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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第二章 紅葉の下で出会った人

角館駅のホームへ降り立った瞬間、真尋は東京とはまるで違う空気の冷たさに肩をすくめた。

 新幹線の車内から見ていた空は明るかったのに、駅前へ出ると、薄い雲が町全体を覆っている。陽射しはやわらかく、風にはもう秋というより冬の気配が混じっていた。

 真尋はキャリーケースの持ち手から片手を離し、マフラーを首元へ引き寄せた。

「思ったより寒いな」

 白くなるほどではない息を、そっと吐き出す。

 駅舎の前には、観光案内所と小さなタクシー乗り場があり、その向こうには背の低い建物が並んでいた。東京駅を出てから数時間。同じ一日の中にいるはずなのに、時間の流れ方まで変わったように感じる。

 真尋はスマートフォンを取り出し、予約していた宿までの道順を確認した。

 宿は武家屋敷通りから少し外れた場所にある。チェックインにはまだ早い。先に駅のコインロッカーへ荷物を預け、町を歩く予定だった。

 改札近くのロッカーにキャリーケースを入れ、カメラだけを肩に掛ける。

 身軽になると、気持ちまで少し軽くなった。

 旅先では、なるべく歩く。

 行きたい場所まで最短距離で向かうより、一本横の道へ入った時に見つける小さな店や、民家の軒先に置かれた鉢植えや、風に揺れる洗濯物のほうが、あとになって記憶に残ることがあるからだ。

 駅前から武家屋敷通りへ向かう道を、真尋はゆっくり歩き始めた。

 観光地らしい土産物店が並ぶ通りを抜けると、町は少しずつ静かになっていった。道路脇には落ち葉が重なり、靴底で踏むたび、かさりと乾いた音がする。

 東京では落ち葉を見ても、清掃が追いついていないと感じることのほうが多い。

 けれどここでは、そのまま残されている葉が、季節の終わりを惜しむためのものに見えた。

 真尋は立ち止まり、道沿いの木々へカメラを向けた。

 赤く染まった葉の向こうに、古い家の黒い屋根が見える。

 シャッターを切る。

 もう一枚。

 角度を変え、光の入り方を確かめながら、さらに一枚。

 写真を撮っている間は、余計なことを考えなくて済む。

 仕事のことも。

 年齢のことも。

 自分がこれからどう生きたいのかという、答えのない問いも。

 目の前にある景色を、ただ美しいと思える。

 それだけで十分だった。

 武家屋敷通りへ近づくにつれ、人の姿が増えていった。

 観光バスから降りた団体客。

 地図を広げて話し合う夫婦。

 着物を着て写真を撮り合う若い女性たち。

 真尋は人の流れに合わせながら、黒塀が続く通りを歩いた。

 紅葉の盛りは少し過ぎている。

 枝先にはまだ鮮やかな葉が残っているものの、足元にはすでに多くが落ちていた。完全な見頃ではないからこそ、華やかさの後ろにある寂しさが際立っている。

 真尋は、こういう景色が好きだった。

 満開の桜より、散り始めた桜。

 真夏の海より、九月の終わりの海。

 始まりよりも、終わりかけの時間。

 何かが失われていく直前の景色には、人を正直にさせる力がある気がしていた。

 黒塀の前で、年配の夫婦が写真を撮ろうとしている。

 妻らしい女性がスマートフォンを構え、夫だけを撮影していた。

 真尋は少し迷ってから声をかけた。

「お二人で撮りましょうか」

 女性は驚いたように振り向き、すぐに笑顔になった。

「いいんですか?」

「もちろんです」

 スマートフォンを受け取り、二人が並ぶのを待つ。

「もう少しだけ近くに寄ってもらってもいいですか」

「あら、もっと?」

「せっかくなので」

 妻が笑い、夫の腕に手を添える。

 夫は照れたような顔をしたが、離れはしなかった。

 真尋は数枚撮影し、画面を確認してからスマートフォンを返した。

「まあ、きれいに撮れてる」

「ありがとうございます。助かりました」

「いえ」

 夫婦は何度も頭を下げ、並んで歩いていった。

 その後ろ姿を見送りながら、真尋は小さく息を吐いた。

 何十年、一緒にいるのだろう。

 あれほど自然に隣を歩けるようになるまで、どんな時間があったのだろう。

 喧嘩もしただろう。

 口をきかない日もあったかもしれない。

 それでも、今こうして同じ景色を見ている。

 真尋は自分の左側にある空間を意識した。

 当然、誰もいない。

 それを寂しいと思うほど弱くはない。

 だが、何も感じないほど強くもなかった。

 昔の真尋は、三十代になれば自然に結婚していると思っていた。

 明確な願望があったわけではない。

 ただ、周囲の大人たちがそうだったから、自分も同じ道を歩くのだろうと漠然と信じていた。

 大学を卒業し、就職する。

 仕事に慣れた頃に恋人ができる。

 二十代後半で結婚し、三十代前半には子どもを持つ。

 その先は家族と仕事の両立に悩みながらも、それなりに幸せに暮らす。

 それが人生の標準形だと思っていた。

 けれど実際には、仕事を覚えることに夢中になり、任されることが増えるほど面白くなった。恋人はいたが、互いの生活を変えるほどの覚悟は持てなかった。

 三十一歳の時、四年付き合った恋人と別れた。

 理由は一つではない。

 彼は結婚を望んでいた。

 真尋は、決めきれなかった。

 彼が嫌いだったわけではない。

 むしろ好きだった。

 けれど、結婚という言葉を現実に置き換えた瞬間、息苦しさが先に立った。

 彼の住む町へ引っ越すこと。

 仕事の時間を調整すること。

 家事を分け合うこと。

 休日を一緒に過ごすこと。

 将来の子どもについて考えること。

 一つひとつは特別なことではない。

 世の中の多くの人が選んでいる。

 それでも真尋には、自分の輪郭が少しずつ薄くなっていくように思えた。

 結局、彼は言った。

「真尋は、一人で生きていけるから」

 責める口調ではなかった。

 寂しそうな声だった。

 その言葉を、真尋は今でも忘れられない。

 一人で生きられることは、強さだと思っていた。

 けれど彼にとっては、自分が必要とされない理由だった。

 別れた後、真尋はしばらく自分を責めた。

 もっと素直に頼ればよかったのか。

 仕事を少し諦めればよかったのか。

 彼が差し出してくれた幸せを、怖がらずに受け取ればよかったのか。

 答えは出なかった。

 ただ時間だけが過ぎ、真尋は昇進し、マンションを買い、一人でいることにますます慣れていった。

 気づけば、三十六歳になっていた。

「すみません」

 背後から声をかけられ、真尋は振り向いた。

 そこに、薄いベージュのコートを着た若い女性が立っていた。

 柔らかく巻いた肩ほどの髪。

 白いニット。

 小さな茶色のバッグ。

 手にはスマートフォンを持っている。

「あの、写真を撮っていただいてもいいですか?」

 女性は少し申し訳なさそうに笑った。

 真尋は一瞬だけ、周囲を見た。

 近くにはほかにも観光客がいる。

 なぜ自分に声をかけたのだろうと思ったが、すぐに頷いた。

「いいですよ」

「ありがとうございます」

 差し出されたスマートフォンを受け取る。

「どこを背景にしますか?」

「あの紅葉が残っているところでお願いしたいです」

 女性が指した先には、黒塀の上へ枝を広げる楓があった。

 上のほうはまだ赤い葉が残り、下の枝はほとんど裸になっている。

「では、あの辺りに立ってもらえますか」

「はい」

 女性が木の下へ移動する。

 スマートフォンの画面越しに見ると、彼女はどこか落ち着かない様子で髪を整え、コートの襟に触れた。

「もう少し右へお願いします」

「こっちですか?」

「はい。そこで大丈夫です」

 真尋は一枚撮った。

 画面を確認する。

 背景はきれいだが、女性の表情が少し硬い。

「何枚か撮りますね」

「お願いします」

「少しだけ、紅葉を見る感じにしてもらえますか」

 女性が顔を上げる。

 その瞬間、風が吹いた。

 赤い葉が一枚、彼女の肩の近くを横切る。

 真尋は反射的にシャッターを押した。

 女性が驚いて笑う。

 もう一枚。

 今度は正面。

 さらに、少し引いた構図でも撮る。

「撮れました」

 女性が小走りで戻ってくる。

 真尋はスマートフォンを渡した。

「確認してください」

 女性は画面を見て、目を大きくした。

「すごい」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫どころか、すごくきれいです。私、写真を撮られるといつも変な顔になるのに」

「風がちょうどよかったですね」

「これ、風のおかげだけじゃないですよ。撮るの上手ですね」

「カメラが趣味なので」

 真尋が首から下げた一眼レフに触れると、女性は納得したように何度も頷いた。

「やっぱり。お願いする人を間違えなかったです」

「そんな大げさな」

「本当です。ありがとうございました」

 女性は笑って頭を下げた。

 その笑顔は、真尋が思っていたより幼く見えた。

 二十代半ばくらいだろうか。

 肌に張りがあり、目の奥に迷いが少ない。もちろん実際には悩みもあるのだろうが、真尋には、その迷いさえ未来へ続いているように見えた。

「お一人ですか?」

 気づけば、真尋はそう尋ねていた。

 普段なら、自分から見知らぬ人へ話しかけることはほとんどない。

 女性は少し驚いた後、頷いた。

「はい。一人旅です」

「そうなんですね」

「そちらもですか?」

「ええ」

「なんだか安心しました」

「安心?」

「一人で来るって友達に言ったら、寂しくないのって何回も聞かれたので。でも、一人で来てる女性もちゃんといるんだって」

 ちゃんと、という言い方が少しおかしくて、真尋は笑った。

「一人の人、たくさんいますよ」

「そうですよね。でも友達は、旅行は誰かと行くものって感じなんです」

「あなたは違うんですか?」

「一度、一人で来てみたかったんです」

 女性はそう言いながら、紅葉のほうを見た。

「誰かと一緒だと、楽しいですけど、相手が見たいものも気になるじゃないですか。今日は、自分が見たいものだけ見てみたくて」

 その言葉に、真尋は少し意外な気持ちになった。

 見た目の明るさから、友人たちと賑やかに旅行するほうが好きな女性だと思っていた。

「いいと思います」

 真尋が言うと、女性は嬉しそうに笑った。

「ありがとうございます。なんだか、経験者に認めてもらえた感じがします」

「経験者って」

「一人旅、慣れてそうなので」

「まあ、何度かは」

「かっこいいですね」

 あまりにもまっすぐに言われて、真尋は返事に困った。

 かっこいい。

 その言葉は職場でも時々言われる。

 部下からも、同期からも。

 けれど、それは多くの場合、仕事ができることや、感情を表に出さないことや、一人でも困らずに動けることを指していた。

 真尋自身は、それをかっこいいと思ったことはない。

 できるようにならなければ、生きにくかっただけだ。

「そんなことないですよ」

「ありますよ」

 女性はなぜか譲らなかった。

 その素直さが眩しく、真尋は目を細めた。

「では、私はこの辺りをもう少し歩くので」

「あ、はい。ありがとうございました」

「気をつけて」

「そちらも」

 二人は軽く会釈をし、反対方向へ歩き出した。

 数歩進んでから、真尋は振り返った。

 女性はもう黒塀の向こうへ続く道を見ていて、こちらには気づいていない。

 先ほど撮った写真を見返しているのか、スマートフォンを両手で持ち、少し嬉しそうに笑っていた。

 真尋は前へ向き直った。

 ほんの数分のやり取りだった。

 旅先では、こういう出会いが時々ある。

 駅までの道を教えてくれた人。

 食堂で隣になり、おすすめの料理を教えてくれた人。

 展望台で写真を撮り合った人。

 その場では会話を交わしても、名前すら知らないまま別れる。

 そして二度と会わない。

 それでいい。

 旅先の出会いは、続かないからこそ美しいこともある。

 そう思いながらも、真尋の胸には、先ほどの女性の笑顔が薄く残っていた。

 若いって、それだけで明るい。

 そんなふうに思った自分を、真尋は少し嫌だと感じた。

 年齢だけで人を見るつもりはない。

 若いから悩みが浅いわけでも、未来が約束されているわけでもない。

 それでも、二十五歳の自分には確かにあった。

 まだ何者にでもなれるという、根拠のない感覚。

 仕事を変えることも。

 住む場所を変えることも。

 誰かを好きになり、傷つき、それでもまた恋をすることも。

 すべてが今より近くにあった。

 三十六歳の今、何かを始めることが遅いとは思わない。

 だが、選択には以前より具体的な重さがある。

 仕事を辞めれば、これまで積み上げたものを手放すことになる。

 恋愛を始めれば、自分だけの生活に誰かを迎える必要がある。

 結婚を考えるなら、年齢という現実も無視できない。

 何も失わずに進める道は、もうほとんど残っていない。

 真尋はカメラを握り直した。

 目の前には、黒塀の上に伸びる赤い枝がある。

 美しい。

 それでいい。

 今はただ、目の前の景色を見ればいい。

 そう言い聞かせるように、シャッターを切った。

     *

 昼食は、武家屋敷通りから少し離れた食事処で稲庭うどんを食べた。

 温かいつゆから湯気が立ち、細く滑らかな麺が喉を通るたび、冷えていた体が内側からほどけていく。

 隣の席では、若い夫婦が二人でメニューを覗き込んでいた。

「比内地鶏の親子丼も食べたいね」

「半分ずつにする?」

「じゃあ、うどんも半分ちょうだい」

 そんな会話が聞こえてくる。

 真尋は自分の前に置かれた一人分の膳を見た。

 一人旅では、食べたいものを自由に選べる。

 相手の好みを気にする必要もない。

 店を決める時に意見が割れることもない。

 けれど、違う料理を頼んで分け合うことはできない。

 選べる自由と、選べない楽しさ。

 どちらか一方だけを持つことはできないのかもしれない。

 真尋はうどんをすすりながら、そんなことを考えた。

 食後は田町武家屋敷通りを歩き、古い建物の内部を見学した。

 畳の部屋。

 煤けた梁。

 手入れされた庭。

 古い家には、人の暮らしが消えた後も、時間だけが残っている。

 誰かがここで食事をし、眠り、子どもを育て、年老いていった。

 その生活はもうない。

 けれど床板の傷や柱の色に、確かに人の気配が染み込んでいる。

 真尋は縁側へ腰を下ろした。

 庭には落ち葉が重なり、石灯籠のそばで小さな木が揺れている。

 静かだった。

 東京の自宅も静かだ。

 けれど、同じ静けさではない。

 自宅の静けさは、時々、自分以外の気配が完全に存在しないことを知らせてくる。

 ここには、知らない誰かが生きた時間がある。

 だから静かでも、空っぽではなかった。

 真尋はカメラを膝へ置き、両手をこすり合わせた。

 スマートフォンが震える。

 会社のグループチャットだった。

 部下の一人が、月曜日の会議資料について質問をしている。

 画面にはすでに、別の部下から回答が入っていた。

 真尋は返信せず、スマートフォンをバッグへ戻した。

 自分がいなくても、仕事は進む。

 それは当然のことだ。

 むしろ、そうでなければ困る。

 自分にしかできない仕事を抱え込む上司は、組織にとって良い上司ではない。

 わかっている。

 それでも、自分が必要とされなくなることへの小さな恐怖が、どこかにある。

 仕事は真尋を裏切らなかった。

 努力すれば、その分だけ成果が返ってきた。

 役職が上がり、給料が増え、責任も増えた。

 恋愛のように、気持ちだけではどうにもならない曖昧さが少ない。

 だから真尋は仕事を選んだ。

 選び続けてきた。

 その結果、今の自分がいる。

 後悔はしていない。

 けれど時々、仕事で埋めてきた場所の形が、ふいに見えてしまう。

 それが何なのか、真尋自身にもよくわからなかった。

     *

 午後三時を過ぎると、空気はさらに冷たくなった。

 真尋は駅へ戻り、ロッカーから荷物を取り出した。

 宿は駅から歩いて十五分ほどの場所にある。

 古民家を改装した小さな宿で、客室は六つしかない。

 大きな旅館も便利だが、真尋はこうした小さな宿を好んで選ぶ。

 団体客が少なく、静かに過ごせるからだ。

 細い道を曲がると、木造二階建ての建物が見えた。

 濃い茶色の格子戸。

 軒下に吊るされた小さな灯り。

 玄関脇には、赤く色づいた南天が植えられている。

 真尋は暖簾をくぐり、引き戸を開けた。

 カラン、と澄んだ鈴の音が鳴る。

「いらっしゃいませ」

 帳場から、六十代くらいの女性が顔を出した。

「予約していた水口です」

「水口真尋様ですね。お待ちしておりました」

 女性は穏やかに笑い、宿帳を差し出した。

 真尋が住所と名前を書いている間、奥から薪の燃える匂いが漂ってくる。

 玄関横の談話室には、小さな薪ストーブが置かれていた。

 古い梁と白い壁。

 磨かれた木の床。

 新しく整えられているのに、元の家の温かさがきちんと残っている。

「夕食はついていないプランでしたね」

「はい。近くで食べようと思っています」

「この辺りでしたら、歩いて五分ほどのところに小さな居酒屋がありますよ。地元の方もよく行かれます」

 女将は手書きの地図を取り出し、赤い丸をつけた。

「一人でも入りやすいですか?」

「ええ。カウンターがありますし、ご主人も話しやすい方です。きりたんぽ鍋は一人前から作ってくれますよ」

「それはいいですね」

「ただ、混むこともありますので、六時前くらいに行かれるとよいかもしれません」

「ありがとうございます」

 真尋が地図を受け取った時、背後で再び鈴が鳴った。

「すみません、チェックインをお願いしたいんですが」

 聞き覚えのある声だった。

 真尋が振り返る。

 玄関に、昼間の女性が立っていた。

 ベージュのコート。

 茶色のバッグ。

 小さな紺色のキャリーケース。

 女性も真尋に気づき、驚いて目を見開いた。

「あ」

「昼間の」

「写真を撮ってくださった方ですよね」

「そうです」

 二人の間に、一瞬の沈黙が落ちた。

 先に笑ったのは女性のほうだった。

「すごい偶然ですね」

「本当に」

「同じ宿だったんですね」

「みたいですね」

 女将が二人を交互に見た。

「お知り合いですか?」

「いえ、今日、武家屋敷で写真を撮っていただいて」

「まあ。旅先のご縁ですね」

 旅先のご縁。

 その言葉に、真尋は少し照れくささを覚えた。

 女性は帳場へ近づき、宿帳を受け取った。

「小野寺葵です。予約しています」

 初めて名前を知った。

 小野寺葵。

 葵が宿帳へ文字を書く。

 丸みのある、丁寧な字だった。

「水口さん、ですよね」

 宿帳を見たのか、葵が真尋へ顔を向けた。

「はい。水口真尋です」

「真尋さん」

 葵は一度、確かめるように口にした。

 名前で呼ばれることに、真尋は少し戸惑った。

 職場では水口課長。

 友人からは真尋。

 初対面に近い相手から名前で呼ばれるのは久しぶりだった。

「葵さんは、これから夕食ですか?」

 女将が尋ねる。

「まだ決めてなくて。どこか近くにありますか?」

「ちょうど水口さんにもお話ししていたんですが、近くに居酒屋がありますよ」

 女将が同じ地図をもう一枚取り出す。

 葵は地図を見た後、真尋へ視線を向けた。

「真尋さんも行くんですか?」

「そのつもりです」

「そうなんですね」

 葵は何か言いたそうに口を開き、けれど一度閉じた。

 真尋はその迷いに気づいた。

 一緒に行きますか。

 そう言えば簡単だった。

 けれど、昼間に数分話しただけの相手だ。

 十一歳ほど年下に見える女性を、自分から誘うのも不自然な気がした。

 それに真尋は、一人で食事をするつもりでこの宿を選んでいる。

 一人旅なのだから、一人で過ごせばいい。

 そう思っている間に、女将が部屋の説明を始めた。

「水口様は二階の桔梗、小野寺様は隣の撫子です」

「隣なんですね」

 葵が笑う。

「本当に偶然が続きますね」

「ええ」

「では、お部屋へご案内します」

 女将に続き、二人は階段を上がった。

 古い木の階段は、一段ごとに小さく軋む。

 二階の廊下には、和紙の灯りが等間隔に置かれていた。

 突き当たりの二部屋が、桔梗と撫子だった。

「お風呂は一階の奥です。二つありますので、空いているほうへ内側から鍵をかけてお使いください。夜は十一時まで、朝は六時からです」

 女将が説明し、それぞれの鍵を渡す。

「では、ごゆっくり」

 女将が階段を下りていく。

 真尋と葵は、隣り合った部屋の前に残された。

「それじゃあ」

 真尋が鍵を持ち上げる。

「あの」

 葵が声をかけた。

「はい?」

「さっきの居酒屋なんですけど」

 やはり、と思った。

 葵は少し恥ずかしそうに笑った。

「一緒に行きませんか?」

 真尋はすぐに返事をしなかった。

 嫌だったわけではない。

 むしろ、その言葉を待っていた自分がいた。

 ただ、素直に頷くことに、なぜか小さな抵抗があった。

 自分は一人旅を楽しみに来た。

 一人でいることを選んできた。

 それなのに、誰かに誘われて嬉しいと思う自分を認めると、これまで守ってきたものが少し揺らぐような気がした。

 葵の表情に、不安が浮かぶ。

「すみません。せっかく一人で来られてるのに」

「いえ」

 真尋は首を振った。

「私も、一人で入るより心強いです」

 本当は、一人でも平気だった。

 だが、今はその言い方のほうが自然に思えた。

 葵の表情が明るくなる。

「よかった」

「六時前がいいそうなので、五時半に下で待ち合わせますか?」

「はい」

「では、また後で」

「お願いします」

 それぞれの部屋へ入る。

 襖を閉めた瞬間、真尋はその場で小さく息を吐いた。

 静かな和室だった。

 八畳ほどの畳の部屋。

 窓際には低い椅子と小さな丸テーブルがある。

 床の間には、秋草を描いた掛け軸。

 すでに布団が敷かれていた。

 真尋はカメラバッグを置き、窓辺へ歩いた。

 外には細い路地と、民家の屋根が見える。

 空は灰色から薄い藍色へ変わり始めていた。

 自分からは誘えなかった。

 そのことを、真尋は少し情けなく思った。

 葵はためらいながらも、一緒に行こうと言った。

 年下の彼女のほうが、ずっと素直だった。

「何を怖がってるんだろう」

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 ただ夕食を一緒に食べるだけだ。

 今夜限りのことかもしれない。

 旅先で出会い、少し話し、別れる。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 なのに真尋の胸には、久しぶりに誰かと食事をする前のような、わずかな高揚があった。

     *

 五時半に一階へ降りると、葵はすでに玄関脇で待っていた。

 昼間と同じコートだが、首元には淡い黄色のマフラーを巻いている。

「お待たせしました」

「私も今来たところです」

 葵はそう言って笑った。

 おそらく少し前から待っていたのだろう。

 二人で宿を出る。

 外はすっかり暗くなっていた。

 軒先の灯りが路地をぼんやり照らし、冷たい風が足元を通り抜ける。

「寒いですね」

 葵が肩をすくめる。

「昼間より一気に冷えましたね」

「秋田を甘く見てました。東京の十一月くらいのつもりで」

「私もです」

「真尋さんでも、そういうことあるんですね」

「どういう意味ですか?」

「旅慣れてるから、全部完璧に準備してそうで」

「そんなわけないですよ。忘れ物もしますし、電車を乗り間違えることもあります」

「本当ですか?」

「この前、金沢に行った時は、ホテルに充電器を忘れました」

 葵が笑う。

「なんだか安心しました」

「今日、二回目ですね。その言葉」

「私、真尋さんを勝手に完璧な人にしようとしてるかもしれません」

「会って数時間ですよ」

「でも、雰囲気でわかることってありません?」

「間違っていることも多いです」

「じゃあ、これから確かめます」

 葵は軽い調子で言った。

 これから。

 その言葉に、真尋は少し引っかかった。

 今夜だけではなく、明日も話すつもりなのだろうか。

 旅が終わってからも、という意味ではないだろう。

 それでも、その何気ない言葉が不思議と耳に残った。

 居酒屋は、古い商店の並ぶ通りの一角にあった。

 木の看板に、手書き風の文字で店名が書かれている。

 引き戸を開けると、温かい空気と出汁の香りが一気に流れてきた。

「いらっしゃい」

 カウンターの中から、五十代くらいの男性が声をかける。

 店内にはカウンターが七席と、四人掛けの座敷が二つ。

 まだ早い時間だったため、客は奥の座敷にいる夫婦だけだった。

「二人です」

 葵が答える。

「カウンターでいいですか?」

「はい」

 二人は並んで腰を下ろした。

 真尋が壁のメニューを見る。

 きりたんぽ鍋。

 比内地鶏の焼き物。

 いぶりがっこ。

 山菜の天ぷら。

 刺身。

 地酒の銘柄もいくつか並んでいる。

「何にします?」

 葵が尋ねる。

「きりたんぽ鍋は食べたいですね」

「私もです」

「一人前ずつにしますか?」

 店主が会話を聞いていたらしく、口を挟んだ。

「二人なら二人前を一つの鍋で作ったほうがうまいよ」

「では、それでお願いします」

 真尋が言う。

「ほかに何かありますか?」

「いぶりがっこと、比内地鶏の焼いたものも」

 葵がすぐに答える。

「飲み物は?」

「私は地酒にします」

 真尋がメニューを見る。

「どれが飲みやすいですか?」

「最初なら、これかな。香りがやわらかい」

 店主が指した銘柄を頼む。

 葵は少し迷い、同じものにした。

「日本酒、飲めるんですか?」

「強くはないですけど、せっかく秋田なので」

「無理しないでくださいね」

「真尋さんがいるから大丈夫です」

「私を何だと思ってるんですか」

「頼れるお姉さん」

 真尋は思わず笑った。

「今日会ったばかりですよ」

「でも十一歳上ですよね」

「どうして年齢がわかるんですか」

「えっ」

 葵の表情が固まる。

「聞いてないですよね、私の年齢」

「すみません。宿帳の生年月日、ちらっと見えちゃって」

「ああ」

 真尋は苦笑した。

「個人情報を見られましたね」

「本当にすみません。わざとじゃないんです」

「冗談です」

 葵は胸を撫で下ろした。

「私は二十五歳です」

「それは宿帳を見なくても、そのくらいだと思っていました」

「やっぱり若く見えます?」

「年相応だと思います」

「それって褒めてますか?」

「褒めています」

「真尋さんは三十六歳に見えないです」

「それも褒め言葉として受け取っておきます」

 地酒が運ばれてくる。

 小さなガラスの杯に、透明な酒が揺れていた。

 葵が杯を持ち上げる。

「何に乾杯します?」

「難しいですね」

「旅先の偶然に、はどうですか?」

 真尋は少しだけ目を細めた。

「いいですね」

「では、旅先の偶然に」

「乾杯」

 杯を軽く合わせる。

 澄んだ音がした。

 酒は口に含むとやわらかく、後からほのかな甘みが広がった。

「おいしい」

 葵が驚いたように言う。

「飲みやすいですね」

「危ないやつですね。飲みやすくて、後から酔うやつ」

「ゆっくり飲みましょう」

 いぶりがっこが運ばれてくる。

 薄く切られた大根から、燻した香りが立っている。

 葵は一切れ口へ入れ、目を丸くした。

「思ってたより香りが強い」

「苦手ですか?」

「いえ。お酒に合います」

「二十五歳にしては渋いですね」

「真尋さん、私を子ども扱いしてません?」

「していませんよ」

「本当ですか?」

「少しだけ」

「やっぱり」

 葵が笑う。

 その笑い声につられ、真尋も笑った。

 こんなふうに、会って間もない相手と会話が途切れないことが不思議だった。

 同年代の女性と話す時には、無意識に共通点を探す。

 仕事。

 結婚。

 家族。

 住んでいる場所。

 それらが違いすぎると、どこかに遠慮が生まれる。

 葵とは年齢が離れている分、最初から違うことが前提だった。

 だから比べなくて済む。

 わかり合おうとしすぎず、知らないことをそのまま尋ねられる。

 その距離が心地よかった。

「どうして秋田だったんですか?」

 真尋が尋ねる。

 葵は杯を置き、少し考えた。

「紅葉を見たかったのと、遠くに来たかったからです」

「遠くに?」

「はい。東京から、なるべく遠いところに」

「何かあったんですか」

 聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。

 だが葵は嫌な顔をしなかった。

「彼氏と、少しうまくいってなくて」

 そう言って笑ったが、その笑顔は昼間より薄かった。

「ごめんなさい。初対面の人に話すことじゃないですね」

「旅先だから話せることもありますよ」

 真尋が言うと、葵はゆっくり顔を上げた。

「真尋さんも、そういうことありますか?」

「あります」

「誰にも言えないこと?」

「誰にも言えないというより、言っても仕方がないと思っていることです」

「それ、すごくわかります」

 葵は小さく頷いた。

「言葉にしたら、解決しなきゃいけない気がするんですよね」

 真尋は葵を見た。

 思いがけない言葉だった。

「だから、言わないままにしておく?」

「はい。悩んでいる途中なら、まだ何も決めなくていいから」

「葵さんは、彼と別れたいんですか?」

「わかりません」

 答えは早かった。

 きりたんぽ鍋が運ばれてくる。

 土鍋の蓋を開けると、白い湯気が立ち上った。

 ごぼうと鶏の香りが広がり、二人は一度会話を止めた。

「熱いから気をつけて」

 店主が器を置く。

「ありがとうございます」

 真尋がきりたんぽを取り分け、葵へ渡した。

「すみません」

「どうぞ」

 葵は器を両手で持ち、湯気に顔を近づけた。

「温かい」

「寒い日に合いますね」

 二人はしばらく黙って鍋を食べた。

 きりたんぽは出汁を吸い、噛むと米の甘みが広がる。

 比内地鶏は弾力があり、ごぼうの香りが濃い。

 体が温まるにつれ、真尋の肩から力が抜けていった。

「彼とは、どのくらい付き合っているんですか?」

 真尋は頃合いを見て尋ねた。

「二年くらいです。会社は違うんですけど、大学の友達の紹介で」

「長いですね」

「私にとっては長いです」

 葵はきりたんぽを箸で小さく切った。

「最近、将来の話をすると、話題を変えられるんです」

「結婚の話ですか?」

「はっきり結婚って言ったわけじゃないです。でも、来年どうするとか、住む場所とか、そういう話をすると」

「彼はいくつですか?」

「二十八です」

「仕事が忙しい?」

「忙しいとは言っています。でも、前は忙しくても会ってくれたんです。最近は連絡も減って」

 葵はそこで言葉を切った。

 真尋には、その先がわかった。

 気持ちが離れているのではないか。

 別の人がいるのではないか。

 そんな不安を口にすると、本当になってしまいそうで言えないのだろう。

「私、重いのかなって思って」

「どうしてですか?」

「将来の話をしたいと思うから」

「二年付き合っているなら、考えるのは自然じゃないですか」

「でも、二十五歳で結婚を急いでるみたいに思われるのも嫌で」

「急いでいるんですか?」

 葵は考えた。

「わからないです」

 また同じ答えだった。

「結婚したいのか、彼とずっといたいのか、それとも友達が結婚し始めたから焦ってるだけなのか。全部混ざってて」

「二十五歳でも、そういうことを考えるんですね」

 真尋が言うと、葵は少し頬を膨らませた。

「二十五歳を何だと思ってるんですか」

「もっと未来を信じている年齢かと」

「信じてますよ。でも、信じてるから不安になるんです」

 その言葉が、真尋の胸へ静かに落ちた。

 信じているから、不安になる。

 真尋はいつから、未来を信じなくなったのだろう。

 期待しなければ、傷つかない。

 選ばなければ、失敗しない。

 一人でいれば、誰にも生活を乱されない。

 そうやって守ってきたものは多い。

 同時に、最初から諦めてきたものもあったのかもしれない。

「真尋さんは?」

 葵が尋ねる。

「私?」

「恋人、いるんですか?」

「いません」

「結婚は?」

「していません」

「したいと思いますか?」

 初対面の相手に聞くには、かなり直接的な質問だった。

 だが葵には悪気がない。

 真尋は杯に残った酒を見た。

「昔は、いつかするものだと思っていました」

「今は?」

「わかりません」

 葵が笑った。

「同じですね」

「そうですね」

「年齢が違っても、わからないものはわからないんですね」

「年齢が上がれば、何でも答えが出るわけではないですよ」

「でも、真尋さんは自分の生き方を決めてるように見えます」

「決めたというより、こうなっただけです」

「仕事、何をしているんですか?」

「IT企業で、課長をしています」

 葵は目を輝かせた。

「課長なんですか?」

「そんなに驚かなくても」

「だって、三十六歳で課長ってすごくないですか?」

「会社によります」

「部下もいるんですよね」

「います」

「何人くらい?」

「直接見ているのは十二人です」

「十二人」

 葵は感心したように繰り返した。

「私、自分一人の仕事でもいっぱいいっぱいなのに」

「最初はみんなそうです」

「真尋さんもですか?」

「もちろん」

「失敗したこともあります?」

「数え切れないくらい」

「怒られたことも?」

「ありますよ」

「泣いたことは?」

 真尋は少し考えた。

「会社では泣かないようにしていました」

「やっぱり強い」

「違います。泣いたら負けだと思っていただけです」

「負け?」

「若い頃、女性は感情的だと思われたくなかったんです。だから、何を言われても顔に出さないようにしていました」

「つらくなかったですか?」

「つらかったですよ」

「それでも続けたんですね」

「続けていたら、できるようになりました」

 葵はしばらく黙っていた。

「私、すぐ顔に出るんです」

「悪いことではないと思います」

「でも、職場では子どもっぽく見られます。悔しくて泣いた時も、泣くくらいならちゃんとやってって言われて」

 葵の声が少し低くなった。

「その人の言い方はどうかと思います」

「でも、言われる私も悪いんです。確認不足でミスしたので」

「ミスをしたことと、泣いたことを責めるのは別です」

 真尋が言うと、葵は驚いたようにこちらを見た。

「真尋さんなら、泣くなって言うと思いました」

「どうしてですか?」

「仕事ができる人だから」

「仕事ができる人は、泣かない人ではありません」

「でも真尋さんは泣かなかった」

「泣けなかっただけです」

 真尋は自分でも意外なほど、率直に答えていた。

「泣いてもいい場所が、あまりなかったので」

 葵の表情が変わった。

 憧れだけではない、何かを見つけたような目だった。

「真尋さんも、一人なんですね」

 その言葉に、真尋は一瞬、息を止めた。

 一人。

 事実ではある。

 だが、葵の言い方には同情も憐れみもなかった。

 自分と同じように、誰にも見せていない場所があるのだと知っただけのようだった。

「一人ですよ」

 真尋は答えた。

「でも、一人でいることが嫌いなわけではありません」

「わかります」

 葵が頷く。

「私も、一人になりたくてここへ来たのに、ずっと彼から連絡が来るか確認してます」

 テーブルの端に置かれた葵のスマートフォンは、先ほどから一度も鳴っていなかった。

「矛盾していますね」

「本当に」

「でも、人はそんなものかもしれません」

「一人になりたいのに、誰かに気づいてほしい」

「自由でいたいのに、必要とされたい」

 真尋が続けると、葵は目を見開いた。

「それです」

「私も同じです」

 二人の間に、静かな共感が生まれた。

 年齢も仕事も、生きてきた時間も違う。

 それでも、心の中にある矛盾はよく似ている。

 葵は地酒をもう一口飲み、頬を少し赤くした。

「真尋さん」

「はい」

「私、真尋さんみたいになりたいです」

 真尋は困ったように笑った。

「今日会ったばかりの人を目標にしないほうがいいですよ」

「でも、本当に」

「私は、そんなに立派ではありません」

「立派だからじゃなくて」

 葵は言葉を探すように、箸を置いた。

「一人で旅に来て、自分で好きなものを見て、仕事もちゃんとしてて。でも、自分は強いから平気って言わないところが、かっこいいです」

 真尋は返す言葉を失った。

 誰かから褒められる時、真尋が評価されるのは、たいてい表面に見える部分だった。

 判断が早い。

 仕事が正確。

 責任感がある。

 感情に流されない。

 一人でも行動できる。

 けれど葵は、平気ではないことを隠さなかった点を、かっこいいと言った。

 そんなふうに見られたことは、一度もなかった。

「それに」

 葵が少し笑う。

「私、真尋さんくらいの年齢になったら、もっと全部決まってると思ってました」

「失望しました?」

「逆です」

「逆?」

「安心しました」

 今日三度目の言葉だった。

「三十六歳でも迷うなら、二十五歳の私が迷っててもいいのかなって」

 真尋は葵を見つめた。

 自分の迷いが、誰かを安心させることがある。

 そんなことを考えたことはなかった。

 弱さは隠すものだった。

 見せれば、信頼を失う。

 誰かに付け込まれる。

 そう思ってきた。

 けれど目の前の葵は、真尋が完璧ではないと知り、少しほっとした顔をしている。

「葵さん」

「はい」

「あなたは、急いで答えを出さなくてもいいと思います」

「彼とのことですか?」

「それも、仕事も、将来も」

「でも、時間って過ぎますよね」

「過ぎます」

「その間に、選べなくなるものもある」

「あります」

 真尋は否定しなかった。

「でも、焦って選んだからといって、正しいとは限りません」

「真尋さんは、焦らなかったから今があるんですか?」

 鋭い質問だった。

 真尋はしばらく答えられなかった。

「私の場合は、怖くて選ばなかったことも多いです」

「怖くて?」

「今の生活を失うことが」

「それは、後悔していますか?」

「時々」

「時々なんですね」

「ずっとではありません。今の生活が好きなことも本当だから」

 葵は少し考え込んだ。

「どっちも本当でいいんですかね」

「どういうことですか?」

「一人でいたいのも本当。誰かといたいのも本当。仕事を頑張りたいのも本当。結婚したい気持ちも本当。でも、全部は選べない気がして」

「全部を同じ時に持つのは難しいでしょうね」

「やっぱり」

「ただ、順番は変えられるかもしれません」

「順番」

「今は仕事を選ぶ。次は誰かと暮らすことを考える。あるいは、その逆でもいい。一度選んだら、永遠に変えられないわけではないでしょう」

 自分で言いながら、真尋は胸の奥に小さな痛みを感じた。

 一度選んだら変えられないわけではない。

 それは葵だけではなく、自分にも向けた言葉だった。

 三十六歳だから、今さら恋愛は面倒だ。

 一人でいることに慣れたから、誰かとは暮らせない。

 そう決めつけていたのは、自分自身ではないか。

 葵は真尋の言葉を、確かめるように繰り返した。

「順番は、変えられる」

「そう思います」

「真尋さんも?」

「私も、そう思いたいです」

 葵が笑った。

「じゃあ、今度は私が真尋さんの背中を押しますね」

「何の背中を押すんですか」

「恋愛です」

「余計なお世話です」

「まだ何も聞いてないのに」

「聞かなくていいです」

「でも、好きな人ができたら教えてください」

「できたら考えます」

「約束ですよ」

「約束はしていません」

 二人は笑った。

 初めて会ったばかりなのに、ずっと前から知っていた相手と話しているようだった。

 店内にはいつの間にか客が増えていた。

 隣の席には仕事帰りらしい男性二人が座り、奥の座敷では家族連れが鍋を囲んでいる。

 店内の声が重なり、外の寒さが嘘のように温かい。

 真尋は最後のきりたんぽを半分に分け、葵の器へ入れた。

「真尋さんが食べてください」

「一つでは多いので」

「じゃあ、いただきます」

 葵は素直に受け取った。

 その様子を見ながら、真尋はふと思った。

 誰かと食事をするのは、料理を分けることだけではない。

 美味しいと言う声を聞くこと。

 次に何を頼むか相談すること。

 相手の杯が空いているのに気づくこと。

 同じ湯気の向こうで、同じ時間を過ごすこと。

 一人では得られないものは、派手なものではない。

 こういう小さなやり取りなのだ。

「真尋さん」

「何ですか?」

「明日は、どこへ行く予定ですか?」

「まだ決めていません。朝の天気を見てから」

「私もです」

「一人旅なんだから、自分の行きたい場所へ行ったほうがいいですよ」

 そう言うと、葵は少しだけ笑った。

「真尋さんも、一人旅なんだから一人で行きたいですか?」

 まっすぐな質問だった。

 真尋は答えを急がなかった。

 本来なら、一人で行くつもりだった。

 誰かと予定を合わせるために来たのではない。

 けれど、葵ともう少し話してみたいと思っている。

 その気持ちを隠す理由は、どこにもなかった。

「朝食の時に、決めませんか」

 真尋が言うと、葵の顔が明るくなった。

「はい」

「天気が悪ければ、別行動でもいいですし」

「もちろんです」

「お互い、無理に合わせないこと」

「わかりました」

「一人旅ですから」

「そこは大事なんですね」

「大事です」

 真尋はそう言いながら笑った。

 一人でいる自由を守りながら、誰かと過ごす。

 そんなことができるのだろうか。

 これまでの真尋は、どちらかしか選べないと思っていた。

 一人で生きるか。

 誰かと生きるか。

 仕事を選ぶか。

 家庭を選ぶか。

 自由を取るか。

 寂しさを受け入れるか。

 人生には、常に一つの正解しかないように感じていた。

 だから選ぶことが怖かった。

 何かを手に入れれば、別の何かを失う。

 その失ったものを後悔する日が来る。

 そう思っていた。

 けれど今夜、葵と話しているうちに、少しだけ違う可能性が見えた気がした。

 一人で歩く日があってもいい。

 誰かと並ぶ日があってもいい。

 その日の自分に合う歩き方を選び直してもいい。

 幸せは、最初に決めた形を守り続けることではないのかもしれない。

 もちろん、まだ何もわからない。

 葵とは今日会ったばかりだ。

 明日になれば、会話が続かなくなるかもしれない。

 東京へ戻れば、連絡を取らなくなるかもしれない。

 旅先の偶然は、旅先だけで終わることのほうが多い。

 それでも今、真尋はこの出会いを嬉しいと思っていた。

 その気持ちだけは、否定しなくていい。

     *

 店を出ると、空気はさらに冷えていた。

 雨は降っていない。

 雲の切れ間から、わずかに星が見える。

「寒い」

 葵が両手をこすり合わせる。

「飲んだ後は余計に寒く感じますね」

「でも、お腹は温かいです」

 二人は宿へ向かって歩いた。

 夜の角館は静かだった。

 昼間は観光客で賑わっていた道に、人影はほとんどない。

 閉まった店の軒先。

 細い路地。

 遠くで犬の鳴く声。

 自分たちの足音だけが、冷たい空気の中に響く。

「真尋さん」

 葵が前を向いたまま言った。

「今日はありがとうございました」

「こちらこそ」

「写真も、ご飯も」

「ご飯は一緒に食べただけです」

「話を聞いてもらったのも」

「私も話を聞いてもらいました」

「私、あまり役に立つこと言ってないですよ」

「役に立つことを言わなくてもいいんじゃないですか」

 葵が真尋を見る。

「聞いてくれるだけでいい時もあります」

「真尋さんも、そうなんですね」

「私も人間ですから」

「また安心しました」

「何回安心するんですか」

「だって、会った時は隙のない人に見えたんです」

「それはよく言われます」

「でも本当は、ちゃんと迷うし、寂しい時もある」

 寂しい。

 真尋は自分からその言葉を使っていない。

 けれど、否定する気にはなれなかった。

「葵さんも、明るく見えますよ」

「見えるだけです」

「お互い様ですね」

「はい」

 宿の灯りが見えてくる。

 玄関前の南天が、夜の中で黒い影になっていた。

 葵が立ち止まる。

「私、今回の旅行、失敗したと思ってたんです」

「どうして?」

「彼氏と喧嘩して、勢いで予約して。一人で来たら来たで、ずっと連絡を気にして。紅葉を見ても、写真を撮って送ったら何て返ってくるかなって考えて」

 葵は苦笑した。

「全然、一人旅を楽しめてないなって」

「でも、来なかったら私とは会っていません」

 真尋が言うと、葵は目を瞬いた。

「そうですね」

「失敗かどうかは、帰る時に決めればいいんじゃないですか」

「真尋さん、時々すごくいいこと言いますね」

「時々は余計です」

 二人で笑う。

 玄関の引き戸を開ける。

 カラン、と鈴が鳴った。

 談話室の薪ストーブにはまだ火が入り、赤い炎が揺れていた。

 女将は帳場にいなかった。

「まだ少し飲みますか?」

 葵が談話室の棚を指す。

 小さな冷蔵庫には、地元のビールやジュースが並び、代金は箱へ入れる仕組みになっている。

「明日に響かない程度なら」

「私、ビール一本は多いかも」

「半分ずつにします?」

「はい」

 葵が地ビールを一本取り、真尋が代金を箱へ入れた。

 二人は薪ストーブの前のソファへ腰を下ろした。

 真尋が備え付けのグラスへビールを注ぐ。

 琥珀色の液体の上に、細かな泡が立つ。

「半分と言いながら、真尋さんのほうが多くないですか?」

「年上なので」

「そういう時だけ年齢を使うんですね」

「便利ですから」

 グラスを渡す。

 薪がぱちりと鳴った。

 しばらく二人は何も話さず、火を眺めていた。

 沈黙が気まずくない。

 それが真尋には意外だった。

 会話が途切れると、何か話題を探さなければと思う相手もいる。

 葵とは、黙っている時間さえ共有できる気がした。

「火って、ずっと見ていられますね」

 葵が言う。

「わかります」

「東京の家には、こういうものないですもんね」

「危ないですからね」

「真尋さん、マンションですか?」

「はい」

「一人暮らし?」

「そうです」

「部屋、きれいそう」

「普通ですよ」

「絶対きれいです」

「どうして決めつけるんですか」

「真尋さんだから」

「理由になっていません」

「私の部屋、すごく散らかってます」

「急に告白されても」

「洗濯物を畳むのが苦手で。椅子の上に積んで、その中から着るんです」

「畳まなくても困っていないなら、それでいいのでは」

「真尋さん、意外と適当ですね」

「人の家の洗濯物まで管理できません」

 葵が笑い、ビールを飲む。

「でも、彼氏が来る時だけ片づけます」

「それなら、できるんですね」

「できるけど、続かないんです」

「一緒に暮らしたら大変そうですね」

「やっぱりそう思います?」

「葵さんではなく、彼が」

「どういう意味ですか?」

「片づいた部屋しか知らないなら、結婚後に驚くでしょうね」

「あ」

 葵は口を押さえ、それから声を上げて笑った。

「真尋さん、面白いですね」

「普通のことを言っただけです」

「会社では、こういうこと言います?」

「言いません」

「もったいない」

「課長が部下の洗濯物の心配をしていたら嫌でしょう」

「それは嫌です」

 また笑う。

 薪ストーブの炎が、葵の横顔を橙色に照らしていた。

 昼間に見た時より、大人びて見える。

 明るく無防備なだけの女性ではない。

 恋愛に悩み、仕事に傷つき、それでも自分なりの答えを探している。

 真尋が若さとして羨んだものの中には、若いからこその不安定さもある。

 未来が広いということは、進む道が決まっていないということでもある。

 何にでもなれるということは、まだ何者でもないという不安と隣り合わせだ。

「真尋さん」

 葵が静かに呼んだ。

「はい」

「私、本当に真尋さんと会えてよかったです」

 酒のせいかもしれない。

 旅先の夜だからかもしれない。

 それでも、真尋はその言葉を軽く受け流せなかった。

「私もです」

 素直に答える。

 葵が少し驚いた後、嬉しそうに笑った。

「今、初めて素直に言いましたね」

「いつも素直です」

「嘘です。居酒屋に誘った時も、本当は嬉しかったのに、すぐ返事しなかったでしょう」

 見抜かれていた。

「考えていただけです」

「一人旅だから断ろうかと思って?」

「少しは」

「でも来てくれた」

「はい」

「明日も、一緒に行ってくれますか?」

 真尋は炎を見た。

 一人で見たかった景色がある。

 自分のペースで歩きたかった。

 けれど今は、葵がどんな景色に足を止めるのか見てみたいとも思う。

 自分が美しいと感じたものを、葵がどう見るのか知りたい。

「朝、寝坊しなければ」

「しません」

「八時に朝食ですよ」

「七時半には起きます」

「起きるのが遅いですね」

「旅行中くらい、ゆっくりでいいじゃないですか」

「支度は間に合うんですか?」

「急げば十分です」

「それで忘れ物をするんでしょう」

「真尋さん、お母さんみたい」

「十一歳しか違いません」

「お姉さん?」

「それなら、まだ」

「真尋さん」

「何ですか」

「明日もよろしくお願いします」

 葵がグラスを少し持ち上げる。

 真尋も自分のグラスを合わせた。

 小さく、軽い音がした。

「こちらこそ」

 炎の向こうで、夜が静かに深まっていく。

 東京から離れた秋田の小さな宿。

 本来なら、一人で過ごしていたはずの夜。

 真尋は隣に座る葵の気配を感じながら、不思議な温かさに包まれていた。

 誰かといると、自分の時間が奪われると思っていた。

 相手に合わせ、気を使い、一人でいる時より疲れるのだと。

 確かに、そういうこともある。

 けれど今は、葵が隣にいることで、自分一人では気づかなかった思いが言葉になっている。

 誰かといることは、自分を失うことではないのかもしれない。

 むしろ、自分一人では見えなかった部分を、相手の目を通して知ることなのかもしれない。

 真尋は空になったグラスを見つめた。

 幸せには、一つの形しかないと思っていた。

 家庭を持つこと。

 仕事で成功すること。

 一人で自由に生きること。

 どれか一つを選び、それを正解にしなければならないのだと。

 けれど、もしかすると。

 幸せは形ではなく、こうして誰かと同じ火を見つめる時間の中に、ふいに現れるものなのかもしれない。

 まだ、それを信じるには早かった。

 けれど真尋の中で、固く閉じていた何かが、ほんの少しだけ動き始めていた。

 旅は、まだ始まったばかりだった。


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