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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第十八章 選んだあとの生活

月曜日の朝、葵は目覚ましが鳴る三分前に目を覚ました。

 窓の外はまだ薄暗い。

 目を開けた瞬間、直哉のことを思い出した。戻らないと伝えた電話。最後に聞いた声。

『さようなら』

 夢ではなかった。

 胸の中心に、重いものが置かれている。布団から出ずにいたい。会社へ行かなければならない理由が、急に遠く感じる。

 自分で別れを選んだのだから、もっと晴れやかな朝を迎えると思っていたわけではない。それでも、決めた後には迷いが減ると思っていた。

 実際には、迷いは形を変えただけだった。

 あれでよかったのか。電話をかけ直せば、まだ間に合うのではないか。直哉は待っているのではないか。

 昨日までは、戻らないかどうかを迷っていた。今は、戻らないと伝えたことを取り消すかどうかが、新しい迷いになっている。

     *

 葵は枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。

 直哉からの連絡はない。当然だった。さようならを言った。待たないでと伝えた。直哉は、その言葉を受け取った。

 それでも、連絡が来ていないことに胸が痛む。

 葵はトーク画面を開いた。最後のやり取りは、電話をする前のものだった。

『土曜日に電話します』

『わかった』

 通話記録。一時間二十三分。その数字の中に、最後の会話がある。

 葵は画面を閉じた。

 今かければ、直哉は出るかもしれない。だが、何を言うのか。

 寂しくなったから、やっぱり戻りたい。一人の朝が苦しいから、さようならを取り消したい。

 それは、直哉と新しい関係を作りたいという答えではない。

 葵はスマートフォンをベッドの外へ置いた。

「起きる」

 声にする。布団をめくる。床へ足を下ろす。立ち上がる。カーテンを開ける。

 昨日と同じ部屋。箱があった場所の植物。青い線のカップ。秋田で撮った二人の影。

 直哉がいないことは変わらない。それでも、自分が置いた物はある。

     *

 葵は洗面所で顔を洗った。泣き腫らした目は、まだ赤い。冷たい水へ手をつける。化粧で隠せる程度。

 会社へ行ける。行きたいかはわからない。だが、今日は試験販売の結果を確認する日だ。自分の企画が、次へ進むかもしれない。

 直哉との関係が終わった日と、葵の仕事が進む日は、同じ一週間の中にある。どちらかが大きいから、もう一方を止める必要はない。

 葵は冷蔵庫を開けた。卵。味噌。豆腐。ご飯。

 味噌汁を作る。包丁でねぎを刻む。手は動く。味噌を溶く。湯気が上がる。

 卵焼きまで作る気力はなく、目玉焼きにした。一人分。テーブルへ並べる。

「いただきます」

 味噌汁を一口飲む。味がする。少し薄い。食べられる。

 ご飯を半分。目玉焼きも。全部食べなくてもいいと思ったが、最後まで食べた。

 洗い物をする。身支度を整える。バッグへノートを入れる。

 自宅の扉を開ける前に、棚の写真を見る。

「行ってきます」

 葵は一人で言った。

     *

 真尋も同じ朝、いつもより早く目を覚ましていた。

 前夜、葵との電話を終えた後、俊介から短いメッセージが届いた。

『明日は朝から現場です。夜八時頃には連絡できると思います』

 真尋は、

『わかりました。私は夕方、母の家へ行きます』

 と返した。

 母へ秋田の土産を渡す約束を、ようやく果たす日だった。父との結婚生活についても聞く。

 以前なら、母の夫婦関係を知りたいとは思わなかった。父は父。母は母。自分を育てた二人。それだけで十分だと思っていた。

 だが俊介と付き合い始め、自分が誰かと関係を作ろうとすると、両親がどのように暮らしていたのか知りたくなった。

 父と母は、幸せだったのか。何を話し、何を言えなかったのか。なぜ母は、結婚していても一人になりたいと思う時があったのか。夫婦であることが、どのように母の人生へ残っているのか。

 真尋はキッチンへ向かい、朝食を作る。

 俊介からの朝の連絡は、まだない。現場へ向かう準備をしているのだろう。

 以前なら、連絡がないことを気にしたかもしれない。今は昨夜、今日の予定を聞いている。朝に必ず連絡するとは決めていない。

 真尋はコーヒーを淹れ、トーストを皿へ置いた。食べ始めたところで、スマートフォンが震える。

『今、現場へ向かっています。昨日の電話、話せてよかったです』

『私もです。気をつけて』

『はい。真尋も』

 短いやり取り。それだけで十分だった。

 真尋はスマートフォンを伏せ、朝食を続けた。

 相手が今どこにいて、無事で、関係が続いている。それを知るだけでよい時間もある。

     *

 葵が会社へ着くと、美月が入口近くで待っていた。

「おはよう」

「おはよう」

 美月は葵の顔を見たが、直哉のことをすぐには聞かなかった。

「朝、食べた?」

「食べた」

「何を?」

「味噌汁と目玉焼き」

「よくできました」

「真尋みたい」

 二人は笑った。エレベーターへ乗る。ほかの社員がいるため、会話は仕事へ変わる。

「今日、結果出るんでしょう」

「午後の会議で」

「緊張してる?」

「してる」

「楽しみ?」

「うん」

 葵は答えた。

 直哉との別れで胸が痛くても、企画の結果を楽しみに思う気持ちはある。そのことに、少し救われる。

 自分の中には、悲しみだけではない。

     *

 会議までの午前中、葵は試験販売の数字を整理した。

 三店舗。三種類の言葉。時間帯。客層。追加購入。

 商品の味は同じ。パッケージの言葉だけが異なる。ただし売り場の位置や店舗ごとの客層は完全には揃っていない。数字だけで、一つ目が最良とは言い切れない。

 それでも、

『今日も、ここまで来たあなたへ』

 を使った商品は、三店舗のうち二店舗で最も高い購入率を記録している。

 購入後の簡単なアンケートでも、

「自分へ言われているように感じた」

「疲れている日に手に取りやすかった」

「頑張れと言われないことがよかった」

 という回答があった。

 葵は一つずつ読み返した。

 知らない人が、自分の言葉を受け取った。

 直哉との最後の半年。会社へ来られないと思った朝。一人で食事を作った夜。

 その経験から生まれた言葉が、誰かの日常へ届いている。

 苦しかったことを商品へ変えたのではない。苦しかったからこそ、似た時間を過ごす人を想像できた。

     *

「小野寺さん」

 石橋が隣へ来た。

「資料、見せて」

「はい」

 葵は画面を開く。石橋が数字へ目を通す。

「アンケート、自由回答を分類した?」

「今しています」

「肯定的な回答だけ抜いてない?」

「否定的なものも入れます」

「どんな意見?」

「重い。疲れている時にまで励まされたくない。自分向けではない、です」

「大事だね。どう考える?」

「全員へ届く言葉ではないと思います」

「それでいい?」

「はい」

 以前なら、否定的な意見をなくそうとしただろう。誰にも嫌われない言葉。誰にも不快感を与えない商品。

 しかしそのような言葉は、誰の心にも残らないかもしれない。

「疲れている人すべてに合うとは思いません」

 葵は言った。

「でも、ここまで来たことを認めてほしい人には届いています」

「ターゲットを狭める?」

「働く女性だけでなく、一日を終える前に自分のための小さなものを買う人」

「広いね」

「年齢や性別ではなく、買う瞬間の気持ちで考えたいです」

 石橋が少し頷く。

「会議で言って。私から補足はするけど、最初は小野寺さんが説明して」

「わかりました」

     *

 石橋が席へ戻りかけ、足を止める。

「顔、少し疲れてる。恋人のこと?」

「別れました」

「戻らなかった?」

「はい」

「そう」

 石橋は詳しく聞かなかった。

「今日、話せる?」

「仕事はできます」

「それを聞いてるんじゃない」

 葵は石橋を見る。

「会議で、自分の企画を説明できる状態か」

 考える。直哉を思い出せば、泣きそうになる。だが企画の話はできる。むしろ、今日だから言えることがあるかもしれない。

「できます」

「なら、任せる。途中で無理なら、合図して」

「どうやって?」

「ペンを置いて」

「わかりました」

 葵は吹き出した。

 助けてもらえる。だからこそ、自分で話せる。

     *

 午後の会議には、部長、営業責任者、商品開発の担当者、デザイナー、石橋、葵が参加した。

 画面には、試験販売の結果が表示されている。

 葵は数字を説明した。売上。購入率。アンケート。店舗ごとの差。限界。

 都合のよい結果だけを強調せず、判断できない部分も話す。

「三店舗では、まだ母数が少ないです。また、売り場の位置や客層を完全に揃えられていないため、言葉だけが購入率へ影響したとは断定できません」

 部長が尋ねる。

「それでも、この言葉を本採用したい?」

「はい」

「なぜ?」

「数字の差があるからだけではありません」

 葵は自由回答の一覧を表示する。

「購入した方が、自分の一日を重ねています」

「具体的には?」

「仕事で失敗した日。子どもを寝かせた後。家族の介護を終えて帰る途中。資格試験の勉強帰り」

 会議室が静かになる。

「こちらが想定した働く女性だけではありませんでした。それぞれ違う生活の中で、自分へ言われた言葉として受け取っています」

「否定的な意見もある」

 営業責任者が言う。

「はい。全員に合う言葉ではありません」

「それで売れるのか」

「全員に向けた商品ではなく、必要な人が見つけられる商品にしたいです」

「店頭の商品は、広く売るものでしょう」

「広く知ってもらうことは必要です。ただ、誰にでも同じように届く言葉へ変えると、この商品の理由がなくなります」

     *

 葵は自分の声が震えていることに気づいた。それでも止めない。

「この商品は、もっと頑張るためだけのお菓子ではありません」

「では、何のため?」

「一日を終える前に、自分を置き去りにしないためです」

 言葉にした瞬間、直哉との時間が浮かんだ。

 直哉を優先し、自分の寂しさを後へ回した日々。誰かを大切にするために、自分を置き去りにしていた。

 戻らないと決めたのも、自分を置き去りにしないためだった。

 涙が出そうになる。葵はテーブルの上のペンを見た。置けば、石橋が代わる。

 だがまだ話せる。

「頑張った成果がなくても、誰かに褒められなくても、今日を過ごした自分へ小さなものを買う。その理由になる商品を作りたいです」

 部長は資料を見た。

「商品名は、このまま?」

「商品名は別にあります。言葉はパッケージへ残します」

「季節限定?」

 商品開発の担当者が尋ねる。

「最初は三か月を提案します」

「売上が弱ければ?」

「言葉を変える前に、売り場と認知を確認したいです」

「言葉へこだわりすぎでは?」

「こだわっています」

 葵は認めた。

「でも、数字で違うと出れば変えることも考えます」

 石橋が補足する。

「初回の本採用は、三か月。販売店舗を拡大し、地域と時間帯を分けて検証します。売上だけでなく、同時購入や再購入も取ります」

 営業責任者が資料へ目を通す。

「店舗側の負担は?」

「既存棚へ置けます。特別な什器は不要です」

「なら、試せるか」

 部長は腕を組み、しばらく考えた。

「本採用で進めよう」

 葵は一瞬、意味を理解できなかった。

「三か月。首都圏二十店舗」

 部長が続ける。

「数字が弱ければ、言葉を含めて見直す。それでいいな」

「はい」

 葵は答えた。声が掠れた。

「小野寺さん」

 石橋が小さく呼ぶ。葵は深く息を吸う。

「ありがとうございます」

 部長の口元が緩んだ。

「まだ結果は出てない。ここからだから」

「はい」

 今日も、ここまで来た。

 だが、ここは終点ではない。次へ進む場所だった。

     *

 会議室を出た瞬間、葵は廊下の壁へ手をついた。足に力が入らない。

 石橋が隣に立つ。

「大丈夫?」

「はい」

「泣く?」

「少し」

「トイレ行く?」

「ここで少しだけ」

 葵は目元を押さえた。

 嬉しい。採用された。二十店舗。三か月。自分の言葉が、さらに多くの場所へ並ぶ。

 直哉へ伝えたい。

 その気持ちが、最初に浮かんだ。商品が本採用になった。喜んでほしい。

『売れるといいな』

 最後の言葉。直哉なら、きっと喜ぶ。

 だが、もう連絡しないと決めた。直哉を傷つけないためだけではない。自分が戻る道を探さないためでもある。

「誰に連絡したい?」

 石橋が尋ねる。葵は驚く。

「顔に出てます?」

「スマートフォン握ってる」

 葵は手元を見る。無意識にバッグから取り出していた。

「別れた人に。最後に、商品また買うって言ってくれました」

「連絡する?」

「しません」

「なぜ?」

「終わったので」

 言葉にすると、また胸が痛む。

「でも、伝えたい」

「なら、送ってもいいんじゃない」

 石橋は簡単に言う。葵は首を振った。

「伝えたいことと、伝えたほうがいいことは違うと思います。今送ったら、返事を待ちます。喜んでくれたら、また話したくなる。短い返事なら傷つく。だから、今日は送らない」

 石橋は頷いた。

「なら、別の人へ」

「はい」

     *

 葵は最初に、美月へ送った。

『本採用になった』

 すぐに、

『おめでとう!』

 と返ってくる。

 次に母。

『企画の商品が二十店舗で販売されることになりました』

 母から電話がかかってきた。今は出られないため、

『仕事中なので、夜に話します』

 と返す。

 そして真尋。

『本採用になりました。三か月、二十店舗です』

 送信する。既読はつかない。仕事中だろう。

 それでいい。返事が来るまで、結果の価値が変わるわけではない。

「もう大丈夫?」

 石橋が尋ねる。

「はい」

「席へ戻れる?」

「はい」

「今日くらい、少し休んでも」

「まだ仕事があります」

「以前の私みたい」

「違います」

 葵は思わず笑った。

「今日は、仕事を続けたいんです」

「なら、戻ろう」

 石橋と並んで歩く。

     *

 真尋が葵のメッセージを見たのは、午後三時を過ぎた頃だった。社内会議の途中で、スマートフォンを確認できなかった。

 画面に表示された文章を読み、思わず笑顔になる。

『本採用になりました。三か月、二十店舗です』

 真尋はすぐに返信した。

『おめでとうございます。葵の言葉が、さらに多くの人へ届きますね』

 考え、もう一文を加える。

『今日も、ここまで来ましたね』

 送信する。葵からは、数分後に返事が来た。

『泣きました』

『はい』

『直哉に言いたいと思った』

 真尋は画面を見つめた。

『はい』

『でも、送ってない』

『葵が決めたんですね』

『うん』

『今夜、話しますか』

『お母さんにも電話するから、その後でもいい?』

『はい』

 真尋はスマートフォンを伏せた。

 葵は、嬉しいことが起きても直哉へ戻らなかった。別れを守るために、喜びを小さくしたわけではない。別の人へ渡した。

 美月。母。真尋。

 喜びを受け取る人は、一人ではない。

     *

 仕事を終えた真尋は、そのまま母の家へ向かった。

 秋田の土産を入れた紙袋。地元の菓子。小さな工芸品。以前、葵と相談して選んだもの。

 母の家へ着くと、玄関の扉がすぐに開いた。

「いらっしゃい」

「まだ呼び鈴を押してない」

「足音がしたから」

「聞こえます?」

「あなたの歩き方はわかる」

 母は紙袋を受け取る。

「重いでしょう」

「大丈夫。夕食、できてるわよ」

 台所から煮物の匂いがする。

 真尋はコートを脱ぎ、リビングへ入った。

 父の写真が棚の上にある。穏やかに笑う顔。その隣には、若い頃の母と真尋の写真。父が亡くなってから年月が経っても、写真の位置は変わらない。

 食卓には、煮魚、里芋の煮物、ほうれん草のおひたし、味噌汁が並んでいた。

「作りすぎました?」

「明日も食べるから」

 二人で席へ着く。

     *

「俊介さんは?」

 母が尋ねる。

「今日は仕事です」

「忙しいの?」

「今、現場で問題があって」

「会えてる?」

「週に一度くらい」

「寂しくない?」

 以前なら、母に恋愛のことを聞かれると避けた。今は考え、正直に答える。

「寂しい時もあります。でも、話しています」

「何を?」

「連絡の回数や、会う日」

「そこまで決めるの?」

「決めないと、互いに違うことを考えるので」

 母は煮魚を箸で分ける。

「今の人は、そういうことを話すのね」

「お母さんとお父さんは、話さなかった?」

 母の手が止まる。

「今日、聞くと言ってたわね」

「嫌なら、無理にとは」

「嫌ではない」

 母は箸を置いた。

「ただ、どこから話そうかと思って」

「最初から?」

「長くなるわよ」

「聞きます」

「食べながらでいい?」

「はい」

     *

 母は少し遠くを見るような目をした。

「お父さんと知り合ったのは、私が二十四の時」

「会社?」

「取引先。最初は、話の少ない人だと思った」

「お父さんらしい」

「でも手紙は長かったの」

「手紙?」

「電話が苦手だったから」

 母は笑った。

「週に一度、封筒が届いた。仕事のこと。読んだ本。駅で見た人。どうでもいい話ばかり」

「残っています?」

「一部は」

「見せてもらえます?」

「いつかね」

 母は味噌汁を飲んだ。

「結婚する時、私は仕事を辞めた。当時は、それが普通だと思っていた」

「辞めたかった?」

「半分は」

「半分?」

「仕事は好きだった。でも、結婚したら家のことをする。子どもができたら育てる。そういうものだと思っていた」

「お父さんは、辞めてほしいと言った?」

「はっきりは言わなかった」

「では、どうして?」

「お父さんのお母さんに、結婚後も働くのかと聞かれたの」

 祖母。真尋が幼い頃に亡くなった人。

「何と?」

「考えています、と言った。そうしたら、お父さんは黙っていた」

「止めなかった?」

「うん」

「それで辞めた?」

「自分で決めたつもりだった」

 母の声が遠くなる。

「でも後になって、あの時、お父さんに働いてもいいと言ってほしかったんだと気づいた」

「言わなかった?」

「言わなかった」

「なぜ?」

「自分で辞めたのに、相手のせいにするようで嫌だった」

 真尋は俊介との会話を思い出した。

 自分で合わせ、自分で苦しくなり、相手へ気づいてほしいと思う。

     *

「お父さんは、知っていたと思います?」

「後には」

「話した?」

「真尋が小学生の時に、一度」

「何と?」

「働きたかったこともあった、と」

「お父さんは?」

「今から働けばいいと言った」

「それだけ?」

「それだけ」

 母は笑った。

「私は、辞めてほしくなかったと言ってほしかった。でも、お父さんは過去を変えられないから、今できることを言った」

「それで働き始めた?」

「パートを」

「楽しかった?」

「楽しかった。怖かったけど」

 真尋は母が働いていた頃を覚えている。近所の小さな店。夕方、母の帰りを待った日。真尋は寂しいと思ったこともある。

「私、嫌がりませんでした?」

「最初は。でも、あなたが寂しいから辞めようと思った時、お父さんが止めた」

「そうなんですか」

「真尋は慣れる。お前が働きたいなら続けろ、と」

 父が母を支えた時間もあった。

「お父さんは、優しかった?」

 真尋が尋ねると、母はすぐには答えなかった。

「優しかった」

「幸せでした?」

「幸せだった」

「孤独でも?」

「うん」

 母は迷わず頷いた。

「結婚していても、一人だと思う日はあった。お父さんが隣にいても、話せないこともあった」

「何を?」

「お金の不安。老後。真尋の進路。私の母の介護」

「お父さんは聞かなかった?」

「聞けば答えた。でも、私が話す前に気づいてほしかった」

「はい」

「お父さんも、仕事の悩みをほとんど話さなかった」

「お互いに?」

「心配させたくなかったのよ」

「それで距離ができた?」

「時々」

     *

 母は煮物を箸で小さく切った。

「でも、離婚したいと思ったことはない」

「一度も?」

「一度くらいはあったかもしれない」

 真尋は驚く。

「いつ?」

「あなたが中学生の頃」

「何があったんですか」

「お父さんが転勤を断らずに決めてきた」

「私たちも引っ越す話?」

「そう。相談されなかった」

「結局、単身赴任でしたね」

「私が怒ったから」

 母の怒る姿を、真尋はほとんど記憶していない。

「どのくらい怒ったんですか」

「三日、口を利かなかった」

「それだけ?」

「私には長いの」

 真尋は笑った。

「お父さんは?」

「家族のために受けたと言った」

「お母さんは?」

「家族のことなら、家族に聞いてと言った」

 俊介との関係に、そのまま重なる。

 大切に思っていても、一人で決めれば相手を置いていく。

「その後は?」

「お父さんが、単身赴任にすると会社へ言った」

「お母さんの希望で?」

「真尋の学校もあったし、私の仕事もあったから」

「離れて暮らして、どうでした?」

「最初は楽だった」

 母が笑う。

「一人の時間が増えた。夕食も簡単。お父さんの帰りを待たなくていい」

「寂しくなかった?」

「後から」

「いつ?」

「お父さんが帰ってきても、話すことがなくなった時」

 真尋は箸を止めた。

「電話は?」

「必要なことだけ」

「会う回数は?」

「月に二度くらい」

「それでも夫婦だった?」

「夫婦という名前はあった」

 母は静かに言った。

「でも、名前だけになりかけた時期はあった」

     *

「どうしたんですか」

「私から赴任先へ行った」

「一人で?」

「真尋は高校生だったから」

「覚えていません」

「言わなかった。友人の家へ泊まると言った」

「どうして隠したんですか」

「夫婦の話を、子どもに背負わせたくなかった」

 母は少し目を伏せる。

「赴任先の部屋は、ひどかった。洗濯物は山。食事はコンビニ。手紙を書いていた頃のお父さんとは別の人みたいだった」

「仕事が大変だった?」

「うん」

「話した?」

「夜中まで」

「何を?」

「私は、夫婦を続けたいのか。お父さんはどうなのか」

 真尋は、母がそのような会話をしたことを知らなかった。

「お父さんは何と?」

「続けたい。でも、どうしたらいいかわからない」

「今の俊介みたい」

「そうなの?」

「正直に、できないことも言います」

「お父さんも、器用ではなかったから」

「それから変わった?」

「毎週、水曜日に電話することにした」

 真尋は驚く。

「決めたんですか」

「決めないと、どちらも電話しなかったから」

「義務みたい」

「義務だったわよ」

 母は笑った。

「話すことがない日もあった。お天気の話だけで終わる日も」

「続けた?」

「お父さんが戻るまで」

「それで関係が戻った?」

「前と同じではなかった」

 母の言葉に、真尋は耳を傾ける。

「でも、別の夫婦になった」

「別の?」

「若い頃みたいに、何でも話したいとは思わなくなった。離れている時間も必要だとわかった」

「はい」

「帰ってきた後も、お父さんは一人で散歩へ行った。私は友人と旅行した」

「夫婦なのに?」

「夫婦だから、いつも一緒でなくていいでしょう」

 母が言う。真尋は、母が自分より先にその形を知っていたことへ驚く。

     *

「お母さんは、結婚を勧めたいですか」

「真尋に?」

「はい」

 母はしばらく考えた。

「結婚してもしなくてもいいと思ってる」

「以前は、結婚してほしそうでした」

「一人で老いるのが心配だったから」

「今は?」

「俊介さんと付き合わなくても、あなたには葵ちゃんや友人がいる。仕事もある。それでも、一緒にいたい人がいるなら、関係を作ればいい」

「結婚でなくても?」

「うん」

「お父さんと結婚したことを、後悔していませんか」

「していない」

 母は父の写真を見る。

「言えなかったこともある。寂しい時もあった。亡くなった後、もっと話せばよかったと思った。でも、一緒に暮らした時間をなくしたいとは思わない」

「はい」

「後悔があることと、間違いだったことは違うでしょう」

 真尋の胸に、その言葉が残った。

 俊介との関係も、いつか後悔することがあるかもしれない。傷つくかもしれない。終わるかもしれない。

 それでも、始めたことが間違いだったとは限らない。

     *

「真尋。俊介さんと、何かあった?」

 母が尋ねる。

「連絡がなくて、喧嘩しました。一度、別れることまで考えました」

「付き合ったばかりなのに?」

「はい」

「怖くなった?」

「また、以前と同じになると思って」

「俊介さんは何と?」

「忙しい時でも短く連絡する。できなければ翌日話す、と」

「今は?」

「続けています」

「真尋は?」

「すぐに過去と同じだと決めないようにする」

「できてる?」

「練習中です」

 母は頷いた。

「約束は、守れない日もあるわよ。でも、破った後にどうするかは選べる」

「はい」

「お父さんも、水曜日の電話を忘れたことがある」

「お母さんは?」

「怒った」

「何と?」

「電話を忘れたことより、忘れても大丈夫だと思ったことが悲しいって」

「お父さんは?」

「次の日から、手帳に書いた」

 真尋は笑った。

「俊介も、手帳へ書いているかもしれません」

「聞いてみたら」

「はい」

     *

 食事を終え、母は秋田の土産を開いた。

 桜の木で作られた小さな茶さじ。菓子。紅葉の写真。

「これ、葵ちゃん?」

 母が二人の影の写真を見る。

「はい」

「顔が写ってないのね」

「同じ写真を、それぞれ持っています」

「いい写真」

「今度、また秋田へ行きます」

「俊介さんと?」

「葵と二人で」

 母が真尋を見る。

「俊介さんは、嫌がらない?」

「寂しいと言っています」

「それでも行く?」

「はい。俊介も、行ってきてと言ってくれました」

 母は写真を見ながら、笑う。

「お父さんなら、行けばいいと言ったでしょうね」

「寂しくても?」

「寂しいとは言わなかった」

「それは少し困ります」

「そうね」

「俊介は言います」

「なら、よかった」

「葵との関係を、友情という言葉だけでは足りないと感じています」

「恋愛ではないのよね」

「はい」

「家族でもない。名前が必要?」

「葵は、少し欲しいようです」

 母は写真をテーブルへ置いた。

「名前があると安心するのかもしれないわね。でも、名前があっても、関係が同じとは限らない。夫婦でも、それぞれ違う。友人でも違う。二人で意味を決めればいいんじゃない」

「秋田で、話す予定です」

「いい旅になるといいわね。俊介さんとも、旅行しなさい」

「予定を考えます」

「どこへ?」

「まだ」

「建物ばかり見ない場所がいいわね」

「本人も同じことを言われています」

 二人は顔を見合わせた。

     *

 母の家を出たのは、午後八時を過ぎた頃だった。

 駅へ向かう途中、俊介からメッセージが届いた。

『予定通り仕事が終わりました。今、帰ります』

『お疲れさまでした。食事は?』

 送った後、以前話したことを思い出す。

 食事を取ることは、俊介の責任。何度も心配しすぎない。

 俊介から写真が届いた。コンビニで買ったおにぎりとスープ。

『今から食べます』

『はい』

『真尋は、お母様と話せましたか』

『はい。父との結婚について聞きました』

『電話できますか』

 真尋は時計を見る。今から電車へ乗る。

『帰宅してからなら』

『待っています』

 真尋は少し嬉しくなる。

 話したい。俊介に聞いてほしい。母と父の夫婦関係。決めていた電話。別々の時間。後悔があることと、間違いだったことの違い。

     *

 葵は仕事を終えた後、母と美月へ改めて企画の本採用を報告した。

 母は電話の向こうで、直哉との別れを聞いた時よりも大きな声を出した。

『二十店舗?』

「うん」

『すごいじゃない』

「三か月だけ。まだ売れるかわからない」

『売れるかどうかの前に、店に並ぶんでしょう。葵が考えた言葉が』

「うん」

 母の声が震える。

『おめでとう』

「ありがとう」

『お父さんにも話す』

「来月、自分で言う」

『そうね』

「お母さん。今日、直哉に言いたいと思った」

 母が黙る。

『うん』

「でも、送らなかった。本当は、今でも送りたい。最後に商品また買うって言ってたから。本採用になったって聞いたら、喜ぶと思う」

『そうね』

「でも、送ったら返事を待つ。だから送らない」

『つらいね』

「うん」

 母は、送ればいいとも、送るなとも言わなかった。

『お母さんが喜ぶから。お父さんも、美月さんも、真尋さんも。喜んでくれる人がいる』

「うん」

『直哉くんに喜んでほしかった気持ちも、なくさなくていい』

 葵の目に涙が浮かぶ。

「うん」

 電話を切った後、美月から祝福のメッセージが続けて届いた。会社の仲間。石橋。デザイナー。

 誰か一人に認められなくても、喜びはなくならない。

 それでも、直哉に伝えたかった。その気持ちも、本物だった。

     *

 夜九時半。真尋は自宅へ戻り、俊介へ電話をかけた。

『お帰りなさい』

「ただいま」

『お母様は元気でしたか』

「はい」

『俊介さんのことは?』

「話しました」

『何と?』

「穏やかな人で、話を聞いてくれると」

『それだけ?』

「建物の話になると夢中になる。私の前で、不安も話してくれる」

 俊介が黙る。

『嬉しいです』

「会いたいと言っていました」

『本当に?』

「いつか」

『緊張します』

「葵の時も言いました」

『お母様は、さらに』

「試験ではありません」

『わかっています』

     *

 真尋はソファへ座る。壁の写真へ視線を向ける。

「俊介。母と父は、単身赴任中、毎週水曜日に電話することを決めていたそうです」

『はい』

「話すことがない日も」

『僕たちの連絡と似ていますね。お母様は、その形をどう思っていたんですか』

「義務だった。でも必要だったと。義務だから、気持ちがないわけではないと」

 俊介が以前言った言葉と重なる。

『僕も、同じように思います。毎日連絡することを、自然にできる日もあります。疲れている日は、約束だから送る。でも、約束を守ろうと思うのは、関係を続けたいからです』

「はい。俊介、手帳へ書いています?」

『何を?』

「私へ連絡すること」

 電話の向こうで、少し間があった。

『書いています』

 真尋は思わず笑った。

「本当に?」

『夕方六時に、真尋へ連絡と』

「毎日?」

『現場の予定へ入れています』

「仕事みたい」

『忘れないためです』

「気持ちがないように見えません?」

『見えますか』

 俊介の声に、少し不安が混ざる。

「いいえ。母の話を聞いたので、余計に嬉しいです」

『お父様も?』

「水曜日の電話を忘れた後、手帳へ書いたそうです」

『似ていますね』

「俊介が父に?」

『少し怖いです』

 二人は笑った。

     *

「母は、父との結婚に後悔はあると言いました。でも、間違いだったとは思わないと」

『はい』

「私は、後悔することが怖くて、関係を始めないようにしていました。今も、俊介と付き合ったことを後悔する日が来るかもしれません」

『はい』

「俊介も?」

『あると思います』

「何を?」

『真尋と付き合わなければ、仕事だけに集中できたと思う日』

 真尋の胸が痛む。

『でも、そう思う日があることと、別れたいことは同じではありません。真尋も、一人のほうが楽だったと思う日があるでしょう』

「あります」

『もう?』

「少し」

 俊介が電話の向こうで苦笑する。

「でも、今日も続けたいです」

『僕も』

     *

「母の話を聞いて、結婚について少し考えました」

 俊介が黙る。

『どのように?』

「結婚するという結論ではありません」

『はい』

「結婚したら自由がなくなる、失敗したらすべてが間違いになると思っていました。でも、母は結婚しながら、自分の時間を作り直した。父と離れて暮らす時期もあった」

『はい』

「結婚という名前があっても、関係を作り続けなければ名前だけになる」

『そうですね』

「逆に、結婚という名前がなくても、関係は作れる。今は、それだけです」

 俊介は急がずに聞いている。

『話してくれてありがとうございます』

「期待しました?」

『少し』

「結婚を?」

『真尋が、完全に拒んでいるわけではなくなったことに。僕も、今すぐ結婚したいわけではありません。でも、いつか望む可能性はあります』

「覚えています」

『その時に、また話します』

「はい」

『真尋。今度、お母様に会う時に、僕も一緒に行けますか』

 真尋は驚く。

「早くないですか」

『早いですか』

「少し」

『では、待ちます』

「でも」

『はい』

「私も、いつか会ってほしいです。母の予定も聞きます」

『ありがとうございます』

「緊張します?」

『かなり』

「葵と母、次は香織も」

『大切な人が多いですね』

「俊介にもいるでしょう。私も、俊介の大切な人へ会う日が来る」

『母は、かなり話します』

「怖いです」

『僕もです』

 二人は笑った。

     *

 翌日、葵は本採用に向けた準備を始めた。

 店舗数が増える。パッケージの印刷数。売り場への説明資料。店員向けの短い案内。購入者アンケート。

 商品が正式に並ぶまで、やることは多い。

 石橋が役割を分ける。

「小野寺さんは、言葉と売り場説明。デザイン確認は、担当者と直接」

「はい」

「営業への説明、できる?」

「やります」

「私も出る」

「一人でもできます」

 葵が言うと、石橋は眉を上げた。

「一人でやれと言ってない。任せることと、放っておくことは違う」

 俊介と真尋の話にも似ている。

 相手を信頼して任せる。必要な時には支える。

「では、一緒にお願いします」

「うん」

 葵は資料へ向かった。忙しい。それが嬉しかった。

 悲しみを忘れるためではない。自分が選んだ仕事を進めるため。

     *

 昼休み、美月と食事をする。

「忙しそう」

「本採用の準備」

「楽しい?」

「大変。でも楽しい」

「直哉さん、思い出す?」

「何度も」

「連絡した?」

「してない」

「偉い?」

「偉いって言わないで」

「ごめん」

「連絡しないことが、正しいからじゃない。今の自分に必要だから」

「うん」

 葵は箸を置いた。

「美月。直哉に言わないまま、商品が広がっていくのが少し寂しい。前は、私の仕事の話をちゃんと聞いてくれなかったって怒ってた。でも今は、聞いてほしい。勝手だよね」

「感情は、いつも同じじゃないでしょう。伝えないと決めても、伝えたい気持ちは残るよ。その気持ちを消そうとしなくていい」

 美月の言葉に、葵は安心した。

     *

 数日後、葵は初めて首都圏の店舗責任者へ向けて、商品の説明をした。

 オンライン会議。画面には二十店舗の担当者の名前が並ぶ。

 人前で話すことに、まだ緊張する。石橋は隣の席にいる。困れば補足する。

 葵は資料を開く。

「今回の商品は、午後から夕方にかけて、自分のために購入する方を主な対象としています」

 試験販売の結果。売り場の位置。言葉の意図。

「頑張るための商品ではなく、一日を過ごした自分へ小さな区切りを渡す商品としてご案内ください」

 一人の担当者が質問する。

『お客様へ積極的に声をかけたほうがいいですか』

「強く勧めるより、言葉が見えるように置いてください」

『説明しない?』

「はい。自分で見つけたと感じてもらうことを大切にしたいです」

『男性のお客様にも?』

「もちろんです。性別は限定していません」

『若い人向けでは?』

「年代ではなく、その時の気持ちへ向けています」

 質問へ答える。

 以前なら、正解を言わなければと緊張した。今は、自分が何を作りたいかを伝えられる。

 会議を終えると、石橋が言った。

「よかった」

「どこが?」

「自分の言葉で話してた」

「資料通りです」

「質問には資料がなかったでしょう。次は、一人でもできるね」

 葵は考える。

「一人でもできます。でも、石橋さんがいると安心します。次も来てください」

「予定が合えば」

「お願いします」

 頼ることが、以前ほど怖くない。

     *

 真尋と俊介は、忙しい期間の中で短い時間を積み重ねた。

 平日の夜、十五分だけ電話する。話すことがない日は、その日の食事や天気だけ。

 俊介が連絡を忘れた日も一度あった。午後十一時を過ぎても何も届かず、真尋の不安は大きくなった。

 以前なら、終わりまで想像しただろう。今回は、

『今日は連絡できませんか。無事かだけ教えてください』

 と送った。

 三十分後、俊介から電話が来た。

『すみません。現場から戻り、机で眠っていました』

「怪我は?」

『ありません』

「無事なら、よかったです」

『怒っていますか』

「少し。でも、眠っていたなら仕方ないとも思います。明日、また話しましょう」

『わかりました』

 翌日、俊介は自分から言った。

『手帳へ書いていても、寝てしまえば見られませんでした。夕方ではなく、昼に一度送るようにします』

「毎日?」

『夜が遅くなりそうな日だけ』

「わかりました」

 失敗が起きた。それでも、二人はすぐに関係全体を否定しなかった。次にできることを考えた。

     *

 忙しい時期が始まって三週間目の日曜日。俊介は午後三時の約束に遅れた。

 正午までに連絡すると決めていたが、届いたのは午後一時半だった。

『現場を出られません。今日は会えないと思います』

 真尋はメッセージを見て、胸が重くなった。

 正午までに連絡する約束。守られなかった。

 真尋はすでに外出の準備を済ませていた。午後三時のために、午前中の予定を調整した。

 腹が立つ。寂しい。また後回しにされたと感じる。

 真尋はすぐに返信せず、コートを脱いだ。

 今日の時間をどうするか。俊介が来られないなら、自分の予定へ変える。

 香織へ連絡しようか。美術館へ一人で行くか。母の家へ寄るか。

 怒ったまま俊介へ長い文章を送れば、現場で読むことになる。今は事実だけ伝える。

『わかりました。正午までに連絡する約束だったので、残念です。今日は一人で出かけます。仕事が終わったら連絡してください』

 送信する。俊介からすぐに、

『すみません』

 と届く。真尋は返さなかった。

     *

 自分のために外へ出る。行き先を考える。

 以前から見たかった写真展。俊介と行こうと思い、取っておいた。今日は一人で行くことにした。

 一人で見てもいい。俊介と共有したければ、後で話せばいい。

 写真展では、旅先の窓を撮った作品が並んでいた。

 古い家。ホテル。列車。病室。閉じた窓。開いた窓。

 外の景色より、内側から見た光が印象に残る。

 真尋は一枚ずつ見た。

 俊介が隣にいれば、窓枠の構造や建物の年代を話したかもしれない。その声がないことを寂しく思う。

 同時に、今日は自分の見方だけで作品を見られる。

 どちらがよいということではない。一人の時間と、誰かといる時間。両方に異なるものがある。

 展示室の最後に、小さな文章が掲示されていた。

 窓は、外を見るためだけではなく、内側にいる自分の位置を知るためにある。

 真尋はその言葉の前で立ち止まった。

 俊介との関係を見ながら、自分の位置を知る。

 会いたい。約束を守ってほしい。後回しにされたくない。同時に、自分の時間を相手の予定だけに預けたくない。

 今日は、一人でここへ来られた。そのことに、安心した。

     *

 午後七時過ぎ、俊介から電話がかかってきた。真尋は帰宅した後だった。

「もしもし」

『今、仕事が終わりました。今日は、本当にすみません』

「はい」

『正午までに連絡する約束を忘れていました。現場で問題が起きたからではなく、僕が時間を確認しなかった。真尋が待っていることを、後回しにしました』

 俊介は言い訳をしない。真尋の怒りは残っている。

「私は、午後三時に会えるよう予定を空けました。服も選び、準備しました。連絡が来るまで、会えると思っていました」

『はい』

「一時半に無理だと言われて、かなり腹が立ちました。仕事だから仕方ないとも思いました。でも、仕事なら約束を忘れていいとは思いません」

『僕もです』

「次はどうしますか」

 真尋が尋ねる。俊介は黙る。

『現場がある日の約束を、午後三時にしない。午前中の状況が読めないので、夜にするか、別の日にする。休日出勤の可能性がある日は、真尋に予定を空けてもらわない。当日会えることがわかった時に、真尋の予定が空いていれば誘う』

「私が断ることもあります」

『はい』

「それで、会えない週があっても?」

『寂しいですが、仕方ありません』

     *

 真尋は考える。

「私は、今日写真展へ行きました」

『一人で?』

「はい」

『本当は、僕と行く予定だったところですか』

「そうです」

 電話の向こうが静かになる。

『待っていてほしかったと、少し思いました』

 俊介は正直に言う。

「はい」

『でも、真尋の時間なので。どうでした?』

「よかったです」

『一緒に行きたかったです』

「私も」

『もう一度行きますか』

「同じ展示へ?」

『はい』

「考えます」

 真尋は、すぐに約束しなかった。

 一人で見た時間を、俊介と上書きする必要はない。だが別の見方を知りたい気持ちもある。

「今日は、まだ怒っています。でも、話せてよかったです」

『僕もです』

「次に会える日は?」

『来週の土曜日は、仕事を入れません』

「本当に?」

『上司へ相談しました。休みを取ります』

「私のために?」

『僕のためでもあります。会いたいです』

「私も」

『今度は、朝から』

「どこへ?」

『真尋が行きたい場所』

「では、私が決めます」

『はい』

     *

 電話を切った後、真尋は葵へ写真展の一枚を送った。

 作品そのものではなく、会場の出口にあった窓。外は夕暮れ。

『今日は一人で写真展へ行きました』

 葵からすぐに返信が来る。

『俊介さんは?』

『仕事で来られませんでした』

『喧嘩?』

『少し』

『大丈夫?』

『話しました』

『一人で行けてよかった?』

『はい。寂しかったですが』

『両方』

『はい』

 葵から、別の写真が届く。店頭に並ぶ商品。二十店舗へ向けた本採用用のパッケージ。

『今日、最初の追加分が届きました』

『きれいですね』

『直哉に見せたい』

『はい』

『でも送ってない。いつか、偶然見てくれるかもしれない。それでいい』

『はい』

 真尋は画面を見ながら、少し微笑んだ。

     *

 葵の商品が二十店舗へ並んだ最初の日、葵は仕事帰りに一店舗を訪れた。

 売り場の端。控えめな照明。淡い色のパッケージ。

『今日も、ここまで来たあなたへ』

 以前より多くの商品が並んでいる。

 葵は離れた場所から見守った。学生。会社員。買い物帰りの高齢の女性。多くの人は、その前を通り過ぎる。

 一人の男性が立ち止まり、言葉を読む。商品を手に取る。

 直哉ではない。当然だ。それでも少し胸が痛む。

 男性は商品をかごへ入れ、別の棚へ向かった。葵はその背中を見送る。

 誰が買ってもいい。自分の知らない人へ届くための商品だ。直哉だけに届く言葉ではない。

 葵は一つ手に取り、自分でも購入した。

 店を出る。外は夕方。仕事を終えた人々が駅へ向かう。葵も、その中へ入る。

     *

 自宅へ着くと、母から小さな荷物が届いていた。

 中には、手編みの小さな鍋敷き。菓子。短い手紙。

『商品採用、おめでとう。頑張れと言わない商品を作った葵へ、頑張ったねとは言わないほうがいいのか迷いました。でも、母として言わせてください。よくここまで来ました。帰ってきたい日は、いつでも帰っておいで。帰らなくても、あなたの場所はあります』

 葵は手紙を読み、涙を流した。

 帰ってこなくても、場所はある。必要とされ続けるために、そこにいなくてもいい。

 母との関係も。真尋との関係も。場所は、毎日確認しなくてもなくならない。

 葵は鍋敷きをテーブルへ置いた。秋田の地酒を飲んだ夜、真尋と囲んだ鍋を思い出す。

 次に真尋が来た時、これを使おう。

     *

 週末、葵は実家へ帰った。父へ、直哉と別れたことを初めて話した。

 父はしばらく黙り、湯のみを見ていた。

「そうか」

 それだけ。葵は、何か言ってほしいと思った。

「それだけ?」

「何を言えばいいかわからない」

 父は正直だった。

「結婚すると思ってた?」

「思ってた」

「残念?」

「葵が?」

「お父さんが」

「少し」

 葵の胸が痛む。

「でも、葵が決めたんだろう」

「うん」

「なら、仕方ない」

「仕方ないって」

「悪い意味じゃない」

 父は言葉を探した。

「戻りたいなら戻ればいい。戻らないなら、それでいい」

「どっちでも?」

「葵の人生だから」

「もっと心配しない?」

「してる」

「見えない」

「見せるのが苦手なんだ」

 母が横から言う。

「この人、昨日から何度も冷蔵庫を開けて、何を作れば葵が食べるか聞いてたのよ」

「言うな」

 父が少し顔をしかめる。葵は笑いながら泣いた。

     *

「お父さん。私、直哉を好きだった。今も少し好き。でも、戻らなかった。間違いだったと思う?」

 父はすぐには答えなかった。

「間違いかどうかは、今わからないだろう。でも、葵が考えて決めたなら、今はそれでいい」

「後悔したら?」

「後悔すればいい」

 父の言葉は簡単だった。

「後悔しても、生きていける」

 葵は父を見る。

「お父さんも、後悔ある?」

「ある」

「何?」

「お母さんに聞け」

「どうして私に振るの」

 母が笑う。父は考え、言った。

「葵が小さい時、仕事ばかりしていた。もっと一緒にいればよかった。でも、仕事を辞めればよかったとは思わない」

「両方?」

「そういうものだろう」

 葵は真尋の言葉を思い出す。

 幸福と悲しみ。愛情と怒り。後悔と肯定。どちらも同時にある。

「お父さん。商品、二十店舗に並ぶの」

「聞いた」

「見に来る?」

「近くにあるのか」

「一店舗ある」

「行く」

 父は迷わず言った。

「買う?」

「買う」

「味、好みじゃないかも」

「葵が作ったんだろう」

「全部ではない」

「言葉は?」

「うん」

「なら、買う」

 葵はまた泣いた。

     *

 実家から戻った夜、葵は真尋へ電話をした。

「お父さんに話した」

『何と?』

「後悔しても生きていけるって。間違いかは今わからないって」

『はい』

「少し楽になった。商品も買うって。お母さんから手紙も届いた」

『何と?』

「帰らなくても、私の場所はあるって」

 電話の向こうが静かになる。

『素敵な言葉ですね』

「真尋にも、私の場所ある?」

『あります』

「俊介さんがいても? 仕事が忙しくても? 毎日連絡しなくても?」

『はい』

「私が別の人を一番にする日が来ても?」

 真尋は間を置いた。

『寂しいですが、あります』

 葵は笑った。

「俊介さんみたい」

『何が?』

「寂しいって言うところ」

『影響されています』

「いい影響?」

『はい』

     *

「真尋。秋田、いつにする?」

『もう決めますか』

「商品が三か月終わった後」

『秋ですね』

「出会った時と同じ頃」

『仕事の予定を確認します』

「俊介さんにも?」

『相談します』

「許可じゃなく?」

『はい』

「私も、美月と両親に話す。直哉には言わない。でも、秋田で思い出すと思う。それでも行く」

『はい』

 二人は、秋の予定を少しずつ考え始めた。

 まだ半年以上先。仕事がどうなるか。俊介との関係。葵の気持ち。何も確定していない。

 それでも、旅の日を未来へ置くことで、今の生活に一つの方向ができる。

     *

 その夜、真尋は俊介へ秋田の話をした。

『日程を考え始めました。秋頃。葵の商品企画が一段落した後』

「はい」

『寂しいですか』

「寂しいです。でも、楽しんできてほしいです」

『ありがとうございます』

「どのくらい?」

『二泊か三泊』

「長いですね」

『まだ決めていません』

「僕との旅行は?」

 俊介が尋ねる。

『行きたいです』

「いつ?」

『秋田の前か後』

「場所は?」

『俊介が行きたいところも聞きます』

「本当ですか」

『はい』

「僕は、瀬戸内へ行きたいです」

『島と建物?』

「はい」

『やはり建物』

「海もあります」

『では、考えましょう』

 俊介の声が明るくなる。

「真尋。葵さんとの旅で、僕のことを考えない時間があってもいいです」

 真尋は驚く。

『本当に?』

「はい」

『寂しくない?』

「寂しいです。でも、僕のための旅ではないので」

『帰ったら話します』

「話したいことだけ」

『はい』

「写真も」

『見せたいものを』

「はい」

 俊介は、すべてを求めなかった。真尋も、すべてを渡す約束をしなかった。

 その距離が、以前より自然になっている。

     *

 葵の商品は、販売開始から一か月で当初の予測を少し上回った。

 大きな成功とは言えない。だが再購入率が高く、夕方の時間帯に売上が伸びている。

 購入者の自由回答には、新しい言葉が増えた。

「母の介護を終えて帰る日に買っています」

「残業の後、自分へお疲れさまと言う代わりに」

「子どもと喧嘩した日に、二人分買いました」

「何もできなかった日に、ここまで来たと言われて泣きました」

 葵は回答を読み、一つずつ分類する。

 泣きました、という言葉に目が止まる。

 知らない誰かが、売り場で自分の言葉を見て泣いた。葵はその人を知らない。何があったのかも。

 それでも、少しだけ同じ場所へ触れられた気がする。

     *

 石橋が隣に来る。

「数字、悪くないね。次の展開、考える?」

「もう?」

「三か月で終えるか、定番化するか」

「まだ早いです」

「準備は早くていい」

 葵は資料へ目を向ける。

 定番商品。三か月を越えて、売り場へ残る。自分の言葉が、季節を越える。

「やりたいです」

 葵は言った。

「定番化?」

「はい。ただし、同じ言葉だけでなく、季節ごとに変える案も考えたいです」

「どんな言葉?」

「まだ」

「次は、誰に届けたい?」

 葵は考える。

 何かを始めた人。手放した人。戻らないと決めた人。まだ答えが出ていない人。

「選んだ後に、迷っている人」

 葵が言う。石橋が眉を上げる。

「難しいね。頑張れではなく?」

「選んだのに迷う自分を、責めなくていい言葉」

「たとえば?」

 葵はすぐには答えられなかった。それでも、心の中に小さな種がある。

『選んだあとも、迷っていい』

 まだ商品へ使える言葉かはわからない。重すぎるかもしれない。

 だが、今の葵には必要な言葉だった。

「考えます」

「うん」

 石橋が自分の席へ戻る。

     *

 葵は仕事帰り、店頭へ並ぶ商品を一つ買った。

 自宅へ帰る。青い線のカップへ紅茶を淹れる。商品を開ける。

 テーブルには、母から届いた鍋敷き。植物には新しい葉が増えている。

 直哉からの連絡は、あれから一度もない。葵もしていない。

 時々、街で似た背中を見かける。同じ香水の匂い。同じ車種。そのたびに胸が痛む。

 それでも、以前のようにその場から動けなくなることは減った。

 葵は商品を一口食べた。自分の言葉を見る。

『今日も、ここまで来たあなたへ』

「今日も、ここまで来た」

 一人で言う。

 直哉と別れてから一か月。戻らなかった日々。

 仕事をした。泣いた。笑った。両親へ話した。美月と食事をした。真尋と秋田の予定を考え始めた。

 直哉がいない生活は、まだ完全には自分のものになっていない。それでも、少しずつ形を持ち始めている。

     *

 真尋の部屋では、俊介が撮った写真の隣に、新しい一枚が増えていた。

 写真展の出口にあった窓。真尋が一人で撮った写真。外の夕暮れ。内側の暗い廊下。

 俊介はその写真を見て、寂しそうにした。

「僕が行けなかった日ですね」

「はい」

「飾るんですか」

「はい」

「嫌ではありません。でも、少し寂しいです」

「私も、見ると思い出します」

「僕が約束を守れなかったことを?」

「それも。一人でも行けたことを。次に、俊介とどこかへ行きたいと思ったことも」

 俊介が写真を見る。

「全部あるんですね。失敗だけではない」

「はい」

「では、飾ってください」

「もう飾っています」

 二人の間に短い笑いが起きた。

     *

 俊介は真尋の隣へ立つ。

 壁には、葵との影。俊介が撮った真尋。真尋が撮った俊介。一人で見た窓。

 過去と現在。一人と誰か。どれも、ほかを消さずに並んでいる。

「真尋。この壁、まだ空いていますね」

「はい」

「瀬戸内の写真を」

「撮れたら」

「秋田の写真も。葵さんとの」

「はい」

「僕の隣に?」

「はい」

 俊介は笑う。

「寂しいですが、楽しみです」

「どちらも?」

「はい」

 真尋は俊介の手を取った。

     *

 秋田へ戻る日まで、まだ時間がある。

 葵は直哉を忘れない。真尋も、俊介との関係を完成したものとは思わない。

 仕事も、人間関係も、毎日少しずつ変わる。選んだ答えを、何度も疑う日がある。

 戻りたくなる日。一人が楽だと思う日。誰かに必要とされたい日。何も話したくない日。

 そのたびに、自分の気持ちを確かめる。正解だったと証明するのではなく、今日の自分に合うよう選び直す。

 葵は直哉へ戻らないと決めた。その答えを守るためだけに生きるのではない。戻らなかった先で、自分の生活を作る。

 真尋は俊介と続けると決めた。その関係を失敗させないためだけに自分を抑えるのではない。傷ついた時には怒り、会いたい時には会いたいと言う。

 二人の選択は違う。それでも、どちらも自分を置き去りにしないための答えだった。

     *

 葵は窓辺の植物へ水をやる。真尋は壁の写真を整える。俊介は翌日の予定を手帳へ書く。直哉も、どこかで自分の生活を始めている。

 同じ時間の中で、それぞれが違う場所にいる。

 見えなくても、過ごした時間は消えない。戻らなくても、大切だったことは変わらない。続いていても、失う可能性がなくなるわけではない。

 だからこそ、今日の言葉を渡す。今日の食事を取る。今日の仕事をする。今日会いたい人へ連絡する。

 大きな答えの後にも、生活は小さな選択で続いていく。

     *

 葵は空になった菓子の袋を畳み、ごみ箱へ入れた。青い線のカップを洗う。植物の葉を一枚、柔らかな布で拭く。明日のために米を研ぐ。目覚ましを設定する。

 ベッドへ入る前、真尋へ短いメッセージを送った。

『今日も、ここまで来ました』

 少しして返事が届く。

『私もです』

 それだけ。葵は画面を閉じた。

 毎日すべてを説明しなくても、同じ言葉を持っている。

 秋田で再び並んで歩く日まで。そして、その先も。

 それぞれの生活を進みながら、帰ってこられる場所を失わない。

 葵は照明を消した。

 暗い部屋の中で、明日のために研いだ米が静かに水を吸っていた。


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