最終章 知らない時間を持ち寄る
秋田での販売が決まったと知らされた時、葵はすぐに真尋の顔を思い浮かべた。
午後三時を少し過ぎた会議室。窓の外では、冬の終わりを告げるような淡い雨が降っていた。
『今日を始めた、それだけで。』
四十九店舗で続いてきた商品を、東北の六店舗へ新たに置く。
全国へ一斉に広げるのではない。地域営業から届いた販売実績、朝の来店客数、店舗ごとの廃棄率、既存商品の購入層を確認した上で、条件の合う店舗だけを選んだ。
その中に、秋田の店舗が二つ入っていた。
「秋田」
葵は資料の地名を見つめた。
「何かありますか」
営業担当の相沢が答える。
「以前、行ったことがあります」
「仕事で?」
「いいえ」
葵はそれ以上説明しなかった。
真尋と初めて名前のない場所について話した土地。秋田。海。風。宿。
一緒にいなければ生きられない関係ではなく、それでも互いを失う人生を進んで選ばないと話した場所。
あの頃の葵は、真尋が自分から離れるたび、関係が消えると思っていた。
真尋が大阪へ行く。俊介と過ごす。結婚する。仕事を選ぶ。
そのたび、自分が選ばれなかったと感じた。
今も、選ばれたい気持ちはなくなっていない。ただ、選ばれない日に自分の生活まで失うことは減った。
*
「責任者として、現地へ行きますか」
相沢が尋ねた。
「はい」
「開始前の店舗確認と、販売員向けの説明。一泊?」
「二泊にします。一日目に店舗確認。二日目に営業会議と販売員研修。三日目の朝に、売り場を最終確認して戻ります」
「わかりました。藤田さんは?」
「開発からはオンラインで。今回は私と相沢さん」
「私も?」
「営業責任者なので」
*
会議を終えた後、葵は自分の席へ戻った。すぐに真尋へ連絡する。
『秋田で販売することになりました』
送信。既読はつかない。
真尋は大阪。今日は山岸と森田が作った二拠点勤務制度の最終評価会議がある。
一年間の条件付き継続を終え、真尋個人の特例ではなく、正式な社内制度として採用されるかが決まる日。
葵は画面を閉じた。返事を待たず、自分の仕事を続ける。
*
販売数量。初回納品。地域別コピー。
秋田の店舗では、冬の朝と雪の日の来店行動が東京とは違う。車で来店する人。出勤前。除雪後。暖かい飲み物と一緒に買う人。
商品の味は変えない。売り場の位置と説明を変える。
葵は資料へ書き込む。
『寒い朝にも』
止めた。寒さを前へ出しすぎると、季節商品に見える。
『一日を始める、ひと口』
商品コピーと近い。説明しすぎない。
葵は、店舗担当者へ候補を三つ出し、現地の意見を聞くことにした。
責任者だから、最初から答えを持っている必要はない。
*
一時間後、真尋から返信が来た。
『秋田ですか』
『はい』
『いつですか』
日付を送る。少し間。
『その週は東京勤務です』
葵の胸が動く。
『一緒に行ける?』
送る。
以前なら、先に期待を膨らませ、難しいと言われた時に傷ついた。
今は、希望を言う。答えは相手のもの。
真尋からの返事は、すぐには来なかった。十分。二十分。
葵は別の資料を開く。相沢から質問。店舗ごとの初回数量。答える。南雲から、別商品の試験販売について相談。聞く。
スマートフォンを見るために、仕事を止めない。
四十分後。
『予定を確認します。仕事ではなく、私的に同行する形になります。俊介とも話します』
葵は少しだけ胸が痛む。
俊介と話す。結婚後、真尋の予定は真尋一人のものではない。
それでも、
『私も行きたいです』
と続いていた。
葵は画面を見つめた。
『はい』
短く返す。嬉しさを、今はそれだけで受け取る。
*
その夜、真尋は東京の家へ戻った。
二拠点勤務制度の最終評価は、正式採用で決まった。
真尋だけの制度ではない。地域責任者、介護や育児、配偶者の勤務地、地域人材育成など、一定の条件を満たす管理職が利用できる。
山岸と森田が作った運用資料が、全社標準として使われる。
資料の表紙に、真尋の名前はない。
『二拠点勤務制度 運用ガイドライン』
作成部署。人事。地域連携室。大阪営業企画統合室。
個人名は、担当者一覧の中に小さく載るだけ。
真尋は少し寂しかった。
自分が始めた。自分が移動した。疲れた。俊介とすれ違った。葵と会えない日が増えた。山岸へ任せることを覚えた。
それでも制度は、真尋の物語ではなくなった。
それでいい。人が利用する制度は、始めた人の名前がなくても続くほうがよい。
*
「ただいま」
玄関。俊介がリビングから顔を出す。
「お帰りなさい」
「正式採用になりました」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「真尋の制度?」
「会社の制度です」
俊介は笑った。
「少し寂しそうです。名前がない?」
「はい」
「でも、残った」
「はい」
*
夕食。俊介が作ったスープ。パン。サラダ。
真尋は制度の話をする。山岸。森田。利用候補者。移動回数。健康管理。制度から自分の名前が消えること。
「葵の商品みたいですね」
俊介が言う。
「何が?」
「作った人の手を離れる。誰かの生活へ入る。真尋が毎回見なくても、続く」
真尋は頷いた。
*
「その葵から」
真尋が言った。
「秋田で販売すると」
俊介の手が止まった。
「秋田。以前、二人で行った場所。行きたい?」
「はい」
真尋は曖昧にしない。
「葵と二人で行きたいです」
俊介の表情が硬くなった。
「仕事は?」
「葵は仕事です。私は休暇を取り、二日目の夕方から合流する形を考えています。二人で、以前行った場所へ」
*
「僕は」
俊介が言った。
「行ってほしくない気持ちがあります。秋田は、二人の場所だから。僕が入れない場所」
「はい」
「今後も?」
「俊介と行く秋田がないとは言いません。でも、今回。葵と二人で戻りたいです」
俊介はスープへ視線を落とした。
「何を確認するためですか」
「関係を」
「続ける?」
「はい」
「今さら?」
言葉には、少し痛みがあった。
「今も続いています。でも、続いているから話さなくてよいわけではありません」
真尋が答えた。
「結婚。二拠点。東京の部屋を手放したこと。葵が責任者になったこと。関係は変わりました。今の私たちが、何を選ぶか。話したいです」
「永遠を約束する?」
「しません。絶対に離れないとも。俊介との結婚を否定する話もしません。私と葵の関係を、今の形で知り直すためです」
俊介はしばらく黙った。
真尋は急かさない。嫌だと言われても聞く。それでも、行きたいという希望は変えない。
*
「何泊ですか」
俊介が尋ねた。
「私は一泊」
「葵さんは二泊。同じ宿?」
「はい」
「同じ部屋?」
真尋は一度、息を吸う。
「別の部屋を取ります」
「俊介の希望?」
「私の判断です。二人で長く話します。でも、眠る場所は分けます」
俊介は安心し、同時に、その安心を恥じるような顔をした。
「ありがとうございます」
「従うためではありません。今の私たちには、その形がよいと思っています」
*
「帰ってきたら、全部話しますか」
俊介が言った。
「全部ではありません。葵との会話には、二人だけの部分があります。でも」
真尋は俊介を見る。
「今の関係を続けたいと確認したなら、伝えます。秋田で何を感じたかも、話せるところを」
「僕も、嫉妬を隠さず聞きます」
「お願いします」
「行ってきてください」
俊介が言った。
「本当は、行ってほしくない。でも、二人で行く意味はわかります」
「ありがとうございます」
「お礼だけにしないで」
真尋は吹き出した。
「嫌だと言いながら、送り出す俊介の選択として受け取ります」
*
秋田出張の日。葵は相沢と東京駅から新幹線へ乗った。
真尋はまだ東京。葵の仕事が終わる二日目の夕方に合流する。
一日目。秋田駅。営業担当との打ち合わせ。店舗視察。
雪はほとんど残っていない。空気は冷たい。以前来た季節とは違う。
同じ土地でも、景色は変わる。
一店舗目。駅近く。朝食売り場。商品が置かれる予定の棚。既存の菓子。飲み物。来店導線。
「ここだと、車から入った人は通ります」
店舗担当者が説明した。
「徒歩の人は?」
「飲み物売り場へ先に」
「なら、二か所へ小さな案内を」
葵が言った。
「商品は一か所?」
「在庫が分かれるので。案内だけ、飲み物売り場にも」
「わかりました」
*
地域コピー。現地担当者が提案した。
『雪の日も、いつもの朝へ。』
葵は、すぐに採用しなかった。
「雪の日だけの商品に見えませんか」
「冬の地域なので」
「でも、春も夏も売ります。雪は、今の生活を表す言葉としてはよいです。期間限定の札にしましょう」
「冬だけ?」
「はい。基本の札は」
葵は別案を見た。
『今日を始める、小さなひと口。』
「こちらを通年で」
「わかりました」
*
二店舗目。住宅地。
朝の来店は、出勤前だけではない。高齢者。買い物。通院。家族を送り出した後。
東京で想定した購入者とは少し違う。葵は販売員から話を聞いた。
「言葉は、若い人向けに見えますか」
「いいえ」
年配の女性販売員が答えた。
「朝を始めるのは、誰でも同じでしょう。ただ、量が少ないと思う人はいるかも」
「甘さは?」
「試食しました。食べやすい。最後の塩が、少し秋田の人には弱いかもしれない」
「味を地域で変える予定はありません」
「それでいいと思う」
「なぜ?」
「同じ商品でしょう。秋田だけ違う味にしたら、東京の人と同じものを食べてる感じがなくなる」
葵は、その言葉を記録した。
地域に合わせること。同じものを届けること。両方。
*
夜。相沢と営業担当者との会食。真尋には会わない。まだ東京。
葵は仕事を終え、自分のホテルの部屋へ戻った。真尋へ連絡する。
『一日目、終わりました』
『お疲れさまでした』
『秋田、寒い。前と違う』
『はい』
『明日、来る?』
『行きます』
『何時?』
『午後五時前』
『仕事、終わるのは四時。駅で待ちます』
『はい』
*
翌朝、葵はホテルで一人目を覚ました。窓。秋田の空。真尋はいない。
以前の旅を思い出す。あの時は、目を覚ました瞬間から真尋を探した。隣の気配。
今は一人。それでも朝食。仕事。販売員研修。
研修では、葵が商品の背景を説明した。
「この商品は、頑張るためのものではありません」
販売員たちが聞く。
「前向きになれない朝にも、食べることはできます。状況が変わらなくても、一日を始めた事実は残ります」
質問。
「お客様へ、どこまで説明しますか」
「聞かれた時だけでも構いません」
「声かけは?」
「無理にしません」
「売らなくてよい?」
「売るための商品です」
会場に小さな笑い。
「ただ、言葉を押しつけないでください。味や価格で選ぶ方もいます。その方へ、商品の意味を説明し直す必要はありません」
*
午後。初回数量。在庫。研修後の質問。開始日。
葵は責任者として最終確認をする。
午後四時十二分。仕事が終わった。
相沢は、東京へ戻るため駅へ向かう。
「小野寺さんは?」
「明日の朝に戻ります」
「個人的な予定?」
「はい」
「以前来た場所?」
「はい」
相沢は、それ以上聞かなかった。
「お疲れさまでした」
*
秋田駅。午後四時五十分。葵は改札前に立っていた。
東京から来た列車が到着する。人。荷物。
その中に、真尋。黒いコート。小さな鞄。以前より少し短くなった髪。
葵を見つけた。
「真尋」
「お疲れさまでした」
「ただいま」
葵は言った。
大阪の駅でも。真尋の部屋でも。新しい家では、まだ迷った言葉。
秋田で。
「お帰りなさい」
真尋が答えた。
*
「仕事は?」
「終わった。販売、来週」
「見に行く?」
「明日の朝、一緒に」
「今日は?」
「海」
葵が言った。
「前の場所」
「行きましょう」
*
宿へ荷物を置いた。以前と同じ宿ではない。あの宿は、改装のため休業中だった。
近くの小さなホテル。部屋は別。真尋の部屋。葵の部屋。チェックイン。鍵。
「前と違う。同じ部屋じゃない」
葵が言った。
「はい」
「嫌?」
「少し」
「私もです」
「真尋も?」
「はい」
「でも、これでいい?」
「今は」
*
荷物を置き、二人は海へ向かった。バス。歩く。風。
春が近い海。空は薄い灰色。波。
以前訪れた季節とは違う。同じ場所を探そうとしても、完全には同じ景色にならない。
「ここ?」
葵が尋ねた。
「もう少し先だったと思います」
「覚えてない?」
「曖昧です」
「真尋、何でも覚えてると思ってた」
「忘れます」
二人は歩いた。海沿いの道。小さな店。新しい看板。閉まった建物。
以前入った喫茶店は、別の店になっていた。
「なくなった。あそこで話した。覚えてる?」
「内容は」
「店は?」
「窓際。葵が、コーヒーを冷ましたまま飲まなかった」
「そんなこと?」
「覚えています」
*
二人は、新しい店へ入った。同じ場所ではない。
海が見える窓。温かい飲み物。向かい合う。
葵が窓の外を見た。
「私たち、出会ってから、五年になった」
真尋は頷いた。
「五年」
「長い?」
真尋はすぐに答えなかった。
五年。ずっと一緒にいたわけではない。
会わなかった日。話さなかった夜。大阪。東京。秋田。俊介。直哉。仕事。母。美月。山岸。森田。
それぞれの生活。
「長かったと思います」
真尋が答えた。
「でも、短い?」
「時々」
*
葵はカップを両手で包んだ。
「出会った時、私は二十五歳だった。今、三十歳。真尋は、三十六歳だった。今、四十一歳」
「はい」
数字にすると、時間が形になる。
二十五歳の葵。直哉との関係に傷つき、誰かに見てもらえなければ自分が消えると思っていた。
三十六歳の真尋。仕事ができ、頼られ、必要とされることで自分の価値を保っていた。
今。
三十歳の葵。商品責任者。撤退を決める。受賞しない壇上へ立つ。見てほしい人がいなくても、自分の仕事をする。
四十一歳の真尋。部長。二拠点勤務。俊介の妻。仕事を任せる。葵の人生を守るのではなく、見守る人。
*
「五年前、真尋、私のことどう思った?」
葵が言う。真尋は考えた。
「無理をしている人。笑っているのに、何かを確認するように、私の顔を見ていました」
「怖い。真尋は? 無理してなかった?」
「していました」
「でも、私には見せなかった。仕事ができる人。何でもわかる人。今は?」
真尋は笑った。
「わからないことが多いです。忘れる。迷う。断る。失敗する」
「それでも、真尋」
「はい」
*
葵は、初めて出会った日のことを思い出した。
真尋の整った服。落ち着いた声。葵の話を途中で否定しなかった。
直哉との関係。別れ。自分が悪いのか。戻るべきか。
真尋は答えを決めなかった。ただ、
『葵は、どうしたいですか』
と聞いた。
あの問いが、当時の葵には冷たく感じた。答えを渡してほしかった。
今は、その問いが自分の人生を返すためのものだったとわかる。
*
「直哉と別れた後」
葵が言う。
「私、真尋へ全部預けた。朝も。夜も。何を食べたか。仕事で何を言われたか。返信が遅いと」
「怒りました」
「泣いた。真尋、苦しかった?」
「はい」
真尋は正直に答えた。
「でも、言わなかった」
「はい」
「なぜ?」
「葵を守ることが、私の役割だと思っていました。必要とされることが嬉しかった。葵が回復すれば、私が役に立ったと思えた。私も、葵へ依存していました」
葵が真尋を見た。
「私に?」
「必要とされる自分へ。葵が一人で生きられるようになることを願いながら、一人で生きられるようになれば、私の価値がなくなるようにも感じていました」
*
「今は?」
葵が尋ねた。
「葵は、私がいなくても生きています。仕事。美月。母。一人の部屋。それでも、私に会いたいと言う。嬉しいです」
「必要だから?」
「選んでいると感じるからです」
葵の目が潤んだ。
*
「真尋が大阪へ行くって言った夜、私、捨てられると思った。東京からいなくなるだけで、関係が終わるって。大阪へ一度も行ってないことも、自分だけ、真尋の生活から外れてるみたいで」
「はい」
「だから、行った。最初はホテル。次は泊まった。別の部屋。嫌だった。でも、朝が来た。私、一人で眠った。真尋が隣の部屋にいた」
「はい」
「それで、少しわかった」
「何を?」
「同じ布団じゃなくても、同じ朝にいられる」
真尋は頷いた。
*
「俊介さんと結婚するって聞いた時、本当に嫌だった。今も、時々嫌」
葵が続けた。
「家族。法的な人。私にはない権利。真尋が倒れたら、最初に連絡される。一緒の家。寝室」
言葉にすると、今も痛む。
「でも」
葵は続けた。
「俊介さんになりたいわけじゃなかった。結婚したいわけでも。同じ場所がほしいわけじゃない。私がほしいのは、私たちの場所」
*
「名前のない場所」
真尋が言った。
「まだ、名前がない? 五年も。長いのに」
「はい」
「名前、つけたくなったことある?」
葵が尋ねた。真尋は窓の外の海を見る。
友人。姉妹。家族。親友。どれも近い部分がある。どれも違う。
「あります」
真尋が答えた。
「いつ?」
「関係が不安になった時。名前があれば、葵へ説明できる。俊介にも。母にも。自分にも。でも、名前をつけて安心したい時ほど、つけないほうがよいと思いました」
「なぜ?」
「名前が、関係の内容を決めるからです。家族だから。親友だから。こうするべき。こうしてはいけない。私たちは、その都度話してきました」
「毎回、面倒だった」
「かなり」
二人の間に短い笑いが起きた。
*
「前は、名前がないと消えると思ってた」
葵が言った。
「真尋が結婚したら、私の場所は、説明できないからなくなる。でも」
葵は海を見た。
「今は、名前がなくても、私が選べば戻れると思う。真尋も?」
「私も選びます」
「永遠?」
葵が尋ねた。
「約束しません」
「ずっと変わらない?」
「変わります」
「離れない?」
「離れたい時が来る可能性はあります」
葵の胸が痛む。それでも、以前のように否定を求めない。
「私も? 真尋から離れたいと思う日、あるかもしれない。その時」
「言ってください」
「言ったら、終わる?」
「休むのか。距離を変えるのか。終えるのか。話します」
「終える可能性も、言う?」
「はい」
「嫌」
「私もです。でも、嘘で絶対って言わない」
「代わりに?」
葵が尋ねた。真尋は葵を見る。
「変わった時は、また話します。傷ついた時も。会いたい時も。離れたい時も。戻りたい時も。知らない時間を持ち寄ります」
葵は頷いた。
*
「私たち、ずっと一緒にいたわけじゃない」
葵が言った。
「会えなかった日。話さなかった週。真尋が大阪。私が出張。表彰式。真尋、いなかった。でも、後から見た。それも、五年に入る?」
「入ります」
「一緒にいなかったのに?」
「一緒にいなかった時間を、後から持ち寄ってきましたから」
葵は、以前想像した言葉を実際に聞いたような気がした。
「真尋が見てない間、私、責任者になった。撤退した。再販売した。また撤退した。候補になった。受賞しなかった。大阪で売った。今、秋田」
「はい」
「真尋は?」
「葵が見ていない間に、結婚しました」
「聞いてた」
「二拠点制度を作りました。山岸さんへ任せました。母の家を片づけました。東京の部屋を手放しました。自分の部屋を、俊介との家の中に作りました」
「お互い、見てない時間が多い。でも、今、聞ける。全部じゃない。知らないこともある。俊介さんとのこと。私の美月とのこと。仕事の全部。それでいい?」
「よいと思います」
*
二人は店を出た。海沿いの道を歩いた。
以前と同じ場所を、正確には見つけられない。砂浜。風。波。
葵の髪が乱れる。真尋もコートの襟を押さえる。
「寒い。前も?」
葵が言った。
「寒かったと思います」
「覚えてない」
「はい」
海へ近づいた。足元。波の音。人は少ない。
真尋と葵は、並んで立つ。
以前、ここで何を話したか。正確な言葉は残っていない。
ただ、名前のない場所を二人で選んだこと。
互いがいなくても生きる。それでも、互いのいない人生を進んで選ばない。大きな選択は、決める前に話す。傷ついたことを消さない。距離を置く時は、戻る日を決める。変わらない形を求めない。
*
「真尋。五年前の約束、全部守れた?」
「いいえ」
「はい」
「決めた後に話したことも。傷ついたことを、わかったふりで済ませたことも。戻る日を曖昧にしたことも」
「はい」
「葵は?」
「止めようとした。結婚。大阪。でも、止められなかった。怒った。関係を使って、真尋を動かそうとした。でも、何度も話した」
「はい」
*
「約束を守れなかったら、約束は意味がない?」
葵が言った。
「いいえ」
「なぜ?」
「戻る場所になりました。守れなかった時に、何が違ったかを話す基準。完璧に守るためではなく、忘れた時に戻るため」
葵は海を見た。
「今日も戻った」
「はい」
*
「真尋。私、今も真尋に見てほしい。商品。責任者の私。失敗した私。誰にも選ばれなかった日。でも」
葵は思わず笑った。
「見てもらうまで、私が消えるとは思わなくなった。真尋が見られない日、私は、その日の私を生きる。後から持ってくる。見てくれる?」
「見ます」
「全部?」
「全部は無理です。でも、葵が見せたいものを、今から見ます」
*
「私も」
真尋が言った。
「何を?」
「葵に見てほしいです。頼られない私。失敗した私。俊介と喧嘩した私。仕事を手放した私。母の前で泣いた私。全部じゃなくても、知ってほしい」
「知る」
葵は答えた。
風が強くなった。波が白く崩れる。
二人は離れて立っている。手はつながない。抱きしめない。
それでも同じ海を見る。
*
「五年後、私は三十五歳。真尋は四十六歳。会ってる?」
葵が言った。真尋はすぐに答えない。
「わかりません」
「嫌」
「はい」
「でも、嘘は?」
「言いません。会っていたいです」
真尋が続けた。
「今の希望として。五年後も。十年後も。葵の知らない時間を聞きたいです」
葵の目に涙が浮かんだ。
「私も。でも、今と同じじゃない。仕事も。住む場所も。俊介さんも。母さんも。美月も。私たちも」
「はい」
*
「その時、また、ここへ来る?」
葵が言った。
「秋田へ? 必要なら」
「記念日みたいに毎年は?」
「しません。来なければ続かない場所にしない。でも、戻りたくなったら」
「はい」
「来ましょう」
*
葵は一歩、真尋へ近づいた。
「抱きしめて」
「はい」
二人は海の前で抱きしめた。長く。
恋人ではない。姉妹でも。家族でも。ただの友人とも違う。
名前を求めず、互いの体温を受け取る。
*
「真尋。私、二十五歳の時、真尋に会わなかったら、どうなってたと思う?」
「わかりません」
「真尋は? 葵に会わなかったら?」
真尋は考えた。
「もっと長く、必要とされることだけで、自分を保っていたと思います。仕事。母。俊介と出会っても、頼られる私だけを見せたかもしれません」
「はい」
「葵に必要とされすぎて、苦しくなったことで、自分も相手へ依存していると知りました」
*
「私も」
葵が言った。
「真尋に会って、依存した。出会ったから、苦しくなったこともある。会わなければ、真尋に捨てられる怖さはなかった。でも」
葵は抱擁を解き、真尋を見た。
「会ってよかった」
「私もです」
*
宿へ戻る前、二人は海辺のベンチへ座った。葵が鞄から商品を二袋出す。
『今日を始めた、それだけで。』
「持ってきましたか」
「秋田販売前の確認用。食べる?」
「朝の商品です」
「今は夕方。前も夜に食べた」
「はい」
二人で袋を開けた。軽い甘さ。最後の塩。
秋田の風の中で食べる。
*
「商品、全国へ広げますか」
真尋が言った。
「まだ。東北の結果を見る。秋田で売れなくても、全国が失敗とは思わない」
「売れたら?」
「すぐ全部へ広げない」
「責任者。次の商品は?」
「考えてる」
「何を?」
「まだ言わない」
「真尋にも?」
「決まる前は。見てほしいけど、真尋の反応で決めたくない」
「わかりました」
「少し寂しい?」
葵が尋ねた。
「はい。でも、葵の企画です。決まった時に聞きます」
「落ちた時も? 選ばれなかった夜も?」
「はい」
「でも、次は一人でケーキ食べるかも。美月と。真尋へ、後から」
「はい」
「それでいい」
*
宿。夕食は別々ではなく、館内の食事処で一緒に取った。
海のもの。温かい汁物。地酒は少しだけ。
仕事の話。俊介。母。美月。山岸。森田。
何でも話すわけではない。思いついたことを話す。沈黙もある。
「俊介さん、行ってほしくないって? でも、行ってきてって」
葵が言った。
「はい」
「嫉妬。帰ったら?」
「話します」
「全部?」
「全部ではありません。今日、関係を続けたいと確認したこと。変わった時は話すと決めたこと。伝えます」
「嫌じゃない? 私とのことを、俊介さんに話す」
葵が尋ねた。
「内容を全部渡すわけではありません。でも、私の生活に影響する関係です。隠しません。葵は?」
「美月に話す。母にも少し。でも、全部じゃない。私たちだけのことも」
「はい」
*
夕食後。部屋へ戻る廊下。真尋の部屋。葵の部屋。隣ではない。
「別々。寂しい」
葵が言った。
「私もです」
「でも、寝る。朝」
「六時半にロビー」
「早い」
「店舗確認があります。仕事なので」
「はい」
「真尋。今日は、隣にいてって言わない。でも、電話していい?」
葵が言った。
「眠れなければ」
「はい」
「私からも」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
二人は、それぞれの部屋へ入った。
*
葵は一人のベッドへ横になった。
秋田。五年前。二十五歳。今、三十歳。真尋は四十一歳。
出会った頃の二人。今の二人。同じではない。変わった。
それでも、今日一緒に海を見た。
スマートフォン。美月から。
『どう?』
『話した』
『何を?』
『五年のこと。名前のない場所』
『まだ名前ない?』
『ない。でも、戻れた』
『よかった』
母から。
『秋田寒い?』
『寒い』
『真尋さんと?』
『はい』
『仕事もちゃんと』
『終わった』
葵は真尋へ連絡しない。今夜は一人で眠る。
海で話したことを、自分の中へ置く。
*
真尋も、自分の部屋。俊介からメッセージ。
『話せましたか』
真尋は返信した。
『はい』
『どうでした』
『関係を続けたいと、今の二人で確認しました』
既読。少し間。
『はい』
『変わった時は、また話します』
『僕とのことも?』
『もちろんです』
俊介から。
『嫉妬しています。でも、行ってよかったと思いますか』
真尋は窓の外を見た。
『はい』
『わかりました』
『明日、帰ります』
『待っています』
真尋は画面を見つめた。
待っている。急いで帰らなければではなく。帰りたい。
『ただいまと言います』
『お帰りと言います』
*
翌朝。午前六時半。ロビー。葵が先にいる。真尋が来る。
「おはよう」
「おはようございます」
「眠れた?」
「はい」
「私も。連絡しなかった。少し待った?」
真尋は正直に答えた。
「少し。でも、眠りました」
「はい」
*
朝食前に、秋田の店舗へ向かう。販売開始前。棚。商品。店頭札。
『今日を始める、小さなひと口。』
冬季限定の札は、まだ試作。
『雪の日も、いつもの朝へ。』
葵が位置を確認した。真尋は離れて見ている。口を出さない。
「どう?」
葵が尋ねた。
「仕事の意見?」
「今は」
「文字が少し小さいと思います」
「販売員さんも言ってた。変える」
葵は店舗担当者へ相談した。一段上。文字サイズ。商品を隠さない。決める。
「真尋。見た?」
葵が言った。
「はい」
「責任者の私。どう?」
「自分で聞き、自分で決めていました。よく頑張りました」
「今のは?」
「葵を大切に思う人として」
*
駅。東京へ戻る列車。二人は並んで座った。秋田の景色が流れる。
商品。海。五年。今の年齢。名前のない場所。
全部を話し終えたわけではない。話し終える必要もない。
「真尋。帰ったら、俊介さんの家」
葵が言った。
「私たちの家です」
「ただいまって言う?」
「はい」
「私は、自分の部屋。一人。寂しい」
「私もです」
「でも、帰る」
「はい」
「次に会いたくなったら、連絡する」
葵が言った。
「はい」
「すぐ会えない時もある」
「あります」
「次の日を決める。それまでは」
葵は窓の外を見た。
「私の生活をする。真尋も?」
「私の生活をします」
*
東京駅。改札。別れる場所。
真尋は俊介のいる家へ。葵は自分の部屋へ。
「行ってきます」
葵が言った。
「行ってらっしゃい」
「また」
「はい」
抱きしめない。手も握らない。人の流れの中。互いを見る。
葵が先に歩き出した。振り返らない。真尋も別の方向へ。
*
真尋は東京の家へ着いた。鍵。扉。
「ただいま」
俊介がリビングから出てきた。
「お帰りなさい」
真尋は靴を脱いだ。俊介の顔。緊張。安心。
「秋田は?」
「寒かったです」
「葵さんとは?」
「話しました。五年前のこと。今のこと。これから。関係を続けたいと確認しました」
俊介の表情が痛んだ。
「はい」
「変わった時は、また話します」
「永遠は?」
「約束しませんでした」
「僕とのことは?」
「葵へ話しました」
「何を?」
「俊介との結婚を否定する関係ではないこと。私が、この家へ帰ること」
*
「真尋」
俊介が言った。
「僕は、まだ嫉妬しています。秋田に二人で行ったこと。僕が入れない時間。でも」
俊介は息を吐いた。
「帰ってきた真尋と、今から話せます。全部知らなくても、それで続けたいです」
「私もです」
*
二人は台所へ向かった。俊介が用意した夕食。
真尋は秋田で買った菓子を出した。葵の商品ではない。土地のもの。
「葵さんの商品は?」
「来週からです」
「売れますか」
「わかりません。葵が決めます」
「はい」
*
一方、葵は自分の部屋へ帰っていた。鍵。扉。
「ただいま」
誰も答えない。それでも、部屋は静かに葵を迎える。
鞄を置き、コートを脱ぐ。冷蔵庫。洗濯物。明日の資料。美月からの連絡。母からの連絡。
自分の生活。
葵は秋田で使った資料を机へ置いた。
商品の売り場写真。販売員研修。地域コピー。次の会議。責任者としての仕事。
*
生活ノートを開いた。
『秋田へ行った』
『商品を置く』
『真尋が来た』
『出会って五年』
『私は、二十五歳から三十歳になった』
『真尋は、三十六歳から四十一歳になった』
『ずっと一緒ではなかった』
『見ていない時間があった』
『それを持ち寄った』
『名前は、まだない』
『永遠も約束しなかった』
『変わった時は、また話す』
『離れたい時も』
『戻りたい時も』
『会いたい時も』
*
葵はペンを置いた。
真尋へ長いメッセージは送らない。今日のことは、すでに話した。
それでも、短く送りたい。
『ただいま』
送信。
*
真尋は俊介と夕食を食べている時、スマートフォンの通知を見た。葵。
『ただいま』
真尋は画面を見た。俊介も気づく。
「葵さん?」
「はい」
「返しますか」
「はい」
真尋は入力した。
『お帰りなさい』
送信。それだけ。
*
葵のスマートフォンが震える。
『お帰りなさい』
葵は画面を見つめた。胸の奥が、静かに温かくなる。
返信はしない。スマートフォンを机へ置いた。
明日の服を出す。商品の売上確認。秋田の販売開始。新しい企画。朝食。睡眠。
自分の生活。
真尋も、食事を終えた。俊介と皿を洗う。
明日は本社。来週は大阪。母への電話。山岸からの報告。森田の制度説明。
葵とは、次に会う日をまだ決めていない。
*
名前のない場所は、二人を閉じ込めるための場所ではなかった。
互いの生活を止め、いつでも相手を待つための場所でもない。
それぞれが別の朝を始める。別の人と出会う。別の仕事をする。
誰かを選ぶ。誰かを選ばない日もある。傷つく。失敗する。喜ぶ。
相手が見ていない場所で、少しずつ変わっていく。
そして、会えた時。知らない時間を持ち寄る。
全部ではなく。見せたいものを。聞きたいものを。言えなかったことも。今なら言えることも。
*
変わらない約束は、もう必要なかった。
変わった時に、もう一度相手を知ろうとする。それが、二人の約束になった。
葵は三十歳。真尋は四十一歳。出会って五年。
二十五歳と三十六歳だった二人は、もういない。
けれど、その二人が選び、傷つき、会えない日を過ごした時間は、今の二人の中に残っている。
*
真尋は東京の家で、俊介と明日の予定を確認した。
葵は自分の部屋で、秋田の販売資料を開いた。
同じ夜。別の家。別の生活。
会えない夜にも、関係は空白にならない。ただ、何もしなくても続くわけではない。
戻りたいと思った時には、自分の足で扉の前へ立つ。
会いたいと言う。話したいと言う。今は会えないと答える。次の日を決める。
*
そして、戻った人が言う。
ただいま、と。
待つだけではなく、自分の生活をしていた人が答える。
お帰りなさい、と。
*
その言葉に、名前は必要なかった。




