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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第十三章 名前をつける前に

日曜日の朝、真尋は目覚ましが鳴る一時間前に目を覚ました。

 カーテンの向こうは、まだ完全には明るくなっていない。時計を見る。午前六時二十三分。

 待ち合わせは午前十時。家を出るまでには、まだ十分な時間がある。それでも、もう一度眠れる気はしなかった。

 今日は、俊介が設計に関わった図書館を見に行く。その後、俊介の部屋へ行く。煮込み料理を食べる。そして、二人の関係について話す。

 俊介は、恋人になりたいと言った。再来週、もう一度聞く。そう言われた日から、真尋は何度も自分の気持ちを考えた。

 答えは、ほとんど決まっている。

 俊介と付き合ってみたい。会いたいと思う。手をつなぐと嬉しい。名前を呼ばれると、胸が温かくなる。自分の部屋へ招きたいと思う。俊介の暮らしを知りたい。

 それらは、好意と呼んでいいものだろう。

 だが「恋人」という言葉の中に、真尋はまだ多くの意味を感じていた。

 将来を期待される。会う回数が増える。休日を共有する。一人の時間が減る。いつか結婚について答えなければならない。相手の家族に会う。生活の形が変わる。

 そして、始まったものは終わる可能性がある。

 考え始めれば、怖さはなくならない。

 以前の真尋なら、その怖さを答えとして受け取っていた。怖いなら進まない。迷うなら断る。相手に期待させないために、近づかない。

 今は違う。怖くても、進みたいと思う自分がいる。

     *

 真尋は布団から出た。裸足でリビングへ向かう。

 壁に飾った写真が、薄い朝の光の中に見える。葵と二人の影。不忍池の前で笑う真尋。

 右側には、まだ空いている壁がある。これから増える写真のための場所。必ず増えると決まったわけではない。それでも、空いていることを不安ではなく余白だと思える。

 真尋はキッチンで湯を沸かした。コーヒーを淹れる。

 テーブルには、昨夜書いたノートが置かれている。俊介へ話したいこと。

 一人の時間が必要。仕事を続けたい。葵や香織、母との時間を大切にしたい。結婚を前提に急ぎたくない。会えない時、理由を隠さず伝えてほしい。不安を一人で決めつけない。期待をすべて背負わない。期待を黙って相手へ背負わせない。

 箇条書きにした言葉を見ると、契約書のようにも見える。恋愛を始める前に、条件を並べている。

 俊介は、重いと思うだろうか。好きなら、そのようなことを考えずに飛び込むものだと言われるだろうか。

 真尋はコーヒーカップへ手を添えた。

 好きだからこそ、話したい。黙ったまま始めて、後から苦しくなるより、今の自分を知ってほしい。

 俊介も、自分の希望を言うと話していた。二人で確かめる。最初から何度も話してきたことだった。

 真尋はノートを閉じた。持っていくか迷う。

 見ながら話せば、用意した回答を読み上げているようになる。けれど、緊張すれば大切なことを忘れるかもしれない。

 葵が直哉と会う時、ノートをお守りとして持っていった。結局、開いたかどうかは聞いていない。

 真尋も、バッグへ入れることにした。見るかどうかは、その時に決めればいい。

     *

 同じ朝、葵も早く目を覚ましていた。

 ベッドの中で、昨日まとめた箱を思い出す。返すと決めた物。直哉の部屋着。傘。本。残っていた充電コード。

 箱の蓋は、まだ閉じていない。会って返すのか。宅配で送るのか。まだ決めていなかった。

 真尋は今日、俊介と大切な話をする。今ごろ、同じように緊張しているかもしれない。

 葵はスマートフォンを手に取った。何か送りたい。

 頑張って。うまくいくよ。俊介なら大丈夫。どれも少し違う気がする。

 真尋は、うまくいくことだけを望んでいるわけではない。自分の言葉で話すことを望んでいる。

 葵は短く入力した。

『今日、真尋が言いたいことを全部言えますように』

 送信する。数分後、既読がついた。

『ありがとうございます』

『返事は何時でもいいからね』

『葵は、今日は?』

『箱の蓋を閉めるか考える』

『急がなくていいです』

『わかってる』

『でも、自分で決めたいですか』

『うん』

『では、葵の一日を過ごしてください』

『真尋も』

 やり取りを終える。葵はベッドから起きた。

 今日、誰かと会う予定はない。美月は家族と出かけると言っていた。真尋も、俊介と過ごす。久しぶりに、一日を一人で過ごす。

 以前なら不安だった。今も少し不安だ。ただ、何をしたらいいかわからないほどではない。

 朝食を作る。洗濯をする。箱の中身をもう一度確認する。午後には、企画の本を読む。それでも苦しくなったら、散歩へ出る。

 一日には、いくつもの置き場所がある。

 葵はキッチンへ立った。

     *

 真尋は九時少し前に自宅を出た。

 今日は、濃紺のロングスカートに、白いニットを合わせた。歩きやすい靴。薄いグレーのコート。髪は下ろし、風が強ければまとめられるよう、バッグへ髪留めを入れている。

 鏡の前で最後に確認した時、仕事へ行く自分とも、上野で会った時の自分とも少し違って見えた。

 俊介の部屋へ行く。そのことを意識しすぎて、頑張って見える服にはしたくなかった。けれど、きれいに見られたい気持ちはある。その気持ちを否定しないことにした。

 駅へ向かう途中、俊介からメッセージが届く。

『予定通り、駅で待っています。急がなくて大丈夫です』

『私も予定通り着けそうです』

『少し緊張しています』

 真尋は歩きながら笑った。

『私もです』

『図書館を見ることに?』

『その後の話に』

『僕もです』

 同じ。どちらか一人だけが覚悟を決めて待っているわけではない。二人とも緊張している。

 真尋は電車へ乗った。

 都心を離れるにつれ、窓の外の建物が低くなっていく。住宅街。川。小さな畑。駅と駅の間が少しずつ長くなる。

 日曜日の車内は、通勤時間ほど混んでいない。向かいの席では、小さな子どもが母親へ窓の外を指差している。隣には、本を読む男性。

 真尋はバッグの中のノートへ触れた。

 言いたいことはある。答えもある。それでも、俊介の顔を見た時に変わるかもしれない。

 用意した言葉通りでなくてもいい。今日の自分の気持ちを話せばいい。

     *

 待ち合わせの駅へ着くと、俊介は改札のすぐ外にいた。

 紺色のコート。白いシャツ。休日らしい黒いパンツ。上野の時より、少し軽い服装だった。

 真尋に気づくと、すぐに笑う。

「真尋」

 人の多くない駅。周囲を気にする必要もない。俊介は自然に名前を呼んだ。

「お待たせしました」

「僕が早く来ただけです」

「何分前ですか」

「十五分」

「前より少し短いですね」

「家にいても落ち着かなかったので、かなり我慢しました」

 真尋は吹き出した。

「今日の服も、似合っています」

「ありがとうございます」

「僕の服は?」

「似合っています」

「すぐに返してくれましたね」

「本当に思っています」

「嬉しいです」

 俊介は真尋の隣へ並んだ。駅から図書館までは、歩いて十五分ほどだという。

「手をつないでもいいですか」

 駅を出てすぐ、俊介が尋ねた。真尋は驚き、それから手を差し出した。

「はい」

 手を重ねる。以前より自然だった。俊介の手が、真尋の指を包む。

 歩き始める。住宅街の中に、古い商店が並ぶ通りがある。パン屋。和菓子店。小さな花屋。低い建物の向こうに、木々が見える。

「図書館は、もともと何の建物だったんですか」

「昭和の初めに建てられた役場です」

「役場?」

「はい。新しい庁舎ができてから、長く倉庫として使われていました」

「壊す予定だった?」

「最初は」

 俊介は前を見ながら話す。

「でも、町の人から残してほしいという声が多かったんです」

「どうして?」

「子どもの頃、そこへ来た記憶がある人が多かった。結婚届を出した。子どもの出生届を出した。選挙へ行った。人によって、違う時間が残っていたんです」

「建物に、町の記憶がある」

「はい」

 俊介の声が楽しそうになる。真尋は横顔を見る。建物について話す時の顔。上野で撮った写真と同じだ。

「だから、外観と主要な柱は残しました。中は、図書館として使いやすいように変えています」

「昔のまま残すだけではない?」

「残すことが目的になれば、使われない建物になります」

「使い続けるために、変える」

「はい」

 真尋は、自分たちの関係についても同じことが言える気がした。

 過去の経験を守るために、新しい関係を拒むのではない。過去を残しながら、今の自分に合う形へ変える。

「今日は、いつもより建物の話が自分へ重なります」

 真尋が言うと、俊介が笑った。

「僕は、何でも建物に例えるので」

「今日は私が勝手に」

「どんなところが?」

「残しながら、変えるところ」

 俊介は真尋の手へ力を入れた。

「僕たちの話ですか」

「少し」

「今日の話につながりますね」

「はい」

 二人の間に緊張が戻る。それでも手は離さなかった。

     *

 図書館は、小さな公園の隣にあった。

 焦げ茶色の屋根。淡い灰色の外壁。正面には、太い木製の扉。

 新しい建物ではない。けれど古びているという印象もなかった。長く使われてきたものを、丁寧に手入れした温かさがある。

「きれい」

 真尋が言う。

「ありがとうございます」

「俊介が褒められたみたいに言いますね」

「設計したので、少しは」

 俊介は照れたように笑った。

 入口の横には、以前の役場だった頃の写真が飾られている。今より窓が少なく、重い雰囲気がある。

「窓を増やしたんですか」

「一部は。外壁を残すため、大きくは変えられませんでした」

「光は?」

「天井から入れています」

 中へ入る。最初に感じたのは、木の匂いだった。

 床。本棚。天井を支える梁。新しい木材と古い木材が混ざっている。中央には大きな吹き抜けがあり、上部の窓から光が落ちていた。

「明るい」

「以前は暗い建物でした」

「外から見ると、窓はあまり増えていないのに」

「屋根の一部を変えました」

 俊介が天井を指す。

「古い瓦を全部残すことはできませんでした。見えにくい位置へ新しい窓を作っています」

「残すために、見えないところを変えた」

「はい」

 館内には、日曜日の利用者がいた。絵本を読む親子。新聞を広げる高齢の男性。ノートパソコンへ向かう若い女性。学生たち。

 それぞれが別のことをしながら、同じ空間にいる。

「誰かの気配があるけれど、干渉しない」

 真尋が言う。

「それを目指しました」

「一人でいても、孤立しない場所」

「はい」

 俊介は誇らしそうだった。

「高齢者の中には、自宅で一人でいるより、ここで新聞を読むほうが落ち着くという人もいます。子どもがいるだけで、町が動いていると感じるそうです」

「私も、こういう場所が近くにあれば来るかもしれません」

「一人で?」

「一人で本を読みたい。でも、誰かの気配も欲しい時に」

「僕もです」

     *

 二人はゆっくり館内を歩いた。

 子ども用の低い本棚。窓際の長い机。一人用の椅子。小さな中庭。古い柱には、以前の傷や跡が残っている。

「この柱、傷を消さなかったんですね」

 真尋が指で触れずに見る。

「町の人から、残してほしいと言われました」

「何の傷?」

「昔、掲示板が取りつけられていた跡です」

「見た目だけなら、消したほうがきれいなのに」

「きれいにすることと、時間を消すことは違います」

 俊介が言う。

「傷があるから、以前の建物を知っている人には、自分の記憶とつながる」

 真尋は柱の跡を見た。

 慎一との時間。葵の失恋。俊介が以前、真尋に断られたこと。

 消して新しく始めるのではない。傷があるまま、別の役割を持つことができる。

「真尋」

「何ですか」

「今日は、何度も考えていますね」

「わかります?」

「表情で」

「俊介の建物を見ながら、自分のことを考えています」

「聞いてもいい?」

「後で話します」

 真尋は微笑んだ。俊介もそれ以上聞かなかった。

     *

 二階へ上がると、地域の資料を集めた小さな展示室があった。

 昔の町の写真。役場だった頃の机。古い看板。改修前と改修後の図面。

 真尋は、壁へ並んだ図面の前に立った。

「これ、俊介が描いたんですか」

「最初の案は僕です。最終的にはチームで」

「見ても、よくわかりません」

「説明します」

 俊介は真尋の隣へ立った。

 以前の部屋の配置。新しく作った吹き抜け。残した柱。移動した階段。車椅子でも利用できるよう追加した設備。一つずつ話す。

 真尋は、内容のすべてを理解できたわけではない。それでも、俊介が何を大切にして設計したのかは伝わった。

「ここ」

 真尋は図面の一部を指す。

「一人用の席が多いですね」

「はい」

「テーブルを大きくして、みんなで座るほうが場所を使えるのでは?」

「効率だけなら」

 俊介は答える。

「でも、大きなテーブルが苦手な人もいます。隣の人を気にして、本を読めない人もいる」

「私も、少しわかります」

「一人でいることを選べる場所を作りたかったんです」

「でも、完全な個室ではない」

「誰かの気配はある」

 俊介は図面を見る。

「一人と孤独は、同じではありません」

 真尋はその言葉を、静かに受け取った。

 一人で生きられる。一人で旅ができる。一人で家を買った。一人で食事をし、眠る。

 それは孤独を選んだということではない。誰かといるから孤独ではないとも限らない。

「俊介。この図書館、好きです」

 俊介が真尋を見る。

「建物として?」

「考え方も」

「ありがとうございます」

「俊介が作ったと知っているから、もっと好きなのかもしれません」

 俊介の表情がゆっくり変わる。

「真尋」

「はい」

「今の言葉、大切にします」

「一度で受け取ってください」

「はい」

 二人は小さく笑った。

     *

 図書館の一角には、カフェが併設されていた。正午を過ぎたため、二人はそこで軽い昼食を取ることにした。

 サンドイッチとスープ。窓の外には、公園が見える。

「このカフェも、俊介が?」

「配置だけです。運営には関わっていません」

「よく来るんですか」

「完成してからは、月に一度くらい」

「様子を見るため?」

「最初は。今は、普通に本を読みに来ます」

「自分が作った場所で?」

「はい」

「落ち着きますか」

「気になるところも見つかります」

「直したい?」

「できれば」

「完成しても?」

「建物は、使われてからわかることがあります」

「人との関係も?」

 真尋が尋ねると、俊介は笑った。

「今、それを考えていました」

「最初から完成した関係はない?」

「はい」

「付き合うと決めたら完成ではない」

「始まるだけです」

 真尋はスープのカップへ手を添えた。温かい。今日、話そうと思っていることへ自然につながった。

「私は、恋人になると決めたら、その先のことまで決めなければならないと思っていました」

 俊介は黙って聞いている。

「結婚するのか。生活を変えるのか。どこまで相手を優先するのか」

「はい」

「だから、最初の答えが重かった」

「僕が以前、急がせました」

「それだけではありません」

 真尋は首を振った。

「私は、付き合うことを完成した形のように考えていたんです。途中で変えてはいけない。うまくいかなければ、始めたことが間違いだったと思っていました」

「今は?」

「始めてから、二人で考えればいいと思っています」

 俊介の目が揺れる。

「真尋」

「まだ、最後まで聞いてください」

「はい」

 俊介は姿勢を整えた。真尋はバッグの中のノートを意識する。取り出さなくても、書いたことは覚えている。

     *

「私は、一人で過ごす時間が必要です。仕事も続けたい。葵や香織、母との時間も大切にしたい」

「はい」

「俊介と付き合ったからといって、ほかの人より常に俊介を優先することはできません。結婚についても、今すぐ考えられません。会いたい日もあれば、一人でいたい日もあると思います」

「僕もです」

 俊介が言う。

「まだあります」

「はい」

「不安な時に、勝手に俊介の気持ちを決めたくないです。嫌われたかもしれない。面倒だと思われたかもしれない。そう考えた時には、聞くようにしたい」

「僕も聞きます」

「会えない時や、気持ちが変わった時には、黙らず話してほしいです」

 俊介は真剣な表情で頷いた。

「約束します、とは簡単に言わないほうがいいかもしれません」

「どうして?」

「守れない時があるかもしれないから」

 真尋は俊介を見る。

「でも、できるだけ話します。言いにくいことほど、黙ったままにしないようにします」

「はい」

「真尋にも、同じようにしてほしいです」

「はい」

「僕も、一人の時間が必要です。仕事へ集中すると、連絡が遅くなることがあります。それから、会いたい時には、会いたいと言ってほしいです。僕ばかりが誘うと、真尋が本当は会いたくないのではないかと不安になります」

「わかりました」

「それから」

 俊介は迷った。

「僕は、いつか結婚したいと思うかもしれません」

 真尋の胸が緊張する。

「今は?」

「今すぐではありません。でも、将来も絶対に望まないとは言えません」

「はい」

「その時に、真尋が望まない可能性もあります。そこは、今決めなくていいと思っています」

 俊介は真尋を見る。

「でも、考えが変わった時には話したいです」

「私も」

「一緒に住むことも、別々に暮らすことも、どちらが正しいとは思いません。真尋が以前話していた、互いに一人になれる部屋。僕も欲しいです」

 真尋の口元が緩んだ。

「まだ、家の設計をしないでください」

「職業病です」

「早いです」

「はい」

 俊介も笑う。緊張が少し和らぐ。

     *

「僕の希望は、もう一つあります」

「何ですか」

「葵さんのことを、大切にする真尋が好きです」

 真尋は驚く。

「でも、真尋が疲れている時には、僕にも頼ってほしいです。葵さんのために僕との約束を変えることがあってもいい。ただ、毎回、真尋一人で判断しないでほしい」

「どういうこと?」

「僕に相談してほしいです。僕がどう感じるかを、先に決めないで」

 真尋は、以前の自分ならそうしていたと気づく。

 俊介は理解してくれる。俊介は怒らない。そう思って予定を変えることも、逆に迷惑をかけられないと断らず無理をすることも、どちらも相手の気持ちを勝手に決めている。

「わかりました」

「僕が寂しいと言うことも、許してほしいです」

「もちろん」

「理解することと、何も感じないことは違うので」

「はい」

 真尋は上野で予定を変更した時、俊介が話した言葉を思い出す。

 会えないことを残念に思うのと、事情を理解することは同時にできる。

 相手が優しいなら、不満や寂しさを持たないはずだと思っていた。それも期待だった。

「俊介。私、全部を守れるかわかりません」

「僕もです」

「一人でいたいと言いながら、寂しくなって連絡するかもしれない。仕事を優先して、俊介を傷つけるかもしれない」

「僕も、仕事で真尋を後回しにする時があります」

「葵のことで、また予定を変えるかもしれない」

「その時に話しましょう」

「結婚を考えられないままかもしれない」

「その時に、僕がどうしたいかも話します」

「怖くないですか」

「怖いです」

 俊介は迷わず答えた。

「でも、今、真尋と付き合わなかったら、もっと後悔すると思います」

 真尋の胸が強く鳴る。

「真尋は?」

 俊介が尋ねる。

「僕と付き合うことが、怖いだけですか」

「怖いです」

「はい」

「でも、それ以上に、付き合ってみたいです」

 真尋は言った。俊介が動きを止める。

 カフェの中では、食器の音や人の声が続いている。二人の間だけが、静かになったように感じる。

「今、答えを聞いてもいいですか」

 俊介の声は低く、震えていた。真尋は頷いた。

「私は、俊介と付き合いたいです」

 言葉にした瞬間、胸の中に張っていたものがほどけた。怖さが消えたわけではない。それでも、自分の答えを言えた。

「恋人になってください」

 俊介が改めて言う。

「はい」

 真尋は答えた。

 俊介はしばらく何も言わず、真尋を見ていた。

「何か言ってください」

「すみません」

 俊介は眼鏡へ手を触れた。

「嬉しくて、言葉が出ませんでした」

「嬉しい時に、嬉しいと言う練習は?」

「今、します」

 俊介は深く息を吸った。

「真尋。とても嬉しいです」

「私もです」

「本当に?」

「はい」

「後悔していませんか」

「答えた直後に聞かないでください」

「すみません」

「俊介。付き合ったからといって、今日話したことが消えるわけではありません」

「はい」

「不安になったら、話します」

「僕も」

「うまくできなかった時も」

「その時に、また話しましょう」

 俊介はテーブルの上へ手を置いた。真尋の手に近い場所。触れるか迷っている。

 真尋は自分から手を動かし、俊介の指へ触れた。俊介が驚いて真尋を見る。

「私からも握ると言いました」

 葵へ送った言葉。

「はい」

 俊介が手を重ねる。カフェの小さなテーブルの上で、二人は手をつないだ。

 恋人になった。大きな音も、特別な演出もない。周囲の人は、誰も気づかない。

 それでも、真尋の中では、何かが確かに変わった。

 完成したのではない。始まった。

     *

 カフェを出た後、二人はもう一度図書館の外観を見た。俊介は建物を見上げ、真尋はその隣に立つ。

「今日、この場所でよかったです」

 真尋が言う。

「どうして?」

「残しながら変える建物だから」

 俊介は考え、頷いた。

「僕も、ここで話せてよかったです」

「俊介が作った場所で」

「僕一人ではありません」

「でも、俊介が大切にした考えがある」

「はい」

「私たちも、古い部分を全部消さなくていいですね」

「真尋の過去も?」

「はい。俊介の過去も」

「傷も」

「はい」

「そのまま使える?」

「使えない部分は、相談して変える」

 俊介が声を立てて笑う。

「完全に建物の話ですね」

「俊介の影響です」

 二人は手をつないで駅へ戻る道を歩いた。今朝と同じ道。けれど、二人の関係には名前がついた。

「恋人」

 真尋は小さく言った。

「何ですか」

「言葉にしてみただけです」

「僕のこと?」

「ほかに誰がいますか」

 俊介は嬉しそうに笑った。

「真尋の恋人です」

「自分で言うんですね」

「確認しています」

「どうですか」

「かなり嬉しいです」

「私も、まだ少し不思議です」

「嫌では?」

「嫌ではありません」

「また、その言葉」

「大切な言葉です」

 俊介が手へ力を入れる。

「いつか、好きと言ってもらえますか」

 真尋は足を緩めた。

 付き合うと答えた。それでも「好き」という言葉は、まだ口にしていない。

「付き合いたいと思ったのは、好きだからでは?」

「そうだと思います」

「では」

「俊介。言葉を急がせないでください」

 真尋は責めずに言った。俊介の表情が真剣になる。

「すみません」

「言いたいと思った時に言います」

「はい」

「俊介は?」

「好きです」

 迷いのない答え。

「真尋が好きです」

 真尋の胸が温かくなる。

「ありがとうございます」

「返事は待ちます」

「はい」

「でも、言いたくなったら早めに」

「急がないのでは?」

「希望です」

 二人は顔を見合わせた。

     *

 駅へ着くと、俊介の自宅までは別の路線で二駅だという。

 電車へ乗る。日曜日の昼過ぎ。車内には、買い物帰りの人や家族連れがいる。

 二人は並んで座った。手はつないでいない。肩が触れる。

「真尋。部屋へ行くの、まだ不安ですか」

「少し」

「やめてもいいです」

「行きたいです」

「無理をしていませんか」

「していません」

 真尋は自分の気持ちを確かめる。

 俊介の部屋を見たい。どんな本を読み、どんな椅子へ座り、どんな台所で料理をするのか。その人の生活を知りたい。

「ただ、緊張しています」

「僕もです」

「自分の部屋なのに?」

「真尋に見られるので」

「片づけました?」

「かなり」

「普段は?」

「図面と本が、もう少し出ています」

「隠したんですね」

「見栄を張りました」

 俊介は正直に言う。

「少しくらい、普段のままでもよかったのに」

「次は」

「次がある前提ですね」

「恋人ですから」

 その言葉を聞くたび、まだ少し胸が揺れる。

 真尋は窓の外を見る。流れる街。

 恋人ができた。三十六歳。久しぶりの恋愛。

 大きな変化のようで、電車も街も何も変わらない。真尋自身も、急に別人になったわけではない。

 仕事がある。一人の部屋がある。葵がいる。母がいる。香織がいる。その中に、俊介との関係が増えた。

 何かを失って一つへ置き換わるのではなく、人生の中へ新しい線が加わる。

     *

 俊介の住むマンションは、駅から十分ほど歩いた場所にあった。

 大通りから一本入った静かな住宅街。五階建て。外壁は淡い茶色。築年数は少し経っているようだが、手入れされている。

「俊介が選んだ建物?」

「賃貸です」

「建築士でも賃貸なんですね」

「自分の家は、なかなか決められません」

「こだわりすぎて?」

「それもあります」

 オートロックを開ける。エレベーターで四階へ上がる。俊介は落ち着かない様子だった。

「緊張しています?」

「はい」

「何か見られたくないものが?」

「ありません。ただ、真尋が部屋へ入ることが」

「嫌ですか」

「嬉しすぎて緊張します」

 真尋は笑いをこらえられなかった。

「では、私も同じです」

 部屋の前へ着く。俊介が鍵を開ける。扉を開き、少し横へ避ける。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 玄関へ入った瞬間、木とコーヒーが混ざったような匂いがした。真尋の部屋とは違う。俊介の暮らしの匂い。

 玄関には靴が二足だけ。壁には、小さな建築写真が飾られている。

「きれいですね」

「かなり片づけました」

「普段は、ここに何が?」

「模型の箱が二つくらい」

「それも見たかったです」

「次は置いておきます」

     *

 靴を脱ぎ、リビングへ進む。

 一LDK。真尋の部屋と同じくらいの広さ。だが印象は大きく違う。

 壁一面の本棚。建築や写真、料理の本。窓際には大きな机があり、パソコンと図面を広げるための台がある。濃いグレーのソファ。低い木製のテーブル。観葉植物。

 余計な物は少ない。それでも、真尋の部屋より生活感がある。机の端には、使いかけの鉛筆。読み途中の本。マグカップ。

「黒田さんの部屋ですね」

 真尋が言うと、俊介が眉を上げた。

「今は、俊介では?」

「部屋を見て、仕事の人という感じがしたので」

「仕事の物が多いですから」

「本当に本が置ける壁ですね」

 俊介が理想の暮らしとして話していたこと。朝、光が入る部屋。本が置ける壁。少し広い台所。

「覚えていたんですか」

「はい」

「朝は、この窓から光が入ります」

 俊介がカーテンの開いた窓を示す。南向き。午後の光が、床へ斜めに入っている。

「台所も見ていいですか」

「もちろん」

 リビングとつながったキッチンは、真尋の部屋より少し広い。調理台。二口のコンロ。鍋がいくつか吊られている。調味料はラベルを前へ向けて並んでいた。

「整っていますね」

「料理の時に探したくないので」

「冷蔵庫は?」

「見ます?」

「人の冷蔵庫を見るのは、少し失礼ですね」

「真尋なら」

 俊介が開ける。野菜。牛乳。卵。作り置きの料理。大きな鍋。

「これが煮込み?」

「はい」

「何日分ですか」

「四日くらい」

「一人で?」

「冷凍もします」

「本当に煮込みばかりですね」

「今度、別の料理も作ります」

「私は好きです」

「まだ食べていません」

「匂いが」

 台所には、すでに温かな香りが広がっている。赤ワインと肉、野菜。真尋は少し空腹を感じた。

     *

「先に、写真を見せたいです」

 俊介が言った。

「私の?」

「はい」

 本棚の上へ、小さな額が置かれている。庭を見ている真尋の横顔。明るい木製の額。

 その隣には、俊介の家族らしい写真。両親。兄夫婦。二人の子ども。

「本当に飾ったんですね」

「はい」

「家族の隣に?」

「場所が空いていたので」

「聞かれませんか」

「母が来れば」

「何と答えます?」

「恋人です、と」

 真尋の胸が鳴る。まだ、恋人になったばかり。それでも俊介は、自然に言った。

「嫌ですか」

「少し恥ずかしいです」

「写真を移します?」

「いいえ」

 真尋は自分の写真を見る。

 俊介が見た自分。この部屋で、俊介が一人の時にも目に入る。不思議な感覚だった。

「私の部屋にも、俊介の写真を飾ります」

「本当ですか」

「まだ、どれにするか決めていません」

「全部でも」

「多すぎます」

「一枚でいいです」

「池の前で振り返った写真にします」

「僕も好きです」

「では、同じ写真を送ります」

「ありがとうございます」

「自分の写真なのに」

     *

 俊介は台所へ立ち、鍋を温め始めた。

「手伝います」

「今日は、座っていてください」

「一人だけ座るのは落ち着きません」

「では、サラダを盛ってください」

 真尋は手を洗い、ボウルの野菜を皿へ分けた。

 台所へ二人で立つ。肩が時々触れる。葵と料理した時とは違う緊張がある。

 俊介が鍋を混ぜる。真尋が皿を並べる。

「こういう感じなんですね」

 真尋が言う。

「何が?」

「俊介の暮らしの中にいる感じ」

「嫌では?」

「嫌ではありません」

「その言葉、安心します」

「いつか、嫌ではないではなく、好きと言います」

 真尋は皿を並べながら言った。俊介の手が止まる。

「今のは」

「この台所が、です」

「わかっています」

「本当に?」

「少し期待しました」

 俊介は肩を落として笑った。

「でも、待ちます」

「はい」

     *

 煮込みを皿へ盛る。牛肉。人参。玉ねぎ。茸。濃い茶色のソース。パンとサラダ。

 二人はテーブルへ向かい合って座った。

「いただきます」

 真尋は煮込みを一口食べた。肉が柔らかい。酸味は強すぎず、野菜の甘さがある。

「おいしい」

 思わず言った。俊介が安心したように息を吐く。

「よかった」

「かなり」

「店の味に近いですか」

「違うけれど、こちらのほうが優しい味です」

「褒めすぎでは?」

「本当に」

「嬉しいです」

 俊介も食べ始める。

「人に食べてもらうと、味が違いますね」

「緊張して?」

「一人だと、食べられればいいと思う時があります。今日は、真尋がどう感じるか考えながら作りました」

「私のために?」

「はい」

 真尋はもう一口食べた。

 誰かが自分のことを考えて作った料理。それを受け取ることへ、以前より抵抗がない。

 お礼を返さなければ。同じことをしなければ。そう考えずに、嬉しいと感じられる。

「次は、私が作ります」

「義務ではなく?」

 俊介が尋ねる。真尋は考えた。

「作りたいです」

「では、楽しみにしています」

「何がいいですか」

「真尋が普段作るもの」

「煮物かスープ」

「似ていますね」

「簡単なので」

 二人の間に短い笑いが起きた。

     *

 食事を終え、俊介がコーヒーを淹れた。

 真尋はソファへ座る。目の前のテーブルには、二人分のカップ。俊介が隣へ座る。向かいではなく、隣。距離を空けている。

 恋人になった。手をつないだ。それでも、急に近くなりすぎない。その距離が真尋には安心だった。

「今日は、話せてよかったです」

 俊介が言う。

「私も」

「真尋の希望を、聞けて」

「条件が多いと思いませんでした?」

「思いません」

「本当に?」

「僕にも同じような希望があります」

「でも、恋愛に条件をつけすぎると、うまくいかないと言う人もいます」

「条件ではなく、暮らし方の希望でしょう」

 俊介はカップをテーブルへ置いた。

「建物でも、住む人の希望を聞きます。朝日が欲しい。台所を広くしたい。一人の部屋が欲しい」

「全部は叶わない」

「はい。予算や土地がありますから」

「私たちにも?」

「時間。仕事。体力。ほかの大切な人」

「全部を完璧にはできない」

「だから、優先順位を話す」

 俊介は真尋を見る。

「僕たちも、そうすればいいと思います」

「話すたびに、変わるかもしれません」

「変わっていいです」

「最初に言ったことと違うと言われません?」

「変わった理由を話してもらえれば」

「俊介も、変わります?」

「もちろん」

 真尋は安心した。

 今決めた形を、ずっと守らなければならないわけではない。今の二人に合う形。それが変われば、また話す。

     *

「真尋。付き合ったことを、葵さんへすぐ話しますか」

「話したいです」

「はい」

「でも、今は俊介との時間です」

 真尋はスマートフォンをバッグへ入れたままにしている。

「帰ってから話します」

「ありがとうございます」

「俊介は?」

「母には、しばらくしてから」

「どうして?」

「今日すぐ話すと、明日には兄まで知ります」

「ご家族の連絡が早い?」

「かなり」

「会いたいと言われる?」

「母は言うと思います」

 真尋は緊張する。

「まだ、会うのは早いです」

「わかっています」

「俊介の家族を嫌という意味ではなくて」

「説明しなくてもわかります」

「でも」

「真尋」

 俊介が静かに名前を呼ぶ。

「はい」

「僕の家族への対応は、僕がします」

 真尋は言葉を止めた。

 すべてを自分で考え、先回りして不安になる。俊介の家族がどう思うか。会いたいと言われたらどうするか。期待されたら。

 それは、今すぐ真尋が背負うことではない。

「はい」

「必要な時に相談します」

「わかりました」

「真尋のお母様には?」

「来週、秋田の土産を届けます」

「その時に話す?」

「たぶん」

「どんな反応でしょう」

「喜ぶと思います」

「会いたいと?」

「母も、すぐには言わないと思います」

「では、僕より家族へ話すのが上手ですね」

「どうでしょう」

     *

 コーヒーを飲み終えた後、俊介は本棚から一冊のアルバムを取り出した。

「見てもらいたいものがあります」

「何ですか」

 中には、これまで俊介が関わった建物の写真が収められていた。住宅。小さな店舗。集合住宅。改修前と改修後。

「自分で作ったんですか」

「仕事の記録です」

 ページをめくる。姉妹で住む平屋。離婚後、子どもと暮らす女性の家。友人同士が近くに建てた二軒の住まい。

 以前、食事の時に聞いた暮らしが、写真として見える。

「この家」

 真尋は二軒をつなぐ小さな庭の写真を見る。

「老後を近くで暮らす友人たち?」

「はい」

「互いの家に、自由に行き来するんですか」

「庭の門を開ければ。ただし、玄関は別です」

「いいですね」

「真尋も、こういう暮らしに興味がありますか」

「葵と?」

「誰かは決めずに」

 真尋は考える。

「一人の家があり、近くに大切な人がいる。安心すると思います」

「恋人とは別に?」

「はい」

 俊介は写真を見ながら頷く。

「僕も、恋人が人生のすべてである必要はないと思っています」

「本当に?」

「はい」

「寂しくありませんか」

「寂しい時はあると思います」

「それでも?」

「僕だけで真尋の人生を埋めたいとは思いません」

 俊介は真尋を見る。

「僕の人生も、真尋だけではありません」

 その言葉に、少しだけ胸が痛む。

 俊介の仕事。家族。友人。一人の時間。自分がすべてではない。

 わかっている。それでも、少し寂しい。

「今、寂しい顔をしました?」

「少し」

「すみません」

「謝らないでください」

 真尋は自分の感情を言葉にする。

「私だけではないと聞くと、寂しいです。でも、私だけにすべてを預けられるのも怖い」

「僕も同じです」

「矛盾していますね」

「はい」

「大切でいてほしい。でも、すべてにはなりたくない」

「僕にとって、真尋は大切です」

「はい」

「それで、足りますか」

 真尋は考える。

「今は、足ります」

「今は?」

「先で、もっと求めるかもしれません」

「その時に話してください」

「俊介も」

「はい」

 二人はアルバムを見ながら話し続けた。

 どんな家が好きか。どんな暮らしがしたいか。料理をする場所。本を読む場所。眠る場所。

 一緒に暮らすことが決まったわけではない。それでも、相手の考えを聞くのは楽しかった。

 未来を決定する話ではなく、互いを知るための話。

     *

 窓の外が少しずつ暗くなり始めた。時計を見る。午後五時前。

 真尋は帰る時間を考えた。長居はしないと話していた。自分で決めると言った。

 まだここにいたい。俊介と話したい。だが、初めて部屋へ来た日に、夜遅くまで過ごすのは少し不安だった。

「俊介。五時半に帰ります」

 真尋は言った。俊介は時計を見た。

「わかりました」

「残念ですか」

「少し」

「私も、もう少しいたいです」

「では」

「でも、今日は五時半にします」

「はい」

 俊介は迷わず受け入れた。引き止めない。不満そうな顔も隠さない。

「寂しいですが、次があります」

「次は、私の部屋へ」

 真尋は言った。俊介が目を見開く。

「いいんですか」

「来週の日曜日は?」

「空いています」

「では、昼食を作ります」

「本当に?」

「ただし」

「帰る時間を自分で決める?」

「今度は俊介が」

「わかりました」

「夜までいたいと言われたら、相談します」

「はい」

「それから、私の部屋だからといって、何でも自由に触らないでください」

「建物を見すぎない?」

「間取りを評価しない」

「難しいですが、努力します」

「写真の壁だけ」

「見ます」

 俊介は嬉しそうに笑った。

「次の約束ができました」

「はい」

「恋人らしいですね」

「恋人になる前も、約束していました」

「でも、少し違います」

「何が?」

「帰る場所を知っている」

 俊介の言葉に、真尋は胸が温かくなる。

 互いの部屋。それぞれの生活。どこに帰る人なのかを知る。

「今度は、私の暮らしを見てください」

「楽しみにしています」

     *

 帰る前、俊介は玄関まで真尋を送った。

 真尋は靴を履く。俊介は離れたところで待っている。

 部屋の中では自然に話していたが、別れ際になると、また緊張が生まれる。

「今日は、ありがとうございました」

 俊介が言う。

「こちらこそ」

「恋人になってくれて」

「言い方が少し変です」

「では、僕を恋人にしてくれて」

「もっと変です」

 二人は同時に吹き出した。

「真尋。抱きしめてもいいですか」

 初めての質問。真尋の胸が強く鳴る。

 手をつなぐより近い。俊介の腕。胸。体温。

 迷いがある。怖さもある。けれど、今は離れたくない気持ちもあった。

「少しだけ」

 真尋は答えた。

 俊介がゆっくり近づく。急に腕を回さない。真尋が逃げないことを確かめるように、少しずつ距離を縮める。

 真尋も一歩近づいた。俊介の腕が、背中へ回る。強くない。包むような力。

 真尋は俊介のコートへ頬を近づけた。外の冷たい匂い。部屋のコーヒー。煮込み料理。俊介の体温。

 数秒。短いはずなのに、時間がゆっくり流れる。

 真尋も、俊介の背中へ手を置いた。自分から触れる。俊介の腕へ少し力が入る。

「真尋」

 耳の近くで名前を呼ばれる。

「はい」

「好きです」

 真尋はすぐには答えなかった。今はまだ、同じ言葉を返せない。

 だが黙って離れるのではなく、俊介の背中へ触れたまま言う。

「言ってくれて、嬉しいです」

「はい」

「私も、俊介を大切にしたいです」

 俊介が静かに息を吐く。

「十分です」

 少しして、二人は離れた。俊介は約束通り、それ以上近づかなかった。

「駅まで送ります」

「一人で大丈夫です」

「恋人なので」

「理由になっていません」

「送らせてください」

 真尋は考え、頷いた。

「お願いします」

     *

 駅までの道を、二人は再び手をつないで歩いた。

 空は夕暮れから夜へ変わり始めている。住宅の窓に明かりがつく。夕食の匂い。自転車で帰る人。

 図書館へ向かった朝と同じ道なのに、見え方が少し違う。

「真尋。今日、何が一番嬉しかったですか」

「一番を決めるんですか」

「決められなければ、いくつでも」

 真尋は考えた。

「俊介の図書館を見られたこと。煮込みがおいしかったこと。写真が飾られていたこと。話を聞いてもらえたこと」

「はい」

「恋人になったこと」

 最後は少し小さな声になった。俊介が手へ力を入れる。

「僕も、それが一番です」

「一番を決めていますね」

「今日は」

「私は、全部です」

「では、僕も全部」

 二人は顔を見合わせた。

「俊介は?」

 真尋が尋ねる。

「真尋が、僕の作った図書館を好きだと言ってくれたこと。僕の料理を食べてくれたこと。希望を全部話してくれたこと。僕と付き合いたいと言ってくれたこと。自分から手を握ってくれたこと。抱きしめ返してくれたこと」

 真尋は恥ずかしくなる。

「全部言わなくても」

「全部嬉しかったので」

 駅が見えてくる。別れる時間。

 真尋は、以前よりはっきり寂しさを感じた。

 このまま一緒にいたい。けれど帰りたい気持ちもある。自分の部屋で、今日のことを考えたい。葵へ話したい。一人で余韻を感じたい。

「俊介。帰るのは寂しいです」

「はい」

「でも、帰りたいです」

「わかっています」

「矛盾していません?」

「していていいです」

 俊介の言葉に、真尋は笑った。

「来週、待っています」

「必ず行きます」

「写真の壁を見に」

「それだけではありません」

「何を?」

「真尋の暮らしを」

 駅の入口で、二人は手を離した。

「おやすみなさい」

 俊介が言う。

「まだ早いです」

「先に」

「おやすみなさい」

「着いたら連絡してください」

「はい」

「真尋。今日は、忘れない日になります」

「私も」

 二人は別れた。

     *

 電車へ乗ると、真尋は窓際の席へ座った。外はすでに暗い。窓に自分の顔が映る。少し頬が赤い。

 俊介の部屋。煮込み。図書館。手。抱きしめられた感覚。恋人。

 すべてが今日一日の中にある。

 スマートフォンを取り出す。葵へ電話をしようとして、手を止める。

 葵は、今日一人の時間を過ごしている。箱の蓋を閉めるか考えると言っていた。今、電話していいだろうか。

 まず短いメッセージを送る。

『今、帰りです』

 すぐに既読がついた。

『終わった?』

『はい』

『電話していい?』

『私からかけようと思っていました』

 電話がかかってくる。

「もしもし」

『どうだった?』

 葵の声は明るいが、緊張している。

「葵は、今日どうでした?」

『先に真尋』

「葵から」

『じゃあ、箱の蓋を閉めた』

 真尋は息を止めた。

「返す物の?」

『うん』

「一人で?」

『一人で』

「どうして今日?」

『真尋が俊介と話すから、私も何か進めたくなった』

「比べなくていいのに」

『比べたんじゃない。勇気を少し借りた』

「そうですか」

『箱、宅配で送ることにした』

 真尋は驚いた。

「会わない?」

『今は』

「決めたんですね」

『うん。会ったら戻りたいって言うと思う』

「はい」

『話したいことはある。でも、今の私は、直哉が優しくしたら全部言えなくなる』

「はい」

『だから、荷物は送る』

「直哉さんには?」

『今から連絡する』

「一人で書けますか」

『書いた』

「読んでも?」

『うん』

 葵は文章を読み上げた。

『残っていた荷物を整理しました。会って渡すことも考えたけれど、今は落ち着いて話せる自信がないので、宅配で送らせてください。明日発送します。二年間のことをなかったことにしたいわけではありません。いつか、お互いに話せると思った時が来たら、改めて話せたらと思っています』

 真尋は黙って聞いた。

「葵の気持ちが、伝わると思います」

『会いたいって書いてない』

「今は会わないと決めたからでしょう」

『でも、いつか話したい』

「書いてあります」

『戻りたいとは?』

「書かなくていいと決めた?」

『うん』

「では、その文章でいいと思います」

『送る』

「はい」

 少しの沈黙。

『送った』

「はい」

『怖い』

「はい」

『返事が来るまで、話してて』

「いいですよ」

     *

『真尋は?』

「何が?」

『俊介と』

 真尋の頬が緩む。

「付き合うことになりました」

 電話の向こうで、葵が息を吸う。

『本当に?』

「はい」

『言えた?』

「言いたいことを全部」

『付き合いたいって?』

「はい」

『俊介は?』

「恋人になってください、と」

『真尋は、はいって』

「はい」

 葵が電話の向こうで泣き始める。

「葵?」

『うれしい』

「泣くほど?」

『真尋が、逃げなかった』

 その言葉に、真尋の胸が熱くなる。

「葵のおかげです」

『真尋が決めた』

「背中を押してくれました」

『手は?』

「つなぎました」

『抱きしめた?』

 真尋は一瞬黙る。

『その沈黙は』

「少しだけ」

『俊介から?』

「聞いてくれました」

『真尋も?』

「背中へ手を置きました」

『すごい』

「細かく聞かないでください」

『キスは?』

「していません」

『残念』

「急がないんです」

『うん』

「俊介の部屋も、落ち着きました」

『写真あった?』

「私の写真が飾られていました」

『家族の隣?』

「どうしてわかるんですか」

『本当に?』

「はい」

『俊介、本気ですね』

「本気だと思います」

『真尋は?』

 葵の質問に、真尋は考えた。

「私も、大切にしたいです」

『好き?』

「まだ、本人には言っていません」

『どうして?』

「言いたいと思った時に言います」

『付き合ったのに?』

「付き合ったから、すべて同時に言わなくてもいいでしょう」

『そっか』

「俊介は待つと言ってくれました」

『いい人』

「はい」

『真尋。幸せ?』

 真尋は窓へ映る自分を見る。笑っている。

「幸せです」

 迷わず答えた。

『よかった』

「葵は?」

『怖い。でも、箱を閉められた』

「はい」

『少し寂しい。少し安心した』

「どちらもありますね」

『うん』

     *

 スマートフォンが震える音が、電話の向こうから聞こえた。

『直哉から』

「読みます?」

『うん』

 少しの沈黙。

『わかった。荷物は宅配で大丈夫。落ち着いて話せる時が来たら、その時は俺も話したいと思う。二年間のことをなかったことには思ってない。ありがとう』

 葵は読み終え、黙った。

「葵」

『会いたいって書いてない』

「はい」

『でも、話したいって』

「はい」

『少し嬉しい』

「はい」

『期待してもいい?』

「何を?」

『また戻れること』

 真尋はすぐには答えない。

「期待する気持ちがあってもいいと思います」

『でも?』

「今、答えを決めなくていいです。荷物を送ると決めた葵の気持ちも、大切にしてください」

『うん』

「直哉さんの返事だけで、今日決めたことを間違いにしないで」

『わかった』

「明日、送れますか」

『送る』

「はい」

『真尋。同じ日に、真尋は始まって、私は一つ終わらせた』

「終わりですか」

『荷物を置いておく時間は』

「はい」

『でも、直哉との全部が終わったわけじゃない。また話す日があるかもしれない』

「はい」

『その時に、私の言いたいことを言う。真尋みたいに』

「葵の言葉で」

『うん』

 二人はしばらく、互いの一日を話した。

 図書館。煮込み料理。俊介の部屋。葵が箱を閉じた時に泣いたこと。昼に食べた卵焼き。企画の本を読んだこと。

 別々の場所で過ごした日。それぞれが自分の選択をした日。

     *

 真尋が自宅へ着いたのは、午後七時を過ぎた頃だった。

 玄関の扉を開ける。

「ただいま」

 部屋へ言う。スマートフォンがすぐに震えた。俊介から。

『着きましたか』

『今、帰りました』

『お帰りなさい』

『ただいま』

 靴を脱ぎ、リビングへ入る。壁の写真。葵との影。俊介が撮った真尋。

 今日は、その俊介が恋人になった。

 真尋はコートを脱ぐ前に、俊介の写真を選んだ。不忍池で振り返る俊介。小さな額へ入れる。二人の影の反対側へ置く。

 三枚。葵との時間。俊介が見た真尋。真尋が見た俊介。互いの視線が壁に並ぶ。

 真尋は写真を撮り、俊介へ送った。

『飾りました』

 すぐに電話がかかってくる。

「もしもし」

『本当に?』

「はい」

『どこですか』

「葵との写真の隣です」

『嬉しいです』

「俊介の部屋と同じですね」

『同じ写真が、それぞれの部屋にある』

「はい」

『真尋。恋人になった実感が、少しずつ湧いてきました』

「私は、まだ不思議です」

『嫌では?』

「嫌ではありません」

『よかった』

「俊介。今日は、ありがとうございました」

『僕のほうこそ』

「図書館も、料理も、話も」

『来週は、真尋の部屋ですね』

「はい」

『楽しみです』

「評価しないでください」

『努力します』

「台所も」

『見ます』

「見るだけです」

『はい』

 電話の向こうで、俊介が笑う。

     *

「俊介。母に話そうと思います」

『今日?』

「明日か、来週会った時に」

『無理に早く話さなくていいですよ』

「話したいんです」

『はい』

「葵には、もう話しました」

『反応は?』

「泣きました」

『嫌だった?』

「嬉しくて」

『葵さんらしいですね』

「俊介にも会いたいと言うと思います」

『僕もです』

「すぐではありません」

『わかっています』

「俊介。恋人になったからといって、何度も確認しなくてもいいですよ」

『何を?』

「私が嫌ではないか」

 電話の向こうが静かになる。

『不安で』

「私も不安です」

『はい』

「でも、嫌な時は言います」

『信じていいですか』

「はい」

『わかりました』

「私も、俊介の言葉を信じます」

『はい』

 互いに信じる。簡単ではない。それでも、何度も確認して相手を疲れさせる前に、話した言葉を受け取る。

「おやすみなさい」

 俊介が言う。

「まだ、少し早いです」

『先に』

「おやすみなさい」

『真尋』

「何ですか」

『好きです』

 真尋は一瞬、言葉を探した。同じ言葉は、まだ言えない。だが、以前より近い言葉なら出せる。

「俊介にそう言ってもらえることが、嬉しいです」

『はい』

「来週、待っています」

『必ず行きます』

 電話を切る。

     *

 翌朝、葵は宅配業者の営業所へ箱を持っていった。

 両手で抱えるほどの大きさ。それほど重くはない。それでも、玄関から外へ出すまでに何度も立ち止まった。

 箱の中には、直哉が葵の部屋で使っていた物が入っている。部屋着。傘。本。充電コード。一つずつに記憶がある。

 葵は箱へ送り状を貼った。宛先。直哉の名前。何度も書いた住所。間違えるはずがない。

「こちらでよろしいですか」

 受付の女性が尋ねる。

 葵は一度、箱へ手を置いた。

 今なら、まだ持ち帰れる。直哉へ会って渡すこともできる。箱を部屋へ戻し、もう少しだけ置いておくことも。

「はい」

 葵は答えた。

 箱が受付の奥へ運ばれていく。見えなくなる。胸の中が急に空いた。涙が浮かぶ。

 葵は営業所の外へ出た。朝の街。会社へ向かう人々。自転車。車。

 誰も、葵が恋人の荷物を手放したことを知らない。

 葵はスマートフォンを取り出した。

『送りました』

 真尋へ送る。すぐに返事は来ない。朝の会議かもしれない。

 美月へも送る。

『箱を発送した』

『よく送ったね。今、大丈夫?』

『泣いてる』

『駅まで行けそう?』

『少ししたら』

『無理なら会社休んでもいいよ』

 葵は画面を見た。休みたい気持ちもある。だが、今日は企画の言葉を確認する日だ。会社へ行きたい。

『行く』

『じゃあ駅で待つ』

『美月の駅と違うでしょう』

『途中で合流できる』

 美月が、葵の路線へ一駅遠回りしてくれるという。

『迷惑じゃない?』

『今日はできる』

 できることと、できないことを言う。今日はできる。その言葉が嬉しい。

『ありがとう』

 葵は返信した。

 真尋からも、少しして返事が届く。

『よく送りましたね』

『泣いた。箱が見えなくなった』

『はい』

『部屋が本当に私だけのものになる』

『葵の物と、葵が残すと決めた思い出があります』

『青いカップも。写真も』

『はい』

『全部なくなってない』

『はい』

『会社行く』

『無理になったら帰ってください』

『美月が途中で待ってる』

『頼れましたね』

『うん』

 葵は涙を拭き、駅へ向かって歩き始めた。

     *

 真尋は会社の窓から、朝の街を見ていた。

 葵が荷物を送った。俊介と付き合い始めた。二つの出来事が、同じ時間の中にある。

 終わるもの。始まるもの。だが、実際にはきれいに分かれていない。

 葵と直哉には、いつか話す可能性が残っている。真尋と俊介も、恋人になっただけで、完成したわけではない。

 関係は、始まりと終わりの間に無数の時間を持つ。

「課長」

 佐伯が資料を持ってきた。

「新規案件の進行表、できました」

「見せてください」

 真尋は仕事へ戻った。

 資料を見る。佐伯が自分で決めた担当。相談したい部分。真尋が口を出したい部分もある。

 だが、すぐに修正せず、まず理由を聞く。

「この日程にした理由は?」

「取引先の確認期間を長めに取りました」

「社内の作業が短くなりますね」

「はい。でも、こちらで調整できる部分を短くしたほうが、相手に無理を言わずに済むと思いました」

「担当者の負担は?」

「私と吉田さんで分けます」

「吉田さんには確認しましたか」

「これからです」

「先に確認してください」

「はい」

 佐伯がメモを取る。

「課長。昨日、良いことありました?」

 真尋は驚く。

「どうして?」

「顔が柔らかいです」

「皆さん、よく見ていますね」

「最近、課長が自分のことを話すようになったから」

 真尋は考えた。

 会社で恋人ができたと話す必要はない。だが、隠したいとも思わなかった。

「大切な人と、付き合うことになりました」

 佐伯の目が大きくなる。

「前に会っていた人?」

「はい」

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 口にすると、照れくさい。それでも嬉しい。

「課長、恋人ができると変わりますね」

「昨日からです」

「でも、前から少し変わってました」

「そうですか」

「その人のおかげ?」

 真尋は考える。

 俊介だけではない。葵。香織。母。仕事の人々。自分自身。

「一人のおかげではありません」

 真尋は答えた。

「いろいろな人と話したからだと思います」

「いいですね」

「佐伯さんも、困った時は話してください」

「恋愛のことも?」

「内容によります」

「やっぱり線を引く」

「仕事中です」

 二人の間に短い笑いが起きた。

     *

 昼休み、真尋は母へ電話をかけた。

 実家へ土産を届けるのは来週だ。だが、その前に話したいと思った。

『もしもし』

「お母さん、今大丈夫?」

『大丈夫よ。どうしたの』

「この前話した、建築士の人」

『黒田さん?』

「名前、覚えてるんだ」

『真尋が男性の名前を出すこと、少ないから』

「昨日、付き合うことになった」

 電話の向こうが静かになる。

「お母さん?」

『いる』

「何か言って」

『ごめん。嬉しくて』

 母の声が震えている。

「泣いてる?」

『少し』

「葵と同じ」

『葵ちゃんにも話したの?』

「最初に」

『そう』

 母が笑う気配がした。

『よかったね』

「うん」

『どんな人?』

「穏やかで、話を聞いてくれる。建物の話になると、少し夢中になる」

『真尋は、その人の前で笑える?』

 母の質問は、予想と違った。

「笑えるよ」

『なら、よかった』

「結婚は、とか言わないの?」

『言わない』

「どうして?」

『今、付き合い始めたんでしょう。まず、楽しく会えばいい』

「お母さん、本当に変わったね」

『あなたに言われたくない』

『会わせてくれる?』

「いつか」

『急がないわよ』

「俊介も、会いたいと言ってる」

『俊介』

「名前」

『もう名前で呼んでるのね』

「二人の時だけ」

『真尋。大事にしなさい』

「俊介を?」

『自分も、その人も』

 母の言葉に、真尋は黙った。

「うん」

『どちらかだけを我慢させたら、長く続かないでしょう』

「経験者みたい」

『夫婦だったから』

 父とのこと。母にも、話していない時間や後悔があるのかもしれない。

「今度、聞いてもいい?」

『何を?』

「お父さんと、どんな夫婦だったか」

 母は驚いたように黙った。

『いいわよ』

「来週、土産を持っていく時に」

『待ってる』

 電話を切る。

 真尋は、自分が母の人生へ興味を持ったことに気づいた。

 母という役割だけではない。一人の女性。妻だった人。一人になった後、自分の生活を取り戻した人。

 俊介との関係を始めたことで、過去の家族の形も知りたくなった。

     *

 夕方、葵からメッセージが届いた。

『直哉が荷物を受け取ったって』

『返事は?』

『送ってくれてありがとう。大切に使ってたものもあったから、少し寂しい。でも、葵が整理できたならよかったって』

 真尋は文章を読む。

『葵は、どう感じました?』

『泣いた。直哉も寂しいんだって思った』

『はい』

『戻れるかもしれないって、また思った』

『はい』

『でも、今日は連絡しない』

『自分で決めましたか』

『うん。今話したら、寂しい同士で戻るだけになる気がする』

 葵は、自分でそこまで考えられるようになっている。

『大切なことに気づきましたね』

『真尋と俊介は、寂しいから付き合ったんじゃない?』

 真尋は考える。

『寂しさがなかったとは言いません。でも、俊介と会いたいと思ったからです』

『私も、直哉に会いたい』

『はい』

『でも、今すぐ戻ることと同じじゃない』

『はい』

『わかった』

『何が?』

『会いたい気持ちを持ったまま、会わないこともできる』

 葵の言葉を読み、真尋は静かに息を吐いた。

 気持ちと行動は、必ずしも同じではない。

 好きでも別れる。寂しくても一人で過ごす。怖くても始める。会いたくても、今は待つ。

『葵が選べます』

『うん』

『真尋。恋人になった朝は、どう?』

 真尋は思わず笑った。

『会社へ行き、会議をして、昼食を食べました』

『普通』

『普通の中に、嬉しいことがあります』

『俊介から連絡は?』

『来ています』

『何て?』

『次に私の部屋へ行くのを楽しみにしていると』

『真尋の部屋』

『はい』

『緊張する?』

『かなり』

『何を片づける?』

『普段のままにします』

『本当に?』

『少しは片づけます』

『俊介に料理作る?』

『はい』

『卵焼き?』

『別のものです』

『私にも作って』

『今度』

 葵から笑う絵文字が届く。

     *

 その夜、真尋は自宅のリビングへ座り、次の日曜日のことを考えていた。

 俊介が来る。どこまで片づけるか。何を作るか。写真の壁。寝室の扉は閉めるか。

 すべてを見せる必要はない。自分が見てほしい場所だけでいい。

 台所。リビング。旅行の写真。本棚。マンションを買った時に選んだ家具。

 自分の暮らし。

 俊介の部屋で感じたように、自分の部屋にも真尋の時間が積み重なっている。

 慎一と別れた後、一人で選んだ場所。課長になった年に買った椅子。初めての一人旅で撮った写真。父が亡くなった後、母から譲り受けた小さな時計。葵が使った歯ブラシ。恋人になった俊介の写真。

 過去と現在が同じ部屋にある。

 俊介に見せたい。同時に、すべてを理解されたくはないという気持ちもある。

 人の暮らしは、一度見ただけで全部わかるものではない。わからない部分があっていい。

 真尋は、料理の献立を考えた。

 鶏肉と根菜のスープ。白身魚の香草焼き。小さなサラダ。

 俊介の煮込みとは違うもの。自分が普段作る料理。見栄を張りすぎない。だが、喜んでほしい。それも自分の希望だ。

     *

 スマートフォンが震える。俊介からだった。

『仕事が終わりました。今日は部下と図面の修正をしています』

『お疲れさまです』

『真尋は?』

『帰宅して、次の日曜日の料理を考えています』

 すぐに電話がかかってくる。

「もしもし」

『料理、本当に作ってくれるんですか』

「そのつもりです」

『手伝います』

「お客さんなのに?」

『恋人です』

 その言葉に、また少し胸が揺れる。

「では、少し」

『何を作りますか』

「秘密です」

『苦手なものはありません』

「知っています」

『覚えていた?』

「俊介が、人の話を覚えるのは仕事の習慣だと言ったでしょう」

『真尋に関しては仕事ではありません』

「以前も聞きました」

『覚えていますね』

 二人は同時に吹き出した。

『真尋。昨日のこと、後悔していませんか』

 また確認。真尋は考える。

「していません」

『はい』

「でも、何度も聞かれると、俊介が私の言葉を信じていないように感じます」

 電話の向こうが静かになる。

『すみません』

「謝ってほしいのではありません」

『はい』

「不安なんですね」

『はい』

「以前、一度断られたから?」

『それもあります』

「私も不安です」

『はい』

「俊介が、付き合ってみたら思っていた人と違ったと感じるかもしれない」

『僕は』

「最後まで聞いてください」

『はい』

「それでも、今は付き合いたいと二人で決めました。私が後悔したら、その時に話します。俊介も」

『はい』

「今の言葉を、少し信じてください」

『わかりました』

「不安になったことを言うのは、いいです。後悔していないかと聞くのではなく、不安だと話してください」

 俊介はしばらく黙った。

『今、不安です』

「はい」

『真尋が、僕と付き合うと決めた後に、やはり一人のほうがよかったと思うのではないかと』

「そう思う日が来るかもしれません」

『はい』

「一人でいたい日があることと、俊介と付き合ったことを後悔するのは別です。俊介にも、一人のほうが楽だと思う日があるでしょう」

『あります』

「その日があっても、関係を終えるとは限りません。今は、それでいいですか」

『はい』

 俊介の声が落ち着く。

『話してくれて、ありがとうございます』

「私も、言えてよかったです」

『真尋。次から、不安だと言います』

「はい」

『後悔していないかは、毎回聞きません』

「毎回は?」

『大きなことがあった時だけ』

「その時も、まず自分の気持ちを話してください」

『わかりました』

 恋人になった翌日から、話し合うことがある。それを面倒とは感じなかった。

 むしろ、始まったばかりだからこそ、話せてよかったと思う。

「俊介。私も、急に距離を置きたくなった時は、黙らず話します」

『お願いします』

「はい」

『日曜日、楽しみにしています』

「私も」

『その言葉を信じます』

「はい」

 電話を切った後、真尋は少し疲れを感じた。

 嬉しいだけではない。関係を作るには、言葉が必要だ。相手の不安を聞く。自分の不安を伝える。

 時には面倒に感じる日も来るだろう。それでも、黙って離れるよりいい。

     *

 葵は同じ夜、自宅の棚へ青い線のカップを戻した。

 直哉の荷物を送ったため、クローゼットの前にあった箱がなくなった。床が広く見える。

 空いた場所。最初は寂しい。だが、何かをすぐ置こうとは思わなかった。

 空いたままでいい。いつか必要なものができたら置く。

 葵は箱があった場所を見つめた。

「お疲れさま」

 自分へ言う。

 真尋が俊介と付き合い始めた。直哉の荷物を返した。同じ時期に、二人は違う方向へ進んでいるように見える。

 だが、どちらも自分の気持ちを選ぶことだった。

 葵はノートを開いた。

『私が大切にしたいこと』

 以前書いた言葉を読む。

 忙しい時は、忙しいと言ってほしい。会えない時も、関係を続けたい気持ちを伝えてほしい。結論がなくても、将来について話したい。自分の時間を持ちたい。友達や仕事を大切にしたい。恋人だけを一番にしなくてもいい。離れていく時は、黙らず話してほしい。

 葵は最後へ一つ加えた。

『寂しいから戻るのではなく、一緒に関係を作りたいと思った時に戻る』

 書き終え、ペンを置く。

 その日が来るかはわからない。直哉と戻る日。別の人と始める日。一人の生活を続ける日。

 どの道でも、この言葉は自分を支える。

     *

 夜が深くなる。

 真尋は、自分の部屋で俊介との次の約束を考える。葵は、広くなった床の前で新しい朝を考える。

 二人とも、一人でいる。それでも、完全な孤独ではない。離れた場所へ、それぞれの言葉が残っている。

 真尋の壁には、葵との影と俊介の写真。俊介の本棚には、真尋の横顔。葵の棚には、秋田の写真と青いカップ。

 物は、過去と現在を静かにつないでいる。

 手放した物がある。残した物がある。新しく増えた物がある。

 どれも、誰かに決められたものではない。自分で選んだものだった。

 真尋は寝室へ入り、照明を消す前に、スマートフォンを確認した。俊介から短いメッセージ。

『おやすみなさい。今日、不安を話せてよかったです』

 真尋は返信する。

『私もです。おやすみなさい』

 考え、もう一文を加えた。

『恋人になったことを、後悔していません』

 送信する。すぐに既読がつく。

『ありがとうございます。今夜は、その言葉を信じて眠ります』

 真尋は画面を伏せた。

 不安が一度で消えるわけではない。それでも、言葉を重ねるたびに、二人の間へ小さな道ができる。

 葵からもメッセージが届いた。

『箱がなくなった場所、まだ空けておく』

『はい』

『何か置かなくていいよね』

『余白のままでいいと思います』

『俊介みたい』

『私も影響を受けました』

『真尋の部屋にも余白ある?』

 真尋は壁の空いている場所を見た。

『あります』

『何を飾る?』

『これから決めます』

『私も』

『はい』

『おやすみ』

『おやすみなさい』

     *

 真尋は照明を消した。

 恋人になった翌日の夜。生活は、大きく変わっていない。

 明日も会社へ行く。仕事をする。一人で朝食を食べる。俊介とは別の場所で一日を過ごす。葵も、自分の部屋で朝を迎える。

 関係に名前がついても、自分の暮らしは続いていく。そのことに、真尋は安心した。

 始めることは、自分を手放すことではない。誰かとつながることは、一人で立てなくなることではない。

 それぞれの足で立ちながら、会いたい時に同じ道を歩く。離れる時には、次に会う約束を持つ。不安になったら、黙らず言葉を渡す。

 それが、今の二人が選んだ関係の形だった。

 名前がついた後も、形は作り続けていく。

 真尋は静かに目を閉じた。

 今日始まったものを、完成させようとは思わなかった。

 明日も、その次の日も。一つずつ話し、一つずつ選びながら、俊介を知っていけばいい。自分のことも、知ってもらえばいい。

 窓の外で、風が小さく鳴った。

 部屋の壁には、これまでの時間と、これからの余白が並んでいた。


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