第四十四章 見てほしい人が見ていない日
葵の商品が社内表彰の候補になったと知らされたのは、正式販売から半年が過ぎた月曜日の朝だった。
いつも通り、午前九時から責任者会議が開かれていた。会議室には、南雲、石橋、藤田、営業担当、広報担当、店舗運営担当が集まっていた。
『今日を始めた、それだけで。』
販売店舗は、四十九店舗。一度撤退した店舗へ条件を変えて再導入し、再び撤退したため、五十には戻していない。
売上は大きく伸びていない。正式販売開始時の予測を、月によって少し上回る。少し下回る月もある。
しかし再購入率は安定していた。
新規購入者が急増する商品ではない。一度買った人の一部が、月曜日や仕事の忙しい日、夜勤明け、子どもを送り出した後などに、繰り返し手に取る。
販売終了を検討するほど低くない。全国展開を急ぐほど高くもない。
それでも、毎月一定数の人が買い続けている。
葵は、その数字を以前より好きになっていた。
一度だけ大きく上がる数字ではなく、次の月にも残る数字。誰かの生活の中へ、小さく入っていることを示す数字。
*
会議では、次の半年の販売計画を話していた。
「店舗数は、現状を維持します」
葵が説明する。
「追加しない?」
営業担当が尋ねる。
「候補店舗はあります」
「なら、なぜ?」
「原料価格が来月から上がります。現在の価格を維持するなら、販売店舗を増やす前に製造量と廃棄率を見直したいです」
「二十店舗増やせば、一個当たりの製造費は下がります」
「ただし、売れ残りが増えれば意味がありません」
「前の商品と一緒に展開すれば?」
『迷う日にも、ひと息。』
全国販売が続いている最初の商品。知名度は高い。関連商品として並べれば、売上を伸ばせる可能性がある。
「一部店舗では行います」
葵が答える。
「全部では?」
「二つの商品を同じシリーズだと見せすぎると、後から出した商品が単独で選ばれにくくなります。今回は、関連を見せる店舗と、単独で置く店舗を分けます」
「試験? 期間は?」
「二か月」
葵は資料を切り替えた。数字。候補店舗。販売時間帯。廃棄。再購入。
以前なら、売上を伸ばす提案へすぐに乗ったかもしれない。責任者として成果を示したい。全国へ広げたい。選ばれたことを証明したい。
今は、続けられる形を優先する。
*
会議が終わろうとした時、南雲が資料を閉じずに言った。
「もう一件あります」
葵は画面を見る。
「何ですか」
「今年度の社内表彰。あなたのプロジェクトが、事業貢献賞の最終候補に入りました」
葵は意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「この商品が? 売上は、そこまで高くありません」
「売上だけの表彰ではありません。新商品開発。顧客理解。販売店舗を選ぶ運用。撤退と再導入の判断。責任者育成。複数の点が評価されています」
会議室の人たちが葵を見る。
「最終候補。まだ受賞ではない」
「はい」
「候補は?」
「三案件。発表は来月の全社総会です」
南雲が答える。
「壇上で説明が必要です」
「受賞した場合?」
「候補案件は、すべて短い発表をします。小野寺さんが代表です」
葵は資料へ視線を落とした。
責任者。代表。壇上。全社総会。東京本社の大きな会場。オンライン配信。経営層。社員。表彰。
胸が強く打つ。
*
「チーム全員では?」
葵が尋ねる。
「壇上へ上がるのは、代表一人です。ただし、発表の中でチームを紹介できます。候補者席には、主要メンバーも入れます」
南雲。石橋。藤田。営業担当。広報。店舗運営。この商品を作った人たち。
「私一人の表彰ではありません」
「それを、発表で伝えてください」
*
会議が終わった後、石橋が葵の肩を軽く叩いた。
「おめでとう」
「まだ」
「候補でも、すごいでしょう」
「すごい」
「言える?」
葵は吹き出した。
「候補になった私は、すごい」
「はい」
藤田も近づく。
「味を甘くしてよかったですね」
葵が藤田を見る。
「そこ?」
「塩味のままだったら、続かなかった可能性があります」
「私の案は通らなかった」
「でも、最後に塩を残した。それを責任者が決めた」
「はい」
「壇上で、味の話もしてください」
「全部は無理です」
「三分?」
「五分」
「長い」
「短い」
二人の間に短い笑いが起きた。
葵の胸の中で、喜びが少しずつ形になる。
候補。受賞はまだ。それでも、商品だけでなく、責任者としての判断が見られた。
撤退。再導入。再撤退。店舗を増やさなかったこと。味を手放したこと。全部。
*
真尋へ伝えたい。最初に。
葵はスマートフォンを手に取る。止める。
今、真尋は大阪で人事面談の期間に入っている。部長として、山岸、森田、そのほかの管理職候補、異動希望者と面談。忙しい。
それでも、メッセージは送ってよい。返事を求めない。
『社内表彰の最終候補に入りました』
送信。続けて。
『商品と、プロジェクト運営が評価されたそうです』
真尋からの返事は、すぐには来ない。葵は画面を閉じた。
俊介へも伝えるか迷う。
真尋の夫。葵の商品を新しい家で食べた。言葉について、自分の朝と重ねて話した。
俊介はプロジェクトの人ではない。葵と直接連絡を取り合う関係でもない。真尋を通さず、個人的な報告を送るほど近くはない。
送らない。次に会った時、話す。
*
母へ。
『商品が、会社の表彰候補になりました』
すぐに電話がかかってきた。
『本当? 受賞したの?』
「候補」
『でも、すごいでしょう』
「はい」
『いつ?』
「来月」
『見に行ける?』
「社員だけの総会」
『配信は?』
「社員用」
『残念』
「録画があれば、後で見せる」
『絶対』
母の声が弾んでいる。葵は、自分の喜びが母へ渡るのを感じた。
美月へ。
『表彰候補になった』
数秒で返信。
『お祝いする』
『まだ受賞してない』
『候補祝い。今日?』
『仕事』
『明日』
『はい』
真尋からの返事は、まだない。
*
昼休み、葵は社員食堂で、一人ではなくプロジェクトメンバーと食べた。
石橋。藤田。営業担当の相沢。広報の村上。
「候補になった理由」
相沢が言う。
「営業としては、撤退判断が評価されたのが意外です」
「売れない店舗を残さなかったこと?」
「はい。営業は、店舗数が多いほうが成果に見える」
「でも、売れない店舗へ置き続けると、店舗側の信頼を失います」
「わかっています。ただ、撤退を社内表彰で評価する会社になったのは、少し驚きです」
葵も同じだった。
成功。拡大。売上。受賞。そういうものだと思っていた。
今回は、続けられない場所から退いたことも評価に含まれている。
*
「壇上で、何を話しますか」
村上が言う。
「まだ」
「商品誕生の感動的な話?」
「しません」
「なぜ?」
「自分の人生を、商品へそのまま重ねたくない。開発の流れ。数字。チーム。撤退判断」
「五分で?」
「難しい」
「最初の言葉は?」
石橋が尋ねる。
「まだ」
「今日を始めた、それだけで」
「商品名ではありません」
「コピー。壇上で言う?」
「多分」
「その後?」
葵は考えた。
最初に自分が考えた。だが、一人で作ったわけではない。
味は藤田たち。営業。店舗。広報。南雲。石橋。顧客。販売員。買った人。買わなかった人。撤退した店舗。
「この商品を最初に考えたのは私ですが」
葵が言う。皆が見る。
「続けられる形にしたのは、一緒に働いた皆さんです」
石橋は思わず笑った。
「それ。最初に言う?」
「受賞した後の言葉みたい」
「候補発表でも言っていい」
*
昼休みが終わる頃、真尋から返事が来た。
『最終候補、おめでとうございます』
葵の胸が温かくなる。
『ありがとうございます』
『発表はいつですか』
日付を送る。少しして。
『その日は、大阪で管理職最終面談があります』
葵は画面を見た。
まだ、見に来てほしいとは言っていない。だが、先に来られない可能性を伝えられた。
胸の中の喜びに、小さな影が落ちる。
『はい』
送る。真尋から。
『時間は?』
午後の開始時間を送る。
『面談と重なっています。オンラインでも、リアルタイムでは見られないと思います』
葵は指を止めた。
来られない。見られない。表彰式。壇上。責任者。
真尋に見てほしい。最初から聞いてほしい。
『わかりました』
送る。
*
すぐに、真尋から。
『見てほしいですか』
葵は画面を見つめた。
聞かれた。物わかりよくしない。
『見てほしい』
『はい』
『会場にいてほしい』
『はい』
『難しい?』
返事は少し後。
『かなり難しいです。面談日程を動かせるか確認します』
葵の胸が揺れる。
来てほしい。でも、真尋の仕事。管理職最終面談。山岸の次の役職。森田の評価。ほかの人。真尋だけの予定ではない。
『無理しないで』
打つ。消す。それは、本当の希望ではない。
『確認して』
送る。真尋から。
『はい』
*
夕方、真尋は大阪の部長席で、面談予定表を見ていた。
表彰式の日。午前十時。午後一時。午後三時。管理職候補三人の最終面談。本社人事もオンライン参加。支社長。真尋。山岸。森田。候補者。
日程は一か月前から調整されている。変更するなら、複数人の予定へ影響する。
葵の表彰式は午後二時。東京へ移動して会場へ行くには、朝から移動が必要。午後の面談を動かすだけでは足りない。前日から東京へ戻る。午前の面談も変更。全日程。
真尋は人事へ相談した。
「日程変更の可能性を確認したいです」
『理由は?』
「私的な予定です」
『重要なご予定ですか』
「はい」
『候補者三人と、支社長、本社人事の予定を再調整する必要があります』
「はい」
『翌週は?』
「候補者の一人が出張です」
『その次は、人事会議。変更すると、最終決定が二週間遅れます。異動発表にも影響します』
真尋は聞く。
葵の表彰式。管理職候補の人生。異動。仕事。
どちらも大切。だが、影響の範囲が違う。
*
『水口部長』
人事担当が言う。
『ご事情を詳しく伺う必要はありません。ただ、変更する場合は、部長判断として理由を説明してください。私的な予定を優先すること自体が問題なのではありません。影響を引き受ける必要があります』
「わかっています」
真尋は一度、息を吸った。
「日程は変更しません。確認だけで、申し訳ありませんでした」
『いいえ』
*
電話を切る。胸が痛い。
葵へ見てほしいと言われた。確認すると答えた。来られない。リアルタイムでも見られない。
後から。また、後から。
全国発売の日。帰れない夜。責任者になった日。何度も、後から聞いた。
今回は表彰候補。壇上。大切な日。
真尋はスマートフォンを手に取る。すぐに送らず、山岸へ声をかけた。
「少し、話せますか」
*
小会議室。山岸が向かいへ座る。
「表彰式?」
真尋が驚く。
「なぜ?」
「先ほど、日程表を何度も見ていたので。葵さん?」
「社内表彰の最終候補です」
「おめでとうございます。行きたい?」
「はい」
「面談、動かせない?」
「動かせます。ただ、決定が二週間遅れます。候補者の異動にも」
*
「水口さん。私たちに任せて、東京へ行きますか」
真尋は山岸を見た。
「最終面談です」
「支社長と人事。私も同席します。水口さんがいなくても、面談自体は可能です」
「部長としての評価があります」
「書面で。オンライン参加は?」
「表彰式と重なります」
「午前だけ?」
「移動を含めると、難しいです」
「行っていいと思います」
山岸が言う。
「なぜ?」
「葵さんの大切な日でしょう。水口さんも見たい。なら」
「でも」
真尋は言葉を止めた。
任せる。以前の自分なら、山岸へ任せられなかった。今は、最終面談も山岸と支社長へ任せられるかもしれない。
しかし、管理職候補の最終判断。真尋の役割。私的な予定のために欠席する。
仕事を手放す成長なのか。大切な責任から逃げることなのか。
*
「山岸さん。私が行きたいから、任せてもよいと考えていますか」
山岸は黙った。
「それもあります。でも、私も最終面談へ参加できる立場になりました。水口さんがいなくても、候補者の評価を説明できます。以前ならできませんでした。だから」
山岸は言う。
「行ってもいいと思います」
*
真尋は胸が揺れる。
葵へ行ける。会場。壇上。見てほしい人として。
だが、候補者の一人は山岸自身ではない。山岸はすでに管理職。今回の候補者には、真尋が直接育成してきた人もいる。
その人へ、最終面談の日に部長がいない。理由は私的な表彰式。相手がどう感じるか。
「候補者へ、私が欠席する理由を言えますか」
真尋が尋ねる。
「私的な予定。大切な人の表彰式」
山岸が答える。
「言えますか」
「私は」
山岸は考える。
「言えます」
「候補者が、自分の面談より大切なのかと思っても?」
「思うかもしれません。でも、水口さんがいなければ評価できない面談なら、制度の問題です。ただ、水口さん自身が、欠席したことを後悔しないか。それはわかりません」
*
真尋は長く考えた。
葵へ行きたい。それは明確。仕事へ残りたい。それも。
どちらかを選ぶ。全部はできない。
山岸へ任せて東京へ行けば、大切な人の晴れ舞台を見られる。任せる成長も示せる。
だが、今の自分は、行きたい気持ちを正当化するために任せることを使っていないか。山岸の成長を、自分の私的な希望を叶える道具にしていないか。
「残ります」
真尋は言った。山岸は驚く。
「本当に? 私たちへ任せられない?」
「任せられます。でも、今回は私が参加したいです」
「なぜ?」
「候補者三人の最終判断を、自分の仕事として引き受けたい。葵の表彰式へ行きたい気持ちもあります。それでも、今回は仕事を選びます」
山岸は頷いた。
「わかりました」
*
「ただ」
真尋が続ける。
「面談は山岸さんが進行してください」
「私が? 私が残るなら、水口さんが?」
「私は評価者として参加します。進行は山岸さん。私がいなくてもできる形を、今日から作ります」
山岸は声を立てて笑った。
「表彰式へ行けない代わりでは?」
「少し。でも、次に同じことがあった時、本当に任せられるように」
*
真尋は葵へメッセージを送った。
『日程を確認しました』
既読はすぐについた。
『はい』
『表彰式には行けません』
既読。返事が止まる。
『管理職候補の最終面談を選びます』
送る。数分後。
『はい』
短い。
『リアルタイム配信も見られません。後から録画を見せてもらえますか』
返事は来ない。
*
十分後、葵から電話。
「もしもし」
『今、話せる?』
「はい」
『来ない。また仕事。私より』
「はい」
真尋は明確に答える。葵の呼吸が少し乱れる。
『見てほしかった。壇上。候補だけど。受賞しなくても。商品を説明する。責任者として。真尋に見てほしかった』
「はい」
『山岸さんに任せられない?』
「任せられます」
『なら、なぜ』
「私が、最終面談へ参加したいからです」
『仕事を手放せないから?』
「それだけではありません。候補者の最終判断を、自分の役割として引き受けたい。山岸さんに進行は任せます。でも、私は残ります」
葵が黙る。
*
『私の表彰式は、後から見ればいい?』
「後から見たいです」
『その場じゃなく。また』
「はい」
『真尋』
葵の声が震える。
『私、表彰されても、嬉しくないかもしれない。見てほしい人がいない』
「誰が会場にいますか」
『南雲さん。石橋さん。藤田さん。営業。店舗』
「一緒に作った人たちがいます」
『はい』
「でも、私がいないことは、寂しいですね」
『うん』
*
「葵。私がいないから喜んではいけない、とは思わないでください」
『わかってる。でも、喜べないかもしれない』
「その時は、喜べない自分もその場にいてください」
『何それ』
「無理に笑わなくてよいです」
『壇上では笑う。仕事だから』
「はい。でも、心の中まで同じにしなくてよいです」
『はい』
*
『俊介さんは?』
葵が尋ねる。
「表彰式? 仕事だと思います」
『見に来ない?』
「聞いていません」
『真尋から聞いて。誰か、見てほしい』
真尋は考える。
俊介は葵の大切な人ではない。だが、商品を知っている。新しい家で食べた。葵の仕事を、少し見てきた。
「葵から希望しますか」
『真尋が聞いて。私から直接は、まだ』
「わかりました」
*
電話を切った後、真尋は俊介へ連絡した。俊介は東京。仕事中。
『葵の商品が、社内表彰の最終候補になりました』
返事。
『おめでとうございます』
『表彰式の日、私は大阪の面談で行けません。葵は、見てほしい人が会場にいないと』
返事が止まる。
『僕に行ってほしいということですか』
『葵が、誰かに見てほしいと。俊介の予定は?』
しばらくして。
『その日は、顧客との出張です。夕方まで戻れません』
真尋は画面を見る。俊介も行けない。
『録画なら見られます。葵さんへ、僕から連絡したほうがいいですか』
真尋は考えた。
葵は直接連絡する関係ではない。だが、俊介が自分の言葉で伝えることには意味があるかもしれない。
『短くなら』
『わかりました』
*
その夜、葵のスマートフォンへ、俊介から初めて個人的なメッセージが届いた。
『表彰候補、おめでとうございます。真尋から聞きました』
葵は画面を見つめる。
俊介。連絡先は、新しい家へ行く前に緊急時のため交換していた。これまで直接やり取りしたことは、ほとんどない。
『ありがとうございます』
『当日は仕事で会場へ行けません』
葵の胸が沈む。
『はい』
『後から録画を見せていただけるなら、見たいです』
葵は驚く。
『本当に? 真尋が見るから?』
送ってから、少し刺々しいと思う。
俊介からの返事。
『それもあります。でも、僕も商品を食べました。真尋がいない朝に、自分で生活を始める人のための言葉だと感じました』
以前、新しい家で言った言葉。
『その商品が、会社でどのように評価されたか知りたいです』
葵はしばらく画面を見た。
『わかりました』
『表彰されなくても?』
『候補者としての発表も見たいです』
*
『当日』
俊介から続く。
『真尋も僕も、その場にはいません。でも、見ていないわけではありません』
葵は、その言葉にすぐ返事ができなかった。
その場にいない。リアルタイムでは見ない。後から。
それでも、見たいと言う。
『はい』
葵は送った。
*
表彰式まで、一か月。葵は五分間の発表資料を作った。
一枚目、商品写真。
『今日を始めた、それだけで。』
二枚目、開発背景。三枚目、試験販売。四枚目、撤退と再導入。五枚目、継続。六枚目、チーム。七枚目、今後。
五分で七枚は多い。村上から言われる。
「削りましょう」
「どこを?」
「開発背景」
「必要」
「撤退」
「必要」
「チーム」
「絶対」
「今後」
「必要」
「全部必要ですね」
「はい」
「なら、商品誕生の個人的なきっかけを削る」
村上が言う。葵は考えた。
「はい」
「よいのですか」
「全部話さなくていい。この商品は、私だけの人生から作ったわけではない。顧客調査。朝の生活。一人で起きる人。誰かに見られなくても始める日。そこを話す」
*
最初の一文。
「この商品を最初に考えたのは私ですが、続けられる形にしたのは、一緒に働いた皆さんです」
候補発表の冒頭にする。次に。
「私たちは、売れない店舗から撤退しました」
表彰候補の場で、失敗から話す。
「一度条件を変えて戻し、再び撤退しました」
会場がどう受け取るか。成功談としてきれいではない。
だが、それがこの商品の運営。
*
南雲が発表練習を聞いた。
「よいです」
「本当に? 受賞を逃す話にならない?」
「審査は終わっています。表彰式の発表は、取り繕う場ではありません」
「はい」
「小野寺さん。誰に見せたいですか」
葵は答えに詰まった。
真尋。最初に浮かぶ。俊介。母。美月。商品を買った人。チーム。
「真尋。でも、来ない」
「なら?」
南雲が尋ねる。
「会場の人。一緒に作った人。候補になったほかの人。自分」
「自分にも?」
「責任者として、ここまで来たことを見せたい」
言葉にすると、不思議だった。
自分が、自分を見る。真尋に見てもらうまで、存在しないわけではない。
壇上に立つ自分を、自分で覚える。
「録画も残ります。後から見る人も。その場にいない人へ届くこともあります」
南雲が言う。
「でも、当日の葵は、当日の人たちと立つ。それを忘れないで」
*
美月は、表彰式の会場へ入れない。だが、前日の夜に葵の部屋へ来た。
「服」
葵が見せる。紺色のワンピース。仕事の表彰式。華美ではない。
「地味?」
「いい」
「本当に?」
「責任者。真尋さん、見られないんだ」
「うん」
「寂しい?」
「かなり」
「俊介さんも?」
「出張」
「お母さん」
「社員だけ」
「私も」
「はい」
「見てほしい人、誰もいない?」
美月が尋ねる。
「会社の人はいる。南雲さん。石橋さん。藤田さん」
「皆、見てほしい人?」
葵は考えた。
「はい」
「なら、誰もいないじゃない」
「でも、真尋さんがいない」
「それは別。いない人の席を見ながら、いる人をいないことにしないで」
美月の言葉。葵は黙った。
真尋がいない。その痛みが大きすぎて、会場にいる人たちを薄くしてしまう。
一緒に作った人。候補になったことを喜んでいる人。その人たちも、見てほしい人。
*
「美月。もし受賞したら、帰りに会える?」
「もちろん」
「遅い」
「待つ」
「受賞しなくても」
「会う。だから、会場で全部を受け取らなくてもいい」
「何を?」
「喜び。その場で感じられなかった分、後で」
「はい」
「でも、壇上では仕事」
「はい」
*
表彰式当日。東京は晴れていた。
葵は午前七時に起きた。目覚ましより早い。カーテンを開ける。朝。
自分の商品を一袋、棚から取る。
『今日を始めた、それだけで。』
袋を開ける。軽い甘さ。最後の塩。
責任者になった自分が作った商品。
今日は表彰式。受賞するかわからない。真尋はいない。俊介も。母も。美月も会場には。
それでも、自分は起きた。朝食を食べる。服を着る。髪を整える。
真尋から、午前七時十二分にメッセージ。
『おはようございます』
葵はすぐに返信する。
『起きた』
『はい』
『今日』
『はい』
『見てほしかった』
『はい』
『行ってきます』
『行ってらっしゃい』
短い。真尋も、大阪で面談の準備をしている。
俊介から。
『本日のご発表、頑張ってくださいとは言いません』
葵は笑った。続く。
『すでに、ここまで進めたことを知っています。行ってらっしゃい』
『行ってきます』
母。
『今日は表彰式でしょう。写真を撮ってね』
美月。
『泣いても化粧落とさない』
会社のプロジェクトチャット。
藤田。
『集合は十一時です』
村上。
『資料最終版確認済み』
石橋。
『遅刻禁止』
南雲。
『いつも通り』
皆いる。
*
会場。東京本社の大ホール。舞台。大きな画面。候補案件の紹介パネル。社員。役員。オンライン配信のカメラ。
葵は候補者席へ案内される。隣には、別案件の責任者。新しい物流システム。地域福祉と連携した店舗事業。
三案件。どれも成果がある。どれが受賞しても不思議ではない。
プロジェクトメンバーは、数列後ろ。南雲。石橋。藤田。相沢。村上。店舗担当の佐伯。
葵が振り返る。皆がいる。
真尋の席はない。最初から。
空席ではない。誰かが来なかった場所ではなく、最初から別の人が座る会場。
*
午後一時、全社総会が始まる。業績。経営方針。人事。来期。長い。
葵は発表資料を何度も見ない。言葉は覚えている。
受賞するか。しないか。心臓が強く打つ。
同じ頃、大阪では管理職候補の最終面談が始まっていた。
山岸が進行する。真尋は評価者席。支社長。本社人事。候補者。
真尋のスマートフォンは、会議室の外。表彰式の時間。見られない。
俊介は出張先の会議室。顧客説明。スマートフォンは鞄の中。表彰式の開始時間を知っている。だが見られない。
*
午後二時十分。事業貢献賞候補の発表。司会者が三案件を紹介する。
一つ目。物流システム。二つ目。地域連携事業。三つ目。葵の商品。
画面にパッケージ。
『今日を始めた、それだけで。』
会場の一部から、知っているという反応。
葵は舞台袖へ呼ばれる。
「小野寺さん」
南雲が通路で小さく声をかける。
「はい」
「見ています」
真尋ではない。南雲。
石橋。
「転ばないで」
藤田。
「味の話」
「時間があれば」
相沢。
「撤退の話、営業のせいにしないで」
「しません」
皆が笑う。葵も。
*
舞台。照明。会場。葵は中央へ立った。画面に商品。手にマイク。五分。
息を吸う。
「この商品を最初に考えたのは私ですが、続けられる形にしたのは、一緒に働いた皆さんです」
声は震えていない。
「『今日を始めた、それだけで。』は、何かを成し遂げた人へ向けた商品ではありません」
会場が静かに聞く。
「誰にも見られていなくても、朝起きたこと。何かを食べたこと。一日を始めたこと。その事実へ、小さなひと口を置きたいと考えました」
*
「試験販売では、すべての店舗で売れたわけではありません」
画面。店舗別の数字。
「一店舗から撤退しました。条件を変えて再導入し、再び撤退しました」
会場に驚き。
「私たちは、売り場から商品がなくなることを、簡単に失敗と呼ばないようにしました」
葵は続ける。
「その店舗では続けられなかった。なら、何が違ったのかを確認し、別の場所で試す」
画面。好調店舗。再購入率。
「売れた場所の方法も、そのまま全部へ広げませんでした。続けるために、広げないこと。残すために、撤退すること。自分の案を守るためではなく、商品が生活の中へ残る形を選ぶこと」
壇上で、自分の言葉が会場へ広がる。
真尋はいない。それでも、葵は話している。
南雲が見ている。石橋。藤田。相沢。村上。佐伯。自分自身。
*
「味も、最初の案とは変わりました」
藤田のほうを見る。
「私は塩味を残したいと考えていました」
会場に小さな笑い。
「消費者調査では、軽い甘さの評価が高かった」
画面。
「自分の好みを手放し、最後にごく少量の塩を残しました」
藤田が笑う。
「商品は、一人の考えがそのまま形になるものではありません」
葵は最後の画面へ進む。プロジェクトメンバーの名前。店舗。顧客。
「この商品を選んだ方のすべての朝を、私たちは知りません。言葉を読まず、味だけで選ぶ方もいます。一度だけ買う方も。何度も買う方も」
葵は言う。
「商品が手を離れた後は、その方の生活の中で、別の意味になります」
真尋から学んだこと。だが、今は葵の仕事の言葉。
「私たちは、これからも、売上だけではなく、続けられる場所を見つけながら、この商品を育てます」
深く頭を下げる。
拍手。大きい。
葵は顔を上げた。照明。人。
真尋はいない。それでも拍手は届く。
*
舞台を降りる。石橋が手を伸ばす。
「良かった」
藤田。
「味の話、入った」
相沢。
「撤退、営業のせいじゃなかった」
村上。
「時間、四分五十二秒」
「はい」
南雲は、何も言わずに一度頷いた。
それだけで、葵の胸が熱くなる。
*
三案件の発表が終わる。審査結果。事業貢献賞。司会者が封筒を開く。
葵は候補者席へ戻っている。手。膝。呼吸。
「今年度の事業貢献賞は」
間。
「地域福祉連携プロジェクトです」
拍手。
葵は一瞬、胸の奥が空になった。
受賞しなかった。候補。壇上。見てほしい人は来なかった。賞も。
受賞者が舞台へ上がる。葵は拍手する。
悔しい。少し。かなり。
自分たちの商品も評価された。それでも、選ばれなかった。
選ばれなかった夜を思い出す。全国展開の責任者。今回は表彰。
同じではない。責任者には、すでに選ばれている。候補にも。賞だけ。
それでも悔しい。
*
表彰式が終わる。候補案件にも、記念盾が渡される。最終候補。葵は受け取る。
写真。プロジェクトメンバー全員で。真ん中に立つよう言われる。
「私だけじゃない」
葵が言う。
「責任者」
石橋が背中を押した。
真ん中。南雲は隣。藤田。相沢。村上。佐伯。
写真。笑う。無理にではない。
受賞しなかった悔しさと、候補になった喜び。両方。
写真撮影後、南雲が言う。
「残念でしたか」
「はい」
「でも、候補になった。壇上で話した。真尋はいなかった」
「はい」
「それでも話せました」
葵は自分で言う。
「今日の私は、よくやった」
南雲が笑う。
「はい」
*
スマートフォンを確認する。真尋からの連絡はない。面談中。俊介も。
母。
『どうだった?』
美月。
『終わった?』
葵は母へ。
『受賞はしなかった。最終候補でした』
母からすぐに。
『候補でもすごい。発表、見たい』
美月へ。
『受賞しなかった』
『今から会う』
『はい』
*
プロジェクトメンバーとの簡単な懇親会。候補記念。
葵は最初、断って美月へ会いたいと思った。だが、一緒に作った人たち。今日、その場にいた人。喜びと悔しさを共有する人。
「一時間だけ参加します」
葵が言う。美月へ連絡。
『会社の人と一時間。その後』
『はい』
懇親会。小さな会議室。飲み物。軽食。藤田が紙コップを上げる。
「候補」
「受賞してない」
「候補に」
皆で乾杯。
「本音」
相沢が言う。
「受賞すると思っていました」
「私も少し」
葵が答える。
「地域福祉は強い」
「はい」
「売上では、こちら?」
「比較できません」
「責任者らしい」
*
石橋が言う。
「壇上で、真尋さんを探した?」
葵が石橋を見る。
「なぜ名前」
「前に聞いた。探した?」
「最初は。でも、いない。皆を見た」
葵は部屋にいる人たちを見た。
「いた」
「はい」
「私たちも、見てほしい人?」
藤田が尋ねる。
「はい」
「今まで違った?」
「違わない。でも、真尋が大きすぎた」
皆が黙る。葵は隠さない。
「今日も大きい。でも、皆がいた。ありがとう」
責任者としてではなく。葵として。
*
午後五時半、真尋の面談が終わる。三人目。山岸が進行した。真尋は評価者として質問。
候補者の希望。課題。異動。最終判断。終わった。
真尋は会議室を出て、すぐにスマートフォンを見た。
葵からの結果報告はない。
会社の社内ページ。表彰結果。事業貢献賞は別案件。葵は最終候補。発表動画は、翌日公開予定。
真尋の胸が痛む。
受賞しなかった。葵はどう感じているか。
電話。すぐにかけたい。しかし、葵が今どこにいるか。
メッセージを送る。
『面談が終わりました。結果を社内ページで見ました。今、話せますか』
*
葵は懇親会を出て、美月との待ち合わせへ向かっていた。
スマートフォン。真尋。面談が終わった。結果を見た。話せるか。
葵は、すぐに電話したい。今日の壇上。受賞しなかったこと。見てほしかったこと。全部。
だが美月が待っている。
『今、美月と会います』
送る。真尋から。
『はい。九時からなら』
『お願いします』
*
美月と食事。小さな店。
「お疲れさま。受賞しなかった」
「うん」
「悔しい」
「うん」
「でも、壇上で話した。真尋さんいなかった。会社の人、いた?」
「はい」
「見えた?」
「見えた」
葵はスマートフォンの写真を見せる。プロジェクトメンバー。記念盾。真ん中の自分。
「笑ってる。受賞してないのに」
「笑っていいでしょう」
「発表は?」
「録画、明日」
「私も見たい」
「社員だけかも。見せられる範囲で」
「はい」
*
「今日」
葵が言う。
「何?」
「真尋がいないから、喜べないと思った。受賞もしなかった。でも、候補になったことは嬉しい。壇上で話したのも。皆がいた」
「うん」
「私、真尋がいなくても喜んだ。少し」
「十分」
「はい」
美月が小さなケーキを出す。店へ頼んでいた。
『候補おめでとう』
「受賞じゃない」
「候補祝い」
ろうそくはない。写真。食べる。
葵は、今日の喜びを美月と受け取る。真尋へ話す前に。
それでいい。
*
午後九時、葵は自宅へ戻った。真尋へ電話。
「もしもし」
『お疲れさまでした。受賞』
「しなかった。候補。悔しい。でも、壇上で話した。見てほしかった。真尋、いなかった」
『はい』
真尋の声にも痛みがある。
『発表は、どうでしたか』
「うまく話せた。四分五十二秒。撤退の話。味を変えた話。チーム。皆が見てた。南雲さんも。私、真尋を探した。いなかった。でも、皆がいた」
『はい』
*
「真尋。私、その場で喜べた」
真尋が黙る。
『はい』
「受賞しなかったけど。候補になったこと。皆と写真撮ったこと。懇親会。美月のケーキ。真尋に話す前に、喜んだ。どう思う?」
『よかったと思います』
「寂しい?」
今度は真尋が答える番。
『少し』
「私が、真尋なしで喜んだこと?」
『はい。でも』
真尋は続ける。
『葵が喜びを、私が見るまで保留しなかったことを、嬉しいです』
*
「真尋は、今日何した?」
葵が尋ねる。真尋は面談を説明した。三人。山岸の進行。候補者の希望。異動。評価。
「行けなかったこと、後悔した?」
『はい』
「仕事を選んだこと?」
『それは、後悔していません。でも、葵の壇上を見られなかったことは、寂しいです。両方あります』
「はい」
『面談では、私がいる必要がありました。少なくとも、私はそう選びました』
「私より」
『今日は、仕事を選びました』
「はい」
*
以前なら、その言葉だけで、葵の喜びが崩れたかもしれない。
今日も痛い。だが、壇上の自分は消えない。皆の拍手。写真。ケーキ。
「真尋。仕事を選ばれたの、嫌。でも、今日の私、よくやった。真尋が見てなくても。皆が見てた。私も」
『はい』
「でも」
『今から見せてください』
*
「録画、明日」
『はい』
「資料はある」
『画面共有できますか』
「今? 全部?」
『最初から』
葵は笑った。
「五分の発表を、もう一回? 一人で?」
『私は見ています』
「はい」
*
葵はパソコンを開いた。真尋も大阪の部屋で。ビデオ通話。画面共有。
一枚目。商品。
『今日を始めた、それだけで。』
「では、始めます」
葵は、会場で話した通りに発表する。今度は、真尋一人へ。
だが、同じ発表ではない。会場には人がいた。拍手。今は、画面の向こう。
「この商品を最初に考えたのは私ですが、続けられる形にしたのは、一緒に働いた皆さんです」
真尋が聞く。途中で口を挟まない。
撤退。再導入。味。チーム。顧客。最後。
「これからも、売上だけではなく、続けられる場所を見つけながら、この商品を育てます」
葵は頭を下げた。画面越し。
真尋が拍手する。一人分。それでも聞こえる。
*
『お疲れさまでした。よい発表でした』
「仕事の評価? ほかは?」
真尋は葵を見る。
『私が見ていない間に、葵が責任者としてここまで進んだことを知りました。受賞しなかった悔しさも。それでも、候補として壇上へ立ったことも。今から見ました』
葵の目に涙が浮かぶ。
「遅い」
『はい』
「でも、見た」
『はい』
*
「真尋。私、見てほしい人が見ていない日にも、話せた。喜べた。でも、後から見てほしい。それでいい?」
『よいと思います』
「真尋も? 私が見てなくても、仕事する。後から見せる?」
『はい』
電話を切る前。真尋が言う。
『葵。最終候補、おめでとうございます』
「ありがとう」
『受賞しなかったことは、残念でした。でも、賞だけで今日を決めないでください』
「決めない。今日の私は、よくやった」
『はい』
*
翌日、発表動画が社内へ公開された。
俊介は出張から戻る新幹線の中で見た。イヤホン。葵の発表。撤退。味。チーム。最後。
俊介は真尋へ連絡する前に、葵へ直接送った。
『発表を拝見しました』
葵は仕事中。休憩で読む。
『ありがとうございます』
『受賞されなかったことは残念です。でも、候補になった理由がわかりました』
『本当に? どこが?』
俊介から。
『売れなかった店舗を、なかったことにしなかったところです』
葵は驚く。
『真尋も、そこ言うと思う』
『そうですか。僕は、真尋が帰れなかった夜を思い出しました』
葵の指が止まる。
『はい』
『会えなかったことを、後から会えた日で消さなかった。似ていると思いました』
葵は画面を見た。
俊介も、あの日を知っている。真尋が大阪へ残った。俊介の内覧もなくなった。
葵だけではなく、俊介も選ばれなかった。
『葵さん』
俊介が続ける。
『その場で見られなくて、申し訳ありませんでした』
葵は考えた。
『仕事だったので。でも、見てほしかった。後から見てくれて、ありがとうございます』
『こちらこそ、見せてくださりありがとうございました』
*
真尋は、その日の夜、俊介から発表を見たと聞いた。
「葵さんへ、直接送りました。嫌ですか」
真尋は考える。
「少し」
「なぜ?」
「私を通さず、二人で話したこと。でも、二人の関係です。私が管理することではありません」
「はい」
「何を話しました?」
「全部は」
俊介が笑う。
「言わなくていいです」
真尋は、寂しさを感じた。
葵と俊介が、自分を介さずに言葉を交わす。自分が中心ではない関係。
それでも、二人が互いを知ることは、三人の生活に必要かもしれない。
*
表彰式から一週間後、葵はプロジェクトメンバーと振り返り会議を開いた。
表彰候補になったこと。発表。受賞しなかったこと。社内からの反応。動画の再生数。問い合わせ。販売店舗追加の提案。
「表彰効果で、店舗を増やしますか」
営業担当が尋ねる。
「すぐには」
「なぜ?」
「候補になったことで一時的に注目されています。その数字を通常売上と見ません。一か月後に判断します」
「受賞していたら?」
「同じです」
葵は答えた。
賞を、拡大の理由にしない。受賞しなかった悔しさを、店舗数で取り返さない。
「発表」
村上が言う。
「社外でも使いたいという話があります」
「どこまで?」
「採用広報。責任者育成事例として。商品広告ではなく」
葵は考えた。
「チーム全員の同意を取ってください。私だけの成功事例にしない」
「わかりました」
*
会議後、南雲が葵へ声をかけた。
「小野寺さん。受賞しなかったこと、まだ悔しいですか」
「はい」
「候補になったことは?」
「嬉しいです」
「真尋さんは、見ましたか」
「後から。もう一回、発表した」
「どうでした」
「嬉しかった。でも、会場で皆に見てもらったことと、別」
「どちらが大きい?」
葵は考えた。
「比べない。会場は、仕事。真尋は、私の大切な人。美月は、後で祝ってくれた。母も。俊介さんも、録画を見た」
南雲が驚く。
「俊介さん? 関係が変わりましたね」
「少し」
*
「見てほしい人が増えましたか」
南雲が尋ねる。葵は頷いた。
「はい」
「減ることも?」
「あると思う。南雲さんが、次のプロジェクトで見なくなるかもしれない。石橋さんが異動するかもしれない。藤田さんが別の商品へ。真尋も」
言葉が止まる。
「会えない日がある」
「それでも?」
「見てほしいって言う。見られなくても、自分でやる。後から、知ってほしい」
*
真尋にも、選ばれない日が訪れた。
表彰式から二週間後。東京滞在の週末。
俊介と日曜日に家の家具を見に行く予定だった。新しい家へ引っ越して時間が経ったが、真尋の一人部屋の棚は仮のもの。二人で選ぶ。前から決めていた。
土曜日の夜、俊介が言った。
「明日、家具を、延期してもいいですか」
真尋は顔を上げる。
「なぜ?」
「北川さんたちと、旅行の打ち合わせが入ります」
「明日? 以前から旅行の話は聞いています。でも、打ち合わせは別の日でも」
「一人が、明日しか空いていません」
「真尋との家具は?」
「来月の東京滞在で」
「一か月後?」
「はい」
真尋の胸に、寂しさと苛立ちが出る。
*
「俊介。私は、明日を空けていました。大阪から戻る日程も」
「はい」
「家具を決めるために?」
「それだけではありませんが」
「楽しみにしていました。旅行の打ち合わせを選ぶ?」
「はい」
俊介は明確に答える。真尋の胸が痛む。
「私より」
「明日は、友人との予定を選びたいです」
「なぜ、今日まで言わなかったのですか」
「今日、決まりました。すぐに伝えました。真尋。寂しいですか」
「かなり」
「怒っていますか」
「はい」
「はい」
俊介は逃げない。
*
「夫婦の家の家具です。友人旅行より、優先してほしいです」
「はい。でも、明日しか全員が集まれません」
「オンラインでは?」
「実際に会いたいです」
「旅行はいつ?」
「二か月後」
「家具は?」
「すでに仮の棚があります。急ぎではないと判断しました」
「私が楽しみにしていることは?」
「わかっています。それでも、友人を選びます」
真尋は、葵へ同じことを言った日を思い出す。
今日は仕事を選ぶ。今日は自分を選ぶ。
大切でも、選ばない日がある。
*
「行ってください」
真尋が言う。
「物わかりよくしないでください」
「行ってほしくありません。でも、止めません。来月まで棚が決まらないことも嫌です。寂しいです。明日は、一人で家具を見に行くかもしれません」
「選ばずに?」
「見ます。俊介を待つだけではなく」
「はい」
*
翌日、俊介は友人と出かけた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
真尋は新しい家で一人。日曜日。
家具店へ一人で行く。自分の部屋の棚。夫婦の家。だが、自分が使うもの。
俊介と選ぶ予定だった。今日は、見るだけ。
家具店。棚。木。高さ。扉。
真尋は店員へ質問する。サイズ。配送。組み立て。写真を撮る。
俊介へすぐ送らない。今は友人と。自分で見て、自分の希望を整理する。
午後、真尋はカフェで一人、写真を見直した。
寂しい。俊介がいない。だが、夫婦の生活が止まったわけではない。自分の部屋の棚を、自分で見る。
葵へ連絡しようか。今日は葵も仕事。表彰後の店舗分析。
真尋は送らない。
誰かで寂しさを埋めるのではなく、自分の時間を過ごす。
*
夕方、俊介から。
『打ち合わせ、終わりました。家具は?』
『見ました』
『一人で?』
『はい』
『写真は?』
『帰ってから見せます』
『寂しかったですか』
真尋は返信する。
『はい』
それだけ。
*
夜、俊介が帰る。
「ただいま」
「お帰りなさい」
真尋は、すぐに笑わない。俊介も、楽しかった話から始めない。
「家具」
真尋は写真を見せた。三つの候補。
「真尋は?」
「二つ目」
「なぜ?」
「扉がある。生活ノートを見せない時に。隠したいのではなく、私のものとして」
「僕は?」
「意見を聞きます」
俊介は写真を見る。
「僕も二つ目。来月、実物を一緒に?」
真尋は考えた。
「私は、今日見ました。もう決めてもよいと思っています」
俊介が寂しそうにする。
「僕を待たない?」
「はい。私の部屋の棚なので」
「でも、夫婦で選びたかった」
「それは、今日俊介が手放した時間です」
俊介は黙る。
「責めていますか」
俊介が尋ねる。
「はい」
「はい」
「でも、旅行へ行くなとは言いません。私は、棚を自分で決めます。それで、よいですか」
「寂しいです。でも、真尋が待つ義務はありません」
*
真尋は棚を注文した。一人で。俊介も、受け入れた。
旅行を選んだ結果。夫婦の家のすべてを一緒に選べない。
それでも、旅行へ行ったことを後悔させるためではない。真尋が、自分の生活を進めるため。
その夜、真尋は葵へ電話した。
「今日、俊介に予定を変更されました。友人を選びました。寂しかったです。家具を一人で見ました。棚を決めました」
『物わかりよくしなかった?』
「行ってほしくないと言いました。でも、止めませんでした。葵が、表彰式で感じたことを少し考えました」
『何を?』
「見てほしい人がいない場所。一人で家具を見ることと、壇上は違います」
『うん』
「でも、誰かがいないから、自分の時間がなくなるわけではない。少し」
*
『真尋』
葵が言う。
「何ですか」
『私は、会場に皆がいた。真尋は一人?』
「店員が」
『そういう意味じゃない』
「はい」
『でも、棚を選んだ自分がいた。よく決めた?』
「はい」
『言って』
「今日の私は、よく決めました」
『はい』
*
表彰式の動画は、社内で多く見られた。葵の発表は、候補案件の中で最も再生数が高かった。
受賞ではない。だが、採用広報や管理職研修で使いたいという依頼が来た。
葵は、すべてに許可を出さなかった。文脈。編集。チーム名。撤退部分を削らないこと。条件をつける。
「成功部分だけを使いたい。撤退の話は、候補者へ暗く見える」
採用広報から言われた。
「残してください」
葵が答える。
「なぜ?」
「責任者の仕事は、成功だけではありません。撤退を削るなら、動画は使わないでください」
「厳しいですね。表彰候補としての見せ方は?」
「候補であることは構いません」
「受賞していない」
「それも残してください」
葵は、自分の発表をきれいな成功物語へ変えさせなかった。
見てほしい人が増えたからこそ、本当の過程を見てほしい。
選ばれたこと。失敗したこと。撤退。再導入。受賞しなかったこと。全部。
*
数週間後、真尋は大阪の部屋で、山岸と森田へ葵の発表動画を見せた。
「個人的なものですが」
真尋が言う。
「見せていいのですか」
山岸が尋ねる。
「社内公開範囲の動画を、本人の許可を得ました」
「なぜ、私たちに?」
「責任者としての失敗と継続について、参考になると思いました」
動画。葵の発表。山岸と森田が見る。
真尋は、今度はリアルタイムではない。それでも、同じ画面を皆で見る。
終わった後、山岸が言う。
「水口さん。当日、行きたかったでしょう」
「はい」
「残ったこと、後悔していますか」
真尋は考えた。
「行けなかったことは、今も残念です。面談へ参加したことも、必要だったと思います。どちらかを、間違いにしません」
山岸が頷く。
森田が言う。
「発表の中で、手を離れた後は別の意味になると。水口さんが言いそうです」
真尋は笑った。
「私も、以前話しました。でも、今は葵の言葉です。見ていない間に、進んでいた」
「はい」
*
その夜、真尋は葵へメッセージを送った。
『今日、山岸さんと森田さんにも発表を見てもらいました』
葵から。
『どうだった?』
『責任者として参考になると』
『真尋は?』
『また見ました』
『何回目?』
『三回目』
『見すぎ』
『はい』
*
『葵。当日、見られなかったことは変わりません。でも、後から知ったことも、本物です。私がいない間の葵を、今から知ることができました』
葵は返信する。
『はい』
『次も、来られないかもしれない』
『はい』
『でも、見てほしいって言う。その場にいなくても、後から、全部聞かせる』
『お願いします』
*
見てほしい人が見ていない日。
葵は一人ではなかった。一緒に働いた人がいた。見守った人。支えた人。反対した人。味を変えた人。売り場を作った人。撤退を受け入れた人。
皆がいた。
真尋も、自分がいない場所で進む葵を見た。後から。録画。資料。葵自身の言葉。
その場にいなかった事実は消えない。だが、知らないままでは終わらない。
俊介も、葵の仕事を真尋の一部としてではなく、葵自身のものとして見始めた。
美月は、会社の外で喜びを受け取った。母は、候補になった娘を誇った。
*
葵は受賞しなかった。それでも、壇上へ立った。
表彰候補として。責任者として。一人の企画者として。チームの代表として。
賞がなくても、その日は残る。
真尋がいなくても。見てほしい人へ届く前にも。
会場で話した声。拍手。笑った写真。悔しさ。美月のケーキ。後からの発表。全部。
*
葵は生活ノートへ書いた。
『見てほしい人が見ていない日に、壇上へ立った』
『受賞しなかった』
『悔しかった』
『でも、皆がいた』
『私もいた』
『その場で、少し喜べた』
『後から、真尋に見せた』
『俊介さんも見た』
『見てもらうまで、今日の私が消えることはなかった』
真尋も生活ノートへ書いた。
『葵の表彰式へ行かなかった』
『面談を選んだ』
『後悔と納得が両方ある』
『後から発表を見た』
『その場にいなかった時間を、なかったことにはできない』
『それでも、今から知ることはできる』
最後に。
『大切な人のすべての瞬間には立ち会えない』
『見ていない間にも、相手は進む』
『戻った時、最初から聞く』
『遅くても、見る』
*
葵の商品は、翌朝も店頭へ並んだ。
表彰候補の札は、売り場へつけなかった。受賞していないからではない。賞がなくても、商品は同じだから。
朝。誰かが袋を手に取る。
葵は、その人を知らない。その人も、葵を知らない。
それでも商品は、誰かの一日へ入る。
*
見ている人がいなくても、朝は始まる。
見てほしいと思ってもいい。その人が来られなくても、今日を生きていい。
そして、いつか会えた時には。
見ていなかった時間の自分を、最初から話せばよかった。




