第十五章 大切な人の隣で
葵が俊介と初めて会う日が決まったのは、真尋が自宅へ招いた翌週のことだった。
土曜日の午後一時。場所は、三人の職場や自宅から比較的行きやすい新宿の和食店。個室ではないが、隣の席との間に背の高い仕切りがあり、落ち着いて話せる店を真尋が選んだ。
葵は最初、真尋の部屋で会いたいと言った。
俊介が真尋の暮らしの中にいるところを見てみたい。二人がどのように並び、どのように話すのか知りたい。そんな気持ちがあった。
だが真尋は、初めて会う場所としては外のほうがいいと答えた。
誰かの部屋では、途中で疲れても帰るきっかけを作りにくい。三人とも緊張するのだから、食事が終われば一区切りにできる場所がよい。
俊介も賛成した。葵は少し残念に思ったものの、真尋の考えを受け入れた。
会えるだけでいい。そう自分へ言い聞かせた。
けれど、当日が近づくにつれ、葵の中には期待とは別の感情が膨らんでいった。
真尋の恋人。俊介。
写真では何度も見た。不忍池の前で振り返っている顔。旧岩崎邸の窓辺で建物の説明を読んでいる横顔。真尋の部屋の壁へ飾られた一枚。
穏やかな顔立ち。眼鏡。落ち着いた服装。真尋が好きになった人。
その事実を考えるたび、葵は嬉しくなった。
真尋が一人で抱えていた不安を話せる相手。会いたいと思える相手。触れたいと思った相手。真尋が、自分から好きだと伝えた人。
幸せになってほしい。本当にそう思う。
それでも、俊介に会うことを考えると、胸の中に小さな棘が生まれた。
真尋の隣に、知らない人が座る。自分より先に真尋の手を取り、真尋の部屋へ入り、口づけを交わした人。
以前なら、真尋の生活に最も深く入ったのは自分だと思えた。
別れた夜、泊めてもらった。同じベッドで眠った。手を握ってもらった。朝食を作り、台所へ並び、泣きながら直哉の話をした。真尋の部屋に歯ブラシまで置いている。
だが俊介は、葵とは違う場所へ入っていく。恋人として。
その場所は、葵には入れない。入る必要もない。
頭ではわかっていた。けれど心は、きれいに整理されなかった。
*
約束の日の朝、葵はクローゼットの前で三着の服を並べていた。
白いニット。薄い青のブラウス。秋田で着ていた、柔らかな黄色のカーディガン。
俊介へ良く見られたいわけではない。真尋の友人として、きちんとした人だと思ってほしいだけだ。
そう考えながら、鏡の前で何度も服を替えた。自分でも、なぜここまで迷うのかわからない。
俊介に認められたい。真尋にとって、自分が大切な人だと理解してほしい。そして、邪魔ではないと思ってほしい。
葵はその気持ちに気づき、鏡から目をそらした。
「何を競ってるんだろう」
一人で呟く。
俊介と葵は、同じ場所を取り合う関係ではない。真尋も、何度も言っていた。大切な形が違う。比べなくていい。
葵は黄色のカーディガンを手に取った。秋田で真尋と出会った時に着ていたもの。あの旅から、すべてが始まった。
これを着れば、俊介へ何かを示しているように見えるだろうか。真尋と出会ったのは自分が先。そのような主張をしているようで、少し嫌だった。
葵はカーディガンを戻し、白いニットを選んだ。深い緑のスカート。普段の自分に近い服。
俊介へ会うための特別な自分ではなく、今の自分で行く。
*
化粧をしながら、スマートフォンを見る。直哉からの新しい連絡はない。
荷物を送ってから、必要なやり取りは終わった。最後に届いたのは、
『届いたよ。いろいろ考えてくれてありがとう』
という短い文章だった。葵は既読をつけ、返信しなかった。
あれから一週間。
直哉へ会いたい気持ちは消えていない。朝、目を覚ました時。仕事で企画が少し進んだ時。帰り道に二人で行った店を通った時。誰かに伝えたい出来事があるたび、直哉の名前が浮かぶ。
それでも、連絡しなかった。我慢しているというより、まだ話す時ではないと思えた。
戻りたいと願う自分と、戻らずに進みたい自分。どちらもいる。その間に立ったまま、毎日を過ごしている。
今日、俊介に会えば、真尋の新しい幸せを目の前で見ることになる。自分だけが過去に残っているように感じるかもしれない。そのことも少し怖かった。
葵はバッグへ財布とスマートフォンを入れた。棚に飾った二人の影の写真を見る。
「行ってきます」
写真へ声をかけ、部屋を出た。
*
真尋も同じ朝、自宅で落ち着かない時間を過ごしていた。
葵と俊介を会わせる。自分にとって大切な二人が、同じ場所へ座る。楽しみだった。だが、少し不安もある。
葵は、俊介のことを好意的に受け入れている。俊介も、葵に会いたいと言っている。それでも実際に会えば、想像とは違う感情が生まれるかもしれない。
葵は質問が多い。俊介は穏やかだが、言葉を選びすぎる時がある。互いに真尋を大切に思っているからこそ、相手の言葉へ敏感になることもあるだろう。
真尋が間へ入り、すべてを整えようとすれば、二人とも本音を言えなくなる。だから今日は、必要以上に仲介しないと決めていた。
葵と俊介は、真尋を通して会う。だが会った後は、二人自身の言葉で相手を知ってほしい。
真尋はクローゼットから、淡い青のブラウスを取り出した。濃紺のパンツ。仕事の服ほど硬くなく、恋人と二人で会う時ほど柔らかくしない。
なぜ服で均衡を取ろうとしているのかと、自分でも少し可笑しくなる。
スマートフォンが鳴った。俊介からの電話だった。
「もしもし」
『おはようございます』
「おはようございます」
『今日ですが』
「はい」
『少し緊張しています』
真尋は吹き出した。
「葵も、たぶん同じです」
『質問を考えているでしょうか』
「かなり」
『何を聞かれると思います?』
「私をどう思っているか」
『好きです、と答えます』
「その後、どこが好きか聞かれます」
『考えてあります』
「準備したんですか」
『少し』
俊介の真面目さに、真尋は笑ってしまう。
『笑いました?』
「はい」
『試験を受ける気分です』
「葵は試験官ではありません」
『でも、真尋を任せられるか見られる気がします』
「私は、誰かに任せられるものではありません」
真尋が言うと、電話の向こうで俊介が黙った。
『そうですね』
「葵にも、同じことを言います。私が俊介を選びました。葵の許可が必要なわけではありません」
『わかっています』
「でも、葵に理解してもらいたいです」
『僕もです』
*
「俊介。葵の前で、無理に良い人にならなくていいです」
『良い人ではない部分を見せても?』
「はい」
『たとえば?』
「嫉妬すること」
『言ってもいいですか』
「葵を責めなければ」
『はい』
「葵も、寂しさを隠さないと思います」
『真尋は?』
「私は、二人がわかり合えなければ不安です。でも、必ず親しくならなくてもいいと思っています。互いを嫌わず、私にとって大切な人だと理解してくれれば」
『僕は、仲良くなりたいです』
「葵と?」
『はい』
「どうして?」
『真尋が大切にしている人のことを知りたいからです。それに』
俊介は言葉を止めた。
『葵さんがいることで、真尋が一人で抱え込まずに済むと思うからです』
真尋の胸が温かくなる。
「ありがとうございます」
『ただ、少し嫉妬もしています』
「何に?」
『秋田です』
予想外の答えだった。
「秋田?」
『真尋と葵さんが出会った場所。僕には入れない時間です』
「過去だから?」
『はい。それから、二人だけの意味がある場所だから』
真尋は壁の写真を見る。二人の影。
「いつか、俊介とも行きますか」
口にした後、少し違うと感じた。俊介も同じように感じたのか、返事まで間があった。
『行きたいです。でも』
「はい」
『最初に戻るなら、葵さんと二人で行ってほしい気もします』
真尋は黙った。
『二人が、あの旅の続きをする時間も必要だと思います』
「俊介は寂しくない?」
『寂しいです』
「はい」
『でも、僕が入らないほうがいい時間もあります』
真尋は窓の外を見る。
秋田。角館。紅葉。宿。葵と歩いた道。
いつか、また二人で行きたい。以前から思っていた。
その旅は、俊介がいてもよい旅とは少し違う。俊介を除けたいのではない。葵と二人で確かめたいものがある。
「いつか、葵と行きます」
『はい』
「帰ったら、写真を見せます」
『楽しみにしています』
「俊介とも、別の場所へ行きます」
『約束です』
「はい」
*
真尋が店へ着いた時、俊介はすでに入口の前に立っていた。約束の十五分前。
「早いですね」
真尋が声をかけると、俊介は照れたように笑った。
「緊張して、家にいられませんでした」
「電話でも聞きました」
「その後、さらに」
真尋は俊介の服を見る。濃いグレーのジャケット。白いシャツ。仕事ほど硬くないが、普段より整っている。
「葵へ会うために?」
「失礼がないように」
「面接ではありません」
「真尋も言いました」
俊介が真尋の服を見る。
「似合っています」
「ありがとうございます」
「今日は、手をつながないほうがいいですか」
俊介が小さな声で尋ねる。
「どうして?」
「葵さんが寂しくなるかもしれない」
真尋は考えた。
手をつなぐことを見せつける必要はない。だが葵の前だからといって、二人の関係を隠す必要もない。
「俊介は、つなぎたいですか」
「はい」
「私もです」
真尋は自分から手を差し出した。俊介が握る。
「葵が来るまで」
「はい」
二人は入口近くで並んだ。
数分後、人の流れの中に白いニット姿の葵が見えた。真尋を見つけ、笑顔になる。
その直後、つながれた手へ視線が落ちた。笑顔がほんの一瞬だけ止まる。
真尋は見逃さなかった。俊介も気づいたのか、手の力が少し緩んだ。
真尋は離さなかった。代わりに、葵へ向かって笑った。
「葵」
「お待たせしました」
「私たちも今来たところです」
「嘘。俊介さん、早く来てた顔してる」
初対面の相手へ、すでに名前を口にする。俊介が驚き、それから笑った。
「黒田俊介です。初めまして」
「小野寺葵です」
二人は軽く頭を下げた。真尋が二人を見比べる。
写真で見ていた人が、互いの前に立っている。
「俊介さん」
葵が言った。
「はい」
「真尋から、いろいろ聞いてます」
「僕も、葵さんのことを聞いています」
「どこまで?」
「秋田で出会ったこと。失恋した時に真尋の部屋へ泊まったこと。仕事の企画。料理を始めたこと」
「それだけ?」
葵が真尋を見る。
「それだけで十分でしょう」
「もっと話してると思った」
俊介の口元が緩んだ。
「真尋は、葵さんのことを話す時、表情が柔らかくなります」
葵の顔が明るくなる。
「本当?」
「はい」
「俊介のことを話す時もです」
真尋が言うと、俊介が照れたように眼鏡へ触れた。
「店へ入りましょう」
真尋が促した。
*
三人は四人掛けのテーブルへ案内された。真尋と俊介が隣に座り、葵が向かいへ座る形になった。
席へ着いてから、真尋は迷った。
葵の隣へ座ったほうがよかっただろうか。俊介を一人にすれば、恋人として不自然だろうか。
その迷いが表情に出たのか、葵が言った。
「真尋、こっちに座らなくていいよ」
「何も言っていません」
「顔に出てる」
「葵は、私の顔を読みすぎです」
「俊介さんの隣でいい」
葵の声は明るい。だが少しだけ力が入っている。俊介も気づいたようだった。
「次に席を替えますか」
俊介が言う。
「どうして?」
「食後のお茶の時に、真尋が葵さんの隣へ」
「必要ありません」
葵が答えた。強い言い方になり、葵自身が気づいて視線を落とす。
「ごめんなさい」
「何が?」
真尋が尋ねる。
「少し、変な感じがして」
「何が変ですか」
「写真で見てた二人が、本当に隣にいるから」
葵は正直に言った。俊介は黙って聞いている。
「嬉しいんです」
葵は続けた。
「でも、真尋の隣が、私の知らない場所になったみたいで」
真尋の胸が痛む。俊介は葵を見た。
「僕も似た気持ちがあります」
葵が顔を上げる。
「俊介さんも?」
「秋田の話を聞く時です」
「秋田?」
「真尋と葵さんだけが知っている時間がある。その場所へ、僕は入れない」
葵は意外そうに俊介を見る。
「恋人なのに?」
「恋人でも」
「俊介さんは、真尋の今とこれからにいる」
「葵さんは、真尋が変わり始めた時間にいる」
二人の視線が向かい合う。真尋は言葉を挟まずに待った。
「私も、これからにいます」
葵が言った。
「もちろんです」
「秋田だけじゃない。真尋とは、これからも会うし、旅行もする」
「はい」
俊介は否定しない。
「僕も真尋と旅行したいです」
「それは、してください」
葵の声に、少しだけ競う響きが混ざる。
真尋は口を開きかけたが、俊介が先に話した。
*
「葵さん。僕は、真尋との時間を増やしたいです」
「はい」
「そのことで、葵さんが寂しくなることもあると思います」
葵の表情が硬くなる。
「でも、葵さんとの時間を減らしてほしいとは思っていません」
「本当ですか」
「はい」
「二人で旅行しても?」
「寂しいですが」
俊介は正直に答えた。
「止めたいとは思いません」
「どうして?」
「真尋が、葵さんといる時に得ているものを、僕一人で代わりに渡すことはできないからです」
葵は黙った。真尋も、胸の中へ言葉が沈むのを感じた。
「俊介さんは、真尋に何を渡せるんですか」
葵が尋ねる。試すような言い方に聞こえた。俊介はすぐには答えなかった。
「すべてではありません」
「はい」
「僕といる時にしか生まれない時間を、一緒に作りたいです」
「恋人だから?」
「恋人だから生まれるものもあります。でも、名前だけでは作れません」
「手をつないだり、キスしたり?」
真尋は思わず葵を見る。
「葵」
「ごめん。でも、聞きたかった」
俊介は困ったように笑った。
「それも、僕たちの間にあるものです」
「私はできない」
葵が言う。真尋は胸が詰まる。
「葵がする必要はありません」
「わかってる」
葵は手元のお茶を見る。
「でも、真尋のことを大切に思う気持ちは、負けてない」
俊介は、真剣な表情で葵を見た。
「勝ち負けではないと思います」
「わかっています」
「僕も、真尋を大切にしたいです」
「はい」
「葵さんも」
「はい」
「なら、同じ人を大切にする人として、話せたら嬉しいです」
葵は俊介を見た。しばらくして、小さく頷く。
「私、面倒ですよ」
「真尋から聞いています」
「真尋」
「そこまでは言っていません」
三人の間に、笑いが生まれた。硬かった空気が、わずかに緩む。
*
料理が運ばれてきた。季節の御膳。焼き魚。炊き込みご飯。小鉢。茶碗蒸し。
葵は茶碗蒸しを一口食べ、落ち着いた表情になる。
「おいしい」
「よかったです」
真尋が言う。
「真尋は、私が食べるとすぐ安心する」
「食べられなかった時期を知っているので」
俊介が葵を見る。
「今は、料理もしているんですよね」
「はい。卵焼きは、真尋より上手くなりました」
「それは違います」
「一度作って比べましょう」
「俊介さんに判定してもらう」
「僕ですか」
「真尋の味方をしそう」
「味で決めます」
「本当?」
「建物より、料理の評価は公平です」
俊介が言うと、葵が初めて自然に笑った。
「俊介さん、真面目ですね」
「よく言われます」
「真尋と似てる」
「そうでしょうか」
「二人とも、何でも言葉にしようとする」
葵は箸を置いた。
「私は、感情から先に出る」
「それは強みです」
俊介が言う。
「真尋から聞きました。仕事の企画でも、人の気持ちを想像することが得意だと」
「そこまで話したの?」
「はい」
「真尋、私のこと褒めてる」
「事実を話しただけです」
葵は嬉しそうにご飯を食べた。
*
「俊介さんは、真尋のどこが好きなんですか」
予想されていた質問が来た。俊介は姿勢を少し整える。
「準備した答え?」
葵が尋ねる。
「少し考えました」
「正直」
「その場で良く見せる答えを言うよりいいと思ったので」
「聞きます」
俊介は隣の真尋を一度見た。
「強いところです」
「最初から?」
「最初は、強い人だと思いました」
「今は?」
「強くいようとする人だと思っています」
真尋は俊介を見る。
「一人で何でもできるように見える。でも、本当は迷うし、疲れるし、寂しさもある。それを少しずつ言葉にしてくれるところが好きです」
葵は黙って聞いている。
「仕事を大切にするところ。写真を撮る時、見えないものまで残そうとするところ。葵さんやお母様、友人を大切にするところ」
「私も入ってる」
「はい」
「嫌じゃない?」
「何がですか」
「真尋が、私のことをたくさん考えるの」
「寂しい時はあります」
「やっぱり」
「でも、その部分も含めて真尋です」
俊介は穏やかに言った。
「葵さんとの関係をなくした真尋は、僕が好きになった真尋とは少し違うと思います」
葵の目が、わずかに潤んだ。
「それ、ずるい」
「何が?」
「そんなこと言われたら、嫌いになれない」
俊介が困ったように笑う。
「嫌われる覚悟もしていました」
「真尋を取る人だと思ってた」
「取れません」
「恋人なのに?」
「真尋は、僕の所有物ではありません」
真尋は、朝の電話で自分が言ったことを思い出す。任せられるものではない。俊介は、それを自分の言葉として受け取っている。
*
「葵」
真尋が呼ぶ。
「何?」
「私は、ここにいます。俊介の隣に座っていても、葵の友達であることは変わりません」
葵は少し下を向いた。
「友達」
小さく繰り返す。
「何ですか」
「私たちって、友達なのかなって時々思う」
真尋は葵を見る。俊介も口を挟まず待っている。
「友達でしょう」
「そうだけど」
「違いますか」
「友達より近い気がする」
葵は自分の言葉を探す。
「家族じゃない。恋人でもない。でも、ただの友達って言うと、少し足りない」
真尋の胸が静かに揺れた。
何度か、自分も同じことを感じていた。
旅先で出会って、まだ長い年月を過ごしたわけではない。それでも、葵の痛みを知っている。葵も、真尋の怖さを知っている。
日常の報告をし、食事を作り、同じベッドで眠った。互いの生活へ入りながら、依存しすぎない方法を探している。
「友情以上という意味ですか」
俊介が静かに尋ねた。葵は少し慌てる。
「恋愛という意味じゃないです」
「わかっています」
「でも、大切な人って言葉だけでも足りない気がして」
「名前が必要ですか」
俊介の問いに、葵は考えた。
「わからない」
真尋が答える。
「私は、今すぐ名前をつけなくてもいいと思います」
「真尋も、足りないと思う?」
「はい」
葵が顔を上げる。
「私も、葵を友人と紹介します。でも、その言葉の中に全部は入りません」
「じゃあ、何?」
「今は、わかりません」
「俊介には恋人って名前がある」
「はい」
「私にはない」
寂しそうな言葉だった。俊介が考え、口を開く。
「名前がないから、弱い関係とは限らないと思います」
葵が俊介を見る。
「僕と真尋には恋人という名前があります。でも、その名前だけで関係が続くわけではありません」
「はい」
「真尋と葵さんの間には、まだ呼び方がない。でも、二人が互いを大切にしてきた時間はあります」
「はい」
「名前より、積み重ねのほうが強いこともあると思います」
葵はしばらく黙り、それから真尋へ言った。
「いつか、秋田にまた行こう」
「はい」
「二人で」
俊介の前で、はっきり言う。真尋は俊介を見た。俊介は寂しそうに笑い、頷いた。
「行ってきてください」
「本当に?」
葵が尋ねる。
「はい」
「寂しいのに?」
「寂しいです」
「それでも?」
「二人で確かめることがあるのでしょう」
真尋の胸に、その言葉が残る。
二人で確かめる。何を。友情以上の仲。名前のない関係。
秋田へ戻った時、自分たちは今より何を知っているだろう。
「帰ったら、写真を見せます」
真尋が言う。
「一番最初に?」
俊介が尋ねる。
「はい」
「約束です」
葵は思わず笑った。
「俊介さんも、真尋と旅行して」
「します」
「どこへ?」
「まだ決めていません」
「建物が多いところ?」
「真尋が行きたい場所です」
「真尋、合わせてもらいすぎないでね」
「私が決めます」
「ならいい」
葵の声から、少し棘が取れていた。
*
食事が進むにつれ、三人の会話は仕事や旅行へ移った。
俊介が設計した図書館。葵の企画。真尋の部下。美月。香織。
互いに名前だけ聞いていた人々が、少しずつ輪郭を持ち始める。
「葵さんの企画の言葉、真尋から聞きました」
俊介が言う。
「今日も、ここまで来たあなたへ」
「はい」
「いい言葉ですね」
「建築士にも届きます?」
「現場で問題が続いた日に、商品を見たら買うと思います」
「男性も対象に入れましょうか」
「僕のために?」
「購買データがあれば」
葵は仕事の顔になっていた。
「俊介さん、食べるならどんな時ですか」
「夕方、図面の修正が終わらない時」
「どんな言葉なら手に取る?」
「もう少し頑張れ、ではないもの」
「やっぱり」
「休んでもいい、だと仕事を止められない時には困る」
「わかります」
葵はスマートフォンへメモを取る。
「今、仕事?」
真尋が尋ねる。
「良い意見だから」
「食事中です」
「後で忘れる」
俊介は声を立てて笑った。
「葵さん、本当に企画が好きなんですね」
「前は、自信なかったです」
「今は?」
「まだない。でも、面白いと思うことは言えるようになった」
「それは強いですね」
「真尋に教わりました」
「僕も、真尋に教わっています」
「何を?」
「自分の不安を、相手のせいにせず話すこと」
葵が真尋を見る。
「真尋、先生みたい」
「私も二人から教わっています」
「何を?」
「葵からは、感情を隠さないこと」
「俊介さんからは?」
「待つこと。聞くこと」
俊介が照れたように笑う。
「では、三人とも先生です」
葵が言った。
「時々、生徒」
「はい」
三人は笑った。
*
食後、店を出ると、午後三時を少し過ぎていた。
当初は食事だけで解散する予定だった。だが葵が、近くでお茶を飲みたいと言った。
「もう少し話したい」
俊介へ向けて言う。俊介は驚き、嬉しそうに頷いた。
三人は駅近くの喫茶店へ移った。今度は真尋が葵の隣へ座り、俊介が向かいへ座った。
「席替え」
葵が小さく言う。
「必要ないと言ったでしょう」
「でも、嬉しい」
真尋は何も言わず、葵の隣へ座った。俊介はその様子を見て、穏やかに笑っている。
「寂しくないですか」
真尋が尋ねる。
「少し」
俊介は答える。
「でも、今はこの席が自然です」
葵がメニューを開きながら言う。
「俊介さん、本当に何でも正直に言いますね」
「真尋と約束したので」
「嫌なことも?」
「できるだけ」
「私のこと、面倒だと思いました?」
俊介はすぐに否定しなかった。
「少し、緊張しました」
「面倒では?」
「質問が多いとは思いました」
「やっぱり」
「でも、理由がわかるので嫌ではありません」
「理由?」
「真尋を大切にしているから」
葵はメニューへ視線を落とした。
「それだけじゃない」
「はい」
「私が、真尋に必要とされたいから」
葵は自分から認めた。
「直哉と別れて、一人になった時、真尋がいてくれた。真尋がいなかったら、たぶん会社にも行けなかった」
「はい」
「だから、真尋の生活に私がいなくても大丈夫になるのが、少し怖い」
真尋は葵を見る。
「葵」
「わかってる。私がいなくても大丈夫でいてほしい。でも、私がいる意味もほしい」
俊介はしばらく考えてから言った。
「その気持ちは、僕にもあります」
「俊介さんにも?」
「真尋が一人でも生きられることは知っています。それでも、僕がいることで少し楽になったり、楽しくなったりしてほしい」
「必要とされたい?」
「はい」
「同じなんだ」
「でも、必要とされることだけを関係の理由にすると、相手が元気になった時に自分の場所がなくなる気がします」
葵は黙った。まさに自分が感じていたことだった。
「僕は、真尋が困っていなくても会いたいです」
俊介が続ける。
「葵さんも、そうでしょう」
「はい」
「なら、助ける必要がなくなっても、関係は残ると思います」
「会いたいから会う」
葵が言う。
「はい」
*
真尋は葵の手元を見る。
以前、葵が会社へ行けるか不安だった朝。必要だからそばにいた。
今は違う。葵は自分で生活している。仕事へ行き、母へ話し、美月に頼る。それでも真尋は会いたい。
「葵。私は、葵を助けるためだけに会っているのではありません」
「うん」
「葵と話したい。旅行へ行きたい。食事をしたい。仕事の話も聞きたい」
「うん」
「葵が一人で大丈夫になっても、会いたいです」
葵の目に涙が浮かぶ。
「今、泣く?」
「少し」
俊介が紙ナプキンを差し出す。葵は受け取りながら笑った。
「ありがとうございます」
「初めて役に立てました」
「さっきも、いろいろ」
飲み物が運ばれてくる。真尋は紅茶。葵はミルクティー。俊介はコーヒー。
秋田の喫茶店でも、葵はミルクティーを飲んだ。真尋はそのことを思い出す。
「秋田へ行くなら、いつがいい?」
葵が突然尋ねた。
「まだ予定を決めるんですか」
「秋」
「一年近く先です」
「紅葉の時期」
出会った季節。
「同じ宿へ泊まりたい」
「予約が取れれば」
「女将さん、覚えてるかな」
「覚えていると思います」
「姉妹みたいって言われた」
「姉妹に見えます?」
葵が尋ねる。
「年齢は離れていますが、似ているところはあります」
「どこ?」
「大切なことになると、相手に譲るようで譲らない」
真尋と葵は顔を見合わせた。
「似てる?」
「どうでしょう」
「真尋は頑固」
「葵も」
「ほら」
俊介が言い、三人は笑った。
*
「秋田へ行ったら、何を確かめたいんですか」
俊介が静かに尋ねる。葵はミルクティーの表面を見る。
「私たちが、どういう関係なのか」
「名前を?」
「名前というより」
葵は真尋を見る。
「離れても、変わらないか」
真尋は胸が詰まる。
「これから、私に新しい恋人ができるかもしれない。真尋と俊介さんの関係も深くなる。会う回数が減るかもしれない」
「はい」
「それでも、秋田へ行った時に、あの時と同じように歩けるか」
真尋は葵の言葉を聞いた。
同じように。だが、きっと同じではない。
次に秋田へ行く時、二人は今より違う自分になっている。真尋には俊介がいる。葵は直哉との別れを越え、自分の人生を歩いているかもしれない。
それでも、二人で歩く。
「同じでなくてもいいと思います」
真尋が言った。
「違っても?」
「はい。変わった二人で、また歩けばいい」
「それでも、私たち?」
「はい」
「何て呼ぶ?」
「その時に考えましょう」
「秋田で?」
「はい」
俊介は二人を見ていた。寂しさのある、穏やかな表情。
「俊介」
真尋が呼ぶ。
「はい」
「その時、待っていてくれますか」
「待っています」
「帰る場所として?」
俊介は考えた。
「帰る場所の一つとして」
真尋は頷いた。葵も、その言葉を静かに受け取った。
*
喫茶店を出たのは、午後五時近くだった。
駅の改札まで三人で歩く。真尋と葵が並び、俊介はその隣を歩いた。誰が真ん中でもよかった。
途中、葵が俊介へ尋ねる。
「俊介さん。真尋が、一人旅へ行くって言ったら?」
「気をつけて行ってきて、と言います」
「寂しい?」
「はい」
「止めない?」
「止めません」
「帰ってこなかったら?」
真尋が葵を見る。
「どういう意味ですか」
「旅が楽しくて、もっと長くいたくなったら」
俊介は考える。
「相談してほしいです」
「帰ってこいとは?」
「仕事や約束があるなら言います。でも、真尋の人生を僕だけで決めません」
葵は頷いた。
「合格」
「試験ではないと」
「今のは、私の中で」
「葵」
「冗談」
俊介は苦笑しながらも、安心したようだった。
改札へ着く。葵の路線は別方向。
「今日は、ありがとうございました」
俊介が葵へ頭を下げる。
「こちらこそ」
葵は迷い、それから言った。
「俊介さん」
「はい」
「真尋を、よろしくお願いしますって言わないです」
俊介は葵を見る。
「はい」
「真尋が、自分で俊介さんを選んだので」
「はい」
「でも、真尋が無理してたら教えてください」
「真尋本人へ先に聞きます」
葵は驚き、それから笑った。
「その答えがいいです」
「葵さんも」
「私も?」
「真尋のことを一人で心配して、本人へ聞かずに決めないでください」
「わかりました」
「それから」
俊介は照れたように言う。
「また会ってください」
「いいんですか」
「はい」
「質問多いですよ」
「覚悟します」
「次は、卵焼き対決」
「僕が判定を?」
「はい」
「公平にします」
葵は吹き出した。
「俊介さん。今日会えてよかったです」
「僕もです」
葵は真尋を見る。
「真尋。また連絡する」
「はい」
「今日は、俊介さんと帰って」
「途中までです」
「それでいい」
葵は二人へ手を振り、改札へ入った。
*
ホームへ向かう階段を下りながら、葵は胸の中を確かめた。
寂しい。けれど、朝ほどではない。
俊介は、真尋を奪う人ではなかった。真尋の隣に、自分とは違う形で立つ人。葵が入れない場所へ入る。
だが葵にしかいない場所もある。
それは先に出会ったからでも、失恋の夜に泊めてもらったからでもない。積み重ねた言葉。互いに見せた弱さ。同じ道を歩きたいと思う気持ち。
恋愛ではない。家族でもない。ただの友達と言えば、少し足りない。
今は、名前がなくてもいい。秋田へ戻った時、もう一度考える。
葵はホームで電車を待ちながら、スマートフォンを取り出した。直哉のトーク画面は開かなかった。代わりに、美月へ送る。
『真尋の恋人に会った』
すぐに返信が来る。
『どうだった?』
『いい人だった』
『悔しい?』
『少し』
『正直』
『でも、安心した』
『真尋さん、幸せそう?』
葵は今日の真尋を思い出す。俊介の隣で笑う顔。葵の言葉を聞く時の顔。どちらも真尋だった。
『幸せそうだった』
『よかったね』
『うん』
葵は画面を閉じた。電車が入ってくる。
自分の部屋へ帰る。今夜も一人。だが、孤独ではない。
*
改札の外では、真尋と俊介が並んで歩き始めていた。
「どうでした?」
真尋が尋ねる。
「緊張しました」
「葵は?」
「想像より、素直でした」
「想像では?」
「もっと厳しい質問を」
「十分したでしょう」
「はい」
俊介の口元が緩んだ。
「でも、会えてよかったです」
「本当に?」
「はい」
「嫉妬は?」
「あります」
「何に?」
「秋田」
「まだ?」
「今日、さらに」
俊介は正直に言った。
「二人にしかない関係を、目の前で感じました」
「はい」
「少し寂しいです」
「私も、俊介の大学時代の友人に会えば同じかもしれません」
「はい」
「でも、葵を大切にする私を好きだと言いましたね」
「言いました」
「その言葉を信じていいですか」
「はい」
俊介が真尋の手へ触れた。真尋は指を重ねる。二人で歩く。
「真尋。秋田へ行ってきてください」
「まだ先です」
「その時が来たら」
「はい」
「二人が何を確かめるのか、僕には全部わからないと思います」
「はい」
「でも、帰ってきた真尋の話を聞きたいです」
「話します」
「最初に?」
葵と同じことを聞く。真尋は笑った。
「最初に俊介へ話したいことは、俊介へ」
「はい」
「葵との間に置いておきたいことは、置いておきます」
俊介は一瞬、寂しそうな顔をした。それでも頷いた。
「わかりました」
「嫌ですか」
「少し寂しいです。でも、すべてを知ることだけが近さではないと思うので」
「ありがとうございます」
「真尋も、僕と友人の間にあることを全部知らなくていい」
「不安です」
「はい」
「でも、聞きたいことは聞きます」
「聞いてください」
二人は駅へ向かって歩いた。
*
その夜、葵は一人で夕食を作った。
人参と玉ねぎ、豚肉の炒め物。少し味が濃くなった。それでも、ご飯と一緒に食べればちょうどいい。
テレビはつけなかった。俊介の言葉を思い返していた。
必要とされることだけを関係の理由にすると、相手が元気になった時に自分の場所がなくなる。
葵は、直哉との関係でも必要とされたいと思っていた。
料理を作る。予定を合わせる。忙しい直哉を支える。直哉が自分を必要とすれば、離れていかないと思っていた。
しかし、必要とされるために自分を小さくするほど、二人の関係は息苦しくなった。
真尋との関係でも、同じことをしかけていた。
真尋に頼られる自分でいたい。真尋の一番近くでいたい。俊介より自分のほうが、真尋を理解していると思いたい。
だが、真尋が元気でも、自分を必要としなくても、会いたい。それでいいのだ。
葵は食事を終え、食器を洗った。棚の青いカップへ湯を注ぎ、紅茶を淹れる。
直哉が使っていたカップ。今は葵が使うカップ。持つたびに思い出す。それでも、痛みは以前より少し薄い。
「直哉」
名前を口にする。
好きだった。今も、好きだと思う。会いたい。戻りたい瞬間もある。
けれど、今日俊介と真尋を見て、葵は一つ気づいた。
関係を始め直すには、好きという気持ちだけでは足りない。
俊介と真尋は、互いに不安を言い、境界を話し、相手の大切な人まで受け入れようとしている。完璧ではない。嫉妬もある。寂しさもある。それでも二人は、言葉にしている。
直哉と戻るなら、同じように関係を作り直さなければならない。
だが葵は、自分が本当に直哉とそれをしたいのか、まだわからなかった。
うまくいっていた頃へ戻りたいだけではないか。あの頃の安心へ。恋人がいる自分へ。将来があると思えた日々へ。
直哉という人と、新しい関係を作りたいのか。その問いには、すぐ答えられない。
葵はノートを開いた。
『私が大切にしたいこと』
その下へ、新しい一文を書く。
『必要とされるためではなく、会いたいから会う』
考え、さらに続ける。
『好きだった頃へ戻るのではなく、今の相手と一緒にいたいか考える』
ペンを止める。
今の直哉。仕事で余裕を失い、葵との未来を考えられなくなった人。優しいが、傷つけることを恐れて黙る人。葵を嫌いではなくても、関係を続ける努力から逃げた人。
その直哉と、もう一度向き合いたいか。
葵はまだ、はいと言えなかった。そのことに、驚いた。
以前は、直哉が戻ると言えば迷わず頷くと思っていた。今は、自分の意思を確認したいと思っている。
直哉に選ばれるかではない。自分が直哉を選び直すのか。
葵はノートを閉じた。
*
真尋は自宅へ戻ると、俊介へ先に電話をした。葵との食事について、互いに感じたことを話す。
「葵は、俊介に会えて安心したと思います」
『僕も、葵さんに会えて安心しました』
「何に?」
『真尋が、なぜあれほど大切にしているのかわかったので』
「わかりました?」
『はい。感情が素直で、人のことをよく見ている』
「入りすぎる時もあります」
『僕も、考えすぎて入る時があります』
「形が違うだけ?」
『はい』
「嫉妬は、まだ?」
『あります』
「私も、葵と秋田へ行くと言った時、俊介がどんな顔をするか気にしました」
『寂しい顔をしました』
「はい」
『止めてほしかったですか』
真尋は考えた。
「少しだけ」
『なぜ?』
「それほど私と離れたくないと思ってほしかった」
『思っています』
「はい」
『でも、止めることが愛情だとは思いません』
「わかっています」
『真尋も、僕の旅行を止めますか』
「女性の友人がいると聞いたら、止めたくなるかもしれません」
『はい』
「でも、まず話を聞きます。不安だと言います」
『はい』
二人は、今日生まれた感情を一つずつ言葉へ置いた。
俊介が葵へ感じた嫉妬。真尋が二人を会わせることへ抱えた不安。葵が真尋の隣を失ったように感じたこと。それでも、三人でまた会いたいと思えたこと。
「俊介。今日は、ありがとうございました」
『僕のほうこそ』
「葵を否定せずに聞いてくれて」
『真尋を大切にしたいので』
「はい」
『葵さんと僕は、真尋を通して会いました。でも次は、葵さん自身の話も聞きたいです』
「直哉さんのこと?」
『無理にではなく。仕事や、家族や、これからしたいことを』
「葵も喜びます」
『僕の話もします』
「建物以外も?」
『努力します』
真尋は思わず笑った。
「次は、卵焼き対決です」
『本当にするんですか』
「葵は本気です」
『真尋は?』
「負けません」
『公平に判定します』
「俊介が食べ比べたら、葵の味方をするかもしれません」
『なぜ?』
「初対面で緊張させたお詫びに」
『味で決めます』
「真面目ですね」
『褒め言葉として受け取ります』
*
電話を切った後、真尋は葵へ短いメッセージを送った。
『今日は会ってくれて、ありがとうございました』
葵からすぐに返事が来る。
『こちらこそ』
『疲れました?』
『少し』
『私もです』
『俊介さん、いい人だった』
『はい』
『少し悔しい』
『何が?』
『真尋が好きになるの、わかったから』
真尋は声を立てて笑った。
『葵にも、いつか会いたいと思う人ができます』
送った後、迷う。直哉のことを忘れ、新しい人へ進めと言っているように受け取られないか。
葵からの返事は遅れた。
『今は、まだわからない』
『はい』
『直哉じゃない人を好きになるの、想像できない』
『想像しなくていいです』
『でも、直哉に戻ることも、少し違う気がしてきた』
真尋は画面を見つめた。
『今日、そう思ったんですか』
『うん』
『どうして?』
『真尋と俊介さんが、前に戻るんじゃなくて、今の二人で関係を作ってるのを見たから』
『はい』
『私は直哉と戻ったら、前みたいに戻りたいって思う』
『はい』
『でも、前には戻れない』
『はい』
『新しく作り直したいかは、まだわからない』
葵は、自分で大切な場所へ近づいている。真尋は答えを与えず、言葉を返す。
『わからないことが、今の答えですね』
『うん』
『急がなくていいです』
『でも、いつかは決める』
『葵が決めたい時に』
『うん』
少しして、葵からもう一通届いた。
『秋田、絶対に行こうね』
『はい』
『俊介さんがいても、二人で』
『はい』
『そこで、私たちの関係を考えたい』
『私もです』
『友達より大切って、変かな』
真尋は壁の二人の影を見る。影は、同じ方向へ伸びている。
『変ではありません』
『真尋も?』
『はい』
『嬉しい』
『私も』
『おやすみ』
『おやすみなさい』
*
翌週、葵の企画は社内の最終審査へ進んだ。
会議室には、部長、課長、営業担当、デザイナー、石橋、葵が集まった。
中央の画面には、新商品のパッケージ案が映っている。淡い色。控えめな商品写真。そして、
『今日も、ここまで来たあなたへ』
という言葉。
部長が資料をめくる。
「この言葉は、少し情緒的すぎないか」
以前の葵なら、その一言で自信を失っただろう。石橋へ視線を向け、助けを求めたかもしれない。
今日は、自分で答える。
「情緒的です」
葵が言うと、部長が顔を上げる。
「認めるのか」
「はい。ただ、商品を買う理由は機能や価格だけではありません」
「根拠は?」
「働く女性への調査では、午後に甘いものを買う理由として、空腹より気分転換が多く挙げられています」
画面へデータを出す。
「また、頑張れ、もう少しという言葉より、自分を認める言葉に好意的な反応がありました」
「この言葉で売上が上がる保証は?」
「ありません」
会議室が静かになる。石橋が葵を見る。葵は続けた。
「ただ、テスト販売で三種類の言葉を比較できます。最初から一つへ決めず、反応を数字で確認します」
「なら、この言葉へこだわる必要はないのでは?」
「私は、これを一番届けたいと思っています」
葵ははっきり言った。
「理由は?」
「頑張った成果ではなく、その日を過ごしたこと自体を認める言葉だからです」
葵は会議室にいる人々を見た。
「何もできなかったと思う日でも、朝起きて、仕事へ来て、ここまで時間を過ごした。その人に、まだ頑張れと言うのではなく、ここまで来たと伝えたいです」
部長はしばらく黙っていた。
「個人的な経験から?」
葵の胸が緊張する。すべてを話す必要はない。
「はい」
それだけ答える。
「ただ、私だけの経験ではないと思っています」
デザイナーが頷く。営業担当も資料を見る。
「店頭で目立たせすぎず、手に取った人が読める位置へ入れるなら、押しつけにはならないと思います」
石橋が言う。
「三案でテストし、数字で判断します。ただし、最初の案としては小野寺さんの言葉を推します」
葵は石橋を見る。
以前なら、石橋が自分の言葉を認めてくれるだけで満足した。今は、自分の口で説明した後に支えてもらえたことが嬉しい。
審査の結果、三店舗で試験販売することが決まった。正式採用ではない。だが、商品が店頭へ並ぶ。
*
会議室を出ると、石橋が葵の隣へ歩いた。
「よく言えたね」
「怖かったです」
「顔には出てた」
「でも、言えました」
「うん」
「石橋さんが助けてくれると思ってました」
「最初から?」
「最後には」
石橋が笑った。
「甘えたね」
「頼ったんです」
「言うようになった」
「練習しました」
「誰に?」
「大切な人たちに」
葵は答えた。
*
昼休み、葵は真尋へメッセージを送った。
『企画が試験販売へ進みました』
すぐに返事は来なかった。真尋も仕事中だ。葵は美月と昼食を食べながら待つ。
「通ったんでしょう?」
美月が喜ぶ。
「試験だけ」
「店に並ぶんだよね」
「三店舗」
「すごいじゃん」
「まだ売れるかわからない」
「今は喜んでいいでしょう」
美月が箸を置く。
「今日も、ここまで来た葵へ」
その言葉に、葵は笑いながら少し泣きそうになる。
「自分で言った言葉なのに」
「自分にも必要だったんでしょう」
「うん」
「彼に報告したい?」
美月が静かに尋ねる。葵は考えた。
直哉。以前なら、真っ先に送りたかった。今も、知らせたい気持ちはある。
企画の相談を何度かした。直哉は、葵が仕事で悩むと、無理しなくていいと言ってくれた。だが、その言葉に葵は時々寂しさを感じていた。
無理しなくていいのではなく、頑張っていることを見てほしかった。
「少し」
葵は答える。
「送る?」
「今日は送らない」
「どうして?」
「反応で、今日の嬉しさを変えたくないから」
直哉が褒めてくれれば、嬉しさが増える。短い返事なら、企画が小さなことに思える。既読だけなら、悲しくなる。
今は、自分と支えてくれた人たちで喜びたい。
「真尋と美月と、石橋さんに話せたから」
「お母さんは?」
「夜に言う」
「俊介さんは?」
「真尋から伝わるかも」
「自分で送れば?」
葵は考える。
俊介とは、連絡先を交換していない。初対面の日、三人の写真を撮ろうという話にもなったが、結局撮らなかった。次に会う時にと残した。
「今度会った時に、自分で言う」
「もう会うんだ」
「卵焼き対決」
「何それ」
葵は笑った。
真尋から返信が届く。
『おめでとうございます』
続けて。
『よく、自分の言葉を通しましたね』
葵は画面を見て、胸が温かくなる。
『真尋に最初に報告した』
『ありがとうございます』
『俊介さんにも言って』
『葵から話したほうが喜びます』
『連絡先知らない』
『次に会う時に』
『うん』
『今日は、葵のために喜んでください』
真尋は、直哉へ報告したいと思っていることまで見抜いたのだろうか。
『うん』
葵は短く返した。
*
仕事を終えた真尋は、俊介と電話をしていた。
『葵さんの企画、進んだんですね』
「はい」
『よかったです』
「本人から、次に話すそうです」
『楽しみにしています』
「卵焼き対決の日に」
『本当に開催するんですね』
「葵は、すでに練習していると思います」
『真尋は?』
「必要ありません」
『自信がありますね』
「私が教えました」
『生徒が先生を越えることもあります』
「公平に判定してください」
『味で』
「俊介。葵に会ってくれて、ありがとうございました」
『何度目ですか』
「まだ一度しか」
『会うことを受け入れてくれて、という意味ですか』
「はい」
『僕も会いたかったので』
「無理をしていません?」
『少し疲れました』
俊介は正直に答えた。
「はい」
『でも、良い疲れです』
「どういう意味?」
『真尋の大切な人を知るには、僕も自分の気持ちを言葉にする必要がありました。葵さんに、取られると思っていたことも』
「私を?」
『はい』
「私は、物ではありません」
『わかっています』
「でも、そう感じた?」
『感情として』
「はい」
『今日まで、少し恥ずかしくて言えませんでした』
「話してくれて、ありがとうございます」
『真尋が葵さんの隣へ座った時、僕の場所が少し離れたように感じました』
「はい」
『でも、真尋が僕を見てくれたので、大丈夫でした』
「見ていました?」
『はい』
「俊介が寂しくないか気になりました」
『少し寂しかったです』
「次は、三人が同じくらい話せる席にします」
『席の問題だけではありません』
「はい」
『でも、真尋が気にしてくれたことは嬉しいです』
「私は、二人に嫌われたくないと思っていました。仲良くしてほしいとも。でも、無理に親しくならなくてもいいと思っていました」
『今は?』
「また三人で会いたいです」
『僕もです』
「よかった」
『ただ』
「何ですか」
『二人で会う時間も、変わらずほしいです』
「もちろん」
『言ってよかったですか』
「はい。私も、俊介と二人で会いたいです」
『それを聞ければ十分です』
*
その週末、葵は母から実家へ帰ってこないかと誘われた。
久しぶりに父も休みだから、三人で食事をしたいという。
葵は迷った。
実家へ帰れば、直哉の話をさらに聞かれるかもしれない。父には、まだ別れたことを話していない。母から伝わっている可能性もある。
一人の部屋で静かに過ごしたい気持ちもあった。
以前なら、断れば母を悲しませると思い、無理に帰っただろう。今は、自分の希望を考える。
父へも話したい。だが、今週は仕事の疲れがある。企画が進み、気持ちが高ぶったまま一週間を過ごした。一人で休みたい。
葵は母へ電話をかけた。
「今週は帰らない」
『そう。仕事?』
「少し疲れてる」
『家で休めばいいじゃない』
「自分の部屋で休みたい」
母が黙る。
『わかった』
以前なら、もっと理由を聞かれただろう。母も、葵の言葉を受け取ろうとしている。
「でも、来月帰る」
『いつ?』
「予定を確認して連絡する」
『お父さんにも話す?』
「うん」
『私からは、まだ詳しく言ってない』
「ありがとう」
『葵。一人でいたい時と、帰りたい時、どっちも言ってね』
「うん」
『我慢しないで』
「お母さんも」
『何を?』
「寂しかったら、寂しいって言って」
母が笑った。
『今は、少し寂しい』
「ごめん」
『謝らなくていいでしょう』
「うん」
『来月、待ってる』
電話を切る。
断っても、関係は続く。母が寂しいと言っても、葵が帰らなければならないわけではない。
互いの気持ちを知った上で、今日は別々に過ごす。それでいい。
*
土曜日の午後、葵は一人で散歩へ出た。
以前、直哉とよく歩いた川沿い。避けていた場所。今日は、自分から向かってみようと思った。
冬の川。葉を落とした木。犬を散歩させる人。走る人。ベンチに座る夫婦。
直哉と並んで歩いた記憶が、何度も浮かぶ。
初めて手をつないだ夜。コンビニで温かい飲み物を買った冬。喧嘩をして、互いに黙ったまま歩いた日。付き合って一年の記念日に、小さな花束をもらったこと。
楽しかった。苦しかった。どちらも本当だ。
葵は川沿いのベンチへ座った。スマートフォンを開く。直哉の名前。
連絡しようと思えば、できる。
『元気?』
それだけなら、重くない。企画が進んだと報告してもいい。会いたいと書いてもいい。
葵は何も打たず、画面を閉じた。
会いたい。けれど、今会ったら何を話したいのか、まだ決まっていない。
復縁したいと頼むのか。終わりを確認するのか。今の直哉を知りたいのか。自分が変わったことを見せたいのか。
どれも混ざっている。今はまだ、自分の中で分けられない。
葵は立ち上がった。
川の流れは、以前と同じように見える。だが水は、同じ場所に留まっていない。
過去の道を歩いても、自分は以前の自分ではない。
葵は自宅へ向かって歩き始めた。
*
真尋と葵が秋田へ再び行く約束は、まだ日付のない未来だった。それでも二人は、時々その旅について話した。
同じ宿へ泊まる。武家屋敷を歩く。あの喫茶店でミルクティーを飲む。女将へ、東京での時間を話す。出会った場所で、今の二人を写真に残す。
その時、俊介は東京で待っている。美月も、母も、それぞれの生活にいる。直哉は、葵の過去として残っているのかもしれない。あるいは一度会い、最後の言葉を交わしているかもしれない。
何が起きるかは、まだわからない。
ただ、秋田へ行く時には、二人とも相手へ寄りかかるためではなく、自分の足で立って旅へ出たいと思っていた。
真尋は俊介を大切にしながら。葵は直哉を好きだった自分を否定せずに。それでも二人で歩く。
友情という言葉の中へ、すべてが収まらなくても。家族ではなくても。恋人ではなくても。
互いの人生に、帰ってこられる場所として存在する。
その関係を、秋田の道で確かめたい。
*
日曜日の夜、葵は真尋へ電話をかけた。
『もしもし』
「今、大丈夫?」
『はい。俊介との電話は終わりました』
「私が後?」
『順番を気にしています?』
「少し」
『今日は俊介から先に電話が来ました』
「うん」
『葵からの電話も待っていました』
「本当?」
『はい』
葵は安心する。
「今日、直哉と歩いた川へ行った」
『一人で?』
「うん」
『どうでした?』
「苦しかった。でも、歩けた」
『はい』
「連絡しようと思った」
『しました?』
「してない」
『はい』
「褒めないの?」
『送らなかったことが正しいとは限りません』
「真尋らしい」
『葵が、今日は送らないと決めたことを大切にします』
「うん」
『何を話したいか、まだわからなかった?』
「どうしてわかるの?」
『今まで話してきたからです』
「戻りたいって言いたい自分もいる。でも、今日の直哉と一緒にいたいかは、わからない」
『はい』
「前の直哉が好きだった。今の直哉を、私は知らない」
『離れていた半年の間に、互いに知らない時間が増えましたね』
「うん。会うなら、確かめるためになる」
『はい』
「復縁するためじゃなく」
『はい』
「でも、会ったら戻りたくなる」
『それも本当です』
*
「真尋。いつか、会う」
『はい』
「それで、戻らないって決めるかもしれない」
声にすると、胸が痛む。今まで、戻らない可能性をはっきり口にしたことはなかった。
『はい』
「好きでも」
『はい』
「私が、決めていい?」
『もちろんです』
「直哉が戻りたいって言っても?」
『はい』
「断ったら、後悔するかもしれない」
『はい』
「それでも?」
『後悔しない選択は、たぶんありません』
真尋の声は穏やかだった。
『戻っても、戻らなくても、別の後悔はあると思います』
「じゃあ、どうしたらいい?」
『どちらの後悔を、自分で引き受けたいか考えるしかないのかもしれません』
葵は黙った。
直哉と戻り、また同じ苦しさを抱えるかもしれない後悔。戻らず、好きな人を手放したことを思い続ける後悔。
どちらも怖い。
「今は、戻らないほうへ少し傾いてる」
『今日、そう感じたんですね』
「うん」
『その気持ちを、急いで決定にしなくてもいいです』
「でも、忘れないようにしたい」
『ノートへ書きますか』
「書く」
『はい』
「真尋。秋田へ行く時には、ちゃんと終わらせていたい」
真尋は黙った。
『直哉さんとの関係を?』
「うん」
『なぜ秋田までに?』
「新しい自分で行きたいから」
『今の葵も、新しい葵です』
「でも、中途半端なまま真尋と関係を確かめたくない」
『直哉さんとの結論と、私たちの関係は別です』
「わかってる」
『はい』
「でも、自分の気持ちを自分で選んでから、秋田へ行きたい」
真尋は葵の言葉を受け取った。
『わかりました』
「真尋も、俊介との関係がどうなってても行く?」
『はい』
「うまくいってても?」
『はい』
「喧嘩してても?」
『はい』
「結婚してても?」
『それは、かなり先の話です』
「でも」
『行きます』
真尋ははっきり答えた。
『私の生活がどのように変わっても、葵と秋田へ行きたいです』
葵の目に涙が浮かぶ。
「約束?」
『はい』
「俊介が寂しがっても?」
『俊介へ話します。寂しい気持ちも聞きます。それでも行きます』
「うん」
『葵も、誰かに遠慮してやめないでください』
「うん」
『二人で行きましょう』
「うん」
葵は泣きながら笑った。
「その時、私たちが何なのか決めよう」
『決められなくてもいいです』
「でも、確認したい」
『何を?』
「どんなに生活が変わっても、帰ってこられる人か」
電話の向こうで、真尋が静かに息を吐いた。
『私も確かめたいです』
「うん」
『葵。今も、帰ってこられます』
「知ってる」
『はい』
「でも、秋田で言って」
『何を?』
「その時に決める」
葵は吹き出した。
『わかりました』
二人は電話を切った。
*
真尋は静かな部屋で、壁の写真を見た。
二人の影。俊介の写真。自分の写真。
秋田へ戻る約束。俊介との恋。葵との名前のない関係。
どちらかを選ぶ必要はない。
ただし、どちらも大切にするなら、言葉を惜しまないこと。時間を作ること。時には相手を寂しくさせることを受け入れること。
すべてを傷つけずに守ることはできない。それでも、黙って失わないようにすることはできる。
真尋は俊介へメッセージを送った。
『葵と、いつか秋田へ二人で行く約束をしました』
少しして返信が届く。
『はい』
『寂しいですか』
『寂しいです』
『それでも、行きたいです』
『行ってきてください』
『ありがとうございます』
『帰ってきてくれますか』
真尋は画面を見つめた。
俊介も不安なのだ。葵との関係が深いからこそ、自分の場所が消えるのではないかと。
『帰ってきます』
送る。考え、続ける。
『俊介のところへ帰るという意味だけではありません。自分の生活へ帰り、俊介に会いたいと伝えます』
俊介からの返事は遅れた。
『それで十分です』
『はい』
『真尋』
『何ですか』
『僕も、僕の生活を持ったまま待っています』
真尋は安心した。
『はい』
*
葵はノートを開き、今日感じたことを書いた。
俊介に会った。真尋の隣に座る姿を見て、寂しかった。でも、真尋を大切にしていることがわかった。
俊介も嫉妬する。それでも、自分と真尋の関係をなくしてほしいとは言わなかった。
真尋は、自分が元気になっても会いたいと言った。
必要とされるためではなく、会いたいから会う。
直哉との関係を考える。以前の二人へ戻りたい気持ちと、今の直哉と新しい関係を作りたい気持ちは違う。今は、後者を強く望んでいるとは言えない。
好きでも、戻らない選択がある。
葵は最後に、少し大きな文字で書いた。
『秋田へ行くまでに、直哉へ自分の言葉を伝える』
その下へ続ける。
『真尋と、友情以上の名前のない関係を確かめる』
書いた言葉を見て、照れくさくなる。
友情以上。恋愛ではない。それでも、人生の大切な場所を互いに持っている。
今は、それでいい。名前は、秋田で二人の言葉から見つければいい。
葵はノートを閉じた。
窓の外には、東京の夜が広がっている。
直哉も、どこかで同じ夜を過ごしている。真尋は自分の部屋。俊介も、自分の部屋。美月も。母も。
それぞれが、自分の生活を持っている。
誰かとつながるために、自分の場所を捨てなくていい。誰かの一番だけを求めなくてもいい。
自分にしかない場所は、競って奪うものではなく、時間の中で作られていく。
葵は棚の写真へ視線を向けた。
二つの影は、まだ同じ方向へ伸びている。
次に秋田で撮る写真には、どんな二人が写るのだろう。
今より強くなっているかもしれない。別の悩みを抱えているかもしれない。互いに会う回数が減っているかもしれない。
それでも、隣に立てればいい。
葵は照明を消した。
暗い部屋の中で、写真は見えなくなる。見えなくても、そこにある。
二人の関係も、同じなのかもしれない。
毎日確かめなくても。すべてを話さなくても。離れた時間が増えても。
なくならないものを、これから作っていく。
秋田へ戻る日まで。そして、その先も。




