第十三章 名前をつける前に
日曜日の朝、真尋は目覚ましが鳴る一時間前に目を覚ました。
カーテンの向こうは、まだ完全には明るくなっていない。時計を見る。午前六時二十三分。
待ち合わせは午前十時。家を出るまでには、まだ十分な時間がある。それでも、もう一度眠れる気はしなかった。
今日は、俊介が設計に関わった図書館を見に行く。その後、俊介の部屋へ行く。煮込み料理を食べる。そして、二人の関係について話す。
俊介は、恋人になりたいと言った。再来週、もう一度聞く。そう言われた日から、真尋は何度も自分の気持ちを考えた。
答えは、ほとんど決まっている。
俊介と付き合ってみたい。会いたいと思う。手をつなぐと嬉しい。名前を呼ばれると、胸が温かくなる。自分の部屋へ招きたいと思う。俊介の暮らしを知りたい。
それらは、好意と呼んでいいものだろう。
だが「恋人」という言葉の中に、真尋はまだ多くの意味を感じていた。
将来を期待される。会う回数が増える。休日を共有する。一人の時間が減る。いつか結婚について答えなければならない。相手の家族に会う。生活の形が変わる。
そして、始まったものは終わる可能性がある。
考え始めれば、怖さはなくならない。
以前の真尋なら、その怖さを答えとして受け取っていた。怖いなら進まない。迷うなら断る。相手に期待させないために、近づかない。
今は違う。怖くても、進みたいと思う自分がいる。
*
真尋は布団から出た。裸足でリビングへ向かう。
壁に飾った写真が、薄い朝の光の中に見える。葵と二人の影。不忍池の前で笑う真尋。
右側には、まだ空いている壁がある。これから増える写真のための場所。必ず増えると決まったわけではない。それでも、空いていることを不安ではなく余白だと思える。
真尋はキッチンで湯を沸かした。コーヒーを淹れる。
テーブルには、昨夜書いたノートが置かれている。俊介へ話したいこと。
一人の時間が必要。仕事を続けたい。葵や香織、母との時間を大切にしたい。結婚を前提に急ぎたくない。会えない時、理由を隠さず伝えてほしい。不安を一人で決めつけない。期待をすべて背負わない。期待を黙って相手へ背負わせない。
箇条書きにした言葉を見ると、契約書のようにも見える。恋愛を始める前に、条件を並べている。
俊介は、重いと思うだろうか。好きなら、そのようなことを考えずに飛び込むものだと言われるだろうか。
真尋はコーヒーカップへ手を添えた。
好きだからこそ、話したい。黙ったまま始めて、後から苦しくなるより、今の自分を知ってほしい。
俊介も、自分の希望を言うと話していた。二人で確かめる。最初から何度も話してきたことだった。
真尋はノートを閉じた。持っていくか迷う。
見ながら話せば、用意した回答を読み上げているようになる。けれど、緊張すれば大切なことを忘れるかもしれない。
葵が直哉と会う時、ノートをお守りとして持っていった。結局、開いたかどうかは聞いていない。
真尋も、バッグへ入れることにした。見るかどうかは、その時に決めればいい。
*
同じ朝、葵も早く目を覚ましていた。
ベッドの中で、昨日まとめた箱を思い出す。返すと決めた物。直哉の部屋着。傘。本。残っていた充電コード。
箱の蓋は、まだ閉じていない。会って返すのか。宅配で送るのか。まだ決めていなかった。
真尋は今日、俊介と大切な話をする。今ごろ、同じように緊張しているかもしれない。
葵はスマートフォンを手に取った。何か送りたい。
頑張って。うまくいくよ。俊介なら大丈夫。どれも少し違う気がする。
真尋は、うまくいくことだけを望んでいるわけではない。自分の言葉で話すことを望んでいる。
葵は短く入力した。
『今日、真尋が言いたいことを全部言えますように』
送信する。数分後、既読がついた。
『ありがとうございます』
『返事は何時でもいいからね』
『葵は、今日は?』
『箱の蓋を閉めるか考える』
『急がなくていいです』
『わかってる』
『でも、自分で決めたいですか』
『うん』
『では、葵の一日を過ごしてください』
『真尋も』
やり取りを終える。葵はベッドから起きた。
今日、誰かと会う予定はない。美月は家族と出かけると言っていた。真尋も、俊介と過ごす。久しぶりに、一日を一人で過ごす。
以前なら不安だった。今も少し不安だ。ただ、何をしたらいいかわからないほどではない。
朝食を作る。洗濯をする。箱の中身をもう一度確認する。午後には、企画の本を読む。それでも苦しくなったら、散歩へ出る。
一日には、いくつもの置き場所がある。
葵はキッチンへ立った。
*
真尋は九時少し前に自宅を出た。
今日は、濃紺のロングスカートに、白いニットを合わせた。歩きやすい靴。薄いグレーのコート。髪は下ろし、風が強ければまとめられるよう、バッグへ髪留めを入れている。
鏡の前で最後に確認した時、仕事へ行く自分とも、上野で会った時の自分とも少し違って見えた。
俊介の部屋へ行く。そのことを意識しすぎて、頑張って見える服にはしたくなかった。けれど、きれいに見られたい気持ちはある。その気持ちを否定しないことにした。
駅へ向かう途中、俊介からメッセージが届く。
『予定通り、駅で待っています。急がなくて大丈夫です』
『私も予定通り着けそうです』
『少し緊張しています』
真尋は歩きながら笑った。
『私もです』
『図書館を見ることに?』
『その後の話に』
『僕もです』
同じ。どちらか一人だけが覚悟を決めて待っているわけではない。二人とも緊張している。
真尋は電車へ乗った。
都心を離れるにつれ、窓の外の建物が低くなっていく。住宅街。川。小さな畑。駅と駅の間が少しずつ長くなる。
日曜日の車内は、通勤時間ほど混んでいない。向かいの席では、小さな子どもが母親へ窓の外を指差している。隣には、本を読む男性。
真尋はバッグの中のノートへ触れた。
言いたいことはある。答えもある。それでも、俊介の顔を見た時に変わるかもしれない。
用意した言葉通りでなくてもいい。今日の自分の気持ちを話せばいい。
*
待ち合わせの駅へ着くと、俊介は改札のすぐ外にいた。
紺色のコート。白いシャツ。休日らしい黒いパンツ。上野の時より、少し軽い服装だった。
真尋に気づくと、すぐに笑う。
「真尋」
人の多くない駅。周囲を気にする必要もない。俊介は自然に名前を呼んだ。
「お待たせしました」
「僕が早く来ただけです」
「何分前ですか」
「十五分」
「前より少し短いですね」
「家にいても落ち着かなかったので、かなり我慢しました」
真尋は吹き出した。
「今日の服も、似合っています」
「ありがとうございます」
「僕の服は?」
「似合っています」
「すぐに返してくれましたね」
「本当に思っています」
「嬉しいです」
俊介は真尋の隣へ並んだ。駅から図書館までは、歩いて十五分ほどだという。
「手をつないでもいいですか」
駅を出てすぐ、俊介が尋ねた。真尋は驚き、それから手を差し出した。
「はい」
手を重ねる。以前より自然だった。俊介の手が、真尋の指を包む。
歩き始める。住宅街の中に、古い商店が並ぶ通りがある。パン屋。和菓子店。小さな花屋。低い建物の向こうに、木々が見える。
「図書館は、もともと何の建物だったんですか」
「昭和の初めに建てられた役場です」
「役場?」
「はい。新しい庁舎ができてから、長く倉庫として使われていました」
「壊す予定だった?」
「最初は」
俊介は前を見ながら話す。
「でも、町の人から残してほしいという声が多かったんです」
「どうして?」
「子どもの頃、そこへ来た記憶がある人が多かった。結婚届を出した。子どもの出生届を出した。選挙へ行った。人によって、違う時間が残っていたんです」
「建物に、町の記憶がある」
「はい」
俊介の声が楽しそうになる。真尋は横顔を見る。建物について話す時の顔。上野で撮った写真と同じだ。
「だから、外観と主要な柱は残しました。中は、図書館として使いやすいように変えています」
「昔のまま残すだけではない?」
「残すことが目的になれば、使われない建物になります」
「使い続けるために、変える」
「はい」
真尋は、自分たちの関係についても同じことが言える気がした。
過去の経験を守るために、新しい関係を拒むのではない。過去を残しながら、今の自分に合う形へ変える。
「今日は、いつもより建物の話が自分へ重なります」
真尋が言うと、俊介が笑った。
「僕は、何でも建物に例えるので」
「今日は私が勝手に」
「どんなところが?」
「残しながら、変えるところ」
俊介は真尋の手へ力を入れた。
「僕たちの話ですか」
「少し」
「今日の話につながりますね」
「はい」
二人の間に緊張が戻る。それでも手は離さなかった。
*
図書館は、小さな公園の隣にあった。
焦げ茶色の屋根。淡い灰色の外壁。正面には、太い木製の扉。
新しい建物ではない。けれど古びているという印象もなかった。長く使われてきたものを、丁寧に手入れした温かさがある。
「きれい」
真尋が言う。
「ありがとうございます」
「俊介が褒められたみたいに言いますね」
「設計したので、少しは」
俊介は照れたように笑った。
入口の横には、以前の役場だった頃の写真が飾られている。今より窓が少なく、重い雰囲気がある。
「窓を増やしたんですか」
「一部は。外壁を残すため、大きくは変えられませんでした」
「光は?」
「天井から入れています」
中へ入る。最初に感じたのは、木の匂いだった。
床。本棚。天井を支える梁。新しい木材と古い木材が混ざっている。中央には大きな吹き抜けがあり、上部の窓から光が落ちていた。
「明るい」
「以前は暗い建物でした」
「外から見ると、窓はあまり増えていないのに」
「屋根の一部を変えました」
俊介が天井を指す。
「古い瓦を全部残すことはできませんでした。見えにくい位置へ新しい窓を作っています」
「残すために、見えないところを変えた」
「はい」
館内には、日曜日の利用者がいた。絵本を読む親子。新聞を広げる高齢の男性。ノートパソコンへ向かう若い女性。学生たち。
それぞれが別のことをしながら、同じ空間にいる。
「誰かの気配があるけれど、干渉しない」
真尋が言う。
「それを目指しました」
「一人でいても、孤立しない場所」
「はい」
俊介は誇らしそうだった。
「高齢者の中には、自宅で一人でいるより、ここで新聞を読むほうが落ち着くという人もいます。子どもがいるだけで、町が動いていると感じるそうです」
「私も、こういう場所が近くにあれば来るかもしれません」
「一人で?」
「一人で本を読みたい。でも、誰かの気配も欲しい時に」
「僕もです」
*
二人はゆっくり館内を歩いた。
子ども用の低い本棚。窓際の長い机。一人用の椅子。小さな中庭。古い柱には、以前の傷や跡が残っている。
「この柱、傷を消さなかったんですね」
真尋が指で触れずに見る。
「町の人から、残してほしいと言われました」
「何の傷?」
「昔、掲示板が取りつけられていた跡です」
「見た目だけなら、消したほうがきれいなのに」
「きれいにすることと、時間を消すことは違います」
俊介が言う。
「傷があるから、以前の建物を知っている人には、自分の記憶とつながる」
真尋は柱の跡を見た。
慎一との時間。葵の失恋。俊介が以前、真尋に断られたこと。
消して新しく始めるのではない。傷があるまま、別の役割を持つことができる。
「真尋」
「何ですか」
「今日は、何度も考えていますね」
「わかります?」
「表情で」
「俊介の建物を見ながら、自分のことを考えています」
「聞いてもいい?」
「後で話します」
真尋は微笑んだ。俊介もそれ以上聞かなかった。
*
二階へ上がると、地域の資料を集めた小さな展示室があった。
昔の町の写真。役場だった頃の机。古い看板。改修前と改修後の図面。
真尋は、壁へ並んだ図面の前に立った。
「これ、俊介が描いたんですか」
「最初の案は僕です。最終的にはチームで」
「見ても、よくわかりません」
「説明します」
俊介は真尋の隣へ立った。
以前の部屋の配置。新しく作った吹き抜け。残した柱。移動した階段。車椅子でも利用できるよう追加した設備。一つずつ話す。
真尋は、内容のすべてを理解できたわけではない。それでも、俊介が何を大切にして設計したのかは伝わった。
「ここ」
真尋は図面の一部を指す。
「一人用の席が多いですね」
「はい」
「テーブルを大きくして、みんなで座るほうが場所を使えるのでは?」
「効率だけなら」
俊介は答える。
「でも、大きなテーブルが苦手な人もいます。隣の人を気にして、本を読めない人もいる」
「私も、少しわかります」
「一人でいることを選べる場所を作りたかったんです」
「でも、完全な個室ではない」
「誰かの気配はある」
俊介は図面を見る。
「一人と孤独は、同じではありません」
真尋はその言葉を、静かに受け取った。
一人で生きられる。一人で旅ができる。一人で家を買った。一人で食事をし、眠る。
それは孤独を選んだということではない。誰かといるから孤独ではないとも限らない。
「俊介。この図書館、好きです」
俊介が真尋を見る。
「建物として?」
「考え方も」
「ありがとうございます」
「俊介が作ったと知っているから、もっと好きなのかもしれません」
俊介の表情がゆっくり変わる。
「真尋」
「はい」
「今の言葉、大切にします」
「一度で受け取ってください」
「はい」
二人は小さく笑った。
*
図書館の一角には、カフェが併設されていた。正午を過ぎたため、二人はそこで軽い昼食を取ることにした。
サンドイッチとスープ。窓の外には、公園が見える。
「このカフェも、俊介が?」
「配置だけです。運営には関わっていません」
「よく来るんですか」
「完成してからは、月に一度くらい」
「様子を見るため?」
「最初は。今は、普通に本を読みに来ます」
「自分が作った場所で?」
「はい」
「落ち着きますか」
「気になるところも見つかります」
「直したい?」
「できれば」
「完成しても?」
「建物は、使われてからわかることがあります」
「人との関係も?」
真尋が尋ねると、俊介は笑った。
「今、それを考えていました」
「最初から完成した関係はない?」
「はい」
「付き合うと決めたら完成ではない」
「始まるだけです」
真尋はスープのカップへ手を添えた。温かい。今日、話そうと思っていることへ自然につながった。
「私は、恋人になると決めたら、その先のことまで決めなければならないと思っていました」
俊介は黙って聞いている。
「結婚するのか。生活を変えるのか。どこまで相手を優先するのか」
「はい」
「だから、最初の答えが重かった」
「僕が以前、急がせました」
「それだけではありません」
真尋は首を振った。
「私は、付き合うことを完成した形のように考えていたんです。途中で変えてはいけない。うまくいかなければ、始めたことが間違いだったと思っていました」
「今は?」
「始めてから、二人で考えればいいと思っています」
俊介の目が揺れる。
「真尋」
「まだ、最後まで聞いてください」
「はい」
俊介は姿勢を整えた。真尋はバッグの中のノートを意識する。取り出さなくても、書いたことは覚えている。
*
「私は、一人で過ごす時間が必要です。仕事も続けたい。葵や香織、母との時間も大切にしたい」
「はい」
「俊介と付き合ったからといって、ほかの人より常に俊介を優先することはできません。結婚についても、今すぐ考えられません。会いたい日もあれば、一人でいたい日もあると思います」
「僕もです」
俊介が言う。
「まだあります」
「はい」
「不安な時に、勝手に俊介の気持ちを決めたくないです。嫌われたかもしれない。面倒だと思われたかもしれない。そう考えた時には、聞くようにしたい」
「僕も聞きます」
「会えない時や、気持ちが変わった時には、黙らず話してほしいです」
俊介は真剣な表情で頷いた。
「約束します、とは簡単に言わないほうがいいかもしれません」
「どうして?」
「守れない時があるかもしれないから」
真尋は俊介を見る。
「でも、できるだけ話します。言いにくいことほど、黙ったままにしないようにします」
「はい」
「真尋にも、同じようにしてほしいです」
「はい」
「僕も、一人の時間が必要です。仕事へ集中すると、連絡が遅くなることがあります。それから、会いたい時には、会いたいと言ってほしいです。僕ばかりが誘うと、真尋が本当は会いたくないのではないかと不安になります」
「わかりました」
「それから」
俊介は迷った。
「僕は、いつか結婚したいと思うかもしれません」
真尋の胸が緊張する。
「今は?」
「今すぐではありません。でも、将来も絶対に望まないとは言えません」
「はい」
「その時に、真尋が望まない可能性もあります。そこは、今決めなくていいと思っています」
俊介は真尋を見る。
「でも、考えが変わった時には話したいです」
「私も」
「一緒に住むことも、別々に暮らすことも、どちらが正しいとは思いません。真尋が以前話していた、互いに一人になれる部屋。僕も欲しいです」
真尋の口元が緩んだ。
「まだ、家の設計をしないでください」
「職業病です」
「早いです」
「はい」
俊介も笑う。緊張が少し和らぐ。
*
「僕の希望は、もう一つあります」
「何ですか」
「葵さんのことを、大切にする真尋が好きです」
真尋は驚く。
「でも、真尋が疲れている時には、僕にも頼ってほしいです。葵さんのために僕との約束を変えることがあってもいい。ただ、毎回、真尋一人で判断しないでほしい」
「どういうこと?」
「僕に相談してほしいです。僕がどう感じるかを、先に決めないで」
真尋は、以前の自分ならそうしていたと気づく。
俊介は理解してくれる。俊介は怒らない。そう思って予定を変えることも、逆に迷惑をかけられないと断らず無理をすることも、どちらも相手の気持ちを勝手に決めている。
「わかりました」
「僕が寂しいと言うことも、許してほしいです」
「もちろん」
「理解することと、何も感じないことは違うので」
「はい」
真尋は上野で予定を変更した時、俊介が話した言葉を思い出す。
会えないことを残念に思うのと、事情を理解することは同時にできる。
相手が優しいなら、不満や寂しさを持たないはずだと思っていた。それも期待だった。
「俊介。私、全部を守れるかわかりません」
「僕もです」
「一人でいたいと言いながら、寂しくなって連絡するかもしれない。仕事を優先して、俊介を傷つけるかもしれない」
「僕も、仕事で真尋を後回しにする時があります」
「葵のことで、また予定を変えるかもしれない」
「その時に話しましょう」
「結婚を考えられないままかもしれない」
「その時に、僕がどうしたいかも話します」
「怖くないですか」
「怖いです」
俊介は迷わず答えた。
「でも、今、真尋と付き合わなかったら、もっと後悔すると思います」
真尋の胸が強く鳴る。
「真尋は?」
俊介が尋ねる。
「僕と付き合うことが、怖いだけですか」
「怖いです」
「はい」
「でも、それ以上に、付き合ってみたいです」
真尋は言った。俊介が動きを止める。
カフェの中では、食器の音や人の声が続いている。二人の間だけが、静かになったように感じる。
「今、答えを聞いてもいいですか」
俊介の声は低く、震えていた。真尋は頷いた。
「私は、俊介と付き合いたいです」
言葉にした瞬間、胸の中に張っていたものがほどけた。怖さが消えたわけではない。それでも、自分の答えを言えた。
「恋人になってください」
俊介が改めて言う。
「はい」
真尋は答えた。
俊介はしばらく何も言わず、真尋を見ていた。
「何か言ってください」
「すみません」
俊介は眼鏡へ手を触れた。
「嬉しくて、言葉が出ませんでした」
「嬉しい時に、嬉しいと言う練習は?」
「今、します」
俊介は深く息を吸った。
「真尋。とても嬉しいです」
「私もです」
「本当に?」
「はい」
「後悔していませんか」
「答えた直後に聞かないでください」
「すみません」
「俊介。付き合ったからといって、今日話したことが消えるわけではありません」
「はい」
「不安になったら、話します」
「僕も」
「うまくできなかった時も」
「その時に、また話しましょう」
俊介はテーブルの上へ手を置いた。真尋の手に近い場所。触れるか迷っている。
真尋は自分から手を動かし、俊介の指へ触れた。俊介が驚いて真尋を見る。
「私からも握ると言いました」
葵へ送った言葉。
「はい」
俊介が手を重ねる。カフェの小さなテーブルの上で、二人は手をつないだ。
恋人になった。大きな音も、特別な演出もない。周囲の人は、誰も気づかない。
それでも、真尋の中では、何かが確かに変わった。
完成したのではない。始まった。
*
カフェを出た後、二人はもう一度図書館の外観を見た。俊介は建物を見上げ、真尋はその隣に立つ。
「今日、この場所でよかったです」
真尋が言う。
「どうして?」
「残しながら変える建物だから」
俊介は考え、頷いた。
「僕も、ここで話せてよかったです」
「俊介が作った場所で」
「僕一人ではありません」
「でも、俊介が大切にした考えがある」
「はい」
「私たちも、古い部分を全部消さなくていいですね」
「真尋の過去も?」
「はい。俊介の過去も」
「傷も」
「はい」
「そのまま使える?」
「使えない部分は、相談して変える」
俊介が声を立てて笑う。
「完全に建物の話ですね」
「俊介の影響です」
二人は手をつないで駅へ戻る道を歩いた。今朝と同じ道。けれど、二人の関係には名前がついた。
「恋人」
真尋は小さく言った。
「何ですか」
「言葉にしてみただけです」
「僕のこと?」
「ほかに誰がいますか」
俊介は嬉しそうに笑った。
「真尋の恋人です」
「自分で言うんですね」
「確認しています」
「どうですか」
「かなり嬉しいです」
「私も、まだ少し不思議です」
「嫌では?」
「嫌ではありません」
「また、その言葉」
「大切な言葉です」
俊介が手へ力を入れる。
「いつか、好きと言ってもらえますか」
真尋は足を緩めた。
付き合うと答えた。それでも「好き」という言葉は、まだ口にしていない。
「付き合いたいと思ったのは、好きだからでは?」
「そうだと思います」
「では」
「俊介。言葉を急がせないでください」
真尋は責めずに言った。俊介の表情が真剣になる。
「すみません」
「言いたいと思った時に言います」
「はい」
「俊介は?」
「好きです」
迷いのない答え。
「真尋が好きです」
真尋の胸が温かくなる。
「ありがとうございます」
「返事は待ちます」
「はい」
「でも、言いたくなったら早めに」
「急がないのでは?」
「希望です」
二人は顔を見合わせた。
*
駅へ着くと、俊介の自宅までは別の路線で二駅だという。
電車へ乗る。日曜日の昼過ぎ。車内には、買い物帰りの人や家族連れがいる。
二人は並んで座った。手はつないでいない。肩が触れる。
「真尋。部屋へ行くの、まだ不安ですか」
「少し」
「やめてもいいです」
「行きたいです」
「無理をしていませんか」
「していません」
真尋は自分の気持ちを確かめる。
俊介の部屋を見たい。どんな本を読み、どんな椅子へ座り、どんな台所で料理をするのか。その人の生活を知りたい。
「ただ、緊張しています」
「僕もです」
「自分の部屋なのに?」
「真尋に見られるので」
「片づけました?」
「かなり」
「普段は?」
「図面と本が、もう少し出ています」
「隠したんですね」
「見栄を張りました」
俊介は正直に言う。
「少しくらい、普段のままでもよかったのに」
「次は」
「次がある前提ですね」
「恋人ですから」
その言葉を聞くたび、まだ少し胸が揺れる。
真尋は窓の外を見る。流れる街。
恋人ができた。三十六歳。久しぶりの恋愛。
大きな変化のようで、電車も街も何も変わらない。真尋自身も、急に別人になったわけではない。
仕事がある。一人の部屋がある。葵がいる。母がいる。香織がいる。その中に、俊介との関係が増えた。
何かを失って一つへ置き換わるのではなく、人生の中へ新しい線が加わる。
*
俊介の住むマンションは、駅から十分ほど歩いた場所にあった。
大通りから一本入った静かな住宅街。五階建て。外壁は淡い茶色。築年数は少し経っているようだが、手入れされている。
「俊介が選んだ建物?」
「賃貸です」
「建築士でも賃貸なんですね」
「自分の家は、なかなか決められません」
「こだわりすぎて?」
「それもあります」
オートロックを開ける。エレベーターで四階へ上がる。俊介は落ち着かない様子だった。
「緊張しています?」
「はい」
「何か見られたくないものが?」
「ありません。ただ、真尋が部屋へ入ることが」
「嫌ですか」
「嬉しすぎて緊張します」
真尋は笑いをこらえられなかった。
「では、私も同じです」
部屋の前へ着く。俊介が鍵を開ける。扉を開き、少し横へ避ける。
「どうぞ」
「お邪魔します」
玄関へ入った瞬間、木とコーヒーが混ざったような匂いがした。真尋の部屋とは違う。俊介の暮らしの匂い。
玄関には靴が二足だけ。壁には、小さな建築写真が飾られている。
「きれいですね」
「かなり片づけました」
「普段は、ここに何が?」
「模型の箱が二つくらい」
「それも見たかったです」
「次は置いておきます」
*
靴を脱ぎ、リビングへ進む。
一LDK。真尋の部屋と同じくらいの広さ。だが印象は大きく違う。
壁一面の本棚。建築や写真、料理の本。窓際には大きな机があり、パソコンと図面を広げるための台がある。濃いグレーのソファ。低い木製のテーブル。観葉植物。
余計な物は少ない。それでも、真尋の部屋より生活感がある。机の端には、使いかけの鉛筆。読み途中の本。マグカップ。
「黒田さんの部屋ですね」
真尋が言うと、俊介が眉を上げた。
「今は、俊介では?」
「部屋を見て、仕事の人という感じがしたので」
「仕事の物が多いですから」
「本当に本が置ける壁ですね」
俊介が理想の暮らしとして話していたこと。朝、光が入る部屋。本が置ける壁。少し広い台所。
「覚えていたんですか」
「はい」
「朝は、この窓から光が入ります」
俊介がカーテンの開いた窓を示す。南向き。午後の光が、床へ斜めに入っている。
「台所も見ていいですか」
「もちろん」
リビングとつながったキッチンは、真尋の部屋より少し広い。調理台。二口のコンロ。鍋がいくつか吊られている。調味料はラベルを前へ向けて並んでいた。
「整っていますね」
「料理の時に探したくないので」
「冷蔵庫は?」
「見ます?」
「人の冷蔵庫を見るのは、少し失礼ですね」
「真尋なら」
俊介が開ける。野菜。牛乳。卵。作り置きの料理。大きな鍋。
「これが煮込み?」
「はい」
「何日分ですか」
「四日くらい」
「一人で?」
「冷凍もします」
「本当に煮込みばかりですね」
「今度、別の料理も作ります」
「私は好きです」
「まだ食べていません」
「匂いが」
台所には、すでに温かな香りが広がっている。赤ワインと肉、野菜。真尋は少し空腹を感じた。
*
「先に、写真を見せたいです」
俊介が言った。
「私の?」
「はい」
本棚の上へ、小さな額が置かれている。庭を見ている真尋の横顔。明るい木製の額。
その隣には、俊介の家族らしい写真。両親。兄夫婦。二人の子ども。
「本当に飾ったんですね」
「はい」
「家族の隣に?」
「場所が空いていたので」
「聞かれませんか」
「母が来れば」
「何と答えます?」
「恋人です、と」
真尋の胸が鳴る。まだ、恋人になったばかり。それでも俊介は、自然に言った。
「嫌ですか」
「少し恥ずかしいです」
「写真を移します?」
「いいえ」
真尋は自分の写真を見る。
俊介が見た自分。この部屋で、俊介が一人の時にも目に入る。不思議な感覚だった。
「私の部屋にも、俊介の写真を飾ります」
「本当ですか」
「まだ、どれにするか決めていません」
「全部でも」
「多すぎます」
「一枚でいいです」
「池の前で振り返った写真にします」
「僕も好きです」
「では、同じ写真を送ります」
「ありがとうございます」
「自分の写真なのに」
*
俊介は台所へ立ち、鍋を温め始めた。
「手伝います」
「今日は、座っていてください」
「一人だけ座るのは落ち着きません」
「では、サラダを盛ってください」
真尋は手を洗い、ボウルの野菜を皿へ分けた。
台所へ二人で立つ。肩が時々触れる。葵と料理した時とは違う緊張がある。
俊介が鍋を混ぜる。真尋が皿を並べる。
「こういう感じなんですね」
真尋が言う。
「何が?」
「俊介の暮らしの中にいる感じ」
「嫌では?」
「嫌ではありません」
「その言葉、安心します」
「いつか、嫌ではないではなく、好きと言います」
真尋は皿を並べながら言った。俊介の手が止まる。
「今のは」
「この台所が、です」
「わかっています」
「本当に?」
「少し期待しました」
俊介は肩を落として笑った。
「でも、待ちます」
「はい」
*
煮込みを皿へ盛る。牛肉。人参。玉ねぎ。茸。濃い茶色のソース。パンとサラダ。
二人はテーブルへ向かい合って座った。
「いただきます」
真尋は煮込みを一口食べた。肉が柔らかい。酸味は強すぎず、野菜の甘さがある。
「おいしい」
思わず言った。俊介が安心したように息を吐く。
「よかった」
「かなり」
「店の味に近いですか」
「違うけれど、こちらのほうが優しい味です」
「褒めすぎでは?」
「本当に」
「嬉しいです」
俊介も食べ始める。
「人に食べてもらうと、味が違いますね」
「緊張して?」
「一人だと、食べられればいいと思う時があります。今日は、真尋がどう感じるか考えながら作りました」
「私のために?」
「はい」
真尋はもう一口食べた。
誰かが自分のことを考えて作った料理。それを受け取ることへ、以前より抵抗がない。
お礼を返さなければ。同じことをしなければ。そう考えずに、嬉しいと感じられる。
「次は、私が作ります」
「義務ではなく?」
俊介が尋ねる。真尋は考えた。
「作りたいです」
「では、楽しみにしています」
「何がいいですか」
「真尋が普段作るもの」
「煮物かスープ」
「似ていますね」
「簡単なので」
二人の間に短い笑いが起きた。
*
食事を終え、俊介がコーヒーを淹れた。
真尋はソファへ座る。目の前のテーブルには、二人分のカップ。俊介が隣へ座る。向かいではなく、隣。距離を空けている。
恋人になった。手をつないだ。それでも、急に近くなりすぎない。その距離が真尋には安心だった。
「今日は、話せてよかったです」
俊介が言う。
「私も」
「真尋の希望を、聞けて」
「条件が多いと思いませんでした?」
「思いません」
「本当に?」
「僕にも同じような希望があります」
「でも、恋愛に条件をつけすぎると、うまくいかないと言う人もいます」
「条件ではなく、暮らし方の希望でしょう」
俊介はカップをテーブルへ置いた。
「建物でも、住む人の希望を聞きます。朝日が欲しい。台所を広くしたい。一人の部屋が欲しい」
「全部は叶わない」
「はい。予算や土地がありますから」
「私たちにも?」
「時間。仕事。体力。ほかの大切な人」
「全部を完璧にはできない」
「だから、優先順位を話す」
俊介は真尋を見る。
「僕たちも、そうすればいいと思います」
「話すたびに、変わるかもしれません」
「変わっていいです」
「最初に言ったことと違うと言われません?」
「変わった理由を話してもらえれば」
「俊介も、変わります?」
「もちろん」
真尋は安心した。
今決めた形を、ずっと守らなければならないわけではない。今の二人に合う形。それが変われば、また話す。
*
「真尋。付き合ったことを、葵さんへすぐ話しますか」
「話したいです」
「はい」
「でも、今は俊介との時間です」
真尋はスマートフォンをバッグへ入れたままにしている。
「帰ってから話します」
「ありがとうございます」
「俊介は?」
「母には、しばらくしてから」
「どうして?」
「今日すぐ話すと、明日には兄まで知ります」
「ご家族の連絡が早い?」
「かなり」
「会いたいと言われる?」
「母は言うと思います」
真尋は緊張する。
「まだ、会うのは早いです」
「わかっています」
「俊介の家族を嫌という意味ではなくて」
「説明しなくてもわかります」
「でも」
「真尋」
俊介が静かに名前を呼ぶ。
「はい」
「僕の家族への対応は、僕がします」
真尋は言葉を止めた。
すべてを自分で考え、先回りして不安になる。俊介の家族がどう思うか。会いたいと言われたらどうするか。期待されたら。
それは、今すぐ真尋が背負うことではない。
「はい」
「必要な時に相談します」
「わかりました」
「真尋のお母様には?」
「来週、秋田の土産を届けます」
「その時に話す?」
「たぶん」
「どんな反応でしょう」
「喜ぶと思います」
「会いたいと?」
「母も、すぐには言わないと思います」
「では、僕より家族へ話すのが上手ですね」
「どうでしょう」
*
コーヒーを飲み終えた後、俊介は本棚から一冊のアルバムを取り出した。
「見てもらいたいものがあります」
「何ですか」
中には、これまで俊介が関わった建物の写真が収められていた。住宅。小さな店舗。集合住宅。改修前と改修後。
「自分で作ったんですか」
「仕事の記録です」
ページをめくる。姉妹で住む平屋。離婚後、子どもと暮らす女性の家。友人同士が近くに建てた二軒の住まい。
以前、食事の時に聞いた暮らしが、写真として見える。
「この家」
真尋は二軒をつなぐ小さな庭の写真を見る。
「老後を近くで暮らす友人たち?」
「はい」
「互いの家に、自由に行き来するんですか」
「庭の門を開ければ。ただし、玄関は別です」
「いいですね」
「真尋も、こういう暮らしに興味がありますか」
「葵と?」
「誰かは決めずに」
真尋は考える。
「一人の家があり、近くに大切な人がいる。安心すると思います」
「恋人とは別に?」
「はい」
俊介は写真を見ながら頷く。
「僕も、恋人が人生のすべてである必要はないと思っています」
「本当に?」
「はい」
「寂しくありませんか」
「寂しい時はあると思います」
「それでも?」
「僕だけで真尋の人生を埋めたいとは思いません」
俊介は真尋を見る。
「僕の人生も、真尋だけではありません」
その言葉に、少しだけ胸が痛む。
俊介の仕事。家族。友人。一人の時間。自分がすべてではない。
わかっている。それでも、少し寂しい。
「今、寂しい顔をしました?」
「少し」
「すみません」
「謝らないでください」
真尋は自分の感情を言葉にする。
「私だけではないと聞くと、寂しいです。でも、私だけにすべてを預けられるのも怖い」
「僕も同じです」
「矛盾していますね」
「はい」
「大切でいてほしい。でも、すべてにはなりたくない」
「僕にとって、真尋は大切です」
「はい」
「それで、足りますか」
真尋は考える。
「今は、足ります」
「今は?」
「先で、もっと求めるかもしれません」
「その時に話してください」
「俊介も」
「はい」
二人はアルバムを見ながら話し続けた。
どんな家が好きか。どんな暮らしがしたいか。料理をする場所。本を読む場所。眠る場所。
一緒に暮らすことが決まったわけではない。それでも、相手の考えを聞くのは楽しかった。
未来を決定する話ではなく、互いを知るための話。
*
窓の外が少しずつ暗くなり始めた。時計を見る。午後五時前。
真尋は帰る時間を考えた。長居はしないと話していた。自分で決めると言った。
まだここにいたい。俊介と話したい。だが、初めて部屋へ来た日に、夜遅くまで過ごすのは少し不安だった。
「俊介。五時半に帰ります」
真尋は言った。俊介は時計を見た。
「わかりました」
「残念ですか」
「少し」
「私も、もう少しいたいです」
「では」
「でも、今日は五時半にします」
「はい」
俊介は迷わず受け入れた。引き止めない。不満そうな顔も隠さない。
「寂しいですが、次があります」
「次は、私の部屋へ」
真尋は言った。俊介が目を見開く。
「いいんですか」
「来週の日曜日は?」
「空いています」
「では、昼食を作ります」
「本当に?」
「ただし」
「帰る時間を自分で決める?」
「今度は俊介が」
「わかりました」
「夜までいたいと言われたら、相談します」
「はい」
「それから、私の部屋だからといって、何でも自由に触らないでください」
「建物を見すぎない?」
「間取りを評価しない」
「難しいですが、努力します」
「写真の壁だけ」
「見ます」
俊介は嬉しそうに笑った。
「次の約束ができました」
「はい」
「恋人らしいですね」
「恋人になる前も、約束していました」
「でも、少し違います」
「何が?」
「帰る場所を知っている」
俊介の言葉に、真尋は胸が温かくなる。
互いの部屋。それぞれの生活。どこに帰る人なのかを知る。
「今度は、私の暮らしを見てください」
「楽しみにしています」
*
帰る前、俊介は玄関まで真尋を送った。
真尋は靴を履く。俊介は離れたところで待っている。
部屋の中では自然に話していたが、別れ際になると、また緊張が生まれる。
「今日は、ありがとうございました」
俊介が言う。
「こちらこそ」
「恋人になってくれて」
「言い方が少し変です」
「では、僕を恋人にしてくれて」
「もっと変です」
二人は同時に吹き出した。
「真尋。抱きしめてもいいですか」
初めての質問。真尋の胸が強く鳴る。
手をつなぐより近い。俊介の腕。胸。体温。
迷いがある。怖さもある。けれど、今は離れたくない気持ちもあった。
「少しだけ」
真尋は答えた。
俊介がゆっくり近づく。急に腕を回さない。真尋が逃げないことを確かめるように、少しずつ距離を縮める。
真尋も一歩近づいた。俊介の腕が、背中へ回る。強くない。包むような力。
真尋は俊介のコートへ頬を近づけた。外の冷たい匂い。部屋のコーヒー。煮込み料理。俊介の体温。
数秒。短いはずなのに、時間がゆっくり流れる。
真尋も、俊介の背中へ手を置いた。自分から触れる。俊介の腕へ少し力が入る。
「真尋」
耳の近くで名前を呼ばれる。
「はい」
「好きです」
真尋はすぐには答えなかった。今はまだ、同じ言葉を返せない。
だが黙って離れるのではなく、俊介の背中へ触れたまま言う。
「言ってくれて、嬉しいです」
「はい」
「私も、俊介を大切にしたいです」
俊介が静かに息を吐く。
「十分です」
少しして、二人は離れた。俊介は約束通り、それ以上近づかなかった。
「駅まで送ります」
「一人で大丈夫です」
「恋人なので」
「理由になっていません」
「送らせてください」
真尋は考え、頷いた。
「お願いします」
*
駅までの道を、二人は再び手をつないで歩いた。
空は夕暮れから夜へ変わり始めている。住宅の窓に明かりがつく。夕食の匂い。自転車で帰る人。
図書館へ向かった朝と同じ道なのに、見え方が少し違う。
「真尋。今日、何が一番嬉しかったですか」
「一番を決めるんですか」
「決められなければ、いくつでも」
真尋は考えた。
「俊介の図書館を見られたこと。煮込みがおいしかったこと。写真が飾られていたこと。話を聞いてもらえたこと」
「はい」
「恋人になったこと」
最後は少し小さな声になった。俊介が手へ力を入れる。
「僕も、それが一番です」
「一番を決めていますね」
「今日は」
「私は、全部です」
「では、僕も全部」
二人は顔を見合わせた。
「俊介は?」
真尋が尋ねる。
「真尋が、僕の作った図書館を好きだと言ってくれたこと。僕の料理を食べてくれたこと。希望を全部話してくれたこと。僕と付き合いたいと言ってくれたこと。自分から手を握ってくれたこと。抱きしめ返してくれたこと」
真尋は恥ずかしくなる。
「全部言わなくても」
「全部嬉しかったので」
駅が見えてくる。別れる時間。
真尋は、以前よりはっきり寂しさを感じた。
このまま一緒にいたい。けれど帰りたい気持ちもある。自分の部屋で、今日のことを考えたい。葵へ話したい。一人で余韻を感じたい。
「俊介。帰るのは寂しいです」
「はい」
「でも、帰りたいです」
「わかっています」
「矛盾していません?」
「していていいです」
俊介の言葉に、真尋は笑った。
「来週、待っています」
「必ず行きます」
「写真の壁を見に」
「それだけではありません」
「何を?」
「真尋の暮らしを」
駅の入口で、二人は手を離した。
「おやすみなさい」
俊介が言う。
「まだ早いです」
「先に」
「おやすみなさい」
「着いたら連絡してください」
「はい」
「真尋。今日は、忘れない日になります」
「私も」
二人は別れた。
*
電車へ乗ると、真尋は窓際の席へ座った。外はすでに暗い。窓に自分の顔が映る。少し頬が赤い。
俊介の部屋。煮込み。図書館。手。抱きしめられた感覚。恋人。
すべてが今日一日の中にある。
スマートフォンを取り出す。葵へ電話をしようとして、手を止める。
葵は、今日一人の時間を過ごしている。箱の蓋を閉めるか考えると言っていた。今、電話していいだろうか。
まず短いメッセージを送る。
『今、帰りです』
すぐに既読がついた。
『終わった?』
『はい』
『電話していい?』
『私からかけようと思っていました』
電話がかかってくる。
「もしもし」
『どうだった?』
葵の声は明るいが、緊張している。
「葵は、今日どうでした?」
『先に真尋』
「葵から」
『じゃあ、箱の蓋を閉めた』
真尋は息を止めた。
「返す物の?」
『うん』
「一人で?」
『一人で』
「どうして今日?」
『真尋が俊介と話すから、私も何か進めたくなった』
「比べなくていいのに」
『比べたんじゃない。勇気を少し借りた』
「そうですか」
『箱、宅配で送ることにした』
真尋は驚いた。
「会わない?」
『今は』
「決めたんですね」
『うん。会ったら戻りたいって言うと思う』
「はい」
『話したいことはある。でも、今の私は、直哉が優しくしたら全部言えなくなる』
「はい」
『だから、荷物は送る』
「直哉さんには?」
『今から連絡する』
「一人で書けますか」
『書いた』
「読んでも?」
『うん』
葵は文章を読み上げた。
『残っていた荷物を整理しました。会って渡すことも考えたけれど、今は落ち着いて話せる自信がないので、宅配で送らせてください。明日発送します。二年間のことをなかったことにしたいわけではありません。いつか、お互いに話せると思った時が来たら、改めて話せたらと思っています』
真尋は黙って聞いた。
「葵の気持ちが、伝わると思います」
『会いたいって書いてない』
「今は会わないと決めたからでしょう」
『でも、いつか話したい』
「書いてあります」
『戻りたいとは?』
「書かなくていいと決めた?」
『うん』
「では、その文章でいいと思います」
『送る』
「はい」
少しの沈黙。
『送った』
「はい」
『怖い』
「はい」
『返事が来るまで、話してて』
「いいですよ」
*
『真尋は?』
「何が?」
『俊介と』
真尋の頬が緩む。
「付き合うことになりました」
電話の向こうで、葵が息を吸う。
『本当に?』
「はい」
『言えた?』
「言いたいことを全部」
『付き合いたいって?』
「はい」
『俊介は?』
「恋人になってください、と」
『真尋は、はいって』
「はい」
葵が電話の向こうで泣き始める。
「葵?」
『うれしい』
「泣くほど?」
『真尋が、逃げなかった』
その言葉に、真尋の胸が熱くなる。
「葵のおかげです」
『真尋が決めた』
「背中を押してくれました」
『手は?』
「つなぎました」
『抱きしめた?』
真尋は一瞬黙る。
『その沈黙は』
「少しだけ」
『俊介から?』
「聞いてくれました」
『真尋も?』
「背中へ手を置きました」
『すごい』
「細かく聞かないでください」
『キスは?』
「していません」
『残念』
「急がないんです」
『うん』
「俊介の部屋も、落ち着きました」
『写真あった?』
「私の写真が飾られていました」
『家族の隣?』
「どうしてわかるんですか」
『本当に?』
「はい」
『俊介、本気ですね』
「本気だと思います」
『真尋は?』
葵の質問に、真尋は考えた。
「私も、大切にしたいです」
『好き?』
「まだ、本人には言っていません」
『どうして?』
「言いたいと思った時に言います」
『付き合ったのに?』
「付き合ったから、すべて同時に言わなくてもいいでしょう」
『そっか』
「俊介は待つと言ってくれました」
『いい人』
「はい」
『真尋。幸せ?』
真尋は窓へ映る自分を見る。笑っている。
「幸せです」
迷わず答えた。
『よかった』
「葵は?」
『怖い。でも、箱を閉められた』
「はい」
『少し寂しい。少し安心した』
「どちらもありますね」
『うん』
*
スマートフォンが震える音が、電話の向こうから聞こえた。
『直哉から』
「読みます?」
『うん』
少しの沈黙。
『わかった。荷物は宅配で大丈夫。落ち着いて話せる時が来たら、その時は俺も話したいと思う。二年間のことをなかったことには思ってない。ありがとう』
葵は読み終え、黙った。
「葵」
『会いたいって書いてない』
「はい」
『でも、話したいって』
「はい」
『少し嬉しい』
「はい」
『期待してもいい?』
「何を?」
『また戻れること』
真尋はすぐには答えない。
「期待する気持ちがあってもいいと思います」
『でも?』
「今、答えを決めなくていいです。荷物を送ると決めた葵の気持ちも、大切にしてください」
『うん』
「直哉さんの返事だけで、今日決めたことを間違いにしないで」
『わかった』
「明日、送れますか」
『送る』
「はい」
『真尋。同じ日に、真尋は始まって、私は一つ終わらせた』
「終わりですか」
『荷物を置いておく時間は』
「はい」
『でも、直哉との全部が終わったわけじゃない。また話す日があるかもしれない』
「はい」
『その時に、私の言いたいことを言う。真尋みたいに』
「葵の言葉で」
『うん』
二人はしばらく、互いの一日を話した。
図書館。煮込み料理。俊介の部屋。葵が箱を閉じた時に泣いたこと。昼に食べた卵焼き。企画の本を読んだこと。
別々の場所で過ごした日。それぞれが自分の選択をした日。
*
真尋が自宅へ着いたのは、午後七時を過ぎた頃だった。
玄関の扉を開ける。
「ただいま」
部屋へ言う。スマートフォンがすぐに震えた。俊介から。
『着きましたか』
『今、帰りました』
『お帰りなさい』
『ただいま』
靴を脱ぎ、リビングへ入る。壁の写真。葵との影。俊介が撮った真尋。
今日は、その俊介が恋人になった。
真尋はコートを脱ぐ前に、俊介の写真を選んだ。不忍池で振り返る俊介。小さな額へ入れる。二人の影の反対側へ置く。
三枚。葵との時間。俊介が見た真尋。真尋が見た俊介。互いの視線が壁に並ぶ。
真尋は写真を撮り、俊介へ送った。
『飾りました』
すぐに電話がかかってくる。
「もしもし」
『本当に?』
「はい」
『どこですか』
「葵との写真の隣です」
『嬉しいです』
「俊介の部屋と同じですね」
『同じ写真が、それぞれの部屋にある』
「はい」
『真尋。恋人になった実感が、少しずつ湧いてきました』
「私は、まだ不思議です」
『嫌では?』
「嫌ではありません」
『よかった』
「俊介。今日は、ありがとうございました」
『僕のほうこそ』
「図書館も、料理も、話も」
『来週は、真尋の部屋ですね』
「はい」
『楽しみです』
「評価しないでください」
『努力します』
「台所も」
『見ます』
「見るだけです」
『はい』
電話の向こうで、俊介が笑う。
*
「俊介。母に話そうと思います」
『今日?』
「明日か、来週会った時に」
『無理に早く話さなくていいですよ』
「話したいんです」
『はい』
「葵には、もう話しました」
『反応は?』
「泣きました」
『嫌だった?』
「嬉しくて」
『葵さんらしいですね』
「俊介にも会いたいと言うと思います」
『僕もです』
「すぐではありません」
『わかっています』
「俊介。恋人になったからといって、何度も確認しなくてもいいですよ」
『何を?』
「私が嫌ではないか」
電話の向こうが静かになる。
『不安で』
「私も不安です」
『はい』
「でも、嫌な時は言います」
『信じていいですか』
「はい」
『わかりました』
「私も、俊介の言葉を信じます」
『はい』
互いに信じる。簡単ではない。それでも、何度も確認して相手を疲れさせる前に、話した言葉を受け取る。
「おやすみなさい」
俊介が言う。
「まだ、少し早いです」
『先に』
「おやすみなさい」
『真尋』
「何ですか」
『好きです』
真尋は一瞬、言葉を探した。同じ言葉は、まだ言えない。だが、以前より近い言葉なら出せる。
「俊介にそう言ってもらえることが、嬉しいです」
『はい』
「来週、待っています」
『必ず行きます』
電話を切る。
*
翌朝、葵は宅配業者の営業所へ箱を持っていった。
両手で抱えるほどの大きさ。それほど重くはない。それでも、玄関から外へ出すまでに何度も立ち止まった。
箱の中には、直哉が葵の部屋で使っていた物が入っている。部屋着。傘。本。充電コード。一つずつに記憶がある。
葵は箱へ送り状を貼った。宛先。直哉の名前。何度も書いた住所。間違えるはずがない。
「こちらでよろしいですか」
受付の女性が尋ねる。
葵は一度、箱へ手を置いた。
今なら、まだ持ち帰れる。直哉へ会って渡すこともできる。箱を部屋へ戻し、もう少しだけ置いておくことも。
「はい」
葵は答えた。
箱が受付の奥へ運ばれていく。見えなくなる。胸の中が急に空いた。涙が浮かぶ。
葵は営業所の外へ出た。朝の街。会社へ向かう人々。自転車。車。
誰も、葵が恋人の荷物を手放したことを知らない。
葵はスマートフォンを取り出した。
『送りました』
真尋へ送る。すぐに返事は来ない。朝の会議かもしれない。
美月へも送る。
『箱を発送した』
『よく送ったね。今、大丈夫?』
『泣いてる』
『駅まで行けそう?』
『少ししたら』
『無理なら会社休んでもいいよ』
葵は画面を見た。休みたい気持ちもある。だが、今日は企画の言葉を確認する日だ。会社へ行きたい。
『行く』
『じゃあ駅で待つ』
『美月の駅と違うでしょう』
『途中で合流できる』
美月が、葵の路線へ一駅遠回りしてくれるという。
『迷惑じゃない?』
『今日はできる』
できることと、できないことを言う。今日はできる。その言葉が嬉しい。
『ありがとう』
葵は返信した。
真尋からも、少しして返事が届く。
『よく送りましたね』
『泣いた。箱が見えなくなった』
『はい』
『部屋が本当に私だけのものになる』
『葵の物と、葵が残すと決めた思い出があります』
『青いカップも。写真も』
『はい』
『全部なくなってない』
『はい』
『会社行く』
『無理になったら帰ってください』
『美月が途中で待ってる』
『頼れましたね』
『うん』
葵は涙を拭き、駅へ向かって歩き始めた。
*
真尋は会社の窓から、朝の街を見ていた。
葵が荷物を送った。俊介と付き合い始めた。二つの出来事が、同じ時間の中にある。
終わるもの。始まるもの。だが、実際にはきれいに分かれていない。
葵と直哉には、いつか話す可能性が残っている。真尋と俊介も、恋人になっただけで、完成したわけではない。
関係は、始まりと終わりの間に無数の時間を持つ。
「課長」
佐伯が資料を持ってきた。
「新規案件の進行表、できました」
「見せてください」
真尋は仕事へ戻った。
資料を見る。佐伯が自分で決めた担当。相談したい部分。真尋が口を出したい部分もある。
だが、すぐに修正せず、まず理由を聞く。
「この日程にした理由は?」
「取引先の確認期間を長めに取りました」
「社内の作業が短くなりますね」
「はい。でも、こちらで調整できる部分を短くしたほうが、相手に無理を言わずに済むと思いました」
「担当者の負担は?」
「私と吉田さんで分けます」
「吉田さんには確認しましたか」
「これからです」
「先に確認してください」
「はい」
佐伯がメモを取る。
「課長。昨日、良いことありました?」
真尋は驚く。
「どうして?」
「顔が柔らかいです」
「皆さん、よく見ていますね」
「最近、課長が自分のことを話すようになったから」
真尋は考えた。
会社で恋人ができたと話す必要はない。だが、隠したいとも思わなかった。
「大切な人と、付き合うことになりました」
佐伯の目が大きくなる。
「前に会っていた人?」
「はい」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
口にすると、照れくさい。それでも嬉しい。
「課長、恋人ができると変わりますね」
「昨日からです」
「でも、前から少し変わってました」
「そうですか」
「その人のおかげ?」
真尋は考える。
俊介だけではない。葵。香織。母。仕事の人々。自分自身。
「一人のおかげではありません」
真尋は答えた。
「いろいろな人と話したからだと思います」
「いいですね」
「佐伯さんも、困った時は話してください」
「恋愛のことも?」
「内容によります」
「やっぱり線を引く」
「仕事中です」
二人の間に短い笑いが起きた。
*
昼休み、真尋は母へ電話をかけた。
実家へ土産を届けるのは来週だ。だが、その前に話したいと思った。
『もしもし』
「お母さん、今大丈夫?」
『大丈夫よ。どうしたの』
「この前話した、建築士の人」
『黒田さん?』
「名前、覚えてるんだ」
『真尋が男性の名前を出すこと、少ないから』
「昨日、付き合うことになった」
電話の向こうが静かになる。
「お母さん?」
『いる』
「何か言って」
『ごめん。嬉しくて』
母の声が震えている。
「泣いてる?」
『少し』
「葵と同じ」
『葵ちゃんにも話したの?』
「最初に」
『そう』
母が笑う気配がした。
『よかったね』
「うん」
『どんな人?』
「穏やかで、話を聞いてくれる。建物の話になると、少し夢中になる」
『真尋は、その人の前で笑える?』
母の質問は、予想と違った。
「笑えるよ」
『なら、よかった』
「結婚は、とか言わないの?」
『言わない』
「どうして?」
『今、付き合い始めたんでしょう。まず、楽しく会えばいい』
「お母さん、本当に変わったね」
『あなたに言われたくない』
『会わせてくれる?』
「いつか」
『急がないわよ』
「俊介も、会いたいと言ってる」
『俊介』
「名前」
『もう名前で呼んでるのね』
「二人の時だけ」
『真尋。大事にしなさい』
「俊介を?」
『自分も、その人も』
母の言葉に、真尋は黙った。
「うん」
『どちらかだけを我慢させたら、長く続かないでしょう』
「経験者みたい」
『夫婦だったから』
父とのこと。母にも、話していない時間や後悔があるのかもしれない。
「今度、聞いてもいい?」
『何を?』
「お父さんと、どんな夫婦だったか」
母は驚いたように黙った。
『いいわよ』
「来週、土産を持っていく時に」
『待ってる』
電話を切る。
真尋は、自分が母の人生へ興味を持ったことに気づいた。
母という役割だけではない。一人の女性。妻だった人。一人になった後、自分の生活を取り戻した人。
俊介との関係を始めたことで、過去の家族の形も知りたくなった。
*
夕方、葵からメッセージが届いた。
『直哉が荷物を受け取ったって』
『返事は?』
『送ってくれてありがとう。大切に使ってたものもあったから、少し寂しい。でも、葵が整理できたならよかったって』
真尋は文章を読む。
『葵は、どう感じました?』
『泣いた。直哉も寂しいんだって思った』
『はい』
『戻れるかもしれないって、また思った』
『はい』
『でも、今日は連絡しない』
『自分で決めましたか』
『うん。今話したら、寂しい同士で戻るだけになる気がする』
葵は、自分でそこまで考えられるようになっている。
『大切なことに気づきましたね』
『真尋と俊介は、寂しいから付き合ったんじゃない?』
真尋は考える。
『寂しさがなかったとは言いません。でも、俊介と会いたいと思ったからです』
『私も、直哉に会いたい』
『はい』
『でも、今すぐ戻ることと同じじゃない』
『はい』
『わかった』
『何が?』
『会いたい気持ちを持ったまま、会わないこともできる』
葵の言葉を読み、真尋は静かに息を吐いた。
気持ちと行動は、必ずしも同じではない。
好きでも別れる。寂しくても一人で過ごす。怖くても始める。会いたくても、今は待つ。
『葵が選べます』
『うん』
『真尋。恋人になった朝は、どう?』
真尋は思わず笑った。
『会社へ行き、会議をして、昼食を食べました』
『普通』
『普通の中に、嬉しいことがあります』
『俊介から連絡は?』
『来ています』
『何て?』
『次に私の部屋へ行くのを楽しみにしていると』
『真尋の部屋』
『はい』
『緊張する?』
『かなり』
『何を片づける?』
『普段のままにします』
『本当に?』
『少しは片づけます』
『俊介に料理作る?』
『はい』
『卵焼き?』
『別のものです』
『私にも作って』
『今度』
葵から笑う絵文字が届く。
*
その夜、真尋は自宅のリビングへ座り、次の日曜日のことを考えていた。
俊介が来る。どこまで片づけるか。何を作るか。写真の壁。寝室の扉は閉めるか。
すべてを見せる必要はない。自分が見てほしい場所だけでいい。
台所。リビング。旅行の写真。本棚。マンションを買った時に選んだ家具。
自分の暮らし。
俊介の部屋で感じたように、自分の部屋にも真尋の時間が積み重なっている。
慎一と別れた後、一人で選んだ場所。課長になった年に買った椅子。初めての一人旅で撮った写真。父が亡くなった後、母から譲り受けた小さな時計。葵が使った歯ブラシ。恋人になった俊介の写真。
過去と現在が同じ部屋にある。
俊介に見せたい。同時に、すべてを理解されたくはないという気持ちもある。
人の暮らしは、一度見ただけで全部わかるものではない。わからない部分があっていい。
真尋は、料理の献立を考えた。
鶏肉と根菜のスープ。白身魚の香草焼き。小さなサラダ。
俊介の煮込みとは違うもの。自分が普段作る料理。見栄を張りすぎない。だが、喜んでほしい。それも自分の希望だ。
*
スマートフォンが震える。俊介からだった。
『仕事が終わりました。今日は部下と図面の修正をしています』
『お疲れさまです』
『真尋は?』
『帰宅して、次の日曜日の料理を考えています』
すぐに電話がかかってくる。
「もしもし」
『料理、本当に作ってくれるんですか』
「そのつもりです」
『手伝います』
「お客さんなのに?」
『恋人です』
その言葉に、また少し胸が揺れる。
「では、少し」
『何を作りますか』
「秘密です」
『苦手なものはありません』
「知っています」
『覚えていた?』
「俊介が、人の話を覚えるのは仕事の習慣だと言ったでしょう」
『真尋に関しては仕事ではありません』
「以前も聞きました」
『覚えていますね』
二人は同時に吹き出した。
『真尋。昨日のこと、後悔していませんか』
また確認。真尋は考える。
「していません」
『はい』
「でも、何度も聞かれると、俊介が私の言葉を信じていないように感じます」
電話の向こうが静かになる。
『すみません』
「謝ってほしいのではありません」
『はい』
「不安なんですね」
『はい』
「以前、一度断られたから?」
『それもあります』
「私も不安です」
『はい』
「俊介が、付き合ってみたら思っていた人と違ったと感じるかもしれない」
『僕は』
「最後まで聞いてください」
『はい』
「それでも、今は付き合いたいと二人で決めました。私が後悔したら、その時に話します。俊介も」
『はい』
「今の言葉を、少し信じてください」
『わかりました』
「不安になったことを言うのは、いいです。後悔していないかと聞くのではなく、不安だと話してください」
俊介はしばらく黙った。
『今、不安です』
「はい」
『真尋が、僕と付き合うと決めた後に、やはり一人のほうがよかったと思うのではないかと』
「そう思う日が来るかもしれません」
『はい』
「一人でいたい日があることと、俊介と付き合ったことを後悔するのは別です。俊介にも、一人のほうが楽だと思う日があるでしょう」
『あります』
「その日があっても、関係を終えるとは限りません。今は、それでいいですか」
『はい』
俊介の声が落ち着く。
『話してくれて、ありがとうございます』
「私も、言えてよかったです」
『真尋。次から、不安だと言います』
「はい」
『後悔していないかは、毎回聞きません』
「毎回は?」
『大きなことがあった時だけ』
「その時も、まず自分の気持ちを話してください」
『わかりました』
恋人になった翌日から、話し合うことがある。それを面倒とは感じなかった。
むしろ、始まったばかりだからこそ、話せてよかったと思う。
「俊介。私も、急に距離を置きたくなった時は、黙らず話します」
『お願いします』
「はい」
『日曜日、楽しみにしています』
「私も」
『その言葉を信じます』
「はい」
電話を切った後、真尋は少し疲れを感じた。
嬉しいだけではない。関係を作るには、言葉が必要だ。相手の不安を聞く。自分の不安を伝える。
時には面倒に感じる日も来るだろう。それでも、黙って離れるよりいい。
*
葵は同じ夜、自宅の棚へ青い線のカップを戻した。
直哉の荷物を送ったため、クローゼットの前にあった箱がなくなった。床が広く見える。
空いた場所。最初は寂しい。だが、何かをすぐ置こうとは思わなかった。
空いたままでいい。いつか必要なものができたら置く。
葵は箱があった場所を見つめた。
「お疲れさま」
自分へ言う。
真尋が俊介と付き合い始めた。直哉の荷物を返した。同じ時期に、二人は違う方向へ進んでいるように見える。
だが、どちらも自分の気持ちを選ぶことだった。
葵はノートを開いた。
『私が大切にしたいこと』
以前書いた言葉を読む。
忙しい時は、忙しいと言ってほしい。会えない時も、関係を続けたい気持ちを伝えてほしい。結論がなくても、将来について話したい。自分の時間を持ちたい。友達や仕事を大切にしたい。恋人だけを一番にしなくてもいい。離れていく時は、黙らず話してほしい。
葵は最後へ一つ加えた。
『寂しいから戻るのではなく、一緒に関係を作りたいと思った時に戻る』
書き終え、ペンを置く。
その日が来るかはわからない。直哉と戻る日。別の人と始める日。一人の生活を続ける日。
どの道でも、この言葉は自分を支える。
*
夜が深くなる。
真尋は、自分の部屋で俊介との次の約束を考える。葵は、広くなった床の前で新しい朝を考える。
二人とも、一人でいる。それでも、完全な孤独ではない。離れた場所へ、それぞれの言葉が残っている。
真尋の壁には、葵との影と俊介の写真。俊介の本棚には、真尋の横顔。葵の棚には、秋田の写真と青いカップ。
物は、過去と現在を静かにつないでいる。
手放した物がある。残した物がある。新しく増えた物がある。
どれも、誰かに決められたものではない。自分で選んだものだった。
真尋は寝室へ入り、照明を消す前に、スマートフォンを確認した。俊介から短いメッセージ。
『おやすみなさい。今日、不安を話せてよかったです』
真尋は返信する。
『私もです。おやすみなさい』
考え、もう一文を加えた。
『恋人になったことを、後悔していません』
送信する。すぐに既読がつく。
『ありがとうございます。今夜は、その言葉を信じて眠ります』
真尋は画面を伏せた。
不安が一度で消えるわけではない。それでも、言葉を重ねるたびに、二人の間へ小さな道ができる。
葵からもメッセージが届いた。
『箱がなくなった場所、まだ空けておく』
『はい』
『何か置かなくていいよね』
『余白のままでいいと思います』
『俊介みたい』
『私も影響を受けました』
『真尋の部屋にも余白ある?』
真尋は壁の空いている場所を見た。
『あります』
『何を飾る?』
『これから決めます』
『私も』
『はい』
『おやすみ』
『おやすみなさい』
*
真尋は照明を消した。
恋人になった翌日の夜。生活は、大きく変わっていない。
明日も会社へ行く。仕事をする。一人で朝食を食べる。俊介とは別の場所で一日を過ごす。葵も、自分の部屋で朝を迎える。
関係に名前がついても、自分の暮らしは続いていく。そのことに、真尋は安心した。
始めることは、自分を手放すことではない。誰かとつながることは、一人で立てなくなることではない。
それぞれの足で立ちながら、会いたい時に同じ道を歩く。離れる時には、次に会う約束を持つ。不安になったら、黙らず言葉を渡す。
それが、今の二人が選んだ関係の形だった。
名前がついた後も、形は作り続けていく。
真尋は静かに目を閉じた。
今日始まったものを、完成させようとは思わなかった。
明日も、その次の日も。一つずつ話し、一つずつ選びながら、俊介を知っていけばいい。自分のことも、知ってもらえばいい。
窓の外で、風が小さく鳴った。
部屋の壁には、これまでの時間と、これからの余白が並んでいた。




