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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第四十四章 見てほしい人が見ていない日

葵の商品が社内表彰の候補になったと知らされたのは、正式販売から半年が過ぎた月曜日の朝だった。

 いつも通り、午前九時から責任者会議が開かれていた。会議室には、南雲、石橋、藤田、営業担当、広報担当、店舗運営担当が集まっていた。

『今日を始めた、それだけで。』

 販売店舗は、四十九店舗。一度撤退した店舗へ条件を変えて再導入し、再び撤退したため、五十には戻していない。

 売上は大きく伸びていない。正式販売開始時の予測を、月によって少し上回る。少し下回る月もある。

 しかし再購入率は安定していた。

 新規購入者が急増する商品ではない。一度買った人の一部が、月曜日や仕事の忙しい日、夜勤明け、子どもを送り出した後などに、繰り返し手に取る。

 販売終了を検討するほど低くない。全国展開を急ぐほど高くもない。

 それでも、毎月一定数の人が買い続けている。

 葵は、その数字を以前より好きになっていた。

 一度だけ大きく上がる数字ではなく、次の月にも残る数字。誰かの生活の中へ、小さく入っていることを示す数字。

     *

 会議では、次の半年の販売計画を話していた。

「店舗数は、現状を維持します」

 葵が説明する。

「追加しない?」

 営業担当が尋ねる。

「候補店舗はあります」

「なら、なぜ?」

「原料価格が来月から上がります。現在の価格を維持するなら、販売店舗を増やす前に製造量と廃棄率を見直したいです」

「二十店舗増やせば、一個当たりの製造費は下がります」

「ただし、売れ残りが増えれば意味がありません」

「前の商品と一緒に展開すれば?」

『迷う日にも、ひと息。』

 全国販売が続いている最初の商品。知名度は高い。関連商品として並べれば、売上を伸ばせる可能性がある。

「一部店舗では行います」

 葵が答える。

「全部では?」

「二つの商品を同じシリーズだと見せすぎると、後から出した商品が単独で選ばれにくくなります。今回は、関連を見せる店舗と、単独で置く店舗を分けます」

「試験? 期間は?」

「二か月」

 葵は資料を切り替えた。数字。候補店舗。販売時間帯。廃棄。再購入。

 以前なら、売上を伸ばす提案へすぐに乗ったかもしれない。責任者として成果を示したい。全国へ広げたい。選ばれたことを証明したい。

 今は、続けられる形を優先する。

     *

 会議が終わろうとした時、南雲が資料を閉じずに言った。

「もう一件あります」

 葵は画面を見る。

「何ですか」

「今年度の社内表彰。あなたのプロジェクトが、事業貢献賞の最終候補に入りました」

 葵は意味を理解するまで、少し時間がかかった。

「この商品が? 売上は、そこまで高くありません」

「売上だけの表彰ではありません。新商品開発。顧客理解。販売店舗を選ぶ運用。撤退と再導入の判断。責任者育成。複数の点が評価されています」

 会議室の人たちが葵を見る。

「最終候補。まだ受賞ではない」

「はい」

「候補は?」

「三案件。発表は来月の全社総会です」

 南雲が答える。

「壇上で説明が必要です」

「受賞した場合?」

「候補案件は、すべて短い発表をします。小野寺さんが代表です」

 葵は資料へ視線を落とした。

 責任者。代表。壇上。全社総会。東京本社の大きな会場。オンライン配信。経営層。社員。表彰。

 胸が強く打つ。

     *

「チーム全員では?」

 葵が尋ねる。

「壇上へ上がるのは、代表一人です。ただし、発表の中でチームを紹介できます。候補者席には、主要メンバーも入れます」

 南雲。石橋。藤田。営業担当。広報。店舗運営。この商品を作った人たち。

「私一人の表彰ではありません」

「それを、発表で伝えてください」

     *

 会議が終わった後、石橋が葵の肩を軽く叩いた。

「おめでとう」

「まだ」

「候補でも、すごいでしょう」

「すごい」

「言える?」

 葵は吹き出した。

「候補になった私は、すごい」

「はい」

 藤田も近づく。

「味を甘くしてよかったですね」

 葵が藤田を見る。

「そこ?」

「塩味のままだったら、続かなかった可能性があります」

「私の案は通らなかった」

「でも、最後に塩を残した。それを責任者が決めた」

「はい」

「壇上で、味の話もしてください」

「全部は無理です」

「三分?」

「五分」

「長い」

「短い」

 二人の間に短い笑いが起きた。

 葵の胸の中で、喜びが少しずつ形になる。

 候補。受賞はまだ。それでも、商品だけでなく、責任者としての判断が見られた。

 撤退。再導入。再撤退。店舗を増やさなかったこと。味を手放したこと。全部。

     *

 真尋へ伝えたい。最初に。

 葵はスマートフォンを手に取る。止める。

 今、真尋は大阪で人事面談の期間に入っている。部長として、山岸、森田、そのほかの管理職候補、異動希望者と面談。忙しい。

 それでも、メッセージは送ってよい。返事を求めない。

『社内表彰の最終候補に入りました』

 送信。続けて。

『商品と、プロジェクト運営が評価されたそうです』

 真尋からの返事は、すぐには来ない。葵は画面を閉じた。

 俊介へも伝えるか迷う。

 真尋の夫。葵の商品を新しい家で食べた。言葉について、自分の朝と重ねて話した。

 俊介はプロジェクトの人ではない。葵と直接連絡を取り合う関係でもない。真尋を通さず、個人的な報告を送るほど近くはない。

 送らない。次に会った時、話す。

     *

 母へ。

『商品が、会社の表彰候補になりました』

 すぐに電話がかかってきた。

『本当? 受賞したの?』

「候補」

『でも、すごいでしょう』

「はい」

『いつ?』

「来月」

『見に行ける?』

「社員だけの総会」

『配信は?』

「社員用」

『残念』

「録画があれば、後で見せる」

『絶対』

 母の声が弾んでいる。葵は、自分の喜びが母へ渡るのを感じた。

 美月へ。

『表彰候補になった』

 数秒で返信。

『お祝いする』

『まだ受賞してない』

『候補祝い。今日?』

『仕事』

『明日』

『はい』

 真尋からの返事は、まだない。

     *

 昼休み、葵は社員食堂で、一人ではなくプロジェクトメンバーと食べた。

 石橋。藤田。営業担当の相沢。広報の村上。

「候補になった理由」

 相沢が言う。

「営業としては、撤退判断が評価されたのが意外です」

「売れない店舗を残さなかったこと?」

「はい。営業は、店舗数が多いほうが成果に見える」

「でも、売れない店舗へ置き続けると、店舗側の信頼を失います」

「わかっています。ただ、撤退を社内表彰で評価する会社になったのは、少し驚きです」

 葵も同じだった。

 成功。拡大。売上。受賞。そういうものだと思っていた。

 今回は、続けられない場所から退いたことも評価に含まれている。

     *

「壇上で、何を話しますか」

 村上が言う。

「まだ」

「商品誕生の感動的な話?」

「しません」

「なぜ?」

「自分の人生を、商品へそのまま重ねたくない。開発の流れ。数字。チーム。撤退判断」

「五分で?」

「難しい」

「最初の言葉は?」

 石橋が尋ねる。

「まだ」

「今日を始めた、それだけで」

「商品名ではありません」

「コピー。壇上で言う?」

「多分」

「その後?」

 葵は考えた。

 最初に自分が考えた。だが、一人で作ったわけではない。

 味は藤田たち。営業。店舗。広報。南雲。石橋。顧客。販売員。買った人。買わなかった人。撤退した店舗。

「この商品を最初に考えたのは私ですが」

 葵が言う。皆が見る。

「続けられる形にしたのは、一緒に働いた皆さんです」

 石橋は思わず笑った。

「それ。最初に言う?」

「受賞した後の言葉みたい」

「候補発表でも言っていい」

     *

 昼休みが終わる頃、真尋から返事が来た。

『最終候補、おめでとうございます』

 葵の胸が温かくなる。

『ありがとうございます』

『発表はいつですか』

 日付を送る。少しして。

『その日は、大阪で管理職最終面談があります』

 葵は画面を見た。

 まだ、見に来てほしいとは言っていない。だが、先に来られない可能性を伝えられた。

 胸の中の喜びに、小さな影が落ちる。

『はい』

 送る。真尋から。

『時間は?』

 午後の開始時間を送る。

『面談と重なっています。オンラインでも、リアルタイムでは見られないと思います』

 葵は指を止めた。

 来られない。見られない。表彰式。壇上。責任者。

 真尋に見てほしい。最初から聞いてほしい。

『わかりました』

 送る。

     *

 すぐに、真尋から。

『見てほしいですか』

 葵は画面を見つめた。

 聞かれた。物わかりよくしない。

『見てほしい』

『はい』

『会場にいてほしい』

『はい』

『難しい?』

 返事は少し後。

『かなり難しいです。面談日程を動かせるか確認します』

 葵の胸が揺れる。

 来てほしい。でも、真尋の仕事。管理職最終面談。山岸の次の役職。森田の評価。ほかの人。真尋だけの予定ではない。

『無理しないで』

 打つ。消す。それは、本当の希望ではない。

『確認して』

 送る。真尋から。

『はい』

     *

 夕方、真尋は大阪の部長席で、面談予定表を見ていた。

 表彰式の日。午前十時。午後一時。午後三時。管理職候補三人の最終面談。本社人事もオンライン参加。支社長。真尋。山岸。森田。候補者。

 日程は一か月前から調整されている。変更するなら、複数人の予定へ影響する。

 葵の表彰式は午後二時。東京へ移動して会場へ行くには、朝から移動が必要。午後の面談を動かすだけでは足りない。前日から東京へ戻る。午前の面談も変更。全日程。

 真尋は人事へ相談した。

「日程変更の可能性を確認したいです」

『理由は?』

「私的な予定です」

『重要なご予定ですか』

「はい」

『候補者三人と、支社長、本社人事の予定を再調整する必要があります』

「はい」

『翌週は?』

「候補者の一人が出張です」

『その次は、人事会議。変更すると、最終決定が二週間遅れます。異動発表にも影響します』

 真尋は聞く。

 葵の表彰式。管理職候補の人生。異動。仕事。

 どちらも大切。だが、影響の範囲が違う。

     *

『水口部長』

 人事担当が言う。

『ご事情を詳しく伺う必要はありません。ただ、変更する場合は、部長判断として理由を説明してください。私的な予定を優先すること自体が問題なのではありません。影響を引き受ける必要があります』

「わかっています」

 真尋は一度、息を吸った。

「日程は変更しません。確認だけで、申し訳ありませんでした」

『いいえ』

     *

 電話を切る。胸が痛い。

 葵へ見てほしいと言われた。確認すると答えた。来られない。リアルタイムでも見られない。

 後から。また、後から。

 全国発売の日。帰れない夜。責任者になった日。何度も、後から聞いた。

 今回は表彰候補。壇上。大切な日。

 真尋はスマートフォンを手に取る。すぐに送らず、山岸へ声をかけた。

「少し、話せますか」

     *

 小会議室。山岸が向かいへ座る。

「表彰式?」

 真尋が驚く。

「なぜ?」

「先ほど、日程表を何度も見ていたので。葵さん?」

「社内表彰の最終候補です」

「おめでとうございます。行きたい?」

「はい」

「面談、動かせない?」

「動かせます。ただ、決定が二週間遅れます。候補者の異動にも」

     *

「水口さん。私たちに任せて、東京へ行きますか」

 真尋は山岸を見た。

「最終面談です」

「支社長と人事。私も同席します。水口さんがいなくても、面談自体は可能です」

「部長としての評価があります」

「書面で。オンライン参加は?」

「表彰式と重なります」

「午前だけ?」

「移動を含めると、難しいです」

「行っていいと思います」

 山岸が言う。

「なぜ?」

「葵さんの大切な日でしょう。水口さんも見たい。なら」

「でも」

 真尋は言葉を止めた。

 任せる。以前の自分なら、山岸へ任せられなかった。今は、最終面談も山岸と支社長へ任せられるかもしれない。

 しかし、管理職候補の最終判断。真尋の役割。私的な予定のために欠席する。

 仕事を手放す成長なのか。大切な責任から逃げることなのか。

     *

「山岸さん。私が行きたいから、任せてもよいと考えていますか」

 山岸は黙った。

「それもあります。でも、私も最終面談へ参加できる立場になりました。水口さんがいなくても、候補者の評価を説明できます。以前ならできませんでした。だから」

 山岸は言う。

「行ってもいいと思います」

     *

 真尋は胸が揺れる。

 葵へ行ける。会場。壇上。見てほしい人として。

 だが、候補者の一人は山岸自身ではない。山岸はすでに管理職。今回の候補者には、真尋が直接育成してきた人もいる。

 その人へ、最終面談の日に部長がいない。理由は私的な表彰式。相手がどう感じるか。

「候補者へ、私が欠席する理由を言えますか」

 真尋が尋ねる。

「私的な予定。大切な人の表彰式」

 山岸が答える。

「言えますか」

「私は」

 山岸は考える。

「言えます」

「候補者が、自分の面談より大切なのかと思っても?」

「思うかもしれません。でも、水口さんがいなければ評価できない面談なら、制度の問題です。ただ、水口さん自身が、欠席したことを後悔しないか。それはわかりません」

     *

 真尋は長く考えた。

 葵へ行きたい。それは明確。仕事へ残りたい。それも。

 どちらかを選ぶ。全部はできない。

 山岸へ任せて東京へ行けば、大切な人の晴れ舞台を見られる。任せる成長も示せる。

 だが、今の自分は、行きたい気持ちを正当化するために任せることを使っていないか。山岸の成長を、自分の私的な希望を叶える道具にしていないか。

「残ります」

 真尋は言った。山岸は驚く。

「本当に? 私たちへ任せられない?」

「任せられます。でも、今回は私が参加したいです」

「なぜ?」

「候補者三人の最終判断を、自分の仕事として引き受けたい。葵の表彰式へ行きたい気持ちもあります。それでも、今回は仕事を選びます」

 山岸は頷いた。

「わかりました」

     *

「ただ」

 真尋が続ける。

「面談は山岸さんが進行してください」

「私が? 私が残るなら、水口さんが?」

「私は評価者として参加します。進行は山岸さん。私がいなくてもできる形を、今日から作ります」

 山岸は声を立てて笑った。

「表彰式へ行けない代わりでは?」

「少し。でも、次に同じことがあった時、本当に任せられるように」

     *

 真尋は葵へメッセージを送った。

『日程を確認しました』

 既読はすぐについた。

『はい』

『表彰式には行けません』

 既読。返事が止まる。

『管理職候補の最終面談を選びます』

 送る。数分後。

『はい』

 短い。

『リアルタイム配信も見られません。後から録画を見せてもらえますか』

 返事は来ない。

     *

 十分後、葵から電話。

「もしもし」

『今、話せる?』

「はい」

『来ない。また仕事。私より』

「はい」

 真尋は明確に答える。葵の呼吸が少し乱れる。

『見てほしかった。壇上。候補だけど。受賞しなくても。商品を説明する。責任者として。真尋に見てほしかった』

「はい」

『山岸さんに任せられない?』

「任せられます」

『なら、なぜ』

「私が、最終面談へ参加したいからです」

『仕事を手放せないから?』

「それだけではありません。候補者の最終判断を、自分の役割として引き受けたい。山岸さんに進行は任せます。でも、私は残ります」

 葵が黙る。

     *

『私の表彰式は、後から見ればいい?』

「後から見たいです」

『その場じゃなく。また』

「はい」

『真尋』

 葵の声が震える。

『私、表彰されても、嬉しくないかもしれない。見てほしい人がいない』

「誰が会場にいますか」

『南雲さん。石橋さん。藤田さん。営業。店舗』

「一緒に作った人たちがいます」

『はい』

「でも、私がいないことは、寂しいですね」

『うん』

     *

「葵。私がいないから喜んではいけない、とは思わないでください」

『わかってる。でも、喜べないかもしれない』

「その時は、喜べない自分もその場にいてください」

『何それ』

「無理に笑わなくてよいです」

『壇上では笑う。仕事だから』

「はい。でも、心の中まで同じにしなくてよいです」

『はい』

     *

『俊介さんは?』

 葵が尋ねる。

「表彰式? 仕事だと思います」

『見に来ない?』

「聞いていません」

『真尋から聞いて。誰か、見てほしい』

 真尋は考える。

 俊介は葵の大切な人ではない。だが、商品を知っている。新しい家で食べた。葵の仕事を、少し見てきた。

「葵から希望しますか」

『真尋が聞いて。私から直接は、まだ』

「わかりました」

     *

 電話を切った後、真尋は俊介へ連絡した。俊介は東京。仕事中。

『葵の商品が、社内表彰の最終候補になりました』

 返事。

『おめでとうございます』

『表彰式の日、私は大阪の面談で行けません。葵は、見てほしい人が会場にいないと』

 返事が止まる。

『僕に行ってほしいということですか』

『葵が、誰かに見てほしいと。俊介の予定は?』

 しばらくして。

『その日は、顧客との出張です。夕方まで戻れません』

 真尋は画面を見る。俊介も行けない。

『録画なら見られます。葵さんへ、僕から連絡したほうがいいですか』

 真尋は考えた。

 葵は直接連絡する関係ではない。だが、俊介が自分の言葉で伝えることには意味があるかもしれない。

『短くなら』

『わかりました』

     *

 その夜、葵のスマートフォンへ、俊介から初めて個人的なメッセージが届いた。

『表彰候補、おめでとうございます。真尋から聞きました』

 葵は画面を見つめる。

 俊介。連絡先は、新しい家へ行く前に緊急時のため交換していた。これまで直接やり取りしたことは、ほとんどない。

『ありがとうございます』

『当日は仕事で会場へ行けません』

 葵の胸が沈む。

『はい』

『後から録画を見せていただけるなら、見たいです』

 葵は驚く。

『本当に? 真尋が見るから?』

 送ってから、少し刺々しいと思う。

 俊介からの返事。

『それもあります。でも、僕も商品を食べました。真尋がいない朝に、自分で生活を始める人のための言葉だと感じました』

 以前、新しい家で言った言葉。

『その商品が、会社でどのように評価されたか知りたいです』

 葵はしばらく画面を見た。

『わかりました』

『表彰されなくても?』

『候補者としての発表も見たいです』

     *

『当日』

 俊介から続く。

『真尋も僕も、その場にはいません。でも、見ていないわけではありません』

 葵は、その言葉にすぐ返事ができなかった。

 その場にいない。リアルタイムでは見ない。後から。

 それでも、見たいと言う。

『はい』

 葵は送った。

     *

 表彰式まで、一か月。葵は五分間の発表資料を作った。

 一枚目、商品写真。

『今日を始めた、それだけで。』

 二枚目、開発背景。三枚目、試験販売。四枚目、撤退と再導入。五枚目、継続。六枚目、チーム。七枚目、今後。

 五分で七枚は多い。村上から言われる。

「削りましょう」

「どこを?」

「開発背景」

「必要」

「撤退」

「必要」

「チーム」

「絶対」

「今後」

「必要」

「全部必要ですね」

「はい」

「なら、商品誕生の個人的なきっかけを削る」

 村上が言う。葵は考えた。

「はい」

「よいのですか」

「全部話さなくていい。この商品は、私だけの人生から作ったわけではない。顧客調査。朝の生活。一人で起きる人。誰かに見られなくても始める日。そこを話す」

     *

 最初の一文。

「この商品を最初に考えたのは私ですが、続けられる形にしたのは、一緒に働いた皆さんです」

 候補発表の冒頭にする。次に。

「私たちは、売れない店舗から撤退しました」

 表彰候補の場で、失敗から話す。

「一度条件を変えて戻し、再び撤退しました」

 会場がどう受け取るか。成功談としてきれいではない。

 だが、それがこの商品の運営。

     *

 南雲が発表練習を聞いた。

「よいです」

「本当に? 受賞を逃す話にならない?」

「審査は終わっています。表彰式の発表は、取り繕う場ではありません」

「はい」

「小野寺さん。誰に見せたいですか」

 葵は答えに詰まった。

 真尋。最初に浮かぶ。俊介。母。美月。商品を買った人。チーム。

「真尋。でも、来ない」

「なら?」

 南雲が尋ねる。

「会場の人。一緒に作った人。候補になったほかの人。自分」

「自分にも?」

「責任者として、ここまで来たことを見せたい」

 言葉にすると、不思議だった。

 自分が、自分を見る。真尋に見てもらうまで、存在しないわけではない。

 壇上に立つ自分を、自分で覚える。

「録画も残ります。後から見る人も。その場にいない人へ届くこともあります」

 南雲が言う。

「でも、当日の葵は、当日の人たちと立つ。それを忘れないで」

     *

 美月は、表彰式の会場へ入れない。だが、前日の夜に葵の部屋へ来た。

「服」

 葵が見せる。紺色のワンピース。仕事の表彰式。華美ではない。

「地味?」

「いい」

「本当に?」

「責任者。真尋さん、見られないんだ」

「うん」

「寂しい?」

「かなり」

「俊介さんも?」

「出張」

「お母さん」

「社員だけ」

「私も」

「はい」

「見てほしい人、誰もいない?」

 美月が尋ねる。

「会社の人はいる。南雲さん。石橋さん。藤田さん」

「皆、見てほしい人?」

 葵は考えた。

「はい」

「なら、誰もいないじゃない」

「でも、真尋さんがいない」

「それは別。いない人の席を見ながら、いる人をいないことにしないで」

 美月の言葉。葵は黙った。

 真尋がいない。その痛みが大きすぎて、会場にいる人たちを薄くしてしまう。

 一緒に作った人。候補になったことを喜んでいる人。その人たちも、見てほしい人。

     *

「美月。もし受賞したら、帰りに会える?」

「もちろん」

「遅い」

「待つ」

「受賞しなくても」

「会う。だから、会場で全部を受け取らなくてもいい」

「何を?」

「喜び。その場で感じられなかった分、後で」

「はい」

「でも、壇上では仕事」

「はい」

     *

 表彰式当日。東京は晴れていた。

 葵は午前七時に起きた。目覚ましより早い。カーテンを開ける。朝。

 自分の商品を一袋、棚から取る。

『今日を始めた、それだけで。』

 袋を開ける。軽い甘さ。最後の塩。

 責任者になった自分が作った商品。

 今日は表彰式。受賞するかわからない。真尋はいない。俊介も。母も。美月も会場には。

 それでも、自分は起きた。朝食を食べる。服を着る。髪を整える。

 真尋から、午前七時十二分にメッセージ。

『おはようございます』

 葵はすぐに返信する。

『起きた』

『はい』

『今日』

『はい』

『見てほしかった』

『はい』

『行ってきます』

『行ってらっしゃい』

 短い。真尋も、大阪で面談の準備をしている。

 俊介から。

『本日のご発表、頑張ってくださいとは言いません』

 葵は笑った。続く。

『すでに、ここまで進めたことを知っています。行ってらっしゃい』

『行ってきます』

 母。

『今日は表彰式でしょう。写真を撮ってね』

 美月。

『泣いても化粧落とさない』

 会社のプロジェクトチャット。

 藤田。

『集合は十一時です』

 村上。

『資料最終版確認済み』

 石橋。

『遅刻禁止』

 南雲。

『いつも通り』

 皆いる。

     *

 会場。東京本社の大ホール。舞台。大きな画面。候補案件の紹介パネル。社員。役員。オンライン配信のカメラ。

 葵は候補者席へ案内される。隣には、別案件の責任者。新しい物流システム。地域福祉と連携した店舗事業。

 三案件。どれも成果がある。どれが受賞しても不思議ではない。

 プロジェクトメンバーは、数列後ろ。南雲。石橋。藤田。相沢。村上。店舗担当の佐伯。

 葵が振り返る。皆がいる。

 真尋の席はない。最初から。

 空席ではない。誰かが来なかった場所ではなく、最初から別の人が座る会場。

     *

 午後一時、全社総会が始まる。業績。経営方針。人事。来期。長い。

 葵は発表資料を何度も見ない。言葉は覚えている。

 受賞するか。しないか。心臓が強く打つ。

 同じ頃、大阪では管理職候補の最終面談が始まっていた。

 山岸が進行する。真尋は評価者席。支社長。本社人事。候補者。

 真尋のスマートフォンは、会議室の外。表彰式の時間。見られない。

 俊介は出張先の会議室。顧客説明。スマートフォンは鞄の中。表彰式の開始時間を知っている。だが見られない。

     *

 午後二時十分。事業貢献賞候補の発表。司会者が三案件を紹介する。

 一つ目。物流システム。二つ目。地域連携事業。三つ目。葵の商品。

 画面にパッケージ。

『今日を始めた、それだけで。』

 会場の一部から、知っているという反応。

 葵は舞台袖へ呼ばれる。

「小野寺さん」

 南雲が通路で小さく声をかける。

「はい」

「見ています」

 真尋ではない。南雲。

 石橋。

「転ばないで」

 藤田。

「味の話」

「時間があれば」

 相沢。

「撤退の話、営業のせいにしないで」

「しません」

 皆が笑う。葵も。

     *

 舞台。照明。会場。葵は中央へ立った。画面に商品。手にマイク。五分。

 息を吸う。

「この商品を最初に考えたのは私ですが、続けられる形にしたのは、一緒に働いた皆さんです」

 声は震えていない。

「『今日を始めた、それだけで。』は、何かを成し遂げた人へ向けた商品ではありません」

 会場が静かに聞く。

「誰にも見られていなくても、朝起きたこと。何かを食べたこと。一日を始めたこと。その事実へ、小さなひと口を置きたいと考えました」

     *

「試験販売では、すべての店舗で売れたわけではありません」

 画面。店舗別の数字。

「一店舗から撤退しました。条件を変えて再導入し、再び撤退しました」

 会場に驚き。

「私たちは、売り場から商品がなくなることを、簡単に失敗と呼ばないようにしました」

 葵は続ける。

「その店舗では続けられなかった。なら、何が違ったのかを確認し、別の場所で試す」

 画面。好調店舗。再購入率。

「売れた場所の方法も、そのまま全部へ広げませんでした。続けるために、広げないこと。残すために、撤退すること。自分の案を守るためではなく、商品が生活の中へ残る形を選ぶこと」

 壇上で、自分の言葉が会場へ広がる。

 真尋はいない。それでも、葵は話している。

 南雲が見ている。石橋。藤田。相沢。村上。佐伯。自分自身。

     *

「味も、最初の案とは変わりました」

 藤田のほうを見る。

「私は塩味を残したいと考えていました」

 会場に小さな笑い。

「消費者調査では、軽い甘さの評価が高かった」

 画面。

「自分の好みを手放し、最後にごく少量の塩を残しました」

 藤田が笑う。

「商品は、一人の考えがそのまま形になるものではありません」

 葵は最後の画面へ進む。プロジェクトメンバーの名前。店舗。顧客。

「この商品を選んだ方のすべての朝を、私たちは知りません。言葉を読まず、味だけで選ぶ方もいます。一度だけ買う方も。何度も買う方も」

 葵は言う。

「商品が手を離れた後は、その方の生活の中で、別の意味になります」

 真尋から学んだこと。だが、今は葵の仕事の言葉。

「私たちは、これからも、売上だけではなく、続けられる場所を見つけながら、この商品を育てます」

 深く頭を下げる。

 拍手。大きい。

 葵は顔を上げた。照明。人。

 真尋はいない。それでも拍手は届く。

     *

 舞台を降りる。石橋が手を伸ばす。

「良かった」

 藤田。

「味の話、入った」

 相沢。

「撤退、営業のせいじゃなかった」

 村上。

「時間、四分五十二秒」

「はい」

 南雲は、何も言わずに一度頷いた。

 それだけで、葵の胸が熱くなる。

     *

 三案件の発表が終わる。審査結果。事業貢献賞。司会者が封筒を開く。

 葵は候補者席へ戻っている。手。膝。呼吸。

「今年度の事業貢献賞は」

 間。

「地域福祉連携プロジェクトです」

 拍手。

 葵は一瞬、胸の奥が空になった。

 受賞しなかった。候補。壇上。見てほしい人は来なかった。賞も。

 受賞者が舞台へ上がる。葵は拍手する。

 悔しい。少し。かなり。

 自分たちの商品も評価された。それでも、選ばれなかった。

 選ばれなかった夜を思い出す。全国展開の責任者。今回は表彰。

 同じではない。責任者には、すでに選ばれている。候補にも。賞だけ。

 それでも悔しい。

     *

 表彰式が終わる。候補案件にも、記念盾が渡される。最終候補。葵は受け取る。

 写真。プロジェクトメンバー全員で。真ん中に立つよう言われる。

「私だけじゃない」

 葵が言う。

「責任者」

 石橋が背中を押した。

 真ん中。南雲は隣。藤田。相沢。村上。佐伯。

 写真。笑う。無理にではない。

 受賞しなかった悔しさと、候補になった喜び。両方。

 写真撮影後、南雲が言う。

「残念でしたか」

「はい」

「でも、候補になった。壇上で話した。真尋はいなかった」

「はい」

「それでも話せました」

 葵は自分で言う。

「今日の私は、よくやった」

 南雲が笑う。

「はい」

     *

 スマートフォンを確認する。真尋からの連絡はない。面談中。俊介も。

 母。

『どうだった?』

 美月。

『終わった?』

 葵は母へ。

『受賞はしなかった。最終候補でした』

 母からすぐに。

『候補でもすごい。発表、見たい』

 美月へ。

『受賞しなかった』

『今から会う』

『はい』

     *

 プロジェクトメンバーとの簡単な懇親会。候補記念。

 葵は最初、断って美月へ会いたいと思った。だが、一緒に作った人たち。今日、その場にいた人。喜びと悔しさを共有する人。

「一時間だけ参加します」

 葵が言う。美月へ連絡。

『会社の人と一時間。その後』

『はい』

 懇親会。小さな会議室。飲み物。軽食。藤田が紙コップを上げる。

「候補」

「受賞してない」

「候補に」

 皆で乾杯。

「本音」

 相沢が言う。

「受賞すると思っていました」

「私も少し」

 葵が答える。

「地域福祉は強い」

「はい」

「売上では、こちら?」

「比較できません」

「責任者らしい」

     *

 石橋が言う。

「壇上で、真尋さんを探した?」

 葵が石橋を見る。

「なぜ名前」

「前に聞いた。探した?」

「最初は。でも、いない。皆を見た」

 葵は部屋にいる人たちを見た。

「いた」

「はい」

「私たちも、見てほしい人?」

 藤田が尋ねる。

「はい」

「今まで違った?」

「違わない。でも、真尋が大きすぎた」

 皆が黙る。葵は隠さない。

「今日も大きい。でも、皆がいた。ありがとう」

 責任者としてではなく。葵として。

     *

 午後五時半、真尋の面談が終わる。三人目。山岸が進行した。真尋は評価者として質問。

 候補者の希望。課題。異動。最終判断。終わった。

 真尋は会議室を出て、すぐにスマートフォンを見た。

 葵からの結果報告はない。

 会社の社内ページ。表彰結果。事業貢献賞は別案件。葵は最終候補。発表動画は、翌日公開予定。

 真尋の胸が痛む。

 受賞しなかった。葵はどう感じているか。

 電話。すぐにかけたい。しかし、葵が今どこにいるか。

 メッセージを送る。

『面談が終わりました。結果を社内ページで見ました。今、話せますか』

     *

 葵は懇親会を出て、美月との待ち合わせへ向かっていた。

 スマートフォン。真尋。面談が終わった。結果を見た。話せるか。

 葵は、すぐに電話したい。今日の壇上。受賞しなかったこと。見てほしかったこと。全部。

 だが美月が待っている。

『今、美月と会います』

 送る。真尋から。

『はい。九時からなら』

『お願いします』

     *

 美月と食事。小さな店。

「お疲れさま。受賞しなかった」

「うん」

「悔しい」

「うん」

「でも、壇上で話した。真尋さんいなかった。会社の人、いた?」

「はい」

「見えた?」

「見えた」

 葵はスマートフォンの写真を見せる。プロジェクトメンバー。記念盾。真ん中の自分。

「笑ってる。受賞してないのに」

「笑っていいでしょう」

「発表は?」

「録画、明日」

「私も見たい」

「社員だけかも。見せられる範囲で」

「はい」

     *

「今日」

 葵が言う。

「何?」

「真尋がいないから、喜べないと思った。受賞もしなかった。でも、候補になったことは嬉しい。壇上で話したのも。皆がいた」

「うん」

「私、真尋がいなくても喜んだ。少し」

「十分」

「はい」

 美月が小さなケーキを出す。店へ頼んでいた。

『候補おめでとう』

「受賞じゃない」

「候補祝い」

 ろうそくはない。写真。食べる。

 葵は、今日の喜びを美月と受け取る。真尋へ話す前に。

 それでいい。

     *

 午後九時、葵は自宅へ戻った。真尋へ電話。

「もしもし」

『お疲れさまでした。受賞』

「しなかった。候補。悔しい。でも、壇上で話した。見てほしかった。真尋、いなかった」

『はい』

 真尋の声にも痛みがある。

『発表は、どうでしたか』

「うまく話せた。四分五十二秒。撤退の話。味を変えた話。チーム。皆が見てた。南雲さんも。私、真尋を探した。いなかった。でも、皆がいた」

『はい』

     *

「真尋。私、その場で喜べた」

 真尋が黙る。

『はい』

「受賞しなかったけど。候補になったこと。皆と写真撮ったこと。懇親会。美月のケーキ。真尋に話す前に、喜んだ。どう思う?」

『よかったと思います』

「寂しい?」

 今度は真尋が答える番。

『少し』

「私が、真尋なしで喜んだこと?」

『はい。でも』

 真尋は続ける。

『葵が喜びを、私が見るまで保留しなかったことを、嬉しいです』

     *

「真尋は、今日何した?」

 葵が尋ねる。真尋は面談を説明した。三人。山岸の進行。候補者の希望。異動。評価。

「行けなかったこと、後悔した?」

『はい』

「仕事を選んだこと?」

『それは、後悔していません。でも、葵の壇上を見られなかったことは、寂しいです。両方あります』

「はい」

『面談では、私がいる必要がありました。少なくとも、私はそう選びました』

「私より」

『今日は、仕事を選びました』

「はい」

     *

 以前なら、その言葉だけで、葵の喜びが崩れたかもしれない。

 今日も痛い。だが、壇上の自分は消えない。皆の拍手。写真。ケーキ。

「真尋。仕事を選ばれたの、嫌。でも、今日の私、よくやった。真尋が見てなくても。皆が見てた。私も」

『はい』

「でも」

『今から見せてください』

     *

「録画、明日」

『はい』

「資料はある」

『画面共有できますか』

「今? 全部?」

『最初から』

 葵は笑った。

「五分の発表を、もう一回? 一人で?」

『私は見ています』

「はい」

     *

 葵はパソコンを開いた。真尋も大阪の部屋で。ビデオ通話。画面共有。

 一枚目。商品。

『今日を始めた、それだけで。』

「では、始めます」

 葵は、会場で話した通りに発表する。今度は、真尋一人へ。

 だが、同じ発表ではない。会場には人がいた。拍手。今は、画面の向こう。

「この商品を最初に考えたのは私ですが、続けられる形にしたのは、一緒に働いた皆さんです」

 真尋が聞く。途中で口を挟まない。

 撤退。再導入。味。チーム。顧客。最後。

「これからも、売上だけではなく、続けられる場所を見つけながら、この商品を育てます」

 葵は頭を下げた。画面越し。

 真尋が拍手する。一人分。それでも聞こえる。

     *

『お疲れさまでした。よい発表でした』

「仕事の評価? ほかは?」

 真尋は葵を見る。

『私が見ていない間に、葵が責任者としてここまで進んだことを知りました。受賞しなかった悔しさも。それでも、候補として壇上へ立ったことも。今から見ました』

 葵の目に涙が浮かぶ。

「遅い」

『はい』

「でも、見た」

『はい』

     *

「真尋。私、見てほしい人が見ていない日にも、話せた。喜べた。でも、後から見てほしい。それでいい?」

『よいと思います』

「真尋も? 私が見てなくても、仕事する。後から見せる?」

『はい』

 電話を切る前。真尋が言う。

『葵。最終候補、おめでとうございます』

「ありがとう」

『受賞しなかったことは、残念でした。でも、賞だけで今日を決めないでください』

「決めない。今日の私は、よくやった」

『はい』

     *

 翌日、発表動画が社内へ公開された。

 俊介は出張から戻る新幹線の中で見た。イヤホン。葵の発表。撤退。味。チーム。最後。

 俊介は真尋へ連絡する前に、葵へ直接送った。

『発表を拝見しました』

 葵は仕事中。休憩で読む。

『ありがとうございます』

『受賞されなかったことは残念です。でも、候補になった理由がわかりました』

『本当に? どこが?』

 俊介から。

『売れなかった店舗を、なかったことにしなかったところです』

 葵は驚く。

『真尋も、そこ言うと思う』

『そうですか。僕は、真尋が帰れなかった夜を思い出しました』

 葵の指が止まる。

『はい』

『会えなかったことを、後から会えた日で消さなかった。似ていると思いました』

 葵は画面を見た。

 俊介も、あの日を知っている。真尋が大阪へ残った。俊介の内覧もなくなった。

 葵だけではなく、俊介も選ばれなかった。

『葵さん』

 俊介が続ける。

『その場で見られなくて、申し訳ありませんでした』

 葵は考えた。

『仕事だったので。でも、見てほしかった。後から見てくれて、ありがとうございます』

『こちらこそ、見せてくださりありがとうございました』

     *

 真尋は、その日の夜、俊介から発表を見たと聞いた。

「葵さんへ、直接送りました。嫌ですか」

 真尋は考える。

「少し」

「なぜ?」

「私を通さず、二人で話したこと。でも、二人の関係です。私が管理することではありません」

「はい」

「何を話しました?」

「全部は」

 俊介が笑う。

「言わなくていいです」

 真尋は、寂しさを感じた。

 葵と俊介が、自分を介さずに言葉を交わす。自分が中心ではない関係。

 それでも、二人が互いを知ることは、三人の生活に必要かもしれない。

     *

 表彰式から一週間後、葵はプロジェクトメンバーと振り返り会議を開いた。

 表彰候補になったこと。発表。受賞しなかったこと。社内からの反応。動画の再生数。問い合わせ。販売店舗追加の提案。

「表彰効果で、店舗を増やしますか」

 営業担当が尋ねる。

「すぐには」

「なぜ?」

「候補になったことで一時的に注目されています。その数字を通常売上と見ません。一か月後に判断します」

「受賞していたら?」

「同じです」

 葵は答えた。

 賞を、拡大の理由にしない。受賞しなかった悔しさを、店舗数で取り返さない。

「発表」

 村上が言う。

「社外でも使いたいという話があります」

「どこまで?」

「採用広報。責任者育成事例として。商品広告ではなく」

 葵は考えた。

「チーム全員の同意を取ってください。私だけの成功事例にしない」

「わかりました」

     *

 会議後、南雲が葵へ声をかけた。

「小野寺さん。受賞しなかったこと、まだ悔しいですか」

「はい」

「候補になったことは?」

「嬉しいです」

「真尋さんは、見ましたか」

「後から。もう一回、発表した」

「どうでした」

「嬉しかった。でも、会場で皆に見てもらったことと、別」

「どちらが大きい?」

 葵は考えた。

「比べない。会場は、仕事。真尋は、私の大切な人。美月は、後で祝ってくれた。母も。俊介さんも、録画を見た」

 南雲が驚く。

「俊介さん? 関係が変わりましたね」

「少し」

     *

「見てほしい人が増えましたか」

 南雲が尋ねる。葵は頷いた。

「はい」

「減ることも?」

「あると思う。南雲さんが、次のプロジェクトで見なくなるかもしれない。石橋さんが異動するかもしれない。藤田さんが別の商品へ。真尋も」

 言葉が止まる。

「会えない日がある」

「それでも?」

「見てほしいって言う。見られなくても、自分でやる。後から、知ってほしい」

     *

 真尋にも、選ばれない日が訪れた。

 表彰式から二週間後。東京滞在の週末。

 俊介と日曜日に家の家具を見に行く予定だった。新しい家へ引っ越して時間が経ったが、真尋の一人部屋の棚は仮のもの。二人で選ぶ。前から決めていた。

 土曜日の夜、俊介が言った。

「明日、家具を、延期してもいいですか」

 真尋は顔を上げる。

「なぜ?」

「北川さんたちと、旅行の打ち合わせが入ります」

「明日? 以前から旅行の話は聞いています。でも、打ち合わせは別の日でも」

「一人が、明日しか空いていません」

「真尋との家具は?」

「来月の東京滞在で」

「一か月後?」

「はい」

 真尋の胸に、寂しさと苛立ちが出る。

     *

「俊介。私は、明日を空けていました。大阪から戻る日程も」

「はい」

「家具を決めるために?」

「それだけではありませんが」

「楽しみにしていました。旅行の打ち合わせを選ぶ?」

「はい」

 俊介は明確に答える。真尋の胸が痛む。

「私より」

「明日は、友人との予定を選びたいです」

「なぜ、今日まで言わなかったのですか」

「今日、決まりました。すぐに伝えました。真尋。寂しいですか」

「かなり」

「怒っていますか」

「はい」

「はい」

 俊介は逃げない。

     *

「夫婦の家の家具です。友人旅行より、優先してほしいです」

「はい。でも、明日しか全員が集まれません」

「オンラインでは?」

「実際に会いたいです」

「旅行はいつ?」

「二か月後」

「家具は?」

「すでに仮の棚があります。急ぎではないと判断しました」

「私が楽しみにしていることは?」

「わかっています。それでも、友人を選びます」

 真尋は、葵へ同じことを言った日を思い出す。

 今日は仕事を選ぶ。今日は自分を選ぶ。

 大切でも、選ばない日がある。

     *

「行ってください」

 真尋が言う。

「物わかりよくしないでください」

「行ってほしくありません。でも、止めません。来月まで棚が決まらないことも嫌です。寂しいです。明日は、一人で家具を見に行くかもしれません」

「選ばずに?」

「見ます。俊介を待つだけではなく」

「はい」

     *

 翌日、俊介は友人と出かけた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 真尋は新しい家で一人。日曜日。

 家具店へ一人で行く。自分の部屋の棚。夫婦の家。だが、自分が使うもの。

 俊介と選ぶ予定だった。今日は、見るだけ。

 家具店。棚。木。高さ。扉。

 真尋は店員へ質問する。サイズ。配送。組み立て。写真を撮る。

 俊介へすぐ送らない。今は友人と。自分で見て、自分の希望を整理する。

 午後、真尋はカフェで一人、写真を見直した。

 寂しい。俊介がいない。だが、夫婦の生活が止まったわけではない。自分の部屋の棚を、自分で見る。

 葵へ連絡しようか。今日は葵も仕事。表彰後の店舗分析。

 真尋は送らない。

 誰かで寂しさを埋めるのではなく、自分の時間を過ごす。

     *

 夕方、俊介から。

『打ち合わせ、終わりました。家具は?』

『見ました』

『一人で?』

『はい』

『写真は?』

『帰ってから見せます』

『寂しかったですか』

 真尋は返信する。

『はい』

 それだけ。

     *

 夜、俊介が帰る。

「ただいま」

「お帰りなさい」

 真尋は、すぐに笑わない。俊介も、楽しかった話から始めない。

「家具」

 真尋は写真を見せた。三つの候補。

「真尋は?」

「二つ目」

「なぜ?」

「扉がある。生活ノートを見せない時に。隠したいのではなく、私のものとして」

「僕は?」

「意見を聞きます」

 俊介は写真を見る。

「僕も二つ目。来月、実物を一緒に?」

 真尋は考えた。

「私は、今日見ました。もう決めてもよいと思っています」

 俊介が寂しそうにする。

「僕を待たない?」

「はい。私の部屋の棚なので」

「でも、夫婦で選びたかった」

「それは、今日俊介が手放した時間です」

 俊介は黙る。

「責めていますか」

 俊介が尋ねる。

「はい」

「はい」

「でも、旅行へ行くなとは言いません。私は、棚を自分で決めます。それで、よいですか」

「寂しいです。でも、真尋が待つ義務はありません」

     *

 真尋は棚を注文した。一人で。俊介も、受け入れた。

 旅行を選んだ結果。夫婦の家のすべてを一緒に選べない。

 それでも、旅行へ行ったことを後悔させるためではない。真尋が、自分の生活を進めるため。

 その夜、真尋は葵へ電話した。

「今日、俊介に予定を変更されました。友人を選びました。寂しかったです。家具を一人で見ました。棚を決めました」

『物わかりよくしなかった?』

「行ってほしくないと言いました。でも、止めませんでした。葵が、表彰式で感じたことを少し考えました」

『何を?』

「見てほしい人がいない場所。一人で家具を見ることと、壇上は違います」

『うん』

「でも、誰かがいないから、自分の時間がなくなるわけではない。少し」

     *

『真尋』

 葵が言う。

「何ですか」

『私は、会場に皆がいた。真尋は一人?』

「店員が」

『そういう意味じゃない』

「はい」

『でも、棚を選んだ自分がいた。よく決めた?』

「はい」

『言って』

「今日の私は、よく決めました」

『はい』

     *

 表彰式の動画は、社内で多く見られた。葵の発表は、候補案件の中で最も再生数が高かった。

 受賞ではない。だが、採用広報や管理職研修で使いたいという依頼が来た。

 葵は、すべてに許可を出さなかった。文脈。編集。チーム名。撤退部分を削らないこと。条件をつける。

「成功部分だけを使いたい。撤退の話は、候補者へ暗く見える」

 採用広報から言われた。

「残してください」

 葵が答える。

「なぜ?」

「責任者の仕事は、成功だけではありません。撤退を削るなら、動画は使わないでください」

「厳しいですね。表彰候補としての見せ方は?」

「候補であることは構いません」

「受賞していない」

「それも残してください」

 葵は、自分の発表をきれいな成功物語へ変えさせなかった。

 見てほしい人が増えたからこそ、本当の過程を見てほしい。

 選ばれたこと。失敗したこと。撤退。再導入。受賞しなかったこと。全部。

     *

 数週間後、真尋は大阪の部屋で、山岸と森田へ葵の発表動画を見せた。

「個人的なものですが」

 真尋が言う。

「見せていいのですか」

 山岸が尋ねる。

「社内公開範囲の動画を、本人の許可を得ました」

「なぜ、私たちに?」

「責任者としての失敗と継続について、参考になると思いました」

 動画。葵の発表。山岸と森田が見る。

 真尋は、今度はリアルタイムではない。それでも、同じ画面を皆で見る。

 終わった後、山岸が言う。

「水口さん。当日、行きたかったでしょう」

「はい」

「残ったこと、後悔していますか」

 真尋は考えた。

「行けなかったことは、今も残念です。面談へ参加したことも、必要だったと思います。どちらかを、間違いにしません」

 山岸が頷く。

 森田が言う。

「発表の中で、手を離れた後は別の意味になると。水口さんが言いそうです」

 真尋は笑った。

「私も、以前話しました。でも、今は葵の言葉です。見ていない間に、進んでいた」

「はい」

     *

 その夜、真尋は葵へメッセージを送った。

『今日、山岸さんと森田さんにも発表を見てもらいました』

 葵から。

『どうだった?』

『責任者として参考になると』

『真尋は?』

『また見ました』

『何回目?』

『三回目』

『見すぎ』

『はい』

     *

『葵。当日、見られなかったことは変わりません。でも、後から知ったことも、本物です。私がいない間の葵を、今から知ることができました』

 葵は返信する。

『はい』

『次も、来られないかもしれない』

『はい』

『でも、見てほしいって言う。その場にいなくても、後から、全部聞かせる』

『お願いします』

     *

 見てほしい人が見ていない日。

 葵は一人ではなかった。一緒に働いた人がいた。見守った人。支えた人。反対した人。味を変えた人。売り場を作った人。撤退を受け入れた人。

 皆がいた。

 真尋も、自分がいない場所で進む葵を見た。後から。録画。資料。葵自身の言葉。

 その場にいなかった事実は消えない。だが、知らないままでは終わらない。

 俊介も、葵の仕事を真尋の一部としてではなく、葵自身のものとして見始めた。

 美月は、会社の外で喜びを受け取った。母は、候補になった娘を誇った。

     *

 葵は受賞しなかった。それでも、壇上へ立った。

 表彰候補として。責任者として。一人の企画者として。チームの代表として。

 賞がなくても、その日は残る。

 真尋がいなくても。見てほしい人へ届く前にも。

 会場で話した声。拍手。笑った写真。悔しさ。美月のケーキ。後からの発表。全部。

     *

 葵は生活ノートへ書いた。

『見てほしい人が見ていない日に、壇上へ立った』

『受賞しなかった』

『悔しかった』

『でも、皆がいた』

『私もいた』

『その場で、少し喜べた』

『後から、真尋に見せた』

『俊介さんも見た』

『見てもらうまで、今日の私が消えることはなかった』

 真尋も生活ノートへ書いた。

『葵の表彰式へ行かなかった』

『面談を選んだ』

『後悔と納得が両方ある』

『後から発表を見た』

『その場にいなかった時間を、なかったことにはできない』

『それでも、今から知ることはできる』

 最後に。

『大切な人のすべての瞬間には立ち会えない』

『見ていない間にも、相手は進む』

『戻った時、最初から聞く』

『遅くても、見る』

     *

 葵の商品は、翌朝も店頭へ並んだ。

 表彰候補の札は、売り場へつけなかった。受賞していないからではない。賞がなくても、商品は同じだから。

 朝。誰かが袋を手に取る。

 葵は、その人を知らない。その人も、葵を知らない。

 それでも商品は、誰かの一日へ入る。

     *

 見ている人がいなくても、朝は始まる。

 見てほしいと思ってもいい。その人が来られなくても、今日を生きていい。

 そして、いつか会えた時には。

 見ていなかった時間の自分を、最初から話せばよかった。


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