第三十九章 三つの鍵
二拠点勤務が始まった最初の朝、真尋は三つの鍵をテーブルへ並べた。
大阪の部屋。東京の自分の部屋。俊介と暮らす家。
正確には、俊介の部屋はまだ完全に二人の家ではない。
真尋のカップがある。部屋着がある。仕事用の充電器。化粧品。本が数冊。洗面所には、二人の歯ブラシ。玄関には、真尋が選んだ小さな傘立て。
それでも家具の多くは俊介が選び、契約者も俊介のまま。二人で新しい家を探す話は続いているが、すぐに引っ越す予定はない。
今は、俊介が暮らしてきた部屋へ真尋の生活が少しずつ加わっている。
三つの鍵は、どれも形が違った。
大阪の鍵には、会社の近くで買った青い革のカバー。東京の自分の部屋は、何もつけていない銀色。俊介の部屋には、俊介が渡してくれた茶色い木の札。
札の裏に、小さく日付が書かれている。婚姻届を提出した日ではない。真尋が初めて合鍵を受け取った日。
三つを一つの輪へまとめることもできた。だが真尋は、別々のキーホルダーにしていた。
鞄を替えるたび、必要な鍵だけを選ぶ。忘れる可能性は増える。
それでも、全部を常に持ち歩くことには抵抗があった。
どの部屋へ帰るかを、最初から一つに決められているように感じるからだった。
*
今日から、東京で十一日間勤務する。その後、大阪へ十二日。再び東京へ六日。
会社が定めた試験運用では、大阪勤務を月十二営業日以上確保する。大阪は引き続き主たる勤務地。
東京では本社との調整、経営会議、部門間連携。大阪では現地組織の管理、山岸と森田の支援、地域課題への対応。
理屈の上では整理されている。
予定表には色分けされた日程。青が大阪。灰色が移動。白が東京。
俊介との予定。葵との予定。母。一人で過ごす時間。
すべてを書き込むと、空白はほとんどなかった。
*
真尋は東京の自分の部屋で目を覚ました。
二拠点勤務の初日なのに、俊介の部屋ではない。
昨夜、大阪から東京へ移動した。俊介は駅まで迎えに行くと言った。真尋は断った。新幹線を降りた後、誰かの笑顔へ応える余裕がないと思った。
荷物を引き、自分の部屋へ戻った。湯を沸かし、簡単な食事を取り、荷物を解かずに眠った。
俊介とは十分だけ電話をした。
『到着しましたか』
「はい」
『会いたいです』
「私もです」
『明日の夜は?』
「九時まで会議です」
『その後』
「疲れていると思います」
『では、水曜日』
「水曜日は葵と電話です」
俊介は一瞬黙った。
『木曜日は?』
「会えます」
『はい』
声に、寂しさが残った。真尋は気づいていた。
それでも、予定を変えなかった。
*
午前六時半、真尋は布団から出た。
部屋は冷えている。大阪を出る前、東京の冷蔵庫へ何も入れていなかった。朝食は、駅で買うしかない。
洗面所。歯ブラシ。鏡。
大阪の部屋に置いた化粧品の一部がないことへ気づく。
「また」
小さく言った。
二拠点準備として、日用品を二組そろえた。洗顔料。化粧品。充電器。薬。仕事用の靴。
だが完全には分けられていない。よく使うものほど、移動のたび鞄へ入れる。そして忘れる。
真尋は最低限の化粧をし、仕事へ向かった。
*
本社の会議室へ入ると、以前一緒に働いていた人たちから声をかけられた。
「東京勤務初日ですね」
「お帰りなさい」
「大阪から毎月? 大変でしょう」
「結婚もされたんですよね」
真尋は一つずつ答えた。試験運用です。まだ始まったばかりです。ありがとうございます。
お帰りなさい、と言われる。東京へ。
だが真尋は、この本社へ戻ってきたわけではない。所属は大阪。部長として二拠点で働く。
以前の席もない。東京滞在時に使う共有席。引き出しは一段だけ。机の上へ私物を置かない。その日の終わりには片づける。
帰ってきた場所でありながら、自分の席がない。不思議だった。
*
午前九時、二拠点試験の開始会議。
人事。財務。本社営業企画。大阪支社。山岸と森田はオンライン参加。
画面の向こうに、大阪の会議室。真尋が昨日まで座っていた席へ、山岸がいる。
山岸は課長。部長席ではない。それでも画面の中心に見える。
「最初に運用を確認します」
人事担当が話した。
「水口部長の東京勤務中、日常的な現地判断は山岸課長。地域間調整は森田さん。一定額以上の予算、契約、人事評価は水口部長」
「はい」
「緊急時は」
連絡経路。電話。チャット。メール。どの程度から緊急なのか。具体的に決める。
人身事故。重大な顧客問題。法令。大規模なシステム停止。
それ以外は、原則として翌営業日まで待つ。
「水口部長」
人事担当が言った。
「東京滞在中も、大阪の会議へ常時オンライン参加することは避けてください。東京勤務の目的が失われます。山岸課長の判断機会も」
「はい」
「大阪の予定を、東京から細かく確認しない」
山岸が画面の向こうで笑った。真尋は気づく。
「笑いましたか」
『少し』
「なぜ?」
『人事から言ってもらえたので』
会議室に小さな笑いが起こる。真尋も笑った。
*
午前中の本社会議は、予定より長引いた。
大阪の地域運用を全国モデルへ応用できないか。真尋が東京へいる間に、提案資料を作る。
相談窓口。人員配置。意思決定の分散。地域差。
真尋が大阪で作った仕組みが、本社で評価されている。嬉しい。
だが、全国へ広げるなら、自分がすべてを説明するのではなく、山岸や森田の経験も必要。
真尋は言った。
「次回は、山岸さんと森田さんから説明してもらいます」
本社の部長が尋ねた。
「水口さんではなく?」
「現地運用を担った人から話すほうがよいと思います。私は、部長として全体を整理します」
自分の成果を手放す。名前が小さくなる可能性。
それでも、現実に働いた人を前へ出す。
*
昼休み、真尋は俊介へメッセージを送った。
『初日の午前が終わりました』
すぐに返事。
『お疲れさまです。昼食は?』
『これからです』
『一人?』
『はい』
『近くにいます』
俊介の会社は、本社から電車で数駅。
『会いますか』
真尋は時計を見た。休憩は四十分。俊介が来れば、実際に会えるのは十五分程度。
会いたい。だが午後の資料を整理したい。
『今日は一人で食べます』
返事が遅れる。
『わかりました』
真尋は胸の痛みを感じた。
東京へ戻ったのに。夫婦なのに。会わない。俊介が傷つくことはわかる。
それでも、一人で食事をしたい。
*
真尋は社内の食堂へ行った。窓側の一人席。定食。周囲には話す人たち。
真尋は食べながら、午後の資料を見る。途中で手を止めた。
一人で食べたいと言ったのに、仕事をしている。休むために一人を選んだのではなく、仕事を続けるためか。俊介との時間を断って、資料を見ている。
真尋はパソコンを閉じた。食事だけをする。味噌汁。魚。ご飯。
自分の時間を選んだのなら、その時間を仕事へ渡さない。
*
午後九時を過ぎて、真尋は本社を出た。予定より二十分遅い。
雨。傘は東京の部屋へ置いてきた。コンビニで買う。透明な傘。大阪にも同じような傘が二本ある。
二拠点生活を始めると、物が増える。買い忘れたもの。持ってこなかったもの。使い切れない調味料。同じ充電器。同じ歯ブラシ。
生活を二つに分けるため、余分なものが必要になる。
*
駅へ向かう途中、俊介から電話がかかった。
「もしもし」
『終わりました?』
「今、会社を出ました」
『食事は?』
「まだです」
『僕の部屋へ来ますか』
真尋は足を止めた。
疲れている。自分の部屋へ帰りたい。だが俊介と会えるのは木曜日の予定。今日は月曜日。東京へ十一日いる。会う機会はある。
それでも俊介にとって、真尋が東京にいる夜は限られている。
「今日は、自分の部屋へ帰ります」
電話の向こうが静かになる。
『はい』
「俊介。寂しいですか」
『かなり。東京へ戻ったのに、一度も会っていません。昨日も。今日の昼も。夜も』
「はい」
『僕は、結婚前より会えなくなった気がします』
真尋は言葉を失う。
「結婚前より?」
『真尋が東京へ戻る日を、以前は楽しみにしていました。今は、東京へ戻っても、自分の部屋を選ぶ。仕事。葵さん。僕は、空いている日を待つ』
「はい」
『夫なのに、と言いたくないです。家族だから、会うのが当然とも』
「はい」
『でも、会いたいです』
真尋は雨の中で立ち止まった。駅前。人が横を通る。
「今から行きます」
言いかけた。
それは罪悪感から。俊介が寂しいと言ったから、自分の疲れを無視する。家族だから。
そうしたくないと決めた。
「今日は行けません」
真尋は答えた。
『はい』
「でも、木曜日まで何も変えないのも違うと思います。明日の朝、七時半に、駅のカフェで朝食を」
『会議は?』
「九時です」
『僕も間に合います』
「三十分。長くはありません」
『会えます』
*
『真尋。僕が寂しいと言ったから、作りましたか』
真尋は考えた。
「はい」
『義務?』
「違います。俊介が寂しいと知り、私も会いたいと気づきました。今夜は無理ですが、明日の朝なら、生活を壊さず会えます」
『わかりました』
*
電話を切り、自分の部屋へ帰った。コンビニで弁当を買う。午後十時。
食べる。風呂。明日の服。目覚まし。
真尋は生活ノートを開いた。
『二拠点勤務初日』
『東京へ戻っても、俊介へ会わなかった』
『俊介は寂しいと言った』
『罪悪感で今夜会うことはしなかった』
『明日の朝、会う』
『会えない分を返済するのではなく、会える形を作る』
*
翌朝、駅のカフェ。俊介は先に着いていた。スーツ。コーヒー。真尋を見ると、笑う。
「おはようございます」
「おはようございます」
夫婦になってから、仕事前に外で待ち合わせるのは初めてだった。
「眠れました? 真尋は?」
「少し短いです」
「無理しました?」
「七時に起きる予定を、六時半にしただけです」
二人は朝食を注文した。パン。卵。コーヒー。三十分。
*
「昨日」
俊介が言った。
「寂しいと伝えてよかったですか」
「はい」
「真尋を困らせました」
「はい。でも、言ってください。私も、物わかりよくしてほしくありません。ただ、毎回会えるとは限りません」
「わかっています。僕も、東京へ戻った日は必ず会う、という決まりにしたくありません」
「はい」
「でも、東京滞在の最初の三日で、一度は顔を見たいです」
具体的な希望。
「わかりました」
「決まり?」
「目安にしましょう。移動の翌日が無理なら、朝食でも。十五分でも」
「はい」
「ただし、忙しい週は」
「電話」
「はい」
「会えないことを、愛情がない証拠にしない」
「はい」
*
三十分はすぐに終わった。俊介は会社へ。真尋も。
改札前で抱きしめる時間はない。手を軽く握った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
同じ東京。別の方向。
*
水曜日の夜、葵との電話。
真尋は自分の東京の部屋へ戻ってから話す予定だった。だが午後の会議が延びた。
開始予定は午後八時。七時四十分の時点で、まだ本社。
真尋は葵へ送った。
『会議が終わりません。八時半へ変更できますか』
すぐに返事。
『八時半から次の試作会議』
真尋は予定表を見直した。葵は今夜、九時半まで仕事。
『十時からは?』
『明日、朝早い』
電話を延期するか。次に話せる日は日曜日。葵は日曜日に商品撮影。その次は火曜日。六日後。
『今日は難しいです』
送った。返事。
『はい』
短い。
*
会議が終わったのは午後八時十二分。八時半まで十八分。
真尋は葵へ電話をかけた。出る。
『真尋?』
「十八分だけ話せますか」
『今、移動中』
「私もです」
『会議室へ向かう。十五分』
「お願いします」
*
真尋は本社の廊下を歩きながら。葵は会社の別棟へ移動しながら。互いの顔は見えない。
「新商品は?」
真尋が尋ねた。
『味が決まらない。塩味を選んだけど、朝には強いって。開発は、もう少し甘さを』
「はい」
『私は、塩を残したい。でも、責任者候補として、自分の好みだけで決めない。今日、消費者テストの結果が出た』
「どうでした?」
『甘いほうが高い。悔しい』
「はい」
『真尋なら?』
「数字だけで決める質問ですか」
『違う。私が、どう決めればいいか』
真尋は歩きながら考えた。
「葵は、商品の中心を何に置いていますか」
『朝を始めること。味で元気にするのではなく、食べやすい』
「塩味であることは中心ですか」
『違う。私が好きなだけかもしれない』
「では、手放せますか」
葵は黙った。
『今日の会議で決める。見ていて』
「見られません」
『はい』
「でも、聞きます」
『うん』
*
「俊介とは?」
葵が尋ねた。
「昨日、朝食を。東京へ戻っても会えなくて、寂しいと言われました。私も、予定を詰めすぎていました」
『私との電話も?』
「はい」
葵が黙った。
「葵との予定を減らすという意味ではありません。全部を空白なく入れると、誰と会っても疲れた状態になります。一人の時間も必要です」
『うん』
「次の東京滞在では、予定を一つ減らします」
『誰の?』
「その時に考えます」
『私が減るかもしれない。俊介さんも。母も』
「はい」
『仕事以外』
「仕事も減らす必要があります」
『はい』
*
『真尋。私との時間を減らす時、先に言って。気づいたら減ってるのは嫌』
「はい」
『でも、毎回守るために無理しないで。矛盾してる?』
「いいえ」
『今の希望』
「わかりました」
*
「時間です」
真尋が言った。
『はい』
「会議、行ってらっしゃい」
『行ってきます』
「決めたら」
『今日は送らない。明日の昼』
「わかりました」
電話が切れた。十五分。詳しい話はできない。
だが、今日の葵を少し知った。
*
翌日の昼、葵からメッセージ。
『甘い味に決めました。塩は、少しだけ残す』
『はい』
『私の案は通らなかった。でも、商品として決めた』
『お疲れさまでした』
『悔しい。会った時、全部話す』
『聞きます』
*
東京勤務五日目、真尋は着替えが足りないことへ気づいた。
東京の自分の部屋には仕事用の服を三組置いている。俊介の部屋に二組。
今日は俊介の部屋へ泊まる予定。だが明朝、本社へ着ていきたいジャケットは、自分の部屋。取りに戻ると遠回り。大阪から持ってきた鞄には、別のもの。
何をどこへ置いたか、記憶が曖昧になる。
真尋は昼休みに一覧表を作った。
『大阪』
『東京・自室』
『東京・俊介宅』
服。靴。薬。書類。充電器。日用品。
まるで会社の在庫管理。
*
夜、俊介へ一覧表を見せる。
「ここまでしますか」
俊介は吹き出した。
「必要です」
「僕の家に、もっと服を置けば?」
「自分の部屋を使う頻度が減る。まだ減らしたくありません」
「わかっています」
俊介は、笑った後に少し寂しい顔をした。
「毎回、同じ話になりますね。僕の家を、自分の家と思えない」
「少しずつ思っています」
「少し。夫婦になって、二か月。急かしてはいけない」
「はい」
「でも、僕はいつまで待つ?」
真尋は一覧表を閉じた。
*
「何を待っていますか」
「真尋が、自分の東京の部屋を手放すこと。僕の家を、帰る場所と呼ぶこと」
「呼んでいます」
「でも、自分の家とは違う。いつか同じになる?」
「わかりません」
俊介の表情が固くなる。
「わからない? 前は、三か月後に確認すると」
「二拠点が始まって、まだ五日です」
「結婚してからは二か月」
「時間の数え方が違う」
「そうですね」
*
「俊介。私が東京の部屋を残すことは、俊介を選んでいないという意味ではありません」
「頭では。でも、真尋は鍵を三つ別々に持っています」
テーブルの上。真尋が並べた鍵。
「気づいていましたか」
「はい」
「一つにしたくない?」
「はい」
「僕は、一つの輪にまとめたいです。家族の鍵として」
「はい」
「真尋には、支配に見える?」
「少し」
俊介は視線を落とした。
「僕が、全部の場所を持ちたいように?」
「違います。ただ、どこへ帰るかを常に自分で選びたい」
「僕と結婚した後も」
「はい」
*
「僕は」
俊介がゆっくり言った。
「真尋が選ぶたび、自分が選ばれなかった日を数えることになります。自分の部屋。大阪。葵さん。仕事。僕の家に来る日は、残った日みたいに感じる時があります」
真尋の胸が痛む。
「残りではありません」
「わかっています。でも、体がそう感じる」
「以前、俊介が言いました。わかるまで時間が必要だと」
「はい」
「今も?」
「はい」
*
二人は夕食を作る予定だった。だが、どちらも動かない。
テーブル。三つの鍵。一覧表。
真尋は言った。
「今日は、外で食べましょう」
「話を終わらせるため?」
「違います。このまま空腹で話すと、互いに悪くなります。食べた後、続けます」
「わかりました」
*
近くの定食屋。向かい合って食べる。会話は少ない。
夫婦。東京。同じ店。それでも距離がある。
真尋は、自分の部屋へ帰りたくなった。逃げたい。俊介の傷ついた顔を見続けることが苦しい。
だが今夜、自分の部屋へ帰れば、
『やはり選ばれなかった』
と感じさせる可能性が高い。だから泊まる。
それは義務か。罪悪感か。自分も一緒にいたいのか。
真尋はわからない。
*
部屋へ戻る。二人は再びテーブルへ座った。
「俊介。今日、私は泊まります。でも、俊介が傷ついたからではありません。私も、話を終えずに一緒にいたい」
「はい」
「明日の朝、自分の部屋へ服を取りに行きます。その後、本社。東京の部屋を手放す時期は、今は決められません」
「はい」
「でも」
真尋は鍵を見た。
「鍵を別々にすることへ、俊介がどう感じるかはわかりました。一つの輪にはしません」
俊介の顔が曇った。
「ただ、三つを同じケースへ入れます」
「ケース?」
「鞄の中で、別々に持つのではなく。帰る場所は分ける。でも、どれも私の生活の鍵として、一緒に持つ」
「はい」
「それで何が変わるかわかりません。でも、私からできることです」
*
俊介はしばらく黙った後、頷いた。
「ありがとうございます」
「妥協に見えますか」
「少し。でも、僕の希望だけで一つの輪へまとめるより、真尋が選んだ形のほうがいいです」
*
「俊介の希望も、なくさないでください」
真尋が言った。
「いつか、一つの家を作りたい。東京の自分の部屋を手放して、同じ家の中で、一人の部屋を持つ。その希望は、聞いています」
「いつか?」
「可能性として。約束ではありません」
「わかっています」
*
二人は、同じベッドへ入った。触れずに横になる。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
眠れない。俊介の寝息も聞こえない。
しばらくして、俊介が言った。
「手を握っても?」
「はい」
手だけ。すべてが解決したわけではない。
それでも、今夜は同じ部屋にいる。
*
翌朝、真尋は三つの鍵を、小さな布のケースへ入れた。鍵同士は、別の輪。ケースは一つ。
俊介が見た。
「それ。昨日の」
「はい」
「少し嬉しいです」
真尋も、少しだけ。
*
東京勤務七日目、山岸から連絡が入った。
『大阪の店舗相談で、例外対応を決めました』
既存のルールでは対応できない顧客案件。山岸と森田で判断。費用は基準内。真尋への事前確認なし。報告だけ。
真尋は資料を読んだ。自分なら、別の方法を選んだかもしれない。だが、判断は間違っていない。
『承認しました』
送った。山岸から。
『事後承認ではなく、報告です』
真尋は画面を見た。
山岸の指摘。決裁権限内。真尋の承認は必要ない。
『失礼しました。確認しました』
送り直した。
*
数分後、山岸から電話。
『怒っていません。でも、水口さんが承認と書くと、私の判断が仮のものになります。東京にいる間も、最終的には部長が認めるのだと。決裁範囲を任せた意味が弱くなります』
「わかりました」
『水口さん。東京はどうですか』
急に仕事以外。
「疲れています。自分が、どの部屋へ帰るか考えるだけで。俊介とも、少し」
『はい』
「仕事は?」
『進んでいます』
「私がいなくても? 少し寂しいです」
『それで正常だと思います』
「なぜ?」
『任せる側の孤独』
以前、真尋が書いた言葉。山岸へ話したことがある。
「覚えていたのですね。山岸さんは?」
『任される側の怖さがあります。でも、決めています』
「見ています」
『見すぎないでください』
二人は笑った。
*
東京勤務九日目、葵から日曜日の予定を変更したいと連絡が来た。
『試作品の製造確認が入りました』
真尋は予定表を見た。日曜日は、午後一時から葵。夜は一人で過ごす。俊介とは土曜日。
『何時までですか』
『わからない。会えないと思う』
胸に寂しさ。
『わかりました』
送ろうとして、止めた。
以前、葵から言われた。物わかりよくしないで。
『寂しいです』
送った。葵からすぐに。
『私も。でも、仕事へ行く』
『はい』
『来週は?』
予定を確認した。真尋は大阪。葵は東京。その次は、葵が福岡出張。
次に会えるのは、一か月後。
『一か月後になります』
『長い。大阪へ行く?』
真尋は画面を見た。
『仕事ではなく?』
『はい。泊まりたいって言った』
俊介との話は、まだ結論が出ていない。
『俊介と、まだ話している途中です』
『はい。では、日帰り?』
『遠いです』
『はい』
『東京で会える日を探しましょう』
葵から返事が遅れた。
『わかりました』
不満。寂しさ。それでも、今すぐ大阪へ来るとは決めない。
*
真尋は、葵との予定がなくなった日曜日を空白にするか迷った。
俊介へ連絡すれば、会える。母も。仕事もできる。空いた時間。誰かで埋める。
だが、葵が仕事で会えなくなった分を、別の関係へ渡すようで抵抗がある。
逆に、一人で過ごすことを葵への忠誠のように扱うのも違う。
真尋は俊介へ送った。
『日曜日の予定がなくなりました』
俊介から。
『会いますか』
真尋は考えた。
『午前だけ。午後は一人で過ごします』
『わかりました』
*
土曜日も俊介と会う。日曜日の午前も。会う回数を増やす。
葵の代わりではない。俊介と過ごしたいから。
真尋は、自分へ言い聞かせるだけではなく、俊介にも伝えた。
『葵との予定がなくなったから会うのではありません』
俊介から。
『完全には切り分けられないと思います』
真尋は画面を見た。
『はい』
『予定が空かなければ、会わなかった。でも、空いた時に僕と会いたいと思った。それで十分です』
*
日曜日の朝、俊介と市場へ買い物へ行った。野菜。魚。果物。
二人で新しい家を探す話は止まっている。今の生活を三か月試す。それから。
買ったものを俊介の部屋へ持ち帰り、昼食を作る。
真尋は午後二時に自分の部屋へ戻る。俊介は寂しいと言う。それでも、止めない。
「午後、何をしますか」
「洗濯。大阪へ持っていく荷物の整理。休みます」
「僕も、一人で映画を見ます」
「はい」
*
自分の東京の部屋へ戻る。静か。
予定表には、葵との予定が取り消し線で残っている。削除しない。
会えなかった日。関係の空白ではない。
葵は工場で、自分の仕事をしている。真尋は、自分の部屋で生活する。
*
夕方、葵から写真が届いた。製造ライン。試作品。文字はない。
真尋は返信した。
『見ています』
すぐに。
『今、終わった』
『お疲れさまでした』
『甘い味、量産できた。塩も少し残った』
『はい』
『会いたかった』
『私もです』
『真尋、今日は?』
『俊介と昼食。その後、自分の部屋です』
既読。少し間。
『寂しい。でも、私が会えなかった。俊介さんに会ったの、嫌。でも、真尋の生活』
『はい』
『次に会うまで、仕事する』
『私も』
*
東京勤務十一日目、真尋は大阪へ戻る準備をした。
自分の部屋。俊介の部屋。二か所から荷物を集める。
ジャケット。資料。化粧品。薬。充電器。
俊介の部屋へ置いた靴は、そのまま。大阪へ持っていく必要がない。
三つの鍵。布のケース。鞄へ入れる。
*
新幹線の出発前、俊介が駅へ来た。平日の朝。仕事前。十五分。
「見送りだけ」
俊介が言った。
「次は十二日後。途中、東京出張は?」
「ありません」
「電話は?」
「水曜日と日曜日。忙しければ変更」
「はい」
「会いたくなったら」
「言います」
「僕も」
*
「真尋。東京勤務、どうでした?」
真尋は考えた。
「疲れました。俊介を傷つけました」
「僕も、真尋を責めました」
「葵には会えませんでした。仕事は進みました。自分の部屋も必要でした」
「僕の部屋は?」
「帰る場所でした」
俊介の表情が柔らかくなった。
「自分の家?」
「まだ、完全には。でも、以前より」
「よかったです」
*
新幹線の改札前。抱きしめた。人が多い。短く。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
*
大阪へ向かう車内、真尋は眠った。
パソコンを開く予定だった。だが、体が動かない。
二拠点生活。移動時間を仕事へ使えば効率的。そう考えていた。実際には、ただ眠る時間になる。
それでいい。休むことも、制度を続けるために必要。
*
新大阪へ着く。真尋は大阪の鍵をケースから取り出した。
会社へ直行せず、部屋へ荷物を置く。玄関。鍵。扉。
「ただいま」
誰もいない。それでも、大阪へ戻った。
部屋の空気。冷蔵庫。郵便。白い花瓶は空。葵が選んだコデマリは、すでにない。俊介が前回置いた本が一冊。
東京の十一日間で使わなかった食材は、冷凍庫。冷蔵庫の野菜は、出発前に使い切った。空に近い。
今夜、買い物へ行く。
*
会社へ着く。山岸が真尋を見た。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
森田も。
「東京は?」
「疲れました」
「顔に出ています。今日は帰ってください」
「会議が」
「三時の一件だけ。残りは、こちらで」
真尋は予定表を見る。
自分がいない間に、会議の数が減っている。報告資料も整理されている。山岸と森田が進めた。
真尋は、戻った初日にすべて確認したい気持ちを抑えた。
「お願いします」
*
午後三時の会議。山岸が進行。真尋は部長として参加する。
自分が戻ったからと、進行を取り返さない。
議題。店舗運用。人員。予算。山岸が意見をまとめる。森田が地域差を説明。
真尋へ最終判断が求められたのは一件だけ。決める。会議終了。
「どうでした?」
山岸が尋ねた。
「何が?」
「戻ってきて」
「私がいなくても進んでいました。寂しいです。でも、助かりました。東京で仕事ができました」
山岸が笑った。
「二拠点、続けられそうですか」
「まだ一往復です。生活は、かなり大変です。仕事だけでは判断できません」
「俊介さん? 葵さん? 自分の部屋?」
「はい」
「多いですね」
「はい」
*
午後五時半、真尋は会社を出た。
商店街。津田の花屋。店先には、黄色い花。
「お帰り」
津田が言った。
「ただいま」
「東京、長かったね」
「十一日です」
「顔、疲れてる。花、買う?」
「今日は」
真尋は店先を見た。何も選ぶ気力がない。
「買いません」
「そういう日もある」
「はい」
「部屋、空?」
「花瓶は」
「なら、空でいい」
*
商店街で食材を買った。野菜。卵。豆腐。魚。
大阪の冷蔵庫を再び満たす。東京へ行く前に使い切り、戻ったら買い直す。
生活を毎月始め直す。
部屋へ戻る。料理。食事。洗濯。荷物。
三つの鍵をテーブルへ置いた。布のケース。大阪。東京の自室。俊介の家。全部、ここにある。
大阪にいる時、東京の鍵は使わない。それでも持っている。
*
午後九時、葵から電話。予定していなかった。
「もしもし」
『大阪へ着いた? 疲れてる?』
「かなり」
『十分だけ』
「はい」
『今度の大阪。泊まる話』
真尋は少し姿勢を正す。
「はい」
『今じゃなくていい。でも、忘れないで』
「忘れていません」
『俊介さんは?』
「話し合っています」
『嫌って』
「はい」
「葵」
『何?』
「次に大阪へ来ることを、俊介の許可だけで決めるつもりはありません。でも、結婚した生活へ影響することは話します」
『うん』
「葵が泊まりたいことも。私も泊まってほしいことも。俊介が嫌だと感じることも。全部を一度に解決できません」
『わかってる』
*
『真尋。三つの部屋、疲れる?』
「はい」
『やめたい?』
「今は」
真尋は鍵を見た。
「まだ、やめたくありません」
『俊介さんの家、一つにしたら楽。大阪と二つ。でも、自分の部屋も。私の歯ブラシがある』
「未開封です。それが理由ではありません」
『わかってる』
「私自身の部屋です。葵が来る場所でも、俊介から逃げる場所でもなく、自分へ戻る場所」
『うん』
*
『でも、いつかなくす?』
「可能性はあります」
『その時、私の場所が減る?』
「東京の部屋が、私たちの場所のすべてではありません。大阪にも。街にも。会うたび、作ります」
『はい』
葵の声が柔らかくなる。
*
「葵の仕事は?」
真尋が尋ねた。
『試作、次の段階。甘い味。私が選んだ塩は、隠れるくらい。でも、食べると最後に少し残る』
「はい」
『それでいいと思った。全部通らなくても、中心は残る』
「はい」
『今度、持っていく』
「大阪へ?」
『はい』
「東京で会う時でも」
『大阪で食べたい。真尋の部屋で』
「わかりました」
*
電話は十五分になった。
『十分って言った。ごめん』
「謝らなくていいです」
『寝て』
「はい」
『お帰り』
葵が言った。東京から。大阪へ戻った真尋へ。
「ただいま」
真尋が答えた。
*
電話を切り、真尋は生活ノートを開いた。
『二拠点生活、最初の一往復』
『東京へ戻っても、俊介へすぐ会わなかった』
『俊介は、選ばれなかった日を数えると話した』
『私は、どこへ帰るかを自分で選びたいと話した』
『解決していない』
『三つの鍵を一つのケースへ入れた』
『山岸は、私の承認なしに判断した』
『葵とは会えなかった』
『会えない予定を、俊介との時間へ変えた』
『誰かの代わりではないと、二人で確認した』
『大阪へ戻り、ただいまと言った』
最後に。
『生活は、約束より乱れる』
『疲れれば、優しく話せない』
『忘れ物をする』
『予定が合わない』
『誰かを寂しくさせる』
『自分も寂しい』
『それでも、次の形を決める』
*
二拠点生活は、すべてを手に入れる方法ではなかった。どの場所にも、十分にはいられない。
東京へ戻れば、大阪の判断を見られない。大阪へ戻れば、俊介と別れる。葵とは、どちらの街にいても予定が合わない時がある。自分の部屋へ帰れば、俊介が寂しい。俊介の部屋へ行けば、一人の時間が減る。
何かを選ぶたび、別の何かを選ばない。
以前の真尋なら、すべてへ応えようとした。
大阪の会議へオンライン参加。東京では俊介と毎晩会う。葵との電話も予定通り。母にも。仕事も。一人の時間を削る。
疲れる。そして、誰かへ苛立つ。自分が選んだのに、
『あなたのために』
と言いたくなる。
今は、できないことを言う。
会えない。疲れた。一人でいたい。寂しい。会いたい。予定を変えてほしい。変えられない。
言葉にする。
誰も傷つけない方法はない。だが、傷ついたことを隠し、後から相手のせいにすることは減らせる。
*
翌朝、真尋は大阪の部屋で目を覚ました。
東京勤務前と同じ天井。同じ窓。違う自分。
俊介の夫である自分ではない。妻である自分。部長。葵の大切な人。母の娘。一人。
どれか一つへ戻るのではない。すべてを持ったまま、この部屋で朝を迎える。
台所へ行った。昨夜買ったパン。卵。コーヒー。朝食を作る。
スマートフォンには、俊介から。
『おはようございます』
葵から。
『今日、味の最終確認』
山岸から。
『九時の会議、予定通りです』
母からは何もない。それぞれの生活。
真尋は返信した。
俊介へ。
『おはようございます。大阪の朝です』
葵へ。
『行ってらっしゃい。決めた後、聞かせてください』
山岸へ。
『承知しました』
短い。全部へ同じ熱量では返さない。今できる言葉。
*
朝食を終え、三つの鍵を布のケースへ入れる。
今日は大阪の鍵だけを使う。それでも、ほかの二つも鞄の中。
持ち歩かなくてもよいかもしれない。だが今は、一緒に持つことを選んだ。
玄関。
「行ってきます」
誰もいない部屋へ言う。扉を閉める。
商店街。会社。山岸。森田。今日の仕事。
*
三つの鍵は、三つの同じ場所を意味していない。
大阪には仕事と、一人の生活。東京の自分の部屋には、何者でもなく戻る時間。俊介の家には、夫婦として作り始めた暮らし。
どれかが本物で、ほかが仮ではない。どれも不完全。どれも今の真尋の生活。
そして、鍵のない場所もある。
葵との場所。母との時間。職場で人へ任せた仕事。
鍵を持てば入れるわけではない。そのたび相手へ声をかける。会いたいと言う。今、話せるか尋ねる。
扉が開く時も。開かない時もある。
それでも、自分の足で次の日を生きる。
*
真尋は会社の建物へ入った。山岸が先に来ている。
「おはようございます」
「おはようございます」
「今日は、大阪の部長ですね」
山岸が言った。
「東京でも部長です」
「はい。でも、顔が、少し戻りました」
「何に?」
「こちらの生活へ」
真尋の口元が緩んだ。
「また十二日後には、東京です」
「はい。その時まで、全部を水口さんがやらないでください。戻ってきた分を取り返そうとしない」
「わかっています」
「本当に?」
「努力します」
*
真尋は部長席へ座った。
机の上には、判断が必要な書類が三件。報告が五件。
山岸が決めた案件。森田が進めた調整。自分がいない時間の記録。
すべてを取り戻すのではなく、必要なところから読む。
窓の外。大阪の朝。
東京には俊介。葵。母。自分の部屋。遠い。だが、失われてはいない。
真尋は最初の書類を開いた。
今日いる場所で、今日の仕事をする。次に東京へ戻るまで。戻った時には、また変わった生活を知り直す。
*
どの鍵を使う日も、ほかの場所が消えるわけではない。
ただ、すべての扉を同時には開けられない。
真尋は、その不自由さを受け入れ始めていた。
全部を持つとは、全部へいつでも入れることではない。
入れない時間を引き受けながら、それでも戻りたい場所を失わないよう、話し続けることだった。




