第十七章 戻らないという答え
葵が真尋の部屋を出たのは、日曜日の午前十一時を少し過ぎた頃だった。
朝食を食べ、食器を洗い、昨夜使った部屋着を畳んだ。
真尋は駅まで送ると言ったが、葵は一人で帰ることを選んだ。
「大丈夫ですか」
玄関で靴を履く葵へ、真尋が尋ねる。
「大丈夫じゃないけど、一人で帰れる。昨日は無理だった。今日は帰れる」
「わかりました」
真尋は引き止めなかった。
葵が立ち上がり、バッグを肩へ掛ける。玄関の鏡に、二人の姿が並んで映った。
真尋の部屋へ初めて泊まった朝、葵は一人で立つことさえ難しかった。髪を整える余裕もなく、目を腫らし、真尋の顔を見ては泣いた。
今日は目元に少し疲れが残っている。それでも、自分で服を選び、自分で朝食を作り、自分の家へ戻ろうとしている。
「真尋。昨日、来てくれてありがとう」
「呼ばれたので」
「呼んだら来てくれる人がいるって、すごいね」
「いつでも必ずとは言えません」
「わかってる。でも、昨日は来てくれた」
「はい」
葵は吹き出した。
「俊介さんにも、ありがとうって言って」
「何を?」
「真尋を送り出してくれたこと」
「私が自分で決めて出ました」
「それでも」
「伝えます」
「今日、会うんでしょう」
「夕方に」
「仲直りする?」
「話してみます」
「手、つなぐ?」
「葵」
「今度は本当に聞いただけ」
真尋はため息をつきながら、笑った。
「その時に決めます」
「好きって言う?」
「好きであることは、もう伝えています」
「怒ってても?」
「はい」
*
葵は玄関の扉へ手を掛け、振り返った。
「私も、直哉を好きなまま答えていいんだね」
「はい」
「好きじゃなくなるまで待たなくていい。戻らないって言っても」
「はい」
真尋は迷わず答えた。
葵は頷き、扉を開けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
廊下へ出る。扉が閉まる。一人になる。
葵はエレベーターを待ちながら、スマートフォンを確認した。
直哉からの新しい連絡はない。約束は一週間後。それまでは互いに連絡をしないと決めたわけではない。
だが、何を送ればよいかわからなかった。
昨日は会えて嬉しかった。話してくれてありがとう。好きと言ってくれて嬉しかった。
その言葉を送れば、戻る方向へ気持ちが動いていると思わせるかもしれない。何も送らなければ、直哉は葵が拒絶したと感じるかもしれない。
考え始めると、また相手の気持ちを先に決めようとしていることに気づく。
今は、自分の気持ちを整理する時間。直哉も、そう理解しているはずだ。
葵はスマートフォンをバッグへ入れた。
*
自宅へ戻ると、部屋は昨日出た時のままだった。
テーブルの上には、読みかけの本。ソファには薄い毛布。流し台には、朝使ったカップが一つ伏せてある。
直哉の荷物をまとめた箱は、もうない。クローゼットの前には、何も置かれていない。空いた場所へ、午後の光が落ちていた。
葵はコートを脱ぎ、青い線のマグカップへ湯を注いだ。直哉のために買ったカップ。今は自分が使っている。
紅茶を淹れ、ソファへ座る。
昨日の会話が、頭の中で何度も繰り返される。
『戻ってほしいと思ってる』
『もう一度、やり直したい』
その言葉を思い出すたび、胸が温かくなる。
直哉は自分を選んだ。別れてから考え、戻りたいと思った。葵が何度も待っていた答え。
それでも、頷けなかった。
どうしてなのか。恐れているだけなのか。一度傷ついたから、また傷つくことを避けているのか。
勇気を出して戻れば、今度こそうまくいくのではないか。直哉も変わろうとしている。葵も以前とは違う。二人で話し合えば、新しい関係を作れるかもしれない。
*
葵はカップを両手で包んだ。
戻った後の生活を想像する。
最初の数週間は、互いに丁寧に連絡を取る。会えない日は、理由を伝える。葵も寂しいと言う。直哉は聞く。週末には会い、仕事の話をする。
きっと以前より大切にできる。その想像は、幸せだった。
けれどさらに先へ進めると、不安が生まれる。
直哉の仕事がまた忙しくなる。一日連絡がない。葵は、以前の半年を思い出す。不安だと言う。直哉は謝る。それが何度か続く。葵は、自分が重くなっていないか気にし始める。少しずつ言葉を減らす。直哉も、葵が理解してくれたと思う。
同じことが、また起きるのではないか。
それは過去に引きずられているだけかもしれない。俊介が慎一と同じではないように、これからの直哉も以前と同じではない可能性がある。
だが葵の中には、もう一つの違和感があった。
戻った先で、何をしたいのか。直哉と、どんな時間を作りたいのか。
会いたい。話したい。抱きしめてほしい。それはある。
だが、二人で新しい未来を考えたいという気持ちは、以前より弱かった。
失いたくない。二年間を無駄にしたくない。一人に戻りたくない。
その気持ちのほうが強いように思える。
*
葵はノートを開いた。新しいページへ、線を一本引く。
左側へ、
『戻りたい理由』
右側へ、
『戻らない理由』
と書いた。
戻りたい理由。直哉が好き。会いたい。二年間が大切。一緒にいると安心した。将来を考えていた。自分を知っている。
戻らない理由。以前の自分へ戻るのが怖い。直哉の反応を気にして生活したくない。新しい関係を作りたいか、わからない。一人で作り始めた生活を、もう少し続けたい。仕事に集中したい。
今の自分が、直哉と一緒にいる未来をはっきり望んでいない。
最後の一文を書いたところで、葵の手が止まった。
『今の自分が、直哉と一緒にいる未来をはっきり望んでいない』
これが答えなのではないか。
直哉が嫌いではない。むしろ好き。それでも、未来を一緒に作りたいという気持ちがない。
好きという感情と、関係を続けたいという意思は、同じではない。
葵はノートを閉じた。
まだ一日目。今決める必要はない。ただ、この言葉を忘れないようにしたかった。
*
真尋は午後四時、俊介と約束した駅近くの公園へ向かった。
前日の話し合いから、一日。怒りは完全には消えていない。だが、俊介へ会いたい気持ちはあった。
今日は長く会わない。公園を少し歩き、近くの店でお茶を飲む。それだけの予定だ。
俊介は入口近くのベンチに座っていた。真尋に気づき、立ち上がる。
「真尋」
「待ちましたか」
「十分ほど」
「少し早いですね」
「昨日よりは」
俊介は笑おうとしたが、緊張している。真尋も同じだった。
「歩きますか」
「はい」
二人は並んだ。手はつながない。間には、少し距離がある。
冬の公園。葉を落とした木。走る子ども。犬を連れた人。
昨日の重い会話をした後でも、街は変わらず動いている。
*
「葵さんは?」
俊介が尋ねる。
「午前中に帰りました」
「大丈夫そうですか」
「一週間、考えると言っています。昨日は、迎えに行かせてくれてありがとうございました」
俊介が首を振る。
「僕の許可は必要ありません。でも、連絡をくれたことは嬉しかったです」
「寂しかった?」
「少し。昨日は、僕たちが会う予定ではありませんでした。それでも、真尋の時間が葵さんへ向かったことに、少しだけ置いていかれた気持ちはありました」
「はい」
「でも、今は葵さんに必要な時間だったと思います」
俊介は自分の感情を隠さず、同時に葵を責めなかった。真尋の胸が柔らかくなる。
「今日は、私と会いたかったですか」
「はい」
「昨日の話し合いの続き?」
「それもあります。でも、顔を見たかったです」
「私も」
真尋は答えた。二人は歩き続ける。
*
「俊介。今日は、手をつなぎたいです」
自分から言う。俊介が驚いたように真尋を見る。
「いいんですか」
「はい」
「まだ怒っていますか」
「少し」
「それでも?」
「怒っている間、触れてはいけないわけではありません」
真尋は手を差し出した。俊介が、ゆっくり握る。温かい。
昨日の話し合いで生まれた距離が、すべて消えたわけではない。それでも、手をつなぎたいという今の気持ちは本当だった。
「真尋。嬉しいです」
「はい」
「昨日、別れを考えたと聞いて、怖くなりました。今日来てもらえなかったら、どうしようと思いました。でも、何度も連絡するのはやめました」
「どうして?」
「待つことも必要だと思ったからです。朝、一度だけ送ろうと思いました」
「なぜ送らなかったんですか」
「真尋が、今日は四時に会うと決めていたからです」
真尋は俊介の言葉を受け取る。
約束を信じた。不安だから確認するのではなく、会う時間まで待った。
「私は、朝少し寂しかったです」
「連絡がなくて?」
「はい」
俊介が困った顔をする。
「待ったほうがいいと思っていました。送ってほしかったですか」
「おはようくらいは」
「わかりました」
「でも、昨日の次の日だから、俊介も考えたんですね。私も、送ろうか迷いました」
「なぜ送らなかった?」
「俊介の時間を邪魔したくないと思いました」
二人は顔を見合わせた。
互いに相手を考え、同じように連絡を控えた。その結果、二人とも少し寂しかった。
「次から、迷ったら送りますか」
俊介が尋ねる。
「短く。返事は急がないと書かずに」
「どうして?」
「毎回書くと、返事が要らないと言われているように感じるかもしれません」
俊介は考え、頷く。
「では、送りたい時は送る。返せる時に返す。急ぐ時だけ、急ぎだと書く」
「はい」
「簡単ですね」
「昨日は難しかったです」
二人の間に短い笑いが起きた。
*
公園の奥にある池の前で、二人は立ち止まった。水面へ冬の空が映っている。
俊介が真尋の手を握ったまま言う。
「仕事の状況ですが、しばらく忙しくなります」
「どのくらい?」
「少なくとも三週間。長ければ一か月半。平日に会う回数は減ると思います」
真尋の胸が緊張する。
「電話は?」
「毎日は難しいです。でも、一日一度、短い連絡はします」
「通常の忙しさなら?」
「はい」
「本当にできる?」
「できない日があれば、翌朝に理由を話します。真尋は、どうしたいですか」
以前なら、俊介の予定を聞き、合わせるだけだった。今は自分の希望を考える。
「週に一度は、会いたいです。長い時間でなくても」
「僕もです」
「土日どちらか?」
「現場によっては、休日出勤があります。予定を早く決められない週もあります」
真尋は不安を感じる。
予定がわからない。待つ。俊介の都合で決まる。
以前の関係を思い出しかける。
「私は、空くかわからない日を一日中待つのは嫌です」
真尋は言った。
「はい」
「会えるかわからないなら、自分の予定を入れます。当日、空いたから会おうと言われても、断ることがあります」
「わかりました」
「それで、会いたくないと思わないでください」
「思いません」
「寂しい?」
「寂しいです。でも、真尋の時間を空けたまま待たせたくありません」
「ありがとうございます」
「僕も、会えない日は自分の時間を過ごします。次に会う日を、今決めますか」
「来週の日曜日は?」
「午後なら空けられます」
「空けられる?」
「現場へ、午前中だけ行く可能性があります」
真尋は迷う。
「午後三時に。間に合わない時は、正午までに連絡してください。その時は、別の日にします」
「待たない?」
「待ちません」
俊介は寂しそうに笑う。
「はっきりしていますね」
「今は、そうしたいです」
真尋は、俊介へ合わせすぎずに予定を決められたことへ、安心した。
*
二人は公園近くの喫茶店へ入った。窓際の小さな席。真尋は紅茶。俊介はコーヒー。
注文を終えると、俊介が迷いながら話し始める。
「僕も、一つ言いたいことがあります。仕事が忙しい時、真尋から何度も大丈夫ですかと聞かれると、少し苦しくなるかもしれません」
真尋の胸が固くなる。
「心配してはいけませんか」
「違います」
「では?」
「大丈夫ではない時に、大丈夫ですと答えるしかない気持ちになるんです」
「なぜ?」
「仕事を止められないからです。食事を取って。休んで。無理をしないで。そう言われても、できない時があります。その時、心配に応えられない自分が悪いように感じます」
真尋は俊介の話を聞く。
自分が心配することは、愛情だと思っていた。だが、受け取る側には重くなる時もある。
「何と聞けばいいですか」
「今、話せますか。何かできることはありますか」
「はい」
「できることがないと答えたら、信じてほしいです」
「食事をしていなくても?」
「心配だと言うのは構いません。でも、食べなければだめだと何度も言われると、仕事と真尋の両方へ応えられない気持ちになります」
「わかりました」
「勝手ですか」
「いいえ」
*
真尋は考える。
「私は、俊介の体調まで自分の責任のように考えていました。食べていなければ、何かしなければと思う。でも、俊介は大人です。食事を取るかどうかも、自分で決める」
「できるだけ食べます」
「それは俊介のために」
「はい」
「私が安心するためだけではなく」
「はい」
二人は互いの希望を確認した。
連絡の回数。会う日。心配の伝え方。予定が決まらない時の過ごし方。
恋人同士としては、細かすぎるのかもしれない。
だが、細かく話すことで、相手が何を負担に感じるのかがわかる。好きという気持ちだけでは見えない部分。暮らしを持つ二人が関係を続けるためには、必要なことだった。
「俊介。昨日より、少し安心しました」
「僕もです」
「でも、すべて解決したわけではありません。次に連絡が遅れた時、また不安になると思います。その時に話します」
「はい」
「俊介も、負担に感じたら」
「話します」
二人は手をつないでいない。それでも、言葉で少し近づいた感覚がある。
*
その日の夜、真尋は葵へ電話をした。葵は自宅で、ノートを開いていた。
『俊介さんとどうだった?』
「話しました」
『仲直りした?』
「以前と同じに戻ったわけではありません」
『続ける?』
「はい」
『手つないだ?』
「つなぎました」
『よかった』
「葵は?」
『ノート書いてる。戻りたい理由と、戻らない理由』
「はい」
『戻りたい理由のほうが多い。でも、戻らない理由のほうが重い気がする』
真尋は静かに聞く。
「数では決められませんね」
『うん』
「今日、何か変わりました?」
『一人で帰って、部屋見たら、少し安心した。直哉の荷物がない場所。前は寂しかった。でも今日は、私の場所だって思った』
「はい」
『戻ったら、直哉の物がまた増えるかもしれない。それを想像したら、少し苦しかった』
「なぜ?」
『自分の部屋なのに、また直哉を中心に置く気がした』
「別々に暮らすこともできます。直哉さんの物を置かない関係も」
『うん』
「それでも苦しい?」
葵はしばらく黙った。
『直哉の物が嫌なんじゃない。直哉の生活に、また私が合わせ始める自分が怖い。でも、今の私なら合わせないかもしれない。わからない』
「わからなくても、毎日少しずつ感じたことを書けばいいです。答えを作るのではなく、見つけるために」
*
『真尋は、俊介さんと前と同じに戻らなかったって言ったね。どう違う?』
「以前より、できないことがわかりました」
『できないこと?』
「毎日長く連絡する。必ず週末に会う。相手が体調を崩さないよう管理する」
『はい』
「できないことを知った上で、続けます」
『不安じゃない?』
「不安です」
『それでも?』
「俊介と関係を作りたいと思うからです」
葵はその言葉を心の中で繰り返した。
できないことがあっても、関係を作りたい。
直哉とはどうだろう。連絡が毎日できない。将来の答えをすぐに出せない。また逃げる可能性がある。
それらを知った上で、関係を作りたいと思うか。
『真尋。たぶん、私、直哉と関係を作り直したいんじゃない』
声にすると、胸が痛んだ。
「はい」
『直哉を失いたくないだけ。二年間を終わらせたくない。一人になりたくない。それで戻るのは、違うよね』
真尋は、違うとも正しいとも言わなかった。
「葵は、違うと感じているんですね」
『うん』
「その感覚を、大切にしてください」
『うん。でも、まだ決めない。あと六日。毎日、考える』
「生活もしながら」
『うん』
*
月曜日。葵は会社へ行き、試験販売の数字を確認した。
購入率は引き続き、葵の言葉を使った商品が最も高い。だが、店舗ごとの差も大きい。売り場の位置。客層。時間帯。言葉だけが理由ではない。
葵はデータを表へまとめた。石橋が隣から画面を見る。
「一店舗だけ強いね」
「はい」
「成功と言うには早い」
「わかっています」
「でも、反応はある。嬉しい?」
「嬉しいです」
葵は素直に答えた。
「前なら、まだわからないって言ってた」
「今もわかりません」
「でも、嬉しい?」
「はい。嬉しいことと、結論が出ていないことは別なので」
石橋は思わず笑った。
「最近、言葉を分けるようになったね」
「人に教わりました」
「真尋さん?」
「はい。美月にも」
「良い人がいるんだ。恋人は?」
不意の質問に、葵は固まる。石橋は、別れたことを知っている。
「戻ってほしいと言われました。今、考えています」
「戻るの?」
「たぶん、戻りません」
初めて、他人へ言った。
たぶん。まだ確定ではない。それでも、口にした瞬間、胸の中に静かな重みが生まれた。
*
「好きではない?」
「好きです」
「なら、どうして?」
石橋は興味本位というより、純粋に理解できないようだった。
「今の私が、もう一度一緒に暮らす未来を望んでいないからです」
「好きでも?」
「はい」
石橋は考え、頷いた。
「そういうこともあるか」
「石橋さんは?」
「私は、好きでなくなっても別れられなかったことがある」
「どうして?」
「一人になるのが怖かったから」
石橋は淡々と答えた。
「その時は、関係があるだけで安心してた。でも、相手と一緒にいたいわけではなかった」
「どうなったんですか」
「相手に別れを言われた。その時は人生が終わったと思った。でも、半年後には、なぜあれほどしがみついたのかわからなかった」
葵は石橋の話を聞く。
「葵さんは、相手から戻りたいと言われてる。自分で断るのは、つらいね。でも、断れる時に断らないと、相手を悪者にして別れる理由を待つことになるかもしれない」
葵の胸へ、その言葉が深く入る。
直哉が再び連絡をしなくなるのを待つ。また傷つけられるのを待つ。そうすれば、自分が別れる理由を持てる。戻ったことを後悔しても、直哉のせいにできる。
今は、直哉が誠実に戻りたいと言っている。だからこそ、葵自身の意思だけで断らなければならない。
「相手が悪くなくても、別れていいんですね」
「当たり前でしょう」
石橋が言う。
「一緒にいたくないなら」
「一緒にいたくない、とまでは」
「では、今は?」
「会いたい。でも、恋人へ戻りたくない」
「そのまま言えば?」
石橋の言葉は簡単だった。葵には難しい。だが、答えはそこにあるように感じた。
*
火曜日の夜、直哉から短いメッセージが届いた。
『仕事、お疲れさま。返事は土曜日で大丈夫だから、無理に連絡しなくていいよ』
葵は画面を見つめた。
優しい。以前の直哉なら、自分から連絡した後、返事がなければそのまま黙ったかもしれない。今は、考える時間を尊重しようとしている。
胸が痛む。直哉が変わろうとしているほど、断ることが残酷に思える。
葵は返信した。
『ありがとう。土曜日に電話します』
それだけ。
『わかった』
やり取りは終わる。
葵はノートを開いた。
『直哉が優しいから戻る?』
自分へ問いかける。答えは、違う。
『直哉が変わろうとしているから戻る?』
違う。
『直哉と、今の自分で新しい時間を作りたい?』
葵は長い間、ペンを持ったまま考えた。最後に書いた。
『今は、思わない』
涙が落ち、文字が少し滲んだ。
*
水曜日、真尋は俊介から朝のメッセージを受け取った。
『現場へ行きます。今日は夜九時頃までになる予定です』
『わかりました。私は夕方、母と食事をします』
『楽しんできてください』
『俊介も、できる範囲で食事を』
送った後、少し言い過ぎたかと考える。
だが俊介から、
『はい。今日は昼食を用意しました』
と、弁当の写真が届いた。大きな容器。ご飯。煮物。卵。
『自分で?』
『昨夜作りました』
『よくできました』
『葵さんへの言い方ですね』
真尋は声を立てて笑った。
『おいしそうです』
『ありがとうございます』
それだけのやり取り。短い。だが、関係が続いていると感じられる。
午後、俊介から連絡はなかった。真尋も送らなかった。
夜八時半、俊介から、
『予定より少し遅れます。無事です』
と届く。真尋は画面を見て、安堵した。
『わかりました。私は今、帰宅しました』
すぐに既読がつく。返事はない。
それでも不安にならなかった。俊介が約束した通り、短く送ってくれた。
言葉の量ではなく、互いの希望を覚えて行動していることが嬉しい。
*
木曜日、葵は母と電話をした。
『土曜日に答えるの?』
「うん」
『戻るんでしょう?』
母の言葉に、葵の胸が硬くなる。
「どうしてそう思うの?」
『好きなんでしょう』
「好き」
『向こうも戻りたいなら』
「お母さん。前に、戻り方を言わずに聞いてって話したよね」
母が黙る。
『ごめん。葵は、どうしたいの』
「戻らないと思う」
電話の向こうが静かになる。
『本当に?』
「うん」
『後悔しない?』
「すると思う」
『なら』
「後悔するから戻るんじゃない。戻っても、別の後悔をする」
『うん』
「私は、直哉を好きだったし、今も好き。でも、もう一度恋人になりたいとは思えない」
声にすると、涙が流れた。
『葵。つらいね』
「うん」
母は、今度は解決策を言わなかった。
『土曜日、電話の後、一人?』
「たぶん真尋に連絡する」
『お母さんにもして。すぐじゃなくていいから』
「うん」
『葵が決めたことなら、味方になる』
「ありがとう」
電話を切った後、葵は少し泣いた。
母へも言えた。戻らないと思う。
言葉にするたび、答えは少しずつ確かなものになった。
*
金曜日。約束の前日。
葵は仕事帰りに、試験販売をしている店舗へ立ち寄った。
自分が企画した商品が並ぶ棚。残りは三個。前回見た時より減っている。補充された後かもしれない。
数字は会社で見ている。それでも、実際に誰かが手に取った跡を見ると、胸が温かくなる。
葵は離れた場所から、棚を見ていた。
仕事帰りらしい女性が足を止める。商品を一つ手に取る。表の言葉を見る。
『今日も、ここまで来たあなたへ』
女性は数秒眺め、買い物かごへ入れた。
葵は声をかけたくなった。
それ、私が考えました。どんな日でしたか。その言葉を、どう感じましたか。
だが何も言わず、背中を見送る。
知らない人の一日に、自分の言葉が入っていく。
直哉へ認めてもらえたから価値があるのではない。部長に採用されたからだけでもない。誰かが手に取り、自分の時間へ持ち帰る。
それが嬉しかった。
葵は、自分のためにも一つ買った。レジを通し、袋へ入れる。自宅へ帰り、テーブルの上へ置く。
明日、直哉へ答えを伝えた後に食べる。自分へ向けた言葉として。
*
土曜日の朝。葵は午前七時に目を覚ました。
電話は午後三時。まだ八時間ある。
直哉は、どのような一日を過ごしているだろう。答えを待ちながら仕事をしているのか。自宅で落ち着かずにいるのか。
葵はカーテンを開けた。晴れている。
洗濯をする。朝食を作る。味噌汁。卵焼き。ご飯。一週間前と同じ。生活は続いている。
食後、部屋を掃除する。箱が置いてあった場所も、掃除機をかける。何もない床。
葵はそこへ、小さな観葉植物を置くことにした。以前から窓辺にあったもの。日当たりのよい場所へ少し移す。
直哉の荷物があった場所を、急いで別の物で埋めるつもりはなかった。だが、今日は自分の意思で置きたいと思った。
緑の葉。新しい芽。部屋の中に、自分が育てるものがある。
*
午前十時。母からメッセージ。
『今日は、ちゃんと食べてね』
『朝食を食べました』
『電話の後も、何か食べなさい』
『わかりました』
美月からも。
『答え決まった?』
『うん』
『言えそう?』
『怖い』
『ノート読んでもいいから。終わったら連絡して』
『ありがとう』
真尋からは、まだ連絡がない。
葵が昨日、
『明日は、自分で時間まで過ごしたい』
と伝えたからだ。真尋は、
『わかりました。終わったら連絡してください』
とだけ返した。
葵は、少し寂しくなった。大丈夫かと聞いてほしい。頑張ってと言ってほしい。
だが、自分で過ごしたいと言ったのは葵だ。真尋は、その言葉を受け取っている。
葵は自分から送ることにした。
『少し怖くなりました』
すぐに返信が来る。
『はい』
『頑張ってって言って』
少しして。
『自分の言葉を、最後まで伝えてください』
『それが、真尋の頑張って?』
『はい』
『わかった』
『終わったら、待っています』
葵は画面を胸へ当てた。
*
午後二時五十分。葵は自宅のテーブルへ座った。
電話は、どちらからかけるか決めていなかった。午後三時になれば、葵からかけるつもりだった。
ノートを開く。伝えたいこと。
会えて嬉しかった。戻りたいと言われて嬉しかった。直哉を今も好き。それでも戻らない。二年間を否定しない。最後の半年だけで全部を悪い思い出にしない。直哉が変わろうとしていることはわかった。ただ、今の自分は一人の生活を続けたい。直哉と新しい関係を作りたいのではなく、過去を失いたくないだけだと気づいた。感謝している。好きだった。今も好き。
さようなら。
最後の言葉を見ると、呼吸が苦しくなる。
さようなら。二度と会わないと決める言葉ではない。それでも恋人としては終わる。
午後三時。スマートフォンが鳴った。直哉からだった。
葵は一度、深く息を吸い、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『葵』
「うん」
『今、大丈夫?』
「うん」
『俺からかけてよかった?』
「今、かけようと思ってた」
『そっか』
*
直哉の声。耳に馴染んだ声。
何度も電話で聞いた。会えない夜に。仕事帰りに。眠る前に。
その声を、これから聞かなくなる。
葵の目に涙が浮かぶ。
『考えた?』
「うん」
『俺は、待ってる間も考えた。この前言ったことは、本気だよ。葵と、もう一度やり直したい』
胸が痛む。それでも、葵はノートを見ずに話し始めた。
「直哉。会えて嬉しかった」
『うん』
「戻ってほしいって言われて、すごく嬉しかった。私も、戻りたいって思った」
電話の向こうで、直哉が息を吸う。
「今も好き」
『葵』
「最後まで聞いて」
『うん』
葵は涙を拭う。
「好きだけど、戻らない」
言った。胸の中で何かが大きく崩れた。
電話の向こうは静かだった。
「直哉?」
『いる』
「うん」
『どうして?』
直哉の声が掠れている。
「一週間、考えた。戻りたい理由は、たくさんあった。直哉が好き。会いたい。二年間が大切。将来を考えてた。一緒にいると安心した」
『うん』
「でも、戻らない理由を考えた時に、今の私が、直哉と新しい関係を作りたいと思ってないって気づいた」
『この前は、作れるかもしれないって』
「作れるかもしれない」
『なら』
「でも、作りたいかは別」
葵ははっきり言った。
*
「私は、二年間を失いたくないから戻りたいと思ってた。一人になりたくない。直哉に選ばれた自分でいたい。前に幸せだった頃へ戻りたい」
『それの何が悪いの?』
「悪くない」
『なら、もう一度』
「でも、それは今の直哉と一緒にいたい気持ちじゃなかった」
電話の向こうで、直哉が何も言わない。
「直哉は変わろうとしてる。私も変わった。だから、新しい二人になれるかもしれない」
『そうだよ』
「でも私は、今、一人で自分の生活を続けたい」
『俺と付き合いながらでもできる』
「できるかもしれない」
『なら、どうして』
「今の私は、それを望んでないから」
葵は泣きながら言った。
直哉を責める理由ではない。できないからではない。望んでいない。それだけ。
『俺が嫌い?』
「違う」
『好きなんでしょう』
「好き」
『わからない』
直哉の声に苦しさが混ざる。
『好きなのに、どうして別れるの』
「私も、前はわからなかった」
『今は?』
「好きという気持ちと、恋人でいたい気持ちは同じじゃないってわかった」
『俺は同じだよ。葵が好きだから、一緒にいたい。葵は違う?』
「今は違う」
*
沈黙。葵は泣きながら、直哉の声を待つ。
『ほかに好きな人がいる?』
「いない」
『秋田で会った人は?』
「真尋は女性」
『そういう意味じゃなく』
「真尋は大切な人。でも恋人ではない」
『その人がいるから、一人でも平気になった?』
葵は考える。
「真尋だけじゃない。美月も、母も、仕事もある。自分の生活も」
『俺だけじゃなくなった』
「うん」
『前は、俺が一番だった。それが嫌だった?』
「私が自分で直哉を一番にして、苦しくなった」
『俺は頼んでない』
「わかってる」
『なら、今度はしなければいい』
「それでも、戻りたいと思えない」
同じ場所へ戻る。直哉は、理由を変えれば戻れると思っている。
葵も、数日前まではそう思っていた。だが理由をすべて取り除いても、最後に残るのは意思だった。
「直哉が悪いから別れるんじゃない。私も悪いからじゃない。今の二人は、もう一度恋人にならないほうがいいって、私は思う」
『俺は思わない』
「うん」
『俺の気持ちは?』
「大切に聞いた」
『でも、葵の答えだけで終わるの?』
その言葉に、葵の胸が痛む。
関係は二人で作る。だが続けるためには、二人の同意が必要だ。終える時は、一人の意思でも終わってしまう。
「ごめん」
『謝ってほしくない』
「うん」
『説得する時間もない?』
「一週間考えた」
『もっと』
「直哉」
『もう少し会ってから決めても』
「会ったら、揺れる」
『揺れるなら、戻りたい気持ちがあるってことでしょう』
「ある」
『なら』
「でも、答えは変えない」
*
葵は自分の声が震えているのを感じた。それでも言う。
「会うたびに戻りたいと思うかもしれない。抱きしめられたら、頷くかもしれない。だから、会わない」
『葵』
「好きなまま、終わる」
電話の向こうから、直哉の呼吸が聞こえる。泣いているのかもしれない。葵も泣いている。
「二年間、幸せだった」
『俺も』
「最後の半年は苦しかった。でも、それだけで全部を嫌な思い出にしたくない。海へ行ったことも、誕生日も、川沿いを歩いたことも、全部大切」
『うん』
「直哉と付き合ってよかった」
『なら』
「よかったから、終わりにしたい」
『わからない』
「私も、うまく説明できない」
『葵。俺は待ってもいい』
「待たないで」
『どうして』
「私が戻ることを待ちながら、直哉の時間を止めてほしくない」
『葵も待ったでしょう』
「うん」
『なら、俺も』
「私は、待って苦しかった」
『それでも』
「直哉」
葵は強く呼ぶ。
「待ってると言われたら、私は何度も振り返る」
『振り返ればいい』
「進みたいの」
その言葉を言った瞬間、涙がさらに流れた。
「直哉を嫌いになりたいんじゃない。忘れたいんでもない。好きだった自分を持ったまま、次へ行きたい」
『次の人?』
「誰かはわからない」
『すぐに誰かと付き合う?』
「今は考えてない」
『なら』
「恋愛だけが次じゃない」
仕事。友人。家族。一人の時間。旅。これから選ぶ生活。
「私は、私の生活へ進みたい」
*
長い沈黙があった。
『わかった』
直哉が言った。声は低く、苦しそうだった。
『本当は、わかりたくない。でも、葵が決めたんだね』
「うん」
『俺が何を言っても?』
「うん」
『後悔しても?』
「すると思う」
『俺も』
「うん」
『最後に、一つ聞いていい? 俺を好きだった?』
葵は泣きながら笑った。
「好きだった」
『今も?』
「好き」
『そっか。ありがとう』
「私も、ありがとう」
『葵』
「何?」
『商品、また買う』
葵は声を上げて泣いた。
「うん」
『売れるといいな』
「うん」
『仕事、頑張って』
「直哉も」
『頑張れって言わない商品作ったのに』
「今は、言いたい」
直哉が笑ったような声を出す。
『じゃあ、頑張る』
「うん」
『さようなら』
直哉が言った。葵の胸が大きく痛む。
「さようなら」
通話が切れた。
*
葵はスマートフォンをテーブルへ置き、その場で泣いた。声を抑えられなかった。
二年間。直哉の声。笑顔。手。会えない夜。待った時間。別れた日。戻ってほしいと言われた日。
すべてが一度に押し寄せる。
自分で終わらせた。戻ることもできた。直哉は待つと言った。それでも葵は断った。
正しかったのか。
今すぐ電話をかけ直したい。間違えたと言いたい。戻ると。
スマートフォンへ手を伸ばす。画面を開く。直哉の名前。指が止まる。
今かければ、直哉は出るだろう。戻りたいと言えば、受け入れる。この痛みから逃れられる。
だが、それは何のためか。
直哉と関係を作りたいからではない。別れの痛みを止めたいから。
葵はスマートフォンを伏せた。
*
真尋へ電話する。呼び出し音が一度鳴っただけで、つながった。
『葵』
「言った。戻らないって。終わった」
『はい』
「真尋。苦しい。間違えたかもしれない。電話かけ直したい。止めて」
真尋は黙った。
『今すぐは、かけないでください』
「うん」
『一時間後、それでもかけたいなら、もう一度考えましょう。今、どこですか』
「家」
『一人?』
「うん」
『行きますか』
葵は迷った。来てほしい。だが、今日は自分の部屋にいたい気持ちもある。
「電話でいて。来なくていい。でも、切らないで」
『はい』
真尋の声がある。葵は泣き続けた。
『水を飲めますか』
「うん」
『ゆっくり立ってください』
葵は椅子から立ち、キッチンへ向かう。コップへ水を入れる。少し飲む。
「飲んだ。商品、買ったの」
『葵の商品を?』
「うん」
『食べられそうですか』
「まだ。直哉も、また買うって。売れるといいなって。優しい」
『はい』
「何で別れたんだろう」
『葵が、一緒にいる未来を望まなかったからです』
「うん」
『直哉さんが優しくても。好きでも。その気持ちを大切にしてください』
「うん」
*
一時間近く、真尋は電話を切らなかった。
葵の泣き声が落ち着く。呼吸が整う。スマートフォンへ手を伸ばす衝動も、少し弱くなった。
「かけ直さない。今日は」
葵が言った。
『はい』
「明日は、わからない」
『明日、また考えましょう。商品、食べられます?』
「食べる」
葵はパッケージを開けた。小さな甘い菓子。自分で企画に関わった商品。
袋の表には、自分の言葉。
『今日も、ここまで来たあなたへ』
葵は一口食べた。甘い。少し塩気がある。試作の時より、食感が軽い。
「おいしい。今日の私にも、言っていい?」
『もちろんです』
「今日も、ここまで来た。直哉に、さようならって言った。ここまで来た」
『はい』
葵は泣きながら、もう一口食べた。
*
夜、母と美月にも連絡した。
母は電話の向こうで泣いた。
『本当にそれでよかったの?』
最初にそう尋ねた後、すぐに、
『ごめん。今は聞かない』
と言い直した。
『葵が決めたんだね。よく言ったね』
「うん」
『帰ってくる?』
「今日は家にいる」
『わかった』
「明日、電話する」
『待ってる』
美月は、
『お疲れさま』
とだけ言った。
「それだけ?」
『今は、言葉多いと嫌でしょう。明日、ご飯食べよう』
「うん」
『何がいい?』
「まだわからない」
『明日決めよう』
誰も、すぐ次へ進めとは言わなかった。正しい選択だとも言わなかった。
ただ、葵が決めたことを受け取った。
*
午後九時を過ぎた頃、真尋は俊介へ電話をした。
今日は俊介も仕事だった。事前に、夜九時以降なら話せると連絡が来ていた。
『もしもし』
「今、大丈夫ですか」
『大丈夫です。葵さんは?』
「直哉さんへ、戻らないと伝えました。かなり泣いています」
『真尋は、行かなくて大丈夫ですか』
「今日は、電話でいてほしいと言われました。今は、少し落ち着いています」
『真尋は?』
俊介が尋ねる。
「私?」
『はい。葵さんの決断を聞いて、何か感じているでしょう』
真尋は考える。
葵が戻らないと決めたこと。その勇気を誇らしく思う。同時に、痛みも感じる。
好きな人を手放す。自分ならできるだろうか。
「怖くなりました」
『何が?』
「関係は、好きでも終わることがある。話し合っても、相手が変わろうとしても。俊介と私も、いつか」
『そうですね』
俊介は否定しなかった。
「今は、否定してほしかったです」
真尋が言うと、電話の向こうで俊介が黙る。
『僕は、終わらせたくありません。真尋と、できるだけ長く関係を作りたいです。でも、絶対に終わらないとは言えません』
「わかっています」
『今、その言葉は冷たいですか』
「少し」
『では、今の気持ちを言います。僕は今日も、真尋が好きです』
真尋の胸が温かくなる。
『明日も、そうでありたいと思っています。終わる可能性を考えるより、今できることをしたいです。来週の日曜日、会いたいです』
「私も」
『短い連絡も続けます。真尋が不安な時は、聞きます。それで、今は足りますか』
真尋は考える。
「足ります」
『よかった』
「俊介。私も、今日も好きです。葵が直哉さんと別れたから、恋愛が怖くなっても、俊介と続けたいです」
『僕もです』
*
翌朝、葵は泣き腫らした目で起きた。
最初に直哉を思い出した。昨夜の電話。さようなら。夢ではなかった。
胸が重い。布団から出たくない。
仕事は休み。美月と昼食を食べる約束だけがある。行きたくない気持ちもある。
それでも、布団の中で一日を終えたくなかった。
葵はゆっくり起き上がる。カーテンを開ける。植物へ水をやる。昨日、箱があった場所へ移した鉢。小さな新芽。葵は指で触れずに見る。
朝食を作る気にはならない。冷蔵庫からヨーグルトを出す。パンを一枚焼く。それだけ。
「いただきます」
声は小さい。パンを半分食べる。ヨーグルトも。十分だった。
スマートフォンを見る。直哉からの連絡はない。葵も送らない。
トーク画面を開き、過去のやり取りを少し見る。
付き合い始めた頃。会いたい。今度どこへ行く。おやすみ。好き。
短い言葉が並んでいる。
葵は画面を閉じた。消さない。まだ隠しフォルダのまま。
いつか見ても苦しくない日が来るかもしれない。来なくてもいい。大切だったことは変わらない。
*
美月と会ったのは、午後一時だった。駅前の小さな洋食店。
葵はスープとパンのセットを頼んだ。美月はハンバーグ。
「食べられそう?」
「少し」
「無理しないで」
「でも、食べる」
美月は直哉のことをすぐに聞かなかった。
仕事の話をした。石橋が最近少し優しいこと。試験販売の数字。美月の部署で、新しい後輩が入る予定。
葵は少しずつスープを飲んだ。食事の半分ほど進んだところで、自分から言う。
「直哉、泣いてたと思う」
「声で?」
「うん」
「葵も?」
「ずっと。戻りたいって、今も思う。でも、戻らないって言った」
「うん」
「美月は、正しかったと思う?」
美月は考える。
「わからない」
「わからない?」
「葵がこれから、何を感じるかはわからないから。でも、自分で決めたことは知ってる。だから、今はそれでいいと思う」
「後悔して電話したら?」
「その時は、その時の葵が決める」
「戻っても?」
「私は怒らないよ」
葵は驚いて美月を見る。
「戻らないほうがいいって言うと思った」
「今は、戻らないって決めた葵を応援してる。でも、絶対に変えちゃだめとは思わない」
「それだと、また迷う」
「迷ってもいいでしょう」
「真尋も似たこと言う」
「でも今日、電話かけ直したい?」
葵は自分の気持ちを確かめる。
「会いたい。声も聞きたい。でも、戻るための電話はしたくない」
「なら、今日はしない」
「うん」
*
美月はハンバーグを一口食べた。
「いつか、友達として会いたい?」
「今は無理」
「うん」
「直哉に新しい恋人ができたら、耐えられない。私が決めたのに」
「別れたら、すぐに平気になるわけじゃない。自分で別れた側も、傷つくよ」
葵はスープを飲んだ。
「振られたほうが楽だったかもしれない」
「どうして?」
「直哉のせいにできる。今回は、自分で終わらせた。だから、痛いのも自分のせいみたい」
「違うよ」
美月が言う。
「別れが痛いのは、好きだったから。葵が悪いからじゃない」
葵は涙を拭った。
*
その日の夕方、葵は一人で川沿いを歩いた。直哉と何度も歩いた場所。
前回は連絡しようか迷い、画面を閉じた。今日は、トーク画面を開かなかった。
思い出は浮かぶ。それでも歩く。ベンチへ座る。川を眺める。
「ありがとう」
小さく言う。直哉へ届く言葉ではない。自分の中に残す言葉。
「好きだった」
今も好き。それでも、終わった。
葵は泣いた。泣きながら、川の流れを見る。
水は止まらない。過去を流して消すのではなく、その時間を含んだまま先へ進む。
*
真尋と俊介は、約束通り日曜日の午後三時に会った。
俊介は正午前に、
『予定通り会えます』
と連絡した。
真尋は、自分の午前中を過ごした。洗濯。買い物。母へ電話。
俊介の連絡を待って予定を空けたのではない。会うと決めた時間まで、自分の生活を続けた。
二人は美術館へ行った。静かな展示室。並んで作品を見る。解説を読む。
俊介は建物にも目を向ける。真尋は作品へ集中する。同じ場所にいても、見ているものが少し違う。
展示を見終え、館内のカフェへ入る。
「葵さんは?」
俊介が尋ねる。
「昨日、直哉さんへ戻らないと伝えました。今日は、美月さんと会ったそうです」
「真尋は会わなくていいんですか」
以前なら、その問いを責められたように感じたかもしれない。今は、俊介の意図を聞く。
「会ってほしくないですか」
「違います」
「では?」
「真尋が心配していると思ったので」
「心配しています。でも今日は、美月さんとの時間です。夜に電話するかもしれません」
「わかりました」
「俊介は寂しい?」
「今、僕と一緒にいるので大丈夫です」
「夜は?」
「僕も仕事の準備をします。真尋が葵さんへ電話をすることを、僕が許す必要はありません。でも、話してもらえると安心します」
「わかりました」
二人は以前より少し自然に、予定や気持ちを確認できている。
*
「俊介。連絡、続けてくれてありがとうございます」
「短いですが」
「十分です」
「僕も、短くていいとわかって楽になりました」
「義務になっていません?」
「少しは」
俊介は正直に答える。
「でも、関係を続けるために必要な習慣だと思っています」
「義務でも?」
「仕事へ行くことや、食事をすることも、時には義務です。義務だから気持ちがないとは限りません」
真尋は考える。
好きなら自然にできる。自然にできないことは、無理をしている。以前は、そう考えていた。
だが関係を続けるためには、意識して行うこともある。連絡。話し合い。相手の希望を覚える。どれも毎回、自然にできるとは限らない。
「私も、俊介を信じることを意識しています」
「義務?」
「練習です。不安になっても、すぐに終わりを想像しない。今の俊介を見る」
「ありがとうございます」
*
夜、真尋は葵へ電話をした。
『今、大丈夫ですか』
「うん」
『今日は?』
「美月とご飯食べて、川へ行った」
『一人で?』
「うん」
『どうでした?』
「泣いた。でも、前より少し違った」
『何が?』
「前は、直哉と戻るために歩いてた気がする。今日は、思い出すために歩いた。忘れなくていいんだよね」
『はい』
「直哉に新しい人ができたら、苦しいと思う。それでも、私が終わらせたことを後悔すると思う。でも今は、電話かけ直したいとは思ってない。会いたいけど、戻りたいとは、少し違う」
『少しずつ、分かれてきましたね』
「うん」
『葵』
「何?」
『よく伝えましたね』
「真尋に、昨日言われなかった」
『何を?』
「よく言いましたって」
真尋は黙る。
『昨日は、言葉が多すぎると感じました。今、言います』
「うん」
『好きな人へ戻らないと、自分の言葉で伝えた葵を、私は尊敬します』
葵の目に涙が浮かぶ。
「尊敬? 私、ずっと泣いてる。電話かけ直したいって思った」
『それでも』
「真尋が止めてくれた」
『最後に止まったのは葵です。よく、自分の答えを守りましたね』
「うん」
葵は泣きながら笑った。
*
「秋田へ、一歩近づいた。ちゃんと終わらせた。でも、直哉を置いていくみたいで嫌」
『置いていくのではありません』
「じゃあ?」
『葵の中に、連れていくんでしょう』
葵は静かに息を吸った。
好きだった自分。幸せだった時間。苦しかった半年。すべてを持ったまま。
「うん」
『秋田へ行く時にも、直哉さんとの時間は、葵の一部です。消さなくていいです』
「うん。真尋」
『何ですか』
「私、次の恋をしなくてもいい?」
『もちろん』
「ずっと一人かもしれない。それでも、大丈夫?」
『葵が決めることです』
「でも、真尋は俊介さんがいる。羨ましいと思う日もある。寂しくなって、直哉へ戻りたくなるかも。その時は?」
『その時の葵と話します』
「戻るなって言わない?」
『葵が何を望んでいるか聞きます。ただ、今日の葵が何を選んだかは、忘れないでください』
「うん」
*
葵の部屋には、直哉の荷物はない。
青い線のカップは残っている。海辺の写真は、引き出しの中にある。メッセージも消していない。箱が置かれていた場所には、小さな植物。棚には、秋田の二人の影。
過去をすべて捨てて、新しい部屋へしたわけではない。葵が残したいものを残し、育てたいものを置いた。
直哉との関係は終わった。だが葵の生活は、終わらない。
翌朝には仕事がある。試験販売の結果をまとめる。母へ連絡する。美月と昼食を食べる。真尋とは、秋田の予定をいつか決める。俊介とは、卵焼きの判定をしてもらう約束がある。
未来には、直哉のいない予定が少しずつ増えていく。
そのことが悲しい。同時に、少しだけ自由だった。
*
葵はベッドへ入る前、ノートを開いた。
『私が大切にしたいこと』
最後の行へ、新しく書く。
『好きでも、自分の未来に選ばないことがある』
その下へ続ける。
『別れたことを正解にするのではなく、別れた後の生活を自分で作る』
書き終え、ペンを置く。
直哉へ戻らなかった選択が、正しかったかはわからない。これから何度も後悔するかもしれない。
それでも、正解だったと証明するために生きるのではない。選んだ後に、自分の生活を作る。
笑う日。泣く日。直哉を思い出す日。思い出さない日。
どの日も、自分の人生になる。
*
葵は照明を消した。
暗い部屋。窓の外の光。棚の写真は見えない。青いカップも。植物も。
見えなくても、そこにある。直哉との時間も、同じだった。
今夜は、さようならを言った後の最初の夜。
葵は一人で目を閉じた。
寂しい。苦しい。それでも、自分の部屋で眠る。
朝が来れば、また今日を始める。
直哉に選ばれた未来ではなく。葵が自分で選んだ未来を。




