第四十三章 任せた先で起きること
山岸から最初の連絡が入った時、真尋は東京本社の会議室にいた。
午前十時四十七分。地域管理職向けの二拠点勤務制度を説明する会議の途中だった。
真尋の前には、全国七地域の人事担当と営業部長が並んでいる。大阪側で作成した権限表、移動日の扱い、現地責任者へ判断を渡す範囲、緊急時の連絡経路について、森田がオンラインで説明していた。
画面の中の森田は、以前より落ち着いている。真尋が横から言葉を足さなくても、質問へ答えていた。
「現地責任者に権限を渡す場合、判断基準の数値化だけでは不十分です」
森田が言う。
「例外が発生した時、誰へ戻すかを決めておく必要があります」
本社の人事担当が尋ねる。
「すべて部長へ戻すのでは?」
「それでは、権限を移した意味が弱くなります」
「では、誰へ?」
「内容によって違います。人員配置なら課長。地域間調整なら私。契約や法令に関わる場合は部長です」
「判断を間違えた場合は?」
「間違えない仕組みだけを作るのではなく、間違えた後の報告と修正手順を決めます」
森田の言葉を聞きながら、真尋は机の上で震えたスマートフォンへ視線を落とした。
山岸。メッセージは一行だった。
『名古屋地区の販促切替で問題が発生しました。会議後に連絡をお願いします』
緊急なら、電話が来る。会議後でよいと山岸が判断している。
真尋は画面を伏せた。
今は東京の会議。森田が説明している。真尋が大阪へ意識を戻し、何度もスマートフォンを確認すれば、目の前の人たちにも、画面の向こうの森田にも失礼になる。
それでも、胸の奥がざわついた。
名古屋地区。販促切替。問題。どの程度か。売上。店舗。顧客。契約。山岸の判断。
考え始めれば、いくつも可能性が浮かぶ。
真尋は資料の余白へ、小さく書いた。
『十一時半に確認』
それだけ。
*
会議は予定より十三分長く続いた。最後の質問は、九州地区の人事担当からだった。
「権限を渡した後、部長が不安になって取り戻すことはありませんか」
真尋は答える前に、笑った。
「あります」
会議室に小さな笑いが広がる。
「水口さんも?」
「何度も」
「どのように止めますか」
「止められない日もあります。その場合は、権限を持つ人から指摘してもらいます」
「部下から? 言いにくくありませんか」
「言いにくいと思います。ですから、権限を渡す時に、取り戻そうとしたら指摘してほしいと先に伝えます」
「それで本当に言いますか」
真尋は、画面の中に山岸がいないことを少し残念に思った。
「大阪の山岸課長は言います」
森田が画面の向こうで頷く。
「かなり明確に」
再び笑いが起こった。真尋も笑う。
だが、スマートフォンには山岸の問題報告が残っている。今、その山岸が何かを間違えた可能性がある。
任せた人が失敗した時、自分は同じことを言えるだろうか。
*
会議終了。参加者が退室する。真尋は森田との接続を切らずに残した。
「森田さん。山岸さんから、名古屋地区の販促切替で問題が起きたと」
森田の表情が変わる。
『私にも連絡がありました』
「内容は?」
『山岸さんから説明すると思います』
「知っていますか」
『概要だけ』
「緊急性は?」
『現時点で、営業停止や顧客の安全に関わる問題ではありません。ただ、関係部署の不満が大きくなっています』
「わかりました」
『水口さん。私から先に詳しく聞きますか』
真尋は一瞬、そうしたいと思った。
山岸から説明を受ける前に、森田の見方を聞く。自分で全体像を把握する。山岸の説明が足りなければ補う。部長として当然にも思える。
だが、それをすれば、山岸が報告する場を先に評価することになる。
「いいえ」
真尋は答えた。
「山岸さんから聞きます。森田さんは、必要なら同席を」
『わかりました』
*
午前十一時三十二分。真尋は東京本社の小会議室へ移った。扉を閉める。オンライン会議を開始。
山岸と森田が大阪の会議室に座っている。山岸の表情は硬い。机の上には資料。
「説明をお願いします」
真尋が言う。
山岸は一度、息を吸った。
「名古屋地区の季節販促を、来週月曜日から切り替える判断をしました。当初は二週間後の予定でしたが、競合店が同様の販促を先行して開始したため、営業から前倒しの提案がありました」
「はい」
「対象は名古屋地区二十四店舗。店頭資材は、既存在庫と簡易印刷で対応できると判断しました。予算は、私の決裁範囲内です。販促内容も、既存商品の組み合わせなので、新規の契約や法令確認は不要です」
ここまでは、山岸の権限内。
「問題は?」
「物流部門へ、正式な確認をしないまま実施日を決めました。営業担当から、在庫は確保できると聞きました」
「営業担当の確認先は?」
「地域倉庫です」
「本部物流ではなく?」
「はい」
「地域倉庫の在庫だけで、二十四店舗分を?」
「初回分は可能でした」
「継続分は?」
「不足します」
*
真尋は資料を見た。
季節販促。対象商品。売上予測。初回納品。追加発注。
競合対策として前倒ししたが、二週目以降の在庫が不足する。
「それだけですか」
真尋が尋ねる。山岸の表情がさらに硬くなった。
「いいえ」
「続けてください」
「本部販促部門へも、正式な共有前に店舗へ案内を出しました。本部では、同じ商品を使った全国キャンペーンを準備していました」
「開始日は?」
「三週間後です」
「名古屋だけ先行すると?」
「全国告知前に、同じ見せ方が店頭へ出ます。本部から、企画の統一性を損なうと抗議がありました」
「はい」
「それから」
山岸は一度、資料へ目を落とした。
「店舗向け案内に、値引き条件の誤記がありました」
真尋は眉を寄せる。
「どの程度ですか」
「対象商品二点同時購入で五十円引きのところ、一点購入で五十円引きと読める表記になっていました」
「すでに店頭へ?」
「五店舗で掲示されました」
「販売は?」
「合計百三十七件です」
「顧客への対応は?」
「表示通りの価格で販売しました」
「損失額は?」
「六千八百五十円です」
金額は大きくない。だが、問題は金額ではない。
物流。本部販促。店舗案内。三つの確認不足。
*
「現在の状況を」
「値引き表記は修正済みです。五店舗では、問い合わせがあった場合、表示期間中は一点でも五十円引きへ対応します。在庫については、来週月曜の開始は可能です」
「二週目以降は?」
「物流部門と調整中です」
「全国キャンペーンとの重複は?」
「本部販促部門が、開始延期を求めています」
「名古屋営業は?」
「競合への対抗のため、予定通りを求めています」
「店舗は?」
「案内が二度変わることへ不満が出ています」
真尋は一度、目を閉じた。
自分なら、どうしたか。
前倒しの提案を受けた時点で、物流へ確認。本部販促の予定。店舗案内の校正。少なくとも三か所へ。
山岸は、急いだ。競合へ遅れたくない。自分の決裁範囲内。営業の在庫確認。それで進めた。
判断の意図は理解できる。手順が足りない。
*
「誰が最終案内を承認しましたか」
真尋が尋ねる。
「私です」
「値引き表記も?」
「はい」
「校正担当は?」
「営業担当と、私です」
「本部販促へ送ったのは?」
「店舗配信後です」
「物流へは?」
「在庫不足が判明した後です」
真尋の中で、すぐに指示したい言葉が並ぶ。
開始延期。本部への謝罪。物流と再計算。店舗向け訂正文。営業担当の役割確認。山岸へ反省文。自分が本部部長へ電話。
真尋が動けば、早い。関係部署も安心するかもしれない。水口部長が戻った。これで収まる。
だが、その瞬間、山岸の判断は真尋が修正するまでの仮のものになる。
*
「山岸さん。どうしたいですか」
山岸が顔を上げる。すぐには答えない。
「販促開始を、一週間延期したいです」
「理由は?」
「二週目以降の在庫を確保する時間が必要です。本部販促との見せ方も調整します」
「競合への対抗は?」
「一週間遅れます」
「営業は納得しますか」
「しないと思います。でも、今のまま始めれば、途中で欠品する可能性があります。店舗案内も、さらに変更になります。一度延期し、条件をそろえたほうがよいと判断します」
「本部販促は?」
「今日中に、私から説明します」
「謝罪は?」
「します」
「物流へは?」
「必要数量を再計算し、私が調整します」
「店舗へは?」
「案内変更の理由を、私の名前で出します。営業担当にも、一緒に説明してもらいます」
真尋は山岸を見た。
逃げてはいない。失敗を、誰かの確認不足だけにしていない。
*
「森田さん。どう思いますか」
『一週間延期が妥当だと思います。ただ、本部販促との調整は、山岸さん一人では難しい可能性があります』
「なぜ?」
『全国キャンペーンの情報は、地域へ十分共有されていませんでした。本部側にも改善点があります。山岸さんが全面的に謝罪すると、本部の共有不足が見えなくなる可能性があります。私が地域連携として同席します』
山岸が森田を見る。
「ありがとうございます」
『ただし、山岸さんの代わりに説明はしません。情報共有の仕組みだけ、私から』
「わかりました」
*
「山岸さん。本部販促部長へ、私から先に連絡したほうが早いと思います。どうしますか」
山岸は迷った。
「私から話させてください。水口さんには、必要なら後から入っていただきたいです」
「失敗したと思われます。課長としての評価へ影響する可能性も。怖くありませんか」
「怖いです。でも、私が決めました。私が説明します」
*
真尋の胸の中で、何かが引っ張られる。
守りたい。
山岸が本部の部長から厳しく責められる場面を想像する。言葉が足りない。山岸は現場判断には強くなったが、本部交渉にはまだ慣れていない。真尋が同席すれば、整理できる。相手の言い方が強ければ止められる。
だが、それは山岸が自分で失敗を修正する機会を奪うかもしれない。
「わかりました」
真尋は答えた。
「今日の本部販促との会議は、山岸さんが進行してください。森田さんが情報共有部分を支援」
『はい』
「私は参加しません」
山岸が驚く。
「参加されない?」
「はい。必要なら呼んでください。ただし」
真尋は資料を見た。
「法的な問題や、全国キャンペーン全体の変更へ進む場合は、私へ戻してください。延期判断は、山岸さんの権限内です」
「はい」
「本部販促の同意を待たず、店舗へ延期を伝えますか」
「本部との会議後に」
「会議が長引けば?」
「午後四時までに結論を出します」
*
会議を終えようとした時、山岸が言った。
「水口さん。怒っていますか」
真尋は考えた。
「はい」
山岸の表情が強張る。
「値引き表記の誤り。物流への未確認。本部販促への共有。三つとも、確認できたことです」
「はい」
「急いだ理由は理解しています。でも、確認を飛ばしてよい理由にはなりません」
「失望しましたか」
山岸の声が低くなる。
真尋はすぐに否定しそうになる。
失望していない。大丈夫。誰でも間違える。
そう言えば、山岸は少し楽になる。だが、今は楽にするための言葉を渡す場ではない。
「今日の判断には、失望しています」
真尋は答えた。
「はい」
「山岸さん自身との関係を終わらせるものではありません。課長として任せることを、すぐに取り消すつもりもありません。ただし、同じ確認不足が続けば、権限範囲は見直します」
「わかりました」
山岸は顔を上げる。
「修正します」
「はい」
*
オンライン会議が終わる。画面が暗くなる。
真尋は椅子へ深く座った。手のひらに汗をかいている。
参加しないと決めた。本当にそれでよいのか。
山岸が説明に失敗する。本部との関係が悪化。販促延期。営業からの不満。真尋が後から入れば、さらに混乱。最初から参加したほうがよい。
部長として責任を持つとは、部下へ任せて見ないことではない。自分へ言い訳しているだけではないか。
*
スマートフォンに、俊介からメッセージが届いていた。
『昼食は食べられそうですか』
真尋は時計を見る。午後零時二十分。昼休み。午後一時から東京本社の会議。
『今から食べます』
『何かありました?』
以前なら、
『大丈夫です』
と返した。今日は。
『山岸さんの判断で、現場に問題が起きました』
俊介から。
『真尋が対応しますか』
『山岸さんに任せました。不安です』
返事は少し後。
『電話は?』
『十分なら』
*
真尋は社内の屋上へ出た。昼の風。空。俊介へ電話。
「もしもし」
『お疲れさまです。何があったのですか』
真尋は、守秘義務に触れない範囲で説明した。確認不足。店舗。本部。延期。山岸が自分で説明すること。
『真尋は、参加しない? なぜ?』
「山岸さんに修正まで任せたい。でも、失敗したら、私が最初から入ればよかったと思っています」
*
『山岸さんは、真尋に来てほしいと言いましたか』
俊介が尋ねる。
「いいえ」
『自分で説明したいと?』
「はい」
『なら、今は待つしかないのでは』
「はい」
『難しいですか』
「かなり」
『真尋は、山岸さんが失敗しないことを望んでいる? それとも、真尋が任せた判断が正しかったと証明したい?』
真尋は言葉を失った。
屋上の風。遠くの車の音。
「両方です」
『はい』
「山岸さんが失敗すれば、私が任せたことも間違いだったように感じます。だから助けたい。山岸さんのためだけではない。自分の評価を守るためでも」
口にすると、胸が痛む。
*
『真尋。任せた人が失敗しても、真尋が失敗したことにはならない、とは言いません』
「はい」
『部長として責任はあります。でも、山岸さんの失敗を、真尋が奪ってはいけないと思います』
「失敗を奪う?」
『はい。成功を奪うのと同じように。自分で謝り、直し、次に変えるところまで、山岸さんの仕事です』
真尋は以前、葵の商品について、
『手を離れた後は、その人のもの』
と話したことを思い出す。
仕事も同じ。任せた判断が失敗した時だけ、自分のものへ戻すことはできない。
「ありがとうございます」
『はい』
「俊介は昼食?」
『これからです』
「私も」
『食べてください。結果が出たら、教えてください』
「はい」
*
電話を切る。真尋は食堂へ向かった。
食事。午後の東京会議。山岸の本部説明は午後二時。真尋は参加しない。
結果を待つ。それまで、自分の仕事をする。
*
午後一時、本社の制度会議。
二拠点勤務の利用候補者。北陸。九州。家庭事情。介護。配偶者の仕事。地域人材育成。
真尋は質問へ答える。
「二拠点で働けば、両方の生活を完全に維持できますか」
「できません」
真尋は答えた。
「移動時間。費用。人間関係。どこにも十分いられない感覚があります」
「では、何のために?」
「一つを選んで、ほかを完全に失う以外の方法として。ただし、すべてを同じ形で残せる制度ではありません」
自分へ言っているようだった。
任せることも。全部を保つ方法ではない。間違いが起きる。失うものもある。
*
午後二時。山岸と本部販促部長の会議が始まる時間。真尋のスマートフォンは伏せたまま。
午後二時二十分。連絡なし。二時四十分。連絡なし。三時。
真尋の会議は続いている。画面には、制度利用者の健康管理。真尋は話しながら、時計を見ないようにする。
*
午後三時十八分。休憩。真尋がスマートフォンを開いた。山岸からメッセージ。
『本部販促との会議が終了しました。販促開始は一週間延期で合意しました。詳細は四時半に報告します』
短い。合意。
真尋は息を吐いた。
すぐに、
『お疲れさまでした』
と送りたくなる。止める。まだ詳細を聞いていない。
『承知しました。四時半にお願いします』
送る。
*
午後四時半。東京と大阪をつなぐ。山岸。森田。真尋。
山岸の顔には疲れがある。
「報告をお願いします」
「はい」
本部販促部長との会議。最初の十五分は厳しい指摘が続いた。
地域だけで先行すれば、全国キャンペーンの独自性が失われる。本部へ共有せず店舗案内を出したこと。表記ミス。
山岸は謝罪した。その上で、全国キャンペーン情報が地域へ正式共有されていなかったことを森田が説明。本部も、情報提供の遅れを認めた。
名古屋の販促は一週間延期。全国キャンペーンとは異なる売り場デザインへ変更。対象商品の一部を入れ替える。物流は、一週間で継続在庫を確保。値引き誤記による損失は地域販促費で処理。店舗へは、山岸名義で謝罪と訂正。
*
「本部販促部長から、何を言われましたか」
真尋が尋ねる。
「判断が早いことと、確認を飛ばすことは違うと。地域の事情を理解していないと感じても、共有せずに進めれば、相手も理解できないと。その通りだと思います」
「営業担当は?」
「延期に反対しています。明日の午前、私が説明します」
「店舗は?」
「今日、延期案内を出しました」
「反応は?」
「かなり不満があります。売り場準備を始めた店舗。従業員へ説明済み。二度目の変更。明日から、対象店舗へ私が順番に電話します」
「山岸さんが? 二十四店舗すべて?」
「はい」
真尋は考える。二十四店舗。時間。山岸の通常業務。
「地域営業担当と分担する案は?」
「私が最終承認したので、私が説明したいです」
「全部を一人で背負う必要はありません」
「では、店長への説明は私。従業員向けの再案内は営業担当」
「問い合わせ一覧は森田さんに支援を」
森田が頷いた。
『引き受けます』
*
「今回の原因を、山岸さんはどう考えていますか」
真尋が尋ねる。山岸は資料を見ずに答えた。
「競合へ遅れることを、失敗だと思いすぎました。早く決めることが、自分の役割だと。水口さんが東京にいる間、私が止めてはいけないと。確認へ戻せば、任された意味がないように感じました」
真尋の胸が痛む。
「誰かへ確認することは、権限を返すことではありません」
「わかっていたつもりでした。でも、今回は、自分で決めることを示したかったです」
「私に?」
「少し。本社にも。自分自身にも。水口さんがいなくてもできると。結果、周囲を見ませんでした」
山岸は顔を上げる。
「申し訳ありませんでした」
「謝罪は受け取ります」
真尋は答えた。
「ただ、私へ示すために仕事をしないでください。私が見ていなくても、必要な人と確認し、必要な時間を使う。それで判断が遅くなっても、説明できればよいです」
*
「水口さん。権限を戻しますか」
真尋は一度、息を吸った。
ここで戻せば、安全になる。一定額以上の販促切替を、部長承認へ。本部共有を真尋が確認。店舗案内も。同じ失敗は減る。
だが山岸は、再び真尋の承認を待つ。二拠点勤務の意味も弱くなる。
「戻しません」
真尋は答えた。山岸の目が見開かれる。
「ただし、販促開始日の前倒しは、本部販促と物流の確認を必須にします。承認ではありません。確認記録を残す。店舗案内は、担当者以外の校正を一人入れる。山岸さんだけでなく、全地域の運用へ追加します」
「わかりました」
*
「今回のことを、制度資料へ入れます」
森田が言う。
『例外判断の事例として。個人名は出しません。急ぎの判断ほど、確認先を減らさない』
山岸が少し苦い顔で笑った。
「教材になりますね」
「嫌ですか」
「かなり。でも、使ってください」
*
会議の最後、真尋が言った。
「山岸さん。今日、本部との会議へ私を呼びませんでしたね。呼びたいと思いましたか」
「途中で、何度か。でも、呼ばなかった」
「なぜ?」
「自分で説明すると決めたので。森田さんが支援してくれました。本部販促部長が強く言った時も、逃げたくなりました。でも、続けました」
真尋は頷いた。
「お疲れさまでした」
今度は言う。山岸の表情が崩れた。
「ありがとうございます」
*
会議を終えた後、真尋は東京本社の廊下へ出た。窓。夕方の街。
山岸は失敗した。大きな損失ではない。だが、複数部署を混乱させた。
真尋は怒った。失望した。それでも、権限を戻さなかった。
正しかったかは、まだわからない。次も同じことが起きるかもしれない。その時、戻す必要があるかもしれない。
今日の判断が永遠の約束ではない。今は、任せることを続ける。
*
葵からメッセージが届いていた。
『一店舗の撤退後、別の大阪店舗で再購入が増えた』
真尋は画面を見る。
先月、葵が撤退を決めた。売り場から商品が消えた。泣いた。今、別の店舗で増えた。
『どの程度ですか』
『前月より二十パーセント。全国平均より上。販売員さんが、朝の売り場で一言説明してる』
『商品を増やす?』
真尋は尋ねる。
『増やさない。今の在庫で、再購入が続くか見る』
『はい』
『責任者。見てて』
『見ています』
*
その夜、真尋は俊介の待つ家へ帰った。東京滞在中。玄関。二つの鍵。
「ただいま」
「お帰りなさい」
俊介が台所にいる。夕食の匂い。
「山岸さんは?」
「自分で説明しました。販促は延期」
「権限は?」
「戻しませんでした」
俊介が驚く。
「怖くないですか」
「かなり。でも、戻しませんでした」
*
夕食。俊介が作った鶏肉と野菜の煮物。
真尋は、山岸との話を守秘義務に触れない範囲で説明する。
「失敗した後も任せる。難しいですね。僕なら、取り上げるかもしれません。同じ失敗が怖いので」
「私もです」
「でも?」
「取り上げれば、山岸さんは、失敗を直した後も自分で決められない。私がいる時だけ安全な組織へ戻ります」
「はい」
*
「夫婦も?」
俊介が尋ねる。
「何がですか」
「失敗した後、任せる。僕が予定を忘れる。真尋を傷つける。その後、真尋が全部管理するようになれば、僕は、自分で生活を直す機会を失う」
「はい」
「でも、同じことが続けば?」
「話します。任せる範囲を変える可能性も」
「山岸さんと同じ?」
「関係は違います。でも、失敗したからすぐに相手の選択を全部奪わないという点では、近いかもしれません」
*
俊介は吹き出した。
「僕も、明日の夕食の予約を忘れていました」
真尋は箸を止める。
「何ですか」
「真尋のお母様との食事。店へ確認したら、予約日を、来週で取っていました」
「俊介」
「すみません」
真尋は目を閉じた。
明日。母。真尋と俊介。三人で食事。母は予定を空けている。
「明日の席は?」
「別の店を取りました。少し遠いです」
「母へは?」
「僕から連絡しました。僕の予約ミスで店が変わると。謝りました」
「母は?」
「笑っていました。次から、二人の予定表に予約番号も入れます」
「はい」
「真尋が管理しますか」
俊介が尋ねる。真尋は少しだけ笑った。
「しません」
「ありがとうございます」
「でも、次に同じことがあれば、予約は俊介へ任せません」
「わかりました」
二人の間に短い笑いが起きた。
*
翌朝、山岸は大阪の対象店舗へ電話を始めた。
一店舗目。店長は強い口調で不満を伝えた。
『昨日まで月曜開始と言っていた。売り場を作った。従業員にも説明した。また変えるのか』
「はい」
『本部は現場を何だと思っている』
山岸は言い訳をしなかった。
「今回の変更は、私の確認不足によるものです」
『課長の? 本部の指示ではなく?』
「全国販促との調整不足もありますが、店舗へ案内を出した最終責任は私にあります。申し訳ありません」
店長はすぐには許さなかった。電話は十五分続いた。
二店舗目。三店舗目。昼までに七店舗。午後、八店舗。残りは翌日。
同じ説明。同じ謝罪。反応は違う。
『わかりました』
『次は早めに』
『またですか』
『競合に負けますよ』
『現場の時間を返してほしい』
返せない時間。山岸は一つずつ聞く。
*
午後五時、山岸は真尋へ報告を送った。
『本日十五店舗へ説明。強い不満四店舗。追加対応が必要な店舗三。明日残り九店舗へ連絡します』
真尋は東京本社でメッセージを読む。
『承知しました』
それだけ。
『大丈夫ですか』
と聞きたくなる。だが、山岸は大丈夫である必要はない。
疲れている。傷ついている。それでも仕事をしている。必要なら、自分から言う。
数分後、山岸から追加。
『正直、かなり苦しいです』
真尋は画面を見た。
『はい』
『水口さんに代わってほしいと思いました。でも、明日も自分で連絡します。見ていてください』
真尋は息を吸う。
『見ています』
送る。
*
同じ頃、葵は責任者会議で、大阪の好調店舗について報告していた。
「再購入率が高い理由は?」
部長が尋ねる。
「販売員の声かけ」
「全国へ広げる?」
「そのままは広げません」
「なぜ?」
「店舗ごとの人員と関係性が違うためです」
「声かけ文をマニュアルにすると?」
「商品が、説明しなければ売れない形になる可能性があります」
「では、何をする?」
「売り場担当者が、自分の言葉で説明できる短い資料を作ります。全国共通の台詞ではなく、商品の中心と味だけ。各店舗が使うかを決める」
「はい」
「撤退した店舗は?」
「再出店しません」
「別の店舗が好調なら、戻しても?」
「条件が違います。撤退を失敗として消すために戻しません。売れなかった理由が変わらなければ、同じ結果になります」
葵は、自分の言葉で説明する。
撤退。好調。どちらも同じ商品の結果。片方で失ったから、別の場所で取り返すのではない。
*
会議後、南雲が言った。
「小野寺さん。今日、良かったです」
「何が?」
「好調店舗を、すぐ成功事例として横展開しなかった。以前なら?」
「広げたかもしれません」
「責任者として、何を見ていますか」
葵は考えた。
「結果だけではなく、条件。誰が、どこで、どう売っているか。同じことをしても、同じにならない。それから、失敗した店舗を、成功した店舗で打ち消さない」
南雲が頷く。
「よいと思います」
*
葵は真尋へメッセージを送った。
『撤退した店舗は戻さないと決めた。別の店舗が好調でも。失敗を成功で消さない』
真尋は少しして返信する。
『今日、山岸さんも、自分の失敗を自分で修正しています』
『真尋、助けない?』
『必要な支援はします。でも、説明と謝罪は任せています』
『怖い?』
『はい』
『葵も、売れない店舗から撤退した時、怖かった?』
『はい』
『でも、決めた』
『はい』
『山岸さんも?』
『はい』
*
『真尋。失敗した人を、嫌いにならない?』
真尋は画面を見た。
『行動には失望しました。でも、関係を終わらせることとは別です』
『葵が失敗しても?』
『何の失敗ですか』
『仕事。約束。真尋を傷つける』
真尋は考える。
『傷つけば、怒ります。関係を見直す可能性もあります。でも、一度の失敗だけで、葵のすべてを決めません』
葵から。
『はい』
『私も』
*
山岸の店舗説明は、二日で終わった。
対象店舗二十四。強い不満。追加の説明。販促資材の再印刷。売り場準備に使った時間。完全には取り戻せない。
山岸は、店舗ごとの負担をまとめ、本部販促と物流へ共有した。
「店舗がどれだけ時間を使ったか、次回の変更判断へ入れてください。売上や印刷費だけではなく、従業員への説明。売り場の組み直し。一度出した案内を変更する負担」
本部の会議で言う。
自分の失敗から出た言葉。
*
一週間後、名古屋地区の販促が開始された。
全国キャンペーンとは異なるデザイン。在庫。店舗説明。値引き表記。すべて確認。
開始初日。売上は予測を少し下回った。競合店は一週間先行している。
営業担当から、
「最初の予定通り始めていれば」
という声が出た。
山岸は聞く。反論しない。だが、
「欠品や案内変更の可能性を含めても、予定通りがよかったかは別に検証します」
と答えた。
三日目。売上は上がる。一週間。予測とほぼ同じ。
大きな成功ではない。延期が正しかったと証明する数字でもない。競合へ負けたとも言い切れない。
ただ、販促は大きな問題なく続いた。
*
山岸は結果報告をまとめ、真尋へ提出した。真尋は大阪へ戻っている。
二人は部長席の前ではなく、小会議室へ座った。
「読みました。原因分析。再発防止。店舗負担。本部の情報共有。十分だと思います」
山岸の肩が下がる。
「ありがとうございます」
「ただし、営業担当との役割分担が曖昧です。在庫確認を営業の言葉だけで受け取った。次回は、確認先を記録してください」
「わかりました」
*
「水口さん。権限を戻さなかったこと、後悔していませんか」
真尋は正直に考えた。
「途中で何度も。今も、完全には。次の判断で同じことが起きれば、戻す可能性があります」
「はい」
「でも、今回、山岸さんが、自分で修正したことを見ました。それを、次の判断へつなげてください」
「はい」
*
「失敗しないとは約束できません」
山岸が言う。
「また、間違えるかもしれません。その時、また任せてもらえるとは思いません。でも、隠しません。早く報告します。自分で直す案を持ってきます」
真尋は頷いた。
「それをお願いします」
*
会議の後、山岸は部屋を出ようとした。扉の前で振り返る。
「水口さん。失敗した後も、見ていてくださり、ありがとうございました」
真尋は一瞬、答えに迷う。
「見ていました」
それだけ。山岸は頭を下げ、出ていった。
*
真尋は一人になった小会議室で、生活ノートを開いた。
『山岸が判断を誤った』
『怒った』
『失望した』
『権限を戻したかった』
『本部との会議へ入りたかった』
『入らなかった』
『山岸が説明した』
『謝った』
『修正した』
『店舗へ電話した』
『販促は始まった』
最後に。
『任せることは、成功だけを渡すことではない』
『失敗した後の時間も、相手のもの』
『ただし、放置しない』
『必要な境界と支援を決める』
『同じ失敗が続けば、形を変える』
*
その夜、葵から電話がかかってきた。
『今、話せる? 十分』
「はい」
『大阪の好調店舗、再購入率、さらに上がった。でも、在庫は増やさない。一週間だけ見る』
「はい」
『営業は、増やせって。私は、増やさない。責任者』
「はい」
『真尋は?』
「山岸さんの報告が終わりました。権限は、そのままです」
『怖い?』
「はい」
『でも、決めた』
「はい」
*
『真尋。私が責任者になって、南雲さんが、失敗させないように全部確認したら、嫌』
「はい」
『でも、失敗した時に何も言われないのも嫌。山岸さんも?』
「おそらく」
『真尋は、怒った? 失望したって言った?』
「言いました」
『怖い。私なら泣く。でも、嘘で大丈夫って言われるより』
「はい」
『真尋は、私にも言う?』
「必要なら」
『私の仕事に失望したら、言って』
「わかりました」
『でも、私全部を嫌いになったみたいに言わないで』
「言いません」
*
「葵も」
真尋が言う。
『何?』
「私の判断へ失望した時、言ってください」
『言ってる』
「かなり」
二人は同時に吹き出した。
*
電話を切った後、葵は自宅の机へ戻った。
大阪の好調店舗。撤退店舗。追加在庫。責任者。
成功へ急ぎたくなる。数字が上がっているうちに在庫を増やす。店舗を増やす。広げる。
以前なら、機会を逃したくないと思った。
今は、続くかを見る。販売員の負担。再購入。原料。売り場。
*
翌週、好調店舗の売上は、落ち着いた。在庫を増やさなくても対応できた。
葵は会議で報告する。
「増やさなくてよかった?」
営業担当が尋ねる。
「結果としては。でも、増やさない判断が正しかったと証明されたわけではありません」
「なぜ?」
「売り切れの機会を逃した可能性もあります。次は、少量の追加在庫を準備します」
「判断を変える?」
「情報が増えたので。最初の判断を守ることが、責任者ではありません」
葵の言葉。
真尋も、山岸の判断を守るために権限を残したわけではない。
次の判断を見て、変える。任せ続けることを目的にしない。仕事が続く形を選ぶ。
*
数か月後、山岸は本社の管理職研修で、名古屋販促の失敗事例を話した。
個人名を隠す必要はないと、自分で申し出た。
「私が判断しました」
研修室。他地域の課長たち。
「権限内でした。だから、確認しなくてよいと思いました。間違いでした」
物流。本部。店舗。表記。説明する。
「任されたことを証明したくて、周囲へ確認することを弱さだと思いました」
参加者が聞く。
「失敗後、権限は取り上げられませんでした」
少しざわめき。
「なぜだと思いますか」
山岸は答える。
「修正まで任せると、部長が決めたからです。ただし、同じことをすれば見直すと言われました」
「はい」
「信頼とは、失敗しても何も変わらないことではありません」
山岸は言う。
「失敗を隠さず、次の判断へつなげる機会が残ることだと思います」
*
その研修を、真尋は大阪の部長席からオンラインで見ていた。
途中で口を挟まない。
山岸の言葉。山岸の経験。真尋の成功事例ではない。
失敗した人が、自分で意味を作っている。
研修後、山岸からメッセージ。
『終わりました。かなり緊張しました。水口さんの話もしました』
『何を?』
『失望したと言われたこと』
真尋は驚く。
『はい』
『大丈夫だと言われるより、仕事を見てもらっていると感じたこと』
真尋は画面を見つめた。
『そうでしたか』
『はい。でも、次は言い方を少し考えてください』
真尋は画面の前で笑った。
『努力します』
*
葵の商品は、全国の一部地域で静かに続いていた。
大きな広告はない。表彰も、まだ。
それでも、朝に買う人。何度も買う人。店舗から届く声。
『月曜日に手に取る方が多い』
『夜勤明けの方が買う』
『子どもを送り出した後に食べるという方がいた』
葵は、すべてを広告へ使わない。許可。匿名。生活を物語へしすぎない。
責任者として守る。
*
ある日、撤退した店舗の担当者から連絡が入った。
『別の売り場位置なら、再販売を検討できないか』
葵はすぐに喜ばなかった。条件を聞く。
朝食売り場ではなく、レジ横。期間限定。販売員の説明なし。数量は少ない。
以前とは違う。戻すか。撤退を守るか。
葵は会議を開いた。
「再販売します」
南雲が尋ねる。
「なぜ?」
「条件が変わったからです」
「以前の撤退を、間違いだったことにしない?」
「しません。あの時の売り場では続けられなかった。今度は、別の場所で試す」
「売れなければ?」
「二週間で終えます」
「責任者として?」
「はい」
*
再販売初日。売上は、以前より少し高い。
二週間。目標へ届かない。
葵は再び撤退を決めた。
今度は、前ほど泣かなかった。
悲しい。だが、同じ店舗へ戻れなかったことを、自分の価値とは結びつけない。条件を変えても続かなかった。それが結果。
真尋へ電話。
『また撤退した。二回目。今度は、少しだけ泣いた。でも、決めた。失敗?』
「その店舗では、続かなかった」
『はい』
「再挑戦したことは?」
『情報が変わったから。戻した判断を、間違いだとは思ってない。撤退も』
「責任者ですね」
『はい』
*
葵は窓の外を見た。
「真尋。見てくれてる?」
『見ています』
「全部じゃない」
『はい』
「でも、見て。責任者になって、失敗も増えた。選ばれたのに。選ばれたら、うまくいくと思ってた。違った」
『はい』
「でも、やめたくない。次も決める」
『はい』
*
真尋は電話の向こうで、葵の声を聞く。
責任者。選ばれた人。失敗する人。撤退を決める人。
もう、真尋が救わなければ壊れる葵ではない。それでも、見てほしいと言う。
真尋も、山岸へ見ていると答えた。
見ていることは、正解を与えることではない。失敗を防ぐことでも。相手が決めた時間を、後から知ること。
必要な時に怒る。支援する。戻す。任せる。その時ごとに選ぶ。
*
真尋は生活ノートへ書いた。
『山岸の権限を戻さなかった』
『それが正しいと証明されたわけではない』
『山岸は、また失敗するかもしれない』
『私も』
『葵も』
『俊介も』
『失敗しない関係を作ることはできない』
最後に。
『失敗した後、相手のすべてを取り上げない』
『ただし、何も変えないことを信頼とは呼ばない』
『話す』
『修正する』
『必要なら形を変える』
『それでも、次に自分で決める場所を残す』
*
山岸は翌月、別の販促判断を行った。開始を一週間早める提案。
今度は、物流。本部販促。店舗。営業。確認記録。すべてをそろえた。
結果、開始は三日だけ前倒し。競合より遅い。それでも、在庫と売り場を維持できる形。
山岸は真尋へ事前承認を求めなかった。報告だけ。
『確認先を記録しました。権限内で決定します』
真尋は読む。
『確認しました』
承認とは書かない。
販促開始。売上は予測通り。大きな問題なし。
山岸から、
『今回は、問題なく始まりました』
と届く。真尋は、
『はい』
と返す。
褒めすぎない。失敗の後の成功を、特別な償いにしない。仕事として受け取る。
*
夕方、山岸が部長席へ来た。
「水口さん。今回は、どうでした?」
「何が?」
「判断」
「必要な確認ができていました。結果も、今のところ問題ありません。お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
山岸は笑う。
「前回を取り返しましたか」
真尋は首を振った。
「取り返す必要はありません。前回は前回です。今回は今回」
山岸が頷く。
*
真尋は窓の外を見た。大阪の夕方。
東京には俊介。葵は自分の会社。母は自宅。
皆、それぞれ失敗する。誰かへ期待しすぎる。予定を忘れる。確認を飛ばす。仕事を選ぶ。会えない。傷つける。
その後。謝る。怒る。修正する。形を変える。
関係を続けることは、失敗を許し続けることではない。同じことが続けば、距離も役割も変える。
それでも、一度の失敗で相手の未来すべてを決めない。
真尋は、山岸が自分の席へ戻る姿を見た。
もう呼び止めない。次の判断をする人。見ている。ただし、手は出さない。必要な時まで。
*
その夜、葵から短いメッセージが届いた。
『再撤退の報告書、出した。明日から、別の店舗を見る。今日、よくやった?』
真尋は考えた。
『はい』
それだけでは足りない。
『撤退を決め、報告し、次の仕事へ進む葵を見ています』
葵から。
『はい』
『真尋も、今日よくやった?』
真尋は部長席で、山岸へ手を出さずに待った時間を思う。
『はい』
『自分で言える?』
真尋は笑った。
『今日の私は、よく待ちました』
葵から。
『はい』
*
任せた先では、思った通りのことだけが起きるわけではない。
自分なら避けられた失敗。自分では思いつかなかった判断。予定外の混乱。知らない成功。
すべてが起きる。
手を離すことは、何も起こらないと信じることではなかった。
何かが起きた時にも、自分だけが答えを持つ人へ戻らないこと。必要な責任を引き受けながら、相手が自分の判断を修正する場所を残すこと。
*
真尋は大阪の部屋へ帰った。
「ただいま」
誰もいない。それでも、今日の仕事を持ち帰る。
夕食。風呂。ノート。俊介へ電話。葵からのメッセージ。自分の生活。
三つの鍵は、もうない。二つの鍵。大阪。東京の家。
鍵のない関係。任せた仕事。
どれも、開けば思い通りのものが待っているわけではない。
*
それでも真尋は、扉を開く。
中で何が起きたかを聞く。失敗があれば、なかったことにしない。成功だけを自分のものにしない。
山岸が間違えたことも。葵が店舗から撤退したことも。俊介が予約を間違えたことも。真尋が会えない日を作ったことも。
すべて残る。
残ったものを抱えたまま、次を決める。
信頼とは、失敗しない相手を選ぶことではなかった。
失敗した後にも、相手が自分の足で立ち直る姿を見る覚悟だった。




