第二十五章 帰る場所の変わり方
東京へ戻る金曜日の朝、真尋は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
午前五時五十二分。カーテンの向こうは、まだ薄暗い。
大阪へ来た最初の朝と同じように、公園の木が窓の外で揺れている。だが、あの日とは部屋の見え方が違っていた。
床に積まれていた段ボール箱は、すべて片づいている。本棚には、仕事の本と旅の随筆が並ぶ。キッチンには、毎日使う鍋と皿。冷蔵庫には卵、野菜、作り置きのスープ。テーブルには、写真と花瓶。
桃色の造花の隣に、数日前に買った青紫の花が二輪入っている。
名前は、花屋の女性に教えてもらった。リンドウ。
店先で色に目を引かれ、初めて自分から名前を尋ねた。
『少し早いけど、長く持つよ』
そう言われて選んだ。
俊介が持ってきた花でもない。葵からもらったものでもない。何かの記念でもない。真尋が仕事帰りに、自分の部屋へ置きたいと思って買った花だった。
今日は、この部屋を離れて東京へ戻る。二泊三日。日曜日の夜には大阪へ帰ってくる。
帰ってくる。
その言葉を心の中で繰り返し、真尋は驚いた。
東京へ行くのに、帰る。大阪へ戻る時にも、帰る。
二つの場所に同じ言葉を使うことへ、まだわずかな違和感がある。それでも、どちらかを偽物にする必要はない。
*
朝食は、ご飯と味噌汁、目玉焼き。
帰る前に冷蔵庫の食材を使い切るため、残っていたほうれん草も茹でた。一人分にしては少し多い。だが、食べられる。
食卓の端には、小さな旅行用バッグ。仕事用のパソコンも入っている。
土曜日と日曜日は仕事をしないと決めているが、移動中に金曜日の残務を終える予定だった。
以前なら、東京の部屋へ戻った後も資料を開いただろう。今回は、新幹線を降りる前に閉じる。
俊介とは、今夜から日曜日の午前まで一緒に過ごす。土曜日の午後は葵。日曜日の昼は母。
限られた時間へ、三人との予定を入れた。すべてを一度に集めるのではなく、それぞれと別の時間を過ごす。
大阪へ行く前なら、同じ週末に全員と会うことを忙しいと感じたかもしれない。今は会いたい。
ただし、会いたいからといって、自分の疲れを無視しない。
日曜日の午後、新幹線へ乗る前の二時間は一人で過ごす予定にしている。誰にも会わない。東京駅周辺で食事をし、少し歩く。大阪へ戻るために、自分の気持ちを整える時間。
*
俊介へその予定を伝えた時、寂しそうな返事が来た。
『最後まで一緒にいたい気持ちはあります』
『はい』
『でも、真尋が必要なら』
『必要です』
『わかりました』
葵にも、
『日曜日、駅まで見送りたい』
と言われた。
『今回は一人で乗ります』
『どうして?』
『大阪へ戻る前に、一人の時間が欲しいからです』
『見送られるの嫌?』
『嫌ではありません』
『じゃあ』
『今回は、自分で東京を離れたいです』
葵からの返事は遅れた。
『わかった』
誰かと会う時間も。一人になる時間も。自分で選ぶ。
*
食事を終え、洗い物をする。ゴミをまとめる。冷蔵庫を確認する。青紫の花の水を替える。
三日後まで持つだろうか。花屋の人からは、部屋が暑くなりすぎなければ大丈夫と言われた。カーテンを少しだけ閉め、直射日光が当たらないようにする。
写真を見る。二つの影。俊介の横顔。家族。窓。
大阪で撮った新しい写真も一枚加わっている。匿名の付箋が並んだ、自分の机。個人情報が見えないよう、離れて撮った。
東京の壁へ同じ写真を飾るかは、まだ決めていない。大阪でしか持たない記憶があってもいい。
真尋は玄関へ向かった。靴を履く。
「行ってきます」
部屋へ言う。
初めて大阪の部屋を一晩以上空ける。返事のない空間へ、帰ってくる前提で声をかける。
扉を閉め、鍵を確かめた。
*
新大阪駅へ向かう電車の中で、俊介からメッセージが届いた。
『もう出ましたか』
『はい』
『何時頃、東京へ?』
『十二時半頃です』
『仕事は何時まで?』
『新幹線の中で終わらせます』
『東京駅へ迎えに行ってもいいですか』
真尋は迷った。
今夜は俊介の部屋へ泊まる。東京の自宅へ一度戻り、荷物を置いてから会う予定だった。
迎えに来てもらえば、東京駅から二人の時間が始まる。嬉しい。
一方で、自宅へ一人で帰り、部屋の空気を確かめたい気持ちもある。
『東京の部屋へ一度、一人で戻りたいです』
送る。俊介から、すぐには返事が来ない。
『わかりました』
少しして続く。
『寂しいですが、夕方会えるのを待っています』
『はい』
『何時にしますか』
『六時に、俊介の家へ行きます』
『僕が真尋の家へ行くのではなく?』
『今回は俊介の部屋へ行きたいです』
『はい。何か用意します』
『一緒に買いましょう』
『わかりました』
真尋はスマートフォンを閉じた。
東京へ着いて最初に会うのは、誰でもない。自分の部屋。それを選んだ。
*
新幹線へ乗り、窓側の席へ座る。
大阪へ来た日と逆の方向。あの日は、東京駅のホームが後ろへ流れていった。今日は、大阪の街が遠ざかる。
寂しいとは思わなかった。
日曜日に戻るとわかっているからだろうか。それとも、東京へ会いたい人がいるからか。どちらもある。
真尋はパソコンを開いた。
売上区分統一後の運用確認資料。一週間目の報告。例外登録の件数。作業時間。現場からの質問。
当初予測より、例外件数は少ない。二重入力も一部解消された。
ただし福岡では、店舗への説明不足が二件。大阪では、旧分類のまま入力された商品が七件。広島では、問い合わせ先がわからないという声があった。
制度は動き始めた。問題も出ている。それでも、戻すほどではない。修正しながら続ける。
真尋は報告書へ、
『重大な問題なし』
と書きかけ、止めた。
現場で迷った人にとっては、重大だったかもしれない。表現を変える。
『運用継続を妨げる問題は現時点で確認されていない。個別の混乱については、説明資料と問い合わせ経路を修正する』
大きな問題ではないから無視するのではなく、制度全体を止めるほどではないと分ける。
*
書き終えたところで、山岸から連絡が届いた。
『今日は予定通り休んでください。こちらは大丈夫です』
真尋は吹き出した。
『ありがとうございます。緊急時は連絡してください』
『緊急かどうかはこちらで判断します』
『はい』
『東京で仕事をしないでください』
『移動中に終えます』
『終わったらパソコンを閉じた写真を送ってください』
『監視ですか』
『事務局としての確認です』
真尋は報告書を送信し、パソコンを閉じた。
時刻は午前十一時二十二分。東京到着まで一時間ほど。
閉じたパソコンの写真を山岸へ送る。
『確認しました。良い週末を』
『山岸さんも』
少しして。
『私たちは働いています』
『月曜日に戻ります』
『はい。帰ってきてください』
帰ってきてください。大阪で言われた。
真尋は画面をしばらく見た。
*
東京駅へ着く。
ホームへ降りた瞬間、見慣れた案内表示と人の流れに、体が自然に動いた。
どこへ行けばよいか考えなくてもわかる。乗り換え。改札。階段。
大阪では、毎日少しずつ確認しながら歩いている。東京では、足が先に進む。
安心する。同時に、人の多さに疲れる。
以前は気にならなかった。東京を離れたことで、見え方が変わっている。
電車へ乗り、自宅の最寄り駅へ向かう。
駅前の店。信号。よく使った道。何も変わっていない。新しい看板が一つ増えた程度。
真尋がいなくても、街は同じように動いていた。
*
自宅の扉へ鍵を差し込む。緊張した。鍵は問題なく回る。
扉を開ける。閉め切った部屋の匂い。
管理会社へ定期的な換気を依頼しているため、淀んではいない。それでも、人が毎日暮らしている匂いではない。
「ただいま」
声にする。
大阪へ行く前と同じ家具。同じ壁。写真は戻してある。葵との影。俊介。窓。家族。
だが、大阪で見慣れた青紫の花はない。机の上に仕事の資料もない。冷蔵庫には、水と調味料だけ。
この部屋は、真尋が帰ってくるのを待っていた。同時に、生活を止めたまま残っていた。
真尋はバッグを置き、窓を開けた。
外の音。車。工事。上の階の足音。懐かしい。
それでも、完全に以前と同じ感覚には戻らない。
大阪の部屋が頭へ浮かぶ。公園の木。商店街。白い花瓶。冷蔵庫の卵。開けたままの本。
人が暮らしているのは、今は大阪のほうだ。
東京の部屋は、真尋を知っている。大阪の部屋は、今の真尋が作っている。
どちらが家なのか。答えを一つにしようとすると苦しくなる。
*
洗面所へ行く。三本の歯ブラシ。自分の東京用。俊介。葵。
大阪にも同じ三本がある。
真尋は自分の歯ブラシを手に取った。まだ使える。俊介のものも、葵のものも、そのまま。この数週間、誰も使っていない。
物は待てる。
人の関係も同じように止まっているわけではない。俊介は東京で生活を続けた。葵も。真尋も大阪で。
戻ったからといって、以前の続きへそのまま戻るわけではない。それぞれが過ごした時間を持って会う。
*
真尋は簡単に部屋を掃除した。寝具を整える。冷蔵庫へ、駅で買った牛乳とヨーグルトを入れる。
今夜は俊介の家へ泊まるため、ここで夕食は取らない。それでも、明日の朝か日曜日に戻ってくる可能性がある。最低限の食材だけ。
午後二時。眠気があった。俊介と会うまで四時間。
真尋はソファへ横になる。大阪で使っているものと同じ形なのに、柔らかさが違う。
目を閉じる。眠るつもりはなかった。
だが、次に目を開けた時、午後四時を過ぎていた。二時間近く眠っていた。
東京の部屋へ戻った安心で、体の力が抜けたのかもしれない。
スマートフォンには、俊介から一件。
『無事に部屋へ着きましたか』
葵からも。
『東京着いた?』
母から。
『帰ってるなら連絡して』
誰にも連絡せず眠っていた。
真尋はまず、自分の体調を確かめる。疲れは取れた。それから三人へ返す。
俊介へ。
『着いています。少し眠っていました』
『疲れているなら、今夜は予定を変えますか』
『会いたいです』
『無理ではなく?』
『はい』
『六時に待っています』
葵へ。
『着きました。明日、予定通り』
『電話していい?』
『今から支度します。明日話します』
『わかった』
母へ。
『帰っています。日曜日に伺います』
『何か食べた?』
『昼は新幹線で』
『夜は?』
『俊介と』
『はい』
短いやり取り。
大阪へ来る前なら、葵へ電話したかもしれない。母にも詳しく話した。今は、会う予定がある。それまで待てる。
*
シャワーを浴び、着替える。
俊介の家へ泊まる。以前は真尋の部屋ばかりだった。俊介の生活へ入るのは、今回が初めてではない。何度か夕食を食べ、短い時間を過ごしたことはある。だが泊まるのは初めてだった。
バッグへ部屋着と洗面用品を入れる。
大阪の部屋にも、東京の部屋にも俊介の歯ブラシがある。俊介の家には、真尋の歯ブラシが置いてある。以前、約束した後に用意してくれた。まだ二度しか使っていない。
真尋は鏡を見る。
大阪へ出発した時より、顔が疲れている。同時に、以前より表情が柔らかくなった気もする。
仕事で間違えた。謝った。人に頼った。一人で暮らした。俊介が来た。離れた。葵の商品を食べた。新しい街で花を買った。
数週間分の時間が、顔へ残っている。
*
俊介の家へ着いたのは、午後五時五十五分だった。呼び鈴を押す。すぐに扉が開く。
俊介が立っている。薄い青色のシャツ。部屋着ではなく、外へ買い物に行ける服装。
「お帰りなさい」
俊介が言った。真尋は息を止める。
東京の自分の部屋ではなく、俊介の部屋で言われる言葉。
「ただいま」
自然に返した。俊介の表情が柔らかくなる。
「会いたかったです」
「私も」
真尋は靴を脱ぐ前に、俊介へ手を伸ばした。俊介も近づく。玄関で抱きしめ合う。
大阪駅で別れた日。大阪の部屋で見送った朝。電話。画面。
そのすべてを越えて、今は同じ場所にいる。
「真尋。少し細くなりました?」
「体重は変わっていません」
「疲れています」
「はい」
「今日は何もしないでも」
「一緒に買い物へ行きたいです」
「無理では?」
「外を歩きたいです」
俊介は顔を離し、真尋を見る。
「わかりました」
*
荷物を置く。俊介の部屋は、以前と大きく変わっていない。
本棚。図面。小さな観葉植物。建築模型。整ったキッチン。
ただ、洗面所には真尋の歯ブラシがある。寝室には、枕が二つ。真尋が来ることを想定して用意したのだろう。
「いつから二つ?」
真尋が尋ねる。
「一週間前」
「早いです」
「楽しみにしていました」
「はい」
「嫌でしたか」
「いいえ」
真尋は枕へ触れず、部屋を見回した。
「私の物は、ほかにありますか」
「カップ」
「いつ?」
「買いました」
キッチンの棚から、白いカップを出す。縁に細い紺色の線。真尋が東京の部屋で使っているものに少し似ている。
「私が選んでいません」
「はい。嫌なら、別のものを」
「使います」
真尋はカップを受け取った。
「俊介が選んだ、私の物。少し不思議です」
「押しつけですか」
「今は、嬉しいです」
*
二人は近所のスーパーへ出かけた。並んで歩く。
大阪では商店街を一人で歩くことが増えた。俊介と東京の道を歩くと、体の距離が近く感じる。手をつなぐ。
平日の夕方。買い物袋を持つ人。学校帰りの学生。犬の散歩。
以前なら何度も見た景色。今は、懐かしい。
「何が食べたいですか」
俊介が尋ねる。
「鍋」
「季節的に?」
「少し涼しいので」
「何鍋?」
「簡単なもの」
「材料は?」
「白菜。きのこ。豆腐。鶏肉」
「味は?」
「だしと塩」
俊介はメモへ書こうとする。
「覚えられます」
「買い忘れないように」
「建築士ですね」
「関係ありません」
二人の間に短い笑いが起きた。
スーパーで同じ籠へ食材を入れる。俊介の生活のための牛乳。朝食用のパン。真尋が食べたいヨーグルト。鍋の材料。翌朝の卵。
二人分の生活が、一つの籠へ入る。
ただし、真尋は日曜日に大阪へ戻る。買いすぎない。残る食材は、俊介が食べる。
「この量で」
真尋が言う。
「もっと買っても」
「私は二日しかいません」
「はい」
俊介が寂しそうにする。
「次に来る日もあります。それまで残るものは買いません」
「はい」
未来を約束するために物を残すのではなく、今必要な分だけ。
*
俊介の部屋へ戻り、二人で鍋を作った。
白菜を切る。きのこを分ける。豆腐。鶏肉。
大阪で真尋が一人で作る夕食より、量が多い。俊介が隣にいる。
「仕事の話、今しますか」
俊介が尋ねる。
「食事の後に。今日は、最初に東京のことを話したいです」
「何を?」
「この部屋へ戻って、どう感じたか」
「真尋の部屋? どうでした?」
真尋は鍋へ白菜を入れながら答える。
「懐かしかったです。安心しました。でも、生活が止まっていました。大阪の部屋のほうが、今は暮らしている場所に感じました」
俊介の手が止まる。
「東京へ戻りたいと思っていたのに?」
「はい」
「戻ってきたら、大阪が家になっていた?」
「家という言葉は、まだ迷います。東京も家です。ただ、今の生活は大阪にある」
俊介は鍋の火を弱める。
「寂しいです。東京へ帰ってきたら、前の真尋に戻るような気持ちが少しありました」
「戻りません。大阪の時間を持って帰っています。俊介も、この数週間を過ごしました。以前の続きではなく、今の二人で会います」
俊介は真尋を見る。
「僕の知らない真尋が増えました」
「俊介も」
「はい。それでも、会いたかったです」
「私も」
*
鍋を食べながら、俊介は東京での時間を話した。
仕事。大学時代の友人。女性の同期を含む食事会。母の家へ行ったこと。大阪へ行った翌週、真尋が使った枕を洗うか迷ったこと。
「洗いました?」
「三日後に」
「なぜ三日?」
「匂いが残っていたので」
真尋は顔を伏せる。
「嫌でしたか」
「恥ずかしいです。でも、少し嬉しい」
俊介は思わず笑った。
「真尋は、大阪で僕が帰った後、すぐ洗いました?」
「翌日」
「早い」
「生活なので。でも、枕はしばらく出していました」
「本当ですか」
「はい」
離れている間、互いの気配を物へ残そうとした。すぐには片づけられなかった。
*
「俊介。女性の友人と二人で会いました?」
「一度」
真尋の胸に緊張が走る。
「誰ですか」
「大学の同期の、北川さん」
「以前、食事会にいた方?」
「はい」
「何を?」
「仕事の相談です」
「二人で? どこで?」
「会社の近くのカフェ」
「どのくらい?」
「一時間半ほど」
質問が続く。自分でも多いとわかる。俊介は答える。
「真尋。不安ですか」
「はい」
「会わないでほしい?」
真尋は考える。
俊介の友人。仕事の相談。止める理由はない。それでも嫌だ。
「会わないでとは言いません。ただ、何を相談されたか気になります」
「彼女が転職を考えていて、会社の選び方を」
「俊介でなければ?」
「大学時代から、仕事の話をしていたので。恋愛の関係は、以前も今もありません」
「はい」
「信じますか」
真尋はすぐに返事をしなかった。
信じると答えることが、良い恋人の正解のように感じる。だが不安は残っている。
「信じたいです。今は、全部安心したわけではありません」
「はい」
「次に会う時、言ってほしいですか」
俊介が尋ねる。
「事前に必ず、とは思いません。でも、会った後も隠さないで。私から聞かなくても、自然に話してほしいです」
「わかりました」
「報告義務ではなく」
「今日のこととして?」
「はい」
「僕も、大阪で森田さんやほかの男性と二人で食事した時、聞きたいです。全部ではなくても、生活の話として」
「わかりました」
信頼は、何も聞かないことではない。
相手の生活へ興味を持つ。不安も伝える。ただし、すべてを監視しない。その境界を二人で探す。
*
真尋は大阪での出来事を話した。
制度の運用。中原との会話。山岸へ任せた事務局。森田の相談窓口。花屋の女性。青紫の花。
「花屋の方の名前、まだ知らないんですか」
「はい」
「向こうは真尋の名前を?」
「知らないと思います」
「次に聞きます?」
「自然に機会があれば。俊介。山岸さんから、帰ってきてくださいと言われました」
俊介の表情が動く。
「大阪へ?」
「はい」
「嬉しかったですか」
「はい」
「僕は、戻ってきてほしいです」
「東京へ?」
「はい」
二つの場所から、帰ってきてと言われる。
「困りますか」
俊介が尋ねる。
「少し。でも、どちらかを選べと言われたわけではありません。月曜日には大阪へ帰ります」
「日曜日です」
「はい」
「言い直しましたね」
「大阪へ戻ることを、帰ると言いました」
俊介は寂しそうに笑った。
「慣れません」
「私もです」
「でも、否定しません」
「ありがとうございます」
「その代わり、東京へ来る時も帰ると言ってください。僕のところへも」
真尋は考えた。
「俊介の部屋は、まだ帰る場所というより、来たい場所です」
俊介の顔に、わずかな寂しさが浮かぶ。
「でも、今夜お帰りなさいと言われて嬉しかったです。いつか、自然に帰る場所と思うかもしれません」
「はい」
「急がないでください」
「わかりました」
*
食事を終え、二人で片づけをする。俊介が洗う。真尋が拭く。
大阪の部屋でもした動作。東京でも。場所が違っても、同じ役割になることがある。
「真尋。一緒に暮らすとしたら、食器はどちらのものを使いますか」
突然の問い。
「まだ考えません」
「はい」
「なぜ?」
「今日、真尋の部屋が生活を止めていたと聞いて、僕の部屋へ生活を移すこともあるのかと思いました」
「大阪から戻った後に? 私の東京の部屋を残しながら?」
「それも」
「俊介。今は、一緒に暮らしたいですか」
俊介は手を止める。
「今日、会って、思いました。でも、毎日だと違うかもしれません。真尋が仕事で疲れている時に、僕がいることが負担になる。僕も、一人でいたい日がある。だから、今すぐではありません。大阪から戻る時に、同居か、別居のままか、考えたいです」
「結婚も?」
「その先に」
真尋は拭いた皿を棚へ置く。
「私は、東京の部屋を手放すことがまだ想像できません。俊介の部屋へ、全部移すことも。私の部屋へ俊介が来る形も。一緒に住むなら、新しい場所がいいかもしれません」
言ってから、真尋自身が驚く。俊介も目を見開く。
「新しい場所?」
「可能性です」
「はい」
「どちらかの生活へ、もう一方が入るのではなく」
「二人で選ぶ?」
「はい」
「嬉しいです」
「まだ決めません」
「わかっています」
俊介は声を立てて笑った。
*
風呂は別々に入った。真尋が先。
俊介の家の浴室。置かれている洗剤。タオル。小さな棚。自分の生活にはない配置。
俊介の暮らしへ入っている。大阪の部屋で俊介を迎えた時とは逆。
真尋は、自分が客であることへ安心し、同時に寂しく感じた。
客だから気を使う。同時に、すべてを整える責任がない。
風呂から上がると、真尋用の部屋着を俊介が用意していた。新品ではない。以前、真尋が一度着て、そのまま置いていったもの。
「洗って保管していました」
「はい」
「捨てていません」
「当然です」
「僕の部屋に、真尋の服があります」
「一着だけ」
「はい」
俊介は嬉しそうだった。
*
二人は寝室へ入った。枕が二つ。真尋のために買ったもの。
並んで横になる。大阪の部屋より、ベッドが広い。俊介の匂い。
真尋は天井を見る。
「落ち着きますか」
俊介が尋ねる。
「少し緊張します」
「なぜ?」
「俊介の場所だから。私は、迎えられる側です」
「はい」
「嫌ですか」
「いいえ」
「何か必要なら言ってください。照明。温度。窓」
「今は大丈夫です」
俊介が手を差し出す。真尋は指を重ねる。
「大阪で、抱きしめた夜を思い出します」
俊介が言う。
「はい」
「今日も?」
「はい」
互いに近づく。口づけ。抱きしめる。
離れていた時間を埋めるように急ぎたくなる。真尋はその気持ちへ気づいた。
「俊介。少しゆっくり」
「はい」
俊介はすぐに動きを緩める。
「会えなかった分を、今日全部取り戻さなくていいです。明日の朝もいます。次もあります」
「はい」
「言ってくれて、ありがとうございます」
俊介の額が真尋の額へ触れる。
*
夜が深くなり、二人は近い距離で横になった。俊介が真尋の肩へ手を置く。
「真尋。大阪へ帰らないでほしいです」
胸が痛む。
「はい」
「言うだけです。困らせたいわけではありません。日曜日、駅まで行かないこともわかっています。でも、今日会ったら、さらに帰したくなくなりました」
「私も、離れたくありません。それでも戻ります」
「はい」
「仕事があるからだけではなく、大阪で続けたい生活があるから」
俊介は黙る。
「それを聞くのは、寂しいです。でも、真尋が大阪で生活を作れたことは、嬉しいです。僕がいなくても。葵さんがいなくても。それでも、僕の場所はありますか」
俊介が尋ねる。
葵と同じ問い。形は違う。だが根にある不安は近い。
「あります」
「どこに?」
「東京にいる人、ではなく、会いたい人。一緒の朝を迎えたい人。未来の暮らしを考える人」
俊介の手に力が入る。
「それで十分です」
「今は」
「はい」
*
翌朝、真尋は俊介より先に目を覚ました。午前七時前。
俊介の部屋の窓から、朝の光が入る。大阪とは違う景色。隣に俊介がいる。
真尋はしばらく動かなかった。
会いたかった。今、いる。
それでも午後には葵へ会う。日曜日には母。そして大阪へ戻る。時間は進む。
一つの幸福へ留まり続けることはできない。
真尋は俊介の頬へ軽く触れた。俊介が目を開ける。
「おはようございます」
「おはようございます」
「見ていました?」
「少し」
「公平ですか」
「以前、俊介も」
二人は笑う。
*
朝食は、俊介が作った卵焼きと、パン、スープ。卵焼きは以前より上手く巻けている。
「練習しました?」
「三回」
「一人で?」
「はい」
「誰かへ食べてもらいました?」
真尋は自分でも、質問に嫉妬が含まれていると気づく。
「母へ一度」
「北川さんでは?」
「いいえ」
「はい」
「不安ですか」
「少し」
「聞いてください」
真尋は卵焼きを食べる。甘さは葵より控えめ。真尋より柔らかい。
「おいしいです」
「二人より?」
「三人で比べる時に」
「大阪で?」
「葵が来た時」
「はい」
「母を判定に呼びますか」
「呼びません」
同じ会話をして笑う。場所が変わっても続くもの。
*
朝食後、俊介はコーヒーを淹れた。真尋用の白いカップ。縁の紺色。テーブルへ置く。
「このカップ、置いておいていいですか」
「はい」
「私が来ない時にも?」
「はい」
「誰かへ使わないでください」
言ってから、驚く。自分の物として、場所を求めている。
俊介は嬉しそうに答える。
「使いません」
「でも、特別な場所へしまわなくていいです。普通に置いてください。私のためだけの物でも、生活の中に」
「わかりました」
俊介の棚に、真尋のカップ。洗面所に歯ブラシ。クローゼットに部屋着。少しずつ増えている。
それでも、真尋が暮らしている部屋ではない。今は、その距離でいい。
*
午前十一時。真尋は俊介の部屋を出る準備をした。
葵とは午後一時に待ち合わせ。早いが、自分の部屋へ戻って着替えたい。
「送ります」
俊介が言う。
「駅まで?」
「真尋の部屋まで」
「電車で一緒になります。その後、戻るんですか」
「はい」
「無理では?」
「一緒にいたいです」
真尋は考える。
送ってもらうことは嬉しい。だが、次の葵との時間へ移る前に一人になりたい。
「駅まで。電車には一人で乗ります」
俊介が寂しそうに頷く。
「わかりました」
*
駅まで歩く。手をつなぐ。朝の街。人が多い。
俊介が何度か真尋を見る。
「何ですか」
「次は、いつ会えますか」
「水曜日に予定を確認します」
「はい」
「大阪へ来るか、私が戻るか。二週間以上空く可能性も」
「はい」
「聞くのは、水曜日まで待ちます」
「ありがとうございます」
「でも、今日の夜に寂しいとは言います」
「はい。私も」
駅前で立ち止まる。改札。
「行ってらっしゃい」
俊介が言う。真尋は笑う。
「葵へ会うだけです」
「はい」
「行ってきます」
「帰ってきますか」
俊介の問いに、真尋は考える。
今夜は自分の部屋へ泊まる。俊介の部屋へは戻らない。
「次に」
「はい」
「また来ます」
「待っています」
*
東京の部屋へ戻る。着替える。
寝室には、自分だけの枕。俊介の枕はクローゼット。大阪へ行く前と同じ。
だが昨夜、俊介の部屋で眠った。自分の生活へ迎えるだけではなく、相手の生活へ入った。関係が変わった。
真尋は服を選ぶ。
葵とは、試作品が置かれた店舗を見に行く予定だった。その後、食事。美月も夕方から合流する可能性がある。
葵から、
『今日は二人で話したいことがある』
と言われているため、最初の数時間は二人だけ。
何の話かは聞いていない。直哉のことか。商品。真尋の大阪。いくつか浮かぶ。
先回りせず、会って聞く。
*
待ち合わせ場所へ着くと、葵はすでにいた。以前より髪が短くなっている。真尋が大阪へ行った後に切ったらしい。
「真尋」
葵が呼ぶ。
「お待たせしました」
「時間通り」
二人はしばらく、互いの顔を見る。ビデオ通話では何度も見た。だが、実際に会うと違う。
葵が先に抱きついた。
「会いたかった」
「私もです」
「大阪の匂いする」
「わかりません」
「少し違う」
「何が?」
「服?」
「東京から持っていった服です」
「でも違う」
葵は真尋の肩へ顔をつける。
「本当に帰ってきた。明日また行く?」
「日曜日です」
「うん」
葵は腕を離す。目に涙が浮かんでいる。
「今日は泣かないって決めた」
「無理をしなくても」
「嬉しいから」
*
二人は、試作品を置いている店舗へ向かった。
新商品の限定テスト。首都圏の五店舗。二つの言葉を、店舗ごとに分けている。
『迷う日にも、ひと息。』
『答えを急がない午後に。』
今日訪れる店では、一つ目の言葉が使われている。
売り場の一角。前の商品と同じ淡い色調。青いパッケージ。真尋が大阪で受け取ったものと同じ。
「本当に並んでいますね」
「うん」
「嬉しいですか」
「怖い」
「なぜ?」
「誰も買わなかったら」
「試験なので」
「わかってる」
二人は離れた場所から見守る。
人が通る。立ち止まらない人。パッケージを見る人。手に取って戻す人。
一人の女性が商品を手に取った。三十代くらい。裏面を読む。かごへ入れる。
葵の肩がわずかに上がる。
「買った」
「はい」
「声をかけたい」
「やめてください」
「わかってる」
女性は、そのまま別の棚へ歩いていった。葵は目で追う。
「どんな日だったのかな。迷ってるのかな」
「言葉ではなく、味で選んだかもしれません」
「真尋」
「はい」
「仕事の人」
「はい。でも、買ったことは事実です」
葵は笑った。
*
店を出た後、二人は近くのカフェへ入った。午後二時。まだ夕食には早い。
窓際の席。葵は紅茶。真尋はコーヒー。
注文を終えると、葵がバッグから一枚の封筒を取り出した。
「何ですか」
「直哉から」
真尋の胸が動く。
「連絡があった?」
「一週間前。郵便で」
「住所は知っていますからね」
「うん」
「開けました?」
「昨日」
「一週間、待った?」
「怖くて」
葵は封筒をテーブルへ置く。真尋は手を伸ばさない。
「何と?」
「謝罪。それから、もう戻ってほしいとは言わないって。自分も前へ進むって」
葵の声は落ち着いているようで、震えている。
「最後に、私の商品を、店で見たって」
真尋は葵を見る。
「買ったそうです。言葉を読んだって」
「どちらの商品?」
「最初の。今日も、ここまで来たあなたへ」
「はい」
「俺に向けた言葉ではないとわかっているけど、救われたって」
葵の目に涙が浮かぶ。
「嬉しかった?」
「うん。でも、戻りたいとは思わなかった」
葵は自分で言葉を確かめるように続ける。
「会いたいと思った。ありがとうって言いたい。でも、もう一度恋人になりたいとは思わなかった。それがわかって、泣いた」
葵の涙が落ちる。
「好きじゃなくなったから?」
「違う」
「はい」
「好きだったまま、終われるんだって」
*
真尋は黙って聞く。
「直哉が悪い人じゃなくても。私が悪くなくても。戻らないでいい。二人とも頑張れば、今度はうまくいくかもしれない。でも、うまくいく可能性があるだけで、戻る理由にはならなかった」
葵は涙を拭う。
「私、直哉といた時の自分へ戻りたくない。直哉も、前の自分に戻らないほうがいいと思う。別々で変わったほうがいい」
葵は、はっきりと言った。
真尋の胸に、静かな安堵が広がる。
復縁しないと決めた。怒りだけで。傷ついた勢いだけで。誰かに言われたからではなく。好きだった時間を認めた上で。
「返事は?」
真尋が尋ねる。
「まだ」
「したいですか」
「うん」
「何と?」
「ありがとう。商品を買ってくれて嬉しかった。でも、戻らない。お互いの生活を進めようって。それから」
葵は迷う。
「幸せでいてほしい」
「言えますか」
「今は、まだ少し痛い。直哉に新しい恋人ができたら、苦しいと思う。でも、それでも戻らない。幸せを願うことと、すぐ平気になることは別」
「はい」
葵は封筒を見た。
「返事を書こうと思う。今日、真尋に見せたかった」
「内容を?」
「手紙が来たことを。何て言ってほしいかわからなかった。戻らないでって言われたくない。復縁してもいいって言われるのも違う。ただ、聞いてほしかった」
「聞きました」
真尋は答える。
「葵が、戻らないと自分で選んだことも。好きだったまま終えることも。それでいいと思います」
葵は泣きながら笑った。
「ありがとう」
*
飲み物が運ばれてくる。葵は手紙をバッグへ戻した。
「今日、返事を書く?」
真尋が尋ねる。
「明日」
「なぜ?」
「今夜は美月とご飯食べる。嬉しいことも話したい」
「商品?」
「うん」
「直哉の手紙だけの一日にしたくない?」
葵は驚き、頷く。
「そう。今日、商品が買われた。真尋が帰ってきた。美月と会う。直哉の手紙もある。全部ある日」
「はい」
以前なら、直哉からの手紙が一日全体を覆っただろう。
今は違う。大切で、痛くて、心を揺らす。それでも一日の一部。
*
「真尋。東京の部屋、どうだった?」
「安心しました」
「帰ってきた感じ?」
「はい」
「大阪は?」
「日曜日に帰る場所です」
葵の顔が曇る。
「大阪も帰る? 東京と同じ?」
「同じではありません」
「どっちが大事?」
「比べません」
「また」
「はい」
葵はカップへ視線を落とす。
「大阪の人に、帰ってきてって言われた?」
「山岸さんから」
「女性?」
「はい」
「嬉しかった?」
「はい」
「寂しい。私が言ってた言葉を、大阪の人も言う」
「はい。でも、意味は違います」
「どう違う?」
真尋は考える。
「山岸さんは、一緒に仕事を続ける人として。葵は、仕事や場所が変わっても戻ってこられる人として。同じ言葉でも、関係が違います」
「うん」
「どちらも大切です」
葵は黙り、やがて頷いた。
*
「大阪で、私のこと話した?」
「山岸さんへ少し」
「何て?」
「秋田へ一緒に行った友人」
葵の顔が残念そうになる。
「それだけ?」
「写真を見て、誰か聞かれました。人生の途中で出会った、大切な人だと」
葵の目が大きくなる。
「戻ってこられる人って?」
「そこまでは」
「どうして?」
「職場です。すべて説明する必要はありません」
「はい」
葵は寂しそうにしながらも、納得する。
「秋田では言って」
「何を?」
「私たちの関係。友達だけじゃないって。恋人ではない。家族でもない。でも、人生からいなくなったら困る人」
真尋は葵を見る。
「私もです」
「うん」
「秋田で、言葉にしましょう」
「うん」
*
葵は新商品の話をした。
売上は、まだ判断できる段階ではない。二つの言葉では、
『迷う日にも、ひと息。』
のほうが、手に取る人が多い。ただし店舗条件が違うため、断定はできない。
アンケートには、
「転職を決めた後、不安になった日に買った」
「子どもの進路を決めた後も迷っていた」
「別れた後、戻らない選択を疑っていた」
という回答が届いている。
「最後の人、私みたい」
葵が言う。
「はい」
「知らない人。同じように迷ってる。私の言葉が、誰かへ届いた。でも、私の答えを押しつけてない?」
「どういう意味ですか」
「戻らなくていいって言ってるように見えない?」
真尋はパッケージの言葉を思い出す。
『迷う日にも、ひと息。』
「戻れとも、戻るなとも言っていません。迷っている時間を否定しないだけです。葵が復縁しない選択をしたからといって、商品を買った人も同じ答えでなくていい。それが、この言葉の良いところだと思います」
葵は安心したように笑う。
*
午後五時近く、美月から連絡が入った。
『仕事が終わった。合流できる』
葵が真尋を見る。
「美月、来る。二人の時間、もういい?」
「葵は?」
「話したかったこと、話した。真尋は?」
「大阪と東京の話をしました」
「俊介さんの話は?」
「昨夜、一緒に過ごしました」
「詳しくは聞かない。幸せ?」
「はい」
「大阪へ帰りたくない?」
「帰りたいです」
葵の顔が曇る。
「俊介を大切に思うことと、大阪へ帰りたいことは両立します。葵へ会いたかったことも。今、会えて嬉しいです。だからといって、ずっと東京にいたいだけではない」
「わかってる」
葵は自分へ言い聞かせるように頷いた。
「私も、直哉の手紙が来ても、前の生活へ戻りたいだけじゃない。似てる?」
「少し」
二人の間に短い笑いが起きた。
*
美月が来る前に、葵は真尋へ一つ頼んだ。
「手紙の返事、書いたら読んでほしい」
「内容を?」
「うん」
「自分で決めるんでしょう」
「決める。でも、きつすぎないか。期待を残してないか。確認してほしい」
真尋は考える。
葵が直哉との関係を終える手紙。真尋が直しすぎれば、葵の言葉ではなくなる。
「感想は言います。書き換えは、葵が。直哉へ伝える言葉なので」
「うん」
「大阪へ戻ってからでも、送ってください」
「ありがとう」
葵は安心したように言った。
*
美月が合流し、三人で夕食へ向かった。小さな居酒屋。葵の商品採用祝いの時とは違う場所。
美月は真尋を見るなり、
「大阪の人になってない」
と言った。
「数週間です」
「話し方は?」
「変わっていません」
「少し柔らかくなった」
「皆さん、同じことを言います」
葵が横から、
「大阪の匂いがする」
と付け加える。
「わかりません」
三人で笑う。
美月は、葵から手紙の話を聞いた。
「よかったね、と言っていいのかな」
「わからない」
「でも、戻らないって決められたのは、よかったと思う」
「うん」
美月は葵の手へ触れた。
「寂しい?」
「かなり。でも、前より怖くない」
「何が?」
「直哉がいない未来」
葵は静かに答えた。
「前は、何もないと思ってた。今は、仕事がある。美月がいる。真尋がいる。家族がいる」
「うん」
「私もいる」
葵は自分を指した。真尋はその言葉を聞き、胸が温かくなる。
「一番大事ですね」
「うん」
*
食事の途中、美月が真尋へ尋ねた。
「大阪、ずっといたいと思う?」
「今は、期間中働きたいです」
「終わった後は?」
「東京へ戻る希望を伝えています」
「俊介さんがいるから?」
「それだけではありません」
「東京の仕事?」
「母。葵。友人。部下」
「でも、大阪にも人ができた。戻る時、また寂しくなるね」
「はい」
「真尋さん、どこへ行っても寂しくなる」
美月が言う。真尋は驚き、それから笑った。
「そうですね」
「前は、誰とも近づかなければ寂しくならないと思ってた?」
「はい」
「今は?」
「近づけば、離れる時に寂しいです。でも、近づかないほうがよかったとは思いません。大阪を離れる時も、そう思えるようにしたいです」
葵が不安そうに聞く。
「東京へ戻るんだよね」
「現時点では」
「現時点」
「仕事なので、変わる可能性はあります」
「大阪へ残ると言われたら?」
「考えます」
「俊介さんは?」
「話します」
「私は?」
「話します」
「でも最後は真尋が決める?」
「はい」
葵は寂しそうにしながらも頷いた。
*
食事を終え、三人は駅で別れた。美月は別方向。葵と真尋は同じ電車へ乗る。
車内は混んでいた。二人は並んで立つ。
葵が小さな声で言う。
「今夜、真尋の部屋へ泊まりたい」
真尋は驚く。
「予定にはありませんでした」
「うん」
「着替えは?」
「ない」
「明日も?」
「休み」
「私は母の家へ行きます」
「朝、帰る」
葵は真尋を見る。
「直哉の手紙を話した後、一人で帰るの少し嫌。でも、真尋とずっと一緒にいたいわけじゃない。今夜だけ」
真尋は自分の体調を確かめる。
昨日、俊介と過ごした。今日は葵と美月。疲れている。東京の部屋で一人で眠りたい気持ちもある。
同時に、葵が今夜一人になりたくない気持ちもわかる。
「同じベッドではなく、リビングでいいですか」
「うん」
「私は早く寝ます。詳しい話は、もうしません」
「うん」
「泊まってください」
葵の顔が明るくなる。
「ありがとう」
*
東京の部屋へ戻る。二人で「ただいま」と言う。
真尋にとっては、今日二度目。葵にとっても、何度か泊まった場所。
洗面所には葵の歯ブラシがある。
「まだある」
「はい」
「大阪にも?」
「はい」
「二本」
「場所ごとに」
葵は歯ブラシを見て笑う。
「俊介さんも二本。私と同じ数」
「数えないでください」
二人は同時に吹き出した。
*
真尋は葵へ部屋着を貸した。以前にも着たもの。サイズは大きい。
風呂は葵が先。真尋はその間、俊介へメッセージを送る。
『今日は葵が泊まります』
すぐに既読がつく。
『そうですか』
短い。
『直哉さんから手紙が来たそうです。今夜一人になりたくないと』
『はい』
『寂しいですか』
少しして。
『少し』
『はい』
『でも、今夜は葵さんとの時間ですね』
『私は早く休みます』
『はい』
『俊介。昨夜、一緒に過ごせて嬉しかったです』
『僕もです』
『それは、今夜葵がいることで変わりません』
『はい』
『言いたかったです』
『ありがとうございます』
俊介から、
『明日は、お母様と良い時間を』
と届く。
『はい』
『おやすみなさい』
『おやすみなさい』
今夜は電話しない。昨日の時間を、今日も延長し続けない。
*
葵が風呂から上がる。髪を乾かし、リビングのソファへ座る。真尋は予備の布団を出す。
「この部屋、変わってない」
葵が言う。
「はい」
「でも、少し使われてない感じ。大阪の部屋のほうが、真尋の匂いする?」
「今は」
葵の顔に寂しさが浮かぶ。
「ここにも、戻ってきます。葵が来る場所も、残っています。でも、以前と同じ頻度ではありません」
「わかってる」
葵はソファへ手を置く。
「この場所がなくならないだけで、安心する。真尋がいなくても、部屋がある。鍵は持ってないけど」
「渡しません」
「わかってる」
二人は声を立てて笑った。
*
照明を落とす前、葵が尋ねた。
「真尋。俊介さんの部屋、帰る場所になりそう?」
「少しずつ」
「私の家は? 葵の部屋」
真尋は考える。
葵の部屋。青い線のカップ。写真。植物。鍋敷き。直哉の箱があった場所。
「会いに行く場所です」
葵の顔に寂しさが浮かぶ。
「帰るではなく?」
「はい。でも、安心する場所です。葵がいるから」
「うん」
「秋田は?」
葵が尋ねる。
「戻る場所です」
「住んでないのに? どうして?」
「自分たちの始まりを確かめる場所だから」
葵は声を立てて笑った。
「秋田で、関係に名前つける?」
「名前が必要ですか」
「少し。友達以上って、曖昧。でも恋愛じゃない。家族ではないけど、家族みたいな日もある。姉妹でもない。何て言えばいいんだろう」
真尋も答えを持っていない。
「秋田で、一緒に考えましょう。言葉が見つからなくても、関係はあります」
「うん」
葵は布団へ横になる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
真尋は寝室へ向かう。扉は少し開けておく。
葵が一人ではないと感じられる程度。真尋自身も、必要なら閉められる距離。
*
夜中、真尋は物音で目を覚ました。時計は午前二時過ぎ。リビングの光が漏れている。
真尋はベッドから起き、扉を開けた。葵がソファへ座り、手紙を持っている。
「眠れませんか」
「少し」
「読み直した?」
「うん」
真尋は隣へ座らず、離れた椅子へ座る。
「何を考えていますか」
「返事。ありがとうって書く。でも、優しく書きすぎたら、待ってると思わせる?」
「可能性はあります」
「冷たくしたくない。どうしたら」
葵は言いかけ、止めた。
「ごめん。明日、自分で書くって言った」
「はい」
「今は、考えなくていい?」
「はい。夜中なので」
「うん」
「明日になっても、答えは変わらないと思いますか」
「戻らないこと? 変わらない」
葵ははっきり答えた。
「では、文章は明日でいいです。手紙をしまってください」
葵は封筒へ戻す。
「水、飲みます?」
「うん」
真尋はコップへ水を入れる。葵へ渡す。
「真尋。起こしてごめん。怒ってる?」
「少し眠いです」
「ごめん」
「でも、呼ばれたわけではありません。音で起きました。水を飲んだら、また休みましょう」
「はい」
真尋は葵を抱きしめなかった。手紙の答えも出さなかった。
ただ、同じ部屋で水を飲む。それで十分な夜もある。
*
翌朝、葵は午前八時に帰った。真尋が簡単な朝食を作った。パン。目玉焼き。コーヒーと紅茶。
「直哉へ返事、今日書く?」
「午後」
「はい」
「送る前に、真尋へ」
「感想だけ」
「うん」
「美月にも?」
「見せない」
「なぜ?」
「美月は、直哉へ少し怒ってるから。真尋は?」
「怒っていません」
「最初は?」
「葵が傷ついたことへは。でも、二人の関係のすべてを知っているわけではありません。だから、葵の言葉を見ます」
「ありがとう」
*
葵を見送った後、真尋は部屋を片づけた。
布団を畳む。カップを洗う。葵の歯ブラシは元の場所へ。
昨日は俊介。昨夜は葵。今日は母。それぞれの時間が重なる。
疲れはある。だが、忙しさに押されている感覚ではない。会いたい人へ会っている。
ただし、午後には大阪へ戻る前の一人の時間を確保する。そこまで含めて予定だった。
*
母の家へ着くと、昼食の準備ができていた。焼き魚。煮物。味噌汁。炊きたてのご飯。
「お帰り」
母が言う。
「ただいま」
真尋は靴を脱ぐ。母の家でも、この言葉が自然に出る。
「顔、見せて」
「何ですか」
「痩せてない?」
「俊介にも言われました」
「体重は?」
「変わりません」
「仕事、無理してない?」
「間違えました」
「聞いた」
「はい」
「その後は?」
「制度が動きました。問題もあります」
「仕事だからね」
母は食卓へ真尋を座らせる。
「大阪の部屋、どう?」
「暮らしています」
「当たり前でしょう」
「最初は、仮の場所に感じました」
「今は?」
「帰る場所です」
母は寂しそうに笑う。
「そう」
「東京も。ここも」
「欲張りね」
「はい」
*
食事をしながら、母は父の時計を尋ねた。
「大阪にある?」
「はい」
「使ってる?」
「毎日ではありません」
「今日は?」
真尋は左手首を見せる。父の時計。
「持ってきました」
「お父さんも、大阪と東京を行ったり来たりね。生きてたら、何て言うかしら」
「仕事はどうだ、と」
「それだけ?」
「食事は、と」
「私と同じ」
母は、俊介とのことも聞いた。
「昨日、泊まったの? 俊介さんの家?」
「はい」
「どうだった?」
「生活がありました」
「それはあるでしょう」
「私の家へ迎えるのとは違いました。俊介の物の置き方。朝食。時間。私が相手の生活へ入る」
「嫌だった?」
「いいえ」
「なら、一緒に暮らせそう?」
真尋はすぐに答えない。
「新しい場所なら、と少し話しました」
母が箸を止める。
「本当に?」
「可能性です」
「結婚は?」
「急がないでください」
「聞いただけ」
「大阪から戻った後に考えます。別々の家のままかもしれません。結婚しないかもしれない」
母は思ったより簡単に頷く。
「反対しませんか」
「真尋が一人で全部決めなければ。俊介さんの希望も聞く。互いに諦めたことを、後で相手のせいにしない。それなら」
母は味噌汁を飲む。
「お父さんともっと早くできればよかったことね」
真尋は頷いた。
*
食後、母は押し入れから一つの箱を出した。古い封筒。父から母へ送られた手紙。
「見せてくれるんですか」
「一通だけ」
「なぜ今日?」
「真尋が二つの場所を行き来してるから」
母は封筒を渡す。
「お父さんが単身赴任を始めて、一か月後の手紙」
真尋は慎重に開いた。
父の文字。右へ傾いた、見慣れない筆跡。
内容をすべて読むことには、抵抗がある。母と父だけの言葉。
「読んでいい部分は?」
「最初の二枚だけ」
真尋は読む。赴任先の部屋。食事。仕事。真尋の学校。母の仕事。
最後に、
『家を出て初めて、帰る場所は建物ではなく、お前たちがいることだと思った。ただ、お前にも俺のいない家で生活がある。帰る場所だからと、同じままで待っていてほしいとは言えない』
と書かれている。
真尋は何度か読み返した。
「お父さんが?」
「言葉では、ほとんど言わなかった。手紙だと書けたのね」
「お母さんは、どう思いました?」
「嬉しかった。でも、少し腹も立った」
「なぜ?」
「手紙で書けるなら、電話で言ってと思った」
真尋は笑う。
「お母さんらしい」
「でも、残した」
「はい」
「帰る場所は、人がいること。でも、同じまま待っていてほしいとは言えない」
母が静かに言う。
「今の真尋と俊介さんにも、葵ちゃんにも似てるでしょう。大阪の人にも」
「はい」
帰る場所は、人。だが人は、待っている間にも変わる。戻った側も。
だから、以前と同じ場所へ帰るのではない。変わった人同士が、もう一度会う。
「手紙、写真を撮っても?」
「だめ」
「はい」
「これは、私の」
「わかりました」
母は封筒へ戻す。
境界。家族でも、すべてを持てるわけではない。
*
母の家を出たのは午後一時半だった。新幹線は午後五時。
約束通り、真尋は一人で東京駅へ向かった。まだ時間がある。
駅近くの書店へ入る。旅の本。仕事の本。小説。大阪の本棚へ置きたい一冊を探す。
秋田の紀行本が目に入る。以前の旅で訪れた場所。まだ行っていない土地。
真尋は手に取った。
葵との秋田。日程はまだ確定していない。仕事の状況次第。それでも行く。
本を買う。大阪の部屋へ持ち帰る。
*
書店を出た後、駅のカフェへ入った。窓際の一人席。
葵からメッセージが届く。
『返事、書きました』
続けて文章が送られてくる。真尋はゆっくり読む。
『直哉へ。
手紙をありがとう。
商品を買ってくれたこと、言葉を受け取ってくれたことが嬉しかったです。
私も、あなたと過ごした時間を否定していません。楽しかったことも、支えてもらったことも、今でも大切に思っています。
戻りたいと言ってくれた時、気持ちが揺れました。今も、会いたいと思うことがあります。
それでも、私は復縁しません。
私たちは別れた後、それぞれの生活の中で変わり始めました。私は、その変化を前の関係へ戻すためではなく、自分のこれからへ使いたいと思っています。
あなたにも、私との関係をやり直すためではなく、あなたの生活を進めてほしいです。
好きだった人として、幸せでいてほしいと思っています。今はまだ、その幸せをすぐそばで見守ることはできません。
だから、これで最後の手紙にします。
あなたと過ごした二年間を、私は忘れません。
ありがとう。
葵』
真尋は一度、最初から読み直した。
優しい。だが、明確。期待を残していない。好きだったことを否定せず、戻らないと伝えている。
最後の手紙。
真尋は返信する。
『葵の気持ちが、はっきり伝わります』
『優しすぎない?』
『復縁しないことも、連絡を終えることも明確です』
『幸せでいてほしい、いらない?』
『葵が本当に思っているなら』
『思ってる。でも苦しい』
『苦しくても、書いてよいと思います』
『新しい恋人ができたら、今は泣くと思う』
『それでも幸せを願う気持ちは嘘ではないのでしょう』
『うん』
『では、このままで』
『送る』
『はい』
数分後。
『出してきます』
真尋は画面を見つめる。
葵と直哉の関係が、手紙で終わる。復縁しない。次の恋を急がない。好きだった時間を持ったまま進む。
葵自身が選んだ。
*
次に俊介から。
『東京駅へ行かない約束ですが、近くにはいます』
真尋は驚く。
『どこに?』
『会社です』
俊介の会社は、東京駅から電車で移動する距離にある。
『近くではありません』
『気持ちは』
『はい』
『見送りたいです』
『今回は一人で』
『わかっています』
『寂しいですか』
『かなり』
『私も』
『電話してもいいですか』
真尋は時計を見る。出発まで一時間。
『十五分だけ』
すぐに電話がかかる。
*
『もしもし』
「はい」
『どこですか』
「東京駅のカフェ」
『一人?』
「はい」
『葵さんは?』
「手紙を出しに行きます」
『直哉さんへ? 復縁は?』
「しません」
『そうですか。葵さん、大丈夫ですか』
「大丈夫ではないと思います。でも、自分で決めました」
俊介が黙る。
『真尋。帰ってしまいますね。東京へ来て、どうでした?』
「会えてよかったです。東京の部屋も。葵も。母も。でも、大阪へ戻りたいです」
俊介が息を吐く。
『はい』
「寂しいですか」
『はい』
「怒っています?」
『少し』
「なぜ?」
『僕と会っても、大阪へ戻りたいと言われたから。僕が足りないように感じます』
真尋は俊介の言葉を聞く。
「足りないから戻るのではありません。大阪での仕事と生活を途中で止めたくない。俊介は、私の生活を全部満たす人ではありません」
『わかっています』
「私も、俊介の全部ではない。それでも、会いたい人です。昨日、幸せでした」
『僕も』
「次も会いたい。それでは足りませんか」
俊介は黙る。
『今は、足りないと感じています』
正直な答え。
「はい」
『でも、真尋へ埋めてもらうために、東京へ残れとは言いません。今夜、寂しいと言います』
「はい」
『真尋も?』
「言います」
『次に会う予定、水曜日に』
「はい」
『必ず』
「はい」
*
電話を切った後、真尋は苦しくなった。
俊介を満たせない。自分も、俊介だけでは満たされない。
それは、愛情が足りないという意味ではない。わかっていても、寂しい。
真尋はコーヒーを飲む。冷めている。窓の外を人が行き交う。
母の家。葵。俊介。東京の部屋。すべてを離れ、大阪へ戻る。自分で決めた。
ホームへ上がる。今回は見送る人はいない。
真尋は一人で車両を探し、席へ座った。荷物を棚へ。秋田の本は手元。
スマートフォンへ、母から。
『もう乗った?』
『はい』
『気をつけて帰りなさい』
『はい』
葵から。
『手紙、出した』
『はい』
『泣いた。でも帰る』
『どこへ?』
『自分の部屋』
『はい』
『真尋も?』
『大阪へ帰ります』
『うん』
俊介から。
『発車しましたか』
『まだです』
『行ってらっしゃい』
『行ってきます』
真尋は窓の外を見る。
見送りの人々。家族。恋人。友人。手を振る人。泣く人。笑う人。
自分には、改札の外で手を振る人はいない。だが、離れた場所で言葉を送る人がいる。
それでいいと思った。
*
新幹線が動き始める。東京駅が後ろへ流れる。
前回ほど強い痛みはない。慣れたからではない。戻る場所が消えないと、少しずつ知ったから。
ただし、戻った時に同じではない。
俊介には新しい友人との時間がある。葵は直哉との関係を終えた。母は父の手紙を守っている。真尋も大阪で人と関係を作った。
それぞれが進む。会うたびに、違う。その違いを受け取り直す。
真尋は秋田の本を開いた。
山。酒蔵。海。紅葉。雪。葵と訪れた場所。
次に行く時は、最初の旅とは違う二人。
葵は直哉と別れた直後ではない。真尋も、誰かを迎えることを恐れるだけの人ではない。俊介がいる。大阪の仕事がある。
それでも、二人で行く。
逃げるためではなく。互いだけへ閉じこもるためでもなく。
それぞれの生活を持ったまま、始まりの場所へ戻る。
真尋は本の余白へ付箋を貼った。
『葵と行きたい場所』
一つ。もう一つ。
旅の日が、具体的になる。
*
新大阪駅へ着いたのは、午後七時半を過ぎた頃だった。
ホームへ降りる。人の話し声。案内。空気。
数週間前より、体が自然に動く。乗り換えの場所。改札。電車。確認しなくても進める道が増えた。
最寄り駅へ着く。商店街は、閉店準備を始めている。
花屋の店員が店先の鉢を中へ入れていた。真尋を見る。
「お帰り」
自然に言われた。真尋は足を止める。
「ただいま戻りました」
「東京?」
「はい」
「花、大丈夫だった?」
「これから見ます」
「リンドウは強いから、たぶん平気」
「はい」
「疲れた顔してるね」
「少し」
「早く帰り」
「はい」
名前を知らない人。それでも、お帰りと言われた。
真尋は笑い、頭を下げた。
*
部屋の扉を開ける。
「ただいま」
室内は静か。閉め切った匂い。三日だけ。それでも、懐かしい。
テーブルを見る。青紫のリンドウ。水が減っているが、まだ咲いている。桃色の造花。写真。本。冷蔵庫。ベッド。
真尋はバッグを置いた。手を洗う。花瓶の水を替える。
東京で買った秋田の本を、本棚へ置く。一冊増える。生活が続く。
冷蔵庫から作り置きのスープを出す。少しだけ残っている。電子レンジで温める。パンはない。商店街で買えばよかった。ご飯を冷凍してある。温める。
一人分の夕食。
東京で俊介と食べた鍋。葵と美月との食事。母の焼き魚。その後に、大阪で一人のスープ。
どれが寂しい食事というわけではない。今は、この食事へ戻ってきた。
「いただきます」
スープを飲む。大阪の部屋の味。自分で作った。安心する。
*
食後、山岸へメッセージを送る。
『大阪へ戻りました。明日からよろしくお願いします』
数分後。
『お帰りなさい。今日は休んでください』
森田からも、珍しく個別に届く。
『例外登録、二件増えました。月曜で大丈夫です』
『ありがとうございます』
『東京、どうでした?』
考える。
『帰る場所が増えたと感じました』
森田から。
『贅沢ですね』
『はい』
短い会話。
次に俊介へ電話をかける。
『着きましたか』
「はい」
『部屋へ?』
「今、食事を終えました」
『早いですね』
「作り置きです」
『花は?』
「元気です」
『よかった』
「俊介。大阪へ戻って、安心しました。言いにくかったです。でも、隠したくありません。東京へ帰った時も、安心しました。どちらもです」
『少しずつ、わかります。まだ寂しいですが』
「私も」
『次に会う日は』
「水曜日に。今日、電話は短く」
『疲れています?』
「はい」
『わかりました』
「でも、声を聞きたかったです」
『僕も』
「おやすみなさい」
『おやすみなさい』
「好きです」
『僕も好きです』
*
葵からは、写真が届いた。
自宅のテーブル。青い線のカップ。直哉からの手紙があった場所には、何もない。封筒を返送したため、手元からなくなった。
『帰りました』
真尋も、自分の部屋の写真を送る。リンドウと、秋田の本。
『私もです』
『秋田の本?』
『東京駅で買いました』
『行く場所決めよう』
『はい』
『手紙出したら、少し空っぽ』
『はい』
『でも、前の空っぽと違う』
『どう違いますか』
『埋めてもらう人を探してない』
真尋はその言葉を読む。
『はい』
『空いてるまま、寝る』
『おやすみなさい』
『おやすみ』
*
真尋は風呂へ入り、寝室へ向かった。
枕は一つ。俊介用は箱ではなく、クローゼットにある。次に来る日が決まったら出す。
東京の部屋にも。俊介の部屋にも。葵の部屋にも。母の家にも。自分が眠れる場所はある。
それでも今夜は、大阪のベッドで一人。
真尋は横になる。
東京で過ごした二日間を思い返す。俊介の白いカップ。葵の手紙。父の手紙。美月の言葉。花屋の「お帰り」。山岸の「帰ってきてください」。
帰る場所は、建物だけではない。人だけでもない。同じ形のまま残ることでもない。
離れている間に互いが変わり、その変化を持って会える場所。また出ていける場所。戻らなくても、過ごした時間を否定しなくてよい場所。
葵は、直哉との関係へ戻らないと決めた。それでも、二年間を帰るべきではなかった場所にする必要はない。
俊介は東京にいる。真尋は大阪へ戻った。それでも、二人の関係が東京だけへ置き去りになったわけではない。
母は父を亡くした後も、手紙の中へ閉じこもらず生活している。
過去は残り、生活は進む。
*
真尋は生活ノートを開いた。
『大阪で初めてしたこと』
新しい行。
『東京へ帰り、大阪へ帰ってきた』
迷い、その下へ書く。
『どちらも、本当だった』
さらに。
『同じ場所へ戻っても、同じ関係には戻らない』
『変わった人同士で、また会う』
ペンを置く。
秋田では、葵と何を言葉にするのだろう。
友人以上。家族ではない。恋愛でもない。戻ってこられる人。人生からいなくなれば困る人。
名前をつければ、安心するかもしれない。同時に、名前へ関係を閉じ込めることにもなる。
それでも葵は、二人で意味を決めたいと言った。真尋も、今は向き合いたいと思っている。
秋田へ行く時、俊介への気持ちを置いていく必要はない。大阪の仕事も。母も。美月も。葵も、それぞれの人間関係を持ってくる。
二人だけだった頃へ戻る旅ではない。今の二人で、始まりの場所へ行く旅。
*
照明を消す。
暗い部屋。窓の外の電車。東京とは違う音。数週間前より、眠りへ入りやすい。
真尋は目を閉じた。
明日は月曜日。山岸。森田。中原。岩瀬。坂口。動き始めた制度。新しい問題。
大阪で名前を呼ぶ人たちが待っている。東京にも、次に会う日を待つ人がいる。
どちらかを失わずに、すべてを同じ量で持つことはできない。だから、その時々で時間を選ぶ。
会えない時には言葉を渡す。帰れない時には、次を決める。戻った時には、以前と同じであることを求めない。
真尋は布団を引き上げた。
今夜、この部屋へ帰ってきた。
そのことを確かめるように、静かな息を吐いた。




