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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第一章 ひとりで歩くための靴

金曜日の午後六時を過ぎても、オフィスの窓には白い照明が映り込んでいた。

 十一月の日暮れは早い。

 高層ビルの二十階から見下ろす東京の街には、すでに無数の明かりが灯っている。道路を埋める車のヘッドライトも、隣のビルの窓に並ぶ照明も、遠くから眺めればひとつの美しい景色だった。

 その明かりの一つひとつに、誰かの仕事や生活がある。

 そう考えると、東京は巨大な生き物のように思える。

 誰か一人が立ち止まっても、街は止まらない。

 水口真尋は会議室のモニターを消し、テーブルの上に残された資料を揃えた。

「今日はここまでにしましょう」

 真尋が言うと、向かい側に座っていた三人の部下が、ほとんど同時に顔を上げた。

 企画チームの定例会議は、本来なら午後五時半までの予定だった。だが来週、取引先へ提出する新サービスの提案資料に修正が入り、予定より三十分以上延びていた。

「でも、課長。競合比較のページがまだ途中です」

 入社三年目の佐伯美咲が、手元のパソコンへ視線を落とした。

 真尋より十一歳年下の二十五歳。

 仕事は丁寧だが、責任感が強すぎるところがある。自分が担当した箇所に不備があると、それがチーム全体の失敗であるかのように抱え込んでしまう。

「残りは月曜日で大丈夫です」

「月曜日の午後には部長確認ですよね」

「午前中に私も一緒に見ます。今日中に終わらせても、疲れた頭で作った資料は、月曜の朝に直すことになりますから」

「でも……」

 佐伯は納得していない表情だった。

 真尋は彼女のパソコンの画面へ目を向けた。

 比較表の大枠はできている。色や文字の配置が整っていないだけで、内容に致命的な不足はない。

「佐伯さん」

「はい」

「今日、この資料を完成させることと、月曜日に良い状態で提出することは、同じではありません」

 佐伯が黙る。

「今は、完成させたという安心が欲しくなっているだけでしょう?」

 真尋の指摘に、佐伯は気まずそうに笑った。

「……そうかもしれません」

「だったら、今日は帰りましょう。休むことも仕事のうちです」

 隣に座っていた男性社員が、ほっとしたようにパソコンを閉じた。

「課長がそう言ってくれるなら、遠慮なく帰ります」

「吉田さんは最初から帰る気だったでしょう」

「ばれました?」

 会議室に小さな笑いが起こる。

 張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。

 真尋は資料を抱え、会議室の扉を開けた。

「来週は大事な提案ですが、失敗したら会社がなくなるわけではありません。必要以上に怖がらないでください」

「課長は緊張しないんですか?」

 佐伯が尋ねた。

「しますよ」

「全然そう見えません」

「見せないようにしているだけです」

 真尋は笑った。

 部下たちも笑った。

 だが、それは半分だけ本当だった。

 緊張を見せないようにしているうちに、自分が本当に緊張しているのかさえ、わからなくなることがある。

 感情を表に出さない。

 迷っても、結論を出す。

 不安でも、部下には大丈夫だと言う。

 管理職になってから身につけたというより、もっと以前から続けてきた習慣だった。

 真尋は会議室を出て、自分の席へ戻った。

 フロアにはまだ十数人が残っている。

 電話の声。

 キーボードを打つ音。

 プリンターが紙を送り出す音。

 誰かが笑う声。

 どれも毎日耳にしている音だった。

 自分の席に座り、未読メールを確認する。

 緊急の案件はない。

 来週でも間に合う連絡ばかりだ。

 真尋はパソコンを閉じた。

 机の端に置いていた黒いトートバッグへ、手帳と眼鏡ケースを入れる。引き出しの鍵を確かめ、椅子を整える。

「水口課長、もう帰るんですか?」

 背後から声をかけられた。

 振り向くと、隣の部署の課長である村瀬が立っていた。

 真尋と同い年で、入社時期も近い。

 村瀬は驚いたように時計を見る。

「まだ六時半ですよ」

「十分働きました」

「珍しいですね。金曜の水口さんが、こんな時間に帰るなんて」

「明日から休みを取っています」

「ああ、旅行でしたっけ」

「秋田へ行きます」

「一人で?」

「はい」

 村瀬は少し笑った。

「相変わらずですね」

「何がですか?」

「一人でどこへでも行くところです。僕なんて、出張以外で一人旅なんてしたことないですよ」

「楽ですよ。予定を合わせなくていいですから」

「寂しくないですか?」

 悪意のない質問だった。

 真尋は同じことを、これまで何度も聞かれている。

 一人で旅行をすると言えば、寂しくないのか。

 一人で食事へ行けば、つまらなくないのか。

 一人暮らしが長いと言えば、不安ではないのか。

 人は、一人でいる女性を見ると、その時間に不足があると考えるらしい。

「寂しい時もあります」

 真尋は答えた。

 村瀬が少し意外そうな顔をする。

「でも、誰かといても寂しい時はありますから」

「それは、まあ」

「一人旅のほうが、少なくとも自分の機嫌は自分で取れます」

「水口さんらしいな」

「どういう意味ですか?」

「格好いいってことです」

 真尋は曖昧に笑った。

 格好いい。

 一人でどこへでも行ける女性。

 仕事ができる女性。

 自分のことは自分で決められる女性。

 そのように見られることは、嫌いではない。

 若い頃には、むしろそう見られたかった。

 誰かに頼らなければ生きられない人だと思われるより、ずっといい。

 けれど最近、その言葉を聞くたびに、胸の中へ小さな重りが落ちる。

 格好いいという言葉の向こう側に、あなたは一人でも大丈夫でしょう、という意味が隠れている気がするからだ。

「では、お先に失礼します」

「気をつけて。写真、楽しみにしてます」

「ありがとうございます」

 真尋はフロアを出た。

 エレベーターの扉が閉じる。

 一人になった瞬間、真尋は壁へ軽く背中を預けた。

 二十階から一階へ数字が減っていく。

 十九。

 十八。

 十七。

 会議では疲れていないつもりだったのに、肩の奥が重かった。

 役職に就いて三年になる。

 十二人の部下。

 複数の案件。

 取引先との調整。

 上司への報告。

 部下の評価。

 採用面接。

 予算管理。

 自分で手を動かしていた頃とは、仕事の種類が変わった。

 以前は、良いものを作ることだけを考えていればよかった。

 今は、誰に何を任せるかを考えなければならない。

 仕事が遅れている人がいれば、理由を聞く。

 人間関係で悩んでいる人がいれば、間へ入る。

 退職を考えていると相談されることもある。

 真尋の判断一つで、誰かの仕事量や評価が変わる。

 責任を任されることは、ずっと望んできた。

 自分の意見が通らず、悔しい思いをした若い頃には、決定権のある立場へ早く上がりたいと思っていた。

 実際にその場所へ立ってみると、決めることは自由ではなく、引き受けることなのだと知った。

 正解のない問いに答えを出し、結果が悪ければ自分の責任として受け止める。

 真尋はその役割を嫌ってはいない。

 むしろ向いていると思う。

 誰かが迷っている時に、進む方向を示すことができる。

 部下が成長していく姿を見るのも嬉しい。

 ただ、毎日たくさんの人の悩みを受け止めながら、自分の悩みを話す場所がどこにもないことに気づく夜がある。

 エレベーターが一階へ着いた。

 ロビーを抜けて外へ出ると、冷たい風が頬に触れた。

 真尋はコートの襟元を閉じる。

 駅へ向かう人の流れに加わった。

 金曜日の夜。

 歩道には会社帰りの人があふれている。

 数人で居酒屋へ向かう若い社員たち。

 スマートフォンを耳に当て、待ち合わせの相手を探す女性。

 スーツ姿の男性の腕へ手を回して歩く恋人同士。

 真尋は人々の間を一定の速さで歩いた。

 今夜は誰とも会う約束がない。

 家へ帰り、明日の荷物を確認して、早く眠るだけだ。

 それを寂しいとは思わない。

 むしろ、予定のない金曜日の夜は好きだった。

 誰かの都合に合わせなくていい。

 帰宅時間も、夕食も、眠る時間も自由だ。

 それでも街を歩く人々が、誰かのもとへ帰っていくように見える夜だけは、自分がどこにも所属していないような感覚になる。

 会社には所属している。

 家族もいる。

 友人もいる。

 けれど、真尋が帰るのを待っている人はいない。

 自分のためだけに灯りをつける部屋へ帰る。

 そのことが急に、広い空白のように感じられる日がある。

     *

 最寄り駅へ着いた頃には、午後七時半を過ぎていた。

 真尋は駅前のスーパーマーケットへ入り、総菜売り場へ向かった。

 明日の朝が早いため、料理をするつもりはない。

 小さなパックのサラダと、鮭のおにぎりを一つ、豆腐と鶏肉のスープをかごへ入れた。

 デザートの棚の前で立ち止まる。

 プリンが二個入ったパックが特売になっている。

 一個入りより安い。

 手を伸ばしかけて、やめた。

 二つあっても、結局一人で食べるだけだ。

 隣では、幼い子どもを連れた女性が、三個入りのシュークリームをかごへ入れていた。

「パパのは?」

 子どもが尋ねる。

「これは三つ入ってるから、パパのもあるよ」

 女性が答える。

 真尋はその親子から視線を外し、一個入りの小さなヨーグルトを選んだ。

 自分の食べたいものを、自分の分だけ買う。

 合理的で、無駄がない。

 真尋が長年続けてきた暮らしだった。

 レジへ向かう途中、ワイン売り場の前を通る。

 以前付き合っていた恋人は、週末になるとよくワインを買った。

 詳しいわけではないのに、毎回ラベルを見比べ、今日はこれがいい気がすると言って選んでいた。

 真尋には味の違いがほとんどわからなかった。

 それでも、彼が選んだワインを二人で飲む時間は好きだった。

 真尋は足を止めず、そのままレジへ進んだ。

 三十一歳の冬に別れてから、もう五年が経っている。

 思い出す回数は減った。

 名前を口にすることもない。

 それでも、何かをきっかけに、当時の光景が不意に戻ってくる。

 ワイン売り場。

 鍋料理。

 雨の日の映画館。

 駅前の書店。

 記憶は、忘れた頃に生活の隙間から顔を出す。

 会いたいわけではない。

 やり直したいわけでもない。

 ただ、彼といた頃の自分を思い出す。

 誰かに期待し、期待され、未来を二人分のものとして考えていた自分。

 今とは少し違う自分だった。

     *

 真尋の住むマンションは、駅から歩いて八分ほどの場所にある。

 築六年の一LDK。

 三年前、課長へ昇進した年に購入した。

 賃貸のままでも困らなかったが、老後まで家賃を払い続けることを考えると、買ったほうがいいと思った。

 ローン審査も契約も、一人で行った。

 不動産会社の担当者から、ご主人と相談されますかと尋ねられ、独身ですと答えた時の、ほんの一瞬の間を今でも覚えている。

 悪気はなかったのだろう。

 三十代の女性がマンションを買うなら、夫がいると思っただけだ。

 真尋はその時、自分の生活が、世間の想定する順序から少し外れているのだと改めて知った。

 部屋の照明をつける。

「ただいま」

 誰もいないとわかっていながら、小さく口にした。

 声は静かな部屋へ吸い込まれた。

 玄関には、明日履いていく予定の茶色いショートブーツが置いてある。

 リビングには低いグレーのソファと、丸い木のテーブル。

 窓際には観葉植物が三つ。

 壁には、これまで旅先で撮った写真を飾っている。

 冬の函館。

 雨の金沢。

 桜島を望む鹿児島の海。

 夕暮れの尾道。

 どの写真にも、人はほとんど写っていない。

 旅先で真尋がカメラを向けるのは、風景や建物ばかりだった。

 人を撮るのが嫌いなわけではない。

 ただ、一人旅では撮る相手がいない。

 自分の写真も少ない。

 観光地で誰かに頼めば撮ってもらえるが、そこまでして自分の姿を残したいとは思わなかった。

 だから写真を見返しても、その場所に本当に自分がいたのか、時々わからなくなる。

 景色だけがあり、その中から自分だけが消えている。

 真尋はコートを脱ぎ、クローゼットへ掛けた。

 手を洗ってから、買ってきたスープを電子レンジへ入れる。

 温まるまでの間に、明日の荷物を確認した。

 リビングの隅には、紺色の小さなキャリーケースが置いてある。

 二泊三日の旅。

 下着。

 着替え。

 化粧品。

 充電器。

 折り畳み傘。

 手袋。

 マフラー。

 常備薬。

 一眼レフの予備バッテリー。

 すべて前日のうちに詰めていた。

 真尋は旅行前に慌てることが嫌いだった。

 予定を立て、必要なものを準備し、可能な限り不確定な要素を減らす。

 仕事と同じだ。

 ただ今回は、観光の予定を細かく決めていない。

 角館の武家屋敷を歩く。

 紅葉を見る。

 温泉に入る。

 決めているのはそれだけだった。

 一人旅では、分刻みの予定を立てない。

 誰にも迷惑をかけないのだから、気が変われば予定を変えればいい。

 朝起きて雨が降っていれば、宿で本を読んでもいい。

 気に入った喫茶店があれば、何時間いてもいい。

 仕事では、常に先を見て動く。

 旅の時くらいは、その瞬間の気分で決めたかった。

 電子レンジが鳴る。

 真尋はスープとおにぎりをテーブルへ運び、テレビをつけた。

 旅番組が流れていた。

 夫婦らしい二人の出演者が、瀬戸内の島を歩いている。

「きれいだね」

「本当だね」

 画面の中で二人が同じ景色を見て笑う。

 真尋はスープを口へ運んだ。

 温かい。

 塩味が少し濃い。

 一人旅の魅力を聞かれると、真尋はいつも自由だからと答える。

 好きな時間に起きられる。

 好きな店へ入れる。

 興味のない場所へ付き合わなくていい。

 疲れたら休める。

 誰にも気を使わない。

 それはすべて本当だった。

 けれど、自由という言葉だけでは説明できないものもある。

 一人旅では、自分が何を見たいのか、自分が何を食べたいのか、自分がどこで立ち止まりたいのかを、毎回自分へ問いかける。

 普段の生活では、仕事や人間関係の中で後回しにしている自分の気持ちを、旅先では無視できない。

 だから真尋は旅に出る。

 一人になるためではなく、自分の声を聞くために。

 ただ、その声が時々、思いがけないことを言う。

 誰かと話したい。

 同じ景色を見て、美しいと言い合いたい。

 美味しい料理を、一口食べてみてと差し出したい。

 一人旅を愛している自分の中に、そんな気持ちがあることを、真尋はあまり認めたくなかった。

 自由でいたいと願いながら、誰かを求める。

 矛盾している。

 けれど、人の気持ちは、最初から一つに決められるものではないのかもしれない。

 真尋はテレビを消した。

 急に部屋が静かになる。

 食器を片づけ、明日の服をベッドの横へ置く。

 厚手の白いニット。

 黒いパンツ。

 ロングコート。

 旅先で歩きやすいショートブーツ。

 鏡の前に立ち、自分の顔を見た。

 化粧を落とす前の顔には、一日の疲れがにじんでいる。

 目元に細い線がある。

 二十代の頃にはなかった。

 頬の輪郭も少し変わった。

 三十六歳。

 若くはない。

 だが、年老いてもいない。

 まだ何かを始められる年齢だと思う。

 けれど世間は、三十六歳の独身女性に、さまざまな意味を与えたがる。

 仕事を選んだ人。

 結婚できなかった人。

 自由を楽しんでいる人。

 理想が高い人。

 一人でも平気な人。

 真尋自身は、そのどれにも完全には当てはまらない。

 仕事は選んだ。

 だが恋愛を捨てると決めたわけではない。

 結婚できなかったのかもしれない。

 自分から選ばなかったのかもしれない。

 自由は好きだ。

 それでも孤独が怖い夜もある。

 一人でも生きられる。

 だからといって、一人で生きたいと決めたわけではなかった。

 真尋は鏡から目をそらし、化粧を落とした。

     *

 ベッドへ入ったのは午後十時半だった。

 翌朝は五時に起きる。

 早く眠らなければならないのに、目を閉じると、昼間の会話や来週の仕事が浮かんでくる。

 佐伯の資料。

 部長への報告。

 取引先の反応。

 仕事を考えないようにすると、今度は別の記憶が現れた。

「真尋は、一人で生きていけるから」

 五年前、恋人だった慎一に言われた言葉。

 別れ話をしたのは、真尋の部屋だった。

 当時住んでいた賃貸マンション。

 二人で選んだ青いマグカップが、テーブルの上に並んでいた。

 慎一は六歳年上で、出版社に勤めていた。

 仕事を通じて知り合い、何度か食事へ行き、付き合い始めた。

 穏やかな人だった。

 真尋が仕事で遅くなっても責めなかった。

 忙しい時には料理を作り、冷蔵庫へ入れておいてくれた。

 真尋の話をよく聞き、自分の考えを押しつけることもなかった。

 四年付き合った。

 慎一が三十七歳、真尋が三十一歳になった頃、彼は結婚の話をするようになった。

 最初は遠回しだった。

 もう少し広い部屋へ引っ越さないか。

 生活費を一緒にしたほうが楽ではないか。

 将来、子どもは欲しいか。

 真尋はそのたびに、今は忙しいから、もう少し落ち着いてからと答えた。

 本当に忙しかった。

 新しいプロジェクトの責任者へ抜擢され、昇進の可能性も見えていた。

 ここで生活を変えれば、仕事に集中できなくなる気がした。

 だが、仕事が落ち着く日は来なかった。

 一つの案件が終われば、次が始まる。

 責任が増えるほど、忙しさも増した。

 ある夜、慎一は言った。

「結婚したくないなら、そう言ってほしい」

 真尋は答えられなかった。

 結婚したくないわけではない。

 慎一と一緒にいたくないわけでもない。

 ただ、結婚後の生活を想像すると、喜びより先に不安が浮かんだ。

 家事をどう分けるのか。

 仕事を続けられるのか。

 子どもを持つのか。

 慎一の両親との関係。

 自分の母の老後。

 二人の家計。

 休日の使い方。

 名字を変えること。

 小さな問題がいくつも並び、その一つひとつに、自分の何かを差し出さなければならないように思えた。

「私は、今の生活を変えるのが怖い」

 ようやく言えたのは、それだけだった。

 慎一は長い間黙っていた。

「僕と暮らすことは、真尋にとって何かを失うことなんだね」

「そういう意味じゃない」

「でも、得るものより失うものを考えてる」

 否定できなかった。

 慎一は青いマグカップへ視線を落とした。

「真尋は、一人で生きていけるから」

 責める声ではなかった。

 そのことが余計につらかった。

「僕がいなくても困らないんだと思う」

「困るかどうかで付き合っていたわけじゃない」

「わかってる。でも僕は、真尋の人生に必要な人になりたかった」

 真尋は何も言えなかった。

 必要という言葉が重かった。

 誰かを必要とすれば、失った時に立てなくなる。

 そう思っていた。

 慎一は別れたいと言った。

 真尋は引き止めなかった。

 引き止めて、では結婚しようと言う覚悟が持てなかったからだ。

 彼が荷物をまとめて部屋を出ていった後、真尋は二つ並んだマグカップを見ながら泣いた。

 声を出さずに、長い時間泣いた。

 慎一を愛していた。

 別れたくなかった。

 それでも彼が望む未来を選べなかった。

 好きという気持ちだけでは、一緒に生きられないことを知った。

 その後、慎一は二年ほどして結婚した。

 共通の知人から聞いた。

 相手は同じ会社の女性で、子どもも生まれたらしい。

 真尋は祝福した。

 幸せになってほしいと思った。

 それは嘘ではない。

 ただ、慎一が望んでいた人生を別の誰かと歩いていると知った夜、真尋は自分が何を守り、何を失ったのか、わからなくなった。

 仕事は順調だった。

 昇進した。

 収入も増えた。

 一人でマンションを買った。

 好きな場所へ旅に出られる。

 後悔しているのかと聞かれれば、していないと答える。

 けれど、別の選択をした自分を想像しない日はない。

 慎一と結婚していたら。

 仕事を少しだけ緩めていたら。

 子どもを持っていたら。

 今頃、どんな部屋で、どんな朝を迎えていただろう。

 選ばなかった道は、いつも美しく見える。

 そこにある苦労を経験していないからだと、真尋はわかっている。

 それでも時々、その道の向こうから、別の自分がこちらを見ている気がする。

 あなたは本当に、今の人生でよかったの。

 そう問いかけられているように感じる。

 真尋は目を開けた。

 暗い寝室。

 時計は午後十一時を過ぎている。

 明日は旅へ出る。

 仕事も、過去も、東京に置いていく。

 数日離れたところで、何かが解決するわけではない。

 それでも知らない町を歩けば、胸の中に風が通る。

 真尋は布団を引き寄せ、もう一度目を閉じた。

     *

 午前五時。

 スマートフォンのアラームが鳴るより数秒早く、真尋は目を覚ました。

 外はまだ暗い。

 カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいる。

 真尋はベッドから起き、洗面所へ向かった。

 顔を洗い、化粧をする。

 旅行だからといって、特別な服を着るわけではない。

 白いニットと黒いパンツ。

 髪を低い位置でまとめる。

 鏡の前でピアスをつけようとして、少し迷った。

 小さな金色のピアス。

 慎一から三十歳の誕生日にもらったものだった。

 別れてからもしばらくは使えなかった。

 捨てようと思ったこともある。

 けれど物に罪はないと思い、数年後から再びつけるようになった。

 今では身につけても、慎一の顔を思い出すことはほとんどない。

 思い出は時間とともに、痛みではなく、自分の一部へ変わっていく。

 真尋はピアスを耳へつけた。

 キッチンで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。

 朝食は小さなパンを一つ。

 食べながら、スマートフォンで天気を確認した。

 東京は晴れ。

 秋田は曇り。

 午後の降水確率は二十パーセント。

 気温は東京よりかなり低い。

 マフラーと手袋を入れておいて正解だった。

 午前五時四十分。

 キャリーケースを引き、玄関を出た。

 鍵をかける。

 静かな廊下に、キャスターの音が響く。

 エレベーターの鏡に映った自分は、これから旅へ出る人というより、出張へ向かう会社員のように見えた。

 真尋は一人で笑った。

 マンションを出ると、朝の空気は思った以上に冷たかった。

 夜と朝の境目。

 空はまだ濃い青色で、東の端だけがわずかに明るい。

 駅へ向かう道には、人がほとんどいない。

 コンビニの前で配送業者が荷物を下ろしている。

 ジョギングをする男性。

 犬を散歩させる年配の女性。

 いつもとは違う時間の街を見るだけで、旅はすでに始まっている気がした。

 駅の改札を通り、電車へ乗る。

 土曜日の早朝だが、座席は半分ほど埋まっていた。

 大きなスーツケースを持つ家族。

 登山用の服装をした男女。

 部活動へ向かうらしい高校生。

 真尋はドアの近くへ立ち、流れる景色を見た。

 窓に映る自分の向こう側で、見慣れた街が後ろへ遠ざかっていく。

 旅に出る朝は、いつも少しだけ生まれ変わるような感覚がある。

 昨日までの自分から離れ、まだ何も決まっていない時間へ入っていく。

 東京駅へ着く頃には、空はすっかり明るくなっていた。

     *

 東京駅は、午前七時前とは思えないほど混雑していた。

 新幹線の改札前には、旅行客や出張者が行き交っている。

 土産物店のシャッターはすでに開き、駅弁売り場には列ができていた。

 真尋は人の流れを避けながら、予約していた新幹線のホームへ向かう。

 途中のコーヒーショップで、温かいカフェラテを買った。

「お砂糖はお使いになりますか?」

 店員に聞かれ、首を振る。

「結構です」

 紙カップを受け取り、キャリーケースの上へ置く。

 エスカレーターでホームへ上がると、冷たい風が吹き抜けた。

 発車案内には、秋田新幹線こまちの文字。

 真尋は指定された号車の位置まで歩いた。

 ホームには、さまざまな人が列を作っている。

 小さな子どもを連れた夫婦。

 楽しそうに話す大学生くらいの女性三人。

 おそろいのリュックを背負った老夫婦。

 真尋の前に並んでいる若い男女は、これからどこへ行くのか相談していた。

「角館で降りたら、最初に武家屋敷?」

「ホテルに荷物預けてからでいいんじゃない?」

「紅葉、まだ残ってるかな」

「少しは残ってるでしょ」

 自分と同じ目的地らしい。

 女性が男性の腕へ寄りかかり、スマートフォンの画面を一緒に見る。

 真尋は紙カップへ口をつけた。

 カフェラテは熱く、舌の先が少し痛んだ。

 誰かと旅行する時、予定を決めるのは楽しい。

 どこへ行くか。

 何を食べるか。

 どの宿へ泊まるか。

 けれど真尋は、旅行の計画を立てる段階で疲れることが多かった。

 相手が行きたい場所を優先し、自分の希望を後回しにする。

 食べたいものが違っても、相手に合わせる。

 集合時間を気にする。

 歩く速さを合わせる。

 相手が楽しんでいるかを考える。

 それは真尋が勝手にしていることだ。

 相手から求められているわけではない。

 それでも誰かといると、気を使わずにはいられなかった。

 一人旅なら、自分のことだけを考えればいい。

 その安心が、真尋には必要だった。

 赤い車体の新幹線が、ゆっくりとホームへ入ってくる。

 風が起こり、真尋のコートの裾が揺れた。

 扉が開く。

 乗客が降りるのを待ち、真尋は車内へ入った。

 窓側の席。

 キャリーケースを荷物置き場へ入れ、カメラバッグを足元へ置く。

 コートを脱ぎ、座席へ腰を下ろした。

 隣の席はまだ空いている。

 真尋は窓の外を見た。

 ホームを走る子どもを、父親が追いかけている。

 母親が笑いながら二人を呼ぶ。

 その少し向こうでは、年配の女性が見送りに来た家族へ何度も手を振っていた。

 出発する人。

 送り出す人。

 待っている人。

 真尋には、見送る人はいない。

 それを自由と呼ぶこともできる。

 孤独と呼ぶこともできる。

 どちらも間違いではない。

 隣の席へ、五十代くらいの女性が座った。

「失礼します」

「どうぞ」

 女性は小さな旅行バッグを棚へ載せ、息をついた。

 真尋は少し体を窓側へ寄せる。

 車内アナウンスが流れた。

 扉が閉まる。

 新幹線が静かに動き出した。

 東京駅のホームが後ろへ流れていく。

 建物の間から朝の光が差し込む。

 真尋は息を吐いた。

 東京を離れる。

 その事実だけで、胸の奥に溜まっていたものが少し薄くなった。

 スマートフォンを取り出し、機内モードにはせず、仕事の通知だけを切った。

 部下たちには、緊急の連絡先として部長を伝えている。

 週末の間、真尋がいなくても会社は動く。

 当たり前のことだ。

 それでも以前は、休暇中もメールを確認していた。

 自分がいない間に問題が起きたらどうしよう。

 部下が困ったらどうしよう。

 判断が遅れたらどうしよう。

 そう思い、旅先でもパソコンを開いた。

 ある時、北海道の海を見ながら会議へ参加している自分に気づき、何のためにここまで来たのかわからなくなった。

 それ以来、旅行中は仕事の通知を切ることにしている。

 休むことも仕事のうち。

 先ほど佐伯へ言った言葉は、自分にも言い聞かせ続けていることだった。

 新幹線は上野を過ぎ、大宮へ向かう。

 窓の外には住宅街が続いている。

 洗濯物が干されたベランダ。

 小さな公園。

 踏切で待つ人々。

 知らない誰かの日常が、一瞬ずつ通り過ぎていく。

 真尋はカメラバッグから文庫本を取り出した。

 旅に出る女性を主人公にした小説。

 数ページ読んだが、文字が頭へ入ってこない。

 窓の外へ意識が向く。

 真尋は本を閉じた。

 イヤホンをつけようとして、やめる。

 旅では、できるだけ音楽を聴かない。

 レールの音。

 車内アナウンス。

 周囲の人の小さな会話。

 駅へ停車した時に入ってくる土地の空気。

 それらも含めて、旅の記憶になるからだ。

 スマートフォンが震えた。

 母からのメッセージだった。

『もう新幹線に乗った?』

 真尋は窓の外を一枚撮り、返信する。

『乗ったよ。今、大宮を過ぎたところ』

 すぐに既読がついた。

『秋田は寒いらしいから、風邪ひかないようにね』

『手袋もマフラーも持ってきたから大丈夫』

『写真送ってね』

『はいはい』

 母とのやり取りは、いつも似ている。

 真尋の母は、埼玉県の実家で一人暮らしをしている。

 父は七年前に病気で亡くなった。

 真尋が二十九歳の時だった。

 父が亡くなった後、母はしばらく塞ぎ込んだ。

 真尋は毎週末、実家へ通った。

 食事を作り、買い物へ付き添い、役所の手続きを手伝った。

 母を一人にしてはいけないと思った。

 だが半年ほど経った頃、母は言った。

「真尋、自分の家に帰りなさい」

「今日は泊まるよ」

「明日、仕事でしょう」

「ここからでも行けるから」

「私のために、あなたの生活を止めないで」

 母の言葉に、真尋は何も言えなかった。

 父を失った母を支えなければならないと思っていた。

 だが母は、娘に寄りかかることを望んでいなかった。

「一人になったからって、一人では何もできないわけじゃないのよ」

 母はそう言った。

 真尋はその言葉を、強さだと思った。

 母は父を愛していた。

 四十年近く一緒に暮らし、突然一人になった。

 それでも自分の生活を立て直した。

 近所の友人と旅行へ行き、陶芸教室へ通い始めた。

 自分の食べたいものを作り、一人で映画館にも行くようになった。

 真尋が一人旅を始めたのも、母の影響があったのかもしれない。

 ただ母は時々、真尋へ結婚の話をする。

 直接、結婚しなさいとは言わない。

 だが親戚の子どもが結婚した話や、近所に孫が生まれた話を、何気ない調子で伝えてくる。

 真尋が一人で生きることを認めながら、心のどこかでは別の幸せを願っている。

 それもまた、矛盾ではないのだろう。

 メッセージの画面に、新しい文字が表示された。

『お母さんのことは心配しなくていいから、楽しんできなさい』

 真尋は小さく笑った。

 何も聞いていないのに、母はいつもそう言う。

 娘が自分を気にしていることを知っているのだ。

『わかってる。お土産買ってくる』

『きりたんぽは重いからいらない』

『じゃあ何がいいの』

『何でもいい』

 何でもいいと言う人ほど難しい。

 真尋は笑いながらスマートフォンをしまった。

     *

 新幹線が宇都宮を過ぎる頃、車窓の景色は少しずつ変わり始めた。

 建物が減り、田畑が広がる。

 遠くの山々が近づいてくる。

 秋の終わりの空は高く、雲が薄く伸びている。

 真尋は窓へ額を近づけた。

 黄金色の田んぼ。

 葉を落としかけた木々。

 小さな川。

 光を反射するビニールハウス。

 都会にいる時、季節はカレンダーや服装で知る。

 旅へ出ると、景色そのものが季節を教えてくれる。

 隣の女性が駅弁を広げた。

 醤油と魚の香りが漂う。

 真尋も東京駅で買ったサンドイッチをバッグから取り出した。

 一人分の小さな箱。

 隣の女性は二つ入っている卵焼きのうち、一つを後ろの席の男性へ渡した。

「これ、食べる?」

「もらう」

 夫婦だったらしい。

 席は離れていたが、女性が時々振り返って話している。

 真尋はサンドイッチを一口かじった。

 誰かと食べ物を分けるという行為を、長い間していない気がした。

 職場の会食では料理を取り分ける。

 友人と食事をすれば、少し味見をすることもある。

 けれど生活の中で自然に、これを食べると尋ねる相手はいない。

 買い物をする時も、一人分。

 料理を作る時も、一人分。

 旅の予約も、一人分。

 その単位に慣れすぎて、二人分の生活を想像できなくなっている。

 慎一から告白された時、真尋は一人でいる時間を失うのが怖かった。

 別れて五年。

 今では、誰かといる時間をどう作ればいいのかがわからない。

 習慣は、人を守る。

 同時に、人を閉じ込めることもある。

 真尋はサンドイッチの箱を閉じた。

 まだ半分残っている。

 食欲がないわけではない。

 ただ、胸の奥に小さなざわつきがあった。

 旅へ出ると、普段は考えないことまで考えてしまう。

 それも一人旅の特徴だった。

 誰かと話していれば、沈黙を埋めるために言葉を探す。

 一人なら、頭の中の声を聞くしかない。

 真尋はカメラを取り出し、車窓へ向けた。

 窓ガラスに反射する車内の光を避け、流れる田園風景を撮る。

 シャッターを切る瞬間だけ、思考が静かになる。

 目の前にあるものを、どう切り取るか。

 光はどこから入っているか。

 何を残し、何を画面の外へ出すか。

 写真は選択の連続だ。

 人生と似ている。

 すべてを一枚へ収めることはできない。

 何かを写せば、何かが外れる。

 真尋は以前、だから写真が好きなのだと思っていた。

 選んだものだけを残せるから。

 けれど最近は、画面の外へ出したもののほうが気になることがある。

 写真には写らなかった人。

 シャッターを切る直前に吹いた風。

 その時、自分がどんな気持ちだったか。

 残らなかったものの中に、本当に大切なものがある気がする。

     *

 仙台を過ぎた頃、空の色が少し曇り始めた。

 遠くの山には薄い雲がかかっている。

 新幹線は北へ進む。

 スマートフォンへ、友人の香織からメッセージが届いた。

『今頃、新幹線?』

『そう。秋田に向かってる』

『また一人旅。ほんと好きだね』

『好きだから行くんでしょ』

『現地でいい出会いがあるといいね』

 真尋は眉を寄せた。

『出会いを求めて行くわけじゃない』

『わかってるけど、一人旅で出会って恋に落ちるとか素敵じゃない?』

『小説の読みすぎ』

『三十六歳なんだから、何があるかわからないよ』

 何があるかわからない。

 励ますつもりなのだろう。

 だが三十六歳なんだから、という前置きに、時間が少ないという意味が含まれているように感じる。

 香織は大学時代からの友人で、二人の子どもを育てている。

 真尋の生き方を否定したことはない。

 一人旅の写真を楽しみにしてくれる。

 仕事の話も聞いてくれる。

 ただ、真尋が恋愛をしていない期間が長くなるにつれ、時々こうした言葉を送ってくるようになった。

 心配しているのだ。

 自分だけが家庭を持ち、真尋が一人でいることに、どこか後ろめたささえ感じているのかもしれない。

 真尋は少し考え、返信した。

『おいしいものとの出会いには期待してる』

『はいはい。写真送って』

 会話を終え、スマートフォンを伏せる。

 恋愛をしていないことは、欠けていることなのだろうか。

 真尋は自分に問いかける。

 誰かを好きになりたいと思う夜はある。

 休日の朝、隣に人がいたらと思うこともある。

 病気になった時、一人で病院へ行き、一人で帰ってきた夜には、この先もずっとこうなのかと不安になった。

 けれど恋人が欲しいからといって、誰でもいいわけではない。

 生活へ誰かを入れるには、それだけの信頼と覚悟が必要だ。

 三十代になってから、何人かと食事へ行った。

 友人の紹介。

 仕事関係の知人。

 マッチングアプリを使ったこともある。

 悪い人はいなかった。

 話も合った。

 条件だけ見れば、結婚相手として申し分のない人もいた。

 それでも二度目に会いたいと思えなかった。

 相手が自分の部屋へ来る姿。

 休日を一緒に過ごす姿。

 旅行の予定を相談する姿。

 想像しようとすると、心が閉じた。

 慎一と別れた傷が残っているのか。

 一人の生活が完成しすぎたのか。

 それとも、誰かを好きになる力そのものが薄れてしまったのか。

 真尋にはわからない。

 若い頃の恋愛は、もっと勢いがあった。

 好きだと思えば会いたかった。

 声を聞きたかった。

 相手の言葉一つで一日中嬉しくなり、返信が遅ければ不安になった。

 今は、誰かに感情を揺らされることを面倒だと思ってしまう。

 穏やかな一人の生活を乱されたくない。

 その一方で、何にも乱されない日々が、このまま何十年も続くことを想像すると怖くなる。

 真尋は窓の外を見た。

 灰色の雲の下に、色づいた山が見える。

 赤。

 黄。

 緑。

 同じ山の中に、さまざまな色が混ざっている。

 どれか一つだけではないから、美しい。

 自分の気持ちも、そういうものなのかもしれない。

 一人でいたい。

 誰かといたい。

 仕事を大切にしたい。

 恋愛も諦めたくない。

 自由でいたい。

 必要とされたい。

 矛盾する気持ちが、同じ心の中にあってもいい。

 けれど真尋はこれまで、どれか一つを選ばなければならないと思っていた。

 幸せには、一つの形しかない。

 そう信じていた。

 子どもの頃に見ていた家族の形。

 父が働き、母が家を守る。

 食卓を囲み、休日には家族で出かける。

 大人になれば結婚し、家庭を持つ。

 仕事を続けるにしても、最終的には誰かと暮らす。

 それが普通であり、幸せなのだと思っていた。

 けれど自分は、その形を選ばなかった。

 だから代わりに、仕事で成功し、一人で自由に生きるという別の形を正解にしようとした。

 結婚しなくても幸せ。

 一人でも幸せ。

 そう言い切れる人になろうとした。

 だが本当は、どちらも一つの形にすぎない。

 一人でいることを選んだからといって、寂しさを感じてはいけないわけではない。

 結婚を望んだからといって、自立を失うわけでもない。

 真尋はまだ、そのことを頭でしか理解していなかった。

     *

 盛岡駅が近づくと、車内アナウンスが流れた。

 ここから列車は進行方向を変え、秋田へ向かう。

 真尋は座席を回転させる周囲の乗客を眺め、自分も隣の女性と協力して座席を動かした。

「ありがとうございます」

 女性が言う。

「いえ」

 盛岡駅で多くの乗客が降り、車内は少し静かになった。

 列車が再び動き出す。

 窓の外の景色は、それまでよりぐっと山深くなった。

 線路沿いに木々が迫り、小さな川が流れている。

 紅葉は盛りを少し過ぎ、葉の落ちた枝も目立つ。

 真尋はカメラを持ち上げた。

 曇り空の下、山の斜面に残る赤い葉。

 華やかな最盛期ではない。

 けれど、終わりへ向かう景色には、静かな美しさがあった。

 満開よりも、散り始めた花が好きだ。

 真夏の海より、九月の終わりの海が好きだ。

 始まりより、終わりかけの時間に心を惹かれる。

 それは、自分が失ったものを重ねているからだろうか。

 若さ。

 恋愛への無防備さ。

 何にでもなれると思っていた時間。

 三十六歳になり、未来がなくなったわけではない。

 それでも、二十五歳の頃と同じではない。

 選択には重さが増えた。

 仕事を辞めれば、積み重ねた役職や収入を手放すことになる。

 恋愛を始めれば、完成した生活を組み替えなければならない。

 子どもを望むなら、年齢を意識しないわけにはいかない。

 何も失わずに進める道は、もうほとんど残っていない。

 だから真尋は、選ぶ前に考えすぎる。

 正しい道を探し、間違えないように準備する。

 その結果、何も選ばないまま時間だけが過ぎる。

 仕事では決断できるのに、自分の人生になると動けない。

 真尋はカメラを膝へ戻した。

 今回の旅も、何かを変えようと思って予約したわけではない。

 ただ紅葉を見たかった。

 仕事から離れたかった。

 知らない町を歩きたかった。

 それだけだ。

 旅へ出たからといって、人生が劇的に変わることなどない。

 帰れば同じ部屋で目を覚まし、同じ会社へ行く。

 来週には会議があり、部下の相談を聞き、資料を確認する。

 旅は現実から逃げるためのものではない。

 現実へ戻る前に、自分の呼吸を取り戻すための時間だ。

 列車は山あいを進んでいく。

 時折、小さな集落が現れる。

 煙を上げる家。

 線路脇に干された大根。

 赤い屋根。

 川沿いの細い道。

 この土地にも誰かの日常がある。

 東京では旅先として語られる場所が、誰かにとっては毎朝目を覚ます町だ。

 真尋はそういうことを考えるのが好きだった。

 自分の生活だけが世界の中心ではないと知ると、悩みが少し小さくなる。

 窓へ小さな水滴がついた。

 雨だろうか。

 すぐに流れ、後ろへ消えていく。

 真尋は天気予報を確認した。

 角館は曇り。

 雨の表示はない。

 山の中だけ降っているのかもしれない。

 スマートフォンの時刻を見る。

 角館到着まで、あと二十分ほど。

 真尋はコートを着て、カメラバッグの中を確認した。

 予備バッテリー。

 財布。

 宿の予約画面。

 折り畳み傘。

 すべて揃っている。

 隣の女性も荷物をまとめ始めた。

「角館ですか?」

 女性に尋ねられた。

「はい」

「紅葉を見に?」

「そのつもりです」

「まだ少し残っているといいですね」

「そうですね」

「私は田沢湖まで行くんです。妹夫婦の家へ」

「そうなんですね」

「一人旅ですか?」

「はい」

 女性は微笑んだ。

「いいですね。一人で旅ができるって」

 また同じ言葉だった。

「自由ですよ」

 真尋はいつもの答えを返した。

「私は一人だと、何をしたらいいかわからなくなってしまうから」

「最初は私もそうでした」

「慣れるものですか?」

「慣れます」

 真尋は少し考え、続けた。

「でも、慣れすぎるのも考えものかもしれません」

 女性が不思議そうな顔をした。

 真尋自身、なぜその言葉が出たのかわからなかった。

「慣れすぎると、誰かといる時に疲れてしまうので」

「ああ、わかる気がします」

 女性は笑った。

「でも一人でいられる人なら、誰かといても無理にしがみつかなくていいでしょう? それはいいことじゃないですか」

 真尋は女性を見た。

 しがみつかなくていい。

 慎一は、自分が必要とされていないと感じていた。

 けれど必要とすることと、依存することは同じではない。

 一人でも立てる二人が、並んで歩くこともできるはずだ。

「そうかもしれませんね」

 真尋は答えた。

 女性は田沢湖へ着いたら孫と会うのだと話した。

 妹夫婦ではなく、娘夫婦の言い間違いだったらしい。

 孫が三歳になり、最近よく喋るようになった。

 新幹線が見たいと言うので、駅まで迎えに来てくれる。

 女性は嬉しそうに話した。

 真尋は相槌を打ちながら聞いた。

 羨ましいと思った。

 けれど以前ほど、その感情を否定しなかった。

 羨ましいと思うことは、自分の人生を否定することではない。

 誰かの幸せが眩しく見える日があってもいい。

 その人と同じ人生を選びたいとは限らない。

 ただ、自分にはない温かさを美しいと感じているだけだ。

 車内アナウンスが角館への到着を告げた。

 真尋は立ち上がり、荷物置き場からキャリーケースを下ろした。

「良い旅を」

 隣の女性が言った。

「ありがとうございます。お孫さんとの時間、楽しんでください」

「ありがとう」

 真尋は通路へ出た。

 列車が減速する。

 窓の外に、小さな町が見えてきた。

 低い建物。

 色づいた木々。

 遠くの山。

 東京とは違う、広い空。

 ホームが近づく。

 真尋はキャリーケースの持ち手を握った。

 この町で何か特別なことが起きるとは思っていなかった。

 紅葉を撮り、温泉へ入り、地元の料理を食べる。

 二日後には東京へ戻る。

 ただそれだけの旅になるはずだった。

 けれど人生は、後から振り返って初めて、どこが始まりだったのかを知ることがある。

 その時には何の意味もないと思っていた出来事が、長い時間を経て一本の道につながっていく。

 選ばなかった道。

 遠回りした時間。

 別れた人。

 一人で過ごした夜。

 それらすべてが、まだ見ぬ誰かへ続いていることもある。

 列車が角館駅へ滑り込んだ。

 扉が開く。

 外から冷たい空気が流れ込んでくる。

 真尋は一歩、ホームへ降りた。

 頬を撫でた風には、東京よりもはっきりと冬の匂いが混じっていた。

 真尋は小さく息を吸った。

 そして、自分がまだ知らない町へ向かって歩き始めた。


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