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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第三十五章 会えない日の朝

全国発売日の朝、葵は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

 午前四時五十二分。カーテンの向こうはまだ暗い。部屋の中には、冷蔵庫の低い音だけが続いている。

 葵は布団の中で天井を見た。

 今日。全国の店舗へ商品が並ぶ。

 首都圏二十店舗の試験ではない。一部地域だけでもない。北海道から九州まで、決められた店舗の棚へ、同じ青いパッケージが置かれる。

『迷う日にも、ひと息。』

 自分が書いた言葉。自分だけでは作れなかった味。

 南雲がまとめた全国販促。開発が安定させた製造。営業が確保した棚。デザイン部が整えた冬季版。

 多くの人の仕事が、今日から消費者の生活へ入る。

 嬉しい。怖い。

 眠れなかったわけではない。途中で何度か目を覚ましたが、また眠れた。

 以前なら、一晩中スマートフォンを見ていたかもしれない。売上。店舗。真尋からの連絡。

 今朝は、まだ画面を開いていない。

 真尋との電話は午前六時半から十分間。

 真尋は大阪。午前八時から部長会議。その後は終日、三地域の予算調整。夜は俊介との約束。

 発売日に会いたいと言った。来てほしいと。真尋は来られないと答えた。

 傷ついた。それでも、今朝の十分を二人で決めた。発売から一週間後には会う。その約束がある。

 葵は布団から出た。

     *

 洗面所で顔を洗う。

 鏡の中の自分は、思ったより普通だった。目元が少しむくんでいる。髪は乱れている。全国発売を迎える人の顔には見えない。

 当然だ。顔が特別に変わるわけではない。

 葵は冷たい水でもう一度頬を洗った。

 今日は取材がある。社内広報。ウェブ用の短いインタビュー。店舗確認。南雲たちとの朝礼。

 服は前夜に用意している。白いブラウス。濃紺のパンツ。灰色の薄いジャケット。

 目立ちすぎない。だが、写真へ残っても後悔しないもの。

 葵は着替える前に台所へ行った。

 朝食。食べる必要がある。食欲はあまりない。それでも、パンを焼く。卵を茹でる。ヨーグルト。コーヒー。

 発売日の朝も、体はいつもと同じように食事を求める。

     *

 パンが焼ける間、スマートフォンを開いた。通知がいくつも届いている。

 美月。

『今日だね。起きたら連絡して』

 母。

『全国発売、おめでとう。朝早いでしょう。ちゃんと食べてね』

 石橋。

『六時に店舗データ確認。七時半会社集合』

 南雲。

『本日は予定通り。店舗で問題があれば、個別ではなく共有チャネルへ』

 真尋。午前零時を少し過ぎた時間。

『全国発売、おめでとうございます。朝、話しましょう』

 短い。それで十分だと思おうとする。だが、もう少し長く書いてほしかった気持ちもある。

 真尋の部長就任日、葵は何度も言葉を考えた。何者でもなかった時の真尋も知っている。部長になった真尋も見たい。自分の言葉を送りたかった。

 真尋は、全国発売おめでとう。朝、話しましょう。それだけ。

 比べない。真尋は真尋の形で伝えた。

 葵は画面を閉じた。

     *

 午前五時半、朝食を食べる。

 パンは少し焦げた。卵は茹ですぎた。味はわかる。食べられる。

 全国発売の日だからと、すべてがうまくいくわけではない。

 食べ終え、食器を洗う。部屋を出る準備をする。

 バッグの中。社員証。パソコン。資料。全国発売版の商品。

 古い試作品ではない。今日から店へ並ぶもの。

 葵は一袋を手に取り、机へ置いた。持っていく必要はない。会社にも店舗にもある。

 それでも、自分のバッグへ一つ入れる。

 お守りではない。今日、自分が何を見届けるのかを忘れないため。

     *

 午前六時二十八分。葵はテーブルへスマートフォンを置いた。

 鏡で髪を確認する。取材用に整えた顔。

 真尋に見せたいのは、きれいにした姿だけではない。緊張していること。眠れたこと。パンを焦がしたこと。全国へ出ること。

 全部話したい。だが十分間。すべては話せない。

 午前六時三十分、真尋から着信が入る。

     *

「おはようございます」

『おはよう』

 画面の中の真尋は、大阪の部屋にいる。髪を整え、仕事用の服。背後には白い花瓶。紫色の花は終わり、今は淡い緑の花が一本入っている。

「新しい花。いつ買った?」

『昨日』

「誰から?」

『自分で』

 葵は吹き出した。

『葵は、もう準備ができていますね。眠れましたか』

「何度か起きたけど、寝た」

『朝食は?』

「食べた」

『何を?』

「焦げたパン。茹ですぎた卵。ヨーグルト」

『十分です』

「仕事の人」

『心配だったので』

     *

 少し沈黙。言いたいことが多い。真尋も同じなのか、画面を見ている。

「今日、全国に並ぶ」

 葵が言った。

『はい』

「本当に。北海道にも。福岡にも」

『はい』

「大阪にもある?」

『対象店舗に』

「見に行って」

『今日は難しいです』

 すぐに答えられる。少し痛い。

「一店舗だけでも?」

『会議が終わる時間には、閉店へ近いです。明日の朝なら確認できます』

「今日じゃない」

『はい』

「今日、見てほしかった。ごめん」

『謝らなくていいです』

「わかってる」

『私も、今日見られないことを残念に思っています。でも、全国発売は、私が店頭で確認しなくても始まります』

「うん」

『葵が、今日そこにいます。南雲さんも。石橋さんも。開発や営業の皆さんも』

「真尋はいない」

『はい』

 真尋は否定しない。

     *

「真尋。今日の私を、覚えてて」

『覚えています』

「まだ始まってない」

『全国発売の朝、焦げたパンを食べた葵』

「そこ?」

『眠れて、朝食を食べ、仕事へ行く準備をした葵。会いたいと言って、会えなくても今日を始める葵』

 目に熱が集まる。

「泣かせないで」

『取材がありますね。泣かないように』

「真尋が言った」

『すみません』

 葵は笑いながら涙を拭った。

     *

『今日、何を一番見たいですか』

 真尋が尋ねる。

「商品が棚にあるところ。誰かが取るところ。でも、声をかけない」

『はい』

「買わなくても、落ち込まない。たぶん落ち込む」

『はい』

「最初の一個が売れるところを見たい」

『見られるとは限りません』

「わかってる。真尋は、今日何する?」

『八時から部長会議。予算と、二拠点試験の運用確認。午後は山岸さんの最初の評価面談』

「はい」

『夜は俊介と食事です』

 胸が痛む。発売日の夜。俊介と食事。知っていた。

「楽しんで。私の発売日だから、暗い顔しないで」

『しません』

「でも、一回は思い出して」

『何度も思い出すと思います』

「うん」

     *

 真尋が時計を見る。残り二分。葵も気づく。

「もう終わり?」

『はい』

「早い」

『一週間後に。今日のことを最初から聞きます』

「資料、たくさんある。映像も。売上も」

『見ます』

「泣いたら?」

『聞きます』

「成功しても? 失敗しても?」

『聞きます』

「真尋」

『何ですか』

「全国へ行ってきます」

 真尋の表情が柔らかくなる。

『行ってらっしゃい』

「真尋も。部長の仕事へ行ってらっしゃい」

『行ってきます』

 通話が切れた。

     *

 画面が暗くなる。部屋が静かになる。

 十分間が終わった。もっと話したい。だが、時間を延ばしても、真尋が東京へ来るわけではない。

 葵はスマートフォンをバッグへ入れた。

「行ってきます」

 自分の部屋へ言い、玄関を出た。

     *

 最初に向かう店舗は、会社近くの駅構内だった。午前七時十五分。開店直後。

 南雲、石橋、営業担当、広報担当が現地へ集合している。葵が着くと、南雲が時計を見た。

「予定通りですね。緊張していますか」

「かなり」

「私もです」

 南雲の声は落ち着いている。だが、手には同じ商品が一袋。

「南雲さんも持ってる」

「初回見本です」

「私も」

「お守りではありませんよ」

「同じこと言われました」

「誰に?」

「自分に」

 南雲が笑った。

     *

 店舗の担当者へ挨拶し、棚へ案内される。

 菓子売り場の一角。青いパッケージが三列。正面に並んでいる。

 売り場札。

『迷う日にも、ひと息。』

 その下に小さく、

『決めたあとに立ち止まっても、選んだことが消えるわけではありません。小さな甘さと、短い休息を。』

 葵は足を止めた。

 何度も資料で見た。試験店舗でも見た。だが、全国発売日として見る棚は違う。

「小野寺さん、写真を」

 広報担当が声をかける。

「はい」

 葵は南雲、石橋、開発担当と並んだ。一人ではない。

 商品を中央に持つのは、南雲ではなく葵だと言われた。

「企画担当なので」

 南雲が言う。

 葵は商品を両手で持つ。カメラ。笑顔を求められる。今は笑える。

 撮影。何枚か。

     *

 午前七時二十三分、最初の客が売り場へ来た。

 男性。四十代くらい。パンを見ている。商品には目を向けない。通り過ぎる。

 葵は追わない。

 次に、若い女性。棚の前で立ち止まる。商品を見る。売り場札。

 葵の呼吸が浅くなる。

 女性は手を伸ばす。隣の商品を取った。

 葵の肩が落ちる。石橋が小さな声で言う。

「一人目で決まるわけじゃない」

「わかっています」

「顔に出てる」

「はい」

     *

 午前七時三十一分、年配の女性が商品を手に取った。

 裏面を見る。価格を確認する。棚へ戻す。また取る。かごへ入れる。

 葵は声を出さなかった。南雲も。石橋が息を吐く。

「一個目」

 営業担当が小さく言う。

 店舗のレジデータへ反映されるのは少し後。それでも、目の前で最初の一袋が売れた。

 葵の目に涙が浮かぶ。

「泣かない」

 南雲が言う。

「はい」

「取材があります」

「皆、同じこと言う」

「誰に?」

「真尋」

 南雲は何も聞かず、ティッシュを一枚渡した。

     *

 女性がレジへ向かう。

 何を思って買ったかはわからない。言葉。味。値段。見た目。たまたま。

 声をかけない。商品の意味を確認しない。女性の生活へ入った後は、女性のもの。

 葵は遠くから見送った。

     *

 午前八時、会社へ戻る。

 全国の店舗から、陳列完了の写真が共有チャネルへ届き始める。

 札幌。仙台。新潟。名古屋。大阪。広島。福岡。

 同じ青。店舗によって棚の高さが違う。隣の商品。照明。売り場札。すべて同じではない。

 葵は大阪の写真を拡大した。

 真尋が今日見られない店舗。真尋の生活圏に近いかはわからない。

 商品は、真尋が見なくても大阪へ届いている。

     *

 午前八時半、全国展開チームの朝礼。南雲が進行する。

「本日、予定店舗の九十八パーセントで陳列完了」

 残りは物流遅延。

「午前中に対応します」

 営業。

「広告映像は午前十時公開」

 広報。

「初日の売上速報は午後三時」

 南雲は一つずつ確認し、最後に葵を見る。

「小野寺さんから」

 葵は立つ。何を話すか、短く準備していた。

「今日から、この商品は私たちの手を離れ、買ってくださる方の生活へ入ります」

 皆が聞く。

「私たちが意図した通りに受け取られるとは限りません」

 試験販売で学んだこと。

「コピーを読まず、味だけで買う方もいます。暗いと感じる方も。何も変わらなかったと思う方もいます」

 葵は一度、商品を見る。

「それでも、短い休息として選んでもらえる商品になるよう、今日からも確認を続けます」

 話し終える。南雲が頷いた。

「ありがとうございます」

     *

 午前十時、広告映像が公開された。社内の大きな画面へ映る。

 夜。仕事を終えた女性。青いパッケージ。朝。目覚まし。窓。光。

 笑わない。小さく息を吐く。

 葵が守った最後の場面。

 公開後、SNSの反応が少しずつ流れ始める。

『このコピー、今の自分に刺さる』

『ちょっと重い』

『味が気になる』

『朝に食べるもの?』

『仕事辞めたい人向け?』

『パッケージかわいい』

 意図通りではない言葉もある。葵は一つ一つへ反応しない。

 広報担当がまとめる。

「個別の投稿には返信しません。質問だけ、公式から。ネガティブな反応も記録します」

「はい」

     *

 午前十一時、ウェブ取材。葵と南雲。

「商品開発のきっかけは?」

 葵は、自分の失恋を話さない。

「決断した後にも迷いが残る方の声を、企画の中で多く見たことです」

 嘘ではない。最初のきっかけには自分の経験がある。だが、今の商品は葵一人の人生ではない。

「何を一番大切にしましたか」

「前向きになることを求めないことです」

「食べても問題は解決しない?」

「はい」

 記者が驚く。

「商品として、弱く聞こえませんか」

「問題を解決する商品ではありません」

「では、何を?」

「考え続ける前に、短く休む時間を」

 葵は答えた。

     *

 取材が終わる。南雲が葵へ言う。

「今の回答、良かったです」

「解決しないと言って大丈夫でしたか」

「誇張しないことが、この商品の強みです。ただ、次の取材では味の話もしてください」

「はい」

「言葉だけの商品に戻さない」

「わかりました」

 以前の真尋からの感想を思い出す。言葉だけでなく、味でももう一度手に取りたくなる商品。

 あの時は傷ついた。今は、その意味がわかる。

     *

 正午。昼食。全国展開チーム全員で弁当を食べる。

 豪華な祝いではない。午後も仕事がある。

 南雲が紙コップのお茶を持つ。

「全国発売、おめでとうございます」

 皆で乾杯する。葵も。

 石橋が隣に座る。

「どうだ」

「まだ実感ないです」

「店舗で一個売れたの見たんだろ。泣いた?」

「少し」

「知ってる。見てたから」

「はい」

 葵は弁当を食べる。

「石橋さん。責任者じゃなくても、今日ここにいてよかったです」

「今さら帰るなよ」

「帰りません」

「次は?」

「まだ今日を終えてません」

「それでいい」

     *

 午後一時、店舗から最初の問い合わせが入る。売り場札の説明が長く、商品名が見えにくい。

 営業から修正案。葵は確認する。言葉を短くする。

『決めたあとにも迷う日に、小さな休息を。』

 最初の文章より短い。意味は残る。

 葵は承認する。

 全国へ広がれば、すべてを同じ形にはできない。

     *

 午後二時、製造工場から、一部商品の封が弱い可能性があると連絡。対象ロット。店舗。数量。

 南雲が判断する。

「該当商品は一時販売停止」

 葵の顔が強張る。

「初日ですよ」

「だからです。少数でも、品質確認を優先します」

「はい」

 営業へ連絡。該当店舗。交換。原因確認。

 全国発売の日にも問題は起きる。すべてが祝福だけではない。

 葵は開発担当と確認する。味ではない。包装機の調整。午後中に再確認。影響店舗は六。

 全国全体から見れば小さい。だが、買った人にとっては一袋。

     *

 午後三時、初回売上速報。全体として、予測を少し上回る。

 駅前店舗が強い。住宅地も悪くない。地域差。大阪は予測通り。福岡が高い。札幌はやや低い。

 数字が画面へ並ぶ。拍手が起きる。葵も笑う。

 だが、まだ一日。南雲が言う。

「今日は喜びます。明日から分析」

 以前、石橋から言われた言葉と同じ。葵は笑った。

     *

 その瞬間、真尋へ送りたくなる。スマートフォンを開く。

 真尋から午前中に一度だけメッセージが来ている。

『大阪の店舗写真を見ました。会議資料に掲載されていました』

 葵は気づいていなかった。真尋は店へ行けなかった。だが、仕事の資料で商品を見た。

『見た?』

『はい』

『本物は?』

『明日』

 その後、返信していない。葵は送る。

『初回速報、予測を少し上回りました』

 送信。すぐに既読はつかない。会議中。

 葵はスマートフォンを置く。

 数字は、真尋が見なくても数字。全国チームの皆が見ている。自分も。

     *

 午後四時、社内広報用の写真撮影。葵、南雲、石橋、開発、営業。商品を持つ。

 今度は葵だけが中央ではない。南雲と並ぶ。責任者と企画担当。

 以前なら、自分が一番前でないことに傷ついたかもしれない。今も少し気になる。

 だが、南雲がいなければ今日へ来られなかった。

 写真の中で、葵は自然に笑った。

     *

 午後五時、美月から電話。葵は廊下へ出る。

「もしもし」

『おめでとう! 買った!』

「どこで?」

『会社の近く』

「本当に?」

『写真送った』

 画面を見る。美月の手。青いパッケージ。売り場。

『まだ食べてない』

「味、変わった」

『知ってる』

「前のも食べた?」

『葵にもらった。今日、忙しい?』

「かなり」

『泣いた?』

「少し」

『真尋さんは?』

「朝、十分話した」

『会えないんだよね。寂しい?』

「うん」

『でも今、葵の周りに人たくさんいるでしょう』

「いる」

『それでも真尋さんに会いたい?』

「会いたい」

『なら、会いたいままでいいね。今夜、一人?』

「会社の皆と軽く食事」

『よかった』

「真尋は俊介さんと。少し嫌」

『うん』

「でも、今夜は私も私の人たちといる」

『それでいい』

     *

 午後六時、全国展開チームの業務を一区切りにする。

 包装不良の確認。原因特定。対象商品の回収。翌朝には再出荷。大きな問題にはならなかった。

 売上速報。広告反応。問い合わせ。南雲がまとめる。

「本日は、ここまで」

 皆が息を吐く。

「食事へ行ける人だけ、近くで」

 強制ではない。葵は行く。

 疲れている。一人で帰って、真尋からの連絡を待ち続けたくないという気持ちもある。

 それだけではない。今日を一緒に作った人たちと過ごしたい。

     *

 店は、会社近くの居酒屋だった。十人ほど。南雲。石橋。開発。営業。広報。葵。

 乾杯。

「全国発売、おめでとうございます」

 ビール。お茶。葵は少量の酒。食事。

 皆が今日の話をする。

「最初の一個、誰が見た?」

「小野寺さん」

「泣いてた?」

「泣いてません」

「少し」

 南雲が言う。皆が笑う。

「包装の連絡、心臓止まるかと思った」

「初日だからこそ早く見つかってよかった」

「福岡が強い理由、明日分析」

「札幌は天気の影響かも」

 仕事の話が続く。それでも楽しい。

     *

 南雲が葵へグラスを向ける。

「小野寺さん。今日は、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「この商品を始めてくださって。全国へ渡してくださって」

 葵の胸が熱くなる。

「私は、まだ手を離したつもりはありません」

「全部は離さなくていいです。でも、今日からは、私たちだけのものでもない」

「はい」

「明日からも、守るところと変えるところを一緒に考えましょう」

「お願いします」

 グラスを軽く合わせる。

     *

 午後八時過ぎ、食事会の途中でスマートフォンが震えた。真尋。

『予測を上回ったのですね。おめでとうございます』

 短い。

『包装の問題もあったと、業界速報で見ました。大丈夫ですか』

 葵は驚く。真尋も自分の仕事の合間に情報を見ていた。

『対応しました。六店舗だけ』

『はい』

『今、皆と食事です』

『楽しんでください』

『真尋は?』

 返事は少し後。

『俊介と食事をしています』

 胸に、やはり小さな痛み。

『発売日、お疲れさまでした』

『まだ終わってない』

『はい』

『一週間後に』

 それ以上送らない。真尋も。

     *

「小野寺さん」

 石橋が呼ぶ。

「スマートフォンばかり見るな」

「一回だけです」

「誰?」

「大切な人」

「なら、後で話せ」

「はい」

 葵はスマートフォンを伏せた。今は、この場。目の前の人たち。

     *

 午後九時半、食事会が終わる。全員で店を出る。

 南雲は明朝七時半に最初の確認をすると伝えた。

「遅刻しないでください。今日は寝てください」

「はい」

「小野寺さん。自宅で売上を更新し続けない」

「はい」

「本当に?」

「努力します」

「明日の七時半に見れば十分です」

「はい」

     *

 駅へ向かう。石橋が隣を歩く。

「どうだった」

「疲れました」

「ほかは」

「嬉しい。怖い。真尋に会いたい」

 思わず言う。石橋は驚いた。

「今から?」

「大阪です。会えない」

「うん」

「でも、今日、皆といてよかった。石橋さんにも見てもらった」

「最初から見てる。それじゃ足りない?」

 美月にも聞かれた。葵は考える。

「足りないんじゃなく、見てほしい場所が違う」

「なるほど」

「石橋さんには、仕事の私。美月には、悔しい私。母には、嬉しい私」

「うん」

「真尋には、全部話したい」

「全部は無理だろ」

「わかってます」

「なら、話せるところを話せ」

「一週間後に」

「それまで?」

「自分の生活をする」

 石橋の口元が緩んだ。

「成長したな」

「その言い方、嫌です」

「はい」

     *

 電車へ乗る。座席へ座れる。疲れが一気に出た。足が重い。

 スマートフォンには、母からメッセージ。

『ニュースで広告を見たよ。おめでとう』

 美月。

『食べた。前より好き』

 会社の共有チャネル。売上。写真。

 葵は一つずつ開き、必要な返事だけする。真尋との画面は開かない。

 今夜、真尋は俊介といる。その時間へ割り込まないためだけではない。

 自分も、今日の終わりを自分で受け取りたい。

     *

 最寄り駅。改札。自宅への道。

 全国発売日は、いつもの道を歩いて終わりへ近づく。店の灯り。自転車。犬を散歩する人。

 誰も葵が今日何をしたか知らない。それでいい。

 葵は少し足を止め、空を見た。曇っている。星は見えない。特別な景色ではない。

 それでも今日の空。

 葵は写真を撮った。真尋へ送るためではなく、自分で残す。

     *

 部屋へ入る。

「ただいま」

 靴を脱ぐ。照明。バッグを置く。ジャケットを脱ぐ。

 疲れている。だが、まだ一つしたいことがある。

 冷蔵庫から、小さなケーキを出す。前日に自分で買った。全国発売が決まった夜と同じように。

 今夜は、発売したことを祝う。

 皿へ置く。ろうそくはない。スマートフォンを立てて写真を撮る。

 美月へ送るか。母へ。真尋へ。

 送らない。今は自分だけで見る。

「全国発売、おめでとう」

 葵は声に出した。

「今日、よくやった」

 続ける。以前より自然に言えた。

     *

 ケーキを一口食べる。甘い。疲れた体へ入る。涙が出る。

 嬉しい。寂しい。真尋に会いたい。

 今から電話をかければ、出るかもしれない。俊介といても。

 緊急ではない。会いたいだけ。それでも電話をかけてはいけないわけではない。希望を言ってもよい。断られても関係は終わらない。

 葵はスマートフォンを手に取る。真尋との画面。文字を打つ。

『今、会いたいです』

 送るか迷う。

 すでに、発売日に会いたいと伝えた。朝も話した。一週間後も決めた。今の気持ちを消す必要はない。

 だが、今すぐ真尋に何をしてほしいのか。電話。声。褒めてほしい。今日の終わりへ一緒にいてほしい。

 それは悪くない。ただ、真尋は今、俊介との時間。

 自分は、今日を作った人たちと食事をし、一人でケーキを食べている。今夜を一人で終えられないわけではない。

 葵は文章を変えた。

『今、会いたいと思っています。でも、今日はこのまま一人で休みます。一週間後、今日のことを全部聞いてください』

 送信。

     *

 すぐに既読はつかない。葵はスマートフォンを伏せる。

 ケーキを食べ終える。皿を洗う。シャワーを浴びる。髪を乾かす。

 全国発売日の服をハンガーへかける。明日も着るわけではない。特別な日の服として取っておく必要もない。

 洗濯へ出す。

     *

 ベッドへ入る前、ノートを開く。

『全国発売日』

 その下へ、時間順に書く。

『午前六時半、真尋と十分話した』

『駅の店舗で、最初の一袋が売れた』

『泣いた』

『広告が公開された』

『解決しない商品だと取材で話した』

『包装不良が見つかった』

『販売を止め、交換した』

『初回速報は予測を少し上回った』

『皆と食事をした』

『真尋は俊介と食事をした』

 一度ペンが止まる。それも今日の一部。続ける。

『寂しかった』

『でも、自分たちの仕事を一緒に祝った』

『一人でケーキを食べた』

『自分へ、おめでとうと言った』

 最後に。

『真尋が見ていなくても、今日の私は消えなかった』

『それでも、一週間後に見てほしい』

     *

 スマートフォンが震える。午後十一時十二分。真尋。

『今、メッセージを読みました』

 葵は画面を見る。

『会いたいと思ってくださったこと、受け取りました』

『はい』

『今日は、よく頑張りました』

 涙がまた落ちる。

『一週間後、最初から聞きます』

 葵は返信する。

『はい』

 考え、もう一つ。

『今夜は、自分で自分におめでとうと言いました』

 真尋から。

『それでよかったと思います』

 葵は少し腹が立つ。

『真尋にも言ってほしい』

 すぐに返事。

『全国発売、おめでとうございます、葵』

 名前。葵は画面を見つめる。

『ありがとうございます』

     *

 電話はしない。今夜は、メッセージで終える。

 俊介との時間を終えた真尋も、これから一人の生活へ戻る。葵も。

     *

 一方、大阪では、真尋が俊介とのビデオ通話を終えた後、葵のメッセージを読んでいた。

 俊介とは、二拠点生活開始後の東京滞在について話した。何日を一緒に過ごすか。真尋の自分の部屋。俊介の部屋。結婚について。

 大切な話。

 その途中、スマートフォンが一度震えた。葵。真尋は開かなかった。今は俊介との時間。

 通話を終え、メッセージを読む。

『今、会いたいと思っています。でも、今日はこのまま一人で休みます。一週間後、今日のことを全部聞いてください』

 真尋の胸が締めつけられた。

 会いたい。今から電話をかけたい。

 だが葵は、一人で休むと選んでいる。その選択を、真尋の罪悪感で変えない。

 メッセージを返す。

     *

 真尋は大阪の部屋で、葵の商品を一袋取り出した。

 午前中、業界資料で店舗写真を見た。実物は、昨日のうちに本社から届いていた。全国発売版。

 まだ開けていない。今夜、俊介と話した後に食べると決めていた。

 袋を開ける。香り。一つ口へ入れる。

 試作品と同じ味。だが、今日から全国で売られている。

 真尋の部屋にある一袋も、特別なものではない。多くの人が買える商品。

 それが嬉しい。

     *

 真尋は葵の言葉を思い返す。

 自分で自分に、おめでとうと言った。

 以前の葵なら、真尋が言うまで待ったかもしれない。今は、自分で一日を受け取った。

 それでも、真尋にも言ってほしいと求めた。

 自立することと、誰かの言葉を求めないことは違う。

 真尋は、葵の名前を入れて送った。

『全国発売、おめでとうございます、葵』

     *

 翌朝、葵は六時半に目を覚ました。

 全国発売の翌日。特別な日が終わっても、仕事は続く。

 午前七時半、売上確認。包装不良の再出荷。SNS反応。広告。店舗。

 葵は布団から出る。体が重い。寝不足。だが、動ける。

 朝食を食べる。今日はパンを焦がさない。卵は作らない。ヨーグルトと果物。

 スマートフォンには、昨夜の真尋とのやり取り。何度も読み返さない。画面を閉じる。

 会社へ行く。

     *

 午前七時半、全国展開チーム。初日の最終売上。

 予測を七パーセント上回った。大きな成功ではない。だが、良いスタート。

 南雲が言う。

「今日は分析です」

「はい」

 葵は資料を開く。昨日の喜びを、今日の仕事へ変える。

 地域別。時間帯。客層。広告流入。再購入はまだわからない。

 札幌の低さは天候の影響。福岡は駅店舗で高い。大阪は広告公開後に伸びた。

 葵は大阪の数字を見る。真尋が住む街。真尋が買ったわけではない。それでも、その地域で商品が手に取られた。

「小野寺さん」

 南雲が声をかける。

「昨日の取材、追加質問が来ています。問題を解決しない商品なら、なぜ買うのか。回答案を、今日中に」

「わかりました」

     *

 葵は考える。

 問題を解決しない。前向きにしない。それでも、なぜ買う。

 人は、解決のためだけに食べるわけではない。

 甘さ。休息。区切り。自分を責めない時間。誰かに見てもらえない日にも、自分で自分を受け取るため。

 葵は文章を書く。

『すべての休息に、答えが必要なわけではありません。状況が変わらなくても、立ち止まり、食べ、呼吸を整える時間には意味があります。この商品は、その短い時間のためにあります』

 南雲へ送る。

     *

 一時間後、南雲から返信。

『良いです。ただ、「意味があります」を会社が断定しすぎないよう調整しましょう』

 修正案。

『状況が変わらなくても、立ち止まり、食べ、呼吸を整える時間を必要とする方がいます。この商品は、その短い時間に寄り添うためにあります』

 葵は読む。自分の言葉が、南雲の手で変わる。意味は残る。柔らかい。

『この案でお願いします』

 葵は承認する。

     *

 昼休み、美月から写真。会社の机。空になった商品袋。

『昨日食べた。今日はもう一回買う』

 葵は返信する。

『本当に?』

『味が好き』

『言葉は?』

『昨日は読んだ。今日は味』

 葵は笑う。言葉だけではない商品。それでいい。

     *

 大阪では、真尋が出勤前に対象店舗へ立ち寄った。

 全国発売の翌朝。昨日行けなかった店。

 棚に青いパッケージ。昨日より数が減っている。売り場札。

 真尋は立ち止まる。写真を撮る。

 葵へすぐ送ろうとして、止める。仕事中かもしれない。

 送ってよい。返事を求めなければ。

『大阪の店舗で見ました』

 写真を添える。送信。

 真尋は商品を一袋買う。昨日、本社から届いたものを食べた。それでも、自分で店舗から買いたい。

 レジ。支払い。袋へ入れる。消費者の一人として。

     *

 葵が真尋の写真に気づいたのは、正午過ぎだった。

 大阪の棚。真尋が撮った。

『見てくれた』

 すぐに送る。

『はい』

『買った?』

『一つ』

『誰かが取るところ見た?』

『見ていません。でも、昨日売れた分だけ棚が減っていました』

 葵は画面を見る。

 発売日ではない。一日遅れ。それでも真尋が見た。

『ありがとう』

 送る。考え。

『昨日じゃなくても、嬉しい』

 真尋から。

『はい』

     *

 発売から三日。初動は安定。大きな問題なし。広告の反応。売上。

 葵の生活は忙しい。朝から夜。会議。取材。修正。次の商品企画にも入る。

 真尋とのメッセージは短い。会うまで、あと四日。

 葵はノートへ、話したいことを書きためる。

 一日目。最初の購入。包装不良。取材。ケーキ。

 二日目。大阪の写真。追加取材。

 三日目。広告への批判。味への好評。

 四日目。再購入らしい購入者。

 自分が見たこと。見られなかったこと。

     *

 発売から五日目、全国展開チームへ一通の顧客メールが届いた。広報から共有される。

『仕事を辞めると決めた後、本当にそれでよかったのか、毎日考えていました。商品を見つけ、答えを出した後にも迷ってよいのだと思いました。食べても状況は変わりませんでしたが、その夜は少し眠れました』

 葵は文章を何度も読む。

 大げさな感謝ではない。人生が救われたとも。少し眠れた。

 葵が商品へ込めたことに近い。

 広報担当が言う。

「広告へ使用できないか、検討したいです」

 会議室の空気が変わる。

「本人へ連絡しますか」

 南雲が尋ねる。

「問い合わせフォームに、連絡可のチェックがあります。掲載許可を」

 葵は手を上げた。

「条件を決めたいです」

 南雲が葵を見る。

「何を?」

「本人の言葉を、こちらの都合で劇的にしない。退職理由や年齢、家族など、書かれていない情報を求めすぎない。掲載場所を具体的に伝える。匿名を選べる」

「はい」

「掲載前に最終文章を確認してもらう。公開前なら、取り下げられる。謝礼。返信がなければ、使わない」

 広報担当がメモする。

「社内資料だけなら?」

「それも、本人へ確認します」

 南雲が頷く。

「小野寺さんが窓口案を作ってください」

「私が?」

「この言葉を使う意味と、使わない選択の両方を理解しているので」

 葵は頷いた。

「わかりました」

     *

 顧客の言葉。届いたからといって、会社のものにはならない。

 商品を買った人の痛みを、販売のために使う。価値を伝えるために必要な場合もある。だが、相手の人生を物語へ変えてよいわけではない。

 葵は連絡文案を作る。

 何に使いたいか。どこへ掲載するか。全文ではなく一部を使う可能性。断っても不利益がない。返信しなくてもよい。

 具体的に。

     *

 石橋が文案を見る。

「固いな」

「軽くすると、断りにくくなりそうです。感動しました、と最初に書くのも嫌です」

「なぜ?」

「会社が感動したと言うと、使わせてほしい圧力になる」

「なるほど」

「感想を送ってくださったことへのお礼だけ。使わない選択も明確に」

「いい」

 石橋は一部だけ修正する。

「小野寺。この人の言葉、使いたいか」

「使いたいです」

「なぜ?」

「商品が何を渡せたか、伝わるから。でも、使わなくても、届いたことは変わりません」

「断られたら?」

「使いません」

「残念?」

「はい」

「それでいい」

     *

 一週間後の日曜日。真尋と会う日。午後四時。

 葵は、発売日の服ではなく、普段の服を選んだ。白いシャツ。濃い色のスカート。

 バッグには、全国発売版の商品。売上資料。広告映像。顧客メール。ノート。

 多い。だが、今日は二時間ではなく三時間を取っている。

 真尋が東京へ戻る予定を調整した。俊介とは前日の夜。母とは昼。葵とは午後四時から七時。

 決めた時間。

     *

 待ち合わせは、以前と同じカフェではなかった。真尋の東京の部屋。葵が希望した。

 外ではなく。二人だけで。全国発売の日を、最初から話す。

 葵が呼び鈴を押す。扉が開く。

「いらっしゃい」

「ただいま、でいい?」

 真尋は考える。

「はい」

「ただいま」

「お帰りなさい」

 葵は部屋へ入った。

     *

 洗面所。葵の古い歯ブラシはない。新しい未開封のものが棚に置かれている。

「捨てた?」

 葵が尋ねる。

「古くなっていたので。必要なら、新しいものを」

「今日泊まらない」

「はい」

「でも、置く?」

「葵が決めてください」

 葵は考える。

「今日は開けない。次に泊まる時」

「わかりました」

 物を先に置いて、関係を確かめない。必要な時に使う。

     *

 リビング。テーブルにお茶。真尋が葵の商品を二袋用意している。

「買ったもの?」

「一つは大阪の店舗。もう一つは東京」

「なぜ二つ?」

「店舗ごとに違いがあるか」

「仕事?」

「少し」

 葵は思わず笑った。

「食べた?」

「大阪のものを」

「どうだった?」

「同じ味でした」

「当たり前」

「品質が安定しています」

「仕事の人」

     *

「最初から話します」

 葵がノートを開く。

 真尋は向かいへ座り、スマートフォンを伏せた。時計。三時間。途中で休憩する。

「朝、真尋と話した。焦げたパン。駅の店舗。最初の人は買わなかった。二人目も」

「はい」

「三人目の女性が取った」

 葵の声が変わる。

「裏を読んで、戻して、もう一回取って、かごに入れた」

「はい」

「何を思ったか、わからない。声をかけなかった」

「はい」

「それでよかった?」

「はい。商品は、その人のものになったので」

「うん」

     *

 広告。取材。包装不良。売上。南雲。石橋。美月。食事会。一人のケーキ。

 葵は順番に話す。真尋は途中で評価しない。質問だけをする。

「包装の連絡を受けた時、何を思いましたか」

「全部止まるかと。初日に失敗したって」

「南雲さんは?」

「すぐ止めた。私は、少し売り続けたいと思った」

「なぜ?」

「六店舗だけだったから。でも、一袋の人には関係ない」

「はい」

「南雲さんを見て、責任者はこういう時に決めるんだと思った」

「はい」

     *

「食事会の時、真尋からメッセージが来た。俊介さんと食事って。嫌だった」

「はい」

「でも、私も皆といた。私の場所もあった。それでも、帰ったら会いたかった」

「はい」

「メッセージ送った」

「読みました」

「電話しなかった。してほしかった?」

 真尋は考える。

「少し」

 葵が驚く。

「真尋も? なぜしなかった?」

「葵が、一人で休むと選んでいたからです。私が罪悪感で電話をすれば、葵の選択を変えることになるかもしれない」

「うん」

「でも、声を聞きたかったです」

「言って」

「今?」

「その時も。私は一人で休むって言ったけど、真尋が声を聞きたいと言えば、話したかもしれない。話さなかったかもしれない」

「はい」

「希望は言っていい」

「葵に言われました」

 二人は声を立てて笑った。

     *

「今から、発売日の最後の私を見て」

 葵が言う。

「どうやって?」

 葵はスマートフォンを出す。

 一人で撮ったケーキの写真。空。ノート。全国発売日の服をハンガーへかけた写真。誰にも送らなかったもの。

「これ、私が一人で撮った。真尋へ送るためじゃなく」

「はい」

「でも、今日見せたい」

「見ています」

 真尋は一枚ずつ見る。

「ケーキ」

「うん」

「自分へ、おめでとうと言った。どんな声で?」

「普通。少し泣いた。でも、言えた」

「はい」

     *

 葵はノートを開く。

『真尋が見ていなくても、今日の私は消えなかった』

 真尋が読む。

「その下」

『それでも、一週間後に見てほしい』

「見ています」

 葵の涙が落ちる。

「真尋。全国発売の日の私、どうだった?」

 結果ではない。仕事の評価でも。

 真尋はすぐに答えず、葵を見た。

「会いたい人に会えなくても、自分の一日を小さくしなかった人です」

「うん」

「問題が起きても、仕事を続けた。皆と祝った。一人でも祝った。寂しいと言った」

「うん」

「でも、寂しさを、誰かの予定を奪う理由にはしなかった」

「うん」

「よく頑張りました」

 葵は顔を伏せた。

     *

 真尋は席を立たない。すぐに抱きしめない。葵が自分で顔を上げるまで待つ。

 やがて葵が言う。

「抱きしめて」

「はい」

 二人は立ち、抱きしめる。

 秋田の時とは違う。全国発売を終えた葵。部長になった真尋。それぞれの生活を進めた二人。

「見てほしかった。見てくれて、ありがとう」

「話してくださり、ありがとうございます」

     *

 抱擁を終え、再び座る。葵は顧客メールを出した。

「これが届いた」

 真尋は読む。

 仕事を辞めると決めた後も迷った。答えを出した後にも迷ってよいと思えた。その夜は少し眠れた。

「葵が渡したかったものですね」

「うん。広告に使いたいと言われた。条件を出した」

 葵は倫理基準を説明する。明確な同意。匿名。掲載場所。確認。取り下げ。謝礼。個人情報を求めすぎない。

「どう思う?」

「必要だと思います」

「会社は、使いたい」

「葵も?」

「使いたい。でも、断られたら使わない。言葉が届いたからって、会社のものじゃない」

「はい」

「真尋と秋田で決めたことに似てる?」

 真尋は考える。

「相手の言葉や生活を、自分の不安を満たすために所有しないという点では。でも、顧客と私たちの関係は違います」

「わかってる。それでも、私たちのことが仕事に影響してる」

「私もです」

     *

「真尋の発売日は?」

 葵が言う。

「私の商品ではありません」

「部長になった後の一週間。聞かせて」

 今度は真尋が話す。

 部長席。距離。山岸の課長。森田の判断。岩瀬の予算。受信箱。二拠点。俊介。葵の商品を大阪で買った朝。

「店舗で買った時、何を思った?」

 葵が尋ねる。

「全国の商品になったと。葵のものでもあり、葵だけのものではない」

「うん」

「少し寂しかったです」

「真尋が? なぜ?」

「最初の試作品を知っていることが、特別ではなくなった気がしました」

 葵が驚く。

「真尋も、特別でいたい?」

「はい」

「誰でも買えるの、嫌?」

「嫌ではありません。でも、私だけが知っていた時間が、遠くなったように感じました」

「うん」

「それでも、全国へ行ってほしかった」

「場所が違うなら、勝たなくていいって、私が言った。真尋も、全国の人に勝たなくていい」

 真尋は笑う。

「そうですね」

     *

「最初の試作品を食べた真尋は、一人だけ」

 葵が言う。

「石橋さんや開発の方も」

「そうじゃなく。秋田へ持っていった。私が迷ってた時に食べた。その時間は、全国に行かない」

「はい」

「でも、全国の商品も本物。どっちもある」

「はい」

 真尋の胸が軽くなる。

     *

 三時間が終わりへ近づく。全部は話せない。

 次の商品企画。二拠点。結婚。山岸。冬季版。残っている。

「時間です」

 真尋が言う。

「今日は泊まらない?」

「明日の朝、大阪へ戻ります。俊介と今夜話す予定も」

「はい」

 葵は少し寂しい。

「でも、今日は聞いてもらった。次、いつ?」

 二人は予定を確認する。葵の仕事。真尋の出張。俊介。母。

 候補日は三週間後。

「また三週間。電話は?」

「来週木曜日。その次は、必要なら」

「会いたくなったら、言う。来てって言う」

「はい」

「断られても」

「次を決めます」

     *

 玄関。葵は未開封の歯ブラシを見る。

「今日は開けなかった。次に泊まる時まで置いてて。でも、古くなったら捨てて」

「未開封なので」

「物を待たせない」

「行ってきます」

 葵が靴を履く。

「行ってらっしゃい」

「自分の生活へ」

「はい」

「真尋も」

「はい」

 扉が閉まる。

     *

 葵は駅へ向かう。

 全国発売から一週間。真尋に見てもらった。

 今日で発売日の自分が完成したわけではない。すでに完成していた。自分で過ごした時点で。

 今日、真尋に話したことで、その時間を共有できた。それだけ。

 それが大切。

     *

 電車へ乗る。スマートフォンへ、南雲からメッセージ。

『顧客の方から返信がありました。明日確認してください』

 葵の心が動く。同意したのか。断ったのか。今すぐ聞きたい。

 だが今日は日曜日。南雲も休み。

『承知しました。明日確認します』

 返信する。仕事へ戻るのは明日。

     *

 翌朝、葵は会社で、顧客からの返信を読んだ。

『感想を読んでくださり、ありがとうございます。商品が誰かへ届く助けになるなら嬉しいです。ただ、退職の詳しい理由や会社のことは、使ってほしくありません。私の母にも関係する事情があるためです』

 葵はゆっくり読む。

『使ってよいのは、「決められない日にも休んでよいと思えました」という内容だけです。私の文章をそのまま掲載するのではなく、短く整えてください。掲載前に確認したいです』

 その下に。

『もし条件が難しい場合は、使わなくて構いません』

 相手が境界を示している。退職。母。詳しく使わない。文章をそのままではなく。確認。

 葵は南雲を見る。

「この条件で進めたいです」

「はい」

「会社としては、詳しい背景があったほうが広告効果は高いでしょう」

「そうですね」

「でも、使いません。短い言葉だけ。本人の確認後」

「はい」

 南雲が頷く。

「小野寺さん、返答案を」

「作ります」

     *

 葵は文章を書く。

『ご希望の範囲を明確にお知らせいただき、ありがとうございます。退職理由、ご家族に関する内容は使用いたしません。「決められない日にも休んでよいと思えました」という趣旨のみ、仮名での掲載案を作成し、公開前に必ずご確認いただきます』

 最後に。

『ご確認後でも、公開前であれば取り下げていただけます』

 送信前、石橋へ見せる。

「いい」

「固くない?」

「相手の境界を扱う文章だ。これでいい」

 葵は送る。

     *

 言葉は、届いたからといって、こちらのものにはならない。

 商品も、買った人の生活へ入る。葵との関係も。

 真尋は、葵が大切に思うからといって、葵のものにはならない。葵も。

 大切にすることと、所有することを分ける。

 発売日の自分を見てほしい。それでも、真尋の時間すべてを求めない。

 顧客の言葉を使いたい。それでも、顧客の痛みすべてを求めない。

     *

 昼休み、葵はノートを開いた。

『全国発売後に、自分で決めたこと』

『品質問題で販売を止める判断を受け入れた』

『全国の数字を、自分の価値と同じにしなかった』

『真尋に会いたいと言った』

『会えなくても、発売日を過ごした』

『自分で自分を祝った』

『あとから、見てほしいと言った』

『顧客の言葉を、会社のものにしなかった』

 最後に。

『大切なものへ近づく時ほど、相手の境界を見る』

     *

 大阪では、真尋が山岸の最初の評価面談を終えていた。

 山岸は課長として、自分の部下へ厳しい評価をつける必要があった。迷った。真尋へ相談した。だが、最終判断は山岸がした。

「水口部長」

 面談後、山岸が言う。

「評価を下げました。本人は、納得していません。嫌われたと思います」

「可能性はあります」

「でも、必要だと思いました。これでよかったですか」

 真尋は答えない。

「私へ答えを求めますか」

 山岸は考え、首を振る。

「いいえ。ただ、見ていてほしいです」

 真尋の胸が動く。

「見ています。山岸さんが、聞いて、考えて、決めたことを」

「はい」

「結果が正しいかは、今後確認します。でも、今日決めたのは山岸さんです」

 山岸が頷いた。

     *

 葵が真尋へ求めたことと同じ。

 答えを出してほしいのではない。見ていてほしい。自分が決めたことを。迷ったことを。

 その言葉を、真尋は今、山岸から受け取った。

     *

 夜、真尋は葵へ短いメッセージを送る。

『今日、山岸さんから、見ていてほしいと言われました』

 葵から返事。

『私と同じ』

『はい』

『真尋、人気』

『違います』

『見てほしい人。でも、全部見るの大変』

『はい』

『真尋も、自分の生活して』

『葵も』

『しています』

 少しして。

『顧客の人から返信が来た』

 葵は条件を説明する。真尋は読む。

『境界を伝えてくださったのですね』

『はい』

『使う?』

『短い言葉だけ。本人の確認後』

『よいと思います』

 葵から。

『言葉は、届いたからって、こっちのものにならない』

 真尋はしばらく画面を見る。

『はい』

『人も』

 葵から続く。

『でも、大切にしていい』

『はい』

     *

 全国発売から二週間。売上は、予測を少し上回ったまま推移している。

 記録的なヒットではない。店舗差もある。札幌では、補助コピーを変える。福岡では追加発注。大阪は安定。再購入率は、首都圏テストと同程度。

 商品は、定番化の候補として残る。

 成功。ただし、まだ続ける仕事がある。

     *

 葵は次の商品企画の会議へ入った。全国展開と並行。新しい言葉。新しい味。今の商品を繰り返さない。

 石橋が言う。

「次は何を作る」

「まだわかりません」

「全国の成功を使うな」

「どういう意味ですか」

「同じ言葉を少し変えて、次も売ろうとするな。小野寺自身が今、何を見ているか。そこから考えろ」

 葵はノートを開く。

 今、自分が見ているもの。会えない日。見てほしい気持ち。それでも生活をする人。誰かに見られていない努力。

 すぐには商品にしない。自分の中で育てる。

     *

 真尋も、部長として新しい課題へ入る。

 三地域統合の次。本社との意思決定。二拠点勤務。

 自分が東京にいる間、山岸が大阪を動かす。見ていない時間が増える。

 それでも、あとから知る。必要なことだけ。すべてを求めない。

     *

 葵は全国発売版の商品を一つ開けた。午後三時。会議の間。短い休憩。

 一つ食べる。

 問題は解決していない。次の商品も。全国展開の維持も。真尋との次の予定も、まだ先。

 それでも、甘さが口に広がる。呼吸を整える。

 自分で作り始めた商品。今は多くの人の仕事。知らない人の生活。

     *

 葵は窓の外を見る。

 真尋に会いたい。今日ではない。次に会える日まで、自分の生活をする。

 その時、見てほしいものがまた増えているだろう。すべてを一度に話せない。

 それでも、話せるところから。

     *

 真尋は大阪の部長席から、山岸が部下と話す姿を見る。

 声は聞こえない。何を決めているかも、すべてはわからない。それでも、山岸は自分の仕事をしている。

 真尋が見ていなくても。葵も。俊介も。母も。皆、自分の生活を進めている。

     *

 見ていない時間は、失われた時間ではない。

 相手が自分の知らない場所で生きた時間。

 あとから聞けることも、聞けないこともある。すべてを知る必要はない。

 ただ、見てほしいと言われた時には、立ち止まって聞く。自分も、見てほしいと言う。

     *

 葵はノートの最後に書いた。

『真尋がいなかった全国発売日を、自分で生きた』

『一週間後、真尋に見てもらった』

『どちらも本当だった』

 その下へ。

『会えない日は、関係の空白ではない』

『それぞれが、自分の生活を進める日』

 ペンを置く。

     *

 真尋も生活ノートへ書く。

『葵の全国発売日に行かなかった』

『俊介との約束と、自分の仕事を選んだ』

『葵を大切にしていないからではない』

『傷つけなかったことにはしない』

『あとから、葵の一日を聞いた』

『見ていない時間を、知り直した』

 最後に。

『大切な人のすべてを見なくても、大切にできる』

     *

 二人は別々の場所で、同じ夜を迎える。葵は東京。真尋は大阪。

 次に会う日は、まだ数週間先。寂しさはある。

 それでも、明日の予定もある。仕事。食事。人との関係。一人の時間。それぞれの朝。

     *

 葵は照明を消す前、全国発売版の商品を棚へ一つ残した。

 記念ではない。明日か、明後日に食べるため。

 商品は、食べるもの。生活の中でなくなるもの。それでいい。

     *

 真尋は白い花瓶の水を替えた。淡い緑の花。まだ咲いている。

 明日も部長として仕事へ行く。葵も全国展開の仕事へ。

 二人が互いを見ていない間にも、生活は続く。そのことを、今は以前より信じられる。

     *

 葵は布団へ入る。目を閉じる前に、真尋へメッセージは送らない。

 次の連絡日は決まっている。今夜は一人で眠る。全国発売の日のように。

 ただし、あの日より少し軽い。

     *

 真尋も、大阪の部屋で照明を消す。スマートフォンを伏せる。

 誰かから連絡が来るかもしれない。緊急なら音が鳴る。そうでなければ、明日。

 すべてへ今すぐ答えなくても、関係はなくならない。

     *

 会えない日の朝。会えない日の夜。

 その間に、二人はそれぞれの一日を生きた。

 葵は全国へ商品を送り出した。真尋は部長として人へ仕事を渡した。

 互いの姿は見えなかった。それでも、次に会った時、以前と同じ相手を求めず、新しく増えた時間を聞くことができた。

 名前のない場所は、二人がいつも同じ場所にいるためのものではなかった。

 離れたまま生きた時間を持ち寄るための場所だった。


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