第三十七章 あなたの知らない街で
葵が大阪へ行くことを決めたのは、真尋と俊介が結婚に向けた準備を始めてから一か月ほど経った頃だった。
きっかけは、真尋から届いた一通のメッセージだった。
『来月、大阪で全国販売商品の地域別企画会議があるそうですね』
全国展開を始めた商品は、発売後も予測を少し上回る売上を保っていた。記録的なヒットではない。売れない店舗もある。地域による差も大きい。
それでも定番商品として継続できる可能性が高まり、葵は南雲とともに各地域の営業担当から意見を聞く役割を任されていた。
東京。名古屋。大阪。福岡。四地域で、小規模な会議と店舗視察を行う。大阪では一泊二日。
葵は出張予定が決まった時、すぐには真尋へ伝えなかった。
会社の予定が確定していなかったから。それだけではない。
真尋の暮らす大阪へ、自分が行ってよいのかわからなかった。
真尋は以前、東京から大阪へ移った。葵はその選択へ反対した。行ってほしくないと何度も言った。
真尋が大阪で新しい人間関係を作り、仕事を任され、部長になるまでの時間を、葵はほとんど東京から見ていた。
写真。電話。メッセージ。真尋の言葉。それだけ。
大阪の部屋。花屋。公園。商店街。山岸。森田。
葵にとって、それらは名前だけ知っている場所だった。真尋の生活を作っているのに、自分は触れたことがない。
行けば、何かを見てしまう。自分がいなくても完成している真尋の生活。
俊介だけではない。葵の知らない人たち。葵がいなくても真尋を支えてきた街。
怖かった。
*
出張日程が正式に決まった翌日、南雲から言われた。
「小野寺さんは、大阪に知人がいるんですよね」
「はい」
「会う予定は?」
「まだ」
「出張の夜は、会社の会食を入れません。翌朝は十時集合。個人的な予定を入れても構いません」
「ありがとうございます」
南雲は資料を閉じた。
「ただし、疲れを残さない範囲で。全国案件の責任者候補研修として、二日目の会議は小野寺さんが進行します」
「わかっています」
「初めての大阪だからと、夜更かししないでください」
「観光ではありません」
「知人へ会うのでしょう」
「まだ決めていません」
南雲は少しだけ葵を見た。
「会いたいのですか」
「はい」
答えは自然に出た。
「なら、予定を聞けばいいと思います」
「忙しい人なので」
「小野寺さんも。相手が忙しいかどうかは、相手が答えることです」
真尋にも、同じようなことを何度も言われた。
希望を消しすぎない。会いたいなら言う。断るのは相手。
*
葵はその日の夕方、真尋へ送った。
『来月、大阪出張があります』
既読は十分ほど後。
『全国販売商品の会議ですか』
『はい』
『何日ですか』
葵は日付を送った。
『一泊二日です』
『仕事だけ?』
真尋から尋ねられる前に、自分で書いた。
『夜、会いたいです』
送信。胸が強く打つ。
真尋からの返事は、すぐには来なかった。三分。五分。
葵は画面を閉じた。仕事中。会議。山岸や森田と話している。俊介との予定があるかもしれない。
考えるのはやめる。
*
二十分後。
『会いましょう』
短い返事。葵の肩から力が抜けた。
『本当に?』
『はい』
『仕事は?』
『調整します』
『俊介さんは?』
『その日は東京へ戻りません』
『はい』
『大阪の部屋へ来ますか』
葵は画面を見つめた。
真尋の大阪の部屋。写真でしか知らない。白い花瓶。桃色の造花。公園が見える窓。生活ノート。俊介が泊まった場所。
自分が一度も入ったことのない場所。
『行っていい?』
『もちろんです』
『泊まる?』
送ってから、早すぎたと思う。
出張用のホテルは会社が手配している。真尋の部屋へ泊まれば、宿泊費の扱いも変わる。何より、真尋の生活へ入り込むようで怖い。
返事。
『ホテルは予約されていますか』
『はい』
『今回はホテルへ戻るほうがよいと思います』
胸が痛む。
『俊介さんが嫌だから?』
送った後、葵は唇を噛んだ。聞き方が刺々しい。
真尋からの返事。
『違います。翌日は大切な会議でしょう。私の部屋から会場まで、少し時間がかかります』
『はい』
『最初の訪問で、泊まることまで一度に決めなくてよいと思います』
正しい。それでも、葵は少し寂しい。
『わかりました』
『部屋で夕食を食べますか』
『はい。商店街も見たい』
『歩きましょう』
『花屋も?』
『津田さんがいれば』
『公園』
『はい』
葵の知らない名前が、実際の場所になる。
*
出張までの三週間、葵は大阪へ行くことを何度も想像した。
真尋の会社へは行かない。出張会議の会場と真尋の勤務先は近いが、個人的な友人として職場へ訪れる理由はない。
山岸や森田へ会いたい気持ちもあった。真尋の話に何度も登場する人。
しかし、会えば何を話せばよいのかわからない。真尋をどれだけ知っているか、比べてしまうかもしれない。
山岸は真尋の仕事の顔を知っている。森田は大阪で変わった真尋を見ている。葵は、何者でもなかった頃の真尋を知っている。
どちらが大切かを比べる必要はない。頭ではわかる。体が同じように受け取れるかは、まだわからない。
*
出張前の電話で、葵は真尋へ尋ねた。
『山岸さんたちに、私が行くこと話した?』
「いいえ」
『なぜ?』
「個人的な訪問なので」
『会いたいって言ったら?』
「聞きます」
『真尋は会わせたくない?』
真尋は考えた。
「会わせたくないわけではありません。ただ、葵が何を確かめたいのか気になります。私の大阪の人間関係を見て、自分の場所を確認したいですか」
言葉が胸へ刺さる。
『少し』
「はい」
『でも、それだけじゃない。真尋の仕事の話に出てくる人を知りたい。山岸さんが、どんな人なのか。森田さんも』
「はい」
『真尋が大阪で、誰と働いてきたか。知りたい』
真尋はしばらく黙る。
「では、二日目の会議後に、短く昼食を取れるか聞きます」
『いいの?』
「はい」
『仕事として?』
「葵の会社の地域会議と、私たちの地域組織には情報交換の余地があります」
『利用する?』
「無理に仕事へしません。個人的な紹介として、互いに同意があれば」
『はい』
「ただし、葵との関係を説明するための場にはしません。山岸さんたちに、名前のない場所を理解してもらう必要はありません。葵も、自分の場所を証明しなくていい」
『努力する』
*
出張当日。東京駅。葵は南雲、営業担当、広報担当と合流した。
新幹線。指定席。窓側は葵ではない。通路側。
仕事の資料を確認する。全国発売から三か月。地域別の数字。
大阪では、駅前店舗が強い。住宅地は、補助コピー変更後に伸びた。味の評価は高い。再購入率は平均。
葵は数字を見ながらも、窓の外が気になる。
新幹線は、真尋が何度も往復した道を進んでいる。東京から大阪。
真尋が大阪へ行った最初の日。葵は駅まで見送りに行かなかった。行けなかった。行けば、離れることが現実になると思った。
今、自分が同じ方向へ向かっている。
*
名古屋を過ぎた頃、真尋からメッセージが届いた。
『予定通りですか』
『はい』
『何時に新大阪?』
『十一時二十分。会議は一時から』
『はい』
『緊張する』
『会議が?』
『大阪が』
真尋から少しして。
『私の生活を見ることが?』
『はい』
『見ても、特別なものはありません』
『それが怖い』
『なぜ?』
『普通に完成してるから』
真尋から返事。
『完成していません。私も、街も、仕事も。葵が来た後、少し変わります』
胸が温かくなる。
*
新大阪駅。ホームへ降りる。人。アナウンス。空気。東京と違う言葉の音。
葵は立ち止まりそうになる。
真尋は何度もここへ降りた。東京へ戻る時、ここから出た。
会いたくても会えなかった夜。仕事で疲れた日。俊介と話した日。葵へ電話した日。
すべて、この街のどこかで起きた。
「小野寺さん」
南雲に呼ばれる。
「はい」
「移動します」
仕事。葵は荷物を持ち直した。
*
午後の会議は、予定通り始まった。
大阪の営業担当。店舗担当。広告。商品企画。
葵は最初の説明を担当する。地域別の数字。全国平均との比較。購入者の声。補助コピー。
「大阪では、迷いという言葉が重いという声は、他地域より少ないです」
営業担当が言う。
「理由は?」
「仕事帰りの駅店舗が強いことと、広告映像の認知が高い。それから、関西では少し直接的な言葉のほうが受け入れられる可能性があります」
葵はメモする。
「ただし、住宅地では」
別の担当者。
「立ち止まる今日に、小さな甘さを、のほうが好評でした」
「はい。迷いを否定しない中心は残し、表現を変える」
葵は会議を進める。
真尋が暮らす大阪を、数字と売り場の言葉から見る。私的な街ではなく、仕事の地域。
自分の役割をする。
*
会議は午後五時に終わった。南雲が全体をまとめる。
「小野寺さん、明日の会議は進行をお願いします。本日の課題を、朝までに整理」
「わかりました」
「夜は?」
「個人的な予定です。九時半にはホテルへ」
「十時でも構いません」
「はい」
「資料は?」
「戻ってから見ます」
「睡眠を優先してください」
「はい」
南雲は葵の顔を見る。
「楽しんできてください」
「ありがとうございます」
*
会議会場の外。午後五時十五分。
真尋との待ち合わせは、最寄り駅の改札。葵は一人で電車へ乗る。
真尋から詳しい道順が届いている。何番線。どの方面。何駅。出口。
真尋らしい。迷わないよう、必要な情報が整理されている。
それでも一度、乗り換えで方向を間違えかけた。知らない街。
葵は真尋へ電話せず、表示を見る。自分で確認する。
*
最寄り駅へ着く。改札。真尋が立っている。
仕事用の服。バッグ。大阪で働く真尋。
東京で会う時とは少し違う。姿勢。顔。周囲の人の流れへ馴染んでいる。
葵は改札を出た。
「真尋」
「お疲れさまでした」
「来た。大阪」
「はい」
「真尋の街」
「私のものではありません」
「でも、暮らしてる」
「はい」
二人は離れて立つ。抱きしめるか。駅。人。
真尋が先に手を伸ばした。
「荷物、持ちますか」
「そうじゃない」
葵が腕を広げる。真尋は笑い、抱きしめた。
*
短い抱擁。離れる。
「会議は?」
「終わった」
「どうでした?」
「仕事の話、後で。先に街」
「わかりました」
*
駅を出る。商店街。真尋が何度も話した道。写真で見た看板。
パン屋。総菜店。八百屋。自転車。夕方の人。
真尋へ声をかける人がいる。
「お帰り」
総菜店の女性。
「ただいま戻りました」
真尋が自然に答える。
葵は隣で聞く。お帰り。真尋へ。
東京では、自分や俊介が言う。大阪では、街の人が言う。
「こちらは?」
女性が葵を見る。
「東京の友人です」
真尋が答える。
名前のない場所ではなく。友人。嘘ではない。
葵は頭を下げる。
「初めまして」
「大阪、初めて?」
「仕事では」
「楽しんで」
「はい」
*
歩き始める。
「友人」
葵が言う。
「はい」
「近しい友人じゃなく?」
「説明が長くなるので」
「はい」
「嫌でしたか」
「少し。でも、店の人に説明しなくていい」
「はい」
「真尋が誰かに私をどう紹介するか、気にしてた」
「友人で、間違いではありません」
「うん」
*
花屋が見える。店先に、色の異なる花。津田が客へ花を渡している。
真尋と葵が近づく。津田が真尋を見つけた。
「お帰り」
「ただいま」
その後、葵を見る。一瞬で何かを理解したような顔。
「東京の?」
真尋が頷く。
「葵です」
「初めまして」
「津田です」
葵は頭を下げる。
この人が、真尋へ花を売った。仕事で迷う真尋へ言葉を渡した。必要とされなくなる怖さを話した。
「写真より、明るい顔」
津田が言う。
「私の写真、見たんですか」
「一度」
真尋を見る。
「見せました?」
「秋田の話をした時に」
「はい」
少し嬉しい。自分の存在が、この街でも全く知られていなかったわけではない。
*
「今日は、花買う?」
津田が真尋へ尋ねる。
「葵が選びます」
「私?」
「大阪の部屋へ初めて来たので」
葵は店先を見た。
何を選ぶか。真尋の部屋に置かれる。
自分の来訪の証明にしたい気持ちが出る。長く残る花。目立つ色。真尋が毎日見て、自分を思い出すもの。
それを選ぶと、物へ関係を背負わせすぎる。
葵は花を見た。小さな白い花が集まった枝。
「これ」
「コデマリ」
津田が言う。
「すぐ終わる?」
「今の時期なら、しばらく」
「長く残るものがいい?」
津田の問い。葵は考えた。
「今日は、これがいいです」
「なら、それで」
一本だけ。
*
津田が包みながら尋ねる。
「大阪、どう?」
「まだ会議と駅だけ」
「これから水口さんの案内?」
「はい。狭い範囲だけど」
真尋が言う。
「暮らしてる範囲が見たい」
葵が答える。津田が笑う。
「観光より難しいね」
「なぜ?」
「人の暮らしは、見る場所が決まってないから。花屋も、今日は店だけど、昨日は仕入れ先。明日は病院かもしれない」
「はい」
「一日見ても、全部はわからない」
「わかっています」
「なら、見えるところを」
*
花を受け取る。真尋が代金を払おうとした。
「私が」
葵が止めた。
「葵が選んだので?」
「真尋の部屋へ持っていく。でも私が買う」
「わかりました」
葵が支払った。
花は、自分が来た証明ではない。今日、二人が選んだもの。枯れたら捨てる。
*
商店街を抜けた。公園。
真尋が何度も一人で座ったベンチ。俊介と歩いた。仕事を考えた。葵へ電話した。
「ここ?」
葵が尋ねた。
「はい」
「座る?」
「夕食が遅くなります」
「少しだけ」
二人はベンチへ座った。
夕方。犬。子ども。自転車。普通の公園。秋田の海のような特別な景色ではない。
「ここで、私と電話した?」
葵が尋ねた。
「何度か」
「どの時?」
「大阪へ残るか迷っていた時。商品について。俊介とのことも」
「私、画面しか見てなかった。真尋はここにいた」
「はい」
葵はベンチへ手を置いた。冷たい。
真尋の時間が、少し現実になる。
*
「葵。大阪へ来て、どうですか」
「まだわからない。でも、真尋が私を置いて遠くへ行った街じゃない」
「はい」
「真尋が暮らした街」
「同じ意味では?」
「違う」
葵は公園を見た。
「前は、大阪が真尋を取ったと思ってた。今は、真尋がここで生活を作ったとわかる」
「はい」
「まだ、少し嫌。でも、街に嫉妬するのは変」
「変ではありません」
「真尋も、私の商品が全国へ行った時、少し寂しかった。自分だけが知ってたものじゃなくなったから」
「はい」
「私も、真尋が大阪の人たちの真尋になったのが寂しかった。でも、東京の私が知ってる真尋が消えたわけじゃない」
「はい」
*
部屋へ向かう。建物。階段。廊下。真尋が鍵を開けた。
「どうぞ」
葵は玄関の前で一度立ち止まった。
写真で見た部屋。俊介が泊まった場所。真尋が一人で泣いた夜。生活ノートを書いた。花を飾った。
自分は一度も入らなかった。
「入っていい?」
「招きました」
葵は靴を脱いだ。
「お邪魔します」
ただいま、とは言わない。
まだ、この部屋は自分が帰る場所ではない。今日は訪れる場所。
*
リビング。窓。白い花瓶。桃色の造花。薄い緑の花。テーブル。椅子。写真。小さな棚。
想像より狭い。想像より生活感がある。洗濯物を干すための道具。読みかけの本。仕事の資料は片づけられている。
「ここ」
葵は部屋を見回した。
「真尋の大阪。俊介さんも来た」
「はい」
「どこで寝た?」
真尋が少し顔をしかめた。
「聞きますか」
「聞きたい」
「寝室です」
「真尋も?」
「はい」
胸が痛む。知っていたこと。具体的な場所を見ると違う。
葵は寝室の方向を見ない。
「嫌?」
真尋が尋ねる。
「はい。でも、部屋を汚したくないから怒らない」
「どういう意味ですか」
「今日の時間を、俊介さんのことで全部にしたくない」
「はい」
*
葵はコデマリを取り出した。
「どこへ?」
「葵が決めますか」
「白い花瓶?」
「今の花が入っています」
「別の器」
真尋が細いガラス瓶を出した。葵は水を入れ、枝を挿す。
テーブルの端。窓に近い場所。
「ここ」
「はい」
「枯れたら捨てて。写真だけ送ってとか言わない」
「わかりました」
「でも、枯れる前に一枚くらい」
「送ります」
二人は顔を見合わせた。
*
真尋が夕食を作る。葵も手伝う。
大阪らしいものを食べたいと言ったが、真尋は自宅で普段作るものを提案した。
野菜炒め。味噌汁。ご飯。総菜店で買った小さなコロッケ。
「普通」
葵が言う。
「暮らしを見たいと言ったので。観光なら外へ」
「これがいい」
二人で台所へ立った。狭い。肩が当たる。葵が野菜を切り、真尋が味噌汁を作る。
「俊介さんとも、ここで料理した?」
「はい」
「何作った?」
「鍋」
「今、また嫌。でも聞いたの私」
「はい」
「真尋は、答えた」
「はい」
*
「結婚の準備、進んでる?」
葵が野菜を切りながら尋ねる。
「名字と住居を調べています」
「婚姻届は?」
「白紙です」
「提出日」
「まだ」
「結婚する方向は?」
「変わっていません」
包丁の音が止まった。葵は息を吸う。
「聞けた。前より、痛くない。痛いけど」
「はい」
「大阪へ来たから?」
「わかりません」
「真尋に、俊介さん以外の生活があるって見たからかも。結婚したら、全部俊介さんになると思ってた」
「なりません」
「わかってた。でも、ここに花屋があって、公園があって、真尋が一人でご飯作って、仕事して」
「はい」
「俊介さんがいない生活もある。私がいない生活も」
「はい」
葵は再び野菜を切った。
*
夕食。二人は向かい合って食べた。真尋の大阪の食器。葵が初めて使う。
「おいしい」
「普通です」
「普通でいい。真尋は、ここで一人で食べる時、寂しい?」
「日によります」
「私に電話したくなる?」
「あります」
「しない時も?」
「はい」
「なぜ?」
「疲れている。葵の予定がある。一人でいたい。俊介と話す日」
葵は味噌汁を飲んだ。
「全部ある。私が知らない真尋」
「はい」
「でも、知れないままでいい部分もある?」
「はい。今日、全部見ることはできません」
「津田さんも言ってた」
「はい」
*
仕事の話。葵は大阪会議の内容を説明した。地域差。補助コピー。明日の進行。
「大阪では、直接的な言葉が受け入れられやすい可能性がある。真尋はどう思う?」
「私は、地域全体を一つにするのは危険だと思います。店舗と客層の差が大きいので」
「南雲さんと同じ。仕事の顔」
「葵も」
葵は笑った。
「明日、私が進行する。怖い」
「はい」
「南雲さんが後ろにいる。責任者候補の研修。見てほしい」
「明日の会議は見られません」
「わかってる」
「終わった後、聞きます」
「山岸さんたちとの昼食で?」
「はい」
*
「本当に会える?」
葵が尋ねた。
「山岸さんと森田さんが同意しました」
「何て説明した?」
「東京の友人が、大阪へ出張で来る。私の生活や仕事へ影響を与えた人」
葵の手が止まった。
「そこまで言った?」
「はい」
「名前のない場所は?」
「言っていません。山岸さんは以前、なぜ葵が大切かを聞きました。その時に、少し話しています」
「何者でもない真尋を知ってる?」
「はい」
「明日、私は何を言えば?」
「普通に」
「無理」
「葵の仕事の話を。私との関係を証明しようとしない」
「努力する」
*
食後、食器を洗う。葵が洗い、真尋が拭く。
俊介とも、このようにしたのか。考える。口には出さない。
今は、自分と真尋の時間。
*
午後八時。真尋が窓を開けた。公園の灯り。電車の音。葵は窓辺へ立つ。
「真尋の東京の部屋より、低い。公園が近い。夜でも人いる」
「はい」
「大阪にいる真尋を、ずっと想像してた。部屋はもっと冷たいと思ってた」
「なぜ?」
「仕事だけの場所」
「最初は近かったです」
「今は?」
「生活の場所です」
「帰る場所?」
「はい」
胸が痛む。しかし以前とは違う。大阪が帰る場所であることを、否定したくない。
「東京も?」
「はい」
「俊介さんの家も?」
「少しずつ」
「母の家」
「はい」
「秋田」
真尋は考える。
「秋田は、戻る場所というより、確認した場所です」
「名前のない場所は?」
「どの街でも」
葵は真尋を見た。
「大阪にもある? ここにも?」
「今日、できました」
葵の目が潤んだ。
*
「今日、できた?」
「葵が来たので。私の大阪の生活を見て、同じにしてほしいと求めず」
「まだ、少し求めてる。俊介さんの跡を消したいとも思った。花を長く残したいと思った」
「はい」
「でも、しなかった。全部はできてない」
「十分とは言いません」
「厳しい」
「今日の葵を見ています」
*
葵はバッグから全国発売版の商品を出した。
「持ってきた」
「私もあります」
「一緒に食べる」
二人で袋を開けた。一つずつ。
真尋の大阪の部屋。葵が作り始めた商品。全国へ行った味。
「大阪で食べると違う?」
葵が尋ねた。
「同じ味です。でも、今日の記憶になります」
「うん」
*
午後八時半。ホテルへ戻る時間を考える。まだ早い。
葵は生活ノートを見つけた。棚の端。
「これ?」
「はい」
「見ていい?」
「全部は」
「見せたいページだけ」
真尋は考え、ノートを取った。何ページか開く。
『葵から受け取ったものを、自分の言葉で認めた』
『私は、葵にも救われた』
葵は読んだ。以前、言葉では聞いた。真尋の手書きで見ると違う。
次のページ。
『大切な人のすべてを見なくても、大切にできる』
さらに。
『葵の全国発売日に行かなかった』
『傷つけなかったことにはしない』
『あとから、葵の一日を聞いた』
葵の目から涙が落ちた。
「書いてた。私が見なくても?」
「自分のために書いています。今日、見せたいと思いました」
「ありがとう」
*
「私のノートも持ってくればよかった」
葵が言う。
「明日の仕事のものは?」
「別。見せたかった」
「次に」
「大阪へまた来る?」
「出張があれば」
「個人的にも?」
「来たいですか」
「はい」
「では、相談しましょう」
「泊まる?」
再び聞いた。真尋は考える。
「次に、互いの予定と俊介との生活も含めて話します」
「許可?」
「許可ではありません。結婚準備中なので、影響を話します」
「嫌?」
「少し。でも、今日泊まらなくても、この部屋へ来たことはなくならない」
「はい」
「次を、今すぐ確保しなくても」
「はい」
*
午後九時。真尋がホテルまでの道を確認した。
「送ります」
「一人で帰れる」
「初めてなので」
「駅まで」
「はい」
部屋を出る前、葵はコデマリを見た。
「写真」
「枯れる前に」
「でも、毎日送らないで」
「送りません」
「一枚」
「はい」
葵は玄関で靴を履いた。
「お邪魔しました。ただいまは、まだ?」
真尋は考えた。
「葵が、戻る場所だと思えた時に」
「私が決める?」
「はい」
*
駅まで歩いた。商店街は閉まり始めている。花屋も店じまい。津田はもういない。
昼間とは違う街。
「真尋。大阪に来てよかった」
「はい」
「怖かった」
「何が?」
「私がいなくても、真尋が幸せそうだったら、自分の場所がなくなると思った」
「はい」
「実際、私がいなくても生活してた」
「はい」
「幸せな日も?」
「あります」
「寂しい日も。仕事で苦しい日も。全部、私がいなくても」
「はい」
「でも、今日来たら、私が入る場所もあった。空けて待ってた場所じゃなく、今日、作った場所」
「はい」
葵は歩きながら涙を拭った。
*
駅の改札。
「明日」
真尋が言う。
「会議後、十二時半。山岸さんと森田さん」
「緊張する」
「仕事の人です」
「真尋を知ってる人。比べない。努力する」
「ホテルへ着いたら」
「連絡する」
「資料は、少しだけ」
「睡眠」
「南雲さんと同じ」
「必要なので」
「真尋。今日は、ありがとう」
「来てくださり、ありがとうございます」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
葵は改札を通った。振り返る。真尋が手を上げた。
電車へ向かう。
*
ホテルへ着いたのは午後九時四十五分。会社が手配した部屋。ベッド。机。窓から見える夜景。真尋の部屋とは違う。
葵はバッグを置き、真尋へ送った。
『着きました』
『はい。お疲れさまでした』
『コデマリ、見て』
『部屋にあります』
葵はシャワーを浴びた。その後、明日の資料を開く。
会議の目的。地域差を整理する。大阪の意見を、全国へそのまま広げない。守る中心。変える表現。
責任者候補としての進行。
真尋へ見てもらいたい。だが明日の会議に真尋はいない。自分で進める。
*
ノートを開いた。
『初めての大阪』
『真尋の街に、お帰りと言う人がいた』
『花屋へ行った』
『公園へ座った』
『真尋の部屋へ入った』
『俊介さんが泊まった場所を見た』
『嫌だった』
『でも、今日の時間をそれだけにしなかった』
『コデマリを一本買った』
『枯れたら捨ててもらう』
『真尋が私のいない生活をしていた』
『その生活の中へ、今日の私が入った』
最後に。
『空いていた場所へ戻ったのではない』
『会った今日、新しい場所を作った』
*
翌朝、葵は午前六時半に起きた。
ホテルの朝。カーテンを開ける。大阪の街。真尋の部屋とは違う景色。
スマートフォンに、真尋から写真が届いている。午前六時十分。コデマリ。白い小さな花。窓の近く。
『朝の光です』
葵は写真を見た。約束通り、一枚。
『ありがとう』
送った。それ以上は求めない。
*
朝食。ホテルの食堂。南雲と営業担当もいる。
「昨夜は?」
南雲が尋ねた。
「会えました」
「眠れましたか」
「はい」
「資料は?」
「できています」
「では、今日は小野寺さんが進行」
「はい」
*
午前十時、二日目の地域会議。葵は前へ立った。
大阪の営業。店舗。広告。開発。南雲は後方。
葵が始めた。
「本日の目的は、大阪の成功事例を全国へそのまま広げることではありません」
真尋が職場で使った言葉に似ている。
「地域差を確認し、商品コンセプトを守りながら、変更できる部分を整理します」
資料。数字。意見。葵は質問を受けた。
「福岡の数字が高いなら、関西の広告費を減らしては」
「店舗別の再購入率を確認してから判断します」
「札幌ではコピーを明るく」
「中心を変えない案を、地域担当と作ります」
「全国で一つの広告にしたほうが安い」
「費用の利点はあります。ただ、店舗札まで統一する必要はありません」
反対意見。予算。納期。
葵はすべてを自分で答えない。
「南雲さん、物流条件をお願いします」
「営業担当から、地域枠を」
「この点は、持ち帰ります」
責任者候補として。全部やらない。
*
会議は予定より五分早く終わった。決定事項。持ち帰り。地域別試験。
葵は最後に言った。
「同じ商品を全国へ置くことは、同じ受け取られ方を求めることではありません」
参加者が聞いている。
「それぞれの生活へ入った後は、その方の意味になります」
会議終了。南雲が葵へ近づいた。
「良かったです」
「何が?」
「時間」
「そこ?」
「五分早い。それから、全部答えなかった。持ち帰る判断ができた。責任者候補として、記録します」
葵の胸が熱くなった。
*
午前十一時四十分、真尋へ送る。
『会議、終わりました』
すぐに返事。
『どうでしたか』
『五分早く終わった。全部答えなかった。南雲さんに褒められた』
『お疲れさまでした』
『昼、最初から話す』
『聞きます』
*
十二時半。待ち合わせの店。会社近くの定食屋。
真尋が先にいる。隣に女性。山岸。向かいに男性。森田。
葵は店の入口で一度足を止めた。
真尋の仕事の人たち。自分が知らない時間を知る人。
真尋が手を上げる。
「こちらです」
葵は席へ向かった。
「初めまして。小野寺葵です」
山岸が立った。
「山岸です」
森田も。
「森田です」
山岸の口元が緩んだ。
「私たち、水口さんとしか呼んだことがないので」
「はい」
「今日は、真尋さんと葵さんで」
山岸が自然に分けた。葵の胸が軽くなる。
*
注文。真尋は焼き魚。山岸は親子丼。森田は日替わり。葵は煮魚。
「昨日、大阪の会議でしたか」
山岸が尋ねた。
「はい」
「今日は?」
「地域別の販促調整」
「進行をしました」
真尋が言う。葵は少し嬉しい。
「責任者候補の研修中です」
「全国展開の商品」
森田が言う。
「食べました」
「本当ですか」
「水口さんにもらいました」
葵は真尋を見た。
「配った?」
「職場で話題になったので」
「森田さん、感想は?」
「味は好きです」
「言葉は?」
「少し重い」
葵は思わず笑った。
「正直」
「でも、妻は好きだと言っていました。決めた後に迷うという部分。僕は、決めた後は進めばいいと思うほうなので」
「山岸さんは?」
「私は、すごくわかります。決めた後に、毎回不安になります。課長になると決めた後も」
山岸が真尋を見る。
「水口部長へ、何度も確認しました。でも最近は、自分で決めるようになりました」
「真尋から聞いてます」
言ってから、葵は山岸の表情を見た。
「どのように?」
「大切な人として」
葵は答える。
「仕事のことを聞いています」
自分の場所を証明する言い方ではない。ただ事実。
*
「真尋さんは」
山岸が言う。
「葵さんとの関係で学んだことを、仕事でも使っています」
葵の胸が動いた。
「何を?」
「大きな選択を決める前に話すこと。戻った時、前と同じを求めないこと。必要とされなくても、関係や役割がなくなるとは限らないこと」
真尋が困った顔をした。
「山岸さん」
「話してはいけませんでしたか」
「いいえ」
葵が答える。
「聞きたいです」
*
森田が言う。
「水口部長は、以前、全部自分で確認していました」
「知ってます」
「今は、確認しない努力をしています」
「努力」
「かなり」
葵は思わず笑った。
「真尋らしい」
「葵さんは?」
森田が尋ねた。
「何ですか」
「水口部長へ、何でも最初に話しますか」
葵は考えた。
「以前は。今は、美月や仕事の人にも。一人で決めることもあります。でも、見てほしい時は、あとから話します」
「それが、名前のない場所?」
山岸が尋ねた。真尋が少し姿勢を変える。
葵は山岸を見た。
「真尋から聞きました?」
「少しだけ」
「説明は難しいです。でも、いつも一緒にいる場所ではありません。離れて生活した時間を、持ち寄る場所です」
言葉にすると、今の二人に近い。真尋が葵を見た。
*
料理が届いた。四人で食べる。
仕事。大阪。東京。全国商品。真尋の部長職。山岸の課長。森田の地域連携。
葵は、真尋の職場の人たちと話す。
真尋を奪った人ではない。真尋と働いてきた人。真尋がいなくても判断する人。真尋へ反対する人。
真尋が大切にしている仕事の一部。
*
「葵さん」
山岸が言う。
「真尋さんが大阪へ残ると決めた時、反対しましたか」
「かなり」
「今は?」
葵は窓の外を見た。大阪の昼。
「まだ、東京へ戻ってほしいと思う時があります。でも、昨日、部屋へ行きました。街を歩きました」
「はい」
「真尋が、大阪で誰かに取られたのではなく」
真尋が聞いている。
「自分で生活を作ったと、少しわかりました。だから、今すぐ戻ってとは言いません」
山岸が頷いた。
「ありがとうございます」
「山岸さんにお礼を言われることではありません」
「でも、真尋さんが残ったことで、私の仕事も変わったので。私も、真尋さんがいなければ課長へ挑戦しなかったかもしれません。でも今は、真尋さんのためではなく、自分の仕事です」
「真尋から聞きました」
二人は声を立てて笑った。
*
昼食は一時間。仕事へ戻る山岸と森田。店の外。
「また大阪へ来た時は」
山岸が言う。
「仕事の話を」
「ぜひ」
「真尋さんの話ではなく」
「はい」
森田も頭を下げた。
「商品、次も買います」
「味で?」
「味で」
「ありがとうございます」
*
二人と別れた。葵は真尋と駅へ向かう。
「どうでした?」
真尋が尋ねた。
「怖くなかった。山岸さん、真尋のことよく見てる。少し嫉妬した」
「はい」
「でも、私にない関係。仕事。比べなくていい」
「はい」
「森田さん、正直。味だけ好き」
「はい」
二人は笑った。
*
新大阪駅。帰りの新幹線まで、三十分。
葵は土産を買った。母。美月。会社。
真尋には買わない。大阪にいる人へ、大阪の土産は不要。
*
ホームへ上がる前、葵が言った。
「真尋。大阪の部屋へ、また行きたい。次は仕事じゃなく。泊まりたい」
「はい」
「俊介さんとも話す?」
「はい」
「嫌。でも、話して。許可を取る言い方はしないで。私が泊まりたいと伝えた」
「はい」
「真尋も泊まってほしいなら」
「泊まってほしいです」
葵の胸が温かくなる。
「今、言って」
「葵に、また大阪へ来て、泊まってほしいです。ただ、時期と生活への影響は、俊介とも話します。葵の予定も」
「はい」
*
「昨日の夜、お邪魔しますって入った」
葵が言う。
「はい」
「次に泊まる時は、ただいまって言っていい?」
真尋は考えた。
「その時、葵がそう思えたら」
「真尋は?」
「お帰りなさいと言います」
*
改札前。人。アナウンス。出発時間。
「行ってきます」
葵が言う。
「行ってらっしゃい」
「東京へ帰る。でも、大阪からいなくなるだけ」
「はい」
「名前のない場所からは?」
「いなくなりません」
二人は抱きしめた。短く。
*
新幹線へ乗った。葵は窓側。大阪の景色が流れ始める。
真尋はホームには入らなかった。改札で別れた。それでいい。
葵はスマートフォンを開いた。昨日撮った街。花屋。公園。真尋の部屋の窓。コデマリ。今日の会議。山岸と森田との昼食。
真尋の大阪が、写真の中に増えた。
*
ノートを開いた。
『大阪へ行った』
『真尋の生活は、私がいなくても続いていた』
『それを、失ったとは思わなかった』
『私が来たことで、今日の場所が増えた』
『大阪を、真尋を取った街としてだけ見なくなった』
『山岸さんと森田さんへ会った』
『比べた』
『少し嫉妬した』
『でも、違う関係だとわかった』
『真尋の大阪を、全部知ったわけではない』
『見えるところを見た』
最後に。
『次は、ただいまと言いたい』
*
新幹線が東京へ近づく頃、真尋から写真が届いた。コデマリ。朝とは少し違う光。
『部屋へ戻りました』
葵は返信した。
『花、まだある』
『昨日買ったばかりです』
『はい』
『次に戻った時、同じ花はありません』
葵は画面を見た。
『わかってる。別の花でもいい。何もなくても』
考える。
『今日の部屋はなくならない』
真尋から。
『はい』
*
東京へ到着。葵はホームへ降りた。大阪から戻った。真尋は大阪にいる。
以前なら、離れたことへ強い寂しさを感じた。今も寂しい。
だが、真尋がいる場所を知った。知らない街ではない。自分が訪れた街。
公園。花屋。部屋。仕事の人。
大阪で生きる真尋を、少し見た。
*
自宅へ戻る。
「ただいま」
自分の部屋。自分の生活。
葵は荷物を解いた。大阪の土産。資料。服。写真。
真尋の部屋から何も持ち帰っていない。花も。
物を持って帰らなくても、行ったことは残る。
*
翌日、葵は会社で大阪会議の報告書を作成した。
地域差。売上。補助コピー。店舗。会議の決定。
真尋のことは書かない。個人的な時間。仕事とは分ける。
南雲が報告書を見た。
「良いです」
「修正は?」
「一か所。大阪の特徴を断定しすぎています。店舗属性の影響と書きましょう」
「わかりました」
「出張は?」
「良かったです」
「知人に会えました? 何か変わりましたか」
葵は考えた。
「大阪が、地図の遠い場所ではなくなりました。真尋がいないと意味のない街でも、私を遠ざける街でもなく、真尋が生活している街になりました」
南雲は頷いた。
「それなら、次の出張も任せられます」
「仕事へ戻しますね」
「仕事なので」
*
真尋は大阪の部屋で、枯れ始めたコデマリを見ていた。
葵が帰ってから一週間。小さな白い花が、少し茶色くなっている。
写真は一枚送った。その後は送っていない。葵も求めなかった。
真尋は枝を取り出した。まだ咲いている部分だけを残すか。すべて捨てるか。迷う。
葵の来訪を長く残すために、傷んだ花を置いておく必要はない。
真尋は枝を紙へ包んだ。捨てる。瓶を洗う。
葵へは知らせない。約束通り。枯れたら捨てる。
それで関係が消えるわけではない。
*
その夜、真尋は俊介へ大阪での葵の訪問を話した。
「部屋へ?」
『はい』
「夕食も? 泊まらず?」
『ホテルへ戻りました』
「次は、泊まりたいと?」
俊介の声が硬くなる。
「はい」
「真尋も?」
「泊まってほしいと伝えました」
俊介はしばらく黙る。
『正直に言うと、嫌です。僕も泊まる部屋です。結婚後の生活を考えている場所ではないけれど、真尋の生活の一部』
「はい」
『葵さんが泊まることへ、嫉妬します。でも、今すぐだめとは言いません。話したいです』
「お願いします」
*
『僕が嫌だと言っても、泊めますか』
俊介が尋ねた。
「理由を聞きます。私にとって、葵が大阪へ来ることには意味があります。私の生活を知る。東京だけで関係を続けるのではなく」
『はい』
「でも、俊介がどのように傷つくかも聞きます。泊まる形を変える可能性も」
『たとえば?』
「別の布団。日程。俊介が大阪へ来る予定と近づけない。互いの私物の扱い。話します」
俊介は息を吐いた。
『すぐに結論を出さなくてよいです。僕も考えます』
「ありがとうございます」
*
真尋は、葵の希望をそのまま通さない。俊介の嫌だという気持ちも、結婚するからという理由で絶対の命令にはしない。
話す。それぞれの場所。それぞれの責任。
葵は、次に大阪へ行く日をまだ決めない。
真尋に泊まりたいと言った。真尋も泊まってほしいと言った。それだけで、今は十分。
許可を待つのではない。生活の影響を話している。
*
数日後、葵は真尋から短いメッセージを受け取った。
『コデマリは終わりました』
葵は画面を見た。言わない約束だった。それでも、真尋は伝えた。
『捨てた?』
『はい』
『写真は?』
『最初の一枚だけです』
『寂しい?』
『少し』
『私も』
葵は考え、送った。
『でも、また別の花を選ぶ。次に大阪へ行った時。同じ花じゃなくていい』
『わかりました』
*
真尋の大阪の部屋から、葵が選んだ花はなくなった。
それでも、葵が座った椅子。使った皿。並んで立った台所。窓辺。公園。街。
すべてが、以前と少し違って見える。葵が来る前の部屋へ、完全には戻らない。
*
葵の中でも、大阪は変わった。
真尋を連れていった場所ではない。真尋が一人で選び、働き、迷い、帰った街。葵が一度訪れ、真尋の生活を見た街。
次に行く時は、初めてではない。ただいまと言えるかもしれない場所。
*
二人は、互いのすべてを知ったわけではない。
葵は真尋の職場を見ていない。部長席。会議。山岸との衝突。森田の進行。俊介と過ごした夜の詳細。知らないまま。
真尋も、葵の会議を見ていない。南雲へ反対した顔。責任者候補の研修。ホテルで一人資料を作った夜。知らない。
それでも、知らない時間があることを隠さない。
見てほしい時は、見てほしいと言う。会いたい時は、会いたいと。訪れたい時は、行きたいと。泊まりたい時は、泊まりたいと。
相手がどう答えるかを、先に決めない。
*
葵は生活ノートの新しいページへ書いた。
『大阪は、真尋を失った場所ではなかった』
『真尋が生きていた場所だった』
『私が知らない生活を見ても、私の場所は消えなかった』
『新しい場所は、空けて待っているものではない』
『会った日に、二人で作ることができる』
最後に。
『次は、ただいまと言いたい』
*
真尋も大阪の生活ノートへ書いた。
『葵が大阪へ来た』
『街を歩いた』
『津田さんへ会った』
『公園へ座った』
『部屋で夕食を食べた』
『山岸さんと森田さんへ会った』
『葵は、私の大阪を取り戻そうとしなかった』
『自分の知らない生活を、消さずに見た』
最後に。
『名前のない場所が、大阪にもできた』
*
大阪と東京。二つの街の間を、真尋だけが往復するのではなくなった。
葵も一度、その道を通った。同じ新幹線。同じ距離。
真尋が遠くへ行ったのではなく、互いの生活の間に距離がある。その距離は、誰か一人だけが越えるものではない。
会いたい人が、会いに行く。戻りたい人が、自分の足で戻る。
*
真尋は空になった細い瓶を洗い、棚へ戻した。
次に葵が来た時、同じ花を入れる必要はない。何も飾らなくてもいい。その日の二人で決める。
*
葵は東京の部屋で、大阪出張の写真を整理した。
フォルダ名。
『大阪 初めて』
考える。
『真尋の大阪』
違う。街は真尋だけのものではない。
葵は最初の名前へ戻した。
『大阪 初めて』
いつか二度目がある。
*
その夜、二人は予定していた十分間の電話をした。
『今日、何しました?』
真尋が尋ねた。
「次の商品企画。まだ言葉が出ない。真尋は?」
『予算会議。山岸さんが、一つ反対しました』
「勝った?」
『勝ち負けではありません』
*
「大阪」
葵が言う。
『はい』
「また行く。すぐじゃなくても。次は、真尋が忙しい時でも?」
『会える時間を作ります』
「全部空けなくていい。仕事してる真尋も、大阪の真尋だから。私は一人で商店街歩ける」
『迷わないでください』
「地図見る。津田さんにも一人で会う」
『驚くと思います』
「はい」
*
電話を切る前、葵が言った。
「真尋。大阪へ行っても、真尋が私のものになった感じはしなかった」
『はい』
「少し残念。でも、真尋の生活が本物だと思った。私の知らない真尋も、真尋だった」
『はい』
「これからも、知らない部分が増える?」
『増えます』
「はい」
『葵も』
「うん」
『戻った時、知り直しましょう』
「はい」
*
通話が終わる。二人は別々の部屋。真尋は大阪。葵は東京。
だが、以前の距離とは違う。
葵の中に、大阪の夜の匂いがある。商店街。公園。台所。白い花。
真尋の中には、葵が初めて玄関へ立った姿がある。
*
訪れたことで、すべてがわかったわけではない。むしろ、わからないものが多いと知った。
それでよかった。
知り尽くすことではなく。知らない生活があると認めた上で、会いに行く。離れている時間を、なかったことにしない。
誰かの暮らす街へ入り、自分のための場所を奪うのではなく、その日に二人で新しい時間を作る。
*
真尋は照明を消した。葵も。それぞれの夜。
次に会う日は、まだ少し先。次に大阪へ来る日は、さらに先。
それでも、一度通った道がある。東京から大阪へ。大阪から東京へ。
どちらからでも、会いに行ける。
*
名前のない場所は、地図には載っていない。
秋田だけにあるのでも。東京の部屋だけでも。大阪の部屋だけでもない。
互いが自分の生活を持ち、そこから相手へ向かうたび、新しく作られる。
葵は初めて、そのことを体で知った。
次に真尋の大阪の部屋へ入る時。同じ花はない。同じ食事でもない。真尋も、葵も少し変わっている。
それでも葵は、今度こそ言うだろう。
ただいま、と。




