↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/46

第二十五章 帰る場所の変わり方

東京へ戻る金曜日の朝、真尋は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

 午前五時五十二分。カーテンの向こうは、まだ薄暗い。

 大阪へ来た最初の朝と同じように、公園の木が窓の外で揺れている。だが、あの日とは部屋の見え方が違っていた。

 床に積まれていた段ボール箱は、すべて片づいている。本棚には、仕事の本と旅の随筆が並ぶ。キッチンには、毎日使う鍋と皿。冷蔵庫には卵、野菜、作り置きのスープ。テーブルには、写真と花瓶。

 桃色の造花の隣に、数日前に買った青紫の花が二輪入っている。

 名前は、花屋の女性に教えてもらった。リンドウ。

 店先で色に目を引かれ、初めて自分から名前を尋ねた。

『少し早いけど、長く持つよ』

 そう言われて選んだ。

 俊介が持ってきた花でもない。葵からもらったものでもない。何かの記念でもない。真尋が仕事帰りに、自分の部屋へ置きたいと思って買った花だった。

 今日は、この部屋を離れて東京へ戻る。二泊三日。日曜日の夜には大阪へ帰ってくる。

 帰ってくる。

 その言葉を心の中で繰り返し、真尋は驚いた。

 東京へ行くのに、帰る。大阪へ戻る時にも、帰る。

 二つの場所に同じ言葉を使うことへ、まだわずかな違和感がある。それでも、どちらかを偽物にする必要はない。

     *

 朝食は、ご飯と味噌汁、目玉焼き。

 帰る前に冷蔵庫の食材を使い切るため、残っていたほうれん草も茹でた。一人分にしては少し多い。だが、食べられる。

 食卓の端には、小さな旅行用バッグ。仕事用のパソコンも入っている。

 土曜日と日曜日は仕事をしないと決めているが、移動中に金曜日の残務を終える予定だった。

 以前なら、東京の部屋へ戻った後も資料を開いただろう。今回は、新幹線を降りる前に閉じる。

 俊介とは、今夜から日曜日の午前まで一緒に過ごす。土曜日の午後は葵。日曜日の昼は母。

 限られた時間へ、三人との予定を入れた。すべてを一度に集めるのではなく、それぞれと別の時間を過ごす。

 大阪へ行く前なら、同じ週末に全員と会うことを忙しいと感じたかもしれない。今は会いたい。

 ただし、会いたいからといって、自分の疲れを無視しない。

 日曜日の午後、新幹線へ乗る前の二時間は一人で過ごす予定にしている。誰にも会わない。東京駅周辺で食事をし、少し歩く。大阪へ戻るために、自分の気持ちを整える時間。

     *

 俊介へその予定を伝えた時、寂しそうな返事が来た。

『最後まで一緒にいたい気持ちはあります』

『はい』

『でも、真尋が必要なら』

『必要です』

『わかりました』

 葵にも、

『日曜日、駅まで見送りたい』

 と言われた。

『今回は一人で乗ります』

『どうして?』

『大阪へ戻る前に、一人の時間が欲しいからです』

『見送られるの嫌?』

『嫌ではありません』

『じゃあ』

『今回は、自分で東京を離れたいです』

 葵からの返事は遅れた。

『わかった』

 誰かと会う時間も。一人になる時間も。自分で選ぶ。

     *

 食事を終え、洗い物をする。ゴミをまとめる。冷蔵庫を確認する。青紫の花の水を替える。

 三日後まで持つだろうか。花屋の人からは、部屋が暑くなりすぎなければ大丈夫と言われた。カーテンを少しだけ閉め、直射日光が当たらないようにする。

 写真を見る。二つの影。俊介の横顔。家族。窓。

 大阪で撮った新しい写真も一枚加わっている。匿名の付箋が並んだ、自分の机。個人情報が見えないよう、離れて撮った。

 東京の壁へ同じ写真を飾るかは、まだ決めていない。大阪でしか持たない記憶があってもいい。

 真尋は玄関へ向かった。靴を履く。

「行ってきます」

 部屋へ言う。

 初めて大阪の部屋を一晩以上空ける。返事のない空間へ、帰ってくる前提で声をかける。

 扉を閉め、鍵を確かめた。

     *

 新大阪駅へ向かう電車の中で、俊介からメッセージが届いた。

『もう出ましたか』

『はい』

『何時頃、東京へ?』

『十二時半頃です』

『仕事は何時まで?』

『新幹線の中で終わらせます』

『東京駅へ迎えに行ってもいいですか』

 真尋は迷った。

 今夜は俊介の部屋へ泊まる。東京の自宅へ一度戻り、荷物を置いてから会う予定だった。

 迎えに来てもらえば、東京駅から二人の時間が始まる。嬉しい。

 一方で、自宅へ一人で帰り、部屋の空気を確かめたい気持ちもある。

『東京の部屋へ一度、一人で戻りたいです』

 送る。俊介から、すぐには返事が来ない。

『わかりました』

 少しして続く。

『寂しいですが、夕方会えるのを待っています』

『はい』

『何時にしますか』

『六時に、俊介の家へ行きます』

『僕が真尋の家へ行くのではなく?』

『今回は俊介の部屋へ行きたいです』

『はい。何か用意します』

『一緒に買いましょう』

『わかりました』

 真尋はスマートフォンを閉じた。

 東京へ着いて最初に会うのは、誰でもない。自分の部屋。それを選んだ。

     *

 新幹線へ乗り、窓側の席へ座る。

 大阪へ来た日と逆の方向。あの日は、東京駅のホームが後ろへ流れていった。今日は、大阪の街が遠ざかる。

 寂しいとは思わなかった。

 日曜日に戻るとわかっているからだろうか。それとも、東京へ会いたい人がいるからか。どちらもある。

 真尋はパソコンを開いた。

 売上区分統一後の運用確認資料。一週間目の報告。例外登録の件数。作業時間。現場からの質問。

 当初予測より、例外件数は少ない。二重入力も一部解消された。

 ただし福岡では、店舗への説明不足が二件。大阪では、旧分類のまま入力された商品が七件。広島では、問い合わせ先がわからないという声があった。

 制度は動き始めた。問題も出ている。それでも、戻すほどではない。修正しながら続ける。

 真尋は報告書へ、

『重大な問題なし』

 と書きかけ、止めた。

 現場で迷った人にとっては、重大だったかもしれない。表現を変える。

『運用継続を妨げる問題は現時点で確認されていない。個別の混乱については、説明資料と問い合わせ経路を修正する』

 大きな問題ではないから無視するのではなく、制度全体を止めるほどではないと分ける。

     *

 書き終えたところで、山岸から連絡が届いた。

『今日は予定通り休んでください。こちらは大丈夫です』

 真尋は吹き出した。

『ありがとうございます。緊急時は連絡してください』

『緊急かどうかはこちらで判断します』

『はい』

『東京で仕事をしないでください』

『移動中に終えます』

『終わったらパソコンを閉じた写真を送ってください』

『監視ですか』

『事務局としての確認です』

 真尋は報告書を送信し、パソコンを閉じた。

 時刻は午前十一時二十二分。東京到着まで一時間ほど。

 閉じたパソコンの写真を山岸へ送る。

『確認しました。良い週末を』

『山岸さんも』

 少しして。

『私たちは働いています』

『月曜日に戻ります』

『はい。帰ってきてください』

 帰ってきてください。大阪で言われた。

 真尋は画面をしばらく見た。

     *

 東京駅へ着く。

 ホームへ降りた瞬間、見慣れた案内表示と人の流れに、体が自然に動いた。

 どこへ行けばよいか考えなくてもわかる。乗り換え。改札。階段。

 大阪では、毎日少しずつ確認しながら歩いている。東京では、足が先に進む。

 安心する。同時に、人の多さに疲れる。

 以前は気にならなかった。東京を離れたことで、見え方が変わっている。

 電車へ乗り、自宅の最寄り駅へ向かう。

 駅前の店。信号。よく使った道。何も変わっていない。新しい看板が一つ増えた程度。

 真尋がいなくても、街は同じように動いていた。

     *

 自宅の扉へ鍵を差し込む。緊張した。鍵は問題なく回る。

 扉を開ける。閉め切った部屋の匂い。

 管理会社へ定期的な換気を依頼しているため、淀んではいない。それでも、人が毎日暮らしている匂いではない。

「ただいま」

 声にする。

 大阪へ行く前と同じ家具。同じ壁。写真は戻してある。葵との影。俊介。窓。家族。

 だが、大阪で見慣れた青紫の花はない。机の上に仕事の資料もない。冷蔵庫には、水と調味料だけ。

 この部屋は、真尋が帰ってくるのを待っていた。同時に、生活を止めたまま残っていた。

 真尋はバッグを置き、窓を開けた。

 外の音。車。工事。上の階の足音。懐かしい。

 それでも、完全に以前と同じ感覚には戻らない。

 大阪の部屋が頭へ浮かぶ。公園の木。商店街。白い花瓶。冷蔵庫の卵。開けたままの本。

 人が暮らしているのは、今は大阪のほうだ。

 東京の部屋は、真尋を知っている。大阪の部屋は、今の真尋が作っている。

 どちらが家なのか。答えを一つにしようとすると苦しくなる。

     *

 洗面所へ行く。三本の歯ブラシ。自分の東京用。俊介。葵。

 大阪にも同じ三本がある。

 真尋は自分の歯ブラシを手に取った。まだ使える。俊介のものも、葵のものも、そのまま。この数週間、誰も使っていない。

 物は待てる。

 人の関係も同じように止まっているわけではない。俊介は東京で生活を続けた。葵も。真尋も大阪で。

 戻ったからといって、以前の続きへそのまま戻るわけではない。それぞれが過ごした時間を持って会う。

     *

 真尋は簡単に部屋を掃除した。寝具を整える。冷蔵庫へ、駅で買った牛乳とヨーグルトを入れる。

 今夜は俊介の家へ泊まるため、ここで夕食は取らない。それでも、明日の朝か日曜日に戻ってくる可能性がある。最低限の食材だけ。

 午後二時。眠気があった。俊介と会うまで四時間。

 真尋はソファへ横になる。大阪で使っているものと同じ形なのに、柔らかさが違う。

 目を閉じる。眠るつもりはなかった。

 だが、次に目を開けた時、午後四時を過ぎていた。二時間近く眠っていた。

 東京の部屋へ戻った安心で、体の力が抜けたのかもしれない。

 スマートフォンには、俊介から一件。

『無事に部屋へ着きましたか』

 葵からも。

『東京着いた?』

 母から。

『帰ってるなら連絡して』

 誰にも連絡せず眠っていた。

 真尋はまず、自分の体調を確かめる。疲れは取れた。それから三人へ返す。

 俊介へ。

『着いています。少し眠っていました』

『疲れているなら、今夜は予定を変えますか』

『会いたいです』

『無理ではなく?』

『はい』

『六時に待っています』

 葵へ。

『着きました。明日、予定通り』

『電話していい?』

『今から支度します。明日話します』

『わかった』

 母へ。

『帰っています。日曜日に伺います』

『何か食べた?』

『昼は新幹線で』

『夜は?』

『俊介と』

『はい』

 短いやり取り。

 大阪へ来る前なら、葵へ電話したかもしれない。母にも詳しく話した。今は、会う予定がある。それまで待てる。

     *

 シャワーを浴び、着替える。

 俊介の家へ泊まる。以前は真尋の部屋ばかりだった。俊介の生活へ入るのは、今回が初めてではない。何度か夕食を食べ、短い時間を過ごしたことはある。だが泊まるのは初めてだった。

 バッグへ部屋着と洗面用品を入れる。

 大阪の部屋にも、東京の部屋にも俊介の歯ブラシがある。俊介の家には、真尋の歯ブラシが置いてある。以前、約束した後に用意してくれた。まだ二度しか使っていない。

 真尋は鏡を見る。

 大阪へ出発した時より、顔が疲れている。同時に、以前より表情が柔らかくなった気もする。

 仕事で間違えた。謝った。人に頼った。一人で暮らした。俊介が来た。離れた。葵の商品を食べた。新しい街で花を買った。

 数週間分の時間が、顔へ残っている。

     *

 俊介の家へ着いたのは、午後五時五十五分だった。呼び鈴を押す。すぐに扉が開く。

 俊介が立っている。薄い青色のシャツ。部屋着ではなく、外へ買い物に行ける服装。

「お帰りなさい」

 俊介が言った。真尋は息を止める。

 東京の自分の部屋ではなく、俊介の部屋で言われる言葉。

「ただいま」

 自然に返した。俊介の表情が柔らかくなる。

「会いたかったです」

「私も」

 真尋は靴を脱ぐ前に、俊介へ手を伸ばした。俊介も近づく。玄関で抱きしめ合う。

 大阪駅で別れた日。大阪の部屋で見送った朝。電話。画面。

 そのすべてを越えて、今は同じ場所にいる。

「真尋。少し細くなりました?」

「体重は変わっていません」

「疲れています」

「はい」

「今日は何もしないでも」

「一緒に買い物へ行きたいです」

「無理では?」

「外を歩きたいです」

 俊介は顔を離し、真尋を見る。

「わかりました」

     *

 荷物を置く。俊介の部屋は、以前と大きく変わっていない。

 本棚。図面。小さな観葉植物。建築模型。整ったキッチン。

 ただ、洗面所には真尋の歯ブラシがある。寝室には、枕が二つ。真尋が来ることを想定して用意したのだろう。

「いつから二つ?」

 真尋が尋ねる。

「一週間前」

「早いです」

「楽しみにしていました」

「はい」

「嫌でしたか」

「いいえ」

 真尋は枕へ触れず、部屋を見回した。

「私の物は、ほかにありますか」

「カップ」

「いつ?」

「買いました」

 キッチンの棚から、白いカップを出す。縁に細い紺色の線。真尋が東京の部屋で使っているものに少し似ている。

「私が選んでいません」

「はい。嫌なら、別のものを」

「使います」

 真尋はカップを受け取った。

「俊介が選んだ、私の物。少し不思議です」

「押しつけですか」

「今は、嬉しいです」

     *

 二人は近所のスーパーへ出かけた。並んで歩く。

 大阪では商店街を一人で歩くことが増えた。俊介と東京の道を歩くと、体の距離が近く感じる。手をつなぐ。

 平日の夕方。買い物袋を持つ人。学校帰りの学生。犬の散歩。

 以前なら何度も見た景色。今は、懐かしい。

「何が食べたいですか」

 俊介が尋ねる。

「鍋」

「季節的に?」

「少し涼しいので」

「何鍋?」

「簡単なもの」

「材料は?」

「白菜。きのこ。豆腐。鶏肉」

「味は?」

「だしと塩」

 俊介はメモへ書こうとする。

「覚えられます」

「買い忘れないように」

「建築士ですね」

「関係ありません」

 二人の間に短い笑いが起きた。

 スーパーで同じ籠へ食材を入れる。俊介の生活のための牛乳。朝食用のパン。真尋が食べたいヨーグルト。鍋の材料。翌朝の卵。

 二人分の生活が、一つの籠へ入る。

 ただし、真尋は日曜日に大阪へ戻る。買いすぎない。残る食材は、俊介が食べる。

「この量で」

 真尋が言う。

「もっと買っても」

「私は二日しかいません」

「はい」

 俊介が寂しそうにする。

「次に来る日もあります。それまで残るものは買いません」

「はい」

 未来を約束するために物を残すのではなく、今必要な分だけ。

     *

 俊介の部屋へ戻り、二人で鍋を作った。

 白菜を切る。きのこを分ける。豆腐。鶏肉。

 大阪で真尋が一人で作る夕食より、量が多い。俊介が隣にいる。

「仕事の話、今しますか」

 俊介が尋ねる。

「食事の後に。今日は、最初に東京のことを話したいです」

「何を?」

「この部屋へ戻って、どう感じたか」

「真尋の部屋? どうでした?」

 真尋は鍋へ白菜を入れながら答える。

「懐かしかったです。安心しました。でも、生活が止まっていました。大阪の部屋のほうが、今は暮らしている場所に感じました」

 俊介の手が止まる。

「東京へ戻りたいと思っていたのに?」

「はい」

「戻ってきたら、大阪が家になっていた?」

「家という言葉は、まだ迷います。東京も家です。ただ、今の生活は大阪にある」

 俊介は鍋の火を弱める。

「寂しいです。東京へ帰ってきたら、前の真尋に戻るような気持ちが少しありました」

「戻りません。大阪の時間を持って帰っています。俊介も、この数週間を過ごしました。以前の続きではなく、今の二人で会います」

 俊介は真尋を見る。

「僕の知らない真尋が増えました」

「俊介も」

「はい。それでも、会いたかったです」

「私も」

     *

 鍋を食べながら、俊介は東京での時間を話した。

 仕事。大学時代の友人。女性の同期を含む食事会。母の家へ行ったこと。大阪へ行った翌週、真尋が使った枕を洗うか迷ったこと。

「洗いました?」

「三日後に」

「なぜ三日?」

「匂いが残っていたので」

 真尋は顔を伏せる。

「嫌でしたか」

「恥ずかしいです。でも、少し嬉しい」

 俊介は思わず笑った。

「真尋は、大阪で僕が帰った後、すぐ洗いました?」

「翌日」

「早い」

「生活なので。でも、枕はしばらく出していました」

「本当ですか」

「はい」

 離れている間、互いの気配を物へ残そうとした。すぐには片づけられなかった。

     *

「俊介。女性の友人と二人で会いました?」

「一度」

 真尋の胸に緊張が走る。

「誰ですか」

「大学の同期の、北川さん」

「以前、食事会にいた方?」

「はい」

「何を?」

「仕事の相談です」

「二人で? どこで?」

「会社の近くのカフェ」

「どのくらい?」

「一時間半ほど」

 質問が続く。自分でも多いとわかる。俊介は答える。

「真尋。不安ですか」

「はい」

「会わないでほしい?」

 真尋は考える。

 俊介の友人。仕事の相談。止める理由はない。それでも嫌だ。

「会わないでとは言いません。ただ、何を相談されたか気になります」

「彼女が転職を考えていて、会社の選び方を」

「俊介でなければ?」

「大学時代から、仕事の話をしていたので。恋愛の関係は、以前も今もありません」

「はい」

「信じますか」

 真尋はすぐに返事をしなかった。

 信じると答えることが、良い恋人の正解のように感じる。だが不安は残っている。

「信じたいです。今は、全部安心したわけではありません」

「はい」

「次に会う時、言ってほしいですか」

 俊介が尋ねる。

「事前に必ず、とは思いません。でも、会った後も隠さないで。私から聞かなくても、自然に話してほしいです」

「わかりました」

「報告義務ではなく」

「今日のこととして?」

「はい」

「僕も、大阪で森田さんやほかの男性と二人で食事した時、聞きたいです。全部ではなくても、生活の話として」

「わかりました」

 信頼は、何も聞かないことではない。

 相手の生活へ興味を持つ。不安も伝える。ただし、すべてを監視しない。その境界を二人で探す。

     *

 真尋は大阪での出来事を話した。

 制度の運用。中原との会話。山岸へ任せた事務局。森田の相談窓口。花屋の女性。青紫の花。

「花屋の方の名前、まだ知らないんですか」

「はい」

「向こうは真尋の名前を?」

「知らないと思います」

「次に聞きます?」

「自然に機会があれば。俊介。山岸さんから、帰ってきてくださいと言われました」

 俊介の表情が動く。

「大阪へ?」

「はい」

「嬉しかったですか」

「はい」

「僕は、戻ってきてほしいです」

「東京へ?」

「はい」

 二つの場所から、帰ってきてと言われる。

「困りますか」

 俊介が尋ねる。

「少し。でも、どちらかを選べと言われたわけではありません。月曜日には大阪へ帰ります」

「日曜日です」

「はい」

「言い直しましたね」

「大阪へ戻ることを、帰ると言いました」

 俊介は寂しそうに笑った。

「慣れません」

「私もです」

「でも、否定しません」

「ありがとうございます」

「その代わり、東京へ来る時も帰ると言ってください。僕のところへも」

 真尋は考えた。

「俊介の部屋は、まだ帰る場所というより、来たい場所です」

 俊介の顔に、わずかな寂しさが浮かぶ。

「でも、今夜お帰りなさいと言われて嬉しかったです。いつか、自然に帰る場所と思うかもしれません」

「はい」

「急がないでください」

「わかりました」

     *

 食事を終え、二人で片づけをする。俊介が洗う。真尋が拭く。

 大阪の部屋でもした動作。東京でも。場所が違っても、同じ役割になることがある。

「真尋。一緒に暮らすとしたら、食器はどちらのものを使いますか」

 突然の問い。

「まだ考えません」

「はい」

「なぜ?」

「今日、真尋の部屋が生活を止めていたと聞いて、僕の部屋へ生活を移すこともあるのかと思いました」

「大阪から戻った後に? 私の東京の部屋を残しながら?」

「それも」

「俊介。今は、一緒に暮らしたいですか」

 俊介は手を止める。

「今日、会って、思いました。でも、毎日だと違うかもしれません。真尋が仕事で疲れている時に、僕がいることが負担になる。僕も、一人でいたい日がある。だから、今すぐではありません。大阪から戻る時に、同居か、別居のままか、考えたいです」

「結婚も?」

「その先に」

 真尋は拭いた皿を棚へ置く。

「私は、東京の部屋を手放すことがまだ想像できません。俊介の部屋へ、全部移すことも。私の部屋へ俊介が来る形も。一緒に住むなら、新しい場所がいいかもしれません」

 言ってから、真尋自身が驚く。俊介も目を見開く。

「新しい場所?」

「可能性です」

「はい」

「どちらかの生活へ、もう一方が入るのではなく」

「二人で選ぶ?」

「はい」

「嬉しいです」

「まだ決めません」

「わかっています」

 俊介は声を立てて笑った。

     *

 風呂は別々に入った。真尋が先。

 俊介の家の浴室。置かれている洗剤。タオル。小さな棚。自分の生活にはない配置。

 俊介の暮らしへ入っている。大阪の部屋で俊介を迎えた時とは逆。

 真尋は、自分が客であることへ安心し、同時に寂しく感じた。

 客だから気を使う。同時に、すべてを整える責任がない。

 風呂から上がると、真尋用の部屋着を俊介が用意していた。新品ではない。以前、真尋が一度着て、そのまま置いていったもの。

「洗って保管していました」

「はい」

「捨てていません」

「当然です」

「僕の部屋に、真尋の服があります」

「一着だけ」

「はい」

 俊介は嬉しそうだった。

     *

 二人は寝室へ入った。枕が二つ。真尋のために買ったもの。

 並んで横になる。大阪の部屋より、ベッドが広い。俊介の匂い。

 真尋は天井を見る。

「落ち着きますか」

 俊介が尋ねる。

「少し緊張します」

「なぜ?」

「俊介の場所だから。私は、迎えられる側です」

「はい」

「嫌ですか」

「いいえ」

「何か必要なら言ってください。照明。温度。窓」

「今は大丈夫です」

 俊介が手を差し出す。真尋は指を重ねる。

「大阪で、抱きしめた夜を思い出します」

 俊介が言う。

「はい」

「今日も?」

「はい」

 互いに近づく。口づけ。抱きしめる。

 離れていた時間を埋めるように急ぎたくなる。真尋はその気持ちへ気づいた。

「俊介。少しゆっくり」

「はい」

 俊介はすぐに動きを緩める。

「会えなかった分を、今日全部取り戻さなくていいです。明日の朝もいます。次もあります」

「はい」

「言ってくれて、ありがとうございます」

 俊介の額が真尋の額へ触れる。

     *

 夜が深くなり、二人は近い距離で横になった。俊介が真尋の肩へ手を置く。

「真尋。大阪へ帰らないでほしいです」

 胸が痛む。

「はい」

「言うだけです。困らせたいわけではありません。日曜日、駅まで行かないこともわかっています。でも、今日会ったら、さらに帰したくなくなりました」

「私も、離れたくありません。それでも戻ります」

「はい」

「仕事があるからだけではなく、大阪で続けたい生活があるから」

 俊介は黙る。

「それを聞くのは、寂しいです。でも、真尋が大阪で生活を作れたことは、嬉しいです。僕がいなくても。葵さんがいなくても。それでも、僕の場所はありますか」

 俊介が尋ねる。

 葵と同じ問い。形は違う。だが根にある不安は近い。

「あります」

「どこに?」

「東京にいる人、ではなく、会いたい人。一緒の朝を迎えたい人。未来の暮らしを考える人」

 俊介の手に力が入る。

「それで十分です」

「今は」

「はい」

     *

 翌朝、真尋は俊介より先に目を覚ました。午前七時前。

 俊介の部屋の窓から、朝の光が入る。大阪とは違う景色。隣に俊介がいる。

 真尋はしばらく動かなかった。

 会いたかった。今、いる。

 それでも午後には葵へ会う。日曜日には母。そして大阪へ戻る。時間は進む。

 一つの幸福へ留まり続けることはできない。

 真尋は俊介の頬へ軽く触れた。俊介が目を開ける。

「おはようございます」

「おはようございます」

「見ていました?」

「少し」

「公平ですか」

「以前、俊介も」

 二人は笑う。

     *

 朝食は、俊介が作った卵焼きと、パン、スープ。卵焼きは以前より上手く巻けている。

「練習しました?」

「三回」

「一人で?」

「はい」

「誰かへ食べてもらいました?」

 真尋は自分でも、質問に嫉妬が含まれていると気づく。

「母へ一度」

「北川さんでは?」

「いいえ」

「はい」

「不安ですか」

「少し」

「聞いてください」

 真尋は卵焼きを食べる。甘さは葵より控えめ。真尋より柔らかい。

「おいしいです」

「二人より?」

「三人で比べる時に」

「大阪で?」

「葵が来た時」

「はい」

「母を判定に呼びますか」

「呼びません」

 同じ会話をして笑う。場所が変わっても続くもの。

     *

 朝食後、俊介はコーヒーを淹れた。真尋用の白いカップ。縁の紺色。テーブルへ置く。

「このカップ、置いておいていいですか」

「はい」

「私が来ない時にも?」

「はい」

「誰かへ使わないでください」

 言ってから、驚く。自分の物として、場所を求めている。

 俊介は嬉しそうに答える。

「使いません」

「でも、特別な場所へしまわなくていいです。普通に置いてください。私のためだけの物でも、生活の中に」

「わかりました」

 俊介の棚に、真尋のカップ。洗面所に歯ブラシ。クローゼットに部屋着。少しずつ増えている。

 それでも、真尋が暮らしている部屋ではない。今は、その距離でいい。

     *

 午前十一時。真尋は俊介の部屋を出る準備をした。

 葵とは午後一時に待ち合わせ。早いが、自分の部屋へ戻って着替えたい。

「送ります」

 俊介が言う。

「駅まで?」

「真尋の部屋まで」

「電車で一緒になります。その後、戻るんですか」

「はい」

「無理では?」

「一緒にいたいです」

 真尋は考える。

 送ってもらうことは嬉しい。だが、次の葵との時間へ移る前に一人になりたい。

「駅まで。電車には一人で乗ります」

 俊介が寂しそうに頷く。

「わかりました」

     *

 駅まで歩く。手をつなぐ。朝の街。人が多い。

 俊介が何度か真尋を見る。

「何ですか」

「次は、いつ会えますか」

「水曜日に予定を確認します」

「はい」

「大阪へ来るか、私が戻るか。二週間以上空く可能性も」

「はい」

「聞くのは、水曜日まで待ちます」

「ありがとうございます」

「でも、今日の夜に寂しいとは言います」

「はい。私も」

 駅前で立ち止まる。改札。

「行ってらっしゃい」

 俊介が言う。真尋は笑う。

「葵へ会うだけです」

「はい」

「行ってきます」

「帰ってきますか」

 俊介の問いに、真尋は考える。

 今夜は自分の部屋へ泊まる。俊介の部屋へは戻らない。

「次に」

「はい」

「また来ます」

「待っています」

     *

 東京の部屋へ戻る。着替える。

 寝室には、自分だけの枕。俊介の枕はクローゼット。大阪へ行く前と同じ。

 だが昨夜、俊介の部屋で眠った。自分の生活へ迎えるだけではなく、相手の生活へ入った。関係が変わった。

 真尋は服を選ぶ。

 葵とは、試作品が置かれた店舗を見に行く予定だった。その後、食事。美月も夕方から合流する可能性がある。

 葵から、

『今日は二人で話したいことがある』

 と言われているため、最初の数時間は二人だけ。

 何の話かは聞いていない。直哉のことか。商品。真尋の大阪。いくつか浮かぶ。

 先回りせず、会って聞く。

     *

 待ち合わせ場所へ着くと、葵はすでにいた。以前より髪が短くなっている。真尋が大阪へ行った後に切ったらしい。

「真尋」

 葵が呼ぶ。

「お待たせしました」

「時間通り」

 二人はしばらく、互いの顔を見る。ビデオ通話では何度も見た。だが、実際に会うと違う。

 葵が先に抱きついた。

「会いたかった」

「私もです」

「大阪の匂いする」

「わかりません」

「少し違う」

「何が?」

「服?」

「東京から持っていった服です」

「でも違う」

 葵は真尋の肩へ顔をつける。

「本当に帰ってきた。明日また行く?」

「日曜日です」

「うん」

 葵は腕を離す。目に涙が浮かんでいる。

「今日は泣かないって決めた」

「無理をしなくても」

「嬉しいから」

     *

 二人は、試作品を置いている店舗へ向かった。

 新商品の限定テスト。首都圏の五店舗。二つの言葉を、店舗ごとに分けている。

『迷う日にも、ひと息。』

『答えを急がない午後に。』

 今日訪れる店では、一つ目の言葉が使われている。

 売り場の一角。前の商品と同じ淡い色調。青いパッケージ。真尋が大阪で受け取ったものと同じ。

「本当に並んでいますね」

「うん」

「嬉しいですか」

「怖い」

「なぜ?」

「誰も買わなかったら」

「試験なので」

「わかってる」

 二人は離れた場所から見守る。

 人が通る。立ち止まらない人。パッケージを見る人。手に取って戻す人。

 一人の女性が商品を手に取った。三十代くらい。裏面を読む。かごへ入れる。

 葵の肩がわずかに上がる。

「買った」

「はい」

「声をかけたい」

「やめてください」

「わかってる」

 女性は、そのまま別の棚へ歩いていった。葵は目で追う。

「どんな日だったのかな。迷ってるのかな」

「言葉ではなく、味で選んだかもしれません」

「真尋」

「はい」

「仕事の人」

「はい。でも、買ったことは事実です」

 葵は笑った。

     *

 店を出た後、二人は近くのカフェへ入った。午後二時。まだ夕食には早い。

 窓際の席。葵は紅茶。真尋はコーヒー。

 注文を終えると、葵がバッグから一枚の封筒を取り出した。

「何ですか」

「直哉から」

 真尋の胸が動く。

「連絡があった?」

「一週間前。郵便で」

「住所は知っていますからね」

「うん」

「開けました?」

「昨日」

「一週間、待った?」

「怖くて」

 葵は封筒をテーブルへ置く。真尋は手を伸ばさない。

「何と?」

「謝罪。それから、もう戻ってほしいとは言わないって。自分も前へ進むって」

 葵の声は落ち着いているようで、震えている。

「最後に、私の商品を、店で見たって」

 真尋は葵を見る。

「買ったそうです。言葉を読んだって」

「どちらの商品?」

「最初の。今日も、ここまで来たあなたへ」

「はい」

「俺に向けた言葉ではないとわかっているけど、救われたって」

 葵の目に涙が浮かぶ。

「嬉しかった?」

「うん。でも、戻りたいとは思わなかった」

 葵は自分で言葉を確かめるように続ける。

「会いたいと思った。ありがとうって言いたい。でも、もう一度恋人になりたいとは思わなかった。それがわかって、泣いた」

 葵の涙が落ちる。

「好きじゃなくなったから?」

「違う」

「はい」

「好きだったまま、終われるんだって」

     *

 真尋は黙って聞く。

「直哉が悪い人じゃなくても。私が悪くなくても。戻らないでいい。二人とも頑張れば、今度はうまくいくかもしれない。でも、うまくいく可能性があるだけで、戻る理由にはならなかった」

 葵は涙を拭う。

「私、直哉といた時の自分へ戻りたくない。直哉も、前の自分に戻らないほうがいいと思う。別々で変わったほうがいい」

 葵は、はっきりと言った。

 真尋の胸に、静かな安堵が広がる。

 復縁しないと決めた。怒りだけで。傷ついた勢いだけで。誰かに言われたからではなく。好きだった時間を認めた上で。

「返事は?」

 真尋が尋ねる。

「まだ」

「したいですか」

「うん」

「何と?」

「ありがとう。商品を買ってくれて嬉しかった。でも、戻らない。お互いの生活を進めようって。それから」

 葵は迷う。

「幸せでいてほしい」

「言えますか」

「今は、まだ少し痛い。直哉に新しい恋人ができたら、苦しいと思う。でも、それでも戻らない。幸せを願うことと、すぐ平気になることは別」

「はい」

 葵は封筒を見た。

「返事を書こうと思う。今日、真尋に見せたかった」

「内容を?」

「手紙が来たことを。何て言ってほしいかわからなかった。戻らないでって言われたくない。復縁してもいいって言われるのも違う。ただ、聞いてほしかった」

「聞きました」

 真尋は答える。

「葵が、戻らないと自分で選んだことも。好きだったまま終えることも。それでいいと思います」

 葵は泣きながら笑った。

「ありがとう」

     *

 飲み物が運ばれてくる。葵は手紙をバッグへ戻した。

「今日、返事を書く?」

 真尋が尋ねる。

「明日」

「なぜ?」

「今夜は美月とご飯食べる。嬉しいことも話したい」

「商品?」

「うん」

「直哉の手紙だけの一日にしたくない?」

 葵は驚き、頷く。

「そう。今日、商品が買われた。真尋が帰ってきた。美月と会う。直哉の手紙もある。全部ある日」

「はい」

 以前なら、直哉からの手紙が一日全体を覆っただろう。

 今は違う。大切で、痛くて、心を揺らす。それでも一日の一部。

     *

「真尋。東京の部屋、どうだった?」

「安心しました」

「帰ってきた感じ?」

「はい」

「大阪は?」

「日曜日に帰る場所です」

 葵の顔が曇る。

「大阪も帰る? 東京と同じ?」

「同じではありません」

「どっちが大事?」

「比べません」

「また」

「はい」

 葵はカップへ視線を落とす。

「大阪の人に、帰ってきてって言われた?」

「山岸さんから」

「女性?」

「はい」

「嬉しかった?」

「はい」

「寂しい。私が言ってた言葉を、大阪の人も言う」

「はい。でも、意味は違います」

「どう違う?」

 真尋は考える。

「山岸さんは、一緒に仕事を続ける人として。葵は、仕事や場所が変わっても戻ってこられる人として。同じ言葉でも、関係が違います」

「うん」

「どちらも大切です」

 葵は黙り、やがて頷いた。

     *

「大阪で、私のこと話した?」

「山岸さんへ少し」

「何て?」

「秋田へ一緒に行った友人」

 葵の顔が残念そうになる。

「それだけ?」

「写真を見て、誰か聞かれました。人生の途中で出会った、大切な人だと」

 葵の目が大きくなる。

「戻ってこられる人って?」

「そこまでは」

「どうして?」

「職場です。すべて説明する必要はありません」

「はい」

 葵は寂しそうにしながらも、納得する。

「秋田では言って」

「何を?」

「私たちの関係。友達だけじゃないって。恋人ではない。家族でもない。でも、人生からいなくなったら困る人」

 真尋は葵を見る。

「私もです」

「うん」

「秋田で、言葉にしましょう」

「うん」

     *

 葵は新商品の話をした。

 売上は、まだ判断できる段階ではない。二つの言葉では、

『迷う日にも、ひと息。』

 のほうが、手に取る人が多い。ただし店舗条件が違うため、断定はできない。

 アンケートには、

「転職を決めた後、不安になった日に買った」

「子どもの進路を決めた後も迷っていた」

「別れた後、戻らない選択を疑っていた」

 という回答が届いている。

「最後の人、私みたい」

 葵が言う。

「はい」

「知らない人。同じように迷ってる。私の言葉が、誰かへ届いた。でも、私の答えを押しつけてない?」

「どういう意味ですか」

「戻らなくていいって言ってるように見えない?」

 真尋はパッケージの言葉を思い出す。

『迷う日にも、ひと息。』

「戻れとも、戻るなとも言っていません。迷っている時間を否定しないだけです。葵が復縁しない選択をしたからといって、商品を買った人も同じ答えでなくていい。それが、この言葉の良いところだと思います」

 葵は安心したように笑う。

     *

 午後五時近く、美月から連絡が入った。

『仕事が終わった。合流できる』

 葵が真尋を見る。

「美月、来る。二人の時間、もういい?」

「葵は?」

「話したかったこと、話した。真尋は?」

「大阪と東京の話をしました」

「俊介さんの話は?」

「昨夜、一緒に過ごしました」

「詳しくは聞かない。幸せ?」

「はい」

「大阪へ帰りたくない?」

「帰りたいです」

 葵の顔が曇る。

「俊介を大切に思うことと、大阪へ帰りたいことは両立します。葵へ会いたかったことも。今、会えて嬉しいです。だからといって、ずっと東京にいたいだけではない」

「わかってる」

 葵は自分へ言い聞かせるように頷いた。

「私も、直哉の手紙が来ても、前の生活へ戻りたいだけじゃない。似てる?」

「少し」

 二人の間に短い笑いが起きた。

     *

 美月が来る前に、葵は真尋へ一つ頼んだ。

「手紙の返事、書いたら読んでほしい」

「内容を?」

「うん」

「自分で決めるんでしょう」

「決める。でも、きつすぎないか。期待を残してないか。確認してほしい」

 真尋は考える。

 葵が直哉との関係を終える手紙。真尋が直しすぎれば、葵の言葉ではなくなる。

「感想は言います。書き換えは、葵が。直哉へ伝える言葉なので」

「うん」

「大阪へ戻ってからでも、送ってください」

「ありがとう」

 葵は安心したように言った。

     *

 美月が合流し、三人で夕食へ向かった。小さな居酒屋。葵の商品採用祝いの時とは違う場所。

 美月は真尋を見るなり、

「大阪の人になってない」

 と言った。

「数週間です」

「話し方は?」

「変わっていません」

「少し柔らかくなった」

「皆さん、同じことを言います」

 葵が横から、

「大阪の匂いがする」

 と付け加える。

「わかりません」

 三人で笑う。

 美月は、葵から手紙の話を聞いた。

「よかったね、と言っていいのかな」

「わからない」

「でも、戻らないって決められたのは、よかったと思う」

「うん」

 美月は葵の手へ触れた。

「寂しい?」

「かなり。でも、前より怖くない」

「何が?」

「直哉がいない未来」

 葵は静かに答えた。

「前は、何もないと思ってた。今は、仕事がある。美月がいる。真尋がいる。家族がいる」

「うん」

「私もいる」

 葵は自分を指した。真尋はその言葉を聞き、胸が温かくなる。

「一番大事ですね」

「うん」

     *

 食事の途中、美月が真尋へ尋ねた。

「大阪、ずっといたいと思う?」

「今は、期間中働きたいです」

「終わった後は?」

「東京へ戻る希望を伝えています」

「俊介さんがいるから?」

「それだけではありません」

「東京の仕事?」

「母。葵。友人。部下」

「でも、大阪にも人ができた。戻る時、また寂しくなるね」

「はい」

「真尋さん、どこへ行っても寂しくなる」

 美月が言う。真尋は驚き、それから笑った。

「そうですね」

「前は、誰とも近づかなければ寂しくならないと思ってた?」

「はい」

「今は?」

「近づけば、離れる時に寂しいです。でも、近づかないほうがよかったとは思いません。大阪を離れる時も、そう思えるようにしたいです」

 葵が不安そうに聞く。

「東京へ戻るんだよね」

「現時点では」

「現時点」

「仕事なので、変わる可能性はあります」

「大阪へ残ると言われたら?」

「考えます」

「俊介さんは?」

「話します」

「私は?」

「話します」

「でも最後は真尋が決める?」

「はい」

 葵は寂しそうにしながらも頷いた。

     *

 食事を終え、三人は駅で別れた。美月は別方向。葵と真尋は同じ電車へ乗る。

 車内は混んでいた。二人は並んで立つ。

 葵が小さな声で言う。

「今夜、真尋の部屋へ泊まりたい」

 真尋は驚く。

「予定にはありませんでした」

「うん」

「着替えは?」

「ない」

「明日も?」

「休み」

「私は母の家へ行きます」

「朝、帰る」

 葵は真尋を見る。

「直哉の手紙を話した後、一人で帰るの少し嫌。でも、真尋とずっと一緒にいたいわけじゃない。今夜だけ」

 真尋は自分の体調を確かめる。

 昨日、俊介と過ごした。今日は葵と美月。疲れている。東京の部屋で一人で眠りたい気持ちもある。

 同時に、葵が今夜一人になりたくない気持ちもわかる。

「同じベッドではなく、リビングでいいですか」

「うん」

「私は早く寝ます。詳しい話は、もうしません」

「うん」

「泊まってください」

 葵の顔が明るくなる。

「ありがとう」

     *

 東京の部屋へ戻る。二人で「ただいま」と言う。

 真尋にとっては、今日二度目。葵にとっても、何度か泊まった場所。

 洗面所には葵の歯ブラシがある。

「まだある」

「はい」

「大阪にも?」

「はい」

「二本」

「場所ごとに」

 葵は歯ブラシを見て笑う。

「俊介さんも二本。私と同じ数」

「数えないでください」

 二人は同時に吹き出した。

     *

 真尋は葵へ部屋着を貸した。以前にも着たもの。サイズは大きい。

 風呂は葵が先。真尋はその間、俊介へメッセージを送る。

『今日は葵が泊まります』

 すぐに既読がつく。

『そうですか』

 短い。

『直哉さんから手紙が来たそうです。今夜一人になりたくないと』

『はい』

『寂しいですか』

 少しして。

『少し』

『はい』

『でも、今夜は葵さんとの時間ですね』

『私は早く休みます』

『はい』

『俊介。昨夜、一緒に過ごせて嬉しかったです』

『僕もです』

『それは、今夜葵がいることで変わりません』

『はい』

『言いたかったです』

『ありがとうございます』

 俊介から、

『明日は、お母様と良い時間を』

 と届く。

『はい』

『おやすみなさい』

『おやすみなさい』

 今夜は電話しない。昨日の時間を、今日も延長し続けない。

     *

 葵が風呂から上がる。髪を乾かし、リビングのソファへ座る。真尋は予備の布団を出す。

「この部屋、変わってない」

 葵が言う。

「はい」

「でも、少し使われてない感じ。大阪の部屋のほうが、真尋の匂いする?」

「今は」

 葵の顔に寂しさが浮かぶ。

「ここにも、戻ってきます。葵が来る場所も、残っています。でも、以前と同じ頻度ではありません」

「わかってる」

 葵はソファへ手を置く。

「この場所がなくならないだけで、安心する。真尋がいなくても、部屋がある。鍵は持ってないけど」

「渡しません」

「わかってる」

 二人は声を立てて笑った。

     *

 照明を落とす前、葵が尋ねた。

「真尋。俊介さんの部屋、帰る場所になりそう?」

「少しずつ」

「私の家は? 葵の部屋」

 真尋は考える。

 葵の部屋。青い線のカップ。写真。植物。鍋敷き。直哉の箱があった場所。

「会いに行く場所です」

 葵の顔に寂しさが浮かぶ。

「帰るではなく?」

「はい。でも、安心する場所です。葵がいるから」

「うん」

「秋田は?」

 葵が尋ねる。

「戻る場所です」

「住んでないのに? どうして?」

「自分たちの始まりを確かめる場所だから」

 葵は声を立てて笑った。

「秋田で、関係に名前つける?」

「名前が必要ですか」

「少し。友達以上って、曖昧。でも恋愛じゃない。家族ではないけど、家族みたいな日もある。姉妹でもない。何て言えばいいんだろう」

 真尋も答えを持っていない。

「秋田で、一緒に考えましょう。言葉が見つからなくても、関係はあります」

「うん」

 葵は布団へ横になる。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 真尋は寝室へ向かう。扉は少し開けておく。

 葵が一人ではないと感じられる程度。真尋自身も、必要なら閉められる距離。

     *

 夜中、真尋は物音で目を覚ました。時計は午前二時過ぎ。リビングの光が漏れている。

 真尋はベッドから起き、扉を開けた。葵がソファへ座り、手紙を持っている。

「眠れませんか」

「少し」

「読み直した?」

「うん」

 真尋は隣へ座らず、離れた椅子へ座る。

「何を考えていますか」

「返事。ありがとうって書く。でも、優しく書きすぎたら、待ってると思わせる?」

「可能性はあります」

「冷たくしたくない。どうしたら」

 葵は言いかけ、止めた。

「ごめん。明日、自分で書くって言った」

「はい」

「今は、考えなくていい?」

「はい。夜中なので」

「うん」

「明日になっても、答えは変わらないと思いますか」

「戻らないこと? 変わらない」

 葵ははっきり答えた。

「では、文章は明日でいいです。手紙をしまってください」

 葵は封筒へ戻す。

「水、飲みます?」

「うん」

 真尋はコップへ水を入れる。葵へ渡す。

「真尋。起こしてごめん。怒ってる?」

「少し眠いです」

「ごめん」

「でも、呼ばれたわけではありません。音で起きました。水を飲んだら、また休みましょう」

「はい」

 真尋は葵を抱きしめなかった。手紙の答えも出さなかった。

 ただ、同じ部屋で水を飲む。それで十分な夜もある。

     *

 翌朝、葵は午前八時に帰った。真尋が簡単な朝食を作った。パン。目玉焼き。コーヒーと紅茶。

「直哉へ返事、今日書く?」

「午後」

「はい」

「送る前に、真尋へ」

「感想だけ」

「うん」

「美月にも?」

「見せない」

「なぜ?」

「美月は、直哉へ少し怒ってるから。真尋は?」

「怒っていません」

「最初は?」

「葵が傷ついたことへは。でも、二人の関係のすべてを知っているわけではありません。だから、葵の言葉を見ます」

「ありがとう」

     *

 葵を見送った後、真尋は部屋を片づけた。

 布団を畳む。カップを洗う。葵の歯ブラシは元の場所へ。

 昨日は俊介。昨夜は葵。今日は母。それぞれの時間が重なる。

 疲れはある。だが、忙しさに押されている感覚ではない。会いたい人へ会っている。

 ただし、午後には大阪へ戻る前の一人の時間を確保する。そこまで含めて予定だった。

     *

 母の家へ着くと、昼食の準備ができていた。焼き魚。煮物。味噌汁。炊きたてのご飯。

「お帰り」

 母が言う。

「ただいま」

 真尋は靴を脱ぐ。母の家でも、この言葉が自然に出る。

「顔、見せて」

「何ですか」

「痩せてない?」

「俊介にも言われました」

「体重は?」

「変わりません」

「仕事、無理してない?」

「間違えました」

「聞いた」

「はい」

「その後は?」

「制度が動きました。問題もあります」

「仕事だからね」

 母は食卓へ真尋を座らせる。

「大阪の部屋、どう?」

「暮らしています」

「当たり前でしょう」

「最初は、仮の場所に感じました」

「今は?」

「帰る場所です」

 母は寂しそうに笑う。

「そう」

「東京も。ここも」

「欲張りね」

「はい」

     *

 食事をしながら、母は父の時計を尋ねた。

「大阪にある?」

「はい」

「使ってる?」

「毎日ではありません」

「今日は?」

 真尋は左手首を見せる。父の時計。

「持ってきました」

「お父さんも、大阪と東京を行ったり来たりね。生きてたら、何て言うかしら」

「仕事はどうだ、と」

「それだけ?」

「食事は、と」

「私と同じ」

 母は、俊介とのことも聞いた。

「昨日、泊まったの? 俊介さんの家?」

「はい」

「どうだった?」

「生活がありました」

「それはあるでしょう」

「私の家へ迎えるのとは違いました。俊介の物の置き方。朝食。時間。私が相手の生活へ入る」

「嫌だった?」

「いいえ」

「なら、一緒に暮らせそう?」

 真尋はすぐに答えない。

「新しい場所なら、と少し話しました」

 母が箸を止める。

「本当に?」

「可能性です」

「結婚は?」

「急がないでください」

「聞いただけ」

「大阪から戻った後に考えます。別々の家のままかもしれません。結婚しないかもしれない」

 母は思ったより簡単に頷く。

「反対しませんか」

「真尋が一人で全部決めなければ。俊介さんの希望も聞く。互いに諦めたことを、後で相手のせいにしない。それなら」

 母は味噌汁を飲む。

「お父さんともっと早くできればよかったことね」

 真尋は頷いた。

     *

 食後、母は押し入れから一つの箱を出した。古い封筒。父から母へ送られた手紙。

「見せてくれるんですか」

「一通だけ」

「なぜ今日?」

「真尋が二つの場所を行き来してるから」

 母は封筒を渡す。

「お父さんが単身赴任を始めて、一か月後の手紙」

 真尋は慎重に開いた。

 父の文字。右へ傾いた、見慣れない筆跡。

 内容をすべて読むことには、抵抗がある。母と父だけの言葉。

「読んでいい部分は?」

「最初の二枚だけ」

 真尋は読む。赴任先の部屋。食事。仕事。真尋の学校。母の仕事。

 最後に、

『家を出て初めて、帰る場所は建物ではなく、お前たちがいることだと思った。ただ、お前にも俺のいない家で生活がある。帰る場所だからと、同じままで待っていてほしいとは言えない』

 と書かれている。

 真尋は何度か読み返した。

「お父さんが?」

「言葉では、ほとんど言わなかった。手紙だと書けたのね」

「お母さんは、どう思いました?」

「嬉しかった。でも、少し腹も立った」

「なぜ?」

「手紙で書けるなら、電話で言ってと思った」

 真尋は笑う。

「お母さんらしい」

「でも、残した」

「はい」

「帰る場所は、人がいること。でも、同じまま待っていてほしいとは言えない」

 母が静かに言う。

「今の真尋と俊介さんにも、葵ちゃんにも似てるでしょう。大阪の人にも」

「はい」

 帰る場所は、人。だが人は、待っている間にも変わる。戻った側も。

 だから、以前と同じ場所へ帰るのではない。変わった人同士が、もう一度会う。

「手紙、写真を撮っても?」

「だめ」

「はい」

「これは、私の」

「わかりました」

 母は封筒へ戻す。

 境界。家族でも、すべてを持てるわけではない。

     *

 母の家を出たのは午後一時半だった。新幹線は午後五時。

 約束通り、真尋は一人で東京駅へ向かった。まだ時間がある。

 駅近くの書店へ入る。旅の本。仕事の本。小説。大阪の本棚へ置きたい一冊を探す。

 秋田の紀行本が目に入る。以前の旅で訪れた場所。まだ行っていない土地。

 真尋は手に取った。

 葵との秋田。日程はまだ確定していない。仕事の状況次第。それでも行く。

 本を買う。大阪の部屋へ持ち帰る。

     *

 書店を出た後、駅のカフェへ入った。窓際の一人席。

 葵からメッセージが届く。

『返事、書きました』

 続けて文章が送られてくる。真尋はゆっくり読む。

『直哉へ。

 手紙をありがとう。

 商品を買ってくれたこと、言葉を受け取ってくれたことが嬉しかったです。

 私も、あなたと過ごした時間を否定していません。楽しかったことも、支えてもらったことも、今でも大切に思っています。

 戻りたいと言ってくれた時、気持ちが揺れました。今も、会いたいと思うことがあります。

 それでも、私は復縁しません。

 私たちは別れた後、それぞれの生活の中で変わり始めました。私は、その変化を前の関係へ戻すためではなく、自分のこれからへ使いたいと思っています。

 あなたにも、私との関係をやり直すためではなく、あなたの生活を進めてほしいです。

 好きだった人として、幸せでいてほしいと思っています。今はまだ、その幸せをすぐそばで見守ることはできません。

 だから、これで最後の手紙にします。

 あなたと過ごした二年間を、私は忘れません。

 ありがとう。

 葵』

 真尋は一度、最初から読み直した。

 優しい。だが、明確。期待を残していない。好きだったことを否定せず、戻らないと伝えている。

 最後の手紙。

 真尋は返信する。

『葵の気持ちが、はっきり伝わります』

『優しすぎない?』

『復縁しないことも、連絡を終えることも明確です』

『幸せでいてほしい、いらない?』

『葵が本当に思っているなら』

『思ってる。でも苦しい』

『苦しくても、書いてよいと思います』

『新しい恋人ができたら、今は泣くと思う』

『それでも幸せを願う気持ちは嘘ではないのでしょう』

『うん』

『では、このままで』

『送る』

『はい』

 数分後。

『出してきます』

 真尋は画面を見つめる。

 葵と直哉の関係が、手紙で終わる。復縁しない。次の恋を急がない。好きだった時間を持ったまま進む。

 葵自身が選んだ。

     *

 次に俊介から。

『東京駅へ行かない約束ですが、近くにはいます』

 真尋は驚く。

『どこに?』

『会社です』

 俊介の会社は、東京駅から電車で移動する距離にある。

『近くではありません』

『気持ちは』

『はい』

『見送りたいです』

『今回は一人で』

『わかっています』

『寂しいですか』

『かなり』

『私も』

『電話してもいいですか』

 真尋は時計を見る。出発まで一時間。

『十五分だけ』

 すぐに電話がかかる。

     *

『もしもし』

「はい」

『どこですか』

「東京駅のカフェ」

『一人?』

「はい」

『葵さんは?』

「手紙を出しに行きます」

『直哉さんへ? 復縁は?』

「しません」

『そうですか。葵さん、大丈夫ですか』

「大丈夫ではないと思います。でも、自分で決めました」

 俊介が黙る。

『真尋。帰ってしまいますね。東京へ来て、どうでした?』

「会えてよかったです。東京の部屋も。葵も。母も。でも、大阪へ戻りたいです」

 俊介が息を吐く。

『はい』

「寂しいですか」

『はい』

「怒っています?」

『少し』

「なぜ?」

『僕と会っても、大阪へ戻りたいと言われたから。僕が足りないように感じます』

 真尋は俊介の言葉を聞く。

「足りないから戻るのではありません。大阪での仕事と生活を途中で止めたくない。俊介は、私の生活を全部満たす人ではありません」

『わかっています』

「私も、俊介の全部ではない。それでも、会いたい人です。昨日、幸せでした」

『僕も』

「次も会いたい。それでは足りませんか」

 俊介は黙る。

『今は、足りないと感じています』

 正直な答え。

「はい」

『でも、真尋へ埋めてもらうために、東京へ残れとは言いません。今夜、寂しいと言います』

「はい」

『真尋も?』

「言います」

『次に会う予定、水曜日に』

「はい」

『必ず』

「はい」

     *

 電話を切った後、真尋は苦しくなった。

 俊介を満たせない。自分も、俊介だけでは満たされない。

 それは、愛情が足りないという意味ではない。わかっていても、寂しい。

 真尋はコーヒーを飲む。冷めている。窓の外を人が行き交う。

 母の家。葵。俊介。東京の部屋。すべてを離れ、大阪へ戻る。自分で決めた。

 ホームへ上がる。今回は見送る人はいない。

 真尋は一人で車両を探し、席へ座った。荷物を棚へ。秋田の本は手元。

 スマートフォンへ、母から。

『もう乗った?』

『はい』

『気をつけて帰りなさい』

『はい』

 葵から。

『手紙、出した』

『はい』

『泣いた。でも帰る』

『どこへ?』

『自分の部屋』

『はい』

『真尋も?』

『大阪へ帰ります』

『うん』

 俊介から。

『発車しましたか』

『まだです』

『行ってらっしゃい』

『行ってきます』

 真尋は窓の外を見る。

 見送りの人々。家族。恋人。友人。手を振る人。泣く人。笑う人。

 自分には、改札の外で手を振る人はいない。だが、離れた場所で言葉を送る人がいる。

 それでいいと思った。

     *

 新幹線が動き始める。東京駅が後ろへ流れる。

 前回ほど強い痛みはない。慣れたからではない。戻る場所が消えないと、少しずつ知ったから。

 ただし、戻った時に同じではない。

 俊介には新しい友人との時間がある。葵は直哉との関係を終えた。母は父の手紙を守っている。真尋も大阪で人と関係を作った。

 それぞれが進む。会うたびに、違う。その違いを受け取り直す。

 真尋は秋田の本を開いた。

 山。酒蔵。海。紅葉。雪。葵と訪れた場所。

 次に行く時は、最初の旅とは違う二人。

 葵は直哉と別れた直後ではない。真尋も、誰かを迎えることを恐れるだけの人ではない。俊介がいる。大阪の仕事がある。

 それでも、二人で行く。

 逃げるためではなく。互いだけへ閉じこもるためでもなく。

 それぞれの生活を持ったまま、始まりの場所へ戻る。

 真尋は本の余白へ付箋を貼った。

『葵と行きたい場所』

 一つ。もう一つ。

 旅の日が、具体的になる。

     *

 新大阪駅へ着いたのは、午後七時半を過ぎた頃だった。

 ホームへ降りる。人の話し声。案内。空気。

 数週間前より、体が自然に動く。乗り換えの場所。改札。電車。確認しなくても進める道が増えた。

 最寄り駅へ着く。商店街は、閉店準備を始めている。

 花屋の店員が店先の鉢を中へ入れていた。真尋を見る。

「お帰り」

 自然に言われた。真尋は足を止める。

「ただいま戻りました」

「東京?」

「はい」

「花、大丈夫だった?」

「これから見ます」

「リンドウは強いから、たぶん平気」

「はい」

「疲れた顔してるね」

「少し」

「早く帰り」

「はい」

 名前を知らない人。それでも、お帰りと言われた。

 真尋は笑い、頭を下げた。

     *

 部屋の扉を開ける。

「ただいま」

 室内は静か。閉め切った匂い。三日だけ。それでも、懐かしい。

 テーブルを見る。青紫のリンドウ。水が減っているが、まだ咲いている。桃色の造花。写真。本。冷蔵庫。ベッド。

 真尋はバッグを置いた。手を洗う。花瓶の水を替える。

 東京で買った秋田の本を、本棚へ置く。一冊増える。生活が続く。

 冷蔵庫から作り置きのスープを出す。少しだけ残っている。電子レンジで温める。パンはない。商店街で買えばよかった。ご飯を冷凍してある。温める。

 一人分の夕食。

 東京で俊介と食べた鍋。葵と美月との食事。母の焼き魚。その後に、大阪で一人のスープ。

 どれが寂しい食事というわけではない。今は、この食事へ戻ってきた。

「いただきます」

 スープを飲む。大阪の部屋の味。自分で作った。安心する。

     *

 食後、山岸へメッセージを送る。

『大阪へ戻りました。明日からよろしくお願いします』

 数分後。

『お帰りなさい。今日は休んでください』

 森田からも、珍しく個別に届く。

『例外登録、二件増えました。月曜で大丈夫です』

『ありがとうございます』

『東京、どうでした?』

 考える。

『帰る場所が増えたと感じました』

 森田から。

『贅沢ですね』

『はい』

 短い会話。

 次に俊介へ電話をかける。

『着きましたか』

「はい」

『部屋へ?』

「今、食事を終えました」

『早いですね』

「作り置きです」

『花は?』

「元気です」

『よかった』

「俊介。大阪へ戻って、安心しました。言いにくかったです。でも、隠したくありません。東京へ帰った時も、安心しました。どちらもです」

『少しずつ、わかります。まだ寂しいですが』

「私も」

『次に会う日は』

「水曜日に。今日、電話は短く」

『疲れています?』

「はい」

『わかりました』

「でも、声を聞きたかったです」

『僕も』

「おやすみなさい」

『おやすみなさい』

「好きです」

『僕も好きです』

     *

 葵からは、写真が届いた。

 自宅のテーブル。青い線のカップ。直哉からの手紙があった場所には、何もない。封筒を返送したため、手元からなくなった。

『帰りました』

 真尋も、自分の部屋の写真を送る。リンドウと、秋田の本。

『私もです』

『秋田の本?』

『東京駅で買いました』

『行く場所決めよう』

『はい』

『手紙出したら、少し空っぽ』

『はい』

『でも、前の空っぽと違う』

『どう違いますか』

『埋めてもらう人を探してない』

 真尋はその言葉を読む。

『はい』

『空いてるまま、寝る』

『おやすみなさい』

『おやすみ』

     *

 真尋は風呂へ入り、寝室へ向かった。

 枕は一つ。俊介用は箱ではなく、クローゼットにある。次に来る日が決まったら出す。

 東京の部屋にも。俊介の部屋にも。葵の部屋にも。母の家にも。自分が眠れる場所はある。

 それでも今夜は、大阪のベッドで一人。

 真尋は横になる。

 東京で過ごした二日間を思い返す。俊介の白いカップ。葵の手紙。父の手紙。美月の言葉。花屋の「お帰り」。山岸の「帰ってきてください」。

 帰る場所は、建物だけではない。人だけでもない。同じ形のまま残ることでもない。

 離れている間に互いが変わり、その変化を持って会える場所。また出ていける場所。戻らなくても、過ごした時間を否定しなくてよい場所。

 葵は、直哉との関係へ戻らないと決めた。それでも、二年間を帰るべきではなかった場所にする必要はない。

 俊介は東京にいる。真尋は大阪へ戻った。それでも、二人の関係が東京だけへ置き去りになったわけではない。

 母は父を亡くした後も、手紙の中へ閉じこもらず生活している。

 過去は残り、生活は進む。

     *

 真尋は生活ノートを開いた。

『大阪で初めてしたこと』

 新しい行。

『東京へ帰り、大阪へ帰ってきた』

 迷い、その下へ書く。

『どちらも、本当だった』

 さらに。

『同じ場所へ戻っても、同じ関係には戻らない』

『変わった人同士で、また会う』

 ペンを置く。

 秋田では、葵と何を言葉にするのだろう。

 友人以上。家族ではない。恋愛でもない。戻ってこられる人。人生からいなくなれば困る人。

 名前をつければ、安心するかもしれない。同時に、名前へ関係を閉じ込めることにもなる。

 それでも葵は、二人で意味を決めたいと言った。真尋も、今は向き合いたいと思っている。

 秋田へ行く時、俊介への気持ちを置いていく必要はない。大阪の仕事も。母も。美月も。葵も、それぞれの人間関係を持ってくる。

 二人だけだった頃へ戻る旅ではない。今の二人で、始まりの場所へ行く旅。

     *

 照明を消す。

 暗い部屋。窓の外の電車。東京とは違う音。数週間前より、眠りへ入りやすい。

 真尋は目を閉じた。

 明日は月曜日。山岸。森田。中原。岩瀬。坂口。動き始めた制度。新しい問題。

 大阪で名前を呼ぶ人たちが待っている。東京にも、次に会う日を待つ人がいる。

 どちらかを失わずに、すべてを同じ量で持つことはできない。だから、その時々で時間を選ぶ。

 会えない時には言葉を渡す。帰れない時には、次を決める。戻った時には、以前と同じであることを求めない。

 真尋は布団を引き上げた。

 今夜、この部屋へ帰ってきた。

 そのことを確かめるように、静かな息を吐いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。