第十章 ひとりに戻る夜
水曜日の朝、葵は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ淡く、寝室には夜の静けさが少しだけ残っている。
隣を見る。真尋は背中を向け、静かな呼吸を繰り返していた。
この数日、葵は毎朝、真尋が先に起きる気配で目を覚ましていた。
ベッドから抜け出す小さな動き。洗面所の水音。キッチンで湯を沸かす音。パンが焼ける匂い。
自分が何もできなくても、誰かの生活が動いている。その音に包まれているだけで、朝を迎えられた。
だが今日は、自分のほうが先に起きている。
葵は天井を見つめた。
今日、自宅へ戻る。昨日の夜、決めたことだった。
仕事が終わった後、真尋と一緒に自分の部屋へ帰る。今夜は真尋にも泊まってもらう。明日の夜からは、一人で眠る。
そこまで考えた瞬間、胸の中に冷たいものが広がった。
一人。
直哉と別れる前から、一人暮らしだった。毎日同じ家へ帰っていたわけではない。会うのは多くても週に一度か二度。夜を一人で過ごすことには慣れていたはずだ。
それでも、恋人がいる一人と、恋人がいない一人は違う。
部屋へ戻っても、連絡できる相手がいる。次に会う日を考えられる。眠る前に、おやすみと送れる。姿が見えなくても、その人が自分の生活のどこかに存在している。
その感覚がなくなった。一人暮らしという形は同じでも、中にあるものが違う。
葵は布団の中で手を握った。
今夜、自分の部屋へ戻れば、直哉のいない生活が本当に始まる。
箱へ入れたマグカップ。置いていかれた充電器。空いた棚。直哉へ見せようと思って買った服。二人で食べようと思って冷蔵庫に入れていたもの。
何を見ても、いないことを思い知らされるかもしれない。
「葵」
隣から声がした。真尋がこちらを向いている。
「起きてたの?」
「少し前から」
「何時?」
真尋は枕元の時計を見る。
「まだ六時前です」
「早いね」
「眠れませんでしたか」
「途中までは眠ってた」
「今日のことを考えました?」
葵は頷いた。
「帰るの、怖くなった」
「はい」
「やっぱり、もう少しここにいてもいい?」
言った直後、葵は真尋の顔を見た。
困らせただろうか。水曜日に帰ると自分で決めた。真尋も、そのつもりで予定を調整してくれている。今さら変えたら、また自分では何も決められない人になる気がした。
真尋はすぐには答えなかった。
「葵は、どうして今日帰ろうと思ったんですか」
「ずっとここにいたら、自分の部屋へ戻れなくなりそうだから」
「その気持ちは、今もありますか」
「ある」
「では、帰りたくない気持ちもある」
「うん」
「どちらを選んでも、間違いではないと思います」
「真尋は、どっちがいいと思う?」
「私の希望ですか?」
「うん」
真尋は考えた。
「私は、葵にいてもらっても構いません」
「本当?」
「はい。朝ご飯を一緒に食べることにも、二人分の食事を作ることにも慣れてきました」
葵の胸が温かくなる。
「でも」
真尋は続けた。
「葵が戻りたいと思った日に戻ることを、何度も先延ばしにすると、怖さが大きくなる気もします」
「やっぱり、帰ったほうがいい?」
「帰らなければならないとは言っていません」
「真尋は、すぐ答えをくれないね」
「葵の答えだからです」
「今は決められない」
「では、朝ご飯を食べてから考えましょう」
「仕事へ行くまでに?」
「決まらなければ、夕方でもいいです」
真尋はベッドから起き上がった。
「今日は仕事へ行く。それだけは決まっていますね」
「うん」
「まず、そこからです」
葵もゆっくり起きた。足を床へ下ろす。
ここ数日、自分が起き上がるたびに、真尋は急かさず待ってくれた。今朝は、少しだけ早く動ける。
「真尋。私も朝ご飯作る」
「時間は大丈夫ですか」
「今日は早く起きたから」
「では、お願いします」
「何作る?」
「卵焼き」
「難しい」
「言ったからには、作ってください」
「真尋が教えて」
「はい」
二人は部屋着のままキッチンへ向かった。
*
真尋の台所は、二人が並ぶとやはり少し狭かった。
葵は冷蔵庫から卵を取り出す。真尋は味噌汁用の鍋へ水を入れた。
「卵、二個でいい?」
「二人分なら」
「砂糖入れる?」
「葵は甘いほうが好きですか」
「少し甘いのが好き」
「では、少し」
葵はボウルへ卵を割った。一つ目はきれいに入った。二つ目は殻が混ざった。
「あ」
「取ってください」
「箸で取れない」
「大きい殻を使うと取りやすいです」
「本当?」
真尋に教えられた通り、残った殻ですくう。小さな欠片が簡単に取れた。
「すごい」
「よくある方法です」
「真尋は何でも知ってる」
「卵の殻の取り方だけで言わないでください」
葵は笑った。卵へ砂糖と少しの塩を入れ、箸で混ぜる。
「どのくらい混ぜるの?」
「白身が切れるまで」
「これで?」
「もう少し」
「こう?」
「力を入れすぎるとこぼれます」
「細かい」
「料理ですから」
真尋は味噌汁へ豆腐とわかめを入れた。葵がフライパンを火にかける。
「油、どのくらい?」
「少し」
「少しって?」
「このくらい」
「真尋も曖昧なこと言うんだ」
「料理は、数字で説明しにくいこともあります」
「感覚を人に伝わる形へ変えてください」
真尋は思わず笑った。
「仕事の話を返しますね」
「卵焼きの企画書が必要です」
二人で笑いながら、卵を焼いた。
葵が最初に流した卵は、少し火が強すぎてすぐ固まった。箸で巻こうとすると、形が崩れる。
「無理」
「そのまま進めてください」
「失敗した」
「最後に整えれば大丈夫です」
「本当?」
「全部をきれいに巻こうとしなくていいです」
葵はもう一度卵を流した。崩れた部分を包むように巻く。少しずつ形になる。
最後にフライパンの端で整えると、不格好だが卵焼きらしくなった。
「できた」
「はい」
「最初、ぐちゃぐちゃだったのに」
「途中から整えられました」
葵は出来上がった卵焼きを見た。
人生も同じだと言えば、大げさだろうか。途中で崩れても、すべてを捨てなくていい。その先を重ねながら、別の形へ整えることができる。
「真尋。これ、今の私みたい」
真尋は卵焼きを見る。
「少し崩れているところが?」
「ひどい」
「葵が言ったんでしょう」
「崩れたけど、食べられる」
「十分です」
真尋は卵焼きを皿へ移した。包丁で切る。断面は少し空洞があり、均一ではない。
「でも、おいしそう」
「自分で作ったものですから」
「真尋が手伝った」
「作ったのは葵です」
朝食をテーブルへ並べる。卵焼き。味噌汁。ご飯。小さなサラダ。
二人は向かい合って手を合わせた。
「いただきます」
葵は自分の卵焼きを一口食べた。
「甘い」
「葵が砂糖を入れたからです」
「でも、おいしい」
「はい」
「真尋も食べて」
真尋も一口食べる。
「おいしいです」
「本当?」
「本当です」
「形は?」
「少し崩れています」
「そこは言わなくていい」
二人は顔を見合わせた。
葵は味噌汁を飲んだ。温かさが体へ広がる。
数日前は、食事の味がほとんどわからなかった。今は甘い、温かい、おいしいと感じる。
直哉を忘れたわけではない。思い出せば、胸はまだ痛む。それでも体は、生きる方向へ戻ろうとしている。
「真尋。今日、帰る」
真尋は箸を止めた。
「決めましたか」
「うん」
「怖いまま?」
「怖いまま」
「それでいいと思います」
「真尋、泊まってくれる?」
「はい」
「明日の朝、一緒に会社へ行って」
「もちろん」
「明日の夜からは、一人で帰る」
「はい」
「無理だったら、連絡する」
「はい」
「戻ってきてもいい?」
「一日二日なら」
葵は少し目を丸くした。
「前は、いつでもって言ってくれたのに」
「いつでも連絡はしてください。でも、いつでも何日でも泊まれるとは言えません」
葵は真尋を見た。少し寂しい。だが不思議と、拒まれたとは感じなかった。
できることと、できないことを言う。そのほうが長く一緒にいられる。自分たちで話したことだった。
「仕事もあるし、黒田さんもいるから?」
「それもあります。一人で過ごす時間も必要です」
「私が嫌だからじゃない?」
「嫌なら、今夜も泊まりません」
「うん」
「葵の家へ泊まるのは、今日だけ。次は、葵が本当に必要な時に相談する」
「わかった」
「私も無理な時は、無理と言います」
「うん」
葵は卵焼きをもう一つ食べた。
「真尋が何でもしてくれなくても、友達?」
「もちろん」
「私が一人でできるようになったら、会わなくなる?」
「会います」
「約束?」
「会いたいから会います」
葵はその言葉に笑った。
「今のほうがうれしい」
「何が?」
「助けなきゃいけないからじゃなくて、会いたいからって」
真尋も微笑んだ。
「そうですね」
*
会社へ向かう途中、葵は前日よりも少し軽い足取りで歩いた。真尋とは駅の乗り換え口まで一緒だった。
「今日、私が先に仕事を終えたら、家へ戻ってもいい?」
「一人で?」
「荷物を置いて、部屋の空気を入れ替えたい」
「大丈夫ですか」
「少しだけやってみたい」
「無理になったら、外へ出てください」
「近くのカフェに行く。真尋が来るまで、そこで待ってもいい?」
「もちろん」
「でも、まず部屋に入る」
「はい」
葵はバッグから鍵を取り出し、握った。
「鍵を持ってるだけで、少し怖い」
「自宅の鍵でしょう」
「直哉が来てた部屋の鍵」
「今は、葵の部屋です」
「前から私の部屋だけど」
「葵が選んだ家具や、葵が育てている植物がある」
「植物、元気ないけど」
「水をあげてください」
「うん」
「直哉さんのための部屋ではありません」
「私の部屋」
「はい」
葵は自分へ言い聞かせるように繰り返した。
「私の部屋」
駅の案内表示が見える。別れる場所が近づく。
「真尋。仕事が終わったら連絡する」
「はい」
「真尋も」
「はい」
「今日、遅くならない?」
「できるだけ早く帰ります」
「無理は?」
「しません」
「本当に?」
「葵も、私の大丈夫を疑うようになりましたね」
「みんなが疑うから」
二人は笑った。改札の前で立ち止まる。
「行ってきます」
葵が言う。
「行ってらっしゃい」
「夜は、私の家に帰る」
「はい」
「お帰りって言ってね」
「葵の家なのに?」
「最初だけ」
「わかりました」
葵は真尋へ小さく手を振り、歩き始めた。
*
真尋が会社へ着くと、机の上に佐伯からのメモが置かれていた。
『予算資料、十時までに数字を整理します。昨日は早く帰ってくださって安心しました』
真尋はメモを見て笑った。
部下に早く帰ったことを安心される上司。以前なら、少し情けなく感じたかもしれない。今は、自分が部下に心配されることも信頼の一部だと思える。
「おはようございます」
佐伯が席へ来た。
「おはようございます。メモ、見ました」
「昨日、ちゃんと眠れました?」
「はい。友人も、少し落ち着きました」
「よかったです」
「今日は、仕事を終えた後、自宅へ戻るのに付き添います」
「旅行で会った人、今は課長の家にいるんですか?」
「数日だけ」
「そんなに仲良くなったんですね」
「自分でも驚いています」
「課長の部屋に人が泊まるの、想像できません」
「どういう意味ですか?」
「人を入れなさそう」
真尋は苦笑した。
「やはり、そう見えていましたか」
「はい。誰にも触らせない場所がありそうというか」
「ありました」
「過去形?」
「今も、自分の場所は大切です。でも、誰かを入れたからといって、なくなるわけではないと知りました」
佐伯は考えた。
「私、同棲してるんですけど」
「初めて聞きました」
「言ってませんでしたから」
「はい」
「一人の場所がなくて、時々つらいです」
真尋は佐伯を見る。二十代半ば。真面目で責任感が強い。仕事以外の生活について、ほとんど聞いたことがなかった。
「相手には言っていますか」
「言えません」
「どうして?」
「一緒に住みたいって言ったのは私だから」
「一緒に住みたいと思ったことと、一人になりたい時間があることは矛盾しないでしょう」
「でも、相手はずっと一緒にいたい人で」
「佐伯さんは違う?」
「好きです。でも、休日に一人で本を読んだり、何も話さずに過ごしたい時があります」
「その希望を、言ってもいいと思います」
「嫌われませんか」
真尋は一瞬、葵と自分の会話を思い出した。相手を気遣うことと、自分の気持ちを消すことは違う。
「嫌われるかどうかは、私にはわかりません」
「そこは、大丈夫って言ってくれないんですね」
「言えば安心できますか?」
「少し」
「でも、約束はできません」
佐伯の口元が緩んだ。
「課長、前より正直ですね」
「葵にも同じことを言われました」
「その友人?」
「はい」
「私も、自分の希望を言う練習をしてみます」
「まずは、一時間だけ一人で過ごしたいと伝えるところからでも」
「課長も言われたんですか?」
「小さなことから希望を言う練習をするように、と」
「年下の人に?」
「はい」
佐伯は驚き、それから笑った。
「課長も、教えてもらうんですね」
「毎日」
*
葵の午前中は、前日よりも忙しく過ぎた。企画資料の予算部分を修正し、石橋と何度も数字を確認する。
「この広告費、もう少し下げられない?」
「動画の本数を減らすと、訴求が弱くなります」
「全部を同時に出す必要はある?」
「最初の一週間で三種類出して、反応の良いものへ絞るつもりです」
「それなら、テスト費用として分けて書いたほうがいい」
「わかりました」
石橋との会話に、以前ほど怖さを感じない。
厳しい口調は変わらない。指摘も多い。だが、葵の企画を潰そうとしているのではない。良くするために意見を出している。
そう思えるだけで、言葉の受け取り方が変わる。
「石橋さん。前から、私の感覚の部分は強みだと思ってたんですか」
石橋がパソコンから顔を上げた。
「昨日も言ったでしょう」
「でも、今まではだめなところしか言われなかった気がして」
「できてるところは、言わなくてもわかってると思ってた」
「わかってませんでした」
「そう」
石橋は気まずそうに視線を戻した。
「これからは、言うようにする」
「本当ですか」
「必要なら」
「必要です」
葵が答えると、石橋が笑った。
「小野寺さんも、前より言うようになったね」
「最近、練習してるんです」
「何の?」
「自分の希望を言う練習」
「それは大事」
「石橋さんも、言ってください」
「何を?」
「私に直してほしいことだけじゃなくて、良かったことも」
「要求が増えた」
「嫌ですか?」
「嫌ではない」
葵は少し嬉しくなった。
「では、お願いします」
「わかりました」
会話を終え、自分の席へ戻る。
葵は、直哉にもこうして言えたらよかったのだろうかと思った。
もっと褒めてほしい。もっと話を聞いてほしい。会いたい時には、会いたい。一人でいたい時には、一人でいたい。
我慢を重ねる前に、小さな希望を伝えていれば。
直哉の気持ちが変わることを止められたとは思わない。それでも、半年間一人で悩むことはなかったかもしれない。
過去を変えることはできない。だが、その時間から学んだことは、これからの関係へ持っていける。
葵はパソコンの画面へ戻った。
*
昼休み、美月が葵の席まで来た。
「今日も一緒に食べる?」
「うん」
二人は社内の休憩スペースへ向かった。
葵は自宅から持ってきたものではなく、朝、真尋が作ってくれた小さなおにぎりを二つ持っていた。海苔の巻き方がきれいで、形も揃っている。
「手作り?」
美月が尋ねる。
「真尋が作ってくれた」
「本当にお母さんみたい」
「私が言うと怒られる」
葵は思わず笑った。
「今日は、昨日より元気そう」
「少し」
「彼に連絡した?」
「してない」
「向こうからは?」
「来てない」
口にすると、胸が痛む。美月は、その表情を見逃さなかった。
「待ってるんだね」
「戻りたいって言ってくれるのを、少し」
「言われたら戻る?」
「わからない」
「戻りたいんじゃないの?」
「好き。でも、また前みたいに私だけが待つのは嫌」
「なら、その条件を話すことになるね」
「条件って、冷たくない?」
「何を大切にしたいかってことでしょう」
美月は自分の弁当を開いた。
「好きなら何でも我慢できるって思うほうが危ないと思う」
「美月、恋人いるの?」
「今はいない」
「経験者みたい」
「前の彼氏と、それで失敗したから」
葵は驚いた。美月の恋愛について、ほとんど聞いたことがなかった。
「何があったの?」
「休日は全部一緒。男友達と連絡取らない。服も、派手なのは嫌だって」
「束縛?」
「最初は、大切にされてると思った」
「別れたの?」
「うん。自分が何を好きだったか、わからなくなったから」
美月は笑ったが、目は遠くを見ていた。
「別れた後、もっと早く気づけばって思った。でも、好きな時はわからないんだよね」
「今は?」
「別れてよかった。でも、好きだったことも本当」
葵は真尋と同じことを聞いた気がした。
「終わったから、全部失敗じゃない」
「そうだね」
「美月も、忘れてない?」
「忘れてないよ。でも、戻りたいとは思わない」
「私も、そうなるかな」
「なるかもしれないし、ならないかもしれない」
「みんな、わからないって言う」
「未来のことだから」
美月はお茶を飲んだ。
「今日は、真尋さんの家から自分の家に戻るんでしょう?」
「うん」
「怖い?」
「すごく」
「真尋さんも泊まる?」
「今夜だけ」
「明日は一人?」
「そのつもり」
「無理だったら、私の家でもいいよ」
葵は目を瞬いた。
「本当?」
「一泊くらいなら」
「迷惑じゃない?」
「私、断る時は断るって言ったでしょう」
「うん」
「今度、仕事がつらい時は葵に頼るかもしれないし」
「私でいいの?」
「同期だからわかることもあるでしょう」
葵は胸が温かくなった。
支えは一方通行ではない。今は自分が頼る側。いつか美月を支える日が来るかもしれない。
「ありがとう」
「でも、今日は自分の家へ帰るんでしょう」
「うん」
「まずは、それだね」
葵はおにぎりを一口食べた。真尋が作った塩味。強く握りすぎていて、米が固い。
完璧ではない。それでも、作ってくれた温かさがある。
*
午後、真尋は予算会議の続きへ出席していた。
短期の営業支援と、中長期の調査費。各担当者が、削減した場合の影響を数字で示す。
「営業支援を二割削減すると、想定契約件数が年間十二件減ります」
吉田が説明する。
「調査費を同額削減した場合、次期開発の開始が最大二か月遅れます」
佐伯が続く。
真尋は資料を見ながら考えた。
どちらも必要だ。すべてを守る予算はない。何かを選び、何かを諦める。仕事の判断は、いつもその繰り返しだ。
以前の真尋なら、損失額の大きいほうを優先し、すぐに結論を出しただろう。今は、数字の裏にある人の動きを考える。
「営業支援を減らした場合、現場の負担は?」
「既存顧客へのフォローを減らすことになります」
「契約件数だけではなく、解約率にも影響しますね」
「可能性があります」
「調査費の削減で開発が遅れた場合、現行商品の対応は?」
「競合との差が広がる可能性があります」
数字だけでは見えないものを、一つずつ確認する。それでも、最後には決めなければならない。
「営業支援は一割削減。調査費は現状維持にします」
真尋が言う。
「営業側の負担は、別の業務を見直して補う。佐伯さん、重複している集計作業を洗い出してください」
「はい」
「吉田さん、既存顧客のうち、人によるフォローが必要な層を分類してください。全部を同じ方法で対応しない」
「わかりました」
部長が頷く。
「今回は、決めるまで時間をかけたね」
「必要な時間だったと思います」
「水口さん、少し変わったな」
「そうですか」
「前は、早く決めて、後から自分で全部補う人だった」
真尋は返事に詰まった。
足りないものがあれば、自分が働いて埋める。部下の負担が増えれば、自分が引き受ける。それを責任だと思っていた。
「自分で補うことにも限界があります」
真尋は答えた。
「ようやくわかった?」
「少しずつ」
「いい変化だ」
部長は資料を閉じた。
「ただ、決めることを怖がるようにはならないでくれ」
「はい」
待つことと、避けることは違う。必要な情報を集めた後は、決める。
葵を支える時も同じだ。何もかも真尋が決めてはいけない。だが、決めるべき場面で、葵へすべてを押しつけることも違う。関係の中で互いに考える。
真尋は会議を終え、時計を見た。午後四時半。今日は六時過ぎに会社を出たい。
残っている仕事を整理し、明日へ回せるものを分けた。
*
午後五時半。葵は仕事を終えた。真尋よりも早い。
会社を出ると、美月が駅まで一緒に歩いてくれた。
「真尋さんが来るまで、どうする?」
「一度、家へ入る」
「大丈夫?」
「怖いけど」
「電話する?」
「部屋に入ったら連絡する」
「私に?」
「美月にも、真尋にも」
「二人に送るの?」
「帰れる場所は一つじゃなくていいから」
美月は声を立てて笑った。
「いい言葉」
「真尋と話したの」
「私も入れてくれるんだ」
「うん」
「じゃあ、待ってる」
駅で美月と別れる。葵は一人で電車へ乗った。
自宅へ向かう。真尋と一緒に帰った日とは違う。隣に誰もいない。バッグの中には、自分の鍵がある。
電車が一駅進むたび、胸が緊張する。降りる駅が近づく。
逃げたい。真尋の会社の近くへ行き、待ちたい。今日も真尋の家へ帰りたい。
その気持ちが何度も湧く。
葵はスマートフォンを開いた。
『今、電車です』
真尋へ送る。すぐに返信はない。仕事中だ。美月にも送る。
『もうすぐ家の駅』
『着いたら連絡して』
美月からはすぐに返ってきた。葵は画面を見て、落ち着いた。
一人で電車に乗っている。けれど、完全に一人ではない。
駅へ着く。ホームへ降りる。人の流れに沿って改札を出る。
見慣れた道。コンビニ。クリーニング店。小さな公園。何度も歩いてきた帰り道。
直哉と電話をしながら歩いたこともある。初めて直哉が部屋へ来た日、駅まで迎えに行った。二人で買い物をして、この道を歩いた。
記憶は、道のあちこちに残っている。葵は立ち止まらずに歩いた。
マンションへ着く。オートロックを開ける。エレベーターへ乗る。鏡の中の顔は緊張している。
「大丈夫」
葵は小さく言った。すぐに言い直す。
「大丈夫じゃなくても、入る」
四階。扉が開く。廊下の一番奥。自宅の前へ立つ。
鍵を差し込む。手が震える。一度、うまく入らない。深く息を吸う。もう一度。鍵が回る。
扉を開ける。暗い玄関。静かな部屋。
「ただいま」
声が震えた。返事はない。当たり前だ。
葵は玄関の照明をつけた。靴を脱ぐ。一歩、部屋へ入る。
直哉の靴はない。最初から置かれていなかった。それでも、いないことを確認してしまう。
廊下を進む。リビングの照明をつける。昨日、箱へまとめた直哉の荷物が壁際にある。
目に入った瞬間、胸が痛んだ。だが、泣き崩れるほどではない。
葵は窓へ向かった。カーテンを開ける。窓を少し開ける。冷たい空気が流れ込む。
真尋が自宅へ戻った時、最初に空気を入れ替えていたのを思い出す。
「私の部屋」
葵は言った。
自分が選んだ白いテーブル。友人との写真。本棚。観葉植物。
「ごめんね」
窓辺の植物へ声をかける。土が乾いている。葵は水を持ってきて、少しずつ与えた。葉へ触れる。
「元気になるかな」
植物は答えない。それでも世話をすることで、自分も生活へ戻っていくような感覚があった。
スマートフォンを取り出す。
『部屋に入りました』
真尋と美月へ送る。美月からすぐに返事が来る。
『お帰り。すごい』
お帰り。自分の部屋へ帰った。葵はその言葉を何度も読んだ。
真尋からも、数分後に返事が届いた。
『お帰りなさい。私は今から会社を出ます』
葵の目に涙が浮かぶ。
『待ってます』
送信する。
*
真尋は会社を出る前に、黒田から届いていたメッセージを開いた。
『今日は忙しいですか。返信は急ぎません』
時刻は午後三時だった。仕事へ集中していて、気づかなかった。
『今、仕事が終わりました。これから葵の家へ向かいます』
送る。すぐに既読がつく。
『今日からご自宅へ戻ると話していましたね』
真尋は、黒田が葵の予定を覚えていたことに驚いた。
『はい。今夜だけ泊まり、明日の夜からは一人で過ごす予定です』
『大きな一歩ですね』
『本人は、かなり怖いと思います』
『水口さんも心配でしょう』
『はい』
迷い、真尋は本音を送った。
『私の家から葵の物がなくなることも、少し寂しいです』
送った後、言いすぎたかと思った。黒田との関係はまだ始まったばかりだ。自分が別の人との時間を寂しがることを、どう受け取るだろう。
黒田から返事が届く。
『寂しいと思えるほど、一緒に過ごした時間が大切だったのですね』
責める言葉はない。理解しようとする言葉。
『はい』
『離れることも、関係を続けるために必要なのかもしれません』
『私も、そう思います』
『水口さんの家は、また一人分に戻りますか』
『量は一人分に戻ります。でも、葵がいた時間は残ると話しました』
少しして、黒田から返信が届いた。
『良い言葉ですね。建物も、人がいなくなった後に、その人の暮らした時間を残します』
『また建物に例えましたね』
『職業病です』
真尋は駅へ向かいながら笑った。
『日曜日、楽しみにしています』
自分から送る。黒田からは、すぐに返事が来た。
『僕もです。今度こそ、建物と僕が逃げないようにしておきます』
『建物は逃げないでしょう』
『僕も逃げません』
その言葉に、真尋の胸が温かくなる。
『私も逃げません』
送信し、スマートフォンをしまった。
*
真尋が葵の部屋へ到着したのは、午後七時前だった。インターホンを押す。少しして、葵の声が聞こえた。
『はい』
「真尋です」
『今、開けます』
建物へ入り、四階へ上がる。葵は玄関の扉を開けて待っていた。
「お帰り」
葵が言う。真尋は驚いた。葵の家なのに、自分がお帰りと言われる。
「ただいま」
真尋は答えた。葵が笑う。
「言ってくれた」
「葵が言ったので」
「入って」
「お邪魔します」
部屋へ入る。前回来た時より、空気が冷たい。窓を開けていたらしい。
「寒くないですか」
「空気を入れ替えたくて」
「閉めましょう」
二人で窓を閉めた。観葉植物の土が濡れている。
「水をあげたんですね」
「うん」
「よくできました」
「褒めるところ?」
「葵が、自分の部屋の生活を動かしたので」
「真尋が来るまで、何をしたらいいかわからなくて」
「ほかには?」
「洗濯物を畳んだ」
葵が寝室を指す。押し入れに隠していた洗濯物を出し、畳んだらしい。
「全部?」
「半分」
「十分です」
「残りは明日。あと、直哉の箱を少し動かした」
壁際にあった箱は、クローゼットの近くへ移されていた。
「中は見ていません?」
「見てない。見たくなったけど、今見ても苦しいだけだと思って」
「自分で決めたんですね」
「うん」
葵は誇らしそうに頷いた。
*
「夕食、何にする?」
真尋が尋ねる。
「家に何もない」
「冷蔵庫を見てもいいですか」
「どうぞ」
冷蔵庫を開ける。卵。牛乳。古くなりかけた野菜。賞味期限が近い豆腐。冷凍庫にはご飯が少しある。
「買い物へ行きましょうか」
「外へ出る?」
「嫌ですか」
「真尋が来たから、もう出たくない」
「では、あるもので作ります」
「できる?」
「炒飯とスープくらいなら」
「真尋、何でも作れる」
「あるものを使うだけです」
「私も手伝う」
「では、野菜を切ってください」
二人は並んでキッチンへ立った。真尋の部屋よりもさらに小さい台所。葵が包丁を持ち、真尋がフライパンを準備する。
「ねぎ、これくらい?」
「もう少し細く」
「昨日より厳しい」
「葵の包丁の使い方が危ないので」
「お母さん」
「帰りますよ」
「冗談」
葵は笑い、ねぎを切った。人参。玉ねぎ。少しずつ包丁の動きに慣れる。
「自分の家で料理するの、久しぶり」
「いつも何を食べていたんですか」
「コンビニか、外食」
「直哉さんが来た時は?」
「鍋か、買ってきたもの」
「料理はしなかった?」
「直哉が作ってくれることもあった」
言った瞬間、葵の手が止まる。
思い出した。直哉がこの台所に立っていた姿。狭いと笑いながら、二人でパスタを作った夜。直哉は麺を茹ですぎた。ソースは少ししょっぱかった。それでも二人で食べて笑った。
「葵」
真尋の声。
「ごめん」
「包丁を置いてください」
葵は言われた通り、まな板へ置いた。涙が浮かぶ。
「思い出した」
「はい」
「ここで、直哉も料理した。このフライパン使った」
真尋は手に持っていたフライパンを見る。
「使いたくない?」
「わからない」
「別のものはありますか」
「ない」
「今日は、鍋で作れるものにしますか」
葵はしばらくフライパンを見つめた。
直哉が使った。だから使えない。そのままなら、部屋の中の多くのものが使えなくなる。ソファ。カップ。タオル。テレビ。直哉が触れた物は、いくつもある。
「使う」
葵は言った。
「大丈夫ですか」
「私のフライパンだから」
真尋はゆっくり頷いた。
「はい」
「直哉と使ったけど、これから私も使う」
「はい」
「今日、真尋と炒飯作る」
「はい」
葵は涙を拭き、もう一度包丁を持った。真尋は何も言わず、隣に立った。
*
出来上がった炒飯は、少し味が薄かった。
「塩、足りなかったね」
葵が言う。
「少し」
「正直」
「後から足せます」
二人はそれぞれ、少し醤油をかけた。豆腐と卵のスープは、ちょうどよい味だった。
「おいしい」
「はい」
「自分の家で食べるの、変な感じ」
「何日か離れていただけでしょう」
「でも、別の家みたい」
「これから、また葵の部屋にしていけばいいです」
「前も私の部屋だった」
「直哉さんとの思い出だけではない部屋に」
葵はテーブルを見回した。
この部屋を選んだのは自分。白いテーブルを買ったのも自分。窓辺に植物を置いたのも自分。直哉が来る前から、ここで暮らしていた。
「最初にここへ引っ越した日、お母さんが来た」
「お母様が?」
「カーテンを一緒につけてくれた。父は、棚を組み立てた」
「ご家族との思い出もある」
「美月も来たことある」
「はい」
「直哉だけの部屋じゃない」
「もちろん」
葵は炒飯を口へ運んだ。
「真尋との思い出もできた」
「今日から」
「朝も来たでしょう」
「朝食を作りましたね」
「目玉焼き。今日の炒飯」
「はい」
「少しずつ、増やせばいい?」
「増やしたいものを」
葵は頷いた。
*
食事の後、二人は食器を洗った。葵が洗い、真尋が拭く。
「真尋。明日から、一人でこれするんだね」
「食器は、一人分です」
「そうじゃなくて」
「わかっています」
葵は洗った皿を真尋へ渡した。
「寂しくなったら、テレビつけてもいい?」
「いいですよ」
「ラジオとか」
「はい」
「真尋に電話しても?」
「時間によります」
「また、できることとできないこと」
「はい」
「夜十一時までなら?」
「出られる時は」
「出られない時は?」
「折り返します」
「黒田さんといる時も?」
「内容によります」
葵は少し口を尖らせた。
「内容って?」
「今すぐ一人でいられないほどつらいなら、そう書いてください。ただ寂しいから話したいなら、後ででもいいでしょう」
「私より、黒田さんを優先する時もある?」
「あります」
真尋ははっきり答えた。葵の胸が痛む。
だが、真尋は続けた。
「黒田さんより葵を優先する時もあります」
「どうやって決めるの?」
「その時に必要なことを考えます」
「私は、いつも一番じゃない?」
「私の中に、一番は一人しか置けないと思っていますか」
葵は答えられなかった。
直哉と付き合っていた時、恋人が一番でなければならないと思っていた。友達より。仕事より。家族より。自分の時間より。それが恋愛だと思っていた。
「一番って、何だろう」
「私にもわかりません」
「黒田さんが恋人になったら、一番?」
「そう決めるつもりはありません」
「相手は嫌がらない?」
「話してみなければわかりません」
「でも、恋人なら特別でしょう」
「特別です。でも、特別な人が一人だけでなければならないとは思いません」
真尋は拭いた皿を棚へ戻した。
「葵は友達として特別。母は家族として特別。黒田さんは、今はまだ名前をつけられない特別です」
「名前をつけられない」
「はい」
「でも大切?」
「大切です」
「私も?」
「何度聞くんですか」
「不安だから」
「大切です」
葵は安心したように笑った。
「でも、何でも一番にしてもらう必要はない」
「はい」
「私も、真尋だけを一番にしなくていい。美月も、お母さんも、仕事も」
「はい」
「直哉を好きだった気持ちも?」
真尋は考えた。
「今の葵には、それも大切な一部でしょう」
「なくさなくていい?」
「はい」
葵は最後のカップを洗い、伏せた。
「一番がいっぱいあってもいいのかな」
「一番という言葉を使わなくてもいいのでは?」
「大切がいっぱい」
「それなら」
葵は小さく笑った。
*
午後十時。二人は葵のベッドへ入った。真尋の家のベッドより少し狭い。
「狭いですね」
真尋が言う。
「一人用だから」
「私の部屋と同じです」
「でも、真尋のほうが広かった」
「同じくらいでしょう」
二人は体を寄せすぎないように横になった。部屋の照明を消す。カーテンの向こうから、外の街灯が薄く入ってくる。
葵は目を閉じた。
自分の部屋。自分のベッド。以前は、直哉が隣に眠ることもあった。
その記憶が、暗闇の中で鮮明になる。背中の広さ。寝息。布団を取られた夜。朝、先に起きてスマートフォンを見ていた姿。
葵の胸が苦しくなる。
「真尋。やっぱり、つらい」
「はい」
「直哉がいた。ここに」
「はい」
「同じ場所に真尋がいるの、変かな」
「嫌ですか」
「嫌じゃない。でも、直哉の代わりにしてるみたい」
「私は、直哉さんの代わりではありません」
「わかってる」
「葵も、そう思っていないでしょう」
「うん」
「今夜、一人で眠るのが怖い葵の隣に、私がいる。それだけです」
葵は暗闇の中で頷いた。
「直哉の場所を、真尋が取ったわけじゃない」
「はい」
「別の場所」
「はい」
「このベッドに、二つの思い出があってもいい?」
「いくつあっても」
葵は息を吐いた。
「真尋。手、握ってもいい?」
「今夜は」
真尋が手を差し出す。葵は握った。
「明日は、一人」
「はい」
「怖い。今から明日の夜を考えてる」
「今夜は、私がいます」
「明日のことは、明日?」
「はい」
「明日になったら、考える。真尋、明日の夜は何する?」
「家へ帰ります」
「一人?」
「はい」
「寂しくない?」
「少し寂しいと思います」
「私がいないから?」
「はい」
葵は少し嬉しくなった。
「でも、一人の時間も欲しいです」
「正直」
「言うと決めましたから」
「何するの?」
「本を読む。写真を整理する。日曜日の服を考える」
「黒田さん」
「はい」
「楽しみ?」
「楽しみです」
「嫉妬しない練習する」
「する必要がありますか」
「少し寂しいから」
「寂しいままでも、応援できます」
「真尋が言ったみたい」
「私も、黒田さんと会えなくて寂しかったけれど、葵といたいと思いました」
「二つあった」
「はい」
「私は寂しい。でも、真尋には会ってほしい。どっちも本当」
「はい」
葵は目を閉じた。
「真尋。私、少しわかってきた」
「何を?」
「一つに決めなくていいこと」
真尋は葵の手を握ったまま、静かに答えた。
「私もです」
葵の呼吸が、少しずつゆっくりになる。
自分の部屋。直哉との記憶がある。今夜は真尋がいる。明日は一人で眠る。
どの夜も、同じ部屋に重なっていく。
*
翌朝、葵は目覚ましの音で目を覚ました。最初に見えたのは、自分の部屋の天井だった。
一瞬、直哉がいるような錯覚がした。隣を見る。真尋がいる。
現実を思い出す。別れた。今夜は一人。胸が痛む。
だが昨日の朝ほど、息ができなくなる感覚はなかった。
「おはようございます」
真尋が目を開けた。
「おはよう」
「眠れましたか」
「途中で何回か起きた」
「その時、声をかけませんでしたね」
「真尋、寝てたから」
「起こしてもよかったのに」
「起こさなくても、また眠れた」
葵は少し誇らしく言った。
「そうですか」
「一人じゃなかったけど」
「それでも、自分で眠り直せました」
「うん」
二人はベッドを出た。朝食は葵が作ると言った。
「昨日の卵焼き、もう一回作る」
「時間がありますか」
「今日は少し早く起きた」
「では、私は味噌汁を」
「一人でやってみたい」
真尋は葵を見る。
「全部?」
「味噌汁は、昨日見た」
「わかりました」
「真尋は座ってて」
「何もしないのも落ち着きません」
「見てて」
「口を出しても?」
「困ったら聞く」
「はい」
葵は一人でキッチンへ立った。
米は冷凍していたものを温める。味噌汁用の鍋へ水を入れる。出汁を入れすぎそうになり、途中で止める。豆腐を切る。葱を切る。卵を割る。殻が入る。昨日教わった方法で取る。
真尋はダイニングの椅子へ座り、黙って見ていた。葵が火を強くしすぎても、すぐには言わない。葵自身が気づき、弱める。
味噌汁が少し沸騰する。
「あ」
葵が慌てて火を止める。
「大丈夫?」
「少しくらいなら」
「昨日、沸騰させないって言ってた」
「次は気をつければいいです」
卵焼きは、昨日より少しだけきれいに巻けた。
「見て」
「上手になりましたね」
「一日で」
「昨日、練習しましたから」
二人分の朝食が並ぶ。葵が作った味噌汁。葵が作った卵焼き。温めたご飯。
「いただきます」
真尋が味噌汁を飲む。
「少し濃いです」
「おいしいって先に言って」
「おいしいですが、少し濃いです」
「正直」
「言うと決めました」
葵も一口飲む。
「本当だ」
「水を足してもいいですね」
「今日は、このまま食べる」
「はい」
葵は卵焼きを食べた。昨日より甘さが少ない。
「昨日より、おいしい」
「自分で言います?」
「おいしいから」
二人は笑った。
「真尋。今夜、一人でご飯作れるかな」
「作らなくてもいいですよ」
「買ってきても?」
「もちろん」
「でも、朝は何か作ってみたい」
「いいと思います」
「味噌汁、もう一回」
「次は少し薄く」
「うん」
葵は、自分の生活の次の場面を想像した。
今夜は、食べられるものを買う。明日の朝は、味噌汁を作る。
一週間先や一か月先ではない。次の食事。次の朝。そのくらいなら考えられる。
*
支度を終え、二人は玄関へ立った。
真尋のバッグには、昨夜持ってきた着替えが入っている。葵の部屋に、真尋の物は何も残らない。真尋が帰った後、本当に一人になる。
「鍵、閉める時は私がする」
葵が言う。
「自宅ですから」
「真尋がいたから、ここに帰れた。でも今日は、私がここから出る」
「はい」
二人は廊下へ出た。葵が鍵をかける。扉を一度引き、閉まっていることを確認する。
「真尋。今夜、これを一人で開ける」
「はい」
「怖いけど」
「はい」
「入ったら、お帰りってメッセージして」
「葵が、ただいまと送ってください」
「うん」
「私がお帰りなさいと返します」
「約束」
「はい」
エレベーターで一階へ降りる。建物を出ると、朝の冷たい空気が二人を包んだ。駅へ向かって歩く。
途中で、葵が小さく言った。
「真尋。ありがとう」
「何度目ですか」
「泊まってくれて。帰るのを手伝ってくれて。でも、全部やってくれなかった」
真尋は笑った。
「そのことも?」
「うん。私が鍵を開けて、料理して、決めた」
「はい」
「真尋がいたからだけど、私もやった」
「たくさん」
葵は前を向いた。
「今日から、少しずつ私の生活に戻す。直哉がいた時間も残したまま」
「はい」
「新しいものも増やす。真尋との炒飯とか」
「少し味の薄い」
「余計なこと言う」
二人は笑った。駅が見えてくる。いつもの別れ道。
「今夜、電話しなくても平気だったら、寂しい?」
葵が尋ねた。
「安心します」
「少しも寂しくない?」
「少しは」
「本当?」
「葵から連絡がない夜に慣れていませんから」
「数日しか一緒にいなかったのに」
「時間ではないのでしょう?」
葵は、自分が言った言葉を返されて笑った。
「でも、連絡しないほうがいい?」
「したいならしてください」
「我慢しなくていい?」
「はい。ただ、私がすぐ返せないこともある」
「わかってる」
「一人で過ごせたことを報告するだけでもいいです」
「うん」
二人は改札の前で立ち止まった。
「行ってきます」
葵が言う。
「行ってらっしゃい」
「真尋も」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
二人は別々の改札へ向かった。
*
葵の一日は、前日よりも穏やかに進んだ。仕事へ集中できる時間が増えた。
直哉を思い出す回数は、まだ多い。スマートフォンを手に取るたび、連絡したくなる。
昼休みに一度、トーク画面を開いた。最後のメッセージ。
『荷物のことは、落ち着いてからでいいから連絡して』
葵は返信欄を開いた。
『わかった。ありがとう』
そこまで打った。送ろうとする。指が止まる。
ありがとうと思っているのか。今はまだ、わからない。礼儀として送ろうとしているだけではないか。
葵は文章を消した。明日の自分が決める。スマートフォンを閉じた。
「送らなかったんだ」
隣にいた美月が言う。
「見てた?」
「画面は見てない。顔で」
「送りたくなった。でも、今は本当に言いたいことじゃない気がした」
「いいんじゃない」
「失礼じゃない?」
「昨日も同じこと聞いてなかった?」
「真尋にも聞いた」
「じゃあ、答えは?」
「返す義務はない」
「覚えてるじゃん」
「今夜、一人?」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
「電話する?」
「まずは、一人で過ごしてみる」
「無理しないでね」
「無理になったら連絡する」
「真尋さん?」
「真尋と、美月」
「私も?」
「嫌?」
「嫌じゃないよ。でも、夜遅かったら断っていい」
「わかった」
葵は吹き出した。
「私も、いつか美月の話を聞く」
「じゃあ、今度仕事の愚痴聞いて」
「今日でも」
「今日は葵が一人で過ごす日でしょう」
「電話で聞ける」
「余裕あるじゃん」
「少しだけ」
自分の悲しみ以外の話を聞けるかもしれない。葵はそれが嬉しかった。
*
真尋は仕事を終えた後、久しぶりに一人で自宅へ帰った。玄関の扉を開ける。
「ただいま」
声が部屋へ吸い込まれる。返事はない。
数日前までなら、いつものことだった。今は静けさが大きく感じる。
玄関に葵の靴はない。洗面所に歯ブラシは残っている。葵がまた泊まることがあるかもしれないため、捨てずに置いた。寝室には、葵が使った部屋着が畳まれている。洗濯して返すつもりだ。
リビングへ入る。二人で食べたプリンの空き容器は、もうない。鍋も洗ってしまってある。
何も変わっていないように見える。それでも、部屋の中に葵の気配を探してしまう。
「寂しい」
真尋は小さく口にした。誰も聞いていない。それでも、言葉にする。
寂しいからといって、葵に戻ってきてほしいわけではない。葵が自分の家へ戻れたことは嬉しい。自分にも、一人の時間が戻った。
そのどちらも本当だ。
真尋はコートを脱ぎ、窓を開けた。冷たい空気を入れる。自分のために湯を沸かす。
夕食は簡単なパスタにする。一人分の麺。一人分のソース。
葵がいる間は、二人分を考えていた。今は自分が食べたいものだけを作る。それも心地よい。
パスタが茹で上がる頃、スマートフォンが震えた。葵かと思って画面を見る。黒田だった。
『今、帰宅しました。水口さんもご自宅ですか』
『はい。久しぶりに一人です』
『少し寂しいですか』
真尋は、どうしてわかるのだろうと思った。
『少し。でも、一人の時間も落ち着きます』
『両方あっていいですね』
『はい』
黒田は、真尋が学んでいることを自然に言葉へする。
『夕食は?』
『パスタを作っています』
『何味ですか』
『茸とベーコンのクリームソースです』
『おいしそうですね』
『黒田さんは?』
『昼に作った煮込みの残りです』
『得意な料理ですね』
『いつか水口さんに食べてもらうため、練習しています』
真尋の口元が緩んだ。
『練習が必要なんですか』
『人に食べてもらう料理は、少し違います』
『楽しみにしています』
送った後、自分が未来を前提にする言葉を自然に使えていることに気づく。
『日曜日も、楽しみです』
黒田から届く。
『はい』
真尋は短く返した。
その時、別の通知が届いた。葵だった。
『今、会社が終わりました。これから一人で帰ります』
真尋はすぐに返信したくなる。大丈夫ですか。電話しますか。迎えに行きましょうか。
だが、葵が自分で帰ろうとしている。
『気をつけて。部屋へ入ったら、ただいまと送ってください』
それだけ送った。
パスタを皿へ盛る。一人でテーブルへ座る。テレビはつけない。静かな部屋で食べる。
以前の生活へ戻ったようで、以前とは違う。誰かの連絡を待ちながら食べている。けれど、待つことに自分のすべてを預けてはいない。
味を感じる。食事を楽しむ。自分の夜を過ごす。
*
葵は自宅の最寄り駅へ着いた。朝、真尋と出た道を、一人で戻る。
空は暗い。街灯。自転車。コンビニの明かり。
直哉からの連絡はない。葵はスマートフォンをバッグへ入れた。
マンションへ着く。オートロックを開ける。エレベーターへ乗る。昨日と同じ鏡。今日は一人。
四階。廊下。自宅の前。鍵を取り出す。手は震えている。それでも、昨日より一度で鍵穴へ入った。
扉を開ける。暗い玄関。
「ただいま」
声が響く。照明をつける。靴を脱ぐ。扉を閉める。鍵をかける。
リビングへ入る。朝、二人で食事をした食器は片づいている。椅子が二脚。今夜使うのは一つだけ。
葵はスマートフォンを取り出した。
『ただいま』
真尋へ送る。すぐに既読がつく。
『お帰りなさい』
その文字を見た瞬間、涙が出た。
悲しいだけではない。一人で帰れた安堵。真尋が遠くにいても、つながっている安心。
『入れた』
『はい。よく帰りました』
『泣いてる』
『泣いていていいです』
『電話してもいい?』
送ろうとして、葵は指を止めた。
今すぐ声を聞きたい。だが、少しだけ自分で過ごしてみたいという気持ちもある。
文章を消す。
『今からご飯を食べます』
送った。
『何を食べますか』
『コンビニのおにぎりとスープ』
『温めてください』
『わかってる』
『食べたら、また連絡してください』
『うん』
葵はバッグを置いた。コートを脱ぐ。コンビニで買ったスープを電子レンジへ入れる。おにぎりの袋を開ける。テーブルへ一人分を並べる。椅子へ座る。
「いただきます」
一人で言う。スープを一口。温かい。
真尋が作ったものではない。自分が作ったものでもない。それでも、今夜の自分を支える食事だ。
おにぎりを半分食べる。テレビをつける。バラエティ番組の笑い声が部屋へ流れる。内容は頭へ入らない。ただ、人の声がある。
葵は食事を続けた。途中で、直哉と一緒にテレビを見た夜を思い出す。胸が痛む。箸を止める。
「直哉」
名前を口にした。涙が流れる。それでも食事をやめなかった。
悲しいまま食べる。食べながら泣く。どちらかにしなくていい。
スープを半分。おにぎりを一つ。食べることができた。
真尋へ連絡する。
『食べました』
『全部?』
『おにぎり一つ。スープ半分』
『十分です』
『褒めて』
『よく食べました』
葵は笑った。泣いた顔で笑う。
『今からお風呂に入ります』
『はい。転ばないように』
『子どもじゃない』
『知っています』
葵はスマートフォンを置き、浴室へ向かった。
*
風呂から上がると、部屋の空気が少し自分のものに戻っている気がした。
髪を乾かす。化粧水をつける。真尋の部屋ではなく、自分の洗面所。いつもの鏡。
直哉からもらったヘアブラシが目に入る。手が止まる。
捨てるか。箱へ入れるか。使い続けるか。今は決めない。
葵はそのまま使った。髪を梳く。
「物に罪はない」
真尋の言葉を口にする。まだ、そう思い切れない。それでも今夜は、使えた。
寝室へ入る。ベッド。昨夜は真尋が隣にいた。その前は、一人で眠るのが怖かった。もっと前には、直哉がいた夜もある。
葵はベッドへ腰を下ろした。胸が苦しい。
今から真尋へ電話すれば、出てくれるかもしれない。美月にも連絡できる。誰かの声を聞きながら眠ることもできる。
だが、まず十分だけ、一人で座ってみようと思った。
時計を見る。午後十時十五分。十時二十五分まで。
部屋の音を聞く。冷蔵庫。外を走る車。上の階の足音。自分の呼吸。
一分が長い。直哉の顔が浮かぶ。戻りたい。電話したい。今なら、まだ間に合うのではないか。
スマートフォンへ手を伸ばす。直哉のトーク画面ではなく、真尋の画面を開いた。
『今、ベッドにいます』
送る。
『眠れそうですか』
『まだわからない』
『電話しますか』
真尋から尋ねてくれた。葵は画面を見つめた。
『あと十分、一人でいてみる』
送る。
『わかりました。十分快適に過ごす必要はありません。ただ、そこにいれば十分です』
『怖くても?』
『怖くても』
『泣いても?』
『泣いても』
『十分快適に過ごせたら?』
『その次の十分を考えましょう』
葵はスマートフォンを胸へ当てた。
一晩ではなく、十分。朝までではなく、次の十分。それならできるかもしれない。
十時二十五分。葵は真尋へ送った。
『十分快適ではなかったけど、いられた』
『よくできました』
『もう十分やってみる』
『はい』
葵は照明を少し暗くした。布団へ入る。スマートフォンは枕元に置く。目を閉じる。
直哉を思い出す。涙が出る。それでも、すぐに電話はしない。
十時三十五分。
『もう十分』
『はい』
『少し眠い』
『では、目を閉じてください』
『電話しなくてもいいかも』
『それなら、おやすみなさい』
『まだ切らないで』
『メッセージなので切れません』
葵は思わず笑った。
『おやすみ、真尋』
『おやすみなさい、葵』
スマートフォンを伏せる。暗い部屋。一人のベッド。
胸はまだ痛い。直哉がいないことは変わらない。
それでも葵は、自分の部屋で、自分の布団に包まれている。
味噌汁を作れる台所。水をあげた植物。畳んだ洗濯物。友人との写真。真尋との炒飯。
自分の生活がある。
葵はゆっくり呼吸をした。
眠りはすぐには来なかった。何度も体勢を変えた。涙も流れた。
それでも、誰かを呼ばずに夜を越えなければならないと、自分を追い詰めなかった。
無理になれば、真尋へ電話する。美月もいる。その安心を持ったまま、一人でいる。
しばらくすると、外の音が遠くなった。
*
真尋は葵からの「おやすみなさい」を見届けた後、ソファへ深く座った。
電話はかかってこない。葵は一人で過ごしている。
安心。寂しさ。誇らしさ。少しの心配。いくつもの感情がある。
真尋はカメラを取り出した。秋田の写真をパソコンへ表示する。
紅葉の下の葵。橋の上の後ろ姿。喫茶店の横顔。真尋自身が笑っている写真。
その中から、印刷する写真を選ぶ。橋の上の葵。紅葉の下の真尋。そして、宿の近くで葵が撮った、二人の影が路地へ伸びている写真。
姿は写っていない。二つの影だけが、同じ方向へ伸びている。葵がいつ撮ったのか、送られてきた写真の中に入っていた。
真尋はその写真を見つめた。
二人は今、別々の部屋にいる。それでも、同じ方向へ進んでいる。
一緒に歩くことは、常に隣にいることではない。離れた場所で、それぞれの生活を持つ。会う日を楽しみにする。必要な時に手を伸ばす。それで関係は続く。
真尋は写真を印刷用のフォルダへ入れた。壁のどこへ飾るか考える。風景写真の間。人の気配がなかった壁へ、二人の影を加える。
それだけで、部屋の見え方が変わるだろう。
スマートフォンが震えた。黒田からだった。
『葵さんは無事に帰れましたか』
『はい。今、一人で眠ろうとしています』
『水口さんは?』
『少し寂しいですが、落ち着いています』
『一人の夜を取り戻していますか』
真尋は、その表現に笑った。
『取り戻すというより、新しく感じています』
『同じ一人でも、以前とは違う?』
『はい。誰かと過ごした後の一人です』
『それは、孤独ではなく余白なのかもしれません』
真尋は画面を見つめた。
余白。誰もいない空白ではない。誰かとの時間を受け止め、自分へ戻るための場所。
『良い言葉ですね』
『建築でも、余白は大切です』
『また建物ですか』
『人生の話です』
真尋は声を立てて笑った。
『黒田さんは、今、一人ですか』
『はい』
『寂しいですか』
送ってから、踏み込みすぎたかと思った。黒田の返事は遅れた。
『少し。でも、水口さんとメッセージをしているので、完全な一人ではありません』
真尋の胸が温かくなる。
『私もです』
短く返す。
『日曜日まで、あと三日です』
黒田から届く。
『数えていますか』
『少し』
『私も』
真尋は素直に送った。今度は、送った後に恥ずかしくなった。だが取り消さない。
『おやすみなさい、水口さん』
『おやすみなさい、黒田さん』
*
真尋はスマートフォンを置いた。寝室へ入る。一人のベッド。
数日前まで、葵が隣にいた。枕には、もう葵の匂いはほとんど残っていない。
真尋は照明を消した。静かな部屋。
寂しい。落ち着く。葵を思う。黒田との日曜日を楽しみにする。明日の仕事を考える。
どの感情も、同じ夜の中にある。
真尋は目を閉じた。
幸せには、一つの形しかないと思っていた。誰かといるか。一人でいるか。寄り添うか。離れるか。
けれど今は知り始めている。
寄り添った後に離れることも、愛情の一つになり得る。一人へ戻ることは、関係の終わりではない。むしろ、それぞれが自分の生活を持つからこそ、また会いたいと思える。
部屋の外では、東京の夜が続いている。
葵も、どこかで同じ夜を過ごしている。黒田も。母も。職場の人々も。
それぞれの場所で、誰かを思いながら、一人の時間を生きている。
真尋は布団を胸元まで引き上げた。
寂しさを消そうとは思わなかった。それは、大切な人ができた証拠でもある。
静かな夜の中で、真尋は少しずつ眠りへ落ちていった。
*
翌朝、葵はアラームが鳴る少し前に目を覚ました。
窓の外が明るい。部屋には、自分しかいない。
一瞬、胸が強く痛んだ。けれど昨夜のように息が詰まることはなかった。
時計を見る。午前六時二十八分。
朝まで眠れた。途中で一度目を覚ました気がする。それでも真尋へ電話せず、また眠った。
葵はベッドの中で、自分の手を見た。
「一人で眠れた」
声にする。涙が少し出る。うれしい涙なのか、寂しい涙なのかわからない。どちらでもいい。
葵はスマートフォンを手に取った。真尋へ送る。
『おはよう。一人で朝まで眠れました』
数分後、返信が届く。
『おはようございます。よく眠れましたね』
『途中で起きたけど、また寝た』
『自分で眠り直せましたね』
『うん』
『朝ご飯は?』
『味噌汁作る』
『味噌は、昨日より少なめに』
『わかってる』
葵は笑った。
ベッドから起きる。カーテンを開ける。朝の光が部屋へ入る。
窓辺の植物は、昨日より少し葉を持ち上げているように見えた。
「おはよう」
植物へ声をかける。
キッチンへ立つ。一人分の味噌汁。一人分のご飯。一人分の卵。
量は一人分に戻った。それでも、真尋に教わったことが残っている。
卵の殻の取り方。味噌を入れた後は沸騰させないこと。食べられない日には一口でいいこと。悲しみを消さず、置く場所を作ること。自分の希望を言うこと。できることと、できないことを伝えること。誰かに頼りながら、自分の足で立つこと。
葵は鍋の火を弱めた。昨日より薄い味噌汁ができる。一口飲む。
「おいしい」
一人の部屋で言う。返事はない。それでも、その声は以前ほど寂しく響かなかった。
自分が自分へ聞かせる声。
葵は椅子へ座り、朝食を食べ始めた。
直哉を思い出す。胸が痛む。けれど、味噌汁の味もわかる。今日の仕事も思い出す。昼に美月へ会うこと。企画資料を仕上げること。夜、真尋へ報告すること。
一日の中に、いくつものものがある。悲しみだけではない。幸せだけでもない。
葵は味噌汁をもう一口飲んだ。
一人に戻った朝。それは、以前と同じ一人ではなかった。
誰かに愛された記憶。誰かを失った痛み。友人に支えられた時間。自分で朝を迎えた小さな自信。
それらをすべて抱えた一人だった。
葵は窓の外を見た。
今日も東京は動き始めている。自分も、その中へ戻っていく。
遠回りしながら。立ち止まりながら。それでも、自分の足で。




