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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第二十三章 知らない街で名前を呼ばれる

大阪支社での初日は、午前八時四十分から始まった。

 真尋が受付へ着くと、昨日部屋まで案内してくれた山岸が、社員証の入ったケースを持って待っていた。

「おはようございます」

「おはようございます」

「眠れました?」

「途中から」

「最初の夜ですからね。朝食は?」

「食べました」

「なら安心です」

 山岸は社員証を真尋へ渡した。写真の下には、

『西日本営業企画統合プロジェクト 部長代理 水口真尋』

 と印字されている。

 まだ見慣れない役職。名前の上に置かれた新しい肩書き。

「こちらを首から下げてください。執務室は七階です。会議は九時から」

「資料は確認しています」

「早速、参加者が増えました」

「何人ですか」

「予定より五人」

「なぜ?」

「水口さんの話を直接聞きたいそうです」

 山岸の声には、困ったような響きがあった。

「歓迎ではなさそうですね」

「半分は」

「残りは?」

「東京から来る人が、何を変えるつもりか確認したい」

「はい」

「大阪、広島、福岡の担当者がオンラインで参加します」

「わかりました」

「緊張します?」

「かなり」

「顔には出ていません」

「出さないようにしています」

「出してもいいと思いますけど」

「初日から?」

「初日だから」

 山岸は笑った。

「怖い人ではないと、少しは伝わります」

「怖いと思われていることを、無理に否定しません」

「そうですか」

「仕事をしてから判断してもらいます」

「やはり少し怖いですね」

 二人は小さく笑いながら、エレベーターへ乗った。

     *

 七階の執務室は、東京より広く、天井が少し低かった。

 窓際に管理職の席。中央に島型の机。壁沿いに打ち合わせ用のテーブル。

 まだ新しいプロジェクトの専用スペースは完成しておらず、真尋には仮の席が用意されていた。

 机の上にはパソコンと電話。厚いファイルが三冊。付箋が一枚。

『お手柔らかにお願いします』

 名前はない。冗談なのか、牽制なのか。

 真尋は付箋を剥がさず、机の端へ残した。

「誰でしょう」

 山岸が覗き込む。

「わかりません」

「捨てないんですか」

「まずは置いておきます」

「気にしています?」

「少し」

「正直ですね」

 周囲から視線を感じる。何人かが挨拶へ来た。

「おはようございます」

「よろしくお願いします」

「東京から大変ですね」

「大阪のやり方は少し違いますから」

 笑顔。丁寧な言葉。だが、距離がある。

 真尋は一人ずつ名前を確認した。

 営業企画の森田。商品支援の藤本。データ分析の林。広島との連絡担当、岩瀬。若手の坂口。

 名刺を受け取り、名前を声にする。

「森田さん、よろしくお願いします」

「藤本さん、後ほど現在の業務を教えてください」

 名前を呼ぶたび、相手の表情が少しだけ変わる。

 東京から来た部長代理。肩書きではなく、人として覚えたい。

     *

 九時の会議には、支社会議室の十二人に加え、広島と福岡からオンラインで十人が参加した。

 正面の大きな画面に、複数の顔が並ぶ。

 大阪支社長が最初に挨拶をした。

「本日から、西日本営業企画統合プロジェクトが正式に始まります。責任者として、東京本社から水口部長代理に来ていただきました」

 拍手は起きなかった。当然だ。顔合わせの場。互いに期待より警戒が強い。

「水口さん、お願いします」

 真尋は立ち上がった。

 用意していた資料は、プロジェクトの目的と今後三か月の計画。だが、すぐに画面を映さなかった。

「水口真尋です」

 会議室と画面を見る。

「東京では営業企画部門の課長を務めていました。今回の再編では、地域ごとの業務を一つへ揃えることだけを目的にはしていません」

 何人かが表情を変える。

「最初に、皆さんが現在どのような仕事をしていて、何を必要だと考えているかを知りたいと思っています」

 福岡から参加している男性が、すぐに手を挙げた。

『それは、聞いた上で東京式へ変えるという意味ですか』

 画面に表示された名前は、福岡営業支援の中原。

「いいえ」

『では、統合とは何でしょう』

「残すもの、変えるもの、やめるものを一緒に決めることです」

『最終的に決めるのは、水口さんですよね』

「責任者として判断する場面はあります」

『なら同じでしょう』

 会議室の空気が硬くなる。真尋は、反論を急がない。

「中原さんは、これまでどのような統合で問題がありましたか」

 中原が黙る。

『質問で返すんですか』

「はい。私が知らない経緯があるように感じました」

『以前も、本社から業務改善の担当者が来ました。現場の意見を聞くと言いました。でも、最初から導入するシステムも報告書の形式も決まっていた。私たちは説明しただけで、何も変わらなかった』

「いつ頃ですか」

『三年前です』

「その仕組みは、今も残っていますか」

『一部は』

「問題は?」

『入力が二重です』

 真尋は資料へメモする。

「具体的に、後ほど教えていただけますか」

『また説明するんですか。前もしました』

「今回は、私が聞いていません」

 中原の表情が変わる。

「三年前の担当者がどう判断したかは、今すぐ変えられません。ただ、現在も二重入力があるなら、今回の検討対象にします」

『なくせますか』

「今は約束できません」

『やはり』

「システム上必要な理由があるかもしれない。ほかの部署が使っている可能性もある。調べずになくすと言えば、嘘になります」

 中原は黙った。

「ただし、必要がなければやめます」

『いつまでに?』

「二週間で現状を確認し、一か月以内に方針を出します」

『わかりました』

 納得したようには見えない。それでも、最初の質問は終わった。

     *

 今度は大阪側の森田が手を挙げた。

「人員削減はありますか」

 会議室の全員が真尋を見る。

 再編。統合。重複業務の整理。誰もが気にしていること。

「現時点で、削減人数は決まっていません」

「削減しないとは言えない?」

「言えません」

 森田の顔が硬くなる。

「業務を整理した結果、役割が変わる可能性はあります」

「東京では、もう決めているんじゃないですか」

「決めていません」

「本当に? 人件費削減が目的では?」

 真尋は支社長を見る。支社長は口を挟まない。責任者として答えろということだろう。

「経費の見直しは、目的の一つです」

 真尋は隠さず言った。会議室に小さなざわめきが起きる。

「ただし、人数を減らすことだけが経費削減ではありません」

「仕事を減らす?」

「不要な資料、重複入力、移動、会議、外注費」

「人件費のほうが大きいでしょう」

「はい」

「なら、最後は人を減らす」

 森田の声には怒りがある。真尋はその怒りを否定しない。

「その可能性を、今ここでゼロとは言いません」

「それで意見を出せと? 自分の仕事をなくす案を?」

「仕事を守るために、必要のない作業を残すことはできません」

     *

 森田が口を閉じる。

 言い方が強かったと、真尋は気づく。初日。東京から来た怖い人。その印象を深めたかもしれない。

 それでも、曖昧に安心させることはできない。

「ただ」

 真尋は続ける。

「現在の仕事がなくなることと、その人が必要なくなることは同じではありません」

 森田が真尋を見る。

「新しい役割へ移るために必要な研修や時間も、計画へ入れます」

「全員?」

「希望と適性、必要な人数によります」

「選ばれなかった人は?」

「その場合の対応も、会社と話します」

「冷たいですね」

 森田が言った。会議室が静まる。

 真尋は言葉を受け取る。

「そう聞こえたと思います」

「思います、ではなく」

「はい。冷たい説明でした」

 森田が驚く。

「私は、決まっていないことを大丈夫だと言えません。でも、不安を抱えたまま仕事をする皆さんへ、数字だけを示せばよいとも思っていません」

「では?」

「個別に話を聞かせてください」

「一人ずつ? 何人いると思っているんですか」

「プロジェクト対象は四十三人です」

「全員と?」

「最初の一か月で」

 山岸が隣で小さく息を吸った。日程が大変だと言いたいのだろう。

「できるんですか」

「一人三十分を基本にします」

「それで何がわかるんです」

「すべてはわかりません」

 真尋は答えた。

「ただ、数字や役職だけで判断するよりは多くを知れます」

 森田は何も言わなかった。

     *

 会議は予定を三十分超えた。

 質問。反発。過去の不満。地域ごとの違い。

 真尋はすべてへ答えようとせず、確認が必要なものを分けた。

『今日答えられること』

『二週間以内に確認すること』

『経営判断が必要なこと』

 最後に画面へ表示した。

「今後、質問や意見はこの三つへ分けて記録します。回答できないものを放置しないためです」

 中原が画面越しに尋ねる。

『回答期限も書きますか』

「はい」

『守れなかった場合は?』

「理由と新しい期限を伝えます」

『水口さん自身が?』

「私か、担当者が」

『責任者が逃げない?』

「逃げません」

 言い切った後、真尋は考え、付け加えた。

「ただし、一人で全部答えるつもりもありません」

 会議室の何人かが真尋を見る。

「担当者へ任せます。私が知らないことは、知っている人へ聞きます」

 最初の会議は、それで終わった。

 拍手はなかった。だが、開始時より少しだけ、視線の種類が変わった気がした。

     *

 会議室を出ると、山岸が大きく息を吐いた。

「初日から、かなり言われましたね。大丈夫ですか」

「今は」

「森田さん、悪い人ではありません」

「わかっています」

「以前の再編で、部下が異動になったんです」

「本人の希望ではなく?」

「はい。説明も遅かった」

「だから、人員の話を」

「そうだと思います」

 真尋はメモへ追加する。

『森田 過去の異動・説明不足』

「山岸さん。個別面談の日程を作れますか」

「本当に全員と? 一か月で四十三人」

「一日二人から三人」

「通常業務もあります」

「わかっています」

「無理です、と大阪では言いますよ」

 山岸は吹き出した。

「無理ですか」

「今のままなら」

「では、どうすれば?」

「三十分ではなく、最初は二十分。管理職は四十分。オンラインの人は、移動がない時間へ集める。水口さん一人ではなく、内容によって私や森田さんも同席」

 真尋は迷う。

「相手が話しにくくなりませんか」

「一対一を希望するか、最初に聞けばいいです。それと、全部を水口さんが記録しない」

「誰が?」

「本人に、話したいことを事前に三項目だけ書いてもらう。面談後の確認も本人へ返す」

「それなら」

「できます」

 山岸は言った。

「東京の人は、最初から一人でやろうとしますね」

「全員ではありません」

「水口さんは?」

「今、山岸さんへ相談しました」

「合格です」

「何の?」

「大阪で働く最初の試験」

 二人の間に短い笑いが起きた。

     *

 自席へ戻ると、机の付箋が増えていた。

『人を減らさないでください』

 最初の『お手柔らかに』の下。名前はない。

 真尋は二枚を見た。

 直接言えない人がいる。初日から意見を求めても、全員が手を挙げるわけではない。

 付箋を剥がさず、その隣へ自分で一枚貼った。

『意見は匿名でも受け取ります。返答が必要な場合は連絡方法を書いてください』

 山岸が戻ってきて、それを見る。

「掲示板を作りますか」

「はい」

「オンラインも?」

「必要です」

「誰が管理します?」

 真尋は自分が、と言いかける。

「山岸さんへお願いできますか」

「総務の仕事として?」

「プロジェクト事務局として」

「権限は?」

「今日中に支社長へ確認します」

 山岸は思わず笑った。

「任せましたね」

「はい」

「でも、回答は水口さんも」

「内容によって」

「わかりました」

     *

 昼休み、真尋は社員食堂へ一人で向かった。

 初日だから、誰かと食べるべきかとも思った。だが、午前中だけで頭が疲れていた。一人で整理したい。

 食堂は東京より小さく、定食が三種類。真尋は魚の定食を選んだ。窓際の端へ座る。

 箸を持ったところで、向かいに誰かが立った。

「ここ、いいですか」

 森田だった。

「はい」

 断る理由はない。森田は肉の定食を置き、椅子へ座った。

 二人の間に、少し気まずい沈黙がある。

「午前中は、言いすぎました」

 森田が先に言った。

「いいえ」

「いや、初日から」

「必要な質問でした」

「でも、冷たいと言った」

「冷たく聞こえる説明でした」

「怒っていませんか」

「少し驚きました」

「正直ですね」

 森田は味噌汁を一口飲んだ。

「東京では、部下と昼を食べました?」

「時々」

「水口さんから誘う?」

「ほとんどありません」

「でしょうね」

「なぜ?」

「一人が好きそう」

「好きです」

「今も?」

「はい」

「では、なぜ座らせたんですか」

「森田さんが聞いたので」

「断らない?」

「一人でいたい時は断ります」

「今日は?」

     *

 真尋は考える。

 今も一人でいたい気持ちはある。だが森田と話す必要も感じる。

「少し一人でいたかったです」

「なら、言ってください」

 森田は意外にあっさり言った。

「大阪では?」

「大阪でも、断る人は断ります。でも、今は僕が聞きたいことがある」

「何ですか」

「本当に人を切るために来たんじゃないですか」

 午前中と同じ問い。だが、今度は会議の言葉ではなく、個人の声だった。

「私に、人を切る決定権はありません」

「提案はできる。数字だけ見れば、同じ仕事をしている人がいます。減らせると思うでしょう」

「業務だけを見れば」

「人は?」

「まだ知りません」

「だから面談?」

「はい」

 森田は真尋の顔を見る。

「面談で、助けたい人と助けなくていい人を決める?」

「違います」

「では?」

「仕事が減った時、その人が何をできるか知るためです」

「きれいな話ですね」

「そう聞こえると思います」

「現実は、全員に新しい役割を作れない」

「はい」

「なら、最後は選ぶ」

「はい」

 真尋は逃げずに答えた。森田は箸を止める。

「水口さん。怖い人だと思ってました」

「今も?」

「少し違う」

「優しい人ですか」

「それも違う」

 真尋は笑う。

「何ですか」

「嘘をつかない人」

「それが一番怖い時もあります」

「はい。でも、前の担当者よりは話せそうです」

「ありがとうございます」

「まだ信用はしてません」

「わかっています」

     *

 昼食後、真尋は支社長室へ行き、匿名意見箱とプロジェクト事務局の権限について相談した。

 支社長は最初、難しい顔をした。

「匿名は、不満の書き込みだけになる可能性があります。責任のない意見も」

「はい」

「すべてへ答えるんですか」

「事実確認できるものは」

「誹謗中傷は?」

「扱いません」

「線引きは誰が」

「山岸さんと私で案を作ります」

 支社長は考える。

「東京本社にも見せますか」

「個人が特定されるものは、本人の同意なく共有しません」

「本社のプロジェクトなのに?」

「意見を出した人が不利益を恐れれば、必要な情報が集まりません」

「水口さん。現場へ寄りすぎると、本社から甘いと思われますよ。逆に、本社へ寄れば現場から信用されない。難しい立場です」

「承知しています」

「どうします?」

 支社長が尋ねる。真尋は考えた。

「どちらへ寄るかではなく、判断理由を両方へ説明します」

「理想ですね」

「失敗すると思います」

「最初から?」

「はい」

「それでもやる?」

「はい」

 支社長は笑った。

「では、試してください。山岸さんへ事務局権限を出します。ただし、月に一度、私にも報告を」

「わかりました」

     *

 午後の会議は、現行業務の説明だった。

 大阪、広島、福岡で、同じように見えて異なる報告書。同じ数字を別の形式で集計。営業担当が二つのシステムへ入力。商品企画へ届くまで一週間。

 問題は多い。だが、各地域で違う理由もある。

 大阪は店舗数が多い。広島は担当者の移動範囲が広い。福岡は地場商品の比率が高い。東京本社の統一様式では、拾えない情報がある。

 真尋は、すぐに結論を出さず聞いた。何度も質問する。

「なぜ、この項目が必要ですか」

「誰が使っていますか」

「いつからですか」

「なくした場合、困る人は?」

 最初は警戒していた参加者も、少しずつ具体的に話し始めた。

 午後四時を過ぎた頃、広島の岩瀬が言った。

『水口さん、全部聞いていたら終わりませんよ。最初に、統一する様式を示したほうが早い』

「岩瀬さんは、統一したいですか」

『したいです』

「なぜ?」

『三地域で数字が違う。毎月、比較するのに時間がかかる。現場の事情を聞くのは大事ですが、残しすぎれば変わらない』

 午前中とは逆の意見。変えるな。早く変えろ。どちらもある。

「岩瀬さんなら、最初に何を統一しますか」

『売上区分です』

「理由は?」

『商品分類が地域で違うから。同じ商品が、大阪では菓子、福岡では土産品に入っている』

「比較できない?」

『できません』

「では、売上区分を最初の検討項目にします」

『決める期限は?』

「三週間」

『遅い』

「どのくらいなら?」

『一週間』

「現場への影響確認が必要です」

『二週間』

 岩瀬が少し譲る。

「では、二週間で案を作り、三週間目に決定」

『わかりました』

 真尋は自分だけで期限を決めず、相手と交渉した。

     *

 初日の業務が終わったのは、午後七時二十分だった。

 山岸が真尋の席へ来る。

「帰れます?」

「このメモを整理してから」

「何分?」

「三十分」

「本当に?」

「四十五分」

「一時間ですね」

「はい」

「今日は帰ったほうがいいです」

「なぜ?」

「初日だから」

「関係ありますか」

「明日も続きます。部屋も、まだ箱があるでしょう。夕食は?」

「帰りに買います」

「なら、今帰ってください」

 真尋はパソコンを見る。

 今日の内容を整理したい。忘れる前に。

 東京の自分なら、全員が帰った後も一人で残った。だが大阪で、また同じ働き方を始めるのか。

「二十分だけ」

 真尋が言う。

「二十分で、何をします?」

「明日の最優先を三つ決めます」

「それだけ?」

「はい」

「なら待ちます」

「待たなくていいです」

「私も事務局の仕事があります」

 二人で二十分だけ残った。真尋は、

 一、個別面談の日程。

 二、売上区分の統一案。

 三、二重入力の現状確認。

 と書いた。それ以外のメモは、明日へ。パソコンを閉じる。

「終わりました」

「本当に二十分。東京では、もっと残っていました?」

「はい」

「大阪でも、忙しい時は残ってください。でも、初日は帰る」

「はい」

     *

 会社を出ると、外はすでに暗かった。

 真尋は駅へ向かいながら、俊介へ連絡しようとした。今朝、行ってらっしゃいと送ってくれた。初日が終わったことを伝えたい。

 だが、電話する前に、自分の気持ちを整理したい。

 疲れた。反発された。森田と話した。山岸へ助けられた。仕事は面白かった。

 全部をそのまま俊介へ渡すと、長くなる。今、何を一番話したいのか。

 真尋は歩きながら考えた。

『初日が終わりました。難しいですが、やりたいと思いました』

 まずメッセージを送る。俊介からすぐに返事。

『お疲れさまでした。話せますか』

 真尋は時計を見る。午後七時四十五分。

『帰宅して、食事をしてから』

『はい。待っています』

 次に葵へ。

『初日が終わりました』

 葵から。

『怖い人だった?』

『私がですか』

『周りから見て』

『たぶん少し』

『何かあった?』

『反対意見をたくさん聞きました』

『落ち込んだ?』

『少し』

『電話する?』

 真尋は俊介との時間を約束したばかり。

『今日は俊介と話します』

 送る。既読がついた後、少し返事がない。

『うん』

 その一文字。葵が寂しく思ったことが伝わる。

 真尋は続ける。

『明日の夜なら、話せます』

『仕事次第?』

『はい』

『わかった』

『葵の仕事の話も聞きたいです』

『新しい言葉、進んだ』

『明日、聞かせてください』

『はい』

 順番ではない。今日は俊介。明日は葵。予定が変わる可能性もある。

 それでも、話す時間を言葉にする。

     *

 商店街へ着くと、朝見た花屋は閉店準備をしていた。白い花がまだ店先にある。

 真尋は立ち止まった。

「すみません」

 店員の女性が顔を上げる。

「まだ大丈夫ですか」

「どうぞ」

 真尋は白い花を一輪選んだ。名前は知らない。

「これは?」

「アルストロメリアです」

「長く持ちますか」

「水を替えれば」

「一輪ください」

「お家用?」

「はい」

 店員が茎を少し切り、紙へ包む。

「引っ越してきたばかりですか」

 真尋が驚く。

「わかります?」

「この辺の方は、花をそのまま持って帰る人が多いから。紙袋を見て迷っていたので」

「昨日来ました」

「ようこそ」

 簡単な言葉。店員は真尋の名前も知らない。

 それでも、新しい街で初めて歓迎されたように感じた。

「ありがとうございます」

「またどうぞ」

     *

 夕食は商店街の総菜店で買った。焼き魚。野菜の煮物。小さなサラダ。

 部屋へ戻り、鍵を開ける。

「ただいま」

 声にする。昨日より自然だった。返事はない。それでも、帰ってきた。

 真尋は白い花の包みを開く。葵の造花が入った白い花瓶へ、一緒に挿す。

 造花の桃色。生花の白。高さが違う。少し不格好。

 だが、今の部屋に合っている気がした。

 写真を一枚撮る。最初は誰にも送らず、自分の記録として保存する。

 それから手を洗い、食事を並べた。

「いただきます」

 大阪で自分で買った最初の夕食。母の味ではない。東京から持ってきたものでもない。この街の店で選んだもの。

 焼き魚は少し甘い味付けだった。煮物の出汁も、母とは違う。

 おいしい。知らない味。自分の生活へ入ってくる。

     *

 食後、俊介へ電話をかけた。

『もしもし』

「今、大丈夫ですか」

『はい。待っていました』

「食事は?」

『済ませました』

「何を?」

『友人と蕎麦を。別の人です。男性です』

「はい」

『安心しました?』

「少し」

 真尋は正直に答えた。

「初日、どうでしたか」

 俊介が尋ねる。

「反発されました」

『どのような?』

「人員削減。東京式。以前の再編への不信。冷たいと言われました」

『真尋が? 何と答えたんですか』

「冷たい説明だったと」

 俊介が黙る。

『認めたんですね。傷つきました?』

「少し」

『今も?』

「はい」

『間違ったと思いますか』

 真尋は考える。

「説明の内容は変えません。でも、相手がなぜ怒っているかを知る前に、正しさだけを言いかけました」

『はい』

「森田さんという方と、昼食で話しました」

『男性?』

「はい」

 俊介の声が止まる。

「嫉妬しました?」

『少し』

「仕事です」

『わかっています』

「二人で食事でした。相手から座っていいか聞かれました。隠さず話します」

『ありがとうございます』

 俊介は息を吐く。

『どのような人ですか』

「四十代。部下の異動で、以前の再編へ不信がある。私をまだ信用していないと言いました」

『正直な人ですね。真尋は、その人を信用しました?』

「まだ。でも、話せると思いました」

     *

 俊介の不安が、電話越しに少し伝わる。

「俊介。森田さんが男性だから、仕事の話を減らしたくありません」

『わかっています』

「二人で話すこともあります。そのたびに報告はしません。でも、聞かれれば話します」

『はい』

「俊介も、女性の友人と会ったことを毎回報告しなくていいです」

『本当に?』

「聞いた時に隠さなければ。ただ、不安になった時は聞きます」

『僕も』

 二人は、距離が生む新しい不安を一つずつ言葉へする。

「今日、花を買いました」

 真尋が話題を変える。

『白い花?』

「なぜわかるんですか」

『真尋が選びそうなので』

「はい」

『葵さんの花瓶へ?』

「造花と一緒に」

『写真を見たいです』

 真尋は撮った写真を送る。通話の向こうで通知音がする。

『きれいですね』

「少し高さが合いません」

『そこがいいです』

「建築士らしくない答え」

『花なので』

「はい」

『僕が持っていく前に、自分で買いましたね』

「はい」

『少し寂しいです』

「俊介を待つ部屋ではありません。でも、来た時に花を持ってきてください」

『はい』

「別の色を」

『考えます』

     *

 真尋は今日の出来事を話した。

 中原の二重入力。森田の不安。岩瀬の速さ。山岸の提案。匿名意見箱。

 俊介は途中で答えを出さず、聞いた。

『真尋は、誰に一番助けられそうですか』

「今は山岸さん。でも、事務局の仕事を任せすぎないようにしたいです」

『山岸さんは、任せてほしそうでしたか』

「はい」

『なら、話せばいいと思います。森田さんは?』

「反対意見を言う人として必要です」

『味方にしたい?』

「味方というより、隠さず話してほしい。全員に好かれることはできません。でも、嫌われることを怖がって冷たいまま進むのも違う。難しいです」

『面白いですか』

 俊介が尋ねる。真尋は笑った。

「はい」

『なら、よかったです』

「仕事を選んだことを、少しだけ肯定できました」

『少し?』

「まだ一日です」

     *

 電話は一時間近く続いた。終わりが近づくと、俊介の声が寂しくなる。

『次に会えるのは、土曜日ですか』

「仕事が入らなければ。金曜日に確定します」

『宿泊は?』

「まだ決めていません。来てもらった時の自分の疲れを見て」

『ホテルを予約しておきます』

「キャンセルできますか」

『はい』

「私の部屋に泊まらない場合、寂しいですか」

『かなり。でも、疲れている真尋へ無理に泊めてもらいたくありません』

「ありがとうございます」

『僕が泊まっても、真尋が一人で眠りたい日もある。その時は、ホテルへ戻ります』

「夜に?」

『近くを取ります』

 俊介は、来ることを自分の権利にしない。

 真尋も、会いたいと言ったからすべて受け入れなければならないわけではない。

「俊介。会いたいです」

『僕もです』

「それは変わりません。泊まるかは別」

『はい』

「覚えていてください」

『覚えています』

     *

 電話を切った後、真尋は風呂へ入った。

 湯船の中で、今日言われた言葉が戻る。

 冷たい。東京式。信用していない。

 その一方で、話せそう。匿名でも意見を受け取る。山岸の提案。森田の昼食。

 一日の中に、拒絶と小さな信頼の両方があった。

 すぐに居場所になるわけではない。名前を覚え、呼び、話を聞く。間違う。修正する。その繰り返し。

     *

 翌日から、個別面談が始まった。

 最初は山岸。事務局を担う人としてではなく、プロジェクト対象者の一人として。

「仕事で困っていることは?」

 真尋が尋ねる。

「会議が多いです」

「どのくらい?」

「週に十四本。そのうち、発言しない会議が六本」

「なぜ出るんですか」

「総務だから」

「必要ですか」

「必要ではないと思います」

「断れます?」

「水口さんが言ってくれれば」

 真尋は考える。

「私が全部断ると、今後も私の判断が必要になります。山岸さん自身が、不要な理由を説明できますか」

「できます」

「では、まず二本」

「断っていい? 支社長に怒られたら?」

「私も説明します」

「助けるんですね」

「最初は」

 山岸が笑う。

「その後は?」

「自分で」

 次に聞く。

「やりたい仕事は?」

「このプロジェクトの事務局」

「負担が増えます」

「今の会議を減らせれば。人が何を不安に思っているか、聞く仕事をしたいです」

「総務として?」

「人として」

 真尋はメモする。

「事務局責任者をお願いしてもいいですか」

 山岸が目を見開く。

「私が? 水口さんではなく?」

「私はプロジェクト責任者です。事務局の運営は、山岸さんへ任せたい」

「名前だけではなく?」

「面談日程。意見箱。回答管理。会議資料の形式」

「かなりあります」

「断れます」

 山岸は考えた。

「やります。ただし、ほかの仕事を減らしてください」

「どれを減らしたいですか」

「今日の会議二本から」

 二人は具体的に整理した。

     *

 森田との面談では、最初から緊張があった。

「昨日話したので、もう必要ないのでは」

「昨日は、昼食でした。今日は、森田さんの仕事を聞きます」

「資料にあります」

「資料にないことを」

 森田は腕を組む。

「たとえば?」

「今、なくなったら困る仕事」

「全部」

「一つだけ」

 森田は考えた。

「営業担当からの相談」

「正式な業務ですか」

「いいえ」

「どのような?」

「店舗と本社の方針が合わない時、間に入ります」

「記録は?」

「ほとんどない」

「何件くらい?」

「週に十件前後」

 資料にはない仕事。だが、現場を支えている。

「森田さんがいなくなると?」

「別の人へ行くでしょう」

「誰へ?」

「今は、たぶん誰も」

「属人化しています」

「そう言われると思った」

 森田の声が硬くなる。

「悪いとは言っていません」

「仕組みに変えるんでしょう」

「必要なら」

「相談相手を制度にしたら、話さなくなる人もいる。記録を残せと言えば、本音が消える」

「はい」

「なら、どうするんです」

 真尋はすぐに答えない。

「森田さんは、どうしたいですか」

「また質問」

「はい」

     *

 森田はため息をつく。

「相談は残したい。でも、僕だけに来るのは困る。休めない。若い人にもできるようにしたい」

「誰が向いていますか」

「坂口」

 若手社員。

「理由は?」

「人の話を途中で決めつけない。ただ、経験がない」

「森田さんと一緒に?」

「最初は」

「正式な役割へしますか」

「相談窓口なんて名前をつけると、固くなる」

「では、月に一度、相談事例を匿名で共有する」

「それくらいなら」

「坂口さんも同席」

「はい」

 森田の表情が変わる。

 自分の仕事を奪われるのではなく、渡せる形へする。

「森田さん。昨日、人を必要なくするために来たのかと聞きましたね」

「はい」

「森田さんしかできない仕事を、そのまま残すことも危険です」

「はい」

「休めないから」

「わかっています」

「森田さんが必要なくなるのではなく、休んでも回る形にしたい」

 森田は黙る。

「きれいな話です」

「はい」

「でも、昨日よりは信じます」

「ありがとうございます」

     *

 面談を重ねるほど、業務一覧にはない仕事が見えてきた。

 誰かの機嫌を取る仕事。会議の前に根回しする仕事。システムの使い方を教える仕事。新人の愚痴を聞く仕事。取引先の担当者へ、誕生日に連絡する仕事。

 数字にならない。評価にも入りにくい。だが、それがあるから組織が動いている。

 一方で、その役割を担う人だけが疲れている。

 真尋は、すべてを制度へ変えることはできないと感じた。制度にすれば失われる柔らかさもある。

 ただ、存在しないものとして扱わない。誰が何を支えているか知る。負担が偏りすぎていないか確認する。

 それだけでも違う。

     *

 三日目の夜、真尋は帰宅後、誰にも連絡しなかった。疲れていた。

 俊介から、

『今日は話せますか』

 葵から、

『新しい言葉、聞いてほしい』

 母から、

『食べてる?』

 三つの連絡。

 真尋は画面を見た。話したい。だが、今日は一人で静かに食事をしたい。

 以前なら、全員へ返事をし、電話をつなぎ、疲れを隠した。今は短く送る。

 俊介へ。

『今日は一人で休みたいです。明日の夜に話せますか』

『はい。おやすみだけ送ります』

 葵へ。

『今日は疲れています。明日、聞かせてください』

『わかった。休んで』

 母へ。

『食事を買いました。今日は早く寝ます』

『はい』

 それぞれが受け入れた。真尋はスマートフォンを伏せる。

 総菜を温める。電子レンジは、山岸と森田が昼休みに運んでくれた。

「部長代理が一人で持って腰を痛めたら困る」

 森田が言った。

 真尋は最初断った。だが二人へ頼った。

 今、電子レンジの中で煮物が温まっている。助けてもらった生活用品。

 それを見るたび、自分が大阪で少しずつ人とつながっていることを感じる。

     *

 夕食後、真尋は新しく買った小さなノートを開いた。仕事ではなく、生活のためのノート。

『大阪で初めてしたこと』

 一日目。白い花を買った。

 二日目。森田と昼食を食べた。

 三日目。山岸と森田に電子レンジを持ってもらった。

 その下へ、

『今日、誰にも電話せず休むと伝えた』

 と書く。

 一人でいることを選びながら、関係を切らない。

 静かな夜。窓の外の電車。白い花は、まだ元気。桃色の造花と並んでいる。

     *

 翌日の夜、葵と電話をした。

『昨日、大丈夫だった? 誰とも話さなかった?』

「はい」

『寂しくなかった?』

「少し」

『私も、連絡しないほうがいいってわかってたけど、寂しかった。でも、美月と話した』

「何を?」

『新しい商品のこと。二つに絞った』

「聞かせてください」

 葵が候補を読む。

『迷う日にも、ひと息。』

『答えを急がない午後に。』

 真尋は何度か心の中で繰り返す。

「私は、一つ目が好きです」

『石橋さんとデザイナーは分かれた。理由は?』

「今の私に合うからです」

『大阪へ行って迷ってる?』

「毎日」

『戻りたい?』

「時々」

『でも、仕事は?』

「やりたいです」

『迷う日にも、ひと息』

「はい」

『商品、送る』

「まだ決まっていません」

『試作品。大阪で食べて』

「はい」

『誰と?』

「一人で」

『俊介さんとじゃなく?』

「商品を試すのは、まず一人で。葵の言葉を、自分の時間で受け取りたいです」

 電話の向こうが静かになる。

『嬉しい』

     *

『真尋。大阪で、私より話しやすい人できた?』

 また場所を確認する問い。

「山岸さんとは話しやすいです」

『女性?』

「はい」

『何歳?』

「三十代後半」

『仕事の人』

「はい」

『友達になる?』

「まだわかりません」

『なったら?』

「嬉しいです」

 葵が黙る。

「寂しいですか」

『少し』

「はい」

『でも、友達できてほしい。一人で抱えないために』

「はい」

『山岸さんに、私のこと話した?』

「まだ」

『俊介さんは?』

「恋人が東京にいるとは」

『私は?』

「話す必要があれば」

『うん』

 葵の声が沈む。

「葵。話していないことが、葵を大切にしていない意味ではありません」

『わかってる。でも、真尋の大阪の人にも、私を知ってほしい』

「なぜ?」

『私がいるって』

 葵は正直だった。

「いつか山岸さんへ、秋田の話をするかもしれません。二つの影の写真を見れば、誰か聞かれると思います。その時は、葵のことを話します」

『何て?』

 真尋は考える。

「人生の途中で見つけた、戻ってこられる人」

 葵の息が止まるような音がした。

『それ、言ってくれる?』

「はい」

『友達じゃなく?』

「友人でもあります」

『それ以上』

「はい」

 葵は泣いているようだった。

『大阪へ行っても、変わらない』

「形は変わります。でも、なくなりません」

『うん』

     *

 金曜日。真尋は俊介へ、予定通り土曜日に会えると連絡した。

『来てください』

 すぐに返事が来る。

『行きます』

『宿泊は、部屋で』

 送る前に迷う。

 自分は本当に望んでいるか。一週間の疲れ。誰かを迎える負担。

 同時に、会いたい。俊介と同じ朝を迎えたい。

 真尋は続けて送った。

『泊まってほしいです。ただし、疲れているので、静かに過ごしたいです』

『はい。食事も用意しません』

『一緒に買いましょう』

『はい』

『部屋を整えていなくても』

『そのままで』

『来てください』

『行きます』

 俊介が大阪へ来る。嬉しさが広がる。

 その一方で、最初の一週間を終えた部屋へ誰かが入ることに緊張する。

 この一週間、自分で作った生活。俊介に見せる。

 評価されたくない。直してほしくもない。ただ一緒にいてほしい。

     *

 土曜日の午前中、真尋は部屋を掃除しようとして、途中で止めた。

 床に埃がある。洗濯物は畳んでいない。箱も二つ残っている。

 以前なら、すべて整えた。今日は最低限だけ。洗面所。寝具。テーブル。

 それ以外は生活のまま残す。

 俊介用の枕を箱から出す。歯ブラシを前へ置く。それだけで、部屋が少し変わる。

 午後二時、呼び鈴が鳴った。

 扉を開ける。俊介が立っている。旅行用のバッグ。片手には、黄色い花。

「来ました」

「はい」

「会いたかったです」

「私も」

 真尋は玄関で、俊介へ抱きついた。俊介が驚き、すぐに抱きしめ返す。

 一週間。以前なら短い。今は長かった。

「真尋。部屋へ入る前に?」

「はい」

「嬉しいです」

 真尋は離れ、俊介を見る。

「お帰りなさい、と言うべきですか」

「僕が?」

「大阪へ」

 俊介は笑う。

「ただいま、と言っていいですか」

「今日は」

「ただいま」

「お帰りなさい」

     *

 俊介は部屋へ入り、すぐに見回した。真尋はその視線へ緊張する。

「何ですか」

「生活していますね」

「当たり前です」

「写真で見た時より」

「箱があります」

「はい」

「直さないでください」

「何を?」

「家具の位置。箱。花」

「まだ何も」

「先に言います」

 俊介は黄色い花を差し出した。

「白と桃色の隣へ」

「はい」

 三色。造花と生花。白い花瓶には入らない。

 真尋は空き瓶を出した。黄色い花は別へ挿す。

「同じ花瓶では?」

「狭いです。無理に一つへ入れません」

 真尋が言うと、俊介が笑う。

「人間関係の話みたいです」

「広げないでください」

     *

 二人は商店街へ夕食を買いに行った。真尋が一週間で覚えた店を案内する。

「ここで魚を買いました。こちらの総菜店。花屋」

「白い花を買ったところ?」

「はい」

 店員の女性が真尋を見て、声をかける。

「今日はお連れさん? 東京から?」

 真尋が答える前に、俊介が頭を下げる。

「東京から来ました」

「遠いのに大変ね。黄色、きれいでしょう」

「こちらで買いました」

「そうなの。白と合うわよ」

 真尋は、店員が自分の白い花を覚えていたことに驚く。

「覚えていたんですか」

「引っ越してきた方でしょう。毎日通るから」

 まだ一週間。それでも、顔を覚えられている。

「また来ます」

 真尋が言うと、店員は笑った。

「待ってます」

 店を離れた後、俊介が言う。

「もう知り合いがいますね」

「花屋の方です」

「名前は?」

「知りません」

「向こうも?」

「たぶん」

「それでも、知り合いです」

「はい」

 真尋は少し嬉しくなる。

     *

 夕食は、総菜をいくつか選んだ。焼き魚。だし巻き卵。野菜の煮物。お好み焼きも一枚。

「大阪なので?」

 俊介が尋ねる。

「食べてみたいでしょう」

「はい」

 部屋へ戻り、二人で並べる。俊介はテーブルの写真を見る。

 二つの影。自分の横顔。家族。窓。

「全部ありますね。僕の写真、葵さんとの隣」

「はい」

「順番は?」

「また聞きます?」

「聞きません」

 二人は顔を見合わせた。

     *

 食事中、真尋は初めて山岸や森田の話を、顔を思い浮かべながら詳しくした。

「山岸さんは、会議を減らしたいと言いました。事務局を任せます」

「信頼しています?」

「仕事は」

「人としては?」

「まだ一週間です。でも、助けられています」

「はい」

「森田さんは、反発します。でも必要なことを言う。昼食も一緒に」

「聞きました」

「嫉妬は?」

「少し」

「今も?」

「真尋がその人の話を何度もするので」

 真尋は箸を止める。

「多いですか」

「仕事の中心にいる人なのでしょう。理解しています」

「でも?」

「僕の知らない真尋の一週間に、その人がいた」

 俊介は正直に言った。

「山岸さんも。花屋の人も。僕は写真と電話だけ」

 真尋は俊介の寂しさを聞く。

「今、ここにいます。一週間の生活を見てもらっています。全部ではありません。でも、話したいと思ったことは話します」

「ありがとうございます」

「俊介も、私の知らない一週間を」

「はい」

 俊介は友人と食事したこと。仕事で若い部下が失敗したこと。母から、大阪へ行くなら土産を頼まれたこと。一人で寝た夜、真尋の枕を思い出したこと。

 すべてではない。それでも、互いの知らない時間を少しずつ渡す。

     *

 食後、俊介は電子レンジの位置を見た。

「ここへ置いたんですね」

「山岸さんと森田さんが」

「二人で部屋へ?」

「昼休みに」

 俊介の顔が固まる。

「男性も? 二人だけで?」

「山岸さんも」

「あ、三人」

「はい」

 俊介は安心し、自分でその反応へ気づく。

「すみません。部屋へ男性が入ったと思って」

「森田さん一人ではありません。仮に一人でも、必要があれば入れることはあります」

「はい」

「嫌ですか」

「嫌です」

「はい」

「でも、仕事や生活の助けなら、止めません。ただ、聞いた時に驚きます」

「今、話しました」

「ありがとうございます」

「俊介も、女性の友人を部屋へ入れることがありますか」

「今はありません」

「今後は?」

「可能性はあります」

 真尋の胸がざわつく。

「嫌です。でも、必要な理由があれば、話してください」

「はい」

 互いの生活を守りながら、不安を言う。同じ会話を何度も繰り返す。

 距離が増えれば、確認も増える。それでも、確認することを恥じない。

     *

 夜、二人は同じベッドへ入った。

 前回より緊張は少ない。ただ、場所が違う。

 大阪の部屋。真尋が一週間一人で眠ったベッド。俊介の体温が加わる。

「狭いですか」

 真尋が尋ねる。

「少し」

「東京より小さいので」

「大丈夫です」

「無理なら、リビングへ」

「ここにいたいです」

 俊介が真尋の手を握る。

「この部屋、真尋の匂いがします」

「一週間しか」

「はい」

「東京とは違います?」

「少し」

「何が?」

「新しい洗剤。花。箱。それから、仕事の空気」

「何ですか、それは」

「真尋が緊張して眠っていた感じ」

「わかりません」

 二人の間に短い笑いが起きた。

     *

 口づけをする。前回より自然に近づく。

 俊介の手が真尋の背中へ回る。真尋も腕を回す。少し長く触れ合う。呼吸が変わる。

 真尋の中に、前回と同じ怖さが少し戻る。だが、今日はそれだけではない。進みたい気持ちもある。

「俊介。少しゆっくり」

「はい」

 俊介は動きを止め、真尋の顔を見る。

「大丈夫ですか。止めます?」

「今は、ゆっくり」

「はい」

 言葉を渡しながら近づく。急がない。

 何かを証明するためではない。遠距離になった寂しさを埋めるためだけでもない。

 今、一緒にいたい。互いに望んでいる。

 真尋は途中で何度か俊介の顔を見た。俊介も確認する。

「大丈夫?」

「はい」

「ここまで?」

「もう少し」

 その繰り返し。夜は静かに深くなった。

     *

 その後、二人は並んで横になった。詳しい言葉は必要なかった。

 俊介が真尋の髪へ触れる。

「怖くなかったですか」

「少し。でも、言えました」

「はい」

「俊介も止まりました。嬉しかったです」

「僕も」

「何が?」

「真尋が、もう少しと自分から言ってくれたこと」

 真尋は少し顔を伏せる。

「恥ずかしいです。覚えていても、言わないでください」

「覚えています」

「俊介」

 二人は同時に吹き出した。

「大阪へ来た最初の週に、進みすぎましたか」

 真尋が尋ねる。

「そう思いますか」

「少し」

「後悔しています?」

「していません」

「僕も」

「離れた後に寂しくなると思います。でも、今日をなかったことにはしたくありません」

「私も」

     *

 朝、真尋が目を覚ますと、俊介はまだ眠っていた。

 前回と同じように、近い顔。だが、部屋の光が違う。大阪の窓。公園の木。遠くの電車。

 真尋は俊介を起こさず、少しだけ眺めた。俊介が目を開ける。

「見ています?」

「少し」

「前回、僕へ怒りました」

「今日は、私が先に起きたので」

「公平ではありません」

「はい」

 俊介は思わず笑った。

「おはようございます」

「おはようございます」

 朝の口づけ。東京とは違う部屋で。同じ人と。

     *

 朝食は、商店街のパンと、残りのだし巻き卵。コーヒー。

 二人でテーブルへ座る。写真と花の隣。

「大阪の朝、どうですか」

 真尋が尋ねる。

「好きです」

「一日だけで?」

「真尋がいるので」

「それでは、部屋の評価ではありません」

「公園の木も。花屋も。商店街の味も。でも、一番は真尋です」

「はい」

 俊介が少し真面目な顔になる。

「帰りたくありません。今日の夕方、東京へ戻ります。来週は、来られないかもしれません。次に会える日が、まだわからない。寂しいです」

「私も」

 真尋はカップへ手を添える。

「でも、この部屋で生活します。俊介がいない日にも。花を買い、仕事をして、一人で食事をします。それを、嫌がらないでください」

「嫌ではありません」

「少し寂しい?」

「かなり。でも、真尋が僕を待つだけの人ではないことが好きです」

「はい」

     *

 俊介が帰る前、二人は白い花瓶の水を替えた。

 白い花は、少し元気がなくなっている。俊介が持ってきた黄色い花は、まだ鮮やか。葵の桃色の造花は変わらない。

「白い花は、そろそろ」

 俊介が言う。

「今日まで残します。俊介が帰った後に、整理します」

「黄色は?」

「残します」

「葵さんの造花も」

「はい」

 三つの花。時間が違う。

 変化するもの。変わらないもの。後から加わったもの。

 同じ花瓶へ無理に入らなくても、同じテーブルに置ける。

     *

 玄関で、俊介は靴を履いた。

「行ってきます、と言っていいですか」

「東京へ帰るのに?」

「また来るので」

 真尋は声を立てて笑った。

「はい」

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 俊介が扉を開ける前に、真尋は抱きしめた。

「次に会う日、決めたいです。今日中に、予定を見ます。決まらなくても、いつ確認するか決めましょう」

「水曜日に」

「はい」

「それまで、会えない不安で何度も聞かないようにします」

「私も」

 二人は離れた。

     *

 扉が閉まる。部屋へ戻る。

 昨夜まで一人だった部屋に、俊介の気配が残っている。二つのカップ。枕。黄色い花。洗面所の歯ブラシ。

 真尋は寂しさを感じた。前回より強い。

 それでも、電話をすぐにはかけない。俊介も移動する。自分も、部屋を戻す。

 片づける。洗濯する。白い花を一本だけ残し、傷んだ部分を切る。

 完全に枯れる前に捨てるのではなく、まだ残る部分を生かす。

     *

 午後、山岸からメッセージが届いた。

『明日の会議資料、確認お願いします。急ぎではないので、今日見なくても大丈夫です』

 仕事の連絡。真尋はすぐに開きそうになる。

 今日は日曜日。俊介を見送った後。まず自分の時間。

『明日の朝、確認します』

 送る。山岸から、

『了解です。良い休日を』

 と返る。真尋はパソコンを開かなかった。

 代わりに、生活ノートを開く。

『大阪で初めてしたこと』

 四日目。誰にも電話せず一人で休んだ。

 五日目。葵の新しい言葉を聞いた。

 六日目。俊介が来た。

 七日目。大阪の部屋で、同じ朝を迎えた。

 その下へ、迷ってから書く。

『知らない街で、花屋の人に顔を覚えてもらった』

『山岸さんへ仕事を任せた』

『森田さんに信用していないと言われた』

『それでも昼食を一緒に食べた』

 一週間。短い。

 だが、何もなかった場所へ、いくつもの名前と出来事が増えている。

     *

 夕方、葵からビデオ通話がかかってきた。

『俊介さん、帰った?』

「はい」

『寂しい?』

「はい」

『どうだった?』

「詳しくは話しません」

『わかってる』

 葵は画面の向こうで、自分の商品サンプルを持っている。

『これ、送る』

「新しい言葉?」

『試作』

 パッケージには、

『迷う日にも、ひと息。』

 と書かれていた。

「きれいですね」

『本採用じゃない。真尋に最初に食べてほしい』

「仕事の関係者ではありません」

『生活者として。大阪で、迷ってる人として』

「かなり限定されています」

『感想を聞く』

「正直に言います」

『はい』

「葵。大阪で、名前を呼ばれる人が増えました」

 葵の表情が変わる。

『誰?』

「山岸さん。森田さん。花屋の方は、まだ名前を知りません」

『友達?』

「仕事の人です」

『花屋さんは?』

「知り合いに近い」

『うん』

「寂しいですか」

『少し。でも、嬉しい。真尋が大阪で一人じゃなくなる。私がいなくても』

「葵はいます」

『大阪にはいない』

「距離の話なら。でも、葵の写真も花もあります」

『物だけじゃなく?』

「はい。今、話しています」

 葵が笑う。

『秋田、絶対行こう。大阪で人が増えても。俊介さんと近づいても。私も、美月や別の人と時間が増えても』

「はい」

『戻ってこられる人』

「はい」

 二人は画面越しに頷いた。

     *

 翌朝、真尋は七階の執務室へ入り、自分の机を見た。匿名の付箋が一枚増えている。

『昨日、話を聞いてもらった人です。すぐに答えを出されなかったので、少し安心しました』

 名前はない。真尋は付箋を読んだ。

 誰かわからない。面談した人のうちの一人。返事を書くべきか迷う。

 真尋は自分の付箋の下へ、新しく書いた。

『話してくださり、ありがとうございます。すぐに決めないことも、責任の一つだと考えています』

 貼る。山岸が来て、それを見る。

「返事を書くんですね。全部へ?」

「必要なものは」

「増えますよ」

「山岸さんと分けます」

「任せます?」

「はい」

「では、匿名意見の分類案、今日出します」

「お願いします」

     *

 森田も出勤してくる。真尋を見る。

「おはようございます」

「おはようございます」

「昨日、東京の人が来たんですか」

 真尋は驚く。

「なぜ?」

「花屋で見た人がいると」

「花屋の方と話したんですか」

「近所なので」

「俊介が来ました」

「恋人?」

「はい」

 森田が意外そうな顔をする。

「水口さん、恋人いたんですね。東京へ置いてきた?」

「置いてきたわけではありません」

「遠距離」

「はい」

「大変ですね。仕事だけにならないように」

 初日に反発した森田から言われる。

「森田さんも」

「僕はなっています」

「では、相談窓口を坂口さんへ渡してください」

「すぐ仕事へ戻す」

 二人は顔を見合わせた。

     *

 真尋は席へ座り、パソコンを開いた。

 初日の付箋。

『お手柔らかにお願いします』

『人を減らさないでください』

 その隣に、安心したという新しい付箋。

 すべてが解決したわけではない。むしろ、これから難しい判断が増える。

 誰かの希望を叶えられない日も来る。嫌われる。間違える。東京へ戻りたい夜。俊介へ会いたい朝。葵の声を聞きたい日。

 それでも、ここで名前を呼ばれる時間が少しずつ増えていく。

「水口さん」

 山岸が呼ぶ。

「はい」

「九時の会議、岩瀬さんが資料を変更したいと」

「理由は?」

「売上区分の統一案を、予定より早く出せるそうです」

「見せてください」

 森田も近づく。

「現場の相談事例、坂口とまとめました」

「後で聞かせてください」

「今日の昼?」

 真尋は考える。

「今日は、一人で食べたいです」

「言えるようになりましたね」

「はい」

「では、午後に」

「お願いします」

 真尋は、自分の希望を言った。

 相手は傷つかず、関係も壊れなかった。

     *

 窓の外には、大阪の街が広がっている。東京とは違う建物。違う空。同じように働く人々。

 真尋は社員証へ触れた。

『水口真尋』

 肩書きの下にある名前。この街で、少しずつ呼ばれ始めている。

 山岸さん。森田さん。岩瀬さん。中原さん。坂口さん。花屋の人。

 まだ知らない名前も多い。

 相手も、真尋のことを肩書きだけで見ている人がいる。怖い人。東京の人。人を減らす人。新しい責任者。

 その印象も、すぐには消えない。消す必要もない。

 仕事をしながら、別の面を知ってもらう。真尋も、相手を役職や反発だけで決めない。

 時間がかかる。だからこそ、生活になる。

 真尋は最初の会議資料を開いた。

 今日も、大阪で仕事が始まる。夜には、自分の部屋へ帰る。黄色と桃色と、少し短くなった白い花が待っている。

 東京には俊介がいる。葵がいる。母がいる。

 大阪には、まだ関係と呼ぶには浅い人たちがいる。

 そのどちらも、真尋の生活になり始めていた。



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