↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/46

第十二章 手放すもの、残していくもの

月曜日の朝、葵は目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。

 窓の外はまだ薄暗い。カーテンの隙間から見える空は、青みを帯びた灰色だった。

 枕元の時計を見る。午前六時十二分。

 日曜日は美月と過ごし、夜は一人で眠った。途中で何度か目を覚ましたが、真尋へ連絡はしなかった。直哉のトーク画面も開かなかった。

 眠れない時間には、前日に買った本を少し読んだ。

 働く女性が商品を選ぶ時、価格や機能だけではなく、その時にどんな気持ちになりたいかが重要だと書かれていた。

 安心したい。自分を褒めたい。気持ちを切り替えたい。誰かとつながりたい。

 葵は仕事の企画を考えながら、自分自身も同じなのだと思った。

 直哉へ連絡したい時、本当に欲しいのは、返事そのものではないのかもしれない。

 自分がまだ大切にされているという安心。二年間が無意味ではなかったという証明。一人ではないという感覚。

 それらを直哉の言葉から得ようとしている。けれど、そのすべてを一人の人だけに求めなくてもいい。

 頭では、少しずつわかり始めていた。

 葵は布団から出た。冷たい床へ足をつける。昨日より迷わず立てた。

 カーテンを開ける。朝の光が部屋へ入る。

 棚には、秋田で撮った二人の影の写真。大学時代の友人たち。美月と書店で撮った写真。引き出しの中には、直哉との海辺の写真。

 見える場所にあるもの。今は見えない場所へ置いているもの。どちらも葵の時間だった。

 キッチンへ向かう。冷蔵庫には、昨日買った野菜と卵がある。

 味噌汁を作る。豆腐とねぎ。味噌は前回よりも少なめにする。沸騰させないよう火を止める。一口味見をした。

「ちょうどいい」

 一人の台所で、自分へ言う。

 卵焼きも作ろうかと考えたが、時間がかかる。無理に丁寧な朝を作る必要はない。納豆とご飯、味噌汁。十分だった。

 椅子へ座る前に、スマートフォンを確認した。真尋からは、昨夜のうちにメッセージが届いている。

『明日は朝から会議なので、昼まで返事が遅くなるかもしれません』

 葵が夜に送った「おやすみ」への返事と一緒だった。

 先に、連絡できない時間を伝えてくれた。何も言わずに返事が途切れれば、葵が不安になるかもしれないと考えたのだろう。

 嬉しい。同時に、少し申し訳なくなる。自分のために、真尋がそこまで気を使っている。

 葵は返信を打った。

『おはよう。今日は私も午前中に打ち合わせがあります。返事は気にしないでください』

 考え、もう一文を加える。

『私も仕事に集中します』

 送信する。真尋から返事がなくても、今日は待てると思った。

     *

 真尋は午前六時半に目を覚ました。

 日曜日の上野で黒田と過ごした時間が、まだ体のどこかに残っている。

 建物。庭。昼食。喫茶店。不忍池。黒田が手を伸ばしかけたこと。嫌ではないと、自分から伝えたこと。次に聞いてもいいかと尋ねられたこと。

 明後日の水曜日に、また会う。

 以前なら、次の約束が近すぎると感じただろう。日曜日に会い、水曜日にも会う。相手の生活へ入りすぎる。期待させる。一人の時間が減る。

 そのような理由を並べ、少なくとも一週間は空けようとしたはずだ。

 今は、三日後に会えることが嬉しい。

 真尋はベッドを出た。リビングへ入る。

 壁に飾った二人の影の写真。その隣には、黒田が撮った真尋の写真を仮に立てかけている。池の前で、驚きながら笑う自分。

 葵が撮った写真とは、表情が違う。

 葵の前では、守らなければならないという意識と、頼ってもいいという安心が混ざる。黒田の前では、まだ緊張がある。それでも、知ってほしいという気持ちが生まれている。

 真尋は写真を手に取った。小さな額を買おうと思う。人の写真が、また一枚増える。

 朝食を作る。コーヒー。トースト。ヨーグルト。

 冷蔵庫には、葵がいた頃に買った卵が残っている。一つ茹でる。一人分。以前と同じ量へ戻った。

 だが、一人だから足りないとは感じない。誰かと過ごす時間と、一人で過ごす時間。両方を持てることが、今は嬉しい。

 スマートフォンを見る。葵からメッセージが届いている。

『私も仕事に集中します』

 真尋は安心した。返事をしようとして、時計を見る。まだ七時前。葵も朝食を取っている頃だろう。

『お互いに。夜、今日のことを話しましょう』

 送る。

 黒田からもメッセージが届いていた。

『おはようございます。昨日撮った写真を、昨夜ずっと見ていました』

 真尋は小さく笑った。

『そんなにたくさんは撮っていません』

『少ないから、一枚ずつよく見られました』

『私も見ました』

『水口さんの壁に、写真を飾る場所はありますか』

 真尋は池の前の写真を撮り、送った。

『まだ額がありません』

 黒田の返事はすぐに来た。

『飾ってもらえるんですか』

『はい』

『嬉しいです』

 真尋はその言葉を見て、胸が温かくなった。

 自分が撮った写真を飾ってもらえる。自分が撮った相手の写真を飾る。互いの部屋に、互いの視線が残る。

『黒田さんは、自分の写真を飾りますか』

『自分の写真は少し恥ずかしいので、机の引き出しに入れています』

『飾らないんですね』

『水口さんの写真なら飾りたいです』

 真尋の指が止まる。

『送った写真を?』

『はい。ただ、勝手に飾るのは失礼かと思って』

『どうして?』

『僕の部屋へ来た人に、水口さんとの関係を聞かれるかもしれません』

 黒田の慎重さが、真尋には嬉しかった。

 写真を飾るだけ。それでも相手の生活へ、自分の存在が入ることになる。

『私は構いません』

 送信する。少しして。

『ありがとうございます。では、気に入った写真を一枚飾ります』

『どれですか』

『庭を見ている横顔です』

 真尋も気に入ったと伝えた写真だった。

『私も、その写真が好きです』

『同じ写真ですね』

 葵と二人の影を同時に印刷した時と似ている。離れた部屋に、同じ写真がある。

『同じですね』

 真尋は返信した。

     *

 葵の午前中は、新商品の広告案を確認する打ち合わせから始まった。

 石橋が作った予算表。葵が考えた人物像。デザイナーが作った仮のパッケージ。

 テーブルの上に、三種類の案が並ぶ。一つ目は、淡い色の背景に短い言葉を入れたもの。二つ目は、商品写真を大きく使ったもの。三つ目は、働く女性の日常をイラストで描いたもの。

「小野寺さんは、どれがいいと思う?」

 石橋が尋ねた。

 以前なら、石橋の意見を先に聞こうとしただろう。間違いたくない。否定されたくない。その気持ちから、自分の希望を後へ回していた。

 葵は三枚を見比べた。

「一つ目です」

「理由は?」

「商品を強く見せるより、買う人の気持ちへ先に言葉を届けたいです」

「言葉が小さくない?」

「店頭では、少し大きくしたほうがいいと思います。ただ、商品名より目立たせるほどではなくて」

「なぜ?」

「自分のために買うものだからです。大きな応援ではなくて、誰にも気づかれないくらいの小さな言葉が合うと思います」

 石橋は一つ目の案を手に取った。そこには、仮の言葉として、

『今日の自分へ、ひと休み』

 と書かれている。

「この言葉は?」

「少し一般的です」

 葵は答えた。

「では、どうしたい?」

「もう少し、頑張ったことを認める言葉にしたいです」

「たとえば?」

 葵は考えた。

 失恋しても会社へ行った日。資料を作り直した日。一人で家へ帰った日。味噌汁を作った朝。

 大きな成果ではない。誰かに褒められないこともある。それでも、その一日を生きた。

「『今日も、ここまで来たあなたへ』」

 葵が言うと、会議室が静かになった。石橋が文字をメモする。

「いいと思う」

「重くないですか」

「商品による。でも、仕事を頑張るというより、一日を過ごしたことを認める言葉になっている」

 デザイナーの女性も頷いた。

「疲れている時は、頑張れと言われるより、ここまで来たと言われるほうが受け取りやすいかもしれません」

 葵の胸が温かくなる。自分の経験が、企画の言葉へ変わった。

 直哉と別れたことを、仕事に利用したいわけではない。けれど、自分が感じたことが、誰かの気持ちを想像する助けになる。

「この方向で、三案ほど言葉を出しましょう」

 石橋が言う。

「小野寺さん、今日中にできますか」

「はい」

「数字の根拠は私が整理する」

「お願いします」

 仕事を分け合う。葵の感覚。石橋の数字。

 以前は、石橋のやり方へ自分を合わせなければならないと思っていた。今は、違う強みを持つ二人が一緒に作っている。

     *

 打ち合わせが終わり、会議室を出る時、石橋が葵へ声をかけた。

「今の言葉、何かあった?」

 葵は一瞬、迷った。私生活を話す必要はない。だが、石橋は興味本位で聞いているのではないように見えた。

「少し前に、恋人と別れました」

 葵は言った。声にしても、以前ほど崩れなかった。

「そうだったんだ」

「はい」

「顔色が悪かったのも?」

「そうです」

「無理してた?」

「かなり」

 石橋は考えた。

「仕事へ来ることが、つらかった?」

「最初の日は。でも、来てよかったです」

「そう」

「企画を考えている間は、少しだけ悲しみから離れられました」

「仕事へ逃げすぎないようにはしてね」

 石橋の言葉に、葵は驚いた。

「石橋さんなら、仕事に集中しろって言うと思いました」

「私を何だと思ってるの」

「仕事が一番の人」

「前はね」

「今は違うんですか」

 石橋は廊下の窓へ目を向けた。

「三年前、体調を崩したことがあるの」

「知りませんでした」

「言ってないから」

 石橋は淡々と話した。

「仕事を止めたら、自分に何も残らないと思ってた。だから、熱があっても会社へ来た。眠れなくても資料を作った」

「それで?」

「倒れた」

 石橋は笑った。

「二週間休んだ。戻ったら、会社は普通に動いてた」

「怖くなかったですか」

「最初は、自分がいなくても動くことが怖かった。でも、その後は安心した」

「安心?」

「全部を背負わなくていいってわかったから」

 葵は真尋を思い出した。

 以前の真尋も、何かが足りなければ自分で埋めようとしていた。誰かの希望に応えられないなら、最初から距離を置こうとしていた。

「石橋さんも、変わったんですね」

「少しは」

「今も厳しいです」

「仕事だから」

「褒めることも増えました」

「小野寺さんが言ったから」

 石橋は照れくさそうに視線をそらした。

「別れたこと、今は誰かに話せてる?」

「はい。友達に」

「一人で抱えないで」

「ありがとうございます」

「でも、企画の締め切りは今日だから」

「やっぱり厳しい」

「それとこれは別」

 二人の間に短い笑いが起きた。

     *

 真尋は午前中の会議を終え、自分の席へ戻った。

 来月から始まる新規案件の担当者を決める話し合いだった。大きな取引先。社内でも注目されている案件。

 これまでなら、真尋自身が責任者を引き受けただろう。だが今回は、佐伯を主担当へ推薦した。

「本当に私でいいんですか」

 会議後、佐伯が不安そうに尋ねる。

「いいと思ったから推薦しました」

「課長がやったほうが、失敗しないでしょう」

「私がやっても失敗する可能性はあります」

「でも」

「佐伯さんは、前回の試験導入で数字を一番理解しています。取引先からの質問にも、自分で答えられました」

「それは、課長が待ってくれたから」

「今度は、主担当として答える機会を増やしてください」

 佐伯は資料を胸へ抱えた。

「怖いです」

「はい」

「失敗したら?」

「一緒に修正します」

「課長が全部直すんですか」

「いいえ。佐伯さんが直すのを手伝います」

 以前なら、真尋が不足を引き取った。今は、相手が自分で戻れるよう支えたいと思う。

「私、できるでしょうか」

「できます、と私が断言したら安心します?」

「少し」

「できる可能性があると思っています。でも、簡単ではないです」

「正直ですね」

「最初に良いことだけ言うと、苦しくなった時に裏切られたと感じるでしょう」

 佐伯は考え、頷いた。

「やってみます」

「はい」

「でも、困ったら相談します」

「してください」

「夜でも?」

「緊急なら」

「緊急じゃなければ?」

「翌朝に」

「線を引きますね」

「長く働くためです」

 佐伯は思わず笑った。

「わかりました」

     *

 自分の席へ戻る。真尋は時計を見た。午後零時十分。

 葵へ連絡しようか考える。午前中は互いに仕事へ集中すると話していた。葵からは何も届いていない。それは仕事ができているということだろう。

 真尋は先に昼食を取ることにした。同僚と外へ出る。

 食事を終えた後、スマートフォンを見ると、葵からメッセージが届いていた。

『広告の言葉が一つ決まりそうです』

『どんな言葉ですか』

『今日も、ここまで来たあなたへ』

 真尋はその文章を見た。葵自身へ向けた言葉のように感じる。

『いい言葉ですね』

『失恋の次の日に会社へ行った時のことを思い出して考えました』

『葵の経験が、誰かへ届く言葉になったんですね』

『嫌なことを利用してるみたいじゃない?』

 真尋は考える。

『経験を商品にするのではなく、その経験から誰かの気持ちを想像しているのだと思います』

 送る。

『石橋さんにも、似たことを言われた』

『話したんですか』

『別れたこと』

『話せたんですね』

『うん。石橋さんも、前に仕事で倒れたことがあるって』

『意外ですね』

『完璧な人じゃなかった』

『誰も完成していません』

『真尋も?』

『もちろん』

『黒田さんも?』

『本人が、そう言っています』

『私も』

『はい』

『はい、だけ?』

 真尋は声を立てて笑った。

『葵は、完成していないまま十分魅力があります』

 送った後、少し気恥ずかしくなる。葵からは、すぐに返信が来なかった。

 数分後。

『保存しました』

『何を?』

『今の言葉』

『恥ずかしいので消してください』

『嫌です』

 真尋はスマートフォンを伏せた。

     *

 月曜日の夜、葵は仕事を終え、美月と駅まで歩いた。

「今日、彼の荷物のこと考えた?」

 美月が尋ねた。

「少し」

「どうしたい?」

「わからない」

「会って返したい?」

「会いたい気持ちはある」

「戻りたい?」

「それもある」

 葵は隠さず答えた。

「でも、戻ったらまた同じかもしれない」

「彼が変わってなければね」

「私も変わってないかもしれない」

「葵は少し変わったでしょう」

「何が?」

「自分の希望を言うようになった」

「直哉の前で言えるかな」

「それは、会ってみないとわからない」

 美月は横断歩道の前で立ち止まった。

「荷物は、宅配でも返せる」

「うん」

「会うなら、荷物を返す以外に何をしたいか考えたほうがいいかも」

「何をしたいか」

「戻ってほしいと頼みたいのか。最後に気持ちを聞きたいのか。ただ顔を見たいのか」

 信号が青になる。二人は歩き始めた。

「顔を見たい」

 葵は言った。

「それだけ?」

「本当に終わったって、自分で確認したい」

「会ったら、終わりじゃないって思うかもしれない」

「うん」

「それでも会いたい?」

「まだわからない」

「じゃあ、決めるのはもう少し後でいいね」

「荷物、いつまでも置いておいていいかな」

「彼が急いでないなら」

「連絡は来てない」

「向こうも、葵が落ち着くのを待ってるんじゃない」

「戻ってきてほしいから待ってる可能性は?」

 美月はすぐに答えなかった。

「その可能性を考え続けると、何でも期待に見えるよ」

「わかってる」

「ごめん」

「ううん」

 葵は俯いた。

 連絡がない。それを、直哉も迷っている証拠だと思いたい。葵を傷つけないために待っているだけかもしれない。もう連絡したくないと思っているのかもしれない。

 どれが本当かは、直哉にしかわからない。

「真尋さんには相談する?」

「今日の夜、話す」

「何て言われると思う?」

「葵がどうしたいか考えて、って」

「正解」

「答えをくれない」

「でも、答えを決めてもらったら、あとで苦しくなるってわかってきたでしょう」

「うん」

 葵は小さく息を吐いた。

「真尋の意見は聞きたい」

「それでいいんじゃない」

「意見と答えは違う?」

「違うよ」

 美月は改札の前で立ち止まった。

「私は、今会うのは少し早いと思う」

 葵は美月を見る。

「どうして?」

「葵が、彼の言葉一つで全部を戻しそうだから」

「戻ったらだめ?」

「だめじゃない。でも、寂しいから戻るのか、本当にもう一度関係を作りたいから戻るのか、今は区別できなさそう」

 美月の言葉は少し厳しかった。けれど葵を否定しているわけではない。

「ありがとう」

「怒らない?」

「少し痛いけど」

「言わないほうがよかった?」

「聞きたかった」

 葵は美月へ小さく手を振り、改札へ入った。

     *

 その夜、葵は夕食を済ませた後、真尋へ電話をかけた。真尋は自宅で、翌日の資料を確認していた。

『もしもし』

「今、大丈夫?」

『大丈夫です。夕食は?』

「食べた」

『何を?』

「野菜炒め」

『作ったんですか』

「うん」

『味は?』

「少し焦げたけど、おいしかった」

『よくできました』

「待ってた」

『褒められるのを?』

「うん」

 葵はソファへ横向きに座った。棚の上には、秋田の写真。クローゼットの近くには、直哉の荷物を入れた箱。

「真尋。直哉の荷物、どうしたらいいと思う?」

 電話の向こうが静かになる。

『葵は、どうしたいですか』

「やっぱり聞く」

『聞くと思ったでしょう』

「うん」

『なら、少しは考えていた?』

「会って返したい気持ちと、宅配で送りたい気持ちがある」

『会いたい理由は?』

「顔を見たい」

『ほかには?』

「戻ってきてほしいって、少し思ってる」

 声にすると、胸が痛んだ。

『はい』

「怒らない?」

『どうして怒るんですか』

「別れるって決めたのに」

『気持ちは決めた通りに動きません』

「会って、好きって言われたら戻ると思う」

『それは嫌ですか』

「わからない」

『今までと同じ状態へ戻るのは?』

「嫌」

『では、戻るなら、何が変わってほしいですか』

 葵は考えた。

「忙しくても、連絡できないなら言ってほしい」

『はい』

「会えない時も、私と続けたいと思ってるか伝えてほしい」

『はい』

「将来のことを、今すぐ決めなくてもいい。でも、話すことから逃げないでほしい」

『はい』

「私も、重いと思われるのが怖くて黙らない。一人で我慢しない」

『それを直哉さんへ伝えたいですか』

「伝えたい」

『では、荷物を返すためだけではなく、もう一度話したい気持ちがあるんですね』

「うん」

『会うことを止めてほしいですか』

 葵は唇を噛んだ。

「少し」

『なぜ?』

「止めてもらったら、会わなくて済むから」

『会いたいのに?』

「会って傷つくのが怖い。直哉が、本当に私と戻る気がなかったら」

『はい』

「もう一回、終わる」

 葵の目に涙が浮かぶ。

 一度別れた。それでも心のどこかに、まだ道が残っていると思っている。会って、直哉からはっきり断られれば、その道もなくなる。

『葵』

「うん」

『会わなくても、今の不安は残ると思います』

「じゃあ、会ったほうがいい?」

『私は、少し待ってもいいと思います』

 真尋は、初めて自分の意見をはっきり言った。

「どうして?」

『今の葵は、直哉さんが戻ろうと言えば、その理由を聞く前に頷いてしまいそうだからです』

 美月と同じ。

「みんな、そう思うんだ」

『美月さんにも?』

「今会うのは早いって」

『葵は、どう感じました?』

「嫌だった。でも、わかる」

『いつなら会ってもいいと思いますか』

「直哉が好きじゃなくなったら?」

『それを待つ必要はないです』

「じゃあ?」

『戻りたいと言われた時に、葵が自分の希望を伝えられると思えた時』

 葵は黙った。

 今、直哉を前にすれば、好きという言葉だけで崩れるかもしれない。また会いたい。戻りたい。それ以外のことを言えなくなる。

「いつになるかな」

『わかりません』

「荷物は?」

『直哉さんが急いでいないなら、少し待ってもらってもいいでしょう』

「連絡しなくても?」

『気になるなら、荷物を預かっていることと、もう少し時間がほしいことだけ伝える方法もあります』

「会いたいとは言わない?」

『今は』

「文章、考えて」

『自分で書いてください』

「真尋」

『書いたら、一緒に見ます』

「うん」

     *

 葵はメモ帳を開いた。

「今、書く」

『待っています』

 葵は文章を打ち始めた。

『荷物のこと、まだ連絡できなくてごめん。もう少し落ち着いてから、どう返すか決めたいです。急いで必要なものがあれば教えてください』

 声に出して読む。

『いいと思います』

「冷たい?」

『必要なことは伝わっています』

「直哉が、もう会いたくないんだと思わない?」

『そう思われるのが嫌ですか』

「嫌」

『では、どうしてほしい?』

「会いたいと思っててほしい」

『その気持ちも書きますか』

「書いたら、戻りたいって伝わる」

『伝わってはいけない?』

 葵は答えられない。

「今は、伝えない」

『はい』

「この文章、送っていい?」

『送りたいなら』

「また決めてくれない」

『葵』

「わかってる」

 葵は深く息を吸った。送信する。

「送った」

『はい』

「怖い」

『はい』

「返事、来たらどうしよう」

『読んでから考えましょう』

「今、真尋と話しててもいい?」

『いいですよ』

「仕事は?」

『今日は終わっています』

「黒田さんと連絡してた?」

『少し』

 胸に小さな寂しさが生まれる。

「何の話?」

『水曜日の店について』

「楽しみ?」

『はい』

「私が直哉のことで電話して、邪魔じゃない?」

『今は葵と話すと決めています』

「黒田さんへの返事は?」

『電話の後に』

「怒らない?」

『急ぎではありません』

「黒田さんの時間も大切なのに」

『はい』

「私を優先した?」

『今は』

 真尋は正直に答えた。

「うれしい」

『でも、いつもではありません』

「わかってる」

『寂しい?』

「少し。でも、今はうれしい」

『両方でいいです』

「うん」

     *

 スマートフォンが震えた。直哉からの返信。葵の呼吸が止まる。

「来た」

『読みます?』

「怖い」

『私が電話にいます』

 葵はトーク画面を開いた。

『わかった。急がなくて大丈夫。充電器だけ仕事で使いたいから、都合のいい時に送ってもらえると助かる。ほかはいつでもいいよ』

 短い文章。会いたいとは書いていない。

 葵は画面を見たまま、涙を流した。

「充電器だけ」

『はい』

「会おうって言わなかった」

『はい』

「私が時間がほしいって言ったから?」

『そうかもしれません』

「本当は会いたいと思ってるかもしれない?」

『その可能性もあります。でも、今の文章からはわかりません』

「真尋。苦しい」

『はい』

「充電器、送る。宅配で」

『自分で決めましたか』

「今は会わない」

『はい』

「でも、いつか話したい」

『その時に、また連絡すればいいです』

「直哉から連絡が来なくても?」

『葵が話したいなら』

 葵は涙を拭った。

「充電器、明日送る」

『送り状を書くのを手伝います?』

「それくらい自分でできる」

『はい』

「でも、送ったら報告する」

『待っています』

     *

 葵は電話を切った後、箱を開けた。

 直哉の充電器。黒いコード。何度も自分も借りた。手に取ると、思い出が戻ってくる。

 直哉がソファで眠り、スマートフォンだけが充電されていた夜。葵がコードへ足を引っかけ、二人で笑ったこと。

 物は小さい。そこに結びつく記憶は大きい。

 葵は充電器を机の上へ置いた。明日、封筒へ入れる。今日は、それだけでいい。

     *

 水曜日、真尋は朝から落ち着かなかった。

 仕事の予定は通常通りだった。午前中に会議。午後に取引先との電話。五時までに資料を確認し、六時半には会社を出る。

 黒田との待ち合わせは七時半。場所は日本橋の小さな和食店だった。

 昼休み、葵から写真が届いた。宅配便の封筒。

『充電器を送りました』

 真尋は画面を見て、少し胸が痛んだ。葵は、自分で一つ手放した。

『よく送りましたね』

『泣いた』

『はい』

『戻ってくるかもしれないって、何回も封を開けようと思った』

『それでも送りました』

『うん』

『今日は、どう過ごしますか』

『仕事。夜は美月とご飯』

『一人ではないんですね』

『誘った』

『自分から?』

『うん』

『いいですね』

『真尋は黒田さん』

『はい』

『手、つなぐ?』

 真尋は会社の机で、少し顔が熱くなる。

『まだわかりません』

『つないでもいいって言ったでしょう』

『その時に考えます』

『報告して』

『必要ですか』

『必要』

『考えておきます』

 葵から笑う絵文字が届く。真尋はスマートフォンをしまった。

 手をつなぐ。黒田は、次に聞いてもいいかと言った。今夜、聞かれるかもしれない。

 自分はどうしたいのか。考えると緊張する。

 嫌ではない。むしろ、触れてみたいと思う。黒田の手。温度。並んで歩く感覚。

 ただ、一度手をつなげば、恋人になる方向へ進まなければならない気がする自分も残っている。

 手をつなぐことは、約束ではない。今、その人へ近づきたいという気持ち。そのくらいに考えてもいいのかもしれない。

     *

 午後六時二十分。真尋は予定通り会社を出た。佐伯が、「今日は約束ですか」と尋ねた。

「はい」

「前に食事へ行った人?」

「どうして知っているんですか」

「吉田さんが」

「吉田さん」

 離れた席で、吉田が気まずそうに画面を見ている。

「皆さん、人の予定を共有しないでください」

「すみません」

 佐伯が笑う。

「でも、楽しんできてください」

「ありがとうございます」

「課長、最近ちゃんと帰るようになりましたね」

「私がいなくても、仕事は進むでしょう」

「進みます。でも、必要な時は連絡します」

「緊急なら」

「わかっています」

 真尋は会社を出た。

 駅の化粧室で、口紅を直す。今日は仕事用の薄いグレーのジャケット。中には、淡い青のブラウス。葵へ相談せず、自分で選んだ。

 鏡の中の自分は、緊張している。

「楽しむ」

 小さく言った。

 結果を出そうとしない。恋人になるか決めなくていい。今夜、黒田と食事をする。会いたかった人に会う。それだけを大切にする。

     *

 待ち合わせ場所へ着くと、黒田は駅の出口近くに立っていた。紺色のコート。仕事帰りらしく、スーツ姿だった。

「お待たせしました」

「僕も今来たところです」

 黒田が真尋を見る。

「今日は仕事の服ですね」

「会社帰りなので」

「似合っています」

「ありがとうございます」

「口紅も、少し違いますか」

 真尋は驚いた。

「わかるんですか」

「前回より、少し明るい」

「葵より細かいですね」

「意識して見ていますから」

 黒田は言ってから、照れたように眼鏡へ触れた。真尋は笑った。

「行きましょうか」

「はい」

 二人は並んで歩き始めた。平日の日本橋。仕事を終えた人々。照明のついたビル。休日の上野とは違う空気がある。

「水口さん、疲れていませんか」

 黒田が尋ねる。

「少し。でも、会いたかったです」

 真尋は意識して正直に言った。黒田が一瞬、歩みを止めそうになる。

「僕もです」

「日曜日に会ったばかりですが」

「三日ありました」

「黒田さんには長かった?」

「少し」

「私も」

 二人は顔を見合わせ、笑った。

     *

 店は、古い建物の一階にあった。入口には小さな暖簾。中へ入ると、カウンターと数席のテーブルがある。

 黒田が予約していた奥の席へ案内される。コートを脱ぎ、向かい合う。

「忙しい日に、ありがとうございます」

 黒田が言う。

「私が会いたいと言いました」

「それでも」

「黒田さんも、仕事は大丈夫でしたか」

「今日は、午後から落ち着いていました」

「図面は?」

「部下に任せてきました」

「黒田さんにも部下がいるんですね」

「います。二人だけですが」

「どんな人ですか」

「一人は三十歳の男性で、細部へこだわりすぎる。もう一人は二十七歳の女性で、決断が早すぎる」

「黒田さんは?」

「二人の間で迷っています」

 真尋は笑った。

「良い組み合わせですね」

「僕が一番決められないかもしれません」

「意外です」

「建物は、一度作ると簡単には変えられませんから」

「人との関係より慎重?」

「以前は、関係のほうを急ぎました」

 黒田が少し苦笑する。

「反省しています」

「もう謝らなくていいです」

「はい」

 店員が注文を聞きに来る。二人は温かいお茶と、季節の料理を少しずつ頼んだ。

 里芋の煮物。焼き魚。だし巻き卵。鶏肉と大根の炊き合わせ。

「だし巻き卵」

 真尋が言う。

「何か?」

「葵が最近、卵焼きを作っています」

「水口さんが教えた?」

「一緒に作りました」

「葵さん、元気になってきましたか」

「少しずつ。今日、直哉さんへ充電器を送りました」

「大きなことですね」

「かなり泣いたそうです」

「水口さんは心配ですか」

「はい。でも、今夜は美月さんと食事をしています」

「頼れる人が増えた」

「はい」

「少し寂しいですか」

 黒田の質問に、真尋は考えた。

「安心のほうが大きいです。でも、私だけを必要としていた時間が終わるような寂しさはあります」

「正直ですね」

「黒田さんには、言ってもいいと思ったので」

 黒田の表情が柔らかくなる。

「ありがとうございます」

「嫌ではありませんか」

「何が?」

「私が、葵に必要とされることを嬉しいと思っていること」

「人に必要とされたい気持ちは、僕にもあります」

「黒田さんも?」

「水口さんに、会いたいと思ってほしい。僕がいないと困る、とまでは思いませんが、僕だから話したいことがある人になりたいです」

 真尋はお茶の湯気を見た。

「黒田さんだから話したいこと、あります」

「たとえば?」

「今日、手をつなぐかもしれないと考えていたこと」

 言った瞬間、真尋の顔が熱くなった。黒田も驚いた表情になる。

「考えていたんですか」

「少し」

「嫌ではない?」

「はい」

「今、聞いてもいいですか」

「店の中で?」

「それもそうですね」

 黒田は笑った。

「帰りに」

「その時に考えます」

「はい」

 二人の間に、緊張と笑いが同時に生まれる。

 真尋は以前なら、このような会話を避けた。曖昧に笑い、話題を変えただろう。

 今は、自分が考えていたことを言えた。黒田も急がず、帰りにと待ってくれる。

     *

 料理が運ばれてくる。だし巻き卵を一口食べ、真尋は葵の卵焼きを思い出した。

「こちらは、きれいですね」

「葵さんのは?」

「最初は崩れていました。でも、最後に整えたら卵焼きになりました」

「水口さんは、教えるのが上手そうです」

「部下には厳しいと言われます」

「葵さんにも?」

「細かいと」

「僕は、教えてもらいたいです」

「卵焼きを?」

「料理も。写真も」

「黒田さんのほうが料理は上手でしょう」

「煮込みしか作りません」

「いつか食べさせてくれると言いましたね」

「覚えていますか」

「黒田さんだけではありません。私も、話したことを覚えています」

「嬉しいです」

 黒田は、照れたようにだし巻き卵を食べた。

「水口さん。僕の部屋へ来てもらうことを、まだ急いでいるとは思われたくないのですが」

「はい」

「再来週の図書館へ行った帰り、時間があれば寄りませんか」

 真尋は黒田を見る。

「黒田さんの部屋に?」

「はい。図書館から、自宅がそれほど遠くありません」

 緊張が生まれる。男性の部屋。好意を持たれている相手。自分も、もっと知りたいと思っている。その家へ行く。

 意味を考えれば、不安になる。

「煮込みを作っておきます」

 黒田が続ける。

「料理で誘っています?」

「少し」

「行きたいです」

 自分の口から、自然に出た。黒田が驚いたように目を見開く。

「本当に?」

「はい。ただ」

「何でしょう」

「長居はしないと思います」

「もちろんです」

「帰る時間は、自分で決めます」

「はい」

「部屋へ行くことを、何かの約束だと思わないでください」

 真尋は、自分の不安を言葉にした。黒田は真剣な表情で頷く。

「思いません」

「本当に?」

「はい。水口さんに、僕の暮らしを知ってほしい。それだけです」

「煮込みも」

「それも」

 二人の間に短い笑いが起きた。

 自分がどこまで近づけるか。どこに不安があるか。言葉にすれば、関係を壊すのではなく、安心して進む道を作れる。

「黒田さん。私の部屋にも、いつか来てください」

 今度は黒田が言葉を失った。

「写真を飾った壁を見たいと言ったでしょう」

「はい」

「葵が使った歯ブラシや部屋着も残っています」

「葵さんの存在を消す必要はありません」

「はい」

「僕が行ってもいい時に、呼んでください」

「そうします」

     *

 食事の後、二人は店を出た。夜の風が冷たい。真尋はコートの襟を整えた。

 黒田と並んで駅へ向かう。仕事帰りの人々が、同じ方向へ歩いている。日曜日より道が混んでいる。

 横断歩道の前で、人の流れが止まった。黒田の右手が、真尋の左手の近くにある。二人とも、意識している。

 信号が青になる。人々が歩き始める。黒田が真尋へ視線を向けた。

「水口さん」

「はい」

「手をつないでもいいですか」

 真尋は、自分の気持ちを確かめた。緊張している。少し怖い。けれど、つないでみたい。

「はい」

 答える。黒田がゆっくり手を差し出した。真尋も、自分の手を重ねる。

 指先。手のひら。黒田の手は、思っていたより温かかった。

 強く握らない。逃げられないほど包まない。真尋が離そうと思えば、すぐに離せる程度の力。

 二人は手をつないだまま、歩き始めた。

 胸が速く鳴っている。視線を前へ向ける。隣を歩く黒田も、緊張しているように見える。

「黒田さん。緊張しています?」

「かなり」

 真尋の口元が緩んだ。

「私もです」

「手、冷たいですか」

「少し」

「嫌では?」

「嫌ではありません」

 同じ言葉。上野で伝えた言葉。今は、もう少し先へ進んでいる。

「水口さん」

「何ですか」

「嬉しいです」

「私も」

 真尋は言った。その一言を口にすると、手の温度がさらに近く感じられた。

 手をつないだからといって、恋人になったわけではない。結婚を約束したわけでもない。明日から毎日会うわけでもない。

 ただ今夜、この人の手へ触れたいと思った。黒田も同じように思った。それだけで十分だった。

     *

 二人は駅の近くまで歩いた。改札前。手を離す時間が来る。

 黒田が先に、少しだけ力を緩める。真尋も指を離した。手のひらに、まだ温度が残っている。

「ありがとうございました」

 黒田が言う。

「何に?」

「手をつないでくれて」

「私もつなぎたかったので」

 黒田は驚き、嬉しそうに笑った。

「それを言ってもらえるとは思いませんでした」

「言葉にする練習です」

「もう練習ではないでしょう」

「少しは」

「では、次も聞いていいですか」

「毎回?」

「水口さんが安心できるまでは」

 真尋はその言葉を受け取った。

「はい」

「次は、今日より自然に聞けると思います」

「聞かずにつなぐ日も来ますか」

 自分から尋ねたことに、真尋自身が驚く。黒田はしばらく黙った。

「いつか」

「はい」

「水口さんが、それを嫌ではないと思えるようになったら」

「わかりました」

 二人の間に、まだ決まっていない未来がある。それを急いで形にしなくてもいい。

「次は、再来週の図書館ですね」

 黒田が言う。

「その前に、また会いませんか」

 今度は真尋から言った。

「いいんですか」

「はい。来週の金曜日は?」

 黒田が手帳を確認する。

「空いています」

「では、夕食を」

「ありがとうございます」

「またお礼ですか」

「水口さんから誘ってもらえたので」

「会いたいからです」

 黒田の表情が、はっきり明るくなる。

「僕も会いたいです」

「では、決まりですね」

「はい」

 改札の前で、二人は向かい合った。

「おやすみなさい」

 黒田が言う。

「まだ帰宅していません」

「先に」

「おやすみなさい」

「気をつけて」

「黒田さんも」

 二人は別々の改札へ向かった。

     *

 電車へ乗ると、真尋は左手を見た。

 黒田の手の温度は、もう残っていない。それでも感覚はある。指の間。握る力。並んで歩いた時間。

 スマートフォンが震える。葵からだった。

『終わった?』

 真尋は思わず笑った。

『今、電車です』

 すぐに電話がかかってくる。

「もしもし」

『手、つないだ?』

「最初に、今日の自分の話をしてください」

『美月とご飯食べた』

「何を?」

『韓国料理』

「食べられました?」

『かなり』

「よかったですね」

『充電器を送ったから、美月がお疲れ会してくれた』

「良い友達ですね」

『うん。それで?』

「何が?」

『手』

「つなぎました」

 電話の向こうで、葵が小さく声を上げる。

『本当に?』

「はい」

『どっちから?』

「黒田さんが聞いてくれました」

『真尋は、はいって?』

「はい」

『どうだった?』

「温かかったです」

『それだけ?』

「緊張しました」

『嬉しかった?』

「はい」

『好きでしょう』

「まだ、その質問をするんですか」

『だって』

「好きになり始めているのかもしれません」

 真尋は、初めてその言葉を口にした。電話の向こうが静かになる。

「葵?」

『真尋が認めた』

「断定はしていません」

『でも、好きになり始めてる』

「そうかもしれません」

『うれしい』

 葵の声が、震えた。

「泣いています?」

『少し』

「どうして?」

『真尋が幸せになりそうだから』

「まだ、わかりません」

『今日、手をつないで嬉しかった。それが幸せでしょう』

 真尋は電車の窓へ映る自分を見る。笑っている。

「そうですね」

     *

『黒田さんの家にも行く?』

「どうして知っているんですか」

『行くの?』

「再来週、図書館を見た後に」

『早い』

「私も少し思いました」

『大丈夫?』

「自分で帰る時間を決めると話しました」

『黒田さんは?』

「わかってくれました」

『真尋がちゃんと言った』

「はい」

『私も、直哉に言えるようになりたい』

「何を?」

『戻るなら、前と同じは嫌だって』

「はい」

『でも、今は会わない』

「充電器を送れました」

『うん』

「よく手放しましたね」

『まだ、ほかの荷物はある』

「一つずつでいいと思います」

『真尋も、手をつないだ』

「どうして同じ話になるんですか」

『私は手放して、真尋はつないだ』

 葵の言葉に、真尋は黙った。

 同じ日。葵は直哉の充電器を送り出した。真尋は黒田の手を取った。

 終わる関係。始まりかけている関係。

 どちらも、一つの手を離し、別のものへ触れることだけではない。葵の中には、直哉への気持ちが残っている。真尋の中にも、過去への恐れがある。

「手放したから、すぐ別の手を取る必要はありません」

 真尋が言う。

『わかってる』

「葵は、葵の時間で」

『うん』

「私も、私の時間で。今日は、黒田さんの手を取りたいと思いました」

『よかったね』

「はい」

『真尋。お帰り』

「まだ電車です」

『今日のデートから』

「ただいま」

『私は、今日は自分の家』

「お帰りなさい」

『うん』

     *

 帰宅した真尋は、リビングの照明をつけた。

 壁の二人の影。立てかけてある黒田が撮った写真。

 黒田の部屋にも、自分の写真が飾られる。そのことを考えると、照れくさい。

 コートを脱ぎ、洗面所で手を洗う。水が左手を流れる。黒田の温度が消えるような気がして、一瞬惜しく思う。自分でも驚いた。

 真尋は手を拭き、ソファへ座った。スマートフォンに黒田からメッセージが届く。

『無事に電車へ乗れましたか』

『今、帰宅しました』

『お帰りなさい』

 真尋はその文字を見る。

 葵からも言われた。母からも。黒田からも。

 帰る場所が増えるということは、家が増えることだけではない。誰かに、帰ってきたことを迎えてもらうこと。

『ただいま』

 送る。黒田から、少しして返信が来る。

『今日は、手をつないでくれてありがとうございました』

『黒田さんも、聞いてくれてありがとうございました』

『次も聞きます』

『はい』

『いつか聞かなくてもいい日が来るでしょうか』

 駅で同じ話をした。

『来るかもしれません』

『楽しみにしています』

『私も』

 送った後、真尋は自分の言葉を読み返した。聞かずに手をつなげる関係。その未来を、楽しみにしている。

『金曜日の店は、僕が探してもいいですか』

『お願いします』

『何が食べたいですか』

 真尋は考える。

『洋食がいいです』

『承知しました』

『黒田さんは?』

『水口さんと同じものを食べたいです』

『自分の希望は?』

『洋食です』

『なら、ちょうどいいですね』

 以前の二人なら、相手へ合わせ続けたかもしれない。今は互いに、希望を確かめる。同じなら喜ぶ。違えば相談する。

 その小さな積み重ねで、関係の形を作っていく。

     *

 葵は電話を切った後、クローゼットの近くに置いた箱を見た。

 充電器がなくなった分、少しだけ空間がある。直哉の部屋着。マグカップ。傘。歯ブラシ。まだ多くの物が残っている。

 今すぐすべてを返す必要はない。一つずつ。

 葵は箱の蓋を閉じた。棚の写真を見る。

 真尋は黒田と手をつないだ。それを聞いて、嬉しかった。少し寂しかった。

 直哉と初めて手をつないだ日も思い出した。駅のホーム。人が少ない夜。直哉が何も聞かずに手を取った。葵は驚いたが、嬉しかった。

 あの時は、聞かれなくても嫌ではなかった。

 今思えば、自分はいつも、直哉に合わせることを喜びだと思っていた。合わせたい時もあった。けれど、違うと思った時にも言えなかった。

 次に誰かと関係を作る時には、言えるだろうか。その相手が直哉なのか。別の人なのか。今はわからない。

「私の時間で」

 葵は呟いた。真尋の言葉。

 手放す速さも。悲しむ時間も。次の手へ触れる時も。誰かと比べなくていい。

     *

 葵はベッドへ入った。スマートフォンを枕元へ置く。直哉のトーク画面を開く。今日のやり取り。

『充電器だけ仕事で使いたいから、都合のいい時に送ってもらえると助かる』

 宅配便の伝票番号を送ろうか迷う。必要な連絡だ。

 葵は短く打った。

『今日、充電器を送りました。明日届く予定です』

 送信する。数分後。

『ありがとう。受け取ったら連絡する』

 それだけ。葵は胸が痛むのを感じた。

 だが、以前ほど文章の裏を探さなかった。ありがとう。受け取ったら連絡する。今は、そのまま受け取る。

『わかりました』

 返信し、画面を閉じた。

 戻ってほしいとは書かなかった。会いたいとも。葵も、書かなかった。今は、これでいい。

     *

 翌日、直哉から充電器を受け取ったと連絡が来た。

『届いた。ありがとう』

 葵は昼休みの会社で、そのメッセージを読んだ。短い。それだけ。

 胸が痛む。それでも、すぐに返信はしなかった。

 美月が隣で弁当を食べている。

「届いたって?」

「うん」

「返す?」

「ありがとうに、ありがとうって返すの変だよね」

「既読だけでもいいんじゃない」

「冷たいかな」

「葵は、いつまで彼がどう思うかを考えるの?」

 美月の質問に、葵は黙った。

「ごめん。言い方きつかった」

「ううん」

「相手を気にするのは悪くないけど、自分が何をしたいかも考えて」

「今は、返さなくていい」

「なら、それで」

 葵はスマートフォンを伏せた。

「真尋、黒田さんと手をつないだって」

 話題を変える。美月が目を丸くする。

「報告されたの?」

「私が聞いた」

「葵、恋愛相談の親みたい」

「十一歳しか違わない」

「その言葉、真尋さんに言われた?」

「いつも」

 二人は笑った。

「寂しくない?」

 美月が尋ねる。

「少し。でも、嬉しい」

「両方?」

「うん」

「葵も変わったね」

「前なら?」

「どちらかにしようとしてた」

「嬉しいなら寂しがったらだめって?」

「そう」

 葵は弁当の卵焼きを食べた。市販のもの。真尋と作ったものより形がきれいだ。味は少し甘い。

「どっちもあっていいって、最近みんなに言ってる」

「商品にも使えそう」

「簡単に使わないで」

「仕事でしょう」

「石橋さんみたい」

 二人は笑った。

     *

 金曜日の夜、真尋は再び黒田と会った。約束した洋食店。

 黒田が選んだのは、昔ながらの小さな店だった。白いテーブルクロス。磨かれた銀色のカトラリー。煮込み料理の香り。

「ここ、黒田さんの家に近いんですか」

「職場の近くです」

「よく来る?」

「一人では時々」

「一人で洋食店へ?」

「入りやすいので」

「何を頼むんですか」

「ビーフシチュー」

「煮込みですね」

「やはり好きです」

 二人は笑った。真尋も同じものを選ぶ。

 料理が来るまで、黒田の仕事の話を聞いた。部下が窓の配置へこだわり、設計が予定より遅れている。もう一人の部下は、早く決めようとして変更案を出しすぎる。

「真尋さんの会社と似ていますね」

 黒田が、初めて名前を呼んだ。真尋は驚いた。これまでは、水口さん。

「今、真尋さんと」

「すみません」

「どうして?」

「葵さんが名前で呼んでいると聞いていたので、少し羨ましくて」

 黒田は正直に言った。

「嫌でしたか」

 真尋は自分の気持ちを確かめる。

 黒田の声で、真尋と呼ばれた。葵とは違う響き。少し近い。嫌ではない。

「嫌ではありません」

「では」

「人前では、少し恥ずかしいです」

「僕も、黒田さんではなく俊介と呼ばれたら、かなり緊張します」

「呼んでほしいですか」

「いつか」

 黒田は笑った。

「急ぎません」

「では、二人だけの時には、真尋でも」

 自分から言う。

「いいんですか」

「はい」

「真尋」

 黒田が小さく呼んだ。胸が強く鳴る。

「はい」

「呼びたかっただけです」

 葵と同じことを言う。真尋は笑った。

「二人とも同じですね」

「葵さんも?」

「最初に名前で呼んだ時、呼びたかっただけと言いました」

「先を越されています」

「競わないでください」

「では、僕のことも」

 黒田は緊張した表情になる。

「俊介」

 真尋は呼んだ。黒田の目が大きくなる。

「はい」

「返事をしなくても」

「嬉しくて」

 今度は真尋が、葵へ言った言葉を返す。二人は顔を見合わせて笑った。

 料理が運ばれてくる。熱い皿。濃い色のシチュー。柔らかな肉。

「おいしそうですね」

「ここの味を、家で再現しようとしています」

「作れるんですか」

「近いものは」

「楽しみにしています」

「再来週」

「はい」

 未来の約束が、自然に会話へ入る。

     *

 食事を終え、店を出る。夜の道。黒田が真尋を見る。

「手をつないでもいいですか」

「はい」

 今度は、前回より迷わず答えられた。黒田が手を差し出す。真尋が重ねる。温かい。前回より、少し自然に歩き出せる。

「真尋」

 黒田が名前を呼ぶ。

「何ですか」

「今、呼びたくなりました」

「何度でも?」

「嫌ですか」

「嫌ではありません」

「俊介と呼んでください」

「命令ですか」

「お願いです」

「俊介」

「はい」

 手をつないだまま、駅へ向かう。今度は信号を渡る時だけではない。長い道。人通りが少ない場所。少し肩が近づく。

 真尋は自分から、ほんの少し指へ力を入れた。黒田も握り返す。

「真尋」

「何ですか」

「僕は、今、かなり幸せです」

 真尋は前を向いたまま、答えた。

「私もです」

 その言葉を言うことに、もう大きな抵抗はなかった。

 今夜、幸せ。明日の答えではない。未来の保証でもない。

 今、会いたい人と歩き、手をつないでいる。それを幸せと呼んでいい。

     *

 同じ夜、葵は自宅で直哉のマグカップを箱から出していた。美月と夕食を終え、帰宅した後だった。

 充電器は送った。次に何を返すか考える。

 マグカップ。葵の家で使うために、二人で買ったもの。直哉の所有物なのか。二人の思い出なのか。

 白いカップへ青い線。葵は手に持ち、台所へ向かった。洗う。棚へ置く。

 返すのではなく、自分で使ってもいいのではないかと思った。

 直哉専用として買った。だが、葵の家にある。代金も葵が払った。物に罪はない。

 葵はカップへ温かいミルクを注いだ。テーブルへ座る。一口飲む。

 直哉を思い出す。胸が痛む。それでも、使えないほどではない。

「私のカップにする」

 声に出す。

 思い出を消すのではない。役割を変える。直哉のカップから、葵が使うカップへ。

 すべてのものを手放さなくてもいい。残したいものは、残していい。

 葵は真尋へ写真を送ろうとした。時刻を見る。午後九時半。真尋は黒田と一緒かもしれない。すぐに返事は要らない。

 写真と文章を送る。

『直哉のマグカップを、自分で使うことにしました』

 送信する。少しして既読がつく。真尋から返事が来た。

『葵が使いたいと思ったなら、いいと思います』

『デート中?』

『今、帰りです』

『手は?』

『つないでいます』

 葵は思わず笑った。

『片手で返信してる?』

『はい』

『黒田さんに怒られない?』

 少しして。

『俊介は笑っています』

 葵は画面を見つめた。俊介。名前で呼んでいる。

 胸に小さな寂しさが生まれる。それでも、嬉しい。

『名前』

『今日から』

『真尋』

『何ですか』

『よかったね』

『はい』

『私はマグカップを残した』

『はい』

『真尋は、新しい名前を呼んだ』

『はい』

『手放すものと、残すものと、増えるものがあるね』

 真尋の返事は遅れた。

『全部、自分で選べます』

 葵はその文章を見つめた。

 手放すもの。充電器。返すかもしれない荷物。

 残すもの。海辺の写真。青い線のマグカップ。

 増えるもの。美月との時間。仕事への自信。真尋との思い出。自分で作る朝食。まだ見えない未来。

『うん』

 葵は短く返した。

     *

 駅の近くで、真尋と黒田は立ち止まった。手はつないだまま。

「葵さん?」

 黒田が尋ねる。

「直哉さんのマグカップを、自分で使うことにしたそうです」

「残したんですね」

「はい」

「全部手放す必要はありませんから」

「葵も、少しずつわかってきたと思います」

「真尋」

 黒田が名前を呼ぶ。

「何ですか」

「僕の写真は、残してもらえますか」

 真尋は黒田を見る。

「もう飾っています」

「額がなくても?」

「はい」

「嬉しいです」

「俊介の部屋にも、私の写真が?」

「飾りました」

「どこに?」

「本棚の上です」

「誰かに聞かれたら?」

「大切な人が撮った写真だと答えます」

 真尋の胸が鳴る。

「大切な人?」

「はい」

「まだ恋人ではありません」

「恋人だけが大切な人ではないでしょう」

 黒田は真尋が何度も葵と話してきたことを、自然に言う。

「そうですね」

「真尋は、僕にとって大切な人です」

 真尋は手へ力を入れた。

「俊介も、私にとって大切です」

 黒田が立ち止まる。人の流れが二人の横を通り過ぎる。

「今の言葉、もう一度言ってもらってもいいですか」

「言いません」

「どうして?」

「一度で受け取ってください」

「わかりました」

 黒田は笑った。真尋も笑う。

 恋人という名前は、まだない。それでも、互いに大切だと言える。形より先に、気持ちが育っている。

     *

「次に聞きたいことがあります」

 黒田が言う。

「何ですか」

「今日は、まだ聞きません」

「気になります」

「再来週、僕の部屋へ来てくれた時に」

「今ではだめ?」

「直接、落ち着いて話したいです」

 真尋は少し不安になる。

「重い話ですか」

「僕にとっては、大切な話です」

「付き合うこと?」

 黒田はすぐには答えなかった。その沈黙で、真尋はわかった。

「急がないと言ったでしょう」

「はい」

「もう少し待つこともできます」

「では、どうして再来週?」

「真尋と会うたびに、気持ちが大きくなっているからです」

 黒田は正直に言った。

「僕が待つことを選んでいる間も、気持ちは止まりません」

「はい」

「いつまでも曖昧なまま会うことが、真尋にとっても良いのかわからない」

「私は、今の時間を楽しんでいます」

「僕もです」

「でも、名前が欲しい?」

「欲しいです」

 黒田ははっきり答えた。

「ただ、真尋が怖いなら、急いで答えてほしくありません」

「矛盾していますね」

「はい」

「待ちたい。けれど、恋人になりたい」

「どちらも本当です」

 真尋は黒田の手を握った。自分の気持ちを探す。

 会いたい。手をつなぎたい。名前を呼びたい。黒田の部屋へ行きたい。自分の部屋へ招きたい。

 それでも、恋人と呼ばれた瞬間に、何かが変わることはまだ怖い。期待。将来。結婚。別れ。以前の不安が、完全に消えたわけではない。

「再来週、聞いてください」

 真尋は言った。黒田が真尋を見る。

「いいんですか」

「その時に、今の私の答えを話します」

「決まっていますか」

「まだ、全部は」

「はい」

「でも、逃げません」

 黒田の表情が柔らかくなる。

「僕も、答えを急かしません」

「聞くのに?」

「聞いて、話し合います」

「はい」

 二人は再び歩き始めた。

     *

 帰宅した真尋は、壁の写真の前に立った。

 葵との二人の影。黒田が撮った真尋。異なる時間。異なる関係。どちらも大切。

 黒田は、恋人になりたいと言った。再来週、もう一度聞く。

 真尋は、自分の答えを考える。

 恋人になる。その言葉だけなら、以前ほど怖くない。黒田となら、形を二人で相談できる気がする。

 毎週会わなくてもいい。一人の時間を持つ。結婚を今すぐ考えない。葵や香織、母との時間も大切にする。仕事だけに人生を預けない。

 そのような関係を作れるかもしれない。だが、できる保証はない。

 黒田も変わる。真尋も変わる。関係が終わる可能性もある。

 それでも、始めてみたいか。

 真尋は写真の中の自分を見る。池の前で笑っている。黒田に、今日会えてよかったと言われた直後の顔。

 始めてみたい。その気持ちは、少しずつ形になっている。

 スマートフォンへ、葵からメッセージが届いた。

『青いカップでミルク飲みました』

『どうでした?』

『直哉を思い出した。でも、使えた』

『はい』

『返さなくていいよね』

『葵が残したいなら』

『うん』

『すべてを手放さなくていいと思います』

『真尋も、過去のピアス持ってる』

『はい』

『今日つけた?』

『今日は、自分で買ったものです』

『どうして?』

『服に合ったから』

『慎一さんを避けたわけじゃない?』

『はい』

『それがいいね』

 葵の言葉に、真尋は微笑んだ。過去を避けるためではなく、今の自分が選ぶ。

『俊介に、大切な人だと言われました』

 真尋は送った。少しして、電話がかかってくる。

「もしもし」

『黒田さんじゃなくて、俊介』

「はい」

『真尋も呼んだ?』

「はい」

『付き合うの?』

「再来週、もう一度聞かれると思います」

『今は?』

「少し、考えたいです」

『怖い?』

「はい」

『でも、嬉しい?』

「はい」

『付き合いたい?』

 真尋は窓の外を見る。夜の街。光。

「付き合ってみたいと思っています」

 声にした。電話の向こうで、葵が息を呑む。

『じゃあ』

「でも、まだ黒田さんには言いません」

『どうして?』

「自分の希望を、もう少し言葉にしたいからです」

『どんな関係がいいか?』

「はい」

『一人旅も行く』

「はい」

『私とも旅行する』

「はい」

『仕事も続ける』

「はい」

『毎週会わなくてもいい』

「それは相談します」

『結婚は?』

「今すぐ決めない」

『同じ部屋で寝なくてもいい』

「そこまで先のことは」

『でも、大事でしょう』

「そうですね」

『言ったほうがいいよ』

「はい」

『真尋。幸せには、一つの形しかないわけじゃないって、黒田さんにも言って』

「俊介は、すでに知っています」

『そっか』

「だから、話せると思います」

『いいね』

「葵は?」

『何が?』

「直哉さんと、いつか話したいこと」

『考える』

「どんな関係へ戻りたいか」

『前と同じじゃなくて』

「はい」

『戻らない選択もある』

「はい」

『まだ、わからない』

「わからないままでいいです」

『真尋も?』

「今は」

『でも、少しずつわかってきた』

「はい」

     *

 電話を切った後、真尋はノートを開いた。黒田と話したいことを書く。

 一人の時間が必要。仕事を続けたい。葵や友人、家族との関係を大切にしたい。結婚を前提に急ぎたくない。会いたい時には、自分から会いたいと言いたい。会えない時には、理由を隠さず話してほしい。不安を一人で決めつけない。相手の期待をすべて背負わない。自分の期待も、黙って相手へ背負わせない。

 書きながら、真尋は笑った。恋愛の条件表のようにも見える。

 だが、誰かと関係を作るなら、話しておきたいことだった。完璧に守れなくてもいい。その都度、話し合えばいい。

     *

 葵も同じ夜、ノートを開いた。

 真尋が、俊介と付き合ってみたいと思っている。その関係で大切にしたいことを考えている。

 葵も、直哉と話す前に、自分の希望を書いてみることにした。

 連絡の回数を決めたいわけではない。忙しい時は、忙しいと伝えてほしい。会えない時も、関係を続けたい気持ちがあるのか知りたい。将来の話を、結論がなくても一緒に考えたい。

 葵も、自分の時間を持ちたい。真尋との旅行を続けたい。美月との時間も大事にしたい。仕事を頑張りたい。

 恋人だけを、一番にしなくてもいい関係がいい。相手にも、大切な人や時間があっていい。ただ、離れていく時は、黙らず話してほしい。

 書き終えた後、葵はノートを見つめた。

 これを直哉へ伝えたいのか。それとも、次に誰かと付き合う時のために残したいのか。今はわからない。

 どちらでもいい。この希望は、相手が誰であっても葵のものだ。

 葵はページの上へ、小さく日付を書いた。その下に、

『私が大切にしたいこと』

 と書いた。

 直哉との関係を続けるためだけではない。自分を失わないために。

     *

 再来週の日曜日まで、まだ日がある。

 真尋は黒田との関係について考える。葵は直哉との荷物と、自分の希望について考える。

 二人は毎日すべてを報告し合ったわけではない。仕事が忙しい日は、短いメッセージだけ。

『今日は企画の言葉を三案出しました』

『佐伯さんが新しい案件の主担当になりました』

『味噌汁を作りました』

『写真の額を買いました』

『美月と昼食です』

『俊介は現場へ行っています』

 短い言葉の中に、それぞれの生活がある。相手の知らない時間が増えていく。

 それでも関係が薄くなるわけではない。夜にすべてを説明しなくても、次に会った時に話せる。知らない時間があるから、聞きたいことが生まれる。

 葵は一人で料理を作る日が増えた。卵焼き。野菜炒め。味噌汁。簡単なパスタ。

 失敗もした。味が濃すぎる日。焦がす日。作る気になれず、コンビニで済ませる日。どれも、自分の生活だった。

 直哉のマグカップは、毎朝使うようになった。最初の数日は、持つたびに胸が痛んだ。少しずつ、青い線の入った自分のカップとして見える時間が増えた。

 直哉との思い出が消えたわけではない。新しい使い方が重なった。

 真尋の部屋では、黒田が撮った写真が小さな木製の額へ入った。二人の影の隣。葵と黒田。会ったことのない二人の視線が、同じ壁に並ぶ。

 真尋はその壁を見るたび、自分の人生が一つの関係だけで作られていないことを感じた。

 母からも連絡が来た。香織からも。佐伯から仕事の相談を受けることも増えた。

 黒田とは、名前で呼び合うようになった。まだ人前では恥ずかしく、店では水口さん、黒田さんへ戻ることもある。二人だけで歩く時には、真尋、俊介。名前が変わるだけで、距離が変わる。

 手をつなぐことも、少しずつ自然になった。毎回、黒田は聞いた。

「つないでもいいですか」

 真尋は毎回、答えた。

「はい」

 いつか聞かなくてもいい日が来る。その日を急がずに待つ。

     *

 図書館へ行く前日の土曜日、葵は直哉の箱を開いた。

 部屋着。傘。歯ブラシ。残っている充電コード。小さな本。

 すべてを一つずつ確認する。

 明日、真尋は黒田の部屋へ行く。大切な話をする。葵も、自分の中で何かを一つ進めたいと思った。

 直哉へ会う日を決めるのではない。戻ると決めるのでもない。荷物を整理する。返すもの。自分で使うもの。捨てるもの。

 部屋着は返す。傘も返す。歯ブラシは捨てる。本は、直哉が買ったもの。返す。マグカップは残す。

 葵は箱を二つに分けた。返す物。処分する物。

 その作業だけで、二時間近くかかった。途中で何度も泣いた。

 部屋着を抱きしめた。直哉の匂いは、もうほとんど残っていない。それでも、離せなかった。しばらく抱えた後、箱へ入れた。

「返す」

 声にする。

 終わりを選ぶためではない。自分の部屋を、自分が使う物で整えるため。

 返す物を一つの箱へまとめる。蓋はまだ閉めない。会って返すか、宅配で送るかは決めていない。だが、何を返すかは決まった。

 葵は真尋へ写真を送った。

『返す物をまとめました』

 真尋から返事が届く。

『一人で?』

『うん』

『よく整理しましたね』

『泣いた。部屋着を抱きしめた』

『はい』

『でも、箱に入れた』

『葵が決めたんですね』

『うん』

『明日、俊介と大切な話をする?』

『はい』

『怖い?』

『怖いです』

『でも、逃げない?』

『はい』

『私も、いつか直哉と話す』

『その時に』

『明日は真尋の番』

『はい』

『手、離さないでね』

 真尋は、その文章を見て考えた。

 黒田の手。恋人になると答えるか。答えられなければ、黒田は離れるだろうか。

 不安はある。それでも、手を離さないでほしいと願うなら、自分も握り返さなければならない。

『私からも握ります』

 送る。

 葵から、紅葉の絵文字が一つ届いた。出会った秋田。最初の約束。真尋は同じ絵文字を返した。

 明日、どんな答えを出しても、真尋は以前の自分へ戻らない。

 怖いから黙って離れることはしない。自分の希望を話す。黒田の希望を聞く。二人の間で、形を作る。

 手放すもの。残すもの。これから増やしたいもの。

 一つずつ、自分で選びながら。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。