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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第四十章 帰れない夜

二拠点勤務が始まって三か月目の金曜日、真尋は大阪から東京へ戻る予定だった。

 午後四時の新幹線。東京へ着くのは六時半頃。その夜は俊介の部屋へ帰る。

 翌日の午前中は、二人で新しい住居の内覧。午後三時から葵と会う。

 葵が責任者候補として進めている新商品の最終試作品を見せてもらう約束だった。

『今日を始めた、それだけで。』

 味は、軽い甘さの後に、ごくわずかな塩味が残る形へ決まった。量産試験も終わった。販売価格。包装。発売店舗。広告案。

 あとは経営会議で正式に承認されれば、小規模な試験販売へ進む。

 葵は、

『全国発売の時より緊張する』

 と言っていた。

 前の商品では、企画担当だった。今回は、責任者候補として、予算と日程、人員まで含めて説明する。

 商品が通れば、葵が初めて主導する案件になる。

 真尋は約束していた。

『会った時に、最初から聞きます』

 その日は明日だった。

     *

 午前八時、真尋は大阪の部長席で、東京へ持ち帰る書類を確認していた。

 午後一時まで会議。その後、荷物をまとめて新大阪へ向かう。予定は十分に組んである。

 山岸が午後の会議資料を持ってきた。

「今日、帰るんですよね。四時?」

「はい」

「天気、見ましたか」

「東京は雨ですか」

「大阪もです。東海の雨が強くなるそうです」

 山岸はスマートフォンの天気予報を見せる。夕方から夜にかけて、大雨。鉄道の遅延や運休の可能性。

「まだ運行しています」

「はい」

「早い便へ変えますか」

 真尋は予定表を見た。午前十一時の会議。午後一時の面談。どちらも真尋が必要。早くても二時半。

「午後一時の面談を山岸さんへ任せられますか」

「内容は?」

「福岡の人員配置」

「最終判断は?」

「今日は聞き取りだけです」

「なら」

 山岸は考える。

「できます」

「では、二時台へ変更できるか確認します」

     *

 新幹線の予約画面を開く。二時十三分。空席は少ない。

 真尋は変更しようとした。その時、森田から声をかけられる。

「水口さん。広島の店舗で、システム障害です」

「規模は?」

「三店舗」

「営業停止?」

「会計の一部ができません」

「復旧見込みは?」

「まだ」

「現地責任者は?」

「対応中です」

 真尋はスマートフォンを置いた。

「会議室へ」

     *

 障害は、広島だけではなかった。

 十五分後には、岡山の二店舗でも同じ症状。西日本の一部地域で使用している決済システム。外部会社のサーバー障害。

 現金での会計は可能。カードと電子決済が使えない。

 金曜日。午後から客が増える。

 店頭案内。問い合わせ。返金。復旧。誰が何を判断するか。

 森田が地域間の情報を集める。山岸が大阪側の応援体制を確認する。真尋は契約と補償条件を調べる。

     *

「東京へ戻る便」

 山岸が言った。

「二時台は、無理だと思います」

「はい」

「四時も」

「まだ決めません」

「水口さん。私と森田さんで、対応できます」

「契約判断があります」

「電話で。東京でもできます」

 山岸の言葉。真尋は画面を見た。

 障害対応。現地。東京へ戻る。どちらも可能。

 だが、移動中に通信が不安定になる可能性。新幹線が遅れれば、車内に長く留まる。会社に残るほうが安全。

「三時までに状況が落ち着かなければ、今日は大阪へ残ります」

 真尋は言った。山岸が頷いた。

     *

 俊介へメッセージを送った。

『システム障害が発生しました。今日戻れない可能性があります』

 すぐに既読。

『何時に決まりますか』

『三時頃』

『内覧は?』

『明日の午前なので、夜の便でも間に合います』

『無理をしないでください』

『はい』

 葵へも送るか迷った。

 会うのは明日の午後。今夜帰れなくても、明朝の便で間に合う可能性がある。

 まだ連絡する必要はない。決まってから。

     *

 午前十一時。障害は七店舗へ広がった。

 外部会社から、復旧は午後三時以降になる可能性があると報告。

 店舗ごとの対応に差が出始める。現金のみで営業を続ける店舗。一時閉店した店舗。客へ十分な案内ができず、苦情が出た店舗。

 真尋はオンライン会議を開いた。広島。岡山。大阪。

 森田が状況を整理した。山岸が店舗支援を提案する。

 真尋は全店舗共通の方針を決めた。

「完全な統一はしません。現金対応ができ、混乱が少ない店舗は継続。苦情が増えている店舗は一時閉店」

「はい」

「閉店時間は、現地責任者が決める。本部への事前承認は不要」

 画面の向こうで、広島の責任者が頷いた。

「返金や補償については、後から本部で判断します」

     *

 会議が終わった。山岸が言う。

「現地へ任せましたね」

「はい」

「以前なら?」

「一店舗ずつ確認しました」

「今日は?」

「できません」

「できないから?」

 山岸が尋ねた。真尋は考える。

「任せたほうが早いからです。現地の状況を、私より知っている。それで十分です」

     *

 午後零時半。雨が強くなる。

 新幹線の運行情報に、遅延の可能性。東海道区間の一部で速度を落としている。

 真尋は俊介との画面を開いた。

『まだ、障害対応中です。新幹線も遅れ始めています』

『今日、戻れない?』

『可能性が高いです』

 返事が遅れる。

『わかりました』

 短い。真尋は胸の痛みを感じた。

『寂しいですか』

 送る。

『かなり。内覧を楽しみにしていました』

『私もです』

『明日も無理なら?』

『日程を変更します』

『また先になります』

『はい』

『でも、無理に帰らないでください』

『ありがとうございます』

     *

 午後一時、葵からメッセージが届いた。

『経営会議、終わった』

 真尋は一瞬、障害対応から意識を離した。

『どうでしたか』

 既読。返事がすぐには来ない。

 葵は文章を考えているのか。それとも、人といるのか。

 数分後。

『条件付きで試験販売へ進む』

 真尋の胸が明るくなる。

『おめでとうございます』

『でも、予算を二割削る。発売店舗も減る。広告映像はなし。私が削るものを決める』

『はい』

『明日、会って話したい』

 真尋は時計を見た。雨。障害。新幹線。明日の約束。

『今、大阪でシステム障害があり、今日戻れない可能性があります』

 既読。

『明日も?』

『朝の運行状況によります』

 返事がない。

     *

 五分後。

『今日、会えないかもしれないって、いつわかった?』

 真尋は正直に送った。

『午前中から可能性はありました』

『なぜ言わなかった?』

『明日の予定へ影響するか、まだ決まっていなかったからです』

『はい。今、知った。私、今日の会議が終わったら、明日のことだけ考えてた。見せたい資料もまとめた』

『はい』

『会いたい』

『私もです』

『来て』

 真尋は画面を見た。希望。以前から決めた通り、葵は言った。

 真尋は答えた。

『今日は戻れません』

 送信。

     *

 葵からすぐに。

『まだ決まってない。新幹線は動いてる』

『はい』

『夜でも』

『仕事の対応が続きます』

『山岸さんたちに任せられない?』

 胸に刺さる。

 任せる側の孤独。手放すこと。

 だが、今の障害は真尋の契約判断が必要。山岸と森田が対応している。真尋がすべてをする必要はない。それでも、部長として残る意味がある。

 同時に、東京へ戻ることもできなくはない。

 どちらを選ぶのか。

『今回は大阪へ残ります』

 送った。既読。

『私より仕事?』

 真尋は深く息を吐いた。

 同じ比較ではない。だが葵には、そう感じられる。

『今日は仕事を選びます』

 明確に送った。

     *

 返事が来ない。真尋はスマートフォンを伏せた。

 山岸が離れた場所から見ている。

「葵さんですか」

「はい」

「会う予定?」

「明日」

「帰らないと?」

「間に合わない可能性があります」

「はい」

「怒っています」

「はい」

「山岸さん。私が東京へ戻っても、対応できますか」

 山岸はすぐに答えない。

「できます。でも、残ってほしいです」

「なぜ?」

「契約会社との交渉」

「電話で」

「できます」

「はい」

「それでも?」

「初めての大きな障害を、現地だけへ任せられたと感じる人がいると思います。水口さんが全部をする必要はありません。でも、部長が同じ場所にいることに意味がある日です」

 真尋は頷いた。

「私も、そう思います」

     *

 午後三時。システムは一部復旧。全店の完全復旧は、午後六時頃の見込み。

 新幹線は、東海区間で運転見合わせの可能性が発表された。

 真尋は四時の便をキャンセルした。

 俊介へ。

『今日は大阪へ残ります。明日の朝も、運行状況を確認します』

『内覧はキャンセルします。不動産会社へ連絡します』

『お願いします』

 その後。

『残念です』

『私もです』

『怒ってはいません。でも、寂しいです』

『わかっています』

     *

 葵へも送る。

『今日の便をキャンセルしました』

 既読。返事はない。

『明日の朝、運行状況を確認します』

 返事なし。

 真尋はそれ以上送らない。

 葵が怒っている。傷ついている。すぐに解決しない。

     *

 午後四時半、障害対応は現地責任者中心へ移る。

 真尋は契約会社との補償協議。森田が被害店舗を整理。山岸が従業員の残業時間を確認。

「一部店舗は、閉店を早めます。応援を出した人は、直帰。明日の朝、報告」

 山岸が言った。

「はい」

「水口さんも、七時までに帰ってください」

「まだ契約会社から」

「六時半の会議で終えます。明日、東京へ戻る可能性があるなら、寝てください」

     *

 午後六時、全店舗の決済システムが復旧した。

 営業を再開した店舗。そのまま閉店した店舗。返金対応。苦情。

 すべてが終わったわけではない。だが緊急対応は一区切り。

 真尋は契約会社へ、翌週の正式な報告を求めた。補償。再発防止。連絡体制。

 今日決めるのは、そこまで。

     *

 午後六時四十五分、会社を出る。雨。

 新幹線は一部区間で運転を見合わせている。明朝、再開するかは不明。

 真尋は商店街を歩いた。津田の花屋は、店を閉めようとしている。

「今日は遅い」

 津田が言った。

「システム障害です」

「大変だった? 東京へ帰る日じゃなかった?」

「帰れませんでした」

「誰か待ってた?」

「二人」

 真尋は答えた。津田が少しだけ目を細める。

「どっちを選んだの」

「仕事です。怒られました」

「誰に?」

「葵」

「もう一人は?」

「俊介は、寂しいと」

「怒らない?」

「怒っていないと言いました」

     *

「仕事を選んで、後悔してる?」

 津田が尋ねた。

「していません。でも、傷つけたと思います」

「両方ある」

「正しい選択だったと思いますか」

「店を閉める私に聞く?」

「はい」

 津田はシャッターへ手をかけた。

「選ばなかったほうに痛みが残るなら、正しいかは、後でしかわからない」

「はい」

「でも、今日必要だと思った場所にいたんでしょう。なら、今日はそれで帰るしかない」

     *

 真尋は花を買わない。今夜は、花を見る余裕がない。

 総菜を買い、部屋へ戻った。

「ただいま」

 誰もいない。

 三つの鍵をテーブルへ置いた。東京の二つの鍵。今日は使えなかった。大阪の鍵。今夜開いた。

 食事。味はあまりわからない。

 スマートフォンを見た。俊介から。

『不動産会社へ連絡しました。次の候補日を送ってもらいます』

『ありがとうございます』

『食事は?』

『今、食べています』

『仕事は落ち着きました』

『よかったです』

『明日、戻れたら』

『無理をしないでください』

 俊介との会話は続く。傷ついていても、関係を閉じない。

     *

 葵からは何もない。

 真尋はメッセージを書いた。

『今日は、葵より仕事を選びました』

 強すぎる。消した。

『会えないことを、申し訳なく思っています』

 謝罪だけでは、自分の選択を否定するように見える。消す。

『仕事を選んだことは変えません。ただ、葵が傷ついたことを軽くしたくありません』

 送るか。真尋は迷い、送信した。

 既読はつかない。

 葵は会食か。帰宅途中か。スマートフォンを見たくないのか。

 真尋は待った。

     *

 午後九時半、葵から着信。真尋は出る。

「もしもし」

『今、話せる? 十分』

「はい」

 葵の声は、怒っている。泣いてはいない。

『仕事、終わった?』

「はい」

『障害は?』

「復旧しました」

『真尋がいなくても、復旧した?』

 鋭い問い。

「はい」

『なら、残らなくてもよかった?』

「いいえ」

『なぜ?』

「部長として、現地にいる必要があると判断しました」

『山岸さんたちがいた。真尋が全部やったわけじゃない。東京から電話でも』

「できました」

『じゃあ、なぜ』

 葵の声が震える。

「今日は、大阪へ残ることを選びました」

『私より』

「はい」

 葵が息を吸った。

『はっきり言われると痛い。でも、曖昧にされるよりいい』

「はい」

     *

『私、経営会議で通った。条件付き。予算二割削る。私が決める』

「はい」

『怖い。最初に真尋に見せたかった。資料も。試作品も。明日、会った時、全部話すつもりだった』

「はい」

『今日、会議が終わった時、真尋に会える明日があるから、頑張れたって思った』

 真尋の胸が痛む。

「はい」

『でも、なくなった。仕事で。私が真尋を必要とした日に、真尋は別の仕事を選んだ』

「はい」

 真尋は否定しない。

     *

『秋田で』

 葵が言う。

『互いがいなくても生きるって決めた。でも、必要としちゃだめって決めてない。今日は必要だった。来てほしかった』

「はい」

『真尋は来なかった。それを、成長して受け入れなきゃいけない?』

「いいえ」

『怒っていい?』

「はい」

『傷ついたって言っていい?』

「はい」

『仕事を嫌いになっていい?』

「私の仕事を?」

『今日だけ』

「はい」

     *

『真尋。謝って』

 真尋は少し息を止めた。

 仕事を選んだことを謝るのか。会えなかったこと。伝えるのが遅れたこと。葵を傷つけたこと。

「会えなくなった可能性を、もっと早く伝えるべきでした。葵が明日を大切にしていたことを知っていたのに、決まるまで伝えなかった。すみません」

『はい』

「仕事を選んだことは、謝りません」

 葵が黙った。

「でも、その選択で葵を傷つけたことから逃げません。会いたかったです。今も」

『うん』

「明日戻れなければ、次の時間を決めます」

『うん』

     *

『次って、いつ?』

「新幹線が動けば、明日の午後」

『動かなかったら?』

「日曜日」

『真尋、俊介さんと予定は?』

「内覧は延期しました。日曜日は、元々東京にいる予定です。ただ、戻れなければ、オンラインで一時間」

『嫌。画面じゃなく、会いたい』

「はい」

『次の週は?』

 予定を確認した。真尋は大阪。葵は福岡出張。その次は、真尋が東京。

「二週間後の土曜日」

『遠い。でも、会う。三時間』

「はい」

『俊介さんとの予定が入っても』

「すでに空けます。ただし、緊急の仕事が入れば」

『また?』

「可能性はあります」

 葵は黙った。

「絶対に何も起きないとは言えません。でも、通常の予定では動かしません」

『はい』

     *

『真尋。今日、私が、仕事をやめて来てって言ったら』

「行きませんでした」

『私が泣いても?』

「はい」

『嫌いになっても?』

「聞きます」

『でも、行かない』

「はい」

『強いね』

「強くありません」

『冷たい?』

「そう感じると思います」

『うん』

「でも、葵が私を必要とすることと、私が必ず行くことは同じではありません。私も、葵に会いたい日に、葵が仕事を選ぶことがあります」

『うん』

「今日の痛みは、なくしません。でも、互いの仕事を終わらせる理由にもしません」

     *

 十分は、二十五分になっていた。

『明日、朝連絡して。戻れるか。戻れなくても』

「はい」

『私、資料を真尋に送らない』

「わかりました」

『会った時に見せる。試作品も。賞味期限は大丈夫』

「はい」

『おやすみ』

「おやすみなさい」

 通話が切れた。

 真尋は長く息を吐く。

 傷つけた。それでも、葵は関係を終わらせなかった。怒った。謝罪を求めた。

 真尋も、謝る部分と謝らない部分を分けた。

 簡単ではない。

 秋田で決めた言葉は、きれいな約束ではない。こういう夜のためにある。

     *

 翌朝、午前五時半。運行情報。

 東海道新幹線は、始発から一部区間で運転見合わせ。再開見込みは午前十時以降。

 真尋は俊介へ送った。

『午前の内覧は、完全に無理です。午後もわかりません』

『無理に戻らないでください』

 葵へ。

『始発から運転見合わせです』

 既読。

『はい』

 短い。

     *

 午前七時、真尋は大阪の部屋で朝食を取った。パン。卵。コーヒー。窓の外は雨。

 今日は休日。会社へ行く必要はない。障害の報告は山岸がまとめる。真尋は自宅で待機。

 東京へ戻れない。葵へ会えない。俊介との内覧も。

 一日が空いた。

 何をするか。仕事。昨日の報告書。できる。だが休日。

 移動できないからと、仕事へすべてを渡す必要はない。

 真尋は洗濯をした。部屋を掃除する。冷蔵庫を整理。

 三つの鍵をテーブルへ置いた。東京の鍵は、今日も使えない。

     *

 午前十時、新幹線は運転を再開したが、大幅な遅れ。予約は満席。立席。駅も混雑。

 真尋は午後の便を探した。三時台に一席。東京着は、遅延を含めれば六時以降。

 葵との約束は午後三時。完全に間に合わない。俊介へは夜に会える可能性。

 予約するか。明日日曜日の朝にするか。

 無理に移動して疲れる。それでも東京へ帰りたい。俊介へ。葵へ。自分の部屋へ。

     *

 真尋は俊介へ電話した。

『どうしました?』

「午後三時の便が取れます。遅延すれば、夜。今日戻るべきでしょうか」

 俊介は黙った。

『真尋は、戻りたいですか』

「はい」

『誰のために?』

 問われる。

「俊介。葵。自分。全部です。でも、疲れています。駅も混雑しています」

『僕は、明日の朝でもいいです。寂しいです。でも、今日無理をして帰り、明日倒れるほうが嫌です』

「はい」

『葵さんは?』

「会いたいと言っています。今日の約束は、もう無理です。夜、短く会うことも」

『可能性は?』

「遅延次第です」

『真尋が決めてください』

     *

 電話を切った。葵へは、まだ聞かない。

 葵なら、

『来て』

 と言うだろう。

 希望を聞けば、真尋はそれを背負う。聞かなくても、自分の判断で決める必要がある。

 真尋は午後三時の便を予約しなかった。明朝の指定席を取る。今日は大阪へ残る。

 葵へ送った。

『今日は移動せず、明日の朝に戻ります』

 既読。

『はい。来ようと思えば来られた?』

 真尋は正直に。

『午後の便に空席が一つありました』

『取らなかった。なぜ?』

『疲れていることと、混雑と遅延を考えました』

 既読。

『私に会うために、来てほしかった』

『はい』

『でも、昨日仕事を選んだ。今日は自分を選んだ』

 真尋は画面を見た。

『はい』

 葵から返事。

『私を選ばなかった日が二日続いた』

 胸が痛む。

『はい』

『かなり嫌』

『はい』

『でも、わかった』

『何がですか』

『真尋が私を大切にしてても、私を選ばない日がある。私も、真尋を大切にしてても、仕事を選ぶ日がある。わかってるけど、嫌』

『はい』

     *

『今日、何する?』

 葵が尋ねた。

『休みます』

『仕事しない?』

『必要な確認だけ。葵は?』

『資料を整理する。美月と夕食。真尋に会えなかったからじゃなく、美月と会いたいから』

『楽しんでください』

 会話が閉じた。

     *

 午後、真尋は昼寝をした。二時間。

 起きた時、体が少し軽い。午後の便へ乗らなくてよかったと思う。

 その判断で、葵をさらに傷つけた。両方ある。

     *

 夕方、俊介からビデオ通話。

『起きました? 顔が少し良いです』

「寝ました」

『よかったです』

「俊介は?」

『一人で内覧予定だった地域を歩きました』

「一人で? なぜ?」

『街を見たかったので。真尋と行く予定だった場所。でも、今日の自分でも見られる。写真を撮りました』

「見せてください」

 俊介が街の写真を見せた。駅。公園。スーパー。物件の外観。

『中は見ていません。次に一緒に』

「はい」

「俊介。一人で見たこと、寂しくありませんでしたか」

『寂しかったです。でも、真尋がいなくても、自分の未来を考えました。一緒に住む家は、真尋と決めます。街を見ることは、一人でもできました』

「ありがとうございます」

『お礼ではありません。僕の生活です』

 俊介が言った。

     *

 夜、葵は美月と食事をしていた。

「真尋さん、帰ってこなかったんだ」

 美月が言った。

「うん」

「仕事?」

「昨日は」

「今日は?」

「休むため」

「葵、怒ってる?」

「かなり」

「連絡しない?」

「した」

「何て?」

「私を選ばなかった日が二日続いたって」

「重いね」

「うん」

「真尋さんは?」

「はい、って」

 美月は吹き出した。

「逃げないね」

「うん」

     *

「葵」

 美月が箸を置いた。

「真尋さんが毎回葵を選んだら、どうなる?」

「嬉しい」

「仕事より?」

「今日は」

「俊介さんより?」

「時々」

「自分の体より?」

 葵は黙った。

「それは嫌」

「でも、今日は来てほしかった」

「うん」

「矛盾してる」

「していいでしょう」

 美月は頷いた。

「来てほしかったって言う。来なかったことを嫌う。でも、真尋さんが休むことまで否定しない。できてる?」

「今日は、少し」

     *

「私」

 葵は言った。

「経営会議で通った時、真尋に会えるから頑張れたって思った。それがなくなって、全部小さく感じた」

「うん」

「でも今日、資料を見直した。予算を削るところ、自分で決めた。広告映像はなくす。店頭の写真と短い動画にする。発売店舗は二十から十二」

「うん」

「それでも、試験販売へ進む。真尋が見てなくても、決めた」

「うん」

「でも、見せたい」

「会った時に」

「二週間後」

「長いね」

「うん」

     *

「試作品、食べる?」

 葵がバッグから一袋出した。

「真尋さんに最初に見せるんじゃないの?」

「そう思ってた」

「いいの?」

 葵は考えた。

「美月にも食べてほしい。真尋だけのものにしない」

「はい」

 二人で袋を開けた。

『今日を始めた、それだけで。』

 美月が食べる。

「甘い。最後に少し塩。好き」

「本当?」

「朝、食べられそう」

「はい」

 葵は、美月が最初に食べたことを後悔しない。

 真尋へ見せる前。それでもいい。

     *

 翌朝、真尋は午前七時の新幹線へ乗った。天気は回復。遅延は残るが、運行している。

 大阪の部屋。鍵を閉めた。

「行ってきます」

 誰もいない部屋へ。

 新幹線の中。俊介へ。

『乗りました』

『はい。気をつけて』

 葵へ。

『東京へ向かっています』

 既読。

『はい』

 それだけ。

     *

 東京駅へ着いたのは、午前十時前。予定より一時間遅い。

 俊介が迎えに来ている。改札。真尋を見つけた。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 抱きしめた。長くはない。

「疲れました?」

「はい」

「自分の部屋へ?」

 俊介が尋ねた。真尋は考える。

「今日は、俊介の部屋へ。午後、一人で休む時間をください」

「もちろんです」

「夕方、葵へ電話します」

「会う?」

「今日は、葵も予定があります。二週間後」

「はい」

     *

 俊介の部屋へ向かった。三つの鍵。今日は茶色い木の札の鍵を使う。扉。

「ただいま」

「お帰りなさい」

 昼食。簡単なうどん。移動疲れ。

 食べた後、真尋は寝室へ入った。俊介はリビング。

 同じ家。別々の時間。

     *

 午後四時、真尋は葵へ電話をかけた。葵が出る。

『東京? 疲れてる?』

「少し」

『俊介さんの家?』

「はい」

「昨日は、美月と?」

『食事した。試作品も食べてもらった』

 真尋の胸が痛む。

「私より先に?」

『はい』

「はい」

『嫌?』

「少し」

『真尋が来なかったからじゃなく、美月にも食べてほしかった』

「わかりました」

『真尋にも、会った時に』

「お願いします」

     *

「予算の削減。決めましたか」

 真尋が言った。

『はい』

 葵は説明する。

 広告映像をなくす。短い店頭動画。発売店舗を十二へ。試食イベントは二か所だけ。パッケージの色数を減らす。

 味は守る。量も。価格は変えない。

『全部残したかった。でも、削った。責任者候補として』

「はい」

『南雲さんに、決めた後は説明しろって。明日、営業へ話す』

「怖いですか」

『かなり。見ていて』

「見られません」

『はい』

「でも、聞きます」

『二週間後』

「はい」

     *

 少し沈黙。

『真尋。まだ怒ってる。でも、仕事を選んだことを、間違いだとは思ってない。休んだことも』

「はい」

『私を選ばなかったことは嫌。両方ある』

「はい。私も、葵を傷つけたことは苦しいです。でも、同じ日へ戻っても、仕事を選ぶと思います。翌日は、休むと思います」

『はい』

「それでも、葵を大切に思っています」

『うん』

     *

『次に会った時』

 葵が言った。

『最初に怒る。その後、資料見せる。試作品。美月が先に食べたって、もう一回言う』

「はい」

『真尋、嫉妬する?』

「少し」

『はい』

「でも、美月にも場所があります。葵の商品にも」

『はい』

     *

 電話を終える。真尋はリビングへ戻った。俊介が本を読んでいる。

「どうでした?」

「怒っています。でも、話しました。試作品を、美月さんが先に食べたと」

「真尋、嫌ですか」

「少し。私も、葵だけの一番ではありません。葵も、私だけへ戻るのではない」

「はい」

 俊介が本を閉じた。

「僕も、真尋だけを待たないようにします。昨日、一人で街を見ました。北川さんたちとも、今度旅行の計画を」

 真尋の胸が動いた。

「旅行?」

「グループで。一泊」

「はい」

「嫌ですか」

「少し。でも、行ってください」

「まだ決めていません。話します」

     *

 二週間後。真尋と葵は、東京の自分の部屋で会った。

 葵は約束通り、最初に怒った。

「真尋、遅い。二週間。会いたかった」

「私も」

「仕事を選んだ。休んだ。私のために、午後の新幹線へ乗らなかった。嫌」

「はい」

「でも、今日会えた」

「はい」

「抱きしめて」

「はい」

 二人は抱きしめた。怒りがなくなるわけではない。

 それでも、会えた体を確認する。

     *

 テーブル。葵が資料を広げた。最終試作品。予算。削減案。発売店舗。広告。

「美月が先に食べた」

「はい」

「真尋は二人目じゃない」

「会社の方々も食べています」

「そういうこと言わない」

「はい」

 葵は笑い、袋を真尋へ渡した。

「食べて」

 真尋は袋を開けた。軽い甘さ。最後に、わずかな塩。

「どう?」

「朝に食べやすいです」

「仕事の評価。ほかは?」

 真尋はもう一つ食べた。

「誰にも見られない朝に、自分で袋を開ける人を想像しました」

 葵の表情が柔らかくなった。

「頑張った人だけではなく」

「うん」

「起きただけ。食べただけ。生活を始めた人」

「はい」

「葵が作りたかったものだと思います」

     *

 葵は、削ったものを一つずつ説明した。

「広告映像をやめた。悔しかった。全国発売の時、私が最後の場面を守った。今回は映像自体がない」

「はい」

「でも、店頭の短い動画で。手が袋を開けるだけ。顔は映さない。朝日も、笑顔も。それだけにした」

「よいと思います」

「南雲さんも」

「はい」

「店舗は十二。最初、二十だった。売上の可能性は減る。でも、販売員へ説明できる店舗を残した。商品を知らないまま並べる店を減らした。責任者として決めました」

 葵は、自分の口で言った。真尋は頷く。

「よく決めましたね」

「見てほしかった」

「今、見ています」

「遅い。でも、見て」

「はい」

     *

 午後三時。窓から光。

 二人は、あの日会えなかった時間を、なかったことにしない。今日へ全部を置き換えない。

 会えなかった。怒った。仕事を選んだ。休んだ。美月に食べてもらった。俊介は一人で街を見た。

 それぞれが、別の生活をした。そして今日、持ち寄る。

     *

「真尋。会えない日の私も、私だった。でも、会えた今日の私も。どっちが本当じゃなく、両方」

「はい」

「真尋が来なかったから、責任者になれたわけじゃない。来てくれたら、もっと頑張れたかもしれないけど、来なくても決めた」

「はい」

「でも、次も来なくていいわけじゃない。会いたいって言う」

「はい」

     *

「私も」

 真尋が言った。

「葵に必要とされることは嬉しいです。でも、必要とされた時に必ず行ける人ではありません」

「はい」

「それでも、必要だと言ってほしい。断る可能性があっても」

「うん」

「私も、葵へ会いたいと言います。仕事で断られても、物わかりよくしません」

     *

 二人は予定表を開いた。

 次の商品試験販売。真尋の二拠点。俊介との新しい住居探し。葵の福岡出張。母。山岸。森田。

 次に会える日は三週間後。

「また長い」

「はい」

「でも、試験販売の前。その日は、会える?」

「通常の予定では空けます」

「緊急が起きたら?」

「その時、話します」

「絶対とは言わない」

「言えません」

「嫌。でも、わかった」

     *

 葵が帰る前、洗面所を見る。未開封だった歯ブラシ。以前のまま。

「まだある。開ける?」

「今日は泊まりません」

「でも、次に泊まる日まで、ずっと未開封。古くなる?」

「交換しますか」

「開ける」

 葵は包装を破った。歯ブラシを取り出し、洗面所のコップへ置く。

 真尋。俊介。葵。三本。

「泊まらないのに?」

 真尋が尋ねた。

「次に泊まるため」

「物へ約束を背負わせません」

「わかってる。でも、使う日が来なくても、今日は開けたかった」

「わかりました」

     *

 玄関。

「行ってきます」

 葵が言った。

「行ってらっしゃい」

「次に会うまで、試験販売の準備。真尋は?」

「大阪と東京」

「俊介さんと家探し」

「はい」

「寂しい。でも、私も自分の仕事」

「はい」

     *

 扉が閉まる。真尋は洗面所へ行った。

 三本の歯ブラシ。形の違う生活。俊介のもの。葵のもの。自分のもの。

 同じ家族ではない。同じ責任でも。同じ頻度でもない。

 それでも、それぞれの人がこの部屋へ来た時間がある。

     *

 夜、真尋は生活ノートを開いた。

『帰れない夜』

『仕事を選んだ』

『翌日は、自分の体を選んだ』

『葵を二日続けて選ばなかった』

『葵は怒った』

『私は、謝る部分と謝らない部分を分けた』

『俊介は、一人で街を見た』

『葵は、美月へ試作品を渡した』

『誰も、私を待つだけではなかった』

『二週間後、持ち寄った』

 最後に。

『会えない日は、関係を試すためにあるのではない』

『ただ、会えない日がある』

『その日に、誰を選んだかは消えない』

『傷ついたことも』

『それでも、次に会った時、なかったことにせず話す』

     *

 葵も、自宅でノートを開いた。

『真尋が来なかった』

『私は怒った』

『仕事を嫌いになりたいと思った』

『でも、予算を削った』

『美月と試作品を食べた』

『真尋がいなくても決めた』

『二週間後、見せた』

『来なかった日と、見てくれた日は、別々に残る』

 最後に。

『大切にされることは、毎回選ばれることではなかった』

 書いてから、葵はすぐに続けた。

『でも、選ばれたいと言っていい』

     *

 俊介も、一人の夜に不動産会社から届いた新しい候補物件を見ていた。

 二つの個室。広い台所。駅から少し遠い。家賃。

 真尋へすぐ送らず、次に会う時に見せる。今夜は、自分で考える。

     *

 それぞれが、誰かの不在を抱えながら、自分の生活を続ける。

 不在は、空白ではない。

 怒り。判断。食事。仕事。休息。ほかの人との時間。

 そこにも生活がある。

     *

 真尋は三つの鍵を布のケースへ入れた。大阪。東京の自室。俊介との家。

 その横に、鍵のない歯ブラシが一本増えた。

 鍵がなくても、訪れる人。家族ではなくても、大切な人。毎回入れるわけではない。

 それでも、扉を開く日を二人で選ぶ。

     *

 試験販売まで、あと一か月。二拠点勤務の正式評価まで、あと三か月。

 俊介との新しい家は、まだ決まっていない。葵の新商品も、売れるかはわからない。

 すべて途中。何も完成していない。

     *

 真尋は照明を落とした。

 明日は大阪へ戻る。俊介と朝食を食べてから。葵とは会わない。母へ短い電話。その後、新幹線。

 また一つの場所から、別の場所へ。

     *

 帰れなかった夜があった。会えなかった日があった。必要とされたのに、行かなかった。

 それでも関係は続いた。何も失わなかったわけではない。

 葵の中には、選ばれなかった二日が残る。真尋の中には、傷つけた記憶が残る。俊介の中にも、予定を一人で過ごした寂しさがある。

 消さない。

 消さずに、次の約束をする。絶対に守れるとは言わない。守れなかった時に、なかったことにしない。

 その繰り返しが、三人の生活を少しずつ形にしていた。

     *

 真尋は布団へ入った。遠くで電車の音がする。東京の夜。明日は大阪。

 会えない日にも続いたものを持って、また移動する。

 どこへも完全には帰り切れない。だからこそ、その日開いた扉の中で、自分の生活をする。

 真尋は目を閉じた。

 次に戻った時には、また違う人たちがいる。自分も、少し違っている。

 それでも、知り直すことができる。

 帰れなかった夜を忘れずに。


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