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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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16/46

第十六章 言葉が届かない夜

月曜日の朝、真尋は俊介から届いた短いメッセージで目を覚ました。

『おはようございます。今日から少し忙しくなりそうです』

 時刻は午前六時十二分。いつもより早い。

 真尋は枕元の時計を確認し、もう一度画面を見た。

『何かありましたか』

 送ってから、返信を待つ。すぐに既読がついた。

『先週話していた改修案件で、構造部分に問題が見つかりました。今日、現地へ行きます』

『大きな問題ですか』

『まだわかりません。調査してから連絡します』

『気をつけて行ってきてください』

『はい。真尋も仕事へ気をつけて』

 やり取りはそこで終わった。

 真尋はスマートフォンを胸元へ置いた。

 俊介の仕事が忙しくなることは、これまでにもあった。現場の対応。図面の修正。部下との調整。電話ができない夜もあった。

 それでも俊介は、事前に伝えてくれた。今日も、忙しくなりそうだと知らせている。

 不安になる理由はない。

 そう思いながら、真尋はベッドを出た。

 カーテンを開ける。朝の空は白く曇っている。天気予報では、午後から雨になるらしい。

 俊介は現地まで車で向かうのだろうか。足場は濡れないか。危険な場所ではないか。

 真尋は、聞きたいことが次々に浮かぶ自分へ苦笑した。

 今は仕事へ集中している。質問を重ねれば、返事をする負担になる。俊介から連絡すると言っている。待てばいい。

     *

 真尋はキッチンへ向かった。

 湯を沸かし、コーヒーを淹れる。パンを焼き、卵を茹でる。一人分の朝食。

 俊介と恋人になっても、朝の生活は変わっていない。同じ部屋で眠るわけではない。朝食を一緒に取るわけでもない。それぞれの場所で一日を始める。

 その形を望んだのは自分だった。

 真尋は席へ座り、パンを一口食べた。味を感じながら、仕事の予定を確認する。

 午前中は社内会議。午後は取引先とのオンライン打ち合わせ。佐伯が主担当を務める新規案件の確認もある。

 忙しい一日になる。俊介の連絡を待つだけの時間にはならない。

 真尋はそう考え、スマートフォンを裏返した。

     *

 同じ朝、葵のスマートフォンにも一通のメッセージが届いていた。直哉からだった。

『急に連絡してごめん。葵の会社の商品を、駅の店で見た気がする。前に話してた企画かなと思って』

 葵はベッドの中で、しばらく画面を見つめた。

 試験販売が始まったのは、三日前だった。三店舗だけ。そのうち一店舗が、直哉の通勤経路にあることは知っていた。

 見つける可能性を考えなかったわけではない。だが、実際に直哉から連絡が来るとは思っていなかった。

 葵は何度も文章を読む。

 前に話していた企画。直哉は覚えていた。

 付き合っていた頃、葵は何度か仕事の話をした。働く女性が、午後に手に取れる小さな商品を作りたい。忙しい人へ、頑張れ以外の言葉を届けたい。

 当時の直哉は、難しいことはわからないけれど、葵らしいと言ってくれた。その言葉を嬉しく思った。

 けれど同時に、もっと聞いてほしいとも感じていた。誰に向けた商品か。どのような売り場を作りたいか。なぜその言葉を選ぶのか。

 直哉は、葵が話し始めると、仕事で疲れているから難しい話はまた今度と言うことが増えた。

 それでも今、商品を見つけて連絡してきた。

 葵の胸に、喜びが広がる。見てくれた。覚えていた。自分の仕事を、直哉が知っている。

 同時に、期待が生まれる。会いたいと思っているのかもしれない。連絡する理由を探していたのかもしれない。商品をきっかけに、もう一度話そうとしているのではないか。

     *

 葵は返信欄を開いた。

『そうです。私が企画した商品です』

 そこまで打つ。続けて、

『見つけてくれてありがとう』

 と書く。さらに、

『今度、詳しく話したい』

 と打ちかけ、指を止めた。

 今度。会うという意味に受け取られる。

 自分は、会いたいのか。

 会いたい。それは間違いない。

 ただ、直哉から連絡が来た嬉しさだけで会う日を決めてもよいのだろうか。

 葵は、真尋との会話を思い出した。

 どの後悔を、自分で引き受けたいか。

 会わなければ、ずっと会いたかったと思うかもしれない。会えば、戻りたくなるかもしれない。どちらも怖い。

 葵は文章を一度消し、短く書き直した。

『そうです。私が関わった企画です。見つけてくれてありがとう』

 送信する。すぐに既読がつく。

 数分後、直哉から返信が来た。

『やっぱり。言葉を見て、葵が前に話していたことを思い出した。試験販売?』

 葵は驚いた。パッケージに試験販売とは書かれていない。以前の話を覚えていたからわかる。

『うん。まだ三店舗だけです』

『すごいな。おめでとう』

 短い言葉。それでも葵の目に涙が浮かんだ。

 言ってほしかった。企画が進んだ時、一番聞きたかった人から。

『ありがとう』

 送る。そこで終わるかと思った。

 だが直哉から、もう一通届く。

『もし迷惑じゃなければ、少し話せないかな。商品を見たからだけじゃなくて、葵に話したいことがある』

     *

 葵の呼吸が止まる。

 会いたい。直哉から、その言葉に近いものが届いた。

 手が震え始める。嬉しい。怖い。戻りたい。逃げたい。

 いくつもの感情が一度に押し寄せる。

 葵はすぐに返信できなかった。画面を閉じ、ベッドから起き上がる。立ったままでは足に力が入らず、もう一度座った。

「話したいこと」

 声に出す。

 何を話したいのか。戻りたい。謝りたい。今の気持ちを伝えたい。あるいは、正式に終わらせたい。

 文章だけではわからない。聞くためには会う必要がある。

 葵は真尋へ連絡しようとした。だが、時刻は午前六時半。真尋も仕事の準備をしている。

 さらに、葵は自分へ問いかけた。

 今すぐ真尋へ相談しなければ、答えられないのか。真尋に、会ったほうがいいと言われたいのか。会わないほうがいいと止めてほしいのか。

 どちらの答えを望んでいるのか、自分でもわからない。

 葵は直哉への返信を保留し、先に朝食を作ることにした。

 味噌汁。卵。ご飯。いつもの朝。

 鍋へ水を入れる手が、震えていた。

     *

 真尋の午前中は、予定よりも忙しく進んだ。

 会議が一つ延び、佐伯の案件でも取引先から追加資料を求められた。

「今日中に提出できますか」

 取引先からの電話を切った後、佐伯が尋ねる。

「全部は難しいでしょう」

「でも、今日中と言われました」

「必要な部分を確認しましたか」

「売上予測と導入後の支援体制です」

「なら、その二つを優先します。残りは明日の午前中」

「相手が不満に思いませんか」

「すべてを急いで不十分な資料を出すほうが問題です。佐伯さんは売上予測を。支援体制は吉田さんと相談してください」

「課長は?」

「最終確認をします」

     *

 真尋は仕事へ集中しながらも、時々スマートフォンが気になった。

 俊介からの連絡はない。朝のメッセージから、すでに五時間近く経っている。

 現地で調査をしている。連絡できないのは当然だ。わかっている。

 それでも、昼休みが近づくほど、胸の中に小さな不安が生まれた。

 問題が大きかったのか。怪我はしていないか。車の移動中ではないか。

 真尋は自分から送ろうと考えた。

『状況はどうですか』

 短い一文。負担にはならない。

 しかし朝、調査してから連絡すると俊介は言った。その言葉を信じると決めたはずだ。

 真尋は送信せず、スマートフォンを机へ戻した。

「課長」

 佐伯の声で、意識を仕事へ戻す。

「この数字、確認してもらえますか」

「はい」

 資料へ目を落とす。数字。予測。根拠。

 真尋は丁寧に確認した。

     *

 昼休み、葵は美月と会社近くの定食店へ入った。

 直哉への返信は、まだしていない。朝から何度も画面を開いた。そのたびに、言葉が決まらなかった。

 美月は葵の様子を見て、席へ着く前から気づいていた。

「何かあった?」

「直哉から連絡来た」

 葵が言うと、美月の表情が変わる。

「何て?」

「商品を見たって」

「例の企画?」

「うん。おめでとうって。それから、話したいことがあるって」

 美月はすぐには答えなかった。

「会いたいってこと?」

「たぶん」

「葵は?」

「会いたい」

 迷わず出た。美月は頷く。

「なら、会う?」

「怖い」

「何が?」

「戻ってほしいって言われたら、戻るかもしれない」

「戻りたいんでしょう?」

「前は」

「今は?」

「わからない」

 注文した定食が運ばれてくる。葵は味噌汁の蓋へ手を置いたまま、開けなかった。

     *

「真尋さんには相談した?」

「まだ」

「どうして?」

「自分で考えたい」

 美月が驚く。

「そう」

「でも、意見は聞きたい」

「どっち?」

「まず、自分の気持ちを少し整理してから」

「できそう?」

「わからない」

 美月は箸を取り、葵を見た。

「直哉さんが何を話したいかは、会わないとわからないよね」

「うん」

「葵が何を話したいかは?」

 葵は考える。

「好きだったこと」

「過去形?」

「今も好き。でも、戻るかは別だって」

「それを言いたい?」

「言えるかわからない」

「戻ってほしいと言われたら?」

「嬉しい」

「それで?」

「泣くと思う」

「その後は?」

「わからない」

 美月は息を吐いた。

     *

「会う前に、返事を決めなくてもいいんじゃない?」

「その場で戻ろうって言われても?」

「考えさせてって言えばいい」

「直哉が傷つかない?」

「またそれ?」

 美月の声は厳しくなりかけ、すぐに柔らかくなる。

「葵が考える時間を取ることは、相手を傷つけるためじゃない」

「でも」

「直哉さんも、半年かけて考えたんでしょう」

 葵は黙った。

「葵だけが、その場ですぐ答えなくてもいい。会うなら、会うことだけ決める。復縁するかは、別の日に決める」

「それでいい?」

「二人がいいなら」

 美月は味噌汁を一口飲んだ。

「私は、会ってもいいと思う」

「今?」

「前より、自分の希望を言えるようになったから」

「でも、直哉の前ではわからない」

「言えなかったら、途中で帰ってもいい」

「帰る?」

「話せないと思ったら」

 葵は、その選択を考えたことがなかった。

 会ったら、最後まで話さなければならない。相手が話したいことをすべて聞かなければならない。そう思っていた。

「途中で帰ってもいい。失礼じゃない?」

「もう少し考えてから話したいって言えばいいでしょう」

 葵はようやく味噌汁の蓋を開けた。湯気が上がる。

「会ってみたい」

「なら、返事したら?」

「今?」

「食べてから」

 美月は吹き出した。

「空腹で大事な返事しないほうがいい」

 葵も笑った。

     *

 午後一時を過ぎた頃、俊介から真尋へメッセージが届いた。

『調査が長引いています。構造だけではなく、配管にも問題がありそうです。今日は事務所へ戻れないかもしれません』

 真尋はすぐに返信した。

『怪我はありませんか』

 数分後。

『大丈夫です』

『食事は?』

『これから近くで買います』

『夜も遅くなりますか』

 送った後、少し質問を重ねすぎたかと思う。

 俊介からの返信は、十分近く経ってからだった。

『わかりません。今日は電話できないと思います』

 文章が短い。冷たいわけではない。忙しいだけ。

 真尋は理解しようとした。

『わかりました。無理をしないでください』

 送信する。既読がつくまで、少し時間がかかった。返信はなかった。

     *

 真尋はスマートフォンを伏せた。

 午後の打ち合わせが始まる。画面に取引先の担当者が映る。真尋は資料を説明し、質問へ答えた。

 仕事中は集中できた。

 だが打ち合わせが終わった瞬間、俊介の短い文章が頭へ戻る。

 今日は電話できないと思います。

 以前の自分なら、その言葉を当然として受け取っていただろう。忙しい人へ、自分の寂しさを見せてはいけない。仕事を理解できる大人でなければならない。

 今は、寂しいと感じている。

 その気持ちを俊介へ伝えるべきか。現場で問題へ対応している今、言えば負担になる。だから今は言わない。

 それは我慢なのか。相手の状況を考えた選択なのか。

 真尋はわからなくなる。

「課長」

 佐伯が隣に立っていた。

「何ですか」

「資料、できました」

「確認します」

 佐伯が画面を見せる。真尋は一行ずつ目を通す。集中しようとしても、同じ文章を二度読む。

「課長、何かありました?」

「どうして?」

「少し上の空です」

 真尋は迷った。部下へ恋人の連絡が少なくて不安だと話す必要はない。

「私生活で、少し気になることがあるだけです」

「大丈夫ですか」

「はい」

「急ぎなら、先に連絡しても」

「仕事中です」

「でも、課長がいつも言ってるでしょう。優先順位を考えるって」

 佐伯に自分の言葉を返される。

「急ぎではありません」

「なら、仕事が終わってから?」

「そうします」

 佐伯はそれ以上聞かなかった。

     *

 葵は昼食を終えた後、直哉へ返信した。

『私も話したいことがあります。ただ、会ったその場で何かを決めることはできないと思います。それでもよければ、会いたいです』

 何度も読み直した。

 会いたい。決められない。どちらも自分の気持ちだ。

 送信する。既読がつく。待つ間、手が冷たくなる。

 数分後。

『もちろん。俺も、その場で答えを出してほしいわけじゃない。葵の都合のいい日を教えてほしい』

 葵は安心し、同時に不安になった。

 直哉は戻ってほしいと言うつもりではないのかもしれない。その場で答えを出してほしいわけではない。では、何を話すのか。

 葵は予定を確認する。

 今週の土曜日。午後なら空いている。来週まで待つこともできる。

 早く会いたい。だが、少し準備したい。

 葵は来週の土曜日を提案しようとした。それでは十日以上先になる。待っている間に、考えすぎるかもしれない。

 今週の土曜日。四日後。怖い。

 でも、先延ばしにしても怖さは変わらない。

『今週の土曜日、午後三時なら大丈夫です』

 送る。

『ありがとう。前に話したカフェでいい?』

     *

 別れたカフェ。葵の胸が苦しくなる。

 同じ場所。直哉が、気持ちがわからないと言った場所。葵が別れようと伝えた場所。

 そこへ戻る。嫌だと思った。

『別の場所がいいです』

 葵はすぐに送った。以前なら、直哉が提案した場所へ合わせただろう。今は言えた。

『わかった。葵が決めていいよ』

 葵は駅近くのホテルラウンジを思い出した。人が多すぎず、静か。長居をしすぎずに済む。どちらかの家へ近すぎない。

『駅前のホテルのラウンジはどう?』

『大丈夫。三時に』

 約束が決まった。

 葵は画面を見つめた。四日後、直哉へ会う。

 逃げたい気持ちと、早く会いたい気持ちが同時にある。

 葵は真尋へ連絡しようとした。だが、仕事中。まずは自分で決められた。夜に話せばいい。

 葵はスマートフォンをバッグへ入れた。

     *

 真尋が会社を出たのは、午後七時を少し過ぎた頃だった。

 俊介から新しい連絡はない。現場対応が続いている。

 真尋は駅へ向かいながら、何度もスマートフォンを確認した。

 雨が降り始めている。傘を開く。通勤客が足早に駅へ向かう。

 俊介は今、どこにいるのか。雨に濡れていないか。食事は取ったか。

 電話はできなくても、一言くらい送れるのではないか。

 その考えが浮かび、真尋は自分を責めた。忙しいとわかっているのに。自分の不安を優先しようとしている。

 だが俊介は、気持ちを黙って決めつけないでほしいと言った。真尋も、不安を言葉にすると約束した。

 今、送るべきか。

『忙しいことはわかっています。返事は急ぎません。ただ、少し心配しています』

 文章を打つ。送信する前に、読み直す。

 心配している。それだけなら、負担ではないだろうか。返事は急がないと書いても、読めば返信しなければと思うかもしれない。

 真尋は送らず、画面を閉じた。

     *

 電車へ乗る。座席は空いていない。吊り革を握り、揺られながら窓へ映る自分を見る。

 慎一との過去が浮かぶ。

 仕事が忙しい。今日は会えない。また連絡する。

 最初は短い連絡があった。やがて、それも減った。

 真尋は相手を理解しようとした。忙しい人を責めたくなかった。寂しいと言えば、重いと思われる。会いたいと言えば、負担になる。

 そう考え、何も言わなくなった。

 慎一も、真尋が何も言わないから大丈夫だと思った。距離は、静かに広がった。

 俊介は慎一ではない。真尋も、以前の自分ではない。わかっている。

 それでも、連絡が途切れると過去の感覚が戻ってくる。

 このまま俊介も離れていくのではないか。仕事を理由に、会う回数が減る。真尋が一人で大丈夫だから、放っておいてもいいと思う。いつか、気持ちがわからなくなったと言われる。

 真尋は吊り革を強く握った。

 今起きていない未来を、勝手に作っている。俊介の気持ちを決めている。それを止めたい。

 だが不安は、考えれば消えるものではなかった。

     *

 自宅へ着くと、真尋は濡れたコートを脱ぎ、すぐにスマートフォンを確認した。

 午後八時十八分。俊介からの連絡はない。

 真尋はキッチンへ立つ。夕食を作る気になれない。冷凍していたスープを温める。パンを一つ出す。

 鍋の中でスープが静かに揺れる。俊介がこの部屋で食べたスープ。同じ料理なのに、今日は少し味が違う気がする。

 真尋はテーブルへ座った。

「いただきます」

 一人で言う。スープを口へ運ぶ。温かい。食べられる。

 それでも、スマートフォンへ視線が向く。

 俊介は、真尋が食事をしているか気にしないのだろうか。

 その考えが浮かび、すぐに嫌になる。恋人だから、毎回食事を確認しなければならないわけではない。忙しい時に連絡できないこともある。理解している。感情が追いつかないだけだ。

     *

 真尋はスープを半分ほど食べたところで、葵から電話がかかってきた。

「もしもし」

『今、大丈夫?』

「はい」

『声、疲れてる。仕事?』

「それも」

『俊介?』

 葵はすぐに気づいた。

「どうして?」

『返事が少し遅かったから』

「俊介の仕事が忙しくなりました」

『連絡ない?』

「朝と昼に少し」

『夜は?』

「まだ。八時半です」

『それくらいなら』

 葵は言いかけ、止まる。

『ごめん。真尋が不安なんだね。連絡した?』

「していません」

『どうして?』

「仕事中だから」

『心配って言うだけでも?』

「負担になるかもしれない」

『俊介は、言ってほしいって言ってなかった?』

 真尋は黙った。

『真尋』

「はい」

『私に話す前に、俊介に話したほうがいいことじゃない?』

 葵の言葉が胸へ刺さる。

 俊介との出来事は、まず俊介と話す。二人で決めたばかりだった。

「そうですね」

『私、聞かないほうがよかった?』

「違います」

『でも、俊介に言ってないことを、私に先に言ってる』

「はい」

 葵は間を置いた。

『一度切る?』

「葵からの話は?」

『直哉と会うことになった』

     *

 真尋は驚く。

「いつ?」

『土曜日』

「決めたんですね」

『うん』

「大丈夫ですか」

『怖い。でも、自分で場所も決めた。会ったその場で返事をしないって、先に言った』

「よく伝えましたね」

『美月に相談した』

 真尋の胸に、一瞬寂しさが生まれる。葵は、自分ではなく美月へ先に相談した。

 だがすぐに、葵が今言ったことを思い出す。

 俊介とのことは、俊介へ。直哉と会うことを決めるまでの相談は、美月へ。

 葵には葵の関係がある。

「美月さんは、何と?」

『会うことだけ決めればいいって』

「いい助言ですね」

『真尋は?』

「私も、そう思います」

『止めない?』

「止めてほしいですか」

『少し』

「会いたいんでしょう」

『うん』

「なら、会っていいと思います」

『戻りたいって言われたら?』

「その場で答えないと決めたんですよね。それを守れるよう、準備しましょう」

『ノート持っていく』

「はい」

『途中で帰ってもいいって、美月が』

「いいと思います」

『真尋。俊介に連絡して』

「はい」

『それから、また電話してもいい?』

 真尋は考える。

「俊介とのやり取りが終わって、まだ話せる時間なら」

『うん』

「葵も、直哉さんへ会う準備を一人でしすぎないでください。美月さんにも、私にも」

『頼る。一度切るね』

「ありがとうございます」

 電話が切れた。

     *

 真尋はスマートフォンを手にしたまま、しばらく動かなかった。

 俊介へ何を送るか。心配している。寂しい。過去を思い出している。

 全部を書く必要はない。だが、短くしすぎれば本当の気持ちが伝わらない。

 真尋は文章を打つ。

『忙しい中で連絡を求めることが負担になると思い、送れずにいました。でも、連絡がない時間が長くなると、以前の関係を思い出して不安になります。今すぐ返事は必要ありません。ただ、落ち着いた時に状況を教えてください』

 読み直す。責めているように見えないか。以前の関係と比べられた俊介は嫌ではないか。

 それでも、これが今の気持ちだった。

 真尋は送信した。既読はつかない。現場にいる。スマートフォンを見られない。

 真尋は食事へ戻った。冷めたスープを飲む。今度は、少し味がわかった。

 伝えた。あとは待つ。

     *

 午後九時四十分、俊介から電話がかかってきた。

 真尋は一度、深く息を吸ってから出た。

「もしもし」

『遅くなってすみません』

 俊介の声は疲れている。周囲に車の音が聞こえる。

「今、どこですか」

『事務所へ戻る車の中です。部下が運転しています』

「怪我は?」

『ありません』

「食事は?」

『昼にパンを食べました』

「夜は?」

『まだです』

 真尋は心配と苛立ちを同時に感じた。

「忙しいのはわかります。でも、何も食べないのは」

『すみません』

「謝ってほしいわけではありません」

 自分の声が強くなる。電話の向こうが静かになる。

『メッセージ、読みました。不安にさせました』

「はい」

『連絡できる時間はありました』

 俊介の言葉に、真尋の胸が詰まる。

「では、どうして?」

『文章を考える余裕がありませんでした』

「短くてもよかったです。まだ現場です、とか。無事です、とか」

『はい』

「私は、俊介が大丈夫なのか知りたかった」

『はい』

「朝、調査してから連絡すると言いました」

『昼に連絡しました』

「その後です」

『はい』

     *

 真尋は、自分が責めていると感じた。だが今は止められなかった。

「私は、忙しい俊介を理解したいです。でも、理解しているなら寂しくならないわけではありません。何も言わずに待てる人になりたいわけでもない」

『はい』

「俊介は、私に不安を言ってほしいと言いました。だから言いました」

『ありがとうございます』

 その返事に、真尋の苛立ちが少し増す。

「ありがとうだけですか」

『何と答えたらいいかわからなくて』

「俊介は、どう思ったんですか」

『真尋に連絡しなければと思いました』

「義務?」

『違います』

「では?」

 俊介が黙る。車の走る音。真尋は、言葉を待つ。

『正直に言うと、現場のことで頭がいっぱいで、真尋のことを考える余裕がありませんでした』

 真尋の胸が冷たくなる。聞きたくなかった言葉だった。

「そうですか」

『でも、それは気持ちがなくなったという意味ではありません。仕事へ集中すると、ほかのことが見えなくなる時があります。真尋なら理解してくれると思っていました』

 その一言が、過去と重なった。

 真尋なら大丈夫。一人でいられる。理解できる。待てる。

「それは、私が何も言わないと思ったからですか」

『違います』

「私なら放っておいても大丈夫だと?」

『放っておくつもりでは』

「結果として、そうなっています」

『はい』

     *

 俊介の声が硬くなる。真尋は気づいた。俊介も疲れている。今、車の中で長い話をする状況ではない。

 それでも、ここで終えれば、また自分が飲み込むことになる。

「俊介。今日は、これ以上話さないほうがいいです」

『怒っていますか』

「怒っています」

 真尋は正直に答えた。

『はい』

「それから、傷つきました。でも、俊介が疲れている今、全部を話してもよい話し合いにならないと思います」

『わかりました』

「帰って、食事をして、休んでください」

『明日、話せますか』

「明日の夜なら」

『会えますか』

 真尋は迷った。電話だけではなく、顔を見て話したい。

「はい」

『真尋の会社の近くへ行きます』

「無理をしないでください」

『会いたいです』

 その言葉で、真尋の胸が揺れる。

「私も、話したいです。今夜は、もう連絡しなくていいです」

『着いたことだけ送ります』

「はい」

『真尋。気持ちがなくなったわけではありません』

「今は、その言葉をそのまま受け取れません。明日、話してください」

『わかりました』

 電話を切る。

     *

 真尋はスマートフォンをテーブルへ置いた。

 怒っている。傷ついた。

 俊介が自分のことを考える余裕がなかったと言った。仕事が大変だった。それは理解できる。

 だが、理解できるから傷つかないわけではない。

 俊介なら、自分を後回しにしないと思っていた。恋人になったばかり。好きだと言い合ったばかり。その時期でさえ仕事へ集中すれば忘れるなら、この先はどうなるのか。

 真尋の中に、未来への不安が広がる。

 忙しい時期が続く。連絡が減る。会えない。そのたびに話し合うのか。自分は、それに耐えられるのか。

 付き合うと決めたことが間違いだったのではないか。

 考えが一気にそこまで進み、真尋は目を閉じた。

 今は怒っている。この状態で、関係全体を決めない。

 明日、俊介の話を聞く。自分の気持ちを話す。その後で考える。

     *

 真尋は、葵へ電話をしようとした。だが止める。

 今の俊介への怒りを、先に葵へすべて話せば、俊介との関係を葵の意見で決めたくなるかもしれない。

 まず、自分で少し整理する。

 真尋はノートを開いた。

『今日、傷ついたこと』

 そう書く。

 連絡がなかったこと。真尋なら理解してくれると思われたこと。仕事へ集中して、自分を考える余裕がなかったと言われたこと。以前の関係を思い出したこと。

『俊介へ聞きたいこと』

 忙しい時、どの程度なら連絡できるのか。連絡できない日が続く可能性はあるか。真尋に理解してほしいことは何か。真尋が寂しいと伝えた時、どう感じるか。

『自分が望むこと』

 一日一度は、無事であることを知りたい。長い文章はいらない。仕事を優先する日があっても、関係が続いていることを言葉で伝えてほしい。理解できる人として扱われるだけではなく、寂しさを持つ人として見てほしい。

 書いているうちに、呼吸が落ち着いた。

     *

 葵からメッセージが届いたのは、午後十時半だった。

『俊介と話せた?』

 真尋は迷い、短く返す。

『話しました。明日、会って話し合います』

『喧嘩?』

『少し』

『電話していい?』

 真尋はノートを見る。

 今は、葵へ話しても大丈夫だろうか。俊介との話し合いを先にすることはできない。明日まで一人で抱える必要もない。

 ただし、葵へ答えを求めないようにしたい。

『十五分だけ』

 送る。すぐに電話がかかる。

「もしもし」

『大丈夫?』

「大丈夫ではありません」

『何があった?』

 真尋は、事実だけを話した。

 俊介の仕事が忙しくなったこと。夜まで連絡がなかったこと。自分から不安を伝えたこと。俊介が、仕事で頭がいっぱいになり、真尋を考える余裕がなかったと言ったこと。

『それ、傷つく』

 葵が言う。

「はい」

『でも、俊介も正直に言ったんだね。嘘ついて、ずっと心配してたって言うこともできた』

「そうですね」

『真尋は、どうしたい?』

「明日、話します」

『別れたい?』

 直接的な質問。真尋は自分の気持ちを探す。

「今は、わかりません」

『そこまで?』

「過去を思い出しました」

『慎一さん』

「はい」

『俊介は違う』

「わかっています」

『でも、同じことが起きたら怖い』

「はい」

     *

『明日、何を聞く?』

「忙しい時、どのように関係を続けたいと思っているか。私が不安を伝えることを、負担だと思うか。俊介は、何を望んでいるか」

『真尋は?』

「一日一度、短い連絡がほしいです」

『それ、言っていいと思う』

「要求が多いですか」

『恋人なら普通って言いたいけど、普通は人によって違うから』

 葵が、真尋の言葉を使う。

「はい」

『俊介ができるか聞けばいい。できないなら?』

「考えます」

『何を?』

「私が受け入れられるか」

 葵は黙った。

『真尋。理解することと、我慢することは違うって、真尋が教えてくれた』

「はい」

『俊介の仕事を理解しても、連絡がない関係を我慢しなくていい。でも、今日一日で、俊介は無理って決めなくてもいい』

「はい」

『明日、話して』

「そうします」

『私も、土曜日に直哉と会う。怖い。でも、今日自分で会うって決めた。真尋も、明日自分で決めて』

「別れるか?」

『違う。何を言うか』

 真尋は笑った。

「わかりました」

『私、今日は答えを出さなかった。真尋も、明日全部決めなくていい』

「はい」

 葵の声は穏やかだった。

「葵。ありがとうございます」

『私に先に話してよかった?』

「はい」

『俊介に話す前じゃない?』

「もう一度話した後です」

『そっか』

「今は、葵に聞いてほしかったです。答えではなく」

『聞くだけ』

「はい」

 十五分を少し過ぎたところで、電話を切った。

     *

 翌日の夜、真尋は会社近くの静かなカフェで俊介を待っていた。

 約束の十分前。テーブルには、まだ何も注文していない。ノートはバッグの中にある。俊介へ見せるつもりはない。必要なら確認できるように持ってきた。

 窓の外は、前日の雨が嘘のように晴れている。仕事帰りの人々が行き交う。

 真尋は、自分の手を見る。俊介と何度もつないだ手。昨日は、その温かさを思い出せなかった。怒りと不安で、すべてが遠くなった。

 今日は、顔を見たらどう感じるだろう。

 会いたい。同時に、少し会いたくない。

 優しくされれば、言いたいことを飲み込んでしまうかもしれない。疲れた顔を見れば、責められなくなるかもしれない。

 真尋は、何度も書いた言葉を頭の中で確認した。

 理解できる。でも、寂しい。連絡がほしい。忙しい時の二人の形を話したい。

 入口の扉が開く。俊介が入ってきた。

 昨日より疲れた顔。眼鏡の奥に、少し濃い隈がある。

 真尋を見つけ、足を速める。

「お待たせしました」

「私が早く来ました」

「仕事は?」

「終わりました」

「僕も、今日は早く出ました」

 二人は向かい合って座る。俊介は手をつなごうとしなかった。真尋も手を出さない。

 店員が来て、二人は飲み物を注文する。俊介はコーヒー。真尋は紅茶。

 店員が離れた後、沈黙が生まれる。

     *

「昨日は、すみませんでした」

 俊介が先に言う。

「何について?」

「連絡しなかったこと。真尋なら理解してくれると言ったこと。それから、真尋のことを考える余裕がなかったと言ったこと」

「その言葉は、本当ですか」

「本当です」

 真尋の胸が痛む。俊介は続ける。

「現場で問題が重なり、部下も混乱していました。僕が決めなければ工事が止まる状態でした。その間、真尋へ連絡しなければとは思いました」

「考える余裕がなかったのでは?」

「気持ちを考える余裕がなかった、という意味です」

「違いがわかりません」

 真尋の声が硬くなる。俊介は一度、息を吸った。

「真尋が寂しいかもしれない。心配しているかもしれない。そこまで想像する余裕がありませんでした。連絡は義務のように頭へ浮かびました。でも、適当な文章を送るのは失礼だと思いました」

「短く、無事ですと送るだけでよかったです」

「はい。今はそう思います」

「昨日は?」

「きちんと書けないなら、落ち着いてからと思いました」

「落ち着く時間が来なかった」

「はい」

「私なら待てると?」

「はい」

 俊介は正直に答えた。

「そこは、甘えていました」

     *

 真尋は黙る。

「真尋が一人で過ごせる人だと知っています。仕事の忙しさも理解できる。だから、言わなくても関係が壊れないと思いました」

「私は、壊れると思いました」

 真尋が言う。俊介の表情が揺れる。

「昨日、一日連絡が少なかっただけで?」

「一日だからではありません。以前の関係で、同じことが何度もありました」

「慎一さん」

「はい。俊介は違うと、何度も思いました。でも、忙しいから連絡できない。私なら理解してくれる。その言葉が同じでした」

「はい」

「一度似たことが起きると、その先まで想像します」

 真尋は、目をそらさずに話した。

「連絡が減る。会えなくなる。私は寂しいと言えなくなる。俊介は、何も言わないから大丈夫だと思う。最後に、気持ちがわからなくなったと言われる」

「僕は」

「まだ、俊介の話です」

 俊介は口を閉じる。

「私は、昨日、付き合ったことが間違いだったかもしれないと思いました」

 俊介の顔がこわばる。真尋の胸も苦しい。だが、言わなければならない。

「一日で?」

 俊介の声が震える。

「一日で決めたわけではありません。私の中に、そう思うほどの怖さが残っていたということです」

「はい」

「俊介を信じたいです。でも、信じることと、何も求めないことは違います」

「はい」

「私は、忙しい日でも、一日一度は連絡がほしいです」

 俊介は真尋を見る。

「長い文章は要りません。無事です。今日は遅くなります。それだけでもいい。それが、俊介には難しいですか」

     *

 俊介はすぐに答えなかった。

 真尋の胸が緊張する。できると言ってほしい。迷わず。

 だが、俊介は正直に考えている。

「毎日必ずと約束することは、難しいです」

 真尋の胸が沈む。

「なぜ?」

「事故や緊急対応で、本当に連絡できない日があるかもしれません。でも、通常の忙しさなら送れます」

「昨日は?」

「送れました。僕が、きちんと返さなければと思いすぎました。短くてもいいと、昨日知りました」

「以前にも話した気がします」

「はい」

「私が不安になることも」

「聞いていました」

「聞いたことと、わかったことは違った?」

「はい」

 俊介は苦しそうに言う。

「実際に真尋を不安にさせて、初めて重さがわかりました」

「私は、傷ついてからでなければわかってもらえないのが怖いです。次も、別のことで同じことが起きるのではないか」

「起きると思います」

 予想外の答えに、真尋は黙る。

     *

「僕たちは違う人間です」

 俊介が続ける。

「真尋が大切だと思うことを、僕が軽く考える時がある。逆もあります。そのたびに、傷つける可能性があります」

「それでは」

「でも、傷つけた後に、同じことを繰り返さないよう話すことはできます」

「完全には?」

「できないと思います」

 俊介の言葉は、希望だけではない。真尋は苦しくなる。

「真尋。僕は、二度と不安にさせませんとは言えません。仕事に集中して、連絡が遅くなることもあります」

「はい」

「でも、昨日と同じように、真尋なら黙って待てると考えないようにします。短くても送る。送れなかった時には、理由を話す。真尋が不安だと言った時、理解してほしいだけだと思わず、どうしてほしいか聞く」

「はい」

「それなら、できます」

     *

 真尋は紅茶のカップへ手を添えた。まだ口をつけていない。

「俊介は、私に何を望みますか」

「忙しい時に、長い返事ができないことを受け入れてほしいです。短い文章が冷たく見える時もあると思います。それを気持ちが離れた証拠だと、すぐに決めないでほしい」

「努力します」

「不安なら、聞いてください」

「はい」

「それから」

 俊介は迷う。

「慎一さんと比べられるのは、つらいです」

 真尋は言葉を失う。

「真尋の過去を否定したいわけではありません。でも、僕が何か失敗するたびに、慎一さんと同じだと言われると、僕自身を見てもらえていないように感じます」

「昨日、同じだと言いましたか」

「言葉では。でも、真尋の中で重なっているのを感じました」

「はい」

「過去を思い出すことは止められないと思います。ただ、今の僕が何をしているかも見てほしいです」

     *

 真尋は俊介を見る。

 俊介は疲れている。それでも今日、早く仕事を切り上げて来た。自分の言葉で話している。できないことも言う。謝るだけではなく、何を変えられるか考えている。

 慎一とは違う。俊介は俊介だ。

「わかりました」

 真尋は答えた。

「すぐにはできないかもしれません。似たことが起きれば、怖くなります。その時は、過去を思い出していると伝えます」

「ありがとうございます」

「俊介を同じ人だと決めません」

「はい」

 少し沈黙が続く。真尋は、まだ怒りが残っていることに気づく。話し合ったからといって、すぐに消えるわけではない。

「俊介。私は、まだ怒っています」

「はい」

「今すぐ手をつなぎたいとは思いません」

 俊介の表情に寂しさが浮かぶ。

「わかりました」

「嫌いになったわけではありません。でも、少し距離がほしいです」

「今日は?」

「今日は、一人で帰りたいです」

 俊介は視線を落とし、頷いた。

「わかりました」

「寂しいですか」

「かなり。でも、真尋がそうしたいなら」

 俊介は言いかけ、考え直す。

「違います」

「何が?」

「受け入れるだけではなく、僕の希望も言います。店を出るまでは、一緒にいたいです。駅まで送りたい気持ちもあります。でも、今日は真尋の希望を優先します」

「我慢ですか」

「少し」

「はい」

「次に会う約束をしたいです」

     *

 真尋は考える。

 今、次の日を決める。関係を続けたいという意思になる。決めずに離れれば、互いに不安が残る。

「日曜日なら」

「会えます」

「外で。短い時間でも」

「はい」

 俊介の表情が柔らかくなる。

「会ってくれますか」

「会いたいです」

 真尋は言った。俊介が真尋を見る。

「まだ怒っていても?」

「はい」

「ありがとうございます」

「お礼ではありません」

「嬉しいので」

 真尋は少しだけ笑った。俊介も、わずかに笑う。

     *

 店を出た後、二人は入口の前で立ち止まった。駅は同じ方向。だが真尋は一人で帰ると伝えた。

「ここで。俊介は、どの電車ですか」

「反対側の入口から」

「では」

 二人は向かい合う。いつもなら手をつなぐ。抱きしめる日もある。今日は、距離がある。

「真尋。好きです」

 俊介が言う。真尋の胸が痛む。

「今、返さなくていいです。ただ、伝えたかったです」

「ありがとうございます」

 真尋は迷い、それでも自分の気持ちを言う。

「私も、好きです」

 俊介が驚く。

「怒っていても?」

「好きだから、傷つきました。嫌いなら、ここまで話しません」

「はい」

「今日は一人で帰ります。着いたら連絡します」

「待っています」

「俊介も、食事をしてください。寝てください」

「はい」

「日曜日に」

「日曜日に」

 二人は別々の方向へ歩いた。

     *

 真尋は一人で駅へ向かった。

 胸の中には、まだ重いものがある。それでも昨日とは違う。

 俊介の気持ちを聞いた。できることと、できないことを知った。次に会う約束もした。関係は終わっていない。

 だが、話し合えばすべて元通りになるわけでもない。

 信頼は、傷ついた瞬間にゼロになるものではない。同時に、謝罪一つで完全に戻るものでもない。

 少しずつ確かめ直す。その時間が必要だった。

 真尋はスマートフォンを取り出した。葵へ連絡する前に、まず自分の気持ちを考える。

 今日、何を話したか。何がわかったか。何がまだ苦しいか。

 駅のホームで電車を待ちながら、短くメモする。

 俊介は、連絡できない人ではない。きちんと書こうとして、送らなかった。真尋なら待てると甘えた。次から短くても送ると言った。完全には約束しなかった。

 それが不安であり、同時に誠実だと思った。

 慎一と比べられるのがつらいと言われた。俊介を、今の俊介として見る必要がある。

 まだ怒っている。それでも会いたい。

 真尋はメモを閉じた。

     *

 その後で、葵へ送る。

『俊介と話しました。関係を続けます』

 すぐに返信が来る。

『よかった』

『でも、まだ怒っています。日曜日にまた会います』

『うん』

『葵は、土曜日ですね』

『怖い。今日、ノート書く』

『私も書きました』

『見せる?』

『必要なら』

『私は持っていくだけにする』

『はい』

 真尋は電車へ乗った。

     *

 土曜日までの四日間、葵は直哉との会話を何度も想像した。

 戻りたい。もう一度やり直したい。直哉からそう言われる場面。葵も頷く。抱きしめられる。以前の二人へ戻る。

 その想像は、温かかった。

 だが少し先まで考えると、不安が生まれた。

 直哉の仕事が忙しくなった時。連絡が減った時。葵が寂しいと言った時。今度は変わるのか。直哉は話してくれるのか。葵も黙らずに言えるのか。

 想像の中では、二人とも上手に話せた。現実にできるかはわからない。

 別の場面も浮かぶ。

 直哉が謝る。葵を大切に思っているが、戻るつもりはないと言う。最後にきちんと別れたかっただけだと。

 その言葉を聞いた自分が、立っていられるか。

     *

 葵は仕事へ行き、企画の試験販売データを確認した。

 三店舗のうち、一店舗で予想以上の反応が出ている。言葉の違いによる比較では、葵の案が最も高い購入率だった。

 まだ一週間分。結論を出すには早い。それでも、数字に表れたことが嬉しい。

「小野寺さん」

 石橋が画面を見る。

「一つ目、強いね。理由、考えた?」

「売り場との相性もあります」

「それだけ?」

「言葉が押しつけに見えなかったのかもしれません」

「追加調査しよう」

「はい」

 仕事をしている間は、直哉のことを考えない時間が増える。

 以前なら、それを逃げだと思った。今は、生活の別の部分だとわかる。

 恋愛で大きな出来事があっても、仕事は続く。食事もする。母から連絡も来る。美月と笑うこともある。

 人生全部が、一つの答えを待って止まるわけではない。

     *

 金曜日の夜、葵は真尋の部屋へ行った。直哉へ会う前日。

 一人で過ごすつもりだったが、夕方になり不安が強くなった。自分から真尋へ連絡した。

『今夜、少し会えますか』

 真尋は、

『来ますか』

 と返した。俊介との予定はない。仕事も早く終えられる。

 葵は秋田で買った、淡い桃色の花が描かれた地酒を持っていくことにした。

 失恋した夜、真尋の部屋で飲む予定だった酒。あの時は、自宅へ置いたままになっていた。

 何度か飲もうとした。しかし、直哉を忘れるために酒を使いたくなかった。真尋と、落ち着いた時に飲みたいと思って残していた。

 今日ならいい。直哉へ会う前。復縁を願うためでも、別れを決めるためでもなく、ここまで来た二人で少し味わう。

 葵は瓶を抱え、真尋のマンションへ向かった。

     *

 真尋が玄関を開けると、葵が紙袋を持って立っていた。

「お帰りなさい」

 真尋が言う。

「ただいま」

 葵は答えた。このやり取りは、もう特別な夜だけのものではなくなっている。

「それは?」

「秋田の地酒」

 葵が紙袋から瓶を取り出す。淡い桃色の花。真尋は目を細めた。

「まだあったんですね」

「飲まずに置いてた」

「今日、飲みます?」

「少しだけ」

「明日があります」

「だから少し」

 真尋は瓶を受け取った。

「食事は?」

「まだ」

「鍋にします」

「手伝う」

     *

 二人はキッチンへ並んだ。

 白菜。豆腐。鶏肉。茸。簡単な鍋。

 葵が野菜を切る。以前より包丁の使い方が安定している。

「上手になりましたね」

「一人で作ってるから。俊介さんとの喧嘩、どう?」

 葵が尋ねる。

「喧嘩というほどでは」

「怒ってた」

「まだ少し」

「日曜日会う?」

「はい」

「手つなぐ?」

「その時に」

「キスは?」

「葵」

「ごめん」

 葵の口元が緩んだ。

「でも、好きって言えたまま?」

「はい」

「怒ってても?」

「はい」

「不思議。好きなら怒らないと思ってた」

「逆でしょう」

「好きだから?」

「期待があります」

 真尋は鍋へ出汁を入れる。

「どうでもいい相手なら、連絡がなくても傷つきません」

「直哉にも、私は期待してた。でも、期待することが悪いと思ってた」

「相手に言わず、叶えてもらえると思うと苦しくなります」

「俊介さんに言った?」

「一日一度、短い連絡がほしいと」

「約束した?」

「通常の忙しさなら、と」

「毎日絶対じゃない。不安じゃない?」

「不安です」

「でも続ける?」

「はい」

 葵は人参を切る手を止めた。

「完璧な約束じゃなくても?」

「守れない約束よりいいです」

     *

 その言葉が、葵の胸に残る。

 直哉と会えば、今度は絶対に寂しい思いをさせないと言うかもしれない。葵も、もう黙らないと約束するかもしれない。

 だが、絶対は守れない。

 大切なのは、失敗しないことではなく、失敗した後に話せること。

 俊介と真尋は、すでにそれをしている。

「真尋。明日、直哉が変わるって言ったら、信じていいかな」

「何を変えるのか聞いてください」

「連絡するとか? 将来を考えるとか? 仕事が忙しい時も話すとか」

「はい」

「それができなかったら?」

「その時に、葵がどうするかです」

「戻ってから考えてもいい?」

 真尋はすぐに答えなかった。

「戻る前に考えたいことはありますか」

「前と同じは嫌。でも、戻らないとわからないこともある」

「はい」

「試しに戻る?」

「関係を試すという言い方が、葵に合いますか」

 葵は考える。

 直哉と付き合う。だめなら別れる。それも一つの方法。

 だが今の自分は、戻ってから考えるのではなく、戻りたいかどうかを確かめたい。

「たぶん、違う。明日は、戻る日じゃなくて、話す日。何も決めない」

「はい」

「直哉が、今決めてほしいって言っても」

「葵が決めなくていいと話したんですよね。それを思い出してください」

     *

 鍋が煮える。二人はテーブルへ運んだ。

 地酒を小さな杯へ少しだけ注ぐ。淡い香り。

「何に乾杯する?」

 葵が尋ねる。真尋は考えた。

「今日まで来たことに」

 葵は思わず笑った。

「企画の言葉みたい」

「葵が作った言葉です」

 二人は杯を合わせた。

「今日も、ここまで来た私たちへ」

「はい」

 酒を一口飲む。少し甘い。花のような香り。

 秋田の夜を思い出す。宿。暖炉。葵の涙。真尋の迷い。

 あの時の二人は、今の自分たちを想像していなかった。

「おいしい」

 葵が言う。

「はい」

「失恋した日に飲まなくてよかった」

「どうして?」

「味、わからなかったと思う。今日ならわかる」

「はい」

     *

 葵は杯をテーブルへ置いた。

「明日、終わるかもしれない。直哉と」

「はい」

「怖い。でも、戻らない方向を選ぶかもしれない」

 真尋は葵を見る。

「その時は、悲しいですか」

「すごく。でも、自分で選べたら、少し違うと思う。振られて終わるんじゃなくて、戻れるかもしれないけど、戻らない」

 葵は自分の言葉に、涙を浮かべた。

「まだ、決めてないけど。明日、直哉の話を聞いて、それでも戻らないと思ったら言う。好きだけど、戻らないって」

「はい」

 真尋は答えを勧めなかった。ただ聞いた。

「真尋。明日、終わったら電話していい?」

「はい」

「何時でも?」

「俊介との予定はありません」

「夜遅くても?」

「はい」

「一人で帰れなかったら?」

「迎えに行きます」

「本当?」

「場所によります」

「駅前」

「行きます」

 葵は安心して、鍋を食べた。

     *

 食事の後、二人は壁の写真の前へ立った。二人の影。俊介の写真。真尋の写真。

「次に秋田へ行ったら、ここへ飾る写真撮ろう」

 葵が言う。

「はい」

「今度は、影だけじゃなくて二人で」

「誰に撮ってもらいます?」

「宿の女将さん」

「覚えていれば」

「覚えてる」

「では、お願いします」

「その写真を、俊介さんの隣に飾る?」

「はい」

「嫌がらない?」

「少し嫉妬すると思います」

「それでも?」

「飾ります」

 葵は声を立てて笑った。

「私の部屋にも。同じ写真」

「はい」

「その時、私たちが何なのか言葉にできるかな」

「できなくても、写真は残ります」

「でも、言いたい。友情以上?」

「うん」

     *

 葵は写真を見る。

「恋人じゃない。姉妹でもない。親友って言葉も、少し違う」

「はい」

「人生の途中で見つけた、帰れる人」

 真尋は葵を見る。

「それは、少し近いかもしれません」

「帰れる人。俊介さんも?」

「俊介は、帰りたい人です」

「違う?」

「少し」

 葵は考える。

「私は?」

「戻ってこられる人」

 真尋が答える。葵の目に涙が浮かぶ。

「それ、秋田でも言って」

「覚えていたら」

「忘れないで」

「はい」

「約束」

「はい」

 二人は壁の写真を見た。

     *

 翌日、葵は午後二時半にホテルのラウンジへ着いた。約束より三十分早い。

 白いブラウス。濃紺のスカート。真尋と選んだ服ではない。自分で決めた。

 バッグの中には、ノートが入っている。開くかはわからない。だが、持っているだけで安心する。

 窓際の席へ案内される。葵は温かい紅茶を頼んだ。

 直哉が来るまで、何度も入口を見る。

 午後二時五十分、直哉が現れた。

 黒いコート。少し痩せたように見える。髪も以前より短い。

 葵を見つけ、足を止める。二人の視線が合う。

 胸が強く鳴る。会いたかった。

 その顔を見た瞬間、すべてを忘れて抱きつきたいと思った。

 直哉が近づく。

「久しぶり」

「うん」

「早かった?」

「少し」

「ごめん」

「私が早く来たの」

 直哉は向かいへ座った。店員へコーヒーを注文する。

     *

 沈黙が落ちる。

 以前なら、葵が話題を探した。仕事はどう。忙しい。最近何を食べた。沈黙を埋めるために。

 今日は待った。話したいことがあると連絡したのは、直哉だ。

 直哉が口を開く。

「商品、買った」

 バッグから、小さなパッケージを取り出す。葵の言葉が書かれている。

『今日も、ここまで来たあなたへ』

「ありがとう」

「食べた」

「どうだった?」

「おいしかった」

「味だけ?」

 以前なら言えなかった言葉。直哉が驚き、笑う。

「言葉も、葵らしいと思った」

「どういうところが?」

「人のことを気にするところ」

「それだけ?」

 葵はもう一度尋ねる。直哉は考える。

「頑張れじゃないところ。葵は、俺が忙しい時も、頑張れってあまり言わなかった」

「何て言ってた?」

「無理しないで」

「それ、言われてどうだった?」

「嬉しかった。でも、無理しないと終わらないと思ってた。だから、返事しなかった」

「うん」

「今思えば、無理しないでって言葉より、葵が何を心配してるか聞けばよかった」

 葵は黙って聞く。

「商品を見て、葵も仕事を続けてたんだって思った」

「続けてたよ」

「知ってた。でも、ちゃんと見てなかった」

 直哉の声が低くなる。

「葵が何を作りたいか、聞いてなかった。ごめん」

 葵の目に涙が浮かぶ。

 言ってほしかった。あの頃に。今でも、嬉しい。

     *

「話したいことって、それ?」

「それも」

 直哉はコーヒーへ手を伸ばさず、葵を見る。

「別れてから、考えた」

「何を?」

「葵のこと」

 胸が強く鳴る。

「俺は、仕事が大変だから仕方ないと思ってた。連絡できない。会えない。将来のことを考えられない。でも、本当は、考えるのが怖かった」

「何が?」

「葵と結婚できるか」

 直哉は正直に言った。

「仕事も安定してない。異動して、先が見えない。葵に待ってほしいと言って、何年かかるかわからない。それを話したら、葵に見限られると思った」

「だから、黙った?」

「うん」

「私は、黙られたから自分が嫌われたと思った」

「わかってる」

「今わかったの?」

「別れてから」

 葵の胸に怒りが生まれる。

「遅い」

「うん」

「半年、ずっと苦しかった。私が何を聞いても、忙しいしか言わなかった」

「ごめん」

「ごめんで戻れると思ってる?」

 直哉の表情が揺れる。

「戻ってほしいと思ってる」

     *

 その言葉が届く。

 葵が何度も夢見た言葉。胸が震える。涙が流れる。

 直哉は続ける。

「もう一度、やり直したい」

 葵は目を閉じた。

 嬉しい。本当に嬉しい。直哉が戻ってほしいと言った。自分をまだ好きだと思っている。失ったと思っていた未来が、もう一度目の前に現れる。

「葵」

 直哉が呼ぶ。

「すぐ答えなくていい。でも、俺は戻りたい」

「何が変わるの?」

 葵は涙を拭きながら尋ねた。直哉が言葉を止める。

「連絡する」

「どのくらい?」

「毎日」

「できるの?」

「できるだけ」

「できなかったら?」

「先に言う」

「将来のことは?」

「話す」

「結婚する?」

 直哉は黙った。葵はその沈黙を見た。

「今すぐじゃなくていい。でも、またわからないって逃げない?」

「逃げないようにする」

「ように?」

「絶対とは言えない」

 直哉の答えは不完全だった。以前なら、不安になっただろう。今は、少し誠実だと思う。

     *

「葵も、変わった?」

「変わった」

「何が?」

「直哉だけを待たなくなった」

 直哉の表情が寂しそうになる。

「友達ができた」

「秋田の人?」

「真尋。美月にも話すようになった。母にも。仕事も、前より大事になった」

「前も大事だったでしょう」

「でも、直哉に認めてもらうことが一番だった」

「そうだった?」

「そうだった」

 葵はノートを出さず、自分の言葉で話す。

「戻ったとしても、直哉を一番にしない」

 直哉が驚く。

「一番じゃない?」

「大切。でも、真尋も、美月も、仕事も、自分の時間も大切。直哉が会いたい日に、会えないと言うこともある。私が寂しい時には、寂しいと言う」

「うん」

「重いと思う?」

 直哉はすぐに答えなかった。

「今は、思わない」

「今は?」

「前は、思ってた。葵に将来を聞かれるたび、答えを出さなきゃいけないと思った」

「私は、一緒に考えてほしかった」

「わかってなかった」

「今は?」

「一緒に考えたい」

     *

 葵の胸が揺れる。

 戻ってもいいのではないか。直哉は変わろうとしている。自分も変わった。二人なら、新しい関係を作れるかもしれない。

 だが、もう一つの声がある。

 直哉を失いたくないから戻りたいのか。今の直哉と一緒にいたいのか。

 葵は目の前の直哉を見る。懐かしい。好き。大切。

 それでも、以前のように未来が開ける感覚がない。

 戻れば安心する。だが、安心のために戻ることへ違和感がある。

「直哉。私も、戻りたいと思ってた」

 直哉の目が明るくなる。

「今も、好き。会えて嬉しい。でも」

 葵は言葉を止める。

 怖い。この先を言えば、戻る道が閉じるかもしれない。

 まだ決めなくていいと話した。今日、結論を出す必要はない。

「今日は、答えない」

 葵は言った。直哉の表情に寂しさが浮かぶ。

「わかった」

「考えたい。戻りたい気持ちと、戻らずに進みたい気持ちがある。直哉が待てる?」

「待つ」

「期限は?」

「葵が決めて」

 その答えに、葵は苦しくなる。

 期限を自分だけで決める。直哉は、また待つ側になる。

「直哉の希望も言って」

「一週間くらいで聞きたい」

 直哉が言う。葵は驚き、それから安心した。

「わかった」

「長い?」

「ううん。来週の土曜日まで」

「うん。その時、もう一度会う?」

 葵は考える。

「電話にしたい」

「どうして?」

「顔を見たら、言えなくなるかもしれないから」

 直哉は少し傷ついた顔をした。それでも頷く。

「わかった」

     *

 ラウンジを出た時、午後五時を過ぎていた。

 直哉は駅まで送ると言った。葵は断った。

「一人で帰りたい」

「わかった」

「今日は、ありがとう」

「俺も」

 直哉は迷い、尋ねる。

「抱きしめてもいい?」

 葵の胸が強く鳴る。

 抱きしめてほしい。直哉の体温を思い出したい。そう思う。

 だが、今抱きしめられれば、そのまま戻りたいと言ってしまうかもしれない。

「今日は、やめる」

 葵は答えた。直哉の顔に寂しさが浮かぶ。

「わかった」

「ごめん」

「謝らなくていい」

 直哉は言った。

「葵が嫌なら」

「嫌じゃない。嫌じゃないから、やめる」

 直哉は葵の言葉を聞き、静かに頷いた。

「気をつけて帰って」

「うん」

 二人は別れた。

     *

 葵は駅へ向かわず、近くの公園まで歩いた。足に力が入らない。ベンチへ座る。

 直哉に戻ってほしいと言われた。あれほど待っていた言葉。嬉しかった。

 それなのに、すぐに頷けなかった。

 自分は直哉を好きではなくなったのか。違う。好き。抱きしめてほしかった。もう一度、一緒に歩きたい。

 だが戻ることを想像すると、胸のどこかが狭くなる。

 以前の自分へ戻るような感覚。直哉の反応を気にし、自分の希望を少しずつ小さくする生活。

 直哉は変わろうとしている。葵も変わった。それでも、過去の形に引かれる不安がある。

 スマートフォンを取り出す。真尋へ電話する。すぐにつながった。

『葵』

「終わった」

『どこですか』

「駅の近くの公園」

『一人?』

「うん」

『迎えに行きます』

「遠い」

『場所を送ってください』

「大丈夫」

『大丈夫ではない声です』

 葵は泣き始めた。

「戻ってほしいって」

『直哉さんが?』

「うん。私も戻りたいって思った。でも、答えられなかった」

『はい』

「好きなのに。私、おかしい?」

『おかしくありません』

「何で戻れないの?」

『葵は、戻れないと決めましたか』

「まだ」

『では、答えられなかっただけです』

「一週間で答える。真尋」

『何ですか』

「迎えに来て」

 葵は言った。

『はい』

「ごめん」

『謝らなくていいです』

「待ってる」

『今から行きます』

     *

 真尋は俊介と会う予定ではなかった。自宅で一人、翌日の資料を確認していた。

 葵からの電話を受け、すぐにコートを着る。

 玄関を出る前に、俊介へ短いメッセージを送った。

『葵が直哉さんと会いました。今、一人で帰れない状態なので迎えに行きます』

 すぐに返信が来る。

『わかりました。気をつけて』

 続けて。

『僕にできることはありますか』

 真尋は考えた。

『今は大丈夫です。帰ったら連絡します』

『待っています』

 俊介は止めない。寂しいとも言わない。今は、葵を迎えに行く必要があると理解している。

 真尋は駅へ向かった。

     *

 公園のベンチで、葵は両手を膝へ置いて座っていた。真尋が近づくと、顔を上げる。目が赤い。

 真尋は何も言わず、隣へ座った。

「来た」

「はい」

「本当に来た」

「呼ばれたので」

 葵が真尋の肩へ寄りかかる。真尋は背中へ手を置いた。

「戻ってほしいって。直哉、変わろうとしてた。私の企画も、見てくれた。一緒に考えたいって」

「はい」

「なのに、嬉しいだけじゃなかった。怖かった。前に戻る気がした」

「はい」

「私、戻らないほうがいいのかな」

 真尋はすぐに答えない。

「それを、一週間考えるんですよね」

「うん」

「今日は、答えなくていいです」

「でも」

「今は、会った直後です。嬉しさも、怖さも大きい。今日の気持ちだけで決めなくていいです」

 葵は涙を拭う。

「抱きしめてもいいって言われた。断った。嫌じゃないから、やめるって」

「言えたんですね。よく言いました」

     *

 葵は真尋の肩へさらに寄る。

「真尋。私、少し戻らないって決めてるのかもしれない」

 真尋は葵を見る。

「なぜそう思います?」

「直哉が変わろうとしてるのに、戻りたいより、苦しくなった。嬉しかった。でも、未来を想像したら、前の私が出てきた。また直哉を優先する私」

「それは、直哉さんのせいだけではありません」

「わかってる」

「葵が変わったから、以前の形へ戻ることが苦しいのかもしれません」

「うん」

「新しい関係を作ることは?」

 葵は考える。

「できるかもしれない。でも、直哉と作りたいか、わからない。それが、答えなのかな」

「今は」

「真尋。戻れるのに戻らないって、贅沢?」

「違います」

「好きなのに手放すって、間違い?」

「違います」

「直哉がかわいそう?」

「葵が戻ることは、直哉さんを救うためではありません」

 葵は目を閉じた。

「一週間、考える。でも、たぶん」

 葵は言葉を止める。

「まだ、言わなくていいです」

 真尋が言う。

「うん」

 二人はしばらくベンチへ座っていた。

     *

 真尋の部屋へ戻ると、葵は地酒の残りを見た。

「今日は飲まない」

 自分から言う。

「はい」

「ちゃんと考えたい」

「はい」

 真尋は温かいお茶を淹れた。二人でテーブルへ向かい合う。

 葵はノートを開く。直哉と話したこと。嬉しかったこと。怖かったこと。一つずつ書く。

 真尋は隣で、自分の仕事をする。話しかけすぎない。葵が言葉を求めた時だけ答える。

 一時間ほどして、葵がノートを閉じた。

「今日は、ここまで。泊まっていい?」

「はい」

「俊介さんは?」

「連絡します」

「嫌がらない?」

「俊介の気持ちは、俊介に聞きます」

     *

 真尋は電話をかけた。俊介はすぐに出る。

『葵さんは?』

「今、私の部屋です。今日は泊まります」

 少しの沈黙。

『わかりました』

「寂しいですか」

『少し』

「はい」

『でも、今日は葵さんが一人にならないほうがいいと思います』

「ありがとうございます」

『真尋。僕に確認してくれて、ありがとうございます』

「はい」

『明日は?』

「葵と朝食を取ってから、一人で過ごします」

『僕と会う予定は?』

「夕方に、短く会えますか」

『会いたいです』

「私も」

『では、四時に』

「はい」

 電話を切る。葵が真尋を見る。

「俊介さん、寂しいって?」

「少し」

「怒ってない?」

「怒っていません」

「真尋が私を選んだのに?」

「今夜は、葵といることを選びました。明日は、俊介と会います。どちらか一人だけを選んだわけではありません」

 葵は頷いた。

     *

 その夜、二人は同じベッドで眠った。

 以前の失恋直後とは違う。葵は泣き疲れて眠るのではない。自分で考えるために、真尋のそばへいる。

「真尋。私、戻らないって言ったら、直哉を失う。二度と会えないかもしれない。怖い」

「はい」

「でも、戻ったら、自分を失う気がする」

 真尋は暗闇の中で、葵の声を聞く。

「今の葵が、そう感じているんですね」

「うん」

「一週間後も同じなら」

「言う。好きだけど、戻らないって。二年間、幸せだったって。ありがとうって」

「はい」

「泣くと思う。それでも言う」

「はい」

 葵は真尋の手を探す。真尋は握った。

「秋田へ行く時には、ちゃんと終わらせたい。直哉を忘れるためじゃなく、好きだった自分を連れて行く」

「はい」

「真尋。その時、私たちのこと、言って」

「何を?」

「戻ってこられる人って」

「覚えています」

「絶対?」

「はい」

 葵は安心したように息を吐いた。

     *

 翌朝、真尋が目を覚ますと、葵はすでに起きていた。窓の外を見ている。

「眠れました?」

「少し」

「朝食は?」

「作る」

 葵はベッドから出た。二人でキッチンへ立つ。

 卵焼き。味噌汁。ご飯。

 以前より手際よく、葵が作る。

「真尋は座ってて」

「全部?」

「今日は私が作る」

 真尋は言われた通り、テーブルへ座った。

 葵が一人で卵を巻く。少し崩れる。それでも、自分で整える。味噌汁の味を確認する。二人分を並べる。

「いただきます」

 葵は卵焼きを一口食べた。

「おいしい。今日も、ここまで来た。来週まで、生活する。仕事する。食べる。寝る。それから決める」

「はい」

     *

 葵は真尋を見る。

「真尋も、俊介さんと生活して」

「一緒には住んでいません」

「そうじゃなくて、関係を」

「はい」

「怒ってても、好きでいていいんだね」

「はい」

「直哉を好きでも、戻らなくていい」

 真尋はゆっくり頷く。

「はい」

 葵は味噌汁を飲んだ。

 朝の光が部屋へ入る。壁の写真。二人の影。俊介。真尋。

 それぞれの関係が、同じ部屋にある。

 葵は一週間後の自分をまだ知らない。それでも、今の自分の声は少しずつ聞こえている。

 好きだから戻るのではない。寂しいから続けるのでもない。

 今の相手と、今の自分で、もう一度関係を作りたいか。

 その問いへ、自分の言葉で答える。答えが悲しいものであっても。誰かに選ばれたことだけで決めずに。自分が選ぶ。

     *

 葵は卵焼きをもう一つ食べた。少し甘い。失敗した形も、前よりきれいになっている。

 すべてが整ったわけではない。それでも、朝食として十分だった。

 人生も、たぶん同じなのだろう。

 欠けたまま。迷ったまま。それでも、自分で作ったものを食べ、次の日へ進む。

 真尋は向かい側で、静かに味噌汁を飲んでいた。葵はその姿を見て、笑った。

 秋田へ戻る日まで。答えを急がず。それでも、逃げずに。

 今日を生きる。



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