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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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24/46

第二十四章 間違えた場所から

大阪へ来て三週間が過ぎた月曜日、真尋は午前六時に目を覚ました。

 目覚ましが鳴るより早い。窓の外は曇っている。

 公園の木は風に揺れ、枝先の葉が薄暗い空を何度も横切っていた。

 真尋はベッドから起き上がり、カーテンを開ける。

 東京へ戻らなかった最初の週末が終わった。前の週は俊介が大阪へ来た。その前は引っ越し。今度の土日は、真尋一人で過ごした。

 土曜日は洗濯と買い物。日曜日は午前中だけ資料へ目を通し、午後は公園を歩いた。俊介とは夜に電話をした。葵とは新商品の試作品について話した。母からは、近所の桜が咲き始めたという写真が届いた。

 一人だった。だが、誰ともつながっていないわけではなかった。

 真尋はキッチンへ向かい、湯を沸かす。

 白い花は、すでに処分した。俊介が持ってきた黄色い花も、数日前に最後の一本が傷んだ。

 今、白い花瓶には、葵からもらった桃色の造花だけが入っている。

 変わらない花。枯れないことが、少し不自然に見える日もある。

 それでも、朝の薄い光の中では、部屋へ小さな温度を残していた。

 真尋はコーヒーを淹れ、パンを焼く。冷蔵庫には卵がある。朝食に目玉焼きを作る。一人分。

 以前より、自然に作れるようになった。

 大阪の水。大阪で買ったフライパン。大阪のスーパーで選んだ卵。東京から持ってきた皿。

 生活は、少しずつ混ざっている。

     *

 食事をしながら、今日の予定を確認する。

 午前九時。売上区分統一案の最終会議。午後一時。福岡とのシステム確認。午後三時半。個別面談が二件。午後五時。支社長への進捗報告。

 売上区分の統一案は、岩瀬が中心となって作成した。

 大阪、広島、福岡で異なる商品分類を揃える。集計の時間を減らし、地域比較を早くする。

 二週間で案を作り、三週目に決定する。最初の会議で約束した期限。

 今日は、その決定日だった。

 真尋は資料を何度も確認している。数字も。影響も。現場からの意見も。

 大きな問題はない。そう判断していた。

     *

 会社へ着くと、山岸がすでに席にいた。

「おはようございます」

「おはようございます」

「早いですね」

「水口さんも」

「九時の会議があるので」

「私もです」

 山岸の机には、匿名意見箱から集めた内容が印刷されている。

「何か増えました?」

「売上区分について、三件」

「見せてください」

 山岸が紙を渡す。

 一件目。

『統一は賛成です。ただ、地域限定商品をどこへ入れるか明確にしてください』

 二件目。

『分類変更の時期が繁忙期と重なると、店舗側が混乱します』

 三件目。

『商品名だけでは分類できないものがあります。現場へ確認する時間をください』

 真尋は読む。すべて、すでに会議で話した内容に近い。

「回答は?」

「岩瀬さんの資料に、地域限定商品の扱いは入っています」

「はい」

「繁忙期については、来月開始なら大型連休前です」

「今月中に準備すれば間に合います。三件目は?」

「分類表に例外欄を作る案があります」

「なら、今日決められます」

     *

 真尋は紙を返した。山岸は受け取ったが、迷うような顔をしている。

「何かありますか」

「現場へ確認する時間をください、という部分です」

「はい」

「今日、決定するんですよね」

「はい」

「最終案が共有されたのは、金曜日の夕方です」

「変更は小さいです」

「水口さんや岩瀬さんには」

 山岸の言葉に、真尋は眉を寄せる。

「現場の方には大きいと?」

「可能性があります」

「具体的に何が問題ですか」

「まだ、わかりません」

「では、今日の会議で聞きます。決定は予定通りです」

 山岸は頷いた。

「わかりました」

 だが、表情には納得していない部分が残っている。

 真尋は気づいた。それでも、会議の準備を優先した。

 期限を守る。決められることを決める。先延ばしにしない。

 責任者として必要なことだった。

     *

 午前九時。会議には、大阪から八人。広島と福岡からオンラインで九人が参加した。

 岩瀬が統一案を説明する。

 商品分類を七区分へ統一。地域限定商品は、主用途と販売場所を基準に分類。例外商品は月に一度、三地域の担当者で確認。既存データは、過去一年分のみ新分類へ変換。開始は翌月一日。

 説明は明確だった。質問も予想の範囲内。

 真尋は、今日決められると感じた。

「ほかに意見はありますか」

 岩瀬が尋ねる。画面の中で、福岡の中原が手を挙げた。

『地域限定商品の基準ですが、販売場所を優先すると、空港と一般店舗で分類が変わります』

「主用途を先に見ます」

 岩瀬が答える。

『主用途は、誰が決めるんですか』

「商品企画の登録情報です」

『現場で違う売り方をしている場合は?』

「例外欄へ」

『例外が増えると思います』

「最初は増えるでしょう」

 真尋が答える。

「運用しながら、基準を調整します」

『運用しながら? 店舗側は、来月から分類を変えるんですよね。基準が固まっていないのに?』

「大枠は固まっています」

 中原の表情が硬くなる。

『金曜日に来た最終案では、空港店舗の扱いが前の案と変わっていました』

「影響は限定的です」

『福岡には空港店舗が多いです』

 真尋は資料を見る。

 数としては全店舗の一割未満。だが福岡では、売上比率が高い。

「その部分は、例外登録で対応できます」

『誰が登録するんですか』

「各地域の担当者です」

『また入力が増える』

 最初の会議で問題になった二重入力。中原は、そこを指摘している。

「例外商品のみです」

『何件になるかわからない』

「現時点では、福岡で二十七商品です」

『空港店舗の売り方を確認すれば、もっとあります』

「確認は終わっていない?」

『金曜日の変更後、時間がありませんでした』

     *

 山岸が朝言った言葉が浮かぶ。最終案は金曜日の夕方。現場へ確認する時間。

 真尋は迷う。

 決定を一週間延ばすか。だが期限を延ばせば、開始時期も変わる。大型連休前の準備期間。今月中に決めなければ、運用は一か月以上遅れる。

「中原さん」

『はい』

「運用開始までに、例外商品を確定できますか」

『人数を増やせば』

「何人必要ですか」

『三人。三日程度』

「通常業務への影響は?」

『あります』

「残業で対応できますか」

 言った瞬間、画面の中原の表情が変わった。会議室の空気も硬くなる。

『残業で、ですか』

「運用開始前の一時的な対応として」

『二重入力をなくすために、残業して例外登録を増やすんですか』

「最初だけです」

『その最初を、現場が引き受ける?』

「必要な準備です」

『東京ではそうかもしれませんが』

「東京の話ではありません」

 真尋の声が強くなる。

「三地域を統一するための作業です」

『水口さんは、現場の確認が終わっていなくても、今日決めたいんですよね』

「期限を決めています」

『誰が決めた期限ですか』

「最初の会議で、岩瀬さんと合意しました」

『案を作る期限でしょう』

 中原の言葉が止まらない。

『現場が対応できると確認する期限ではなかった』

 真尋は返事を急いだ。

「すべての例外を確認してからでは、いつまでも始められません」

『では、何のために意見を聞いたんですか』

     *

 会議室が静まる。

 最初の会議で、中原が言ったこと。以前も意見を聞くと言いながら、最初から決まっていた。

 同じことをしているのではないか。

 真尋の胸に、その問いが入る。それでも、責任者として決めなければならない。

「意見は聞いています」

『でも、変えない』

「必要な修正はしました」

『福岡が対応できないと言っても?』

「できないとは聞いていません。三人で三日ならできると」

『通常業務へ影響があると言いました』

「影響がない変更はありません」

『そうですね』

 中原の声が冷たくなる。

『なら、最初からそう言えばよかった』

「何をですか」

『現場の意見を聞くが、期限を優先すると』

 真尋は言葉を失った。

     *

 岩瀬が間へ入った。

『一度、福岡の対象商品を今日中に確認してはどうですか』

「今日中に?」

 真尋が尋ねる。

『はい。中原さん、一覧を出せますか』

『出せます。ただ、店舗確認までは無理です』

『まず商品数だけ』

 中原は黙り、答えた。

『わかりました』

 岩瀬が真尋を見る。

『決定を午後まで待てますか』

 真尋は時計を見る。午後には別の会議。支社長への報告もある。今日決めることに変わりはない。

「正午までに一覧を確認し、午後一時に再開します」

『一時間で?』

 中原が言う。

「商品数と影響を判断するには」

『店舗の運用は?』

「開始後、一週間で確認します」

『結局、始めるんですね』

「はい」

 真尋は答えた。画面の中原は、何も言わず視線を落とした。

     *

 会議を一度終えた後、山岸が真尋へ近づいた。

「少し、いいですか。別室で」

 二人は小さな打ち合わせ室へ入った。扉が閉まる。

「水口さん。今日、決めないといけませんか」

「開始時期を考えると」

「一週間延ばしたら?」

「大型連休前の研修が間に合いません」

「開始を一か月延ばす」

「売上比較が、さらに遅れます」

「はい」

「二重入力も続く。だから、今決めたいです」

 山岸は腕を組まず、まっすぐ真尋を見る。

「中原さんの話を聞きました?」

「聞きました」

「内容ではなく」

「どういう意味ですか」

「前と同じだと感じていること」

「今回は違います」

「水口さんには」

「実際に、意見を反映しています。例外欄も作った。地域限定商品も」

「はい」

「では、何が問題ですか」

 真尋の声に、苛立ちが混じる。山岸は間を置いた。

「決めることではなく、急がせる負担を水口さんが軽く扱ったことです」

「軽くは」

「残業で対応できますか、と言いました」

「一時的な作業です」

「東京から来た責任者が、現場へ残業を求めた」

「必要なら、ほかの地域から応援を」

「その話は、会議でしませんでした」

 真尋は黙る。

「水口さんは、期限を守るための方法を考えていました。中原さんは、また意見を聞かれただけで終わると思いました。二人が話していたものが違います」

「では、どうすればよかったですか」

「一度、決定を止める」

「その間、何を?」

「福岡の現場を聞く」

「時間がありません」

「時間を作るのが責任者では?」

     *

 真尋の胸に、反発が生まれる。

「山岸さん。すべての人が納得するまで待つことはできません」

「わかっています」

「決めなければ、何も変わらない。私は決めるために来ました」

「はい」

「では、なぜ面談を?」

 山岸の問いに、真尋は止まった。

「何を守りたいか知るためでしょう」

「はい」

「中原さんが守りたいのは、現場がまた置いていかれないことです。それを知った上で、今日同じことをしたら」

「同じではありません」

 真尋は強く言った。

「私は理由を説明しています」

「説明すれば、同じではない?」

 山岸の声は大きくない。だからこそ、逃げられない。

「私は、水口さんが間違っていると言いたいわけではありません」

「では?」

「今のまま決めたら、正しい制度でも人が動かないと思います」

 真尋は答えなかった。

 正しい制度。人が動かない。

 東京で部下を任せ始めた時にも、似たことを学んだ。答えだけ渡しても、相手の仕事にはならない。

 それでも、今は期限がある。

「午後一時までに、中原さんへ個別に電話します」

 真尋は言った。

「何を聞きます?」

「必要な支援」

「決定する前提で?」

「はい」

 山岸は息を吐く。

「わかりました」

 納得ではない。だが、これ以上は今言わないという顔だった。

     *

 正午前、中原から対象商品の一覧が届いた。

 想定していた二十七商品ではなく、六十四商品。空港店舗だけでなく、駅、観光施設、催事で分類が異なる。例外登録に必要な時間は、当初の倍以上。さらに、商品名と登録情報が一致していないものが十三件あった。

 真尋は数字を見つめた。小さな影響ではない。

 岩瀬から連絡が入る。

『想定より多いですね』

「はい」

『決定、延ばしますか』

 真尋は返事をしなかった。

 今朝まで、今日決められると思っていた。決めるべきだと。だが前提が変わった。変わったなら、判断も変えなければならない。

 それでも、延期を決めれば、自分が準備不足だったと認めることになる。

 責任者としての初めての大きな決定。開始から三週間。早く成果を出したい。東京本社にも、支社長にも。現場の話を聞きながら、決められる責任者だと示したい。

 真尋は、自分の中にある焦りへ気づいた。

 制度のためだけではない。自分が評価されるために、期限を守ろうとしている。

 その事実が、苦しかった。

     *

 午後零時十五分。真尋は中原へ電話をかけた。

『はい』

「水口です」

『一覧、見ましたか』

「はい」

『多かったでしょう。前の案では、調べなくてもよかった商品です』

「はい」

『今日決めますか』

 中原の声は疲れている。

「その前に、確認したいです。開始までに対応するには、何が必要ですか」

『人です』

「何人?」

『最低五人。一週間』

「大阪か広島から応援を出せば?」

『商品を知らない人では確認できません』

「福岡の営業担当者なら?」

『通常業務が止まります』

「一部だけ、開始を遅らせる方法は?」

『三地域で統一する意味が薄れます』

 真尋は質問を重ねる。中原が途中で言った。

『水口さん。何とか今日決める方法を探しています?』

 真尋は黙る。

『延期するかどうかを聞く電話ではないんですね』

「今、判断しています」

『もう一度、現場へ負担を引き受けさせる方法を探しているように聞こえます』

 真尋の胸が痛む。

「そのつもりでは」

『では、何のための質問ですか』

「期限を守れる可能性を確認するためです」

『同じです』

 中原の声が震えている。

『三年前も、何が必要か聞かれました。人が必要と答えた。人は増えなかった。期限だけ残った』

「今回は」

『今回は違うと、最初に言いましたね』

 真尋は返せない。

『水口さん。私たちは、変えたくないわけではありません。二重入力をなくしたい。比較もしたい。でも、現場の時間を使うなら、その時間を仕事として認めてほしい。残業で片づける追加作業ではなく』

     *

 真尋は目を閉じた。

 残業で対応できますか。自分が言った。作業の重さを、すぐ終わらせるべき障害として扱った。

「申し訳ありません」

 真尋は言った。電話の向こうが静かになる。

「先ほど、残業で対応できるかと聞きました。統一のために必要な仕事を、通常業務の外へ置く言い方でした。間違っていました」

 中原はすぐに返事をしない。

「今日の決定は延期します」

『本当に? いつまで?』

「現場確認と支援体制を作った後に、新しい日程を出します」

『また期限がなくなる?』

「今日中に、確認計画だけは出します。福岡の作業時間を、正式なプロジェクト業務として計上します」

『人は?』

「現在の業務を減らすか、応援を出すか、支社長と話します。決める前提で聞いたことも、謝ります」

『水口さん。延期したら、東京から怒られませんか』

「怒られる可能性はあります」

『評価も?』

「はい」

『それでも?』

「前提が違っていたので」

 真尋は言った。

「間違った期限を守るより、修正します」

 電話の向こうで、中原が息を吐いた。

『わかりました』

「午後の会議で、私から説明します」

『私も出ます。今度は、聞いてください』

「はい」

     *

 電話を切った後、真尋はしばらく動けなかった。

 謝った。決定を延期した。正しい判断だと思う。だが、遅い。

 山岸は朝から言っていた。中原も会議で。自分は、一覧の数字が想定を超えるまで止まれなかった。

 人の声ではなく、数字が出て初めて判断を変えた。それが悔しかった。

 自分は本当に変わったのか。東京で学んだことを、大阪へ来た途端に忘れたのではないか。責任者になり、成果を求められ、また正しさを急いだ。

 真尋はスマートフォンを手に取った。

 俊介へ連絡したい。葵へも。私は間違えた。どうしたらいい。そう言いたい。

 だが、今は仕事の途中。答えをもらう前に、自分がしなければならないことがある。

 山岸へ話す。岩瀬へ。支社長へ。会議で謝る。

 真尋はスマートフォンを伏せた。

     *

「山岸さん」

 真尋が呼ぶと、山岸はすぐに席へ来た。

「はい」

「決定を延期します」

 山岸の表情が動く。

「中原さんと話しましたか」

「はい」

「理由は?」

「現場確認の時間と、支援体制が足りません。残業で対応できるかと聞いたことも、謝りました」

 山岸は黙って真尋を見る。

「朝、山岸さんが言ってくれた時に、止まるべきでした。すみません」

「私へ?」

「意見を聞きながら、決めることだけを優先しました」

 山岸は考え、椅子を引いて座った。

「私、腹が立っていました。水口さんが、最初に言っていたことと違うと思った。人の話を聞くと言ったのに、期限があるから進める」

「はい」

「でも、私も強く止めませんでした」

「十分言いました」

「水口さんが怖かったので」

 真尋の胸が痛む。

「怒られるとは思わなかったです」

「では、なぜ?」

「意見を言っても、理屈で返されると思った」

「返しました。申し訳ありません」

「謝って終わりにしないでください」

「はい」

「次から、私が止めた時に、何を確認すれば判断を変えられるか聞いてください」

「わかりました」

「私も、感覚だけでなく、具体的な影響を出します」

     *

「水口さん。延期すると決められたことは、よかったと思います」

「遅かったです」

「はい」

 山岸は否定しない。

「でも、遅くても変えた。前の担当者は、最後まで変えなかったそうです」

「それと比べて安心はできません」

「しなくていいです」

 山岸は立ち上がる。

「会議資料、作り直します。延期理由。確認計画。役割。新しい決定日」

「決定日は、まだ」

「決める日を決める日」

「はい」

「今日中に」

「お願いします」

     *

 岩瀬へ連絡すると、最初に沈黙があった。

『延期ですか』

「はい」

『二週間で案を作ったのに。広島側は、開始準備も進めています』

「申し訳ありません」

『福岡だけ遅らせる方法は?』

「統一後に一地域だけ旧分類を使えば、比較できません」

『わかっています』

「はい」

『中原さんが反対したから?』

「中原さんだけではありません」

『では?』

「私が、現場確認に必要な時間を軽く見ていました」

『水口さんが? 岩瀬は、二週間でできると言いました』

「案を作る期限です」

『決定も今日と』

「私が決めました」

『では、責任は』

「私にあります」

 岩瀬が黙る。

『私の仕事は、無駄ですか』

「いいえ」

『延期すれば、案が変わる。また作り直す?』

「はい」

『正直、納得できません。福岡の確認が遅いとも思います』

「最終案の共有が金曜日でした」

『変更は小さいと思いました』

「私も」

『違った』

「はい」

 岩瀬の呼吸が少し荒い。

『水口さん。謝るだけなら簡単です。作り直す人は私です』

 真尋はその言葉を受け取る。

「今回の修正は、私も作業します」

『責任者が? 通常業務は?』

「調整します」

『また残業で?』

 岩瀬の言葉に、真尋は詰まる。同じことを自分へ返されている。

「残業で埋めません」

『では?』

「今日の午後の面談を延期します。理由を説明します。支社長への報告資料も簡略化します」

『怒られますよ』

「はい」

『私も、午後から一時間なら時間を出します』

 岩瀬が言った。

「いいんですか」

『納得していません。でも、自分の案なので』

「ありがとうございます」

『次は、変える前に聞いてください』

「はい」

     *

 午後一時の再開会議。

 真尋は最初に立ち上がった。画面には中原。岩瀬。大阪の参加者。山岸。森田。支社長も後方に座っている。

「午前中の会議で、私は売上区分の統一案を今日決定する方針を変えませんでした。その判断を、撤回します」

 会議室に小さなざわめきが起きる。

「決定を延期します」

 中原は画面越しに、真尋を見ている。

「理由は三つです」

 真尋は資料を映す。

「一つ目。福岡の例外商品の件数と、確認作業を過少に見積もっていました。二つ目。最終案の共有から現場確認までの時間が不足していました。三つ目。必要な確認作業を、通常業務の外で処理できると考えました」

 真尋は一度言葉を止める。

「午前中、私は残業で対応できるかと尋ねました」

 画面の中原が視線を下げる。

「統一へ必要な作業であるにもかかわらず、現場が勤務時間外に負担すれば進められるという言い方でした。間違っていました」

 会議室が静かになる。

「申し訳ありません」

 真尋は頭を下げた。責任者として。全員の前で。

 顔を上げる。

     *

「延期後の進め方です」

 山岸が作り直した資料を表示する。

 一週間で、三地域の影響商品を確認。確認作業はプロジェクト業務として勤務時間内に行う。各地域で通常業務のうち一時停止できるものを選定。大阪と広島から商品知識のある担当者を、オンラインで支援。二週間後に修正版を共有。その後、現場確認期間を五営業日設ける。決定は四週間後。運用開始は一か月延期。

「遅れによる影響は、私から本社へ説明します」

 真尋は言った。

「質問をお願いします」

 最初に手を挙げたのは岩瀬だった。

『広島で進めた準備は、止めますか』

「分類変更の研修は止めます。商品一覧の整理は続けてください」

『作り直しは?』

「私と岩瀬さんで、今日一時間行います」

『一時間で足ります?』

「足りない場合は、明日以降、通常会議を一つ減らします」

『わかりました』

 次に森田。

「大阪側でも、例外商品が増える可能性があります」

「確認をお願いします」

「誰が?」

「森田さんに相談したいです。相談窓口の事例共有を、今週は坂口さんへ任せられますか」

 森田は考える。

「できます」

「その時間を、商品確認へ」

「わかりました」

 中原が手を挙げた。

『福岡の五人は、誰が選びますか』

「中原さんに案をお願いします。業務と商品を知っている方を」

『通常業務を止める判断は?』

「福岡の責任者と私が話します」

『水口さんも?』

「はい」

 中原は黙り、続けた。

『午前中、かなり強く言いました。謝りません。必要だったと思っています』

「私もです」

『でも、延期すると決めてくれたことは、ありがとうございます』

「こちらこそ、話してくださりありがとうございました」

     *

 会議が終わった後、支社長が真尋へ言った。

「少し時間を」

 支社長室へ入る。真尋は叱責を覚悟していた。

「本社へは、私からも話します」

「ありがとうございます」

「ただし、判断を変えた理由を、感情ではなく数字で。六十四商品。必要工数。影響店舗」

「資料を出します」

「水口さん。午前中に決めていたら、どうなっていたと思いますか」

「福岡側の負担が増え、例外登録が間に合わなかったと思います」

「運用開始後に混乱?」

「はい」

「現場の信用も」

「失っていました」

「今は?」

「すでに一部失ったと思います」

 支社長は椅子へ背を預ける。

「責任者は、間違えない人ではありません。間違いを小さく見せない人です。ただ、毎回謝ればいいわけでもない」

「わかっています」

「次に同じことをしない仕組みを」

「最終案共有後、最低五営業日の確認期間を設けます。変更の影響を、件数だけでなく作業時間で出す。現場作業を時間外対応として計画しない。そして」

 真尋は言葉を止める。

「反対意見が出た時に、判断を変えるために必要な情報をその場で確認します。理屈で押し返す前に」

 支社長は吹き出した。

「それが一番難しそうですね。本社へは、今日中に報告してください」

「わかりました」

     *

 支社長室を出ると、個別面談を予定していた坂口が待っていた。

「今日、面談ですよね」

「申し訳ありません。延期させてください」

 真尋は頭を下げる。

「会議のことで?」

「はい」

「いつになりますか」

「明日の午後か、明後日」

「また変わりません?」

「今日中に確定します。坂口さんの時間を空けてもらったのに、すみません」

「大丈夫です」

 坂口はそう言った後、考えた。

「本当は、少し困ります。相談窓口の仕事、森田さんから任される話を聞きたかったので。今夜、考えるつもりでした」

「はい」

「明日なら、今日中に資料を送ります」

「お願いします」

「面談は明日三時で」

「わかりました」

 大丈夫ですと言った人が、本当の不満を言い直した。真尋はそれを受け取る。

「言ってくれてありがとうございます」

「水口さんが、今日謝っていたので。私も、大丈夫じゃないと言っていい気がしました」

 坂口は照れたように笑い、自席へ戻った。

     *

 午後二時。真尋と岩瀬は修正作業を始めた。

 オンライン画面。商品一覧。福岡から届いた六十四件。分類基準を一つずつ確認する。

 岩瀬の操作は速い。真尋は判断理由を記録する。

『主用途だけでは決めない』

『販売場所の比率を確認』

『現場説明が必要な商品を区別』

 一時間の予定は、九十分かかった。それでも途中で止めず、二人で一区切りつけた。

『水口さん。午前中は、正直、腹が立ちました。私が急いで作った案を、福岡の確認不足で止められたと思った』

「はい」

『でも、最終案を金曜夕方に出したのは私です』

「私も確認しました」

『私も、早く結果を出したかった。広島の案が採用されたと示したかった』

 真尋は岩瀬の顔を見る。

「私も、期限通り決めたかったです」

『評価のため?』

「少し」

 岩瀬が意外そうな表情をする。

『水口さんも、そういうこと言うんですね。責任者だから、全部組織のためだと思っていました』

「自分のためでもあります。だから、気をつけなければ」

『私も』

 二人は少しだけ笑った。

     *

 午後五時半、本社への報告を終えた。部長からは、厳しい言葉を受けた。

『現場確認の不足は、事前に予測できたはずです』

「はい」

『開始一か月延期の影響は大きい』

「承知しています」

『責任者として、次はありません』

「はい」

 最後に部長は言った。

『ただし、今日止めたこと自体は支持します』

「ありがとうございます」

『遅れを取り戻すため、無理な日程を作らないように』

「はい」

 電話を切る。真尋は椅子へ深く座った。

 疲れた。朝からずっと、体に力が入っていた。

 周囲を見る。人は少しずつ帰り始めている。

 山岸が席へ来た。

「今日は、帰れます?」

「報告の記録を」

「明日」

「忘れるので」

「三行だけ」

「はい」

 真尋はノートへ書く。

『期限を一か月延期』

『現場確認期間を制度化』

『反対意見に必要な情報を聞く』

 ペンを置く。

「終わりました」

「帰りましょう」

 二人で会社を出た。

     *

 駅までの道。夕方の風。

 真尋は歩きながら、今日のことを何度も思い返した。

「山岸さん。今日、私へ言いにくかったですか」

「かなり」

「なぜ?」

「責任者だから。東京から来た人だから。私より役職が上だから。それと、水口さんは言葉が速い」

「速い?」

「こちらが全部話す前に、答えが返ってきます」

 真尋は黙る。

「今日は、私が『まだわからない』と言ったら、『では会議で聞きます』と。その時点で、話が終わった気がしました。本当は、確認時間が足りないと、もっと言いたかった」

「なぜ言わなかったんですか」

「言っても、具体的な問題がなければ進めると言われると思った」

 その通りだった。

 真尋は具体的な影響を求めた。影響が見えなければ、感覚を判断材料にしなかった。

「感覚だけでも、止まるべき時がありますか」

「少なくとも、調べる時間は取れます。感覚が正しいとは限りません。でも、何もないとも限らない」

 真尋は歩きながら頷く。

「次から、『何が気になるか』を聞きます。具体的でなくても」

「はい」

「山岸さんも、最後まで言ってください」

「努力します」

「怖くても?」

「水口さんも、理屈で全部返さないでください」

「努力します」

     *

 二人は駅前で別れた。

「お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」

 山岸が少し歩き、振り返る。

「水口さん。今日、謝った時、怖い人ではなくなりました」

「良いことですか」

「少し困ります」

「なぜ?」

「今度は、無理をさせないよう心配したくなるから」

「必要ありません」

「そう言うと思いました」

 山岸は笑い、手を振った。

     *

 真尋は商店街で夕食を買わず、そのまま部屋へ戻った。

 食欲がない。冷蔵庫には、卵と野菜。簡単なものを作れる。だが今は、何もしたくなかった。

 玄関を開ける。

「ただいま」

 声は小さい。

 花瓶には、桃色の造花だけ。俊介が持ってきた黄色い花も、前日に処分した。テーブルが少し寂しく見える。

 真尋はバッグを置き、ソファへ座った。

 スマートフォンには、俊介からメッセージが来ている。

『今日は大きな会議でしたか。終わったら連絡してください』

 葵から。

『試作品、明日届く予定です』

 母から。

『今週末、東京へ戻る?』

 真尋は画面を見た。

 誰かへ話したい。間違えた。謝った。延期した。怖かった。そう言いたい。

 だが、誰へ最初に連絡するかを考え始める。俊介。葵。母。その順番へ意味をつけそうになる。

 真尋は一度スマートフォンを置いた。

 まず食事。空腹のままでは、感情も大きくなる。

 ご飯は冷凍してある。電子レンジで温める。卵を焼く。味噌汁は即席。それだけ。

「いただきます」

 一口食べる。味がよくわからない。それでも、半分ほど食べた。少し体が落ち着く。

 食器を洗う。それから、俊介へメッセージを送った。

『今日は仕事で判断を誤りました。今、少し話したいです』

 すぐに電話がかかってきた。

     *

『もしもし』

「はい」

『大丈夫ですか』

「大丈夫ではありません」

 真尋は答えた。俊介が黙る。

『何がありました?』

 真尋は朝からの流れを話した。

 売上区分。中原。期限。残業。山岸。六十四商品。延期。謝罪。本社への報告。

 途中で、俊介は口を挟まなかった。真尋が話し終えるまで聞いた。

「私は、人の話を聞くと言いながら、期限を守ることを優先しました。山岸さんが朝、気になると言ったのに、具体的な問題がないから進めると。中原さんにも、できる方法ばかり聞いた」

『はい』

「私は変わったと思っていました。でも、役職が上がったら、また同じです」

 真尋の声が震える。

『同じ、とは?』

「正しさを急いで、人を置いていく。東京で学んだことを、何もできていません」

『それは、今日の出来事だけで決めていますか』

「事実です」

『今日、決定を延期しました』

「遅かったです。謝りました。でも、最初から聞けたはずです」

『はい』

「俊介。慰めないでください」

 真尋は言った。

『はい』

「変わったと言わないで。今日は、私が間違えたと聞いてください」

『はい』

「責任者として焦りました。評価されたいと思いました。期限を守れる人だと示したかった。そのために、現場へ残業を求めました。最低です」

『その言葉には、同意しません』

「なぜ?」

『間違えたことには同意します。でも、真尋自身を最低だとは思いません』

「同じです」

『違います』

 俊介の声は静かだった。

『仕事の判断を誤った。相手の話を十分聞かなかった。残業を軽く扱った』

「はい」

『その具体的な行動を、真尋という人全体へ広げないでください』

「でも」

『葵さんへも、同じことを言うでしょう』

     *

 真尋は黙る。

 葵が失敗した時。選択を後悔した時。真尋は、一つのことですべてを否定しないよう言う。

『今日は、間違えた日です』

「はい」

『明日は?』

「まだ、わかりません」

『では、明日また仕事をしてください』

「簡単に」

『簡単ではありません。謝った相手の前へ、また行く。変更した計画を進める。それが必要です』

 真尋は目を閉じた。

「怖いです。また信用されない。中原さんは、以前の担当者と同じだと思ったはずです」

『それでも、延期したことを見ています。次の行動も』

「はい」

『真尋。今日は、僕へ答えを求めていますか』

 真尋は考える。

「少し」

『何と答えてほしい?』

「大丈夫だと」

『言いません』

「はい」

『大丈夫ではないから。でも、一人で立て直す必要もありません。山岸さんや中原さんと。岩瀬さんとも。僕は、聞きます。仕事は、現地の人たちと直してください』

「はい」

 それが正しい。

 俊介は、仕事の外から真尋を支える。答えを出すのは、現場の人と。

     *

「葵にも話しますか」

 俊介が尋ねる。

「明日」

『なぜ明日?』

「今日は、俊介と話したかったので。葵へも、聞いてほしいです。でも今は、これ以上話すと疲れます。母には、明日」

『はい』

「俊介。今夜、そばにいてほしいです」

 言ってから、距離を思い出す。大阪と東京。すぐには来られない。

『行きたいです。今からは難しいです』

「わかっています」

『電話をつないだままにしますか』

 真尋は迷う。声を聞きながら眠る。それもできる。だが、今日は自分で夜を終えたい気持ちもある。

「十時まで」

『はい』

「その後は、一人で」

『わかりました』

 二人は仕事以外の話を少しした。

 俊介の昼食。東京の雨。母から頼まれた大阪土産。次に会える可能性。

 日常の話をすることで、仕事の失敗だけではない自分へ戻っていく。

     *

 十時。真尋は約束通り電話を切った。風呂へ入る。

 湯船の中で、また会議の言葉が浮かぶ。

『何のために意見を聞いたんですか』

 苦しい。だが忘れてはいけない。

 忘れないことと、自分を責め続けることは違う。

 真尋は風呂から上がり、生活ノートを開いた。

『大阪で初めてしたこと』

 新しい行。

『大きな判断を間違えた』

 その下へ。

『全員の前で謝った』

『決定を延期した』

『遅くても、戻った』

 書いた後、最後の一文を消そうとした。

 戻った。自分を肯定しすぎているように感じる。

 だが消さなかった。間違えたことと、修正したこと。両方が事実。

     *

 翌朝、葵から届くはずの試作品より先に、真尋は会社へ向かった。昨日より早く着く。

 誰もいない机。付箋を見る。新しい一枚が貼られていた。

『昨日の延期を支持します。ただ、最初から聞いてほしかったです』

 名前はない。真尋は読む。すぐに返事を書かない。まず、何を返すか考える。

『その通りです』

 短く書く。続けて。

『次回から、最終案共有後の確認期間を五営業日設けます。反対意見が出た時は、決定を変えるために必要な情報を確認します』

 言葉だけでなく、行動。

 山岸が出勤してくる。

「おはようございます」

「おはようございます」

「早いですね」

「昨日の面談資料を」

「坂口さんの?」

「はい」

「昨日、送りました?」

「夜に送るつもりでしたが」

「送っていない?」

「はい」

「なら、今から」

 山岸は真尋の机の付箋を見る。

「返事、短いですね」

「言い訳をしないように」

「昨日は、眠れました?」

「途中から」

「私は、よく眠れました。言いたいことを言ったので」

 真尋の口元が緩んだ。

「これからもお願いします」

「毎回は疲れます」

「必要な時に」

「はい」

     *

 午前九時。中原との確認会議。昨日より参加者は少ない。中原。福岡の責任者。山岸。真尋。

「最初に、昨日決めた確認計画を共有します」

 真尋は説明した。勤務時間内の作業。止める通常業務。応援の範囲。確認担当者。

 中原が言う。

『福岡側で五人を選びました。ただ、一人は空港店舗の応援が入っています』

「その期間だけ外せますか」

 福岡の責任者が答える。

『調整します』

「難しい場合は、日程を変えます」

 中原が驚く。

『期限を優先しない?』

「必要な人がいない状態で進めません。ただし、調整できるかは今日中に教えてください」

『わかりました』

 真尋は言葉を急がない。中原が何か言いかけ、止める。

「何ですか」

『いえ』

「気になることがあれば」

『昨日の今日なので、慎重になっただけかと思いました』

「はい」

『どのくらい続きますか』

 真尋は苦笑しそうになる。

「続けるつもりです」

『つもり』

「できなければ、また言ってください」

『言います』

 中原の声に、少しだけ柔らかさがあった。

     *

 午後三時。坂口との面談。真尋は昨日延期したことを、もう一度謝った。

「今日は、時間通りです」

 坂口が言う。

「はい」

「資料も読みました」

「相談窓口の役割について、どう思いますか」

「やりたいです」

「不安は?」

「森田さんみたいに、答えを出せないこと」

「相談相手は、必ず答えを出す人ですか」

「違うと思います。でも、何も言えなかったら」

「聞くだけでもよい場合があります。森田さんへ、どのようにしているか聞きました?」

「少し」

「何と?」

「すぐに会社の答えを言わない。相手が何に困っているか分ける」

 真尋は昨日の自分を思い出す。何に困っているか聞く前に、期限を守る方法を探した。

「良い方法ですね」

「水口さんも、面談でしていることですか」

 坂口に尋ねられ、真尋は正直に答える。

「できる時と、できない時があります」

「昨日は?」

「できませんでした。だから、坂口さんにも、できなかった時に言える人が必要です」

「森田さん?」

「最初は」

「水口さんも?」

「必要なら」

「忙しくても?」

 真尋はすぐに大丈夫とは言わない。

「返事が遅くなることはあります。ただ、いつ話せるかは伝えます」

「わかりました」

     *

 仕事を終えた真尋が部屋へ戻ると、宅配便の不在票が入っていた。葵からの試作品。

 再配達を依頼し、一時間後に受け取る。

 小さな箱。中には三つの商品。淡い青色のパッケージ。

『迷う日にも、ひと息。』

 葵の手紙も入っている。

『真尋へ。

 正しいと思って選んだ後に、迷う日がある人へ作りました。

 戻りたくなる日にも、進みたい日にも、どちらかを急いで決めなくていい時間を渡せたらと思っています。

 仕事の感想として、正直に教えてください。

 葵』

 真尋は手紙を読み、昨日の自分を思い出す。

 決めた後に迷ったのではない。決める前に、止まれなかった。

 それでも今は、自分が責任者に向いているのか迷っている。大阪へ来た選択。昇進を受けた選択。今日も続ける選択。

 すべてを疑う瞬間がある。

 真尋は一つ開けた。甘い香り。前の商品より少し軽い味。紅茶に合う。

 パッケージを見る。

『迷う日にも、ひと息。』

 一口食べる。

 答えが出るわけではない。昨日の間違いも消えない。

 それでも、今の自分を責める手を止められる。

 真尋は葵へ電話をかけた。

     *

『届いた? 食べた?』

「今」

『どう?』

「味は、前より軽いです」

『良い?』

「私は好きです」

『言葉は?』

 真尋は間を置く。

「昨日、仕事で間違えました」

『何があったの』

 真尋は葵へも話した。俊介へ話した時より、少し整理できている。

 自分が焦ったこと。残業を求めたこと。延期したこと。謝ったこと。

 葵は途中で、

『それは真尋が悪い』

 と言った。真尋は驚いた。

「はい」

『残業でって、嫌。現場の人、前にも同じことされてたんでしょう』

「はい」

『なら、余計に』

「はい」

 葵は慰めるだけではない。

『でも、延期したんだね。怒られた?』

「本社からも」

『怖かった?』

「はい」

『辞めたい?』

 真尋は自分へ問い直す。

「昨日は少し」

『今日は?』

「続けたいです」

『迷ってる?』

「はい」

『商品、合う?』

「かなり」

 葵は思わず笑った。

『よかったって言っていいのかな』

「商品としては」

『間違えた日に売りつけたみたい』

「送ったのは前です」

     *

「葵。この言葉は、選択を肯定しすぎません」

『うん』

「間違った選択だった場合にも、入れます」

『本当?』

「はい。選んだことが正しいから迷っていい、ではない。間違っていたかもしれない。それでも、今すぐ人生全部を否定せず休める。私は好きです」

 電話の向こうが静かになる。

『真尋が最初に食べてくれてよかった』

「なぜ?」

『直哉と別れた私だけの言葉じゃなくなったから。仕事で間違えた真尋にも届いた。美月の転職。お母さんの結婚。俊介さんの会社。いろいろな人へ』

「はい」

「葵。昨日、俊介へ先に話しました」

『うん』

「今日は、葵へ。寂しかったですか」

 葵は黙る。

『昨日、真尋から連絡がなかったから少し。でも、俊介さんと話してるかもって思った。前なら、私に先に言ってほしいと思った』

「今は?」

『少しは思う。でも、仕事で傷ついた時に俊介さんの声を聞きたかったなら、それでいい』

「ありがとうございます」

『今日、私に話してくれた。同じ内容でも、二人に話す意味は違う?』

「違います」

『どう?』

 真尋は考える。

「俊介には、私自身を全部否定しそうになったことを聞いてもらいました。葵には、間違った後に続けることを話したかった」

『私が別れた後、続けたから?』

「はい」

『戻らないって決めた後も、迷った』

「はい」

『真尋も、責任者を続ける。一緒だね』

「同じではありませんが」

『形は違う』

「はい」

 二人は声を立てて笑った。

     *

 その週の後半、売上区分の確認作業は予定通り進んだ。

 福岡から、空港店舗での分類事例が届く。大阪から、百貨店催事の商品。広島から、地域土産と日常菓子の境界。

 例外は増えた。だが、共通する基準も見えてきた。

 真尋は、すぐに分類表へ押し込まず、なぜその売り方をしているかを聞いた。

 商品名や登録情報だけではわからない。誰が買うのか。どこで選ぶのか。何と一緒に購入するのか。

 現場の話を聞くほど、分類は単なる数字の整理ではなく、商品の意味を揃える作業だとわかる。

「水口さん」

 中原がオンライン会議で言った。

『この商品は、土産品ではなく、帰省する人が家族と食べるものです』

「違いは?」

『渡すためではなく、一緒に食べる。だから、日常菓子に近い』

「販売場所は空港でも?」

『はい』

「では、購入目的を優先する基準へ」

『すべての商品に使えます?』

「確認します」

 以前なら、早く分類へ入れた。今は、一つの事例から基準を見直す。

「中原さん。このような説明を、店舗担当者へ短く聞ける質問にできますか」

『何のために買う商品か』

「はい」

『誰と食べるか、も』

「お願いします」

『私が作る?』

「一緒に」

『はい』

 中原の声に、以前の硬さが少し減っている。

     *

 山岸は匿名意見箱の内容を、三つへ分類した。

『質問』

『提案』

『感情』

「感情?」

 真尋が尋ねる。

「不安。怒り。寂しさ」

「仕事の意見として?」

「はい」

「回答できます?」

「解決はできなくても、受け取ったと返せます」

 山岸は一枚を見せる。

『水口さんが延期したことで安心しました。同時に、また急に変わるのではと不安です』

「どう返します?」

 真尋が尋ねる。

「水口さんなら?」

「確認期間と変更手順を説明します」

「それだけ?」

「ほかに?」

「不安がなくならないことを認める」

 山岸は新しい付箋へ書く。

『不安を完全になくすことはできません。今後、変更する場合は、理由と影響、確認期間を事前に伝えます』

 真尋は頷く。

「制度だけではなく、気持ちも。山岸さんへ任せてよかったです」

「今、初めて言いましたね」

「何を?」

「任せてよかった」

「そうですか」

 山岸は嬉しそうに笑った。

     *

 金曜日の夜、真尋は一週間ぶりに母へ電話をした。

『仕事、どう?』

「間違えました」

『何を?』

 説明すると、母はしばらく黙っていた。

『昔のお父さんみたい』

「父が?」

『転勤を相談せず決めた時。家族のために正しいと思って、相手が何を失うか聞かなかった』

「はい」

『真尋も、会社のために正しいと思った。似てるわね』

「嬉しくありません」

『悪いところだけじゃない。お父さんも、後で謝った』

「どのように?」

『最初は、相談しなかったことを謝った。でも私が欲しかったのは、次にどうするかだった。それからは、大きな仕事の話を、決める前に持ち帰った。全部、私の希望通りにはしなかったけど』

「はい」

『聞いた』

「それが大事だった?」

『うん』

 真尋は、最終案後の確認期間を思い出す。意見を聞く時間を、予定へ入れる。

「お母さん。父を許しました?」

『すぐには。謝ったから、怒りが消えるわけじゃない。次に同じことをしなかったから、少しずつ』

「はい」

『真尋も、すぐ信用を戻そうとしないことね。焦ると、また相手のためじゃなく自分の安心のために動くから』

 母の言葉が胸へ入る。

 謝った。だから、もう信じてほしい。そう求めてはいけない。

「わかりました」

『今週末、帰る?』

「帰りません。仕事ではなく、部屋で過ごしたいです。来週は、戻る予定です」

『俊介さんに会う?』

「はい」

『私にも』

「食事を」

『忘れないで』

     *

 翌週、修正版の分類案を共有した。今度は決定しない。五営業日の確認期間。

 会議の最初に真尋は言った。

「反対意見がある場合、結論だけでなく、何が起きるかを教えてください。まだ具体的でなくても構いません。気になるという段階でも、確認します」

 中原が画面越しに言う。

『決定を変えない場合もありますよね』

「あります」

『その時は?』

「理由を説明します」

『期限があるから、だけではなく?』

「はい」

 岩瀬が尋ねる。

『確認期間中に、大きな変更が出たら、また五日延ばす?』

「変更の影響によります」

『誰が判断?』

「私だけではなく、三地域の担当者と」

 森田が言う。

「全員が反対なら?」

「見直します」

「一人だけなら?」

「内容を見ます」

「人数ではない?」

「はい」

 真尋は答えた。

 会議は、以前より長くなった。だが、質問の種類が変わっていた。

 反対のための質問ではなく、進めるための確認。

 信用が戻ったとは言えない。それでも、同じテーブルに座る感覚が少し生まれている。

     *

 確認期間の三日目。福岡から一件、分類基準の変更提案が出た。

 岩瀬は、影響が小さいとして反対した。真尋も最初は、現在案で進められると思った。

 だが、すぐに返さず質問した。

「中原さん、何が気になりますか」

『店舗で、同じ商品が違う棚へ置かれることです』

「具体例は?」

『二店舗だけですが』

「売上への影響は?」

『まだわかりません』

「確認に必要な時間は?」

『半日』

 以前なら、二店舗だけなら開始後に確認すると言った。

 真尋は時計を見る。確認期間は、まだ二日ある。

「半日、確認してください」

『いいんですか』

「結果が同じでも、確認した上で決めます」

 翌日、中原から報告が届く。売上への影響はほとんどない。現行案で問題ない。

 分類は変えなかった。だが、中原は会議で言った。

『確認できたので、納得しました』

 同じ結論。違う過程。

 その違いを、真尋は忘れないようノートへ書いた。

     *

 決定日は、最初の予定から四週間遅れた。

 会議の最後、真尋は参加者へ尋ねた。

「この案で進めることに、重大な反対はありますか」

 誰も手を挙げない。

「不安は?」

 中原が手を挙げる。

『運用開始後、例外が増えること』

「はい」

 岩瀬。

『判断が遅くなること』

「はい」

 森田。

「現場へ説明が伝わらないこと」

「はい」

 真尋はすべて記録する。

「不安があるまま、進めます」

 真尋は言った。

「開始後、一週間と一か月で確認します。問題があれば、戻します」

『戻すこともある?』

 中原が尋ねる。

「はい。決めたから、変えないとはしません」

 最終決定。大きな拍手はない。

 だが岩瀬が画面越しに、軽く頭を下げた。中原も。森田が隣で、小さく息を吐いた。

     *

 会議後、山岸が真尋の机へ、一枚の付箋を置いた。

『お手柔らかにお願いします』

 最初の日から残っていた付箋。

「山岸さんが?」

「違います」

「では?」

「書いた人が、名乗りました」

「誰ですか」

「坂口さん」

 真尋は驚く。

「なぜ今?」

「捨ててもらっていいと言っていました」

「本人は?」

「相談窓口の研修中です」

 真尋は付箋を見る。初日。怖い人へ向けた言葉。

「捨てません」

「残す?」

「大阪を離れる日まで」

「縁起が悪くないですか」

「忘れないために」

「何を?」

「お手柔らかに、と思われていたことを」

 山岸が笑う。

「今も少し思われていますよ」

「はい」

「でも、前より言いやすい」

「はい」

 付箋の下には、新しいものが増えている。

『昨日、話を聞いてもらった人です』

『決定を延期して安心しました』

『最初から聞いてほしかった』

『確認できたので、納得しました』

 全部が、真尋の大阪での仕事だった。

     *

 その夜、真尋は生活ノートを開いた。

『大阪で初めてしたこと』

 新しい行へ書く。

『間違えた制度を、やり直して決めた』

『同じ結論でも、確認してから進めた』

『信用を急いで戻そうとしなかった』

 最後の一文を書いた時、俊介から電話がかかってきた。

「もしもし」

『決まりましたか』

「はい」

『おめでとうございます。嬉しいですか』

「はい」

『安心した?』

「少し」

『怖さは?』

「残っています。運用後に問題が出るかもしれません。でも、今度は戻る手順も決めました」

『はい』

「俊介。間違えた日、聞いてくれてありがとうございました。大丈夫と言わなかったことも」

『はい』

「私は、自分を全部否定しそうになりました。今は、間違えた責任者として、続けられると思います。完璧な責任者ではなく」

『はい』

「完璧という言葉は使わないでください」

『真尋が言いました』

「来週、東京へ戻ります。会えますか」

『もちろんです』

「母とも食事をします。葵とも。時間を分けます」

『わかっています』

「俊介とは、土曜日の夜から日曜日」

『泊まりますか』

「はい」

『東京の部屋で?』

「はい」

『会いたいです』

「私も」

     *

 葵へも、決定したことを伝えた。

『よかった。商品、役に立った?』

「かなり」

『本当に? でも、仕事の答えは出なかったでしょう』

「出ないことが良かったです。少し休んで、自分を全部否定せずに済みました。この言葉、私は本採用を勧めます」

『真尋一人の感想では決められない』

「仕事の人ですね」

『はい』

「公平に。葵。大阪で、失敗した話も増えました。秋田で話したいことが、また増えました。成功だけではなく」

『全部』

「はい」

『私も、直哉を思い出した日とか、商品が売れなかった日とか。全部持っていく』

「はい」

『秋田、まだ予定にある?』

「あります」

『仕事で変わる?』

「可能性はあります」

『でも、行く?』

「日を変えても。行きます」

     *

 真尋は電話を切り、窓辺へ立った。

 大阪の夜。公園の木。商店街の灯り。遠くの電車。

 この街で、自分は一度大きく間違えた。東京へ戻りたいと思った。責任者に向いていないと感じた。

 それでも翌朝、会社へ行った。謝った相手の名前を呼んだ。聞き直した。決め直した。

 間違えなければ、もっとよかった。だが、間違えた事実を消すことはできない。

 その場所から、何をするかだけが残る。

 真尋は白い花瓶を見る。桃色の造花だけ。変わらない花。

 明日、帰りに生花を一輪買おうと思った。今度は、何色でもいい。

 葵や俊介を待つためではない。制度が決まった記念でもない。間違えた後も、この部屋へ帰ってきた自分のために。

     *

 真尋は照明を少し落とした。

 テーブルの端には、葵の試作品。

『迷う日にも、ひと息。』

 迷うことは、選んだ道が正しい証拠ではない。間違っている証拠でもない。

 止まり、聞き、戻り、また進むための時間。

 真尋はパッケージを指でなぞった。

 大阪へ来てから、自分の名前を呼ぶ人が増えた。山岸。森田。岩瀬。中原。坂口。花屋の人。

 その人たちの前で、真尋は間違えた。

 だからこそ、肩書きだけではない自分を知られ始めたのかもしれない。

 正しい人ではなく。失敗しない責任者でもなく。

 話を聞けない日があり、後から戻る人。謝り、決め直す人。まだ途中にいる人。

 真尋はカーテンを閉めた。

 明日も仕事がある。新しい制度は、決まっただけでは動かない。運用が始まれば、別の問題も出る。また迷う。また間違える可能性もある。

 それでも、今度は少し早く止まりたい。誰かの声を、数字が出る前に聞きたい。

 真尋は寝室へ向かった。

 ベッドには枕が一つ。今夜は一人。

 来週は東京で、俊介と同じ朝を迎える。葵と食事をし、母の家へも行く。その後、また大阪へ戻る。

 どちらか一つが本当の生活なのではない。

 東京へ帰る真尋も。大阪へ戻る真尋も。間違えた真尋も。立て直した真尋も。

 すべてを持ったまま、次の朝へ向かう。

 照明を消す前、真尋は生活ノートの最後へ一行だけ加えた。

『間違えた場所も、戻ってこられる場所にする』

 ペンを置く。部屋を暗くする。

 窓の外を走る電車の音が、少しずつ遠ざかっていった。


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