第二十六章 待つ人と、待たせる人
分類表を更新している。
「開始を一か月延ばした分は、取り戻せています」
岩瀬が画面越しに言った。
「はい。ただ、問い合わせ対応が一部の人へ偏っています」
『中原さんと私?』
「はい。森田さんも」
森田が会議東京から大阪へ戻った翌週、水曜日の夜に、真尋と俊介は次に会う日を決める約束をしていた。
遠距離になってから、二人は予定をすぐに確定できない時、
「水曜日に確認する」
「金曜日までに答える」
と、次に話す日だけを決めるようにしている。
会えるかわからない状態より、いつわかるのかが決まっているほうが、不安を小さくできる。
俊介は、その方法を気に入っていた。真尋も、何度も確認されることへ苛立たずに済む。
水曜日の午後八時半。電話で互いの予定表を見ながら、次の週末を相談する。
俊介が大阪へ行くか。真尋が東京へ戻るか。どちらも難しければ、その次の週。
前日の夜、俊介から念を押すメッセージが届いた。
『明日、八時半で大丈夫ですか』
『はい』
『会議は?』
『七時までです』
『遅れる可能性は?』
『その時は連絡します』
『わかりました』
約束はできていた。
*
水曜日の朝、真尋は午前六時半に目を覚ました。
窓の外は雨だった。細かな雨が公園の木を濡らし、道路の色を濃くしている。天気予報では夕方まで続く。
真尋はコーヒーを淹れ、冷蔵庫に残っていたスープを温めた。
食卓の端には、葵の新商品のパッケージ。
『迷う日にも、ひと息。』
限定テストは、予定より良い数字が出ている。葵から昨夜、
『定番化の検討会議に進みました』
と連絡があった。
正式な採用ではない。ただ、次の段階へ進んだ。真尋は週末に電話で祝いを伝えるつもりだった。
今夜は俊介。土曜日の午前は葵。日曜日は母へ連絡。
離れている人たちとの時間を、予定へ入れる。義務にしすぎないように。それでも、後回しにならないように。
真尋は予定表を確認した。
午前九時、運用一か月後の確認会議。午前十一時、福岡との追加面談。午後一時、支社長報告。午後三時、人員配置案の検討。午後五時半、東京本社とのオンライン会議。
最後の会議は七時まで。八時半の電話には間に合う。会社から部屋までは四十分ほど。夕食は帰りに買う。八時には着く。
問題ない。
*
午前の会議は予定通りに進んだ。
売上区分の統一から一か月。入力時間は、三地域全体で一週間あたり合計十八時間減っている。二重入力も大部分が解消された。
一方で、例外商品の問い合わせが予想より多い。福岡では、中原が中心となって質問をまとめている。大阪では、森田と坂口が店舗からの相談を受けている。広島では、岩瀬が室で手を上げる。
「坂口へ渡しています」
「何割ほど?」
「今は三割」
「来月までに五割へできますか」
「できます」
坂口が隣で緊張した顔をする。
「坂口さんは?」
「やります」
「無理なら?」
「言います」
「はい」
以前なら、できますという答えだけを受け取った。今は、できない時の言葉も確認する。
会議は十分早く終わった。
*
午前十一時。福岡との面談。中原は、運用開始後の現場の変化を話した。
『入力は減りました。ただ、例外の判断を私へ聞く人が増えています』
「負担ですか」
『少し』
「誰かへ渡せますか」
『若手の小田さんへ教えています』
「本人は希望しています?」
『はい。ただ、間違えた時に、私が全部直しています。任せたつもりでも、最後に私が』
真尋は東京での自分を思い出す。
「最初の一件だけ、直さず本人へ返せますか」
『取引先に影響が』
「社内分類なので、修正前に確認できます」
『はい』
「中原さんが答えを直すのではなく、質問だけ返す」
『水口さんが東京でしていたことですか』
「最近、始めたことです」
『うまくいきました?』
「失敗もありました。でも、任せるなら必要でした」
中原は考える。
『やってみます』
「困ったら、森田さんの事例共有も参考に。地域を越えて、相談対応の方法を共有したいです」
『また会議が増えます?』
「増やしません。月一回の会議へ十分だけ追加」
『それなら』
中原の声が以前より柔らかくなる。
関係が良くなったから、すべて賛成するわけではない。会議が増えることには、すぐ反対する。
そのことに、真尋はむしろ安心した。
*
午後一時の支社長報告では、数字を中心に説明した。
業務時間の削減。問い合わせ件数。人員配置。問題。次の計画。
「順調ですね」
支社長が言う。
「大きな混乱はありません」
「本社も評価しています。水口さん、次の段階を考えていますか」
「人員配置です」
「それだけではなく」
支社長が一枚の資料を出した。
『西日本営業企画統合室 常設化案』
真尋は表紙を見る。
「常設化?」
「今回のプロジェクトを、期間限定で終わらせず、恒常的な組織へする案です。大阪を本拠地に」
真尋の手が止まる。
「責任者は?」
「まだ決定していません」
「候補は」
「水口さんです」
胸の中に、小さな衝撃が広がる。
大阪勤務は、八か月から一年。その後は東京へ戻る希望を伝えている。まだ赴任して数か月。帰る時期を考える段階ではない。
それでも、常設化の話が出た。
「期間は?」
「少なくとも三年」
「三年」
「その後も、組織が続けば」
「転勤扱いですか」
「はい。長期出張ではなく」
大阪へ生活の拠点を移す。東京の部屋。俊介。葵。母。
すべてとの距離が、一時的なものではなくなる。
*
「今、答えは求めません」
支社長が言う。
「正式提案でもありません。ただ、本社が検討していることは知っておいてください」
「いつ頃、正式に?」
「早ければ三か月後。水口さん自身の希望も、近いうちに聞かれます」
「わかりました」
「東京へ戻りたいと伝えていますね」
「はい」
「今も?」
真尋はすぐに答えられなかった。
東京へ戻りたい。俊介の近くへ。葵や母へ会いやすい場所へ。以前の部署。自分の部屋。
その希望はある。
同時に、大阪で始めた仕事を、途中で手放したくない気持ちも生まれている。
山岸。森田。中原。岩瀬。坂口。花屋の人。商店街。自分の部屋。帰ってきてください、と言われた場所。
「わかりません」
真尋は答えた。支社長が驚く。
「以前は、はっきり戻ると」
「はい」
「変わりました?」
「戻りたい気持ちはあります。大阪で続けたい仕事もあります。まだ、決められません」
「正式な話が来てからで構いません。ただし」
支社長は資料を真尋の前へ置く。
「家族や恋人のためだけに断らないように」
以前、東京の部長から言われた言葉に似ている。
「はい」
「逆に、仕事のためだけに残らないように」
今度は反対の言葉が続く。
「はい」
「水口さん自身が、どのように暮らしたいかを考えてください」
「わかりました」
真尋は資料を受け取った。
*
会議室を出た時、午後二時を過ぎていた。予定より三十分長い。次の人員配置案の会議は三時。
真尋は自席へ戻り、資料を引き出しへ入れた。
誰にも話せない。まだ正式ではない。それでも、胸の中に大きな問いが残る。
三年。大阪。俊介と遠距離を続ける。あるいは俊介が来る。東京へ戻る。仕事を別の人へ渡す。
正解はない。
真尋はスマートフォンを見る。俊介へ話したい。今夜八時半。その時間に。
まずは仕事を終える。
*
午後三時の会議では、人員配置案を検討した。
現在、三地域で似た作業をしている十一人。統一後は、八人で回せる可能性がある。余る三人を、商品企画支援、店舗教育、データ分析へ移す案。
誰をどこへ。数字だけでは決められない。個別面談の内容。本人の希望。現在の能力。新しい役割への適性。
真尋は、山岸と森田、各地域の責任者と一つずつ確認した。
「小田さんは、分類判断を学んでいます」
中原が言う。
「データ分析より、運用側へ残したい」
「本人の希望は?」
『運用と商品企画で迷っています』
「面談を」
『来週できます』
「お願いします」
岩瀬は広島の一人をデータ分析へ推薦した。
『本人は数字が得意です』
「異動へ同意していますか」
『まだ話していません』
「先に話してください」
『案を見せてからでは?』
「自分の名前が入った案を、完成後に見せられるほうが不安です」
『はい』
「変更の可能性がある段階で」
会議は長引いた。五時を過ぎても終わらない。本社との会議は五時半。
「今日は、ここまでにします。次は金曜日」
真尋が言った。森田が時計を見る。
「予定の半分です。今日中に案を出すのでは?」
「本人へ話していない配置は決めません。金曜日までに、希望を確認してください」
会議を終える。
*
午後五時二十五分。真尋は急いで本社とのオンライン会議へ入った。
参加者は東京の部長、本部長、人事。議題は、常設化案。
支社長から聞いたばかりだが、本社はすでに具体的な検討を進めていた。
「水口さん」
本部長が画面越しに言う。
『現場での手応えはどうですか』
「制度は動き始めました」
『常設組織は必要だと思いますか』
「はい」
『理由は?』
「統一後も地域差の調整が必要です。一度作って終わる仕組みではありません」
『責任者を継続する意志は?』
早い。
支社長は正式提案ではないと言った。だが本社は、すでに真尋の意志を聞こうとしている。
「まだ判断できません」
『東京へ戻りたい希望があるから?』
「それもあります」
『私生活ですか』
「仕事と生活の両方です」
以前なら、私生活を理由へ入れることを避けた。今は隠さない。
『恋人が東京にいると聞いています』
人事が言う。真尋の胸が硬くなる。
「はい」
『会社として、家族事情は考慮します』
「恋人です」
『婚姻予定は?』
「決まっていません」
『同居は?』
「していません」
質問が続く。仕事の会議。だが生活へ入ってくる。
「現在の関係を、会社の条件に合わせて決めるつもりはありません」
真尋は言った。画面の人事担当が少し表情を変える。
『もちろんです。ただ、転勤可否の確認として』
「正式提案の際に、必要な範囲で答えます」
本部長が間へ入る。
『今日は、組織の必要性だけ確認しましょう』
「はい」
*
会議は続く。
常設組織の規模。予算。権限。責任者の役職。部長への昇進可能性。
大阪に残れば、さらに上へ進める。東京へ戻れば、元の部署とは限らない。新しい役割を用意するが、責任範囲は大阪ほど大きくない可能性。
選択へ、評価と昇進が結びつく。
真尋は資料を読みながら、俊介の顔を思い浮かべた。話さなければならない。今夜。
会議が予定の七時を過ぎた。七時十分。七時二十分。議論が終わらない。
真尋は時計を見る。会社から部屋まで四十分。八時半の電話。まだ間に合う。七時三十分に終われば、駅まで急ぐ。夕食は後。
七時四十分。本部長が次の資料を開く。
『責任者の権限について、もう一点』
真尋はスマートフォンを手元へ置いた。俊介へ連絡する。
『会議が延びています。八時半に遅れる可能性があります』
送信。すぐに既読がつく。
『何時頃になりますか』
『まだわかりません』
『十時までなら待てます』
『終わったら連絡します』
『はい』
連絡した。約束を忘れたわけではない。俊介も待つと言った。
真尋は会議へ戻った。
*
午後八時。ようやく会議が終わりかけた時、本部長が言った。
『水口さん、この後少し残れますか』
「はい」
反射的に答えた。
画面からほかの参加者が退出する。本部長と部長、真尋だけになる。
『正式な提案前ですが、水口さんを常設組織の部長候補として考えています』
部長。部長代理から、さらに上。
『今回の延期判断を含め、現場との関係を修正できたことを評価しています』
「ありがとうございます」
『最初から失敗しないことより、組織を立て直せることが重要です。三年大阪に残ることは、難しいですか』
真尋は答えられない。
「難しい部分があります」
『恋人?』
「それだけではありません」
『お母様の介護は?』
「現在は必要ありません」
『では』
「私は、東京にも生活があります。大阪にもできました。どちらで暮らしたいか、今は決められません」
部長が言う。
『以前の水口さんなら、受けましたね』
「はい」
『迷うようになった。悪い意味ではありません』
「はい」
『いつまでに考えられますか』
「正式条件をいただいてから、一か月」
『長い』
「生活を決める話です」
『二週間では?』
「三週間」
本部長が笑う。
『交渉しますね。正式提案は、早ければ来月です』
「わかりました」
話が終わったのは、午後八時二十三分だった。
*
真尋は急いでパソコンを閉じた。スマートフォンを見る。
俊介から、午後八時十五分。
『まだ会議ですか』
真尋は返信する。
『今、終わりました。帰宅は九時過ぎです』
すぐに既読。
『九時半から話せますか』
『はい』
席を立つ。山岸はすでに帰っている。森田も。フロアには数人だけ。
真尋はエレベーターへ向かった。
雨はまだ降っている。駅まで走る。傘を差しながらでは速く進めない。靴が濡れる。
電車へ乗る。時刻は八時四十五分。部屋へ着くのは九時二十五分頃。俊介との電話は、帰宅してから。
空腹。朝から続く仕事。常設化。部長。三年。頭の中に言葉が並ぶ。
*
電車が途中の駅で止まった。車内放送。
『前方の電車で急病人救護を行っているため、しばらく停車します』
真尋は時計を見る。午後九時。動かない。
俊介へ送る。
『電車が止まりました。帰宅が遅れます』
『どのくらい?』
『わかりません』
『電話だけなら、電車でもできますか』
真尋は周囲を見る。混雑している。
『難しいです』
『はい』
『帰ったら連絡します』
『待っています』
真尋はスマートフォンを伏せた。
待っています。
俊介は今日、八時半から予定を空けている。十時まで待てると言った。今は九時。電車がすぐ動けば、九時半過ぎ。間に合う。
*
電車が動き始めたのは、九時二十分だった。最寄り駅へ着いたのは九時四十八分。
真尋は商店街を急いで歩く。店はほとんど閉まっている。コンビニで夕食を買う時間も惜しい。
部屋へ着いたのは午後十時二分。鍵を開ける。
「ただいま」
靴を脱ぐ。濡れたコートを掛ける。バッグを置く。スマートフォンを見る。
俊介から九時五十五分。
『十時を過ぎそうですか』
真尋はすぐに電話をかける。呼び出し音。俊介が出る。
『もしもし』
「遅くなりました」
『はい』
「今、帰りました」
『お疲れさまでした』
俊介の声は静かだが、硬い。
「すみません。会議と電車が」
『聞きました』
「はい」
『食事は?』
「まだです」
『先に食べますか』
真尋は空腹だった。疲れている。常設化の話を、今すぐしたい。同時に、頭が回らない。
「少しだけ食べます」
『僕は、あとどのくらい待てばいいですか』
俊介の問いに、真尋は止まる。
「十五分ほど」
『はい』
「一度切りますか」
『待っています』
「電話をつないだまま?」
『真尋が嫌でなければ』
「でも、食べる音が」
『構いません』
俊介の声に、寂しさと苛立ちが混じっている。
真尋は冷蔵庫を開ける。作り置きのスープ。冷凍ご飯。電子レンジへ入れる。電話をテーブルへ置く。
互いに話さない。電子レンジの音。皿を出す音。俊介の呼吸。
*
「俊介。怒っていますか」
『はい』
はっきりした答え。
「何に?」
『今、聞きますか』
「はい」
『食事をしてから話すのでは?』
「気になります」
『では、先に話します』
俊介の声が強くなる。
『僕は、八時半から待っていました。会議が延びたことは、仕事なのでわかります。電車が止まったことも』
「はい」
『でも、会議が終わった時、すぐ電話できませんでしたか』
「会社でした」
『一分でも』
「話す内容が大きかったので、落ち着いてから」
『僕は、内容を知りません。九時半に話すと言われ、待った。九時になって、電車が止まった。十時まで待った。帰ったら、先に食事』
「食べていなかったので」
『わかっています』
「では」
『わかっていても、僕はずっと後にされていると感じました』
真尋の胸に反発が生まれる。
「仕事と電車です。私が遊んでいたわけではありません。連絡もしました。何が問題ですか」
俊介が黙る。
真尋の声が強くなったことへ、自分で気づく。だが疲れている。約束を忘れたわけではない。状況が重なった。
『真尋。僕は、事情を理解していると言っています。でも、寂しかったことを話しています。正しいかどうかではなく』
真尋は口を閉じる。
大阪の会議で、自分がしたことに似ている。相手の不安へ、理由を返す。事情がある。必要だった。間違っていない。
俊介は、責めたいだけではない。待っていた気持ちを聞いてほしい。
「すみません」
真尋が言う。
『何に?』
「事情を説明すれば、俊介の寂しさがなくなるように話しました」
『はい』
「なくなりませんね」
『はい』
「待たせました。八時半から。何度も、もうすぐ話せると思わせました。すみません」
俊介の呼吸が落ち着く。
*
『僕も、待つと言いました。十時まで。でも、本当は九時を過ぎた時に、今日はやめたいと言えばよかった』
「なぜ言わなかったんですか」
『真尋と予定を決めたかった。大きな話があるようにも感じました。それから、待てる人でいたかった』
俊介の言葉に、真尋は黙る。
「待てる人?」
『仕事を理解する恋人。忙しい真尋を困らせない人。会えなくても責めない人。でも、待ちながら怒っていました』
俊介も、自分の選択を認めている。
「途中で、今日はやめると言ってよかったです。私も、会議が終わった時に、今日は難しいと決められました。何度も先へ延ばしました。なぜでしょう」
真尋は自分へ尋ねる。
約束を守りたかった。俊介を待たせても、最後に話せれば守ったことになると思った。約束を変更することを、失敗のように感じた。
「私は、話せないと決めるのが遅かったです。約束を破りたくなくて。でも、結果として長く待たせました。九時の時点で、別の日へ変えるべきでした」
『僕も、その時に言うべきでした』
「はい」
*
電子レンジが鳴る。真尋は温めた食事を出す。
「今、食べてもいいですか」
『はい』
「俊介は、食事をしました?」
『八時前に』
「何を?」
『簡単にパスタを』
食べながら話す。先ほどまでの硬さが少しだけ減る。
「今日、会う予定を決めるだけではありませんでした」
真尋が言う。
『何かありましたか』
「仕事の話があります。常設組織の責任者として、大阪に残る可能性を伝えられました」
電話の向こうが静かになる。
「最低三年」
『三年?』
「はい」
『転勤?』
「正式に決まれば」
『真尋は?』
「まだ、わかりません」
俊介は何も言わない。
「部長候補です。大阪へ残れば、仕事は続けたい内容です。東京へ戻りたい気持ちもあります。今日、話したかったです」
『だから、会議が長く?』
「はい」
『今、初めて聞きました』
「正式ではありません。来月、提案される可能性があります」
『はい』
俊介の声が遠く感じる。
「俊介。何か言ってください」
『今は、すぐに言えません』
「はい」
『大阪へ三年。今の遠距離を、三年?』
「その可能性があります」
『僕が大阪へ行く可能性も?』
「俊介の仕事があります。簡単には」
『わかっています』
「一緒に考えたいです。でも、私の仕事です。最後は自分で決めます」
言った瞬間、俊介の呼吸が変わる。
*
『もう、残りたいんですか』
「そうは言っていません」
『でも、自分で決めると』
「当然です」
『僕の意見は?』
「聞きます」
『聞くだけ?』
俊介の声に傷ついた響きがある。
「俊介」
『僕たちの生活にも関係するでしょう。三年離れるかもしれない。同居の話もした。結婚の可能性も。それでも、真尋一人の決定ですか』
真尋は言葉を探す。
仕事を選ぶのは自分。だが、関係へ影響する。俊介の生活も変える。
「私の人生なので、最後は私が決めます。でも、俊介の希望を軽く扱うつもりはありません」
『今の言い方では、決めた後に説明されるように聞こえます』
「そんなことは」
『大阪へ行く時も、最後は真尋が決めました。僕は、行ってほしくないと言った。それでも行った』
「後悔していますか」
『していません』
「では」
『でも、今回も同じように、僕が何を言っても真尋は仕事を選ぶのではないかと思いました』
真尋の胸に怒りが生まれる。
「私は、仕事しか選ばない人に見えますか」
『今は、少し』
「俊介も、私へ仕事を断ってほしくないと言いました」
『一年前後だと思っていました』
「状況が変わりました。私が望んで変えたわけではありません」
『でも、残ることへ魅力を感じています』
「はい」
『東京へ戻るより?』
「比べている途中です」
『僕と仕事を?』
「違います」
『同じに聞こえます』
*
真尋は箸を置いた。
疲れ。空腹。長い待ち時間。大きな話。すべてが重なっている。
「今日は、この話をしないほうがいいと思います」
『逃げますか』
俊介の言葉が鋭く刺さる。
「逃げる?」
『自分の仕事の話になると、僕を感情的だと言って終わらせる』
「言っていません」
『今、話さないほうがいいと』
「互いに疲れています」
『僕は、八時半から待ちました』
「また、その話ですか」
口にした瞬間、真尋は後悔した。俊介が黙る。
「すみません」
『はい』
「今の言い方は」
『もう、今日は終わりにします』
「俊介」
『僕も感情的です。このまま話せば、真尋の仕事を否定すると思います。それはしたくありません。でも、応援するとも今は言えません』
「わかりました」
『次に話す日を決めましょう』
俊介が言う。今夜の最初の目的。会う日ではなく、話す日を決める。
「金曜日の夜」
『何時?』
「八時半」
『仕事で変わる可能性は?』
真尋の胸が痛む。
「あります」
『では、確実な時間は?』
「土曜日の午前十時」
『はい』
「ビデオ通話で。会う予定は、その時に」
『わかりました』
「俊介。今日は、すみませんでした」
『僕も』
「おやすみなさい」
『おやすみなさい』
好きです、とはどちらも言わなかった。
*
電話が切れる。部屋が静かになる。食事は半分残っている。
真尋は食べる気を失った。冷蔵庫へ入れる。皿を洗う。手が震える。
俊介と初めて、大きくぶつかった。
これまでも嫉妬や寂しさを話した。だが、最後には互いの気持ちを確かめられた。今日は違う。
仕事と生活。大阪と東京。真尋が決めること。二人で決めること。境界がわからない。
真尋はソファへ座った。俊介の言葉が戻る。
『僕が何を言っても、真尋は仕事を選ぶのでは』
そのように思わせた。
実際、自分は大阪の仕事に魅力を感じている。部長。常設組織。大きな責任。ここまで作った関係。
残りたい気持ちがないとは言えない。同時に、俊介と近くで暮らしたい。東京へ戻りたい。
どちらもある。選択が必要になれば、何かを失う。
*
スマートフォンが震えた。葵から。
『明日の夜、話せる? 商品が定番化の最終審査へ進みました』
真尋は画面を見る。
祝いたい。今すぐ電話したい。俊介との喧嘩を聞いてほしい気持ちもある。
だが今夜、感情のまま葵へ話せば、俊介への不満を強めてもらうために使ってしまうかもしれない。
『おめでとうございます。明日の夜、九時なら』
『仕事は?』
『八時までです』
『遅れたら?』
真尋は苦しくなる。俊介とのやり取りを知らない葵も、同じことを尋ねた。
『遅れる時は、八時の時点で別の日へ変更します』
『わかった』
『明日、話しましょう』
『はい』
予定を延ばし続けない。話せないなら、早く決める。
*
真尋は風呂へ入った。湯船の中で、今日の会話を一つずつ思い返す。
俊介は、待った。待てる人でいようとした。その間に怒りを溜めた。
真尋は、約束を守ろうとした。話せる時刻を何度も先へ延ばした。結果として、互いに疲れた状態で大きな話をした。
予定変更の失敗。それだけではない。
もっと深いところに、真尋は一人で決める、俊介は待たされる、という形ができかけている。
俊介が選んで待つ。真尋が選んで進む。
それが続けば、俊介は自分の生活を持ちながら待つのではなく、真尋の決定を受け取るだけの人になる。
大阪へ行く時、俊介は言った。
『僕を待つだけの部屋にしないでください』
真尋も言った。
『私を待つだけの生活にしないで』
だが仕事の選択では、俊介を待つ側へ置いていたのかもしれない。
*
翌朝、真尋はいつもより遅く目を覚ました。午前七時十分。眠りが浅かった。
スマートフォンを見る。俊介から連絡はない。真尋も送らない。
土曜日に話すと決めた。それまで、考える時間。ただし、沈黙を罰にしない。
朝の短い挨拶を送るか迷う。
『おはようございます。今日は仕事へ行きます』
固い。消す。
『おはようございます。昨日は眠れましたか』
返事を求める。消す。
何も送らないことも、距離を広げるように感じる。
真尋は短く送った。
『おはようございます。土曜日に話せるよう、私も考えます』
十分後。
『おはようございます。僕も考えます』
それだけ。好きという言葉はない。だが、関係を終わらせる沈黙ではない。
*
会社へ着くと、山岸が真尋の顔を見る。
「眠れていませんね」
「少し」
「仕事?」
「生活です」
山岸はそれ以上聞かない。
「今日の予定、午後の会議が一つ増えました」
「何ですか」
「本社人事。常設化の件」
真尋は眉を寄せる。
「昨日、話したばかりです」
「条件整理だそうです」
「何時?」
「午後六時半」
葵との電話は九時。会議が長引く可能性。昨日と同じことを繰り返さない。
「一時間で終わりますか」
「人事からは、四十五分」
「七時半を過ぎる場合は、途中で抜けます」
「本当に?」
「はい」
「部長候補の話でも?」
「予定があります」
山岸は吹き出した。
「東京の恋人?」
「今日は友人です。大切な話があります」
「会議で先に伝えます?」
「開始時に」
真尋は人事へ返信した。
『午後六時半から参加します。午後七時半に別の予定があるため、延長の場合は後日調整をお願いします』
送信。
以前なら、部長候補の話へ私的な予定を優先できなかった。葵との電話だから、ではない。昨日の失敗を繰り返さないため。
*
午前中、真尋は人員配置候補者との面談を行った。
大阪の若手社員、藤本。現在は報告書作成が中心。新しい案では、店舗教育へ移る候補。
「店舗へ行く仕事、どう思いますか」
「苦手です」
藤本はすぐに答えた。配置案を作る側は、話すのが得意だと評価していた。
「周囲からは、人へ説明するのが上手いと」
「社内なら」
「店舗では?」
「知らない人へ話すのが苦手です。出張も増えますよね」
「はい」
「家族の事情で、宿泊は月一回までにしたいです」
「理由を聞いても?」
「父の介護を、母と分けています」
資料にはなかった。
「現在の上司へ話していますか」
「一部だけ」
「配置を考える上で、共有してもいいですか」
「宿泊制限だけなら。介護の詳細は、言わないでください」
「わかりました」
仕事上の適性だけでは決められない。生活がある。本人が共有したい範囲も。
「店舗教育以外で、やりたい仕事は?」
「商品企画支援」
「理由は?」
「店舗から集めた声を、商品へ反映したいです」
「出張は?」
「日帰りなら」
「今の案を、見直します」
真尋は言った。藤本は驚く。
「もう決まっていたのでは?」
「案です」
「私が断ったら、評価が下がりますか」
「断ったことでは下げません。希望した役割で結果を出せるかは、今後評価します」
「はい」
「生活の制約を言わず、続けられない仕事を引き受けるほうが問題です」
自分にも向けた言葉だった。
仕事を選ぶ時、生活の希望を隠さない。俊介との関係を、会社へすべて説明する必要はない。だが生活を無視し、後で相手へ不満を向けることは避けたい。
*
昼休み、真尋は一人で外へ出た。雨は上がっている。
花屋の前を通る。店員の女性が、鉢植えを並べていた。
「今日は買わない?」
声をかけられる。
「見るだけです」
「顔、暗いね」
「わかります?」
「最近、少し話すようになったから」
真尋は足を止める。
「お名前を、まだ聞いていませんでした」
店員が笑う。
「今頃?」
「はい」
「津田です」
「水口です」
「水口さん」
大阪で、花屋の人に初めて名前を呼ばれる。
「仕事?」
津田が尋ねる。
「仕事と、生活です」
「両方なら大変ね。どちらを選ぶか?」
真尋は驚く。
「なぜ?」
「そういう顔」
「はい」
「選ばないといけないの?」
「可能性があります」
「今すぐ?」
「まだ」
「なら、今日は昼ご飯食べたら。花より食事」
「買わせないんですね」
「弱ってる時に花を買うと、世話を増やすでしょう」
津田はあっさり言った。
「元気な時に買って」
「はい」
「水口さん。名前聞いたから、次は覚える」
「私も」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
昼休み。仕事へ戻るだけ。それでも、生活の中で名前を呼ばれた。
*
午後六時半。人事との会議が始まる。真尋は最初に言った。
「午後七時半まででお願いします」
人事担当が驚く。
『その後、別の会議ですか』
「私的な予定です」
『変更は難しいですか』
「はい」
言い切る。
『わかりました』
条件説明。大阪常設組織の部長。基本給。住宅補助。転居費用。
東京の住居を維持する場合の補助は、長期出張終了とともになくなる。つまり、大阪へ正式転勤すれば、東京の部屋の家賃は全額自己負担。両方の部屋を残すことは、経済的に難しくなる。
『大阪へ生活拠点を移すことが前提です』
「はい」
『ご家族と同居される場合は、家族向け住居も』
「家族はいません」
『結婚予定があれば』
「今はありません」
『恋人の転居可能性は?』
「本人へ聞いていません」
『一緒に検討されますか』
真尋は考える。
「正式提案を受ければ、話します。ただし、会社から転居を期待されているとは伝えないでください」
『こちらから連絡はしません』
「はい」
『東京へ戻る場合の役職は、現在未定です』
「部長代理のままですか」
『可能性が高いですが、ポストによります』
「大阪へ残れば、部長」
『はい』
選択の差が明確になる。仕事だけを見れば、大阪。生活だけを見ても、簡単ではない。大阪の生活も大切になっている。
「返答期限は?」
『正式提案後、二週間』
「三週間を希望しています」
『本部長から聞いています』
「はい」
『検討します』
午後七時二十二分。人事担当が次の資料を開こうとする。
「すみません。残りは、後日お願いします」
真尋が止める。
『あと十分ほど』
「今日は七時半までとお伝えしました」
『重要な条件です』
「重要なので、急いで聞きたくありません」
画面の相手が黙る。
『わかりました。明日、三十分』
「午後四時なら」
『設定します』
七時二十八分。会議を終了した。
*
真尋は葵へ連絡する。
『予定通り、九時に話せます』
『会議終わった?』
『途中で、続きは明日にしました』
『大丈夫?』
『はい』
『真尋が?』
『はい』
『珍しい』
『必要でした』
会社を出る。部屋へ着く。夕食を用意する。
午後九時ちょうど、葵から電話がかかってきた。
『もしもし』
「おめでとうございます」
『まだ最終審査』
「進んだことに」
『ありがとう』
葵の声は明るい。
定番化の最終審査。テスト店舗での売上。再購入率。アンケート。製造コスト。季節商品ではなく、通年商品へできるか。課題もある。
「どこが一番難しいですか」
『言葉を変えるか』
「なぜ?」
『通年だと、迷う日だけの商品に見える。もっと広い言葉にする案が出てる』
「たとえば?」
『立ち止まる午後に、ひと息』
「はい」
『でも、それだと私の言葉じゃない気がする』
「仕事としては?」
『広く売れるかもしれない』
「葵は、どちらを残したいですか」
『迷う日にも、ひと息。でも、自分の経験へこだわってるだけかもしれない』
「アンケートは?」
『今の言葉が良いという人が多い。ただ、買わなかった人の意見は取れてない』
「では、広い言葉との比較を、追加テストしては?」
『時間がかかる。定番化が遅れる』
真尋は昨日の自分を思い出す。
「遅れることが、悪いとは限りません」
『真尋の仕事みたいに?』
「はい」
『でも、会社が待ってくれるか』
「期限の理由を聞いてください。製造計画なのか、予算なのか。変えられない期限と、変えられる期限を」
『仕事の人』
「はい」
二人の間に短い笑いが起きた。
*
「真尋は、何かあった?」
葵が尋ねる。
「俊介と喧嘩をしました」
『本当に?』
「はい」
『何で?』
真尋は昨日のことを話した。
約束。会議。電車。待たせたこと。大阪へ残る可能性。三年。部長。俊介の言葉。
葵は途中で口を挟まず聞いた。
『真尋は、大阪に残りたい?』
「わかりません」
『俊介さんは、東京にいてほしい?』
「たぶん」
『聞いてない?』
「土曜日に話します」
『私も、東京に戻ってほしい。言っていい?』
「もちろんです」
『大阪に三年は嫌。秋田へ行くのも、もっと難しくなる』
「日程は作れます」
『会いたい時に会えない。真尋の東京の部屋も、なくなるかもしれない?』
「会社の補助はなくなります」
『手放す?』
「経済的には考えなければ」
葵の声が変わる。
『嫌』
「はい」
『あの部屋、なくなるの?』
「まだ決まっていません」
『私の歯ブラシも。写真も』
「大阪へ持っていけます」
『違う』
葵の声が強くなる。
『あの部屋だから。私が最初に泊まった。真尋とご飯食べた。俊介さんと会った。なくしてほしくない』
真尋の胸が苦しくなる。
「そのためだけに、仕事は決められません」
『わかってる』
「はい」
『でも、嫌って言いたい』
「言ってください」
『東京へ戻って。私のためだけじゃなく。真尋も戻りたいでしょう』
「戻りたいです」
『なら』
「大阪に残りたい気持ちもあります」
『仕事がそんなに大事?』
「はい」
『私たちより?』
真尋は息を止める。俊介との会話と同じ場所へ向かっている。
「比べません」
『でも、選ぶ時が来る。どちらかでしょう』
「仕事と人を、同じ秤には置けません」
『結果は離れるか戻るか』
「はい」
葵が黙る。
*
「葵。嫌だと言ってくれて、ありがとうございます」
『怒らない?』
「怒りません」
『俊介さんには怒った?』
「少し」
『どうして私には?』
真尋は考える。
「葵は、私へ決めさせないと言っていないから」
『俊介さんは?』
「僕たちのことだから二人で決めたい、と」
『それは普通じゃない? 恋人だから。真尋一人の仕事でも、二人の生活へ関係する。私より、俊介さんの意見を聞く必要がある』
「はい」
葵は、自分の立場を理解している。寂しさはあっても。
『真尋。俊介さんへ、最後は自分で決めるって言った?』
「はい」
『それだけだと、怖いかも』
「なぜ?」
『自分は、真尋の人生に意見を言えない人みたい』
真尋は黙る。
『決めるのは真尋。でも、決める前に、俊介さんがどう暮らしたいか聞くんでしょう』
「はい」
『それを言った?』
「軽く扱わないと」
『もっと具体的に。俊介さんが大阪へ来たいか。遠距離を続けられるか。一緒に暮らしたいか。真尋が残ったら、二人はどうするか。そこまで一緒に考えて、最後に真尋が仕事を選ぶ。なら、一人で決めるのとは少し違う』
葵の言葉が、真尋の中へ入る。
「そうですね」
『私の意見は、東京へ戻って。でも、真尋が大阪を選んでも、関係を終わらせない。たぶん泣く。怒る。それでも秋田へ行く。俊介さんも、そういう話がしたいんじゃない?』
「はい」
*
「葵。ありがとうございます」
『私、俊介さんの味方した?』
「はい」
『少し嫌』
二人は笑った。
『でも、俊介さんがいなくなったら、真尋が悲しむ。私も困る』
「なぜ?」
『卵焼きの判定』
「それだけ?」
『三人の関係も、少し好きになった。取られると思ってたけど、俊介さんがいる真尋も、今は真尋。だから、仲直りして』
「仲直りが目的ではありません」
『また仕事の人』
「話し直します」
『はい』
*
電話を終えた後、真尋はノートを開いた。
土曜日に俊介と話すこと。
一、待つことを、我慢にしない。
二、約束変更の基準。
三、大阪へ残る場合の生活。
四、東京へ戻る場合の生活。
五、俊介自身が、どのように暮らしたいか。
六、真尋が、どのように暮らしたいか。
仕事を受けるか断るかだけではない。どのような関係を続けたいか。
*
金曜日、俊介から一通だけメッセージが届いた。
『明日、十時で大丈夫です』
真尋は、
『はい』
と返した。それ以上は話さない。避けているのではない。考える時間を守る。
夜、真尋は母へ電話をかけた。大阪残留の可能性を伝える。
『三年?』
「はい」
『真尋は?』
「迷っています」
『俊介さんは?』
「喧嘩しました」
『何て?』
すべては話さず、仕事と生活の決定をめぐってすれ違ったと伝える。
『真尋。自分で決めるのは当然。でも、一人で決める必要はない』
「はい」
『お父さんも、それを間違えた。家族の生活へ関わることを、自分の仕事だからと一人で決めた』
「はい」
『俊介さんは、まだ家族ではない。でも、将来を話している人でしょう。なら、決定権を渡す必要はないけど、決める過程へ入れる』
「はい」
葵と同じこと。
「お母さんは、私に東京へ戻ってほしいですか」
『ほしい。近くにいてほしい。でも、私のために戻ったと言われたくない。私も自分で暮らす。大阪へ残るなら、会いに行く。ただ、三年は長いから、文句は言う』
「はい。ありがとうございます」
*
土曜日の午前十時。真尋は大阪の部屋のテーブルへパソコンを置いた。
ビデオ通話。俊介の顔が映る。東京の部屋。背後に本棚。俊介も、少し疲れた顔をしている。
「おはようございます」
『おはようございます』
「眠れました?」
『昨日は』
「はい」
『真尋は?』
「はい」
二人の間に、少し硬い空気。
「最初に、待たせたことを話してもいいですか」
『はい』
「私は、約束を守ろうとして、変更する判断を遅らせました。会議が終われば。帰宅すれば。食事をすれば、と。結果として、俊介を何度も待たせました」
『はい』
「次から、予定時刻を三十分過ぎるとわかった時点で、別の日へ変更します」
『三十分? 僕が待てると言っても?』
「その時に、今日話す必要があるかを確認します。大切な話なら、短い電話で別の時間を決める。予定確認だけなら、変更」
『はい』
「俊介も、待つと決めた後に苦しくなれば、途中でやめると言ってください。理解のある恋人でいようとして、我慢しないで」
俊介の表情が動く。
『待てないと言ったら、真尋を困らせると思いました』
「困ることはあります。でも、言わずに怒りを溜められるほうが困ります」
『はい』
「私も、変更すると嫌われると思わないようにします」
『嫌いにはなりません』
「寂しくは?」
『なります。でも、いつまで待てばいいかわからないよりいいです』
「はい」
*
「次に、大阪の話を」
真尋が言う。俊介の顔が硬くなる。
「私は、最後は自分で決めると言いました。その言葉で、俊介を決める過程から外しました」
『はい』
「仕事を受けるかは、私が決めます。でも、その選択で二人の生活がどう変わるかは、一緒に考えたいです。俊介が、どのように暮らしたいかを聞きたい。その上で、私も希望を話します」
『はい』
「それでも意見が一致しない可能性があります。その時、どちらかが我慢して合わせるのではなく、関係を続ける方法があるか考えたいです」
俊介は黙る。
『僕は、東京に戻ってほしいです。一緒に暮らしたい。毎日ではなくても、同じ街にいてほしい。大阪へ三年は長いです。今でも、会えない時間が苦しい。三年続けられる自信はありません』
真尋の胸が痛む。
「はい」
『でも、大阪の仕事を断ってほしいと言い切ることもできません』
「なぜ?」
『真尋が、やりたいから。部長になることだけではなく、今の人たちと続けたいのでしょう。それを辞めさせて、僕のところへ戻したら、いつか、真尋が僕を責めるかもしれない』
「可能性はあります」
『僕も、戻ってきてくれたことを理由に、何かを求めるかもしれない。だから、簡単に戻ってとは言えません』
「でも、希望は?」
『戻ってほしいです』
「はい」
俊介は、矛盾をそのまま話す。
「俊介自身の仕事は?」
『今の仕事を続けたいです。大阪へ転職することは、今は考えていません』
真尋は安心し、少し寂しくなる。
「私のために来ない?」
『はい』
「それでいいです」
『でも、将来も絶対ではありません。僕の会社にも大阪の案件があります』
「異動?」
『すぐにはありません。真尋が残ると決めたから、僕が追いかけるとは約束しません。僕も自分で決めます』
「わかりました」
*
「私の希望を話します」
真尋は言った。
「東京へ戻りたいです」
俊介の表情が緩む。
「俊介と近くで暮らしたい。葵や母へ会いやすい場所にいたい。東京の部屋も残したい」
『はい』
「同時に、大阪の仕事を続けたいです」
俊介の表情に、また緊張が戻る。
「常設組織を作るなら、今の人たちと最後まで形にしたい。山岸さんへ任せた仕事も。森田さんたちとの関係も。大阪の部屋と街も好きになりました。どちらか一つへ、まだ決められません」
『はい』
「もし、東京へ戻りながら責任者を続ける方法があるなら」
『毎週大阪へ?』
「週の半分ずつ。あるいは月の半分」
『体が持ちません』
「はい。現実的ではないかもしれません」
『会社へ相談しました?』
「まだ」
『なぜ?』
「常設責任者は大阪が前提と聞いたので」
『条件を相談してから決めてもいいのでは?』
真尋は驚く。
「会社へ? 大阪か東京か、二つだけではなく」
『真尋が、現地へ権限を渡してきたなら、毎日責任者が大阪にいる必要があるか、聞けませんか。最初の一年は大阪。次の年から東京と大阪を行き来するなど』
「会社が認めるか」
『聞かなければわかりません』
俊介が、真尋の仕事を止めるのではなく、方法を一緒に考えている。
「俊介。ありがとうございます」
『まだ解決していません』
*
『僕は、できれば東京へ戻ってほしいです。でも、真尋が大阪の仕事を続ける方法も、一緒に探します。それで、真尋が大阪へ残ると決めたら』
俊介は息を吸う。
『その時、僕が遠距離を続けられるかは、改めて考えます』
真尋の胸が冷たくなる。
「別れる可能性?」
『あります』
俊介は逃げずに言った。
『今、絶対に続けると約束すると、嘘になるから。三年の遠距離が僕にできるかわかりません。でも、すぐに別れると決めているわけでもありません。一緒に方法を探した後で』
「はい。怖いです」
真尋は言った。
『僕も』
「仕事を選べば、俊介を失うかもしれない。俊介を選べば、仕事を手放したと感じるかもしれない。どちらも嫌です。選べません」
『今は、選ばなくていいです』
「正式提案が来れば期限があります」
『その前に、会社へ条件を聞く』
「はい」
『僕も、自分の会社で大阪勤務の可能性を調べます』
「私のために異動しないで」
『調べるだけです。選択肢を知るため』
「はい」
決定を急がない。だが、何もしないで待つのでもない。
情報を集める。互いの希望を聞く。その上で選ぶ。
*
「会う予定も決めますか」
俊介が尋ねる。
「はい」
『来週末は、僕が大阪へ行けます』
「仕事は?」
『金曜日に現場が終わります』
「土曜日の午前?」
『十一時頃』
「はい」
『泊まっても?』
真尋は自分の気持ちを確かめる。
「泊まってください。ただ、仕事の話だけにしないで。商店街を歩きたいです。津田さんへ紹介します」
『花屋の方? 名前を聞いたんですね』
「はい」
『少し嫉妬します』
「女性です」
『真尋の大阪の生活を知っている人なので』
「はい。会ってください」
『はい』
*
二人の表情が少しずつ柔らかくなる。
完全に解決したわけではない。大阪へ残るか。東京へ戻るか。別れる可能性。一緒に暮らす可能性。すべてが残っている。
それでも、喧嘩の前より、互いが何を怖がっているかわかる。
「俊介。昨日、好きと言わずに切りました」
『はい』
「悲しかったです」
『僕も』
「今、言ってもいいですか」
『はい』
「好きです」
俊介の目が潤む。
『僕も好きです』
「でも、好きだけでは決められません」
『はい』
「それでも、好きなまま考えたいです」
『はい』
*
通話を終えた後、真尋は窓を開けた。午前十一時半。公園から子どもの声が聞こえる。
土曜日。仕事のない朝。大阪の部屋。東京にいる俊介。
距離は変わらない。問題も。
それでも、待つ人と待たせる人という固定された形から、離れられた。
俊介も自分の希望を言う。真尋も。互いに選択肢を調べる。どちらか一人の決定へ、もう一人が従うのではない。
最後の選択は、それぞれにある。関係を続けるかも。仕事を選ぶかも。
その自由が怖い。だが、自由を奪って続ける関係にはしたくない。
*
昼過ぎ、真尋は葵へメッセージを送った。
『俊介と話しました』
『仲直りした?』
真尋は考える。
『話し直しました』
『同じじゃない?』
『問題は残っています』
『大阪?』
『はい』
『別れる?』
『可能性はあります』
すぐに電話がかかってきた。
「もしもし」
『可能性って何?』
「三年の遠距離を続けられるかわからないと」
『俊介さんが?』
「はい」
『真尋は?』
「私もわかりません」
『別れたくないでしょう』
「はい」
『なら東京へ』
「葵」
『ごめん』
「はい」
『怖くなった。俊介さんがいなくなったら。真尋、大丈夫?』
「大丈夫ではないと思います」
『だったら』
「でも、失うのが怖いから仕事を断ると、後で苦しくなる可能性があります。俊介も、それをわかっています。二人で方法を探します」
『何を?』
「東京と大阪を行き来する働き方。俊介の大阪勤務の可能性」
『一緒に住む?』
「まだ。選択肢を増やします」
『うん。真尋。私、東京へ戻ってほしいって思ってる。でも、そればかり言うと、真尋が大阪を好きになったことを否定するね。少しずつ、理解する』
「ありがとうございます」
『でも寂しいは言う。俊介さんにも、会った時に言う』
「何を?」
『真尋と別れないで』
「言わないでください」
『冗談』
「本当に?」
『半分』
二人は同時に吹き出した。
*
月曜日、真尋は支社長へ相談した。
「常設組織の勤務拠点について、確認したいです。完全な転勤以外の形は?」
支社長が眉を上げる。
「たとえば?」
「最初の一年は大阪。その後、週の半分を東京」
「責任者が?」
「現地の運営責任者を別に置きます。私は、三地域全体と本社調整。大阪の日常運営は現地責任者」
「二重になります。候補は?」
「山岸さんは事務局。森田さんは現場調整」
「どちらも部門責任者の経験はない」
「育成します」
「水口さんが東京へ戻るために?」
真尋はすぐに否定しない。
「それもあります」
支社長が驚く。
「正直ですね」
「生活を無視して引き受けたくありません。同時に、仕事も続けたいです」
「本社が認めると思いますか」
「わかりません」
「部長は、常駐を求めるでしょう」
「理由を聞きます」
「責任者がいる安心」
「責任者がいなければ回らない組織を作るべきではありません」
支社長は笑った。
「水口さんらしい。ただ、立ち上げ後すぐに離れると、現場は見捨てられたと感じる」
「はい。だから最初の一年は大阪を提案します」
「恋人は待てますか」
「それも話します」
「一年なら?」
「わかりません」
「関係は難しいですね」
「仕事も」
支社長は考える。
「案を作ってください。本社へ出す前に、私が見ます。現地責任者候補本人の希望も。水口さんの都合だけで役割を作らないように」
「わかっています」
*
真尋は山岸と森田へ、個別に話した。
常設化案。自分が責任者候補であること。将来的に東京との二拠点勤務を考えていること。
「水口さん、東京へ帰るんですか」
山岸が最初に尋ねた。
「完全には決めていません」
「大阪へ残りたい?」
「仕事は」
「生活は?」
「両方あります」
「恋人?」
「はい」
山岸は黙る。
「正直、残ってほしいです。水口さんが来て、やっと話を聞く仕組みができた。でも、恋人へ待てとも言えません」
「はい」
「二拠点の案で、私へ何を求めますか」
「事務局責任者を続けるか。現地運営にも関わりたいか」
「管理職?」
「希望があれば」
山岸はすぐに答えない。
「考えます。水口さんが東京へ戻るためだけなら、嫌です。私がやりたい仕事としてなら。一週間ください」
「わかりました」
*
森田は、話を聞くと笑った。
「やはり、東京へ戻りたいんですね」
「はい」
「最初から」
「今も」
「でも大阪も手放したくない。欲張りです」
「はい」
「現地責任者を僕へ?」
「候補の一人です」
「山岸さんも?」
「はい。ほかにも」
「僕は、管理職になりたいと言っていません。相談相手の仕事は好きです。人を評価し、配置するのは」
「嫌ですか」
「怖い」
森田は正直に言う。
「水口さんが間違えた時、僕たちは言えました。僕が責任者になったら、言われる側になる。できるかわからない」
「はい。それでも、考えてもらえますか」
「なぜ僕?」
「反対意見を言えるから」
「責任者へ?」
「現場にも。制度を守るだけではなく、人が動けるかを見る。ただし、断っても評価は下げません」
「本当に?」
「はい」
「一週間」
「お願いします」
*
仕事を終え、真尋は生活ノートを開いた。
『大阪で初めてしたこと』
新しい行。
『仕事と生活の条件を、会社へ交渉した』
『一人で決めず、影響を受ける人へ先に話した』
『待つことを、我慢にしない約束を作った』
書きながら、まだ始まっただけだと思う。
会社が二拠点を認めるとは限らない。山岸や森田が役割を望むとも限らない。俊介が一年の遠距離を受け入れられるとも限らない。真尋自身も、一年後に東京へ戻りたいと思うかはわからない。
選択肢は、答えではない。
それでも、二つしかないと思っていた道の間へ、細い道を一本作った。
*
週末、俊介が大阪へ来た。午前十一時。
真尋は新大阪駅まで迎えに行かなかった。俊介が、一人で真尋の最寄り駅まで来たいと言った。
『大阪の生活へ、自分で行ってみたいです』
真尋は駅の改札で待った。電車が到着する。人が降りる。俊介が見える。
旅行用バッグ。手には、小さな緑色の花。真尋を見つけ、笑う。
「ただいま」
「お帰りなさい」
二人は人の流れを避け、短く抱きしめ合った。
「待ちました?」
俊介が尋ねる。
「五分」
「遅れました」
「電車です」
「はい」
「連絡があったので」
「はい」
待つ時間。知らせる言葉。以前とは少し違う。
*
二人は商店街を歩いた。花屋の前。津田が俊介を見る。
「東京の人?」
「はい」
俊介が頭を下げる。
「黒田です」
「津田です」
真尋が紹介する前に、二人が名乗る。
「水口さんの恋人?」
津田が尋ねる。俊介の顔が赤くなる。
「はい」
真尋が答える。
「大阪へ来るたびに花を持ってくる人」
「聞いていたんですか」
俊介が真尋を見る。
「少し」
「今日は緑?」
津田が花を見る。
「はい」
「白い花瓶には大きいね」
「別の瓶へ入れます」
真尋が言う。津田が笑う。
「無理に一つへ入れない人だからね」
俊介が驚く。
「以前、同じことを」
「花の話?」
「はい。人の話にも聞こえました」
津田は笑う。
「花屋は、花の話しかしないよ」
*
部屋へ戻る。俊介が持ってきた緑の花を、別のガラス瓶へ挿す。
桃色の造花。青紫のリンドウは、もう最後の一本。緑の花。三つの器。
テーブルが少し賑やかになる。
「今夜、卵焼きの練習をしますか」
真尋が尋ねる。
「葵さんがいないのに?」
「本番前に」
「はい」
「判定は私」
「不公平では?」
「正直に言います」
昼食を作りながら、真尋は会社へ二拠点勤務案を出すことを話した。
「一年は大阪?」
俊介が確認する。
「案です」
「その後、東京と大阪を半分ずつ。東京の部屋は?」
「維持する必要があります」
「会社の補助は?」
「交渉します」
「認められなければ?」
「収入と家賃を計算します」
「僕の部屋へ住む?」
俊介が尋ねる。真尋は手を止める。
「東京へいる半月だけ?」
「はい」
「それは、同居ですか」
「半分」
「簡単ではありません。俊介の生活があります。私の東京の部屋も、残したい気持ちがあります」
「経済的に難しいなら?」
真尋は考える。
「新しい方法を話します」
「僕の部屋へ来ることも、選択肢には?」
「あります」
俊介の表情が明るくなる。
「ただし、家賃を分担します」
「半月だけでも?」
「物を置くなら。家事も」
「はい」
「一人になりたい日は?」
「僕が外へ出る?」
「交代で」
「はい」
二人で暮らす可能性。遠い未来ではなく、仕事の条件と結びついて少し現実になる。
「俊介は、一年の遠距離なら?」
真尋が尋ねる。
「三年よりは」
「続けられますか」
「約束は怖いです。でも、続けたいです。月に二回会うことを目安に」
「仕事で変わる時も」
「はい」
「どちらかだけが移動しない」
「はい」
「電話の予定を、変更する基準も」
「はい。試してみたいです」
「私も」
*
夕方、俊介が卵焼きを作った。以前より形が整っている。真尋が一切れ食べる。
「どうですか」
「おいしいです」
「葵さんより?」
「本番で」
「真尋より?」
「本番で」
「厳しい」
「公平です」
二人は顔を見合わせた。
喧嘩の前と同じ会話。だが、何もなかったように戻ったわけではない。
待たせた夜。別れる可能性。仕事。生活。すべてを持ったまま笑っている。
*
夜、同じベッドへ入る。俊介が真尋の手を握る。
「真尋。この前、待っている間、何度も電話をかけようと思いました。でも、仕事を邪魔したくなかった。次からは、一度だけかけてもいいですか」
「はい」
「緊急ではなくても」
「はい」
「出られなければ、今日は変更したいと送ります」
「わかりました」
「真尋も、僕が待つと言っても、無理だと思えば変更してください。嫌われると思わず」
「はい。俊介。私は、待ってくれることを愛情だと思いすぎていました。何も言わず待つ人が、理解してくれる人だと」
「はい」
「でも、待たせている側には都合がいい。俊介が、待ちたくない日もある。自分の予定を選んでください。私は寂しくても」
「はい。真尋も、僕のために仕事を止めなくていい。ただ、止めないと決めたことを伝えてください」
「はい」
*
俊介は間を置き、続けた。
「仕事と僕を比べたくないと言った意味、少しわかりました。僕も、真尋と仕事を比べられません。今の仕事を辞めて大阪へ行けと言われたら、すぐにはできない。真尋を愛していないからではない。仕事も、自分の生活だから」
「はい」
「だから、真尋が大阪を大切にすることも、少しずつ理解します」
真尋は俊介へ近づき、額を寄せた。
「ありがとうございます」
「でも、東京へ戻ってほしい気持ちは変わりません」
「はい。言ってください。私も、大阪の仕事を続けたいと言います。互いに、相手が変わるまで同じことを言うのではなく」
「はい」
「違う希望があると知ったまま、方法を探します」
「はい」
*
翌朝、二人は公園を歩いた。
大阪の部屋から見える木。真尋が一人で歩いた道。俊介と並ぶ。
犬を散歩させる人。走る人。ベンチで新聞を読む男性。日常。
「ここを、毎朝見ているんですね」
俊介が言う。
「はい」
「僕の知らない真尋の朝」
「今、知りました」
「はい。全部は知れません」
「はい」
「でも、来るたびに少し」
「はい」
二人はベンチへ座った。真尋は俊介の肩へ少しだけ寄る。
「一年後、この公園を離れるかもしれません。残るかもしれません。どちらでも、今歩いたことは残ります」
「はい」
「俊介。待っていてください、とは言いません」
「はい」
「一緒に進んでください」
俊介は真尋を見る。
「離れた場所でも?」
「はい」
「互いに自分の生活を進めながら。同じ方向でない時も?」
「はい。それでも、話せる間は」
「はい」
俊介は真尋の手を握った。
「一緒に進みたいです」
「はい」
*
俊介が東京へ戻った後、真尋は生活ノートを開いた。
『大阪で初めてしたこと』
新しい行へ書く。
『待ってくれることへ、甘えた』
『待ちたくないと言ってもらう約束をした』
『仕事か恋人か、二つだけではない方法を会社へ出した』
『一緒に決めることと、決定を渡すことは違うと知った』
最後に、
『好きな人と、違う希望を持ったまま話した』
と書く。
同じ答えにならなくても、関係はすぐに壊れない。だが、話し続ければ必ず続くとも限らない。
俊介は、三年の遠距離を続けられない可能性を言った。真尋も、それを否定できない。
いつか、互いの望む生活が離れすぎる日が来るかもしれない。その時、好きだからと一方を止めるのか。好きだから別の道を認めるのか。
今はわからない。ただ、怖いから答えを先に決めない。
*
窓辺の花を見る。桃色。青紫。緑。
同じ器には入っていない。それぞれの水。それぞれの高さ。同じテーブル。
真尋は、青紫のリンドウの傷んだ花びらを一枚取り除いた。まだ茎は元気。水を替える。緑の花も。桃色の造花は、水を必要としない。
違うものを、同じ扱いにはしない。だからといって、一つだけが大切なのでもない。
真尋はカーテンを開けた。午後の光が部屋へ入る。
明日から、会社との交渉が始まる。山岸と森田の返事。本社。支社長。俊介の会社。東京の部屋。母。葵。
考えることは多い。答えは、まだない。
それでも、待つだけではない。誰かへ決めてもらうのでもない。
それぞれが自分の希望を持ち、必要な場所で交わる道を探す。
真尋はテーブルの上の予定表を開いた。
次に俊介と予定を確認する水曜日。葵との秋田候補日。母との電話。会社へ二拠点案を提出する日。
一つずつ書き込む。
予定は、必ず守れる約束ではない。変わることがある。だから、変わった時に言葉を渡す。
待つ人を置き去りにしない。待つ側も、自分の時間を止めない。
真尋はペンを置いた。
窓の外を、電車が通り過ぎる。誰かを運び、誰かを残し、次の駅へ向かう。
同じ場所で止まり続けるためではなく。離れても、また会うために。




