第二十章 離れるための準備
大阪勤務の正式発表が行われた月曜日、真尋はいつもより十分早く会社へ着いた。
まだ人の少ないフロアには、空調の音と、遠くで動く複合機の機械音だけが響いている。
自席へバッグを置き、パソコンを立ち上げた。
机の上には、これまでと同じ資料が積まれている。今日中に回答が必要な取引先からの質問。佐伯が作成した提案書。吉田へ引き継ぐ予定の月次報告。
大阪へ行くことが正式に決まっても、目の前の仕事が急に特別なものへ変わるわけではない。
ただ、どの資料を見ても、自分がいなくなった後は誰が確認するのか、誰へ任せるべきか、この作業は本当に課長でなければできないのか、という問いが浮かぶようになった。
これまでも、部下へ仕事を任せようとしてきた。しかし、最後には真尋が確認することを前提にしていた。
間違いがあれば直す。相手が困れば答える。責任は自分が取る。
その姿勢は、部下を守るためだと思っていた。同時に、自分が必要な人間であり続けるためでもあったのかもしれない。
真尋がいなければ困る。真尋へ聞けば間違いない。
そう言われることで、働く場所に自分の居場所を確かめていた。
大阪へ行けば、それは続けられない。東京の仕事を離れた場所からすべて確認し、大阪の立ち上げも抱える。
できないことはないかもしれない。だが、できることと、するべきことは違う。
*
真尋は新しいノートを開いた。表紙には何も書かれていない。
最初のページへ、
『東京引き継ぎ』
と書く。その下へ三つの項目を並べた。
『残す仕事』
『任せる仕事』
『やめる仕事』
残す。任せる。やめる。
これまでは最初の二つしか考えなかった。現在行っていることは、必要だから存在している。その前提で分けていた。
しかし、担当者が変わる今だからこそ、本当に必要かを考え直せる。
月に一度作成している詳細な集計表。会議のためだけに、別の資料から数字を転記している。半年以上、誰も質問していない。やめられるかもしれない。
すべての取引先へ同じ内容で送っている週次報告。取引先ごとに必要な情報が異なるのに、慣習で続いている。頻度を減らせる。
真尋が参加している会議のうち、報告を聞くだけのもの。佐伯か吉田が出ればよい。
離れる準備は、自分の仕事を別の人へ押しつけることではない。仕事の形そのものを見直すことだった。
*
八時を過ぎると、社員が少しずつ出勤してきた。
「おはようございます」
佐伯が真尋の隣で足を止める。
「おはようございます」
「早いですね」
「佐伯さんも」
「今日、発表ですよね」
「はい」
佐伯の声は小さい。正式発表前のため、まだ部署内でも一部の人しか知らない。
「緊張しますか」
佐伯が尋ねる。
「少し」
「課長でも? 発表するのは部長でしょう」
「聞く側の反応が」
真尋はフロアを見た。
大阪行きを喜ぶ人。驚く人。困る人。不安になる人。自分には関係ないと受け取る人。反応はそれぞれだろう。
「私がいなくなることで、誰がどの仕事をするか説明しなければなりません」
「もう決めていますか」
「これから、皆さんと」
「課長が決めるんじゃなく?」
「はい」
佐伯は驚いた顔をする。
「任せたいことはあります。ただ、本人の希望も聞きます」
「希望を言ったら、変えてくれます?」
「必ずではありません」
「やっぱり」
「仕事なので」
二人は顔を見合わせた。
*
佐伯が真尋のノートを見る。
「やめる仕事? そんなにあります?」
「探します」
「私、あの月末の集計表は要らないと思います。誰が見ているのかわからないです」
「部長に確認します」
「なくなったら、一日早く帰れます」
「そこまで?」
「半日は」
やめる仕事を見つけることが、誰かの時間を戻す。
これまでは、増える仕事へ対応することばかり考えていた。
「佐伯さん。私がいなくなる前に、やりたい仕事はありますか」
「急ですね」
「考えておいてください」
「断っても?」
「はい。無理に引き受けても、続きません」
佐伯は考え、答えた。
「取引先への提案を、最初から任されたいです」
「今も任せています」
「最後に課長が直します。直されない資料を作りたいです」
真尋は佐伯を見る。
「直さないことが目的ではありません」
「わかっています」
「相手へ伝わることが目的です。次の案件は、最終確認まで佐伯さんがしてください」
「課長は見ない?」
「提出後に見ます」
佐伯の表情が緊張する。
「間違っていたら?」
「訂正します」
「取引先に?」
「必要なら」
「怖いです。でも、やります」
「お願いします」
*
午前十時、部署全体の会議が始まった。
部長が前へ立つ。真尋はいつもの席ではなく、部長の隣へ座っていた。その配置だけで、何かあると察した社員が何人もいた。
「今日は、人事に関する発表があります」
部長が言う。フロアが静かになる。
「来年度より、西日本営業企画部門の再編が始まります。立ち上げ責任者として、水口課長が部長代理へ昇任し、大阪支社へ赴任することになりました」
拍手が起こった。最初は小さく、次第に広がる。
「おめでとうございます」
誰かが言う。真尋は立ち上がり、頭を下げた。
「ありがとうございます」
拍手が止まる。社員たちの顔を見る。驚いている人。笑っている人。すでに不安そうな人。
吉田は目を見開いたまま、真尋を見ている。
「赴任期間は、八か月から一年を予定しています」
部長が続ける。
「その間、現在水口課長が担当している業務は、部署内で分担します。詳細は今後、個別に相談します」
説明が終わり、部長が真尋へ視線を向ける。
「水口さんから一言」
*
真尋は前へ出た。
何を話すかは考えていた。新しい仕事への意気込み。これまでの感謝。残る人への期待。
だが、社員たちの顔を見ると、用意していた言葉だけでは足りない気がした。
「このお話をいただいた時、仕事として挑戦したいと思いました。同時に、ここを離れることへ不安も感じています」
フロアへ小さな動きが起きる。真尋が不安と言うことを、意外に思った人もいるのだろう。
「これまで私は、責任を持つことを、できるだけ多くの仕事を自分で把握することだと考えていました」
佐伯が真尋を見ている。
「そのため、皆さんへ任せた後も、最後には私が確認し、私の形へ直すことが多かったと思います」
何人かが小さく頷く。
「大阪へ行くから、仕方なく仕事を渡すのではありません。皆さんが、私の方法を再現する必要もありません」
「では、どうすれば」
吉田が思わず口にし、周囲を見て黙る。真尋は吉田を見た。
「自分の方法で、結果を出してください。間違うこともあると思います。私も、大阪で間違います」
部長の口元が緩んだ。
「離れるまでの三か月で、仕事を任せるだけでなく、必要のない作業はやめます。変えたほうがいいことは変えます」
社員たちの表情が緩む。
「私がいなくても回る部署を作ることが、最後の仕事だと思っています」
最後の仕事。
口にした瞬間、少し寂しさが広がる。
完全に去るわけではない。東京へ戻る希望も伝えている。それでも、この部署の課長として働く時間には終わりが近づいている。
「それぞれ、やりたいこと、やりたくないこと、不安なことを聞かせてください。すべて希望通りにはできません。ただ、何も聞かずに決めることはしません」
以前の自分なら言わなかった言葉だった。
「残り三か月、よろしくお願いします」
真尋は頭を下げた。再び拍手が起きた。
*
会議後、真尋の席には次々と人が来た。
「おめでとうございます」
「いつからですか」
「大阪のどこに住むんですか」
「戻ってこないんですか」
「誰が次の課長になるんですか」
「私の案件はどうなりますか」
祝福と質問が一度に届く。真尋は一つずつ答えた。
まだ決まっていないことは、決まっていないと言う。自分だけで決められないことは、部長や人事へ確認すると伝える。
以前なら、不安にさせたくないため、予想で答えたかもしれない。今は、わからないまま待ってもらう。
「課長」
人が少なくなった後、吉田が立っていた。
「何ですか」
「私、聞いていませんでした」
「正式発表前だったので」
「佐伯さんは知っていた」
「偶然、話の一部を」
「私には話せなかった?」
吉田の声に、寂しさがある。真尋はすぐに説明せず、まず尋ねた。
「話してほしかったですか」
「はい」
「なぜ?」
「課長がいなくなるなら、準備したかった。それに」
吉田は少し言いにくそうに視線を落とす。
「私も、課長の部下だと思っていたので」
「もちろんです」
「でも、佐伯さんのほうが信頼されています」
*
比較。真尋が作った部分もある。
佐伯へ任せる仕事が増えた。吉田へは、失敗を防ぐため細かな確認を続けていた。
「吉田さん。佐伯さんへ先に正式な話をしたわけではありません」
「でも」
「私が部長に呼ばれたことを、佐伯さんが知っていました。その後、少し尋ねられたので、可能性だけ話しました」
「私も聞けばよかった?」
「違います」
真尋は言った。
「吉田さんが信頼されていないという話ではありません。ただ、私が吉田さんへ任せる仕事を限定してきたことは事実です」
吉田が黙る。
「なぜだと思いますか」
「私が失敗するから」
「失敗は、佐伯さんもします。吉田さんは、確認せず進めることがあります」
「はい」
「そのため私は、間違いを防ごうとして、細かく指示しました。結果として、吉田さんが自分で確認する機会を減らしたかもしれません」
真尋は自分の責任も認める。
吉田の問題をすべて引き受けるつもりはない。だが、関わり方が相手の行動へ影響したことは否定できない。
「大阪へ行くまでに、何を任せるか相談したいです」
「私にも? 佐伯さんと同じくらい?」
「同じ仕事ではありません」
吉田の顔が曇る。
「比較しないでください」
「でも」
「得意なことが違います」
「私の得意なこと、ありますか」
*
真尋は考える。
吉田は人との距離を縮めるのが早い。社内の他部署へ質問する時も、相手を構えさせない。数字の確認は粗いが、現場の不満や小さな変化へ気づく。
「店舗や営業担当から、話を引き出すことです」
「それが仕事になります?」
「なります。月例の現場ヒアリングを任せたいです」
現在は真尋が用意した質問項目を使い、佐伯が数字を中心に確認している。しかし、報告書へ出ない問題を拾うには、吉田の会話力が生きる。
「聞いた内容を、まとめられるでしょうか」
「そこが苦手です」
「書式を一緒に作ります」
「課長が書く?」
「最初だけ」
「その後は?」
「吉田さんが」
吉田は不安そうにしながらも、頷いた。
「やりたいです。私にも、課長がいなくなる前にできることがありますか」
「あります」
吉田の顔が明るくなった。
*
昼休み、真尋は一人で食事を取る予定だった。だが社員食堂へ向かう途中、佐伯と吉田が後ろから来た。
「課長、一緒にいいですか」
「はい」
三人で席へ座る。佐伯は魚の定食。吉田は麺類。真尋は日替わり定食。
最初は仕事の話が続いた。引き継ぎ。案件。予定。
やがて吉田が尋ねる。
「大阪へ一人で行くんですか」
「はい」
「恋人は?」
佐伯が吉田を見る。
「聞きすぎ」
「課長、答えたくなければ」
「東京にいます」
真尋は答えた。二人が同時に驚く。
「恋人、いたんですか」
吉田の声が大きくなる。
「声を落としてください」
「いつから?」
「最近です」
「大阪へ一緒に行かない?」
「仕事があります」
「遠距離ですね。大丈夫ですか」
佐伯が心配そうに尋ねる。
「わかりません」
「わからない?」
「やってみなければ」
以前なら、大丈夫ですと答えただろう。不確かなことへ、問題ないと言い切る。今は、わからないと言える。
*
「寂しくないですか」
吉田が尋ねる。
「寂しいです」
「なら、断ろうと思わなかった?」
「少しは」
「恋人は何て?」
「行ってほしくない。でも、断ってほしくないと」
「優しい」
「正直な人ですね」
佐伯が言う。
「課長も、行きたくないとは思わなかった?」
「仕事は、やりたいです」
「恋人より?」
吉田の問いに、真尋は考える。
「比べません」
「でも、選んだのは仕事」
「仕事を選んだから、恋人を捨てるわけではありません」
「どちらも?」
「続ける努力をします」
吉田は少し納得できない表情をしている。
「私は、遠距離なら無理です。毎日会えないと」
「今、恋人は?」
「いません」
佐伯が小さく笑う。
「吉田さん。今いない人へ毎日会いたいと言っても」
「将来の話です」
三人は同時に吹き出した。
「課長」
佐伯が呼ぶ。
「はい」
「大阪へ行ったら、仕事以外の人へ相談できますか」
「どういう意味ですか」
「課長、忙しくなると一人で抱えるから。恋人や、その秋田のお友達に」
葵のことを覚えている。
「相談します」
「本当に?」
「努力します」
「私たちにも」
「東京の仕事については」
「課長の話も聞きます」
佐伯が言う。
「部下に弱いところを見せるのは」
「今も少し見せています」
「もっと」
「要求が増えましたね」
「課長が言ったんです。希望を聞くって」
「すべて叶えるとは言っていません」
真尋は声を立てて笑った。
*
大阪勤務の発表を受け、葵は昼休みに真尋へ電話をかけた。真尋は会議の直前だったため出られず、夕方に折り返した。
『今、大丈夫ですか』
「はい。外へ出ています」
『発表、終わりました? どうだった?』
「拍手をもらいました」
『嬉しかった?』
「はい」
『寂しかった?』
「はい」
『両方』
「はい」
葵の声が明るくなる。
『私も、会社で言った。真尋が大阪へ行くって』
「誰に?」
『美月。泣いた』
「葵が?」
『少し』
「美月さんは?」
『大阪くらい、新幹線ですぐって』
「その通りです」
『でも、今までみたいに、急に泊まりに行けない』
「事前に連絡してください」
『今も急には行ってない』
「一度、かなり急でした」
『失恋した時』
「はい」
葵が黙る。
『もう、あんなことはないと思う』
「わかりません」
『また失恋する?』
「恋愛だけではありません。何かあれば、連絡してください」
『大阪でも? 来てって言ったら?』
*
真尋は答える前に考えた。
いつでも行く。そう言えば、葵は安心する。だが、仕事や距離によって行けないこともある。
「行けるか確認します」
『すぐ行くって言わないんだ』
「約束できないので」
『寂しい』
「はい」
『でも、前より本当だね』
「はい」
『行けなくても、電話は?』
「できる時に」
『忙しかったら?』
「後で必ず」
『うん』
「葵も、美月さんやご家族へ頼ってください」
『真尋が大阪へ行くから?』
「以前からです。私だけが、戻れる人ではありません」
電話の向こうが静かになる。
『でも、真尋は特別』
「はい」
『否定しない?』
「しません」
真尋も、葵が特別だった。ただし、特別であることと、すべてを引き受けることは違う。
『今日、お祝いしたい』
葵が言う。
「平日です」
『電話で』
「何を?」
『一緒に商品食べる』
「持っています」
『夜九時に』
「俊介と電話する予定があります」
葵が黙る。
「葵。八時半なら」
『俊介さんの前?』
「はい」
『大丈夫?』
「短い時間なら」
『無理しなくていい』
「私も、葵と話したいです」
『じゃあ、八時半』
*
その日の夜八時半。
真尋は自宅のテーブルへ、葵の商品を置いた。葵も自宅で同じ商品を準備している。
ビデオ通話にすると、画面の向こうに葵の部屋が映った。棚の二人の影。箱があった場所の植物。青い線のカップ。
『見える?』
「見えます」
『真尋の部屋も』
真尋はスマートフォンを立てかけた。壁には、俊介と葵と窓の写真。
『大阪へ持っていくの、どれ?』
「まだ決めていません」
『私の影は?』
「持っていきます」
『本当? 俊介さんのも』
「はい」
『窓も?』
「考えています」
『全部持っていったら、東京が空く』
「同じ写真を印刷します」
『二枚にするんだ。場所が違っても、同じ写真』
「はい」
葵は安心したように笑う。
『開ける?』
「はい」
二人で同じパッケージを開く。
『今日は、何に乾杯する?』
「お酒ではありません」
『気持ちだけ』
真尋は考えた。
「新しい仕事に」
『真尋の?』
「葵の商品が定番になる可能性にも」
『まだ』
「今から考えているでしょう。では、それぞれの次の仕事に」
『はい』
二人は画面へ商品を近づけた。
『今日も、ここまで来た私たちへ』
「はい」
一口食べる。甘さ。少しの塩気。何度か食べた味。
*
『大阪にも、これ送る』
「自分で買えます」
『西日本で売ってない』
「展開できれば」
『絶対提案する』
「公平に」
『真尋、会社でもそう言う』
「当然です」
『でも、私の言葉、大阪でも届けたい』
葵は仕事の顔になっていた。
「なぜですか」
『東京だけの人の気持ちじゃないから。仕事で疲れる人も、何かを失った人も、どこにでもいる。真尋も、大阪で疲れる』
「はい」
『その時、食べて。頑張れじゃなくて、ここまで来たって』
「はい」
葵が少し泣きそうな顔をする。
『真尋。本当に行くんだね』
「はい」
『まだ、実感ない』
「私もです」
『新幹線の日、見送り行く』
「平日かもしれません」
『休む』
「美月さんにも同じことを言われます」
『有給取る』
「無理に」
『私が行きたい』
俊介と同じ言葉。真尋を見送りたい。相手自身の希望。
「わかりました」
『俊介さんも?』
「来ると言っています」
『お母さんも?』
「たぶん」
『四人』
「大げさです」
『大切だから』
*
真尋は画面の葵を見た。
離れることを惜しんでもらえる。
以前なら、必要とされている証拠として安心しただろう。今は、嬉しさと同時に、自分の選択へ責任を感じる。
誰かが寂しがるから行かないのではない。誰かが待っているから必ず戻ると約束するのでもない。
自分で選んだ仕事をしながら、関係を続けるために言葉と時間を渡す。
『俊介さんとの電話、九時?』
「はい」
『あと十分』
「はい」
『寂しい?』
「何が?」
『時間で切るの』
「少し」
『私も』
「また話します」
『大阪へ行ったら、電話の時間もっと決める? 毎週何曜日とか』
「今からすべて決めません。葵の予定も変わります。私の仕事も。話したい時に連絡し、話せない時は次を決める。それで、まずやってみましょう」
『はい』
午後八時五十八分。葵が画面の向こうで商品を食べ終える。
『今日は、ここまで。俊介さんに代わる時間』
「誰かと入れ替わるわけではありません」
『でも、今から俊介さん。わかった』
葵は寂しそうに笑う。
『真尋。おめでとう』
「ありがとうございます」
『部長代理』
「まだ三か月後です」
『水口部長代理』
「慣れません」
『大阪でも、頑張りすぎないで。切るね』
「はい。おやすみなさい」
『おやすみ』
通話が終わった。
真尋は、すぐに俊介へ電話をかけず、五分ほど一人で座った。
葵との時間から俊介との時間へ移るため。誰かとの会話を、そのまま次へ持ち込まないように。
*
九時五分、俊介へ発信する。
『もしもし』
「遅くなりました」
『葵さんと?』
「はい」
『お祝いですか』
「同じ商品を食べました」
『僕も呼んでほしかったです』
俊介の声に、少し冗談と本音が混ざる。
「三人で?」
『はい』
「葵との時間でした」
『わかっています』
「寂しい?」
『少し』
「はい」
『でも、今は僕との時間ですね』
「はい」
真尋は素直に答えた。
『今日、正式発表でしたか。どうでした?』
「拍手をもらいました」
『見たかったです』
「会社です」
『写真は?』
「ありません」
『次の辞令交付の時は』
「撮りません」
『では、僕が大阪へ行った時に。部長代理の顔を』
「普段と同じです」
俊介が笑う。
『嬉しかったですか』
「はい」
『不安は?』
「かなり」
『今、一番不安なのは?』
*
真尋は考えた。仕事の失敗。新しい人間関係。生活。遠距離。どれもある。
「大阪で、また一人で抱え込むことです。知っている人が少ない。立ち上げ責任者なので、弱いところを見せにくい。誰かへ任せる前に、自分でやったほうが早いと思う。東京で少し変われたことが、戻るかもしれません」
『戻ったら、話してください』
「俊介に?」
『僕にも。葵さんにも。お母様にも。大阪の部下にも』
「すぐには難しいです」
『少しずつ』
「はい」
『僕は、仕事の答えは出せません。でも、真尋が何を怖がっているかは聞けます。食事を作ることも』
「大阪で?」
『行った時に』
「毎日は無理ですね」
『はい』
「俊介。大阪へ来る頻度を、今決めないでください」
『なぜ?』
「守れないと、互いに苦しくなる。仕事や費用を見て、その都度」
『はい』
「ただし、何か月も会えない時には、話したいです」
『僕もです』
「会うために何を変えられるか。どちらかだけが移動するのではなく」
『真尋も東京へ。中間で会うことも。瀬戸内?』
「旅行にしないでください」
*
正式発表から一週間後、真尋のもとへ大阪で暮らす住居の候補が届いた。
会社が契約している三つの物件。
一つ目は大阪支社から徒歩十分。築年数は古いが広い。二つ目は電車で二駅。新しく、設備が整っている。三つ目は遠いが、窓が大きく、周囲に公園と商店街がある。
真尋は資料を印刷し、自宅のテーブルへ並べた。俊介が来る予定の日だった。
午後一時、呼び鈴が鳴る。
真尋が玄関を開けると、俊介は紙袋と、小さな歯ブラシの入った透明な袋を持っていた。
「本当に持ってきたんですね」
「はい」
「それを見えるように持たなくても」
「忘れないために」
俊介は照れている。
「どうぞ」
「お邪魔します」
靴を揃え、リビングへ入る。テーブルの資料へすぐに目を向ける。
「これが候補?」
「はい」
「先に歯ブラシを」
「洗面所へ」
*
俊介は真尋と一緒に洗面所へ向かった。
真尋の歯ブラシ。葵の歯ブラシ。その隣へ、俊介の歯ブラシを置く。
三本。色も形も違う。
俊介はしばらく見ていた。
「嬉しいです」
「歯ブラシで?」
「僕の物が、真尋の部屋にあります」
「以前、焼き菓子の箱を忘れました」
「忘れ物ではなく、置いていい物として」
「はい」
真尋も、不思議な温かさを感じる。
俊介がいない日も、ここに彼の物がある。監視されるような感覚ではない。戻ってくる可能性が、目に見える。
「大阪にも、同じ色を買います?」
真尋が尋ねる。
「違う色にします」
「なぜ?」
「どちらの部屋にいるかわかるように」
「同じ人なのに」
「生活の場所が違うので」
俊介らしい答えだった。
*
二人はリビングへ戻り、物件資料を見た。俊介は予想通り、間取り図を真剣に確認する。
「一つ目は、収納が多いです」
「築二十五年」
「管理状況がよければ問題ありません」
「駅に近い」
「でも、窓が北向きです」
「朝は会社へ行くので」
「休日は?」
「外へ出ます」
「部屋で休む日もあります」
二つ目。
「新しいです」
「キッチンが狭い」
「一人なら」
「僕や葵さんが来る」
「毎日ではありません」
「二人で料理するには」
「俊介は部屋を選ぶ時、誰かが来ることを優先しすぎです」
真尋が言う。俊介は黙った。
「そうですね」
「私が一人で暮らす部屋です。まず、私が毎日使いやすいこと。俊介や葵、母を迎えることも考えます。でも、そのために通勤が不便になったり、家賃を増やしたりはしません」
「わかりました」
俊介は寂しそうだ。
「寂しいですか」
「僕の場所を作りたいと思いすぎました。大阪で、僕が少しでも近くにいるように」
真尋は俊介の手へ触れた。
「歯ブラシ一本分はあります。泊まる時に困らない程度の広さは考えます。でも、俊介の部屋ではありません。私の生活へ来てください」
俊介が真尋を見る。
「はい」
「一緒の生活を作るのではなく、今は」
「真尋の生活へ、時々。それで十分です」
*
三つ目の物件を見る。
支社までは電車で三十分。最寄り駅から徒歩七分。南東向き。小さな公園。商店街。寝室とリビングが分かれている。キッチンも、一つ目と二つ目の中間。
「私は、これがいいです」
真尋が言う。
「通勤時間は長いです」
「東京ではもっと」
「公園がある」
「写真を撮れますね」
「商店街も。窓も大きい」
「俊介も、これ?」
「僕もです」
「私が選んだからではなく?」
「僕なら一つ目も迷います。でも、真尋には三つ目が合うと思います」
「なぜ?」
「仕事へ近すぎないから」
真尋は驚く。
「近いほうが楽では?」
「真尋は、会社が近すぎると休日も仕事へ行くでしょう」
「行きません」
「本当に?」
自信を持って否定できない。
「仕事と生活の距離が、少しあるほうがいいです。公園を歩いて、部屋へ帰る。写真を飾る壁もあります」
俊介は間取り図のリビング部分を指す。
「ここへ」
「もう考えています?」
「はい」
*
物件を決めた後、二人は昼食を作った。簡単な焼きそば。野菜を切り、麺を炒める。俊介が味付けをする。
「濃くないですか」
「少しだけ」
「大阪の味?」
「まだ行っていません」
「真尋が大阪へ行ったら、食べ物も変わりますね」
「東京と大きくは」
「商店街があります。行きつけの店ができます。僕の知らない人が増える」
俊介の声に、少し寂しさが混ざる。
「職場の人。近所の人。店の人。僕の知らない真尋が増える」
真尋は以前、葵から似た言葉を聞いた。俊介が知る真尋が増えることへの寂しさ。今度は俊介が、大阪で増える人間関係へ不安を感じている。
「俊介にも、私の知らない時間があります。友人との旅行。現場。家族」
「はい」
「寂しいですが、全部を知る必要はありません。大阪で話したい人ができたら、話します」
「男性でも?」
俊介が尋ねる。真尋は笑う。
「嫉妬しています?」
「今から」
「立ち上げ責任者なら、頼る人も必要です。年齢も性別も関係なく」
「理解しています」
「感情は?」
「少し不安です」
俊介は正直に言った。
「真尋が大阪で、僕より身近に相談できる人を見つけるかもしれない。毎日顔を合わせる。僕は、短い電話だけ。それでも、信じるしかありません」
「我慢では?」
「話します。不安になったら。真尋も、僕に新しい人間関係が増えたら聞いてください」
「聞きます」
「かなり聞きます?」
「必要な範囲で」
「俊介。距離が増えると、不安も増えます。だから、すべてを制限するのではなく、話す回数を増やしたいです。ただ、報告義務のようにはしたくない」
「難しいですね」
「はい。まずは、やってみましょう」
*
昼食後、俊介は洗面所へ行った。戻ってくると、嬉しそうな顔をしている。
「歯ブラシを使いました?」
「はい」
「それだけで?」
「生活した感じがします」
「歯を磨いただけです」
「真尋の部屋で、昼食を食べ、歯を磨いた。泊まらなくても、暮らしの中に入った気がします」
真尋はその言葉を受け取った。
「大阪でも、使ってください。来た時に。毎日あるだけで、満足しないで」
「会いに行きます」
「無理のない範囲で」
「また先に心配しています」
「はい」
二人の間に短い笑いが起きた。
*
午後、俊介が帰った後、真尋は葵へ物件の資料を送った。
『大阪の部屋は、三つ目を希望しました』
葵からすぐに電話がかかってくる。
『写真だけじゃわからない』
「間取りがあります」
『ビデオで見せて』
真尋はビデオ通話へ切り替えた。葵は自宅にいる。髪をまとめ、部屋着姿だった。
『ここ? 広い』
「東京より少し狭いです」
『私、泊まれる?』
「リビングへ布団を敷けば」
『俊介さんは寝室?』
「その時に相談します」
『三人で泊まる日。卵焼き対決』
「日帰りでもできます」
『泊まりたい。お母さんも来たら?』
「一度に全員は無理です」
『順番』
「予約制ではありません」
『私は先に行く』
「俊介が先かもしれません」
葵の顔が曇る。
『恋人だから?』
「私が行った直後に、手伝いへ来ると言っています」
『私も手伝う』
「仕事は?」
『休む』
「引っ越しのために?」
『真尋のため』
*
葵は真剣だった。真尋は考える。
「引っ越しの日は、会社が手配します」
『荷物を開けるのは?』
「自分で」
『行く』
「遠いです」
『新幹線』
「日程を確認してから」
『俊介さんと一緒でもいい』
「本当に?」
『少し嫌だけど。でも、三人で部屋を作るのもいい』
真尋は想像する。
俊介が家具の配置を考えすぎる。葵が勝手に小物を買う。真尋が二人を止める。騒がしい引っ越しになる。
「考えます」
『絶対、候補に入れて。写真を飾る場所、決めた?』
「俊介が壁を確認しました」
『やっぱり先に』
「今日来たので」
『歯ブラシ置いた?』
真尋は驚く。
「なぜ?」
『今日持ってくるって聞いた気がした』
「誰から?」
『真尋が前に言ってた』
「置きました」
『三本。私のも残ってる?』
「はい」
葵が安心したように笑う。
『大阪にも、私の歯ブラシ置いていい?』
「来た時に」
『俊介さんと同じ。三本』
「母が来れば四本」
『増える』
「洗面所が狭くなります」
『でも、人が来る部屋』
「はい」
真尋は資料の写真を見た。
まだ誰も住んでいない、白い部屋。ここへ物を置く。写真を飾る。食事を作る。人を迎える。
大阪での生活が、少しずつ具体的になる。
*
葵もまた、仕事で新しい提案へ向き合っていた。
商品の販売開始から二か月。売上は安定している。大きく伸びてはいない。だが再購入する人が多い。
予定していた三か月で終了せず、半年間の延長が検討され始めた。さらに、季節ごとに異なる言葉を使う案が会議へ上がった。
石橋が葵へ言う。
「次の言葉、考えてる?」
「はい」
「見せて」
葵はノートを開いた。いくつかの候補。
『選んだあとも、迷っていい』
『戻らない日にも、やさしい時間を』
『決めたあなたにも、休む時間を』
『今日の答えが、ずっと同じでなくてもいい』
石橋は一つずつ読む。
「重いね。今の商品より、状況を選ぶ。店頭で手に取りにくいかもしれない」
「わかっています」
「それでも、この方向?」
葵は考えた。
直哉へ戻らないと決めた後。正しいと確信したわけではない。何度も迷った。連絡したいと思った。それでも、決めた自分を責めずに生活した。
同じような人へ届けたい。
「選択に迷っている人ではなく、選んだ後に迷っている人へ届けたいです」
「狭い」
「はい」
「商品として成立する?」
「数字は確認します」
「気持ちだけでは?」
「だめです」
葵はわかっている。届けたい言葉があることと、商品として売れることは別。両方を考える。
「今の商品を買った人への追加アンケートを取りたいです」
「何を聞く?」
「何かを決めた後に、気持ちが揺れた経験があるか」
「かなり広いね」
「進学。転職。結婚。別れ。引っ越し。介護。仕事を辞めること」
「誰にでもありそう。なら、言葉をもう少し軽くできるかも」
「考えます」
*
石橋はノートを閉じずに返す。
「小野寺さん。自分の経験へ近すぎると、ほかの人が入れないことがある。でも、離れすぎると届かない。今は、まだ自分へ向けた言葉に見える」
葵の胸が痛む。その通りだった。
『選んだあとも、迷っていい』
今の自分が言ってほしい言葉。それだけでは商品にならない。
「どうしたら離れられますか」
「人へ聞く」
「アンケート?」
「それも。実際に、何かを選んだ後に迷った人へ」
葵は美月、母、真尋、石橋を思い浮かべる。誰もが、何かを選び、迷っている。
「聞いてみます。石橋さんにも」
「私は仕事?」
「それ以外も」
石橋は困った顔をする。
「話せる範囲で」
*
昼休み、葵は美月へ尋ねた。
「何かを決めた後に、迷ったことある?」
「急に何?」
「仕事」
「また商品?」
「うん」
美月は考える。
「今の会社へ転職した時」
「迷った?」
「前の会社を辞めるまでは、絶対に辞めたいと思ってた。辞めた次の日、戻りたくなった」
「どうして?」
「同僚。慣れた仕事。駅前の店。全部なくなった気がした」
「今の会社へ来たかったんでしょう」
「うん。でも、選んだことが正しいとはすぐに思えなかった」
「何て言われたかった?」
美月の口元が緩んだ。
「正しいよ、ではなかった。もう戻れないよ、でもない。迷ってるだけで、失敗ではないって」
葵はメモを取る。
「商品にする?」
「まだ」
「直哉さんのこと?」
「そこから考えた。でも、別れた人だけに向けたくない。真尋も大阪へ行くって決めて、迷うと思う」
「絶対迷うね」
「俊介さんも」
「残る側も」
美月の言葉に、葵は顔を上げる。
「残る側?」
「選んだのは真尋さんだけど、周りもその選択の中で迷うでしょう。行ってほしい。でも行ってほしくない」
葵自身の気持ちだった。
「選んだ人だけじゃない」
「選ばれた変化を受け取る人も」
葵はノートへ書く。
『自分で選んだ人』
『誰かの選択を受け取った人』
どちらも迷う。相手の選択を応援すると決めても、寂しさは消えない。
*
「美月。真尋が大阪へ行くの、どう思う?」
「寂しい」
「美月も?」
「葵が寂しくなるから、私の仕事が増える」
「何それ」
「電話とか、ご飯とか」
「嫌?」
「冗談」
美月は笑った。
「でも、葵が私へ頼る回数は増えるかもね」
「迷惑?」
「多すぎたら言う。私も、頼るし。真尋さんが大阪へ行くことで、葵と私の関係も変わる」
「そうかも」
「悪くなるとは限らない」
人が一人離れる。空いた場所を、別の誰かが埋めるのではない。関係の形が変わる。
葵と美月の時間も増えるかもしれない。葵自身で過ごす時間も。
*
その週末、真尋、俊介、葵の三人は、久しぶりに真尋の部屋へ集まった。卵焼き対決を実行するためだった。
葵は午前十時に到着した。俊介は十分遅れて来た。
「遅い」
葵が玄関で言う。
「すみません」
「判定する人が遅刻」
「電車が」
「言い訳」
「葵」
真尋が止める。俊介は紙袋を持ち上げた。
「果物を持ってきました」
「それで公平な判定を買うつもり?」
「違います」
葵は笑い、俊介も笑う。
三人でキッチンへ立つ。真尋と葵が、それぞれ同じ数の卵を使う。調味料も同じ。俊介はリビングで待つよう言われた。
「見たら、どちらが作ったかわかる」
葵が言う。
「見なくても、形で」
「言わない」
真尋は卵を溶く。葵も隣で。同じ動作。火加減は少し違う。真尋は慎重に巻く。葵は勢いがある。
葵の卵焼きは少し端が崩れたが、以前よりきれいにできた。
二皿を用意し、同じように切る。位置を入れ替え、俊介へ出す。
「どちらが誰かは、言わないでください」
真尋が言う。
「わかりました」
*
俊介は一つ目を食べる。次に二つ目。真剣に考える。
「長い」
葵が言う。
「公平に」
俊介は水を飲み、もう一度一切れずつ食べた。
「こちらです」
指したのは、葵の皿だった。
「やった」
葵が両手を上げる。真尋は少し納得できない。
「理由は?」
「柔らかいです」
「私のほうが形はきれいです」
「味で判定すると」
「約束でした」
葵が嬉しそうに俊介を見る。
「公平。真尋の味方しなかった」
「味方ですが、判定は別です」
真尋は自分の卵焼きを食べた。確かに、少し火を入れすぎた。
「負けました」
「認めた」
「次は、別の料理で」
「負けず嫌い」
三人は声を立てて笑った。
*
昼食には、卵焼きのほか、炊き込みご飯と味噌汁を作った。テーブルへ三人分の食器を並べる。
俊介の歯ブラシが置かれた後、初めて三人が揃う。
葵は洗面所で手を洗った時、三本を見た。少し寂しくなると思っていた。だが、自分の歯ブラシがそのまま残っていることに安心した。
俊介の物が増えても、自分の場所はなくならない。
「大阪の部屋、決めたんですよね」
葵が尋ねる。
「会社の正式手続き中です」
「写真見た?」
俊介へ。
「はい」
「私も泊まれる」
「リビングです」
「俊介さんは?」
「その時に相談します」
「寝室?」
「葵」
真尋が止める。
「聞いただけ」
「細かいことは」
俊介が少し顔を赤くしながら、味噌汁を飲む。
「引っ越し、いつ?」
「二か月半後」
「手伝う」
葵が言う。
「僕も」
俊介も続ける。
「会社が荷物を運びます」
「開けるのを」
「家具の配置を」
「二人とも来るつもりですか」
「はい」
二人が同時に答えた。真尋は困ったように二人を見る。
「日程は平日です」
「休む」
「有給を」
また同時。
「大げさです」
「最初の日でしょう」
俊介が言う。
「真尋が大阪で、一人の生活を始める日」
「だから一人で」
「一人で始めたい?」
*
葵が尋ねる。真尋は答える前に考えた。
新しい部屋へ一人で入りたい気持ちもある。自分の手で荷物を置き、静かに生活を始める。
同時に、俊介や葵が来てくれることも嬉しい。
「最初の夜は、一人で過ごしたいです」
真尋は言った。二人の表情に、少し寂しさが浮かぶ。
「引っ越しを手伝ってもらうことは、考えます」
「夜は帰る?」
葵が尋ねる。
「はい」
「私は泊まりたい」
「最初の夜は、一人で」
「俊介さんも?」
「はい」
俊介は残念そうだが、頷く。
「わかりました」
葵はまだ納得していない顔をしている。
「なぜ一人がいいんですか」
俊介が尋ねる。
「大阪で暮らすことを、自分の体で感じたいからです。誰かがいると、来てもらった日になります。一人なら、私が大阪で生活を始めた日になる」
葵が少しずつ理解したように頷く。
「寂しくなったら?」
「連絡します」
「来てって言ったら?」
「その時に」
「翌日なら泊まっていい?」
「予定を決めてから」
「厳しい」
「生活なので」
真尋は声を立てて笑った。
*
食後、三人は大阪の地図を広げた。
物件の最寄り駅。支社。商店街。公園。新大阪駅。
葵は観光地を探す。俊介は建築を探す。真尋はスーパーと病院を確認する。
「三人とも見る場所が違う」
葵が笑う。
「私は生活です」
「僕は環境です」
「私は遊ぶ場所」
「葵は住みません」
「行った時」
葵が地図を指す。
「ここ、川がある」
「散歩できます」
「真尋、朝歩く?」
「時間があれば」
「写真送って」
「毎日は送りません」
「きれいな日だけ」
「はい」
俊介が別の場所を指す。
「ここに古い公会堂があります」
「やっぱり建物」
「見に行きましょう」
「三人で?」
「はい」
「卵焼きの次は建物」
葵が笑う。
「大阪で、三人の写真撮ろう」
「誰に?」
「通りすがりの人」
「頼めれば」
「真尋の部屋に飾る。東京にも?」
「はい」
「同じ写真」
「はい」
真尋の部屋の壁に、三人の写真。大阪にも同じもの。
それぞれの場所へ、同じ時間を残す。
*
午後、葵が先に帰ることになった。美月と買い物へ行く約束がある。
玄関で靴を履きながら、洗面所の方向を見る。
「私の歯ブラシ、大阪にも置く」
「来た時に」
「俊介さんより後?」
「引っ越しへ来れば同じ日です」
「来る」
「仕事を確認してください」
「はい」
葵は俊介を見た。
「俊介さん。引っ越し、一緒に行ってもいい?」
「僕に聞くことでは」
「でも」
葵は少し言いにくそうにする。
「真尋との最初の日を、恋人だけの時間にしたいかもしれないから」
俊介は考えた。
「最初の夜は、真尋が一人で過ごしたいと言いました。昼間に三人で部屋を作るのは、僕は嬉しいです」
「本当に? 嫉妬しない?」
「少しします」
「やっぱり」
「でも、真尋の大阪での生活に、葵さんとの関係もあるほうが自然だと思います」
葵は俊介を見る。
「ありがとうございます」
「僕も、葵さんがいることで助かると思います」
「何が?」
「真尋は一人で全部開けようとするでしょう」
「する」
「止められる人が二人」
「協力します」
「勝手に物を置かないでください」
真尋が言う。二人は笑った。
*
葵が帰った後、俊介は静かになった。
リビングへ戻り、三人分のカップを片づける。真尋が隣へ立つ。
「疲れました?」
「少し」
「葵に?」
「三人の時間に。楽しかったです。でも、真尋と二人の時間もほしいです」
「今から」
「はい」
俊介は正直に言う。
「葵さんと一緒に引っ越しへ行くと答えました。本当にそう思っています。でも、真尋の新しい生活へ最初に入る人でいたかった気持ちもあります」
真尋は俊介を見た。
「恋人として?」
「はい。最初の夜を一人にすると言われ、少し安心しました」
「なぜ?」
「誰も最初ではないから」
真尋は驚き、それから俊介の気持ちを理解する。
自分だけでなく、葵にも先を越されたくない。そのような感情がある。
「俊介。私が大阪で最初に電話したい人は、今は俊介だと思っています」
「本当ですか」
「はい」
「葵さんではなく?」
「電話する時間によります」
俊介が困った顔をする。
「順位をつけないでください」
「はい。でも、最初の夜、一人で部屋にいて、声を聞きたいと思うのは俊介です」
真尋は正直に言った。俊介の表情が柔らかくなる。
「嬉しいです。電話、待っています」
「遅くなるかもしれません」
「起きています」
「無理をしないで」
「また」
二人の間に短い笑いが起きた。
*
「俊介。口づけをしてもいいですか」
真尋から尋ねた。俊介が少し目を見開く。
「はい」
キッチンの前。葵が帰った後の静かな部屋。
真尋は俊介へ近づき、短く唇を重ねた。以前より自然に。
俊介が背中へ腕を回す。真尋も少しだけ抱きしめる。離れる。
「大阪へ行く前に、もう少し二人の時間も作りたいです」
真尋が言う。
「はい」
「葵や母との時間も。仕事も。全部を同じ量にはできません」
「わかっています」
「その時に大切にしたい時間を選びます。俊介にも、選んでほしいです。私をいつも一番にしなくていい」
俊介は迷う。
「難しいです」
「なぜ?」
「今は、一番にしたいと思うことが多いので。でも、仕事や家族を優先する日もあります。その時に、真尋を大切でないと思わせないように話します」
「私も」
*
引き継ぎは、少しずつ進んだ。
佐伯は取引先への提案書を、真尋の事前確認なしで提出した。数字の一箇所に小さな誤りがあった。
取引先から指摘を受け、佐伯は青ざめた。
「課長、どうしましょう」
「訂正版を送り、謝罪してください」
「課長から?」
「佐伯さんから」
「怒られます」
「はい」
「助けてください」
真尋は、助けたいと思った。自分が電話をすれば、関係は早く修復できる。
だが、佐伯が自分の仕事として引き受ける機会を奪う。
「文章は確認します」
「電話は?」
「必要なら、佐伯さんが」
「怖いです。でも、やります」
佐伯は自分で連絡し、謝罪した。取引先は、厳しい言葉を一つ述べた後、訂正版を受け取った。大きな問題にはならなかった。
「終わりました」
佐伯が真尋の席へ来る。
「はい」
「次から、提出前に数字だけ別の人へ確認してもらいます」
「誰に?」
「吉田さん」
真尋は驚く。
「吉田さんに頼めますか」
「一人だと不安なので、二人で。課長へ戻さずに」
「はい」
失敗から、佐伯自身が方法を考えた。
「よく対応しました」
真尋が言うと、佐伯は少し泣きそうな顔で笑った。
「課長が助けてくれなかった」
「文章は見ました」
「電話は私。怖かったです。でも、できました」
「はい」
「大阪へ行っても、すぐ助けないでください」
「相談には乗ります」
「答えは?」
「必要なら」
「少しだけ」
*
吉田は店舗ヒアリングの書式を作った。
最初の案は、質問が多すぎた。相手が答えるだけで一時間かかる。
真尋は、すべてを直さずに尋ねた。
「このヒアリングで、一番知りたいことは何ですか」
「現場が困っていること」
「では、この質問は必要ですか」
「売上の細かい数字?」
「数字は別の資料にあります」
「要りません」
「この質問は?」
「上司への満足度」
「本音を答えますか」
「答えないかも」
「では、どう聞きます?」
吉田は考えた。
「最近、仕事が進みにくかった場面はありますか」
「いいと思います」
質問を減らす。相手が話せる余白を作る。完成した書式は、最初の半分以下になった。
「これなら、話を聞けます」
吉田が言う。
「はい」
「課長がいなくても? 本当に?」
「私は大阪で、別の人へ同じことを聞いています」
「なら、私も」
吉田は書式を持って戻った。
*
真尋の東京での仕事は、少しずつ軽くなるはずだった。
しかし、引き継ぎを始めると、教える仕事が増えた。毎日、誰かから質問が来る。過去の経緯。判断基準。失敗例。
真尋の頭の中だけにある情報を、言葉にする。自分がどれほど、説明せずに仕事を進めていたかがわかる。
「これは、なぜこの方法なんですか」
問われても、すぐに答えられないことがある。
「以前から」
その言葉で済ませていた。
引き継ぐためには、理由が必要だ。理由がなければ、やめてもよい。
仕事の整理は、真尋自身の働き方を見直す作業でもあった。
*
ある夜、帰宅が午後十時を過ぎた。俊介から、
『今日は電話できますか』
と届いていた。真尋は玄関へ入る前に返信する。
『今、帰宅しました。少し疲れています』
『声だけでも聞きたいです』
真尋も聞きたい。だが、今は話し始めれば、仕事の不満をすべて俊介へぶつけてしまいそうだった。
『今日は一人で静かにしたいです』
送る。すぐに、
『わかりました。食事をして、休んでください』
と返る。
真尋は安心し、同時に少し寂しい。
止めてほしい。少しだけ話そうと言ってほしい。矛盾した気持ち。
真尋は自宅へ入り、コートを脱いだ。冷蔵庫から、作り置きのスープを出す。温めながら、自分の気持ちを考える。
一人でいたいと伝えた。俊介は受け入れた。それでも寂しい。
その寂しさを、俊介のせいにしない。
真尋は食事を終えた後、短く送った。
『一人でいたいと言いましたが、少し寂しいです』
俊介から電話ではなく、メッセージが返る。
『僕も寂しいです。今夜は話さず、同じ時間に休みましょう』
続けて。
『十一時に、おやすみだけ送ります』
真尋は画面を見て、笑った。
『はい』
午後十一時。俊介から、
『おやすみなさい。今日も好きです』
と届く。真尋も、
『おやすみなさい。私もです』
と返した。
話さない夜にも、関係は続く。
*
葵は、次の商品の言葉を考えるため、母へ電話をした。
「何かを選んだ後に、迷ったことある?」
『急にどうしたの』
「仕事」
『真尋さんの大阪?』
「それも少し」
母は考える。
『結婚した後』
「お父さんと?」
『うん』
「後悔した?」
『後悔というより、これでよかったのかと思った』
「いつ?」
『最初の半年』
「早い」
『知らない家へ入って、仕事を辞めて、名字も変わって。自分がいなくなったみたいだった』
「お父さんを好きでも?」
『好きだった』
「戻りたいと思った?」
『実家に?』
「うん」
『何度も』
「どうして戻らなかった?」
『戻らないと決めたから、ではない』
「じゃあ?」
『次の日まで待った』
「毎日?」
『今日は帰りたい。でも明日も同じなら考えようって。朝になると、少し違った』
「それを繰り返した?」
『うん』
「何て言われたかった?」
母は黙る。
『帰っても、残っても、どちらでもあなたはあなた、って』
*
葵はノートへ書いた。
「選んだことと、自分が変わることは別?」
『そうね』
「戻っても、失敗じゃない?」
『戻る理由によるでしょう』
「難しい」
『商品にするの?』
「まだ」
『重すぎない?』
「石橋さんにも言われた」
『お菓子を買う時に、そこまで考えたくない人もいるわよ。もっと短くできない?』
「たとえば?」
『迷う日にも、ひと息』
葵は驚く。
「お母さん、上手」
『適当よ』
「でも、軽い」
『選択という言葉を使わなくても、迷っている人には届くんじゃない』
葵はメモする。
『迷う日にも、ひと息。』
自分の経験から離れ、誰かが入れる余白がある。
「ありがとう」
『商品になったら送って』
「まだ先」
『待ってる』
*
葵は真尋にも尋ねた。二人が電話で話したのは、真尋の大阪行きが正式発表されてから二週間後だった。
「大阪へ行くって決めた後、迷ってる?」
『はい』
「どんな時?」
『部下が不安そうな顔をした時。俊介と次に会える日が決まらない時。母が、一人で大丈夫と言う時。葵が寂しいと言った時』
「私も入ってる」
『はい』
「行くのやめたい?」
真尋は考えて答える。
『やめたい瞬間はあります』
「本当に? でも行く?」
『はい』
「何て言われたら楽になる?」
『正しい選択です、ではありません』
「うん」
『頑張って、でも』
「うん」
『迷っても、行きたい気持ちがなくなったとは限らない』
葵は書く。
「長い」
『商品ですか』
「うん」
『先に言ってください』
「言ったら、きれいな答えになると思って」
『今も仕事用に考えました』
「やっぱり」
二人は同時に吹き出した。
「短くすると?」
『迷いながらでも、進めます』
「少し強い」
『では』
真尋は考える。
『迷う時間も、選んだ道の途中』
葵はペンを止めた。
「いい」
『本当に?』
「うん。でも、お菓子に少し重い」
『なら聞かないでください』
「参考にする」
*
「真尋。大阪へ行った後、戻りたいって思ったら?」
『東京へ?』
「うん」
『まず、なぜ戻りたいか考えます』
「仕事が嫌だから?」
『逃げるためでも、戻ってはいけないとは思いません。ただ、一日つらかっただけで決めない』
「うん」
『母と同じですね』
「聞いたの?」
『葵から少し』
「お母さん、次の日まで待ったって。私も、直哉に電話したくなった時、一時間待った。待つ時間って、大事かも。何も決めないための時間」
『はい』
葵はノートへ新しく書いた。
『答えを急がないための、小さな休息』
商品は、人生の答えを出すものではない。少し休む時間を渡すだけ。
その間に、自分の声が聞こえることもある。
*
真尋の大阪行きまで、残り一か月となった。
東京の部屋には、段ボール箱が少しずつ増えていた。大阪へ持っていく物。東京へ残す物。処分する物。
クローゼットを開け、一つずつ分ける。仕事用の服は半分以上持っていく。普段着。靴。本。食器。
父の時計は、東京へ残すか迷った。毎日見る物。母から受け取った物。大阪へ持っていけば、東京の部屋から大切な一つがなくなる。
真尋は母へ電話をかけた。
『時計?』
「はい」
『持っていけば』
「東京へ戻った時にないと、寂しい気がします」
『大阪で必要なんでしょう』
「はい」
『なら、持っていく』
「簡単ですね」
『お父さんの物は、場所へ付いてるんじゃないでしょう。真尋がいる場所へ持っていけばいい』
「東京には?」
『写真がある。戻す日が来れば、戻せばいい』
真尋は時計を大阪行きの箱へ入れることにした。
次に写真。葵との二つの影。俊介が撮った真尋。真尋が撮った俊介。一人で見た窓。父と母と高校生の真尋。
すべて複製する。東京と大阪。同じ写真を、それぞれの壁へ。
元の一枚がどちらかは、やがてわからなくなるかもしれない。それでいい。
大切なのは、最初の一枚かどうかではない。その時間を、どちらの場所でも思い出せること。
*
大阪へ持っていく本を選んでいると、玄関の呼び鈴が鳴った。葵だった。今日は引っ越し準備を手伝う約束をしている。
「お邪魔します」
「どうぞ」
葵は大きなバッグを持っていた。
「何ですか」
「大阪用」
「勝手に買いました?」
「少し」
バッグから、折り畳めるクッション。小さな花瓶。木製の鍋敷き。付箋。淡い色のタオル。
「多いです」
「全部使える」
「花瓶は?」
「秋田で買ったの」
「いつ?」
「前の旅行で。自分用に買ったけど、真尋の大阪へ」
小さな白い花瓶。側面に、淡い茶色の線が入っている。
「葵の物でしょう」
「だから置いて」
「いつか返す?」
「大阪が終わったら」
「はい」
「私の物が、真尋の大阪の部屋にある」
葵は照れたように言う。
「歯ブラシだけでは足りません?」
「まだ置いてない」
「引っ越しの日に」
「うん」
真尋は花瓶を受け取った。
「ありがとうございます」
「俊介さんは、何か置く?」
「歯ブラシ」
「それだけ?」
「本人が考えると思います」
「負けたくないわけじゃないけど」
「競わないでください」
「わかってる」
*
葵は段ボール箱を見る。
「写真、どれ持っていく?」
「複製しました」
「全部? 東京にもある?」
「はい」
葵が二つの影の写真を手に取る。
「同じ写真が、三か所になる」
「葵の部屋を含めて」
「うん。秋田で新しい写真を撮れば、また」
「三枚印刷する」
「俊介も欲しいと言ったら?」
葵は考える。
「四枚」
「いいんですか」
「うん」
「俊介の部屋にも?」
「私たちの写真を?」
「はい」
葵は複雑そうな顔をする。
「少し変な感じ。でも、真尋の大切な人の写真としてなら、いい」
以前の葵なら、自分と真尋の写真を俊介の場所へ置かれることへ抵抗したかもしれない。今は、少しずつ俊介との関係も作られている。
*
二人は本を箱へ詰めた。
「これは?」
葵が一冊持ち上げる。
「旅の随筆」
「秋田へ持っていった?」
「いいえ」
「大阪で読む?」
「はい」
「これは?」
「仕事の本」
「多すぎる」
「必要です」
「全部読んだ?」
「一部は」
「読んでない本、東京に残して」
「大阪で読むかもしれません」
「引っ越しする人が言うやつ」
葵は勝手に二つへ分ける。真尋が戻す。小さな争いをしながら、箱が埋まっていく。
「真尋。大阪へ行く前に、直哉のこと、もっと平気になってると思ってた」
葵が本を持ったまま言う。突然の言葉。
「まだ、思い出しますか」
「うん。商品が売れた時。真尋の昇進。美月と笑った時」
「楽しい時にも?」
「うん。伝えたかったって思う。でも、戻りたいとは少しずつ思わなくなった。連絡したいと、戻りたいが別になった」
「はい」
「いつか、連絡してもいいのかな」
*
真尋はすぐに答えない。
「何を伝えたいですか」
「元気か聞きたい。私の商品、まだ買ってるか。真尋が大阪へ行くことも」
「なぜ、それを?」
「直哉も、真尋のこと少し知ってたから。でも、全部、話したいだけかもしれない。返事がほしい」
「今は?」
「まだ送らない」
「自分で決めました?」
「うん」
「なら、それで」
「いつか、送ってもいいって言ってほしい」
真尋は葵を見る。
「いつか、葵が関係を戻すためではなく、伝えたいだけだと思えた時には、送ってもいいと思います」
「直哉に新しい恋人がいても?」
「その可能性も受け取れるなら」
葵の表情が曇る。
「今は無理」
「はい」
「なら、まだ」
葵は本を箱へ入れた。
「大阪へ行くまでに、平気にならなくてもいい?」
「私の引っ越しと、葵の回復は関係ありません。秋田までに、完全に忘れる必要も」
「うん」
「好きだった自分を連れていくんでしょう」
「うん」
*
夕方、俊介も手伝いに来た。三人で段ボール箱を閉じる。
俊介は箱の重さを確認し、本を少し分け直した。
「重すぎます」
「持つのは業者です」
「底が抜けます」
「補強します」
葵が横から言う。
「建築士の確認」
「箱も構造です」
「本当に?」
「荷重が」
「始まった」
真尋は二人を見て笑った。
俊介がテープを貼り、葵が内容を書く。
『本・仕事』
『本・旅』
『写真・大切』
「大切?」
俊介が尋ねる。
「写真と時計」
「割れ物、と書いたほうが」
「大切も必要」
葵は太い文字で書く。その箱には、父の時計と写真が入っている。
俊介は横へ、
『割れ物注意』
と追加した。
二つの言葉が並ぶ。大切。割れ物注意。
真尋の口元が緩んだ。
「何ですか」
葵が尋ねる。
「いえ」
関係も同じかもしれない。大切だから、壊れないわけではない。大切だからこそ、扱い方を話す。
*
作業を終え、三人で夕食を取った。
今日は料理をする余裕がなく、近くの店から取り寄せた。ピザ。サラダ。スープ。
段ボール箱に囲まれたリビング。いつもの部屋が、少し違って見える。
「引っ越す人の部屋」
葵が言う。
「はい」
「本当に行くんだ」
俊介も箱を見ている。
「この箱がなくなったら、部屋が広くなりますね」
「大阪へ送った後は」
「東京の部屋、寂しくなる」
葵が言う。
「必要な物は残します」
「真尋がいない」
「月に戻ります」
「うん」
俊介が静かに言う。
「東京の部屋へ、僕が時々来てもいいですか」
真尋は驚く。
「私がいない時に?」
「はい」
「何をするんですか」
「換気。植物の水。郵便」
「会社が管理するわけではありません」
「僕がしたいです」
「俊介さんだけ?」
葵が尋ねる。
「葵さんも来ますか」
「合鍵ない」
*
真尋は二人を見た。
東京の部屋。自分が不在の間。誰かに入られることへの抵抗はある。私的な場所。一人の生活。
ただ、植物や郵便の管理は必要だ。
「合鍵は、誰にも渡さないつもりでした」
真尋が言う。二人が黙る。
「管理会社へ、長期不在の相談をします」
「はい」
俊介が答える。寂しそうだが、受け入れる。
「ただ」
真尋は続ける。
「私が戻る前に、必要なことがあれば、その時に鍵を渡します。常に自由に入れる形にはしません」
「わかりました」
葵も頷く。
「私も、真尋がいない部屋に勝手に入りたいわけじゃない。少し、場所を守りたいと思っただけ」
「ありがとうございます」
「東京の部屋は、真尋が帰る場所。私たちが使う場所じゃない」
「はい」
俊介も同じように頷いた。
「僕も、近づきすぎました」
「心配してくれたことは嬉しいです」
「はい」
「でも、鍵はまだ」
「わかりました」
境界を伝える。相手が寂しくなる。それでも、関係は壊れない。
*
食事が終わり、葵が帰る時間になった。玄関で、三人は少し不自然に並んだ。
「次は引っ越しの日?」
葵が尋ねる。
「その前にも会います」
「いつ?」
「予定を確認します」
「三人で?」
「二人でも」
俊介が言う。
「葵さんと真尋の時間も必要でしょう」
「俊介さんと真尋も。三人も」
「はい」
「忙しい」
葵は思わず笑った。
「全部、少しずつ」
真尋が言う。
「同じ量にはできない」
「うん」
葵は真尋を見た。
「大阪へ行くまでに、秋田の日程を決めたい」
「仕事の予定が出てから」
「仮でも」
「予定表には入れています」
「本当?」
「はい」
葵の顔が明るくなる。
「見せて」
「今は」
「後で送って」
「はい」
「俊介さんとの瀬戸内も?」
「仮で」
「先に行く?」
「まだ決めていません」
葵の表情に、ほんの少し競う気持ちが浮かぶ。自分でも気づいたのか、すぐに言い直す。
「どっちが先でもいい」
俊介も言う。
「はい。意味が違うので」
真尋は二人を見る。
「ありがとうございます」
葵が玄関を出る。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
俊介も手を振った。
「気をつけて」
*
葵が帰った後、俊介は片づけを手伝い、午後九時前に帰る準備をした。
歯ブラシは洗面所へ残す。コートを着て、玄関へ立つ。
「次に来る時、この部屋はもっと箱が増えていますね」
「はい」
「寂しいです」
「私も」
「大阪へ行く前に、ここで泊まりたいです」
俊介が言った。真尋の胸が緊張する。
泊まる。
これまで、俊介は真尋の部屋へ何度か来た。食事をした。口づけもした。だが泊まったことはない。
「なぜ?」
「夜に帰らず、朝までここにいたいからです。大阪へ行く前だからではなく、恋人として」
俊介は真尋を見ている。
「真尋が嫌なら、待ちます」
真尋は自分の気持ちを確かめた。
怖さはある。同時に、俊介と朝を迎えたい気持ちもある。
遠距離になる前だから急ぐ。その理由だけにはしたくない。
「大阪へ行くから、ではなく、私も、俊介と一晩過ごしてみたいと思っています」
俊介の表情が揺れる。
「本当に? いつ?」
「今日ではありません。予定を決めたいです。仕事がない日。翌朝も急がなくていい日。それから、どこまで近づくかは、その時に話します」
俊介は真剣に頷く。
「わかりました」
「泊まることが、その先すべてへ同意した意味ではありません。途中で一人になりたいと言うかもしれません」
「はい」
「俊介も、疲れたら」
「言います」
真尋は安心する。
「来月の土曜日は?」
俊介が尋ねる。
「日程を確認します」
「楽しみですか」
「かなり。少し怖いです」
「僕もです」
「俊介も?」
「真尋を不安にさせないか。自分の気持ちを抑えられるか」
「我慢ではなく、話してください」
「はい」
泊まる約束。新しい段階。
大阪へ行く前の不安だけで決めたのではない。今の二人が、近づきたいと思ったから。
*
俊介を見送った後、真尋は一人でリビングへ戻った。
段ボール箱。三人で食べた皿。俊介の歯ブラシ。葵の花瓶。大阪へ持っていく写真。
離れる準備をするほど、人とのつながりが目に見える形で増えている。
仕事を任せる。物を分ける。予定を変える。境界を伝える。会いたいと言う。
離れることは、関係を薄くするだけではなかった。これまで曖昧にしていたものを、言葉へする機会にもなる。
誰に何を任せたいのか。誰とどの時間を作りたいのか。どの場所へ、何を持っていくのか。何を残すのか。
誰にも渡さない鍵。置いてもよい歯ブラシ。持っていく時計。複製する写真。
それぞれに、真尋の意思がある。
*
葵は帰宅後、真尋から送られてきた予定表の画面を見た。
秋の週末。
『葵と秋田』
仮の文字。その少し前には、
『瀬戸内旅行候補』
とある。
葵は二つを見比べた。どちらが先か。
以前なら気になった。俊介との旅行より、自分との秋田を優先してほしい。そう思っただろう。今も少し思う。
だが、順番で関係の大きさを決めたくない。
葵は返信する。
『予定に入れてくれてありがとう』
真尋から、
『仕事で変わる可能性はあります』
と届く。
『わかってる』
『変更になれば、話します』
『はい』
*
葵はスマートフォンを置き、ノートを開いた。
次の商品案。母。美月。真尋。それぞれから聞いた言葉。
選んだ後に迷う。残る人も迷う。帰りたくなる。行ってほしくない。それでも進む。
葵は候補を一つ書く。
『迷う日にも、ひと息。』
その下へ、説明を添える。
『決めたあとに立ち止まっても、選んだことが消えるわけではありません。答えを急がず、今の気持ちを聞くための短い休息を。』
自分だけの痛みから、離れた言葉。
真尋の大阪。美月の転職。母の結婚。誰かの選択。その後の迷い。
多くの人が入れる余白がある。
葵は翌日、石橋へ見せることにした。
*
真尋は照明を消す前、段ボール箱へ貼られた文字を見た。
『写真・大切』
その横に、
『割れ物注意』
葵と俊介が書いた二つの言葉。
大切なものは、壊れないものではない。大切だから、扱い方を覚える。
離れれば、連絡が減る日がある。仕事を優先し、約束を変えることもある。寂しさから、相手を責めたくなる。新しい人間関係へ嫉妬する。
それでも、壊れないと信じて乱暴に扱うのではなく、壊れる可能性があるから言葉を渡す。
真尋は箱のテープを指で押さえた。
中には、父の時計。家族の写真。葵との影。俊介の横顔。一人で見た窓。
大阪へ持っていく時間。東京へも、同じ写真が残る。
どちらか一つだけが本物なのではない。
暮らす場所が増えても、真尋は分かれない。
東京の自分。大阪の自分。俊介といる自分。葵といる自分。仕事をする自分。一人の自分。
すべてを同じ部屋へ置けなくても、どれも自分だった。
離れる日まで、あと少し。準備はまだ終わらない。
それでも、何を持っていき、何を残すかは、少しずつ見えてきていた。




