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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第十九章 ひとりで決めない選択

 真尋が部長から呼ばれたのは、火曜日の午後だった。

 午前中から続いていた会議が終わり、自席へ戻ってまだ十分も経っていない。佐伯が作成した資料へ目を通し、修正箇所を伝えようとした時、社内のメッセージが届いた。

『少し時間をもらえますか。会議室三へお願いします』

 送り主は部長だった。用件は書かれていない。

 真尋は時計を見た。午後三時四十分。予定表では、部長は四時半まで空いている。

 急ぎの案件だろうか。先週提出した来期予算。人員配置。佐伯が担当している新規案件。いくつか可能性が浮かぶ。

「課長」

 佐伯が呼ぶ。

「この支援体制の部分ですが」

「後で確認します」

「会議ですか」

「部長に呼ばれました」

「何でしょうね」

「わかりません」

 真尋は資料を閉じ、立ち上がった。

     *

 会議室三は、部署の奥にある小さな部屋だった。ドアをノックすると、部長の声が返る。

「失礼します」

 中には部長だけではなく、本部長もいた。真尋は一瞬、足を止めた。

 本部長とは月に一度の会議で顔を合わせるが、三人だけで話すことはほとんどない。

「座ってください」

 本部長が言う。真尋は二人の向かいへ座った。

 テーブルの上には、薄い資料が置かれている。表紙には、

『西日本営業企画統合プロジェクト』

 と書かれていた。

「水口さん。来年度、西日本地区の営業企画部門を再編する話は聞いていますか」

「概要だけは」

 大阪、広島、福岡に分かれている営業支援と商品企画の機能を、一部統合する。部署間の重複を減らし、地域ごとの販売データを商品開発へ早く反映させる。先月の全体会議で説明された内容だった。

「現在、責任者を選定しています。水口さんに、立ち上げ責任者をお願いしたいと考えています」

 真尋はすぐに言葉を返せなかった。

「私に、ですか」

「はい」

 本部長が資料を真尋の前へ滑らせる。

「正式な役職は、部長代理を予定しています」

     *

 部長代理。現在の課長より一つ上。

 以前なら、その言葉を聞いた瞬間に受けると答えていたかもしれない。

 昇進。新しい責任。会社から評価された証拠。自分の力で積み上げてきたものが形になる。

 胸の中に、確かな喜びが生まれる。

 同時に、資料の一文へ目が止まった。

『立ち上げ期間中、大阪支社を主な勤務拠点とする。想定期間八か月から一年』

「大阪勤務ですか」

 真尋が尋ねる。

「完全な異動ではありません」

 部長が答える。

「立ち上げ期間中の長期出張扱いです。月に数回は東京へ戻れます」

「期間は」

「最短八か月。状況によっては一年を超える可能性もあります」

「開始時期は?」

「三か月後」

 思ったより近い。

 秋田へ行く予定を考えている頃。俊介との瀬戸内旅行も、まだ日程を決めていない。

 真尋は自分の思考が、仕事以外へ向かっていることに気づいた。

 以前なら、勤務地や生活の変化だけを確認しただろう。今は俊介の顔が浮かぶ。葵。母。自分の部屋。壁の写真。

「仕事内容を、詳しく聞いてもよろしいですか」

 真尋は言った。

     *

 本部長が資料を開く。

 大阪支社を中心に、三地区の業務を整理する。既存の社員だけでなく、採用も行う。現場の営業担当と商品企画の間に、新しい情報共有の仕組みを作る。支社ごとに異なる評価方法を統一する。新商品の地域テストを早く行える体制を整える。

 予算。人員。経営会議への報告。現場の意見を聞きながら、新しい組織を作る。

 真尋がこれまで得意としてきた仕事と、最近学び始めたことの両方が求められる。

 一人で答えを出すだけではなく、人に任せ、異なる立場を調整する。

 魅力を感じた。難しい。だからこそ、やってみたい。

「なぜ私なのでしょうか」

 説明が終わった後、真尋は尋ねた。

 本部長が部長を見る。部長が笑った。

「以前の水口さんなら、数字と納期を守る責任者として推薦しました」

「以前の?」

「今は、それだけではありません。最近、部下への任せ方が変わりましたね」

 真尋は驚く。

「佐伯さんや吉田さんから聞きました。水口さんがすぐに答えを出さず、まず意見を聞くようになったと」

「まだ、十分ではありません」

「十分な人はいません」

 部長は続ける。

「再編は、正しい制度を作るだけでは進みません。これまでのやり方を否定されたと感じる人もいる。東京から来た人間へ反発する人もいるでしょう」

「はい」

「数字を見られ、同時に人の言葉も聞ける人が必要です」

 本部長が言う。

「水口さんならできると考えています」

 真尋の胸に、熱が広がった。

 仕事で評価される。それはやはり嬉しい。自分が変わろうとしたことまで見てもらえていた。

 ただ、今ここで答えることはできなかった。

     *

「返事は、いつまででしょうか」

 真尋が尋ねると、部長が驚く。

「今、決めないんですか」

「はい」

 以前の真尋を知っているからこその反応だった。

「来週の月曜日までで構いません」

 本部長が答える。

「条件面や住居については、資料へ記載しています。質問があれば、人事へ」

「ありがとうございます」

「水口さん」

 部長が呼ぶ。

「はい」

「迷っている理由は、仕事ですか」

 真尋は考える。

「仕事としては、やりたいと思っています」

「では、私生活?」

「はい」

 口にした自分に、驚く。

 これまで仕事の選択へ私生活を持ち込むことを、弱さのように感じていた。

「家族の事情ですか」

「家族だけではありません」

「そうですか」

 部長はそれ以上聞かなかった。

「自分の生活も含めて考えてください。ただし、誰かのためだけに断らないように」

 部長の言葉に、真尋は顔を上げる。

「水口さんは、以前なら仕事のために何でも切り捨てたでしょう。今度は反対に、人間関係を失わないために仕事を諦めるかもしれない」

 真尋は返事ができなかった。

「どちらも、水口さん自身の希望が抜けています。やりたいかどうかを、最初に考えてください」

「わかりました」

     *

 会議室を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じた。

 資料を胸へ抱える。大阪。八か月から一年。部長代理。立ち上げ責任者。

 やりたい。その答えは、すでにある。

 だが、行きたいと決めることは簡単ではない。

 自席へ戻ると、佐伯が顔を上げた。

「長かったですね。何かありました?」

 真尋は資料を机の引き出しへ入れた。

「まだ話せません」

「悪いこと?」

「違います」

「なら、いいこと?」

「たぶん」

 佐伯は吹き出した。

「課長が、たぶんって言うの珍しいですね」

「そうですか」

「いつも、良いか悪いか決めるから」

 真尋は自分の席へ座った。

 良い話。ただし、良いことだけではない。嬉しさと不安が一緒にある。

 以前なら、そのような状態を曖昧だと思い、どちらかへ決めようとした。今は、両方のまま持っていてもいい。

     *

 午後の仕事を終えた後も、真尋はすぐに会社を出なかった。

 部下が帰り始める。佐伯が最後の資料を持ってくる。

「確認をお願いします」

「はい」

 真尋は内容へ目を通した。数字の根拠。説明の順序。佐伯自身の意見。以前より、確認する箇所が減っている。

「このままで大丈夫です」

「本当に? 修正なし?」

「私なら順番を変える部分もあります」

「では」

「でも、佐伯さんの説明で通ります」

 佐伯は不安そうだ。

「私が説明するんですよね。課長は?」

「同席します」

「途中で助けてください」

「必要なら」

 真尋は佐伯を見る。

「私がいなくても、できるようになりたいですか」

「急に何ですか」

「答えてください」

 佐伯は考えた。

「なりたいです。でも、すぐに課長がいなくなるのは困ります」

 真尋の胸が動く。

「もし、しばらく別の場所で働くことになったら?」

「異動ですか」

「まだ決まっていません」

 佐伯の表情が変わる。

「どこへ?」

「今は話せません」

「長いんですか」

「可能性の話です」

「課長。行きたいんですか」

     *

 真尋はすぐに答えられなかった。それでも、部長に言われたことを思い出す。

 自分の希望。

「仕事としては、行きたいです」

 佐伯が寂しそうな顔をする。

「そうですか。なら、行ったほうがいいと思います」

「まだ何も説明していません」

「課長が仕事をやりたいって言うの、久しぶりに聞いたので」

「いつも仕事をしています」

「そうじゃなくて」

 佐伯は言葉を探す。

「責任だからではなく、やりたいって」

 真尋は黙った。

「行かないでほしい気持ちもあります。でも、私たちのために断られたら、少し嫌です」

「どうして?」

「私たちが、課長の邪魔をしたみたいになるから」

 部長と同じようなことを言う。

「まだ、返事は決めていません」

「誰かに相談します?」

「すると思います」

「珍しい」

「皆さん、今日はよく言いますね」

 佐伯の口元が緩んだ。

「以前なら、相談せず決めてました。でも、最後は課長が決めてください」

「わかっています」

「私の意見は、行ってほしい。でも戻ってきてほしい、です」

「両方? 勝手ですね」

「課長に教わりました。寂しくても理解できるって」

 真尋は笑った。

     *

 会社を出たのは午後八時前だった。俊介へ連絡する。

『仕事が終わりました。今日は少し話したいことがあります』

 すぐに既読がつく。

『今、現場を出ます。九時半頃なら電話できます』

 真尋は画面を見た。

 電話で話す。それでもいい。だが顔を見て話したい気持ちがある。

『今日は電話で大丈夫です』

 送ろうとして、止める。

 自分はどうしたいのか。俊介が忙しいから、電話で我慢しようとしているのか。本当に電話でよいのか。

 真尋は書き直した。

『できれば、顔を見て話したいです。明日の夜、会えますか』

 数分後。

『会えます。真尋の会社の近くへ行きます』

『仕事は?』

『八時には終えます』

『無理では?』

 送った後、また先回りしていることに気づく。俊介が会えると決めた。信じればいい。

『無理ではありません。僕も顔を見て聞きたいです』

『わかりました。明日、八時半に』

『はい』

     *

 真尋はその夜、葵へも連絡しようとした。画面を開く。

『仕事で相談したいことがあります』

 そこまで打ち、手を止めた。

 最初に俊介へ話すと決めたわけではない。葵へ話してもいい。

 だが、誰へ最初に相談するかを無意識に順位へ変えそうになる。俊介へ先に話せば恋人を優先したことになるのか。葵へ先に話せば、以前と同じなのか。

 重要なのは順番ではなく、誰と何を話したいか。

 俊介には、遠距離になる可能性を話したい。二人の関係がどうなるか。俊介がどう感じるか。

 葵には、自分が仕事を望む気持ちと、生活が変わる怖さを聞いてほしい。

 どちらも違う。

 真尋は葵へ送った。

『仕事で大きな話がありました。今週、会えますか』

 葵からすぐに返事が来る。

『いい話?』

『嬉しいですが、迷っています』

『金曜日なら』

『私も空いています』

『真尋の部屋?』

『はい』

『行く』

 次に母へもメッセージを送る。

『仕事のことで、今度相談したいです』

 母からは、

『いつでも電話して』

 と返ってきた。

 相談する人が一人ではない。それぞれへ、違う自分を見せる。

     *

 翌日の夜、俊介は約束の五分前に店へ来た。

 真尋の会社近くにある、小さな洋食店。夕食も兼ねて話すことにした。

 真尋は先に席へ着いていた。俊介が入ってくる。仕事用のジャケット。少し疲れた顔。それでも真尋を見つけると、柔らかく笑った。

「お待たせしました」

「私が早く来ました」

「話とは?」

「注文してから」

 俊介は緊張した様子で席へ座る。

「悪い話ですか」

「悪いとは思っていません」

「僕たちのこと?」

「関係します」

 俊介の顔が硬くなる。真尋は気づいた。俊介も、不安になる。

「別れたいという話ではありません」

 先に言う。俊介が息を吐いた。

「よかったです」

「まだ何も話していません」

「その可能性を考えました」

「どうして?」

「顔を見て話したいと言われたので」

 以前の真尋なら、相手に大切な話があると言われれば、最悪の答えを想像しただろう。

「不安にさせましたね」

「少し」

「でも、顔を見たかったです」

「僕も」

     *

 二人は料理を注文した。真尋は魚料理。俊介は煮込み料理。

 飲み物が運ばれた後、真尋は資料をバッグから出した。

「仕事で、昇進の話がありました」

 俊介の表情が変わる。

「おめでとうございます」

「まだ受けていません」

「どのような仕事ですか」

「西日本の営業企画部門を再編する、立ち上げ責任者です。部長代理」

「すごいですね」

 俊介は心から嬉しそうに言った。真尋の胸が温かくなる。

「やりたいですか」

 俊介が尋ねる。真尋は頷いた。

「仕事としては。ただ、大阪支社が主な勤務先になります」

 俊介の表情が止まる。

「期間は、八か月から一年」

「異動ですか」

「長期出張扱いです。月に数回、東京へ戻れる予定」

 俊介は資料へ視線を落とした。何も言わない。

「俊介」

「すみません。少し、考えています」

「何を?」

「寂しいです」

 俊介は正直に言った。

「まだ決まっていないのに」

「真尋がやりたいと聞いたので。行く可能性が高いと思いました」

「俊介は、行ってほしくないですか」

 真尋の声に、緊張が混じる。

 言ってほしくない。同時に、止めてほしい気持ちも少しある。自分と離れたくないと言ってほしい。

「行ってほしくないです」

 俊介は答えた。真尋の胸が強く鳴る。

「離れたくありません。今でも会える時間が少ないのに、さらに減る。真尋の部屋へ来られない。食事も、写真展も。秋田から帰ってきても、東京にいないかもしれない。だから、行ってほしくないと思います」

 俊介は目をそらさず話す。

 真尋はその言葉を聞き、嬉しさと苦しさを同時に感じる。

     *

「それでも」

 俊介が続ける。

「僕のために断ってほしくありません」

「なぜ?」

「後で、僕を理由にしたくなるかもしれないからです」

「私が?」

「はい」

「そんなことは」

 言いかけ、止まる。

 絶対ではない。仕事で何かあった時。俊介との関係が悪くなった時。あの時、大阪へ行っていればと思うかもしれない。

「僕も」

 俊介は続ける。

「真尋が断ったことで安心して、いつか甘えるかもしれません。仕事より僕を選んだのだから、と」

「俊介が?」

「言葉にしなくても」

 俊介は自分の弱さまで話す。

「だから、真尋がどうしたいかで決めてほしいです」

「私は、やりたいです。でも、俊介と離れたくない。葵との秋田もある。母も。自分の部屋も。全部を持ったまま大阪へ行くことはできません」

「物理的には」

「はい」

「でも、全部を捨てるわけでもありません」

 俊介が言う。真尋は黙る。

「月に数回は戻れるんですよね」

「予定では」

「僕も大阪へ行けます」

「仕事は?」

「週末なら」

「毎週は無理でしょう。交通費も」

「僕が払います」

「それでは」

「真尋」

 俊介が静かに呼ぶ。

「今、方法を話してもいいですか。全部できるとは言いません。でも、離れることが、関係を終わらせることではありません。電話やメッセージだけでは足りない日もある。会いに行きます」

 俊介の言葉に、真尋の目が熱くなる。

「私も戻ります。大阪で暮らす部屋は、仮の場所です。東京の部屋を残します」

「帰る場所として?」

「はい」

「僕の歯ブラシを置く前に、真尋が大阪へ行くかもしれませんね」

 俊介は思わず笑った。

「まだ置いていません」

「はい」

「寂しいですか」

「かなり」

「私もです」

 二人の間に沈黙が落ちる。

 料理が運ばれてきた。店員が皿を置く。会話は一度途切れる。

「食べましょう」

 真尋が言う。

 味を感じるまで、少し時間がかかった。

     *

 食事をしながら、二人は現実的なことを話した。

 東京へ戻る頻度。俊介の大阪出張の可能性。電話の時間。互いに仕事が忙しい時。会えない月。年末年始。秋田旅行。瀬戸内。

 すべてを予定通りにできるわけではない。

「秋田は、行ってください」

 俊介が言う。

「大阪勤務が始まった後でも? 東京へ戻る回数が減ります。そのうち一回を、葵との旅行に使うことになります」

 真尋は意地の悪い聞き方をしていると自分でもわかった。俊介がどこまで受け入れるのか、確かめようとしている。

「寂しいです」

 俊介は答える。

「でも、秋田へ行かないでほしいとは言いません」

「なぜ?」

「前から決めていたからだけではありません。真尋にとって必要な旅だと思うからです。ただ、帰ってきた後、僕とも会いたいです」

「会います」

「大阪へ戻る前に?」

「予定を作ります。俊介も、私へ合わせすぎないでください。仕事があります。家族や友人も。私が大阪へ行くことで、俊介の生活まで待つ形にしないで」

 俊介は考える。

「努力します」

「努力?」

「待ちたい気持ちはあります。真尋が戻る日を中心に予定を考えることもあると思います。でも、全部ではなく、僕の生活も続けます」

 真尋は頷いた。

     *

 料理を食べ終えた後、俊介が尋ねた。

「返事は、いつまでですか」

「月曜日」

「今日は水曜日。誰かほかにも相談しますか」

「葵と母に」

「部下には?」

「佐伯へ少し話しました。俊介は、私がいろいろな人へ相談するのを嫌ではありませんか」

「嫌ではありません」

「少し寂しい?」

「少し」

 俊介は笑う。

「でも、僕の意見だけで決めてほしいとは思いません。最後に、真尋が決めるなら」

「はい」

 俊介は真尋の手元を見る。

「手をつないでもいいですか」

「はい」

 テーブルの下で、二人は手をつないだ。

「真尋。昇進の話、本当におめでとうございます」

「まだです」

「選ばれたことに」

「ありがとうございます」

「僕は、真尋が評価されたことが嬉しいです。同時に、行ってほしくない。矛盾しています」

「私も、行きたい。離れたくない」

「同じですね」

「はい」

     *

 店を出た後、二人は駅まで歩いた。

 夜の街。仕事帰りの人。真尋と俊介も、その中にいる。手をつないでいる。

「真尋。大阪の部屋を探す時、僕も見てもいいですか」

「まだ受けると決めていません」

「受けたら」

「はい」

「仕事の目で見ます」

「評価しないでください」

「暮らしやすさを」

「私は会社が用意する部屋でもいいと思っています」

「それでは、日当たりが」

「俊介。もう設計しないでください」

 二人は笑った。

 少しだけ、未来を想像できた。

 俊介が大阪の部屋へ来る。小さな台所。東京とは違う窓。週末だけの食事。帰る日。寂しさ。次に会う約束。

 楽ではない。だが、不可能ではない。

 駅前で立ち止まる。

「今日は、一人で帰りますか」

 俊介が尋ねる。

「駅まで一緒に。改札で」

「はい」

 真尋は迷い、自分から俊介を抱きしめた。人通りの少ない場所。短く。俊介も腕を回す。

「行ってほしくないと言ってくれて、嬉しかったです」

 真尋が言う。

「はい」

「それでも、決めさせてくれて。ありがとうございます」

「僕は、まだ決めてほしくない気持ちもあります。でも、真尋がやりたい仕事をする人でいてほしいです」

「はい」

 二人は離れた。

「明日は連絡します。仕事が終わる頃に」

 俊介が言う。

「はい」

「真尋も、考えすぎて眠れなければ」

「連絡します」

「深夜でも?」

「まず寝る努力をします」

     *

 金曜日の夜、葵は真尋の部屋を訪れた。手には、自分が企画した商品が二つ入った紙袋。

「お土産」

「自分の商品を?」

「真尋にも食べてほしい」

「以前も食べました」

「本採用版。パッケージの紙が少し変わりました」

 葵は誇らしそうに説明する。真尋は受け取り、テーブルへ置いた。

「食事は?」

「食べる」

「今日は、簡単にパスタです」

「手伝う」

 二人はキッチンへ立った。葵がサラダを作り、真尋がパスタを茹でる。以前より自然に、役割が決まる。

「仕事の話って?」

 葵がレタスをちぎりながら尋ねる。

「食事の後に」

「今、少しだけ」

「長くなります」

「いい話?」

「部長代理への昇進を提案されました」

 葵の手が止まる。

「本当に? すごい」

「まだ受けていません」

「どうして?」

「大阪で、八か月から一年働くことになります」

 葵の表情から、喜びが一度消える。

「大阪? いつから?」

「三か月後」

「秋田は?」

 最初にそれを聞く。真尋の胸が痛み、同時に嬉しくなる。

「行くつもりです」

「大阪から?」

「東京へ戻る日を合わせます」

「本当に?」

「はい」

「でも、仕事が忙しかったら」

「その可能性もあります」

「真尋」

 葵の声が強くなる。

「秋田へ行くって約束した。俊介さんのことは?」

「話しました」

「何て?」

「行ってほしくない。でも、仕事は断ってほしくないと」

「真尋は?」

「やりたいです」

     *

 葵は黙った。レタスをちぎる手が止まっている。

「葵。行ってほしくないですか」

「行ってほしくない」

 迷わず答える。

「東京にいてほしい。何かあった時、来てほしい。一緒にご飯食べたい。秋田も」

「はい」

「大阪へ行ったら、会えなくなる」

「今より減ります」

「嫌」

 葵の目に涙が浮かぶ。

「でも、真尋、行きたいんでしょう。仕事、好きだもんね」

「はい」

「私のために断ったら、私、嫌だと思う」

「なぜ?」

「私がまた、真尋を必要として縛ることになる」

「葵が縛るわけではありません」

「でも、真尋が私を心配して残ったら。私は、いつまで一人で大丈夫になればいいの」

 葵の言葉に、真尋は息を止めた。

「私が大丈夫じゃないと、真尋は行けない?」

「違います」

「なら、行って」

 涙を流しながら言う。

「行ってほしくない。でも、行って」

「葵」

「寂しい」

「私も、行くと決めれば寂しいです」

「俊介さんより?」

「比べません。葵に会えなくなることも寂しい。大阪へ行くからといって、葵との関係がなくなるわけではありません」

「わかってる」

「電話もできます。東京へ戻ります。秋田も」

「絶対?」

     *

 葵が尋ねる。真尋は、絶対と言いかけて止まる。

 仕事の状況。体調。予想できないこと。

「絶対とは言えません」

 葵の顔が曇る。

「でも、行くために予定を作ります」

「仕事で無理になったら?」

「別の日にします」

「秋が過ぎても?」

「冬になっても」

「紅葉が見られない」

「次の秋でも」

 葵は唇を噛む。

「先になっても、行く? 大阪が一年以上になっても? 俊介さんと結婚しても?」

「その話はまだ」

「それでも」

「行きます」

 真尋ははっきり言った。

「葵と秋田へ戻ることは、私も望んでいます」

「約束だからじゃなく?」

「はい」

「私が行きたいから?」

「はい」

「わかった」

 葵は涙を拭い、レタスをまたちぎり始めた。

「泣きながら料理しないでください」

「玉ねぎじゃないから大丈夫」

「涙が入ります」

「塩味」

 二人は笑った。

     *

 食事をしながら、真尋は仕事内容を説明した。

 部署の再編。部長代理。大阪。人を集め、新しい仕組みを作る。

 葵は真剣に聞いた。

「真尋に合ってる」

「そう思います? どこが?」

「違う人の話を聞いて、まとめる仕事」

「以前は、聞くのが得意ではありませんでした」

「今は聞く」

「まだ練習中です」

「だから、やるんでしょう」

「はい」

「不安?」

「かなり」

「失敗すること? 人間関係?」

「はい」

「東京から来た人と思われる。家へ帰っても一人。俊介さんに会えない。私にも」

「はい」

 葵はパスタを一口食べた。

「それでも行きたい?」

「はい」

「なら、答え出てる」

「簡単に言いますね」

「真尋がやりたいって言う仕事、あまりないから」

「佐伯にも言われました」

「同じ。何に迷ってるの?」

「生活が変わること。関係も変わる。戻った時に、同じ場所があるかわからない」

 葵は真尋を見る。

「私の場所はある」

「はい」

「俊介さんも、待ってるって言った?」

「生活を持ったまま」

「うん。母も。部下は?」

「行ってほしい。でも戻ってきてほしい、と」

 葵は声を立てて笑った。

「みんな同じ。行ってほしくない。でも行って。それだけ、真尋が大切ってこと」

 真尋は返事をせず、食事を続けた。

     *

 食後、二人は本採用になった商品を開けた。

 葵がパッケージの違いを説明する。紙の質。文字の大きさ。裏面の文章。

 真尋は一つずつ見た。

「この裏の文章、葵が?」

「デザイナーと一緒に」

 真尋は読む。

『誰かに認められなかった日も、思うようにできなかった日も、今日を過ごしたあなたへ。小さな甘さと、短い休息を。』

「いいですね」

「重くない?」

「私は好きです」

「直哉にも、見てほしかった。でも、送らなかった」

「はい」

「大阪へ行ったら、真尋にも送る」

「商品を?」

「箱で」

「太ります」

「一日一個」

「はい」

「大阪の人にも売れたらいいな」

「西日本へも展開しますか」

「まだ首都圏だけ」

「提案してみては?」

「本当に?」

「私の仕事とは別に」

 葵の目が輝く。

「大阪で試験販売できるかも。真尋の部署と?」

「公平に判断します」

「私の味方して」

「仕事ではしません」

「やっぱり真尋」

 二人は笑った。

     *

 その後、ソファへ並んで座った。葵が壁の写真を見る。

「大阪の部屋にも、写真持っていく?」

「何枚か」

「これも?」

 二人の影。

「はい」

「俊介さんも? 窓の写真も?」

「考えます」

「私たちの写真と、俊介さんの写真、同じ部屋に」

「今もです」

「大阪でも。帰る場所が二つになる?」

 葵が尋ねる。

「大阪は、働くために暮らす場所です」

「家じゃない?」

「生活すれば、家になるかもしれません」

「東京は?」

「戻りたい場所」

「俊介さんは?」

「会いたい人」

「私は?」

 葵が尋ねる。

 以前なら、答えを急かされているように感じたかもしれない。今は、葵が不安を言葉にしているとわかる。

「戻ってこられる人」

 真尋は答えた。葵の目に涙が浮かぶ。

「秋田で言うはずだった」

「今も言えます」

「大阪へ行っても? 何か月会えなくても? 私が連絡しなくても?」

「はい」

「でも、長すぎたら私からします」

「うん」

 葵は笑った。

「大阪、遊びに行っていい?」

「もちろん」

「俊介さんと同じ日に行ったら?」

「相談します」

「三人で?」

「大阪で卵焼き対決をしますか」

「する」

「俊介は仕事になるのでは?」

「台所を見る」

「やめさせます」

 三人が大阪の小さな部屋で料理をする姿を想像する。少し可笑しく、少し温かい。

     *

 翌日の土曜日、真尋は母の家へ行った。

 相談は電話でもよかった。だが母の顔を見たかった。

 母は真尋の話を聞き、最初に言った。

「行きたいんでしょう」

「はい」

「なら、行けばいい」

 俊介や葵と同じ答え。

「寂しくない?」

「寂しいわよ」

「はい」

「せっかく恋人ができたのに」

「それは」

「冗談」

 母は笑った。

「でも、本当に寂しい。何かあった時、すぐ来てもらえない。私も年を取る。ただ、今すぐ介護が必要なわけではない。私のために断られたら困る」

「皆、同じことを言います」

「誰に相談したの」

「俊介。葵。佐伯」

「みんな、行ってほしくないけれど行けと言った?」

「はい」

「真尋は、大切にされてるのね」

 母が言う。

「止めることが、大切にすることではないんですね」

「時には止めることも必要でしょう。でも今回は、真尋がやりたいことだから」

「はい」

「お父さんなら、何と言うと思う?」

「仕事なら行け、と」

「たぶんね」

「お母さんを置いて?」

「それで、また喧嘩したかもしれない」

 二人は顔を見合わせた。

     *

「お母さん。大阪へ行ったら、月に一度は連絡します」

「今より少ない」

「電話はもっと」

「決めなくていい」

「なぜ?」

「義務になるでしょう」

「義務でも必要だと言ったのは、お母さんです」

「そうだった」

「毎週日曜日は?」

「多い」

「では、隔週」

「真尋。今から全部決めなくていい」

 母の言葉に、真尋は黙る。

「行ってから、必要な回数を考えればいい。私は私で暮らす。会いたくなったら、大阪へ行く」

「来ます?」

「一度くらい」

「俊介と同じ日に?」

「嫌よ」

「なぜ?」

「二人の邪魔でしょう」

「一緒でも」

「最初は、別の日にする」

 母も大阪へ来る。新しい街を歩く。真尋の部屋で食事をする。

「楽しみです」

 真尋が言うと、母も笑った。

「まだ決めてないのに。もう行く顔をしてる」

「そうですか」

「うん」

     *

 日曜日、真尋は一人で自宅を整えた。

 大阪勤務を受けた場合、何を持っていくか。まだ返事をしていない。それでも、考え始める。

 仕事用の服。パソコン。最低限の食器。本。写真。

 東京の部屋は残す。家賃や光熱費。会社の補助。現実的な数字を確認する。

 生活費は増える。だが、昇進後の手当で負担は抑えられる。

 俊介が来た時に泊まれる広さは必要か。葵も来るかもしれない。母も。

 一人で暮らす部屋であり、誰かを迎える可能性もある部屋。

 真尋は俊介へ電話をかけた。

『もしもし』

「今、大丈夫ですか」

『はい。図面を見ていました』

「相談があります。大阪の部屋」

『受けると決めましたか』

「ほとんど」

 俊介が黙る。

『はい』

「寂しいですか」

『はい』

「それでも、部屋を一緒に考えてくれます?」

『もちろんです』

「会社が用意する候補から選びます」

『資料は?』

「まだ」

『届いたら見せてください』

「日当たり?」

『駅からの距離。周辺環境。キッチン。窓』

「建築士ですね」

『真尋が暮らすので』

「一人用で十分です」

『僕が泊まれない』

「俊介」

『葵さんも来るでしょう。お母様も。なら、少し余裕があるほうが』

「会社の規定があります」

『その範囲で』

 俊介の声が、楽しそうになっている。

「寂しいのに、楽しみですか」

『矛盾しています』

「はい」

『真尋の新しい部屋を、一緒に考えられるのは嬉しいです。僕の場所も少しありますか』

「歯ブラシ?」

『はい』

     *

 真尋は吹き出した。

「今度こそ?」

『大阪のほうが先になるとは思いませんでした』

「東京にも置きますか」

 言ってから、自分で驚く。俊介が黙る。

「嫌ですか」

『嫌ではありません』

「では、次に来た時に」

『本当に?』

「はい」

『真尋。大阪へ行く前に、東京の部屋へ僕の歯ブラシを置いてもいいですか』

「はい」

『帰る場所として残る気がします』

 真尋の胸が温かくなる。

「大阪にも、来た時用を」

『はい』

「二本ですね」

『僕の生活用品が増えます』

「少しだけ」

『真尋の物も、僕の部屋へ』

「考えます」

『歯ブラシは?』

「はい」

『置いてください』

 二人の生活は一つにならない。それぞれの部屋を持つ。東京。大阪。俊介の部屋。

 その間を行き来する。物が少しずつ、互いの場所へ置かれる。

 縛るためではなく、戻れることを感じるために。

     *

 月曜日の朝、真尋はいつもより早く会社へ着いた。

 机の引き出しから、提案資料を取り出す。最後まで目を通す。条件。期間。責任。リスク。

 やりたい。不安。寂しい。それでも行きたい。

 部長へメッセージを送る。

『ご提案いただいた件について、お話しする時間をいただけますか』

 すぐに返事が届く。

『九時半に会議室三へ』

 約束の時間まで、真尋は通常の仕事をした。メールへ返信する。佐伯の資料を確認する。吉田へ質問する。

 大阪へ行くとしても、今日の仕事は続く。

 九時二十八分。真尋は席を立った。

「課長」

 佐伯が呼ぶ。

「はい」

「返事ですか」

 真尋は驚く。

「なぜ?」

「顔で」

「皆さん、本当に」

「行くんですか」

 真尋はまだ正式に答えていない。それでも、佐伯へ言う。

「受けようと思います」

 佐伯の顔に、寂しさと笑顔が同時に浮かぶ。

「おめでとうございます」

「まだです」

「でも、行くんでしょう」

「はい」

「戻ってきてください」

「約束はできません」

 立ち上げ後、そのまま西日本へ残る可能性。さらに別の役割を任される可能性。未来は決まっていない。

 佐伯の顔が曇る。

「でも」

 真尋は続ける。

「東京へ戻りたいと思っています。皆さんの成長も見たいです。離れても、仕事は続きます。私がいない間、任せます」

 佐伯が緊張した顔になる。

「私に?」

「一人ではありません。でも、今より多く」

「わかりました」

「帰ってきた時に、私が口を出せないくらいにしてください」

「それは困ります」

「なぜ?」

「少しは必要です」

 二人は同時に吹き出した。

     *

 会議室三へ入る。部長と本部長が待っている。

「決まりましたか」

 本部長が尋ねる。真尋は席へ座る前に、答えた。

「お受けしたいです」

 二人の表情が緩む。

「ありがとうございます」

「ただし、確認したいことがあります」

「どうぞ」

「月に二度を目安に、東京へ戻れる勤務計画を作りたいです」

「業務状況によりますが、可能です」

「休日が直前まで決まらない状態を、常態化させたくありません。現地の担当者へ権限を渡し、私が不在でも回る体制を最初から作りたいです」

 本部長が頷く。

「責任者が抱え込まない仕組みですね。ほかには?」

「立ち上げ期間終了後の配置について、半年後に一度面談をお願いします」

「戻る希望ですか」

「現時点では、東京へ戻りたいと考えています。ただし、仕事をしてから改めて考えます」

「わかりました」

 真尋は自分の希望を言った。与えられた条件を受け入れるだけではなく、自分がどう働きたいか。

「水口さん」

 部長が言う。

「以前より、注文が増えましたね」

「申し訳ありません」

「褒めています」

 本部長も笑う。

「条件を話せる責任者のほうが、現場でも人の条件を聞けます。正式発表は、来週です。住居と引き継ぎについては、人事から連絡します」

「わかりました」

 真尋は頭を下げた。

 会議室を出る。

 決めた。大阪へ行く。

 胸に喜びがある。怖さも。寂しさも。すべて一緒にある。

     *

 自席へ戻る前に、真尋はスマートフォンを取り出した。

 最初に俊介へ送る。

『受けると返事をしました』

 すぐに既読がつく。

『おめでとうございます』

 続けて。

『寂しいです』

 真尋は笑う。

『私もです』

『今夜、電話できますか』

『はい』

 次に葵。

『大阪の仕事を受けると決めました』

 返事は遅れた。

『おめでとう』

 その後に、

『寂しい』

 と届く。

『私もです』

『秋田、行くから。大阪も行く』

『待っています』

 母。

『大阪の仕事を受けました』

『おめでとう。体に気をつけて』

 短い文章。母らしい。

 佐伯は、真尋が戻ると立ち上がった。

「どうでした?」

「受けました」

 周囲の人が顔を上げる。まだ正式発表前。真尋は人差し指を口元へ当てる。

「来週まで内密に」

 佐伯が小さな声で言う。

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 真尋は自分の席へ座った。仕事を始める。

 大阪へ行くことが決まっても、今日の資料は待ってくれない。

     *

 その夜、真尋は帰宅してから、壁の写真の前に立った。

 二人の影。俊介。真尋。一人で見た窓。

 大阪へ持っていく写真を考える。全部は持っていかない。東京へ残すものもある。同じ写真を二枚用意してもいい。

 場所が違っても、同じ時間を持てる。

 俊介から電話がかかる。

『もしもし』

「はい」

『改めて、おめでとうございます。今日は、喜んでいいですか』

「はい」

『真尋が選ばれたことも、受けたことも、嬉しいです。寂しいですが』

「私も」

『大阪へ行く日は、見送ります』

「平日かもしれません」

『休みます』

「仕事は?」

『有給があります』

「無理は」

『僕が見送りたいんです』

 真尋は黙る。

「お願いします」

『はい』

「葵も来るかもしれません」

『三人で?』

「母も」

『増えましたね。どうします?』

「皆で見送ります」

『大げさです』

「一年近く離れるので」

『月に戻ります』

「それでも」

 俊介の声に、寂しさがある。

     *

「俊介。離れても、好きです」

 真尋は言った。電話の向こうが静かになる。

「聞こえました?」

『はい』

「返事は?」

『嬉しくて』

「また?」

『何度でも』

 俊介は思わず笑った。

『僕も、離れても好きです。会えない日に、嫌になることもあるかもしれません。仕事を優先されたと怒ることも。それでも、話します』

「私も」

『大阪の部屋へ、最初に何を持っていきますか』

「写真」

『どれを?』

「まだ決めていません」

『僕の写真も。葵さんとの影も。東京へ同じ写真を残す?』

「はい」

『では、どちらの部屋にも、僕たちがいる。真尋は、一人ではありませんね』

「一人で暮らします。でも、孤独ではありません」

『はい』

     *

 真尋は壁の余白を見た。

 大阪で撮る写真。新しい仲間。新しい街。俊介が訪れた日。葵が遊びに来た日。母が来た日。秋田へ戻った二人。これから増える時間。

 すべてが予定通りになるとは限らない。仕事で失敗するかもしれない。俊介とすれ違う。葵との旅が延期になる。母の体調が変わる。

 それでも、今は進む。

 真尋は、自分の希望を選んだ。

 誰かを切り捨てたのではない。誰かのために諦めたのでもない。

 寂しいと言う人たちの言葉を聞き、その上で行く。自分も寂しいと伝えながら。

     *

 電話を終えた後、葵から写真が届いた。

 自分の商品が並ぶ店頭。その前で、葵が照れながら笑っている。美月に撮ってもらったらしい。

『大阪でも売れるようにする』

 真尋は返信する。

『仕事として、公平に判断します』

『知ってる。でも提案する』

『待っています』

『真尋』

『何ですか』

『大阪で、帰ってこられる場所を作って』

 真尋はその言葉を読む。

 東京だけが帰る場所ではない。誰かだけが帰る人でもない。

 大阪にも、自分の生活を作る。仮の場所だからと、何も置かずに過ごさない。

 食事を作る。写真を飾る。人を迎える。疲れた日に戻れる部屋へする。

『作ります』

『私も行く』

『はい』

『俊介さんと同じ日でも』

『相談します』

『卵焼き対決』

『覚えています』

『秋田も』

『はい』

『忘れないで』

『忘れません』

     *

 真尋は寝室へ入り、ベッドへ座った。

 大阪へ行く。言葉にすると、現実が少し近づく。

 この部屋で眠る日が減る。窓から見る朝。駅までの道。近くのスーパー。俊介が座ったソファ。葵が眠ったベッド。

 すべてがなくなるわけではない。それでも、毎日触れられなくなる。

 真尋は寂しさを感じた。同時に、新しい仕事への期待がある。

 自分がどこまでできるか。どのような人と出会うか。失敗した時、どう立て直すか。

 以前なら、一人で証明するために行っただろう。今は違う。

 一人で働く時間があっても、戻って話せる人がいる。助けを求めることもできる。寂しいと伝えられる。

     *

 真尋はスマートフォンの予定表を開いた。

 三か月後。大阪勤務開始予定。その前に、俊介との旅行。葵の商品企画の経過。母との食事。引き継ぎ。部屋探し。

 することは多い。

 秋田の予定は、まだ空白のまま。真尋は秋の週末を一つ開き、仮の予定を入れた。

『葵と秋田』

 確定ではない。仕事で変わるかもしれない。それでも、未来へ置く。

 次に俊介との予定。

『瀬戸内旅行候補』

 こちらも仮。どちらかを先にする必要はない。それぞれ違う意味がある。

 真尋は予定表を閉じた。照明を消す。

 暗い部屋の中で、壁の写真は見えない。それでも、そこにある。

 大阪へ行っても。会えない日が続いても。関係は、見えない時間の中でも続けられる。

 ただし、何もしなくても残るわけではない。

 言葉を渡す。予定を作る。約束を変える時には話す。寂しいと伝える。会いたいと言う。

 それぞれの生活を持ちながら、互いへ戻る道を忘れない。

 真尋は目を閉じた。

 明日から、引き継ぎが始まる。新しい仕事へ向かう準備。同時に、大切な人たちとの関係を、新しい距離へ作り直す準備。

 ひとりで決めなかった。だが、最後に決めたのは自分だった。

 そのことに、真尋は静かな確かさを感じていた。



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