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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第四十二章 ただいまと言うまで

葵が初めて新しい家へ泊まることになったのは、正式販売から三か月が過ぎた頃だった。

『今日を始めた、それだけで。』

 三十店舗で始まった商品は、目標を大きく上回ることもなく、売り場から消えることもなく、毎朝少しずつ売れていた。

 駅前店舗では安定している。住宅地では、軽い甘さと塩味を前へ出した売り場札が効果を見せた。オフィス街では、月曜日と金曜日の購入が多い。再購入率は、当初の目標をわずかに上回った。

 経営会議では、販売店舗を五十店舗へ増やすことが決まった。全国展開ではない。関東と関西を中心に、条件の合う店舗へ広げる。

 葵は、その判断を受け入れた。

 以前なら、全国へ行くことを成功だと考えたかもしれない。

 今は、置かれたすべての店舗で売れ残るより、続けられる場所へ丁寧に置くほうがよいと思える。

 責任者として、拡大を止めることも仕事だった。

     *

 大阪での販売店舗が増えることになり、葵は再び出張へ行くことになった。

 一泊二日。一日目は店舗視察。二日目は地域営業との会議。

 前回と違うのは、南雲が同行しないことだった。葵が責任者として、大阪の営業担当と直接話す。東京から同行するのは、開発担当の一人だけ。

 会議の進行。店舗への説明。販売数の調整。すべて葵が行う。

 大阪出張が決まった日の夜、葵は真尋へ電話をかけた。

『来月、大阪へ行く。仕事』

「店舗拡大ですか」

『はい』

「おめでとうございます」

『五十店舗。全国じゃない。でも、続けられる場所を増やす。私が決めた』

「はい」

『それで』

 葵の声が変わる。

『泊まりたい』

 真尋はすぐに答えなかった。

 以前、葵は大阪の部屋へ初めて来た。夕食を食べた。公園。花屋。山岸と森田。ホテルへ戻った。次は泊まりたいと言った。

 その後、真尋は俊介と何度も話した。結婚後の生活。共同の家。

 大阪の部屋は、真尋一人の住居であると同時に、俊介も泊まる場所。葵を泊めることを、真尋一人で決めてよいのか。俊介の許可が必要なのか。誰の家なのか。

 答えは、簡単には出なかった。

     *

「日程は?」

 真尋が尋ねた。葵が日付を伝える。真尋は予定表を見た。大阪勤務。俊介は東京。

「俊介と話します」

『はい』

「私も、泊まってほしいと思っています」

 葵は黙った。

『先に、それ言って。許可を取るだけみたいに聞こえた』

「すみません」

『泊まってほしい?』

「はい」

『俊介さんが嫌だと言ったら?』

「理由を聞きます。それでも、私は希望を伝えます。ただ、結論を今は約束しません」

『わかりました』

     *

 その夜、真尋は俊介へ話した。ビデオ通話。俊介は新しい東京の家。真尋は大阪。

「葵が来月、大阪出張へ来ます。泊まりたいと」

 俊介の表情が硬くなった。

『大阪の部屋へ? 前に話したことですね。真尋は?』

「泊まってほしいです」

 俊介は画面から視線を外した。

『理由を聞いても?』

「葵が、私の大阪の生活へ入ることに意味があると思っています。東京だけではなく、私が大阪で生きている時間も知ってほしい。前回は訪れただけでした。泊まることで、朝まで含めた生活を共有したいです」

『はい』

     *

『同じ寝室ですか』

 俊介が尋ねた。

「リビングへ布団を敷くこともできます」

『真尋は寝室? 葵さんは一人?』

「話し合います」

『同じ部屋で寝る可能性も?』

「あります」

 俊介の顔が曇った。

『嫌です。恋愛関係ではないと、わかっています。でも、同じ部屋で眠ることへ嫉妬します。僕が泊まる部屋でもある。僕たちが夫婦になった後も使っている寝室』

「はい」

 真尋は、俊介の痛みを否定しない。

 葵と同じ部屋で眠ることが、真尋にとって恋愛的な意味を持たなくても。俊介にとっては、自分たちの親密な場所へ葵が入ることになる。

     *

「今回は、葵にリビングで眠ってもらいます」

 真尋が言った。

『真尋は寝室?』

「はい」

『それなら』

 俊介は言いかけ、止まった。

『僕が決めることではありません。でも、僕の希望としては、そうしてほしいです』

「わかりました」

『真尋は、それでいい?』

「少し迷います」

『なぜ?』

「葵が、同じ部屋で話したいと思うかもしれない」

『眠るまで? なら、リビングで話して。その後、別に眠る。僕は、それなら受け入れられると思います』

「ありがとうございます」

     *

『ただ』

 俊介が続けた。

『葵さんが泊まること自体へ、完全に平気ではありません。大阪の部屋は、真尋一人の家でもあります。僕が禁止することではない。でも、僕が嫌だと感じることは、知っていてください』

「もちろんです」

『その夜、僕へ何度も連絡する必要はありません。確認のための写真も』

「送りません」

『でも、着いたことと、翌朝だけ。僕が安心するためです』

「わかりました」

     *

 真尋は葵へ連絡した。

『泊まれます』

 すぐに既読。

『本当に? 俊介さんは?』

『嫌だと感じています。ただ、私の希望も聞き、受け入れると決めました』

『はい』

『今回は、葵はリビングで休んでください』

 返事が止まった。

『真尋は寝室?』

『はい』

『別々。俊介さんが決めた?』

『俊介の希望と、私の判断です』

 葵から、しばらく返事がない。

『嫌』

『はい』

『泊まるのに、別の部屋。前の東京の部屋なら、一緒に寝た?』

 真尋は思い返した。

 前の東京の部屋。葵が泊まった夜。同じ部屋。布団。深夜まで話した。

 恋愛ではない。だが、確かに親密な時間。

『可能性はありました』

『結婚したから変わった。俊介さんのため』

『それもあります』

『私たちの場所が小さくなった』

 真尋はすぐに否定しなかった。

『形は変わりました』

『泊まるの、やめようかな』

『葵が決めてください』

『止めない?』

『泊まってほしいです』

『でも、別』

『はい』

     *

 葵から電話がかかってきた。

『真尋。一緒に寝たいって言ったら?』

「今回は、別に眠ります」

『私が泣いても?』

「はい」

『秋田では同じ部屋だった。東京でも。もうできない?』

「今後、絶対にないとは言いません。でも、結婚後の生活で、俊介の気持ちも含めて形を考えます」

『私は、俊介さんとの関係に入ってない。なのに、俊介さんの気持ちで私の場所が変わる』

「影響します」

『嫌』

「はい」

『でも、真尋も泊まってほしい。なら行く。別に寝る。でも、眠るまで話す。朝、起きたら最初に会う』

「はい」

『俊介さんへ連絡する前?』

 真尋は考えた。

「朝、起きたら俊介へ短く連絡します。その後、葵と朝食を」

『私が一番じゃない』

「はい」

『でも、私の時間もある』

「はい」

     *

 大阪出張の日。葵は朝の新幹線で東京を出た。

 今回は南雲がいない。開発担当の若い男性社員、藤田が同行している。藤田は味の改良から関わった人で、出張中も原料や製造条件の資料を読んでいる。

 葵は責任者として、移動中に会議の流れを確認した。

「大阪では、店舗ごとに補助コピーを変えるんですよね。全国版と同じではない」

 藤田が尋ねる。

「中心は同じです。ただ、駅前は言葉を前へ。住宅地は味を入口に。今回は五店舗へ広げます」

「売れなかったら?」

「二か月で見直します」

「撤退も?」

「あります」

 藤田が驚く。

「責任者として? 自分の商品なのに」

「自分の商品だから、残すだけが仕事ではありません」

 口にしてから、葵は少しだけ自分の成長を感じた。

     *

 新大阪へ到着。藤田とは会議会場へ直行する。真尋へは、まだ会わない。

 仕事。店舗視察。営業担当。売り場。数字。

 大阪の店舗では、前の商品も並んでいる。

『迷う日にも、ひと息。』

『今日を始めた、それだけで。』

 二つの商品。立ち止まる時間。始める朝。

 葵が作り始めた言葉が、同じ棚へ並ぶ。

     *

 営業担当が言う。

「二商品を並べると、ブランドのシリーズに見えます」

「シリーズ化は、まだ考えていません」

「なぜ?」

「同じ言葉を繰り返したくないので。ただ、購入者が関連商品だと感じることは止めません」

「売り場札では、関連を出す?」

 葵は考えた。

「小さく。選ぶ日の休息と、始める朝。それ以上は説明しない」

「わかりました」

     *

 午後の会議。葵が進行する。大阪の営業。店舗担当。藤田。オンラインで東京の広報。

 真尋は参加しない。別の会社。別の仕事。

 それでも同じ大阪のどこかにいる。葵は時々、そのことを思う。

 今すぐ会いたい。だが、会議が終わるまでは責任者。

     *

 会議では、販売店舗数を巡って意見が割れた。

「大阪で五店舗だけでは、広告効果が弱い。十店舗へ」

 営業担当。

「在庫は?」

 葵が尋ねた。

「初回分は確保できます」

「継続供給は?」

「売上次第」

「販売員への説明は?」

「オンラインで」

「店舗の選定理由は?」

「駅前を中心に。住宅地は二店舗」

 葵は資料を見た。

 十店舗へ広げれば、初回売上は上がる可能性がある。責任者として、数字を見せやすい。だが、店舗条件が合わない場所も含まれる。

「七店舗にします」

 葵が言った。

「中間?」

「違います。追加する二店舗は、朝の来店客数と、前商品の再購入率が高い店舗。残り三店舗は、今は見送ります」

「理由は?」

「売り場説明ができる人員が足りない。オンライン研修後、次の判断」

「わかりました」

     *

 午後五時半、会議終了。藤田は会社指定のホテルへ。葵は真尋の部屋へ。

 駅で待ち合わせ。真尋は仕事帰り。葵を見つけた。

「お疲れさまでした」

「ただいま」

 葵は迷わず言った。前回、次は言いたいと思った言葉。大阪の駅。

 真尋が少し目を見開いた。

「お帰りなさい」

 葵の胸が温かくなった。

     *

 商店街。以前と同じ道。総菜店の女性が真尋へ、

「お帰り」

 と言った。葵へも気づく。

「前に来た東京の人。また来たの?」

「仕事で」

「今日は泊まる?」

 葵は真尋を見た。

「はい」

 自分で答える。

「楽しんで」

 女性は特別な意味を求めない。友人が泊まる。それだけ。

     *

 花屋。津田が店先の花を整えている。

「葵さん」

 名前を覚えている。

「こんばんは」

「二度目? 今日は泊まる?」

 同じ問い。

「はい」

「花、選ぶ?」

 葵は店先を見た。

 前回はコデマリ。自分の訪問を残したい気持ちと向き合った。

 今回は、橙色の小さな花。

「これ」

「ヒペリカム」

「実?」

「花の後に残る」

「長い?」

「少し」

 葵は真尋を見た。

「買っていい?」

「はい」

「でも、長く残すためではなく。今日は、好きなので」

 葵が答えた。

 津田が包んだ。

「前の花、捨てられた?」

「はい」

 真尋が答えた。

「葵さん、怒らなかった?」

「少し寂しかった」

「でも?」

「また来た」

 津田は小さく笑った。

「それなら、花の仕事は終わってる」

     *

 公園。今日は寄らない。荷物。夕食。部屋。

 真尋が鍵を開けた。葵は玄関で靴を脱ぐ。

「ただいま」

 もう一度。今度は、真尋の大阪の部屋へ。

「お帰りなさい」

     *

 部屋は、前回と少し変わっていた。

 家具は同じ。白い花瓶。生活ノート。窓。

 だが、俊介の本が二冊に増えている。洗面所には、真尋と俊介の歯ブラシ。葵のものはない。

「買う?」

 真尋が尋ねた。

「何を?」

「歯ブラシ」

「持ってきた」

 葵は旅行用の小さな袋を出した。

「置いていかない。今日使って、持って帰る。次に来る約束にしない」

「はい」

 ヒペリカムを細い瓶へ挿した。前回と同じ窓辺。

「ここでいい?」

「はい」

「枯れたら」

「捨てます」

     *

 夕食は、二人で作った。炊き込みご飯。味噌汁。野菜。商店街で買った魚。

「大阪らしいものじゃない」

 葵が言った。

「前も同じことを」

「はい」

「暮らしを見たいのでしょう」

「今日は、泊まる暮らし」

 台所で肩が当たった。前回と同じ。

 だが、今夜は帰らない。ホテルへ戻る時間を気にしなくてよい。

     *

「会議は?」

 真尋が尋ねた。

「七店舗。最初は五。営業は十」

「中間じゃない」

「条件の合う二店舗だけ追加。責任者として決めた。どう思う?」

「理由があるなら、よいと思います」

「仕事の評価。ほかは?」

 真尋は葵を見た。

「自分の企画を広げることより、続けられる場所を選んだ葵を、よく頑張ったと思います」

「はい」

     *

 夕食。葵は、正式販売後の数字を話した。真尋は、二拠点勤務の中間評価。

 山岸が新しい管理職研修の講師候補になったこと。森田が本社の地域連携プロジェクトへ参加すること。

「真尋がいなくても、進んでる。寂しい?」

「少し」

「でも、嬉しい?」

「はい」

「私も」

 葵が言った。

「何が?」

「南雲さんが、私の会議に来ない日が増えた。最初は、見捨てられたみたいだった。今は、任されたと思える日もある。でも、失敗したら来てほしい」

「呼びます」

     *

 食後、食器を洗った。真尋が洗い、葵が拭く。以前と逆。

「俊介さんへ連絡する?」

 葵が尋ねた。

「着いたことは、先ほど送りました」

「私の写真?」

「送りません。明日の朝、短く」

「嫌?」

「少し」

「はい」

「でも、俊介さんも待ってる」

「はい」

「私は今、ここにいる」

「はい」

     *

 午後八時、二人はリビングへ布団を敷いた。一組。葵のため。真尋は寝室。

 葵は布団を見つめた。

「一人。ホテルと同じ?」

「違います」

「真尋は、隣の部屋。扉を閉める?」

「少し開けておきますか」

「俊介さんは?」

「扉を閉めるかどうかまで、俊介が決めることではありません」

「はい」

「葵は?」

「開けてて」

「わかりました」

     *

 二人は布団へ入らず、窓辺へ座った。公園の灯り。街の音。午後九時。眠るまで、まだ時間がある。

「真尋。結婚して、変わった。別に寝る。東京の部屋もなくなった。俊介さんの家へ行った。大阪へ来ても、俊介さんがいる」

「生活の中に?」

「うん。嫌」

「はい」

「でも」

 葵は窓の外を見た。

「前みたいに、俊介さんが消えればいいとは思わない。真尋が結婚をやめれば、私が幸せになるわけじゃない。真尋が苦しくなる。俊介さんも。私も、責任を感じる」

「はい」

     *

「それでも、今日」

 葵が続けた。

「同じ部屋で寝たかった。真尋の隣。何もなくても。親密な場所だから。それを、俊介さんに取られた感じ」

「はい」

「でも、真尋は泊まってほしいと言った。私は来た。リビングで寝る。それで、私たちの場所はある?」

「あります」

「どこ?」

「今、ここです」

 真尋は窓辺を指した。

「話している時間。夕食。駅で、ただいまと言ったこと。同じ寝室だけが、場所ではありません」

「はい」

     *

「真尋。私が責任者になって、仕事が増えた。会えない日も。真尋より、仕事を選ぶ日も」

「はい」

「それでも、真尋に見てほしい。いつか、見てほしいって思わなくなる?」

「わかりません」

「真尋は?」

「葵に見てほしいことがあります」

「仕事? 結婚? 生活? 全部?」

「全部は無理です。でも、何者でもなかった頃を知る葵に、今の私も知ってほしい」

 葵の目が潤んだ。

「知る。全部じゃなくても」

「はい」

     *

 午後十時。真尋が寝室から生活ノートを持ってきた。葵も出張用の鞄から、自分のノートを出した。

「持ってきた?」

「前、見せたかったから」

 二人は互いのノートの、見せたいページだけを開いた。

 葵。

『責任者になった』

『選ばれた』

『嬉しい』

『でも、肩書きで真尋の部屋を失う痛みは埋まらなかった』

『別のものは、別のまま』

 真尋。

『東京の部屋を手放した』

『葵の歯ブラシを捨てた』

『関係は捨てなかった』

『新しい家の扉を開いた』

     *

 葵は別のページを見せた。

『商品を全国へ広げないと決めた』

『広げない責任』

『売れない店舗から撤退する可能性』

『残すことだけが愛情ではない』

 真尋が読んだ。

「私たちにも似ていますか」

「少し」

「同じ形を全部残さない」

「はい。でも、撤退は嫌」

「関係から?」

「はい」

「私もです」

 真尋はノートの別のページを見せた。

『大切だから、必ず選ぶとは限らない』

『選ばない日が続くこともある』

『それでも、次に会った時、なかったことにしない』

 葵は読んだ。

「帰れなかった夜。まだ、少し怒ってる。でも、今日来た」

「はい」

「真尋も、泊まってほしいって言った」

「はい」

     *

 午後十一時。眠る時間。葵は布団へ入った。真尋は寝室へ向かう。

「真尋。扉」

「少し開けます」

「眠れなかったら?」

「声をかけてください」

「寝室へ行っていい?」

「眠れないことを話すためなら。一緒に眠るためではなく」

「はい」

 線を引いた。葵は傷つく。だが、わかっていた。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

     *

 真尋は寝室へ入った。扉を少し開ける。暗いリビング。葵の布団。気配。

 同じ家。別の部屋。

 真尋も、すぐには眠れない。

 葵の寂しさ。俊介の嫉妬。自分の希望。

 誰か一人のために、自分を消さない。同時に、誰かの痛みを、成長のためだと片づけない。

     *

 午前零時を過ぎた頃。

「真尋」

 葵の小さな声。

「はい」

「眠れない」

 真尋は起きた。リビングへ。照明はつけない。葵の布団の横へ座る。

「何を考えていますか」

「昔。秋田。東京の部屋。前の真尋。今の真尋。全部同じ人?」

「はい」

「でも、違う」

「はい」

「私も?」

「はい」

「前なら」

 葵は布団の中から真尋を見る。

「一緒に寝てって、何度も言った。今も言いたい。でも、言っても変わらない?」

「今回は」

「なら、ここにいて」

「眠るまで?」

「はい」

     *

 真尋は布団の横へ座り続けた。

 手を握るか。葵が手を出した。真尋は握る。

 同じ布団へは入らない。それでも、手の温度を渡す。

「真尋。私、頑張ってる?」

「はい」

「一人で眠ること?」

「それだけではありません」

「仕事。会えない日。嫌だと言うこと。相手を止めないこと。全部」

 葵は目を閉じた。

     *

「真尋。いつか、私が誰かに会いたいと思わなくなったら」

「はい」

「寂しい?」

「はい」

「でも、自由?」

「はい」

「真尋に会いたいのは、依存?」

「全部ではありません。大切な人に会いたいと思うことを、なくす必要はありません」

「はい」

「会えない時、自分の生活がなくなるなら、一緒に考えます」

「今の葵は?」

「会えなくても仕事をしています。美月へ会う。一人で食べる。それでも私に会いたい。それでよいと思います」

     *

 葵の呼吸が少しずつ整った。手の力が弱くなる。眠った。

 真尋は手を離した。布団をかけ直し、寝室へ戻る。

 扉は少し開いたまま。

     *

 朝。午前六時。真尋は目を覚ました。スマートフォン。俊介へ。

『朝です。予定通り過ごしています』

 すぐには返事がない。東京では、まだ眠っているかもしれない。

 真尋はリビングを見た。葵は眠っている。

 昨日、一人で眠った。途中、真尋が横へ座った。同じ部屋では眠らなかった。

 それでも、朝を迎えた。

 真尋は台所へ立った。朝食。葵の商品。

『今日を始めた、それだけで。』

 大阪の店舗でも買える正式販売版。二袋。皿。ヨーグルト。果物。コーヒー。

     *

 午前六時半、葵が起きた。布団の中で天井を見る。真尋の大阪の部屋。一人で眠った。

 それでも、朝、真尋が台所にいる。

「おはよう」

「おはようございます」

「俊介さんへ?」

「連絡しました」

「嫌ですか」

「少し」

「はい」

「でも、私が起きる前」

「俊介は夫なので」

「わかってる」

 葵は起き上がり、布団を畳んだ。

「私がやる」

「はい」

 泊めてもらった人として。客として。大切な人として。

 どれか一つではない。

     *

 朝食。二人で袋を開けた。

「大阪で食べた」

 葵が言う。

「はい」

「正式版。前は試作品。味、同じ?」

 真尋が食べた。

「少し軽くなりました」

「原料変えた。価格下げた。責任者として」

「はい」

     *

「今日を始めた」

 葵がパッケージを見た。

「一人でリビングで起きた。真尋は寝室。それでも、朝。悪くなかった」

「はい」

「でも、次も一人?」

「その時に話します」

「俊介とも」

「はい」

「嫌。でも、話す」

「はい」

     *

 俊介から返信。

『おはようございます。眠れましたか』

 真尋は答えた。

『はい。途中、葵が眠れず、少し話しました』

 既読。返事は少し後。

『同じ部屋へは?』

 真尋は正直に返した。

『入りませんでした。リビングで手を握り、眠るまでいました』

 既読。しばらく返事がない。

 葵は真尋の顔を見た。

「怒る?」

「わかりません。でも、隠しません」

 俊介から。

『嫉妬します』

『はい』

『でも、話してくれてありがとうございます。帰ってから、詳しく聞いても?』

『もちろんです』

 葵が画面を見ようとはしない。

「何て?」

「嫉妬する。でも話してくれてありがとうと」

「はい」

「俊介も頑張ってる」

 葵が言った。真尋は驚く。

「私だけじゃない」

「はい」

     *

 午前八時、葵は出張二日目の会議へ向かう。真尋も仕事。二人で部屋を出た。

 玄関。葵の旅行用歯ブラシは、鞄の中。何も置いていかない。ヒペリカムだけが窓辺にある。

「行ってきます」

 葵が言う。

「行ってらっしゃい」

「ただいまって言えた」

「はい」

「次も?」

「葵がそう思えば」

「でも、同じ形じゃない。次はホテルかもしれない。日帰り。それでも、今日のただいまはなくならない」

「はい」

     *

 駅まで歩いた。葵は、今日の会議資料を確認する。真尋は会社の予定。

 同じ道を途中まで。分かれ道。

「真尋。昨夜、ありがとう」

「はい」

「一緒に寝てくれなかったことも」

 真尋は葵を見た。

「ありがとうって思うの、少し嫌。でも、私が一人で眠れるって信じた?」

「はい」

「それで、よかった」

     *

 二人は別れた。葵は大阪の営業会議へ。真尋は部長としての会議へ。

 同じ街。別の仕事。

 葵は会議室の前で深く息を吸った。

 大阪の追加二店舗。販売員研修。在庫。初回数量。責任者として決める。

 真尋は見ていない。それでも、昨夜の自分を知っている。今朝の自分も。

 会議室へ入った。

     *

 会議は、予定通りには進まなかった。

 営業担当から、追加二店舗ではなく、やはり五店舗追加したいと再提案。

「競合商品が来月入ります。先に棚を確保したい」

「在庫は?」

「増産します」

「販売員研修は?」

「資料配布で」

「それでは不十分です」

 葵が答えた。

「機会を逃します。責任者として、どう判断しますか」

 会議室の視線が集まった。

 葵は資料を見た。競合。棚。速度。売り場説明。続けるために残すもの。

「追加は三店舗」

 葵が言った。

「昨日は二店舗」

「一店舗だけ増やします」

「理由は?」

「競合導入予定の店舗のうち、前商品の売上が高い一店舗。残り二店舗は、研修後」

「棚が取れない可能性。機会損失」

「受け入れます。商品を置くだけで終わらせません」

 葵は言い切った。

     *

 会議後。営業担当は完全には納得していない。それでも、葵の判断で進む。

 藤田が言った。

「責任者ですね。怖くなかったですか」

「怖い。でも、決めた」

     *

 昼休み、葵は真尋へメッセージを送った。

『追加三店舗に決めた。営業は五店舗。昨日は二店舗って言った。情報が変わったから、一店舗増やした。ぶれた?』

 真尋から少しして。

『理由が変わったなら、判断が変わることは、ぶれではありません。責任者として説明できましたか』

『はい』

『なら、よいと思います』

 葵は画面を見た。

 真尋に認められたから正しいわけではない。それでも、見てもらえたことが嬉しい。

     *

 午後、葵は新大阪駅へ向かった。真尋とは会わない。仕事。新幹線。東京へ戻る。

 真尋から。

『駅へは行けません』

『わかってる』

『昨日、会えた。今朝も』

『はい』

『行ってきます』

『行ってらっしゃい』

     *

 新幹線の中。葵はノートを開いた。

『大阪へ二度目に行った』

『初めて泊まった』

『ただいまと言った』

『真尋は、お帰りと言った』

『別の部屋で寝た』

『嫌だった』

『眠れなかった』

『真尋は横に座った』

『同じ布団へは入らなかった』

『一人で眠った』

『朝、真尋がいた』

『俊介さんは、真尋から連絡を受けた』

『私だけの朝ではなかった』

『でも、私の朝でもあった』

『全部を独占しなくても、時間は本物だった』

 最後に。

『ただいまは、相手を自分のものにする言葉ではなかった』

『今、戻ってきたと伝える言葉だった』

     *

 真尋も大阪の部長席で、葵が東京へ向かった時間を確認した。

 無事に乗った。それだけ。今は、自分の仕事。

 夕方、山岸が資料を持ってきた。

「葵さん、泊まったんですか」

 真尋が顔を上げた。

「なぜ?」

「昨日、東京の友人が来ると。今朝、一緒に出ていく姿を見た人が」

「誰ですか」

「商店街の人」

「情報が早いですね」

     *

「どうでした?」

 山岸が尋ねた。

「何が?」

「初めて泊まる」

「山岸さんへ話すことではありません」

「はい。でも、水口さんの顔が」

「何ですか」

「少し疲れて、少し安心しています」

 真尋は吹き出した。

「別々に眠りました。葵は傷つきました。俊介も嫉妬しています。私も、二人を傷つけたくないと思いすぎて疲れました」

「でも?」

「葵が、一人で眠りました。朝、ただいまが、戻ったことを伝える言葉だと、少しわかったと思います」

     *

「水口さん。全部うまくいかなくても、続けるんですね」

「はい」

「大変ですね。やめたい?」

 真尋は考えた。

「今日は、やめたいとは思いません」

「明日は?」

「わかりません」

「それで続く?」

「毎日決めます」

     *

 東京へ戻った葵は、自宅へ帰った。

「ただいま」

 自分の部屋。

 大阪で使った歯ブラシを洗い、旅行用の袋へ戻した。真尋の部屋へ置かない。自分で持つ。

 次に行くかは、まだ決まっていない。それでも使った。

     *

 その夜、真尋と俊介は長く話した。

「葵は、途中で眠れなくなりました。リビングへ行きました。手を握りました。眠るまで」

 俊介の顔に、痛み。

「嫌ですか」

『はい』

「はい」

『でも、同じ布団へ入らなかった。約束を守った、と言うと、僕が決めたようで嫌です』

「はい」

『真尋が決めた? なぜ?』

「今回は、別に眠ることが、三人の生活を続けるために必要だと思いました。葵を拒絶するためではなく、俊介へ従うためだけでもなく。私が選びました」

     *

『葵さんは、どうでした』

 俊介が尋ねた。

「傷つきました。でも、一人で眠った。朝、仕事へ行きました」

『はい』

「私は、葵を子どものように守ろうとしていた部分があったと思います。泣けば隣へ行く。寂しいと言えば予定を変える。そうしなければ壊れると思う」

『はい』

「でも、葵は壊れませんでした。怒り、泣き、眠れず、それでも朝を始めた」

     *

 俊介は考えた。

『僕も、葵さんが泊まった夜、眠れませんでした。何度も電話したかった。真尋が、僕より葵さんを選んだのではないかと』

「はい」

『でも、朝まで待った。僕も壊れなかった。三人とも、頑張った?』

 真尋の口元が緩んだ。

「頑張りました」

     *

『次も泊まる?』

 俊介が尋ねた。

「今は決めません。葵の出張。私の予定。俊介の気持ち。その時に」

『僕は、今回より平気になるかわかりません。むしろ、嫌になる可能性も』

「話してください。私も」

     *

 数週間後、大阪の追加三店舗で販売が始まった。

 初週。一店舗は好調。一店舗は平均。一店舗は低い。

 葵は、低い店舗の売り場を一か月だけ改善し、それでも数字が変わらなければ撤退すると決めた。

 営業からは、もう少し待ってほしいと言われた。

「三か月」

「一か月です」

「なぜ?」

「販売員の負担。在庫移動。売れない場所へ置き続けることは、商品を大切にすることではありません」

 葵が答えた。

     *

 一か月後。数字は改善しなかった。

 葵は、その店舗から商品を引き上げた。責任者として、初めて撤退を決める。

 売り場から、自分の商品が消える。

 葵は現地へ行かなかった。営業担当から、撤去後の写真が届く。空いた棚へ、別の商品が並ぶ。

 少し泣いた。

 真尋へ電話したい。今日は、真尋が俊介と新居の支払いについて話す日。

 葵はメッセージを送った。

『一店舗、撤退しました』

 真尋から、三十分後。

『はい』

『今、話せる?』

『十分なら』

 電話。

     *

『消えた。私が決めた。売れなかった。失敗?』

「一店舗では。その店舗では、続けられなかった。葵は、続けないことを決めた」

『正しかった?』

「私は、数字を見ていません。でも、葵が責任者として決めた理由を聞きます。今は、悲しんでよいと思います」

 葵は泣いた。

     *

『真尋。大阪の花、まだある?』

「ヒペリカム? 終わりました」

『捨てた?』

「はい。写真は、最初の一枚。葵が泊まったことは消えていません」

『うん』

「売り場から商品がなくなっても、葵が置いたことは消えません。でも、今はなくなったことを悲しんでください」

『はい』

     *

 電話を切った後、葵は撤去された棚の写真を保存した。

 成功の写真だけではない。売れなかった場所。自分が撤退を決めた証拠。

 ノートへ書く。

『残せなかった店舗がある』

『責任者として、引き上げた』

『商品を愛していても、すべての場所へ残せない』

『真尋との場所も、同じ形では残らない』

『なくなったものは、なかったことにはならない』

     *

 真尋も、新しい東京の家で俊介との話へ戻った。

「葵さん?」

 俊介が尋ねた。

「一店舗、撤退を。泣いていました」

「大丈夫ですか」

「大丈夫とは言いません。でも、自分で決めました」

「真尋。僕たちの家でも、何かをやめる判断が必要な時があります。三つの部屋をやめたように。葵さんが泊まることも、続かない可能性。僕との生活も」

 真尋が俊介を見た。

「絶対に終わらないとは言えません。でも、今は続ける。それでいいですか」

「はい」

     *

 季節が変わる。

 葵の商品は、四十九店舗で販売が続いた。一店舗は撤退。ほかの店舗も、すべて同じ売上ではない。

 それでも、続いている。

 朝。誰かが袋を開ける。言葉を読む人。読まない人。味で買う人。何も変わらない人。

 それぞれ。

     *

 真尋の二拠点生活も続く。

 大阪。東京の新しい家。二つの鍵。俊介との寝室。真尋の一人部屋。大阪の部屋。葵が泊まったリビング。

 形の違う場所。

 葵は、次に大阪へ行く予定をまだ決めていない。

 だが、以前のように、次を確保しなければ不安でいられないわけではない。

 会いたくなれば言う。仕事があれば相談する。泊まりたい時は希望する。同じ形にならない可能性も引き受ける。

     *

 ある夜、葵から真尋へ短いメッセージが届いた。

『今、会いたい』

 真尋は東京。俊介と同じ家。翌日は大阪へ移動。

『今夜は会えません』

 葵から。

『はい』

『次は?』

 予定を確認した。

『十日後、電話』

『会うのは?』

『三週間後』

『長い』

『はい』

『でも、仕事する。見てて』

『見ています』

     *

 葵はスマートフォンを置いた。

 一人の部屋。明日の会議資料。撤退した店舗の分析。新しい販売先。仕事。夕食。風呂。睡眠。

 会いたい気持ちは消えない。それでも生活は続く。

     *

 真尋は寝室へ戻った。俊介が本を読んでいる。

「葵さん?」

「会いたいと。会えないと答えました」

「寂しいですか」

「はい」

「僕も、明日大阪へ行く真尋と、もう少し一緒にいたいです。今夜は?」

「一緒に眠ります」

「はい」

     *

 誰かへただいまと言うことは、その場所だけへ帰ると決めることではなかった。

 今、ここへ戻ったと伝える。また出ていく日が来る。別の場所へ帰る日も。会えない日も。

 それでも、その時開いた扉の前で、ただいまと言える。

     *

 葵は大阪で、初めて一晩を過ごした。真尋とは別の部屋。それでも、朝を一緒に迎えた。

 俊介は東京で、一人の夜を過ごした。それでも、真尋との関係は続いた。

 真尋は二人の痛みを消せなかった。それでも、どちらか一人を嘘で安心させなかった。

     *

 ただいまと言うまでに、長い時間が必要だった。言った後にも、すべてが自分の場所になるわけではなかった。

 だが、葵は知った。

 戻る場所とは、空けたまま待っていてくれる部屋ではない。相手が別の生活を続けていても。自分も変わっていても。扉を開いた時、もう一度関係を作れる場所。

 真尋も知った。

 お帰りなさいと答えることは、相手を守り続ける約束ではない。相手が自分で歩き、戻ったことを受け取る言葉。

 また出ていけるように。自分も別の場所へ帰れるように。

     *

 次に葵が大阪へ来る時、同じ布団はないかもしれない。同じ花も。同じ話も。

 真尋も、葵も、俊介も、少し変わっている。

 それでも葵は、必要ならまた言うだろう。

 ただいま、と。

 そして真尋も、その時の自分で答える。

 お帰りなさい、と。


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