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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第四十一章 続けるために残すもの

葵の新商品が試験販売を迎えた朝、真尋は大阪の部屋で目を覚ました。

 午前五時四十分。目覚ましが鳴る二十分前だった。

 窓の外は、まだ薄暗い。遠くを走る始発電車の音が、静かな部屋へ届く。

 真尋は布団の中でスマートフォンを手に取った。通知が一つ。午前五時十二分。葵から。

『起きた』

 それだけ。

 試験販売の日。葵は、誰かからの励ましを待っているのではない。自分が朝を始めたことを伝えた。

 真尋は返信欄を開いた。

『おはようございます』

 考える。

『今日を始めましたね』

 送信。すぐに既読がつく。

『はい』

 商品の言葉と同じ。

『今日を始めた、それだけで。』

 起きた。着替える。朝食を食べる。会社へ行く。販売店舗へ向かう。

 まだ売れていない。成功していない。

 それでも、葵は今日を始めた。

     *

 真尋も布団から出た。

 今日は、二拠点勤務の正式評価会議がある。試験運用を始めて半年。

 東京と大阪。三つの鍵。移動疲れ。仕事の分散。俊介との生活。葵との予定。母。一人の時間。

 多くのものを、完全には保てないまま続けてきた。

 会社は今日、二拠点勤務を継続するか判断する。真尋個人の希望だけではない。

 組織の成果。費用。移動時間。判断速度。山岸と森田の成長。本社との連携。部下の負担。問題点。

 数字で見る。感情だけでは続けられない。

     *

 真尋は台所へ立った。朝食。パン。ヨーグルト。果物。コーヒー。

 葵の商品を一つ、棚から取り出す。試験販売用の正式版ではない。葵が以前、東京で渡してくれた最終試作品。残りは一袋。

『今日を始めた、それだけで。』

 真尋は袋を開けなかった。

 今日は、自分の判断をする日。試作品をお守りに使う必要はない。

 帰宅後、食べるかもしれない。食べないかもしれない。

 真尋は棚へ戻した。

     *

 午前六時半、俊介からビデオ通話。予定していた十分間。

「おはようございます」

『おはようございます』

 俊介は東京の部屋。背後に、二人で選んだ新しい棚がある。

 まだ新居ではない。俊介の部屋。ただ、少しずつ二人のものが増えている。

「眠れましたか」

『はい。真尋は?』

「途中で一度」

『評価会議が気になって?』

「はい」

『続けたいですか。二拠点を』

 真尋はすぐに答えなかった。

 続けたい。だが、疲れている。

 新幹線移動。荷物。三つの部屋。どこにも長くいられない感覚。俊介の寂しさ。自分の部屋を残す費用。大阪での責任。東京での会議。

「続けたい気持ちはあります。ただ、今の形のままでは」

『難しい?』

「はい」

     *

「何を変えたいですか」

 俊介が尋ねた。

「東京滞在の日数をまとめる。短い往復を減らす。大阪へ戻った直後の会議を減らす。東京の自分の部屋を」

 真尋は一度言葉を止めた。

『はい』

「年内で手放すことも考えています」

 俊介の表情が動いた。

『本当に?』

「まだ決めていません。二拠点生活の疲れを減らすなら、東京の拠点を一つにしたほうがよい。俊介の部屋を、二人の東京の家として作り直す」

『はい』

「ただし、一人になれる部屋が必要です。今の間取りでは難しい。だから、引っ越しを」

『考えたい?』

「はい」

 俊介は吹き出した。

『待っていました』

「待たせました。でも、俊介が待ったから決めるのではありません」

『わかっています』

「私が、三つの部屋を続けることに疲れました。手放すことは、負けではないと、少し思えるようになりました」

     *

『葵さんには?』

 俊介が尋ねた。

「まだ話していません」

『東京の部屋。葵さんの歯ブラシがある。話しますか』

「決める前に。大きな選択なので。ただ、同意を求めるのではなく」

『はい』

「東京の部屋がなくなっても、葵との場所をなくすつもりはありません。でも、変わります」

 俊介は真尋を見ている。

『怖いですか』

「はい」

『葵さんが、反対すること』

「はい」

『真尋自身が、逃げる場所を失うこと。僕の家が、逃げられない場所になること』

「全部です」

     *

『今日、会社ではどこまで話しますか』

 俊介が尋ねる。

「二拠点継続の条件。私生活の詳細は話しません。東京拠点を一本化する可能性は、通勤費や住宅補助に関係するので、必要な範囲で」

『わかりました』

「葵の商品は、今日試験販売です。朝、起きたと」

『はい。会えますか』

「今週は無理です。次の日曜日」

『真尋』

 俊介の声が変わる。

「何ですか」

『評価会議が終わった後、僕にも、結果を教えてください』

「もちろんです」

『葵さんだけではなく。夫としてではなくても、真尋の生活を一緒に考えている人として』

「わかりました」

     *

 通話を終えた。真尋は仕事へ向かう準備をする。

 三つの鍵を布のケースへ入れた。大阪。東京の自室。俊介との家。

 いつか二つになるかもしれない。そのことを考えながら、鞄へ入れた。

     *

 一方、東京では、葵が最初の販売店舗へ向かっていた。午前七時。

 試験販売は十二店舗。前の商品より少ない。全国へ広げる前提でもない。

 朝食売り場。駅前。住宅地。オフィス街。

 葵が最初に確認するのは、会社近くの駅店舗。

 南雲。石橋。開発担当。営業担当。今回は、前回より少ない人数。大きな広報撮影もない。

 葵が責任者候補として進める試験販売。南雲は助言役。最終責任は部長。だが、日常の判断は葵が行う。

     *

 駅店舗の棚。白と薄い黄色のパッケージ。

『今日を始めた、それだけで。』

 前の商品より明るい。だが、元気を強制する色ではない。

 朝の台所。カーテンの隙間。湯気。静かな光。

 正面には、言葉だけ。裏面。

『何かを成し遂げる前にも、一日は始まっています。起きたこと。食べたこと。今日を始めた自分へ、小さなひと口を。』

 葵は棚を見た。

 自分が選んだ言葉。南雲と直した文章。開発が作った味。営業が決めた店舗。予算を削った売り場。

 広告映像はない。短い店頭動画だけ。画面には、手が袋を開ける場面。顔は映らない。笑わない。前向きになる場面も。

     *

「小野寺さん」

 南雲が声をかけた。

「今日は、最初の一個を見ますか」

「はい」

「見られなくても?」

「待ちすぎません」

「何分?」

「十五分。売れなければ、会社へ戻ります」

「わかりました」

 以前の葵なら、一個売れるまで動かなかったかもしれない。

 今は、責任者候補として、別の仕事もある。最初の客を見届けることより、店舗全体の確認。

 売れなくても、商品がなくなるわけではない。

     *

 午前七時十二分。男性が棚の前で立ち止まる。商品を見ない。飲み物だけ取る。

 七時十五分。若い女性。商品を手に取る。価格を見る。戻す。

 七時十九分。学生らしい男性。手に取る。売り場札。裏面。かごへ入れる。

 葵は息を吐いた。

「一個目」

 営業担当が小さく言う。

「はい」

 泣かない。以前の全国発売では、涙が出た。今日は、胸が熱くなるだけ。

 喜びはある。だが、最初の一個で判断しない。

     *

 葵は店舗担当者へ挨拶をし、売り場札の位置を確認した。少し低い。

「朝の混雑時、見えますか」

「商品名は見えます」

「言葉は?」

「人が多いと難しいです」

「では、札を少し上へ」

「はい」

 葵が判断した。小さな変更。南雲は何も言わない。

     *

 午前八時、会社へ戻る途中、真尋からメッセージ。

『一つ目は?』

 葵は笑った。

『売れた。十五分以内。泣かなかった』

『はい』

『真尋は?』

『これから評価会議です』

『怖い?』

『はい』

『見てる』

 葵から。真尋は画面を見た。

 実際には見られない。葵は東京。真尋は大阪。それでも、見ているという言葉。

『はい』

 真尋は返信した。

     *

 午前九時、二拠点勤務評価会議。大阪の大会議室。

 本社人事、財務、営業企画はオンライン。支社長。山岸。森田。真尋。

 資料。試験運用前後の数字。意思決定時間。会議数。出張費。住宅補助。残業。有給取得。従業員アンケート。地域売上。人材育成。

 人事担当が説明した。

「二拠点勤務開始後、水口部長の月平均移動回数は三・二回」

 想定より多い。

「東京勤務期間を細かく分けた月に、疲労度が上昇。移動翌日の会議遅延」

 数字。

「一方」

 次のページ。

「大阪の現地判断時間は、試験開始前より二十一パーセント短縮」

 山岸と森田へ権限を移した結果。

「本社との調整期間は、平均三日短縮」

 真尋が東京で直接会議へ参加した効果。

「地域間施策の実施率」

 上昇。

「部下の管理職候補育成」

 山岸。

「地域専門職の定着」

 森田。

 成果。問題。両方。

     *

「水口部長。ご自身の評価を」

 真尋は資料を閉じた。

「制度としては、継続する価値があると思います。ただし、現在の運用のままでは、長期継続は難しいです」

「理由は?」

「移動回数。東京と大阪の滞在を細かく分けすぎています。移動翌日にも、通常通り会議を入れました。東京勤務中に、大阪の情報を確認しすぎた時期も」

 山岸が頷いた。

「私生活では、東京の拠点が二つあります」

 会議室が静かになる。

「自宅と、配偶者との住居。会社の制度上、どちらを東京拠点とするかも曖昧でした。今後は、一つへ整理することを検討しています」

 支社長が尋ねた。

「ご自宅を解約?」

「可能性があります」

「決定は?」

「まだです」

     *

「業務面では」

 真尋が続けた。

「東京滞在を、原則として月一回、連続七日から十日へまとめたいです。例外出張を減らす。大阪へ戻った翌日は、重要会議を午後から」

「はい」

「新幹線移動を勤務時間として扱う場合でも、必ず仕事をする前提にしない」

 財務担当が少し顔を上げた。

「移動時間は業務時間です」

「はい。ただ、疲労状況によって休息へ充てる必要があります。生産性ではなく、継続性を優先したいです」

     *

 山岸が発言を求めた。

「現地側から」

「お願いします」

「水口部長が東京にいる間、日常判断は進められています。ただ、水口部長が大阪へ戻る前日から」

 山岸は真尋を見る。

「報告資料を過剰に準備する傾向があります」

「なぜ?」

 本社担当が尋ねる。

「戻った水口部長へ、すべて説明しようとするからです。部長も、すべて聞こうとします。結果、移動翌日の負担が双方へ出ます」

「改善案は?」

「戻った日の報告は、重大事項三件まで。残りは通常会議で。水口部長が不在中の判断を、再審査しない」

 真尋は少し苦笑した。

「はい」

     *

 森田も話した。

「地域連携の立場からは、二拠点勤務の効果があります。本社が西日本の事情を理解する機会が増えました。ただし、水口部長個人へ依存した制度にしないことが必要です」

「どういう意味ですか」

「水口部長だからできる、で終われば、ほかの管理職へ広げられません。東京と大阪をつなぐ情報形式を、仕組みにする必要があります。共有資料。権限表。移動しなくても決められる範囲」

「はい」

 真尋が始めた二拠点勤務。だが、自分だけの特例にしない。

 自分の名前が消えても続く制度。

     *

 支社長が真尋へ尋ねた。

「水口さん。二拠点勤務がなくなれば、どうしますか」

 会議室が静かになる。

「大阪常駐へ戻ります」

 真尋は答えた。

「東京へ異動を希望しない?」

「現時点では。私の役割は、大阪を中心に作られています。東京との生活は、私的に調整します」

「配偶者との関係は?」

「会社の制度だけで支えるものではありません。難しさは増えますが、仕事の必要性と、私生活の希望を分けて考えます」

     *

 言いながら、真尋は怖かった。

 二拠点勤務がなくなる。東京へ戻る日数が減る。俊介。葵。母。自分の東京の部屋。結婚。すべてへ影響する。

 それでも、会社へ私生活を理由に制度を続けてほしいとは言えない。制度には、組織としての価値が必要。

     *

 会議は二時間続いた。結論。二拠点勤務は、条件付きで継続。一年間。

 東京滞在は原則月一回。連続七日から十日。大阪勤務を月十五営業日以上。例外的な短期往復は、部門長承認。移動翌日は、午前中の重要会議を避ける。東京拠点の住宅補助は一か所のみ。制度の標準化。山岸と森田が、運用資料の共同責任者。半年後に中間評価。

「条件付き継続です」

 人事担当が言う。

「水口部長、よろしいですか」

「はい」

「私生活の住居整理は、三か月以内に報告してください。健康面。移動疲労が改善しなければ、再検討します」

「わかりました」

 会議終了。

     *

 真尋は椅子へ座ったまま、しばらく動かなかった。

 継続。安心。同時に、東京の住居を一つへ決める必要。

 会社の補助は一か所のみ。これまでは試験として、東京の自室と大阪の部屋へ一部補助が出ていた。結婚後、俊介の部屋も生活拠点として使っている。三つを続けるなら、自己負担。

 費用だけの問題ではない。疲れ。鍵。荷物。どこへ帰るか。

 三か月。決める。

     *

「水口さん」

 山岸が声をかける。

「お疲れさまでした。続きましたね。嬉しい?」

「嬉しいです」

「でも?」

「東京の部屋を、手放す可能性が高くなりました。怖いです。自分へ戻る場所。なくなる気がします」

 山岸はすぐに慰めない。

「俊介さんとの新しい家は?」

「まだ」

「今の部屋へ移るなら?」

「一人の部屋がありません」

「葵さんは?」

「東京の自分の部屋へ来ます。なくなれば、会う場所も変わります」

     *

「水口さん。手放す前に、新しい場所を作れませんか」

「新居?」

「それも。でも、部屋だけではなく。一人になる方法。葵さんと会う方法。なくすものだけを見ない」

 真尋の口元が緩んだ。

「山岸さんに言われるとは」

「何ですか」

「以前は、私が言っていました。今は、私が聞いています。役割が変わりましたね」

「はい」

     *

 昼休み、真尋は俊介へ電話をかけた。

『終わりました? どうでした』

「条件付きで一年継続です」

『おめでとうございます』

「ありがとうございます」

『条件は?』

 真尋は説明する。東京滞在。移動回数。健康。東京拠点。

「三か月以内に、一つへ」

『はい』

「俊介。東京の自分の部屋を、手放す方向で考えたいです」

 電話の向こうが静かになる。

『本当に? 僕の部屋へ?』

「今の部屋へ完全に移るか、新しい家を早めに探すか。一人になれる部屋が必要です。葵と会う場所も」

 俊介の声が硬くなる。

『はい』

「隠しません」

『葵さんが泊まる部屋?』

「可能性も含めて。でも、葵のためだけではありません」

『わかっています』

     *

『僕は』

 俊介が言う。

『嬉しいです。真尋が、僕との家を東京の拠点にすると考えてくれたこと。でも、今の部屋へ無理に入ってほしくありません。新しい家を探しましょう』

「はい」

『二つの個室。寝室。広い台所。家賃は上がります。駅から遠くなる可能性』

「現実的に考えます」

『でも』

 俊介は思わず笑った。

『やっと、二人の家を探せます』

「はい」

     *

「俊介。今日、帰りたいです」

『東京へ? 予定では、あと四日大阪』

「はい」

『帰る?』

「帰りません。でも、帰りたいと思いました」

『言ってくれて、ありがとうございます』

「はい」

『次の東京滞在まで』

「十日です。長い」

『はい』

「物わかりよくしないでください」

『寂しいです』

「私も」

     *

 電話を切った後、真尋は葵へメッセージを送った。

『二拠点勤務は、条件付きで一年継続になりました』

 葵からすぐに。

『おめでとう』

『ありがとうございます』

『条件は?』

 真尋は、東京拠点を一つへする必要があると伝える。

 返事が止まる。一分。三分。

『東京の部屋、なくす?』

『その方向で考えています』

 既読。

『私の歯ブラシ』

 真尋の胸が痛む。

『はい』

『大阪の時みたいに、部屋が変わる。俊介さんの家になる』

『二人の新しい家を探す可能性が高いです』

『私は?』

 短い問い。

     *

 真尋は電話をかけた。葵が出る。

『今、昼休み。十五分』

「わかりました」

『私の場所は?』

「変わります」

『なくなる?』

「なくしたくありません」

『俊介さんの家に、私が行く?』

「今のままでは難しいと思います。新しい家を探すなら、葵が来ることも、泊まる可能性も、俊介と話します」

『許可』

「違います。共同の家なので、私一人で決められません」

『今の東京の部屋は、真尋一人で決められた。だから、私も入れた。なくなったら、俊介さんの家のルールになる』

「二人の家のルールです」

『その二人に、私は入ってない』

「はい」

 事実。葵の声が震える。

     *

『嫌。東京の部屋、残して』

「難しいです」

『お金?』

「それも」

『私が払う』

 真尋は息を止めた。

「受け取りません」

『半分』

「受け取りません」

『なぜ?』

「葵との場所を維持するために、葵から家賃を受け取る関係ではないからです」

『でも、なくなる』

「部屋は。でも、私たちの関係を、部屋だけにしません」

『簡単に言わないで。あの部屋で、全国発売の話をした。泣いた。歯ブラシを開けた。真尋が結婚してからも会った。私の場所だった』

「大切な場所です」

『なら、残して』

「残せません」

 明確に答える。葵が黙った。

     *

『俊介さんを選ぶ?』

「生活を整理することを選びます」

『同じ』

「葵には、そう感じると思います。でも、俊介のためだけではありません。私が疲れています」

『はい』

「三つの鍵。三つの部屋。どこへ何を置いたか。費用。移動。続けるために、手放す必要があります」

     *

『私との場所を手放す』

 葵が言う。

「部屋を。関係ではなく」

『でも、部屋がなくなれば変わる。同じじゃない』

「はい」

『秋田で、前と同じを求めないって決めた。また、それ。何度も、私だけが我慢する言葉みたい』

「違います」

『真尋は結婚して、大阪へ行って、東京の部屋もなくす。私は、変わる真尋を受け入れる。真尋は?』

 真尋は黙る。

『私が、嫌だって言い続けること。受け入れてる?』

「聞いています」

『でも、決めるのは真尋。私の希望は通らない』

「今回は。でも、葵も仕事で、私との予定を変えます。大阪へ来た時、泊まりたいと言いました。私は俊介と話すと答えました」

『はい』

「葵も変わっています。私だけが変わっているわけではありません」

     *

『今日、私の商品。試験販売。一個売れた。店舗札を変えた。私が決めた』

「はい」

『真尋に見てほしかった』

「見ています」

『でも、今は部屋の話。私の大切な日に、また真尋の生活が変わる』

「はい」

 真尋は胸が痛む。

 以前、婚姻届の日と葵の発表が重なった。日付を変えた。

 今回は、評価会議と試験販売。変えられない。

 二人の大切な日が同じ日に起きた。どちらかを小さくする必要はない。だが葵には、また覆われたように感じる。

     *

「葵。今日の商品について、今から聞きたいです」

『部屋の話を終わらせてから?』

「終わっていません。部屋の話が終わらなくても、葵の試験販売は大切です。一つ目」

『学生みたいな男の人。裏を読んだ。かごへ入れた』

「泣きましたか」

『泣かなかった。責任者だから』

「泣いてもよいです」

『今日は泣かなかった。札の位置を変えた。私が決めた。南雲さんは何も言わなかった』

「はい」

『売れるか、まだわからない。でも、始まった』

「おめでとうございます」

『ありがとう』

 葵の声は、まだ苦しい。それでも、商品について話した。

 部屋の話をなかったことにせず。大切な日を、別の問題へ全部渡さず。

     *

『東京の部屋。いつ決める?』

「三か月以内」

『私に、また話す? 決める前』

「はい」

『新しい家も? 見せて』

 真尋は考える。

「物件情報を?」

『はい』

「俊介の同意が必要です。二人の家なので。葵が選ぶわけではありません」

『わかってる』

「でも、見たい?」

『真尋がどこへ帰るか。私が行ける場所になるか。知りたい』

「俊介と話します」

     *

「時間です」

 葵が言う。

『午後の売上確認。部屋のこと、まだ怒る。でも、今日の商品も見て。夜、数字送る』

「わかりました」

『真尋。二拠点、続いてよかった?』

「はい」

『おめでとう。東京の部屋は、まだおめでとうじゃない』

「はい」

 電話が切れた。

     *

 午後、試験販売の初回速報。十二店舗。予測を少し下回る。

 駅前は良い。住宅地は弱い。朝七時から九時。オフィス街。学生。単身。

 味への反応は良い。価格が高いという声。量が少ない。言葉が意味不明。朝から励まされたくない。

 励ましていないのに、そう受け取られる。

     *

 葵は会議を開いた。南雲。営業。開発。店舗。

「初日なので、大きく変えません。ただし、住宅地の札」

 表示。

『今日を始めた、それだけで。』

 下に、

『忙しい朝にも、ひと口。』

 営業案。葵は考える。わかりやすい。だが中心が薄くなる。

「忙しい朝、ではなく、食べる時間が取れない朝へ」

「それも長い」

 店舗担当。

「味を前へ出す?」

 開発。

「軽い甘さと、ひとつまみの塩」

 葵が言った。

「住宅地では、味を入口に。正面の言葉は残す。札は、軽い甘さと、ひとつまみの塩。朝の小さなひと口」

「はい」

「明日から二店舗だけ」

「わかりました」

 試験。全部を一度に変えない。

     *

 午後五時、南雲が葵へ言う。

「初日、どうですか」

「売上は、少し下。住宅地。言葉が届いていない」

「失敗?」

「まだ」

 南雲が頷いた。

「責任者は、初日の数字で自分の価値を決めない。でも、見ないふりもしない。今日は?」

「二店舗だけ札を変えます。ほかは、一週間見る」

「良いと思います」

     *

「南雲さん。責任者になれますか」

 葵は突然尋ねた。南雲はすぐに答えない。

「今回の試験を終えた後、判断されます」

「今、聞きたいです」

「なぜ?」

「真尋の東京の部屋がなくなるかもしれない」

 南雲は驚く。

「仕事と関係がありますか」

「直接は。でも、何かが変わる日に、自分の仕事がうまくいけば、耐えられる気がして。責任者になれれば、自分の場所があると思える」

 南雲は静かに聞いた。

「小野寺さん。責任者になっても、その部屋はなくなるかもしれません。責任者になれなくても、あなたの仕事はなくなりません。別の場所の喪失を、肩書きで埋めないでください」

 葵は視線を落とした。

「わかっています。でも、したくなる」

「私もあります」

 南雲が言った。

「何が?」

「家庭で必要とされないと感じた日に、仕事で評価を求める。仕事で失敗した日に、家族へ必要以上に求める。別の場所で埋めようとする。完全には分けられません」

「はい」

「でも、責任者として、今日の数字は今日の数字です。部屋の話は、部屋の話。どちらも大切」

 葵は頷いた。

     *

 夜、真尋へ初回速報を送る。

『予測より三パーセント下。住宅地が弱い。札を二店舗だけ変える。私が決めた』

『はい』

『怖い。失敗かも』

『まだ一日です』

『南雲さんと同じ。真尋は?』

『評価会議の資料を整理しています』

『仕事するの?』

『必要な部分だけ』

『休んで。東京の部屋のこと、考えすぎないで』

 葵から、少し意外な言葉。

『はい』

『私も考えるけど。今日は商品』

『はい』

     *

 真尋は大阪の部屋で、一人夕食を食べた。

 評価会議。二拠点継続。東京の部屋。俊介。葵。

 全部が頭にある。それでも、今は食べる。味噌汁。魚。ご飯。食器を洗う。

 棚に置いていた葵の最終試作品。真尋は袋を開けた。

『今日を始めた、それだけで。』

 一つ食べる。軽い甘さ。最後の塩。

 朝の商品。夜に食べる。本来の時間ではない。だが、食べてはいけないわけではない。

 葵の意図通りでなくても、商品は真尋の生活へ入る。

     *

 真尋は生活ノートを開いた。

『二拠点勤務、一年継続』

『今の形のままでは続けない』

『東京勤務をまとめる』

『移動翌日の会議を減らす』

『東京の部屋を手放す方向』

『俊介と新しい家を探す』

『葵は反対した』

『部屋は、関係ではない』

『しかし、関係へ影響する』

『軽く扱わない』

 最後に。

『続けるために、何かを手放す』

 その下へ。

『手放すことを、愛情の不足にしない』

『残すものを、所有にしない』

     *

 試験販売三日目。住宅地二店舗で、札を変更。味を前へ。

 売上は少し上がる。正面の言葉を読まずに買う人が増える。

 葵は複雑な気持ち。

「言葉がなくても売れる」

 石橋に言った。

「商品だから」

「嫌?」

「少し」

「でも、前も同じだった。味で買って、後から言葉を読む人もいる。読まない人も」

「はい」

「それでいい」

「はい」

     *

 一週間。全体売上は、予測とほぼ同じまで戻る。

 駅前は上。住宅地は札変更後に改善。オフィス街は安定。再購入はまだ少ない。味は好評。価格。量。検討事項。

 葵は一週間の会議を進めた。

「試験販売を継続します」

 部長。

「店舗数は?」

「十二のまま」

「追加しない? 理由は?」

「再購入率を確認する前に広げると、初回購入だけで判断することになります」

「住宅地の札変更は?」

「四店舗へ拡大。正面コピーは変えません。価格は維持。量も変更なし」

「利益率は低い」

「はい。試験期間中に、原料調達を再交渉します」

 葵が答えた。責任者候補。自分で決める。

     *

 会議後、部長が言った。

「小野寺さん。正式なプロジェクト責任者を、あなたに任せます」

 葵は一瞬、理解できなかった。

「私が? 南雲さんではなく?」

「南雲さんは監督役。今後の試験販売、改善、正式販売の提案まで、責任を持ってください」

 胸が強く打つ。

 選ばれなかった夜。全国展開の責任者にはなれなかった。悔しかった。南雲へ言った。次は責任者候補になりたい。

 今。

「受けます」

 葵は答えた。

     *

 会議室を出る。石橋が廊下で待っている。

「どうだった」

「責任者。私」

「知ってる」

「先に?」

「昨日、聞いた」

「また言わなかった」

「正式前」

「はい」

「おめでとう」

 石橋が言った。葵の目に涙が浮かぶ。

「泣く?」

「少し」

「今日はいい」

     *

 真尋へ。

『責任者になりました』

 送った。既読はすぐにつかない。

 真尋は東京への移動中。今日は、二拠点運用変更後、最初のまとまった東京滞在。

 新幹線。眠っているかもしれない。

 葵は返信を待たず、南雲との打ち合わせへ向かった。

     *

 真尋がメッセージを読んだのは、新横浜を過ぎた頃だった。

『責任者になりました』

 真尋は画面を見つめた。

 選ばれなかった夜。葵が泣いた。ケーキ。美月。真尋へ会いたいと言った。南雲へ、責任者をやりたかったと伝えた。

 その後。全国展開。大阪。試験販売。予算削減。味を手放した。札を変えた。

 今。

 真尋は返信した。

『おめでとうございます』

 考え。

『選ばれなかった夜から、葵が自分で進んだ結果ですね』

 送った。

     *

 葵から。

『はい』

『会いたい』

 真尋は予定表を見た。

 今日から東京。今夜は俊介。明日は本社会議。明後日は、東京の自分の部屋の不動産会社との相談。葵とは日曜日。四日後。

『日曜日に』

『今日』

 葵から。

 真尋は窓の外を見た。

 東京へ着くのは午後六時。俊介と夕食は七時半。葵の会社は、六時過ぎまで。

 会おうと思えば、短く会える。俊介との予定を遅らせる。

 以前なら、誰か一人を選ぶことへ過剰に悩んだ。

 今日は。葵が責任者になった。会いたい。真尋も会いたい。

 俊介へ相談する。

     *

 真尋は俊介へ電話した。

『もうすぐですか』

「はい」

『何かありました?』

「葵が、正式な責任者になりました」

『おめでとうございます』

「今日、会いたいと」

 俊介が黙った。

『真尋も?』

「はい」

『夕食は』

「一時間遅らせられますか」

『はい』

「嫌ですか」

『少し。でも、今日は会ってきてください』

「ありがとうございます」

『ただ、僕との夕食を、短くしないでください。九時からでも、一緒に食べる』

「わかりました」

     *

 真尋は葵へ。

『午後六時半から、四十五分なら会えます』

 すぐに返事。

『会う。場所は?』

『東京駅』

『資料持っていく』

『今日は、結果だけでも』

『全部見せたい』

『四十五分です』

『はい』

     *

 東京駅。午後六時二十五分。真尋は新幹線の改札を出た。

 荷物。仕事用の鞄。三つの鍵。

 葵は、駅構内のカフェ前に立っていた。仕事着。大きなバッグ。真尋を見つける。

「真尋」

「お疲れさまです。責任者。おめでとうございます」

 葵は笑った。泣きそうな顔。

「抱きしめて」

「はい」

 人の少ない端。短く抱きしめた。

     *

 カフェ。四十五分。葵は資料を出そうとした。

「今日は全部無理です。最初に」

「責任者になった」

「どう言われたのですか」

 葵は話した。会議。継続。部長。南雲。石橋。自分が受けると答えたこと。

「怖い?」

 真尋が尋ねた。

「かなり。失敗したら、私の責任。南雲さんの後ろじゃない。でも、やる。見てて」

「見ています」

「全部は?」

「見られません。でも、葵が話してくれたところを、知ります」

     *

「東京の部屋」

 葵が言った。

「まだ反対。でも、責任者になったから、平気にはならなかった。南雲さんに言われた」

「何を?」

「別の場所の喪失を、肩書きで埋めるな。その通り」

「はい」

「真尋の部屋がなくなるのは嫌。責任者になったのは嬉しい。別」

「はい」

     *

「物件。見せてくれる?」

「俊介と話しました。候補が絞れた時に、葵へも見せます」

「選べない?」

「選ぶのは私と俊介です。でも、葵が来る可能性について、意見は聞きます」

「泊まる?」

「まだ決めません。ただ、客室ではなく、私の一人部屋を使う形になるかもしれません」

 葵が驚いた。

「真尋の部屋? 新しい家の中に?」

「はい」

「俊介さんの部屋も?」

「はい」

「二人とも一人の部屋。寝室は別?」

「共同です」

「私が泊まったら、真尋の一人部屋。真尋は?」

「俊介と寝るか」

 葵の顔が曇った。

「また、そこ。嫌」

「はい」

「でも、私のための部屋ではない。真尋の部屋。使わせてもらう」

「はい」

 葵は考えた。

「前の東京の部屋とは違う」

「同じにはできません」

「はい」

     *

 四十五分はすぐに終わった。真尋が時計を見る。

「行きます」

「俊介さん? 夕食。遅らせてもらった?」

「はい」

「私のために?」

「今日、私も会いたかったので。俊介は、少し嫌だと。でも、行ってきてと」

「お礼言う?」

「必要ありません」

「はい」

     *

「日曜日。三時間。資料全部」

 葵が言った。

「見ます」

「責任者の話。東京の部屋。物件」

「まだ候補は絞れていません」

「はい」

     *

 駅の改札。

「行ってきます」

 葵が言った。

「行ってらっしゃい」

「責任者として。真尋は?」

「俊介のいる家へ」

「はい」

 葵の胸が痛んだ。

 でも、今日は真尋が会いに来た。四十五分。すべてではない。

 それでも、選ばれた時間。

     *

 真尋は俊介の部屋へ向かった。午後八時五十分。約束より遅い。

 玄関。鍵。

「ただいま」

「お帰りなさい」

 俊介は食事を温め直していた。

「遅くなりました」

「十分だけ。葵さんは?」

「責任者に」

「嬉しそうでしたか」

「はい」

「よかったです」

「ありがとうございます」

     *

「真尋」

 俊介が言った。

「僕、少し嫉妬しました。結婚後も、真尋が新幹線から降りて最初に会う人が、僕ではない日がある」

「はい」

「でも、今日は」

「葵が責任者になった日です。私も会いたかった。俊介との夕食を、なくしませんでした。どちらか一つではなく、時間をずらしました」

 俊介が頷いた。

「それでよかったです。ただ、毎回ではない。僕も希望を言います」

「はい」

     *

 二人は遅い夕食を食べた。

 真尋は評価会議の結果を、最初から話した。二拠点継続。条件。東京の部屋。新しい家。葵との会話。

 俊介は聞いた。

「新しい家」

 俊介が言う。

「今度の土曜日、もう一度内覧。候補は三つ」

「はい」

「葵さんへ見せるのは」

「絞ってから」

「僕の希望も、隠さないでください。葵さんが泊まることに、僕はまだ完全に賛成ではない。でも、最初から拒否もしません」

「はい」

「真尋の一人部屋を、客室へしないこと。葵さんが来ない時は、真尋の部屋。僕が勝手に使わない。葵さんが泊まる頻度」

「話します」

     *

「俊介。ありがとうございます」

「何に?」

「私が、関係をすべて残したいと求めていることへ。聞いてくれて」

「僕も、残したいものがあります。北川さんたち。仕事。一人の時間。僕だけが譲るのではありません」

「わかっています」

     *

 日曜日、真尋と葵は東京の自分の部屋で、三時間話した。

 責任者。試験販売。売上。札。味。東京の部屋。新しい家。鍵。歯ブラシ。全部。

「責任者になった時、何を最初に思いましたか」

 真尋が尋ねた。

「やっと選ばれた。次に、失敗できない。その次に、真尋に会いたい。三つ」

「はい」

「でも、最初の気持ちは、今もある」

「選ばれた」

「うん。以前の夜、選ばれなかった。今度は、私が選ばれた」

 葵の目に涙。

「おめでとうございます」

「ありがとう」

     *

「ただ」

 真尋が言った。

「責任者になったことを、葵の価値の証明だけにしないでください」

「南雲さんにも。でも、嬉しい」

「もちろんです」

「喜んでいい? 今日だけは、選ばれたって何度も言っていい?」

「はい」

「選ばれた。責任者」

 二人は声を立てて笑った。

     *

 試験販売の資料。真尋が見る。

「住宅地で、札を変えた。味を前へ。言葉を守れなかった?」

「守った。入口を変えた」

「読まない人も」

「はい。でも、食べてくれる。次に買う人も。それでいい」

「はい」

     *

「東京の部屋。なくす?」

 葵が言った。

「その方向です」

「いつ?」

「新しい家が決まってから。引っ越し期間を一か月。その間に、葵にも来てほしいです」

「最後? 荷物を片づける?」

「一部」

「古い歯ブラシ。今のもの。持って帰る?」

「葵が決めてください」

「捨てる」

 葵は答えた。真尋が驚く。

「新しい家に、同じ歯ブラシを持っていかない。次に泊まれる時、新しいのを買う。今の部屋のものは、今の部屋で終わる」

「はい」

 葵の声は震えている。

「でも、なくなるのは嫌。泣くと思う。それでも、最後に来る」

「はい」

     *

「物件」

 真尋が候補写真を見せた。三つ。

 一つ目。駅近。部屋が狭い。

 二つ目。駅から遠い。三つの個室。広い台所。

 三つ目。中間。家賃が高い。

「どれがいい?」

 葵が尋ねた。

「まだ」

「俊介さんは?」

「二つ目」

「真尋は?」

「三つ目」

「葵は?」

 真尋が尋ねた。

「選ばない。でも、泊まるなら二つ目」

「なぜ?」

「真尋の一人部屋がちゃんとある」

「三つ目は?」

「小さい。俊介さんと喧嘩した時、逃げられない」

「私の一人部屋は、逃げるためだけではありません」

「でも、必要。二つ目、遠い。東京に戻って、また移動。真尋、疲れる」

「はい」

「なら、三つ目?」

「葵は選ばないのでは」

「意見」

 二人は笑った。

     *

 三時間後、葵は洗面所へ行った。三本の歯ブラシ。自分のもの。手に取る。

「今日は持って帰らない。最後の日に捨てる。真尋、先に捨てないで」

「わかりました」

「部屋が決まったら、教えて」

「はい」

     *

 玄関。

「責任者」

 真尋が言った。

「行ってらっしゃい。次の判断へ」

「はい」

「真尋も」

「何へ?」

「家を選ぶ。二拠点を続ける。部屋を手放す。行ってらっしゃい」

「行ってきます」

     *

 その後、新しい家は二つ目の物件に決まった。

 駅から少し遠い。三つの個室。寝室。広い台所。家賃は、今より高い。通勤時間も増える。

 だが、真尋の一人部屋。俊介の仕事部屋。二人の寝室。同じ家の中で、離れられる。

 真尋は内覧で、窓のある小さな部屋へ立った。

「ここ」

 俊介が言った。

「真尋の部屋。鍵は?」

「室内鍵は不要です。でも、勝手に入らないでください」

「ノック」

「はい」

「返事がなければ?」

「緊急でなければ入らない」

「はい」

     *

「葵さんが泊まる時」

 俊介が言った。

「この部屋を使う。真尋は?」

「寝室か。状況によって、葵とこの部屋で話す」

 俊介の顔が強張った。

「泊まる? 同じ部屋で?」

「まだ決めません。毎回、話します」

「僕は、嫌だと言うかもしれない」

「はい」

「真尋も、希望を言う。葵さんも。そのたび」

「話します」

     *

 契約。入居日は二か月後。東京の自分の部屋は、解約通知。

 退去日。荷物。家具。捨てるもの。持っていくもの。大阪へ送るもの。母へ渡すもの。葵と最後に過ごす日。

 決まる。

     *

 葵の試験販売は、一か月を終えた。

 売上は、予測を二パーセント上回る。大成功ではない。住宅地は改善。駅前は安定。再購入率は目標へ少し届かない。味の評価は高い。価格への不満。量。

 正式販売には、原料費の見直しが必要。

     *

 葵は責任者として経営会議へ立った。

「正式販売を提案します」

 部長。

「再購入率は未達です。理由は?」

「価格と、販売時間帯」

「改善案は?」

「朝だけでなく、午前中まで売り場を維持。原料調達を変更し、価格を十円下げる」

「味は?」

「維持します」

「利益率は?」

「数量が一定以上なら確保できます」

「店舗数」

「最初は三十店舗」

「全国ではなく? なぜ?」

「売れる場所の条件が見えています。広げることを成功にしません」

 葵が言う。

「続けられる店舗で、再購入を作ることを優先します」

 真尋から聞いた言葉ではない。

 葵自身が、続けるために残すものを決めた。

     *

 経営会議の結論。三十店舗で正式販売。半年後に拡大判断。価格を十円下げる。原料変更。味の最終確認。

 責任者は葵。

     *

 葵は会議室を出た後、真尋へ電話をかけた。真尋は大阪の部屋。

「もしもし」

『正式販売、決まりました』

「おめでとうございます」

『三十店舗。全国じゃない。価格下げる。味は守る。私が決めた』

「はい」

『続けるために、広げすぎない』

「責任者ですね。よく頑張りました」

『今のは?』

「葵を大切に思う人として」

『はい』

     *

『東京の部屋』

 葵が言う。

「退去日が決まりました」

『いつ?』

 真尋が日付を伝える。

『最後の日。行く。一日空ける』

「仕事は?」

『調整する』

「無理は?」

『しない』

「はい」

『最後に、ただいまって言う?』

「葵がそう思うなら」

『帰る場所じゃなくなる日に、ただいま。変?』

「いいえ」

     *

 退去前の最後の日。葵は朝から真尋の東京の部屋へ来た。

 箱。家具。空になった棚。壁。カーテン。洗面所。三本の歯ブラシ。

 俊介のものは、すでに新居へ。真尋のものも一部。葵の歯ブラシだけが残っている。

 呼び鈴。真尋が扉を開けた。

「いらっしゃい」

 葵は一度、玄関を見る。

「ただいま」

 真尋の目が潤む。

「お帰りなさい」

     *

 二人で荷物を片づける。

 葵が以前見た資料。全国発売の写真。秋田の木の札。古い商品のパッケージ。

「これは?」

 葵が尋ねた。

「持っていきます」

「新しい家へ?」

「大阪へ」

「なぜ?」

「旅の記録として」

「俊介さんの家へ置かない?」

「場所の問題です」

「はい」

 葵は少し寂しい。だが、木の札を自分の場所の証明にしない。

     *

 昼食。床へ座る。テーブルは、すでに運び出している。コンビニのおにぎり。スープ。

 真尋の部屋で、最後の食事。

「最初に来た時、緊張した。私の歯ブラシ、置いた。全国発売の話。真尋の結婚。試作品。会えなかった日のこと。全部、ここ」

「はい」

「なくなる?」

「部屋は」

「はい」

「記憶は、残ります」

「簡単に言わないで。今日、泣く」

「はい」

 葵は泣いた。

 真尋は、すぐに抱きしめなかった。

 葵が泣く時間。部屋を失う悲しみ。関係を失う恐れ。新しい家への不安。全部。

 やがて葵が手を伸ばした。

「抱きしめて」

「はい」

 空に近い部屋で、二人は抱きしめた。

     *

「真尋。新しい家に行く? 私も?」

「はい」

「いつ?」

「入居後、落ち着いてから。俊介とも、日程を話しました」

「泊まりは?」

「最初は日帰り」

「その後」

「話します」

「嫌?」

「泊まりたい。でも、最初から全部を求めない」

「はい」

     *

 午後。洗面所。葵は自分の歯ブラシを手に取った。少し使い込まれている。

「捨てる」

「はい」

 ごみ袋。葵はすぐに入れられない。手に持ったままでいる。

「これを捨てたら、私が泊まったことは消えない。真尋が結婚した後も、ここに来た。全国発売。責任者。全部」

「はい」

 葵は歯ブラシをごみ袋へ入れた。

「新しい家で、新しいのを買う?」

「泊まることが決まった時に」

「先に置かない。必要な時に」

「はい」

     *

 夕方。部屋は空になる。段ボール。掃除。壁の跡。家具があった場所。音が響く。

「最後に」

 葵が窓を開けた。東京の街。以前と同じ景色。だが、今日で終わる。

「真尋。この部屋、ありがとうって言う?」

「はい」

 二人で、誰もいない部屋を見た。

「ありがとうございました」

 真尋が言った。

「ありがとう」

 葵も。

     *

 玄関。鍵。真尋が最後に確認した。窓。水道。照明。忘れ物。

 三つの鍵のうち、一つ。東京の自分の部屋の鍵。今日で使うのは最後。

「行ってきます」

 葵が言った。

「どこへ?」

「新しい場所へ」

 真尋は笑った。

「行ってらっしゃい」

「真尋も」

「行ってきます」

 二人は部屋を出た。扉を閉める。鍵をかける。

     *

 退去手続き。鍵を返した。

 三つの鍵は、二つになった。大阪。新しい東京の家。

 東京の自室の鍵は、管理会社の手へ渡る。真尋の手から離れる。

     *

 葵は、その夜、自分の部屋へ帰った。真尋は新しい家へ。俊介が待っている。

 葵は少し泣く。だが、真尋へ戻ってきてとは送らない。

 自分の部屋。自分の生活。ノート。

『真尋の東京の部屋がなくなった』

『最後に、ただいまと言った』

『歯ブラシを捨てた』

『部屋へ、ありがとうと言った』

『新しい家には、まだ私のものはない』

『それでいい』

『必要な時に、新しく作る』

     *

 真尋も、新しい家の自分の部屋でノートを開いた。

 俊介は別の部屋。同じ家。扉。ノック。返事。

 真尋の机。棚。窓。新しい部屋。

『東京の自分の部屋を手放した』

『三つの鍵が、二つになった』

『自分へ戻る部屋は、新しい家の中に作った』

『俊介と同じ家』

『別の部屋』

『葵は、最後の日に来た』

『歯ブラシを捨てた』

『関係は捨てなかった』

 最後に。

『続けるために、残すすべてを持ち続けることはできない』

『場所を変える』

『形を変える』

『それでも、必要な時に新しく作る』

     *

 葵の新商品は、三十店舗で正式販売を始めた。

 初週。予測通り。二週目。少し下。三週目。再購入が増える。

 大きな話題にはならない。SNSで急に広がることも。

 それでも、朝の売り場で少しずつ手に取られる。

『今日を始めた、それだけで。』

 誰かの朝へ入る。

     *

 真尋の二拠点勤務も、運用を変えた後、少しずつ安定した。

 月一回の東京。連続滞在。移動翌日の午前を空ける。大阪の報告は三件まで。山岸と森田が進める。

 東京の家は、一つ。俊介の家ではなく、二人の家。

 真尋の部屋。俊介の部屋。寝室。広い台所。

     *

 葵が初めて新しい家へ来たのは、入居から二か月後だった。日帰り。新しい歯ブラシは買わない。

 リビング。真尋の部屋。俊介の仕事部屋の扉。寝室は見ない。

 俊介も在宅している。三人で短く挨拶する。緊張。嫉妬。礼儀。

 完全な理解はない。それでも、同じ家の中にいる。

「初めましてではないですね」

 俊介が言った。

「はい」

 葵が答える。

「でも、この家では初めて」

「はい」

「お邪魔します」

 葵は言った。ただいま、ではない。まだ。

     *

 真尋の一人部屋。小さな机。棚。白い花瓶。

 秋田の木の札はない。大阪。

「何もない」

 葵が言った。

「これからです」

「私のものも」

「今日はありません」

「次に泊まる時」

「まだ決まっていません」

「でも」

 葵は窓を見た。

「ここで話せる。前の部屋と違う。俊介さんのいる家」

「二人の家です」

「はい。でも、真尋の部屋。新しい場所」

「はい」

     *

 リビングで、三人はお茶を飲んだ。葵の商品。正式販売版。俊介が食べる。

「どうですか」

 葵が尋ねた。

「朝に食べやすいです」

「真尋と同じ。言葉は?」

「僕は」

 俊介はパッケージを見た。

「誰かに評価されなくても、一日が始まったことを認める言葉だと思いました」

 葵が驚いた。

「真尋から聞いた?」

「いいえ。僕も、真尋がいない朝に、自分で生活を始めるので」

「はい」

 葵は俊介を見た。

 真尋を待つだけではない人。自分と同じように、会えない朝を過ごす。

     *

 帰る時間。葵は玄関で靴を履いた。

「また来ていい?」

 真尋ではなく、二人へ尋ねる。俊介が答えた。

「はい」

 少し間。

「予定を相談して」

「はい」

 真尋も。

「会いましょう」

     *

「今日は、お邪魔しました」

 葵が言った。

「はい」

「次に、ただいまって言える?」

 俊介の表情が動く。真尋は答えを急がない。

「葵が、この家を戻る場所だと思えた時。俊介とも、話します」

「はい」

 葵は頷いた。

「今日は、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 真尋が言う。俊介も。

「行ってらっしゃい」

     *

 扉が閉まった。

 三人の関係が、完成したわけではない。

 俊介は、葵が家へ来たことへ疲れている。葵は、寝室の存在へ傷ついている。真尋は、二人の感情を背負いすぎないよう注意している。

 それでも、同じ家で一度過ごした。

 葵は帰りの電車で、真尋へメッセージを送らない。俊介も、真尋へすぐ感想を言わない。

 それぞれ、自分で考える時間。

     *

 夜、俊介が言った。

「疲れました。嫉妬しました。真尋の部屋へ葵さんが入ること」

「はい」

「でも、リビングで話せた。商品も。次も、受け入れられるかはわかりません。その時、話します」

「ありがとうございます」

     *

 葵もノートへ書いた。

『新しい家へ行った』

『お邪魔しますと言った』

『俊介さんがいた』

『嫌だった』

『でも、私の商品を食べた』

『真尋を待つだけではない人だと少しわかった』

『次に、ただいまと言えるかはわからない』

『急がない』

 真尋は、自分の部屋でノートへ書いた。

『新しい家へ葵が来た』

『俊介が迎えた』

『三人でお茶を飲んだ』

『完全には安心していない』

『でも、扉は開いた』

     *

 残したもの。

 二拠点勤務。俊介との家族。葵との名前のない場所。大阪の仕事。東京での生活。一人の部屋。母。仕事を任せた人たち。

 手放したもの。

 東京の古い部屋。三つ目の鍵。すべてを自分で確認する役割。毎回会えるという期待。前と同じ形。

     *

 続けるために、残すすべてを同じ形で持つことはできなかった。

 形を変える。場所を変える。回数を変える。

 名前をつけるもの。つけないもの。責任を共有する人。共有しない人。

 それぞれ違う。

     *

 真尋は新しい家の自分の部屋で、窓を開けた。夜の風。隣の部屋には俊介。

 東京。明後日は大阪。葵は自分の部屋。新商品は、明日の朝も店舗へ並ぶ。

 真尋は最後の試作品の空袋を、ごみ箱へ入れた。

 記念に残さない。正式販売の商品は、いつでも買える。

 葵が作ったものは、もう試作品だけではない。多くの人の朝へ入っている。

     *

 照明を落とす前、俊介が扉をノックした。

「入っても?」

「はい」

 俊介が顔を出す。

「寝ますか」

「はい」

「一緒に?」

「はい」

 真尋はノートを閉じた。自分の部屋から出て、同じ家の寝室へ向かう。

     *

 明日は、また違う選択がある。

 一人で寝たい夜。葵と長く話す日。大阪へ戻る朝。俊介が友人と出かける週末。母へ会う日。山岸へ判断を任せる日。商品が売れない朝。責任者として決める葵。

 何かを手放したから、すべてが楽になったわけではない。

 東京の部屋がなくなった寂しさは残る。葵の歯ブラシも。三つの鍵を並べた朝も。

 それでも、二つの鍵で生活は続く。

     *

 続けることは、変えないことではなかった。

 続けるために変える。残すために手放す。大切だから、同じ形へ閉じ込めない。

 真尋は寝室の前で、俊介の背中を見た。

 遠くには葵。大阪には山岸と森田。それぞれの場所。

 真尋は、そのすべてへ同時には帰れない。だが、戻るたびに知り直すことはできる。

     *

 扉を閉めた。

 今夜は、俊介と眠る。明日は、自分の部屋で一人になる時間も取る。その後、葵へ電話する。明後日は大阪。

 残したものを数えるのではなく。今日選んだ場所で、今日の生活をする。

 それが、真尋たちが見つけた続け方だった。


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