第二十二章 最初の夜に置くもの
引っ越し当日の朝、真尋は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
午前五時四十八分。カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。
部屋は静かだった。段ボール箱はない。壁の写真も外されている。
大阪へ送らない家具だけが、広くなった部屋の中へ残っている。いつも使っていたソファ。テーブル。本の減った棚。食器が半分だけになったキッチン。
東京へ戻る場所として残すため、すべてを空にしたわけではない。それでも、今日まで暮らしてきた部屋とは少し違って見えた。
真尋はベッドから起き上がり、足を床へ下ろした。冷たい。
大阪の部屋では、朝の床はどの程度冷えるのだろう。窓から見える景色。外の音。隣の部屋の生活音。まだ何も知らない。
今日の夜には、知らない部屋の中で一人になる。
胸の内側に、細い緊張が生まれた。
*
真尋は寝室を見回す。
ベッドには枕が一つ。俊介が使った枕は、前夜にクローゼットへしまった。
洗面所には三本の歯ブラシが残っている。自分の東京用。俊介。葵。自分の大阪用は、すでに手荷物の中へ入れた。
最後に洗面所を使い、顔を洗う。
鏡の中の自分は、思っていたより普通の顔をしていた。
今日、長く暮らした東京の生活を離れる。部長代理として大阪へ向かう。俊介と遠距離になる。葵と気軽に会えなくなる。母とも距離が増える。
大きな日なのに、鏡の中の自分は昨日とそれほど変わらない。
それが少し不思議だった。
*
朝食は、冷蔵庫に残っていたヨーグルトとパンだった。引っ越し前に食材を使い切ったため、卵も野菜もない。
コーヒーだけは淹れた。東京の部屋で飲む最後の朝のコーヒー。
そう考えると、急に味を覚えておきたくなる。
真尋は急がずに飲んだ。いつもの豆。いつものカップ。
窓の外を走る車の音。上の階から聞こえる足音。遠くの工事。何度も繰り返した朝。
次に戻った時も、同じように聞こえるだろうか。
真尋は食事を終え、カップを洗った。水気を拭き、棚へ戻す。
大阪へ持っていくカップは別に買った。このカップは東京へ残す。戻った時に、以前と同じ物でコーヒーを飲めるように。
手荷物を確認する。
財布。スマートフォン。会社のパソコン。大阪支社の資料。着替え。洗面用品。薬。父の時計。写真を入れた封筒。葵からもらった白い花瓶。俊介と葵の大阪用の歯ブラシ。母からもらった小さな布製の袋。
すべて入っている。重い。だが、最初の夜に必要だと思ったものばかりだった。
真尋は部屋を一周した。窓の鍵。ガス。水道。コンセント。冷蔵庫。郵便物の転送。管理会社への連絡。
何度も確認したことを、もう一度確かめる。
玄関の前で靴を履く。扉へ手をかけ、振り返る。
「行ってきます」
誰もいない部屋へ言った。返事はない。
それでも、帰ってくる場所へ伝えたかった。
*
東京駅へ着いたのは、午前九時四十五分だった。
新幹線は十時三十分。見送る三人とは、十時に改札前で待ち合わせている。
早く着きすぎた。真尋は人の流れを避け、壁際へ立った。
平日の朝。大きな荷物を持つ旅行客。急ぎ足の会社員。家族連れ。外国人旅行者。
誰もが、それぞれの場所へ向かっている。真尋だけが特別な旅立ちをするわけではない。
毎日、多くの人がこの駅で誰かと別れ、新しい場所へ向かう。それでも自分にとっては、一度しかない朝だった。
スマートフォンを見る。
俊介から。
『今、駅へ着きました』
葵から。
『少し遅れるかも。走ってます』
母から。
『もう着いたわよ。どこ?』
*
真尋は周囲を見回す。先に母を見つけた。
紺色のコート。小さな紙袋。人の流れの中で、真尋を探している。
「お母さん」
声をかけると、母が顔を上げた。
「早いじゃない」
「お母さんも」
「乗り遅れたら困るから」
「私が乗るんです」
「知ってるわよ」
母は真尋の手荷物を見る。
「重そう。持つ?」
「いいです」
「最後まで一人で持つのね」
「必要な物ですから」
母は吹き出した。
「新しい部屋へ着いたら、まず連絡して。食事は?」
「近くで買います」
「作らないの?」
「初日は」
「冷蔵庫に何もないでしょう」
「はい」
母は紙袋を差し出した。
「おにぎりと、煮物」
「持ってきたんですか」
「新幹線で食べてもいいし、夜でも」
「荷物が増えます」
「わかってる」
真尋は紙袋を受け取った。温かくはない。それでも母の台所の匂いがした。
「ありがとうございます」
「全部食べなくていいから」
*
少しして、俊介が来た。
仕事用のスーツではなく、落ち着いた色のジャケット。午前中だけ休みを取り、この後会社へ向かう。
真尋を見つけると、足を速めた。
「おはようございます」
「おはようございます」
母へ頭を下げる。
「先日はありがとうございました」
「こちらこそ」
俊介は真尋の荷物を見る。
「持ちます」
「重いです」
「だから」
「自分で持ちます」
真尋が言うと、俊介は寂しそうに手を引いた。母が横から言う。
「駅の中くらい、持ってもらえばいいのに」
「お母さん」
「頼る練習でしょう」
俊介が困ったように真尋を見る。
真尋は考え、パソコンの入っていない小さなバッグを渡した。
「こちらを」
「はい」
俊介の顔が柔らかくなる。
「全部でなくてもいいんですね」
「はい」
*
葵は、待ち合わせ時刻を五分過ぎて走ってきた。
髪が少し乱れている。肩には大きなバッグ。手には、細長い紙袋。
「ごめん」
「走らなくても」
「電車が遅れて」
「まだ時間はあります」
葵は真尋の前へ立ち、何かを言おうとして、言葉を止めた。目がすでに潤んでいる。
「まだ泣かないでください」
「泣いてない」
「泣いています」
「風」
「駅の中です」
母と俊介が離れて見守っている。
葵は紙袋を差し出した。
「これ」
「何ですか」
「大阪の部屋へ」
中には、小さな造花の枝が入っていた。淡い桃色の花。秋田の地酒のラベルに描かれていた花に少し似ている。
「生花は枯れるから。白い花瓶へ。俊介さんが生花を持ってくるまで」
俊介の口元が緩んだ。
「持っていきます」
「その後も置いて」
「花瓶が小さいです」
「一輪ずつ」
葵は真尋を見る。
「最初の夜、何もない部屋で寂しくならないように」
「写真もあります」
「花も」
「ありがとうございます」
真尋は造花を手荷物へ入れようとした。
「折れます」
俊介が言う。
「僕が持ちます」
「俊介さん、会社へ行くでしょう」
「改札まで」
俊介が大切そうに紙袋を持った。
*
四人は改札近くの喫茶店へ入った。乗車時刻まで二十五分。落ち着いて話せる時間は、それほど多くない。
真尋はコーヒー。母は紅茶。俊介もコーヒー。葵は何も要らないと言ったが、母に勧められ、ミルクティーを頼んだ。
四人で一つのテーブルへ座る。誰も最初の言葉を出さない。
「仕事なのに、旅行みたいね」
母が言った。
「長期出張です」
「一年近いでしょう」
「予定では」
「帰ってくるの?」
葵が尋ねる。
「月に二回を目安に」
「目安」
「仕事によります」
葵の表情が曇る。俊介が言う。
「帰れない月があっても、僕たちから行きます」
「はい」
母が俊介を見る。
「仕事を無理しないでね。葵ちゃんも」
「私は行きます」
「会社を辞めないでね」
「辞めません」
真尋は三人を見る。
「皆さん、自分の生活を優先してください」
「真尋も」
葵がすぐに返す。
「大阪で、仕事だけにならないで。ご飯食べて。寝て。写真送って」
「毎日は送りません」
「わかってる」
俊介も言う。
「何か問題が起きても、最初から全部自分で解決しようとしないでください。僕に仕事の答えは出せませんが」
「聞いてもらいます」
母は真尋の顔を見た。
「寂しくなったら、寂しいって言うのよ。大丈夫って言わなくていい」
「はい」
真尋は、同じ返事ばかりしている自分へ笑った。
「皆さんも、寂しい時は言ってください」
「今、寂しい」
葵がすぐに言う。
「私も」
母も。
「僕もです」
俊介も。
三人が同じ答えを返す。真尋の胸が詰まった。
「私もです」
ようやく言う。葵の目から涙が落ちた。
*
店を出ると、出発まで十五分だった。
改札を通れるのは真尋だけ。三人は改札の外まで。
俊介が持っていたバッグと、造花の紙袋を真尋へ渡す。
「ここからは、自分で」
「はい」
母が真尋のコートの襟を直す。
「風邪を引かないように」
「もう春です」
「朝晩は冷える。お父さんの時計、持った?」
「はい」
「写真も? 薬は?」
「はい」
母は子どもの頃と同じように確認する。真尋は止めなかった。
最後に母が真尋の腕へ触れた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
母は抱きしめなかった。普段通りの言葉だけ。それでも声が震えていた。
*
葵は真尋の前へ立った。涙を拭っても、次々に溢れる。
「真尋。行ってほしくない。東京にいてほしい。秋田、一緒に行きたい」
「行きます」
「大阪へ行ったら、忙しくなって、私のこと忘れるかもしれない」
「忘れません」
「新しい人がたくさんできる」
「はい」
「私より近くなる人も」
「いるかもしれません」
真尋は嘘を言わない。葵の顔が歪む。
「でも」
真尋は続ける。
「葵の場所がなくなるわけではありません。離れても、戻ってこられる人です」
葵は声を上げずに泣いた。真尋へ抱きつく。真尋も抱きしめる。
周囲に人がいる。それでも、すぐには離れなかった。
「大阪、行って」
葵が真尋の肩へ顔をつけたまま言う。
「はい」
「やりたい仕事、して。失敗しても、戻ってきて。成功しても。私がいなくても大丈夫になっても」
「はい」
「会いたいって言って」
「言います」
「私も言う」
「はい」
二人は離れた。葵は涙で濡れた顔のまま、笑った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
*
最後に、俊介が真尋の前へ立つ。母と葵が距離を取った。
「真尋。行ってほしくないです。今からでも、断ってほしいと思う気持ちがあります」
「はい」
「同じ朝を、もっと一緒に迎えたかったです」
「私も」
「大阪で、僕の知らない生活が増えることが怖いです。僕がいないことに慣れて、必要なくなるかもしれない」
「はい」
「それでも」
俊介は息を吸った。
「行ってらっしゃい」
真尋の目に涙が浮かぶ。
「行ってきます」
「仕事をしてください。暮らしてください。僕を待つだけの部屋にはしないでください」
「はい」
「僕も、真尋を待つだけの生活にはしません。でも、会いたいです」
「私も」
「好きです」
「私も、好きです」
俊介が真尋へ手を伸ばす。抱きしめてもよいか、目で尋ねている。
真尋から腕を広げた。俊介が抱きしめる。いつもより強い。真尋も背中へ腕を回す。
「離したくないです」
俊介が小さく言う。
「新幹線へ乗ります。離してください」
俊介の腕が緩む。それでもすぐには離れない。
「俊介。大阪へ来てください」
「行きます」
「無理のない範囲で。東京へ戻ります」
「待っています」
「生活をしながら」
「はい」
二人は離れた。俊介の目も少し赤い。
*
発車まで七分。真尋は三人へ一度ずつ頭を下げ、改札を通った。
振り返る。母。葵。俊介。三人が並んでいる。
葵は大きく手を振る。母も小さく。俊介は手を上げたまま、真尋を見ている。
真尋も手を振った。それから、自分の足でホームへ向かった。
振り返りたい。もう一度戻りたい。まだ間に合う。改札を出て、三人と東京の部屋へ帰ることもできる。
その考えが一瞬浮かぶ。
真尋は立ち止まらなかった。
ホームへ上がる。新幹線が停車している。指定された車両。自分の席。窓側。
荷物を棚へ上げる。造花の紙袋だけは、手元へ置いた。座る。
窓の外には、ホームを歩く人々。三人の姿は見えない。
スマートフォンが震える。
葵。
『乗った?』
『はい』
『まだ降りられる』
『降りません』
『うん』
母。
『着いたら連絡』
『はい』
俊介。
『手を離せました』
『はい』
『真尋も乗れましたか』
『乗りました』
『行ってらっしゃい』
『行ってきます』
*
発車の案内が流れる。扉が閉まる。列車がゆっくり動き始める。
真尋は窓の外を見た。東京駅のホームが後ろへ流れる。見送りの人。駅員。柱。屋根。
やがて暗い場所へ入り、外が見えなくなる。
胸の中に、はっきりした痛みが生まれた。
行ってしまう。もう、東京の部屋へ気軽には戻れない。俊介へ会いたいと思っても、すぐには会えない。葵が泣いても、迎えに行けない。母に何かあっても、数時間かかる。
自分で選んだ。その事実が、少し重かった。
真尋はバッグから母のおにぎりを取り出した。まだ食べる気にはならない。膝の上へ置き、窓へ視線を戻した。
*
列車が品川を過ぎ、新横浜へ向かう頃、真尋は落ち着いた。
スマートフォンへ届くメッセージを、一つずつ読む。
佐伯。
『大阪、頑張ってください。東京はこちらで回します』
吉田。
『店舗ヒアリング、今日もあります。課長に聞かずにまとめます』
部長。
『新大阪到着後は、支社の担当者が迎えます。今日は住居の確認だけで構いません』
香織。
『大阪で食べすぎないように。落ち着いたら電話して』
美月からも、葵を通して連絡先を知ったのか、短いメッセージが届いた。
『葵はこちらで見ています。真尋さんも、自分の生活を作ってください』
真尋は思わず笑った。
葵を任せた覚えはない。だが美月がいる。家族も。葵自身も。
真尋が東京を離れても、葵の生活は続く。そのことへ安心する。
同時に、自分が必要でなくなるような寂しさも少しある。
その寂しさを否定しない。
必要とされるために戻るのではなく、会いたいから戻る。葵と話した言葉を思い出す。
*
新横浜を過ぎた後、真尋は母のおにぎりを一つ食べた。鮭。少し塩が強い。母の作る味。
煮物は、夜へ残す。
窓の外に山が見える。富士山は雲に隠れ、頂上だけが少し見えた。
真尋は写真を撮った。
誰へ送るか迷う。俊介。葵。母。三人とも。
すぐに送ると、移動のすべてを報告しているように感じる。だが、見せたい。
真尋は三人の共通のグループを作ることも考えた。これまで、三人だけの連絡用グループはない。必要な時には個別に連絡している。
同じ写真を三人へ送るためにグループを作るのは、少し違う気がした。
真尋は、それぞれへ違う写真を送ることにした。
母へ、食べたおにぎり。
『鮭を食べました』
母から。
『煮物も食べなさい』
葵へ、雲の間から見えた富士山。
『少しだけ見えました』
葵から。
『今度、秋田へ行く新幹線からも写真撮ろう』
俊介へは、窓へ映る自分の手と、流れる景色。
『今、ここです』
俊介から。
『手をつないでいるように見えます』
真尋は写真を見直す。窓に反射した右手。隣の空席。
『一人です』
『はい。でも、僕の手を想像しました』
『想像しすぎです』
『すみません』
真尋は声を立てて笑った。
*
新大阪駅へ着いたのは、午後一時過ぎだった。
ホームへ降りる。東京とは違う空気。同じ駅の中でも、人の声の響き方が少し違う気がする。
大きな荷物を持ち、改札へ向かう。
大阪支社の総務担当、山岸という女性が待っていた。三十代後半。明るい紺色のスーツ。
真尋の名前を書いた紙は持っていない。事前に写真を見ていたのか、真尋へすぐに近づいてきた。
「水口さんですか」
「はい」
「山岸です。お待ちしていました」
「よろしくお願いします」
「今日はお疲れでしょう。部屋までご案内します」
「ありがとうございます」
「荷物、持ちます」
「大丈夫です」
反射的に断る。山岸は手を引かずに言う。
「駅の階段が少しあります。小さいほうだけでも」
東京駅で俊介へバッグを渡したことを思い出す。
「では、こちらをお願いします」
「はい」
真尋は造花の紙袋を渡そうとした。山岸が笑う。
「それは大切そうなので、別のを」
パソコンの入っていないバッグを渡した。
*
新大阪から電車へ乗る。真尋が選んだ部屋までは、乗り換えを一度。
車窓の景色を見ながら、山岸が説明する。
「支社までは、朝なら三十分くらいです。遅延すると、少し時間がかかります」
「東京でも同じです」
「商店街が近いので、生活はしやすいと思います。私も、あの辺りに住んでいたことがあります」
「そうですか」
「おすすめの店、後で送ります」
「ありがとうございます」
「水口さん。明日から、すぐ会議を入れられていますが」
「資料で見ました」
「無理なら、遠慮なく言ってください」
「大丈夫です」
答えた後、山岸の顔を見る。
「大丈夫ではない場合には、言います」
言い直す。山岸が笑った。
「東京の方は、皆さん大丈夫と言うので」
「大阪の方は?」
「無理なものは無理と言います」
「全員ではないでしょう」
「もちろん」
二人は笑った。
新しい職場で、最初に会った人。山岸は総務担当として、立ち上げの事務面を支える。
「山岸さんも、再編プロジェクトへ参加されますか」
「はい。人事と総務の窓口です」
「では、明日からもよろしくお願いします」
「こちらこそ。東京から怖い人が来ると聞いていました」
真尋は足を止めそうになる。
「怖い人?」
「仕事が速くて、数字に厳しいと」
「誰からですか」
「いろいろ」
「はい」
「でも、思っていたより普通です」
「褒めていますか」
「今のところ」
山岸は明るく笑った。真尋も少しだけ笑う。
すでに、東京で作られた自分の印象が先に届いている。
変えようとしすぎる必要はない。厳しい部分も自分。
ただ、相手の話を聞く前に決めないこと。それだけは忘れたくなかった。
*
最寄り駅を出る。
商店街。個人経営の八百屋。総菜店。小さな書店。花屋。平日の午後でも人が歩いている。
真尋は、写真で見た通りの場所を自分の目で確かめた。
「ここが商店街です」
山岸が言う。
「遅い時間は閉まる店も多いですが、スーパーは十時まで。駅の反対側にコンビニもあります」
「病院は?」
「内科が二つ。少し歩けば総合病院も」
「ありがとうございます」
「調べていました?」
「はい」
「さすがですね」
真尋は、自分が生活を始める場所を確認する。
いつか葵と歩く。俊介も来る。母も。
だが最初に歩くのは自分と山岸。大阪で初めて知る人と。
*
部屋は、写真で見たより少し狭く感じた。
玄関を開けると、まだ新しい清掃剤の匂いがする。
家具は会社が用意した最低限のものだけ。小さなテーブル。椅子二脚。ベッド。カーテン。冷蔵庫。洗濯機。照明。
段ボール箱は、午前中に届いていた。リビングの中央へ、十箱ほど積まれている。
「鍵はこちらです」
山岸から二本受け取る。
「予備は会社で保管していません。紛失した場合は、管理会社へ。ガスは開通済み。水道と電気も」
「はい」
「何か問題があれば、今日でも連絡してください」
「ありがとうございます」
「本当に、一人で大丈夫ですか」
山岸が尋ねる。
東京から来たばかり。箱に囲まれた部屋。知り合いも少ない。
真尋はいつものように大丈夫ですと言いかける。
「少し不安です」
正直に答えた。
山岸が一瞬驚き、柔らかく笑った。
「最初は、そうですよね。私は近くではありませんが、電車で四十分ほどです。困ったら、仕事以外でも連絡してください」
「ありがとうございます」
「ただし、夜中の家具組み立ては無理です」
「頼みません」
*
山岸が帰った後、部屋は急に静かになった。扉が閉まる音。鍵をかける。
真尋は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。
一人。大阪。知らない部屋。東京の部屋とは違う匂い。壁。床。窓。
外から聞こえる自転車のベル。隣の部屋で水を流す音。冷蔵庫の作動音。
すべてが、自分の生活になっていく。
スマートフォンが震える。俊介。
『着きましたか』
真尋はすぐに電話をかけたくなった。だが、最初に部屋へ入った時間を一人で過ごしたいと自分で決めた。まだ十分も経っていない。
『着きました。今、一人で部屋にいます』
『写真は?』
真尋は窓へ向かった。カーテンを開ける。
向かいには低い建物。その先に、公園の木が少し見える。東京の部屋ほど高い階ではない。空は狭い。だが、午後の光が部屋へ入っている。
真尋は写真を撮った。
『窓からです』
俊介から。
『想像より、木が近いです』
『はい』
『落ち着きますか』
真尋は部屋を見回す。
『まだ、わかりません』
『最初に、何をしますか』
真尋は写真の封筒を見る。
『写真を出します』
『電話は、その後で』
『はい』
*
真尋は手荷物の封筒をテーブルへ置いた。一枚ずつ取り出す。
父と母と、高校生の自分。二つの影。俊介の横顔。窓の写真。白と薄黄色の花。
すぐに壁へ掛ける道具はない。テーブルの上へ並べる。父の時計を、その隣へ置く。
葵からもらった白い花瓶を箱から出す。造花の枝を入れる。少し長い。俊介が来た時に切ってもらおうと思い、今はそのまま。
花瓶を写真の横へ置く。
まだ何も整っていない部屋に、東京から持ってきた時間が並ぶ。
「着きました」
誰へ言うでもなく、真尋は声にした。
それから、葵へ写真を送る。白い花瓶。桃色の造花。背後に二つの影。
『最初に置きました』
すぐに返信。
『泣く』
『泣かないでください』
『もう泣いてる』
『はい』
『部屋、寂しい?』
『少し』
『電話する?』
真尋は時計を見る。午後三時前。まず箱を一つ開けたい。
『夕方に』
『わかった』
『美月といる?』
『今、会社』
『仕事をしてください』
『はい』
次に母へ。
『部屋へ着きました』
写真も送る。
『花、きれいね』
『葵からです』
『煮物、冷蔵庫へ入れて』
『はい』
『冷蔵庫、動いてる? 鍵、閉めた?』
『はい』
『なら安心』
母の言葉は生活の確認ばかり。それが今はありがたかった。
*
真尋は最初の箱を開けた。
『キッチン』
葵の文字。
中には皿。カップ。鍋。包丁。まな板。調味料の一部。割れないよう新聞紙に包まれている。
一つずつ出し、洗う。新しい部屋の水。蛇口の感触が違う。水の音も。
皿を棚へ置く。カップ。鍋。台所が少しずつ、自分が使う場所になる。
二つ目の箱。
『洗面所・生活』
タオル。洗剤。自分の歯ブラシ。俊介用。葵用。
三本をコップへ入れる。東京と同じ並び。
真尋は考え、自分の歯ブラシだけを前へ置いた。
今、暮らすのは自分。俊介と葵の歯ブラシは、奥へ。来る日を待つためではなく、来た時に使う物として。
洗面所の鏡へ、三本が映る。安心する。
同時に、自分の部屋へ二人の存在を置きすぎていないかとも思う。
だが、今はこれでいい。必要になれば変える。
*
三つ目の箱を開けたところで、体が重くなった。時計は午後四時半。
朝から移動し、緊張が続いている。全部を今日中に開けようとしていた自分に気づく。
明日から仕事。生活に必要な物だけ出せばいい。残りは、週末でもよい。
真尋は箱を閉じた。椅子へ座る。
部屋の中央には、まだ多くの箱。途中のまま。
以前なら、眠る前にすべて片づけた。今は、途中の部屋で最初の夜を過ごす。
完成していない生活。それでも眠れる。
スマートフォンを取り出す。俊介へ電話をかけるには、まだ早い。彼は会社にいる。八時頃なら話せると言っていた。葵は仕事中。母も夕食の準備をしているだろう。
誰にも電話できないわけではない。だが、今は一人で過ごす時間。
真尋は窓を開けた。外の音が少し大きくなる。子どもの声。自転車。商店街の放送。東京とは違う。
その音を聞きながら、少しだけ目を閉じた。
*
気づくと、椅子に座ったまま三十分ほど眠っていた。首が痛い。外は少し暗くなっている。
真尋は立ち上がり、体を伸ばした。
夕食。母のおにぎりと煮物がある。冷蔵庫へ入れた煮物を出す。
電子レンジは備え付けではない。届いた箱の中。まだ開けていない。
冷たいまま食べるか。鍋で温めるか。
真尋は箱の表示を探した。
『家電』
俊介の文字。テープを開ける。小型の電子レンジ。持ち上げるには少し重い。
一人で台へ置こうとする。腕に力が入る。持ち上げられる。だが、落とす可能性がある。
山岸へ頼むことではない。明日、会社の人に来てもらうのも違う。俊介や葵がいれば、二人で持てる。
今は一人。
真尋は無理に動かさず、箱へ戻した。
*
鍋で煮物を温める。冷たいおにぎりは、そのまま。
一人分の夕食をテーブルへ並べる。写真と花瓶を端へ寄せる。
「いただきます」
大阪の部屋で、最初の食事。
母の味。鮭のおにぎり。里芋。人参。鶏肉。東京で食べた時と同じ味。
場所が変わっても、味は変わらない。
真尋は少し泣いた。大きな涙ではない。一粒だけ落ちる。すぐに拭う。
寂しい。だが、戻りたいだけではない。この部屋で暮らしたい気持ちもある。
明日、仕事へ行きたい。新しい人たちへ会いたい。自分が選んだ場所。
喜びと寂しさが、同じ食卓へある。
*
食事を終える頃、葵から電話がかかってきた。午後七時十二分。
「もしもし」
『今、大丈夫? ご飯食べた?』
「母のおにぎりと煮物」
『作ってくれたんだ。部屋、どう?』
「箱が残っています」
『全部開けなかった?』
「はい」
『偉い』
「何が?」
『真尋なら、朝まで開けると思った』
「明日仕事なので」
『疲れた?』
「かなり」
『寂しい?』
「はい」
真尋はすぐに答えた。葵が電話の向こうで息を吸う。
『私も』
「はい」
『東京駅から、美月の会社の近くまで行った』
「仕事中では?」
『昼休みに会ってくれた。泣いた。その後、仕事した。真尋がいなくても、一日終わった。寂しかったけど』
「はい」
『大阪の部屋、帰れる場所になりそう?』
真尋は部屋を見回す。まだ箱。写真。花瓶。三本の歯ブラシ。
「少しずつ」
『私の花、ある?』
「テーブルに」
『写真送ってくれた。俊介さんの写真の隣?』
「二つの影の隣です」
『俊介さんは?』
「その隣」
『どっちが近い?』
「並べ方の話ですか」
『少し気になった』
「順位にしません」
『はい』
葵が小さく笑う。
*
『今、電話していい時間だった? 俊介さんより先?』
真尋は時計を見る。俊介との電話は八時半。
「はい」
『本当に? 嬉しい』
「俊介とは、後でゆっくり話します」
『私は短い?』
「時間では比べません」
『でも、十分くらい?』
真尋は息を吐く。
「葵。不安なんですね」
『少し』
「はい」
『大阪へ行って、最初に俊介さんへ電話するって言ってた』
「予定が変わりました」
『私が先になった。それで、少し安心した』
真尋は葵の言葉を聞く。
順位を求めている。自分の場所を確認したい。以前より減ったが、完全にはなくなっていない。
「葵。今日、葵と先に話したことで、俊介より大切という意味にはなりません。俊介と後で長く話すことで、葵より大切という意味でもありません」
『うん』
「話したい時に話します。葵の場所は、順番でなくなりません」
『わかってる。でも、時々確認したくなる』
「確認してください」
『嫌じゃない?』
「多すぎれば言います」
『美月みたい』
「はい」
『真尋。今日、電話してよかった』
「私もです」
『明日、仕事でしょう。怖い?』
「少し」
『怖い人って思われてるんだよね』
「山岸さんから聞きました」
『どうする?』
「無理に優しく見せません。ただ、話を聞きます」
『真尋ならできる』
「失敗もします」
『したら、電話して。私の商品、大阪へ持っていった?』
「一つ」
『食べる日、写真送って。今日も、ここまで来たね。真尋、大阪まで来た。おめでとう』
「ありがとうございます」
*
葵との電話を終える。まだ一人。だが部屋の空気が少し変わった気がする。
真尋は洗面所へ行き、顔を洗った。風呂へ入る準備。湯船は小さい。東京より足を伸ばしにくい。
お湯をためる間に、寝室の箱を開ける。シーツ。枕。部屋着。
俊介と泊まった時に使ったものとは別。大阪の生活のために用意した新しいシーツ。
ベッドへ広げる。一人で使う。枕を一つ置く。
俊介用の枕は、箱から出さない。来る日が決まった時に出す。
俊介を待つ部屋ではなく、自分が暮らす部屋。その形を守りたかった。
*
風呂から上がると、午後八時二十五分だった。俊介からメッセージ。
『仕事が終わりました。話せますか』
『はい』
真尋は電話をかけた。
『もしもし』
「お疲れさまでした」
『真尋も。部屋は?』
「生活に必要な物だけ出しました」
『全部ではない?』
「はい」
『珍しいですね』
「葵にも言われました」
『先に話したんですか』
俊介の声に、少し寂しさが混じる。
「はい」
『そうですか』
「寂しいですか」
『少し。最初の夜、僕と最初に話すと聞いていたので』
「予定が変わりました。葵から電話が来ました。話したかったので出ました」
『わかっています』
「俊介と話す時間を減らすためではありません」
少し沈黙。
「俊介。不満を言ってください」
『先に話したかったです。東京駅から会社へ戻って、何度も時計を見ました。真尋が部屋へ着いた後、一人で過ごす時間を大切にしたいとわかっていました。だから連絡を控えました。八時になったら、僕と話せると思っていました。その前に葵さんと話したと聞いて、少し置いていかれた気持ちです』
俊介は自分の感情を言葉へしている。葵を責めず、真尋を責めすぎず。
「話してくれてありがとうございます。私は、俊介が仕事中だと思いました」
『終わる時間を連絡すればよかったです』
「私も、葵と話すと伝えてもよかった。次に同じことがあれば」
『予定が変わったと、短く送ってください。僕も、話せる時間を知らせます』
「はい」
『今は、僕との時間ですか』
「はい」
『どのくらい?』
「眠くなるまで」
俊介の声が柔らかくなる。
『ありがとうございます』
「お礼ではありません」
『嬉しいので』
*
真尋は部屋の中をビデオ通話で見せた。箱。キッチン。洗面所。寝室。窓。
俊介は画面越しでも、間取りを確認する。
『テーブルの位置、少し窓へ寄せても』
「今日は動かしません」
『電子レンジは?』
「まだ箱です」
『重いでしょう。山岸さんへ頼めますか』
「仕事の人へ、家電を持ち上げてもらうのは」
『では、引っ越し業者へ追加で』
「明日、会社で相談します」
『一人で無理にしないでください』
「はい」
『僕が行くまで待つ?』
「いつ来られますか」
『来週末を考えています』
「まだ仕事が始まったばかりです。私の予定もわかりません。電子レンジのために待ちません」
『わかりました』
俊介は残念そうだ。
「来たいですか」
『はい』
「私も、来てほしいです」
『本当ですか。来週では早いですか』
真尋は考える。
最初の一週間。新しい仕事。疲れている可能性。俊介を迎える準備を負担に感じるかもしれない。
同時に、会いたい。
「土曜日の午後なら」
『行きます』
「仕事の予定が入れば、変えます。宿泊は?」
俊介が黙る。
『泊まりたいです。でも、真尋が一週間過ごしてから決めてください。ホテルも取れます』
「はい」
『大阪の部屋で、同じ朝を迎えたい気持ちはあります』
「私も」
『でも、最初から僕の場所にしたくありません』
俊介の言葉に、真尋は安心する。
「ありがとうございます」
『今日、枕は?』
「一つです」
『僕の分は?』
「箱の中」
『少し寂しいです』
「来る日が決まったら出します。今は、私の部屋なので。俊介が来る部屋でもありますが、俊介を待つだけの部屋ではありません」
『わかっています。僕の部屋も、真尋が戻るのを待つだけにはしません』
*
『今日、友人と食事をしました』
「誰と?」
『大学時代の友人です』
「男性?」
『男性二人と、女性一人』
真尋の胸が動く。
「女性も? 以前からの友人?」
『はい』
「どのような方?」
『設計事務所で働いています。大学の同期です。嫉妬しました?』
「少し」
正直に答える。
『話してよかったですか』
「はい」
『真尋が大阪へ行った後、友人との予定を増やそうと思っています』
「私を待つ生活にしないため?」
『それも。でも、真尋に会えない時間を埋めるためだけではありません。以前から会いたかった人たちです』
「わかりました。その女性と、二人で会うこともありますか」
『可能性はあります』
真尋の胸に、不安が生まれる。
「嫌です。でも、会うなとは言いません。事前に必ず報告してほしいとも思いません。聞いた時に、隠さないでください」
『もちろんです』
「私も、大阪で男性と二人で食事をする可能性があります」
『嫌です』
俊介もすぐに言う。二人は笑う。
「でも?」
『仕事や友人なら、止めません。ただ、不安は言います』
「私も」
距離が増える。知らない時間が増える。
管理しようと思えば、いくらでも報告を求められる。だが、報告の量で信頼を作ることはできない。
聞いた時に話す。不安を隠さない。相手の生活を奪わない。
それを続けるしかない。
*
「俊介。今日、東京駅で言ってくれたこと」
『行ってほしくない?』
「はい」
『本当です』
「嬉しかったです。今、一人で部屋にいても、戻りたいと思いました?」
『思いました』
「東京へ?」
『はい』
「私も少し」
『帰ってきますか』
「今日は帰りません。明日、仕事へ行きます。でも、戻りたいと思ったことは隠したくありません。大阪へ来たことを後悔したわけではなくても、東京へ戻りたい」
『両方ですね』
「はい」
『僕も、真尋に戻ってきてほしい。でも、大阪で仕事をしてほしい。矛盾ではなく』
「両方」
『はい』
俊介の声を聞いていると、東京の部屋へ戻ったような安心がある。
同時に、電話を切れば一人になる。真尋はそのことも受け入れたかった。
「俊介。そろそろ切ります」
『もう?』
「九時半です」
『眠るには早いです』
「一人の時間を過ごします」
俊介が黙る。
『わかりました』
「寂しいですか」
『はい』
「私も。それでも、最初の夜を、自分で終えたいです」
『わかりました』
「明日の朝、連絡します」
『何時?』
「起きた時に。俊介も、眠ってください。おやすみなさい」
『おやすみなさい』
「好きです」
真尋から言う。俊介の声が明るくなる。
『僕も好きです』
電話を切った。
*
部屋が静かになる。先ほどまで俊介の声があった場所。スマートフォンを置く。
寂しさが急に大きくなった。
もう一度電話をかけたい。葵へも。母へも。誰かの声を聞きながら眠りたい。
だが、今夜は一人で過ごすと決めた。
一人でいることが、誰かを拒むことではない。自分の生活を始めるための時間。
真尋は、まだ開けていない箱を一つだけ選んだ。
『寝室・本』
テープを開ける。旅の随筆。仕事の本。小説。
すべて出さず、三冊だけ棚へ置く。一冊をベッドへ持っていく。
東京でも読んでいた本。ページの途中に栞が挟まっている。同じ続きを、大阪で読む。
生活は完全に切り替わるのではなく、続いている。
*
寝る前、母へ短く連絡した。
『食事をして、風呂へ入りました』
『煮物は?』
『食べました』
『おやすみ』
『おやすみなさい』
葵へ。
『俊介と話しました。今から一人で過ごします』
『電話しなくて大丈夫?』
『はい』
『寂しくなったら?』
『今夜は、自分で過ごします』
『無理しないで。おやすみ』
『おやすみなさい』
真尋はスマートフォンを伏せた。
*
ベッドへ入る。新しいシーツ。少し硬い。枕の高さも東京とは違う。
窓の外から、電車の音が遠く聞こえる。上の階で椅子を動かす音。隣の部屋の扉。知らない生活音。
真尋は本を開いた。数ページ読む。文字が頭へ入らない。本を閉じる。照明を消す。
暗い部屋。テーブルの写真は見えない。花瓶も。三本の歯ブラシも。
それでも、そこにある。
真尋は目を閉じた。
東京駅の改札。母の手。葵の涙。俊介の腕。新幹線の窓。山岸の笑顔。商店街。白い部屋。
一日が、いくつもの場面に分かれて浮かぶ。
寂しい。会いたい。怖い。同時に、少し楽しみだった。
明日、新しい職場へ行く。怖い人だと思っている人たちへ会う。
自分が何者かを、最初から説明するのではなく、一緒に仕事をしながら知ってもらう。東京で身につけたことを、そのまま正解として持ち込まない。大阪の人たちが何を積み重ねてきたかを聞く。
できるだろうか。わからない。
それでも、やってみたい。
*
眠りへ入る直前、真尋は小さな音で目を開けた。スマートフォンの通知。俊介からだった。
『返事は要りません。最初の夜を、一人で過ごせますように。寂しさも、新しい部屋の一部になりますように』
真尋は文章を読む。返事は要らない。だが送りたい。
『ありがとうございます。今、眠るところです』
考え、続ける。
『寂しいですが、帰りたいだけではありません。ここで朝を迎えたいです』
俊介から、すぐに返信は来なかった。真尋は待たずに画面を伏せた。
*
翌朝、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。午前六時二十分。
一瞬、どこにいるのかわからなかった。白い天井。知らないカーテン。箱。
大阪。
真尋はベッドへ横になったまま、昨日のことを思い出した。
一人で眠った。朝が来た。
胸の中に、少しの達成感があった。大きなことではない。ただ新しい部屋で眠り、目を覚ましただけ。
それでも、自分で選んだ生活の最初の朝だった。
カーテンを開ける。東から入る光。公園の木。通勤する人。犬を散歩させる女性。
昨日とは違う朝の景色。
真尋は写真を撮った。まず、自分のために保存する。誰かへ送る前に、窓辺へ立って景色を見る。
「おはようございます」
部屋へ言う。昨日の「着きました」より、少し自然な声になった。
*
朝食は、母のおにぎりの残りと、コンビニで買っておいたヨーグルト。
電子レンジが使えないため、おにぎりは冷たい。それでも食べる。
コーヒーは、大阪用のカップへ淹れた。東京のカップとは色が違う。形も。
最初の一口。少し薄い。水の違いか、豆の量か。明日は調整する。
真尋は写真を三人へ送った。
母へ、朝食。
『食べました』
母から。
『少ない。昼はきちんと』
葵へ、窓からの公園。
『最初の朝です』
葵から。
『おはよう。真尋、大阪で起きた』
『はい』
『泣いてない?』
『今は』
『今日も、ここまで行ってきて』
『行ってきます』
俊介へは、自分のカップと、窓辺へ差す光。
『朝を迎えました』
俊介から。
『おはようございます。隣にいないのが寂しいです』
『私も』
『でも、きれいな朝ですね』
『はい』
『仕事へ行けそうですか』
真尋は自分の気持ちを確かめる。怖い。緊張。だが行きたい。
『行けます』
『行ってらっしゃい』
『行ってきます』
*
身支度を整える。部長代理としての初日。
紺色のスーツ。白いブラウス。父の時計。
鏡の前へ立つ。昨日の自分と同じ顔。だが、今は大阪の部屋にいる。
バッグへ資料を入れる。鍵を確認する。
玄関を開ける前に、テーブルの写真を見た。二つの影。俊介。家族。窓。花。
「行ってきます」
今度は、東京の部屋へではない。新しい部屋へ。帰ってくるための言葉。
扉を閉め、鍵をかける。廊下を歩く。エレベーター。外へ出る。
商店街は、昨日より人が多い。焼きたてのパンの匂い。店を開ける音。自転車。知らない街の朝。
真尋は駅へ向かって歩いた。
途中で、花屋の前に白い花が並んでいるのを見つけた。立ち止まらない。今日は仕事へ行く。
帰りに余裕があれば、一輪買おう。葵の造花と一緒に、白い花瓶へ入れる。俊介が来る前に、自分で花を選んでもいい。
真尋は笑った。
最初の夜は終わった。寂しさは消えていない。東京へ戻りたい気持ちもある。
それでも、ここへ帰ってくる夜をもう一度作りたい。
誰かが来る前に。誰かへ見せるためではなく。自分が暮らす場所として。
真尋は駅の階段を上った。
新しい仕事の始まる朝へ、自分の足で進んでいった。




