第三十八章 二つの部屋のあいだ
婚姻届へ最初に文字を書いたのは、俊介だった。
日曜日の午後。東京の自分の部屋。窓の外では、雨が細く降っていた。
真尋は向かいの椅子へ座り、白い用紙を見ている。
夫になる人。妻になる人。住所。本籍。父母。続き柄。同居を始めたとき。証人。
紙の上では、二人の関係をいくつかの欄へ分けられる。
名前を書く。生年月日を書く。住所を書く。それだけで、夫婦として登録される。
だが、ここへ来るまでに二人が話したことは、どの欄にも収まらない。
大阪と東京。同じ家へ毎日帰らないこと。真尋が一人で過ごす部屋を残すこと。俊介が東京の仕事を続けること。子どもを持つことを、今は約束しないこと。友人との関係。母。葵。
結婚しても、それぞれの生活を消さないこと。
婚姻届には、そのどれも書かれない。
*
「先に書きます」
俊介が言った。
「はい」
「僕の名字を変える欄も、確認しました」
「本当に、私の名字へ?」
「はい」
「後悔しませんか」
「手続きは大変だと思います。仕事では旧姓を使えるよう、会社へ確認しました。公的な書類は、水口になります」
俊介は吹き出した。
「水口俊介」
声に出す。真尋は、まだ耳へ馴染まない名前を聞いた。
「変ですか」
「変ではありません。でも、慣れない」
「僕もです」
*
名字については、何度も話した。
真尋は、今の名前を変えたくない。部長として仕事を始めたばかり。名刺。契約。社内外の関係。
それだけではない。
水口真尋という名前で、自分の人生を作ってきた。父との関係が完全に良かったわけではない。それでも、今は父から与えられた名字ではなく、自分が使い続けた名前になっている。
俊介は、その気持ちを受け取った。
『なら、僕が変えます』
最初は、簡単に言いすぎていると思った。
だが俊介は、会社へ確認し、銀行や免許証の手続きを調べ、必要な書類を一覧にした。面倒。時間。周囲からの質問。
それらを知った上で、
『僕が選びます』
と答えた。
真尋は何度も、
「私のために」
と言いかけた。そのたび俊介は、
『僕の選択です』
と言った。
*
俊介が黒いペンを持った。氏名。生年月日。住所。本籍。書き進める。真尋は見ている。
「緊張します」
俊介が言った。
「間違えないでください」
「そこですか」
「書き直しになるので」
二人の間に短い笑いが起きた。
*
俊介が書き終え、ペンを真尋へ差し出した。
「どうぞ」
真尋は受け取った。
自分の欄。水口真尋。書き慣れた名前。結婚後も変わらない。
それでも、この紙へ書く水口真尋は、これまでとは少し違う。
誰かの妻になる。その言葉は、今も完全には馴染まない。
妻。夫。家族。
真尋はペンを止めた。
「大丈夫ですか」
俊介が尋ねた。
「はい」
「やめますか」
真尋は俊介を見た。
「今、止めても?」
「はい」
「怒りませんか」
「悲しいです。でも、止めません。真尋が、自分で書ける時に」
俊介は紙へ手を伸ばさない。急かさない。
真尋は一度、息を整えた。
名前を書く。生年月日。住所。本籍。ペン先が紙の上を進んだ。
*
「同居を始めたとき」
欄の前で、二人はまた止まった。
「始めていません」
真尋が言った。
「はい」
「この欄、どうしますか」
「結婚式を挙げた日か、同居を始めた日」
「どちらもありません」
「空欄でよいようです」
「私たちらしいですね」
「空欄が?」
「同じ家へ住み始めた日がない夫婦」
俊介は笑い、寂しそうにした。
「将来、あります。東京で二人の家を作る日」
「はい」
「その日が、遅れて来る」
「はい」
*
証人欄は、互いの母に頼むことへ決めていた。俊介の父は亡くなっている。真尋の父も。
二人の母が、一人ずつ署名する。
先週、真尋は母へ婚姻届を持っていった。母は紙を見た後、すぐには書かなかった。
『本当に決めたの?』
「はい」
『大阪は?』
「続けます」
『同居しないの?』
「東京へ戻る間は、一緒に過ごす日を増やします」
『でも、毎日じゃない。結婚する意味、ある?』
母の問いには、責める響きはなかった。理解できないという正直さ。
「同じ家へ毎日帰るためだけではありません。病気。お金。親。将来。一緒に責任を持ちたいです」
『でも、一人の部屋は残す。葵ちゃんとも会う。仕事も続ける』
「はい」
『俊介さんは、それでいいの?』
「話しました」
『我慢してない?』
「しています」
『え?』
「私もです。我慢がない関係ではありません。でも、相手のせいにしないよう話しています」
母は長く婚姻届を見た。その後、ペンを取った。
『私には、まだわからない。でも、真尋が考えて決めたことはわかる』
「ありがとうございます」
『家族だからって、自分を後回しにしないでね』
母が書いた名前の横に、少しだけインクが滲んだ。
*
俊介の母は、息子が名字を変えると聞いた時、驚いた。
『そこまでしなくても』
電話の向こう。
『真尋さんが変えてもいいでしょう』
「真尋は、今の名字を仕事でも生活でも大切にしています」
『あなたは大切じゃないの?』
「大切です」
『なら』
「僕が変えると決めました」
『向こうへ入るみたい』
「結婚です」
『でも、うちの名前が』
俊介は、その言葉に少し傷ついた。
自分の名字。父。母。家。変えることで、過去がなくなるわけではない。
それでも母にとって、名字は家族のつながりだった。
『お父さんが生きていたら、何て言うか』
「わかりません」
『私は、少し寂しい。真尋さんに変えろとは言わない。でも、すぐには喜べない』
「わかりました」
俊介は、母へ理解を迫らなかった。
数日後、母から連絡が来た。
『証人欄、書きます』
「ありがとうございます」
『名字が変わっても、私の息子でしょう。でも、書く時は少し泣くと思う。見ないで』
俊介は母の家へ行き、別の部屋で待った。
戻された婚姻届の証人欄には、丁寧な字で母の名前が書かれていた。
*
今、四人分の署名がそろっている。あとは提出日。
「いつにしますか」
俊介が尋ねた。
「二拠点生活の開始日より前? 後?」
「どちらがいいですか」
真尋は婚姻届を見た。
二拠点勤務開始は、三か月後。それまでは大阪常駐。月に数回、東京へ戻る。
結婚すれば、すぐに生活が変わるわけではない。俊介の名字。会社への届出。緊急連絡先。公的な関係。
だが、物理的な距離は残る。
「二拠点開始の日に近づけすぎたくありません」
真尋が言う。
「なぜ?」
「仕事の制度と、結婚を一つにしたくない。結婚したから二拠点になったのではありません。二拠点のために結婚するのでも」
俊介は頷いた。
「では、その前。来月?」
「はい」
「真尋が東京へ戻る週末」
予定表を見た。母。葵。仕事。俊介。
何も入っていない土曜日が一日ある。
「この日」
俊介が指した。
「午前に提出。その後は? 特別なことをしますか」
「一緒に昼食」
「夜は?」
「同じ部屋で過ごします。翌日は、自分の部屋へ戻るかもしれません」
俊介は一瞬、寂しそうな顔をした。
「婚姻届を出した翌日に? 夫婦になった最初の日曜日。一緒にいたいです」
「はい」
「希望です。真尋は?」
真尋は考えた。
婚姻届を出した翌日、一人へ戻りたくなる可能性がある。家族になったことを、自分の部屋で考えたい。
だが、俊介は一緒に過ごしたい。どちらも正しい。
「午前は一緒に。午後、決めます」
「その日の気持ちで?」
「はい」
「わかりました」
「嫌ですか」
「少し。でも、今から一日中一緒だと決めて、真尋が苦しくなるよりいいです」
「ありがとうございます」
*
婚姻届へ提出予定日を小さく付箋で貼った。まだ提出していない。だが、日付は決まった。
俊介が封筒へ戻した。
「今度は、見えるところへ置きますか」
「いいえ」
「まだ?」
「提出する朝まで、引き出しへ」
結婚を日常の中央へ置きすぎない。
仕事。食事。睡眠。友人。母。それらと並ぶ一つの決定。
大きい。しかし、人生のすべてではない。
*
話を終えた後、真尋は葵へ連絡する前に、一人で外へ出た。
俊介の部屋から、自分の東京の部屋まで歩ける距離ではない。駅までの道。雨は止んでいる。濡れた道路。傘を持つ人。
婚姻届へ名前を書いた。提出日を決めた。
葵へ話す。秋田で決めた約束。大きな選択を、決める前に話す。
結婚する方向であることは、すでに伝えた。日付を決める前にも話すべきだったか。それとも、これは俊介と二人で決めることか。
真尋は歩きながら考えた。
葵に許可を求める必要はない。同意も。だが、決めた後に知ることで傷つく可能性がある。
今、日付は決まった。完全に提出した後ではない。まだ話せる。
真尋は駅前のベンチへ座り、メッセージを送った。
『俊介と、婚姻届の提出日を決めました』
すぐに既読はつかない。葵は仕事。全国展開の次の企画。責任者候補研修。
真尋は待った。
*
既読がついたのは、四十分後だった。
『いつ?』
真尋は日付を送る。
『来月』
『はい』
『土曜日』
『はい』
『私、その日』
少し間。
『仕事です』
真尋は、予定表を開いた。
葵の次の商品企画の社内発表日。以前聞いた。同じ日だった。
『覚えてた?』
真尋は正直に送る。
『日付を見た時には、気づきませんでした』
既読。返事が来ない。
胸が痛む。
葵にとって大切な日。責任者候補として、初めて新商品案を経営層へ説明する。真尋は聞いていた。
だが、婚姻届の日を決める時、予定表の色だけを見ていた。葵の予定を、自分の生活の中で同じ重さへ置いていなかった。
それは当然でもある。結婚の日程を、葵の仕事に合わせる必要はない。
だが、覚えていなかったことは別。
*
十分後。
『その日、変えてほしいって言ったら?』
真尋は画面を見た。すぐに答えない。
婚姻届を出す日は、別の日でもよい。意味のある記念日ではない。二人の予定が合う日。
葵の発表を理由に変えるか。それは、葵を優先することか。俊介との決定を軽く扱うことか。
真尋は電話をかけた。
*
「もしもし」
『はい』
葵の声は硬い。
「今、話せますか」
『十五分。変えてって言ったら?』
「理由を聞きます」
『私の発表。その日に、真尋が結婚したら、私は、発表のことを真尋に話せなくなる気がする』
「なぜ?」
『真尋の日のほうが大きいから。婚姻届。私の新商品案より。真尋は俊介さんといる』
「はい」
『私が成功しても、失敗しても、その日は、話せない。後で聞くって言われる。わかってる』
葵の声が震える。
『でも、嫌』
*
「葵は、その日に会ってほしいですか」
真尋が尋ねた。
『会えない』
「仕事の後?」
『夜まで会食。電話も難しい。でも、結婚した日と同じにしたくない』
「なぜ?」
『私の大切な日が、ずっと真尋の結婚記念日になるから』
真尋は息を止めた。
自分の提出日。葵の初めての発表。同じ日。
毎年、真尋は俊介との結婚を思う。葵は、自分が新しい仕事へ踏み出した日を思う。
二つが重なる。本来、どちらかが小さくなる必要はない。
だが葵の中では、真尋の結婚が大きく覆いかぶさる。
*
「俊介と話します」
真尋が言った。
『変える?』
「今、約束はできません。俊介にとっても大切な決定です」
『わかってる。私の予定で、結婚の日を変えるのはおかしい』
「おかしいとは思いません」
『でも、嫌。私が一番みたいになる。そうしたい気持ちもある。でも、それで変えたら、後で苦しい』
「はい」
『真尋が決めて』
「わかりました」
*
電話を切る。真尋は俊介の部屋へ戻った。俊介は台所で夕食の準備をしている。
「葵さんへ話しました? どうでした?」
「日付を変えてほしいと」
俊介の手が止まった。
「なぜ?」
真尋は説明した。葵の新商品発表。同じ日。大切な日が結婚記念日へ隠れるように感じること。
俊介は黙って聞いた。
「真尋は、変えたいですか」
「迷っています。提出日は、ほかの日でもよい。俊介は?」
「正直に言うと、変えたくありません」
「なぜ?」
「僕たちで決めたからです。葵さんの仕事を軽く見ているわけではない。でも、僕たちの結婚日を、葵さんの予定で動かすのは」
俊介は言葉を探す。
「僕たちの決定に、葵さんが入るように感じます」
「はい」
「真尋と葵さんの約束は理解しています。大きな選択を話す。でも、日付を決める権利まで共有しているわけではない」
真尋は頷いた。正しい。葵も、それをわかっている。
*
「ただ」
俊介が続ける。
「その日でなければならない理由もありません。僕が変えたくないのは、葵さんへ譲ったように感じるからです。それも、僕の嫉妬です」
「はい」
「結婚前から、葵さんの予定へ僕たちが合わせるのかと思う。でも、真尋が忘れていたことを気にしているなら、話は別です」
*
「私は」
真尋は椅子へ座った。
「日付を決める時、葵の発表を忘れていました。覚えていたら、最初から別の日を選んだかもしれません」
「はい」
「葵を最優先にするためではなく、二つの大切な日を、無意識に重ねたくなかった」
「はい」
「でも、今変えると、葵が求めたからに見える。俊介を傷つける。葵も、自分のせいだと思う」
「はい」
*
俊介はしばらく考えた。
「次の週は?」
「私が大阪です」
「その次」
「真尋の母との予定」
「午後だけ。午前に出せます」
「日曜日?」
「区役所の休日窓口」
「では、翌週の日曜日」
俊介は予定表を見た。
「僕は空いています」
「私も」
「変えますか」
「いいですか」
俊介は寂しそうに笑った。
「葵さんのためではなく、僕たちが、二つの大切な日を重ねないと決めたことにします。それなら、僕も選べます」
「ありがとうございます」
*
「でも」
俊介が言った。
「葵さんへは、僕が譲ったとは言わないでください。真尋と僕で決めた。そして、今後、葵さんの予定をすべて確認して日程を決めることはしない。それも伝えてください」
「わかりました」
*
真尋は葵へメッセージを送った。
『提出日を一週間後の日曜日へ変更しました』
既読。
『私のため?』
『葵の希望だけで決めたのではありません。俊介と話し、二つの大切な日を同じ日にしないことを、二人で選びました』
返事が来ない。
『ただし、今後、私たちの予定を決めるたびに葵の予定を確認することはしません。結婚に関する日程は、私と俊介で決めます』
既読。しばらくして。
『わかりました』
それだけ。
*
夜、葵から電話がかかってきた。
「もしもし」
『ありがとう。でも、少し苦しい』
「なぜ?」
『変えてもらったから。俊介さんに嫌われる』
「嫌われてはいません」
『怒ってる?』
「嫉妬はしています。でも、俊介も決めました。葵が奪ったのではありません。私が忘れていたことも含めて、二人で考えました」
『うん』
*
『真尋。私、変えてって言ってよかった?』
「希望を言うことは。でも、毎回通るとは限りません」
『うん』
「今回は、変えました。次は、変えないかもしれません。葵が傷ついても」
『うん』
「それで関係を終わりにしない」
『はい。私も、自分の仕事の日を大切にする。真尋の結婚より小さくしない。でも、結婚の日も、おめでとうって言えるように』
葵は途中で言葉を止める。
『まだ、練習する』
「練習は必要ありません」
『でも』
「その日に言えなければ、後でも。言えなくても、関係は続けられます。ただ、結婚を否定し続けないでください」
『わかっています』
*
葵の新商品企画発表の日。朝から雨だった。真尋は大阪。俊介は東京。婚姻届は、一週間後。
葵は会社の大きな会議室へ入った。
責任者候補研修の一環として、自分が企画した新商品の提案をする。
前の商品と同じ言葉を繰り返さない。全国発売の成功へ寄りかからない。
自分が今見ているもの。会えない日。誰かに見てもらえない努力。それでも、自分の生活を続ける人。
葵は、その経験をそのまま商品へすることを避けた。痛みを簡単な物語にしない。何度も考えた。
出した企画は、小さな朝食商品だった。
忙しい朝。誰にも見られずに起きる。自分のために一つ食べる。
言葉は、
『今日を始めた、それだけで。』
頑張れ。前へ進め。乗り越えろ。言わない。
起きた。食べた。今日を始めた。その事実だけを置く。
*
経営層。南雲。石橋。開発。営業。
葵は前へ立ち、資料を映した。
「この商品は、努力を評価するものではありません」
話し始める。
「成果が出た日だけでなく」
画面。朝。台所。小さな商品。
「誰にも見られていない日にも、自分の生活を始めた人へ向けます」
質問。
「前の商品と近くないですか」
「休息と開始の違いがあります。前の商品は、迷う人へ立ち止まる時間を渡しました。今回は、何かを成し遂げる前の朝です」
「はい」
「今日を始めたという事実だけを扱います」
「売れる根拠は?」
営業から。
「朝食市場のデータ」
葵は数字を示す。単身。在宅勤務。育児。介護。早朝勤務。
「感情だけではありません」
「味は?」
開発。
「軽い甘さと、少量の塩味。朝に重くない」
「価格は?」
質問。葵は答えた。すべてを一人で。
答えられないことは、
「持ち帰ります」
と言う。
南雲は後ろで見ている。助けない。
*
発表が終わった。質問。修正条件。試作品開発へ進める。
正式決定ではない。それでも、次の段階。責任者候補として、葵が進行を続ける。
会議室を出た後、石橋が言った。
「どうだった」
「怖かった。でも、最後まで話せた。前の商品へ似てると言われた」
「似てる」
「はい。でも、違いを説明した」
「通った?」
「試作へ」
「それで十分」
*
葵は真尋へ連絡した。
『発表、終わりました』
真尋からすぐに返事。
『どうでしたか』
『試作へ進みます』
『おめでとうございます』
『責任者候補として、進行を続けます。今日を始めた、それだけで。』
真尋から少し間。
『新しい言葉ですか』
『はい』
『会った時に聞かせてください』
『はい』
葵は、胸の中の小さな寂しさを感じる。真尋は大阪。会えない。
それでも、今日は自分の仕事の日。婚姻届の日ではない。
真尋が変えてくれたから価値が生まれたのではない。自分が発表したから、大切な日になった。
*
一週間後の日曜日。真尋と俊介は、午前九時に区役所の休日窓口へ向かった。
空は晴れている。特別な服ではない。真尋は紺色のワンピース。俊介はジャケット。
指輪はまだない。結婚式の予定も。写真館も。花束も。
婚姻届を入れた封筒。必要書類。本人確認。事前に何度も確認した。
区役所の前。俊介が言う。
「緊張しています。真尋は?」
「はい」
「やめますか」
以前と同じ問い。
「やめません」
二人は中へ入った。
*
休日窓口。数組の人。赤ん坊を抱く夫婦。若い二人。年配の男女。それぞれの事情。
番号札。待つ。真尋は婚姻届を膝の上へ置いた。
「提出したら」
俊介が言う。
「水口俊介です。不思議です」
「私も」
「真尋は変わらない」
「公的な名前は。でも、変わります」
「はい」
*
番号を呼ばれた。窓口。書類を渡す。
職員が確認する。住所。本籍。証人。署名。
一か所、俊介の文字が少し読みにくい。
「こちら、訂正を」
婚姻届の日にも、修正がある。俊介が小さく息を吐いた。
「間違えないでと言われたのに」
真尋が隣で言った。職員が笑う。
訂正。印。再確認。
「受理の審査は後日になりますが、本日付でお預かりします。おめでとうございます」
職員の言葉。二人は頭を下げた。
*
区役所を出た。同じ街。空。車。人。世界は変わっていない。
「夫婦になりました」
俊介が言った。
「審査は後日です」
「でも、今日付。真尋」
「何ですか」
「結婚してくれて、ありがとうございます」
真尋は困った。
「私も選びました。お礼だけにしないでください」
「はい。でも」
俊介は思わず笑った。
「一緒に選んでくださり、ありがとうございます」
「こちらこそ」
*
昼食は、以前二人で行った小さな洋食店。予約はしていない。少し待つ。
夫婦になった最初の食事。ハンバーグ。スープ。サラダ。特別ではない。
俊介が何度も、
「妻」
と言いかける。
「やめてください」
「なぜ?」
「まだ慣れません」
「僕も、夫と呼ばれたい」
「俊介で」
「はい」
*
食事の途中、真尋のスマートフォンが震えた。母。
『おめでとう。提出できた?』
『はい』
俊介のスマートフォンにも、俊介の母から。
『名前、変わったのね。おめでとう』
短い。俊介は画面を見て、少し涙ぐむ。
「大丈夫ですか」
「はい」
*
葵からの連絡はない。日付は伝えている。今日。知っている。
真尋は待った。おめでとうを求めない。
午前中。午後。夕方。俊介と散歩。部屋へ戻る。
婚姻届を出した後の空の封筒。引き出し。婚姻届はもうない。
紙が手元からなくなる。関係は、書類の中ではなく、公的な記録へ移る。
*
午後五時。真尋は自分の東京の部屋へ戻るか決めた。
俊介は何も言わない。希望は、朝に伝えた。一緒にいたい。
真尋は自分の体へ聞いた。疲れている。一人になりたい気持ちもある。
だが、今日は俊介の部屋で過ごしたい。
「泊まります」
真尋が言った。俊介の表情が明るくなる。
「でも、午後七時から一時間、一人で過ごします」
「この部屋で?」
「はい」
「僕は?」
「外へ出なくていいです。別の部屋」
「わかりました」
*
同じ家にいて、別々に過ごす。俊介はリビング。真尋は寝室。扉を閉めた。
結婚した日。一人。
真尋はベッドへ座った。
水口真尋。変わらない名前。水口俊介。変わった名前。夫婦。
怖い。嬉しい。
葵。母。大阪。部長。すべてが同じ日に消えるわけではない。
結婚したから、すぐに妻らしくなる必要も。家族だから、俊介だけを考える必要も。
それでも、責任が増えた。今日から。
*
スマートフォンが震える。午後七時十二分。葵。
『提出した?』
真尋は返信した。
『はい』
既読。少し間。
『おめでとう』
短い言葉。真尋の目に涙が浮かぶ。
『ありがとうございます』
それだけでは足りない気がする。だが、何を返せばよいかわからない。
葵から続く。
『まだ少し嫌』
『はい』
『でも、真尋が選んだこと。俊介さんと。二人で生活を作って』
真尋は画面を見た。
『はい』
『私の場所も、なくさないで』
胸が痛む。真尋は慎重に返した。
『なくさないと、一人で約束はできません』
既読。返事が遅れる。真尋は続けた。
『二人で続けることを選びたいです』
葵から。
『はい。私も選ぶ』
*
『今日、会いたい?』
葵が送った。真尋は考える。
『会いたいです』
『でも、俊介さんといる』
『はい』
『電話は?』
『今、一人で過ごす時間です。十分なら』
葵から少し間。
『今日はメッセージでいい』
『はい』
『真尋』
『何ですか』
『おめでとう』
二度目。今度は、少し届き方が違う。
『ありがとうございます、葵』
*
午後八時。真尋は寝室の扉を開けた。俊介はリビングで本を読んでいる。
「終わりました? 葵さんから?」
「おめでとうと」
俊介の表情が緩む。
「よかったです」
「まだ嫌だとも」
「はい」
「それでも」
「聞けてよかったです」
*
二人で夕食を作った。昼食が遅かったので、軽いもの。お茶漬け。漬物。
結婚した日の夜。
「普通ですね」
俊介が言った。
「はい」
「もっと特別にする人も。私たちは?」
「今日を大きくしすぎない。でも、小さくもしない。覚えておく」
「はい」
*
夜。同じベッド。俊介が言う。
「おやすみなさい、真尋」
「おやすみなさい、俊介」
「妻とは呼びません」
「ありがとうございます」
「夫は?」
「俊介」
二人は声を立てて笑った。
*
翌朝、真尋は俊介より早く目を覚ました。
婚姻届を出した翌日。何も大きく変わっていない。俊介の寝息。カーテン。部屋。
真尋は静かに起きた。台所。コーヒー。スマートフォン。
会社からのメール。大阪の案件。葵からは何もない。母。俊介の母。
生活が続く。
*
俊介が起きてきた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「夫婦二日目」
「数えないでください」
「今日は?」
「午前は一緒に。午後、自分の部屋へ戻ります」
俊介の顔が曇った。
「寂しいですか」
「はい」
「止めますか」
「止めません。でも、今日帰ることを、結婚したから逃げると解釈しそうです」
「どうすれば?」
「今、話します」
「一人で、昨日のことを整理したいです。俊介から離れたいのではなく、自分の生活へ戻る時間が必要です。今夜、電話します。明日の朝、大阪へ」
「はい」
*
「真尋」
俊介が言った。
「僕も、午後に友人と会います」
「誰ですか」
「北川さんたち」
胸が痛む。
「結婚した翌日? 前から?」
「昨日、誘われました。真尋が自分の部屋へ戻るなら、僕も、自分の生活をします」
「はい」
「嫌ですか」
「少し」
真尋は正直に答える。
「でも、行ってください。写真は?」
「送ります」
二人は、自分の生活へ戻る。
*
午後、真尋は東京の自分の部屋へ帰った。
「ただいま」
夫婦になった後も、この部屋へ帰る。
洗面所。自分の歯ブラシ。俊介の歯ブラシ。葵の未開封のもの。三つの場所。
真尋は鞄を置き、窓を開けた。
生活ノート。
『婚姻届を提出した』
『俊介が水口姓を選んだ』
『同じ家へ毎日帰らない夫婦になった』
『結婚した翌日、自分の部屋へ戻った』
『俊介も友人へ会った』
『寂しかった』
『でも、互いの生活を止めなかった』
最後に。
『家族になっても、当然を作らない』
*
葵も、自宅でノートを開いていた。
『真尋が結婚した』
『おめでとうと言った』
『まだ嫌』
『でも、やめてとは言わなかった』
『真尋の場所をなくさないでと求めた』
『一人では約束できないと言われた』
『二人で続けることを選ぶ』
葵はペンを止めた。
真尋の結婚。終わりではない。同じでもない。
名前のない場所は、変わった。今はまだ、何が変わったかすべてわからない。
*
その夜、真尋と俊介は予定通り電話をした。
『北川さんたちは?』
「結婚祝いをしてくれました。写真、送ります」
『はい』
『真尋は?』
「一人で過ごしました。母と電話。葵とも短いメッセージ。少し眠りました」
『夫婦なのに、別々の夜。寂しいです』
「私も」
『でも、明日大阪。行ってらっしゃい』
「行ってきます」
*
翌朝、真尋は新幹線へ乗った。
婚姻届提出後、初めて大阪へ戻る。名字は変わらない。部長。水口真尋。
だが、会社への届出には、配偶者の欄が増える。緊急連絡先の最初に、俊介。次に母。
葵の名前は、会社の緊急連絡先には書かない。
それで大切さが小さいわけではない。役割が違う。
*
新幹線の中。俊介から。
『会社へ名字変更を出します。今日から、社内では旧姓のままです。公的には水口です』
『不思議です』
『僕も』
葵から。
『今日、大阪?』
『はい』
『行ってらっしゃい』
『行ってきます』
『今度、大阪へ行く時』
『はい』
『ただいまって言う』
『はい』
*
大阪へ到着。真尋は部屋へ戻る前に会社へ向かった。
山岸。森田。支社長。婚姻の届出は人事へ提出している。職場で大きく発表はしない。
だが山岸には、以前から話していた。
「おめでとうございます」
朝、山岸が言った。
「ありがとうございます」
「名字は?」
「変わりません」
「俊介さんが?」
「はい」
山岸は驚いた顔をし、それから笑った。
「では、水口さんが二人になったんですね」
「はい」
*
森田も、昼休みに言う。
「結婚、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「大阪は続ける?」
「はい」
「安心しました」
「私の結婚より、仕事ですか」
「仕事の人なので」
「はい」
*
真尋は部長席へ座った。
夫婦になっても、仕事は同じように始まる。決裁。会議。山岸の相談。森田の地域報告。
午後には、二拠点勤務の最終運用確認。東京滞在の日数。大阪での責任。緊急時。連絡経路。
会社は、真尋が結婚したことより、部長としての働き方を見る。それでいい。
二拠点開始まで、あと二か月。
山岸は大阪の現地運営を増やす。森田は地域間調整。真尋は東京本社との交渉を担当。
結婚。二拠点。葵の仕事。すべてが同時に進む。
*
数週間後、葵の新商品は試作品開発へ進んだ。
『今日を始めた、それだけで。』
味。量。朝。価格。
責任者候補として、葵が会議を進める。南雲は一歩後ろ。石橋は、必要な時だけ。
葵は自分で決める。
真尋へ話したいことが増える。だが、真尋も結婚後の手続きと二拠点準備で忙しい。
会う日が一度延期になる。今度は真尋ではなく、葵の仕事で。
『日曜日、会えなくなりました』
葵からメッセージ。
『試作品の追加会議ですか』
『はい』
『わかりました』
『ごめん』
『謝らなくていいです』
『埋め合わせ』
『しません』
『はい』
『次に会える日を』
二人は予定を確認した。三週間後。
『長い。真尋、寂しい?』
真尋は考え、正直に送る。
『寂しいです』
葵から。
『よかった』
『なぜ?』
『物わかりよくされなかった。でも、仕事へ行く』
『行ってらっしゃい』
*
三週間後、二人は東京のカフェで会った。
真尋は結婚後、初めて葵と直接会う。指輪はまだない。見た目は変わらない。
葵は最初、真尋の左手を見た。
「ない」
「指輪はまだ」
「買う?」
「検討中です」
「俊介さんと?」
「はい」
*
「結婚した真尋」
葵が言った。
「何か違いますか」
「まだわからない。私を見る時は同じ。でも、帰る場所が増えた。俊介さんの家。家族」
「はい」
「嫌。でも、前より言える。おめでとう」
二度目。直接。
「ありがとうございます」
真尋は頭を下げる。
「他人みたい」
「では」
真尋は葵を見た。
「ありがとう、葵」
葵の目が潤む。
*
「新商品」
真尋が言った。
「聞いて」
葵は資料を広げた。
『今日を始めた、それだけで。』
「どう思う?」
「葵らしいです」
「前の商品に似てる?」
「少し。でも、向いている時間が違う」
「うん」
「前は、止まる。今回は、始める。ただし、始めただけで十分だと」
「真尋に見てほしいと思って作ったわけじゃない。でも、見てほしい」
「見ています」
*
葵は、会議で決めたことを話した。味。朝。量。営業の反対。価格。責任者候補として、何を捨てたか。
「最初、二種類の味を残したかった。でも、予算で一つ。決めた」
「どちらを?」
「塩味」
「なぜ?」
「朝に甘すぎない。もう一つは、私が好きだった。でも、売る商品として選ばなかった」
「はい」
「南雲さんに、責任者は自分の好みを捨てる時もあるって。悔しかった。でも、決めた」
「よく頑張りました」
「今のは、仕事の評価?」
「葵を大切に思う人として」
「はい」
*
二人は三時間話した。
結婚。新商品。二拠点。大阪。俊介。山岸。森田。母。
すべて一度に同じ重さではない。話せるところから。
*
別れる前、葵が言った。
「真尋。結婚した日、私の発表と同じじゃなくてよかった。でも、変えてもらったこと、まだ少し申し訳ない。俊介さんに、ありがとうって言う?」
「必要ありません。言わないでください」
「わかりました」
「俊介が葵のために譲ったのではなく、私たちが、自分たちの結婚日を選び直した。葵は、自分の発表日を大切にしてください」
「はい」
*
「真尋の結婚記念日」
葵が言った。
「来年も、私は別の予定を入れていい?」
「もちろんです」
「会わなくても? 連絡だけ?」
「はい」
「おめでとう、言えなかったら?」
「はい」
「でも、多分言う」
「ありがとうございます」
*
駅。別れる。
「行ってきます」
葵が言った。
「行ってらっしゃい」
「真尋は、どこへ?」
「俊介の部屋へ」
胸が痛む。
「葵は?」
「自分の部屋。明日、仕事」
「はい」
「それぞれの家。名前のない場所は?」
「今日、ここにありました」
葵は笑った。
*
真尋は俊介の部屋へ向かう。葵は自分の部屋へ。
同じ駅から別々の電車。
誰かの家へ帰る人。一人の部屋へ帰る人。どちらも、自分の生活。
*
婚姻届を出したことで、真尋と俊介の不安は消えなかった。葵の寂しさも。俊介の嫉妬も。真尋の一人になりたい気持ちも。
何も消えていない。ただ、責任の名前が増えた。
夫婦。家族。その名前の中で、当然を作らずに話す。
葵の商品も、試作へ進んだから成功したわけではない。味が通らない可能性。価格。売上。責任者になれない可能性。
それでも、葵は自分で決める場へ進んだ。
真尋の二拠点生活も、間もなく始まる。
東京と大阪。俊介の家。自分の東京の部屋。大阪の部屋。三つの鍵。
どこへ帰るかを、毎日自分で選ぶ。誰かを選ばなかったことにはしない。その日の生活を選ぶ。
*
夜。俊介の部屋。
「お帰りなさい」
俊介が言った。
「ただいま」
「葵さんは?」
「新商品の話を」
「元気でしたか」
「はい」
「結婚については?」
「おめでとうと、直接」
俊介が安心した顔をした。
「よかったです」
「嫉妬しますか」
「します。でも、聞きます」
「はい」
*
真尋はコートを脱いだ。自分のカップ。自分の部屋着。少しずつ増えた物。
俊介の家が、自分の家へ近づいている。
それでも、明後日は大阪。次の東京滞在では、自分の部屋へ先に帰る。夫婦になっても。
*
葵は自宅へ戻る。
「ただいま」
新商品資料。全国発売版の商品。大阪の写真。真尋の結婚。自分の仕事。
すべてが同じ部屋にある。
葵はノートへ書いた。
『真尋が結婚した』
『私は、新商品の責任者候補として進んでいる』
『二つは、同じ大きさでなくてもいい』
『どちらかが、もう一方を消さなくていい』
『真尋の結婚記念日と、私の発表日は別の日になった』
『でも、どちらもそれぞれの生活の中にある』
*
真尋も、俊介が風呂へ入っている間にノートを開いた。
『婚姻届を出した』
『夫婦になった』
『翌日、自分の部屋へ戻った』
『葵から、おめでとうと言われた』
『葵の新商品発表と、提出日を分けた』
『誰かを優先したのではなく、重ねないことを選んだ』
『家族になっても、ほかの大切な日を小さくしない』
最後に、真尋は書いた。
『同じ家へ帰らない日にも、夫婦である』
その下へ。
『会えない日にも、葵との場所はなくならない』
『ただし、どちらも何もしなくても続くわけではない』
『話す』
『選ぶ』
『戻る』
*
俊介が戻ってきた。
「何を書いていました?」
「生活のこと」
「見ても?」
「今日は、見せません」
「はい」
俊介は、それ以上聞かない。
*
二人は照明を落とした。同じベッド。
明日は、それぞれ仕事。明後日、真尋は大阪。俊介は東京。葵も東京だが、会わない。
それぞれの予定。
同じ家へ帰る日。別の部屋へ帰る日。誰かへ会いたい日。会えない日。見てほしい日。一人で決める日。
すべてが、一つの関係だけへ集まらない。
*
真尋は目を閉じた。
隣に俊介。遠くに葵。大阪には、山岸や森田。母は自分の家。
誰も、真尋を待つために生活を止めてはいない。真尋も、誰かを待つだけではない。
*
二つの部屋のあいだ。三つの街のあいだ。名前のある関係と、名前のない場所のあいだ。
真尋は一つを選んで、ほかを消すのではなく。それぞれの違いを引き受けながら、生きることを選んだ。
簡単ではない。何度も傷つく。
それでも、決めた後にも迷ってよい。迷いながら、今日を始める。
真尋は俊介の寝息を聞きながら、静かに眠りへ入った。




