第三章 同じ朝を歩く
真尋は、障子の向こうが少しずつ明るくなっていく気配で目を覚ました。
枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
午前六時十二分。
アラームを設定していた七時より、かなり早い。
昨夜は地酒と地ビールを飲み、葵と遅くまで話していた。それでも不思議と眠気は残っていなかった。
布団の中で、しばらく天井を見つめる。
古い木の梁。
わずかに色の違う漆喰の壁。
耳を澄ますと、遠くで水の流れる音がする。
誰かが風呂を使っているのかもしれない。
東京の朝なら、目を覚ました瞬間に仕事の予定を思い出す。
会議。
部下からの報告。
返信していないメール。
起き上がる前から、頭の中で一日が始まっている。
けれど今朝は、何も急ぐ必要がなかった。
朝食は八時。
それまでは自由だ。
真尋は布団から出て、窓際へ歩いた。
カーテンを開ける。
夜の間に雨が降ったらしく、向かいの屋根が濡れていた。空は薄い灰色だが、雲の切れ間から淡い光が差している。
路地の端には、昨夜より多くの落ち葉が重なっていた。
赤い葉。
黄色い葉。
茶色く乾いた葉。
濡れた地面の上で、色だけが鮮やかに浮かんでいる。
真尋は窓を少し開けた。
冷たい空気が流れ込み、頬に触れる。
雨上がりの土と木の匂い。
東京ではなかなか感じられない、湿った朝の匂いだった。
「寒い」
小さく呟いて、すぐに窓を閉める。
真尋はカメラを手に取った。
窓越しに、濡れた屋根と路地を撮る。
朝の光は弱い。
それでも、雨上がりの静かな町には、昨日とは違う表情があった。
一枚。
もう一枚。
撮った写真を確認する。
画面の中には、誰もいない路地が写っている。
いつもの自分らしい写真だった。
人のいない道。
静かな建物。
風景の中に残る生活の痕跡。
真尋は写真を見つめたまま、昨夜の葵の言葉を思い出した。
——私、本当に真尋さんと会えてよかったです。
会ってから、まだ一日も経っていない。
互いのことを、ほとんど知らない。
それなのに葵は、まっすぐそう言った。
真尋自身も、同じ気持ちだった。
だが、誰かに会えてよかったと思うことに慣れていない。
仕事では、多くの人と出会う。
部下。
取引先。
協力会社。
新しく入社する人。
毎日、誰かと話し、誰かの考えを聞き、誰かのために判断をする。
それでも、仕事を離れた場所で、ただその人と出会えたことを嬉しいと思う機会は少なかった。
役割も利益もない関係。
今夜限りかもしれないからこそ話せること。
それが旅先の出会いなのだろう。
けれど真尋は、葵との時間を旅の思い出だけで終わらせたくないと、すでにどこかで思い始めていた。
その気持ちに気づき、真尋は戸惑った。
誰かとの距離を縮める時、真尋はいつも慎重になる。
相手がどう思っているか。
近づきすぎて迷惑ではないか。
自分だけが関係を続けたいと思っているのではないか。
そう考えるうちに、連絡する機会を失う。
友人関係でも恋愛でも、真尋は自分から手を伸ばすことが苦手だった。
拒まれた時に傷つかないよう、相手が来るのを待つ。
慎一との交際も、最初に誘ったのは彼だった。
別れた後、何度も連絡しようと思った。
けれど結局、一度もできなかった。
自分の気持ちを差し出し、受け取ってもらえなかった時の痛みを恐れたからだ。
真尋はカメラを置き、洗面所へ向かった。
顔を洗い、髪を整える。
朝食までまだ時間がある。
温泉へ行こうと思い、部屋に用意されていた浴衣へ着替えた。
廊下へ出る。
隣の撫子の部屋は静かだった。
葵はまだ眠っているのだろう。
昨夜、七時半に起きると言っていた。
真尋は足音を立てないように階段を下りた。
一階の廊下には、朝の冷たい空気が残っている。
風呂場の札を見ると、二つとも空いていた。
真尋は奥の小さな風呂を選んだ。
脱衣所には籠が二つ。
洗面台の上に、雪椿の絵が描かれた小さな鏡が掛かっている。
浴衣を脱ぎ、引き戸を開けると、白い湯気が顔を包んだ。
石造りの浴槽。
木の壁。
小さな窓の外には、濡れた庭が見える。
真尋は体を洗い、ゆっくり湯へ浸かった。
「ああ……」
思わず声が漏れる。
熱すぎない湯が、足先から肩まで包み込む。
昨日一日歩いた疲れが、少しずつほどけていった。
窓の外では、細い枝から水滴が落ちている。
湯に浸かりながら、真尋は昨夜の会話を思い返した。
自由でいたいのに、必要とされたい。
自分が口にした言葉。
あれほど素直に本音を話したのは、いつ以来だろう。
香織とは長い付き合いだ。
母ともよく連絡を取る。
職場にも信頼できる人はいる。
それでも、真尋は相手に応じて話す内容を選んでいる。
香織には、独身生活が楽しいと話す。
母には、仕事が順調だから心配しなくていいと言う。
職場では、迷いのない上司でいる。
どれも嘘ではない。
ただ、自分の一部分だけを見せている。
葵には、なぜあれほど簡単に弱さを話せたのだろう。
年齢が離れているからか。
旅先だからか。
もう二度と会わないかもしれないと思ったからか。
真尋は湯の中で手を広げた。
指先が少し赤くなっている。
真尋の人生は、一人で立つための練習の積み重ねだった。
若い頃は、誰かに負けないために。
仕事を続けるために。
傷つかないために。
自分の機嫌を自分で取り、問題は自分で解決し、寂しさも自分で引き受ける。
そうしていれば、誰かに失望しなくて済む。
だが昨夜、葵と話している時だけは、何かを自分一人で抱えなくてもいいような気がした。
答えをもらったわけではない。
問題が解決したわけでもない。
ただ、自分とは違う人生を歩いてきた人が、隣で頷いてくれた。
それだけで、胸の中にあったものの重さが少し変わった。
誰かといることは、相手に人生を任せることではない。
重い荷物をすべて持ってもらうことでもない。
ほんの少しだけ、一緒に持ってもらうことなのかもしれない。
真尋は肩まで湯へ沈んだ。
*
部屋へ戻る途中、二階の廊下で撫子の襖が開いた。
浴衣姿の葵が、眠そうな顔を出す。
「あ」
「おはようございます」
「真尋さん、もう起きてたんですか」
「今、お風呂から戻ったところです」
「何時から起きてるんですか?」
「六時過ぎです」
葵は目を丸くした。
「早すぎません?」
「自然に目が覚めました」
「私、アラーム止めた記憶があります」
「今、七時二十分ですよ」
「えっ」
葵が慌てて部屋の中へ戻り、スマートフォンを確認する。
「本当だ。七時半に起きるつもりだったのに」
「まだ十分ありますよ」
「十分しかないです」
「朝食は八時です」
「朝食の前にお風呂に入りたかったんです」
「急げば間に合います」
「真尋さんなら間に合うでしょうけど、私は無理です」
「昨日、自分で急げば支度は十分だと言っていましたよ」
「それは服を着るだけの話です」
葵は困ったように髪へ触れた。
寝癖で片側だけ外へ跳ねている。
真尋は笑いそうになり、口元を押さえた。
「今、笑いました?」
「笑っていません」
「絶対笑いました」
「少しだけ」
「ひどい」
「寝癖が」
葵はさらに慌てて髪を押さえた。
「そんなに変ですか?」
「かわいいですよ」
何気なく言った後、真尋は自分の言葉に少し驚いた。
職場の部下に対して、外見をかわいいと言うことはない。
同年代の友人にも、ほとんど言わない。
葵は一瞬、目を丸くしてから、嬉しそうに笑った。
「真尋さんに褒められた」
「寝癖を褒めたわけではありません」
「でも、かわいいって」
「早くお風呂へ行かないと間に合いませんよ」
「話をそらしましたね」
葵は笑いながら、部屋へ引っ込んだ。
「着替えを取ってきます。真尋さん、先に朝食へ行かないでくださいね」
「待っています」
「約束ですよ」
「はい」
襖が閉まる。
真尋は自分の部屋へ戻った。
鏡の前に座り、化粧をする。
いつもより少し薄く整える。
旅先で誰かと一緒に朝食を食べる。
ただそれだけなのに、自分が少し浮き立っていることに気づく。
真尋はその感情を、今度は否定しなかった。
*
八時を少し過ぎて、二人は一階の食事処へ入った。
六つの小さなテーブルが並ぶ部屋。
窓の外には庭が見える。
奥の席には、年配の夫婦と若い男性が一人で座っていた。
女将が二人を案内する。
「こちらへどうぞ」
窓際のテーブルには、すでに朝食が用意されていた。
焼き鮭。
卵焼き。
ほうれん草のおひたし。
大根の漬物。
小さな湯豆腐。
炊きたてのご飯と味噌汁。
葵は席につくなり、目を輝かせた。
「すごい。朝からちゃんとしたご飯」
「普段は何を食べてるんですか?」
「ヨーグルトか、コンビニのおにぎりです」
「それで昼まで持ちます?」
「持たないので、会社でお菓子を食べます」
「効率が悪いですね」
「朝ご飯を作る時間がないんです」
「洗濯物を畳まない時間を使えばいいのでは」
「朝から厳しい」
葵が頬を膨らませる。
真尋は笑いながら、手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
味噌汁から湯気が立つ。
一口飲むと、出汁のやさしい味が口に広がった。
「おいしい」
葵が小さく声を上げる。
「味噌が少し甘いですね」
「真尋さん、味の違いがわかる人なんですね」
「このくらいはわかります」
「ワインとかも詳しいですか?」
「全然」
「昨日の地酒も詳しそうにしてたのに」
「店主に勧められたものを飲んだだけです」
「真尋さんって、なんでも知ってそうに見えます」
「また勝手に完璧な人へ戻していますね」
「でも、知らないって言えるのも格好いいです」
「何を言っても褒めますね」
「憧れてるので」
葵は悪びれずに言い、焼き鮭をほぐした。
真尋は照れくささを隠すように、湯豆腐へ箸を伸ばした。
誰かに憧れられることは、責任を伴う。
職場で若い女性社員から、真尋のように仕事を続けたいと言われることがある。
そのたびに嬉しいと思う一方、自分が間違えられないような息苦しさも感じていた。
けれど葵の憧れには、もう少し柔らかいものがある。
真尋の強さだけではなく、迷いも含めて見ている。
だから、無理に立派な人でいなくてもいいと思えた。
「今日はどうしましょうか」
真尋が尋ねる。
葵は味噌汁の椀を置いた。
「昨日行けなかったところを、もう少し歩きたいです」
「武家屋敷ですか?」
「はい。あと、川沿いも歩いてみたいです」
「私も同じです」
「じゃあ、一緒に行きませんか」
「そうしましょう」
葵は嬉しそうに笑った。
「こんなに簡単に決まるんですね」
「何がですか?」
「友達と旅行すると、どこに行くか決めるだけで時間がかかるので」
「行きたい場所が同じなら、すぐ決まります」
「違ったら?」
「別行動にすればいいでしょう」
「友達との旅行で別行動って、ありですか?」
「ありだと思います」
「相手が寂しくないですか?」
「旅行中ずっと一緒にいなければ友達ではない、ということではないでしょう」
「真尋さんらしい」
「またそれですか」
「でも、いい考え方だなって」
葵は卵焼きを一口食べた。
「私、友達と旅行すると、すごく疲れるんです」
「気を使うから?」
「そうです。行きたい場所を聞かれると、どこでもいいって言っちゃうし。食べたいものも合わせるし。夜は早く寝たいのに、話し続けたり」
「自分の希望を言わないんですね」
「嫌われたくないから」
葵はあっさりと言った。
真尋は箸を止めた。
「それで疲れて、一人旅へ?」
「それも少しあります」
「彼氏には希望を言えますか?」
葵の表情がわずかに曇った。
「前は、言えてたと思います」
「今は?」
「最近は、言う前に考えます」
「何を?」
「面倒だと思われないか」
昨夜より静かな声だった。
「会いたいって言って、忙しいと言われたら、次は言いにくくなるじゃないですか。電話したいと言って、疲れてるからって断られたら、もう電話しないほうがいいのかなって」
「葵さん」
「はい」
「相手を気遣うことと、自分の気持ちを消すことは違いますよ」
葵は真尋を見た。
「でも、相手が忙しいのに自分の気持ちばかり言うのも違うでしょう?」
「もちろんです。ただ、言わなければ相手には伝わりません」
「伝えたら、重いと思われるかもしれない」
「それで離れていく相手なら、黙っていてもいつか苦しくなるのでは?」
葵は答えなかった。
箸で焼き鮭の身を細かくほぐしている。
真尋は言い過ぎたかと思った。
恋人との関係を詳しく知らない。
昨夜、少し話を聞いただけだ。
葵の恋人にも事情があるのだろう。
忙しいだけかもしれない。
真尋は自分の経験を重ねすぎているのかもしれなかった。
「ごめんなさい。余計なことを言いました」
「いえ」
葵は首を振った。
「たぶん、真尋さんの言う通りです」
その時、テーブルの端に置いてあった葵のスマートフォンが震えた。
葵は画面を見た。
一瞬で表情が変わる。
期待。
安堵。
そして、すぐに戸惑い。
真尋は何も尋ねず、ご飯を口へ運んだ。
葵はメッセージを開き、短く返信した。
スマートフォンを伏せる。
「彼ですか?」
真尋が聞くと、葵は小さく頷いた。
「はい」
「昨日は連絡がなかったんですよね」
「朝、送ったんです。秋田に着いたって」
「返事が来た?」
「今」
「何て?」
聞いてから、真尋はまた踏み込みすぎたと思った。
だが葵は画面を見つめたまま答えた。
「楽しんできて、って」
それだけなのだろう。
文面としては、何もおかしくない。
旅行へ来た恋人へ送る言葉として、自然だ。
けれど葵が期待していたのは、それだけではないのだと真尋にはわかった。
誰と行っているのか。
一人で大丈夫か。
寒くないか。
写真を見せてほしい。
帰ったら会おう。
そういう言葉を待っていたのだろう。
「何か、聞きたいことがあった?」
「昨日、喧嘩したまま出てきたので」
葵は無理に笑った。
「少しくらい心配してくれるかなって思ってました」
「心配していないとは限りませんよ」
「わかってます」
「文章が短い人もいますから」
「前は、もっと聞いてくれたんです」
葵の声がさらに小さくなる。
真尋は何も言えなかった。
人の気持ちが離れていく時、最初に現れるのは大きな裏切りではない。
返信が短くなる。
会う回数が減る。
こちらの話への質問がなくなる。
かつて自然に行われていた小さなやり取りが、一つずつ消えていく。
それだけに、理由を問い詰めることも難しい。
忙しいだけ。
疲れているだけ。
考えすぎ。
そう言われれば、こちらが面倒な人間に思えてくる。
「何て返したんですか?」
「うん、ありがとうって」
「それだけ?」
「それ以上、何て言えばいいかわからなくて」
葵はスマートフォンをバッグへ入れた。
「せっかくの旅行だから、今は考えないことにします」
明るく言ったが、その声は少し硬かった。
真尋は葵の決意を否定しなかった。
「そうですね。まずは朝ご飯を食べましょう」
「はい」
「卵焼き、冷めますよ」
「真尋さん、こういう時、無理に励まさないんですね」
「励ましてほしいですか?」
「いえ」
葵は首を振った。
「それが、ありがたいです」
二人は再び箸を動かした。
窓の外では、葉の先から水滴が落ちている。
同じテーブルを囲んでいても、相手の心の中まですべて見えるわけではない。
真尋はそれでいいと思った。
誰かを支えることは、正しい言葉を与えることではない。
話したくなるまで、隣にいることも支えになる。
*
朝食を終え、二人は部屋へ戻って支度をした。
午前九時過ぎ、玄関前で待ち合わせる。
真尋は黒いパンツに白いニット、長いグレーのコート。
葵は昨日と同じベージュのコートに、淡い黄色のマフラーを巻いている。
「今日は寝癖、大丈夫ですか?」
葵が自分の髪を触る。
「大丈夫です」
「本当ですか?」
「本当です」
「真尋さん、たまに適当に答えそうだから」
「信用がありませんね」
「仕事のことは信用してます」
「それ以外は?」
「これから確かめます」
昨日と同じ言葉だった。
真尋は笑い、宿の引き戸を開けた。
外へ出る。
朝の町は、雨上がりの光に包まれていた。
雲はまだ残っているが、時折、陽射しが地面を照らす。
濡れた落ち葉が光り、黒い塀の色が昨日より濃く見えた。
「きれい」
葵が小さく言った。
「昨日とは違いますね」
「雨が降ってよかったかも」
「晴れだけが良い天気ではないですからね」
「それ、写真を撮る人の考え方ですか?」
「旅をする人の考え方です」
二人は並んで歩き始めた。
同じ道でも、昨日一人で歩いた時とは景色が違って見える。
隣に葵がいる。
それだけで、真尋は自分の外側にも意識が向く。
葵が何に足を止めるのか。
何を見て笑うのか。
どんなものを美しいと思うのか。
一人の時、真尋は自分の視線だけで町を見る。
誰かと歩くと、その人の視線を通じて、見落としていたものに気づく。
「あ、見てください」
葵が道端を指した。
古い家の軒下に、小さな木彫りの猫が置かれている。
昨日、真尋は同じ道を歩いたはずだが、気づかなかった。
「かわいい」
「写真、撮らないんですか?」
「撮ります」
真尋はカメラを構えた。
木彫りの猫の向こうに、濡れた格子戸がある。
シャッターを切る。
「葵さんが見つけなかったら、通り過ぎていました」
「私も役に立ちますね」
「十分、役に立っています」
「真尋さんに認められた」
「大げさです」
葵はスマートフォンでも猫を撮った。
そのまま画面を見つめる。
真尋は、恋人へ送るのだろうかと思った。
だが葵は誰にも送らず、スマートフォンをしまった。
昨日までなら、すぐ彼へ写真を送っていたのかもしれない。
真尋は何も言わなかった。
武家屋敷通りへ着くと、昨日より観光客が少なかった。
朝の早い時間だからだろう。
濡れた黒塀の道を、二人はゆっくり歩いた。
真尋は時々立ち止まり、カメラを向ける。
葵は急かさず、その間に別の景色を見たり、自分のスマートフォンで写真を撮ったりしている。
「待たせていませんか?」
何度目かに真尋が尋ねると、葵は首を振った。
「全然。真尋さんが何を撮るのか見るの、楽しいです」
「人に見られていると撮りにくいです」
「じゃあ、見ないふりします」
葵は背を向けた。
「そこまでしなくても」
「自由に撮ってください」
真尋は笑いながら、再びカメラを構えた。
雨粒の残る楓の葉。
黒塀に落ちる細い影。
水たまりへ映る赤い木。
昨日より光が柔らかい。
真尋がシャッターを切っていると、少し離れたところから声がした。
「真尋さん」
顔を上げる。
葵が紅葉の木の下に立っていた。
「昨日みたいに、また撮ってもらってもいいですか?」
「もちろん」
真尋は葵へカメラを向けた。
「スマートフォンじゃなくて、そのカメラで撮ってほしいです」
「私のカメラで?」
「はい。後で送ってもらえますか?」
後で送る。
そのためには、連絡先を交換する必要がある。
真尋は、その言葉だけで少し胸が温かくなった。
「いいですよ」
「やった」
「自然に立ってください」
「自然が一番難しいです」
「では、あちらを見て」
真尋が指した先へ、葵が顔を向ける。
風が吹き、髪が揺れる。
真尋はシャッターを切った。
昨日より表情が柔らかい。
けれど目の奥には、わずかな寂しさがある。
朝のメッセージの影が残っているのかもしれない。
その表情まで、美しいと思った。
笑顔だけが、その人の魅力ではない。
迷っている顔。
何かを堪えている横顔。
ふと気を抜いた瞬間。
そこに、その人らしさが現れる。
「今度は、こちらを見てください」
葵がカメラを見る。
「笑ったほうがいいですか?」
「どちらでも」
「それが困るんです」
「では、私ではなく、後ろの紅葉を見て」
葵が少し笑いながら振り返る。
その瞬間を撮る。
「今のはいいと思います」
「見せてください」
葵が駆け寄ってくる。
カメラの画面を二人で覗き込む。
肩が触れそうな距離。
「すごい」
葵が息を漏らす。
「私じゃないみたい」
「葵さんですよ」
「でも、こんな顔するんだ」
葵は写真をじっと見つめた。
「自分の顔なのに、知らない顔みたいです」
「写真は、本人が見ていない瞬間を残しますから」
「真尋さんには、こう見えてるんですか?」
思いがけない質問だった。
真尋は画面の中の葵を見る。
雨上がりの紅葉。
少し風に乱れた髪。
無理に作っていない笑顔。
若さの明るさと、その奥にある迷い。
「そうですね」
真尋は答えた。
「明るいけど、それだけではない人に見えます」
「それだけではない?」
「ちゃんと悩んで、考えている人です」
葵は真尋を見た。
少しだけ目が潤んでいるように見えた。
「ありがとうございます」
「どうしてお礼を?」
「わからないです。でも、そう言ってもらえて嬉しかったから」
真尋はカメラを下ろした。
「後で写真を送ります」
「連絡先、交換してもらってもいいですか?」
「もちろん」
二人は道の端へ寄り、スマートフォンを取り出した。
葵がQRコードを表示する。
真尋が読み取る。
画面に「小野寺葵」と表示された。
アイコンは、海辺で撮ったらしい後ろ姿の写真だった。
「追加しました」
「私も」
葵からすぐにメッセージが届く。
『葵です。よろしくお願いします!』
最後に小さな紅葉の絵文字がついている。
真尋は少し迷い、返信した。
『真尋です。こちらこそよろしくお願いします』
普段なら、絵文字はほとんど使わない。
だが葵のメッセージに合わせて、同じ紅葉の絵文字を一つ添えた。
「真尋さん、絵文字使うんですね」
葵が画面を見て笑う。
「使うこともあります」
「仕事の連絡でも?」
「会社では使いません」
「じゃあ、特別ですね」
「一つ使っただけです」
「でも特別」
葵は嬉しそうにスマートフォンをしまった。
特別。
その言葉に、真尋は照れくささを覚えた。
だが嫌ではなかった。
*
二人は武家屋敷の一つへ入った。
古い木造の建物。
磨かれた廊下。
畳の部屋。
庭へ面した縁側。
昨日、真尋が一人で訪れた場所とは別の屋敷だった。
展示された道具を見ながら、葵は一つひとつ説明を読む。
真尋は、葵が想像していたより丁寧に見学することを知った。
「こういうの、好きなんですか?」
「歴史は詳しくないですけど、人が住んでた場所を見るのが好きです」
「私もです」
「本当ですか?」
「そこでどんな生活をしていたのか、想像するのが好きで」
「真尋さんと私、意外と好みが合いますね」
「意外ですか?」
「年齢が違うから、もっと違うと思ってました」
「十一歳くらいで、人の好みが全部変わるわけではありません」
「でも、小学生と大学生くらい違いますよ」
「その例えはやめてください」
葵が笑う。
二人は奥の座敷へ進んだ。
庭に面した窓から、薄い陽射しが入っている。
畳の上には、木の影が長く伸びていた。
「ここで暮らすの、大変だったでしょうね」
葵が言う。
「冬は寒そうですね」
「暖房も今みたいにないし」
「夜は暗かったでしょうね」
「でも、家族は多かったのかな」
葵は広い座敷を見回した。
「一人になれる場所、少なそう」
「葵さんは、一人になる場所が必要ですか?」
「必要です」
答えは早かった。
「実家にいた時、自分の部屋に誰かが入るのが嫌でした。母が洗濯物を置きに来るだけでも」
「それなら、誰かと暮らすのは大変ですね」
「そうなんです。結婚したいって思うのに、一緒に暮らすのは想像できなくて」
「わかります」
「真尋さんも?」
「誰かが家にいる状態が、もう想像できません」
「でも、朝起きた時に誰かがいたら、少し嬉しくないですか?」
「毎日ですか?」
「毎日」
真尋は考えた。
慎一と付き合っていた頃、週末に泊まりに来ることがあった。
先に目を覚ました彼が、キッチンでコーヒーを淹れている。
その音を布団の中で聞くのが好きだった。
目を開けなくても、一人ではないとわかる。
あの安心を、真尋は覚えている。
「嬉しい日もあるでしょうね」
「嬉しくない日も?」
「一人で静かにしたい日もあります」
「じゃあ、別々の部屋があればいいのかな」
「それなら暮らせるかもしれません」
「結婚しても別々の部屋」
「いいと思います」
「世間では、仲が悪いって思われそう」
「世間が一緒に暮らすわけではないでしょう」
葵は少し黙り、それから笑った。
「それ、好きです」
「何が?」
「世間が一緒に暮らすわけじゃない」
「事実ですから」
「真尋さんと話してると、自分が勝手に決めてたことに気づきます」
「何を決めていたんですか?」
「結婚したら、毎日一緒にいて、同じ部屋で寝て、休日も一緒に過ごすものだって」
「そういう人もいます」
「でも、そうじゃなくてもいい」
「二人が納得していれば」
「彼は、どう思うかな」
葵の声が少し変わった。
真尋は彼女の横顔を見る。
朝のメッセージ以来、葵は恋人の話を避けていた。
だが何を見ても、考えても、結局は彼との未来へつながるのだろう。
二年付き合った相手。
一緒にいた時間が長いほど、その人を抜きにして将来を考えることは難しい。
「聞いてみたことは?」
「ないです」
「どうして?」
「結婚の話だと思われそうだから」
「結婚の話でしょう?」
「そうですけど」
葵は縁側へ腰を下ろした。
真尋も隣へ座る。
庭には、雨に濡れた苔が広がっている。
風が吹くと、赤い葉が一枚、石の上へ落ちた。
「彼、前は結婚したいって言ってたんです」
「いつ頃?」
「付き合い始めた頃。いつか結婚したいねって」
「葵さんと?」
「たぶん。私と、というより、将来は結婚したいって感じでしたけど」
「今は言わない?」
「はい」
「何かきっかけがあったんですか?」
葵は膝の上で手を組んだ。
「半年前に、彼の仕事が変わったんです」
「転職?」
「同じ会社の中で部署が変わって。忙しくなって、出張も増えて」
「それから連絡が減った?」
「少しずつ」
「会う回数も?」
「前は毎週会ってたのに、今は月に二回くらいです」
「忙しいなら、仕方がない部分もありますね」
「そうなんです。だから私も我慢しなきゃって」
「彼から会おうと言うことは?」
葵は少し間を置いた。
「最近は、私からが多いです」
真尋はそれ以上聞かなかった。
葵自身、気づいているのだろう。
関係の重さが、片方へ偏り始めていることに。
だが、気づくことと認めることは違う。
認めれば、何かを決めなければならない。
葵はまだ、決めたくないのだ。
「真尋さん」
「はい」
「好きな人の気持ちが離れてるかもしれない時って、どうしたらいいですか?」
真尋は庭を見た。
自分の経験から答えるなら、早く聞いたほうがいい。
曖昧なまま時間を過ごしても、苦しさが増えるだけだ。
けれど、正しさだけで人は動けない。
「まずは、自分がどうしたいかを考えることだと思います」
「彼の気持ちじゃなくて?」
「彼の気持ちは、葵さんには決められません」
「でも、彼が別れたいなら」
「葵さんは別れたいですか?」
「別れたくないです」
葵はすぐに答えた。
その声には迷いがなかった。
「だったら、別れたくないと言っていいと思います」
「重くないですか?」
「二年付き合った相手に、自分の気持ちを言うことが重いなら、何を話せるんですか」
葵は俯いた。
「でも、言っても気持ちが戻らなかったら」
「それは、つらいでしょうね」
「怖いです」
「怖くて当然です」
「真尋さんなら、聞けますか?」
真尋は答えに詰まった。
慎一が別れを告げる前、真尋も彼の気持ちが離れていることに気づいていた。
連絡が減った。
会話が短くなった。
以前なら笑っていたことに、笑わなくなった。
だが真尋は、聞かなかった。
聞けば終わる気がしたからだ。
結局、先延ばしにしただけだった。
「私も、聞けなかったことがあります」
「その人と、別れたんですか?」
「はい」
「聞いていたら、変わったと思いますか?」
「わかりません」
真尋は正直に答えた。
「でも、少なくとも、自分の気持ちを伝えなかったことは後悔しました」
葵は庭を見つめた。
「真尋さんも、後悔するんですね」
「たくさんしますよ」
「でも、後悔しないように生きてそう」
「そんな人はいません」
「そうですよね」
葵は小さく笑った。
「私、真尋さんなら答えを知ってる気がしてました」
「私は十一年長く生きているだけです」
「十一年あれば、いろいろわかると思ってました」
「わかることもあります。でも、わからないことも増えます」
「増えるんですか?」
「選択した結果を知るからです」
葵が真尋を見る。
「若い頃は、選ばなかった道のことをあまり考えませんでした。前へ進めば、それが正しいと思えた。でも今は、別の選択をした自分を想像することがあります」
「結婚していた自分?」
真尋は少し驚いた。
昨夜の会話から察したのだろう。
「そうですね」
「結婚したかったですか?」
「したい時もありました」
「今は?」
「わかりません」
二人は顔を見合わせた。
「また同じですね」
葵が言う。
「わからないことばかりです」
「でも、真尋さんと話すと、わからないままでもいい気がします」
「私もです」
真尋は庭へ視線を戻した。
一人で考えていると、答えが出ないことは不安になる。
誰かと話していると、答えが出なくても、その問いを持っていていいと思える。
それが不思議だった。
*
屋敷を出た後、二人は川沿いへ向かった。
雲が薄くなり、空に青い部分が見え始めている。
川の水は冷たそうに澄み、流れに沿って落ち葉が運ばれていた。
遊歩道を歩く人は少ない。
二人の足音と、川の音だけが聞こえる。
「真尋さん、歩くの速いですね」
葵が少し後ろから言った。
「速かったですか?」
「会社でもこんな感じですか?」
「たぶん」
「部下の人、大変そう」
真尋は足を止めた。
「合わせます」
「大丈夫です。私ももう少し速く歩きます」
「無理に合わせなくていいですよ」
「でも、真尋さんを待たせるのも」
「私は待てます」
真尋は葵の隣へ戻った。
「一緒に歩くなら、速いほうが少し遅く歩けばいいでしょう」
「それ、真尋さんが疲れません?」
「このくらいでは疲れません」
二人は歩き出す。
今度は葵の歩調に合わせる。
一歩の幅が少し小さくなる。
普段なら、目的地へ早く着くことを考える。
だが旅では、歩いている時間そのものが目的でもある。
「真尋さん」
「はい」
「昨日、一人旅は自分のペースで歩けるのがいいって言ってましたよね」
「言いました」
「今は、私に合わせてます」
「嫌ですか?」
「うれしいです」
葵は少し照れたように笑った。
「でも、一人の自由を邪魔してないかなって」
「私が嫌なら、別に歩きます」
「はっきりしてる」
「無理に合わせて、後から不満に思うほうが嫌なので」
「私、それができないんです」
「練習すればいいですよ」
「どうやって?」
「小さなことから、自分の希望を言う」
「例えば?」
真尋は周囲を見た。
少し先に、小さな橋がある。
反対側には、川沿いの道が続いている。
「この先、橋を渡るか、このまま川沿いを歩くか。葵さんが決めてください」
「どちらでもいいです」
「それを禁止します」
「禁止?」
「今、自分がどちらへ行きたいか考えてください」
葵は困った顔をした。
「どっちでも楽しそうです」
「より行きたいほう」
「うーん」
葵は橋と川沿いを交互に見る。
「橋を渡りたいです」
「では、渡りましょう」
「こんなことでいいんですか?」
「最初はこんなことでいいです」
「でも、真尋さんは川沿いを歩きたかったかもしれない」
「私はどちらでもよかったです」
「それなら、私と同じじゃないですか」
「私は本当にどちらでもよかった。葵さんは、橋を渡りたいと思っていたのに言わなかった」
葵はしばらく考え、頷いた。
「なるほど」
二人は橋へ向かった。
小さな木造の橋。
中央まで行くと、川の流れがよく見える。
葵は欄干へ手を置き、下を覗いた。
「きれい」
水面に空の青が映っている。
落ち葉が一枚、流れていく。
真尋はカメラを構えた。
「葵さん、そこにいてください」
「私も入るんですか?」
「後ろ姿だけ」
「はい」
葵が川を見る。
真尋は橋の上に立つ葵と、流れる水を一緒に収めた。
昨日まで、真尋の写真には人がほとんど写っていなかった。
風景だけを撮ることが多かった。
だが今、画面の中に葵がいることで、川の広さや朝の冷たさまで伝わるように見えた。
人がいると、景色が狭くなると思っていた。
実際には、人の存在が景色へ物語を与えることもある。
「撮れました?」
「はい」
「見せてください」
葵が近づく。
画面を見て、静かに笑った。
「これ、好きです」
「顔は写っていませんよ」
「だから好きなのかも」
「どうして?」
「誰でもない人みたいで」
葵は写真を見つめる。
「今の私じゃなくて、旅の途中にいる誰かみたいです」
「今の葵さんも、旅の途中でしょう」
「そうですね」
「二十五歳なら、まだ始まったばかりです」
「三十六歳は?」
真尋は少し考えた。
「同じく、途中です」
「よかった」
「何がですか?」
「真尋さんも途中なら、私だけ置いていかれた感じがしないから」
「誰に置いていかれたんですか?」
「友達とか、同僚とか」
葵は橋の向こうを見た。
「結婚した友達。仕事を辞めて留学した友達。昇進した同僚。みんな、ちゃんと次へ進んでるように見えるんです」
「葵さんも働いて、一人で秋田まで来ています」
「でも、何も決められてない」
「進むことは、何かを決めることだけではありません」
「そうですか?」
「立ち止まって考えることも、進むために必要でしょう」
葵は真尋を見る。
「真尋さんは、今、立ち止まってますか?」
「少し」
「何を考えてるんですか?」
「これから、どう生きたいか」
「仕事を続けるか?」
「それもあります」
「恋愛は?」
「それも」
「結婚は?」
「質問が多いですね」
「真尋さんのこと、知りたいので」
葵は悪びれずに言った。
知りたい。
その言葉が、真尋の胸へ温かく届く。
誰かが自分を知りたいと思ってくれること。
役職でも、経歴でもなく。
何を考え、何を怖がり、何を望んでいるのか。
それを知ろうとしてくれる人がいる。
「まだ、私もわかりません」
真尋は答えた。
「ただ、今まで通りでいいのかを考えるようになりました」
「何かきっかけがあったんですか?」
「大きなことは何も」
「じゃあ、どうして?」
「何も変わらないまま、時間だけが過ぎていると感じるからです」
葵は静かに聞いている。
「今の生活は好きです。仕事も好き。一人旅も、一人の部屋も。でも、このまま十年後も同じだったら、その時も好きだと言えるのか、わからなくなってきました」
「誰かと暮らしたい?」
「そうかもしれません」
「恋人が欲しい?」
「そうかもしれない」
「でも怖い?」
「はい」
真尋は認めた。
「自分の生活へ誰かを入れて、また失うのが怖いです」
「失う前提なんですね」
葵の言葉に、真尋は立ち止まった。
確かにそうだった。
誰かと出会うことを考える前に、別れる時を想像している。
幸せになる可能性より、失う痛みを先に考える。
「そうですね」
「私は、逆かも」
「逆?」
「ずっと続くと思いすぎるんです。だから、変わってきた時に受け入れられない」
二人は橋の上で向き合った。
片方は、終わりを恐れて始められない。
片方は、終わりを認められずにしがみつく。
違うようで、根にあるものは同じなのかもしれない。
失うことが怖い。
「私たち、足して二で割れたらいいですね」
葵が言う。
真尋は笑った。
「本当に」
「真尋さんは、もう少し始まりを信じる。私は、終わることもあるって覚える」
「後半は、少し寂しいですね」
「でも、終わるからって始めなかったら、何も残らないでしょう?」
真尋は葵を見た。
昨日、恋をしてよかったと言った葵。
まだ恋人との関係に悩み、傷つくことを怖がっている。
それでも、始めなければ何も残らないと言える。
その若さを、真尋はやはり眩しいと思った。
だが今度は、単純な羨望ではなかった。
葵の強さの奥に、傷つきやすさがあると知っている。
だからこそ、その言葉を大切に受け取りたいと思った。
「覚えておきます」
「何を?」
「始めなければ、何も残らない」
「私、いいこと言いました?」
「時々は」
「真尋さんの真似しましたね」
「気のせいです」
二人は橋を渡った。
*
昼前になると、観光客が増え始めた。
二人は川沿いの小さな喫茶店へ入った。
木枠の窓。
古いレコード。
壁には、角館の四季を写した写真が並んでいる。
真尋はブレンドコーヒー。
葵はミルクティーとアップルパイを頼んだ。
「真尋さんも食べます?」
「少しだけ」
「少しって、どのくらい?」
「一口」
「遠慮しないで半分食べてください」
「葵さんが食べたいでしょう」
「朝ご飯をちゃんと食べたので、半分で十分です」
「では、半分」
アップルパイが運ばれてくると、葵はナイフで丁寧に二つへ分けた。
片方を真尋の皿へ載せる。
「こういうの、久しぶりです」
真尋が言う。
「アップルパイ?」
「食べ物を分けること」
「会社の人と食事しないんですか?」
「しますけど、こういう感じでは」
「こういう感じ?」
「最初から二人で分けようとする感じです」
葵は少し不思議そうにした後、笑った。
「じゃあ、これからいっぱい分けましょう」
これから。
またその言葉だった。
真尋は、葵が自然に未来の話をすることを嬉しく思った。
「東京へ戻ってからも?」
真尋は自分から尋ねた。
葵は一瞬、驚いたように目を見開いた。
「もちろんです」
「では、今度は東京で食事でも」
「行きたいです」
「忙しくなければ」
「絶対、時間を作ります」
「無理はしなくていいですよ」
「真尋さんは、すぐ逃げ道を作りますね」
「逃げ道?」
「忙しかったら、無理しなくていい。気が変わったら、別でもいい。相手が断りやすいようにしてる」
真尋は言葉を失った。
葵はフォークでアップルパイを切りながら続ける。
「優しいんだと思います。でも、真尋さんが本当に会いたいのか、わからなくなります」
「会いたいですよ」
真尋は思ったより早く答えていた。
葵が顔を上げる。
「東京でも、また会いたいです」
言葉にすると、胸の中が少し軽くなった。
拒まれることを恐れ、いつも曖昧な言い方をしてきた。
相手が断っても傷つかないように。
自分はそこまで望んでいなかったと思えるように。
けれど今は、会いたいと伝えたかった。
葵はゆっくり笑った。
「私も会いたいです」
「よかった」
「真尋さん、今ちょっと安心しました?」
「しました」
「素直」
「練習しています」
「何の?」
「自分の希望を言う練習です」
「私に教えながら、自分も?」
「はい」
葵は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、一緒に練習しましょう」
「何を?」
「自分の気持ちをちゃんと言うこと」
「そうですね」
二人はアップルパイを食べた。
温かい林檎。
薄いシナモンの香り。
サクサクしたパイ。
一人で食べても美味しいだろう。
けれど半分に分けたことで、葵が美味しいと笑う顔まで味の一部になったように感じる。
真尋はコーヒーを飲んだ。
苦みの後に、わずかな甘さが残る。
誰かと分けることは、自分の取り分が減ることだと思っていた。
時間も。
空間も。
自由も。
けれど分けることで、増えるものもある。
同じものを味わった記憶。
美味しいと言い合った時間。
一人では生まれなかった会話。
真尋は、そんな当たり前のことを、今さら知り始めていた。
葵のスマートフォンが、再び震えた。
葵の表情が固まる。
画面を見て、しばらく動かなかった。
「どうしました?」
真尋が尋ねる。
葵は画面から目を離さない。
「彼からです」
「何て?」
「今日、帰ってくるのかって」
「葵さんは明日までですよね」
「はい。伝えてあります」
葵はメッセージを開いた。
「忘れてたみたいです」
「忙しいから、勘違いしたのかもしれません」
「そうですよね」
葵はそう言ったが、指は返信画面の上で止まっていた。
やがて短く文字を打つ。
『明日帰るよ。前に送ったと思う』
送信する。
すぐに既読がついた。
返信も早かった。
葵は画面を見たまま、顔色を変えた。
「どうしたんですか?」
「今夜、会おうと思ってたって」
「明日帰ると伝えていたのに?」
「たぶん、忘れてただけです」
葵は自分に言い聞かせるように繰り返した。
「でも、会おうと思ってくれてたんだ」
嬉しそうに笑おうとする。
その笑顔があまりに不安定で、真尋は胸が痛くなった。
「何か、気になることがあるんですね」
真尋が言うと、葵は目を伏せた。
「昨日まで、今週は忙しいから会えないって言ってたんです」
「それが、急に今夜?」
「はい」
「予定が空いたのかもしれません」
「そうですよね」
葵はまた同じ言葉を口にした。
だが、自分でも信じ切れていない。
真尋にはわかった。
葵は返信した。
『明日の夕方には東京に戻るよ』
しばらくして、彼から返事が届く。
葵はその画面を見たまま、動かなかった。
「葵さん?」
「明日は無理だって」
声が震えている。
「予定があるから」
「そうですか」
「今夜だけ、急に空いたって」
葵はスマートフォンを伏せた。
「変ですよね」
真尋はすぐに否定できなかった。
確かに不自然ではある。
だが事情を知らないまま、相手を疑うこともできない。
「何か理由があるかもしれません」
「そうですよね」
葵は頷いた。
「考えすぎですよね」
真尋は葵を見た。
ここで大丈夫だと言えば、葵は一時的に安心するかもしれない。
だが、その言葉に責任は持てない。
「考えすぎかどうかは、今はわかりません」
「真尋さん」
「でも、葵さんが不安に感じていることは事実です」
葵の目に涙が浮かぶ。
「せっかく楽しかったのに」
「旅行が?」
「はい」
「今も楽しくないですか?」
「楽しいです。でも、彼から連絡が来ると、全部そっちに持っていかれる」
葵は唇を噛んだ。
「自分でも嫌です。せっかく秋田まで来て、真尋さんと会えて、きれいな景色を見てるのに。彼の一言で気持ちが全部変わる」
「それだけ好きなんでしょう」
「でも、こんなの苦しいです」
「そうですね」
「真尋さんは、誰かにこんなに振り回されたことありますか?」
真尋は慎一を思い出した。
彼の返信を待った夜。
別れが近づいていると気づきながら、何も聞けなかった日々。
仕事をしている間も、スマートフォンが震えるたびに彼ではないかと確認した。
自分も同じだった。
「あります」
「真尋さんも?」
「好きなら、振り回されます」
「でも、真尋さんは自分を保てそう」
「保てているように見せていただけです」
「どうしたら、こんなに苦しくならなくなりますか?」
真尋は答えを探した。
恋人から距離を置く。
別れる。
自分の生活を充実させる。
よく聞く助言はいくつもある。
けれど、気持ちは理屈で切り替わらない。
「相手より、自分を大切にすることだと思います」
「それができないんです」
「すぐにはできなくても、自分が苦しいと感じていることを無視しない」
「でも、私が我慢すれば続くかもしれない」
「我慢しなければ続かない関係を、葵さんは続けたいですか?」
葵の目から、一粒だけ涙が落ちた。
真尋はテーブルに置かれていた紙ナプキンを差し出した。
葵は受け取り、目元を押さえる。
「すみません」
「謝らなくていいです」
「喫茶店で泣くなんて」
「誰も見ていません」
「真尋さんが見てます」
「私は数に入れなくていいです」
葵は泣きながら、少し笑った。
「それ、どういう意味ですか」
「泣いても気にしない相手という意味です」
葵は紙ナプキンを目元へ当てた。
「真尋さんに会えて、本当によかった」
昨日と同じ言葉。
だが今度は、泣き声だった。
真尋は手を伸ばしかけ、止めた。
背中をさするべきか。
手を握るべきか。
迷っているうちに、葵が自分から真尋の手へ触れた。
テーブルの上で、指先が重なる。
真尋は驚いたが、手を引かなかった。
葵の手は冷たかった。
真尋はその手を、両手で包んだ。
言葉は必要なかった。
窓の外では、雲の切れ間から陽が差している。
雨に濡れた町が、少しずつ明るくなっていく。
悲しいことがあっても、天気は変わる。
誰かの気持ちが揺れても、川は流れる。
世界は自分の痛みとは無関係に続いていく。
それは残酷でもあり、救いでもある。
葵はしばらく泣いた後、ゆっくり顔を上げた。
「もう大丈夫です」
「大丈夫でなくてもいいですよ」
「でも、今日はまだ歩きたいです」
「無理しなくても」
「無理じゃないです」
葵は涙を拭き、真尋を見た。
「今、自分の希望を言いました」
真尋は少し笑った。
「そうですね」
「だから、歩きたいです」
「では、歩きましょう」
「真尋さんと」
「はい」
葵の手が、真尋の手から離れる。
温もりだけが残った。
*
喫茶店を出ると、空はすっかり晴れていた。
冷たい風は吹いているが、陽射しが路地を照らしている。
二人はしばらく何も話さず歩いた。
沈黙は重くなかった。
葵が泣いたことを、真尋は特別な出来事にしたくなかった。
人は泣く。
落ち込む。
それでも歩く。
それだけのことだ。
「真尋さん」
しばらくして、葵が呼んだ。
「はい」
「さっきのこと、忘れてください」
「無理です」
「やっぱり?」
「忘れる必要がありますか?」
「恥ずかしいので」
「泣いたことが?」
「彼氏の連絡だけで、あんなふうになることが」
「好きな人のことで泣くのは、恥ずかしいことではないです」
「真尋さんは、泣かなかったんでしょう?」
「泣きましたよ」
「会社では泣かなかったって」
「家では泣きました」
葵が真尋を見る。
「どのくらい?」
「聞きます?」
「聞きたいです」
「何日も」
「真尋さんが?」
「人を何だと思ってるんですか」
「やっぱり、強い人」
「強い人も泣きます」
「泣いた後、どうしました?」
「仕事へ行きました」
「すごい」
「休めなかっただけです」
「忘れるのに、どのくらいかかりました?」
真尋は少し考えた。
「忘れてはいません」
「今も好き?」
「そうではありません。でも、一緒にいた時間は消えません」
「新しい恋をしたら、忘れられると思いますか?」
「新しい人で、昔の人を消す必要はないと思います」
「残っててもいい?」
「それも自分の人生ですから」
葵は前を向いた。
「私、彼と別れたら、全部無駄になる気がします」
「二年が?」
「はい」
「別れたとしても、二年がなかったことにはなりません」
「でも、結婚しなかったら意味がないような」
「恋愛の意味は、結婚することだけですか?」
葵は黙った。
「楽しかった時間はありませんでした?」
「ありました」
「支えてもらったことは?」
「あります」
「葵さんが相手を支えたことも?」
「あると思います」
「それなら、無駄ではありません」
「でも、終わったら」
「終わったものに意味がないなら、卒業した学校も、辞めた仕事も、旅も、全部無意味になります」
葵が顔を上げる。
「旅も?」
「旅は終わるでしょう。でも、来たことは残ります」
真尋は空を見た。
「終わるから、意味がないわけではありません」
自分自身にも向けた言葉だった。
慎一との四年。
結婚へつながらなかった。
別れた。
それでも、彼と過ごした時間まで失敗だったわけではない。
真尋は彼を愛した。
愛された。
誰かと朝を迎える温かさも、別れの痛みも知った。
その経験があるから、今の自分がいる。
遠回りだったのかもしれない。
だが遠回りの道にも、そこでしか見られない景色がある。
「真尋さん」
「はい」
「今の言葉、覚えておきます」
「どれですか?」
「終わるから意味がないわけではない」
「まだ終わると決まったわけではありませんよ」
「はい」
葵は少しだけ笑った。
「でも、もし終わっても、私は大丈夫かもしれない」
真尋はすぐに大丈夫だとは言わなかった。
「すぐには、大丈夫ではないでしょうね」
「そこは大丈夫って言ってくださいよ」
「たくさん泣くと思います」
「ひどい」
「でも、いつかは大丈夫になります」
「真尋さんみたいに?」
「私も完全に大丈夫かは、わかりません」
「じゃあ、一緒に大丈夫になりましょう」
葵は冗談のように言った。
だが真尋は、その言葉を胸の中で繰り返した。
一緒に大丈夫になる。
誰かを救うのではない。
一方が支え、一方が支えられるだけでもない。
互いに迷いながら、少しずつ歩く。
そんな関係があってもいいのかもしれない。
「そうしましょう」
真尋は答えた。
葵が驚いたようにこちらを見る。
「真尋さん、今日は素直ですね」
「練習中ですから」
二人は笑った。
風が吹き、路地の落ち葉が舞い上がる。
赤い葉が二人の間を通り抜け、また地面へ落ちた。
*
午後一時を過ぎた頃、二人は昼食の店を探して歩いていた。
「何が食べたいですか?」
真尋が尋ねる。
葵は少し考えた。
「比内地鶏の親子丼」
「昨日も鶏を食べましたよ」
「でも、秋田に来たから」
「では、親子丼にしましょう」
「真尋さんは?」
「私も食べたいです」
「本当に?」
「本当です」
「私に合わせてません?」
「合わせていません」
「さっき、自分の希望を言う練習を始めたので、確認しています」
「では正直に言うと、稲庭うどんも少し食べたいです」
「両方ある店を探しましょう」
葵はスマートフォンで検索した。
近くに、親子丼と稲庭うどんのセットを出す店がある。
「ここはどうですか?」
「いいですね」
「決まり」
葵が歩き出す。
少し前を歩き、途中で振り返る。
「真尋さん、こっちです」
昨日は真尋が先を歩いていた。
今日は葵が道を調べ、案内している。
ほんの小さな変化。
だが真尋には、それが嬉しかった。
誰かに頼られるだけではなく、誰かへ任せる。
そのことに、少しずつ慣れていく。
二人は並んで店へ向かった。
真尋のスマートフォンが震える。
画面には、部下の佐伯からメッセージが届いていた。
『お休み中にすみません。資料の件は月曜日に確認します。昨日はありがとうございました。良いご旅行を』
真尋は立ち止まらずに読んだ。
仕事の通知は切っていたが、個人的なメッセージは届く。
返信しようとして、少し考える。
『連絡ありがとう。月曜日に一緒に確認しましょう。週末は仕事を忘れて休んでください』
そこまで入力し、最後に何かを付け加えたくなった。
いつもの真尋なら、これで送る。
だが葵との会話を思い出し、文章を一つ足した。
『私も秋田で、ちゃんと休んでいます』
送信する。
すぐに佐伯から、笑顔の絵文字が返ってきた。
「会社ですか?」
葵が尋ねる。
「部下からです」
「何か問題?」
「いえ。旅行を楽しんでください、と」
「真尋さん、仕事の人にも大切にされてるんですね」
「そうだといいです」
「絶対そうです」
葵は迷いなく言った。
真尋はスマートフォンをしまった。
必要とされることは、負担になる時もある。
それでも、自分が誰かの安心になっていると知ることは嬉しい。
仕事でも。
友人関係でも。
恋愛でも。
必要とすることと、依存することは違う。
誰かを必要としながら、自分の足で立つことはできる。
真尋は、少しずつその可能性を信じ始めていた。
目の前では、葵が店の看板を見つけて手を振っている。
「真尋さん、ここです」
「今、行きます」
真尋は葵のもとへ歩いた。
昨日まで、一人で歩くための靴だと思っていた。
誰にも合わせず、自分の道を進むための靴。
けれど今は、誰かと歩調を合わせるためにも、その靴があるように思えた。
一人で立てるからこそ、隣に並べる。
一人で歩けるからこそ、誰かと歩くことを選べる。
幸せには、一つの形しかないと思っていた。
一人で生きるか。
誰かと生きるか。
強くあるか。
頼るか。
そのどちらかを選ばなければならないのだと。
けれど、その間にも無数の歩き方がある。
自分の足で立ちながら、疲れた時には誰かの手を借りる。
違う道を歩く日があっても、また同じ場所で待ち合わせる。
同じ速さでなくても、同じ景色を見る。
真尋はまだ、その答えを見つけたわけではない。
ただ、葵と出会ってからの一日で、自分の中にあった硬い境界が、ほんの少しずつ曖昧になっていた。
「真尋さん、早く」
葵が店の前から呼ぶ。
「お腹すきました」
「朝ご飯、あれだけ食べたのに?」
「たくさん歩いたからです」
「今、行きます」
真尋は歩調を少し速めた。
今度は葵が待っている。
そのことが、思っていたよりずっと温かかった。




