第二十四章 間違えた場所から
大阪へ来て三週間が過ぎた月曜日、真尋は午前六時に目を覚ました。
目覚ましが鳴るより早い。窓の外は曇っている。
公園の木は風に揺れ、枝先の葉が薄暗い空を何度も横切っていた。
真尋はベッドから起き上がり、カーテンを開ける。
東京へ戻らなかった最初の週末が終わった。前の週は俊介が大阪へ来た。その前は引っ越し。今度の土日は、真尋一人で過ごした。
土曜日は洗濯と買い物。日曜日は午前中だけ資料へ目を通し、午後は公園を歩いた。俊介とは夜に電話をした。葵とは新商品の試作品について話した。母からは、近所の桜が咲き始めたという写真が届いた。
一人だった。だが、誰ともつながっていないわけではなかった。
真尋はキッチンへ向かい、湯を沸かす。
白い花は、すでに処分した。俊介が持ってきた黄色い花も、数日前に最後の一本が傷んだ。
今、白い花瓶には、葵からもらった桃色の造花だけが入っている。
変わらない花。枯れないことが、少し不自然に見える日もある。
それでも、朝の薄い光の中では、部屋へ小さな温度を残していた。
真尋はコーヒーを淹れ、パンを焼く。冷蔵庫には卵がある。朝食に目玉焼きを作る。一人分。
以前より、自然に作れるようになった。
大阪の水。大阪で買ったフライパン。大阪のスーパーで選んだ卵。東京から持ってきた皿。
生活は、少しずつ混ざっている。
*
食事をしながら、今日の予定を確認する。
午前九時。売上区分統一案の最終会議。午後一時。福岡とのシステム確認。午後三時半。個別面談が二件。午後五時。支社長への進捗報告。
売上区分の統一案は、岩瀬が中心となって作成した。
大阪、広島、福岡で異なる商品分類を揃える。集計の時間を減らし、地域比較を早くする。
二週間で案を作り、三週目に決定する。最初の会議で約束した期限。
今日は、その決定日だった。
真尋は資料を何度も確認している。数字も。影響も。現場からの意見も。
大きな問題はない。そう判断していた。
*
会社へ着くと、山岸がすでに席にいた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「早いですね」
「水口さんも」
「九時の会議があるので」
「私もです」
山岸の机には、匿名意見箱から集めた内容が印刷されている。
「何か増えました?」
「売上区分について、三件」
「見せてください」
山岸が紙を渡す。
一件目。
『統一は賛成です。ただ、地域限定商品をどこへ入れるか明確にしてください』
二件目。
『分類変更の時期が繁忙期と重なると、店舗側が混乱します』
三件目。
『商品名だけでは分類できないものがあります。現場へ確認する時間をください』
真尋は読む。すべて、すでに会議で話した内容に近い。
「回答は?」
「岩瀬さんの資料に、地域限定商品の扱いは入っています」
「はい」
「繁忙期については、来月開始なら大型連休前です」
「今月中に準備すれば間に合います。三件目は?」
「分類表に例外欄を作る案があります」
「なら、今日決められます」
*
真尋は紙を返した。山岸は受け取ったが、迷うような顔をしている。
「何かありますか」
「現場へ確認する時間をください、という部分です」
「はい」
「今日、決定するんですよね」
「はい」
「最終案が共有されたのは、金曜日の夕方です」
「変更は小さいです」
「水口さんや岩瀬さんには」
山岸の言葉に、真尋は眉を寄せる。
「現場の方には大きいと?」
「可能性があります」
「具体的に何が問題ですか」
「まだ、わかりません」
「では、今日の会議で聞きます。決定は予定通りです」
山岸は頷いた。
「わかりました」
だが、表情には納得していない部分が残っている。
真尋は気づいた。それでも、会議の準備を優先した。
期限を守る。決められることを決める。先延ばしにしない。
責任者として必要なことだった。
*
午前九時。会議には、大阪から八人。広島と福岡からオンラインで九人が参加した。
岩瀬が統一案を説明する。
商品分類を七区分へ統一。地域限定商品は、主用途と販売場所を基準に分類。例外商品は月に一度、三地域の担当者で確認。既存データは、過去一年分のみ新分類へ変換。開始は翌月一日。
説明は明確だった。質問も予想の範囲内。
真尋は、今日決められると感じた。
「ほかに意見はありますか」
岩瀬が尋ねる。画面の中で、福岡の中原が手を挙げた。
『地域限定商品の基準ですが、販売場所を優先すると、空港と一般店舗で分類が変わります』
「主用途を先に見ます」
岩瀬が答える。
『主用途は、誰が決めるんですか』
「商品企画の登録情報です」
『現場で違う売り方をしている場合は?』
「例外欄へ」
『例外が増えると思います』
「最初は増えるでしょう」
真尋が答える。
「運用しながら、基準を調整します」
『運用しながら? 店舗側は、来月から分類を変えるんですよね。基準が固まっていないのに?』
「大枠は固まっています」
中原の表情が硬くなる。
『金曜日に来た最終案では、空港店舗の扱いが前の案と変わっていました』
「影響は限定的です」
『福岡には空港店舗が多いです』
真尋は資料を見る。
数としては全店舗の一割未満。だが福岡では、売上比率が高い。
「その部分は、例外登録で対応できます」
『誰が登録するんですか』
「各地域の担当者です」
『また入力が増える』
最初の会議で問題になった二重入力。中原は、そこを指摘している。
「例外商品のみです」
『何件になるかわからない』
「現時点では、福岡で二十七商品です」
『空港店舗の売り方を確認すれば、もっとあります』
「確認は終わっていない?」
『金曜日の変更後、時間がありませんでした』
*
山岸が朝言った言葉が浮かぶ。最終案は金曜日の夕方。現場へ確認する時間。
真尋は迷う。
決定を一週間延ばすか。だが期限を延ばせば、開始時期も変わる。大型連休前の準備期間。今月中に決めなければ、運用は一か月以上遅れる。
「中原さん」
『はい』
「運用開始までに、例外商品を確定できますか」
『人数を増やせば』
「何人必要ですか」
『三人。三日程度』
「通常業務への影響は?」
『あります』
「残業で対応できますか」
言った瞬間、画面の中原の表情が変わった。会議室の空気も硬くなる。
『残業で、ですか』
「運用開始前の一時的な対応として」
『二重入力をなくすために、残業して例外登録を増やすんですか』
「最初だけです」
『その最初を、現場が引き受ける?』
「必要な準備です」
『東京ではそうかもしれませんが』
「東京の話ではありません」
真尋の声が強くなる。
「三地域を統一するための作業です」
『水口さんは、現場の確認が終わっていなくても、今日決めたいんですよね』
「期限を決めています」
『誰が決めた期限ですか』
「最初の会議で、岩瀬さんと合意しました」
『案を作る期限でしょう』
中原の言葉が止まらない。
『現場が対応できると確認する期限ではなかった』
真尋は返事を急いだ。
「すべての例外を確認してからでは、いつまでも始められません」
『では、何のために意見を聞いたんですか』
*
会議室が静まる。
最初の会議で、中原が言ったこと。以前も意見を聞くと言いながら、最初から決まっていた。
同じことをしているのではないか。
真尋の胸に、その問いが入る。それでも、責任者として決めなければならない。
「意見は聞いています」
『でも、変えない』
「必要な修正はしました」
『福岡が対応できないと言っても?』
「できないとは聞いていません。三人で三日ならできると」
『通常業務へ影響があると言いました』
「影響がない変更はありません」
『そうですね』
中原の声が冷たくなる。
『なら、最初からそう言えばよかった』
「何をですか」
『現場の意見を聞くが、期限を優先すると』
真尋は言葉を失った。
*
岩瀬が間へ入った。
『一度、福岡の対象商品を今日中に確認してはどうですか』
「今日中に?」
真尋が尋ねる。
『はい。中原さん、一覧を出せますか』
『出せます。ただ、店舗確認までは無理です』
『まず商品数だけ』
中原は黙り、答えた。
『わかりました』
岩瀬が真尋を見る。
『決定を午後まで待てますか』
真尋は時計を見る。午後には別の会議。支社長への報告もある。今日決めることに変わりはない。
「正午までに一覧を確認し、午後一時に再開します」
『一時間で?』
中原が言う。
「商品数と影響を判断するには」
『店舗の運用は?』
「開始後、一週間で確認します」
『結局、始めるんですね』
「はい」
真尋は答えた。画面の中原は、何も言わず視線を落とした。
*
会議を一度終えた後、山岸が真尋へ近づいた。
「少し、いいですか。別室で」
二人は小さな打ち合わせ室へ入った。扉が閉まる。
「水口さん。今日、決めないといけませんか」
「開始時期を考えると」
「一週間延ばしたら?」
「大型連休前の研修が間に合いません」
「開始を一か月延ばす」
「売上比較が、さらに遅れます」
「はい」
「二重入力も続く。だから、今決めたいです」
山岸は腕を組まず、まっすぐ真尋を見る。
「中原さんの話を聞きました?」
「聞きました」
「内容ではなく」
「どういう意味ですか」
「前と同じだと感じていること」
「今回は違います」
「水口さんには」
「実際に、意見を反映しています。例外欄も作った。地域限定商品も」
「はい」
「では、何が問題ですか」
真尋の声に、苛立ちが混じる。山岸は間を置いた。
「決めることではなく、急がせる負担を水口さんが軽く扱ったことです」
「軽くは」
「残業で対応できますか、と言いました」
「一時的な作業です」
「東京から来た責任者が、現場へ残業を求めた」
「必要なら、ほかの地域から応援を」
「その話は、会議でしませんでした」
真尋は黙る。
「水口さんは、期限を守るための方法を考えていました。中原さんは、また意見を聞かれただけで終わると思いました。二人が話していたものが違います」
「では、どうすればよかったですか」
「一度、決定を止める」
「その間、何を?」
「福岡の現場を聞く」
「時間がありません」
「時間を作るのが責任者では?」
*
真尋の胸に、反発が生まれる。
「山岸さん。すべての人が納得するまで待つことはできません」
「わかっています」
「決めなければ、何も変わらない。私は決めるために来ました」
「はい」
「では、なぜ面談を?」
山岸の問いに、真尋は止まった。
「何を守りたいか知るためでしょう」
「はい」
「中原さんが守りたいのは、現場がまた置いていかれないことです。それを知った上で、今日同じことをしたら」
「同じではありません」
真尋は強く言った。
「私は理由を説明しています」
「説明すれば、同じではない?」
山岸の声は大きくない。だからこそ、逃げられない。
「私は、水口さんが間違っていると言いたいわけではありません」
「では?」
「今のまま決めたら、正しい制度でも人が動かないと思います」
真尋は答えなかった。
正しい制度。人が動かない。
東京で部下を任せ始めた時にも、似たことを学んだ。答えだけ渡しても、相手の仕事にはならない。
それでも、今は期限がある。
「午後一時までに、中原さんへ個別に電話します」
真尋は言った。
「何を聞きます?」
「必要な支援」
「決定する前提で?」
「はい」
山岸は息を吐く。
「わかりました」
納得ではない。だが、これ以上は今言わないという顔だった。
*
正午前、中原から対象商品の一覧が届いた。
想定していた二十七商品ではなく、六十四商品。空港店舗だけでなく、駅、観光施設、催事で分類が異なる。例外登録に必要な時間は、当初の倍以上。さらに、商品名と登録情報が一致していないものが十三件あった。
真尋は数字を見つめた。小さな影響ではない。
岩瀬から連絡が入る。
『想定より多いですね』
「はい」
『決定、延ばしますか』
真尋は返事をしなかった。
今朝まで、今日決められると思っていた。決めるべきだと。だが前提が変わった。変わったなら、判断も変えなければならない。
それでも、延期を決めれば、自分が準備不足だったと認めることになる。
責任者としての初めての大きな決定。開始から三週間。早く成果を出したい。東京本社にも、支社長にも。現場の話を聞きながら、決められる責任者だと示したい。
真尋は、自分の中にある焦りへ気づいた。
制度のためだけではない。自分が評価されるために、期限を守ろうとしている。
その事実が、苦しかった。
*
午後零時十五分。真尋は中原へ電話をかけた。
『はい』
「水口です」
『一覧、見ましたか』
「はい」
『多かったでしょう。前の案では、調べなくてもよかった商品です』
「はい」
『今日決めますか』
中原の声は疲れている。
「その前に、確認したいです。開始までに対応するには、何が必要ですか」
『人です』
「何人?」
『最低五人。一週間』
「大阪か広島から応援を出せば?」
『商品を知らない人では確認できません』
「福岡の営業担当者なら?」
『通常業務が止まります』
「一部だけ、開始を遅らせる方法は?」
『三地域で統一する意味が薄れます』
真尋は質問を重ねる。中原が途中で言った。
『水口さん。何とか今日決める方法を探しています?』
真尋は黙る。
『延期するかどうかを聞く電話ではないんですね』
「今、判断しています」
『もう一度、現場へ負担を引き受けさせる方法を探しているように聞こえます』
真尋の胸が痛む。
「そのつもりでは」
『では、何のための質問ですか』
「期限を守れる可能性を確認するためです」
『同じです』
中原の声が震えている。
『三年前も、何が必要か聞かれました。人が必要と答えた。人は増えなかった。期限だけ残った』
「今回は」
『今回は違うと、最初に言いましたね』
真尋は返せない。
『水口さん。私たちは、変えたくないわけではありません。二重入力をなくしたい。比較もしたい。でも、現場の時間を使うなら、その時間を仕事として認めてほしい。残業で片づける追加作業ではなく』
*
真尋は目を閉じた。
残業で対応できますか。自分が言った。作業の重さを、すぐ終わらせるべき障害として扱った。
「申し訳ありません」
真尋は言った。電話の向こうが静かになる。
「先ほど、残業で対応できるかと聞きました。統一のために必要な仕事を、通常業務の外へ置く言い方でした。間違っていました」
中原はすぐに返事をしない。
「今日の決定は延期します」
『本当に? いつまで?』
「現場確認と支援体制を作った後に、新しい日程を出します」
『また期限がなくなる?』
「今日中に、確認計画だけは出します。福岡の作業時間を、正式なプロジェクト業務として計上します」
『人は?』
「現在の業務を減らすか、応援を出すか、支社長と話します。決める前提で聞いたことも、謝ります」
『水口さん。延期したら、東京から怒られませんか』
「怒られる可能性はあります」
『評価も?』
「はい」
『それでも?』
「前提が違っていたので」
真尋は言った。
「間違った期限を守るより、修正します」
電話の向こうで、中原が息を吐いた。
『わかりました』
「午後の会議で、私から説明します」
『私も出ます。今度は、聞いてください』
「はい」
*
電話を切った後、真尋はしばらく動けなかった。
謝った。決定を延期した。正しい判断だと思う。だが、遅い。
山岸は朝から言っていた。中原も会議で。自分は、一覧の数字が想定を超えるまで止まれなかった。
人の声ではなく、数字が出て初めて判断を変えた。それが悔しかった。
自分は本当に変わったのか。東京で学んだことを、大阪へ来た途端に忘れたのではないか。責任者になり、成果を求められ、また正しさを急いだ。
真尋はスマートフォンを手に取った。
俊介へ連絡したい。葵へも。私は間違えた。どうしたらいい。そう言いたい。
だが、今は仕事の途中。答えをもらう前に、自分がしなければならないことがある。
山岸へ話す。岩瀬へ。支社長へ。会議で謝る。
真尋はスマートフォンを伏せた。
*
「山岸さん」
真尋が呼ぶと、山岸はすぐに席へ来た。
「はい」
「決定を延期します」
山岸の表情が動く。
「中原さんと話しましたか」
「はい」
「理由は?」
「現場確認の時間と、支援体制が足りません。残業で対応できるかと聞いたことも、謝りました」
山岸は黙って真尋を見る。
「朝、山岸さんが言ってくれた時に、止まるべきでした。すみません」
「私へ?」
「意見を聞きながら、決めることだけを優先しました」
山岸は考え、椅子を引いて座った。
「私、腹が立っていました。水口さんが、最初に言っていたことと違うと思った。人の話を聞くと言ったのに、期限があるから進める」
「はい」
「でも、私も強く止めませんでした」
「十分言いました」
「水口さんが怖かったので」
真尋の胸が痛む。
「怒られるとは思わなかったです」
「では、なぜ?」
「意見を言っても、理屈で返されると思った」
「返しました。申し訳ありません」
「謝って終わりにしないでください」
「はい」
「次から、私が止めた時に、何を確認すれば判断を変えられるか聞いてください」
「わかりました」
「私も、感覚だけでなく、具体的な影響を出します」
*
「水口さん。延期すると決められたことは、よかったと思います」
「遅かったです」
「はい」
山岸は否定しない。
「でも、遅くても変えた。前の担当者は、最後まで変えなかったそうです」
「それと比べて安心はできません」
「しなくていいです」
山岸は立ち上がる。
「会議資料、作り直します。延期理由。確認計画。役割。新しい決定日」
「決定日は、まだ」
「決める日を決める日」
「はい」
「今日中に」
「お願いします」
*
岩瀬へ連絡すると、最初に沈黙があった。
『延期ですか』
「はい」
『二週間で案を作ったのに。広島側は、開始準備も進めています』
「申し訳ありません」
『福岡だけ遅らせる方法は?』
「統一後に一地域だけ旧分類を使えば、比較できません」
『わかっています』
「はい」
『中原さんが反対したから?』
「中原さんだけではありません」
『では?』
「私が、現場確認に必要な時間を軽く見ていました」
『水口さんが? 岩瀬は、二週間でできると言いました』
「案を作る期限です」
『決定も今日と』
「私が決めました」
『では、責任は』
「私にあります」
岩瀬が黙る。
『私の仕事は、無駄ですか』
「いいえ」
『延期すれば、案が変わる。また作り直す?』
「はい」
『正直、納得できません。福岡の確認が遅いとも思います』
「最終案の共有が金曜日でした」
『変更は小さいと思いました』
「私も」
『違った』
「はい」
岩瀬の呼吸が少し荒い。
『水口さん。謝るだけなら簡単です。作り直す人は私です』
真尋はその言葉を受け取る。
「今回の修正は、私も作業します」
『責任者が? 通常業務は?』
「調整します」
『また残業で?』
岩瀬の言葉に、真尋は詰まる。同じことを自分へ返されている。
「残業で埋めません」
『では?』
「今日の午後の面談を延期します。理由を説明します。支社長への報告資料も簡略化します」
『怒られますよ』
「はい」
『私も、午後から一時間なら時間を出します』
岩瀬が言った。
「いいんですか」
『納得していません。でも、自分の案なので』
「ありがとうございます」
『次は、変える前に聞いてください』
「はい」
*
午後一時の再開会議。
真尋は最初に立ち上がった。画面には中原。岩瀬。大阪の参加者。山岸。森田。支社長も後方に座っている。
「午前中の会議で、私は売上区分の統一案を今日決定する方針を変えませんでした。その判断を、撤回します」
会議室に小さなざわめきが起きる。
「決定を延期します」
中原は画面越しに、真尋を見ている。
「理由は三つです」
真尋は資料を映す。
「一つ目。福岡の例外商品の件数と、確認作業を過少に見積もっていました。二つ目。最終案の共有から現場確認までの時間が不足していました。三つ目。必要な確認作業を、通常業務の外で処理できると考えました」
真尋は一度言葉を止める。
「午前中、私は残業で対応できるかと尋ねました」
画面の中原が視線を下げる。
「統一へ必要な作業であるにもかかわらず、現場が勤務時間外に負担すれば進められるという言い方でした。間違っていました」
会議室が静かになる。
「申し訳ありません」
真尋は頭を下げた。責任者として。全員の前で。
顔を上げる。
*
「延期後の進め方です」
山岸が作り直した資料を表示する。
一週間で、三地域の影響商品を確認。確認作業はプロジェクト業務として勤務時間内に行う。各地域で通常業務のうち一時停止できるものを選定。大阪と広島から商品知識のある担当者を、オンラインで支援。二週間後に修正版を共有。その後、現場確認期間を五営業日設ける。決定は四週間後。運用開始は一か月延期。
「遅れによる影響は、私から本社へ説明します」
真尋は言った。
「質問をお願いします」
最初に手を挙げたのは岩瀬だった。
『広島で進めた準備は、止めますか』
「分類変更の研修は止めます。商品一覧の整理は続けてください」
『作り直しは?』
「私と岩瀬さんで、今日一時間行います」
『一時間で足ります?』
「足りない場合は、明日以降、通常会議を一つ減らします」
『わかりました』
次に森田。
「大阪側でも、例外商品が増える可能性があります」
「確認をお願いします」
「誰が?」
「森田さんに相談したいです。相談窓口の事例共有を、今週は坂口さんへ任せられますか」
森田は考える。
「できます」
「その時間を、商品確認へ」
「わかりました」
中原が手を挙げた。
『福岡の五人は、誰が選びますか』
「中原さんに案をお願いします。業務と商品を知っている方を」
『通常業務を止める判断は?』
「福岡の責任者と私が話します」
『水口さんも?』
「はい」
中原は黙り、続けた。
『午前中、かなり強く言いました。謝りません。必要だったと思っています』
「私もです」
『でも、延期すると決めてくれたことは、ありがとうございます』
「こちらこそ、話してくださりありがとうございました」
*
会議が終わった後、支社長が真尋へ言った。
「少し時間を」
支社長室へ入る。真尋は叱責を覚悟していた。
「本社へは、私からも話します」
「ありがとうございます」
「ただし、判断を変えた理由を、感情ではなく数字で。六十四商品。必要工数。影響店舗」
「資料を出します」
「水口さん。午前中に決めていたら、どうなっていたと思いますか」
「福岡側の負担が増え、例外登録が間に合わなかったと思います」
「運用開始後に混乱?」
「はい」
「現場の信用も」
「失っていました」
「今は?」
「すでに一部失ったと思います」
支社長は椅子へ背を預ける。
「責任者は、間違えない人ではありません。間違いを小さく見せない人です。ただ、毎回謝ればいいわけでもない」
「わかっています」
「次に同じことをしない仕組みを」
「最終案共有後、最低五営業日の確認期間を設けます。変更の影響を、件数だけでなく作業時間で出す。現場作業を時間外対応として計画しない。そして」
真尋は言葉を止める。
「反対意見が出た時に、判断を変えるために必要な情報をその場で確認します。理屈で押し返す前に」
支社長は吹き出した。
「それが一番難しそうですね。本社へは、今日中に報告してください」
「わかりました」
*
支社長室を出ると、個別面談を予定していた坂口が待っていた。
「今日、面談ですよね」
「申し訳ありません。延期させてください」
真尋は頭を下げる。
「会議のことで?」
「はい」
「いつになりますか」
「明日の午後か、明後日」
「また変わりません?」
「今日中に確定します。坂口さんの時間を空けてもらったのに、すみません」
「大丈夫です」
坂口はそう言った後、考えた。
「本当は、少し困ります。相談窓口の仕事、森田さんから任される話を聞きたかったので。今夜、考えるつもりでした」
「はい」
「明日なら、今日中に資料を送ります」
「お願いします」
「面談は明日三時で」
「わかりました」
大丈夫ですと言った人が、本当の不満を言い直した。真尋はそれを受け取る。
「言ってくれてありがとうございます」
「水口さんが、今日謝っていたので。私も、大丈夫じゃないと言っていい気がしました」
坂口は照れたように笑い、自席へ戻った。
*
午後二時。真尋と岩瀬は修正作業を始めた。
オンライン画面。商品一覧。福岡から届いた六十四件。分類基準を一つずつ確認する。
岩瀬の操作は速い。真尋は判断理由を記録する。
『主用途だけでは決めない』
『販売場所の比率を確認』
『現場説明が必要な商品を区別』
一時間の予定は、九十分かかった。それでも途中で止めず、二人で一区切りつけた。
『水口さん。午前中は、正直、腹が立ちました。私が急いで作った案を、福岡の確認不足で止められたと思った』
「はい」
『でも、最終案を金曜夕方に出したのは私です』
「私も確認しました」
『私も、早く結果を出したかった。広島の案が採用されたと示したかった』
真尋は岩瀬の顔を見る。
「私も、期限通り決めたかったです」
『評価のため?』
「少し」
岩瀬が意外そうな表情をする。
『水口さんも、そういうこと言うんですね。責任者だから、全部組織のためだと思っていました』
「自分のためでもあります。だから、気をつけなければ」
『私も』
二人は少しだけ笑った。
*
午後五時半、本社への報告を終えた。部長からは、厳しい言葉を受けた。
『現場確認の不足は、事前に予測できたはずです』
「はい」
『開始一か月延期の影響は大きい』
「承知しています」
『責任者として、次はありません』
「はい」
最後に部長は言った。
『ただし、今日止めたこと自体は支持します』
「ありがとうございます」
『遅れを取り戻すため、無理な日程を作らないように』
「はい」
電話を切る。真尋は椅子へ深く座った。
疲れた。朝からずっと、体に力が入っていた。
周囲を見る。人は少しずつ帰り始めている。
山岸が席へ来た。
「今日は、帰れます?」
「報告の記録を」
「明日」
「忘れるので」
「三行だけ」
「はい」
真尋はノートへ書く。
『期限を一か月延期』
『現場確認期間を制度化』
『反対意見に必要な情報を聞く』
ペンを置く。
「終わりました」
「帰りましょう」
二人で会社を出た。
*
駅までの道。夕方の風。
真尋は歩きながら、今日のことを何度も思い返した。
「山岸さん。今日、私へ言いにくかったですか」
「かなり」
「なぜ?」
「責任者だから。東京から来た人だから。私より役職が上だから。それと、水口さんは言葉が速い」
「速い?」
「こちらが全部話す前に、答えが返ってきます」
真尋は黙る。
「今日は、私が『まだわからない』と言ったら、『では会議で聞きます』と。その時点で、話が終わった気がしました。本当は、確認時間が足りないと、もっと言いたかった」
「なぜ言わなかったんですか」
「言っても、具体的な問題がなければ進めると言われると思った」
その通りだった。
真尋は具体的な影響を求めた。影響が見えなければ、感覚を判断材料にしなかった。
「感覚だけでも、止まるべき時がありますか」
「少なくとも、調べる時間は取れます。感覚が正しいとは限りません。でも、何もないとも限らない」
真尋は歩きながら頷く。
「次から、『何が気になるか』を聞きます。具体的でなくても」
「はい」
「山岸さんも、最後まで言ってください」
「努力します」
「怖くても?」
「水口さんも、理屈で全部返さないでください」
「努力します」
*
二人は駅前で別れた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
山岸が少し歩き、振り返る。
「水口さん。今日、謝った時、怖い人ではなくなりました」
「良いことですか」
「少し困ります」
「なぜ?」
「今度は、無理をさせないよう心配したくなるから」
「必要ありません」
「そう言うと思いました」
山岸は笑い、手を振った。
*
真尋は商店街で夕食を買わず、そのまま部屋へ戻った。
食欲がない。冷蔵庫には、卵と野菜。簡単なものを作れる。だが今は、何もしたくなかった。
玄関を開ける。
「ただいま」
声は小さい。
花瓶には、桃色の造花だけ。俊介が持ってきた黄色い花も、前日に処分した。テーブルが少し寂しく見える。
真尋はバッグを置き、ソファへ座った。
スマートフォンには、俊介からメッセージが来ている。
『今日は大きな会議でしたか。終わったら連絡してください』
葵から。
『試作品、明日届く予定です』
母から。
『今週末、東京へ戻る?』
真尋は画面を見た。
誰かへ話したい。間違えた。謝った。延期した。怖かった。そう言いたい。
だが、誰へ最初に連絡するかを考え始める。俊介。葵。母。その順番へ意味をつけそうになる。
真尋は一度スマートフォンを置いた。
まず食事。空腹のままでは、感情も大きくなる。
ご飯は冷凍してある。電子レンジで温める。卵を焼く。味噌汁は即席。それだけ。
「いただきます」
一口食べる。味がよくわからない。それでも、半分ほど食べた。少し体が落ち着く。
食器を洗う。それから、俊介へメッセージを送った。
『今日は仕事で判断を誤りました。今、少し話したいです』
すぐに電話がかかってきた。
*
『もしもし』
「はい」
『大丈夫ですか』
「大丈夫ではありません」
真尋は答えた。俊介が黙る。
『何がありました?』
真尋は朝からの流れを話した。
売上区分。中原。期限。残業。山岸。六十四商品。延期。謝罪。本社への報告。
途中で、俊介は口を挟まなかった。真尋が話し終えるまで聞いた。
「私は、人の話を聞くと言いながら、期限を守ることを優先しました。山岸さんが朝、気になると言ったのに、具体的な問題がないから進めると。中原さんにも、できる方法ばかり聞いた」
『はい』
「私は変わったと思っていました。でも、役職が上がったら、また同じです」
真尋の声が震える。
『同じ、とは?』
「正しさを急いで、人を置いていく。東京で学んだことを、何もできていません」
『それは、今日の出来事だけで決めていますか』
「事実です」
『今日、決定を延期しました』
「遅かったです。謝りました。でも、最初から聞けたはずです」
『はい』
「俊介。慰めないでください」
真尋は言った。
『はい』
「変わったと言わないで。今日は、私が間違えたと聞いてください」
『はい』
「責任者として焦りました。評価されたいと思いました。期限を守れる人だと示したかった。そのために、現場へ残業を求めました。最低です」
『その言葉には、同意しません』
「なぜ?」
『間違えたことには同意します。でも、真尋自身を最低だとは思いません』
「同じです」
『違います』
俊介の声は静かだった。
『仕事の判断を誤った。相手の話を十分聞かなかった。残業を軽く扱った』
「はい」
『その具体的な行動を、真尋という人全体へ広げないでください』
「でも」
『葵さんへも、同じことを言うでしょう』
*
真尋は黙る。
葵が失敗した時。選択を後悔した時。真尋は、一つのことですべてを否定しないよう言う。
『今日は、間違えた日です』
「はい」
『明日は?』
「まだ、わかりません」
『では、明日また仕事をしてください』
「簡単に」
『簡単ではありません。謝った相手の前へ、また行く。変更した計画を進める。それが必要です』
真尋は目を閉じた。
「怖いです。また信用されない。中原さんは、以前の担当者と同じだと思ったはずです」
『それでも、延期したことを見ています。次の行動も』
「はい」
『真尋。今日は、僕へ答えを求めていますか』
真尋は考える。
「少し」
『何と答えてほしい?』
「大丈夫だと」
『言いません』
「はい」
『大丈夫ではないから。でも、一人で立て直す必要もありません。山岸さんや中原さんと。岩瀬さんとも。僕は、聞きます。仕事は、現地の人たちと直してください』
「はい」
それが正しい。
俊介は、仕事の外から真尋を支える。答えを出すのは、現場の人と。
*
「葵にも話しますか」
俊介が尋ねる。
「明日」
『なぜ明日?』
「今日は、俊介と話したかったので。葵へも、聞いてほしいです。でも今は、これ以上話すと疲れます。母には、明日」
『はい』
「俊介。今夜、そばにいてほしいです」
言ってから、距離を思い出す。大阪と東京。すぐには来られない。
『行きたいです。今からは難しいです』
「わかっています」
『電話をつないだままにしますか』
真尋は迷う。声を聞きながら眠る。それもできる。だが、今日は自分で夜を終えたい気持ちもある。
「十時まで」
『はい』
「その後は、一人で」
『わかりました』
二人は仕事以外の話を少しした。
俊介の昼食。東京の雨。母から頼まれた大阪土産。次に会える可能性。
日常の話をすることで、仕事の失敗だけではない自分へ戻っていく。
*
十時。真尋は約束通り電話を切った。風呂へ入る。
湯船の中で、また会議の言葉が浮かぶ。
『何のために意見を聞いたんですか』
苦しい。だが忘れてはいけない。
忘れないことと、自分を責め続けることは違う。
真尋は風呂から上がり、生活ノートを開いた。
『大阪で初めてしたこと』
新しい行。
『大きな判断を間違えた』
その下へ。
『全員の前で謝った』
『決定を延期した』
『遅くても、戻った』
書いた後、最後の一文を消そうとした。
戻った。自分を肯定しすぎているように感じる。
だが消さなかった。間違えたことと、修正したこと。両方が事実。
*
翌朝、葵から届くはずの試作品より先に、真尋は会社へ向かった。昨日より早く着く。
誰もいない机。付箋を見る。新しい一枚が貼られていた。
『昨日の延期を支持します。ただ、最初から聞いてほしかったです』
名前はない。真尋は読む。すぐに返事を書かない。まず、何を返すか考える。
『その通りです』
短く書く。続けて。
『次回から、最終案共有後の確認期間を五営業日設けます。反対意見が出た時は、決定を変えるために必要な情報を確認します』
言葉だけでなく、行動。
山岸が出勤してくる。
「おはようございます」
「おはようございます」
「早いですね」
「昨日の面談資料を」
「坂口さんの?」
「はい」
「昨日、送りました?」
「夜に送るつもりでしたが」
「送っていない?」
「はい」
「なら、今から」
山岸は真尋の机の付箋を見る。
「返事、短いですね」
「言い訳をしないように」
「昨日は、眠れました?」
「途中から」
「私は、よく眠れました。言いたいことを言ったので」
真尋の口元が緩んだ。
「これからもお願いします」
「毎回は疲れます」
「必要な時に」
「はい」
*
午前九時。中原との確認会議。昨日より参加者は少ない。中原。福岡の責任者。山岸。真尋。
「最初に、昨日決めた確認計画を共有します」
真尋は説明した。勤務時間内の作業。止める通常業務。応援の範囲。確認担当者。
中原が言う。
『福岡側で五人を選びました。ただ、一人は空港店舗の応援が入っています』
「その期間だけ外せますか」
福岡の責任者が答える。
『調整します』
「難しい場合は、日程を変えます」
中原が驚く。
『期限を優先しない?』
「必要な人がいない状態で進めません。ただし、調整できるかは今日中に教えてください」
『わかりました』
真尋は言葉を急がない。中原が何か言いかけ、止める。
「何ですか」
『いえ』
「気になることがあれば」
『昨日の今日なので、慎重になっただけかと思いました』
「はい」
『どのくらい続きますか』
真尋は苦笑しそうになる。
「続けるつもりです」
『つもり』
「できなければ、また言ってください」
『言います』
中原の声に、少しだけ柔らかさがあった。
*
午後三時。坂口との面談。真尋は昨日延期したことを、もう一度謝った。
「今日は、時間通りです」
坂口が言う。
「はい」
「資料も読みました」
「相談窓口の役割について、どう思いますか」
「やりたいです」
「不安は?」
「森田さんみたいに、答えを出せないこと」
「相談相手は、必ず答えを出す人ですか」
「違うと思います。でも、何も言えなかったら」
「聞くだけでもよい場合があります。森田さんへ、どのようにしているか聞きました?」
「少し」
「何と?」
「すぐに会社の答えを言わない。相手が何に困っているか分ける」
真尋は昨日の自分を思い出す。何に困っているか聞く前に、期限を守る方法を探した。
「良い方法ですね」
「水口さんも、面談でしていることですか」
坂口に尋ねられ、真尋は正直に答える。
「できる時と、できない時があります」
「昨日は?」
「できませんでした。だから、坂口さんにも、できなかった時に言える人が必要です」
「森田さん?」
「最初は」
「水口さんも?」
「必要なら」
「忙しくても?」
真尋はすぐに大丈夫とは言わない。
「返事が遅くなることはあります。ただ、いつ話せるかは伝えます」
「わかりました」
*
仕事を終えた真尋が部屋へ戻ると、宅配便の不在票が入っていた。葵からの試作品。
再配達を依頼し、一時間後に受け取る。
小さな箱。中には三つの商品。淡い青色のパッケージ。
『迷う日にも、ひと息。』
葵の手紙も入っている。
『真尋へ。
正しいと思って選んだ後に、迷う日がある人へ作りました。
戻りたくなる日にも、進みたい日にも、どちらかを急いで決めなくていい時間を渡せたらと思っています。
仕事の感想として、正直に教えてください。
葵』
真尋は手紙を読み、昨日の自分を思い出す。
決めた後に迷ったのではない。決める前に、止まれなかった。
それでも今は、自分が責任者に向いているのか迷っている。大阪へ来た選択。昇進を受けた選択。今日も続ける選択。
すべてを疑う瞬間がある。
真尋は一つ開けた。甘い香り。前の商品より少し軽い味。紅茶に合う。
パッケージを見る。
『迷う日にも、ひと息。』
一口食べる。
答えが出るわけではない。昨日の間違いも消えない。
それでも、今の自分を責める手を止められる。
真尋は葵へ電話をかけた。
*
『届いた? 食べた?』
「今」
『どう?』
「味は、前より軽いです」
『良い?』
「私は好きです」
『言葉は?』
真尋は間を置く。
「昨日、仕事で間違えました」
『何があったの』
真尋は葵へも話した。俊介へ話した時より、少し整理できている。
自分が焦ったこと。残業を求めたこと。延期したこと。謝ったこと。
葵は途中で、
『それは真尋が悪い』
と言った。真尋は驚いた。
「はい」
『残業でって、嫌。現場の人、前にも同じことされてたんでしょう』
「はい」
『なら、余計に』
「はい」
葵は慰めるだけではない。
『でも、延期したんだね。怒られた?』
「本社からも」
『怖かった?』
「はい」
『辞めたい?』
真尋は自分へ問い直す。
「昨日は少し」
『今日は?』
「続けたいです」
『迷ってる?』
「はい」
『商品、合う?』
「かなり」
葵は思わず笑った。
『よかったって言っていいのかな』
「商品としては」
『間違えた日に売りつけたみたい』
「送ったのは前です」
*
「葵。この言葉は、選択を肯定しすぎません」
『うん』
「間違った選択だった場合にも、入れます」
『本当?』
「はい。選んだことが正しいから迷っていい、ではない。間違っていたかもしれない。それでも、今すぐ人生全部を否定せず休める。私は好きです」
電話の向こうが静かになる。
『真尋が最初に食べてくれてよかった』
「なぜ?」
『直哉と別れた私だけの言葉じゃなくなったから。仕事で間違えた真尋にも届いた。美月の転職。お母さんの結婚。俊介さんの会社。いろいろな人へ』
「はい」
「葵。昨日、俊介へ先に話しました」
『うん』
「今日は、葵へ。寂しかったですか」
葵は黙る。
『昨日、真尋から連絡がなかったから少し。でも、俊介さんと話してるかもって思った。前なら、私に先に言ってほしいと思った』
「今は?」
『少しは思う。でも、仕事で傷ついた時に俊介さんの声を聞きたかったなら、それでいい』
「ありがとうございます」
『今日、私に話してくれた。同じ内容でも、二人に話す意味は違う?』
「違います」
『どう?』
真尋は考える。
「俊介には、私自身を全部否定しそうになったことを聞いてもらいました。葵には、間違った後に続けることを話したかった」
『私が別れた後、続けたから?』
「はい」
『戻らないって決めた後も、迷った』
「はい」
『真尋も、責任者を続ける。一緒だね』
「同じではありませんが」
『形は違う』
「はい」
二人は声を立てて笑った。
*
その週の後半、売上区分の確認作業は予定通り進んだ。
福岡から、空港店舗での分類事例が届く。大阪から、百貨店催事の商品。広島から、地域土産と日常菓子の境界。
例外は増えた。だが、共通する基準も見えてきた。
真尋は、すぐに分類表へ押し込まず、なぜその売り方をしているかを聞いた。
商品名や登録情報だけではわからない。誰が買うのか。どこで選ぶのか。何と一緒に購入するのか。
現場の話を聞くほど、分類は単なる数字の整理ではなく、商品の意味を揃える作業だとわかる。
「水口さん」
中原がオンライン会議で言った。
『この商品は、土産品ではなく、帰省する人が家族と食べるものです』
「違いは?」
『渡すためではなく、一緒に食べる。だから、日常菓子に近い』
「販売場所は空港でも?」
『はい』
「では、購入目的を優先する基準へ」
『すべての商品に使えます?』
「確認します」
以前なら、早く分類へ入れた。今は、一つの事例から基準を見直す。
「中原さん。このような説明を、店舗担当者へ短く聞ける質問にできますか」
『何のために買う商品か』
「はい」
『誰と食べるか、も』
「お願いします」
『私が作る?』
「一緒に」
『はい』
中原の声に、以前の硬さが少し減っている。
*
山岸は匿名意見箱の内容を、三つへ分類した。
『質問』
『提案』
『感情』
「感情?」
真尋が尋ねる。
「不安。怒り。寂しさ」
「仕事の意見として?」
「はい」
「回答できます?」
「解決はできなくても、受け取ったと返せます」
山岸は一枚を見せる。
『水口さんが延期したことで安心しました。同時に、また急に変わるのではと不安です』
「どう返します?」
真尋が尋ねる。
「水口さんなら?」
「確認期間と変更手順を説明します」
「それだけ?」
「ほかに?」
「不安がなくならないことを認める」
山岸は新しい付箋へ書く。
『不安を完全になくすことはできません。今後、変更する場合は、理由と影響、確認期間を事前に伝えます』
真尋は頷く。
「制度だけではなく、気持ちも。山岸さんへ任せてよかったです」
「今、初めて言いましたね」
「何を?」
「任せてよかった」
「そうですか」
山岸は嬉しそうに笑った。
*
金曜日の夜、真尋は一週間ぶりに母へ電話をした。
『仕事、どう?』
「間違えました」
『何を?』
説明すると、母はしばらく黙っていた。
『昔のお父さんみたい』
「父が?」
『転勤を相談せず決めた時。家族のために正しいと思って、相手が何を失うか聞かなかった』
「はい」
『真尋も、会社のために正しいと思った。似てるわね』
「嬉しくありません」
『悪いところだけじゃない。お父さんも、後で謝った』
「どのように?」
『最初は、相談しなかったことを謝った。でも私が欲しかったのは、次にどうするかだった。それからは、大きな仕事の話を、決める前に持ち帰った。全部、私の希望通りにはしなかったけど』
「はい」
『聞いた』
「それが大事だった?」
『うん』
真尋は、最終案後の確認期間を思い出す。意見を聞く時間を、予定へ入れる。
「お母さん。父を許しました?」
『すぐには。謝ったから、怒りが消えるわけじゃない。次に同じことをしなかったから、少しずつ』
「はい」
『真尋も、すぐ信用を戻そうとしないことね。焦ると、また相手のためじゃなく自分の安心のために動くから』
母の言葉が胸へ入る。
謝った。だから、もう信じてほしい。そう求めてはいけない。
「わかりました」
『今週末、帰る?』
「帰りません。仕事ではなく、部屋で過ごしたいです。来週は、戻る予定です」
『俊介さんに会う?』
「はい」
『私にも』
「食事を」
『忘れないで』
*
翌週、修正版の分類案を共有した。今度は決定しない。五営業日の確認期間。
会議の最初に真尋は言った。
「反対意見がある場合、結論だけでなく、何が起きるかを教えてください。まだ具体的でなくても構いません。気になるという段階でも、確認します」
中原が画面越しに言う。
『決定を変えない場合もありますよね』
「あります」
『その時は?』
「理由を説明します」
『期限があるから、だけではなく?』
「はい」
岩瀬が尋ねる。
『確認期間中に、大きな変更が出たら、また五日延ばす?』
「変更の影響によります」
『誰が判断?』
「私だけではなく、三地域の担当者と」
森田が言う。
「全員が反対なら?」
「見直します」
「一人だけなら?」
「内容を見ます」
「人数ではない?」
「はい」
真尋は答えた。
会議は、以前より長くなった。だが、質問の種類が変わっていた。
反対のための質問ではなく、進めるための確認。
信用が戻ったとは言えない。それでも、同じテーブルに座る感覚が少し生まれている。
*
確認期間の三日目。福岡から一件、分類基準の変更提案が出た。
岩瀬は、影響が小さいとして反対した。真尋も最初は、現在案で進められると思った。
だが、すぐに返さず質問した。
「中原さん、何が気になりますか」
『店舗で、同じ商品が違う棚へ置かれることです』
「具体例は?」
『二店舗だけですが』
「売上への影響は?」
『まだわかりません』
「確認に必要な時間は?」
『半日』
以前なら、二店舗だけなら開始後に確認すると言った。
真尋は時計を見る。確認期間は、まだ二日ある。
「半日、確認してください」
『いいんですか』
「結果が同じでも、確認した上で決めます」
翌日、中原から報告が届く。売上への影響はほとんどない。現行案で問題ない。
分類は変えなかった。だが、中原は会議で言った。
『確認できたので、納得しました』
同じ結論。違う過程。
その違いを、真尋は忘れないようノートへ書いた。
*
決定日は、最初の予定から四週間遅れた。
会議の最後、真尋は参加者へ尋ねた。
「この案で進めることに、重大な反対はありますか」
誰も手を挙げない。
「不安は?」
中原が手を挙げる。
『運用開始後、例外が増えること』
「はい」
岩瀬。
『判断が遅くなること』
「はい」
森田。
「現場へ説明が伝わらないこと」
「はい」
真尋はすべて記録する。
「不安があるまま、進めます」
真尋は言った。
「開始後、一週間と一か月で確認します。問題があれば、戻します」
『戻すこともある?』
中原が尋ねる。
「はい。決めたから、変えないとはしません」
最終決定。大きな拍手はない。
だが岩瀬が画面越しに、軽く頭を下げた。中原も。森田が隣で、小さく息を吐いた。
*
会議後、山岸が真尋の机へ、一枚の付箋を置いた。
『お手柔らかにお願いします』
最初の日から残っていた付箋。
「山岸さんが?」
「違います」
「では?」
「書いた人が、名乗りました」
「誰ですか」
「坂口さん」
真尋は驚く。
「なぜ今?」
「捨ててもらっていいと言っていました」
「本人は?」
「相談窓口の研修中です」
真尋は付箋を見る。初日。怖い人へ向けた言葉。
「捨てません」
「残す?」
「大阪を離れる日まで」
「縁起が悪くないですか」
「忘れないために」
「何を?」
「お手柔らかに、と思われていたことを」
山岸が笑う。
「今も少し思われていますよ」
「はい」
「でも、前より言いやすい」
「はい」
付箋の下には、新しいものが増えている。
『昨日、話を聞いてもらった人です』
『決定を延期して安心しました』
『最初から聞いてほしかった』
『確認できたので、納得しました』
全部が、真尋の大阪での仕事だった。
*
その夜、真尋は生活ノートを開いた。
『大阪で初めてしたこと』
新しい行へ書く。
『間違えた制度を、やり直して決めた』
『同じ結論でも、確認してから進めた』
『信用を急いで戻そうとしなかった』
最後の一文を書いた時、俊介から電話がかかってきた。
「もしもし」
『決まりましたか』
「はい」
『おめでとうございます。嬉しいですか』
「はい」
『安心した?』
「少し」
『怖さは?』
「残っています。運用後に問題が出るかもしれません。でも、今度は戻る手順も決めました」
『はい』
「俊介。間違えた日、聞いてくれてありがとうございました。大丈夫と言わなかったことも」
『はい』
「私は、自分を全部否定しそうになりました。今は、間違えた責任者として、続けられると思います。完璧な責任者ではなく」
『はい』
「完璧という言葉は使わないでください」
『真尋が言いました』
「来週、東京へ戻ります。会えますか」
『もちろんです』
「母とも食事をします。葵とも。時間を分けます」
『わかっています』
「俊介とは、土曜日の夜から日曜日」
『泊まりますか』
「はい」
『東京の部屋で?』
「はい」
『会いたいです』
「私も」
*
葵へも、決定したことを伝えた。
『よかった。商品、役に立った?』
「かなり」
『本当に? でも、仕事の答えは出なかったでしょう』
「出ないことが良かったです。少し休んで、自分を全部否定せずに済みました。この言葉、私は本採用を勧めます」
『真尋一人の感想では決められない』
「仕事の人ですね」
『はい』
「公平に。葵。大阪で、失敗した話も増えました。秋田で話したいことが、また増えました。成功だけではなく」
『全部』
「はい」
『私も、直哉を思い出した日とか、商品が売れなかった日とか。全部持っていく』
「はい」
『秋田、まだ予定にある?』
「あります」
『仕事で変わる?』
「可能性はあります」
『でも、行く?』
「日を変えても。行きます」
*
真尋は電話を切り、窓辺へ立った。
大阪の夜。公園の木。商店街の灯り。遠くの電車。
この街で、自分は一度大きく間違えた。東京へ戻りたいと思った。責任者に向いていないと感じた。
それでも翌朝、会社へ行った。謝った相手の名前を呼んだ。聞き直した。決め直した。
間違えなければ、もっとよかった。だが、間違えた事実を消すことはできない。
その場所から、何をするかだけが残る。
真尋は白い花瓶を見る。桃色の造花だけ。変わらない花。
明日、帰りに生花を一輪買おうと思った。今度は、何色でもいい。
葵や俊介を待つためではない。制度が決まった記念でもない。間違えた後も、この部屋へ帰ってきた自分のために。
*
真尋は照明を少し落とした。
テーブルの端には、葵の試作品。
『迷う日にも、ひと息。』
迷うことは、選んだ道が正しい証拠ではない。間違っている証拠でもない。
止まり、聞き、戻り、また進むための時間。
真尋はパッケージを指でなぞった。
大阪へ来てから、自分の名前を呼ぶ人が増えた。山岸。森田。岩瀬。中原。坂口。花屋の人。
その人たちの前で、真尋は間違えた。
だからこそ、肩書きだけではない自分を知られ始めたのかもしれない。
正しい人ではなく。失敗しない責任者でもなく。
話を聞けない日があり、後から戻る人。謝り、決め直す人。まだ途中にいる人。
真尋はカーテンを閉めた。
明日も仕事がある。新しい制度は、決まっただけでは動かない。運用が始まれば、別の問題も出る。また迷う。また間違える可能性もある。
それでも、今度は少し早く止まりたい。誰かの声を、数字が出る前に聞きたい。
真尋は寝室へ向かった。
ベッドには枕が一つ。今夜は一人。
来週は東京で、俊介と同じ朝を迎える。葵と食事をし、母の家へも行く。その後、また大阪へ戻る。
どちらか一つが本当の生活なのではない。
東京へ帰る真尋も。大阪へ戻る真尋も。間違えた真尋も。立て直した真尋も。
すべてを持ったまま、次の朝へ向かう。
照明を消す前、真尋は生活ノートの最後へ一行だけ加えた。
『間違えた場所も、戻ってこられる場所にする』
ペンを置く。部屋を暗くする。
窓の外を走る電車の音が、少しずつ遠ざかっていった。




