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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第十五章 大切な人の隣で

葵が俊介と初めて会う日が決まったのは、真尋が自宅へ招いた翌週のことだった。

 土曜日の午後一時。場所は、三人の職場や自宅から比較的行きやすい新宿の和食店。個室ではないが、隣の席との間に背の高い仕切りがあり、落ち着いて話せる店を真尋が選んだ。

 葵は最初、真尋の部屋で会いたいと言った。

 俊介が真尋の暮らしの中にいるところを見てみたい。二人がどのように並び、どのように話すのか知りたい。そんな気持ちがあった。

 だが真尋は、初めて会う場所としては外のほうがいいと答えた。

 誰かの部屋では、途中で疲れても帰るきっかけを作りにくい。三人とも緊張するのだから、食事が終われば一区切りにできる場所がよい。

 俊介も賛成した。葵は少し残念に思ったものの、真尋の考えを受け入れた。

 会えるだけでいい。そう自分へ言い聞かせた。

 けれど、当日が近づくにつれ、葵の中には期待とは別の感情が膨らんでいった。

 真尋の恋人。俊介。

 写真では何度も見た。不忍池の前で振り返っている顔。旧岩崎邸の窓辺で建物の説明を読んでいる横顔。真尋の部屋の壁へ飾られた一枚。

 穏やかな顔立ち。眼鏡。落ち着いた服装。真尋が好きになった人。

 その事実を考えるたび、葵は嬉しくなった。

 真尋が一人で抱えていた不安を話せる相手。会いたいと思える相手。触れたいと思った相手。真尋が、自分から好きだと伝えた人。

 幸せになってほしい。本当にそう思う。

 それでも、俊介に会うことを考えると、胸の中に小さな棘が生まれた。

 真尋の隣に、知らない人が座る。自分より先に真尋の手を取り、真尋の部屋へ入り、口づけを交わした人。

 以前なら、真尋の生活に最も深く入ったのは自分だと思えた。

 別れた夜、泊めてもらった。同じベッドで眠った。手を握ってもらった。朝食を作り、台所へ並び、泣きながら直哉の話をした。真尋の部屋に歯ブラシまで置いている。

 だが俊介は、葵とは違う場所へ入っていく。恋人として。

 その場所は、葵には入れない。入る必要もない。

 頭ではわかっていた。けれど心は、きれいに整理されなかった。

     *

 約束の日の朝、葵はクローゼットの前で三着の服を並べていた。

 白いニット。薄い青のブラウス。秋田で着ていた、柔らかな黄色のカーディガン。

 俊介へ良く見られたいわけではない。真尋の友人として、きちんとした人だと思ってほしいだけだ。

 そう考えながら、鏡の前で何度も服を替えた。自分でも、なぜここまで迷うのかわからない。

 俊介に認められたい。真尋にとって、自分が大切な人だと理解してほしい。そして、邪魔ではないと思ってほしい。

 葵はその気持ちに気づき、鏡から目をそらした。

「何を競ってるんだろう」

 一人で呟く。

 俊介と葵は、同じ場所を取り合う関係ではない。真尋も、何度も言っていた。大切な形が違う。比べなくていい。

 葵は黄色のカーディガンを手に取った。秋田で真尋と出会った時に着ていたもの。あの旅から、すべてが始まった。

 これを着れば、俊介へ何かを示しているように見えるだろうか。真尋と出会ったのは自分が先。そのような主張をしているようで、少し嫌だった。

 葵はカーディガンを戻し、白いニットを選んだ。深い緑のスカート。普段の自分に近い服。

 俊介へ会うための特別な自分ではなく、今の自分で行く。

     *

 化粧をしながら、スマートフォンを見る。直哉からの新しい連絡はない。

 荷物を送ってから、必要なやり取りは終わった。最後に届いたのは、

『届いたよ。いろいろ考えてくれてありがとう』

 という短い文章だった。葵は既読をつけ、返信しなかった。

 あれから一週間。

 直哉へ会いたい気持ちは消えていない。朝、目を覚ました時。仕事で企画が少し進んだ時。帰り道に二人で行った店を通った時。誰かに伝えたい出来事があるたび、直哉の名前が浮かぶ。

 それでも、連絡しなかった。我慢しているというより、まだ話す時ではないと思えた。

 戻りたいと願う自分と、戻らずに進みたい自分。どちらもいる。その間に立ったまま、毎日を過ごしている。

 今日、俊介に会えば、真尋の新しい幸せを目の前で見ることになる。自分だけが過去に残っているように感じるかもしれない。そのことも少し怖かった。

 葵はバッグへ財布とスマートフォンを入れた。棚に飾った二人の影の写真を見る。

「行ってきます」

 写真へ声をかけ、部屋を出た。

     *

 真尋も同じ朝、自宅で落ち着かない時間を過ごしていた。

 葵と俊介を会わせる。自分にとって大切な二人が、同じ場所へ座る。楽しみだった。だが、少し不安もある。

 葵は、俊介のことを好意的に受け入れている。俊介も、葵に会いたいと言っている。それでも実際に会えば、想像とは違う感情が生まれるかもしれない。

 葵は質問が多い。俊介は穏やかだが、言葉を選びすぎる時がある。互いに真尋を大切に思っているからこそ、相手の言葉へ敏感になることもあるだろう。

 真尋が間へ入り、すべてを整えようとすれば、二人とも本音を言えなくなる。だから今日は、必要以上に仲介しないと決めていた。

 葵と俊介は、真尋を通して会う。だが会った後は、二人自身の言葉で相手を知ってほしい。

 真尋はクローゼットから、淡い青のブラウスを取り出した。濃紺のパンツ。仕事の服ほど硬くなく、恋人と二人で会う時ほど柔らかくしない。

 なぜ服で均衡を取ろうとしているのかと、自分でも少し可笑しくなる。

 スマートフォンが鳴った。俊介からの電話だった。

「もしもし」

『おはようございます』

「おはようございます」

『今日ですが』

「はい」

『少し緊張しています』

 真尋は吹き出した。

「葵も、たぶん同じです」

『質問を考えているでしょうか』

「かなり」

『何を聞かれると思います?』

「私をどう思っているか」

『好きです、と答えます』

「その後、どこが好きか聞かれます」

『考えてあります』

「準備したんですか」

『少し』

 俊介の真面目さに、真尋は笑ってしまう。

『笑いました?』

「はい」

『試験を受ける気分です』

「葵は試験官ではありません」

『でも、真尋を任せられるか見られる気がします』

「私は、誰かに任せられるものではありません」

 真尋が言うと、電話の向こうで俊介が黙った。

『そうですね』

「葵にも、同じことを言います。私が俊介を選びました。葵の許可が必要なわけではありません」

『わかっています』

「でも、葵に理解してもらいたいです」

『僕もです』

     *

「俊介。葵の前で、無理に良い人にならなくていいです」

『良い人ではない部分を見せても?』

「はい」

『たとえば?』

「嫉妬すること」

『言ってもいいですか』

「葵を責めなければ」

『はい』

「葵も、寂しさを隠さないと思います」

『真尋は?』

「私は、二人がわかり合えなければ不安です。でも、必ず親しくならなくてもいいと思っています。互いを嫌わず、私にとって大切な人だと理解してくれれば」

『僕は、仲良くなりたいです』

「葵と?」

『はい』

「どうして?」

『真尋が大切にしている人のことを知りたいからです。それに』

 俊介は言葉を止めた。

『葵さんがいることで、真尋が一人で抱え込まずに済むと思うからです』

 真尋の胸が温かくなる。

「ありがとうございます」

『ただ、少し嫉妬もしています』

「何に?」

『秋田です』

 予想外の答えだった。

「秋田?」

『真尋と葵さんが出会った場所。僕には入れない時間です』

「過去だから?」

『はい。それから、二人だけの意味がある場所だから』

 真尋は壁の写真を見る。二人の影。

「いつか、俊介とも行きますか」

 口にした後、少し違うと感じた。俊介も同じように感じたのか、返事まで間があった。

『行きたいです。でも』

「はい」

『最初に戻るなら、葵さんと二人で行ってほしい気もします』

 真尋は黙った。

『二人が、あの旅の続きをする時間も必要だと思います』

「俊介は寂しくない?」

『寂しいです』

「はい」

『でも、僕が入らないほうがいい時間もあります』

 真尋は窓の外を見る。

 秋田。角館。紅葉。宿。葵と歩いた道。

 いつか、また二人で行きたい。以前から思っていた。

 その旅は、俊介がいてもよい旅とは少し違う。俊介を除けたいのではない。葵と二人で確かめたいものがある。

「いつか、葵と行きます」

『はい』

「帰ったら、写真を見せます」

『楽しみにしています』

「俊介とも、別の場所へ行きます」

『約束です』

「はい」

     *

 真尋が店へ着いた時、俊介はすでに入口の前に立っていた。約束の十五分前。

「早いですね」

 真尋が声をかけると、俊介は照れたように笑った。

「緊張して、家にいられませんでした」

「電話でも聞きました」

「その後、さらに」

 真尋は俊介の服を見る。濃いグレーのジャケット。白いシャツ。仕事ほど硬くないが、普段より整っている。

「葵へ会うために?」

「失礼がないように」

「面接ではありません」

「真尋も言いました」

 俊介が真尋の服を見る。

「似合っています」

「ありがとうございます」

「今日は、手をつながないほうがいいですか」

 俊介が小さな声で尋ねる。

「どうして?」

「葵さんが寂しくなるかもしれない」

 真尋は考えた。

 手をつなぐことを見せつける必要はない。だが葵の前だからといって、二人の関係を隠す必要もない。

「俊介は、つなぎたいですか」

「はい」

「私もです」

 真尋は自分から手を差し出した。俊介が握る。

「葵が来るまで」

「はい」

 二人は入口近くで並んだ。

 数分後、人の流れの中に白いニット姿の葵が見えた。真尋を見つけ、笑顔になる。

 その直後、つながれた手へ視線が落ちた。笑顔がほんの一瞬だけ止まる。

 真尋は見逃さなかった。俊介も気づいたのか、手の力が少し緩んだ。

 真尋は離さなかった。代わりに、葵へ向かって笑った。

「葵」

「お待たせしました」

「私たちも今来たところです」

「嘘。俊介さん、早く来てた顔してる」

 初対面の相手へ、すでに名前を口にする。俊介が驚き、それから笑った。

「黒田俊介です。初めまして」

「小野寺葵です」

 二人は軽く頭を下げた。真尋が二人を見比べる。

 写真で見ていた人が、互いの前に立っている。

「俊介さん」

 葵が言った。

「はい」

「真尋から、いろいろ聞いてます」

「僕も、葵さんのことを聞いています」

「どこまで?」

「秋田で出会ったこと。失恋した時に真尋の部屋へ泊まったこと。仕事の企画。料理を始めたこと」

「それだけ?」

 葵が真尋を見る。

「それだけで十分でしょう」

「もっと話してると思った」

 俊介の口元が緩んだ。

「真尋は、葵さんのことを話す時、表情が柔らかくなります」

 葵の顔が明るくなる。

「本当?」

「はい」

「俊介のことを話す時もです」

 真尋が言うと、俊介が照れたように眼鏡へ触れた。

「店へ入りましょう」

 真尋が促した。

     *

 三人は四人掛けのテーブルへ案内された。真尋と俊介が隣に座り、葵が向かいへ座る形になった。

 席へ着いてから、真尋は迷った。

 葵の隣へ座ったほうがよかっただろうか。俊介を一人にすれば、恋人として不自然だろうか。

 その迷いが表情に出たのか、葵が言った。

「真尋、こっちに座らなくていいよ」

「何も言っていません」

「顔に出てる」

「葵は、私の顔を読みすぎです」

「俊介さんの隣でいい」

 葵の声は明るい。だが少しだけ力が入っている。俊介も気づいたようだった。

「次に席を替えますか」

 俊介が言う。

「どうして?」

「食後のお茶の時に、真尋が葵さんの隣へ」

「必要ありません」

 葵が答えた。強い言い方になり、葵自身が気づいて視線を落とす。

「ごめんなさい」

「何が?」

 真尋が尋ねる。

「少し、変な感じがして」

「何が変ですか」

「写真で見てた二人が、本当に隣にいるから」

 葵は正直に言った。俊介は黙って聞いている。

「嬉しいんです」

 葵は続けた。

「でも、真尋の隣が、私の知らない場所になったみたいで」

 真尋の胸が痛む。俊介は葵を見た。

「僕も似た気持ちがあります」

 葵が顔を上げる。

「俊介さんも?」

「秋田の話を聞く時です」

「秋田?」

「真尋と葵さんだけが知っている時間がある。その場所へ、僕は入れない」

 葵は意外そうに俊介を見る。

「恋人なのに?」

「恋人でも」

「俊介さんは、真尋の今とこれからにいる」

「葵さんは、真尋が変わり始めた時間にいる」

 二人の視線が向かい合う。真尋は言葉を挟まずに待った。

「私も、これからにいます」

 葵が言った。

「もちろんです」

「秋田だけじゃない。真尋とは、これからも会うし、旅行もする」

「はい」

 俊介は否定しない。

「僕も真尋と旅行したいです」

「それは、してください」

 葵の声に、少しだけ競う響きが混ざる。

 真尋は口を開きかけたが、俊介が先に話した。

     *

「葵さん。僕は、真尋との時間を増やしたいです」

「はい」

「そのことで、葵さんが寂しくなることもあると思います」

 葵の表情が硬くなる。

「でも、葵さんとの時間を減らしてほしいとは思っていません」

「本当ですか」

「はい」

「二人で旅行しても?」

「寂しいですが」

 俊介は正直に答えた。

「止めたいとは思いません」

「どうして?」

「真尋が、葵さんといる時に得ているものを、僕一人で代わりに渡すことはできないからです」

 葵は黙った。真尋も、胸の中へ言葉が沈むのを感じた。

「俊介さんは、真尋に何を渡せるんですか」

 葵が尋ねる。試すような言い方に聞こえた。俊介はすぐには答えなかった。

「すべてではありません」

「はい」

「僕といる時にしか生まれない時間を、一緒に作りたいです」

「恋人だから?」

「恋人だから生まれるものもあります。でも、名前だけでは作れません」

「手をつないだり、キスしたり?」

 真尋は思わず葵を見る。

「葵」

「ごめん。でも、聞きたかった」

 俊介は困ったように笑った。

「それも、僕たちの間にあるものです」

「私はできない」

 葵が言う。真尋は胸が詰まる。

「葵がする必要はありません」

「わかってる」

 葵は手元のお茶を見る。

「でも、真尋のことを大切に思う気持ちは、負けてない」

 俊介は、真剣な表情で葵を見た。

「勝ち負けではないと思います」

「わかっています」

「僕も、真尋を大切にしたいです」

「はい」

「葵さんも」

「はい」

「なら、同じ人を大切にする人として、話せたら嬉しいです」

 葵は俊介を見た。しばらくして、小さく頷く。

「私、面倒ですよ」

「真尋から聞いています」

「真尋」

「そこまでは言っていません」

 三人の間に、笑いが生まれた。硬かった空気が、わずかに緩む。

     *

 料理が運ばれてきた。季節の御膳。焼き魚。炊き込みご飯。小鉢。茶碗蒸し。

 葵は茶碗蒸しを一口食べ、落ち着いた表情になる。

「おいしい」

「よかったです」

 真尋が言う。

「真尋は、私が食べるとすぐ安心する」

「食べられなかった時期を知っているので」

 俊介が葵を見る。

「今は、料理もしているんですよね」

「はい。卵焼きは、真尋より上手くなりました」

「それは違います」

「一度作って比べましょう」

「俊介さんに判定してもらう」

「僕ですか」

「真尋の味方をしそう」

「味で決めます」

「本当?」

「建物より、料理の評価は公平です」

 俊介が言うと、葵が初めて自然に笑った。

「俊介さん、真面目ですね」

「よく言われます」

「真尋と似てる」

「そうでしょうか」

「二人とも、何でも言葉にしようとする」

 葵は箸を置いた。

「私は、感情から先に出る」

「それは強みです」

 俊介が言う。

「真尋から聞きました。仕事の企画でも、人の気持ちを想像することが得意だと」

「そこまで話したの?」

「はい」

「真尋、私のこと褒めてる」

「事実を話しただけです」

 葵は嬉しそうにご飯を食べた。

     *

「俊介さんは、真尋のどこが好きなんですか」

 予想されていた質問が来た。俊介は姿勢を少し整える。

「準備した答え?」

 葵が尋ねる。

「少し考えました」

「正直」

「その場で良く見せる答えを言うよりいいと思ったので」

「聞きます」

 俊介は隣の真尋を一度見た。

「強いところです」

「最初から?」

「最初は、強い人だと思いました」

「今は?」

「強くいようとする人だと思っています」

 真尋は俊介を見る。

「一人で何でもできるように見える。でも、本当は迷うし、疲れるし、寂しさもある。それを少しずつ言葉にしてくれるところが好きです」

 葵は黙って聞いている。

「仕事を大切にするところ。写真を撮る時、見えないものまで残そうとするところ。葵さんやお母様、友人を大切にするところ」

「私も入ってる」

「はい」

「嫌じゃない?」

「何がですか」

「真尋が、私のことをたくさん考えるの」

「寂しい時はあります」

「やっぱり」

「でも、その部分も含めて真尋です」

 俊介は穏やかに言った。

「葵さんとの関係をなくした真尋は、僕が好きになった真尋とは少し違うと思います」

 葵の目が、わずかに潤んだ。

「それ、ずるい」

「何が?」

「そんなこと言われたら、嫌いになれない」

 俊介が困ったように笑う。

「嫌われる覚悟もしていました」

「真尋を取る人だと思ってた」

「取れません」

「恋人なのに?」

「真尋は、僕の所有物ではありません」

 真尋は、朝の電話で自分が言ったことを思い出す。任せられるものではない。俊介は、それを自分の言葉として受け取っている。

     *

「葵」

 真尋が呼ぶ。

「何?」

「私は、ここにいます。俊介の隣に座っていても、葵の友達であることは変わりません」

 葵は少し下を向いた。

「友達」

 小さく繰り返す。

「何ですか」

「私たちって、友達なのかなって時々思う」

 真尋は葵を見る。俊介も口を挟まず待っている。

「友達でしょう」

「そうだけど」

「違いますか」

「友達より近い気がする」

 葵は自分の言葉を探す。

「家族じゃない。恋人でもない。でも、ただの友達って言うと、少し足りない」

 真尋の胸が静かに揺れた。

 何度か、自分も同じことを感じていた。

 旅先で出会って、まだ長い年月を過ごしたわけではない。それでも、葵の痛みを知っている。葵も、真尋の怖さを知っている。

 日常の報告をし、食事を作り、同じベッドで眠った。互いの生活へ入りながら、依存しすぎない方法を探している。

「友情以上という意味ですか」

 俊介が静かに尋ねた。葵は少し慌てる。

「恋愛という意味じゃないです」

「わかっています」

「でも、大切な人って言葉だけでも足りない気がして」

「名前が必要ですか」

 俊介の問いに、葵は考えた。

「わからない」

 真尋が答える。

「私は、今すぐ名前をつけなくてもいいと思います」

「真尋も、足りないと思う?」

「はい」

 葵が顔を上げる。

「私も、葵を友人と紹介します。でも、その言葉の中に全部は入りません」

「じゃあ、何?」

「今は、わかりません」

「俊介には恋人って名前がある」

「はい」

「私にはない」

 寂しそうな言葉だった。俊介が考え、口を開く。

「名前がないから、弱い関係とは限らないと思います」

 葵が俊介を見る。

「僕と真尋には恋人という名前があります。でも、その名前だけで関係が続くわけではありません」

「はい」

「真尋と葵さんの間には、まだ呼び方がない。でも、二人が互いを大切にしてきた時間はあります」

「はい」

「名前より、積み重ねのほうが強いこともあると思います」

 葵はしばらく黙り、それから真尋へ言った。

「いつか、秋田にまた行こう」

「はい」

「二人で」

 俊介の前で、はっきり言う。真尋は俊介を見た。俊介は寂しそうに笑い、頷いた。

「行ってきてください」

「本当に?」

 葵が尋ねる。

「はい」

「寂しいのに?」

「寂しいです」

「それでも?」

「二人で確かめることがあるのでしょう」

 真尋の胸に、その言葉が残る。

 二人で確かめる。何を。友情以上の仲。名前のない関係。

 秋田へ戻った時、自分たちは今より何を知っているだろう。

「帰ったら、写真を見せます」

 真尋が言う。

「一番最初に?」

 俊介が尋ねる。

「はい」

「約束です」

 葵は思わず笑った。

「俊介さんも、真尋と旅行して」

「します」

「どこへ?」

「まだ決めていません」

「建物が多いところ?」

「真尋が行きたい場所です」

「真尋、合わせてもらいすぎないでね」

「私が決めます」

「ならいい」

 葵の声から、少し棘が取れていた。

     *

 食事が進むにつれ、三人の会話は仕事や旅行へ移った。

 俊介が設計した図書館。葵の企画。真尋の部下。美月。香織。

 互いに名前だけ聞いていた人々が、少しずつ輪郭を持ち始める。

「葵さんの企画の言葉、真尋から聞きました」

 俊介が言う。

「今日も、ここまで来たあなたへ」

「はい」

「いい言葉ですね」

「建築士にも届きます?」

「現場で問題が続いた日に、商品を見たら買うと思います」

「男性も対象に入れましょうか」

「僕のために?」

「購買データがあれば」

 葵は仕事の顔になっていた。

「俊介さん、食べるならどんな時ですか」

「夕方、図面の修正が終わらない時」

「どんな言葉なら手に取る?」

「もう少し頑張れ、ではないもの」

「やっぱり」

「休んでもいい、だと仕事を止められない時には困る」

「わかります」

 葵はスマートフォンへメモを取る。

「今、仕事?」

 真尋が尋ねる。

「良い意見だから」

「食事中です」

「後で忘れる」

 俊介は声を立てて笑った。

「葵さん、本当に企画が好きなんですね」

「前は、自信なかったです」

「今は?」

「まだない。でも、面白いと思うことは言えるようになった」

「それは強いですね」

「真尋に教わりました」

「僕も、真尋に教わっています」

「何を?」

「自分の不安を、相手のせいにせず話すこと」

 葵が真尋を見る。

「真尋、先生みたい」

「私も二人から教わっています」

「何を?」

「葵からは、感情を隠さないこと」

「俊介さんからは?」

「待つこと。聞くこと」

 俊介が照れたように笑う。

「では、三人とも先生です」

 葵が言った。

「時々、生徒」

「はい」

 三人は笑った。

     *

 食後、店を出ると、午後三時を少し過ぎていた。

 当初は食事だけで解散する予定だった。だが葵が、近くでお茶を飲みたいと言った。

「もう少し話したい」

 俊介へ向けて言う。俊介は驚き、嬉しそうに頷いた。

 三人は駅近くの喫茶店へ移った。今度は真尋が葵の隣へ座り、俊介が向かいへ座った。

「席替え」

 葵が小さく言う。

「必要ないと言ったでしょう」

「でも、嬉しい」

 真尋は何も言わず、葵の隣へ座った。俊介はその様子を見て、穏やかに笑っている。

「寂しくないですか」

 真尋が尋ねる。

「少し」

 俊介は答える。

「でも、今はこの席が自然です」

 葵がメニューを開きながら言う。

「俊介さん、本当に何でも正直に言いますね」

「真尋と約束したので」

「嫌なことも?」

「できるだけ」

「私のこと、面倒だと思いました?」

 俊介はすぐに否定しなかった。

「少し、緊張しました」

「面倒では?」

「質問が多いとは思いました」

「やっぱり」

「でも、理由がわかるので嫌ではありません」

「理由?」

「真尋を大切にしているから」

 葵はメニューへ視線を落とした。

「それだけじゃない」

「はい」

「私が、真尋に必要とされたいから」

 葵は自分から認めた。

「直哉と別れて、一人になった時、真尋がいてくれた。真尋がいなかったら、たぶん会社にも行けなかった」

「はい」

「だから、真尋の生活に私がいなくても大丈夫になるのが、少し怖い」

 真尋は葵を見る。

「葵」

「わかってる。私がいなくても大丈夫でいてほしい。でも、私がいる意味もほしい」

 俊介はしばらく考えてから言った。

「その気持ちは、僕にもあります」

「俊介さんにも?」

「真尋が一人でも生きられることは知っています。それでも、僕がいることで少し楽になったり、楽しくなったりしてほしい」

「必要とされたい?」

「はい」

「同じなんだ」

「でも、必要とされることだけを関係の理由にすると、相手が元気になった時に自分の場所がなくなる気がします」

 葵は黙った。まさに自分が感じていたことだった。

「僕は、真尋が困っていなくても会いたいです」

 俊介が続ける。

「葵さんも、そうでしょう」

「はい」

「なら、助ける必要がなくなっても、関係は残ると思います」

「会いたいから会う」

 葵が言う。

「はい」

     *

 真尋は葵の手元を見る。

 以前、葵が会社へ行けるか不安だった朝。必要だからそばにいた。

 今は違う。葵は自分で生活している。仕事へ行き、母へ話し、美月に頼る。それでも真尋は会いたい。

「葵。私は、葵を助けるためだけに会っているのではありません」

「うん」

「葵と話したい。旅行へ行きたい。食事をしたい。仕事の話も聞きたい」

「うん」

「葵が一人で大丈夫になっても、会いたいです」

 葵の目に涙が浮かぶ。

「今、泣く?」

「少し」

 俊介が紙ナプキンを差し出す。葵は受け取りながら笑った。

「ありがとうございます」

「初めて役に立てました」

「さっきも、いろいろ」

 飲み物が運ばれてくる。真尋は紅茶。葵はミルクティー。俊介はコーヒー。

 秋田の喫茶店でも、葵はミルクティーを飲んだ。真尋はそのことを思い出す。

「秋田へ行くなら、いつがいい?」

 葵が突然尋ねた。

「まだ予定を決めるんですか」

「秋」

「一年近く先です」

「紅葉の時期」

 出会った季節。

「同じ宿へ泊まりたい」

「予約が取れれば」

「女将さん、覚えてるかな」

「覚えていると思います」

「姉妹みたいって言われた」

「姉妹に見えます?」

 葵が尋ねる。

「年齢は離れていますが、似ているところはあります」

「どこ?」

「大切なことになると、相手に譲るようで譲らない」

 真尋と葵は顔を見合わせた。

「似てる?」

「どうでしょう」

「真尋は頑固」

「葵も」

「ほら」

 俊介が言い、三人は笑った。

     *

「秋田へ行ったら、何を確かめたいんですか」

 俊介が静かに尋ねる。葵はミルクティーの表面を見る。

「私たちが、どういう関係なのか」

「名前を?」

「名前というより」

 葵は真尋を見る。

「離れても、変わらないか」

 真尋は胸が詰まる。

「これから、私に新しい恋人ができるかもしれない。真尋と俊介さんの関係も深くなる。会う回数が減るかもしれない」

「はい」

「それでも、秋田へ行った時に、あの時と同じように歩けるか」

 真尋は葵の言葉を聞いた。

 同じように。だが、きっと同じではない。

 次に秋田へ行く時、二人は今より違う自分になっている。真尋には俊介がいる。葵は直哉との別れを越え、自分の人生を歩いているかもしれない。

 それでも、二人で歩く。

「同じでなくてもいいと思います」

 真尋が言った。

「違っても?」

「はい。変わった二人で、また歩けばいい」

「それでも、私たち?」

「はい」

「何て呼ぶ?」

「その時に考えましょう」

「秋田で?」

「はい」

 俊介は二人を見ていた。寂しさのある、穏やかな表情。

「俊介」

 真尋が呼ぶ。

「はい」

「その時、待っていてくれますか」

「待っています」

「帰る場所として?」

 俊介は考えた。

「帰る場所の一つとして」

 真尋は頷いた。葵も、その言葉を静かに受け取った。

     *

 喫茶店を出たのは、午後五時近くだった。

 駅の改札まで三人で歩く。真尋と葵が並び、俊介はその隣を歩いた。誰が真ん中でもよかった。

 途中、葵が俊介へ尋ねる。

「俊介さん。真尋が、一人旅へ行くって言ったら?」

「気をつけて行ってきて、と言います」

「寂しい?」

「はい」

「止めない?」

「止めません」

「帰ってこなかったら?」

 真尋が葵を見る。

「どういう意味ですか」

「旅が楽しくて、もっと長くいたくなったら」

 俊介は考える。

「相談してほしいです」

「帰ってこいとは?」

「仕事や約束があるなら言います。でも、真尋の人生を僕だけで決めません」

 葵は頷いた。

「合格」

「試験ではないと」

「今のは、私の中で」

「葵」

「冗談」

 俊介は苦笑しながらも、安心したようだった。

 改札へ着く。葵の路線は別方向。

「今日は、ありがとうございました」

 俊介が葵へ頭を下げる。

「こちらこそ」

 葵は迷い、それから言った。

「俊介さん」

「はい」

「真尋を、よろしくお願いしますって言わないです」

 俊介は葵を見る。

「はい」

「真尋が、自分で俊介さんを選んだので」

「はい」

「でも、真尋が無理してたら教えてください」

「真尋本人へ先に聞きます」

 葵は驚き、それから笑った。

「その答えがいいです」

「葵さんも」

「私も?」

「真尋のことを一人で心配して、本人へ聞かずに決めないでください」

「わかりました」

「それから」

 俊介は照れたように言う。

「また会ってください」

「いいんですか」

「はい」

「質問多いですよ」

「覚悟します」

「次は、卵焼き対決」

「僕が判定を?」

「はい」

「公平にします」

 葵は吹き出した。

「俊介さん。今日会えてよかったです」

「僕もです」

 葵は真尋を見る。

「真尋。また連絡する」

「はい」

「今日は、俊介さんと帰って」

「途中までです」

「それでいい」

 葵は二人へ手を振り、改札へ入った。

     *

 ホームへ向かう階段を下りながら、葵は胸の中を確かめた。

 寂しい。けれど、朝ほどではない。

 俊介は、真尋を奪う人ではなかった。真尋の隣に、自分とは違う形で立つ人。葵が入れない場所へ入る。

 だが葵にしかいない場所もある。

 それは先に出会ったからでも、失恋の夜に泊めてもらったからでもない。積み重ねた言葉。互いに見せた弱さ。同じ道を歩きたいと思う気持ち。

 恋愛ではない。家族でもない。ただの友達と言えば、少し足りない。

 今は、名前がなくてもいい。秋田へ戻った時、もう一度考える。

 葵はホームで電車を待ちながら、スマートフォンを取り出した。直哉のトーク画面は開かなかった。代わりに、美月へ送る。

『真尋の恋人に会った』

 すぐに返信が来る。

『どうだった?』

『いい人だった』

『悔しい?』

『少し』

『正直』

『でも、安心した』

『真尋さん、幸せそう?』

 葵は今日の真尋を思い出す。俊介の隣で笑う顔。葵の言葉を聞く時の顔。どちらも真尋だった。

『幸せそうだった』

『よかったね』

『うん』

 葵は画面を閉じた。電車が入ってくる。

 自分の部屋へ帰る。今夜も一人。だが、孤独ではない。

     *

 改札の外では、真尋と俊介が並んで歩き始めていた。

「どうでした?」

 真尋が尋ねる。

「緊張しました」

「葵は?」

「想像より、素直でした」

「想像では?」

「もっと厳しい質問を」

「十分したでしょう」

「はい」

 俊介の口元が緩んだ。

「でも、会えてよかったです」

「本当に?」

「はい」

「嫉妬は?」

「あります」

「何に?」

「秋田」

「まだ?」

「今日、さらに」

 俊介は正直に言った。

「二人にしかない関係を、目の前で感じました」

「はい」

「少し寂しいです」

「私も、俊介の大学時代の友人に会えば同じかもしれません」

「はい」

「でも、葵を大切にする私を好きだと言いましたね」

「言いました」

「その言葉を信じていいですか」

「はい」

 俊介が真尋の手へ触れた。真尋は指を重ねる。二人で歩く。

「真尋。秋田へ行ってきてください」

「まだ先です」

「その時が来たら」

「はい」

「二人が何を確かめるのか、僕には全部わからないと思います」

「はい」

「でも、帰ってきた真尋の話を聞きたいです」

「話します」

「最初に?」

 葵と同じことを聞く。真尋は笑った。

「最初に俊介へ話したいことは、俊介へ」

「はい」

「葵との間に置いておきたいことは、置いておきます」

 俊介は一瞬、寂しそうな顔をした。それでも頷いた。

「わかりました」

「嫌ですか」

「少し寂しいです。でも、すべてを知ることだけが近さではないと思うので」

「ありがとうございます」

「真尋も、僕と友人の間にあることを全部知らなくていい」

「不安です」

「はい」

「でも、聞きたいことは聞きます」

「聞いてください」

 二人は駅へ向かって歩いた。

     *

 その夜、葵は一人で夕食を作った。

 人参と玉ねぎ、豚肉の炒め物。少し味が濃くなった。それでも、ご飯と一緒に食べればちょうどいい。

 テレビはつけなかった。俊介の言葉を思い返していた。

 必要とされることだけを関係の理由にすると、相手が元気になった時に自分の場所がなくなる。

 葵は、直哉との関係でも必要とされたいと思っていた。

 料理を作る。予定を合わせる。忙しい直哉を支える。直哉が自分を必要とすれば、離れていかないと思っていた。

 しかし、必要とされるために自分を小さくするほど、二人の関係は息苦しくなった。

 真尋との関係でも、同じことをしかけていた。

 真尋に頼られる自分でいたい。真尋の一番近くでいたい。俊介より自分のほうが、真尋を理解していると思いたい。

 だが、真尋が元気でも、自分を必要としなくても、会いたい。それでいいのだ。

 葵は食事を終え、食器を洗った。棚の青いカップへ湯を注ぎ、紅茶を淹れる。

 直哉が使っていたカップ。今は葵が使うカップ。持つたびに思い出す。それでも、痛みは以前より少し薄い。

「直哉」

 名前を口にする。

 好きだった。今も、好きだと思う。会いたい。戻りたい瞬間もある。

 けれど、今日俊介と真尋を見て、葵は一つ気づいた。

 関係を始め直すには、好きという気持ちだけでは足りない。

 俊介と真尋は、互いに不安を言い、境界を話し、相手の大切な人まで受け入れようとしている。完璧ではない。嫉妬もある。寂しさもある。それでも二人は、言葉にしている。

 直哉と戻るなら、同じように関係を作り直さなければならない。

 だが葵は、自分が本当に直哉とそれをしたいのか、まだわからなかった。

 うまくいっていた頃へ戻りたいだけではないか。あの頃の安心へ。恋人がいる自分へ。将来があると思えた日々へ。

 直哉という人と、新しい関係を作りたいのか。その問いには、すぐ答えられない。

 葵はノートを開いた。

『私が大切にしたいこと』

 その下へ、新しい一文を書く。

『必要とされるためではなく、会いたいから会う』

 考え、さらに続ける。

『好きだった頃へ戻るのではなく、今の相手と一緒にいたいか考える』

 ペンを止める。

 今の直哉。仕事で余裕を失い、葵との未来を考えられなくなった人。優しいが、傷つけることを恐れて黙る人。葵を嫌いではなくても、関係を続ける努力から逃げた人。

 その直哉と、もう一度向き合いたいか。

 葵はまだ、はいと言えなかった。そのことに、驚いた。

 以前は、直哉が戻ると言えば迷わず頷くと思っていた。今は、自分の意思を確認したいと思っている。

 直哉に選ばれるかではない。自分が直哉を選び直すのか。

 葵はノートを閉じた。

     *

 真尋は自宅へ戻ると、俊介へ先に電話をした。葵との食事について、互いに感じたことを話す。

「葵は、俊介に会えて安心したと思います」

『僕も、葵さんに会えて安心しました』

「何に?」

『真尋が、なぜあれほど大切にしているのかわかったので』

「わかりました?」

『はい。感情が素直で、人のことをよく見ている』

「入りすぎる時もあります」

『僕も、考えすぎて入る時があります』

「形が違うだけ?」

『はい』

「嫉妬は、まだ?」

『あります』

「私も、葵と秋田へ行くと言った時、俊介がどんな顔をするか気にしました」

『寂しい顔をしました』

「はい」

『止めてほしかったですか』

 真尋は考えた。

「少しだけ」

『なぜ?』

「それほど私と離れたくないと思ってほしかった」

『思っています』

「はい」

『でも、止めることが愛情だとは思いません』

「わかっています」

『真尋も、僕の旅行を止めますか』

「女性の友人がいると聞いたら、止めたくなるかもしれません」

『はい』

「でも、まず話を聞きます。不安だと言います」

『はい』

 二人は、今日生まれた感情を一つずつ言葉へ置いた。

 俊介が葵へ感じた嫉妬。真尋が二人を会わせることへ抱えた不安。葵が真尋の隣を失ったように感じたこと。それでも、三人でまた会いたいと思えたこと。

「俊介。今日は、ありがとうございました」

『僕のほうこそ』

「葵を否定せずに聞いてくれて」

『真尋を大切にしたいので』

「はい」

『葵さんと僕は、真尋を通して会いました。でも次は、葵さん自身の話も聞きたいです』

「直哉さんのこと?」

『無理にではなく。仕事や、家族や、これからしたいことを』

「葵も喜びます」

『僕の話もします』

「建物以外も?」

『努力します』

 真尋は思わず笑った。

「次は、卵焼き対決です」

『本当にするんですか』

「葵は本気です」

『真尋は?』

「負けません」

『公平に判定します』

「俊介が食べ比べたら、葵の味方をするかもしれません」

『なぜ?』

「初対面で緊張させたお詫びに」

『味で決めます』

「真面目ですね」

『褒め言葉として受け取ります』

     *

 電話を切った後、真尋は葵へ短いメッセージを送った。

『今日は会ってくれて、ありがとうございました』

 葵からすぐに返事が来る。

『こちらこそ』

『疲れました?』

『少し』

『私もです』

『俊介さん、いい人だった』

『はい』

『少し悔しい』

『何が?』

『真尋が好きになるの、わかったから』

 真尋は声を立てて笑った。

『葵にも、いつか会いたいと思う人ができます』

 送った後、迷う。直哉のことを忘れ、新しい人へ進めと言っているように受け取られないか。

 葵からの返事は遅れた。

『今は、まだわからない』

『はい』

『直哉じゃない人を好きになるの、想像できない』

『想像しなくていいです』

『でも、直哉に戻ることも、少し違う気がしてきた』

 真尋は画面を見つめた。

『今日、そう思ったんですか』

『うん』

『どうして?』

『真尋と俊介さんが、前に戻るんじゃなくて、今の二人で関係を作ってるのを見たから』

『はい』

『私は直哉と戻ったら、前みたいに戻りたいって思う』

『はい』

『でも、前には戻れない』

『はい』

『新しく作り直したいかは、まだわからない』

 葵は、自分で大切な場所へ近づいている。真尋は答えを与えず、言葉を返す。

『わからないことが、今の答えですね』

『うん』

『急がなくていいです』

『でも、いつかは決める』

『葵が決めたい時に』

『うん』

 少しして、葵からもう一通届いた。

『秋田、絶対に行こうね』

『はい』

『俊介さんがいても、二人で』

『はい』

『そこで、私たちの関係を考えたい』

『私もです』

『友達より大切って、変かな』

 真尋は壁の二人の影を見る。影は、同じ方向へ伸びている。

『変ではありません』

『真尋も?』

『はい』

『嬉しい』

『私も』

『おやすみ』

『おやすみなさい』

     *

 翌週、葵の企画は社内の最終審査へ進んだ。

 会議室には、部長、課長、営業担当、デザイナー、石橋、葵が集まった。

 中央の画面には、新商品のパッケージ案が映っている。淡い色。控えめな商品写真。そして、

『今日も、ここまで来たあなたへ』

 という言葉。

 部長が資料をめくる。

「この言葉は、少し情緒的すぎないか」

 以前の葵なら、その一言で自信を失っただろう。石橋へ視線を向け、助けを求めたかもしれない。

 今日は、自分で答える。

「情緒的です」

 葵が言うと、部長が顔を上げる。

「認めるのか」

「はい。ただ、商品を買う理由は機能や価格だけではありません」

「根拠は?」

「働く女性への調査では、午後に甘いものを買う理由として、空腹より気分転換が多く挙げられています」

 画面へデータを出す。

「また、頑張れ、もう少しという言葉より、自分を認める言葉に好意的な反応がありました」

「この言葉で売上が上がる保証は?」

「ありません」

 会議室が静かになる。石橋が葵を見る。葵は続けた。

「ただ、テスト販売で三種類の言葉を比較できます。最初から一つへ決めず、反応を数字で確認します」

「なら、この言葉へこだわる必要はないのでは?」

「私は、これを一番届けたいと思っています」

 葵ははっきり言った。

「理由は?」

「頑張った成果ではなく、その日を過ごしたこと自体を認める言葉だからです」

 葵は会議室にいる人々を見た。

「何もできなかったと思う日でも、朝起きて、仕事へ来て、ここまで時間を過ごした。その人に、まだ頑張れと言うのではなく、ここまで来たと伝えたいです」

 部長はしばらく黙っていた。

「個人的な経験から?」

 葵の胸が緊張する。すべてを話す必要はない。

「はい」

 それだけ答える。

「ただ、私だけの経験ではないと思っています」

 デザイナーが頷く。営業担当も資料を見る。

「店頭で目立たせすぎず、手に取った人が読める位置へ入れるなら、押しつけにはならないと思います」

 石橋が言う。

「三案でテストし、数字で判断します。ただし、最初の案としては小野寺さんの言葉を推します」

 葵は石橋を見る。

 以前なら、石橋が自分の言葉を認めてくれるだけで満足した。今は、自分の口で説明した後に支えてもらえたことが嬉しい。

 審査の結果、三店舗で試験販売することが決まった。正式採用ではない。だが、商品が店頭へ並ぶ。

     *

 会議室を出ると、石橋が葵の隣へ歩いた。

「よく言えたね」

「怖かったです」

「顔には出てた」

「でも、言えました」

「うん」

「石橋さんが助けてくれると思ってました」

「最初から?」

「最後には」

 石橋が笑った。

「甘えたね」

「頼ったんです」

「言うようになった」

「練習しました」

「誰に?」

「大切な人たちに」

 葵は答えた。

     *

 昼休み、葵は真尋へメッセージを送った。

『企画が試験販売へ進みました』

 すぐに返事は来なかった。真尋も仕事中だ。葵は美月と昼食を食べながら待つ。

「通ったんでしょう?」

 美月が喜ぶ。

「試験だけ」

「店に並ぶんだよね」

「三店舗」

「すごいじゃん」

「まだ売れるかわからない」

「今は喜んでいいでしょう」

 美月が箸を置く。

「今日も、ここまで来た葵へ」

 その言葉に、葵は笑いながら少し泣きそうになる。

「自分で言った言葉なのに」

「自分にも必要だったんでしょう」

「うん」

「彼に報告したい?」

 美月が静かに尋ねる。葵は考えた。

 直哉。以前なら、真っ先に送りたかった。今も、知らせたい気持ちはある。

 企画の相談を何度かした。直哉は、葵が仕事で悩むと、無理しなくていいと言ってくれた。だが、その言葉に葵は時々寂しさを感じていた。

 無理しなくていいのではなく、頑張っていることを見てほしかった。

「少し」

 葵は答える。

「送る?」

「今日は送らない」

「どうして?」

「反応で、今日の嬉しさを変えたくないから」

 直哉が褒めてくれれば、嬉しさが増える。短い返事なら、企画が小さなことに思える。既読だけなら、悲しくなる。

 今は、自分と支えてくれた人たちで喜びたい。

「真尋と美月と、石橋さんに話せたから」

「お母さんは?」

「夜に言う」

「俊介さんは?」

「真尋から伝わるかも」

「自分で送れば?」

 葵は考える。

 俊介とは、連絡先を交換していない。初対面の日、三人の写真を撮ろうという話にもなったが、結局撮らなかった。次に会う時にと残した。

「今度会った時に、自分で言う」

「もう会うんだ」

「卵焼き対決」

「何それ」

 葵は笑った。

 真尋から返信が届く。

『おめでとうございます』

 続けて。

『よく、自分の言葉を通しましたね』

 葵は画面を見て、胸が温かくなる。

『真尋に最初に報告した』

『ありがとうございます』

『俊介さんにも言って』

『葵から話したほうが喜びます』

『連絡先知らない』

『次に会う時に』

『うん』

『今日は、葵のために喜んでください』

 真尋は、直哉へ報告したいと思っていることまで見抜いたのだろうか。

『うん』

 葵は短く返した。

     *

 仕事を終えた真尋は、俊介と電話をしていた。

『葵さんの企画、進んだんですね』

「はい」

『よかったです』

「本人から、次に話すそうです」

『楽しみにしています』

「卵焼き対決の日に」

『本当に開催するんですね』

「葵は、すでに練習していると思います」

『真尋は?』

「必要ありません」

『自信がありますね』

「私が教えました」

『生徒が先生を越えることもあります』

「公平に判定してください」

『味で』

「俊介。葵に会ってくれて、ありがとうございました」

『何度目ですか』

「まだ一度しか」

『会うことを受け入れてくれて、という意味ですか』

「はい」

『僕も会いたかったので』

「無理をしていません?」

『少し疲れました』

 俊介は正直に答えた。

「はい」

『でも、良い疲れです』

「どういう意味?」

『真尋の大切な人を知るには、僕も自分の気持ちを言葉にする必要がありました。葵さんに、取られると思っていたことも』

「私を?」

『はい』

「私は、物ではありません」

『わかっています』

「でも、そう感じた?」

『感情として』

「はい」

『今日まで、少し恥ずかしくて言えませんでした』

「話してくれて、ありがとうございます」

『真尋が葵さんの隣へ座った時、僕の場所が少し離れたように感じました』

「はい」

『でも、真尋が僕を見てくれたので、大丈夫でした』

「見ていました?」

『はい』

「俊介が寂しくないか気になりました」

『少し寂しかったです』

「次は、三人が同じくらい話せる席にします」

『席の問題だけではありません』

「はい」

『でも、真尋が気にしてくれたことは嬉しいです』

「私は、二人に嫌われたくないと思っていました。仲良くしてほしいとも。でも、無理に親しくならなくてもいいと思っていました」

『今は?』

「また三人で会いたいです」

『僕もです』

「よかった」

『ただ』

「何ですか」

『二人で会う時間も、変わらずほしいです』

「もちろん」

『言ってよかったですか』

「はい。私も、俊介と二人で会いたいです」

『それを聞ければ十分です』

     *

 その週末、葵は母から実家へ帰ってこないかと誘われた。

 久しぶりに父も休みだから、三人で食事をしたいという。

 葵は迷った。

 実家へ帰れば、直哉の話をさらに聞かれるかもしれない。父には、まだ別れたことを話していない。母から伝わっている可能性もある。

 一人の部屋で静かに過ごしたい気持ちもあった。

 以前なら、断れば母を悲しませると思い、無理に帰っただろう。今は、自分の希望を考える。

 父へも話したい。だが、今週は仕事の疲れがある。企画が進み、気持ちが高ぶったまま一週間を過ごした。一人で休みたい。

 葵は母へ電話をかけた。

「今週は帰らない」

『そう。仕事?』

「少し疲れてる」

『家で休めばいいじゃない』

「自分の部屋で休みたい」

 母が黙る。

『わかった』

 以前なら、もっと理由を聞かれただろう。母も、葵の言葉を受け取ろうとしている。

「でも、来月帰る」

『いつ?』

「予定を確認して連絡する」

『お父さんにも話す?』

「うん」

『私からは、まだ詳しく言ってない』

「ありがとう」

『葵。一人でいたい時と、帰りたい時、どっちも言ってね』

「うん」

『我慢しないで』

「お母さんも」

『何を?』

「寂しかったら、寂しいって言って」

 母が笑った。

『今は、少し寂しい』

「ごめん」

『謝らなくていいでしょう』

「うん」

『来月、待ってる』

 電話を切る。

 断っても、関係は続く。母が寂しいと言っても、葵が帰らなければならないわけではない。

 互いの気持ちを知った上で、今日は別々に過ごす。それでいい。

     *

 土曜日の午後、葵は一人で散歩へ出た。

 以前、直哉とよく歩いた川沿い。避けていた場所。今日は、自分から向かってみようと思った。

 冬の川。葉を落とした木。犬を散歩させる人。走る人。ベンチに座る夫婦。

 直哉と並んで歩いた記憶が、何度も浮かぶ。

 初めて手をつないだ夜。コンビニで温かい飲み物を買った冬。喧嘩をして、互いに黙ったまま歩いた日。付き合って一年の記念日に、小さな花束をもらったこと。

 楽しかった。苦しかった。どちらも本当だ。

 葵は川沿いのベンチへ座った。スマートフォンを開く。直哉の名前。

 連絡しようと思えば、できる。

『元気?』

 それだけなら、重くない。企画が進んだと報告してもいい。会いたいと書いてもいい。

 葵は何も打たず、画面を閉じた。

 会いたい。けれど、今会ったら何を話したいのか、まだ決まっていない。

 復縁したいと頼むのか。終わりを確認するのか。今の直哉を知りたいのか。自分が変わったことを見せたいのか。

 どれも混ざっている。今はまだ、自分の中で分けられない。

 葵は立ち上がった。

 川の流れは、以前と同じように見える。だが水は、同じ場所に留まっていない。

 過去の道を歩いても、自分は以前の自分ではない。

 葵は自宅へ向かって歩き始めた。

     *

 真尋と葵が秋田へ再び行く約束は、まだ日付のない未来だった。それでも二人は、時々その旅について話した。

 同じ宿へ泊まる。武家屋敷を歩く。あの喫茶店でミルクティーを飲む。女将へ、東京での時間を話す。出会った場所で、今の二人を写真に残す。

 その時、俊介は東京で待っている。美月も、母も、それぞれの生活にいる。直哉は、葵の過去として残っているのかもしれない。あるいは一度会い、最後の言葉を交わしているかもしれない。

 何が起きるかは、まだわからない。

 ただ、秋田へ行く時には、二人とも相手へ寄りかかるためではなく、自分の足で立って旅へ出たいと思っていた。

 真尋は俊介を大切にしながら。葵は直哉を好きだった自分を否定せずに。それでも二人で歩く。

 友情という言葉の中へ、すべてが収まらなくても。家族ではなくても。恋人ではなくても。

 互いの人生に、帰ってこられる場所として存在する。

 その関係を、秋田の道で確かめたい。

     *

 日曜日の夜、葵は真尋へ電話をかけた。

『もしもし』

「今、大丈夫?」

『はい。俊介との電話は終わりました』

「私が後?」

『順番を気にしています?』

「少し」

『今日は俊介から先に電話が来ました』

「うん」

『葵からの電話も待っていました』

「本当?」

『はい』

 葵は安心する。

「今日、直哉と歩いた川へ行った」

『一人で?』

「うん」

『どうでした?』

「苦しかった。でも、歩けた」

『はい』

「連絡しようと思った」

『しました?』

「してない」

『はい』

「褒めないの?」

『送らなかったことが正しいとは限りません』

「真尋らしい」

『葵が、今日は送らないと決めたことを大切にします』

「うん」

『何を話したいか、まだわからなかった?』

「どうしてわかるの?」

『今まで話してきたからです』

「戻りたいって言いたい自分もいる。でも、今日の直哉と一緒にいたいかは、わからない」

『はい』

「前の直哉が好きだった。今の直哉を、私は知らない」

『離れていた半年の間に、互いに知らない時間が増えましたね』

「うん。会うなら、確かめるためになる」

『はい』

「復縁するためじゃなく」

『はい』

「でも、会ったら戻りたくなる」

『それも本当です』

     *

「真尋。いつか、会う」

『はい』

「それで、戻らないって決めるかもしれない」

 声にすると、胸が痛む。今まで、戻らない可能性をはっきり口にしたことはなかった。

『はい』

「好きでも」

『はい』

「私が、決めていい?」

『もちろんです』

「直哉が戻りたいって言っても?」

『はい』

「断ったら、後悔するかもしれない」

『はい』

「それでも?」

『後悔しない選択は、たぶんありません』

 真尋の声は穏やかだった。

『戻っても、戻らなくても、別の後悔はあると思います』

「じゃあ、どうしたらいい?」

『どちらの後悔を、自分で引き受けたいか考えるしかないのかもしれません』

 葵は黙った。

 直哉と戻り、また同じ苦しさを抱えるかもしれない後悔。戻らず、好きな人を手放したことを思い続ける後悔。

 どちらも怖い。

「今は、戻らないほうへ少し傾いてる」

『今日、そう感じたんですね』

「うん」

『その気持ちを、急いで決定にしなくてもいいです』

「でも、忘れないようにしたい」

『ノートへ書きますか』

「書く」

『はい』

「真尋。秋田へ行く時には、ちゃんと終わらせていたい」

 真尋は黙った。

『直哉さんとの関係を?』

「うん」

『なぜ秋田までに?』

「新しい自分で行きたいから」

『今の葵も、新しい葵です』

「でも、中途半端なまま真尋と関係を確かめたくない」

『直哉さんとの結論と、私たちの関係は別です』

「わかってる」

『はい』

「でも、自分の気持ちを自分で選んでから、秋田へ行きたい」

 真尋は葵の言葉を受け取った。

『わかりました』

「真尋も、俊介との関係がどうなってても行く?」

『はい』

「うまくいってても?」

『はい』

「喧嘩してても?」

『はい』

「結婚してても?」

『それは、かなり先の話です』

「でも」

『行きます』

 真尋ははっきり答えた。

『私の生活がどのように変わっても、葵と秋田へ行きたいです』

 葵の目に涙が浮かぶ。

「約束?」

『はい』

「俊介が寂しがっても?」

『俊介へ話します。寂しい気持ちも聞きます。それでも行きます』

「うん」

『葵も、誰かに遠慮してやめないでください』

「うん」

『二人で行きましょう』

「うん」

 葵は泣きながら笑った。

「その時、私たちが何なのか決めよう」

『決められなくてもいいです』

「でも、確認したい」

『何を?』

「どんなに生活が変わっても、帰ってこられる人か」

 電話の向こうで、真尋が静かに息を吐いた。

『私も確かめたいです』

「うん」

『葵。今も、帰ってこられます』

「知ってる」

『はい』

「でも、秋田で言って」

『何を?』

「その時に決める」

 葵は吹き出した。

『わかりました』

 二人は電話を切った。

     *

 真尋は静かな部屋で、壁の写真を見た。

 二人の影。俊介の写真。自分の写真。

 秋田へ戻る約束。俊介との恋。葵との名前のない関係。

 どちらかを選ぶ必要はない。

 ただし、どちらも大切にするなら、言葉を惜しまないこと。時間を作ること。時には相手を寂しくさせることを受け入れること。

 すべてを傷つけずに守ることはできない。それでも、黙って失わないようにすることはできる。

 真尋は俊介へメッセージを送った。

『葵と、いつか秋田へ二人で行く約束をしました』

 少しして返信が届く。

『はい』

『寂しいですか』

『寂しいです』

『それでも、行きたいです』

『行ってきてください』

『ありがとうございます』

『帰ってきてくれますか』

 真尋は画面を見つめた。

 俊介も不安なのだ。葵との関係が深いからこそ、自分の場所が消えるのではないかと。

『帰ってきます』

 送る。考え、続ける。

『俊介のところへ帰るという意味だけではありません。自分の生活へ帰り、俊介に会いたいと伝えます』

 俊介からの返事は遅れた。

『それで十分です』

『はい』

『真尋』

『何ですか』

『僕も、僕の生活を持ったまま待っています』

 真尋は安心した。

『はい』

     *

 葵はノートを開き、今日感じたことを書いた。

 俊介に会った。真尋の隣に座る姿を見て、寂しかった。でも、真尋を大切にしていることがわかった。

 俊介も嫉妬する。それでも、自分と真尋の関係をなくしてほしいとは言わなかった。

 真尋は、自分が元気になっても会いたいと言った。

 必要とされるためではなく、会いたいから会う。

 直哉との関係を考える。以前の二人へ戻りたい気持ちと、今の直哉と新しい関係を作りたい気持ちは違う。今は、後者を強く望んでいるとは言えない。

 好きでも、戻らない選択がある。

 葵は最後に、少し大きな文字で書いた。

『秋田へ行くまでに、直哉へ自分の言葉を伝える』

 その下へ続ける。

『真尋と、友情以上の名前のない関係を確かめる』

 書いた言葉を見て、照れくさくなる。

 友情以上。恋愛ではない。それでも、人生の大切な場所を互いに持っている。

 今は、それでいい。名前は、秋田で二人の言葉から見つければいい。

 葵はノートを閉じた。

 窓の外には、東京の夜が広がっている。

 直哉も、どこかで同じ夜を過ごしている。真尋は自分の部屋。俊介も、自分の部屋。美月も。母も。

 それぞれが、自分の生活を持っている。

 誰かとつながるために、自分の場所を捨てなくていい。誰かの一番だけを求めなくてもいい。

 自分にしかない場所は、競って奪うものではなく、時間の中で作られていく。

 葵は棚の写真へ視線を向けた。

 二つの影は、まだ同じ方向へ伸びている。

 次に秋田で撮る写真には、どんな二人が写るのだろう。

 今より強くなっているかもしれない。別の悩みを抱えているかもしれない。互いに会う回数が減っているかもしれない。

 それでも、隣に立てればいい。

 葵は照明を消した。

 暗い部屋の中で、写真は見えなくなる。見えなくても、そこにある。

 二人の関係も、同じなのかもしれない。

 毎日確かめなくても。すべてを話さなくても。離れた時間が増えても。

 なくならないものを、これから作っていく。

 秋田へ戻る日まで。そして、その先も。



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