しいと話す。

 母には、仕事が順調だから心配しなくていいと言う。

 職場では、迷いのない上司でいる。

 どれも嘘ではない。

 ただ、自分の一部分だけを見せている。

 葵には、なぜあれほど簡単に弱さを話せたのだろう。

 年齢が離れているからか。

 旅先だからか。

 もう二度と会わないかもしれないと思ったからか。

 真尋は湯の中で手を広げた。

 指先が少し赤くなっている。

 真尋の人生は、一人で立つための練習の積み重ねだった。

 若い頃は、誰かに負けないために。

 仕事を続けるために。

 傷つかないために。

 自分の機嫌を自分で取り、問題は自分で解決し、寂しさも自分で引き受ける。

 そうしていれば、誰かに失望しなくて済む。

 だが昨夜、葵と話している時だけは、何かを自分一人で抱えなくてもいいような気がした。

 答えをもらったわけではない。

 問題が解決したわけでもない。

 ただ、自分とは違う人生を歩いてきた人が、隣で頷いてくれた。

 それだけで、胸の中にあったものの重さが少し変わった。

 誰かといることは、相手に人生を任せることではない。

 重い荷物をすべて持ってもらうことでもない。

 ほんの少しだけ、一緒に持ってもらうことなのかもしれない。

 真尋は肩まで湯へ沈んだ。

     *

 部屋へ戻る途中、二階の廊下で撫子の襖が開いた。

 浴衣姿の葵が、眠そうな顔を出す。

「あ」

「おはようございます」

「真尋さん、もう起きてたんですか」

「今、お風呂から戻ったところです」

「何時から起きてるんですか?」

「六時過ぎです」

 葵は目を丸くした。

「早すぎません?」

「自然に目が覚めました」

「私、アラーム止めた記憶があります」

「今、七時二十分ですよ」

「えっ」

 葵が慌てて部屋の中へ戻り、スマートフォンを確認する。

「本当だ。七時半に起きるつもりだったのに」

「まだ十分ありますよ」

「十分しかないです」

「朝食は八時です」

「朝食の前にお風呂に入りたかったんです」

「急げば間に合います」

「真尋さんなら間に合うでしょうけど、私は無理です」

「昨日、自分で急げば支度は十分だと言っていましたよ」

「それは服を着るだけの話です」

 葵は困ったように髪へ触れた。

 寝癖で片側だけ外へ跳ねている。

 真尋は笑いそうになり、口元を押さえた。

「今、笑いました?」

「笑っていません」

「絶対笑いました」

「少しだけ」

「ひどい」

「寝癖が」

 葵はさらに慌てて髪を押さえた。

「そんなに変ですか?」

「かわいいですよ」

 何気なく言った後、真尋は自分の言葉に少し驚いた。

 職場の部下に対して、外見をかわいいと言うことはない。

 同年代の友人にも、ほとんど言わない。

 葵は一瞬、目を丸くしてから、嬉しそうに笑った。

「真尋さんに褒められた」

「寝癖を褒めたわけではありません」

「でも、かわいいって」

「早くお風呂へ行かないと間に合いませんよ」

「話をそらしましたね」

 葵は笑いながら、部屋へ引っ込んだ。

「着替えを取ってきます。真尋さん、先に朝食へ行かないでくださいね」

「待っています」

「約束ですよ」

「はい」

 襖が閉まる。

 真尋は自分の部屋へ戻った。

 鏡の前に座り、化粧をする。

 いつもより少し薄く整える。

 旅先で誰かと一緒に朝食を食べる。

 ただそれだけなのに、自分が少し浮き立っていることに気づく。

 真尋はその感情を、今度は否定しなかった。

     *

 八時を少し過ぎて、二人は一階の食事処へ入った。

 六つの小さなテーブルが並ぶ部屋。

 窓の外には庭が見える。

 奥の席には、年配の夫婦と若い男性が一人で座っていた。

 女将が二人を案内する。

「こちらへどうぞ」

 窓際のテーブルには、すでに朝食が用意されていた。

 焼き鮭。

 卵焼き。

 ほうれん草のおひたし。

 大根の漬物。

 小さな湯豆腐。

 炊きたてのご飯と味噌汁。

 葵は席につくなり、目を輝かせた。

「すごい。朝からちゃんとしたご飯」

「普段は何を食べてるんですか?」

「ヨーグルトか、コンビニのおにぎりです」

「それで昼まで持ちます?」

「持たないので、会社でお菓子を食べます」

「効率が悪いですね」

「朝ご飯を作る時間がないんです」

「洗濯物を畳まない時間を使えばいいのでは」

「朝から厳しい」

 葵が頬を膨らませる。

 真尋は笑いながら、手を合わせた。

「いただきます」

「いただきます」

 味噌汁から湯気が立つ。

 一口飲むと、出汁のやさしい味が口に広がった。

「おいしい」

 葵が小さく声を上げる。

「味噌が少し甘いですね」

「真尋さん、味の違いがわかる人なんですね」

「このくらいはわかります」

「ワインとかも詳しいですか?」

「全然」

「昨日の地酒も詳しそうにしてたのに」

「店主に勧められたものを飲んだだけです」

「真尋さんって、なんでも知ってそうに見えます」

「また勝手に完璧な人へ戻していますね」

「でも、知らないって言えるのも格好いいです」

「何を言っても褒めますね」

「憧れてるので」

 葵は悪びれずに言い、焼き鮭をほぐした。

 真尋は照れくささを隠すように、湯豆腐へ箸を伸ばした。

 誰かに憧れられることは、責任を伴う。

 職場で若い女性社員から、真尋のように仕事を続けたいと言われることがある。

 そのたびに嬉しいと思う一方、自分が間違えられないような息苦しさも感じていた。

 けれど葵の憧れには、もう少し柔らかいものがある。

 真尋の強さだけではなく、迷いも含めて見ている。

 だから、無理に立派な人でいなくてもいいと思えた。

「今日はどうしましょうか」

 真尋が尋ねる。

 葵は味噌汁の椀を置いた。

「昨日行けなかったところを、もう少し歩きたいです」

「武家屋敷ですか?」

「はい。あと、川沿いも歩いてみたいです」

「私も同じです」

「じゃあ、一緒に行きませんか」

「そうしましょう」

 葵は嬉しそうに笑った。

「こんなに簡単に決まるんですね」

「何がですか?」

「友達と旅行すると、どこに行くか決めるだけで時間がかかるので」

「行きたい場所が同じなら、すぐ決まります」

「違ったら?」

「別行動にすればいいでしょう」

「友達との旅行で別行動って、ありですか?」

「ありだと思います」

「相手が寂しくないですか?」

「旅行中ずっと一緒にいなければ友達ではない、ということではないでしょう」

「真尋さんらしい」

「またそれですか」

「でも、いい考え方だなって」

 葵は卵焼きを一口食べた。

「私、友達と旅行すると、すごく疲れるんです」

「気を使うから?」

「そうです。行きたい場所を聞かれると、どこでもいいって言っちゃうし。食べたいものも合わせるし。夜は早く寝たいのに、話し続けたり」

「自分の希望を言わないんですね」

「嫌われたくないから」

 葵はあっさりと言った。

 真尋は箸を止めた。

「それで疲れて、一人旅へ?」

「それも少しあります」

「彼氏には希望を言えますか?」

 葵の表情がわずかに曇った。

「前は、言えてたと思います」

「今は?」

「最近は、言う前に考えます」

「何を?」

「面倒だと思われないか」

 昨夜より静かな声だった。

「会いたいって言って、忙しいと言われたら、次は言いにくくなるじゃないですか。電話したいと言って、疲れてるからって断られたら、もう電話しないほうがいいのかなって」

「葵さん」

「はい」

「相手を気遣うことと、自分の気持ちを消すことは違いますよ」

 葵は真尋を見た。

「でも、相手が忙しいのに自分の気持ちばかり言うのも違うでしょう?」

「もちろんです。ただ、言わなければ相手には伝わりません」

「伝えたら、重いと思われるかもしれない」

「それで離れていく相手なら、黙っていてもいつか苦しくなるのでは?」

 葵は答えなかった。

 箸で焼き鮭の身を細かくほぐしている。

 真尋は言い過ぎたかと思った。

 恋人との関係を詳しく知らない。

 昨夜、少し話を聞いただけだ。

 葵の恋人にも事情があるのだろう。

 忙しいだけかもしれない。

 真尋は自分の経験を重ねすぎているのかもしれなかった。

「ごめんなさい。余計なことを言いました」

「いえ」

 葵は首を振った。

「たぶん、真尋さんの言う通りです」

 その時、テーブルの端に置いてあった葵のスマートフォンが震えた。

 葵は画面を見た。

 一瞬で表情が変わる。

 期待。

 安堵。

 そして、すぐに戸惑い。

 真尋は何も尋ねず、ご飯を口へ運んだ。

 葵はメッセージを開き、短く返信した。

 スマートフォンを伏せる。

「彼ですか?」

 真尋が聞くと、葵は小さく頷いた。

「はい」

「昨日は連絡がなかったんですよね」

「朝、送ったんです。秋田に着いたって」

「返事が来た?」

「今」

「何て?」

 聞いてから、真尋はまた踏み込みすぎたと思った。

 だが葵は画面を見つめたまま答えた。

「楽しんできて、って」

 それだけなのだろう。

 文面としては、何もおかしくない。

 旅行へ来た恋人へ送る言葉として、自然だ。

 けれど葵が期待していたのは、それだけではないのだと真尋にはわかった。

 誰と行っているのか。

 一人で大丈夫か。

 寒くないか。

 写真を見せてほしい。

 帰ったら会おう。

 そういう言葉を待っていたのだろう。

「何か、聞きたいことがあった?」

「昨日、喧嘩したまま出てきたので」

 葵は無理に笑った。

「少しくらい心配してくれるかなって思ってました」

「心配していないとは限りませんよ」

「わかってます」

「文章が短い人もいますから」

「前は、もっと聞いてくれたんです」

 葵の声がさらに小さくなる。

 真尋は何も言えなかった。

 人の気持ちが離れていく時、最初に現れるのは大きな裏切りではない。

 返信が短くなる。

 会う回数が減る。

 こちらの話への質問がなくなる。

 かつて自然に行われていた小さなやり取りが、一つずつ消えていく。

 それだけに、理由を問い詰めることも難しい。

 忙しいだけ。

 疲れているだけ。

 考えすぎ。

 そう言われれば、こちらが面倒な人間に思えてくる。

「何て返したんですか?」

「うん、ありがとうって」

「それだけ?」

「それ以上、何て言えばいいかわからなくて」

 葵はスマートフォンをバッグへ入れた。

「せっかくの旅行だから、今は考えないことにします」

 明るく言ったが、その声は少し硬かった。

 真尋は葵の決意を否定しなかった。

「そうですね。まずは朝ご飯を食べましょう」

「はい」

「卵焼き、冷めますよ」

「真尋さん、こういう時、無理に励まさないんですね」

「励ましてほしいですか?」

「いえ」

 葵は首を振った。

「それが、ありがたいです」

 二人は再び箸を動かした。

 窓の外では、葉の先から水滴が落ちている。

 同じテーブルを囲んでいても、相手の心の中まですべて見えるわけではない。

 真尋はそれでいいと思った。

 誰かを支えることは、正しい言葉を与えることではない。

 話したくなるまで、隣にいることも支えになる。

     *

 朝食を終え、二人は部屋へ戻って支度をした。

 午前九時過ぎ、玄関前で待ち合わせる。

 真尋は黒いパンツに白いニット、長いグレーのコート。

 葵は昨日と同じベージュのコートに、淡い黄色のマフラーを巻いている。

「今日は寝癖、大丈夫ですか?」

 葵が自分の髪を触る。

「大丈夫です」

「本当ですか?」

「本当です」

「真尋さん、たまに適当に答えそうだから」

「信用がありませんね」

「仕事のことは信用してます」

「それ以外は?」

「これから確かめます」

 昨日と同じ言葉だった。

 真尋は笑い、宿の引き戸を開けた。

 外へ出る。

 朝の町は、雨上がりの光に包まれていた。

 雲はまだ残っているが、時折、陽射しが地面を照らす。

 濡れた落ち葉が光り、黒い塀の色が昨日より濃く見えた。

「きれい」

 葵が小さく言った。

「昨日とは違いますね」

「雨が降ってよかったかも」

「晴れだけが良い天気ではないですからね」

「それ、写真を撮る人の考え方ですか?」

「旅をする人の考え方です」

 二人は並んで歩き始めた。

 同じ道でも、昨日一人で歩いた時とは景色が違って見える。

 隣に葵がいる。

 それだけで、真尋は自分の外側にも意識が向く。

 葵が何に足を止めるのか。

 何を見て笑うのか。

 どんなものを美しいと思うのか。

 一人の時、真尋は自分の視線だけで町を見る。

 誰かと歩くと、その人の視線を通じて、見落としていたものに気づく。

「あ、見てください」

 葵が道端を指した。

 古い家の軒下に、小さな木彫りの猫が置かれている。

 昨日、真尋は同じ道を歩いたはずだが、気づかなかった。

「かわいい」

「写真、撮らないんですか?」

「撮ります」

 真尋はカメラを構えた。

 木彫りの猫の向こうに、濡れた格子戸がある。

 シャッターを切る。

「葵さんが見つけなかったら、通り過ぎていました」

「私も役に立ちますね」

「十分、役に立っています」

「真尋さんに認められた」

「大げさです」

 葵はスマートフォンでも猫を撮った。

 そのまま画面を見つめる。

 真尋は、恋人へ送るのだろうかと思った。

 だが葵は誰にも送らず、スマートフォンをしまった。

 昨日までなら、すぐ彼へ写真を送っていたのかもしれない。

 真尋は何も言わなかった。

 武家屋敷通りへ着くと、昨日より観光客が少なかった。

 朝の早い時間だからだろう。

 濡れた黒塀の道を、二人はゆっくり歩いた。

 真尋は時々立ち止まり、カメラを向ける。

 葵は急かさず、その間に別の景色を見たり、自分のスマートフォンで写真を撮ったりしている。

「待たせていませんか?」

 何度目かに真尋が尋ねると、葵は首を振った。

「全然。真尋さんが何を撮るのか見るの、楽しいです」

「人に見られていると撮りにくいです」

「じゃあ、見ないふりします」

 葵は背を向けた。

「そこまでしなくても」

「自由に撮ってください」

 真尋は笑いながら、再びカメラを構えた。

 雨粒の残る楓の葉。

 黒塀に落ちる細い影。

 水たまりへ映る赤い木。

 昨日より光が柔らかい。

 真尋がシャッターを切っていると、少し離れたところから声がした。

「真尋さん」

 顔を上げる。

 葵が紅葉の木の下に立っていた。

「昨日みたいに、また撮ってもらってもいいですか?」

「もちろん」

 真尋は葵へカメラを向けた。

「スマートフォンじゃなくて、そのカメラで撮ってほしいです」

「私のカメラで?」

「はい。後で送ってもらえますか?」

 後で送る。

 そのためには、連絡先を交換する必要がある。

 真尋は、その言葉だけで少し胸が温かくなった。

「いいですよ」

「やった」

「自然に立ってください」

「自然が一番難しいです」

「では、あちらを見て」

 真尋が指した先へ、葵が顔を向ける。

 風が吹き、髪が揺れる。

 真尋はシャッターを切った。

 昨日より表情が柔らかい。

 けれど目の奥には、わずかな寂しさがある。

 朝のメッセージの影が残っているのかもしれない。

 その表情まで、美しいと思った。

 笑顔だけが、その人の魅力ではない。

 迷っている顔。

 何かを堪えている横顔。

 ふと気を抜いた瞬間。

 そこに、その人らしさが現れる。

「今度は、こちらを見てください」

 葵がカメラを見る。

「笑ったほうがいいですか?」

「どちらでも」

「それが困るんです」

「では、私ではなく、後ろの紅葉を見て」

 葵が少し笑いながら振り返る。

 その瞬間を撮る。

「今のはいいと思います」

「見せてください」

 葵が駆け寄ってくる。

 カメラの画面を二人で覗き込む。

 肩が触れそうな距離。

「すごい」

 葵が息を漏らす。

「私じゃないみたい」

「葵さんですよ」

「でも、こんな顔するんだ」

 葵は写真をじっと見つめた。

「自分の顔なのに、知らない顔みたいです」

「写真は、本人が見ていない瞬間を残しますから」

「真尋さんには、こう見えてるんですか?」

 思いがけない質問だった。

 真尋は画面の中の葵を見る。

 雨上がりの紅葉。

 少し風に乱れた髪。

 無理に作っていない笑顔。

 若さの明るさと、その奥にある迷い。

「そうですね」

 真尋は答えた。

「明るいけど、それだけではない人に見えます」

「それだけではない?」

「ちゃんと悩んで、考えている人です」

 葵は真尋を見た。

 少しだけ目が潤んでいるように見えた。

「ありがとうございます」

「どうしてお礼を?」

「わからないです。でも、そう言ってもらえて嬉しかったから」

 真尋はカメラを下ろした。

「後で写真を送ります」

「連絡先、交換してもらってもいいですか?」

「もちろん」

 二人は道の端へ寄り、スマートフォンを取り出した。

 葵がQRコードを表示する。

 真尋が読み取る。

 画面に「小野寺葵」と表示された。

 アイコンは、海辺で撮ったらしい後ろ姿の写真だった。

「追加しました」

「私も」

 葵からすぐにメッセージが届く。

『葵です。よろしくお願いします!』

 最後に小さな紅葉の絵文字がついている。

 真尋は少し迷い、返信した。

『真尋です。こちらこそよろしくお願いします』

 普段なら、絵文字はほとんど使わない。

 だが葵のメッセージに合わせて、同じ紅葉の絵文字を一つ添えた。

「真尋さん、絵文字使うんですね」

 葵が画面を見て笑う。

「使うこともあります」

「仕事の連絡でも?」

「会社では使いません」

「じゃあ、特別ですね」

「一つ使っただけです」

「でも特別」

 葵は嬉しそうにスマートフォンをしまった。

 特別。

 その言葉に、真尋は照れくささを覚えた。

 だが嫌ではなかった。

     *

 二人は武家屋敷の一つへ入った。

 古い木造の建物。

 磨かれた廊下。

 畳の部屋。

 庭へ面した縁側。

 昨日、真尋が一人で訪れた場所とは別の屋敷だった。

 展示された道具を見ながら、葵は一つひとつ説明を読む。

 真尋は、葵が想像していたより丁寧に見学することを知った。

「こういうの、好きなんですか?」

「歴史は詳しくないですけど、人が住んでた場所を見るのが好きです」

「私もです」

「本当ですか?」

「そこでどんな生活をしていたのか、想像するのが好きで」

「真尋さんと私、意外と好みが合いますね」

「意外ですか?」

「年齢が違うから、もっと違うと思ってました」

「十一歳くらいで、人の好みが全部変わるわけではありません」

「でも、小学生と大学生くらい違いますよ」

「その例えはやめてください」

 葵が笑う。

 二人は奥の座敷へ進んだ。

 庭に面した窓から、薄い陽射しが入っている。

 畳の上には、木の影が長く伸びていた。

「ここで暮らすの、大変だったでしょうね」

 葵が言う。

「冬は寒そうですね」

「暖房も今みたいにないし」

「夜は暗かったでしょうね」

「でも、家族は多かったのかな」

 葵は広い座敷を見回した。

「一人になれる場所、少なそう」

「葵さんは、一人になる場所が必要ですか?」

「必要です」

 答えは早かった。

「実家にいた時、自分の部屋に誰かが入るのが嫌でした。母が洗濯物を置きに来るだけでも」

「それなら、誰かと暮らすのは大変ですね」

「そうなんです。結婚したいって思うのに、一緒に暮らすのは想像できなくて」

「わかります」

「真尋さんも?」

「誰かが家にいる状態が、もう想像できません」

「でも、朝起きた時に誰かがいたら、少し嬉しくないですか?」

「毎日ですか?」

「毎日」

 真尋は考えた。

 慎一と付き合っていた頃、週末に泊まりに来ることがあった。

 先に目を覚ました彼が、キッチンでコーヒーを淹れている。

 その音を布団の中で聞くのが好きだった。

 目を開けなくても、一人ではないとわかる。

 あの安心を、真尋は覚えている。

「嬉しい日もあるでしょうね」

「嬉しくない日も?」

「一人で静かにしたい日もあります」

「じゃあ、別々の部屋があればいいのかな」

「それなら暮らせるかもしれません」

「結婚しても別々の部屋」

「いいと思います」

「世間では、仲が悪いって思われそう」

「世間が一緒に暮らすわけではないでしょう」

 葵は少し黙り、それから笑った。

「それ、好きです」

「何が?」

「世間が一緒に暮らすわけじゃない」

「事実ですから」

「真尋さんと話してると、自分が勝手に決めてたことに気づきます」

「何を決めていたんですか?」

「結婚したら、毎日一緒にいて、同じ部屋で寝て、休日も一緒に過ごすものだって」

「そういう人もいます」

「でも、そうじゃなくてもいい」

「二人が納得していれば」

「彼は、どう思うかな」

 葵の声が少し変わった。

 真尋は彼女の横顔を見る。

 朝のメッセージ以来、葵は恋人の話を避けていた。

 だが何を見ても、考えても、結局は彼との未来へつながるのだろう。

 二年付き合った相手。

 一緒にいた時間が長いほど、その人を抜きにして将来を考えることは難しい。

「聞いてみたことは?」

「ないです」

「どうして?」

「結婚の話だと思われそうだから」

「結婚の話でしょう?」

「そうですけど」

 葵は縁側へ腰を下ろした。

 真尋も隣へ座る。

 庭には、雨に濡れた苔が広がっている。

 風が吹くと、赤い葉が一枚、石の上へ落ちた。

「彼、前は結婚したいって言ってたんです」

「いつ頃?」

「付き合い始めた頃。いつか結婚したいねって」

「葵さんと?」

「たぶん。私と、というより、将来は結婚したいって感じでしたけど」

「今は言わない?」

「はい」

「何かきっかけがあったんですか?」

 葵は膝の上で手を組んだ。

「半年前に、彼の仕事が変わったんです」

「転職?」

「同じ会社の中で部署が変わって。忙しくなって、出張も増えて」

「それから連絡が減った?」

「少しずつ」

「会う回数も?」

「前は毎週会ってたのに、今は月に二回くらいです」

「忙しいなら、仕方がない部分もありますね」

「そうなんです。だから私も我慢しなきゃって」

「彼から会おうと言うことは?」

 葵は少し間を置いた。

「最近は、私からが多いです」

 真尋はそれ以上聞かなかった。

 葵自身、気づいているのだろう。

 関係の重さが、片方へ偏り始めていることに。

 だが、気づくことと認めることは違う。

 認めれば、何かを決めなければならない。

 葵はまだ、決めたくないのだ。

「真尋さん」

「はい」

「好きな人の気持ちが離れてるかもしれない時って、どうしたらいいですか?」

 真尋は庭を見た。

 自分の経験から答えるなら、早く聞いたほうがいい。

 曖昧なまま時間を過ごしても、苦しさが増えるだけだ。

 けれど、正しさだけで人は動けない。

「まずは、自分がどうしたいかを考えることだと思います」

「彼の気持ちじゃなくて?」

「彼の気持ちは、葵さんには決められません」

「でも、彼が別れたいなら」

「葵さんは別れたいですか?」

「別れたくないです」

 葵はすぐに答えた。

 その声には迷いがなかった。

「だったら、別れたくないと言っていいと思います」

「重くないですか?」

「二年付き合った相手に、自分の気持ちを言うことが重いなら、何を話せるんですか」

 葵は俯いた。

「でも、言っても気持ちが戻らなかったら」

「それは、つらいでしょうね」

「怖いです」

「怖くて当然です」

「真尋さんなら、聞けますか?」

 真尋は答えに詰まった。

 慎一が別れを告げる前、真尋も彼の気持ちが離れていることに気づいていた。

 連絡が減った。

 会話が短くなった。

 以前なら笑っていたことに、笑わなくなった。

 だが真尋は、聞かなかった。

 聞けば終わる気がしたからだ。

 結局、先延ばしにしただけだった。

「私も、聞けなかったことがあります」

「その人と、別れたんですか?」

「はい」

「聞いていたら、変わったと思いますか?」

「わかりません」

 真尋は正直に答えた。

「でも、少なくとも、自分の気持ちを伝えなかったことは後悔しました」

 葵は庭を見つめた。

「真尋さんも、後悔するんですね」

「たくさんしますよ」

「でも、後悔しないように生きてそう」

「そんな人はいません」

「そうですよね」

 葵は小さく笑った。

「私、真尋さんなら答えを知ってる気がしてました」

「私は十一年長く生きているだけです」

「十一年あれば、いろいろわかると思ってました」

「わかることもあります。でも、わからないことも増えます」

「増えるんですか?」

「選択した結果を知るからです」

 葵が真尋を見る。

「若い頃は、選ばなかった道のことをあまり考えませんでした。前へ進めば、それが正しいと思えた。でも今は、別の選択をした自分を想像することがあります」

「結婚していた自分?」

 真尋は少し驚いた。

 昨夜の会話から察したのだろう。

「そうですね」

「結婚したかったですか?」

「したい時もありました」

「今は?」

「わかりません」

 二人は顔を見合わせた。

「また同じですね」

 葵が言う。

「わからないことばかりです」

「でも、真尋さんと話すと、わからないままでもいい気がします」

「私もです」

 真尋は庭へ視線を戻した。

 一人で考えていると、答えが出ないことは不安になる。

 誰かと話していると、答えが出なくても、その問いを持っていていいと思える。

 それが不思議だった。

     *

 屋敷を出た後、二人は川沿いへ向かった。

 雲が薄くなり、空に青い部分が見え始めている。

 川の水は冷たそうに澄み、流れに沿って落ち葉が運ばれていた。

 遊歩道を歩く人は少ない。

 二人の足音と、川の音だけが聞こえる。

「真尋さん、歩くの速いですね」

 葵が少し後ろから言った。

「速かったですか?」

「会社でもこんな感じですか?」

「たぶん」

「部下の人、大変そう」

 真尋は足を止めた。

「合わせます」

「大丈夫です。私ももう少し速く歩きます」

「無理に合わせなくていいですよ」

「でも、真尋さんを待たせるのも」

「私は待てます」

 真尋は葵の隣へ戻った。

「一緒に歩くなら、速いほうが少し遅く歩けばいいでしょう」

「それ、真尋さんが疲れません?」

「このくらいでは疲れません」

 二人は歩き出す。

 今度は葵の歩調に合わせる。

 一歩の幅が少し小さくなる。

 普段なら、目的地へ早く着くことを考える。

 だが旅では、歩いている時間そのものが目的でもある。

「真尋さん」

「はい」

「昨日、一人旅は自分のペースで歩けるのがいいって言ってましたよね」

「言いました」

「今は、私に合わせてます」

「嫌ですか?」

「うれしいです」

 葵は少し照れたように笑った。

「でも、一人の自由を邪魔してないかなって」

「私が嫌なら、別に歩きます」

「はっきりしてる」

「無理に合わせて、後から不満に思うほうが嫌なので」

「私、それができないんです」

「練習すればいいですよ」

「どうやって?」

「小さなことから、自分の希望を言う」

「例えば?」

 真尋は周囲を見た。

 少し先に、小さな橋がある。

 反対側には、川沿いの道が続いている。

「この先、橋を渡るか、このまま川沿いを歩くか。葵さんが決めてください」

「どちらでもいいです」

「それを禁止します」

「禁止?」

「今、自分がどちらへ行きたいか考えてください」

 葵は困った顔をした。

「どっちでも楽しそうです」

「より行きたいほう」

「うーん」

 葵は橋と川沿いを交互に見る。

「橋を渡りたいです」

「では、渡りましょう」

「こんなことでいいんですか?」

「最初はこんなことでいいです」

「でも、真尋さんは川沿いを歩きたかったかもしれない」

「私はどちらでもよかったです」

「それなら、私と同じじゃないですか」

「私は本当にどちらでもよかった。葵さんは、橋を渡りたいと思っていたのに言わなかった」

 葵はしばらく考え、頷いた。

「なるほど」

 二人は橋へ向かった。

 小さな木造の橋。

 中央まで行くと、川の流れがよく見える。

 葵は欄干へ手を置き、下を覗いた。

「きれい」

 水面に空の青が映っている。

 落ち葉が一枚、流れていく。

 真尋はカメラを構えた。

「葵さん、そこにいてください」

「私も入るんですか?」

「後ろ姿だけ」

「はい」

 葵が川を見る。

 真尋は橋の上に立つ葵と、流れる水を一緒に収めた。

 昨日まで、真尋の写真には人がほとんど写っていなかった。

 風景だけを撮ることが多かった。

 だが今、画面の中に葵がいることで、川の広さや朝の冷たさまで伝わるように見えた。

 人がいると、景色が狭くなると思っていた。

 実際には、人の存在が景色へ物語を与えることもある。

「撮れました?」

「はい」

「見せてください」

 葵が近づく。

 画面を見て、静かに笑った。

「これ、好きです」

「顔は写っていませんよ」

「だから好きなのかも」

「どうして?」

「誰でもない人みたいで」

 葵は写真を見つめる。

「今の私じゃなくて、旅の途中にいる誰かみたいです」

「今の葵さんも、旅の途中でしょう」

「そうですね」

「二十五歳なら、まだ始まったばかりです」

「三十六歳は?」

 真尋は少し考えた。

「同じく、途中です」

「よかった」

「何がですか?」

「真尋さんも途中なら、私だけ置いていかれた感じがしないから」

「誰に置いていかれたんですか?」

「友達とか、同僚とか」

 葵は橋の向こうを見た。

「結婚した友達。仕事を辞めて留学した友達。昇進した同僚。みんな、ちゃんと次へ進んでるように見えるんです」

「葵さんも働いて、一人で秋田まで来ています」

「でも、何も決められてない」

「進むことは、何かを決めることだけではありません」

「そうですか?」

「立ち止まって考えることも、進むために必要でしょう」

 葵は真尋を見る。

「真尋さんは、今、立ち止まってますか?」

「少し」

「何を考えてるんですか?」

「これから、どう生きたいか」

「仕事を続けるか?」

「それもあります」

「恋愛は?」

「それも」

「結婚は?」

「質問が多いですね」

「真尋さんのこと、知りたいので」

 葵は悪びれずに言った。

 知りたい。

 その言葉が、真尋の胸へ温かく届く。

 誰かが自分を知りたいと思ってくれること。

 役職でも、経歴でもなく。

 何を考え、何を怖がり、何を望んでいるのか。

 それを知ろうとしてくれる人がいる。

「まだ、私もわかりません」

 真尋は答えた。

「ただ、今まで通りでいいのかを考えるようになりました」

「何かきっかけがあったんですか?」

「大きなことは何も」

「じゃあ、どうして?」

「何も変わらないまま、時間だけが過ぎていると感じるからです」

 葵は静かに聞いている。

「今の生活は好きです。仕事も好き。一人旅も、一人の部屋も。でも、このまま十年後も同じだったら、その時も好きだと言えるのか、わからなくなってきました」

「誰かと暮らしたい?」

「そうかもしれません」

「恋人が欲しい?」

「そうかもしれない」

「でも怖い?」

「はい」

 真尋は認めた。

「自分の生活へ誰かを入れて、また失うのが怖いです」

「失う前提なんですね」

 葵の言葉に、真尋は立ち止まった。

 確かにそうだった。

 誰かと出会うことを考える前に、別れる時を想像している。

 幸せになる可能性より、失う痛みを先に考える。

「そうですね」

「私は、逆かも」

「逆?」

「ずっと続くと思いすぎるんです。だから、変わってきた時に受け入れられない」

 二人は橋の上で向き合った。

 片方は、終わりを恐れて始められない。

 片方は、終わりを認められずにしがみつく。

 違うようで、根にあるものは同じなのかもしれない。

 失うことが怖い。

「私たち、足して二で割れたらいいですね」

 葵が言う。

 真尋は笑った。

「本当に」

「真尋さんは、もう少し始まりを信じる。私は、終わることもあるって覚える」

「後半は、少し寂しいですね」

「でも、終わるからって始めなかったら、何も残らないでしょう?」

 真尋は葵を見た。

 昨日、恋をしてよかったと言った葵。

 まだ恋人との関係に悩み、傷つくことを怖がっている。

 それでも、始めなければ何も残らないと言える。

 その若さを、真尋はやはり眩しいと思った。

 だが今度は、単純な羨望ではなかった。

 葵の強さの奥に、傷つきやすさがあると知っている。

 だからこそ、その言葉を大切に受け取りたいと思った。

「覚えておきます」

「何を?」

「始めなければ、何も残らない」

「私、いいこと言いました?」

「時々は」

「真尋さんの真似しましたね」

「気のせいです」

 二人は橋を渡った。

     *

 昼前になると、観光客が増え始めた。

 二人は川沿いの小さな喫茶店へ入った。

 木枠の窓。

 古いレコード。

 壁には、角館の四季を写した写真が並んでいる。

 真尋はブレンドコーヒー。

 葵はミルクティーとアップルパイを頼んだ。

「真尋さんも食べます?」

「少しだけ」

「少しって、どのくらい?」

「一口」

「遠慮しないで半分食べてください」

「葵さんが食べたいでしょう」

「朝ご飯をちゃんと食べたので、半分で十分です」

「では、半分」

 アップルパイが運ばれてくると、葵はナイフで丁寧に二つへ分けた。

 片方を真尋の皿へ載せる。

「こういうの、久しぶりです」

 真尋が言う。

「アップルパイ?」

「食べ物を分けること」

「会社の人と食事しないんですか?」

「しますけど、こういう感じでは」

「こういう感じ?」

「最初から二人で分けようとする感じです」

 葵は少し不思議そうにした後、笑った。

「じゃあ、これからいっぱい分けましょう」

 これから。

 またその言葉だった。

 真尋は、葵が自然に未来の話をすることを嬉しく思った。

「東京へ戻ってからも?」

 真尋は自分から尋ねた。

 葵は一瞬、驚いたように目を見開いた。

「もちろんです」

「では、今度は東京で食事でも」

「行きたいです」

「忙しくなければ」

「絶対、時間を作ります」

「無理はしなくていいですよ」

「真尋さんは、すぐ逃げ道を作りますね」

「逃げ道?」

「忙しかったら、無理しなくていい。気が変わったら、別でもいい。相手が断りやすいようにしてる」

 真尋は言葉を失った。

 葵はフォークでアップルパイを切りながら続ける。

「優しいんだと思います。でも、真尋さんが本当に会いたいのか、わからなくなります」

「会いたいですよ」

 真尋は思ったより早く答えていた。

 葵が顔を上げる。

「東京でも、また会いたいです」

 言葉にすると、胸の中が少し軽くなった。

 拒まれることを恐れ、いつも曖昧な言い方をしてきた。

 相手が断っても傷つかないように。

 自分はそこまで望んでいなかったと思えるように。

 けれど今は、会いたいと伝えたかった。

 葵はゆっくり笑った。

「私も会いたいです」

「よかった」

「真尋さん、今ちょっと安心しました?」

「しました」

「素直」

「練習しています」

「何の?」

「自分の希望を言う練習です」

「私に教えながら、自分も?」

「はい」

 葵は嬉しそうに頷いた。

「じゃあ、一緒に練習しましょう」

「何を?」

「自分の気持ちをちゃんと言うこと」

「そうですね」

 二人はアップルパイを食べた。

 温かい林檎。

 薄いシナモンの香り。

 サクサクしたパイ。

 一人で食べても美味しいだろう。

 けれど半分に分けたことで、葵が美味しいと笑う顔まで味の一部になったように感じる。

 真尋はコーヒーを飲んだ。

 苦みの後に、わずかな甘さが残る。

 誰かと分けることは、自分の取り分が減ることだと思っていた。

 時間も。

 空間も。

 自由も。

 けれど分けることで、増えるものもある。

 同じものを味わった記憶。

 美味しいと言い合った時間。

 一人では生まれなかった会話。

 真尋は、そんな当たり前のことを、今さら知り始めていた。

 葵のスマートフォンが、再び震えた。

 葵の表情が固まる。

 画面を見て、しばらく動かなかった。

「どうしました?」

 真尋が尋ねる。

 葵は画面から目を離さない。

「彼からです」

「何て?」

「今日、帰ってくるのかって」

「葵さんは明日までですよね」

「はい。伝えてあります」

 葵はメッセージを開いた。

「忘れてたみたいです」

「忙しいから、勘違いしたのかもしれません」

「そうですよね」

 葵はそう言ったが、指は返信画面の上で止まっていた。

 やがて短く文字を打つ。

『明日帰るよ。前に送ったと思う』

 送信する。

 すぐに既読がついた。

 返信も早かった。

 葵は画面を見たまま、顔色を変えた。

「どうしたんですか?」

「今夜、会おうと思ってたって」

「明日帰ると伝えていたのに?」

「たぶん、忘れてただけです」

 葵は自分に言い聞かせるように繰り返した。

「でも、会おうと思ってくれてたんだ」

 嬉しそうに笑おうとする。

 その笑顔があまりに不安定で、真尋は胸が痛くなった。

「何か、気になることがあるんですね」

 真尋が言うと、葵は目を伏せた。

「昨日まで、今週は忙しいから会えないって言ってたんです」

「それが、急に今夜?」

「はい」

「予定が空いたのかもしれません」

「そうですよね」

 葵はまた同じ言葉を口にした。

 だが、自分でも信じ切れていない。

 真尋にはわかった。

 葵は返信した。

『明日の夕方には東京に戻るよ』

 しばらくして、彼から返事が届く。

 葵はその画面を見たまま、動かなかった。

「葵さん?」

「明日は無理だって」

 声が震えている。

「予定があるから」

「そうですか」

「今夜だけ、急に空いたって」

 葵はスマートフォンを伏せた。

「変ですよね」

 真尋はすぐに否定できなかった。

 確かに不自然ではある。

 だが事情を知らないまま、相手を疑うこともできない。

「何か理由があるかもしれません」

「そうですよね」

 葵は頷いた。

「考えすぎですよね」

 真尋は葵を見た。

 ここで大丈夫だと言えば、葵は一時的に安心するかもしれない。

 だが、その言葉に責任は持てない。

「考えすぎかどうかは、今はわかりません」

「真尋さん」

「でも、葵さんが不安に感じていることは事実です」

 葵の目に涙が浮かぶ。

「せっかく楽しかったのに」

「旅行が?」

「はい」

「今も楽しくないですか?」

「楽しいです。でも、彼から連絡が来ると、全部そっちに持っていかれる」

 葵は唇を噛んだ。

「自分でも嫌です。せっかく秋田まで来て、真尋さんと会えて、きれいな景色を見てるのに。彼の一言で気持ちが全部変わる」

「それだけ好きなんでしょう」

「でも、こんなの苦しいです」

「そうですね」

「真尋さんは、誰かにこんなに振り回されたことありますか?」

 真尋は慎一を思い出した。

 彼の返信を待った夜。

 別れが近づいていると気づきながら、何も聞けなかった日々。

 仕事をしている間も、スマートフォンが震えるたびに彼ではないかと確認した。

 自分も同じだった。

「あります」

「真尋さんも?」

「好きなら、振り回されます」

「でも、真尋さんは自分を保てそう」

「保てているように見せていただけです」

「どうしたら、こんなに苦しくならなくなりますか?」

 真尋は答えを探した。

 恋人から距離を置く。

 別れる。

 自分の生活を充実させる。

 よく聞く助言はいくつもある。

 けれど、気持ちは理屈で切り替わらない。

「相手より、自分を大切にすることだと思います」

「それができないんです」

「すぐにはできなくても、自分が苦しいと感じていることを無視しない」

「でも、私が我慢すれば続くかもしれない」

「我慢しなければ続かない関係を、葵さんは続けたいですか?」

 葵の目から、一粒だけ涙が落ちた。

 真尋はテーブルに置かれていた紙ナプキンを差し出した。

 葵は受け取り、目元を押さえる。

「すみません」

「謝らなくていいです」

「喫茶店で泣くなんて」

「誰も見ていません」

「真尋さんが見てます」

「私は数に入れなくていいです」

 葵は泣きながら、少し笑った。

「それ、どういう意味ですか」

「泣いても気にしない相手という意味です」

 葵は紙ナプキンを目元へ当てた。

「真尋さんに会えて、本当によかった」

 昨日と同じ言葉。

 だが今度は、泣き声だった。

 真尋は手を伸ばしかけ、止めた。

 背中をさするべきか。

 手を握るべきか。

 迷っているうちに、葵が自分から真尋の手へ触れた。

 テーブルの上で、指先が重なる。

 真尋は驚いたが、手を引かなかった。

 葵の手は冷たかった。

 真尋はその手を、両手で包んだ。

 言葉は必要なかった。

 窓の外では、雲の切れ間から陽が差している。

 雨に濡れた町が、少しずつ明るくなっていく。

 悲しいことがあっても、天気は変わる。

 誰かの気持ちが揺れても、川は流れる。

 世界は自分の痛みとは無関係に続いていく。

 それは残酷でもあり、救いでもある。

 葵はしばらく泣いた後、ゆっくり顔を上げた。

「もう大丈夫です」

「大丈夫でなくてもいいですよ」

「でも、今日はまだ歩きたいです」

「無理しなくても」

「無理じゃないです」

 葵は涙を拭き、真尋を見た。

「今、自分の希望を言いました」

 真尋は少し笑った。

「そうですね」

「だから、歩きたいです」

「では、歩きましょう」

「真尋さんと」

「はい」

 葵の手が、真尋の手から離れる。

 温もりだけが残った。

     *

 喫茶店を出ると、空はすっかり晴れていた。

 冷たい風は吹いているが、陽射しが路地を照らしている。

 二人はしばらく何も話さず歩いた。

 沈黙は重くなかった。

 葵が泣いたことを、真尋は特別な出来事にしたくなかった。

 人は泣く。

 落ち込む。

 それでも歩く。

 それだけのことだ。

「真尋さん」

 しばらくして、葵が呼んだ。

「はい」

「さっきのこと、忘れてください」

「無理です」

「やっぱり?」

「忘れる必要がありますか?」

「恥ずかしいので」

「泣いたことが?」

「彼氏の連絡だけで、あんなふうになることが」

「好きな人のことで泣くのは、恥ずかしいことではないです」

「真尋さんは、泣かなかったんでしょう?」

「泣きましたよ」

「会社では泣かなかったって」

「家では泣きました」

 葵が真尋を見る。

「どのくらい?」

「聞きます?」

「聞きたいです」

「何日も」

「真尋さんが?」

「人を何だと思ってるんですか」

「やっぱり、強い人」

「強い人も泣きます」

「泣いた後、どうしました?」

「仕事へ行きました」

「すごい」

「休めなかっただけです」

「忘れるのに、どのくらいかかりました?」

 真尋は少し考えた。

「忘れてはいません」

「今も好き?」

「そうではありません。でも、一緒にいた時間は消えません」

「新しい恋をしたら、忘れられると思いますか?」

「新しい人で、昔の人を消す必要はないと思います」

「残っててもいい?」

「それも自分の人生ですから」

 葵は前を向いた。

「私、彼と別れたら、全部無駄になる気がします」

「二年が?」

「はい」

「別れたとしても、二年がなかったことにはなりません」

「でも、結婚しなかったら意味がないような」

「恋愛の意味は、結婚することだけですか?」

 葵は黙った。

「楽しかった時間はありませんでした?」

「ありました」

「支えてもらったことは?」

「あります」

「葵さんが相手を支えたことも?」

「あると思います」

「それなら、無駄ではありません」

「でも、終わったら」

「終わったものに意味がないなら、卒業した学校も、辞めた仕事も、旅も、全部無意味になります」

 葵が顔を上げる。

「旅も?」

「旅は終わるでしょう。でも、来たことは残ります」

 真尋は空を見た。

「終わるから、意味がないわけではありません」

 自分自身にも向けた言葉だった。

 慎一との四年。

 結婚へつながらなかった。

 別れた。

 それでも、彼と過ごした時間まで失敗だったわけではない。

 真尋は彼を愛した。

 愛された。

 誰かと朝を迎える温かさも、別れの痛みも知った。

 その経験があるから、今の自分がいる。

 遠回りだったのかもしれない。

 だが遠回りの道にも、そこでしか見られない景色がある。

「真尋さん」

「はい」

「今の言葉、覚えておきます」

「どれですか?」

「終わるから意味がないわけではない」

「まだ終わると決まったわけではありませんよ」

「はい」

 葵は少しだけ笑った。

「でも、もし終わっても、私は大丈夫かもしれない」

 真尋はすぐに大丈夫だとは言わなかった。

「すぐには、大丈夫ではないでしょうね」

「そこは大丈夫って言ってくださいよ」

「たくさん泣くと思います」

「ひどい」

「でも、いつかは大丈夫になります」

「真尋さんみたいに?」

「私も完全に大丈夫かは、わかりません」

「じゃあ、一緒に大丈夫になりましょう」

 葵は冗談のように言った。

 だが真尋は、その言葉を胸の中で繰り返した。

 一緒に大丈夫になる。

 誰かを救うのではない。

 一方が支え、一方が支えられるだけでもない。

 互いに迷いながら、少しずつ歩く。

 そんな関係があってもいいのかもしれない。

「そうしましょう」

 真尋は答えた。

 葵が驚いたようにこちらを見る。

「真尋さん、今日は素直ですね」

「練習中ですから」

 二人は笑った。

 風が吹き、路地の落ち葉が舞い上がる。

 赤い葉が二人の間を通り抜け、また地面へ落ちた。

     *

 午後一時を過ぎた頃、二人は昼食の店を探して歩いていた。

「何が食べたいですか?」

 真尋が尋ねる。

 葵は少し考えた。

「比内地鶏の親子丼」

「昨日も鶏を食べましたよ」

「でも、秋田に来たから」

「では、親子丼にしましょう」

「真尋さんは?」

「私も食べたいです」

「本当に?」

「本当です」

「私に合わせてません?」

「合わせていません」

「さっき、自分の希望を言う練習を始めたので、確認しています」

「では正直に言うと、稲庭うどんも少し食べたいです」

「両方ある店を探しましょう」

 葵はスマートフォンで検索した。

 近くに、親子丼と稲庭うどんのセットを出す店がある。

「ここはどうですか?」

「いいですね」

「決まり」

 葵が歩き出す。

 少し前を歩き、途中で振り返る。

「真尋さん、こっちです」

 昨日は真尋が先を歩いていた。

 今日は葵が道を調べ、案内している。

 ほんの小さな変化。

 だが真尋には、それが嬉しかった。

 誰かに頼られるだけではなく、誰かへ任せる。

 そのことに、少しずつ慣れていく。

 二人は並んで店へ向かった。

 真尋のスマートフォンが震える。

 画面には、部下の佐伯からメッセージが届いていた。

『お休み中にすみません。資料の件は月曜日に確認します。昨日はありがとうございました。良いご旅行を』

 真尋は立ち止まらずに読んだ。

 仕事の通知は切っていたが、個人的なメッセージは届く。

 返信しようとして、少し考える。

『連絡ありがとう。月曜日に一緒に確認しましょう。週末は仕事を忘れて休んでください』

 そこまで入力し、最後に何かを付け加えたくなった。

 いつもの真尋なら、これで送る。

 だが葵との会話を思い出し、文章を一つ足した。

『私も秋田で、ちゃんと休んでいます』

 送信する。

 すぐに佐伯から、笑顔の絵文字が返ってきた。

「会社ですか?」

 葵が尋ねる。

「部下からです」

「何か問題?」

「いえ。旅行を楽しんでください、と」

「真尋さん、仕事の人にも大切にされてるんですね」

「そうだといいです」

「絶対そうです」

 葵は迷いなく言った。

 真尋はスマートフォンをしまった。

 必要とされることは、負担になる時もある。

 それでも、自分が誰かの安心になっていると知ることは嬉しい。

 仕事でも。

 友人関係でも。

 恋愛でも。

 必要とすることと、依存することは違う。

 誰かを必要としながら、自分の足で立つことはできる。

 真尋は、少しずつその可能性を信じ始めていた。

 目の前では、葵が店の看板を見つけて手を振っている。

「真尋さん、ここです」

「今、行きます」

 真尋は葵のもとへ歩いた。

 昨日まで、一人で歩くための靴だと思っていた。

 誰にも合わせず、自分の道を進むための靴。

 けれど今は、誰かと歩調を合わせるためにも、その靴があるように思えた。

 一人で立てるからこそ、隣に並べる。

 一人で歩けるからこそ、誰かと歩くことを選べる。

 幸せには、一つの形しかないと思っていた。

 一人で生きるか。

 誰かと生きるか。

 強くあるか。

 頼るか。

 そのどちらかを選ばなければならないのだと。

 けれど、その間にも無数の歩き方がある。

 自分の足で立ちながら、疲れた時には誰かの手を借りる。

 違う道を歩く日があっても、また同じ場所で待ち合わせる。

 同じ速さでなくても、同じ景色を見る。

 真尋はまだ、その答えを見つけたわけではない。

 ただ、葵と出会ってからの一日で、自分の中にあった硬い境界が、ほんの少しずつ曖昧になっていた。

「真尋さん、早く」

 葵が店の前から呼ぶ。

「お腹すきました」

「朝ご飯、あれだけ食べたのに?」

「たくさん歩いたからです」

「今、行きます」

 真尋は歩調を少し速めた。

 今度は葵が待っている。

 そのことが、思っていたよりずっと温かかった。



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