第三十六章 同じ家に帰らない二人
第三十六章 同じ家に帰らない二人
真尋が俊介から婚姻届の見本を渡されたのは、東京へ戻る新幹線の中だった。
正確には、渡されたのではない。俊介から届いたメッセージに、区役所のウェブサイトの画面が添えられていた。
『次に会う時、結婚について具体的に話したいです』
その下に、婚姻届の提出方法。必要書類。証人欄。戸籍謄本。氏をどちらにするか。提出後の手続き。健康保険。会社への届出。
真尋は、画面を開いたまま動けなくなった。
窓の外には、静岡を過ぎたあたりの景色が流れている。遠くの山。住宅地。工場。川。
新幹線は東京へ向かっている。俊介のいる場所へ。
だが、真尋が戻るのは俊介の部屋ではない。まず自分の東京の部屋。荷物を置く。一人で眠る。翌日の午後に俊介と会う予定。
二人は、結婚について話すことを以前から決めていた。それでも、婚姻届の画面を目にすると、話し合いではなく、決断が目の前に置かれたように感じる。
真尋は返信欄を開いた。
『わかりました』
それだけでは冷たい。
『はい。具体的に話しましょう』
送信。
俊介からすぐに返事は来なかった。仕事中なのだろう。
真尋は画面を閉じた。
*
結婚。
以前は、自分の生活を誰かへ渡す言葉に思えた。
同じ名字。同じ家。同じ家計。同じ予定。
家族だからという理由で、どこまで踏み込まれても拒めなくなる。
母が仕事を辞めた時。父の転勤へついていった時。離れて暮らすことになった時。
母は何度も、
『家族だから』
と言った。
支えるのは当然。我慢するのも。相手へ合わせるのも。
真尋は、その言葉を長く怖がっていた。
家族になることは、自分の希望を後へ置くこと。誰かを愛することは、その人の生活を優先すること。そう思っていた。
だが今、俊介との関係では、違う可能性を考えている。
同じ家へ毎日帰らない。大阪と東京。仕事も手放さない。一人の部屋も持つ。葵との名前のない場所も続ける。
それでも、俊介と家族になれるのか。
*
新幹線が東京駅へ着く。真尋は荷物を持ち、ホームへ降りた。
人の流れ。階段。改札。
俊介は迎えに来ていない。今日は会わないと決めている。
以前なら、東京へ戻った日に会わないことへ、俊介が寂しさを示した。今も寂しいと思っているだろう。
だが真尋が大阪から戻った最初の夜は、自分の部屋で休む。二人で決めた。
移動の疲れを、会うことで埋めない。会いたい気持ちと、休みたい体を、どちらか一つにしない。
*
自分の部屋へ着く。
「ただいま」
照明をつける。空気を入れ替える。冷蔵庫。机。窓。大阪とは違う部屋。
洗面所には、自分と俊介の歯ブラシ。葵の未開封の歯ブラシは棚の奥。次に泊まる時に開けると決めたもの。
それぞれの場所。
真尋は旅行鞄を開き、服を分けた。洗濯。書類。大阪で買った葵の商品。
俊介への土産はない。今回は仕事と移動だけ。
何かを持って帰らなければ愛情が伝わらないわけではない。
*
夜、簡単な食事を作る。うどん。野菜。卵。一人分。
食べ終え、机へ婚姻届の画面を開く。
氏。住所。本籍。同居を始めた日。夫婦の職業。証人。
形式的な欄。だが、一つずつ生活へつながる。
姓を変えるのか。変えれば、仕事上の名前はどうする。名刺。メールアドレス。役職。公的書類。二拠点の住民票。会社の住宅補助。緊急連絡先。病院。財産。相続。親。
結婚は、気持ちだけではない。
だからこそ、葵との関係とは違う。
葵と真尋は、互いの人生へ大きな影響を与える。しかし、法的な責任を共有しない。住居。財産。医療。介護。扶養。それらを当然のように求めない。
俊介とは、そこへ踏み込む可能性を考えている。
*
真尋はノートを開いた。
『結婚したい理由』
ペンが止まる。
好きだから。一緒にいたいから。
それだけでは、今の生活へ結婚を入れる理由にならない気がした。結婚しなくても、恋人でいられる。二拠点でも会える。互いに支えられる。
結婚することで得たいもの。何だろう。
『緊急時に、家族として扱われたい』
書く。病気。手術。事故。連絡。面会。意思確認。
『将来の生活を、一時的な約束ではなく一緒に考えたい』
『お金と住居の責任を、話し合って共有したい』
『俊介を、自分の家族として紹介したい』
最後の一文を書いて、胸がざわつく。
家族。怖い。
だが、俊介を恋人としか呼べないことへ、不足を感じる時もある。
部長就任の正式書類で、緊急連絡先を記入した時。最初に母を書いた。俊介ではない。
会社の規定上、婚姻関係のない恋人でも記載できる。だが、迷った。
母。俊介。誰へ最初に連絡してほしいか。
その迷い自体を、俊介へ話していない。
*
次に。
『結婚したくない理由』
『自分の時間と部屋がなくなるのが怖い』
『仕事を優先するたびに、妻として責められる気がする』
『俊介の希望を叶えられない時、結婚したのだからと言われるのが怖い』
『子どもを持つことが当然になるのが怖い』
『葵との関係を、結婚後に制限されるのが怖い』
真尋は最後の行を見つめた。
俊介は、葵との関係をやめろとは言っていない。嫉妬する。怖いと言う。だが、存在を否定していない。
それでも結婚した後、
『妻なら』
『家庭を優先するなら』
という言葉が出る可能性を、真尋は恐れている。
俊介だけを疑っているのではない。自分自身も。
結婚したからと、無意識に俊介を優先し、葵へ会う時間を削るかもしれない。母へ会うことも。一人で過ごすことも。
結婚という名前へ、自分から従う可能性。
真尋はノートを閉じた。
答えは明日。一人で完成させない。俊介と話す。
*
翌朝、真尋は七時に起きた。俊介と会うのは午後一時。午前中は一人。
洗濯。掃除。買い物。大阪へ持ち帰る物の確認。
東京の部屋を、自分の生活として整える。
結婚後、この部屋をどうするか。会社の二拠点補助が始まれば、維持費の一部は出る。俊介の部屋で暮らす日が増えれば、この部屋を持つ意味は薄くなるかもしれない。
それでも、今は手放したくない。
葵のためではない。俊介から逃げるためでも。自分が一人へ戻る場所として。
*
正午過ぎ、真尋は俊介の部屋へ向かった。
手にはノート。婚姻届を持っていくか迷ったが、俊介が用意しているだろう。
駅を出る。歩く。呼び鈴。扉が開く。
「お帰りなさい」
「ただいま」
抱きしめる。昨日会わなかった分を埋めるような強さではない。今日会えたことを確かめる。
「疲れは?」
「取れました。俊介は?」
「緊張しています」
「はい」
「昼食、先に?」
「はい」
*
俊介が作ったのは、スープとサンドイッチだった。特別な食事ではない。結婚の話をする日だからと、豪華にしない。
食べる。味。仕事の話。昨日、俊介が担当した設計変更。真尋の予算会議。葵の商品。
普通の会話をした後、食器を片づける。
午後二時。二人はテーブルへ向かい合った。
俊介が封筒を出した。中には、婚姻届の見本。白紙。記入はない。
「書いてきたのではないんですね」
真尋が言った。
「はい」
「少し安心しました」
「なぜ?」
「私の名前が先に書かれていたら、決められたように感じたと思います」
「そう思い、白紙にしました」
「ありがとうございます」
*
「今日は、結婚する日を決めるためではありません」
俊介が言った。
「結婚したいか。結婚した場合、どのように暮らすか。結婚しない場合も。話したいです」
真尋は頷いた。
「私も、ノートへ書きました」
「見せても?」
「後で。先に俊介から」
*
俊介は少し姿勢を整えた。
「僕は、真尋と結婚したいです。理由は、一緒に暮らしたいからだけではありません」
「はい」
「緊急時に、家族として真尋のそばにいたい。病院で、関係を説明する必要なく。会社や役所で、家族として扱われたい」
「はい」
「真尋の将来へ、意見を言う権利がほしいという意味ではありません。でも、責任を持ちたいです」
「どの責任ですか」
真尋が尋ねる。
「病気の時。生活が難しくなった時。仕事を続けられなくなった時。老後。お金。住む場所。母や家族のこと」
俊介は一つずつ言う。
「恋人でも話せます。でも、僕は、それを一時的な約束ではなく、自分の人生の責任として引き受けたい」
「真尋にも、同じ責任を求めますか」
「はい」
俊介は迷わず答えた。
「僕が病気になった時。仕事を失った時。家族の問題が起きた時。真尋に支えてほしい」
「はい」
「ただ、全部を投げるのではなく、一緒に考えてほしい」
*
「同じ家へ毎日帰ることは?」
真尋が尋ねる。
「以前は、必要だと思っていました。今も、できればそうしたい」
「はい」
「でも、真尋が大阪の仕事を選びました。僕も、東京の仕事を続けたい。どちらかが仕事をやめなければ、同じ家へ毎日帰ることはできません」
「はい」
「だから、結婚を諦めるのか。それとも、同じ家へ毎日帰らない夫婦になるのか。僕は、後者を選びたいです」
真尋は俊介の顔を見る。
「本当に?」
「不安はあります。寂しいです。でも、同じ家にいることだけを条件にすれば、真尋を失う可能性が高い」
「はい」
「それだけでなく」
俊介は続ける。
「僕自身も、待つ人でしかなくなる。東京で仕事をし、友人と会い、一人で生活する。その上で、真尋と夫婦になる。僕も、自分の生活を持ったまま」
*
真尋は息を吐いた。
「私も、結婚を考えています」
俊介の表情が動く。
「以前より?」
「はい」
「どのくらい?」
「結婚しない理由だけを探す段階ではなくなりました。したい理由もあります」
「聞いても?」
「はい」
真尋はノートを開いた。俊介へ見せる前に、自分で読む。
「緊急時に、家族として俊介のそばにいたい。俊介にも、私のそばにいてほしい」
「はい」
「将来の生活を、定期的な恋人同士の相談ではなく、共同の問題として考えたい。住居とお金。病気。親。老後」
「はい」
「俊介を、自分の家族だと言いたい気持ちがあります」
俊介の目が潤む。
「ありがとうございます」
「まだ、決めていません。でも、そう思っています」
*
「怖いこともあります」
真尋はノートを俊介のほうへ向けた。
俊介が読む。自分の時間と部屋。妻としての役割。子ども。葵。
俊介は一つずつ目を通した。
「葵さんとの関係を制限されるのが怖い」
「はい」
「僕が制限すると思いますか」
「今は、しないと思っています。でも、結婚後に変わる可能性があります。俊介だけではなく、私も」
「真尋も?」
「妻になったのだから、俊介を最優先にしなければと思うかもしれません。葵へ会うことへ罪悪感を持つ。母や一人の時間も」
「はい」
「家族という名前へ、自分で自分を合わせる可能性が怖いです」
俊介はノートを閉じず、考えた。
「僕たちが、家族の意味を決める必要がありますね。世間の夫婦の形ではなく、僕たちの」
*
「葵さんとの関係について」
俊介が言った。
「僕は、今も嫉妬します。真尋が、葵さんを人生の帰る場所の一つと言うことに」
「はい」
「結婚しても、なくならない?」
「なくすつもりはありません」
「葵さんとの関係を続けることは、結婚の条件ですか」
真尋は考える。
「葵だけではありません。母。仕事。一人の時間。今ある大切なものを、結婚のために消さないこと」
「はい」
「それは条件です」
「わかりました」
「俊介にも。北川さんや友人との関係を、私のために消してほしくありません。私が嫉妬しても」
「はい」
「ただ、隠さない。大きな変化は話す」
「はい」
*
「結婚後、葵さんと二人で旅行することは?」
俊介が尋ねる。真尋は答えを急がなかった。
「今と同じように、話します。毎回、許可を求めるつもりはありません。でも、俊介の生活へ影響する旅行なら、一緒に考えます」
「たとえば?」
「二人で予定していた日に重なる。長期。お金。俊介が不安を強く感じる状況」
「はい」
「話した上で、私が決めます」
「僕が反対しても?」
「理由を聞きます。でも、反対だけで必ずやめるとは言えません」
俊介は少し痛そうな顔をする。
「結婚しても?」
「はい」
「妻が夫の反対を聞かず旅行へ行く。世間では、問題だと言われるかもしれません」
「はい。でも、夫が妻の関係を一方的に止めることも、問題だと思います」
俊介は頷いた。
「わかりました」
「納得しましたか」
「完全には。でも、真尋が何を考えているかはわかりました」
*
「逆に」
真尋は尋ねた。
「俊介が北川さんと二人で旅行へ行くと言ったら。私は、かなり嫌です。反対します」
「はい」
「でも、話を聞きます。なぜ二人なのか。何日か。私との生活へ影響するか」
「はい」
「それでも行くなら、傷つくと思います。関係を続けられるか考える可能性もあります」
「それほど?」
「はい」
「葵さんとの旅行と違いますか」
俊介の問いは、責めるためではない。真尋は苦しくなる。
「違うと言いたいです。でも、俊介から見れば同じように感じる部分がある。わかっています」
「はい」
「だから、私だけ自由でよいとは思いません。互いに同じ行動を許す、という意味でもなく、関係ごとに背景を話す必要があります」
「はい」
「公平と同一は違う」
俊介は考えた。
「難しいですね。結婚すれば、簡単になると思っていました」
「私も、逆の意味で」
「逆?」
「結婚すれば、すべて制限されると思っていました」
「はい」
「どちらも違うのかもしれません」
*
話し始めてから一時間。二人は休憩する。
お茶。窓を開ける。同じ部屋にいながら、少し別々に座る。俊介はソファ。真尋は窓辺。
結婚の話は、感情だけでなく、疲れる。
次に何を話すか。子ども。名字。住居。お金。まだ多い。
*
十分後、二人はテーブルへ戻った。
「子どものことから」
俊介が言った。
「僕は、欲しい気持ちがあります。以前と変わりません。でも、真尋が望まないなら、結婚しないという条件にはしません」
「本当に?」
「はい」
「後で、私のせいにしませんか」
「絶対にしないとは言えません」
俊介は正直に答えた。
「何年か後、子どもがいたらと思う日が来るかもしれない。その時、真尋を責めたくなる可能性も。だから、今から言葉にします」
「はい」
「僕が子どもを持たない結婚を選ぶなら、それは僕の選択です。真尋が奪ったことにはしない。ただ、気持ちが変わったら話します」
「はい」
「真尋は?」
真尋は一度息を吸う。
「私は、今も強く望んでいません。子どもを持つ生活を想像すると、仕事や一人の時間を失う怖さが先に来ます。年齢のこともあります」
「はい」
「でも、絶対に持たないと決めているわけでもありません」
俊介の表情に、小さな希望が浮かんだ。
「その顔をしないでください」
「すみません」
「可能性を残した言葉を、期待の約束にしないで。今は、望んでいないに近いです」
「わかりました」
「一年後に、もう一度話す。医療的な期限や選択も、必要なら調べる。でも、調べることが、持つ方向へ進む意味ではありません」
「はい」
*
名字。
「僕は、真尋が名字を変える必要はないと思っています。僕が変えてもいい」
俊介が言った。
「本当に?」
「はい」
「仕事上は?」
「旧姓使用もできます。ただ、手続きはあります。真尋は?」
「今の名字を変えたくありません」
「仕事のため?」
「それも。父の名字です。父との関係は複雑ですが、今の自分の名前として長く使っています。部長になったばかりで、名前を変えることにも抵抗があります」
「わかりました」
「俊介が変えることへ、罪悪感もあります」
「なぜ?」
「私のために負担を負わせるようで」
「僕が選べば、僕の選択です」
俊介の言葉。
仕事を断る。遠距離を続ける。名字を変える。相手のためであっても、選んだ人の選択。
「すぐには決めません。両方の手続きを調べましょう」
「はい」
*
住居。
東京。大阪。真尋の東京の部屋。俊介の部屋。大阪の部屋。三つ。
「結婚後も、三つ維持しますか」
俊介が尋ねる。
「最初は」
「費用は?」
「会社補助があります」
「全部ではない。僕の部屋の家賃。真尋の東京の部屋。大阪。無駄が多いです」
「はい。でも、すぐに手放したくありません」
「東京の部屋? なぜ?」
「一人へ戻る場所だから」
「僕の部屋で、一人の時間を取るのでは足りませんか」
「今は。俊介がいない時でも、俊介の生活の中にいると感じます。本棚。家具。冷蔵庫。自分の部屋とは違う」
俊介は寂しそうにする。
「僕の部屋は、真尋の家にならない?」
「今は、俊介の家です。泊まる場所。でも、少しずつ変わっています」
「歯ブラシ。部屋着。カップ」
「はい」
「結婚したら、家になりますか」
「すぐには。一緒に作る必要があります」
*
「家具を選ぶ? 真尋の物を増やす。鍵。住所」
俊介が尋ねる。
「はい」
「でも、東京の部屋も残す」
「はい」
「僕は、寂しいです」
「わかっています」
「結婚しても、真尋が別の部屋へ帰る。僕から離れたい時。夫婦なのに」
俊介の声に傷が混じる。真尋は、正しさで返さない。
「俊介が、捨てられたように感じる可能性があります。でも、私が一人へ戻ることは、俊介との関係を終えることではありません」
「頭ではわかります。体が、わかるまで時間が必要です」
「はい」
*
「最初の一年」
真尋が提案する。
「東京へ戻る日数の半分を俊介の部屋」
「半分?」
「目安です。残りを自分の部屋。必ず半分ではない」
「はい」
「東京へ着いた最初の夜は、自分の部屋へ戻る場合が多い。移動疲れを取るため。翌日から俊介の部屋」
「はい」
「一緒に過ごす日も、別々の時間を作る。三か月後に確認します。自分の部屋が本当に必要か。俊介の家が、自分の家になっているか。その時、手放す可能性も考えます」
俊介は考え、頷いた。
「わかりました」
「我慢していませんか」
「しています。でも、受け入れられないとは思いません。僕の希望も残します」
「聞きます」
「いつか、東京では同じ家へ帰りたい。真尋が一人になりたい時も、同じ家の別の部屋で過ごせるように。そのための家を、将来一緒に探したい」
「はい」
「今の僕の部屋へ真尋を入れるだけではなく」
真尋の胸へ、その言葉が入る。
一緒に作る家。俊介の生活へ真尋が加わるのではない。二人の家。
「それなら、考えたいです」
「はい」
*
お金。
二人は収入と支出を、初めて具体的に見せ合った。
手取り。貯金。家賃。保険。親への仕送り。旅行。交際費。
真尋の二拠点移動費は会社負担が多い。だが東京の部屋の自己負担。俊介の住宅費。
「共有口座を作りますか」
俊介が尋ねる。
「何のため?」
「食費。日用品。将来の住居」
「同じ家へ毎日帰らないのに、食費は?」
「一緒に過ごす分だけ」
「管理が複雑です」
「はい。将来の住居費だけ、共有で貯める? 緊急時の費用」
「毎月同額? 収入比?」
二人は考えた。結論は出ない。数字を一度持ち帰る。
「今日、決めなくてよいです」
真尋が言った。
「でも、結婚前に。お金の話を避けない」
「はい」
*
親。俊介の母。真尋の母。
「結婚するなら、先に会う?」
俊介が尋ねた。
「以前、一度会っています」
「食事だけ。結婚の話として」
「はい。私の母は、喜ぶと思います」
「真尋のお母様は?」
「喜ぶ部分と、心配する部分」
「二拠点?」
「はい。私が仕事を続けることは、支持します。でも、結婚して別居に近い生活をすることへ、わからないと言うと思います」
「説得しますか」
「理解を求めすぎません。私たちが決める。でも、話は聞きます」
*
午後五時。話し始めて三時間。二人とも疲れている。
婚姻届は白紙のまま。結婚したい気持ちは、二人にある。同時に、決めていないことも多い。
「今日は、提出日を決めません」
俊介が言った。
「結婚することも、まだ決定ではない?」
「私は」
真尋は考えた。
「結婚する方向で、具体的に準備したいです」
俊介の目が潤む。
「はい」
「ただし、準備する中で、続けられない条件が見えたら止めます。結婚するために、どちらかが自分を消すことはしない」
「はい」
「葵との関係も。俊介の友人も。仕事も。一人の時間も。子どものことも、曖昧なまま約束しない」
「わかりました」
*
俊介は白紙の婚姻届を封筒へ戻した。
「捨てません。でも、見える場所へは置きません」
「なぜ?」
「急かしているように感じるかもしれないので。引き出しへ」
「次に出す時は?」
「名字と住居の話が進んだ時」
「はい」
*
夕食は、二人で作った。話し合いの後、すぐに抱きしめ合うより。
野菜を切る。鍋へ入れる。ご飯。日常へ戻る。
俊介が玉ねぎを切り、真尋が肉を焼いた。同じキッチン。狭い。肩が当たる。
「結婚したら、広い台所が必要ですね」
俊介が言った。
「毎日一緒ではないのに?」
「一緒の日は。二人で料理したいです」
「はい」
*
食事。先ほどの話をすべて続けない。
葵の全国発売。俊介の仕事。山岸の評価面談。北川の新しい職場。普通の話。
それでも、テーブルの下には、結婚の話をした二人の時間が残っている。
*
夜、二人は同じベッドへ入った。真尋は俊介の胸へ手を置く。鼓動。
「俊介。結婚すれば、不安は減ると思いますか」
俊介は考えた。
「種類が変わると思います。恋人だから、いつか終わるかもしれない不安。結婚後は、簡単に終わらせられない不安。責任。期待」
「はい」
「でも、僕は、法的に結ばれれば安心できると思っていました。今は、それだけではないとわかります」
「はい」
「真尋が大阪へ帰るたび、寂しい。婚姻届を出しても。葵さんに会うことへ嫉妬する。名字が同じでも」
「はい」
「だから、結婚を不安を消す方法にしません。不安があるまま、責任を選ぶ方法にしたいです」
真尋はその言葉を静かに聞く。
「私も」
答える。
*
「家族になったら」
真尋が言った。
「家族だから、という言葉を使わないでください」
「わかりました」
「何かを求める時。家族なら当然ではなく、私はこうしてほしいと。私も」
「はい」
「結婚したから仕事を変えて、ではなく、一緒にいたいから相談したい。母の介護も。子どもも。姓も。当然を作らない」
「はい」
俊介は真尋の手を握った。
「約束にしますか」
「絶対には守れないと思います。無意識に言う時も」
「はい」
「その時は、指摘する。言い直す」
「はい」
*
翌朝、二人は同じ時間に起きた。日曜日。仕事は休み。
朝食。コーヒー。
真尋は東京の自分の部屋へ戻る予定。俊介と一日過ごすこともできる。だが午後は一人で休みたい。
「帰りますか」
俊介が尋ねた。
「はい」
「昨日の後でも?」
「昨日の後だから。考える時間が必要です」
「僕も」
「はい」
俊介の顔に寂しさ。それでも止めない。
*
玄関。真尋は靴を履いた。俊介が言う。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「次に会う日は?」
「水曜日に確認」
「結婚の話は?」
「二週間後、次の項目を」
「名字とお金」
「はい。それまで、結論を急がない」
「でも、結婚する方向で考える」
「はい」
*
真尋は自分の東京の部屋へ戻った。
「ただいま」
同じ東京。俊介の部屋から電車で数十分。それでも別の家。
真尋は玄関へ荷物を置き、窓を開けた。
昨日の話を思い返す。結婚する方向。言葉にした。
怖い。嬉しい。
俊介と家族になる可能性。同じ家へ毎日帰らない夫婦。
その形を、世間へ説明することになる。会社。母。葵。友人。理解されない可能性。
だが、誰かに理解されるために結婚するわけではない。
*
葵へ伝える。
大きな選択。決める前に話すと秋田で約束した。まだ決定ではない。だから今、話す。
真尋はメッセージを送った。
『俊介と、結婚について具体的に話しました』
既読はすぐについた。
『決めた?』
『結婚する方向で準備します。提出日は決めていません』
返事が来ない。一分。三分。五分。
真尋は待った。葵がどう受け取るか。急かさない。
十分後。
『今日、話せる?』
『午後七時から一時間なら』
『はい』
真尋は時間を決めた。
*
午後七時、ビデオ通話。
葵は自宅。後ろには、全国発売の商品と資料。真尋は東京の部屋。
「話します」
『はい』
真尋は、俊介との会話を説明した。
結婚したい理由。不安。同じ家へ毎日帰らない夫婦。名字。子ども。住居。お金。葵との関係。
すべてを細かく話す必要はない。だが、葵との関係がどう扱われたかは伝える。
「俊介は、結婚後も葵との関係を続けることを理解しました」
『理解しただけ?』
「嫉妬はします。旅行も、毎回無条件に賛成するわけではありません。話します」
『うん』
「俊介の反対だけで必ずやめるとは言いません。ただ、結婚後は、私一人の予定では済まない影響も増えます」
『うん』
葵の表情は固い。
*
「葵。どう感じましたか」
『嫌』
すぐに答えが返る。
「はい」
『結婚するの、嫌。俊介さんが嫌いだからじゃない。真尋が誰かの家族になるのが嫌』
「はい」
『今も、お母さんの娘だけど、夫婦になると、そっちが一番になる感じがする。法律も。病院も。お金も』
「はい」
『私にはない』
葵の目に涙が浮かぶ。
『名前のない場所は、法律に何もない。真尋が病気になっても、私は家族じゃない。会えるかわからない。俊介さんが決める』
「状況によります」
『でも、私には権利がない』
「はい」
真尋は否定しない。葵の恐れは事実を含んでいる。
*
『結婚したら、私の場所は小さくなる?』
葵が尋ねた。
「時間は変わる可能性があります。俊介と共有する責任が増えます。でも、葵との関係を終わらせるつもりはありません」
『同じ?』
「同じではありません」
真尋は答えた。葵の顔が痛そうに歪む。
「戻った時、前と同じであることを求めないと決めました。私が結婚すれば、私は変わります。葵も、今のままではありません」
『うん』
「同じを守ることではなく、変わった関係を作り直す。それが私たちの約束です」
*
『真尋は、結婚したい?』
葵が聞いた。
「はい」
『俊介さんに言われたから?』
「違います」
『家族になりたい?』
「はい」
『私とは家族じゃないって、秋田で言った。俊介さんとは?』
「法的にも生活上も、責任を共有したいです。葵とは共有しない責任があります。だから、違います」
葵は泣きながら頷く。
『わかってる。わかってるけど、嫌。おめでとうって、まだ言えない』
「言わなくていいです」
『怒らない?』
「はい」
『いつまで?』
「期限は決めません。ただ、私が結婚する可能性を否定し続けるなら、関係を考える必要があります」
葵が息を止める。真尋も苦しい。
「葵が祝えないことは受け入れます。寂しい。嫌だ。怖い。全部聞きます。でも、私の結婚をやめさせるために関係を使うことは受け入れません」
葵は黙る。
*
『私は、やめてって言ったら?』
「聞きます」
『やめる?』
「やめません」
明確に答える。葵の涙が増える。
『真尋。選ばれなかったみたい。俊介さんを選んだ』
「結婚に関する責任では。でも、葵との関係を捨てたわけではありません。同じ比較ではありません」
『わかってる。でも、痛い』
「はい」
*
真尋は、すぐに安心させる言葉を探さない。
葵の痛みは、今夜なくならない。結婚しても変わらないと嘘をつけば、後でさらに傷つける。
「葵。今日は、距離を置きたいですか」
秋田で決めた問い。終わりか。休むためか。
葵は考えた。
『今日は、話したくない。でも、終わりじゃない』
「はい」
『次は』
葵は涙を拭う。
『一週間後』
「電話?」
『うん』
「午後八時。それまで、連絡は?」
『仕事の大きなことがあれば。緊急も。普通のメッセージは、今は少なくしたい』
「わかりました」
『真尋から結婚の話は、送らないで。俊介さんとのことを隠してほしいわけじゃない。でも、今は』
「わかりました」
*
「葵。一週間後に、必ず話します。戻った時、今と同じ気持ちでなくても、話しましょう」
『うん』
「関係を終わらせたいと思ったら、その時は言ってください」
葵が画面を見た。
『真尋は?』
「終わらせたいとは思っていません。でも、葵が私の結婚を受け入れられないことで、互いに傷つけ続けるなら、考えます」
言葉は厳しい。だが隠さない。
*
通話を終えた。画面が暗くなる。
真尋は椅子へ座ったまま動けない。胸が痛い。葵を傷つけた。
それでも、結婚をやめるとは言わなかった。
自分の人生を選ぶことを謝らない。傷つけたことには向き合う。秋田で決めた通り。
約束は、優しい言葉だけではない。互いの選択がぶつかった時に、関係を所有しないためのもの。
*
葵は通話を切った後、しばらく泣いた。部屋の中。一人。
全国発売の日とは違う涙。嬉しさはない。
真尋が誰かの家族になる。法的に。生活上。自分にはない場所。
名前のない場所を大切だと思っていた。名前がないから自由。比べなくていい。
それでも、名前のある関係が持つ強さを前にすると、自分の場所が薄く見える。
*
葵は真尋へ電話をかけ直しそうになる。
やめて。結婚しないで。私を選んで。
言いたい。希望を言ってもよい。真尋は聞く。そして、やめないと答える。
もう聞いた。同じ傷を繰り返すだけ。
葵は美月へ連絡しようとした。止める必要はない。今は、一人で抱えられない。
『話せる?』
送った。美月からすぐに電話がかかってくる。
*
『何があった?』
葵は話した。
真尋と俊介が、結婚する方向で準備する。提出日は未定。同じ家へ毎日帰らない。大阪と東京。葵との関係も続ける。
それでも嫌。
『おめでとうって言えない』
「うん」
『真尋に、やめてって言ったら、やめないって』
「うん」
『選ばれなかった』
「うん」
美月はすぐに、
『でも葵は大切』
と言わなかった。ただ聞く。
*
『葵は、真尋さんと結婚したいの?』
美月が尋ねた。
「違う」
『一緒に住みたい?』
「違う」
『法律上の家族になりたい?』
「それも違う」
『なら、何が欲しい?』
葵は答えられない。
「真尋の一番」
『一番になって、何をする?』
「わからない」
『俊介さんが持つものを奪いたい?』
「違う」
『でも、持ってることが嫌?』
「うん」
『そっか』
「私、最低?」
『気持ちは』
「うん」
『行動はこれから』
美月の言葉。
『嫌だって言うのはいい。結婚を邪魔するのは違う。真尋さんを責め続けるのも』
「うん」
『でも、今すぐ祝わなくていい』
「うん」
*
「一週間、連絡少なくする」
『距離を置く?』
「うん」
『終わり?』
「違う」
『秋田の約束』
「うん」
『一週間後、話す?』
「うん」
『それまでは?』
「生活する」
『仕事は?』
「全国の確認」
『ご飯は?』
「食べる」
『明日、美月と会う?』
葵は考える。
「会いたい」
『昼なら』
「うん」
『会おう』
*
電話を切った。
葵は食事を作る気力がない。冷蔵庫を開ける。全国発売の商品。食べる。それだけでは夕食にならない。
冷凍ご飯。スープ。卵。簡単に作る。
泣きながら食べる。
結婚の話を聞いた夜も、体は食事を必要とする。
*
真尋も東京の部屋で、一人の夕食を作った。
俊介へ、葵へ話したことを伝えるか。今すぐはやめる。
葵との会話は、葵のものでもある。共有できる範囲を考える。
ただ、俊介へ隠すつもりはない。明日、話す。
*
翌日、真尋は俊介と電話をした。
「葵へ話しました。祝えないと。結婚してほしくないと。私は、やめないと答えました」
俊介は黙る。
『怖いです』
「何が?」
『葵さんとの関係が壊れること。それを、僕との結婚が原因にすること。真尋が後悔すること』
「俊介のせいにはしません。私が結婚したいと考えた。葵との関係も続けたい。両方を選びました」
『はい』
「結果として葵が離れる可能性はあります」
『僕は、どうすれば?』
「今は何もしないでください」
『葵さんへ?』
「はい」
『連絡はしません。真尋へも、結婚を急かさない』
「ありがとうございます」
*
『真尋。僕は、葵さんに理解してもらわなければ結婚できませんか』
真尋は考えた。
「同意は必要ありません。でも、葵との関係へ影響するので、話す必要はあります。理解されなくても、結婚する可能性があります」
『それでいいです。でも、真尋が葵さんを失った時』
「はい」
『僕だけで埋めようとしないでください』
真尋の胸が動く。
「どういう意味ですか」
『僕がいるから大丈夫だと思わないで。悲しんでください。僕へ怒る可能性も。その時、僕も聞きます』
「ありがとうございます」
*
一週間。真尋と葵は、普通の連絡をしなかった。
仕事上の大きなこと。緊急。どちらもなかった。
真尋は、大阪へ戻る。会社。山岸。森田。予算。二拠点準備。
葵は、全国展開。売上。広告。顧客の言葉。次の商品。
生活は進む。
真尋は何度も、葵へ写真を送りたくなった。大阪の店舗。新しい花。山岸の研修。
止める。一週間後に話す。葵が距離を必要としている。
葵も、真尋へ話したいことが増えた。
顧客の言葉が広告へ使われることが決まった。本人から最終承認。売上が予測を十二パーセント上回った日。次の商品企画で、初めて一人で会議を進めた。
送りたい。止める。今は、自分で記録する。
美月へ話す。石橋へ。南雲へ。母へ。
真尋だけが戻る場所ではない。
*
一週間後、午後八時。ビデオ通話。真尋は大阪。葵は東京。
二人の顔が画面へ映る。
「こんばんは」
『こんばんは』
少しよそよそしい。七日間。長くはない。だが、変わった。
「どうでしたか」
真尋が尋ねる。
『何が?』
「一週間」
葵は考えた。
『仕事した。美月に会った。お母さんとも電話。商品、売れてる。顧客の言葉、広告に使うことになった。本人も確認した』
「はい」
『真尋に言いたかった。でも、言わなくても進んだ』
「はい」
「私は」
真尋も話す。
「部長会議。山岸さんの評価。俊介と結婚の話の続きを少し」
葵の顔が硬くなる。
「今、聞きたくない?」
『少しだけ』
「名字とお金の調査を始めました。提出日は決めていません」
『うん』
*
「気持ちは変わりましたか」
真尋が尋ねた。
『結婚してほしくない。でも、やめさせたいとは』
葵は言葉を止める。
『思ってる。思ってるけど、しない。真尋が自分で選んだことだから』
「はい」
『おめでとうは、まだ言えない。でも、関係を終わらせたいとは思ってない』
真尋の肩から、わずかに力が抜ける。
「私もです」
『ただ、今までと同じは無理。俊介さんが家族になったら、私が知らない決定が増える。会える時間も変わる。緊急の時、俊介さんが先』
「状況によりますが」
『多分』
「はい」
『それを、毎回傷つくと思う。でも、傷つくからって真尋を止めたくない』
「はい」
*
『秋田で』
葵が言う。
『戻った時、前と同じであることを求めないって決めた。結婚した真尋は、違う人?』
「少し」
『私も変わる。名前のない場所も、変わる。なくなる?』
「二人が続けたいなら、なくしません」
『俊介さんが嫌だと言っても?』
「話します。でも、葵との関係を、結婚前と全く同じにはできない可能性があります」
『わかってる。旅行。泊まる。会う回数。全部、話すことが増える。嫌』
「はい」
『でも』
葵は涙を拭う。
『私も、仕事で会えない日が増えてる。全国へ行ったから。真尋だけが変わるわけじゃない』
「はい」
*
「私たちの約束を、少し見直しますか」
真尋が尋ねた。
『何を?』
「大きな選択を決める前に話す。結婚後も続けます。ただ、俊介との共同の情報を、すべて葵へ話せるわけではありません」
『うん』
「お金。病気。家族。俊介の許可が必要な情報もあります」
『わかる』
「葵も、仕事の秘密や美月の話を、すべて私へ話さない。共有できる範囲で」
『うん』
*
『真尋。結婚したら、私の緊急連絡先になってくれる?』
真尋はすぐに答えない。
「どの意味ですか」
『何かあった時。病院とか。家族より先にじゃなくても、連絡していい人』
「もちろんです」
『でも、俊介さんとの予定があったら?』
「緊急なら行きます」
『本当に?』
「俊介にも説明します。ただ、私だけを緊急連絡先にしないでください」
『うん』
「家族。美月。複数の人を」
『はい』
「私も、俊介と母だけではなく、必要な人を考えます」
*
『名前のない場所に、法律はない』
葵が言う。
「はい」
『でも、約束はある。法律より弱い?』
真尋は考えた。
「比べられません」
『また』
「法律は、権利と責任を決めます。約束は、二人が守ろうとするものです。法的な強さはありません。でも、弱いから大切ではないわけではありません」
『うん』
「結婚には、葵との関係にはない責任があります。葵との場所には、結婚では持たない自由と意味があります。どちらかを上にしません」
『でも、優先はある』
「はい」
『うん』
「それを隠しません」
*
葵は長く息を吐いた。
『まだ痛い。でも、一週間前より話せる。次、いつ会う?』
真尋は予定を開いた。
「三週間後」
『長い。もっと早く』
「来週は俊介と、母。再来週は大阪の会議。その次の日曜日」
『午後?』
「四時から。三時間」
『結婚の話もする?』
「葵が聞きたい範囲で。それ以外の話も」
『商品。顧客の広告。次の企画』
「聞きます」
*
『真尋。結婚しても、会いたいって言う。来てって』
「はい」
『断られたら、怒る。でも、終わりにしない』
「はい」
『真尋も。私が仕事で会えない時、寂しいって言って。物わかりよくしないで』
「わかりました」
*
通話の最後、葵が言った。
『おめでとうは、まだ。でも、結婚する方向で考えてる真尋を、嫌いにはなってない』
「ありがとうございます」
『今の真尋を、また知る』
「私も、今の葵を」
『はい』
*
電話を切った後、真尋は生活ノートを開いた。
『結婚について』
『不安を消すために結婚しない』
『不安が残っても、責任を共有したいかを考える』
『家族だから当然、を使わない』
『同じ家へ毎日帰らなくても、同じ生活を作る方法を探す』
『結婚のために、ほかの大切なものを消さない』
『結婚後、関係が変わることを隠さない』
最後に。
『葵の同意は必要ない。しかし、影響を話す責任はある』
*
葵もノートへ書いた。
『真尋が結婚するかもしれない』
『嫌』
『選ばれなかったと感じた』
『でも、私が欲しいのは結婚ではない』
『俊介さんの場所を奪っても、私の欲しい場所にはならない』
『名前のない場所に、法律はない』
『それでも、二人で選び直す約束がある』
『結婚した真尋へ、前と同じを求めない』
最後の行で、手が止まる。難しい。まだできない。
葵は、その下へ書く。
『できない日もある。傷ついたら話す』
*
真尋と俊介は、その後も結婚の準備を急がなかった。
名字。住居。お金。子ども。緊急連絡先。会社の制度。一つずつ調べる。
婚姻届は、俊介の引き出しに入ったまま。白紙。何も決まっていない紙。
だが、以前とは違う。二人は、結婚を遠い話として避けていない。
*
一か月後、真尋と俊介は、不動産会社の前で待ち合わせた。
すぐに引っ越すためではない。将来、二人で東京の家を持つなら、どのような部屋が必要かを見るため。
二つの寝室。仕事部屋。互いが一人になれる場所。同じ家にいても、離れられる間取り。
「三部屋必要ですね」
俊介が言う。
「高いです」
「駅から離れる?」
「はい」
「真尋の東京勤務先からは?」
「一時間以内」
「僕の会社も。すぐには無理ですね」
「はい。でも、見るだけでも」
「はい」
二人は部屋を見た。何も買わない。決めない。
それでも、同じ家を作る想像をする。
*
葵は、その日、全国展開の二回目の広告会議を進めていた。南雲は途中から参加。葵が先に説明する。
顧客の言葉。本人の条件。掲載案。過度に劇的にしない。短い文章。
『決めた後にも迷っていました。この商品を見て、決められない日にも休んでよいと思えました。』
本人の最終承認済み。
葵は、自分で会議を進める。
真尋がどこで何をしているかは知らない。結婚の準備かもしれない。俊介と。
胸が痛む。それでも、自分の仕事をする。
*
会議が終わった後、南雲が言う。
「次の全国案件の責任者候補として、研修へ入りますか」
葵は驚く。
「私が?」
「まだ候補です。今回のプロジェクトで、会議進行と外部調整を経験してもらいます。次の企画も見ます」
「はい」
「責任者になれる保証はありません」
「わかっています」
「受けますか」
葵は一度、息を吸う。
「受けます」
*
真尋に伝えたい。すぐに。
葵はスマートフォンを開いた。
今は、真尋と俊介が不動産を見る日だと聞いている。
送ってよい。返事を求めなければ。
『次の全国案件の責任者候補として、研修へ入ることになりました』
送る。既読はすぐにつかない。
葵は画面を閉じ、南雲との次の打ち合わせへ向かう。
*
真尋がメッセージに気づいたのは、二つ目の物件を見終えた後だった。
『次の全国案件の責任者候補として、研修へ入ることになりました』
真尋は足を止めた。
「どうしました?」
俊介が尋ねた。
「葵が。責任者候補の研修へ」
「おめでとうございます。返事を」
「今、送っても?」
「もちろんです」
真尋は打った。
『おめでとうございます。選ばれなかった夜から、ここまで進んだのですね』
考え。
『会った時に、どのように選んだのか聞かせてください』
送る。
*
葵が返事を読んだのは、会議室へ入る直前だった。
選ばれなかった夜。覚えている。真尋が。
『はい。最初から話します』
送る。会議へ入る。
*
真尋は俊介と並んで、次の物件へ歩く。葵は南雲の隣で、責任者研修の説明を聞く。
別々の場所。別々の未来。どちらも進んでいる。
*
結婚することは、真尋が俊介だけの人になることではない。葵との関係が、何も変わらず残ることでもない。
名前のある関係が増える。責任が増える。優先が生まれる。傷つく人もいる。
それでも、隠さず話す。互いの選択を奪わない。変わった後に、知り直す。
*
同じ家へ毎日帰らない二人。同じ未来を完全には見ていない二人。
それでも、同じ生活を作ろうとする。そして、その生活の外にも、大切な場所を持つ。
簡単ではない。だが、簡単ではないから間違いなのではない。
*
真尋は三つ目の物件の窓から、東京の街を見た。俊介が隣にいる。
「ここは?」
俊介が尋ねた。
「少し遠いです。でも、部屋は良い。一人になれる場所も」
「はい」
「いつか」
真尋は言った。
「このような家を、一緒に探したいです」
俊介は吹き出した。
「僕も」
*
その頃、葵は研修資料の最初のページを開いていた。
『責任者に必要なこと』
目的。予算。人員。決断。手放すこと。失敗。
葵はペンを持った。
真尋に見てほしい。だが、真尋が見ていなくても、今日の自分は進む。
そのことを、もう知っている。
*
真尋と俊介の婚姻届は、まだ白紙だった。
それでも二人は、同じ家に帰らない可能性を含めて、家族になる道を歩き始めた。
葵はまだ、おめでとうと言えない。それでも、真尋との場所へ戻ることを選んでいる。
誰も、完全には安心していない。誰も、すべてを得てはいない。
それぞれが、自分の生活を持ったまま、誰かと責任を分ける方法を探していた。
今は、それでよかった。




