第十一章 離れている日の約束
葵が一人で自宅へ戻ってから、三日が過ぎた。
木曜日の朝は、味噌汁を作った。金曜日の朝は寝坊し、駅の売店でパンを買った。土曜日は、目覚ましをかけずに眠った。
どの日も、目を覚ました瞬間には直哉のことを思い出した。別れたという現実は、朝の光と一緒に部屋へ入ってきた。
胸の奥が重くなる。スマートフォンを確認したくなる。
けれど、葵は一度も直哉へ連絡しなかった。直哉からも、荷物のこと以外に新しい連絡は来ていない。
木曜日の夜には、真尋へ電話をした。十五分だけ話した。
仕事の企画について。味噌汁が薄くできたこと。一人で風呂へ入り、髪を乾かし、テレビを見たこと。直哉へ連絡したくなったこと。
真尋は、よく我慢したとは言わなかった。送りたいのに送らなかったのなら、その選択を今日は大切にすればいいと言った。
金曜日は電話をしなかった。代わりに、美月と仕事帰りに夕食を食べた。
美月の仕事の愚痴を聞いた。同じ部署の先輩が、自分の失敗を美月のせいにしたこと。転職を考えるほどではないが、今のまま働き続けることへ迷いがあること。
葵は、ただ聞いた。自分の失恋を話す時のように、美月の言葉を急いで結論へ運ばなかった。
「話して少し楽になった」
美月が言った。
その言葉を聞いた時、葵は自分も誰かの帰る場所になれるのかもしれないと思った。
支えられる側にいる間も、誰かを支えることはできる。悲しみを抱えているからといって、ほかの感情を持てないわけではない。
美月と別れて自宅へ戻った後、葵は真尋へ短いメッセージを送った。
『今日は、美月の話を聞きました』
真尋からは、すぐに返事が来た。
『葵も、美月さんの支えになったんですね』
その一文を、葵は何度も読み返した。
*
土曜日の朝。葵はベッドの上で目を開けたまま、天井を見ていた。午前八時十二分。
今日は仕事がない。予定もない。
明日、真尋は黒田と出かける。延期していた旧岩崎邸庭園へ行く日だ。
葵は、自分から明日は連絡しないと約束していた。真尋に黒田との時間を楽しんでほしい。そう思う気持ちは本当だった。
けれど、予定のない週末を一人で過ごすのは、別れてから初めてだった。
平日は仕事がある。会社へ行き、企画を考え、美月や石橋と話す。帰宅してからも、翌朝の準備をしていれば夜は過ぎていく。
休日は違う。何をしてもいい時間が広がっている。
以前なら、直哉へ連絡していた。会えなければ、次に会う日のために服を見たり、二人で行きたい店を探したりした。
今日は、その行き先がない。
葵はスマートフォンへ手を伸ばした。直哉のトーク画面を開く。最後のメッセージは、別れた夜のものだ。
『今日はごめん。葵と過ごした二年間を、俺も大切に思ってる。傷つけたくなくて言えなかったけど、結果的にもっと傷つけたと思う。本当にごめん。荷物のことは、落ち着いてからでいいから連絡して』
何度読んでも、戻りたいとは書いていない。好きとも。
それでも、文字の間に別の意味が隠れていないか探してしまう。
本当は迷っているのではないか。葵が連絡すれば、会いたいと言うのではないか。直哉も同じように苦しんでいるのではないか。
葵は返信欄を開いた。
『荷物のこと、来週どこかで話せる?』
打つ。荷物の連絡なら、必要なことだ。戻りたいと伝えるわけではない。送ってもいい。そう考えた。
だが、本当に今、荷物を返してほしいのだろうか。直哉とつながる理由が欲しいだけではないか。
葵は文章を消した。スマートフォンを伏せる。
胸の中に空洞がある。何かで埋めたい。真尋へ連絡しようと思う。けれど今日は、真尋も自分の時間を過ごしているかもしれない。明日の準備をする。本を読む。写真を整理する。黒田へ連絡する。
葵はベッドから起きた。
「まず、朝ご飯」
声に出す。
一人で過ごす休日を、一日分すべて考えると苦しくなる。次の食事。次の一時間。真尋に教えられたように、短く区切る。
キッチンへ向かった。冷蔵庫を開ける。卵。牛乳。ヨーグルト。少ししなびた野菜。昨日、美月と食事をしたため、買い物はしていない。
「卵焼き」
葵は言った。真尋と作った卵焼き。一人でも作れる。
ボウルへ卵を二つ割る。殻が一片入る。残った殻ですくい取る。砂糖。少しの塩。箸で混ぜる。
フライパンへ油を引く。最初の卵を流す。火が強い。弱める。巻く。形が崩れる。
「大丈夫。最後に整える」
真尋の言葉を、自分へ言う。
二度目の卵を流す。崩れた部分を包む。最後にフライパンの端で形を整えた。
真尋と作った時より、少し細長い。それでも、卵焼きになった。
味噌汁は作らず、パンとヨーグルトを添えた。一人分の朝食。
「いただきます」
葵は椅子へ座る。卵焼きを一口食べた。少し甘い。おいしい。
真尋へ写真を送りたくなる。自分で作れたと報告したい。
葵はスマートフォンを手に取った。卵焼きの写真を撮る。送信する前に、時刻を見る。八時四十五分。迷惑な時間ではない。
それでも一度、考える。自分で作れた喜びを分けたい。助けを求めるためではない。なら、送っていい。
『一人で卵焼きを作りました』
写真を添えて送信する。数分後、真尋から返事が届いた。
『前よりきれいに巻けていますね』
『褒めてください』
『よくできました』
『味もおいしいです』
『それが一番です』
葵は吹き出した。
『今日は何をしますか』
真尋から尋ねられる。葵は画面を見つめた。
『まだ決めていません』
『決めなくてもいい休日もあります』
『何もしないと、直哉のことを考えそうです』
送る。真尋の返事は遅れた。
『考えてもいいと思います。ただ、考えることだけで一日を終えたくないなら、一つだけ自分のための予定を決めてはどうですか』
『何がいい?』
『葵が決めることです』
予想していた答え。葵は少し口を尖らせる。
『また答えてくれない』
『散歩、映画、本屋、買い物。選択肢は出せます』
『真尋なら?』
『写真を現像しに行きます』
秋田の写真。葵は、自分たちの写真を思い出した。
『私も写真を印刷したい』
『では、写真店へ行きますか』
『一人で?』
『一人で』
葵は不安になった。一人で写真店へ行く。直哉との写真ではなく、秋田の写真を選ぶ。今の自分にできるだろうか。
『やってみます』
『はい』
『真尋。明日のデート、楽しんでね』
しばらく既読だけがついていた。
『ありがとうございます』
『私には連絡しなくていいから』
『無理に連絡しないようにする必要もありません』
『でも、黒田さんとの時間を大切にして』
『大切にします。葵との時間も大切です』
その返事に、葵の胸が痛み、同時に温かくなった。
『明日は、美月と会うかもしれない』
『いいですね』
『一人でも過ごしてみる』
『それも』
『大丈夫じゃなくなったら連絡する』
『はい』
葵はスマートフォンを置いた。今日は写真店へ行く。一つ予定ができた。
*
同じ頃、真尋は自宅のテーブルへ秋田の写真を広げていた。
パソコンの画面には、現像する画像が並んでいる。葵が橋の上に立つ後ろ姿。紅葉の下で笑う真尋。二人の影。雨粒の残る葉。宿の薪ストーブ。
一枚ずつ選びながら、真尋はその時の会話を思い出していた。
写真は、その瞬間を止める。けれど見る人の中では、音や匂いまで動き始める。葵の声。冷たい風。喫茶店のミルクティー。
真尋は、二人の影の写真を大きめに印刷することにした。壁へ飾る。人のいない風景だけだった部屋へ。
午後から写真店へ行く予定だった。
そこへ葵から、卵焼きの写真が届いた。少し形は歪んでいる。だが、前回よりはきれいに巻けている。一人で作った。
真尋は、写真を見ながら安堵した。葵は自分の生活を動かしている。
それでも、葵から連絡が来ると嬉しい。頼られなくなったら寂しいのではないかと、一瞬考える。
葵が一人でできるようになることを願っている。その一方で、自分を必要としてほしい気持ちもある。
矛盾している。だが、人の気持ちは一つに整理しなくていい。真尋はそのことを、ようやく受け入れ始めていた。
スマートフォンが震える。黒田からだった。
『明日ですが、十一時に上野駅公園口でお願いします。少し歩くので、履きやすい靴のほうがいいと思います』
『わかりました』
『昼食は洋食と和食、どちらがいいですか』
真尋は考えた。黒田へ任せてもいい。だが、自分の希望を言う練習を続けている。
『和食がいいです』
送信する。
『承知しました。近くで探します』
『黒田さんは何を食べたいですか』
自分の希望だけではなく、相手の希望も知りたい。
『僕も和食です』
『では、ちょうどいいですね』
『水口さん。明日、楽しみにしています』
真尋の胸が軽く高鳴る。
『私もです』
以前なら、その言葉を送るまでに何度も考えた。今は、素直に返せる。
黒田から笑顔の絵文字が一つ届いた。真尋も同じものを返そうとして、迷う。結局、紅葉の絵文字を一つ送った。
黒田から、すぐに返信が来る。
『秋田ですね』
覚えている。葵との出会いを。真尋が変わるきっかけになった旅を。
『はい』
『いつか僕も、写真を見せてもらいたいです』
『明日、少し持っていきます』
『楽しみが増えました』
*
真尋はスマートフォンを置いた。
明日。黒田と会う。前回よりも、少し近い距離で話せる気がする。それが嬉しく、少し怖い。
黒田が自分を好きだと知っている。真尋は、まだ答えを出していない。会う回数が増えるほど、期待させるのではないか。
以前の思考が顔を出す。
だが黒田は、急がないと言った。二人で確かめる。相手の言葉を信じることも、関係の一部だ。
真尋は、明日着る服を考えた。
仕事の時とは違う。前回、葵に選ばれた深い緑のブラウスは、夜の食事には合っていた。昼間、歴史的な建物を歩く。柔らかい色のニット。歩きやすいパンツ。黒の低い靴。
クローゼットから、薄いベージュのニットを取り出した。鏡の前で合わせる。いつもより少し明るい。
写真を撮り、葵へ送りかける。だが、今日は葵が自分の時間を作ろうとしている。服の相談をすれば、また真尋のことを考えさせることになるかもしれない。
真尋はスマートフォンを下ろした。自分で決める。ベージュのニットにする。
その選択が、少し心地よかった。
*
昼前、葵は自宅を出た。薄いグレーのコート。秋田で巻いていた黄色いマフラー。
キャリーケースはない。カメラも持っていない。スマートフォンの中にある写真を印刷しに行くだけだ。
駅までの道を歩く。休日の街は、平日よりゆっくりしている。親子連れ。犬を散歩させる人。カフェの前で待ち合わせる恋人たち。
葵は、自然に恋人同士へ目が向いた。手をつないでいる二人。一つのスマートフォンをのぞき込む二人。
直哉と自分にも、同じような時間があった。胸が痛む。だが、目をそらさずに歩いた。
恋人たちがいる世界で、自分は一人。それでも、歩ける。
駅前の写真店へ入る。店内には、自分で操作する印刷機が並んでいる。葵は空いている機械の前へ立った。
スマートフォンを接続する。写真一覧が表示される。最近の写真から順に並んでいる。
真尋の部屋で作った料理。朝の味噌汁。企画資料のメモ。秋田の紅葉。真尋。
そして少し下へ進むと、直哉との写真が出てくる。
画面をスクロールする指が止まった。直哉の笑顔。葵の肩へ腕を回している。去年の冬。イルミネーションの前。
葵は画面へ触れた。印刷する写真として選ばれ、枠がつく。
「違う」
小さく言い、選択を外す。
今日は直哉の写真を印刷しに来たのではない。秋田の写真。新しい思い出。
葵はスクロールを戻した。紅葉の下の真尋。橋。木彫りの猫。親子丼。二人の影。自分が笑っている写真。
どれを選ぶか迷う。真尋が撮った自分の横顔は、知らない自分のように見える。
直哉と写っている時とは違う顔。恋人へ見せる笑顔ではない。安心している。少し幼い。それでも、大人の自分。
葵は数枚を選択した。二人の影。橋の上の自分。紅葉の下の真尋。喫茶店の窓。雪が降った夜の宿の入口。
印刷を開始する。機械の中から音がし、写真が一枚ずつ出てくる。
葵は両手で受け取った。画面で見るのとは違う。紙の重みがある。手に持てる思い出。
最後の一枚を受け取った時、隣の機械から声が聞こえた。
「これ、どれにする?」
「こっちのほうが二人とも写りがいいよ」
若い男女が、旅行の写真を選んでいる。
葵は一瞬、直哉との写真を印刷したくなった。手元に残しておきたい。なくしたくない。
スマートフォンの中にはある。それでも、紙にすれば、二年間が確かなものになる気がする。
葵はもう一度、印刷機へ接続した。直哉との写真を開く。一枚だけ。
最初に二人で遠出した海辺の写真。風が強く、葵の髪が顔にかかっている。直哉は笑っている。葵も笑っている。
完璧な写真ではない。それでも、その日の楽しさが残っている。
葵は一枚を選んだ。印刷する。写真が出てくる。手に取る。
胸が痛む。涙が浮かぶ。けれど、選んだことを後悔しなかった。
「楽しかったね」
写真へ向かって呟く。
戻りたいという言葉とは違う。楽しかった時間を、楽しかったと認める。
葵はその写真を、秋田の写真とは別の封筒へ入れた。
消さずに、分けて置く。悲しみの置き場所。思い出の置き場所。どちらも作ればいい。
*
写真店を出た後、葵は近くのカフェへ入った。窓際の一人席。
以前なら、一人でカフェに入ることはほとんどなかった。誰かと会うまでの時間調整には使う。仕事の資料を見るために入ることもある。ただ、自分のために一人で飲み物を注文し、過ごすことは少ない。
葵はミルクティーと、小さなケーキを頼んだ。食べられるかわからない。それでも、写真を印刷できた自分へ、何かを用意したかった。
席へ座り、封筒から秋田の写真を出す。一枚ずつテーブルへ並べる。紅葉。真尋。橋。二人の影。
同じ店にいる人から見れば、旅の写真を眺める女性だ。その裏にある物語は、誰にもわからない。
秋田へ一人で行ったこと。恋人に会えない寂しさを抱えていたこと。真尋に写真を頼んだこと。宿で再会したこと。直哉への不安を初めて誰かへ話したこと。
別れを選ぶ前の自分。写真の中の葵は、まだ直哉の恋人だった。
今は違う。同じ人なのに、立場が変わった。
葵は二人の影の写真へ指を置いた。影は並んでいる。顔は見えない。どちらが葵で、どちらが真尋か、知らない人にはわからない。
それでも葵にはわかる。右側の少し背の高い影が真尋。左側が自分。
葵は写真をスマートフォンで撮り、真尋へ送った。
『印刷しました』
すぐには返事がない。真尋も写真店へ行っているのかもしれない。
葵はミルクティーを飲んだ。温かい。ケーキを一口食べる。甘い。
直哉と別れてから、甘いものの味が以前ほどわからない日があった。今はわかる。おいしいと思える。それだけで、少し涙が出そうになる。
スマートフォンが震えた。真尋からだった。
『同じ写真を、私も今印刷しました』
続けて、写真が送られてくる。真尋の手に持たれた、二人の影。
同じ写真。同じ時間に、別の写真店で印刷した。葵は笑った。
『同じことしてる』
『離れていても』
『飾る?』
『飾ります』
『私も』
『どこに?』
『まだ決めてない』
『葵の好きな場所へ』
葵はテーブルへ並べた写真を見る。
直哉との写真を入れた封筒は、バッグの中にある。秋田の写真は、部屋へ飾る。直哉との写真は、箱へ入れる。見えない場所。それでも、捨てない。
今の自分には、その距離がちょうどいい。
『真尋』
『何ですか』
『一人でカフェに入って、ケーキ食べてる』
『いい休日ですね』
『少し寂しい』
『寂しい休日でも、いい休日です』
葵はその言葉を見て、ゆっくり息を吐いた。
『うん』
*
真尋は写真店を出た後、近くの額縁店へ寄った。
店内には、木製や金属製の額が並んでいる。大きさ。色。縁の太さ。二人の影の写真に合うものを探す。
以前なら、風景写真に合わせ、目立たない黒か白を選んでいた。今日は、少し温かみのある木製の額へ目が止まった。明るい茶色。宿の薪ストーブや、角館の木造の建物を思い出す色。
真尋はその額を選んだ。店員が写真を入れてくれる。
「旅行のお写真ですか」
「はい」
「お二人で?」
「旅先で知り合った友人と」
真尋は自然に答えた。
「素敵ですね」
「はい」
額を受け取る。紙袋を持って店を出ると、母から電話がかかってきた。
「もしもし」
『真尋、今大丈夫?』
「大丈夫です」
『明日、例の人と出かけるんでしょう』
「どうして知っているの?」
『日曜日に予定があるって言ってたじゃない』
「友人と出かけると言っただけです」
『建築士の男性でしょう』
母はすべて覚えている。
「そうです」
『楽しみ?』
「楽しみです」
真尋が迷わず答えると、電話の向こうで母が黙った。
『そう』
「何?」
『あなたがそういうふうに言うの、久しぶりだから』
「そうかな」
『以前は、会う前から疲れてたでしょう』
「疲れていた?」
『相手にどう思われるか、断るなら早いほうがいいか、結婚を考えられないなら会う意味がないとか』
母は、真尋が思っていた以上に見ていた。
「今回は、まだ何も決めてない」
『それでいいんじゃない』
「お母さん、前は結婚を急かしていたでしょう」
『急かしてたつもりはないけど』
「親戚の誰が結婚したとか、近所の人に孫ができたとか」
『話題がそれしかなかったのよ』
「私は、比べられていると思ってた」
『ごめんね』
母が素直に謝った。真尋は驚いた。
『お母さんも、あなたが一人でいることを心配しすぎてたのかもしれない』
「一人でも大丈夫だよ」
『知ってる』
「でも?」
『大丈夫な人ほど、誰にも頼らないでしょう』
真尋は歩みを止めた。母の言葉は、葵や黒田から言われたことと重なった。
「最近、少し頼るようになった」
『秋田で会ったお友達に?』
「葵にも。黒田さんにも」
『黒田さん』
母が名前を繰り返す。
「香織に紹介してもらった人」
『名前で呼ぶんだ』
「人に話す時は」
『真尋。楽しんでおいで』
「うん」
『結果を出そうとしないで』
「お母さんに言われるとは思わなかった」
『親だって変わるのよ』
真尋の口元が緩んだ。
「お土産、来週持っていくね」
『いつでもいいよ。写真も見せて』
「葵との?」
『それも。明日の写真も』
「撮るかわからない」
『撮ってもらいなさい』
「葵と同じこと言う」
『その子と気が合いそう』
「会わせたら、二人で私のことを言いそう」
『楽しそうね』
母の声が笑っている。
電話を切った後、真尋は紙袋の中の額を見た。
母にも、葵を会わせたいと思った。いつか。黒田にも。
大切な人たちが、それぞれ別の場所にいる。その間に、自分がいる。
全員が同じ関係になる必要はない。ただ、互いの存在を知ることで、自分の人生が少し広がる気がした。
*
土曜日の午後、葵は帰宅すると、写真を飾る場所を探した。
リビングの壁。本棚。ベッドの横。
直哉との写真は、以前から壁に飾っていなかった。だから写真を入れ替える必要はない。
友人との写真が並ぶ棚の一角へ、秋田の写真を置くことにした。
小さな透明の写真立てへ、二人の影を入れる。その隣へ、橋の上の自分。真尋が紅葉の下で笑っている写真は、離れた本棚へ。
「多いかな」
一人で呟く。だが、どれも飾りたい。部屋の中へ、新しい時間が加わる。
葵はバッグから、直哉との海辺の写真を出した。しばらく見つめる。
二人とも若く見える。二年前。葵は二十三歳。直哉は二十七歳。
海風。砂浜。近くの店で食べた海鮮丼。帰りの電車で、直哉の肩へもたれて眠った。
楽しかった。
写真を見ていると、戻りたい気持ちが湧く。今すぐ連絡したい。あの日へ戻れなくても、もう一度会えば何かが戻るかもしれない。
葵は写真を胸へ当てた。泣く。しばらく泣いた。
泣いた後、写真を白い封筒へ戻した。直哉の荷物をまとめた箱の中ではなく、自分の思い出を入れている引き出しへ置く。
返すものではない。捨てるものでもない。自分の過去として残すもの。
引き出しを閉める。涙を拭う。
「今日は、連絡しない」
自分へ言う。明日はわからない。今日だけ。
*
夕方、真尋は部屋の壁へ新しい額を飾った。函館の夜景と、尾道の坂道の間。二人の影。
人の姿が初めて加わった。顔は写っていない。それでも、真尋には二人の表情まで見えるようだった。葵が楽しそうに振り返り、地面の影を撮った瞬間。
真尋は写真の前へ立った。部屋の印象が変わった。人の気配がある。
自分だけの部屋でありながら、誰かとの時間も置かれている。それは侵入ではない。広がりだった。
インターホンが鳴った。真尋は驚いて画面を見る。香織だった。連絡は来ていない。
解錠する。数分後、玄関の扉を開けると、香織が紙袋を持って立っていた。
「急にごめん」
「どうしたの?」
「近くまで来たから」
「本当に?」
「半分は、黒田さんのことを聞きに」
真尋は苦笑した。
「入って」
「お邪魔します」
香織はリビングへ入り、壁を見て足を止めた。
「あれ?」
「何?」
「人の写真がある」
「影だけ」
「真尋の部屋に、人の写真」
香織は大げさに驚く。
「葵と秋田へ行った時の」
「旅先で会った子?」
「そう」
「写真、見せて」
真尋は印刷した写真をテーブルへ持ってきた。香織が一枚ずつ見る。
「かわいい子だね」
「葵は二十五歳」
「十一歳下か」
「そう」
「それで、何日も泊めたの?」
「恋人と別れたから」
「そこまで親しくなったんだ」
香織は二人の影の写真を見る。
「真尋、変わったね」
「みんなに言われる」
「前なら、旅先で仲良くなっても、東京に帰ったら連絡しなかったでしょう」
「そうかもしれない」
「家に泊めるなんて、もっとない」
「自分でも驚いてる」
香織は写真を置き、真尋を見た。
「無理してない?」
「してない」
「本当に?」
真尋は考える。
「少し疲れた時はあった」
「やっぱり」
「でも、葵に無理なことは無理と言うようにした」
「言えた?」
「少しずつ」
「真尋が人に境界線を言えるの、いい変化かも」
「以前は言えていたと思うけど」
「以前は、最初から誰も入れなかっただけ」
黒田と同じようなことを言う。誰にも頼られないよう、距離を置いていた。
「今は?」
「入ってもらって、ここまでは大丈夫、ここからは難しいって言ってる」
「そうかもしれない」
香織は紙袋から焼き菓子を出した。
「これ、夫の実家から」
「ありがとう」
「お茶ある?」
「淹れる」
*
二人はテーブルへ向かい合った。
「それで、黒田さん」
香織がすぐに本題へ戻る。
「明日、会う」
「二回目?」
「以前を含めれば、五回目くらい」
「再会してから二回目」
「そう」
「どう?」
「楽しい」
「好き?」
香織も葵と同じように直接聞く。
「まだ、わからない」
「会いたい?」
「会いたい」
「連絡が来たら嬉しい?」
「嬉しい」
「それ、かなり好きに近いと思うけど」
「葵にも言われた」
「二十五歳に教えられてる」
「年齢は関係ない」
「真尋が言うようになった」
香織は思わず笑った。
「黒田さん、真尋から連絡が来た後、すごく嬉しそうだったよ」
「会ったの?」
「仕事で少し。詳しいことは聞いてないけど」
「何か言ってた?」
「今度は急がないって」
真尋は黒田が、自分だけでなく香織にもそう話していたことを知る。
「黒田さん、前に断られてから、少し自分を責めてたみたい」
「どうして?」
「急に付き合ってほしいって言ったから、真尋を追い詰めたんじゃないかって」
「黒田さんだけのせいではない」
「わかってる。でも、真尋も自分だけのせいにしてたでしょう?」
真尋は黙った。
互いに、自分が悪かったと思っていた。相手の事情を想像しながら、直接話さなかった。
「明日、そのことも話してみる」
「話せそう?」
「今なら」
「よかった」
香織は焼き菓子を一つ取った。
「結婚のことは?」
「まだ考えない」
「黒田さんも?」
「まだわからないって」
「三十九歳でも?」
「年齢で答えが出るわけではないでしょう」
「本当に変わったね」
「以前なら?」
「付き合うなら結婚を考えられる相手じゃないと意味がないって言ってた」
「そう思ってた」
「今は?」
「会いたい人に会う時間にも意味がある」
香織は目を細めた。
「それでいいと思う」
「香織は、私に結婚してほしかったんじゃないの?」
「幸せになってほしかった」
「結婚と同じだと思ってた?」
「少し」
香織は正直に答えた。
「自分が結婚して、安心したから。真尋にも同じものがあればいいと思った」
「今は?」
「私の安心が、真尋の安心とは限らない」
「夫婦生活、何かあった?」
「大きなことはないよ」
香織は笑った。
「でも、結婚したから全部安心ではないって、暮らせばわかる。夫婦でも話さないと離れるし、一緒にいても寂しい時はある」
「幸せではない?」
「幸せだよ。でも、幸せだけじゃない」
葵が言った言葉と同じだった。悲しいから不幸というわけではない。幸せだから、悲しみがないわけでもない。
「みんな、同じなんだね」
「何が?」
「一つの感情だけで生きていない」
「当たり前でしょう」
「最近、ようやくわかった」
香織は真尋の顔を見て、笑った。
「今の真尋のほうが、前より人間らしい」
「前も人間です」
「知ってる」
二人は声を立てて笑った。
*
香織が帰った後、真尋は明日のバッグへ小さな写真封筒を入れた。
黒田へ見せる秋田の写真。すべてを持っていく必要はない。紅葉。武家屋敷。宿。葵。二人の影。真尋が笑っている写真。
自分の写真を人へ見せることは、以前なら少し抵抗があった。だが黒田には、葵と出会って変わった自分を知ってほしいと思う。
服を用意する。ベージュのニット。濃紺のパンツ。歩きやすい靴。小さなピアス。
ピアスは、自分で買ったものを選んだ。慎一にもらったものではない。避けたのではない。明日の服には、こちらが合うと思った。それだけ。
過去を基準にせず、今の自分で選ぶ。
寝る前、葵からメッセージが届いた。
『写真、飾りました』
棚に置かれた二人の影の写真。隣には、大学時代らしい友人たちとの写真。
葵の生活の中へ、真尋との時間が加わっている。
真尋も、自分の壁の写真を撮った。
『私も』
送る。
『同じ写真』
『同じ場所ではありませんが』
『離れてるけど、同じ』
『はい』
『明日は何時?』
『十一時です』
『服は?』
真尋は迷い、用意した服の写真を送った。
『自分で決めたんですか』
『はい』
『いいと思う』
『それだけ?』
以前、葵へ言われた言葉を返す。
『すごくいいです。柔らかく見える』
『ありがとうございます』
『髪は下ろす?』
『歩くので、途中でまとめるかもしれません』
『口紅は?』
『普段より少し明るいものを買いました』
『真尋が自分で?』
『そこまで驚かないでください』
『成長した』
『上から言わないで』
葵から笑う絵文字が届く。しばらくして、別のメッセージ。
『明日、連絡しないって言ったけど』
『はい』
『もし寂しくなったら、してもいい?』
真尋はすぐに返さず、言葉を考えた。
『もちろん。ただし、すぐに返せないかもしれません』
『わかってる』
『美月さんへも連絡できますか』
『うん』
『一人で過ごすことも選べます』
『うん』
『明日の葵が決めてください』
『真尋』
『何ですか』
『黒田さんとの時間、楽しんで』
『はい』
『私のこと、心配しすぎないで』
『努力します』
『約束になってない』
『では、心配しても、明日の時間を楽しみます』
『それならいい』
『葵も』
『寂しくても、明日を過ごす』
『はい』
真尋はスマートフォンを置いた。
互いに相手を思いながら、自分の時間を生きる。それができれば、離れている日は関係の空白ではなくなる。
*
日曜日の朝、真尋は七時に目を覚ました。目覚ましは八時に設定していた。まだ時間がある。それでも体はすっきりと目覚めている。
黒田と会う日。胸の中に、期待と緊張がある。
真尋はベッドを出た。カーテンを開ける。空は薄く晴れている。天気予報では、午後も雨は降らない。
コーヒーを淹れる。朝食はパンとヨーグルト。
食べながら、スマートフォンを確認する。黒田から、昨夜のうちにメッセージが届いていた。
『おやすみなさい。明日、気をつけて来てください』
真尋は返信する。
『おはようございます。今日はよろしくお願いします』
すぐに既読がつく。
『おはようございます。僕は少し早く起きすぎました』
『私もです』
『緊張していますか』
黒田から尋ねられ、真尋は正直に答えた。
『少し』
『僕もです』
その返事に安心する。自分だけではない。
『十一時に』
『はい』
真尋はスマートフォンを置き、支度を始めた。
化粧。髪。服。ベージュのニットを着る。鏡を見る。いつもの自分。少しだけ柔らかい。
口紅は、昨日買った淡い赤。つけすぎないように塗る。小さなピアス。
バッグへ財布、スマートフォン、ハンカチ、写真の封筒を入れる。
カメラも持っていくか迷う。黒田と建物を見る。撮りたい場面があるかもしれない。真尋はカメラを肩へ掛けた。
玄関の前で、もう一度鏡を見る。
「行ってきます」
一人の部屋へ言う。返事はない。それでも、葵と黒田と母へつながっている感覚がある。
真尋は扉を閉めた。
*
葵は同じ朝、八時半に目を覚ました。
真尋が出かける時間を、無意識に考えていた。連絡しないと決めている。邪魔をしたくない。
その一方で、今ごろ支度をしているのだろうかと想像する。ベージュのニット。少し明るい口紅。真尋が緊張している顔。
葵は布団の中で笑った。
「楽しんで」
誰もいない部屋で言う。
自分は何をするか。昨日、写真を印刷した。今日は、まだ予定がない。
美月からは、午後なら会えるとメッセージが来ている。
『お昼食べる?』
葵は返事を打つ。
『午後、少し会いたい』
『二時くらい?』
『うん』
予定ができる。午前中は一人。掃除をすることにした。
直哉の荷物を返す準備ではない。自分の部屋を整えるため。
床へ掃除機をかける。洗面所を洗う。冷蔵庫の古い食材を捨てる。洗濯機を回す。窓辺の植物の枯れた葉を取る。
体を動かしている間、直哉のことを考える時間は少ない。
ふと、二人で買ったクッションが目に入る。直哉が青を選び、葵が黄色を選んだ。今もソファに二つ並んでいる。
青いクッションを捨てるか迷う。手に取る。抱きしめる。
直哉の匂いは、もうしない。ただのクッション。それでも、二人で選んだ記憶がある。
「置いておく」
葵は元の場所へ戻した。
思い出を消すために部屋を変える必要はない。今の自分が使いたいものは残す。見たくないものは箱へ入れる。少しずつ選ぶ。
掃除を終える頃には、午前十一時を過ぎていた。真尋と黒田が会った頃だ。
葵はスマートフォンを見た。真尋から連絡はない。約束通り。
少し寂しい。けれど、安心もする。真尋は自分の時間を過ごしている。
葵は昼食のために、簡単なパスタを作った。
真尋と黒田は、どんな料理を食べるのだろう。考えてしまう。
「私も自分の昼」
声に出す。一人分のパスタを皿へ盛る。窓際のテーブルへ座る。
日曜日の昼。恋人はいない。真尋もいない。それでも、自分の生活がある。
*
上野駅の公園口は、休日の人で混み合っていた。家族連れ。観光客。美術館へ向かう人。
真尋は待ち合わせ時間の十分前に着いた。黒田はすでに、改札の外に立っていた。濃い茶色のコート。眼鏡。肩に小さなバッグ。
真尋に気づくと、穏やかに笑う。
「水口さん」
「お待たせしました」
「僕が早く来ただけです」
「何時に?」
「二十分ほど前です」
「早すぎませんか」
「家にいても落ち着かなかったので」
黒田は照れたように笑った。真尋は、その率直さが嬉しかった。
「今日の服、似合っています」
黒田が言う。真尋は一瞬、言葉に詰まった。葵が、褒められたか必ず聞くだろう。
「ありがとうございます」
「前回も素敵でしたが、今日は少し印象が違いますね」
「柔らかく見えると、友人にも言われました」
「葵さんですか」
「はい」
「服も相談したんですか」
「今回は、自分で決めました」
「それを報告した?」
「しました」
「仲がいいですね」
黒田の声に、嫉妬のようなものは感じない。ただ、葵との関係を理解しようとしている。
「黒田さんは、葵のことが気になりますか」
「気になります」
「なぜ?」
「水口さんにとって大切な人だからです」
黒田は自然に答えた。
「いつか会ってみたいと思っています」
「葵も同じことを言っています」
「僕のことを?」
「優しい人だと」
「会ったことがないのに」
「私が信じている人だから、と」
黒田は黙った。その表情が、ゆっくり柔らかくなる。
「嬉しいです」
「まだ会わせるとは決めていませんよ」
「急ぎません」
二人は歩き始めた。駅前を離れ、上野公園を抜ける。
冬の木々は葉を落とし、空が広く見える。人の流れ。美術館。動物園へ向かう家族。
真尋はカメラを肩へ掛けている。
「今日は撮るんですね」
黒田が言う。
「建物を見に行くので」
「僕も撮ってもらえますか」
真尋は黒田を見る。
「写真、苦手では?」
「水口さんに撮ってもらいたいです」
その言葉に、胸が高鳴る。
「自然な顔は難しいですよ」
「葵さんには撮れたでしょう」
「本人が気づかない時に」
「では、気づかないふりをします」
「不自然です」
二人は笑った。
*
旧岩崎邸庭園へ着くと、黒田は建物の正面で立ち止まった。
淡い色の洋館。柱。装飾。大きな窓。隣には、和館がつながっている。
「きれいですね」
真尋が言う。
「はい」
黒田は建物を見る時、少し表情が変わる。普段よりも目が輝き、細かな部分を追う。
「どこを見ているんですか」
「正面の柱と、窓の形。それから、左右のバランスです」
「私には、全体しか見えません」
「全体を見た後、細部を見ると面白いですよ」
黒田が指を差す。
「窓の上に装飾があります。すべて同じに見えますが、場所によって少し違う」
真尋は目を凝らした。
「本当ですね」
「建物は、繰り返しの中に小さな違いを入れることで、単調にならないよう作られています」
「人の生活にも似ていますね」
「毎日の繰り返しの中に、少しずつ違うことがある?」
「はい」
「水口さんも、建物に例えるようになりましたね」
「黒田さんの影響です」
黒田は嬉しそうに笑った。
二人は館内へ入った。木の床。高い天井。壁紙。暖炉。階段の手すり。
黒田は一つずつ説明する。専門的な言葉を使いすぎず、真尋がわかるように話す。
「この階段は、上から見ても美しいように作られています」
「上る人だけのためではない?」
「はい。下から見る人、上から見る人、途中にいる人。それぞれに違う見え方があります」
真尋は階段を上りながら考えた。
同じ出来事も、立つ場所によって違う。
葵と直哉の別れ。葵から見れば、突然失った恋。直哉から見れば、長く言えなかった気持ちの終わり。真尋から見れば、大切な友人が自分の足で選んだ別れ。
誰か一人の視点だけで、すべてを決めることはできない。
「水口さん」
「はい」
「考え事ですか」
「少し」
「話せます?」
黒田は、無理に聞こうとしない。話せるかと尋ねる。
「葵のことを考えました」
「今日、一人で過ごしている?」
「午後は友人と会うそうです」
「心配ですか」
「少し。でも、今は黒田さんとの時間を楽しみたいです」
真尋は、意識して言葉にした。黒田の表情が柔らかくなる。
「ありがとうございます」
「お礼を言うことですか」
「僕にとっては」
*
二階の窓から庭が見える。葉を落とした木々。冬の芝。遠くに見える街。
「ここ、写真を撮ってもいいですか」
真尋が尋ねる。館内の撮影可能な場所だと確認し、カメラを構える。
窓の枠と庭。光。
黒田が離れたところで、建物の説明板を見ている。真尋はその横顔を撮った。
シャッター音。黒田が振り向く。
「撮りました?」
「自然な顔を」
「気づかないふりをする前に」
「そのほうが自然です」
「見せてください」
真尋はカメラの画面を見せた。窓から入る光の中で、説明板を見る黒田。真剣な表情。
「自分では、こういう顔をしているんですね」
「建物を見ている時、楽しそうです」
「真剣な顔ですが」
「目が」
真尋は言ってから、恥ずかしくなった。
「目が楽しそうです」
黒田は画面ではなく、真尋を見る。
「水口さんは、よく見ていますね」
「写真を撮るので」
「写真だけですか」
真尋は答えられなかった。
黒田の顔。声。照れた時に眼鏡へ触れる癖。嬉しい時、口元より先に目が柔らかくなること。
会うたびに、少しずつ知っている。
「黒田さんのことも、見ています」
真尋は小さく答えた。黒田は、しばらく何も言わなかった。
「嬉しいです」
静かな声だった。
*
洋館を見た後、二人は和館へ移った。畳。障子。庭へ開かれた縁側。
洋館とはまったく違う空間が、廊下でつながっている。
「一つの建物に、二つの暮らしがありますね」
真尋が言う。
「当時は、客を迎える場所と、日常を過ごす場所が分かれていたんです」
「外へ見せる自分と、家での自分?」
「そう考えることもできます」
「以前の私は、会社の自分と家の自分を分けすぎていた気がします」
「今は?」
「少しつながりました」
「どの部分が?」
「会社でも疲れたと言う。家でも仕事の話をする。友人へ迷っていることを話す」
「洋館と和館の間に、廊下ができた?」
「また建物に戻りましたね」
「水口さんが始めました」
二人は縁側の近くへ座った。庭を眺める。冬の空気。館内の静けさ。観光客の声も、ここでは少し遠い。
「写真、持ってきました」
真尋はバッグから封筒を取り出した。
「秋田の?」
「はい」
黒田へ渡す。黒田は一枚ずつ丁寧に見る。紅葉。武家屋敷。宿。葵。
「この人が葵さん」
「はい」
「笑顔が明るいですね」
「表情がよく変わります」
「水口さんが撮った?」
「ほとんど」
「大切に撮っていますね」
黒田の言葉に、真尋は写真を見る。構図。光。葵の表情。
自分では意識していなかった。だが、大切に撮ったのだと思う。
「この写真」
黒田が、紅葉の下で笑う真尋の写真を持ち上げる。
「葵さんが?」
「はい」
「いい顔ですね」
「母にも言われました」
「僕は、少し羨ましいです」
黒田が言う。
「何が?」
「この顔を、僕はまだ見たことがない気がする」
真尋は写真を見る。葵へ向けて笑っている自分。無防備で、柔らかい。
「黒田さんの前では、緊張しているからでしょうか」
「それもありますか」
「はい」
「では、いつか撮れるくらい、緊張しない関係になりたいです」
急がない言葉。今すぐ同じ顔を見せてほしいとは言わない。いつか。
その未来を、真尋も少し想像する。
「この影の写真、僕も好きです」
黒田が最後の一枚を見る。
「今日、壁へ飾りました」
「水口さんの部屋に?」
「はい」
「人の写真を?」
「影ですが」
「大きな変化ですね」
「香織にも言われました」
「いつか、見たいです」
「部屋を?」
「写真を飾った壁を」
真尋は迷った。
黒田を自宅へ招く。葵とは違う。友人としてではなく、好意を向けている男性。部屋へ入れることには、別の意味が生まれるかもしれない。
以前なら、その意味を考えすぎて、すぐに拒んだだろう。
「いつか」
真尋は答えた。
「急ぎません」
黒田は微笑んだ。
*
建物を出ると、昼を過ぎていた。黒田が予約していた和食店へ向かう。
小さな路地にある店。木の看板。落ち着いた店内。二人は奥のテーブルへ案内された。
昼の御膳を注文する。焼き魚。小鉢。味噌汁。炊き込みご飯。
「歩きましたね」
黒田が言う。
「楽しかったです」
「説明しすぎませんでしたか」
「もっと聞きたかったです」
「本当ですか」
「黒田さんが好きなものを話す時、楽しそうなので」
真尋は自然に言った。黒田は照れたように水を飲む。
「水口さんは、今日はよく言葉にしますね」
「練習中です」
「自分の希望を?」
「嬉しいことも」
「では、僕も」
黒田は真尋を見る。
「今日、水口さんと建物を見られて、とても嬉しいです」
「私もです」
「それから、写真を持ってきてくれたことも。葵さんとの大切な時間を見せてもらえた気がしました」
「黒田さんにも知ってほしいと思ったんです」
「僕に?」
「今の私を作った時間だから」
黒田の表情が変わる。
「水口さん。聞いてもいいですか」
「何を?」
「僕と会おうと思ったのは、葵さんに勧められたからだけですか」
真尋はすぐに答えなかった。大切な質問だった。
葵に背中を押された。だが、それだけではメッセージを送れなかった。会いたいと思った。黒田の話を思い出した。もう一度、知りたいと思った。
「最初のきっかけは、葵です」
真尋は言った。
「でも、連絡したのは、私が会いたかったからです」
黒田は静かに聞いている。
「会ってからは、もっと知りたいと思っています」
「僕のことを?」
「はい」
言葉にすると、胸が速く鳴る。
「好きかどうかは、まだわかりません」
「はい」
「でも、会う日を楽しみにしています。連絡が来ると嬉しいです。黒田さんが私の話を覚えていることも、急がずに待ってくれることも、嬉しい」
黒田は目をそらさない。
「それが、今の私の気持ちです」
しばらく沈黙が続いた。店内の音。料理を運ぶ足音。ほかの客の会話。
黒田がゆっくり息を吐く。
「ありがとうございます」
「まだ答えにはなっていません」
「十分です」
「本当に?」
「はい」
黒田は笑った。
「僕も、水口さんと付き合いたいという気持ちはあります。でも、今すぐ名前をつけなくてもいいと思っています」
「以前とは違う?」
「以前は、名前がないと失う気がしました」
「今は?」
「会いたいと思ってもらえているなら、少し待てます」
「少し?」
「ずっととは言いません」
黒田は正直に答えた。
「僕にも、いつか自分の希望を言う時が来ると思います」
「付き合いたいと?」
「はい」
「その時、私がまだわからなかったら?」
「話し合いたいです」
「断るかもしれません」
「その可能性もあります」
「怖くないですか」
「怖いです」
黒田は迷わず言った。
「でも、怖いから会わないほうが、僕は後悔します」
真尋はその言葉を受け取った。
怖くても会う。葵が直哉と向き合った時。真尋が黒田へ連絡した時。
関係を始める時も、終える時も、怖さはなくならない。怖くない選択を探すのではなく、怖くても選びたいものを知る。
「私も、会わなければ後悔すると思いました」
「では、今は同じですね」
「はい」
料理が運ばれてくる。焼き魚の香り。湯気。二人は手を合わせた。
「いただきます」
*
食事を始める。会話は、少し軽い話題へ移った。
黒田の仕事。真尋の会社。葵の企画。香織のこと。母のこと。
「お母様も、僕のことを?」
黒田が驚く。
「香織に紹介してもらった建築士だと話しました」
「どんな反応でしたか」
「楽しんでおいで、と」
「結婚のことは?」
「言われませんでした」
「意外です」
「私も」
「会ってみたいです」
黒田が言う。
「母に?」
「いつか」
「葵にも、母にも?」
「水口さんの大切な人に、知ってもらえたら嬉しいです」
真尋は照れくさくなった。
「まだ早いです」
「はい。急ぎません」
「黒田さんのご家族は?」
「母には、以前紹介された人に断られたとだけ話しました」
「私のこと?」
「名前は言っていません」
「今は?」
「もう一度会っていると話したら、喜ぶと思います」
「話すんですか」
「水口さんが嫌なら、まだ話しません」
「嫌ではありません。ただ、期待させるのでは?」
「母に?」
「はい」
「母の期待は、母のものです」
黒田は穏やかに言った。
「僕たちが応える義務はありません」
真尋は、その考え方に驚いた。
親の期待。周囲の期待。相手の期待。すべてに責任を感じていた。
「黒田さんは、期待へ応えようとしない?」
「応えたい期待もあります。でも、全部は無理です」
「私より、上手ですね」
「僕も最近、わかるようになっただけです」
「何かあったんですか」
「兄の家を設計した時です」
黒田は箸を置いた。
「兄夫婦は、両親の希望をすべて取り入れようとしました。和室。広い客間。将来の同居を考えた部屋。でも、二人が本当に欲しかったのは、家族だけで過ごせる小さな家だった」
「どうしたんですか」
「途中で、兄が言いました。両親の家を作るのではない、と」
「ご両親は?」
「最初は怒りました。でも、今は気に入っています」
「期待に応えなくても、関係は終わらなかった」
「はい」
黒田は真尋を見る。
「期待を断ることと、相手を拒むことは同じではありません」
真尋はその言葉を心に留めた。
黒田の好意に、今すぐ同じ形で応えられない。それでも、黒田を拒んでいるわけではない。
葵のすべての希望を叶えられなくても、大切でなくなるわけではない。母の望む人生を選ばなくても、親子であることは変わらない。
*
昼食後、二人は不忍池の周りを歩いた。空は明るいが、風は冷たい。水面。枯れた蓮。遠くの建物。
真尋はカメラを構えた。冬の景色は、色が少ない。けれど光と影がはっきりしている。
「水口さん」
黒田が離れたところに立っている。
「撮ってもらえますか」
「今度は気づいていますね」
「はい」
「自然な顔は?」
「水口さんを見れば、少しは」
真尋はカメラを構えた。黒田が真尋を見る。緊張した笑顔。
「笑いすぎです」
「どうしたらいいですか」
「私ではなく、池を見て」
黒田が池を見る。真尋は数枚撮る。
「今度は、こちら」
黒田が振り返る。その瞬間、シャッターを切る。
自然な表情。真尋に呼ばれた人の顔。
「撮れました」
画面を見せる。黒田はしばらく見つめた。
「これ、送ってください」
「気に入りました?」
「水口さんが撮ったから」
「写真そのものは?」
「それも」
真尋は笑った。
「今度は、水口さんを」
「私も?」
「葵さんだけに撮らせるのは、少し悔しいので」
「競わないでください」
「冗談です」
黒田がカメラを受け取る。
「使い方は?」
「ここを半押しで焦点。完全に押すと撮れます」
「立つ場所は?」
「好きなところへ」
真尋は池の近くへ立った。風が髪を揺らす。
「どうしたらいいですか」
「自然に」
「それが難しいと」
「僕を見てください」
葵にも同じことを言われた。真尋は黒田を見る。
黒田はカメラを構えながら、笑っている。その顔を見ていると、真尋の緊張がほどける。
「水口さん」
「何ですか」
「今日、会えてよかったです」
シャッター音。真尋は一瞬、驚いた。
「今のは、写真を撮るために?」
「本当のことです」
黒田が画面を確認する。
「いい顔です」
「見せてください」
真尋は黒田の隣へ行く。
画面には、驚きながら笑う自分が写っている。葵が撮った写真とは違う。葵へ向ける顔より、少し大人びている。それでも、以前の黒田の前では見せなかった柔らかさがある。
「これ、私ですか」
「水口さんです」
葵へ言った言葉を、今度は黒田から返された。
「送ってください」
「もちろん」
黒田はカメラを返した。二人の指が触れる。ほんの一瞬。
真尋は手を引かなかった。黒田も、すぐには離さなかった。
手を握るほどではない。触れた指先の温度だけが残る。
互いに何も言わず、また歩き始めた。
*
午後二時。葵は美月と駅前の書店にいた。
美月が仕事に関する本を探したいと言い、付き合っている。葵は企画やデザインの棚を見ていた。
真尋と黒田は、今ごろ食事を終えた頃だろうか。考える。スマートフォンを確認したくなる。真尋から連絡はない。それでいい。
「何見てるの?」
美月が隣へ来た。
「女性向け商品のデザイン」
「仕事?」
「半分」
「半分は?」
「新しいこと勉強したくて」
「失恋すると、資格取ったり勉強始めたりする人いるよね」
「私は企画のため」
「わかってる」
「真尋さんは今日、デート?」
「うん」
「気になる?」
「少し」
「連絡した?」
「してない」
「えらい」
「我慢してるわけじゃない」
「じゃあ?」
「真尋には、真尋の時間があるから」
「成長したね」
「みんな上から言う」
葵は本を一冊手に取った。表紙には、生活者の感情から企画を考える方法が書かれている。真尋に言われた、感覚を言葉と数字へ変えることにつながりそうだ。
「買うの?」
「うん」
「仕事熱心」
「今度の企画、ちゃんと形にしたい」
「彼に見せるためじゃなく?」
美月は言ってから、気まずそうな顔をした。
「ごめん」
「いいよ」
葵は本を見た。
以前なら、新しい企画が通れば、直哉へ真っ先に報告した。すごいねと言ってほしかった。
今も、もし企画が形になれば、直哉へ見せたい気持ちはある。だが、直哉のために仕事をしているわけではない。
「自分のため」
葵は言った。
「それと、買ってくれる人のため」
「いいね」
「石橋さんにも認めてほしい」
「それも自分のためでしょう」
「うん」
葵は本を買った。書店を出た後、美月とカフェへ入る。美月が尋ねる。
「来週、彼の荷物どうするの?」
「まだ決めてない」
「連絡は必要だよね」
「うん」
「会って返す?」
「怖い」
「宅配にしたら?」
「最後にもう一度会いたい気もする」
「戻りたいから?」
「わからない。ちゃんとお別れしたいのかも」
「カフェで言ったんでしょう?」
「言った。でも、泣いて、何を話したか全部覚えてない」
「もう一度会ったら、また戻りたくなるかもしれないね」
「うん」
「真尋さんに相談する?」
「すると思う」
「でも、決めるのは葵」
「わかってる」
葵はミルクティーを飲んだ。
以前なら、真尋が会わないほうがいいと言えば従ったかもしれない。今は、意見を聞きたい。自分の気持ちを整理するために。答えを決めてもらうためではない。
「今週は連絡しない」
葵は言った。
「来週、考える。今日は、真尋にも連絡しない」
「何時まで?」
「帰るまで」
「決めてるんだ」
「夜、今日どうだったか聞く」
葵は吹き出した。
「私も、今日のことを話す」
*
午後三時を過ぎると、真尋と黒田は上野の小さな喫茶店へ入った。歩き疲れ、温かい飲み物が欲しくなった。
真尋はミルクティー。黒田はコーヒー。
「秋田でもミルクティーを?」
黒田が尋ねる。
「喫茶店で、葵と」
「写真にありましたね」
「はい」
「思い出しますか」
「思い出します。でも、今日は今日のミルクティーです」
真尋はカップを持った。
同じ飲み物。違う人。違う時間。どちらかが上書きされるわけではない。葵との思い出は残る。黒田との新しい思い出も増える。
「今日、水口さんの写真を撮れてよかったです」
黒田が言う。
「私も、黒田さんの写真を」
「次は、二人で撮りたいですね」
真尋は一瞬、葵に言われた時と同じ感覚を覚えた。
二人で写真を撮る。関係が残る。未来にその写真を見る。
以前なら、少し怖かった。今は、撮ってみたいと思う。
「誰に頼みます?」
「通りすがりの人に」
「葵と同じことを言いますね」
「では、三脚を買います」
「そこまで?」
二人は同時に吹き出した。
「水口さん。次は、どこへ行きたいですか」
黒田が尋ねた。
次。また会う前提。真尋は、自分の希望を考える。
「黒田さんが設計した建物を見たいです」
「僕の?」
「はい」
「仕事の成果を見られるのは、緊張します」
「今日、私に建物をたくさん説明したでしょう」
「歴史的な名建築と比べられると困ります」
「比べません」
黒田は考えた。
「以前改修した図書館があります」
「図書館?」
「小さな町の施設です。古い建物を残しながら、子どもから高齢者まで使える場所へ変えました」
「見たいです」
「少し遠いですが」
「どのくらい?」
「電車で一時間半ほど」
「日帰りで行けますね」
「いいんですか」
「行きたいです」
真尋は迷わず答えた。
「では、予定を調整しましょう」
「いつ?」
今度は真尋から尋ねる。黒田が嬉しそうに手帳を開く。
「来週は仕事があります。再来週の日曜日なら」
真尋も予定を確認する。今のところ空いている。
「大丈夫です」
「では、決まりですね」
「はい」
次の約束。以前は、別れ際まで決められなかった。連絡する理由が必要だった。今は、その場で会いたい日を決める。
「その前に、食事だけでも会えますか」
黒田が言う。
「平日?」
「はい。無理なら、図書館の日まで待ちます」
真尋は来週の予定を思い出す。火曜日は会議。水曜日は少し早く帰れそうだ。
「水曜日なら」
「僕も大丈夫です」
「では、仕事の後に」
「ありがとうございます」
「どうしてお礼を?」
「会う時間が増えたので」
黒田は素直に言った。真尋の胸も温かくなる。
「私も、嬉しいです」
黒田が驚き、笑う。
「今日は、何度も嬉しいと言ってもらえますね」
「練習の成果です」
「練習でなくなる日が来るといいですね」
「もう、少し自然です」
「そうですか」
「はい」
*
喫茶店を出た後、二人は上野駅へ向かった。夕方の空。人の多い道。別れの時間が近づく。
真尋は、今日は以前より短く感じた。まだ話したいことがある。黒田の図書館の話。家族のこと。料理。葵。仕事。
「今日は、ありがとうございました」
駅の前で黒田が言う。
「こちらこそ」
「とても楽しかったです」
「私も」
「次は水曜日」
「はい」
黒田は迷うように、手を動かした。真尋も、その動きを見た。
手を握る。そうしたいのかもしれない。
真尋は自分の気持ちを探した。嫌ではない。ただ、人の多い場所で突然握られると驚く。
黒田は手を下ろした。
「すみません」
「何が?」
「手をつないでもいいか、聞こうとして」
黒田は正直に言った。真尋の胸が速くなる。
「聞かなかったんですか」
「水口さんが少し緊張した顔をしたので」
「嫌ではありません」
真尋は言った。
「ただ、少し驚きます」
「では、今日はやめます」
「はい」
「次に聞いてもいいですか」
「その時に」
「わかりました」
黒田は笑った。真尋も笑う。
嫌ではない。その言葉を口にできた。今すぐ手をつながなくても、気持ちは伝わる。
「黒田さん。今日、会えてよかったです」
「僕もです」
「写真、送ります」
「待っています」
「黒田さんの写真も」
「水口さんの写真は、今送ります」
黒田がスマートフォンを操作する。真尋の端末が震える。
池の前で笑う自分。黒田へ向けた顔。
真尋は画面を見る。
「いい写真ですね」
「撮った人がいいので」
「自分で言います?」
「葵さんの真似です」
二人は声を立てて笑った。
「では、水曜日に」
「水曜日に」
黒田は改札へ向かった。真尋は少しの間、その背中を見送った。
手をつながなかった。それでも、距離は以前より近い。触れなかった手に、次の可能性が残っている。
*
真尋が電車へ乗ると、葵からメッセージが届いた。
『終わった?』
時刻は午後五時二十分。
『今、帰りです』
すぐに電話がかかってくる。
「もしもし」
『どうでした?』
「最初に、お疲れさまと」
『お疲れさま。それで?』
「前にも同じ会話をしましたね」
『待ってたから』
「今日は、連絡しないで過ごせましたね」
『美月と会ってた』
「どうでした?」
『本を買った。仕事の。それから、直哉の写真を一枚印刷した』
真尋は黙った。
「そうですか」
『怒らない?』
「どうして怒るんですか」
『新しい思い出を作ろうとしてるのに、前の写真も残したから』
「両方あっていいでしょう」
『うん』
「どの写真ですか」
『最初に海へ行った時の』
「大切な写真?」
『うん。見たら泣いた。でも、捨てたくなかった』
「残していいと思います」
『引き出しに入れた』
「自分で置き場所を決めたんですね」
『うん』
葵の声は、落ち着いている。
「私は、黒田さんに秋田の写真を見せました」
『私の写真も?』
「はい」
『何て?』
「笑顔が明るいと」
『それだけ?』
「大切に撮っていると言われました」
葵が電話の向こうで黙る。
『真尋』
「何ですか」
『うれしい』
「どうして葵が?」
『真尋が大切に撮ってくれたから』
「はい」
『黒田さん、いい人ですね』
「はい」
『手、つないだ?』
突然の質問。
「どうしてすぐそこへ行くんですか」
『デートだから』
「つないでいません」
『残念』
「ただ」
『ただ?』
「黒田さんが、つないでもいいか聞こうとしました」
『それで?』
「今日はやめました」
『真尋が断ったの?』
「嫌ではないけれど、少し驚くと」
『次は?』
「その時に考えます」
『真尋。かなり好きでしょう』
「まだわかりません」
『手をつなぐの、嫌じゃないのに?』
「それだけで決めないでください」
『次の約束は?』
「水曜日に食事。再来週、黒田さんが設計した図書館へ」
『二つも?』
「はい」
『すごい』
「葵は嬉しそうですね」
『うれしい。でも、少し寂しい』
葵は正直に言った。
「はい」
『真尋の時間が、黒田さんで増える』
「葵との時間がなくなるわけではありません」
『わかってる』
「寂しいままで、応援してくれる?」
『うん』
「ありがとうございます」
『真尋も、私が美月と会うの寂しくない?』
「安心しています。少しだけ、私の知らない時間が増える寂しさはあります」
『同じだ』
「はい」
『でも、大切は減らない』
「はい」
『今日、真尋に連絡しないで過ごせた』
「よく過ごしました」
『一人の時間もあった。明日は仕事』
「はい」
『直哉には、まだ連絡しない』
「今日、決めた?」
『今週は』
「はい」
『来週、荷物のこと考える』
「相談したい時は、聞きます」
『決めるのは私』
「はい」
『真尋。お帰り』
葵が言った。真尋はまだ電車の中だった。
「まだ家ではありません」
『デートから帰ってきたから』
「では、ただいま」
『楽しかった?』
「とても」
『よかった』
葵の声は、寂しく、それでも本当に嬉しそうだった。
*
自宅へ戻ると、真尋は玄関で「ただいま」と言った。誰もいない部屋。壁には、二人の影の写真。
真尋はそこへ、今日黒田に撮ってもらった自分の写真を並べてみた。まだ額はない。紙のまま、壁へ当てる。
秋田で葵が撮った自分。上野で黒田が撮った自分。表情が違う。どちらも自分。それぞれの人に向けた顔。
一人の中に、いくつもの自分がいる。会社での自分。母の前。香織の前。葵の前。黒田の前。
どれかが本当で、ほかが偽物ではない。関係の中で見える自分が違うだけだ。
真尋は、黒田の写真もパソコンへ取り込んだ。窓辺で説明板を見る横顔。池の前で振り返った顔。自然に笑う黒田。
その写真を見ていると、また会いたいと思う。水曜日まで、三日。黒田が数えたように、自分も数えている。
スマートフォンが震えた。黒田から。
『今日はありがとうございました。写真、すべて気に入りました』
『こちらこそ、ありがとうございました』
『水口さんの写真も送ります』
数枚届く。池の前。庭を見ている横顔。建物の窓へ顔を近づける姿。
黒田も、真尋が気づかない間に撮っていたらしい。
『いつ撮ったんですか』
『水口さんが建物を見ている時です』
『隠し撮りですね』
『葵さんの真似です』
『本人に許可を取ってください』
『次から聞きます』
『自然な顔ではなくなります』
『では、撮った後に許可を取ります』
真尋は声を立てて笑った。
『この写真、好きです』
一枚を選ぶ。庭を見ながら笑っている横顔。
『僕も好きです』
『どうして?』
『水口さんが、楽しそうだから』
真尋は画面を見つめた。
『今日は、本当に楽しかったです』
送る。
『僕もです。水曜日まで、あと三日です』
『また数えていますね』
『水口さんは?』
真尋は迷った。
『私も』
送信する。黒田から、嬉しそうな絵文字が届いた。
*
その夜、葵は自宅の棚に飾った写真を見ながら、真尋から送られてきた上野の写真を見た。
黒田の横顔。池の前で笑う真尋。二人で撮った写真はない。それでも、真尋の表情を見れば、撮った人が大切な相手だとわかる。
少し寂しい。自分だけが知っていた真尋の柔らかい顔を、黒田も見始めている。
だが、その顔が増えることは、真尋の幸せが増えることでもある。
「よかったね」
葵は写真へ言った。
自分のスマートフォンには、直哉の写真もある。真尋の写真も。美月との今日の写真も一枚撮った。書店で買った本を持ち、二人で笑っている。
大切な写真が増えていく。直哉の写真が消えるわけではない。ほかの写真が増えることで、直哉だけだった場所が少しずつ広がる。
葵はベッドへ入った。今日は真尋へ電話をしない。話したいことは話した。声も聞いた。今は、一人で眠る。
スマートフォンを枕元へ置く。直哉のトークは開かない。真尋からの上野の写真を一度見て、閉じる。
「おやすみ」
一人で言う。部屋の照明を消す。
直哉を思い出す。胸が痛む。
それでも今日、自分は写真を印刷した。カフェでケーキを食べた。美月と本を選んだ。真尋のデートを応援した。
寂しいだけの日ではなかった。
*
真尋も、同じ頃、寝室の照明を消した。
葵から連絡は来ていない。黒田とのやり取りも終わった。一人の夜。
今日の記憶が、胸の中に残っている。建物。昼食。写真。触れた指先。手をつながなかったこと。次は、つなぐかもしれないこと。
真尋は、自分の右手を見た。
黒田が手を伸ばしかけた瞬間。嫌ではなかった。驚いただけ。
以前なら、驚いた時点で距離を置いた。今は、次に聞いてもいいと答えた。
その小さな違いが、自分には大きい。
誰かと近づくことを、決定ではなく過程として考えられる。
手をつなぐ。家へ招く。恋人と呼ぶ。結婚を考える。
一つずつ、その時の自分が選べばいい。最初の一歩を踏み出したからといって、最後まで進む義務はない。途中で立ち止まり、話し合うこともできる。
真尋は目を閉じた。
離れている今日、葵は自分の休日を過ごした。真尋は黒田との時間を楽しんだ。
それぞれの場所で生きながら、夜には互いの一日を分け合った。
関係は、同じ場所にいる時間だけで作られるのではない。離れている時に、相手が自分とは別の生活を持つことを受け入れる。そこに寂しさがあっても、相手の時間を奪わない。必要な時には手を伸ばし、戻ってきた言葉を受け取る。
それもまた、つながるということなのだろう。
真尋は、次の水曜日を思った。再来週の図書館を。いつか葵とまた旅へ出ることを。母へ秋田の土産を届けることを。
予定は増えている。未来は、一つの道ではなく、いくつもの約束へ枝分かれしている。
どれか一つを選べば、ほかが消えるわけではない。できる限り、大切にすればいい。すべてを完璧に守れなくても。その時々で、自分の気持ちを伝えながら。
東京の夜は静かに更けていく。
離れた部屋で、葵も眠ろうとしている。黒田も、今日の写真を見ているかもしれない。
真尋は一人で布団に包まりながら、完全な孤独ではないと感じていた。
目には見えない約束が、いくつもの場所を結んでいる。
次に会う日を待ちながら、それぞれの生活を生きる。
離れている日も、関係の途中にある。
真尋は穏やかな呼吸を繰り返し、ゆっくりと眠りへ落ちていった。




