↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/46

第二十一章 同じ朝を迎えるまで

俊介が真尋の部屋へ泊まる日は、大阪への引っ越しを三週間後に控えた土曜日に決まった。

 その日を決めてから、二人は何度か話し合った。

 何時に来るか。夕食をどうするか。翌朝は何時まで一緒にいられるか。俊介の着替えをどこへ置くか。眠る場所はどうするか。同じベッドへ入るのか。どこまで近づくのか。

 恋人同士が一晩を過ごすなら、わざわざ言葉へしなくても自然に進むことなのかもしれない。

 真尋には、その「自然」がわからなかった。

 以前の交際では、相手の希望を断れば気持ちが冷めたと思われるのではないかと考えた。自分が何を望んでいるかより、相手が何を期待しているかを先に読み取ろうとした。

 その結果、自分から選んだのか、流されたのか、後になってわからなくなることがあった。

 今回は、そうしたくなかった。

 俊介も、真尋が不安になることを避けようとして、何度も確認した。

『泊まりたいと伝えたことが、急がせていませんか』

「少しは」

『やめますか』

「やめたいとは言っていません。俊介と朝まで一緒にいたい気持ちはあります。でも、泊まると決めたから、すべて進めなければならないとは思いたくありません」

『わかっています』

「その時に、一つずつ決めたいです」

『僕も、そのようにしたいです』

 電話で何度も同じ確認をした。

 途中で気持ちが変わってもよい。寝室へ行かず、俊介がリビングで眠ってもよい。同じベッドへ入っても、手をつないで眠るだけでもよい。抱きしめることと、その先へ進むことは同じではない。互いにやめたいと言ったら、理由を求めずに止まる。

 話し合いを重ねるほど、真尋は自分たちが臆病すぎるのではないかと思うこともあった。

 だが俊介は言った。

『わからないまま近づくより、わかった上で緊張したいです』

 その言葉に、真尋は安心した。

     *

 約束の土曜日。真尋は午前七時に目を覚ました。

 俊介が来るのは午後三時。まだ八時間ある。

 眠り直そうと目を閉じたが、落ち着かなかった。

 ベッドの横には、荷造り途中の箱が二つ積まれている。寝室の棚は半分ほど空いていた。

 大阪へ持っていく服。東京へ残す服。処分する服。すでに箱へ入れたものも多い。

 俊介が泊まる夜なのに、部屋は引っ越し前の途中の姿だった。

 もっと整った部屋で迎えたかった。段ボール箱のない、普段の生活の中で。

 だが、この時期に泊まることを選んだのは二人だった。

 すべてが整うまで待てば、真尋は大阪へ行ってしまう。遠距離が始まってから初めて泊まるより、東京の部屋で一度、同じ朝を迎えたい。

 俊介がそう言った。真尋も同じ気持ちだった。

     *

 真尋はベッドから起き上がった。

 カーテンを開ける。空は薄い青。雨の予報はない。

 洗濯機を回す。シーツを替える。枕を一つ増やす。

 以前、葵が泊まった時に使った予備の枕とは別に、俊介のために新しいカバーを用意した。

 それをベッドへ置いた瞬間、緊張が強くなる。

 今夜、この場所へ俊介がいる。眠る前の顔。目を閉じる姿。朝、目を開けた時の声。

 想像するだけで、胸が落ち着かない。

 真尋は枕を一度ベッドから下ろした。まだ早い。掃除を先にする。

 床へ掃除機をかけ、洗面所を整える。

 三本の歯ブラシ。自分。葵。俊介。

 俊介の歯ブラシは、すでに何度か使われている。今日初めて、この部屋で夜にも朝にも使う。

 タオルを新しくする。俊介の着替えを置くかごを用意する。

 そこまでしてから、真尋は手を止めた。

 誰かを迎える準備が、相手へ尽くすことへ変わりかけていないか。

 自分が疲れるほど部屋を整え、料理を用意し、相手が不便を感じないよう先回りする。以前の自分がしがちなことだった。

 真尋はキッチンの献立メモを見た。前菜。スープ。魚料理。デザート。

 一人で考えているうちに、品数が増えていた。

「多いですね」

 自分へ言う。

 俊介は、一緒に作りたいと言っていた。真尋が全部準備しておく必要はない。

 メモから魚料理とデザートを消した。

 夕食は、二人で作るクリームシチュー。サラダ。パン。それだけ。朝食も、その時に決めればいい。

 真尋はようやく落ち着き、コーヒーを淹れた。

     *

 午前九時を過ぎた頃、葵からメッセージが届いた。

『今日、俊介さん泊まる日?』

 真尋はカップを持ったまま画面を見た。

『はい』

 すぐに返信が来る。

『緊張してる?』

『かなり』

『何着る?』

『家にいるので普段着です』

『部屋着は?』

『葵』

『ごめん』

 数秒後。

『でも、本当に大丈夫?』

 今度はからかう言葉ではなかった。

『はい』

『嫌になったら、途中で電話して』

『電話はしません』

『どうして?』

『俊介へ言います』

 葵からの返事が遅れる。

『そうだね。私に助けてって言う前に、俊介さんに言うことだね』

『はい』

『でも、その後に一人になりたかったら連絡して。迎えには行けないかもしれないけど』

『俊介を追い出す前提にしないでください』

『ごめん』

 真尋は笑った。

『楽しい夜になるといいね。怖くても』

『はい』

『俊介さんも緊張してると思う』

『かなり』

『どうしてわかるの?』

『昨日も三度確認されました』

『真面目』

『はい』

『真尋。大阪へ行く前だからって、急がなくていいから』

 葵の言葉が胸へ入る。

『わかっています』

『それから、幸せになっても私を忘れないで』

 冗談のようで、冗談ではない。

『忘れません』

『今日連絡なくても?』

『はい』

『明日の朝、報告して』

『内容は報告しません』

『朝を迎えたかだけ』

 真尋は考えた。

『起きたら連絡します』

『約束』

     *

 午後二時五十分、呼び鈴が鳴った。約束より十分早い。

 真尋は玄関の前で、一度深く息を吸った。扉を開ける。

 俊介は、小さな旅行用のバッグと紙袋を持って立っていた。紺色のシャツ。ベージュのパンツ。仕事の日とは違う柔らかな服装。

「こんにちは」

「こんにちは」

「早かったですか」

「少し」

「下で待つつもりでした」

「呼び鈴を押しましたね」

「はい」

 俊介は緊張している。真尋も、同じだった。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 俊介は靴を揃え、部屋へ入る。

 何度も来た場所。それでも今日は、玄関を上がる動作から違って見えた。

「荷物は、どこへ?」

「寝室のかごへ」

 言った後、真尋の胸が強く鳴る。寝室。俊介も固まった。

「今、持っていきますか」

「はい」

     *

 二人で寝室へ向かう。ベッドには二つの枕。俊介がそれを見た。表情が動く。

「用意してくれたんですね」

「はい」

「嬉しいです」

「まだ、ここで眠ると決めたわけではありません」

 真尋はすぐに付け加えた。

「はい」

「リビングでも」

「わかっています」

 俊介はバッグをかごへ置いた。そこから着替えのシャツが覗いている。

 歯ブラシだけではなく、俊介の持ち物が部屋へ増える。

「緊張します」

 真尋が言った。

「僕もです」

「来る前に、帰りたいと思いました?」

「少し」

「私も」

 二人は顔を見合わせた。

「それでも来ました」

「はい」

「私も迎えました」

 俊介は真尋の手へ触れた。

「手をつないでもいいですか」

「はい」

 寝室で手をつなぐ。ただそれだけなのに、いつもより近く感じる。

「まず、リビングへ戻りましょう」

 真尋が言う。

     *

 俊介が持ってきた紙袋には、パンとチーズ、それから小さな花束が入っていた。白と薄い黄色の花。

「花瓶は、まだ箱の中です」

 真尋が言うと、俊介が残念そうにする。

「葵からもらった花瓶は?」

「大阪行きの箱です」

「開けますか」

「開けません」

 真尋はキッチンの棚から細長いガラス瓶を出した。普段は水を入れるために使っているもの。

「これで」

「はい」

 俊介が花の茎を切る。真尋が水を入れる。二人でテーブルの端へ置く。

「大阪へも花を持っていきたいです」

 俊介が言う。

「生花を新幹線で?」

「引っ越しの日ではなく、僕が行った時に。葵さんの花瓶へ」

「はい」

 大阪の部屋。白い花瓶。俊介が持ってくる花。

 少しずつ、まだ見ていない部屋の生活が増えていく。

「今日は、シチューを作ります。野菜を切ってください」

「何を?」

「人参、玉ねぎ、じゃがいも」

「全部?」

「私は鶏肉を」

「役割を分けるんですね。何でも一緒に作るのかと思いました」

「同じまな板を使えません」

 俊介は吹き出した。

「現実的です」

     *

 二人はキッチンへ立った。

 俊介は人参を大きく切った。

「大きいです」

「煮れば」

「時間がかかります」

「小さくします」

 玉ねぎは丁寧すぎるほど同じ幅。じゃがいもは、角が崩れないよう面取りしようとする。

「そこまでしなくていいです」

「煮崩れます」

「家庭のシチューです」

 俊介は包丁を置き、困った顔をする。

「僕、料理でも考えすぎますね」

「はい」

「真尋は?」

「早く終わらせようとしすぎます」

「では、中間を」

 二人の間に短い笑いが起きた。

 鍋で鶏肉を炒める。玉ねぎ。人参。じゃがいも。水。

 煮込む間にサラダを作る。パンを切る。何度か肩が触れる。

 以前より意識する。今日、俊介は帰らない。この後もいる。夜が深くなっても。

 その事実を考えるたび、手元がぎこちなくなる。

「真尋。今、別のことを考えました?」

「はい」

「僕もです」

「料理へ集中してください」

 俊介は笑いながらレタスを洗った。

     *

 夕食は、午後六時前に始まった。窓の外には、まだ明るさが残っている。

 二人で作ったシチュー。サラダ。俊介が買ってきたパンとチーズ。白と薄黄色の花。

「いただきます」

 二人で言う。シチューを一口食べる。

「人参、少し硬いです」

 俊介が言う。

「大きかったので」

「すみません」

「でも、おいしいです」

 いつもの食事と大きく違うわけではない。それでも、今夜は時間の終わりを気にしなくていい。

 俊介が電車へ乗る時刻。駅までの道。帰宅した連絡。それを考えずに食べられる。

「今日は、何時に寝ますか」

 俊介が尋ねる。

「今、決めます?」

「気になって」

「普段は十一時半頃です」

「僕も」

「では、そのくらい。ただし、眠くなれば先に。私は、少し仕事をするかもしれません」

「今日も?」

「大阪の引き継ぎ資料が」

 俊介の表情が曇る。

「嫌ですか」

「少し。今日は、僕と過ごす日だと思っていました。仕事をしないでほしいと言ってもいいですか」

     *

 真尋はすぐに答えず、自分の気持ちを考えた。

 今夜のうちに終えなければならない仕事ではない。気になるから、少しだけ進めようと思った。

 俊介との時間へ集中することが怖く、仕事へ逃げようとしている部分もある。

「いいです。仕事をしません」

「本当に? 僕が止めたから、後で嫌になりませんか」

「自分で決めました。ただし、明日の午前中、一時間だけ」

「僕がいる間に?」

「はい」

「その時は、本を読んでいます」

「ありがとうございます」

 俊介は安心したようにシチューを食べた。

「俊介は、泊まる日に何をしたかったですか」

 真尋が尋ねる。

「特別なことではありません。一緒に食事をして、風呂に入って、話して、眠る」

「順番に風呂です。一緒ではありません」

「わかっています」

 俊介が顔を赤くする。

「朝、起きて、朝食を食べたいです。真尋の眠そうな顔を見たいです」

「見せたくありません」

「僕も見られます」

「はい」

「それから」

 俊介は言葉を止める。

「真尋と、もう少し近づきたいです。でも、どこまでかは決めていません」

「私もです」

「怖いですか」

「はい」

「僕が?」

「俊介ではなく、自分の気持ちがわからなくなることが。近づいた後に、やめたいと言えなくなること」

「言ってください。僕も、気持ちが強くなりすぎたら、一度止まります」

「はい」

 食卓で、この後の触れ合いについて話す。不思議で、恥ずかしい。

 だが真尋には必要だった。

     *

 食後、二人で片づけをした。俊介が洗い、真尋が拭く。

 シチューの鍋は、明日の朝にも食べられる。

「朝もシチュー?」

 俊介が尋ねる。

「嫌ですか」

「嬉しいです」

「パンもあります」

「卵は?」

「作ります?」

「卵焼き」

「朝から対決しません」

「僕が作ります」

「できますか」

「練習しました」

 真尋が俊介を見る。

「いつ?」

「葵さんとの判定の後」

「負けた私に言わず?」

「二人に勝ちたくて。僕も参加したいです」

 三人の卵焼き対決。真尋は笑った。

「大阪で。葵が来た時に。公平に、今度は誰が判定します?」

「お母様」

「巻き込みません」

 二人は笑いながら食器を片づけた。

     *

 午後七時半。まだ寝るには早い。

 二人はソファへ並び、映画を一本見ることにした。俊介が選んだのは、古い建物を修復する家族の物語だった。

「やはり建物」

 真尋が言う。

「人間関係が中心です」

「本当に?」

「たぶん」

 映画が始まる。最初は距離を空けて座った。やがて俊介の手が真尋の手へ触れる。真尋から指を重ねる。

 画面では、古い家の壁を壊し、内部の柱を確認している。残す部分。直す部分。新しく作る部分。

 俊介は建物の説明をしようと口を開きかけ、真尋を見た。

「話していいですか」

「短く」

「この柱は」

「映画を見ます」

「はい」

 真尋は思わず笑った。

 映画の途中、家族が修復方針をめぐって争う。父親は元の形を守りたい。娘は暮らしやすく変えたい。

 互いに家を大切に思っているのに、その意味が違う。

「関係と似ていますね」

 真尋が小さく言う。

「はい」

「大切だから、同じ形を望むとは限らない。残すものも違う」

「僕たちは?」

 俊介が尋ねる。

「まだ修復ではありません」

「新築?」

「設計途中」

「土地を調べているくらい?」

「俊介。例えを広げすぎです」

 二人は声を抑えて笑った。

     *

 映画が終わったのは、午後九時半だった。

 エンドロールが流れる。部屋が静かになる。

 次に何をするか。互いに意識している。

「風呂、どちらから入りますか」

 真尋が尋ねる。

「僕は後で」

「では、私から」

 真尋は立ち上がり、寝室から部屋着を取った。長袖の柔らかなシャツとパンツ。普段着ているもの。特別な服ではない。

 俊介の前で着ることを考えると、急に薄く感じる。

「俊介。リビングで待っていてください」

「もちろんです」

「寝室へ入らないで。勝手に箱を開けないで」

「開けません」

 俊介は声を立てて笑った。

「緊張しています?」

「はい」

「僕もです」

     *

 湯船へ入っても、体の緊張は抜けなかった。

 扉の向こうに俊介がいる。自分の部屋で。この後、同じ夜を過ごす。

 真尋は湯の中で腕を抱えた。

 嫌ではない。むしろ嬉しい。それでも怖い。

 近づくほど、失った時の痛みが大きくなる。大阪へ行けば、会えない時間が増える。今日の温かさを知れば、離れることがさらに寂しくなる。

 なら、知らないほうが楽なのではないか。

 その考えが浮かぶ。

 だが、傷つかないために近づかない生き方を、自分は変えたいと思った。

 俊介と過ごしたい。それが今の希望。未来の痛みを避けるために、今日の気持ちを否定したくない。

 真尋は深く息を吐いた。

 風呂から上がり、髪を乾かす。鏡を見る。化粧を落とした顔。仕事の時より柔らかく見える。目元の疲れ。白いものが混じる髪。

 俊介に見られる。隠そうと思えば、もう一度薄く化粧もできる。

 真尋は何もしなかった。

     *

 リビングへ戻ると、俊介はソファへ座り、真尋の旅の随筆を読んでいた。真尋が近づくと立ち上がる。

「お先に」

「はい」

 俊介は真尋の顔を見て、黙った。

「何ですか」

「きれいです」

「お風呂上がりです」

「はい」

「見すぎです」

「すみません」

 俊介が視線をそらす。

「次、どうぞ」

 俊介はバッグから部屋着を取り、洗面所へ向かった。

 真尋は一人でソファへ座る。心臓が速い。俊介が戻ってくるまで何をすればいいかわからない。

 テレビをつける。すぐに消す。水を飲む。ベッドを確認する。枕が二つ。照明を少し暗くする。暗すぎると思い、戻す。

「何をしているんでしょう」

 一人で呟く。

 スマートフォンが震えた。葵からではない。母からだった。

『今日は俊介さんが泊まる日?』

 真尋は画面を見つめる。なぜ知っているのか。以前、話したかもしれない。

『はい』

『緊張してる?』

 葵と同じ。

『しています』

『無理しなくていいからね。でも、楽しんで』

『何をですか』

 返事は、

『一緒の時間を』

 だった。母も、詳しいことを聞こうとはしない。

『ありがとうございます』

     *

 俊介が戻ってきた。濃いグレーの長袖シャツと部屋着のパンツ。髪が濡れている。眼鏡はかけていない。

「眼鏡は?」

「バッグに」

「見えます?」

「近くは」

 俊介が真尋を見る。眼鏡がないだけで、いつもより表情が近く感じる。

「髪、乾いていません」

「少し」

「座ってください」

 真尋は洗面所からドライヤーを持ってきた。

「自分でできます」

「後ろが濡れています」

「では」

 俊介は床へ座り、真尋はソファから髪へ風を当てた。

 短い髪。指で触れる。俊介の肩が緊張している。

「熱くないですか」

「大丈夫です」

「動かないで」

「はい」

 髪を乾かすだけ。それでも親密な動作に感じる。

 風を止める。

「終わりました」

「ありがとうございます」

 俊介が振り返る。真尋の膝の近くに顔がある。互いに動かない。

「真尋。口づけをしてもいいですか」

「はい」

 俊介が立ち上がり、ソファの隣へ座る。ゆっくり近づく。唇が重なる。短く離れる。

「もう一度?」

 俊介が尋ねる。

「はい」

 今度は長い。俊介の手が真尋の頬へ触れる。真尋も、俊介の肩へ手を置く。

 近づきたい。怖い。二つの気持ちが同時にある。

 俊介が離れる。

「大丈夫ですか」

「はい」

「止めます?」

「まだ」

 真尋は自分から、もう一度唇を重ねた。

     *

 何度か口づけを交わした後、二人は額を寄せた。呼吸が近い。

 俊介の手は、真尋の背中へ回っている。真尋も抱きしめている。

「俊介。少し待ってください」

 俊介はすぐに腕を緩めた。

「はい」

 真尋は距離を取る。

 嫌ではない。だが、このまま進めば、何を望んでいるのか考える前に体が動いてしまいそうだった。

「怖くなりました。俊介が嫌ではありません」

「わかっています」

「本当に? 失望していませんか」

「していません」

 俊介は真尋の手へ触れる前に、視線で確認する。真尋が手を差し出す。俊介が握る。

「今夜、ここまででもいいです。同じベッドへ入らなくても。僕は、リビングで眠れます」

「帰りたい?」

「帰りたくありません」

 俊介は正直に答えた。

「真尋と朝を迎えたいです」

「私も」

「では、眠る場所だけ決めましょう」

     *

 真尋は考える。

 同じベッドで眠りたい。触れ合った後だからではなく、隣にいてほしい。

「ベッドへ来てください。でも、今日は手をつないで眠りたいです。その先へは、進みません」

「わかりました」

「途中で、離れたくなったら」

「言います」

 俊介は寂しそうではあった。だが、隠さず頷いた。

「寂しいですか」

 真尋が尋ねる。

「少し。もっと近づきたい気持ちはあります。でも、今の真尋と一緒に眠れることも嬉しいです」

「我慢させていますか」

「我慢はあります」

 俊介は言葉を選ばず答える。

「でも、無理をさせないためだけではありません。僕も、あとで真尋を不安にさせたくない。二人が同じ気持ちで進みたいです」

「ありがとうございます」

 真尋は俊介の手を強く握った。

     *

 午後十一時、二人は寝室へ入った。

 ベッドの左右を決める。真尋は普段通り、窓側。俊介は扉側。

「狭くないですか」

「大丈夫です」

 照明を消す前に、互いに離れて横になる。同じベッド。枕が二つ。

 真尋は天井を見る。緊張で眠れそうにない。俊介も動かない。

「俊介。眠れます?」

「無理だと思います」

「私も」

 二人は暗闇の中で笑った。

「手を」

 真尋が言う。布団の上で手を探す。指が触れる。つなぐ。俊介の手は温かい。

「今日、嫌なことはありましたか」

 俊介が尋ねる。

「嫌なこと?」

「泊まってから」

「ありません」

「怖かったことは?」

「近づいた時。止まってくれて、安心しました。俊介は?」

「真尋が怖いと言った時、嫌われたと思いそうになりました。でも、すぐに違うと言ってくれました。だから、聞けました」

「何を?」

「ここまででいいか」

「以前なら、聞けなかった?」

「相手へ聞くことが、雰囲気を壊すと思っていました」

「私も。でも、聞いてよかったです」

 暗闇だからこそ、顔を見ずに話せる。

     *

「真尋。大阪へ行ったら、泊まれる日は少なくなりますね。今日を急いだ理由に、それもありました。すみません」

「謝らなくていいです」

「でも、離れる前に進まなければと思いました」

「私も少し。離れる前だからではなく、俊介と近づきたいと思った時に進みたいです。大阪でも、東京でも。今日でなくても」

「はい」

「待てますか」

「待ちます」

「期限ではなく?」

「はい」

「私も、怖さだけで避け続けないようにします。今日は、ここまで」

「はい」

 俊介が手を握り返す。

     *

 しばらくして、俊介が寝返りを打った。真尋のほうを向く。

「抱きしめてもいいですか」

「眠るだけ?」

「はい」

 真尋も俊介のほうを向いた。

「はい」

 俊介の腕が、真尋の背中へ回る。真尋は胸元へ顔を寄せる。

 洗い立てのシャツ。石鹸の匂い。鼓動。近い。

 だが、先ほどの怖さとは違う。守られているというより、一緒にいる感覚。

「苦しくないですか」

「大丈夫です」

「腕、重くない?」

「はい」

「眠ったら動くかもしれません」

「私も」

「蹴ったらすみません」

「俊介も?」

「たぶん」

 二人は小さく笑った。

 真尋は目を閉じる。

 誰かの腕の中で眠る。久しぶりだった。

 以前は、相手が寝た後も体を動かさないよう気を使った。寝息。布団。距離。

 今日は、苦しくなれば離れていいとわかっている。

 真尋は少しずつ力を抜いた。

     *

 夜中、真尋は一度目を覚ました。

 部屋は暗い。俊介の腕は離れている。背中を向けて眠っている。

 真尋は寂しく感じた。抱きしめて眠ると言ったのに。

 だが、眠っている間に離れることはある。そのことに意味をつけない。俊介が気持ちを失ったわけではない。ただ寝返りを打っただけ。

 真尋は自分から俊介の背中へ近づいた。触れる前に、迷う。眠っている相手へ触れてよいか。

 手を伸ばし、シャツの袖へ軽く触れる。俊介が小さく動き、振り返った。

「真尋?」

「起こしました?」

「少し。どうしました?」

「離れていたので」

 言うと、恥ずかしい。俊介は眠そうな声で、

「寒かったですか」

 と尋ねた。

「少し寂しかったです」

 真尋は正直に答える。

 俊介は目を閉じたまま腕を伸ばし、真尋を引き寄せた。

「これで?」

「はい」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 俊介はすぐに眠ったようだった。

 真尋は胸元で目を閉じる。

 寂しいと言えた。夜中の小さなこと。それだけで、胸が温かくなった。

     *

 朝、真尋が目を覚ますと、最初に見えたのは俊介の首元だった。

 窓から入る淡い光。俊介は仰向けで眠っている。真尋の手が、俊介の胸の上にある。片脚も触れている。

 いつ、その姿勢になったのかわからない。

 真尋はゆっくり手を引こうとした。俊介が目を開ける。

「おはようございます」

 低い、眠そうな声。

「おはようございます」

「何時ですか」

 真尋は枕元の時計を見た。

「七時十二分」

「早いですね」

「普段は」

「もう少し寝ます?」

 真尋は考える。仕事はしない。午前九時頃に朝食。俊介は午後までいられる。

「少し」

 俊介が目を閉じる。真尋も、もう一度枕へ顔を戻す。

 同じ朝。急がなくていい。

 真尋はその感覚を味わうように、目を閉じた。

     *

 次に起きたのは午前八時半だった。俊介はすでに目を覚まし、真尋を見ていた。

「いつから?」

「五分ほど」

「見ないでください」

「眠そうな顔を見たいと言いました」

「許可していません」

「すみません」

 俊介は笑った。真尋は布団を顔へ引き上げる。

「俊介も、髪が変です。眼鏡がないと、少し違います」

「嫌ですか」

「いいえ」

 真尋は俊介の顔へ手を伸ばした。頬へ触れる。

「近いですね」

「はい」

「口づけをしてもいいですか」

 真尋から尋ねる。

「はい」

 朝の口づけ。昨夜より短く、柔らかい。

 真尋は離れた後、笑った。

「何ですか」

「朝も好きです」

 俊介の表情が緩む。

「僕もです」

     *

 ベッドから出ると、気まずさが戻った。

 同じ部屋で着替えるか。洗面所をどちらが先に使うか。部屋着から普段着へ戻る。

「洗面所、先にどうぞ」

 真尋が言う。

「真尋から」

「私はキッチンへ」

「では」

 俊介が洗面所へ向かう。

 真尋はシチューの鍋を確認した。朝食。昨夜のシチュー。パン。卵。

 俊介が卵焼きを作ると言っていた。真尋は炊飯器を開ける。ご飯はない。卵焼きにパンは合わない気もする。だが食べたいと言った。

 俊介が戻ってくる。眼鏡をかけ、髪を整えている。

「朝食、どうします?」

「卵焼き」

「パンです」

「シチューと卵焼き」

「合います?」

「試します」

     *

 俊介はエプロンを借り、卵を割った。真尋は隣でコーヒーを淹れる。

「昨夜、眠れました?」

「途中から」

「僕もです」

「夜中、起こしました」

「覚えています」

「寂しいと言いました。恥ずかしいです」

「嬉しかったです」

「なぜ?」

「頼ってくれたので」

「抱きしめるだけで?」

「はい」

「俊介。頼られることが、必要とされることへ変わりすぎないようにしてください」

 真尋は卵を混ぜる俊介を見る。

「はい」

「私が寂しくなくても、関係は続きます。助けが必要なくても」

「わかっています」

 俊介は答えた。

「でも、昨夜のように、必要な時には言ってください」

「はい」

 フライパンへ卵を流す。俊介は真剣な顔で巻く。一度目は崩れる。二度目で整える。形は悪くない。皿へ移す。

「味見しますか」

「三人の時まで秘密では?」

「今日は練習」

 二人で一切れずつ食べる。少し甘い。真尋と葵の中間。

「おいしいです」

「本当? どちらより?」

「今は判定しません」

「公平に」

「大会ではありません」

 二人は笑った。

     *

 朝食を食べながら、真尋は葵との約束を思い出した。起きたら連絡する。

「俊介。葵へ、朝を迎えたと連絡してもいいですか」

 俊介は驚き、それから頷く。

「はい」

「内容は話しません」

「わかっています」

 真尋は短く送った。

『おはようございます。朝を迎えました』

 すぐに既読がつく。

『おはよう』

 続けて。

『大丈夫?』

『はい』

『俊介さんも?』

 真尋は俊介を見る。

「大丈夫ですか、と」

「大丈夫です」

『俊介も大丈夫です』

『よかった』

 少しして。

『朝ごはん何?』

『シチューと、俊介の卵焼き』

『卵焼き作ったの? 私たちに挑戦?』

 俊介が画面を見て笑う。

「次は僕も参加します、と」

 真尋が代わりに送る。

『次は俊介も参加します』

『負けない。真尋も』

『はい』

 短いやり取り。葵はそれ以上聞かなかった。

     *

「報告は、これだけ?」

 俊介が尋ねる。

「はい」

「葵さん、もっと聞くと思いました」

「約束を守っています。俊介は、嫌ではありませんでしたか」

「少しだけ、二人の朝へ葵さんが入ったように感じました。でも、真尋が約束していたことなので。今、言えました」

「ありがとうございます」

「次から、朝の時間をもう少し二人だけで過ごしてからでもいいですか」

 真尋は考える。

「はい」

「連絡するな、ではありません」

「わかっています」

「僕との時間も、区切りを作りたいです」

「はい」

 俊介の希望も聞く。

 次に泊まる時があれば、朝食の後までは二人で過ごす。急ぎの連絡は別。そのように決めた。

     *

 朝食後、真尋は約束通り一時間だけ仕事をした。

 ダイニングテーブルへパソコンを置く。俊介はソファで本を読む。同じ部屋。別々のことをする。

 真尋は引き継ぎ資料を整理した。集中しながらも、時々俊介の気配を感じる。ページをめくる音。コーヒーを飲む音。立ち上がり、窓の外を見る姿。

 誰かがいると集中できないと思っていた。今は、安心する。

 ただし一時間を過ぎれば、仕事を終える。俊介との約束。

 午前十時半、真尋はパソコンを閉じた。

「終わりました」

 俊介が本を閉じる。

「本当に一時間」

「はい」

「もう少しやりたい?」

「少し。でも、今日は終わりです」

「ありがとうございます」

 俊介がソファの隣を空ける。真尋はそこへ座った。

     *

 午前中は、二人で大阪へ持っていく写真を選んだ。

 二つの影。俊介の横顔。真尋が一人で撮った窓。父と母と真尋。白と薄黄色の花も、写真に撮った。

「この花も大阪へ?」

 俊介が尋ねる。

「写真なら」

「はい」

「生花は枯れます」

「また持っていきます」

 真尋は写真を箱へ入れようとする。俊介が止めた。

「これは、手荷物で」

「なぜ?」

「箱が届くまで、部屋に何もない」

「会社の家具があります」

「写真は?」

「翌日には荷物が」

「最初の夜に」

 俊介は言う。

「一人で過ごしたいと言いましたね。その時、写真が一枚でもあれば」

 真尋は二つの影の写真を見る。葵との始まり。俊介の写真も。家族。

 どれを最初の夜へ持っていくか。

「全部、手荷物にします」

 真尋が言うと、俊介が笑う。

「多いです」

「選べないので」

「では、小さな封筒へ」

「はい」

 最初の夜。誰かは隣にいない。だが写真はある。電話もできる。

 一人で始める生活と、孤独は違う。

     *

 昼食は外へ出ず、昨夜のパンとサラダの残りで簡単に済ませた。

 午後一時を過ぎると、俊介が少しずつ帰る準備を始めた。

 部屋着。洗面用品。読みかけの本。歯ブラシは残す。かごが空になる。

 真尋はその様子を見ながら、寂しくなる。

 昨夜からいた俊介が帰る。部屋が元へ戻る。

 だが完全には同じではない。同じベッドで眠った。夜中に寂しいと言った。朝、口づけをした。一緒に卵焼きを作った。

 その時間が、この部屋へ残る。

「帰ります」

 俊介が玄関で言う。

「はい」

「寂しいです」

「私も」

「次に泊まるのは、大阪ですか」

「東京かもしれません」

「いつ?」

「まだ決めません」

「はい」

「今日のことを、急いで次へつなげないでください」

「わかりました」

「でも、また一緒に眠りたいです」

 真尋から言う。俊介の顔が柔らかくなる。

「僕もです」

「次は、今日より近づくかもしれません。同じかもしれません。その時に」

「はい」

 俊介は靴を履く。真尋が扉を開ける前に、俊介が振り返った。

「口づけをしてもいいですか」

「はい」

 玄関で短く唇を重ねる。

「行ってきます」

 俊介が言う。真尋は驚く。

 いつもなら、帰ります。また。

 今日は、行ってきます。

「行ってらっしゃい」

 真尋は答えた。扉が閉まる。

     *

 部屋へ戻る。リビングは静か。テーブルには、花。洗面所には俊介の歯ブラシ。ベッドには二つの枕。

 真尋は寝室へ入り、シーツへ手を触れた。俊介が眠っていた場所。すぐに片づける気にはならない。

 午後、洗濯をする予定だった。だが今日は、そのまま残しておきたい。

 真尋はベッドの端へ座る。

 幸せだった。怖かった。止まった。それでも一緒に眠った。

 どれか一つだけではない。近づけなかった夜ではない。すべて進んだ夜でもない。

 今の二人が選んだ距離で、同じ朝を迎えた。

 真尋はスマートフォンを手に取った。俊介から、

『電車に乗りました』

 と届く。

『はい。気をつけて』

『帰ったら連絡します』

『はい』

 次に葵。

『もう帰った?』

『はい』

『どうだった?』

 真尋は考える。内容を話さないと伝えた。それでも、自分が感じたことは少し伝えたい。

『怖い時に、止まってほしいと言えました』

 葵から返事が来る。

『俊介さん、止まった?』

『はい』

『よかった』

『一緒に朝食を食べました』

『卵焼き』

『はい』

『幸せ?』

 真尋は画面を見つめる。

『はい』

 送る。その後に、

『寂しくもあります』

『帰ったから?』

『はい』

『両方』

『はい』

 葵から、

『私も嬉しい』

 と届く。

 真尋が幸せであることを、葵が喜んでいる。

 以前のように、その幸せが自分の場所を奪うと思うだけではない。

『ありがとうございます』

     *

 翌週、葵は新しい商品の言葉を社内会議へ提出した。候補は三つ。

『迷う日にも、ひと息。』

『立ち止まる時間も、あなたの一日。』

『答えを急がない午後に。』

 それぞれに短い説明をつけた。

 石橋は資料を読み、最初に尋ねた。

「前より軽くなったね。自分から離れられた?」

「少し」

「誰に聞いた?」

「母。美月。真尋」

「男性には?」

「まだ」

「なぜ?」

「特に理由は」

「幅を広げたいなら、聞いたほうがいい」

 葵は考える。父。俊介。会社の男性社員。直哉。

 最後の名前が浮かぶ。

 直哉にも聞きたかった。何かを選んだ後に迷ったことがあるか。葵との別れ。戻りたいと言った後、拒まれたこと。

 直哉の答えを聞けば、商品へ深さが出るのではないか。

 そう考える自分に気づく。仕事を理由に、連絡する道を探している。

「直哉さんへ聞こうと思った?」

 石橋が言う。葵は驚いて顔を上げた。

「どうして」

「顔」

「皆、顔でわかるって言います」

「わかりやすくなったんじゃない」

「以前より?」

「隠さなくなった」

     *

 葵は資料へ視線を落とす。

「聞きたいです」

「仕事として?」

「半分」

「残りは?」

「話したい」

「なら、今は聞かないほうがいいかもね。商品へ必要な意見は、ほかの人から取れる。その人でなければならない理由が、仕事以外なら、分けたほうがいい」

 葵は頷いた。

 伝えたい気持ちがなくなるまで待つ必要はない。ただ、仕事を連絡の口実にはしない。

「父に聞きます。俊介さんにも」

「真尋さんの恋人?」

「はい」

「良い関係になったんだね」

「少し」

「最初は?」

「取られると思いました」

「今は?」

「取られないってわかった」

「何が?」

「私の場所」

 葵は答えた。

     *

 俊介へ意見を聞くため、葵は初めて自分から直接メッセージを送った。三人で連絡先を交換した後も、個別に送ることはほとんどなかった。

『仕事の企画で、少し質問してもいいですか』

 俊介からは、

『もちろんです』

 と返ってきた。

『何かを決めた後に、迷った経験はありますか』

 既読がついてから、返事まで時間があった。

『あります』

『どんなこと? 話せる範囲で』

『今の会社へ入った時です』

 葵は意外に思う。俊介は今の仕事を迷わず選んだように見えた。

『建築士になりたかったんですよね』

『はい。ただ、今の会社では、希望していた設計より改修や調整の仕事が多かったです』

『辞めようと思った?』

『最初の二年間は何度も』

『どうして続けたんですか』

『続けると決めたからではありません。その都度、あと一つだけ学んでから考えようと思いました』

 母の「次の日まで待つ」に似ている。

『何て言われたかったですか』

 俊介からの返事は、さらに遅れた。

『選んだ会社が合わなかったとしても、僕の選択全部が間違いではない、と』

 葵はノートへ書く。

『一つの選択が合わなくても、自分の判断力すべてが否定されるわけではない』

 長い。商品には使えない。だが考え方として大切だった。

『ありがとうございます』

『商品に使えますか』

『そのままは長いです』

『すみません』

『謝らなくていいです』

     *

 迷い、葵は続ける。

『真尋が大阪へ行くこと、迷っていますか』

 俊介の返事はすぐには来なかった。

『毎日、少し』

『行かないでって思う?』

『思います』

『それでも応援する?』

『はい』

『何て言われたら楽?』

『寂しいと思うことと、応援していないことは同じではない、と』

 葵は胸を突かれた。

 自分も同じだった。行ってほしくない。でも行ってほしい。寂しい。応援したい。

 矛盾ではなく、両方ある。

『私も同じです』

『はい』

『俊介さん。真尋と泊まったこと、聞いてないです』

 送ってから、余計なことだと思う。だが俊介から、

『はい』

 とだけ返ってくる。

『真尋からも、詳しく聞いてません。少し気になるけど、聞かないです』

『ありがとうございます』

 俊介は間を置いて、

『葵さん』

 と送る。

『何ですか』

『真尋が、怖い時に言葉で止まれたと話していました。葵さんが、以前から真尋へ気持ちを言うよう勧めてくれたことも、影響していると思います』

 葵は画面を見つめる。

『私は何も』

『しています』

『俊介さんも』

『はい』

『二人で作ってるんですね』

『はい』

 嫉妬が全くないわけではない。真尋と俊介だけの夜。自分は入れない。

 だが、入れない場所があることを受け入れられる。その代わりに、葵と真尋にしかない場所もある。

『真尋を大切にしてください、とは言わないです』

『はい』

『俊介さんが、自分で大切にしたいと思ってるから。私も、自分で大切にします』

『はい』

『一緒ですね』

『形は違いますが』

『うん』

     *

 葵の父は、選んだ後に迷った経験として、家を買った時の話をした。

「契約した翌日、眠れなかった」

「どうして?」

「何十年も払うから」

「お母さんには?」

「言わなかった」

「また?」

 母が横から、

「私は気づいてた」

 と言う。

「何て言われたかった?」

 葵が尋ねると、父は困った顔をした。

「別に」

「仕事だから」

「何の商品だ」

「お菓子」

「家を買った話がお菓子になるのか」

「言葉を考えてる」

 父はしばらく考える。

「決めた後に怖くなるのは、真剣だったからだ、と言われたら少し楽だったかもしれない」

 葵はすぐに書いた。

『迷うのは、真剣に選んだ証拠』

 強い。迷わない人もいる。すべての迷いが真剣さの証拠とも限らない。

 だが、父の言葉から、

『怖くなるほど、大切に選んだ日へ。』

 という候補が生まれた。

「重い」

 母が言う。

「やっぱり?」

「お菓子でしょう」

「うん」

「もっと食べたくなる言葉」

「真面目に考えて」

「考えてるわよ」

 三人で笑った。

     *

 葵は集めた言葉を整理し、最終的に二つの案へ絞った。

『迷う日にも、ひと息。』

『答えを急がない午後に。』

 最初の案は、幅が広い。誰にでも入りやすい。二つ目は、商品の利用時間と合う。午後。仕事や家事の途中。一度立ち止まる。

 石橋とデザイナーを交えた打ち合わせで、二つを比較した。

「私は一つ目」

 デザイナーが言う。

「理由は?」

 葵が尋ねる。

「迷うという言葉が、自分のことに見える」

「二つ目は?」

「少しきれいすぎる」

 石橋は二つ目を選んだ。

「商品としては、午後があるほうがわかりやすい」

「でも、答えって重くないですか」

「迷うも重い。どちらも、今の商品より対象は狭い」

「はい」

「試験する?」

「したいです」

 葵は言った。

「二つの言葉で、少数店舗」

「前回と同じ方法?」

「今回は、既存商品の購入者へも案内して、反応を見たいです」

「追加アンケートは?」

「選んだ後の迷いに関する質問を入れます」

「個人的すぎないように」

「はい」

 企画が、少しずつ商品へ近づく。

 葵の痛みから始まった言葉。母。父。美月。真尋。俊介。異なる選択と迷いが加わった。

 もう直哉だけへ向けたものではない。

     *

 真尋は、俊介と同じ朝を迎えた後、泊まる前よりも離れることが寂しくなった。

 仕事中。大阪の資料を見る。住居の手続き。引っ越し業者。支社との会議。

 そのたびに、俊介と過ごした朝が浮かぶ。一緒に目を覚ます。卵焼き。洗面所の順番。何気ない時間。

 遠距離になれば、毎週はできない。月に一度できるかもわからない。

 知ったからこそ、失うように感じる。

 ある夜、俊介との電話で真尋は言った。

「泊まらなければよかったと、少し思いました」

 俊介が黙る。

『嫌だった?』

「違います。幸せだったので、離れるのがさらに寂しくなりました。知らなければ、今まで通りでいられた。俊介は?」

『僕も、同じ朝を毎日迎えたいと思いました』

「毎日?」

『今は』

「一緒に暮らしたい?」

 真尋の胸が緊張する。

『すぐにではありません。大阪へ一緒に行きたいとも思いました』

「仕事があります。俊介の生活も」

『わかっています』

「その気持ちだけで、辞めないでください」

『辞めません。でも、思うことは許してください。真尋と暮らす未来を考えたことも』

「私も、少し考えました」

『本当に? 怖いですか』

「かなり」

『僕もです』

「俊介も?」

『一緒に暮らせば、今より嫌な部分が見えます。一人の時間が減る。仕事の時間。片づけ。食事。睡眠。でも、朝を一緒に迎えたいとも思う』

「私も」

『今すぐ決めなくていいですね。大阪へ行って、離れてみてから。それでも一緒に暮らしたいと思うか』

「はい」

 二人は、同居を約束しなかった。結婚も。

 ただ、その可能性が初めて言葉になった。

     *

 大阪への引っ越しまで、残り二週間。

 真尋の部屋の段ボール箱は増えた。壁から写真を外す日も近い。

 俊介が泊まった夜の花は、少しずつ萎れ始めていた。

 真尋は水を替えながら、枯れた花を一本取り除いた。

 全部が同じ日に終わるわけではない。元気な花は残す。枯れたものだけ外す。花束の形は変わる。それでも、まだ花はある。

 真尋は一本の白い花を、小さな皿の上へ置いた。

 乾かして、大阪へ持っていこうかと思う。生花のままでは運べない。形を変えれば残せる。

     *

 仕事では、東京部署の引き継ぎが佳境へ入っていた。

 佐伯が提案。吉田が現場ヒアリング。真尋は答える回数を意識して減らした。質問を質問で返す。本人の判断を聞く。失敗しても、すぐに取り上げない。

 ある日、吉田のヒアリング報告書に重要な問題が書かれていた。

 店舗で新商品の説明が統一されておらず、店員によって案内が異なる。売上の差へ影響している可能性。これまでの数字だけでは見つけられなかった。

「よく聞けましたね」

 真尋が言う。

「店員さんが、愚痴みたいに話して。最初は報告へ入れなくていいと思いました」

「なぜ?」

「数字じゃないから」

「入れてよかったです」

「本当に?」

「はい」

「私の得意なこと、仕事になりました」

 吉田が嬉しそうに言う。

「課長が大阪へ行っても、続けていいですか」

「もちろんです」

「書式、変えても? 課長に確認しなくて?」

「新しい責任者へ相談してください」

「課長ではない」

 吉田の顔に寂しさが浮かぶ。

「慣れません」

「私もです」

「大阪から見ない?」

「見ることはできます。でも、決めるのは東京の人です。吉田さんも、その一人です」

「はい」

 真尋が必要でなくなる。

 以前なら怖かった。今も少し寂しい。だが、部下が自分で仕事を作り始めていることが嬉しい。

     *

 引っ越し一週間前の日曜日。

 真尋、俊介、葵、母の四人は、初めて同じテーブルを囲んだ。大阪行き前の食事会。場所は、真尋の母が選んだ日本料理店だった。

 母と俊介が会うのは初めて。葵は、以前に母と一度だけ会っている。

 俊介は約束の二十分前に到着した。

「早すぎます」

 真尋が言う。

「緊張して」

「葵の時も」

「お母様はさらに」

 俊介は小さな手土産を持っている。母の好みを真尋へ何度も確認し、和菓子を選んだ。

「俊介。試験ではありません。母へ認められなくても、別れません」

 俊介が驚き、それから笑う。

「安心しました」

「でも、失礼なことを言えば怒ります」

「はい」

 葵が遅れて来た。

「お待たせ」

「五分遅刻です」

「電車」

 俊介を見る。

「緊張してます?」

「かなり」

「真尋のお母さん、優しいですよ」

「会ったんですか」

「一度」

「先を越されました」

 俊介が言う。葵は得意そうに笑い、すぐに、

「でも、恋人として会うのは俊介さんだけ」

 と言った。

「はい」

「大丈夫」

「ありがとうございます」

     *

 三人で母を待つ。母は約束ちょうどに現れた。

「お待たせ」

「時間通りです」

 真尋が言う。俊介が立ち上がった。

「初めまして。黒田俊介と申します」

 頭を下げる。

「真尋の母です」

 母は俊介を見て、微笑む。

「写真で見るより、柔らかい方ね」

「写真?」

 俊介が真尋を見る。

「一枚、見せました」

「どれを?」

「不忍池の」

 俊介はさらに緊張した顔になる。

「座りましょう」

 母が言った。

     *

 食事は、最初こそ硬かった。

 母が俊介の仕事を聞く。建築。改修。図書館。今の忙しい案件。

 俊介は真面目に答える。説明が細かくなりかけると、真尋が止める。

「そこまでで」

「はい」

 母が笑う。

「真尋に、いつも止められるの?」

「はい」

「いい組み合わせね」

 葵が横から言う。

「私も止めます。三人でいると、俊介さんは建物、真尋は仕事、私は感情の話」

「まとまらなそう」

「真尋がまとめます」

「大阪では、誰がまとめるのかしら」

 母が真尋を見る。

「現地の皆さんと」

「一人でしないでね」

「はい」

 俊介が頷く。

「僕も、そう思います」

「俊介さんは、真尋が大阪へ行くこと、寂しくない?」

 母が直接尋ねる。

「寂しいです」

 俊介は迷わず答えた。

「行ってほしくないとも思います」

「それでも?」

「仕事を断ってほしくありませんでした」

「どうして?」

「真尋がやりたいと言ったので」

「優しいから?」

「自分のためでもあります」

 母が眉を上げる。

「自分の?」

「僕のために断られたら、いつか苦しくなると思いました」

「真尋が?」

「僕も」

 俊介は正直に話す。

「仕事より僕を選んだのだから、と無意識に求めるかもしれません」

 母は黙り、俊介を見た。

「よく考える人ね」

「考えすぎます」

 真尋が言う。

「真尋もでしょう」

 母が返す。葵が笑った。

「二人とも」

     *

 母は葵にも尋ねた。

「葵ちゃんは、真尋が大阪へ行くの、どう?」

「嫌です」

 葵ははっきり答える。

「寂しい。でも、行ってほしい」

「どうして?」

「真尋がやりたいから」

 俊介と同じ。

「二人とも、同じね」

 母が言う。

「形は違います」

 葵が急いで答える。

「わかってるわよ」

「真尋は、幸せね」

 真尋は何と答えればよいかわからない。

 俊介。葵。母。それぞれが寂しいと言いながら、自分の選択を受け入れている。

「はい」

 真尋は認めた。

「幸せです」

     *

 食事の後半、母が俊介へ尋ねた。

「結婚は考えているの?」

 真尋の箸が止まる。

「お母さん」

「聞くだけ」

 俊介も固まる。葵は黙って様子を見ている。

「将来的には、考える可能性があります」

 俊介が答えた。

「真尋とは?」

「はい」

 真尋の胸が強く鳴る。

「今すぐではありません」

「真尋は?」

 母が尋ねる。

「今は、決めていません」

「一緒に暮らすことは?」

「大阪から戻った後に、考える可能性があります」

 俊介が真尋を見る。昨夜の電話で話したこと。母へ言うとは思っていなかった。

「そう」

 母はそれ以上勧めなかった。

「二人で決めなさい」

「はい」

「葵ちゃんは?」

 突然向けられ、葵が驚く。

「私?」

「次の恋」

「今は、考えてません」

「直哉くんとは?」

「終わりました」

「連絡は?」

「してません」

 葵は寂しそうに答える。

「それでいいの?」

 母が尋ねる。真尋は口を挟みそうになり、止める。葵自身が答える。

「いいかは、わかりません。でも、今は連絡しないって決めています」

「戻りたい?」

「会いたい。でも、戻りたいとは少し違います」

「そう」

 母は静かに頷いた。

「好きだった人を、急いで過去にしなくていいわね。次の人を見つける必要もない」

「はい」

「真尋が恋人と幸せでも」

 母は真尋と俊介を見る。

「葵ちゃんが同じ形になる必要はない」

「はい」

 葵は涙を拭い、笑った。

     *

 食事会が終わり、店の前で四人は別れた。母は一人で帰ると言う。真尋が送ろうとしたが断られた。

「俊介さんと帰りなさい」

「葵も」

「私は美月と待ち合わせ」

 葵が言う。

「今から?」

「少しだけ」

「大丈夫ですか」

「大丈夫。真尋と俊介さんは、二人で」

 葵は寂しそうだが、自分の予定へ向かう。

 母が俊介へ言う。

「真尋を、よろしくとは言いません」

 俊介が驚く。

「本人が嫌がるから」

 母は笑う。

「でも、話を聞いてあげてください。あなたの話もして。一人で決めないように」

「はい」

 次に真尋へ。

「俊介さんへ、仕事の話ばかりしないで」

「していません」

「してる顔よ」

 母は手を振り、駅へ向かった。

     *

 真尋と俊介は、駅まで歩いた。

「緊張しました」

 俊介が言う。

「よく話していました」

「結婚の質問は」

「すみません」

「真尋が謝ることでは」

「母へ言っておきます」

「嫌ではありませんでした」

「本当に? 答えに困りました?」

「少し」

「私と結婚する可能性を、母の前で言いました。後悔しています?」

「していません」

 俊介は歩きながら言う。

「真尋が嫌ではなければ」

「嫌ではありません。でも、期待へ変えないでください。大阪へ行く前に決めない」

「はい」

「離れてから、どう感じるか。一緒に暮らしたいか。結婚という形が必要か。話します」

「はい」

 駅前の信号で止まる。俊介が真尋の手を握った。

「先日の夜、泊まれてよかったです」

「私も」

「止まったことも。同じ朝を迎えたことも。大阪へ行っても、急がずに続けたいです」

「はい」

     *

 引っ越し前夜。

 真尋の東京の部屋は、必要最低限の物だけが残っていた。

 大阪へ送る箱は、すでに業者が運び出した。壁の写真は外され、手荷物の封筒へ入っている。

 白い壁。家具は残る。だが、いつもの部屋とは違う。

 寝室には、布団と二つの枕。俊介が泊まった夜の枕も残した。

 洗面所には三本の歯ブラシ。

 真尋は葵の歯ブラシを見た。大阪へも新しい一本を用意している。俊介の大阪用も、すでに買ってある。東京の物は、そのまま残す。

 場所ごとの歯ブラシ。異なる生活。同じ人たち。

 スマートフォンが鳴る。葵からビデオ通話。

『部屋、見せて』

「何もありません」

『だから』

 真尋は画面を部屋へ向ける。白い壁。箱のない床。テーブル。

『広い』

「物が減ったので」

『写真ない』

「手荷物です」

『明日持っていく?』

「はい」

『私の影も。俊介さんは? お父さんも?』

「時計と写真。全部」

 葵の表情がほどける。

『明日、駅に行く』

「無理しなくても」

『行きたい。お母さんも。俊介さんも。四人』

「大げさです」

『真尋が旅立つ日』

「出張です」

『一年近い』

「月に戻ります」

『それでも』

 葵の目に涙が浮かぶ。

「明日、泣きます?」

『たぶん』

「新幹線へ乗り遅れないように」

『泣く時間も予定に入れて』

「入れません」

 二人は笑った。

     *

『真尋。最初の夜、一人で大丈夫?』

「はい」

『電話は?』

「俊介とします」

 葵の顔が曇る。

「その後、葵にも」

『本当?』

「時間が遅くなければ」

『待ってる』

「無理に起きなくても」

『起きる』

「明日は平日です」

『寝る前に短く』

「はい」

『俊介さんが最初』

「順位ではありません」

『わかってる』

 葵は吹き出した。

『でも、最初に声を聞きたい人が俊介さんなんだね』

「はい」

 真尋は正直に答えた。葵の目に寂しさが浮かぶ。それでも頷く。

『うん』

「葵。大阪で、戻ってこられる場所を作ります」

『うん』

「葵も来てください」

『行く』

「秋田も」

『行く』

「約束です」

『はい』

     *

 通話を終えた後、俊介から電話がかかってきた。

『準備は?』

「終わりました」

『眠れそうですか』

「わかりません」

『僕も』

「俊介は引っ越しません」

『真尋が行くので。明日、見送った後、仕事へ行きます』

「休むのでは?」

『午前だけ休みます』

「無理を」

『僕が決めました。新大阪へ着いたら、連絡してください。部屋へ入ったら、最初の写真を』

「何を撮るんですか」

『窓から見える景色。それから、写真を飾った壁』

「まだ壁へ掛けられません」

『床へ並べても』

「はい」

『真尋。明日、手を離せるか不安です』

 俊介の声が低い。

「新幹線が出ます。離してください」

『はい』

「私も、乗りたくなくなるかもしれません。その時は、行ってと言ってください」

『言えるかわかりません』

「言ってください」

『努力します』

「俊介。行ってほしくないと言ってもいいです」

『はい』

「その後に、行ってらっしゃいと。両方、聞きたいです」

『わかりました』

     *

 真尋は電話を切り、白い壁の前へ立った。

 写真はない。それでも、そこにあった場所を覚えている。二つの影。俊介の横顔。窓。家族。

 明日から、その一部が大阪の壁へ移る。東京にも同じ写真が戻る。

 どちらも真尋の生活。どちらも帰る場所。

 大阪では、最初の夜を一人で過ごす。俊介の声を聞く。葵へ連絡する。母へ到着を知らせる。

 それでも、部屋の中で眠るのは一人。

 自分で選んだ新しい仕事。誰かが寂しがっても。自分が寂しくても。進む。

 真尋は寝室へ入り、二つの枕のうち、俊介が使ったほうへ触れた。

 同じ朝を知った。だから離れることが苦しい。

 だが、知ったことを後悔しない。今日の温かさを持ったまま、明日の距離へ向かう。

 真尋は枕を一つ、クローゼットへしまった。もう一つだけをベッドへ置く。

 今夜は一人で眠る。明日の夜も。

 それでも、同じ朝を迎えた記憶は消えない。

 真尋は照明を消した。

 暗い部屋の中で、明日の新幹線の時刻をもう一度思い出した。

 午前十時三十分。東京駅。見送る三人。母。葵。俊介。

 手を離す。それから、自分の足で乗る。

 真尋は目を閉じた。

 眠りへ入るまで、俊介の手の温度と、葵の「行って」という声が、交互に胸へ浮かんでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。