第十四章 誰かを迎える部屋
日曜日の朝、真尋は七時に目を覚ました。いつもと同じ時間だった。
けれど、目を開けた瞬間に浮かんだのは仕事の予定ではなく、俊介がこの部屋へ来るということだった。
枕元の時計を見てから、天井へ目を戻す。
待ち合わせは午前十一時。俊介は最寄り駅まで来る。二人で近くの店へ買い物に行き、それから真尋の部屋で昼食を作る予定になっていた。
俊介が設計した図書館を見て、自宅へ招かれた日から一週間。恋人になってからも一週間が過ぎた。
その間、二人の生活が急に重なったわけではない。
月曜日から金曜日までは、それぞれ仕事をした。朝に短い連絡を送り、昼は返せる時だけ返信した。夜には電話をする日もあれば、疲れているから今日は休むと伝える日もあった。
火曜日、俊介は現場で問題が起き、帰宅が午後十一時を過ぎた。真尋は何度かスマートフォンを確認したが、返信を催促しなかった。
俊介からは、午後七時に一度だけメッセージが届いた。
『現場の対応が長引いています。今日は電話できないと思います。真尋のことを忘れているわけではありません』
最後の一文を読んだ時、真尋は笑った。
以前の俊介なら、忙しいという事実だけを知らせただろう。真尋が不安にならないよう、自分の気持ちも書いている。
真尋も、
『わかりました。仕事に集中してください。私は本を読んで寝ます』
と返信した。
寂しくないわけではなかった。声を聞きたいと思った。だが、寂しいことと、不満を持つことは同じではない。
水曜日には、真尋のほうが人事との打ち合わせで遅くなった。俊介から電話をしていいかと届いた時、真尋は、
『今日は一人で静かに過ごしたいです』
と伝えた。
送信するまで、少し勇気が必要だった。
恋人になって一週間も経っていないのに、電話を断る。俊介は嫌われたと思うかもしれない。付き合った途端、距離を置かれたと感じるかもしれない。
だが俊介から返ってきたのは、
『わかりました。ゆっくり休んでください。明日、話せたら嬉しいです』
という言葉だった。
その翌日、真尋から電話をした。
「昨日、寂しかったですか」
そう尋ねると、俊介は笑った。
『少し。でも、真尋が一人でいたいと言えたことは嬉しかったです』
「嬉しい?」
『無理をして僕に合わせていないとわかったので』
俊介も寂しさを隠さず、それでも真尋の選択を否定しなかった。
*
そのやり取りを思い出し、真尋は布団から起き上がった。
今日は、自分の暮らしを俊介へ見せる日だ。見せたい。同時に、少し怖い。
部屋へ誰かを入れること自体は、もう葵で経験した。葵は数日間ここで眠り、食事をし、泣き、笑った。洗面所には葵が使った歯ブラシが残っている。寝室のクローゼットには、葵が置いていった部屋着が畳まれている。
だが、俊介を迎えることは同じではない。
恋人。その名前があるだけで、部屋へ入れる意味が変わるように感じる。
どこまで見せるのか。どこまで近づくのか。俊介が泊まりたいと言ったら。寝室へ入りたいと言ったら。抱きしめられたら。口づけを求められたら。
考え始めると、胸が落ち着かなくなる。
真尋は自分へ言い聞かせた。
先のすべてを今決める必要はない。その時の気持ちを言えばいい。俊介は聞くと約束した。自分も、嫌なことや不安なことを言うと約束した。
真尋はカーテンを開けた。晴れている。冬の朝の光が部屋へ入る。
壁に並ぶ写真が照らされる。葵と二人の影。俊介が撮った真尋。真尋が撮った俊介。
三枚の写真は、以前からそこにあったように馴染み始めている。
今日は俊介が、この壁を見る。写真だけではなく、その周囲にある暮らしも見る。
*
真尋は朝食を簡単に済ませた後、部屋を片づけ始めた。
普段から大きく散らかることはない。それでも誰かを迎えると思うと、細かな部分が気になる。
テーブルの上の郵便物。ソファへ置いた読みかけの本。洗面所の化粧品。冷蔵庫に貼ったごみ収集日の紙。
生活していれば当たり前にあるものが、急に恥ずかしく見える。
俊介の部屋は、かなり片づけたと言っていた。それでも机の上には、読み途中の本や鉛筆が残っていた。真尋は、その生活感が嬉しかった。
自分の部屋も、誰も住んでいない展示室のようにする必要はない。
真尋は読みかけの本を本棚へ戻さず、ソファの横へ置いた。郵便物だけは内容が見えないよう引き出しへ入れる。洗面所の化粧品は普段通りに並べる。
葵の歯ブラシへ目が止まった。
俊介が見れば、誰の物か尋ねるだろう。隠す必要はない。葵が泊まることがあるため、残している。そう説明すればいい。
それでも、恋人の部屋に別の人の歯ブラシがあることを、俊介はどう感じるだろう。
葵は女性であり、友人だ。だが問題は性別ではなく、真尋の生活の中に、俊介の知らない習慣が存在していることかもしれない。
真尋は歯ブラシを見えない場所へ移そうと手を伸ばし、止めた。
隠せば、自分の生活の一部をなかったことにする。葵の存在を、俊介のために片づけることになる。
それは違う。ただし、俊介が不快に思う可能性を無視することも違う。
見つけた時に話す。真尋はそのままにした。
*
寝室へ入る。ベッドを整える。シーツに皺がないか確認する。
そこまでしてから、自分が何を意識しているのか気づき、顔が熱くなった。
俊介を寝室へ入れると決めたわけではない。寝室の扉を閉めてもいい。
だが、俊介の部屋ではすべての扉が開いていた。真尋が望めば、寝室も見られる状態だった。俊介は何も隠さずに迎えた。
だから自分も同じようにしなければならない。そう考えかけ、真尋は首を振る。
同じにする必要はない。互いに心地よい範囲が違っていい。
真尋は寝室の扉を半分だけ閉めた。
完全に拒むわけではない。自由に入っていい場所でもない。尋ねてほしいという、自分なりの境界だった。
次にキッチンへ向かう。
今日作るのは、鶏肉と根菜のスープ。白身魚の香草焼き。サラダ。パン。
食材は俊介と買う予定だが、調味料や器は確認しておく。ローズマリー。オリーブオイル。塩。胡椒。スープ用の鍋。二人分の皿。
以前は一人分しか使わなかった大きな器を取り出す。
葵と食事をするようになってから、二人分を並べることに慣れてきた。俊介と食べる時は、また違う気持ちになるだろう。
真尋は時計を見る。午前九時半。まだ時間がある。落ち着かない。
掃除機はかけた。洗面所も整えた。料理の準備も確認した。
ほかにすることを探していると、スマートフォンが震えた。葵からだった。
『起きてる?』
『起きています』
『もう掃除した?』
『なぜわかるんですか』
『真尋だから』
続けて、笑う絵文字が届く。
『かなり片づけました』
『普段もきれいなのに』
『細かいところが気になります』
『俊介は、真尋の部屋を採点しないよ』
『本人も努力すると言っています』
『採点しそうなんだ』
『建築士なので』
『寝室は?』
真尋は画面を見つめる。
『半分扉を閉めました』
『半分?』
『入っていいか聞いてほしいので』
『言った?』
『まだです』
『俊介にわかるかな』
葵の指摘に、真尋は考えた。
半分閉めた扉を見て、俊介が真尋の意図を正確に理解するとは限らない。閉め忘れだと思うかもしれない。開いているから入っていいと考えるかもしれない。
伝えなければ、境界は相手にわからない。
『来た時に話します』
『それがいい』
『葵は今日は?』
『午前中に本を読む。午後は母と電話する』
『お母様に、別れたことを?』
『うん』
葵はこれまで、両親へ直哉との別れを話していなかった。
心配させたくない。戻る可能性があるなら、わざわざ言わなくてもいい。そう話していた。
『決めたんですね』
『昨日、母から直哉くん元気って聞かれた』
『何と答えました?』
『また今度話すって』
『今日は話す?』
『うん。隠すの疲れたから』
『はい』
『真尋も、俊介に言いたいことを言ってね』
『言います』
『抱きしめてもらう?』
『葵』
『聞いただけ』
『その時に決めます』
『キスは?』
『電話を切りますよ』
『メッセージです』
真尋は思わず笑った。
『俊介との時間を楽しみます』
『うん』
『葵も、お母様と話したいことを話してください』
『怖いけど』
『はい』
『でも、話す』
真尋は紅葉の絵文字を一つ送った。葵からも同じものが返ってくる。
*
午前十時五十分。真尋は最寄り駅の改札前に立っていた。
俊介はまだ来ていない。真尋のほうが五分早い。
人を待つ。それだけで、少し嬉しい。これまでは、俊介が先に待っていることが多かった。今日は自分が先にいる。
改札の向こうから、俊介が見えた。ベージュのコート。濃い色のニット。片手に小さな紙袋を持っている。真尋に気づくと、足を少し速めた。
「真尋」
「おはようございます」
「おはようございます。待たせましたか」
「五分だけ」
「珍しいですね」
「私も待ちたかったので」
俊介は嬉しそうに笑った。
「今日の服、似合っています」
「毎回言いますね」
「毎回思うので」
「俊介も」
「ありがとうございます」
俊介が紙袋を持ち上げる。
「これ、手土産です」
「何ですか」
「焼き菓子」
「用意しなくてよかったのに」
「初めて伺うので」
「恋人の部屋でも?」
「だからこそ」
俊介は緊張しているように見えた。
「まず、買い物へ行きましょう」
「はい」
*
二人は駅近くのスーパーへ向かった。
日曜日の午前。店内には家族連れや、高齢の夫婦が多い。
真尋は買い物かごを持った。俊介が隣へ並ぶ。
「何を買いますか」
「白身魚と、スープの材料」
「魚は、何がいいですか」
「鱈か、鯛」
「鯛は少し豪華ですね」
「初めて来るので」
「手土産を止めた人が言います?」
真尋は吹き出した。
魚売り場で、二人は鱈を選んだ。鯛よりも、普段の食事に近い。
人参。蓮根。ごぼう。玉ねぎ。鶏肉。サラダ用の葉物。
俊介がパンを選ぶ。
「これは?」
硬めの丸いパンを持ち上げる。
「スープに合いそうです」
「では、それで」
「飲み物は?」
「お茶があります」
「ワインは?」
俊介が尋ねた。真尋は考えた。
昼食。自宅。恋人。酒が入れば、気持ちが緩むかもしれない。それを望んでいるか。
「今日は飲まなくていいです」
真尋は答えた。
「わかりました」
俊介は理由を聞かなかった。真尋は、自分から少し説明する。
「初めて俊介を部屋へ入れるので、今日は自分の気持ちをはっきり感じていたいんです」
「はい」
「お酒のせいで距離が近くなったと思いたくない」
俊介は真尋を見る。
「話してくれてありがとうございます」
「嫌では?」
「まったく」
「俊介は飲みたかった?」
「少し。でも、真尋の希望を聞いたら、今日は飲まないほうがいいと思いました」
「合わせたのでは?」
「僕も納得しました」
互いの希望が違った。話し、今日は飲まないと決めた。小さなこと。それでも真尋には大切だった。
*
スーパーを出ると、俊介が買い物袋を持った。
「半分持ちます」
「大丈夫です」
「私の家の食材です」
「二人で食べる食材です」
「では、分けます」
一つの袋から、パンと野菜を真尋の袋へ移す。
全部持ってもらわない。全部自分で持とうともしない。二人で分ける。
マンションへ向かう道。俊介が周囲の建物を見ている。
「評価しています?」
「見ています」
「同じです」
「真尋がどんな場所を選んだのか知りたくて」
「駅に近いこと。夜も人通りがあること。管理がしっかりしていること」
「建物のデザインは?」
「優先順位は低かったです」
「建築士としては、少し寂しいです」
「住む人には、暮らしやすさが大切です」
「正しいです」
俊介は笑った。
マンションへ着く。真尋がオートロックを開ける。エレベーターに乗る。自分の階のボタンを押す。
胸が緊張する。俊介も静かだ。
「緊張しています?」
真尋が尋ねる。
「かなり」
「どうして?」
「恋人の部屋へ初めて行くので」
「私も、恋人を初めて迎えます」
「慎一さんは?」
俊介は言ってから、気まずそうな顔をした。
「この部屋には来ていません」
「そうでしたね」
「別れた後に買ったので」
「では、本当に初めて?」
「男性の友人も、入れたことはありません」
俊介が緊張したように息を吐く。
「責任を感じます」
「感じなくていいです」
「大切に入ります」
「部屋に?」
「真尋の暮らしに」
エレベーターの扉が開く。真尋は照れながら、廊下へ出た。
*
玄関の前。真尋は鍵を開ける。扉を押し、俊介を振り返る。
「どうぞ」
「お邪魔します」
俊介が一歩入る。靴を脱ぎ、きれいに揃える。
真尋が買い物袋を受け取ろうとすると、俊介はそのままキッチンまで運ぶと言った。
「間取りを見ないでください」
「目には入ります」
「評価しない」
「はい」
リビングへ入った俊介は、すぐに壁の写真へ目を向けた。言葉を失ったように、しばらく立ち止まる。
「本当に飾ってありますね」
「写真を送ったでしょう」
「画面で見るのとは違います」
俊介は近づく。最初に、二人の影を見る。
「これが葵さんと」
「はい」
「同じ写真が、葵さんの部屋にも?」
「はい」
次に、俊介が撮った真尋。そして、真尋が撮った俊介。
「自分がここにいるの、不思議です」
「私も最初は」
「今は?」
「少し馴染みました」
俊介は自分の写真を見つめた。
「嬉しいです」
「私の部屋に?」
「真尋の毎日の中に、僕が見える形でいることが」
真尋は、俊介の部屋で自分の写真を見た時と同じ気持ちを思い出した。
「私も嬉しかったです」
「本棚の上で?」
「はい」
「次に母が来たら、確実に聞かれます」
「話すんですか」
「恋人だと」
真尋の口元が緩んだ。
「まだ慣れません」
「恋人という言葉に?」
「はい」
「真尋の恋人です」
「何度も確認しないでください」
「嬉しいので」
*
俊介は写真から視線を移し、部屋全体を見る。ソファ。テーブル。窓。本棚。旅行の写真。
「真尋の部屋ですね」
俊介が言った。以前、真尋も俊介の部屋で同じことを言った。
「どういう意味ですか」
「整っています。でも、冷たくない」
「以前は、冷たい部屋だったかもしれません」
「今は違う?」
「写真が増えました」
「葵さんと、僕の」
「はい」
「ほかにも」
俊介は棚の小さな時計を見る。
「これは?」
「父が使っていたものです」
「お父様の」
「母からもらいました」
「大切ですね」
「はい」
俊介は触れずに見る。勝手に手を伸ばさない。そのことに、真尋は安心する。
「寝室は、こちらですか」
俊介の視線が、半分閉まった扉へ向く。真尋の胸が緊張する。
「はい」
「入っても?」
聞いてくれた。真尋は、自分の気持ちを確かめる。
見られることは、嫌ではない。ただ、寝室はより私的な場所だ。
「少しだけ」
「はい」
俊介は真尋より先に入らず、隣へ並ぶ。真尋が扉を開ける。
ベッド。小さな机。クローゼット。窓際の椅子。
「落ち着きますね」
俊介は入口に立ったまま言う。
「中へ入らないんですか」
「少しだけ、と言われたので」
「見るだけ?」
「はい」
真尋は、自分から一歩入った。俊介も続く。ベッドから距離を置き、窓の近くに立つ。
「この椅子で本を?」
「はい」
「朝、光が入りますね」
「俊介の部屋ほどではないけれど」
「十分です」
俊介は机の上の写真立てを見る。父と母、若い頃の真尋。
「ご家族?」
「高校生の時です」
「真尋、あまり変わっていません」
「変わりました」
「髪が長い」
「そういうことでは」
真尋は笑った。俊介も笑う。
ベッドが視界にあることを、二人とも意識している。それでも近づかない。
俊介は数分で言った。
「戻りましょうか」
「もういいんですか」
「はい。見せてもらえて嬉しかったです」
無理に留まらない。
真尋は安心し、同時にほんの少しだけ物足りなさを感じた。その感情に自分で驚く。
もっと近くへ来てほしいのか。今はまだわからない。
真尋は寝室の扉を閉めず、二人でリビングへ戻った。
*
買ってきた食材をキッチンへ並べる。真尋が鶏肉を切る。俊介が根菜を洗い、皮をむく。
「俊介、料理は煮込みだけではないんですね」
「手伝うくらいは」
「人参、少し大きいです」
「煮れば柔らかくなります」
「葵と同じことを言います」
「葵さんも料理を?」
「最近始めました」
「真尋が教えた」
「一緒に作っただけです」
「僕も教わっています」
「年上でしょう」
「料理は年齢ではありません」
二人は同時に吹き出した。
鍋へ油を入れ、鶏肉を焼く。香りが立つ。俊介が根菜を加える。水と出汁を入れる。
煮込んでいる間に、魚の準備。
「ローズマリーを」
真尋が言う。
「どのくらい?」
「このくらい」
「感覚ですね」
「料理は数字で説明しにくい」
「葵さんにも言いました?」
「言いました」
「会話が想像できます」
「いつか会います?」
真尋が尋ねると、俊介は手を止めた。
「いいんですか」
「葵が会いたいと言っています」
「僕も」
「緊張しません?」
「します」
「葵は、かなり質問すると思います」
「覚悟します」
「私たちのことを」
「どこまで話しているんですか」
「手をつないだこと。名前で呼んだこと。付き合ったこと。抱きしめたこと」
「そこまで?」
俊介の顔が赤くなる。
「葵が聞くので」
「真尋が答えた?」
「はい」
「僕の知らないところで」
「嫌ですか」
俊介は考えた。
「少し恥ずかしいです」
「はい」
「でも、葵さんが真尋にとって大切な相談相手だということは理解しています」
「話してほしくないことは?」
「それは言います」
「たとえば?」
「まだありません。ただ、僕の家族のことや、仕事の詳しい内容は、僕の許可なく話さないでほしいです」
「わかりました」
「真尋も、僕が誰かへ話してほしくないことがありますか」
真尋は考える。
「今日、寝室を見たことを細かく話さないでください」
「誰に?」
「ご家族や友人に」
「話しません」
「私たちのことを、どこまで周囲へ話すかも相談したいです」
「はい」
「恋人になったことを隠す必要はない。でも、すべてを共有する必要もない」
「同感です」
「葵には話すかもしれません」
「葵さんは特別ですね」
俊介の声に、少しの寂しさが混ざった気がした。
*
「寂しいですか」
真尋が尋ねる。
「少し」
「なぜ?」
「真尋が僕より先に葵さんへ話すことが多いので」
俊介は正直に言った。
「僕との出来事なのに、僕より葵さんと先に気持ちを整理しているように感じる時があります」
真尋は包丁を置いた。
考えたことがなかった。
俊介と会った後、葵から連絡が来る。何を話したか。どのように感じたか。細かく答える。その後で俊介と話すこともある。
「嫌でしたか」
「嫌というより、寂しいです」
「はい」
「僕との間で起きたことを、まず僕と話したい時があります」
真尋は胸の中が少し揺れた。
葵へ話すことは自然になっていた。嬉しいことも、不安も。葵も同じように話す。それが二人の関係だった。
だが俊介との関係を作るなら、俊介と話すべきこともある。
恋人になった不安。手をつないだ時の気持ち。部屋へ入れた後の戸惑い。
すべてを葵へ先に話せば、俊介は自分との関係の外側に置かれたように感じるかもしれない。
「話してくれて、ありがとうございます」
真尋は言った。
「責めたいわけではありません」
「わかっています」
「葵さんとの関係を変えてほしいわけでも」
「はい」
「ただ、僕とのことは、僕にも話してほしいです」
「これから、そうします」
「無理に全部ではなく」
「はい」
「真尋が一人で考えたいこともあるでしょう」
「あります」
「葵さんへ話したいことも」
「はい」
「僕へ話したいことも」
「はい」
真尋は俊介を見る。
「今日、寝室へ入った時、安心しました」
「何に?」
「俊介がベッドへ近づかなかったこと」
「はい」
「でも、少しだけ、近づいてほしい気持ちもありました」
言ってから、真尋の顔が熱くなる。俊介は動きを止める。
「本当に?」
「今、俊介と先に話しました」
俊介の表情がゆっくり柔らかくなる。
「ありがとうございます」
「自分でも、まだよくわかりません」
「はい」
「近づいてほしい。でも、急に近づかれるのは怖い。抱きしめてほしい時もある。でも、いつもではない」
「はい」
「俊介は?」
真尋が尋ねる。俊介は視線を落とした。
「近づきたいです。抱きしめたい。口づけもしたいと思っています」
真尋の胸が速く鳴る。それでも俊介は、目をそらさず続ける。
「でも、真尋が怖いと思う形ではしたくありません」
「はい」
「待てます」
「どのくらい?」
「期限は決めません」
「我慢になりませんか」
「我慢する時はあると思います」
俊介は正直に答えた。
「でも、我慢していることを、真尋へ責任として背負わせたくありません」
「俊介の希望は?」
「触れたい時には、触れてもいいか聞きます」
「毎回?」
「今は」
「私から触れることもあります」
「嬉しいです」
「今、抱きしめたいですか」
真尋は、自分から尋ねた。俊介の目が大きくなる。
「はい」
「料理の途中です」
「手を洗います」
真尋は思わず笑った。
「真面目ですね」
「油がついているので」
俊介は本当に手を洗い、布巾で拭いた。
キッチンの狭い空間。二人は向かい合う。
「抱きしめてもいいですか」
「はい」
俊介がゆっくり腕を回す。真尋も俊介の背中へ手を置く。
前回より、少し長い。料理の香り。俊介のニット。体温。
真尋は目を閉じた。不安が完全に消えるわけではない。それでも今は、この腕の中にいたい。
「真尋」
「はい」
「嬉しいです」
「私も」
真尋は俊介の背中へ、強く手を置いた。俊介の腕にも力が入る。苦しくない程度。
互いに相手の反応を確かめながら近づく。
しばらくして、真尋から手を緩めた。俊介もすぐに離れる。
「ありがとうございます」
「毎回お礼を言いますね」
「嬉しいので」
「料理が止まっています」
「はい」
二人は照れながら、キッチンへ戻った。
*
昼食が完成したのは、午後一時を少し過ぎた頃だった。
鶏肉と根菜のスープ。鱈の香草焼き。サラダ。パン。
テーブルへ二人分を並べる。俊介がスープを見て言う。
「真尋の料理です」
「半分は手伝ったでしょう」
「味を決めたのは真尋です」
「食べてから言ってください」
二人で手を合わせる。
「いただきます」
俊介がスープを一口飲む。真尋は表情を見てしまう。
「どうですか」
「おいしいです」
「本当に?」
「聞くんですね」
俊介は声を立てて笑った。
「料理は少し不安です」
「根菜が柔らかくて、出汁も濃すぎない」
「細かい感想」
「信じてもらうために」
「信じます」
真尋も食べる。味は悪くない。鱈も香草の香りがちょうどいい。
「真尋。ここへ来られて、嬉しいです」
「はい」
「真尋が、どんな物を見て暮らしているのか知れた」
「そんなに見せていません」
「十分です」
「まだ、開けていない引き出しもあります」
「開けません」
「冷蔵庫は?」
「見たいです」
「俊介も見せたから?」
「同じことをしたいわけではなく、普段何を食べているか知りたい」
「後で」
「はい」
俊介はパンをスープへ少し浸した。
「葵さんが泊まった時も、このテーブルで?」
「はい」
「同じ料理を?」
「雑炊やうどんが多かったです」
「食べられなかったから」
「はい」
「今は?」
「自分で料理をしています」
「真尋が教えた」
「一緒に覚えました」
「葵さんの話をしている時、真尋は本当に柔らかい顔をします」
俊介が言う。
「嫉妬します?」
「少し」
俊介は隠さなかった。
「でも、その顔をなくしてほしいとは思いません。僕にも、いつか同じくらい安心した顔を見せてほしいです」
「俊介の前でも、少しずつ」
「今日も見られました」
「いつ?」
「抱きしめた時」
真尋は顔が熱くなる。
「見ていたんですか」
「目を閉じる前に」
「忘れてください」
「忘れません」
「写真には残っていません」
「記憶に」
真尋はスープを飲み、誤魔化した。
*
食後、二人で食器を洗った。俊介が洗い、真尋が拭く。
「逆では?」
真尋が言う。
「何が?」
「私の家だから、私が洗う」
「作ってもらったので」
「一緒に作りました」
「では、二人で片づけます」
「今、そうしています」
二人は笑った。
最後の皿を棚へ戻した時、俊介が洗面所の方向を見た。
「手を洗ってもいいですか」
「どうぞ」
俊介が洗面所へ入る。真尋は遅れて、歯ブラシを思い出した。隠していない。
俊介が水を止めた後、洗面台の端へ視線を向ける。二本の歯ブラシ。真尋のもの。葵が使うもの。
俊介はすぐには何も言わなかった。タオルで手を拭き、リビングへ戻る。
真尋は自分から話すことにした。
「もう一本の歯ブラシは、葵のです。葵がまた泊まる時のために、置いています」
「わかりました」
「何も思いません?」
俊介は考える。
「最初に見た時、少し驚きました」
「はい」
「でも、葵さんだろうと思いました」
「嫌では?」
「嫌ではありません。ただ」
「はい」
「僕の歯ブラシを置く日も来るのかと考えました」
真尋の胸が跳ねる。
「置きたいですか」
「いつか」
「今は?」
「まだ早いと思います」
俊介は真尋を見る。
「真尋が、置いてもいいと思った時に」
「俊介の部屋にも?」
「同じです」
「同じ時でなくても?」
「もちろん」
真尋は安心した。
俊介が葵の歯ブラシを見て、自分の場所がないと責めなかった。自分も置きたいという希望を隠さず、今すぐとは言わなかった。
「いつか、私から言います」
「待っています」
「葵の歯ブラシがあっても?」
「はい」
「二本以上になりますね」
「洗面所が狭くなる」
「その時に考えます」
俊介が笑った。
「暮らしの設計ですね」
「また建物」
「収納は大事です」
二人はリビングへ戻った。
*
俊介が持ってきた焼き菓子を開け、真尋がお茶を淹れた。
午後の光が部屋へ差し込んでいる。二人はソファへ並んで座った。
朝よりも距離が近い。肩が触れるほどではない。それでも、手を伸ばせば触れられる。
「この本、読んでいるんですか」
俊介がソファ横の本を指す。
「はい」
「旅の随筆?」
「一人旅について」
「次の予定は?」
「まだ決めていません」
「また一人で?」
「一人でも行きたいです」
「僕とは?」
「一緒にも行きたい」
俊介は嬉しそうに笑った。
「どこへ?」
「俊介は?」
「古い町並みが残っている場所」
「仕事みたい」
「一緒なら仕事ではありません」
「写真を撮ります」
「撮ってください」
「また建物を見ている横顔?」
「真尋を見ている顔も」
真尋は照れ、焼き菓子を取った。
「葵とも、また旅へ行きたいです」
「はい」
「寂しい?」
「少し」
「私が俊介以外と旅行することが?」
「はい」
俊介はお茶を飲んだ。
「でも、止めてほしいとは思いません」
「俊介も、友人と旅行しますか」
「大学時代の友人と、年に一度くらい」
「男性だけ?」
聞いた後、真尋は自分の質問に驚いた。相手の友人の性別が気になる。嫉妬。
「男性二人と、女性一人です」
「女性も?」
「はい」
胸に小さな不安が生まれる。
「以前から?」
「大学時代からの友人です。全員既婚ですが、女性が一人で参加する年もあります」
「俊介と二人になることは?」
「移動の都合で、一時的には」
「はい」
「嫌ですか」
真尋は正直に考える。
「少し不安です」
「はい」
「でも、今すぐやめてほしいとは思いません」
「ありがとうございます」
「その女性と、以前何かありました?」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
俊介は迷わず答えた。
「真尋が不安なら、旅行の前にどんな人か話します」
「写真も?」
「見せます」
「確認したい自分が、少し嫌です」
「どうして?」
「信じていないようで」
「知らない人だから不安になるのは自然だと思います」
「俊介は、葵に嫉妬する?」
「します」
「女性なのに?」
「性別だけの問題ではありません」
俊介は穏やかに言った。
「真尋が僕より深く頼っている人かもしれない。僕の知らない真尋を知っている。それが少し寂しい。でも、葵さんとの関係をやめてほしいとは思わない」
「私も、俊介の友人との関係をすぐに変えてほしいとは言いません」
「はい」
「ただ、不安になったら聞きます」
「聞いてください」
「俊介も」
「はい」
恋人になれば、すべてを独占したい気持ちがなくなるわけではない。
大切にされたい。自分だけが知る顔が欲しい。相手の中で特別でありたい。
その気持ちを否定しなくてもいい。ただ、特別であるために、ほかの関係を消す必要はない。
*
「真尋。手をつないでも?」
「ソファで?」
「はい」
真尋は左手を差し出した。俊介が握る。二人の間の距離が少し縮まる。
「今日は、聞くことが多いですね」
真尋が言う。
「真尋の部屋なので」
「外より?」
「ここでは、距離の意味が少し変わる気がします」
「私も」
「嫌ではありませんか」
俊介は言ってから、自分で気づいたように口を閉じた。
「また聞きました」
「不安です、と言う約束です」
「はい」
俊介は考える。
「今、真尋に近づきすぎていないか不安です」
「私は、今の距離は大丈夫です」
「はい」
「もう少し近くても」
真尋は小さく言った。俊介が真尋を見る。
「本当に?」
「はい」
俊介は急に動かず、少しずつ体を近づけた。肩が触れる。真尋は離れなかった。
俊介の腕がソファの背へ置かれる。真尋を囲むのではなく、後ろへ伸びる。逃げ道を残している。
真尋は自分から、少しだけ俊介の肩へ寄った。俊介の呼吸が変わる。
「真尋」
「はい」
「抱きしめてもいいですか」
「はい」
俊介が腕を回す。ソファで、横から抱きしめられる。
真尋は俊介の胸へ頬を寄せた。心臓の音が聞こえる。自分と同じように速い。
「俊介も緊張してる」
「かなり」
「私も」
俊介の手が真尋の背中にある。動かない。それが安心だった。
真尋も俊介のニットを軽くつかむ。数秒。少し長く。
離れたくないと思う。同時に、この先へ進むことはまだ怖い。
*
真尋は顔を上げた。俊介との距離が近い。目。鼻。唇。
俊介も、真尋を見ている。口づけをしたいと思っていることが、表情からわかる。
真尋の胸が強く鳴る。嫌ではない。ただ、緊張が大きい。
俊介は動かなかった。
「俊介。今、キスしたいですか」
真尋は自分から尋ねた。
「はい」
俊介は正直に答える。
「でも、真尋が迷っているので待ちます」
「わかります?」
「はい」
「顔に出ています?」
「少し」
真尋は息を整える。
したくないわけではない。俊介と、もっと近づきたい。その気持ちはある。
だが、自宅のソファで初めて口づけをすれば、次に何かを期待されるのではないかという不安もある。
「キスをしたら、その先も進むと思いますか」
「今日ですか」
「はい」
「思いません」
「本当に?」
「真尋が望まなければ」
「俊介は望みます?」
「いつかは」
俊介は目をそらさず答えた。
「今日は、真尋がキスをしたいなら、それだけでいいです」
「途中で怖くなったら?」
「止めます」
「私が何も言えなくなったら?」
「無理に続けません。表情を見ます」
「はい」
「でも、できれば言葉にしてください」
「努力します」
真尋は自分の気持ちをもう一度確かめた。
怖い。けれど、したい。俊介の唇へ触れてみたい。
「キスしてもいいです」
真尋は言った。俊介の目が揺れる。
「本当に?」
「はい」
「今?」
「今」
俊介がゆっくり顔を近づける。真尋は目を閉じる。
唇が、ほんの短く触れた。温かい。柔らかい。すぐに離れる。
真尋は目を開けた。俊介が近い場所で、自分を見ている。
「大丈夫ですか」
「はい」
「嫌では?」
「嫌ではありません」
俊介が安心したように息を吐く。
「もう一度は?」
俊介が尋ねる。真尋は迷い、頷いた。
「はい」
今度は、最初より少し長い。それでも深くはない。俊介の手は背中にある。真尋は俊介の肩へ手を置く。
唇が離れる。胸が速く鳴っている。体の奥が熱い。少し怖い。それ以上に、嬉しい。
「俊介。今日は、ここまでにしたいです」
真尋は言った。俊介はすぐに頷く。
「わかりました」
「残念ですか」
「少し」
「正直」
「でも、嬉しいです」
「何が?」
「真尋が、自分の希望を言ってくれたこと」
俊介は真尋の額へ触れず、距離を取った。
「それから、キスできたこと」
真尋は顔が熱くなる。
「言わなくても」
「嬉しいので」
二人の間に短い笑いが起きた。
俊介は抱きしめる腕も緩めた。完全には離れず、肩が触れる距離に戻る。
真尋は、その距離がちょうどいいと思った。
*
午後四時を過ぎた頃、俊介は帰る準備を始めた。
約束した時間は決めていなかった。だが俊介は、自分から五時前には帰ると言った。
「もう少しいてもいいですよ」
真尋が言うと、俊介は嬉しそうにしながらも首を振った。
「今日は帰ります」
「どうして?」
「真尋が、一人で今日のことを考える時間も必要だと思うので」
「俊介は?」
「僕も」
「キスしたことを?」
「全部を」
俊介はコートを着る。
「図書館の時も、真尋は帰って一人で考えたいと言いました」
「覚えていたんですね」
「はい」
「今日は、少し寂しいです」
「僕も」
「それでも帰る?」
「次に来る場所ができたので」
真尋の胸が温かくなる。
「次はいつ?」
「真尋が呼んでくれる時」
「俊介から来たいと言わないんですか」
「言ってもいいですか」
「はい」
「来週も来たいです」
「早いです」
「では、再来週」
真尋の口元が緩んだ。
「来週は、外で会いましょう」
「はい」
「その次は、また相談」
「わかりました」
*
玄関へ向かう。俊介が靴を履く。真尋は扉の近くに立つ。
「今日は、ありがとうございました」
俊介が言う。
「こちらこそ」
「料理、おいしかったです」
「よかったです」
「部屋も、真尋らしかった」
「採点では?」
「感想です」
「何点?」
「言いません」
「採点したんですね」
「暮らしたい部屋だと思いました」
真尋は言葉を失う。俊介は少し慌てた。
「今すぐ一緒に住みたいという意味ではなく」
「わかっています」
「本当に?」
「はい」
「不安です」
「何が?」
「また早すぎることを言ったかもしれない」
俊介は、自分の気持ちを不安として話した。真尋は考える。
「早いとは思いました」
「はい」
「でも、嫌ではありません。俊介が、この部屋を好きだと思ってくれたことは嬉しいです」
「ありがとうございます」
「一緒に暮らすことは、まだ考えません」
「はい」
「それでいいですか」
「もちろん」
真尋は一歩近づいた。
「抱きしめてもいいですか」
今度は真尋から尋ねた。俊介が驚く。
「はい」
真尋は俊介の胸へ腕を回した。自分から抱きしめる。俊介も背中へ腕を回す。
朝、部屋へ迎えた時にはできなかったこと。今は自然にしたいと思う。
「真尋」
「何ですか」
「帰りたくなくなります」
「でも、帰ってください」
「はい」
二人は笑いながら離れた。
俊介が扉を開ける。
「駅まで送らなくて大丈夫です」
「下まで」
「ここで」
「本当に?」
「はい。今日は、ここから一人で帰ってください」
「わかりました」
「着いたら連絡を」
「はい」
俊介は廊下へ出た。
「真尋」
「何ですか」
「好きです」
真尋は一瞬、迷った。
まだ同じ言葉を返す準備が整っていない。けれど以前より、胸の中でその言葉は近くなっている。
「今日、来てくれて嬉しかったです」
「はい」
「また会いたいです」
俊介が柔らかく笑う。
「それで十分です」
「気をつけて」
「はい」
扉が閉まる。真尋は鍵をかけた。廊下を歩く足音が遠ざかる。静かな部屋。
*
一人になったリビングには、俊介の気配が残っていた。
二人分のカップ。少しへこんだソファのクッション。買ってきたパンの残り。玄関に一時置かれていた俊介の靴の跡。
部屋へ初めて入った人が帰った後の静けさ。
葵が自宅へ戻った夜とは違う。俊介は数時間しかいなかった。それでも、空気が少し変わったように感じる。
真尋はソファへ座った。唇へ指を触れそうになり、途中で止める。
口づけ。初めてではない。慎一との関係にも、何度もあった。
だが俊介との最初の口づけは、まったく違うものとして残っている。
聞かれた。迷った。言葉にした。触れた。もう一度を選んだ。ここまでと伝えた。俊介は止まった。
それらすべてが、真尋を安心させている。
真尋はスマートフォンを手に取った。
葵へ話したい。俊介との口づけ。部屋で抱きしめられたこと。
だが、キッチンで俊介が話した言葉を思い出す。僕との間で起きたことを、まず僕と話したい時がある。
真尋は葵への画面を開いたまま、閉じた。
まず、俊介へ伝えたい。今日どう感じたか。不安はなかったか。
俊介から連絡が来る前に、真尋はメッセージを送った。
『今日は来てくれてありがとうございました』
考え、続ける。
『キスをしたことも、途中で止めてくれたことも、嬉しかったです』
送信する。顔が熱くなる。
数分後、俊介から電話がかかってきた。
「もしもし」
『今、駅です』
「まだ着いていないのに」
『メッセージを見て、声を聞きたくなりました』
「電車は?」
『一本見送ります』
「乗ってください」
『あと二分あります』
俊介の声が弾んでいる。
『真尋。僕も、キスできて嬉しかったです』
「はい」
『止めたことも、よかったと思っています』
「本当?」
『もっと触れたい気持ちはありました。でも、真尋がここまでと言った時に止まれたことは、僕にとっても大切でした』
「どうして?」
『真尋に我慢させずに近づけるとわかったからです。次に会うことを、怖がられずに済む』
真尋は俊介の言葉を受け取った。
もし今日、俊介が不満そうにしたり、少しだけと続きを求めたりしたら。次に部屋へ呼ぶことを、真尋はためらっただろう。
「次も、会いたいです」
『はい』
「今日のことを、葵へ話してもいいですか」
真尋は先に尋ねた。電話の向こうが静かになる。
『どこまで?』
「俊介が部屋へ来たこと。料理をしたこと。キスをしたこと」
『最後は、少し恥ずかしいです』
「話さないほうがいい?」
『真尋が葵さんに話したいなら、構いません』
「本当に?」
『はい。ただ、僕がどんな顔をしたとか、細かいことは』
「話しません」
『お願いします』
「先に聞いてよかったです」
『僕も、聞いてもらえて嬉しいです』
駅の案内音が電話の向こうから聞こえる。
『電車が来ます』
「乗ってください」
『はい。着いたら、また連絡します』
「気をつけて」
『真尋。今日のことを、僕と先に話してくれてありがとうございます』
「はい」
『僕との関係の中に、僕もいられる気がしました』
その言葉が、真尋の胸へ残った。
「これからも、そうします」
『全部でなくていいです』
「はい」
『真尋が話したいことを』
「はい」
電話が切れる。真尋はしばらく、スマートフォンを手にしたまま座っていた。
*
その頃、葵は母との電話を終えたところだった。
昼過ぎにかかってきた電話は、二時間近く続いた。
母へ直哉との別れを話した。最初、母は言葉を失った。
『結婚すると思ってたのに』
その言葉に、葵の胸が痛んだ。自分もそう思っていた。
『何があったの?』
母は何度も尋ねた。
直哉の気持ちが離れていたこと。半年近く、葵が不安を感じていたこと。会う回数が減っても、自分から聞けなかったこと。秋田で真尋に出会ったこと。帰京後、直哉と話したこと。別れたこと。荷物を送ったこと。
葵は、できるだけ順番に話した。途中で泣いた。母も泣いた。
『どうして、もっと早く言ってくれなかったの』
「心配させたくなかった」
『心配するのが親でしょう』
「でも、お母さん、直哉と結婚してほしいって言ってたから」
『そんなに言った?』
「何度も。いい人ね。早く決まるといいねって」
『それは』
母が黙る。
『葵が好きだと思ってたから』
「好きだった」
『今も?』
「好き」
言葉にして、葵はまた泣いた。
『なら、戻ればいいじゃない』
母は言った。葵の胸が固くなる。
「簡単に言わないで」
『でも好きなんでしょう』
「好きだけで戻ったら、また同じになる」
『話し合えば』
「前は、話せなかった」
『今度は話せばいいでしょう』
「直哉が戻りたいと思ってるかもわからない」
『男の人は、離れたら気づくこともあるから』
「お母さん」
葵は強い声を出した。
「私、戻る方法を聞いてほしいんじゃない」
電話の向こうが静かになる。
「今、つらいって話してる」
『うん』
「好きなのに、別れた。会いたい。でも、今会ったらまた全部我慢すると思う。だから荷物を送った」
『うん』
「それを、間違いだったって言わないで」
『間違いとは言ってない』
「戻ればいいって言った」
『ごめん』
母が謝った。葵は涙を拭った。
「お母さんに、わかってほしかった」
『何を?』
「私が結婚できなかったことじゃなくて、苦しかったこと」
『うん』
「直哉が悪いって言ってほしいわけでもない。今すぐ次を探せとも言わないで」
『言わない』
「ただ、聞いて」
『わかった』
*
それから母は、しばらく口を挟まずに聞いた。
真尋のこと。一人で家へ帰ったこと。味噌汁を作ったこと。会社へ行ったこと。美月へ頼ったこと。企画の言葉。直哉のマグカップを使っていること。
母は時々相槌を打つだけだった。すべて話し終えると、母が言った。
『葵、よく頑張ったね』
その言葉で、葵は声を上げて泣いた。
直哉と別れたことを褒められたいわけではない。一人で耐えたことを認めてほしかったわけでもない。
ただ、ここまで生きた自分を、母に見てほしかった。
『帰ってきてもいいのよ』
母が言った。
「実家に?」
『何日でも』
「仕事がある」
『有給を取ってもいいでしょう』
「今は、自分の部屋にいたい」
『そう』
「でも、帰りたくなったら言う」
『待ってる』
「お母さん。直哉と戻るかもしれない」
『うん』
「戻らないかもしれない」
『うん』
「どっちでも、私の味方でいて」
『当たり前でしょう』
「結婚できなくても?」
『葵』
母の声が強くなる。
『結婚しないと、あなたが私の娘じゃなくなるの?』
「ならない」
『なら、聞かないで』
葵は泣きながら笑った。
電話を切った後、体が少し軽くなった。
母に話した。戻ればいいと言われた時には苦しくなった。それでも、自分の望む聞き方を伝えられた。母も、最後には聞いてくれた。
関係は、一度の言葉で決まらない。親子でも、話し直すことができる。
*
午後五時過ぎ、葵のスマートフォンが震えた。真尋からだった。
『俊介が帰りました』
葵はすぐに電話をかけたい気持ちを抑え、先に返信する。
『電話していい?』
『はい』
葵は発信した。
「もしもし」
『もしもし』
「どうだった?」
『葵は、お母様と話せました?』
「話した」
『先に聞きます』
「今日は、私から?」
『はい』
葵はソファへ座り、母との会話を話した。
戻ればいいと言われたこと。腹が立ったこと。今はただ聞いてほしいと伝えたこと。母が謝ったこと。最後に、結婚しなくても娘であることは変わらないと言われたこと。
真尋は途中で口を挟まず、聞いた。
『言えたんですね』
「うん」
『戻り方ではなく、苦しかったことを聞いてほしいと』
「うん」
『お母様も、最後まで聞いてくれた』
「うん」
『よかったですね』
「真尋みたいに、最初から上手じゃなかった」
『私も上手ではありません』
「でも、戻ればいいなんて言わない」
『お母様は、葵を楽にしたかったのだと思います』
「わかってる。でも、嫌だった」
『嫌だったと言えてよかったです』
「うん」
葵は息を吐いた。
*
「真尋は?」
『俊介が来ました』
「部屋、採点された?」
『されていません』
「寝室は?」
『見ました』
葵の声が高くなる。
「入ったの?」
『少しだけ』
「ベッドに座った?」
『座っていません』
「俊介は?」
『近づきませんでした』
「それだけ?」
『葵』
「聞いていいって言った?」
『細かいことは話さないと、俊介と約束しました』
葵は驚く。
「俊介に、私へ話すか聞いたの?」
『はい』
「どうして?」
『俊介との出来事なので』
「嫌だった?」
『葵へ話すことが嫌なのではありません』
「うん」
『ただ、俊介は、私が葵と先に気持ちを整理することを少し寂しいと思っていました』
葵は黙った。
自分が真尋の一番近くにいるような気持ちでいた。真尋が俊介と会った後、何をしたか、どう感じたか、すべて聞いていた。それが当然だと思っていた。
「私、邪魔だった?」
『違います』
「でも」
『葵との関係は大切です』
「うん」
『俊介との関係は、俊介と作りたい。だから、俊介と先に話したいこともあります』
葵の胸に寂しさが広がる。
真尋が遠くなる。以前より、確かに自分の知らない時間が増えている。
けれど、それは真尋が離れていくことと同じではない。
「わかった」
『寂しいですか』
「寂しい」
『はい』
「でも、俊介の気持ちもわかる」
『はい』
「私も、真尋とのことを全部美月に話されたら、少し嫌かもしれない」
『はい』
「どこまで話していい?」
『今のように、聞いてください』
「毎回?」
『大切なことは』
「わかった」
葵は胸の寂しさを、そのまま言葉にする。
「私の場所が小さくなる気がする」
『小さくなりません』
「本当?」
『形が少し変わるだけです』
「前は、真尋のことを何でも知ってた」
『何でもではありません』
「でも、俊介より」
『そうですね』
「これから、俊介のほうが知ることも増える」
『はい』
真尋は否定しない。それが少し痛い。だが、嘘をつかれるよりいい。
『葵も、美月さんやお母様に話すことが増えました。私が知らない葵も増えています』
「寂しい?」
『少し。でも、嬉しいです』
「両方」
『はい』
葵は棚の写真を見る。二人の影。
真尋と出会った時間は消えない。俊介との関係が増えても、自分との写真は残っている。
*
「真尋。俊介と、何かあった?」
聞き方を変える。
「私に話したいことはある?」
電話の向こうで、真尋が黙った。
『あります』
「聞いていい?」
『はい』
真尋は、自分から話し始めた。
俊介と料理をしたこと。歯ブラシを見つけられたこと。葵の物だと説明したこと。俊介が、自分の歯ブラシもいつか置きたいと言ったこと。そして、キッチンとソファで抱きしめ合ったこと。
『キスもしました』
真尋の声が小さくなる。葵は思わず息を止めた。
「本当に?」
『はい』
「俊介から?」
『聞いてくれました』
「どうだった?」
『緊張しました』
「嫌じゃなかった?」
『嫌ではありませんでした』
「もう一回した?」
『はい』
「その後は?」
『ここまでにしたいと伝えました』
「俊介は?」
『止めてくれました』
葵の胸に、安心と嬉しさが広がる。
「よかったね」
『はい』
「真尋、自分からしたいって思った?」
『はい』
「好きじゃない?」
真尋は黙る。
『好きだと思います』
前より、はっきりした言葉だった。
「俊介に言った?」
『まだです』
「どうして?」
『次に、言いたいと思った時に』
「今じゃない?」
『本人へ先に言います』
葵は思わず笑った。
「わかった」
『今までなら、葵へ先に言っていました』
「うん」
『でも、今は俊介へ伝えたいです』
「うん」
寂しい。けれど、それが恋人との関係を作るということなのだろう。
「言ったら、教えて」
『それは話してもいいですか』
「俊介に聞いて」
『はい』
二人は笑った。
「真尋。私たち、変わったね」
『はい』
「最初は、全部二人で話してた」
『今も話しています』
「でも、話さないことも選ぶ」
『はい』
「それでも友達?」
『もちろん』
「大切?」
『大切です』
葵は安心して、目を閉じた。
「俊介も大切。美月も、お母さんも。大切が増えた」
『はい』
「だから、誰かの場所がなくなるわけじゃない」
『はい』
「頭ではわかった」
『心は?』
「少し寂しい」
『私もです』
「真尋も?」
『葵が私以外へ話せるようになって、安心しています。でも、少し寂しいです』
「同じ」
『はい』
葵は笑った。
*
俊介が帰った後の部屋で、真尋は夕食を簡単に済ませた。
昼のスープが残っている。一人分を温める。二人で食べたものを、一人で食べる。
寂しい。同時に、今日の時間が残っているようで嬉しい。
俊介は無事に帰宅したと連絡をくれた。真尋は、食事の写真を送った。
『残りを食べています』
『僕も持ち帰ればよかったです』
『また作ります』
『約束です』
一人のテーブル。それでも、相手との会話がある。
真尋はスープを飲んだ。
俊介との最初の口づけを思い出す。唇の温度。聞かれた言葉。ここまでと伝えた自分。止まった俊介。
安心。嬉しさ。
好きだと思う。その気持ちは、もう否定しなくてもいい。
真尋はスマートフォンを手に取った。
今、伝えるか。電話ではなく、次に会った時に。顔を見て言いたい。
俊介が何度も言ってくれた言葉。好きです。自分も返したい。ただし、返事としてではなく、自分から言いたい。
真尋は次に会う金曜日を思った。五日後。長いようで、以前ほど不安ではない。
会わない時間にも、関係は続いている。
*
月曜日の朝。真尋はいつも通り会社へ向かった。
駅まで歩きながら、俊介から届いたメッセージを読む。
『昨日は、部屋へ招いてくれてありがとうございました。仕事へ行ってきます』
『こちらこそ。行ってらっしゃい』
返信する。葵からも届く。
『母から朝、ちゃんと食べたって聞かれた』
『食べましたか』
『味噌汁と卵』
『よく食べました』
『真尋も?』
『食べました』
『俊介には?』
『話しました』
『誰に報告してるの』
『葵が聞いたので』
短いやり取り。真尋は笑い、スマートフォンをしまった。
会社へ着く。佐伯が新規案件の資料を確認している。
「おはようございます」
「おはようございます」
真尋がコートを脱ぐと、佐伯が少し顔を見た。
「課長、週末は楽しかったですか」
「どうして?」
「顔で」
「最近、皆さん表情を読みすぎです」
「恋人が来た?」
真尋は驚く。
「どうしてそこまで」
「前に、次は自宅へ招くって話してませんでした?」
「話しましたか」
「少し」
真尋は自分が職場でも以前より話すようになっていることに気づく。
「来ました」
「どうでした?」
「楽しかったです」
「よかったですね」
「はい」
佐伯は自分の資料へ視線を戻しかけ、迷って尋ねる。
「課長。私も、昨日、同居している人に一人の時間が欲しいって話しました」
「話せたんですね」
「最初は、嫌われたかと思ったって言われました」
「はい」
「でも、毎週日曜日の午後だけ、お互い別々に過ごすことになりました」
「よかったですね」
「相手も、一人で映画を見たかったって」
「互いに言えなかった?」
「はい」
佐伯は声を立てて笑った。
「昨日、別々に過ごして、夜に一緒に食事をしました」
「どうでした?」
「前より話すことがありました」
「離れていた時間があったから」
「はい」
真尋は、葵や俊介との関係にも同じことを感じていた。
すべてを共有しない。別々の時間を持つ。その後で、話したいことを持ち帰る。
「続けられそうですか」
「まずは、来週も」
「はい」
「課長も、恋人と一人の時間を?」
「持ちます」
「最初から?」
「話しました」
「すごい」
「一人でいたいと言うだけで、褒められることではありません」
「私には難しかったので」
「では、よく話しました」
佐伯は照れたように笑った。
*
同じ朝、葵は会社の会議室で、広告案の最終確認をしていた。言葉は三案まで絞られている。
『今日も、ここまで来たあなたへ』
『ひと息つくのも、今日の予定』
『頑張れない日にも、小さな甘さを』
石橋が一枚ずつ見比べる。
「私は、一つ目」
葵が言う。
「理由は?」
「頑張った人だけに向けたくないからです」
「どういうこと?」
「何もできなかったと思う日でも、朝起きて、ここまで来た。そのことを認める言葉にしたい」
「三つ目も、頑張れない日へ向けてる」
「三つ目は、頑張れないことを意識させすぎる気がします」
デザイナーが頷く。
「一つ目は、受け取る人が自分の一日を自由に重ねられますね」
石橋が葵を見る。
「小野寺さん、この言葉に思い入れがある?」
「あります」
「なら、説明できるようにして。個人的な経験を話す必要はない。でも、なぜこの言葉が必要かは言えるように」
「わかりました」
会議を終え、席へ戻る。葵はノートへ言葉を書いた。
今日も、ここまで来たあなたへ。
直哉と別れた翌日。一人で会社へ向かった自分。荷物を送った朝。母に話した日。
どの自分にも渡したい言葉だった。
スマートフォンへ、母からメッセージが届く。
『昨日は話してくれてありがとう。戻りたくなったら、いつでも帰っておいで。戻らなくても、電話してね』
葵は笑った。
『ありがとう。今日は仕事しています』
『ご飯食べなさい』
『食べました』
『よかった』
母との関係も、少し変わった。
心配されることを避けるのではなく、心配された時に自分の希望を言う。戻り方を教えず、話を聞いてほしい。結婚の話を急がせないでほしい。
親子だから、何を言われても我慢する必要はない。それでも関係は続く。
*
金曜日の夜。真尋と俊介は、仕事の後に待ち合わせた。
駅近くの小さな喫茶店。食事ではなく、軽い夕食とコーヒー。二人とも翌日に仕事があるため、長くは会わない約束だった。
俊介が先に着いていた。真尋が店へ入ると、窓際の席から立ち上がる。
「真尋」
「お待たせしました」
「今来たところです」
「本当?」
「五分前です」
「少し進歩しましたね」
「努力しています」
真尋は向かいの席へ座る。
「今日は隣ではないんですね」
俊介が言う。
「話したいことがあるので、顔を見たいです」
俊介の表情が緊張する。
「不安です」
「何が?」
「何を言われるのか」
「日曜日のことです」
「はい」
注文を済ませる。料理が来る前に、真尋は俊介を見る。
「日曜日、部屋へ来てもらえて嬉しかったです。料理を作ったことも、写真を見てもらったことも」
「はい」
「寝室を見せたことは、少し緊張しました。でも、俊介が聞いてくれたから、見せられました」
「はい」
「抱きしめてもらったことも、キスしたことも」
俊介の顔が赤くなる。
「嬉しかったです」
「僕もです」
真尋は一度、息を吸った。
言おうと決めていた言葉。返事としてではなく、自分から。
「俊介」
「はい」
「好きです」
俊介が動きを止めた。
店内の音が続く。コーヒーミル。食器。ほかの客の会話。俊介だけが、数秒間静止したように見える。
「聞こえました?」
真尋が尋ねる。
「はい」
「何か言ってください」
「すみません」
俊介は眼鏡へ手を触れた。
「嬉しくて」
「前にも同じことがありました」
「何度あっても慣れません」
俊介は真尋を見た。
「もう一度、言ってもらえますか」
「一度で受け取ってください」
「はい」
「俊介が好きです」
真尋は、今度は少しだけ笑って言った。俊介の目が潤む。
「泣いています?」
「少し」
「葵と母みたい」
「真尋の周りは、よく泣きますね」
「私のせいですか」
「嬉しいことを言うからです」
俊介はテーブルの上へ手を出した。
「手をつないでもいいですか」
「はい」
真尋は手を重ねる。
「僕も、真尋が好きです」
「知っています」
「何度でも言います」
「はい」
「恋人になった日より、今のほうが嬉しいです」
「どうして?」
「真尋が、自分の気持ちを確かめて言ってくれたから」
「待たせました?」
「少し」
「我慢しました?」
「少し」
「それでも?」
「待ってよかったです」
真尋は俊介の手へ力を入れた。
「これからも、すぐに言えないことがあると思います。待ってもらうことも。俊介を待つことも」
「はい」
「それでも、言いたい時には言います」
「僕も」
料理が運ばれてくる。二人は手を離した。それでも、離れた後の手には温かさが残っている。
*
店を出た後、俊介は真尋を駅まで送った。
夜の道。手をつなぐ。以前より、聞かれる前に真尋から手を差し出すことが増えた。俊介は毎回、嬉しそうな顔をする。
「真尋。日曜日に、葵さんへ会う話をしてもいいですか」
「会いたいですか」
「はい」
「私も、そろそろ」
「葵さんは?」
「かなり前から」
「怖いです」
「何が?」
「試されそうで」
「試します」
「本当に?」
「冗談です」
真尋は笑った。
「三人で食事をします?」
「最初は、昼のほうがいいです」
「葵の会社が休みの日」
「はい」
「来月?」
「予定を聞きます」
「美月さんも?」
「最初から四人は多いでしょう」
「そうですね」
「母も?」
「さらに増やさないでください」
二人の間に短い笑いが起きた。
「俊介。葵へ会った時、何でも答えなくていいです」
「はい」
「葵も、少しずつ境界を覚えています」
「真尋も?」
「はい」
「僕もです」
「三人で練習ですね」
「関係の?」
「大切にしながら、入りすぎないこと」
俊介は頷いた。
「会えるのを楽しみにしています」
「葵も喜びます」
駅へ着く。手を離す。
「今日は、ありがとうございました」
俊介が言う。
「何に?」
「好きと言ってくれて」
「はい」
「一生忘れません」
「大げさです」
「本当に」
真尋は照れながら、俊介を見る。
「また言います」
「いつ?」
「言いたい時に」
「楽しみにしています」
改札の前。俊介が周囲を見る。
「キスは?」
「ここで?」
「冗談です」
「本当に?」
「少し本気です」
「今日はしません」
「はい」
「残念ですか」
「少し」
「次に」
真尋が言うと、俊介の顔が明るくなる。
「約束?」
「その時に決めます」
「はい」
二人は笑って別れた。
*
電車へ乗った真尋は、葵へメッセージを送った。
『俊介に、好きだと伝えました』
すぐに既読がつく。
『本人に先に?』
『はい』
『よくできました』
『上から言わないでください』
『俊介、泣いた?』
『少し』
『やっぱり』
『葵と同じです』
『うれしいから』
『はい』
『三人で会う?』
真尋は驚く。
『どうしてわかるんですか』
『次はそれだと思った』
『俊介も会いたいそうです』
『本当に?』
『はい』
『いつ?』
『予定を決めましょう』
『来週でも』
『早いです』
『再来週』
『相談します』
『楽しみ』
葵の返事には、以前のような強い寂しさだけではなく、純粋な期待がある。
真尋の大切な人に会う。俊介から見れば、真尋の大切な友人に会う。それぞれが、真尋を通してつながり始める。
すべての人が親しくなる必要はない。それでも、互いの存在を知ることは、真尋の人生を分断しないことにつながる。
『葵』
『何?』
『俊介へ聞きたいことを、今から全部考えないでください』
『少しだけ』
『多すぎないように』
『努力する』
『私たちの細かいことも』
『聞かない』
『本当に?』
『本人が話したいことだけ』
葵も変わっている。
『ありがとうございます』
『真尋』
『何ですか』
『好きって言えてよかったね』
真尋は電車の窓に映る自分を見た。笑っている。
『はい』
*
誰かを部屋へ迎えることは、鍵を開けるだけではなかった。
自分の暮らしを見せる。残している物を見せる。見せたくない場所を伝える。入っていい場所を言葉にする。相手の希望を聞く。自分の不安を認める。近づきたい気持ちと、止まりたい気持ちの両方を話す。
真尋は、それを俊介と一つずつ行った。
葵も、母を自分の痛みへ迎え入れた。ただし、母の言葉を何でも受け入れたわけではない。
今は解決策を聞きたいのではない。苦しかったことを聞いてほしい。葵は、自分の心へ入っていい方法を伝えた。
誰かを迎えることと、境界をなくすことは違う。
扉を開けても、すべてを自由に触らせる必要はない。大切にしたい場所を、自分の言葉で伝えればいい。
そして、信頼できる相手は、その言葉を聞いて立ち止まる。踏み込まないことを、拒絶とは受け取らない。また開かれる日を待つ。
その待つ時間の中で、関係は弱くなるのではなく、少しずつ深くなる。
真尋の部屋には、俊介が座ったソファがある。葵が眠ったベッドがある。父の時計がある。母からもらった器がある。香織と飲んだカップがある。慎一との過去を越えて選んだ家具がある。
どの時間も、一つの部屋に重なっている。
俊介が入ったからといって、ほかの誰かの時間が消えるわけではない。新しい時間が、また一つ加わっただけだった。
真尋は自宅へ帰り、玄関の鍵を開けた。
「ただいま」
部屋へ言う。俊介から、すぐにメッセージが届く。
『お帰りなさい』
葵からも。
『お帰り』
真尋は二つの画面を見て笑った。
帰る場所は一つ。けれど、帰ってきたことを迎える人は一人ではない。それぞれ違う場所から、違う言葉でつながっている。
真尋はコートを脱ぎ、壁の写真の前に立った。
空いている余白は、まだある。
これから何を飾るかは決めていない。三人で会った日の写真かもしれない。俊介と旅へ出た時の景色かもしれない。葵が仕事の企画を形にした日の写真かもしれない。何も飾らず、空いたまま残すかもしれない。
決めなくてもいい。
未来のために空いている場所がある。それだけで、今は十分だった。




