第二章 紅葉の下で出会った人
角館駅のホームへ降り立った瞬間、真尋は東京とはまるで違う空気の冷たさに肩をすくめた。
新幹線の車内から見ていた空は明るかったのに、駅前へ出ると、薄い雲が町全体を覆っている。陽射しはやわらかく、風にはもう秋というより冬の気配が混じっていた。
真尋はキャリーケースの持ち手から片手を離し、マフラーを首元へ引き寄せた。
「思ったより寒いな」
白くなるほどではない息を、そっと吐き出す。
駅舎の前には、観光案内所と小さなタクシー乗り場があり、その向こうには背の低い建物が並んでいた。東京駅を出てから数時間。同じ一日の中にいるはずなのに、時間の流れ方まで変わったように感じる。
真尋はスマートフォンを取り出し、予約していた宿までの道順を確認した。
宿は武家屋敷通りから少し外れた場所にある。チェックインにはまだ早い。先に駅のコインロッカーへ荷物を預け、町を歩く予定だった。
改札近くのロッカーにキャリーケースを入れ、カメラだけを肩に掛ける。
身軽になると、気持ちまで少し軽くなった。
旅先では、なるべく歩く。
行きたい場所まで最短距離で向かうより、一本横の道へ入った時に見つける小さな店や、民家の軒先に置かれた鉢植えや、風に揺れる洗濯物のほうが、あとになって記憶に残ることがあるからだ。
駅前から武家屋敷通りへ向かう道を、真尋はゆっくり歩き始めた。
観光地らしい土産物店が並ぶ通りを抜けると、町は少しずつ静かになっていった。道路脇には落ち葉が重なり、靴底で踏むたび、かさりと乾いた音がする。
東京では落ち葉を見ても、清掃が追いついていないと感じることのほうが多い。
けれどここでは、そのまま残されている葉が、季節の終わりを惜しむためのものに見えた。
真尋は立ち止まり、道沿いの木々へカメラを向けた。
赤く染まった葉の向こうに、古い家の黒い屋根が見える。
シャッターを切る。
もう一枚。
角度を変え、光の入り方を確かめながら、さらに一枚。
写真を撮っている間は、余計なことを考えなくて済む。
仕事のことも。
年齢のことも。
自分がこれからどう生きたいのかという、答えのない問いも。
目の前にある景色を、ただ美しいと思える。
それだけで十分だった。
武家屋敷通りへ近づくにつれ、人の姿が増えていった。
観光バスから降りた団体客。
地図を広げて話し合う夫婦。
着物を着て写真を撮り合う若い女性たち。
真尋は人の流れに合わせながら、黒塀が続く通りを歩いた。
紅葉の盛りは少し過ぎている。
枝先にはまだ鮮やかな葉が残っているものの、足元にはすでに多くが落ちていた。完全な見頃ではないからこそ、華やかさの後ろにある寂しさが際立っている。
真尋は、こういう景色が好きだった。
満開の桜より、散り始めた桜。
真夏の海より、九月の終わりの海。
始まりよりも、終わりかけの時間。
何かが失われていく直前の景色には、人を正直にさせる力がある気がしていた。
黒塀の前で、年配の夫婦が写真を撮ろうとしている。
妻らしい女性がスマートフォンを構え、夫だけを撮影していた。
真尋は少し迷ってから声をかけた。
「お二人で撮りましょうか」
女性は驚いたように振り向き、すぐに笑顔になった。
「いいんですか?」
「もちろんです」
スマートフォンを受け取り、二人が並ぶのを待つ。
「もう少しだけ近くに寄ってもらってもいいですか」
「あら、もっと?」
「せっかくなので」
妻が笑い、夫の腕に手を添える。
夫は照れたような顔をしたが、離れはしなかった。
真尋は数枚撮影し、画面を確認してからスマートフォンを返した。
「まあ、きれいに撮れてる」
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ」
夫婦は何度も頭を下げ、並んで歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、真尋は小さく息を吐いた。
何十年、一緒にいるのだろう。
あれほど自然に隣を歩けるようになるまで、どんな時間があったのだろう。
喧嘩もしただろう。
口をきかない日もあったかもしれない。
それでも、今こうして同じ景色を見ている。
真尋は自分の左側にある空間を意識した。
当然、誰もいない。
それを寂しいと思うほど弱くはない。
だが、何も感じないほど強くもなかった。
昔の真尋は、三十代になれば自然に結婚していると思っていた。
明確な願望があったわけではない。
ただ、周囲の大人たちがそうだったから、自分も同じ道を歩くのだろうと漠然と信じていた。
大学を卒業し、就職する。
仕事に慣れた頃に恋人ができる。
二十代後半で結婚し、三十代前半には子どもを持つ。
その先は家族と仕事の両立に悩みながらも、それなりに幸せに暮らす。
それが人生の標準形だと思っていた。
けれど実際には、仕事を覚えることに夢中になり、任されることが増えるほど面白くなった。恋人はいたが、互いの生活を変えるほどの覚悟は持てなかった。
三十一歳の時、四年付き合った恋人と別れた。
理由は一つではない。
彼は結婚を望んでいた。
真尋は、決めきれなかった。
彼が嫌いだったわけではない。
むしろ好きだった。
けれど、結婚という言葉を現実に置き換えた瞬間、息苦しさが先に立った。
彼の住む町へ引っ越すこと。
仕事の時間を調整すること。
家事を分け合うこと。
休日を一緒に過ごすこと。
将来の子どもについて考えること。
一つひとつは特別なことではない。
世の中の多くの人が選んでいる。
それでも真尋には、自分の輪郭が少しずつ薄くなっていくように思えた。
結局、彼は言った。
「真尋は、一人で生きていけるから」
責める口調ではなかった。
寂しそうな声だった。
その言葉を、真尋は今でも忘れられない。
一人で生きられることは、強さだと思っていた。
けれど彼にとっては、自分が必要とされない理由だった。
別れた後、真尋はしばらく自分を責めた。
もっと素直に頼ればよかったのか。
仕事を少し諦めればよかったのか。
彼が差し出してくれた幸せを、怖がらずに受け取ればよかったのか。
答えは出なかった。
ただ時間だけが過ぎ、真尋は昇進し、マンションを買い、一人でいることにますます慣れていった。
気づけば、三十六歳になっていた。
「すみません」
背後から声をかけられ、真尋は振り向いた。
そこに、薄いベージュのコートを着た若い女性が立っていた。
柔らかく巻いた肩ほどの髪。
白いニット。
小さな茶色のバッグ。
手にはスマートフォンを持っている。
「あの、写真を撮っていただいてもいいですか?」
女性は少し申し訳なさそうに笑った。
真尋は一瞬だけ、周囲を見た。
近くにはほかにも観光客がいる。
なぜ自分に声をかけたのだろうと思ったが、すぐに頷いた。
「いいですよ」
「ありがとうございます」
差し出されたスマートフォンを受け取る。
「どこを背景にしますか?」
「あの紅葉が残っているところでお願いしたいです」
女性が指した先には、黒塀の上へ枝を広げる楓があった。
上のほうはまだ赤い葉が残り、下の枝はほとんど裸になっている。
「では、あの辺りに立ってもらえますか」
「はい」
女性が木の下へ移動する。
スマートフォンの画面越しに見ると、彼女はどこか落ち着かない様子で髪を整え、コートの襟に触れた。
「もう少し右へお願いします」
「こっちですか?」
「はい。そこで大丈夫です」
真尋は一枚撮った。
画面を確認する。
背景はきれいだが、女性の表情が少し硬い。
「何枚か撮りますね」
「お願いします」
「少しだけ、紅葉を見る感じにしてもらえますか」
女性が顔を上げる。
その瞬間、風が吹いた。
赤い葉が一枚、彼女の肩の近くを横切る。
真尋は反射的にシャッターを押した。
女性が驚いて笑う。
もう一枚。
今度は正面。
さらに、少し引いた構図でも撮る。
「撮れました」
女性が小走りで戻ってくる。
真尋はスマートフォンを渡した。
「確認してください」
女性は画面を見て、目を大きくした。
「すごい」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫どころか、すごくきれいです。私、写真を撮られるといつも変な顔になるのに」
「風がちょうどよかったですね」
「これ、風のおかげだけじゃないですよ。撮るの上手ですね」
「カメラが趣味なので」
真尋が首から下げた一眼レフに触れると、女性は納得したように何度も頷いた。
「やっぱり。お願いする人を間違えなかったです」
「そんな大げさな」
「本当です。ありがとうございました」
女性は笑って頭を下げた。
その笑顔は、真尋が思っていたより幼く見えた。
二十代半ばくらいだろうか。
肌に張りがあり、目の奥に迷いが少ない。もちろん実際には悩みもあるのだろうが、真尋には、その迷いさえ未来へ続いているように見えた。
「お一人ですか?」
気づけば、真尋はそう尋ねていた。
普段なら、自分から見知らぬ人へ話しかけることはほとんどない。
女性は少し驚いた後、頷いた。
「はい。一人旅です」
「そうなんですね」
「そちらもですか?」
「ええ」
「なんだか安心しました」
「安心?」
「一人で来るって友達に言ったら、寂しくないのって何回も聞かれたので。でも、一人で来てる女性もちゃんといるんだって」
ちゃんと、という言い方が少しおかしくて、真尋は笑った。
「一人の人、たくさんいますよ」
「そうですよね。でも友達は、旅行は誰かと行くものって感じなんです」
「あなたは違うんですか?」
「一度、一人で来てみたかったんです」
女性はそう言いながら、紅葉のほうを見た。
「誰かと一緒だと、楽しいですけど、相手が見たいものも気になるじゃないですか。今日は、自分が見たいものだけ見てみたくて」
その言葉に、真尋は少し意外な気持ちになった。
見た目の明るさから、友人たちと賑やかに旅行するほうが好きな女性だと思っていた。
「いいと思います」
真尋が言うと、女性は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。なんだか、経験者に認めてもらえた感じがします」
「経験者って」
「一人旅、慣れてそうなので」
「まあ、何度かは」
「かっこいいですね」
あまりにもまっすぐに言われて、真尋は返事に困った。
かっこいい。
その言葉は職場でも時々言われる。
部下からも、同期からも。
けれど、それは多くの場合、仕事ができることや、感情を表に出さないことや、一人でも困らずに動けることを指していた。
真尋自身は、それをかっこいいと思ったことはない。
できるようにならなければ、生きにくかっただけだ。
「そんなことないですよ」
「ありますよ」
女性はなぜか譲らなかった。
その素直さが眩しく、真尋は目を細めた。
「では、私はこの辺りをもう少し歩くので」
「あ、はい。ありがとうございました」
「気をつけて」
「そちらも」
二人は軽く会釈をし、反対方向へ歩き出した。
数歩進んでから、真尋は振り返った。
女性はもう黒塀の向こうへ続く道を見ていて、こちらには気づいていない。
先ほど撮った写真を見返しているのか、スマートフォンを両手で持ち、少し嬉しそうに笑っていた。
真尋は前へ向き直った。
ほんの数分のやり取りだった。
旅先では、こういう出会いが時々ある。
駅までの道を教えてくれた人。
食堂で隣になり、おすすめの料理を教えてくれた人。
展望台で写真を撮り合った人。
その場では会話を交わしても、名前すら知らないまま別れる。
そして二度と会わない。
それでいい。
旅先の出会いは、続かないからこそ美しいこともある。
そう思いながらも、真尋の胸には、先ほどの女性の笑顔が薄く残っていた。
若いって、それだけで明るい。
そんなふうに思った自分を、真尋は少し嫌だと感じた。
年齢だけで人を見るつもりはない。
若いから悩みが浅いわけでも、未来が約束されているわけでもない。
それでも、二十五歳の自分には確かにあった。
まだ何者にでもなれるという、根拠のない感覚。
仕事を変えることも。
住む場所を変えることも。
誰かを好きになり、傷つき、それでもまた恋をすることも。
すべてが今より近くにあった。
三十六歳の今、何かを始めることが遅いとは思わない。
だが、選択には以前より具体的な重さがある。
仕事を辞めれば、これまで積み上げたものを手放すことになる。
恋愛を始めれば、自分だけの生活に誰かを迎える必要がある。
結婚を考えるなら、年齢という現実も無視できない。
何も失わずに進める道は、もうほとんど残っていない。
真尋はカメラを握り直した。
目の前には、黒塀の上に伸びる赤い枝がある。
美しい。
それでいい。
今はただ、目の前の景色を見ればいい。
そう言い聞かせるように、シャッターを切った。
*
昼食は、武家屋敷通りから少し離れた食事処で稲庭うどんを食べた。
温かいつゆから湯気が立ち、細く滑らかな麺が喉を通るたび、冷えていた体が内側からほどけていく。
隣の席では、若い夫婦が二人でメニューを覗き込んでいた。
「比内地鶏の親子丼も食べたいね」
「半分ずつにする?」
「じゃあ、うどんも半分ちょうだい」
そんな会話が聞こえてくる。
真尋は自分の前に置かれた一人分の膳を見た。
一人旅では、食べたいものを自由に選べる。
相手の好みを気にする必要もない。
店を決める時に意見が割れることもない。
けれど、違う料理を頼んで分け合うことはできない。
選べる自由と、選べない楽しさ。
どちらか一方だけを持つことはできないのかもしれない。
真尋はうどんをすすりながら、そんなことを考えた。
食後は田町武家屋敷通りを歩き、古い建物の内部を見学した。
畳の部屋。
煤けた梁。
手入れされた庭。
古い家には、人の暮らしが消えた後も、時間だけが残っている。
誰かがここで食事をし、眠り、子どもを育て、年老いていった。
その生活はもうない。
けれど床板の傷や柱の色に、確かに人の気配が染み込んでいる。
真尋は縁側へ腰を下ろした。
庭には落ち葉が重なり、石灯籠のそばで小さな木が揺れている。
静かだった。
東京の自宅も静かだ。
けれど、同じ静けさではない。
自宅の静けさは、時々、自分以外の気配が完全に存在しないことを知らせてくる。
ここには、知らない誰かが生きた時間がある。
だから静かでも、空っぽではなかった。
真尋はカメラを膝へ置き、両手をこすり合わせた。
スマートフォンが震える。
会社のグループチャットだった。
部下の一人が、月曜日の会議資料について質問をしている。
画面にはすでに、別の部下から回答が入っていた。
真尋は返信せず、スマートフォンをバッグへ戻した。
自分がいなくても、仕事は進む。
それは当然のことだ。
むしろ、そうでなければ困る。
自分にしかできない仕事を抱え込む上司は、組織にとって良い上司ではない。
わかっている。
それでも、自分が必要とされなくなることへの小さな恐怖が、どこかにある。
仕事は真尋を裏切らなかった。
努力すれば、その分だけ成果が返ってきた。
役職が上がり、給料が増え、責任も増えた。
恋愛のように、気持ちだけではどうにもならない曖昧さが少ない。
だから真尋は仕事を選んだ。
選び続けてきた。
その結果、今の自分がいる。
後悔はしていない。
けれど時々、仕事で埋めてきた場所の形が、ふいに見えてしまう。
それが何なのか、真尋自身にもよくわからなかった。
*
午後三時を過ぎると、空気はさらに冷たくなった。
真尋は駅へ戻り、ロッカーから荷物を取り出した。
宿は駅から歩いて十五分ほどの場所にある。
古民家を改装した小さな宿で、客室は六つしかない。
大きな旅館も便利だが、真尋はこうした小さな宿を好んで選ぶ。
団体客が少なく、静かに過ごせるからだ。
細い道を曲がると、木造二階建ての建物が見えた。
濃い茶色の格子戸。
軒下に吊るされた小さな灯り。
玄関脇には、赤く色づいた南天が植えられている。
真尋は暖簾をくぐり、引き戸を開けた。
カラン、と澄んだ鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
帳場から、六十代くらいの女性が顔を出した。
「予約していた水口です」
「水口真尋様ですね。お待ちしておりました」
女性は穏やかに笑い、宿帳を差し出した。
真尋が住所と名前を書いている間、奥から薪の燃える匂いが漂ってくる。
玄関横の談話室には、小さな薪ストーブが置かれていた。
古い梁と白い壁。
磨かれた木の床。
新しく整えられているのに、元の家の温かさがきちんと残っている。
「夕食はついていないプランでしたね」
「はい。近くで食べようと思っています」
「この辺りでしたら、歩いて五分ほどのところに小さな居酒屋がありますよ。地元の方もよく行かれます」
女将は手書きの地図を取り出し、赤い丸をつけた。
「一人でも入りやすいですか?」
「ええ。カウンターがありますし、ご主人も話しやすい方です。きりたんぽ鍋は一人前から作ってくれますよ」
「それはいいですね」
「ただ、混むこともありますので、六時前くらいに行かれるとよいかもしれません」
「ありがとうございます」
真尋が地図を受け取った時、背後で再び鈴が鳴った。
「すみません、チェックインをお願いしたいんですが」
聞き覚えのある声だった。
真尋が振り返る。
玄関に、昼間の女性が立っていた。
ベージュのコート。
茶色のバッグ。
小さな紺色のキャリーケース。
女性も真尋に気づき、驚いて目を見開いた。
「あ」
「昼間の」
「写真を撮ってくださった方ですよね」
「そうです」
二人の間に、一瞬の沈黙が落ちた。
先に笑ったのは女性のほうだった。
「すごい偶然ですね」
「本当に」
「同じ宿だったんですね」
「みたいですね」
女将が二人を交互に見た。
「お知り合いですか?」
「いえ、今日、武家屋敷で写真を撮っていただいて」
「まあ。旅先のご縁ですね」
旅先のご縁。
その言葉に、真尋は少し照れくささを覚えた。
女性は帳場へ近づき、宿帳を受け取った。
「小野寺葵です。予約しています」
初めて名前を知った。
小野寺葵。
葵が宿帳へ文字を書く。
丸みのある、丁寧な字だった。
「水口さん、ですよね」
宿帳を見たのか、葵が真尋へ顔を向けた。
「はい。水口真尋です」
「真尋さん」
葵は一度、確かめるように口にした。
名前で呼ばれることに、真尋は少し戸惑った。
職場では水口課長。
友人からは真尋。
初対面に近い相手から名前で呼ばれるのは久しぶりだった。
「葵さんは、これから夕食ですか?」
女将が尋ねる。
「まだ決めてなくて。どこか近くにありますか?」
「ちょうど水口さんにもお話ししていたんですが、近くに居酒屋がありますよ」
女将が同じ地図をもう一枚取り出す。
葵は地図を見た後、真尋へ視線を向けた。
「真尋さんも行くんですか?」
「そのつもりです」
「そうなんですね」
葵は何か言いたそうに口を開き、けれど一度閉じた。
真尋はその迷いに気づいた。
一緒に行きますか。
そう言えば簡単だった。
けれど、昼間に数分話しただけの相手だ。
十一歳ほど年下に見える女性を、自分から誘うのも不自然な気がした。
それに真尋は、一人で食事をするつもりでこの宿を選んでいる。
一人旅なのだから、一人で過ごせばいい。
そう思っている間に、女将が部屋の説明を始めた。
「水口様は二階の桔梗、小野寺様は隣の撫子です」
「隣なんですね」
葵が笑う。
「本当に偶然が続きますね」
「ええ」
「では、お部屋へご案内します」
女将に続き、二人は階段を上がった。
古い木の階段は、一段ごとに小さく軋む。
二階の廊下には、和紙の灯りが等間隔に置かれていた。
突き当たりの二部屋が、桔梗と撫子だった。
「お風呂は一階の奥です。二つありますので、空いているほうへ内側から鍵をかけてお使いください。夜は十一時まで、朝は六時からです」
女将が説明し、それぞれの鍵を渡す。
「では、ごゆっくり」
女将が階段を下りていく。
真尋と葵は、隣り合った部屋の前に残された。
「それじゃあ」
真尋が鍵を持ち上げる。
「あの」
葵が声をかけた。
「はい?」
「さっきの居酒屋なんですけど」
やはり、と思った。
葵は少し恥ずかしそうに笑った。
「一緒に行きませんか?」
真尋はすぐに返事をしなかった。
嫌だったわけではない。
むしろ、その言葉を待っていた自分がいた。
ただ、素直に頷くことに、なぜか小さな抵抗があった。
自分は一人旅を楽しみに来た。
一人でいることを選んできた。
それなのに、誰かに誘われて嬉しいと思う自分を認めると、これまで守ってきたものが少し揺らぐような気がした。
葵の表情に、不安が浮かぶ。
「すみません。せっかく一人で来られてるのに」
「いえ」
真尋は首を振った。
「私も、一人で入るより心強いです」
本当は、一人でも平気だった。
だが、今はその言い方のほうが自然に思えた。
葵の表情が明るくなる。
「よかった」
「六時前がいいそうなので、五時半に下で待ち合わせますか?」
「はい」
「では、また後で」
「お願いします」
それぞれの部屋へ入る。
襖を閉めた瞬間、真尋はその場で小さく息を吐いた。
静かな和室だった。
八畳ほどの畳の部屋。
窓際には低い椅子と小さな丸テーブルがある。
床の間には、秋草を描いた掛け軸。
すでに布団が敷かれていた。
真尋はカメラバッグを置き、窓辺へ歩いた。
外には細い路地と、民家の屋根が見える。
空は灰色から薄い藍色へ変わり始めていた。
自分からは誘えなかった。
そのことを、真尋は少し情けなく思った。
葵はためらいながらも、一緒に行こうと言った。
年下の彼女のほうが、ずっと素直だった。
「何を怖がってるんだろう」
誰に聞かせるでもなく呟く。
ただ夕食を一緒に食べるだけだ。
今夜限りのことかもしれない。
旅先で出会い、少し話し、別れる。
それ以上でも、それ以下でもない。
なのに真尋の胸には、久しぶりに誰かと食事をする前のような、わずかな高揚があった。
*
五時半に一階へ降りると、葵はすでに玄関脇で待っていた。
昼間と同じコートだが、首元には淡い黄色のマフラーを巻いている。
「お待たせしました」
「私も今来たところです」
葵はそう言って笑った。
おそらく少し前から待っていたのだろう。
二人で宿を出る。
外はすっかり暗くなっていた。
軒先の灯りが路地をぼんやり照らし、冷たい風が足元を通り抜ける。
「寒いですね」
葵が肩をすくめる。
「昼間より一気に冷えましたね」
「秋田を甘く見てました。東京の十一月くらいのつもりで」
「私もです」
「真尋さんでも、そういうことあるんですね」
「どういう意味ですか?」
「旅慣れてるから、全部完璧に準備してそうで」
「そんなわけないですよ。忘れ物もしますし、電車を乗り間違えることもあります」
「本当ですか?」
「この前、金沢に行った時は、ホテルに充電器を忘れました」
葵が笑う。
「なんだか安心しました」
「今日、二回目ですね。その言葉」
「私、真尋さんを勝手に完璧な人にしようとしてるかもしれません」
「会って数時間ですよ」
「でも、雰囲気でわかることってありません?」
「間違っていることも多いです」
「じゃあ、これから確かめます」
葵は軽い調子で言った。
これから。
その言葉に、真尋は少し引っかかった。
今夜だけではなく、明日も話すつもりなのだろうか。
旅が終わってからも、という意味ではないだろう。
それでも、その何気ない言葉が不思議と耳に残った。
居酒屋は、古い商店の並ぶ通りの一角にあった。
木の看板に、手書き風の文字で店名が書かれている。
引き戸を開けると、温かい空気と出汁の香りが一気に流れてきた。
「いらっしゃい」
カウンターの中から、五十代くらいの男性が声をかける。
店内にはカウンターが七席と、四人掛けの座敷が二つ。
まだ早い時間だったため、客は奥の座敷にいる夫婦だけだった。
「二人です」
葵が答える。
「カウンターでいいですか?」
「はい」
二人は並んで腰を下ろした。
真尋が壁のメニューを見る。
きりたんぽ鍋。
比内地鶏の焼き物。
いぶりがっこ。
山菜の天ぷら。
刺身。
地酒の銘柄もいくつか並んでいる。
「何にします?」
葵が尋ねる。
「きりたんぽ鍋は食べたいですね」
「私もです」
「一人前ずつにしますか?」
店主が会話を聞いていたらしく、口を挟んだ。
「二人なら二人前を一つの鍋で作ったほうがうまいよ」
「では、それでお願いします」
真尋が言う。
「ほかに何かありますか?」
「いぶりがっこと、比内地鶏の焼いたものも」
葵がすぐに答える。
「飲み物は?」
「私は地酒にします」
真尋がメニューを見る。
「どれが飲みやすいですか?」
「最初なら、これかな。香りがやわらかい」
店主が指した銘柄を頼む。
葵は少し迷い、同じものにした。
「日本酒、飲めるんですか?」
「強くはないですけど、せっかく秋田なので」
「無理しないでくださいね」
「真尋さんがいるから大丈夫です」
「私を何だと思ってるんですか」
「頼れるお姉さん」
真尋は思わず笑った。
「今日会ったばかりですよ」
「でも十一歳上ですよね」
「どうして年齢がわかるんですか」
「えっ」
葵の表情が固まる。
「聞いてないですよね、私の年齢」
「すみません。宿帳の生年月日、ちらっと見えちゃって」
「ああ」
真尋は苦笑した。
「個人情報を見られましたね」
「本当にすみません。わざとじゃないんです」
「冗談です」
葵は胸を撫で下ろした。
「私は二十五歳です」
「それは宿帳を見なくても、そのくらいだと思っていました」
「やっぱり若く見えます?」
「年相応だと思います」
「それって褒めてますか?」
「褒めています」
「真尋さんは三十六歳に見えないです」
「それも褒め言葉として受け取っておきます」
地酒が運ばれてくる。
小さなガラスの杯に、透明な酒が揺れていた。
葵が杯を持ち上げる。
「何に乾杯します?」
「難しいですね」
「旅先の偶然に、はどうですか?」
真尋は少しだけ目を細めた。
「いいですね」
「では、旅先の偶然に」
「乾杯」
杯を軽く合わせる。
澄んだ音がした。
酒は口に含むとやわらかく、後からほのかな甘みが広がった。
「おいしい」
葵が驚いたように言う。
「飲みやすいですね」
「危ないやつですね。飲みやすくて、後から酔うやつ」
「ゆっくり飲みましょう」
いぶりがっこが運ばれてくる。
薄く切られた大根から、燻した香りが立っている。
葵は一切れ口へ入れ、目を丸くした。
「思ってたより香りが強い」
「苦手ですか?」
「いえ。お酒に合います」
「二十五歳にしては渋いですね」
「真尋さん、私を子ども扱いしてません?」
「していませんよ」
「本当ですか?」
「少しだけ」
「やっぱり」
葵が笑う。
その笑い声につられ、真尋も笑った。
こんなふうに、会って間もない相手と会話が途切れないことが不思議だった。
同年代の女性と話す時には、無意識に共通点を探す。
仕事。
結婚。
家族。
住んでいる場所。
それらが違いすぎると、どこかに遠慮が生まれる。
葵とは年齢が離れている分、最初から違うことが前提だった。
だから比べなくて済む。
わかり合おうとしすぎず、知らないことをそのまま尋ねられる。
その距離が心地よかった。
「どうして秋田だったんですか?」
真尋が尋ねる。
葵は杯を置き、少し考えた。
「紅葉を見たかったのと、遠くに来たかったからです」
「遠くに?」
「はい。東京から、なるべく遠いところに」
「何かあったんですか」
聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。
だが葵は嫌な顔をしなかった。
「彼氏と、少しうまくいってなくて」
そう言って笑ったが、その笑顔は昼間より薄かった。
「ごめんなさい。初対面の人に話すことじゃないですね」
「旅先だから話せることもありますよ」
真尋が言うと、葵はゆっくり顔を上げた。
「真尋さんも、そういうことありますか?」
「あります」
「誰にも言えないこと?」
「誰にも言えないというより、言っても仕方がないと思っていることです」
「それ、すごくわかります」
葵は小さく頷いた。
「言葉にしたら、解決しなきゃいけない気がするんですよね」
真尋は葵を見た。
思いがけない言葉だった。
「だから、言わないままにしておく?」
「はい。悩んでいる途中なら、まだ何も決めなくていいから」
「葵さんは、彼と別れたいんですか?」
「わかりません」
答えは早かった。
きりたんぽ鍋が運ばれてくる。
土鍋の蓋を開けると、白い湯気が立ち上った。
ごぼうと鶏の香りが広がり、二人は一度会話を止めた。
「熱いから気をつけて」
店主が器を置く。
「ありがとうございます」
真尋がきりたんぽを取り分け、葵へ渡した。
「すみません」
「どうぞ」
葵は器を両手で持ち、湯気に顔を近づけた。
「温かい」
「寒い日に合いますね」
二人はしばらく黙って鍋を食べた。
きりたんぽは出汁を吸い、噛むと米の甘みが広がる。
比内地鶏は弾力があり、ごぼうの香りが濃い。
体が温まるにつれ、真尋の肩から力が抜けていった。
「彼とは、どのくらい付き合っているんですか?」
真尋は頃合いを見て尋ねた。
「二年くらいです。会社は違うんですけど、大学の友達の紹介で」
「長いですね」
「私にとっては長いです」
葵はきりたんぽを箸で小さく切った。
「最近、将来の話をすると、話題を変えられるんです」
「結婚の話ですか?」
「はっきり結婚って言ったわけじゃないです。でも、来年どうするとか、住む場所とか、そういう話をすると」
「彼はいくつですか?」
「二十八です」
「仕事が忙しい?」
「忙しいとは言っています。でも、前は忙しくても会ってくれたんです。最近は連絡も減って」
葵はそこで言葉を切った。
真尋には、その先がわかった。
気持ちが離れているのではないか。
別の人がいるのではないか。
そんな不安を口にすると、本当になってしまいそうで言えないのだろう。
「私、重いのかなって思って」
「どうしてですか?」
「将来の話をしたいと思うから」
「二年付き合っているなら、考えるのは自然じゃないですか」
「でも、二十五歳で結婚を急いでるみたいに思われるのも嫌で」
「急いでいるんですか?」
葵は考えた。
「わからないです」
また同じ答えだった。
「結婚したいのか、彼とずっといたいのか、それとも友達が結婚し始めたから焦ってるだけなのか。全部混ざってて」
「二十五歳でも、そういうことを考えるんですね」
真尋が言うと、葵は少し頬を膨らませた。
「二十五歳を何だと思ってるんですか」
「もっと未来を信じている年齢かと」
「信じてますよ。でも、信じてるから不安になるんです」
その言葉が、真尋の胸へ静かに落ちた。
信じているから、不安になる。
真尋はいつから、未来を信じなくなったのだろう。
期待しなければ、傷つかない。
選ばなければ、失敗しない。
一人でいれば、誰にも生活を乱されない。
そうやって守ってきたものは多い。
同時に、最初から諦めてきたものもあったのかもしれない。
「真尋さんは?」
葵が尋ねる。
「私?」
「恋人、いるんですか?」
「いません」
「結婚は?」
「していません」
「したいと思いますか?」
初対面の相手に聞くには、かなり直接的な質問だった。
だが葵には悪気がない。
真尋は杯に残った酒を見た。
「昔は、いつかするものだと思っていました」
「今は?」
「わかりません」
葵が笑った。
「同じですね」
「そうですね」
「年齢が違っても、わからないものはわからないんですね」
「年齢が上がれば、何でも答えが出るわけではないですよ」
「でも、真尋さんは自分の生き方を決めてるように見えます」
「決めたというより、こうなっただけです」
「仕事、何をしているんですか?」
「IT企業で、課長をしています」
葵は目を輝かせた。
「課長なんですか?」
「そんなに驚かなくても」
「だって、三十六歳で課長ってすごくないですか?」
「会社によります」
「部下もいるんですよね」
「います」
「何人くらい?」
「直接見ているのは十二人です」
「十二人」
葵は感心したように繰り返した。
「私、自分一人の仕事でもいっぱいいっぱいなのに」
「最初はみんなそうです」
「真尋さんもですか?」
「もちろん」
「失敗したこともあります?」
「数え切れないくらい」
「怒られたことも?」
「ありますよ」
「泣いたことは?」
真尋は少し考えた。
「会社では泣かないようにしていました」
「やっぱり強い」
「違います。泣いたら負けだと思っていただけです」
「負け?」
「若い頃、女性は感情的だと思われたくなかったんです。だから、何を言われても顔に出さないようにしていました」
「つらくなかったですか?」
「つらかったですよ」
「それでも続けたんですね」
「続けていたら、できるようになりました」
葵はしばらく黙っていた。
「私、すぐ顔に出るんです」
「悪いことではないと思います」
「でも、職場では子どもっぽく見られます。悔しくて泣いた時も、泣くくらいならちゃんとやってって言われて」
葵の声が少し低くなった。
「その人の言い方はどうかと思います」
「でも、言われる私も悪いんです。確認不足でミスしたので」
「ミスをしたことと、泣いたことを責めるのは別です」
真尋が言うと、葵は驚いたようにこちらを見た。
「真尋さんなら、泣くなって言うと思いました」
「どうしてですか?」
「仕事ができる人だから」
「仕事ができる人は、泣かない人ではありません」
「でも真尋さんは泣かなかった」
「泣けなかっただけです」
真尋は自分でも意外なほど、率直に答えていた。
「泣いてもいい場所が、あまりなかったので」
葵の表情が変わった。
憧れだけではない、何かを見つけたような目だった。
「真尋さんも、一人なんですね」
その言葉に、真尋は一瞬、息を止めた。
一人。
事実ではある。
だが、葵の言い方には同情も憐れみもなかった。
自分と同じように、誰にも見せていない場所があるのだと知っただけのようだった。
「一人ですよ」
真尋は答えた。
「でも、一人でいることが嫌いなわけではありません」
「わかります」
葵が頷く。
「私も、一人になりたくてここへ来たのに、ずっと彼から連絡が来るか確認してます」
テーブルの端に置かれた葵のスマートフォンは、先ほどから一度も鳴っていなかった。
「矛盾していますね」
「本当に」
「でも、人はそんなものかもしれません」
「一人になりたいのに、誰かに気づいてほしい」
「自由でいたいのに、必要とされたい」
真尋が続けると、葵は目を見開いた。
「それです」
「私も同じです」
二人の間に、静かな共感が生まれた。
年齢も仕事も、生きてきた時間も違う。
それでも、心の中にある矛盾はよく似ている。
葵は地酒をもう一口飲み、頬を少し赤くした。
「真尋さん」
「はい」
「私、真尋さんみたいになりたいです」
真尋は困ったように笑った。
「今日会ったばかりの人を目標にしないほうがいいですよ」
「でも、本当に」
「私は、そんなに立派ではありません」
「立派だからじゃなくて」
葵は言葉を探すように、箸を置いた。
「一人で旅に来て、自分で好きなものを見て、仕事もちゃんとしてて。でも、自分は強いから平気って言わないところが、かっこいいです」
真尋は返す言葉を失った。
誰かから褒められる時、真尋が評価されるのは、たいてい表面に見える部分だった。
判断が早い。
仕事が正確。
責任感がある。
感情に流されない。
一人でも行動できる。
けれど葵は、平気ではないことを隠さなかった点を、かっこいいと言った。
そんなふうに見られたことは、一度もなかった。
「それに」
葵が少し笑う。
「私、真尋さんくらいの年齢になったら、もっと全部決まってると思ってました」
「失望しました?」
「逆です」
「逆?」
「安心しました」
今日三度目の言葉だった。
「三十六歳でも迷うなら、二十五歳の私が迷っててもいいのかなって」
真尋は葵を見つめた。
自分の迷いが、誰かを安心させることがある。
そんなことを考えたことはなかった。
弱さは隠すものだった。
見せれば、信頼を失う。
誰かに付け込まれる。
そう思ってきた。
けれど目の前の葵は、真尋が完璧ではないと知り、少しほっとした顔をしている。
「葵さん」
「はい」
「あなたは、急いで答えを出さなくてもいいと思います」
「彼とのことですか?」
「それも、仕事も、将来も」
「でも、時間って過ぎますよね」
「過ぎます」
「その間に、選べなくなるものもある」
「あります」
真尋は否定しなかった。
「でも、焦って選んだからといって、正しいとは限りません」
「真尋さんは、焦らなかったから今があるんですか?」
鋭い質問だった。
真尋はしばらく答えられなかった。
「私の場合は、怖くて選ばなかったことも多いです」
「怖くて?」
「今の生活を失うことが」
「それは、後悔していますか?」
「時々」
「時々なんですね」
「ずっとではありません。今の生活が好きなことも本当だから」
葵は少し考え込んだ。
「どっちも本当でいいんですかね」
「どういうことですか?」
「一人でいたいのも本当。誰かといたいのも本当。仕事を頑張りたいのも本当。結婚したい気持ちも本当。でも、全部は選べない気がして」
「全部を同じ時に持つのは難しいでしょうね」
「やっぱり」
「ただ、順番は変えられるかもしれません」
「順番」
「今は仕事を選ぶ。次は誰かと暮らすことを考える。あるいは、その逆でもいい。一度選んだら、永遠に変えられないわけではないでしょう」
自分で言いながら、真尋は胸の奥に小さな痛みを感じた。
一度選んだら変えられないわけではない。
それは葵だけではなく、自分にも向けた言葉だった。
三十六歳だから、今さら恋愛は面倒だ。
一人でいることに慣れたから、誰かとは暮らせない。
そう決めつけていたのは、自分自身ではないか。
葵は真尋の言葉を、確かめるように繰り返した。
「順番は、変えられる」
「そう思います」
「真尋さんも?」
「私も、そう思いたいです」
葵が笑った。
「じゃあ、今度は私が真尋さんの背中を押しますね」
「何の背中を押すんですか」
「恋愛です」
「余計なお世話です」
「まだ何も聞いてないのに」
「聞かなくていいです」
「でも、好きな人ができたら教えてください」
「できたら考えます」
「約束ですよ」
「約束はしていません」
二人は笑った。
初めて会ったばかりなのに、ずっと前から知っていた相手と話しているようだった。
店内にはいつの間にか客が増えていた。
隣の席には仕事帰りらしい男性二人が座り、奥の座敷では家族連れが鍋を囲んでいる。
店内の声が重なり、外の寒さが嘘のように温かい。
真尋は最後のきりたんぽを半分に分け、葵の器へ入れた。
「真尋さんが食べてください」
「一つでは多いので」
「じゃあ、いただきます」
葵は素直に受け取った。
その様子を見ながら、真尋はふと思った。
誰かと食事をするのは、料理を分けることだけではない。
美味しいと言う声を聞くこと。
次に何を頼むか相談すること。
相手の杯が空いているのに気づくこと。
同じ湯気の向こうで、同じ時間を過ごすこと。
一人では得られないものは、派手なものではない。
こういう小さなやり取りなのだ。
「真尋さん」
「何ですか?」
「明日は、どこへ行く予定ですか?」
「まだ決めていません。朝の天気を見てから」
「私もです」
「一人旅なんだから、自分の行きたい場所へ行ったほうがいいですよ」
そう言うと、葵は少しだけ笑った。
「真尋さんも、一人旅なんだから一人で行きたいですか?」
まっすぐな質問だった。
真尋は答えを急がなかった。
本来なら、一人で行くつもりだった。
誰かと予定を合わせるために来たのではない。
けれど、葵ともう少し話してみたいと思っている。
その気持ちを隠す理由は、どこにもなかった。
「朝食の時に、決めませんか」
真尋が言うと、葵の顔が明るくなった。
「はい」
「天気が悪ければ、別行動でもいいですし」
「もちろんです」
「お互い、無理に合わせないこと」
「わかりました」
「一人旅ですから」
「そこは大事なんですね」
「大事です」
真尋はそう言いながら笑った。
一人でいる自由を守りながら、誰かと過ごす。
そんなことができるのだろうか。
これまでの真尋は、どちらかしか選べないと思っていた。
一人で生きるか。
誰かと生きるか。
仕事を選ぶか。
家庭を選ぶか。
自由を取るか。
寂しさを受け入れるか。
人生には、常に一つの正解しかないように感じていた。
だから選ぶことが怖かった。
何かを手に入れれば、別の何かを失う。
その失ったものを後悔する日が来る。
そう思っていた。
けれど今夜、葵と話しているうちに、少しだけ違う可能性が見えた気がした。
一人で歩く日があってもいい。
誰かと並ぶ日があってもいい。
その日の自分に合う歩き方を選び直してもいい。
幸せは、最初に決めた形を守り続けることではないのかもしれない。
もちろん、まだ何もわからない。
葵とは今日会ったばかりだ。
明日になれば、会話が続かなくなるかもしれない。
東京へ戻れば、連絡を取らなくなるかもしれない。
旅先の偶然は、旅先だけで終わることのほうが多い。
それでも今、真尋はこの出会いを嬉しいと思っていた。
その気持ちだけは、否定しなくていい。
*
店を出ると、空気はさらに冷えていた。
雨は降っていない。
雲の切れ間から、わずかに星が見える。
「寒い」
葵が両手をこすり合わせる。
「飲んだ後は余計に寒く感じますね」
「でも、お腹は温かいです」
二人は宿へ向かって歩いた。
夜の角館は静かだった。
昼間は観光客で賑わっていた道に、人影はほとんどない。
閉まった店の軒先。
細い路地。
遠くで犬の鳴く声。
自分たちの足音だけが、冷たい空気の中に響く。
「真尋さん」
葵が前を向いたまま言った。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「写真も、ご飯も」
「ご飯は一緒に食べただけです」
「話を聞いてもらったのも」
「私も話を聞いてもらいました」
「私、あまり役に立つこと言ってないですよ」
「役に立つことを言わなくてもいいんじゃないですか」
葵が真尋を見る。
「聞いてくれるだけでいい時もあります」
「真尋さんも、そうなんですね」
「私も人間ですから」
「また安心しました」
「何回安心するんですか」
「だって、会った時は隙のない人に見えたんです」
「それはよく言われます」
「でも本当は、ちゃんと迷うし、寂しい時もある」
寂しい。
真尋は自分からその言葉を使っていない。
けれど、否定する気にはなれなかった。
「葵さんも、明るく見えますよ」
「見えるだけです」
「お互い様ですね」
「はい」
宿の灯りが見えてくる。
玄関前の南天が、夜の中で黒い影になっていた。
葵が立ち止まる。
「私、今回の旅行、失敗したと思ってたんです」
「どうして?」
「彼氏と喧嘩して、勢いで予約して。一人で来たら来たで、ずっと連絡を気にして。紅葉を見ても、写真を撮って送ったら何て返ってくるかなって考えて」
葵は苦笑した。
「全然、一人旅を楽しめてないなって」
「でも、来なかったら私とは会っていません」
真尋が言うと、葵は目を瞬いた。
「そうですね」
「失敗かどうかは、帰る時に決めればいいんじゃないですか」
「真尋さん、時々すごくいいこと言いますね」
「時々は余計です」
二人で笑う。
玄関の引き戸を開ける。
カラン、と鈴が鳴った。
談話室の薪ストーブにはまだ火が入り、赤い炎が揺れていた。
女将は帳場にいなかった。
「まだ少し飲みますか?」
葵が談話室の棚を指す。
小さな冷蔵庫には、地元のビールやジュースが並び、代金は箱へ入れる仕組みになっている。
「明日に響かない程度なら」
「私、ビール一本は多いかも」
「半分ずつにします?」
「はい」
葵が地ビールを一本取り、真尋が代金を箱へ入れた。
二人は薪ストーブの前のソファへ腰を下ろした。
真尋が備え付けのグラスへビールを注ぐ。
琥珀色の液体の上に、細かな泡が立つ。
「半分と言いながら、真尋さんのほうが多くないですか?」
「年上なので」
「そういう時だけ年齢を使うんですね」
「便利ですから」
グラスを渡す。
薪がぱちりと鳴った。
しばらく二人は何も話さず、火を眺めていた。
沈黙が気まずくない。
それが真尋には意外だった。
会話が途切れると、何か話題を探さなければと思う相手もいる。
葵とは、黙っている時間さえ共有できる気がした。
「火って、ずっと見ていられますね」
葵が言う。
「わかります」
「東京の家には、こういうものないですもんね」
「危ないですからね」
「真尋さん、マンションですか?」
「はい」
「一人暮らし?」
「そうです」
「部屋、きれいそう」
「普通ですよ」
「絶対きれいです」
「どうして決めつけるんですか」
「真尋さんだから」
「理由になっていません」
「私の部屋、すごく散らかってます」
「急に告白されても」
「洗濯物を畳むのが苦手で。椅子の上に積んで、その中から着るんです」
「畳まなくても困っていないなら、それでいいのでは」
「真尋さん、意外と適当ですね」
「人の家の洗濯物まで管理できません」
葵が笑い、ビールを飲む。
「でも、彼氏が来る時だけ片づけます」
「それなら、できるんですね」
「できるけど、続かないんです」
「一緒に暮らしたら大変そうですね」
「やっぱりそう思います?」
「葵さんではなく、彼が」
「どういう意味ですか?」
「片づいた部屋しか知らないなら、結婚後に驚くでしょうね」
「あ」
葵は口を押さえ、それから声を上げて笑った。
「真尋さん、面白いですね」
「普通のことを言っただけです」
「会社では、こういうこと言います?」
「言いません」
「もったいない」
「課長が部下の洗濯物の心配をしていたら嫌でしょう」
「それは嫌です」
また笑う。
薪ストーブの炎が、葵の横顔を橙色に照らしていた。
昼間に見た時より、大人びて見える。
明るく無防備なだけの女性ではない。
恋愛に悩み、仕事に傷つき、それでも自分なりの答えを探している。
真尋が若さとして羨んだものの中には、若いからこその不安定さもある。
未来が広いということは、進む道が決まっていないということでもある。
何にでもなれるということは、まだ何者でもないという不安と隣り合わせだ。
「真尋さん」
葵が静かに呼んだ。
「はい」
「私、本当に真尋さんと会えてよかったです」
酒のせいかもしれない。
旅先の夜だからかもしれない。
それでも、真尋はその言葉を軽く受け流せなかった。
「私もです」
素直に答える。
葵が少し驚いた後、嬉しそうに笑った。
「今、初めて素直に言いましたね」
「いつも素直です」
「嘘です。居酒屋に誘った時も、本当は嬉しかったのに、すぐ返事しなかったでしょう」
見抜かれていた。
「考えていただけです」
「一人旅だから断ろうかと思って?」
「少しは」
「でも来てくれた」
「はい」
「明日も、一緒に行ってくれますか?」
真尋は炎を見た。
一人で見たかった景色がある。
自分のペースで歩きたかった。
けれど今は、葵がどんな景色に足を止めるのか見てみたいとも思う。
自分が美しいと感じたものを、葵がどう見るのか知りたい。
「朝、寝坊しなければ」
「しません」
「八時に朝食ですよ」
「七時半には起きます」
「起きるのが遅いですね」
「旅行中くらい、ゆっくりでいいじゃないですか」
「支度は間に合うんですか?」
「急げば十分です」
「それで忘れ物をするんでしょう」
「真尋さん、お母さんみたい」
「十一歳しか違いません」
「お姉さん?」
「それなら、まだ」
「真尋さん」
「何ですか」
「明日もよろしくお願いします」
葵がグラスを少し持ち上げる。
真尋も自分のグラスを合わせた。
小さく、軽い音がした。
「こちらこそ」
炎の向こうで、夜が静かに深まっていく。
東京から離れた秋田の小さな宿。
本来なら、一人で過ごしていたはずの夜。
真尋は隣に座る葵の気配を感じながら、不思議な温かさに包まれていた。
誰かといると、自分の時間が奪われると思っていた。
相手に合わせ、気を使い、一人でいる時より疲れるのだと。
確かに、そういうこともある。
けれど今は、葵が隣にいることで、自分一人では気づかなかった思いが言葉になっている。
誰かといることは、自分を失うことではないのかもしれない。
むしろ、自分一人では見えなかった部分を、相手の目を通して知ることなのかもしれない。
真尋は空になったグラスを見つめた。
幸せには、一つの形しかないと思っていた。
家庭を持つこと。
仕事で成功すること。
一人で自由に生きること。
どれか一つを選び、それを正解にしなければならないのだと。
けれど、もしかすると。
幸せは形ではなく、こうして誰かと同じ火を見つめる時間の中に、ふいに現れるものなのかもしれない。
まだ、それを信じるには早かった。
けれど真尋の中で、固く閉じていた何かが、ほんの少しだけ動き始めていた。
旅は、まだ始まったばかりだった。




