第四十五章 母の家を片づける日
母から家を片づけたいと連絡が来たのは、葵の表彰式から一か月ほど過ぎた頃だった。
『少しずつ物を減らそうと思って』
日曜日の夕方。真尋は大阪の部屋で、翌週の会議資料を確認していた。
母からの電話は珍しくない。食事。季節。俊介。大阪。真尋の体調。
けれど、家を片づけるという話は初めてだった。
「引っ越すのですか」
『まだ決めてない。でも、この家、一人には広いでしょう。二階も、最近あまり上がらない』
母の家は、真尋が高校生まで暮らした家だった。父が亡くなった後も、母は一人で住み続けている。
大きな家ではない。それでも一階と二階があり、物置になっている部屋が二つある。
真尋の部屋。父が使っていた部屋。古い家具。着なくなった服。食器。写真。学校の書類。
誰かがいつか使うと思って残したもの。誰も使わないまま、長い時間が過ぎたもの。
「体調が悪いのですか」
真尋が尋ねる。
『悪くはない。でも、階段で一度、足を滑らせた』
真尋の手が止まる。
「いつですか」
『先週』
「けがは?」
『手をついただけ』
「病院は?」
『行ってない』
「なぜ」
『痛くないから』
「母さん」
『大げさにしないで。もう治った。だから、二階へ行かなくても暮らせるようにしたいの』
母の声は落ち着いている。事故を隠したいのではなく、今後の生活を変えたいと考えている。
*
「今度の東京滞在で行きます」
『仕事は?』
「日曜日」
『俊介さんとの予定は?』
「確認します」
『無理しなくていい』
「行きたいです。何から片づけますか」
『真尋の部屋』
真尋は少し息を止める。
「私の?」
『あなたの物が一番多い』
「残っていましたか」
『かなり』
「捨ててよいものばかりです」
『それを私が決めるのは嫌。それから、お父さんの部屋。写真。食器』
「一日では終わりません」
『少しずつ』
「わかりました」
*
電話を切った後、真尋は予定表を開いた。
次の東京滞在。土曜日は俊介と家具の配送。日曜日は空いている。葵とは火曜日の夜に電話。
母の家へ行ける。俊介へ連絡する。
『次の東京滞在の日曜日、母の家を片づけます』
俊介から。
『階段の件ですか』
母は俊介にも、足を滑らせたことを話したらしい。
『はい』
『一緒に行きますか』
真尋は考えた。
母の家。自分の部屋。父のもの。母の過去。
俊介がいれば、重い物を運ぶのは助かる。だが、最初は母と二人で話したい気持ちがある。
『今回は、私一人で行きます』
俊介から。
『わかりました』
『嫌ですか』
『少し心配です。でも、真尋とお母様の時間だと思います』
『ありがとうございます』
*
葵へは、次の電話で話した。
『母の家を片づけます』
「引っ越し?」
『まだ。階段で足を滑らせた』
「大丈夫?」
『けがはありません。二階を使わない生活へ変えたいと』
「真尋の部屋も?」
『はい』
「なくなる?」
『物を片づけます』
「また、部屋」
葵が小さく言う。
東京の古い部屋。真尋の母の家の部屋。場所が変わる。なくなる。
『私が住む部屋ではありません』
「わかってる。でも、真尋が子どもの時の場所。残してほしい?」
真尋はすぐに答えられなかった。
自分の部屋。机。本棚。窓。高校生の時に貼った跡。父に怒られた夜。母と話さなかった朝。
何者でもなかった自分。
『全部は残さなくていいと思います。でも、実際に見ると』
「捨てられないかも」
『はい』
「写真送って」
『必要なら』
「見たい」
『葵が?』
「真尋の知らない頃。でも、全部じゃなくていい」
『わかりました』
*
東京滞在の日曜日。真尋は午前九時に家を出た。
新しい家。俊介は台所で朝食の片づけをしている。
「車を借りますか」
俊介が尋ねる。
「今日は電車で」
「荷物は?」
「捨てる物を決めるだけです。持ち帰る物が多ければ、後日」
「はい。お母様へ」
俊介が小さな紙袋を渡す。
「何ですか」
「お茶です。片づけの休憩に」
「ありがとうございます」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
*
電車。乗り換え。駅。母の家へ向かう道。
真尋は、以前より道が狭く感じた。
子どもの頃に走った坂。小さな公園。文房具店は閉店している。新しい住宅。古い家。
同じ場所。違う街。
母の家。玄関。呼び鈴を押す前に、扉が開いた。
「早かったね」
「予定通りです」
「はいはい」
母は以前と同じように見える。歩き方。顔色。手。
真尋は足元を見た。
「本当にけがは?」
「ないって言ったでしょう」
「手を見せてください」
「もう治った。入って」
「お邪魔します」
言ってから、少し違和感。
自分が暮らした家。だが、今は母の家。ただいま、と言うには遠い。
*
玄関には、以前より靴が少ない。母が整理を始めている。
リビング。父の写真。小さな仏壇。テレビ。ソファ。
変わっていないように見えて、物の位置が少し違う。
「お茶」
母が言う。
「先に二階を見ます」
「休んでから」
真尋は俊介から預かった紙袋を渡した。
「俊介からです」
「気を使わなくていいのに」
「お茶です」
「ありがとうって言っておいて」
*
二人で向かい合う。母が茶を淹れる。湯気。
「真尋。大阪はどう?」
「仕事は続いています。二拠点も」
「疲れてない?」
「以前よりは」
「俊介さんとは?」
「続いています」
「葵ちゃんは?」
「続いています」
母は吹き出した。
「全部、続いてる」
「形は変わっています。同じではありません。でも、今は」
真尋は茶を飲む。
「続けています」
*
「私」
母が言う。
「この家を売ることも考えてる」
真尋はカップを置いた。
「いつから?」
「少し前から」
「なぜ、先に言わなかったのですか」
「決めてないから。言ったら、あなたが調べるでしょう」
「調べます」
「不動産会社。税金。引っ越し先。全部」
「必要です」
「必要になったら頼む」
母は穏やかに言う。
「今は、自分で考えたい」
「はい」
真尋は口を閉じた。
母の生活。母の家。真尋が管理するものではない。
*
「売るなら、どこへ?」
「小さいマンション」
「駅近く?」
「スーパーと病院。一階か、エレベーター」
「一人で暮らす?」
「今のところ」
「私たちの家へは」
「行かない」
即答。
「なぜ?」
「あなたたちの家でしょう。私が入ったら、また全部変わる。私は、自分の生活がしたい」
「わかりました」
「でも、何かあった時は頼る。それでいい?」
「もちろんです」
*
母が立ち上がる。
「では、二階。私はゆっくり行く」
「手すりを持ってください」
「持ってる」
階段。真尋は母の後ろへ立つ。一段。一段。
以前は、母に急かされた。
『早くしなさい』
今は、自分が母の足元を見る。
時間が流れた。
*
二階の廊下。最初の扉。真尋の部屋。母が開ける。
空気。ほこり。カーテンは閉じている。机。ベッド。本棚。小さな棚。壁。
高校卒業後、少しずつ物を持ち出した。それでも、驚くほど残っている。
「こんなに」
真尋が言う。
「あなた、持っていかなかったでしょう。捨てていいと言われても、勝手に捨てたら、後で言われそうで」
「言いません」
「本当?」
「はい」
真尋は部屋へ入った。
*
机の引き出し。鉛筆。消しゴム。古い定期券。学生証。小さな鍵。何の鍵かわからない。手紙。ノート。作文。学校の記録。
真尋は一つずつ見る。
高校時代の写真。友人。制服。笑っている。今の自分にはない表情に見える。
「これ、誰?」
母が写真を覗く。
「同級生です」
「今も会う?」
「いいえ」
「名前は?」
真尋は考えた。
「忘れました」
「写真は残す?」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
知らない名前になった人。大切ではなかったわけではない。
その時は、笑った。今は、持ち続けなくてよい。
*
ごみ袋。残す箱。保留箱。三つに分ける。
最初は、ほとんどを保留へ入れそうになる。作文。賞状。部活動の記録。古い財布。小さなぬいぐるみ。
「全部、持って帰る?」
母が尋ねる。
「いいえ」
「保留ばかり」
「今日は決められません。でも、保留箱は一つだけにします」
「入らなかったら?」
「捨てます」
*
机の奥から、作文用紙の束が出てきた。小学校。中学校。
題名。
『わたしの家族』
『将来の夢』
『お母さんの仕事』
真尋は手を止める。
「読んでいい?」
母が尋ねる。
「母さんは、以前読んだのでは」
「忘れた」
真尋は『将来の夢』を開いた。小学六年生。丸い字。
『私は、大人になったら、たくさんの人に頼られる仕事をしたいです。困っている人がいたら、何でもできる人になりたいです。』
真尋は笑いそうになり、笑えなかった。
何でもできる人。頼られる人。子どもの頃から。
「真尋らしい」
母が言う。
「母さんが言わせたのでは」
「私?」
「何でもできなければいけないと」
「言った?」
「言いました」
「いつ?」
「何度も」
母は困った顔をした。
「覚えてない。ごめん」
軽い謝罪。真尋は作文を見つめる。
母を責めたいわけではない。だが、なかったことにもしたくない。
「母さんは、困った時、私へ頼るより、自分でやりなさいと言いました。泣くと、泣いても何も変わらないと。人に迷惑をかけないようにと」
「言ったね」
「それで、私は」
真尋は言葉を選ぶ。
「頼られる人になれば、必要とされると思ったのかもしれません」
母は黙った。
*
「私のせい?」
母が尋ねる。
「一部は」
真尋は答えた。母の顔が固くなる。
「全部ではありません。私も、それを選びました。できる自分が好きでした。頼られることも。仕事で評価されることも。母さんの言葉だけで、こうなったわけではありません」
母は、ゆっくり頷いた。
「でも、言ったことは消えないね」
「はい」
*
作文を残すか。真尋は迷う。
今の自分へ続く言葉。持ち帰れば、何度も見るかもしれない。子どもの自分を理解する手がかり。
同時に、過去を説明する証拠として使いたくなる可能性。
『母にこう言われたから』
『子どもの頃から』
今の選択を、過去だけの結果にする。
「これは、どうする?」
母が尋ねる。
「一枚だけ写真を撮ります」
「現物は?」
「捨てます」
「いいの?」
「はい」
真尋はスマートフォンで撮影した。作文用紙。丸い字。その後、ごみ袋へ入れた。
「写真に残すなら、捨てる意味ある?」
母が尋ねる。
「物は持たない。でも、言葉は覚えておきたい。いつか、写真も消すかもしれません。今は、それで」
*
次の引き出し。母からの手紙。高校受験の前。
『真尋ならできる』
『あなたはしっかりしているから』
『お母さんは心配していません』
励まし。信頼。重さ。
真尋は読む。
「これ」
母が言う。
「覚えてる。励ましたつもりだった」
「わかっています」
「でも?」
「心配していないと言われると、心配されるような状態を見せられませんでした」
母は視線を落とす。
「そうか。私、あなたを信じてるって、言いたかった」
「わかっています」
「言葉って、難しいね」
「はい」
「今なら、何て言う?」
真尋が尋ねる。母は考えた。
「心配してる。できなくても、帰ってきて。でも」
母は真尋を見る。
「帰ってこなくても、自分で決めて」
真尋の口元が緩んだ。
「矛盾しています」
「あなたたちみたいでしょう」
二人とも笑った。
*
手紙は残す箱へ。作文は捨てた。
判断に一貫性はない。それでいい。
何を残すかは、正しさではない。今の自分が持ちたいか。
本棚。古い小説。参考書。辞書。漫画。真尋は一冊ずつ抜く。
「これ、好きだったでしょう」
母が小説を手に取る。
「はい」
「持って帰る?」
「読み返しません」
「でも好きだった」
「好きだったことは、本を残さなくても変わりません。捨てます」
「全部?」
「一冊だけ」
最も読んだ本。背表紙が傷んでいる。ページに折り目。名前。水口真尋。高校一年。
「それは?」
「持ち帰ります」
母は、真尋の判断を見ている。口を出しすぎない。時々、
「本当に?」
と尋ねる。真尋は答える。残す。捨てる。保留。一つずつ。
*
昼。二人は一階へ戻った。階段。母はゆっくり。真尋は後ろ。
台所で簡単な昼食を作る。うどん。野菜。俊介のお茶。
「俊介さん、元気?」
母が尋ねる。
「はい」
「一人で来たこと、嫌じゃない?」
「少し心配していました」
「来ればよかったのに」
「母さんと二人で話したかったので」
「次は、重い物を運ぶ時に」
「頼もうか」
*
食事。母がうどんを食べながら言う。
「真尋。私、昔、仕事、辞めたでしょう」
「はい」
真尋が小学生の頃。母は勤めていた会社を辞めた。父の仕事が忙しくなった。祖母の介護。真尋の学校。家。
母は何度も、
『家族のために仕事を辞めた』
と言った。
直接責める言い方ではない。だが、家族の都合で自分の人生が変わったという言葉は、真尋の中に残っている。
「辞めたくなかったのですか」
真尋が尋ねる。母はすぐに答えない。
「当時は、辞めたくないと思ってた。仕事、嫌いじゃなかった。自分のお金。同僚。家にいるだけじゃない時間。全部、なくなると思った」
「父さんに辞めろと言われた?」
「はっきりとは。でも、誰がやるのって。おばあちゃんの病院。あなたの学校。家事。お父さんは、仕事を変えられない。私のほうが、辞めやすかった。だから、辞めた」
*
「家族のために」
真尋が言う。
「そう思ってた」
「今は?」
母は箸を置いた。
「自分で選んだ部分もあった」
真尋は黙って聞く。
「仕事で、少し疲れてた。昇進の話もあったけど、自信がなかった。家族のことを理由にすれば、挑戦しなくて済むとも思った」
真尋は、母の顔を見た。初めて聞く。
「父さんに言いましたか」
「言ってない。自分でも、当時は認めたくなかった。私は、家族のために諦めた。そう思うほうが、きれいだった。自分が怖くて辞めた部分を」
母は小さく息を吐く。
「見なくて済んだ」
*
「その後」
母が続ける。
「家で嫌なことがあるたび、私は仕事を辞めたのにって。お父さんへ。あなたへも。思った」
真尋の胸が痛む。
「言われました。何度も。私のために辞めたと」
「言った。ごめん」
*
真尋はすぐに、
『大丈夫』
とは言わなかった。
大丈夫ではなかった。
子どもの頃、母の失った仕事へ、自分が責任を感じた。
良い子でいなければ。母が辞めた意味を無駄にしてはいけない。しっかりする。失敗しない。迷惑をかけない。母の人生を奪った子どもにならない。
「私は、母さんが仕事を辞めたのは、私のせいだと思っていました。だから、手のかからない子でいようと。母さんの選択を、正しいものにしなければと、思っていたと思います」
*
「ごめん」
母がもう一度言う。
「私は、自分で選んだのに、後から、家族のせいにした。全部ではないよ。本当に、家族の事情もあった」
「わかっています」
「でも、自分の選択だった部分を隠した。あなたへ背負わせた」
真尋は涙が出そうになる。泣かないようにする。
なぜ止めるのか。
母の前。子どもの自分。泣いても何も変わらない。その言葉。
「泣いていいよ」
母が言った。真尋は母を見る。
「今? 母さんが言うのですか」
「今だから」
真尋の目から涙が落ちた。一滴。次。声は出ない。
母は手を伸ばさない。ティッシュを置く。真尋は自分で取った。
*
「私」
真尋が言う。
「俊介や葵に、同じことをしたくありません。仕事も。二拠点も。結婚も。私が選んだ」
「はい」
「誰かのために選んだ部分もあります。でも、自分の希望も」
「はい」
「疲れた時、あなたのために、と言いたくなることがあります。俊介が望んだから東京へ戻る。葵が必要とするから会う。会社が求めるから働く。そう言えば、自分が選んだ責任から逃げられる」
母が静かに頷く。
「言ったことある?」
「完全な言葉では。でも、態度で。疲れているのに、相手が望むからと予定を入れて、後から苛立つ。あります」
「同じだね」
母と真尋。似ている。認めたくなかった部分。
*
「真尋。選んだことを、後から誰かのせいにしないって、難しいよ。本当に相手の影響もあるから。家族。会社。お金。全部、自分だけじゃ決められない。でも」
母は真尋を見る。
「私は、もっと早く、辞めたくないって言えばよかった。怖いって。助けてって。言えばよかった」
「父さんは、聞きましたか」
「わからない。聞かなかったかもしれない。それでも、言わなかった私の部分は残る。あなたも」
「はい」
「俊介さんへ。葵ちゃんへ。会社へ。言いなさい。嫌だって。疲れたって。選びたくないって。それでも選んだら」
母は言う。
「自分が選んだって、覚えておきなさい」
真尋は頷いた。
*
昼食を終える。食器を洗う。母が拭く。
以前と逆だったかもしれない。子どもの頃、母が洗い、真尋が拭いた。
今は真尋が洗う。母がゆっくり拭く。
*
午後。父の部屋。扉を開ける。
父が亡くなってから、母は大きく変えていない。机。本。スーツ。鞄。時計。工具。書類。
匂いはもうない。物だけ。
「ここ、一人で触れなかった。今日は、全部は無理。服だけ」
クローゼット。スーツ。コート。ネクタイ。母が一本ずつ見る。
「これは、結婚式。これは、あなたの入学式」
「覚えていません」
「写真ある。これは」
母の手が止まった。濃紺のネクタイ。
「最後に仕事へ行った日」
「残しますか」
母は長く見つめる。
「どうしよう」
「母さんが決めてください」
「真尋は?」
「私のものではありません」
「娘でしょう」
「でも、母さんが一緒に暮らした人です。母さんが決めて」
*
母はネクタイを胸元へ当てた。泣かない。
「写真を撮る。その後、捨てる」
「本当に?」
今度は真尋が尋ねる。
「うん。残したら、お父さんがいるわけじゃない。捨てたら、いなくなるわけでもない」
真尋は写真を撮った。母。ネクタイ。父の部屋。その後、母は布袋へ入れた。
父のスーツは、ほとんど処分。コート一着。腕時計。小さな工具箱。残す。
「時計、真尋が持つ?」
「俊介へ?」
「あなたが」
「私は使いません」
「でも、持っていたい?」
真尋は腕時計を見る。
父の手首。仕事。帰宅。食卓。不機嫌。笑った日。
完全に良い父ではなかった。悪い父だけでも。
「今日は、母さんが持っていてください」
「保留?」
「はい」
「保留箱、一つ」
「母さんにも」
二人は同時に吹き出した。
*
机の引き出し。父の古い手帳。予定。仕事。家族の誕生日。
真尋の入学式の日に、赤い丸。母の誕生日。結婚記念日。小さな字。
母がページをめくる。
「覚えてたんだね。何も言わなかったのに。言えばいいのに」
言わなかった気持ち。伝わらなかった大切さ。後から物で知る。
「手帳、残す?」
真尋が尋ねる。
「一冊だけ。この年」
「なぜ?」
「あなたが生まれた年」
母は別の手帳を探す。古い。紙。父の字。
出産予定日。病院。休み。真尋の名前候補。いくつか。
『真尋』
丸。
「父さんが決めた?」
「二人で。真っ直ぐに、尋ねる人。そういう意味」
「知りませんでした」
「言ってなかった?」
「はい」
「何でも知ってると思ってた」
母が言う。
「知りません。知らないことばかりです」
父の手帳は一冊だけ残す。ほかは処分。
全部を読まない。父の人生を、死後にすべて知ろうとしない。知らない部分を残す。
*
午後三時。二人は疲れていた。一階へ戻る。茶。俊介から預かったもの。母が淹れる。
「今日は、ここまで」
真尋が言う。
「まだ食器」
「次回。階段は、私がいる時に。二階の必要な物を、一階へ移します」
「寝室は?」
「今も一階」
「服も」
「はい」
「なら、急がなくてよいです」
*
「真尋の部屋、残す物、少ないね」
母が尋ねる。
「はい」
「寂しい?」
「少し。でも、東京の古い部屋を手放した時より、違います」
「なぜ?」
「ここは、長く戻っていなかった。母さんの家になっていました。私の部屋が残っていることで、戻れると思っていたわけではない。でも」
真尋は考える。
「何者でもなかった頃の自分が、物として残っている場所でした。なくなると、少し怖い」
「何者でもなかった頃?」
母が尋ねる。
「子どもだった。頼られる仕事も。部長も。俊介も。葵ちゃんも、いなかった」
「でも、真尋はいたでしょう」
母の言葉。
「はい」
「何者でもない真尋。物がなくても、いたことは、なくならない」
真尋は声を立てて笑った。
「葵が言いそうです」
「そう?」
「はい」
「でも、私が先」
*
「葵ちゃんに、部屋の写真送る?」
「一枚だけ」
「どこ?」
真尋は二階へ戻らず、先ほど撮った写真を確認した。
机。本棚。窓。片づけ途中。作文。母の手紙。
どれを。自分の部屋全体。散らかっている。それが今の状態。
真尋は送る。
『高校まで使っていた部屋です』
葵からすぐに既読。
『真尋の机。小さい。ここで勉強した?』
『はい』
『泣いた?』
真尋は考える。
『泣いたと思います』
『今日、何を残した?』
『本を一冊。母の手紙。写真を少し』
『ほかは?』
『多くを捨てます』
『寂しい?』
『少し』
葵から。
『見せてくれて、ありがとう』
*
母が真尋の画面を見る。
「葵ちゃん? 何て?」
「見せてくれてありがとうと」
「来たいって言わない?」
「今日は」
「この家へ、葵ちゃん来たことある?」
「ありません」
「今度、来てもいいよ」
真尋は母を見た。
「本当に?」
「はい。俊介さんも」
「同時?」
「それは疲れる」
二人は笑う。
*
「葵ちゃんは、あなたの昔を知りたいの?」
母が言う。
「はい」
「なぜ?」
「大切だから。知らない時間も知りたいと」
「俊介さんも?」
「はい。でも、全部は見せません」
「それでいい。家族でも、全部知らなくていい」
母が言う。
以前の母なら、
『家族なのだから』
と言ったかもしれない。真尋は驚く。
「母さん。変わりましたね」
「歳を取った」
「それだけ?」
「一人で長くいたから。お父さんがいなくなって、あなたも家を出て。家族って、近くにいる人だと思ってた。今は、遠くでも、話す人。でも、話さない時間もある人。それで家族じゃなくなるわけじゃない」
真尋は頷いた。
*
「葵ちゃんは家族?」
母が突然尋ねる。真尋は答えに迷った。
「名前は違います」
「家族ではないと?」
「制度上は。でも、家族に近い? 近いとも、違うとも」
「難しいね」
「はい」
「名前のない場所」
母が言う。真尋は目を見開いた。
「覚えていましたか」
「前に聞いた。まだ、名前ない?」
「はい」
「つけない?」
「今は。名前がなくても、続いています」
「そう」
*
「私は」
母が言う。
「家族って名前に、頼りすぎた。家族のため。母親だから。妻だから。名前があれば、正しいと思ってた。でも、その中で自分が何を選んだかを、見なくなった」
真尋は静かに聞く。
「葵ちゃんとの場所に名前がないなら、毎回、自分で選ばないといけないね。家族より大変」
「はい」
「でも、家族も本当は同じかもね。母だから、ではなく。今日、真尋に会いたい。今日は一人でいたい。毎回」
「はい」
*
母の家を出る時間。
ごみ袋は、まだ二階。次回、処分。残す箱。保留箱。写真。本。手紙。
今日の作業は途中。
玄関。
「次は、俊介さんも。重い物。葵ちゃんも、いつか。でも、片づけを手伝わせるためではなく、お茶を飲みに」
「わかりました」
「真尋。今日、仕事を辞めた話。俊介さんへも言う?」
「必要な部分は」
「葵ちゃんへも?」
「はい」
「私の恥ずかしい話。嫌?」
母が尋ねる。
「隠してほしいですか」
母は考えた。
「いいえ。私が、自分で選んだのに家族のせいにしたこと。誰かの役に立つなら。でも、物語にしすぎないで」
葵が仕事で言ったことに似ている。
「母さんの人生を、教訓だけにしません」
「お願いします」
*
「行ってきます」
真尋が言う。母は驚いた。
「帰るんでしょう。なら、行ってらっしゃい? お帰りじゃなく?」
「今日は、母さんの家へ来ました。今から、自分の家へ帰ります。行ってきます」
母は笑う。
「行ってらっしゃい」
*
駅まで歩く。夕方。
真尋は鞄の中の一冊の本を感じる。母の手紙。写真。少ない。
持ち帰る物。多くを残し、次回捨てる。
俊介へ連絡。
『今、帰ります』
『お疲れさまでした』
『かなり話しました』
『夕食は?』
『作っています』
『ありがとうございます』
『何時頃?』
到着時間を送る。俊介から。
『お帰りを待っています』
真尋は画面を見た。
誰かが待つ。嬉しい。同時に、急がなければという気持ちが出る。
電車の遅延。疲れ。それでも帰る。自分が選ぶ。
*
葵から。
『片づけ、終わった?』
『途中です』
『母さんは?』
『元気です』
『何を話した?』
『仕事を辞めた時のこと。自分で選んだ部分を、後から家族のせいにしたと』
返事が止まる。
『真尋は?』
『私も、同じことをしたくないと思いました』
『私に?』
『はい』
『俊介さんに?』
『はい』
『仕事にも』
『はい』
*
葵から電話。
『今、話せる?』
「電車ですが」
『十分。真尋、私のために会ってるって、思うことある?』
真尋は正直に考えた。
「あります。葵が寂しいから。葵が必要としているから。予定を入れる。その後、疲れて、一人になりたいと思う。葵のせいにしたくなる」
葵は黙る。
『私、会いたいって言わないほうがいい?』
「いいえ。希望は言ってください。私は、自分で決めます。会うと決めたら、私の選択です」
『はい』
「疲れた時も、葵が求めたからだけではなく、自分も会いたかったことを忘れないようにします」
『でも、本当に嫌な時は?』
「断ります」
『傷つく。怒る』
「はい。聞きます。でも、会わない日も作ります」
『私も』
「何ですか」
『真尋が会いたいって言っても、仕事を選ぶ。疲れたら断る。でも、後から、真尋が望んだから無理したって言わない。努力する』
「私も」
*
『母さん、仕事、辞めたくなかった?』
「はい」
『でも、自分でも選んだ。怖かったから』
「はい」
『私も、責任者になりたいって言った。今、怖い。もし辞めたら、誰かのせいにするかも』
「誰の?」
『会社。南雲さん。商品。真尋』
「私も?」
『会えないから仕事を頑張りすぎた、とか』
真尋は胸が痛む。
「はい」
『そうならないように。今、責任者を続けるのは私が選んでる。でも、つらい時は助けてって言う』
「はい」
*
「葵。今日、母の家で作文を見つけました」
『何の?』
「将来の夢。頼られる仕事をしたいと」
『真尋。写真見せて』
「撮りました」
『送って』
「後で。でも、原本は捨てました」
『はい』
「嫌?」
『少し』
「なぜ?」
『子どもの真尋の字。でも、真尋が決めた。写真がある。見せて』
「わかりました」
*
電話を切った後、真尋は作文の写真を葵へ送った。
葵から。
『字、小さい。何でもできる人になりたい。今も?』
真尋は考える。
『何でもは、もう目指していません。頼られることは、まだ嬉しいです。でも、頼られなくても、自分の価値がなくならないように、努力しています』
葵から。
『見てる』
真尋は画面を見た。
『はい』
*
新しい東京の家へ着く。玄関。鍵。扉。
「ただいま」
「お帰りなさい」
俊介が出てくる。夕食。湯気。家。
「お母様は?」
俊介が尋ねる。
「元気です。家を売ることも考えています。次は、手伝ってください。父の家具。重いもの」
「もちろんです。真尋の物は?」
「多くを捨てます」
「持ち帰ったものは?」
本。手紙。写真。俊介へ見せる。
「作文」
俊介が読む。
「頼られる仕事。今の真尋。でも、もう捨てた。なぜ?」
「持ち続けると、今の自分を、子どもの頃から決まっていたものにしたくなる気がして。私は、今も選んでいます」
俊介が頷く。
*
「お母様の仕事」
俊介が尋ねる。真尋は話した。
辞めたこと。家族の事情。昇進への怖さ。自分で選んだ部分。後から家族のせいにしたこと。真尋へ背負わせたこと。
「俊介。私も、同じことをする可能性があります。二拠点を続けること。結婚。葵との関係。全部。俊介が望んだから。葵が求めたから。会社が必要としたから。そう言えば、私は自分の選択から逃げられます」
俊介は静かに聞く。
「僕もです」
俊介が言う。
「何が?」
「名字を変えたこと。真尋のために変えた、と。いつか、手続きが面倒な時。周囲に説明する時。真尋のせいにしたくなるかもしれません」
真尋の胸が痛む。
「ありますか」
「少し。今も、名字を変えたことを後悔してはいません。でも、面倒な時に、僕は真尋のためにここまでした、と思うことがあります」
*
「言ってください」
真尋が答える。
「私も、聞きます。でも、俊介が選んだことも、忘れないでください。私が強制したわけではない。でも、私の希望が影響した。両方」
「はい」
二人は夕食を食べながら、名字の話を続けた。
俊介の母。父。会社。公的書類。水口俊介。旧姓。選んだこと。失ったもの。残したもの。
「真尋。今後、もし僕が、名字を戻したいと言ったら?」
真尋は驚く。
「離婚?」
「制度上は、婚姻中に戻すのは難しいと思います。でも、気持ちとして。聞きますか」
「聞きます」
「怒る?」
「傷つきます。でも、話します。私が名字を変える可能性も」
「ありますか」
「今は、ありません。でも、今後の制度や生活で、変わる可能性を、絶対にないとは言いません」
俊介が頷いた。
*
食後、真尋は母の手紙を、自分の部屋の棚へ入れた。
扉のある棚。俊介と選ぶ予定だったが、自分で決めた棚。
生活ノート。本。写真。母の手紙。
全部を飾らない。見えない場所。必要な時に開く。
*
翌月、真尋と俊介は母の家へ行った。車。段ボール。工具。父の机。本棚。重い家具。
母は玄関で、
「お帰り」
と真尋へ言った。真尋は驚く。
「ただいま」
今回は自然に出た。
家を片づける。売るかもしれない。それでも今日、戻った場所。
俊介へは、
「いらっしゃい」
母が言う。
「お邪魔します」
違う言葉。それでいい。
*
二階。真尋の部屋。残す箱一つ。保留箱。
真尋は保留を開く。賞状。ぬいぐるみ。写真。財布。ほとんど捨てる。
小さなぬいぐるみだけ、母が残したいと言った。
「なぜ?」
「あなたが、小さい時ずっと持ってた。私は、残したい」
「母さんのものとして?」
「はい」
「わかりました」
ぬいぐるみは、母の箱へ。
真尋の思い出を、母が持つ。それもある。
*
俊介が本棚を解体する。真尋は机の中を空にする。母は椅子へ座り、指示をする。
「その箱は一階。それはごみ。俊介さん、無理しないで」
「大丈夫です」
「頼ると、何でもやる人が増えるね」
母が言う。真尋が顔を上げた。
「何ですか」
「あなたと似てる。でも、頼りすぎないようにする」
「頼ってください」
俊介が言う。
「無理な時は断ります」
「いい夫婦ね」
「簡単ではありません」
真尋が答える。
「知ってる」
*
父の部屋。机を処分する。引き出しをすべて確認。
古い領収書。手紙。母宛て。父の字。封は開いている。
「読む?」
母が尋ねる。
「母さんの手紙です。読みません」
「本当に? 家族でも?」
「はい。全部知らなくていい」
母は手紙を残す箱へ入れた。
家具を一階へ運ぶ。真尋と俊介。母は見守る。階段。重さ。声をかけ合う。
「ゆっくり」
「右」
「壁」
「大丈夫です」
夫婦の共同作業。母の家。過去。今。
*
昼。三人で弁当。母が俊介へ言う。
「真尋、面倒でしょう」
「はい」
俊介が即答する。母と真尋が驚いた。
「でも」
俊介は続ける。
「僕も面倒だと思います。互いに。話しています」
母は吹き出した。
「それがいい」
「母さん。面倒と言われました」
「事実でしょう」
三人で笑う。
*
「俊介さん。名字、変えたでしょう。本当に、後悔してない?」
母が言う。俊介は考えた。
「後悔はしていません。でも、大変です。真尋のために変えたと思う日もあります」
母が真尋を見る。
「聞いた?」
「はい」
「怒った?」
「傷つきました。でも、話しました」
「私も」
母が言う。
「家族のために仕事を辞めたって。後から、家族のせいにした。俊介さんも、名字のことで、真尋のせいにしたくなったら、先に言って」
俊介が笑う。
「はい」
「ためて、何年も後に言うと、相手も、自分も苦しくなる。経験者」
母が自分で言う。
*
夕方。二階はほとんど空になった。
真尋の部屋。机がない。本棚がない。ベッドも解体。床。壁。窓。
空の部屋。母と真尋と俊介が立つ。
「ここ。物がなくなると、広いね。真尋がいた部屋。今は空。寂しい?」
「少し」
真尋は答えた。
「写真」
俊介が言う。三人で撮るのか。真尋は迷った。
「部屋だけ」
空の部屋を撮る。誰も写らない。机があった跡。壁。窓。
それで十分。
葵へ送る。
『部屋が空になりました』
写真。葵から。
『広い』
『はい』
『寂しい?』
『少し』
『でも、真尋はいる。今、どこ?』
『部屋の中です』
『写真にいない。でも、いる』
真尋は画面を見た。
『はい』
*
母の家を売る決定は、さらに二か月後になった。
駅に近い小さなマンション。エレベーター。病院。スーパー。一階ではないが、階段を使わず生活できる。
母が自分で選んだ。
真尋は不動産会社を調べた。俊介は契約書類を確認した。葵は何もしなかった。ただ、話を聞いた。
「家、売る」
母が電話で言った。
「はい」
「寂しい?」
「少し」
「止める?」
「止めません。母さんが選んだので」
「後から、真尋が勧めたから売ったって言わないようにする」
「言わないでください」
「はい。でも、真尋の助言も聞いた。それは残る。全部、自分だけで決めたわけでもない。でも、最後は私が決めた」
「はい」
母の言葉。
*
引っ越しの日。真尋。俊介。業者。母。葵は仕事。来ない。
家から荷物が運び出される。家具。箱。父の写真。仏壇。母の保留箱。
真尋の残した一冊の本は、すでに新しい家。
最後。母が各部屋を見る。台所。リビング。父の部屋。真尋の部屋。階段。玄関。
「ありがとうって言う?」
真尋が尋ねる。
「言わない」
母が答える。
「なぜ?」
「家に、言わなくてもいい。でも」
母は玄関で振り返る。
「ここで暮らしたことは、忘れない。嫌な日も。楽しい日も。仕事を辞めた日も。お父さんが死んだ後も。全部」
*
母は鍵を管理会社へ渡す前に、真尋を見た。
「ただいまって、もう言わないね。次の家で、言って。お帰りって言うから」
真尋の目が潤む。
「わかりました」
*
新しいマンション。玄関。母が先に入る。荷物。まだ何も整っていない。
真尋は外から扉の前へ立つ。呼び鈴は押さない。鍵は母だけが持っている。
母が扉を開ける。
「どうぞ」
真尋は一度、息を吸った。
「ただいま」
母の口元が緩んだ。
「お帰り」
俊介は隣で、
「お邪魔します」
と言う。
三人で中へ入る。新しい家。母の生活。
過去をすべて持ってきたわけではない。必要な物。選んだ物。捨てた物。写真。記憶。
*
夕方、荷物を少し整える。
母の茶碗。父の写真。手帳一冊。ネクタイの写真。小さなぬいぐるみ。真尋が子どもの頃に持っていたもの。
「それ、残したんですね」
俊介が言う。
「私が持ちたいから」
母が答える。
「真尋のためではなく?」
「はい。私のため」
*
帰る時間。
「次は、葵ちゃんも連れてきて。俊介さんと同じ日じゃなくても。私も、一人ずつ話したい」
「わかりました」
「でも、無理に予定を合わせない。会いたい時に、聞く」
「はい」
*
真尋と俊介は、新しいマンションを出た。駅まで歩く。
「真尋。お母様、変わりましたね。真尋も?」
「どうでしょう」
「仕事の選択を、僕や葵さんのせいにしないようにすると」
「はい」
「でも、影響は受ける。難しい」
「はい」
「僕も」
*
電車。真尋は葵へ送る。
『母の引っ越しが終わりました』
葵から。
『新しい家で、ただいまって言った?』
『はい』
『母さんは?』
『お帰りと』
『真尋の昔の家、なくなった。寂しい?』
『少し。でも、母さんの生活は続く』
『はい』
『真尋。私、今度行く。母さんに会う。真尋の子どもの話、聞く』
『全部は聞かないでください』
『母さんが話したいところだけ。真尋が嫌なところは?』
『先に言います』
『はい。私も、自分で決める』
『はい』
*
真尋は窓の外を見た。過ぎる街。
母の古い家。新しい家。東京の自分の部屋は、もうない。大阪。俊介との家。葵との名前のない場所。
場所は変わる。
母の家を片づけたことで、過去が整理されたわけではない。
言われた言葉。背負った責任。父。仕事。母の後悔。真尋の寂しさ。
すべて残る。
*
ただ、誰が選んだのかを、少し言い直すことができた。
母は、家族の事情に影響されながら、自分でも仕事を辞めることを選んだ。
真尋は、母の言葉に影響されながら、頼られる人になることを選んだ。
俊介は、真尋の希望に影響されながら、名字を変えることを選んだ。
葵は、真尋に見てほしいと思いながら、責任者として働くことを選んだ。
誰かの影響を受けることと、誰かのせいにすることは違う。
完全に一人で決める選択など、ほとんどない。
それでも最後に、
『私はこれを選ぶ』
と言う。
疲れた時。後悔した時。相手を責めたくなった時。
もう一度、自分の選択へ戻る。
そして、本当に選び直したい時には。
辞めたい。変えたい。戻りたい。
言葉にする。以前の選択を守るために、今の生活を壊さない。
*
その夜、真尋は新しい家の自分の部屋で、母の手紙を開いた。
『真尋ならできる』
『あなたはしっかりしているから』
『お母さんは心配していません』
以前は重かった言葉。今も、少し重い。
だが、その下に、今の母の言葉を思い出す。
『心配してる』
『できなくても、帰ってきて』
『帰ってこなくても、自分で決めて』
真尋は手紙を捨てなかった。
過去の母の言葉。今の母の言葉。両方。きれいに書き換えない。
*
生活ノートを開く。
『母の家を片づけた』
『作文を捨てた』
『本を一冊残した』
『母の手紙を残した』
『父の物を減らした』
『母は、仕事を辞めたことを家族のせいにしたと話した』
『でも、家族の事情も本当にあった』
『自分で選んだ部分もあった』
『私も、誰かの影響を受けて選ぶ』
『俊介』
『葵』
『会社』
『母』
『それでも、私が選んだと言う』
『無理なら、無理と言う』
『嫌なら、嫌と言う』
『後から相手のせいにする前に話す』
最後に。
『大切な人のために選ぶことを、すべてやめる必要はない』
『ただ、その選択を相手への借金にしない』
*
俊介が扉をノックした。
「入っても?」
「はい」
俊介が顔を出す。
「お母様から連絡がありました」
「何と?」
「お茶の置き場所がわからないと。電話しますか」
「母さんが、自分で決めます。でも、候補を聞きます」
真尋は電話をかける。母の新しい家。台所。棚。生活が始まる。
*
葵は、自分の部屋で、真尋から送られた空の部屋の写真を見ていた。
机がない。本棚がない。誰もいない。それでも、真尋がいた場所。
葵は写真を保存する。真尋の過去を所有するためではない。一度、見せてもらった記録。
次に母へ会う時、葵は何を聞くか考えた。
子どもの真尋。泣いた日。笑った日。頼られる人になりたいと書いた作文。
だが、全部は聞かない。母が話したいこと。真尋が見せたいこと。知らないまま残すこと。
*
真尋の母の家はなくなった。
だが、母は新しい家で朝を始める。自分で茶の置き場所を決める。階段のない生活。駅。病院。スーパー。
真尋も、自分の家で朝を迎える。
大阪へ行く日。東京にいる日。俊介と過ごす日。葵へ会う日。一人の日。
誰かのために選ぶこともある。自分のために断ることも。
どちらも、後から誰かのせいにしないように。選ぶ前に話す。選んだ後にも迷う。迷ったら、また話す。
*
母の家を片づけた日、真尋は過去を捨てたのではなかった。
過去へ置いていた責任の一部を、自分の手へ戻した。
そして、母の分まで背負うのではなく。母が自分で選んだ人生を、母へ返した。
それぞれが、自分の選択を持つ。その上で、必要な時には助けを求める。
家族だから。夫婦だから。名前のない場所だから。ではなく。
今日、この人へ頼りたいと、自分で言う。
*
真尋は母との電話を終えた。
お茶は、台所の上の棚に置くことになった。母が決めた。
「決まりました?」
俊介が尋ねる。
「はい」
「どこ?」
「上の棚」
「届きますか」
真尋は一瞬止まる。
「母さん」
もう一度電話をかける。俊介が笑った。
「任せたのでは?」
「安全確認です」
*
母は電話の向こうで笑った。
『下の引き出しにする。私が決めた。でも、俊介さんの意見で変えた。それでも私の選択』
「はい」
真尋も笑う。
生活は、一人だけの判断では作れない。誰かの言葉で変わる。助けられる。傷つく。迷う。
それでも、最後に自分の手で置き場所を決める。
*
真尋は照明を落とす前に、母の手紙を棚へ戻した。扉を閉める。
過去を隠すのではない。必要な時に開くため。
明日は大阪。母は新しい家。俊介は東京。葵は責任者会議。
それぞれの朝。
誰かが選んだからではなく。誰かの影響を受けながら、それでも自分で選んだ生活が始まる。




