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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第三十四章 見ていない時間の私たち

真尋が正式に部長へ就任する朝、大阪には細い雨が降っていた。

 窓の外の公園は濡れ、歩く人たちは傘の下で足を速めている。

 真尋はいつもより十分早く起きた。特別な服を着るつもりはなかった。それでも、クローゼットの前で迷った。

 紺色のスーツ。灰色。黒。部長代理として何度も着たものばかり。

 新しい役職だからと、新しい服を買うことはしなかった。自分が別の人になるわけではない。ただ、同じ服を着ても、周囲から見える立場は変わる。

 真尋は紺色のスーツを選んだ。鏡の前で髪を整え、父の時計を腕へつける。

 東京の母から届いたメッセージは、まだ開かない。俊介からも。葵からも。

 就任式が終わってから読むと決めている。祝福の言葉を先に受け取ると、自分が誰かの期待へ応えるために今日を迎えるような気がした。

 朝食を取った。パン。茹で卵。ヨーグルト。コーヒー。

 食べ終えた後、白い花瓶を見る。

 黄色いクラスペディアは、乾燥し始めている。枯れたというより、形を残したまま水分だけを失っている。桃色の造花は、変わらない。

 真尋は黄色い花を抜こうとして、やめた。今日帰ってから考える。

「行ってきます」

 部屋へ言い、玄関の扉を閉めた。

     *

 大阪支社へ着くと、受付の女性が立ち上がった。

「水口部長、おはようございます」

「おはようございます」

 もう訂正しない。

 エレベーターへ乗る。七階。扉が開く。

 執務室へ入った瞬間、何人かが同時に顔を上げた。

「おはようございます」

「水口部長、おめでとうございます」

 最初に声をかけたのは坂口だった。

「ありがとうございます」

 真尋が答えると、周囲から拍手が起きた。大きなものではない。誰かが始め、数人が続いた。

 山岸が離れた場所で笑っている。森田は拍手をしながら、

「今日から本当に部長ですね」

 と言った。

「昨日までも、仕事はほとんど同じでした」

「肩書きが違います。給料も?」

「個人的なことです」

 周囲が笑う。緊張が少しほどけた。

     *

 真尋の机は、以前と同じ場所にはなかった。

 執務室の奥。窓に近い場所。半透明の仕切りで囲まれた、部長用のスペース。完全な個室ではない。だが、以前より周囲との距離がある。

「机、変えたんですね」

 真尋が山岸へ言う。

「人事の指示です」

「昨日まで知りませんでした」

「驚かせようと」

「必要でしたか」

「少し」

 机の上には、小さな花束。大阪、広島、福岡の三地域から。カードには、

『新しい場所でも、話を聞いてください』

 と書かれている。

 真尋の目が熱くなり、それから笑った。

「誰が書いたんですか」

「秘密です」

「森田さん?」

「違います」

 森田が離れた場所から答える。

「僕なら、話を聞くだけで決めない人にならないでください、と書きます」

「長いです」

 皆がまた笑った。

     *

 部長就任の正式な辞令交付は、午前九時からだった。

 支社長室。人事担当。本社からオンラインで部長と役員が参加する。

 書類。役職名。責任範囲。給与。権限。真尋は一つずつ確認し、署名した。

「水口真尋さん」

 支社長が言う。

「本日付で、西日本営業企画統合室部長を命じます。大阪、広島、福岡の営業企画統合および、本社との連携を担ってください」

「承知しました。よろしくお願いいたします」

 頭を下げ、書類を受け取る。

 その瞬間に、何かが体の中で大きく変わるわけではなかった。ただ、紙の重さが手にある。

     *

 辞令交付後、短い挨拶を求められた。真尋は準備していた文章をすべて読むことはしなかった。

「私は、この役割を、一人で正しい答えを出すために受けたのではありません」

 画面の向こうの役員が聞いている。

「異なる地域の判断を集め、必要な時には決め、間違えた時には修正する責任を持つために受けました」

 以前の正式発表でも話したこと。だが今日は、部長として言う。

「私がいなくても動く組織を作ります」

 支社長がわずかに頷く。

「同時に、責任を手放すつもりはありません」

 真尋は続けた。

「任せることと、任せた相手へ責任を押しつけることを混同しないようにします」

 山岸。森田。中原。小田。多くの顔が浮かぶ。

「よろしくお願いいたします」

 もう一度頭を下げた。

     *

 支社長室を出ると、山岸が廊下で待っていた。

「終わりました? 緊張しました?」

「少し」

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 山岸は小さな封筒を差し出す。

「何ですか」

「皆から」

 中には、一枚ずつ短い言葉を書いたカードが入っていた。坂口。森田。小田。岩瀬。中原。

 休職中の中原からも。

『戻った時、以前と同じ場所を求めないと言ってくださったことを覚えています。今は休みます。部長就任、おめでとうございます』

 真尋の指が止まる。

「中原さんへ連絡しましたか」

「私ではありません。小田さんです。カードだけなら負担が少ないか、本人に聞いて」

「はい」

「中原さんが書きたいと言ったので」

 真尋はカードを戻す。

 自分を通さず、人との関係が進んでいる。それでいい。

 少し寂しい。同時に嬉しい。

     *

 午前十時。部長として最初の会議。

 議題は、地域会議で決まった新しい店舗研修の運用。進行は森田。

 真尋は部長席に座る。以前なら、画面の中央。今日は端に近い。

 会議が始まる。森田が目的を説明する。山岸が人員面を報告する。小田が福岡の状況。岩瀬が広島。

 真尋は聞く。質問は来ない。

 最初の二十分。三十分。

 森田が議論を整理する。真尋なら、もう少し早く切ったと思う場面がある。だが黙る。

 四十分後、森田が言った。

「では、研修時間は九十分。資料は三分割し、店舗ごとに必要な部分だけ使用します」

 参加者が頷く。

「水口部長、最終的に問題ありますか」

 初めて呼ばれる。

「予算と契約への影響は?」

「ありません」

「では、進めてください」

 それだけ。会議が終わる。

     *

 森田が部長席へ来る。

「短かったですね」

「何が?」

「最後の発言」

「必要なことは決まっていました」

「もっと言いたそうでした?」

 真尋は否定しようとして、やめる。

「少し」

「何を?」

「資料の分け方を、地域ではなく店舗規模でも分類できると思いました。でも、次の改善でよいです」

「言ってもよかったのでは」

「今、必要ですか」

 森田は考える。

「今は、なくても動きます」

「では」

「部長らしいですね」

「黙ることが?」

「部長になったから全部言うのではなく」

 森田の口元が緩んだ。

「でも、次に必要なら言ってください」

「もちろんです」

     *

 午前十一時半、本社から最初の決裁依頼が届いた。

 予算変更。新しい役職者。地域別の人件費。

 金額は、以前の真尋が決められる範囲を越えている。

 資料を読み、質問を返す。数字。根拠。影響。

 決裁を一つするまでに、以前より責任が重い。

 署名欄。

『部長 水口真尋』

 名前を入力する。送信。

 単純な操作。だが、その後ろに人の給与と働き方がある。

     *

 昼休み、山岸、森田、坂口が真尋を誘った。

「就任祝い、昼だけですが」

「ありがとうございます」

 会社近くの店。四人。少しだけ良い定食。乾杯はお茶。

「部長就任、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「目標は?」

 坂口が尋ねる。

「急ですね」

「就任日なので」

 真尋は考える。

「私がいなくても動くこと」

「またそれですか」

 森田が言う。

「では、水口さん自身は何をするんですか」

 問いに、真尋は止まる。

「本社との調整。三地域の方針。予算。人事」

「それだけ?」

 森田は続ける。

「それだけではありません」

「何を?」

 すぐには答えられない。

 自分がいなくても動く組織。では、自分は何を作るのか。任せることばかり考えていた。

「新しい課題を見つけます」

 真尋が言う。

「問題を作る?」

 坂口は思わず笑った。

「作りません。今の業務を渡した後に、次に必要な仕組みを考えます。三地域だけでなく、本社との関係も」

「部長は、空いた場所へ別の仕事を詰める人?」

 山岸が尋ねる。

「そうならないようにします」

「休むことも?」

「はい」

「今日、何時に帰りますか」

「予定では七時」

「就任日なのに?」

「就任日だから遅くまで働く理由はありません」

「良い答えです」

 山岸は声を立てて笑った。

     *

 昼食中、真尋のスマートフォンが震えた。個人用。画面には、葵の名前。

『今日、部長になりましたか』

 朝から開いていなかった。母。俊介。葵。三人から祝福が届いている。

 真尋は今すぐ返したい。だが目の前には山岸たち。就任祝いの食事。

 スマートフォンを伏せる。

「返さなくていいんですか」

 山岸が尋ねる。

「後で」

「大切な人?」

「はい」

「俊介さん?」

「複数です」

「葵さんも?」

「はい」

「返しても」

「今は皆さんとの時間です」

 真尋は答えた。山岸が嬉しそうに笑う。

     *

 会社へ戻った後、真尋は個人用スマートフォンを開いた。

 母。

『部長就任、おめでとう。お父さんの時計をつけた?』

 俊介。

『おめでとうございます。今夜、短くでも声を聞けますか。無理なら明日で大丈夫です』

 葵。

『今日、部長になりましたか。おめでとう。真尋が何者でもなかった時も知っていますが、部長になった真尋も見たいです』

 真尋は葵の言葉で、笑った。

 三人へ別々に返す。

 母へ。

『時計をつけました。ありがとうございます』

 俊介へ。

『七時に退社予定です。九時から三十分なら』

 葵へ。

『今日、正式に就任しました。ありがとうございます。部長になった私も、今までの私も同じです』

 考え、続ける。

『次に会った時、今日のことを話します』

 送る。

     *

 午後一時、人事面談。山岸の課長就任について、最終評価を行う。

 支社長。人事。真尋。

 資料には、山岸の研修結果。面談。判断。失敗。改善。周囲の評価。

「水口部長は、山岸さんを課長へ推薦しますか」

 人事担当が尋ねる。

「はい」

「理由は?」

「人の話を聞く力。必要な判断を避けずに伝えられるようになったこと。自分の失敗を認め、方法を変えられること」

「はい」

「水口部長との関係が近いという指摘があります。評価へ影響していませんか」

「影響が全くないとは言いません」

 人事担当が顔を上げる。

「山岸さんと長く仕事をし、成長を見てきました。期待があります。だからこそ、私一人の評価にはしていません」

 支社長と人事の記録。周囲からの評価。複数の面談。

「山岸さんが課長になれば、水口部長の二拠点勤務が進めやすくなります。自分のために、推薦を急いでいませんか」

 真尋は一度息を吸う。

「その可能性を考えました。だから、就任時期を予定より一か月遅らせる案も検討しました」

「結果は?」

「今の時期で問題ないと判断しました」

「根拠は?」

 真尋は一つずつ説明する。山岸が単独で行った面談。人員配置。相談窓口。失敗後の修正。真尋が同席しない場での判断。

「推薦します」

 最後に、はっきり答えた。

     *

 午後三時、支社長から、山岸の課長就任が承認されたと連絡が来た。正式発表は翌週。

 真尋は山岸へ伝える。

「課長就任が承認されました」

 山岸はしばらく何も言わなかった。

「本当に?」

「はい」

「いつから?」

「来月一日。おめでとうございます」

 山岸の目が潤む。

「ありがとうございます」

「不安ですか」

「かなり。でも、やります」

「はい」

「水口部長」

 初めて、山岸が意識してそう呼んだ。

「何ですか」

「これからも、何でも相談していいですか」

「何でも、とは?」

「判断に迷った時。人とのこと。仕事。ただし、答えを求めるのではなく、話を整理するために」

「もちろんです」

「ありがとうございます」

     *

 山岸は席へ戻った。周囲にはまだ正式発表前なので、何も言わない。それでも歩き方が少し違って見える。

 真尋は嬉しい。同時に、山岸が真尋の庇護を離れるような寂しさがある。

 最初は、事務局の女性だった。意見を言う時に遠慮していた。

 今は、自分で課長になると決めた。真尋がいなくても。

     *

 午後四時、葵から新しいメッセージが届いた。

『全国展開が正式に決まりました』

 真尋の手が止まる。

 経営会議。今日だった。葵から聞いていた。就任日と重なっている。

『おめでとうございます』

 すぐに送る。既読。

 葵から。

『ありがとうございます』

 それだけ。

 真尋は少し違和感を持つ。もっと長い言葉が来ると思っていた。喜び。南雲とのこと。広告。全国。

 だが、今は仕事中。葵も。

 真尋は続けて送ろうとする。

『話せますか』

 打って、止める。

 自分は今夜、俊介と電話の予定。葵へも時間を取りたい。だが就任初日。決裁。山岸。業務。今すぐ電話へ移ることはできない。

 真尋は送る。

『今日、詳しく話したいですか』

 返事。

『はい。でも、真尋も大切な日でしょう』

『九時から俊介と話します』

 送ってから、葵がどう受け取るか考える。

『はい』

 短い。

『明日の九時から一時間は?』

 少しして。

『明日は全国展開チームの会食です』

『では土曜日』

『真尋は大阪?』

『はい』

『電話なら』

『土曜日午後八時から』

『わかりました』

 今日、会えない。話せない。次は土曜日。二日後。

 真尋は少し胸が痛む。葵にとって大切な日。

 それでも、自分の生活を動かすために予定を変えない。俊介との約束を、葵の喜びが大きいからと後回しにしない。

 正しいと決めつけたくはない。ただ、今はそう選ぶ。

     *

 午後五時半、部長就任初日の最後の会議。本社とのオンライン。

 二拠点勤務の試験開始時期。一年後。東京勤務の日数。大阪での責任。山岸の課長就任。移動費。住居。数値基準。

 真尋は説明する。

 部長になった日の終わりに、すでに次の生活が具体的になっていく。

『東京の住居は、現在の部屋を維持しますか』

「現時点では」

『一年後も?』

「決める前に、生活全体を確認します」

『会社としては、補助対象の条件があります』

「承知しています」

 東京の部屋。俊介。葵。母。自分。

 単なる会社の費用ではない。だが、会議では制度として話す。

     *

 午後七時、予定通り退社する。

 机の上には、まだ確認できる資料がある。明日。部長就任初日に全部を終える必要はない。

「お疲れさまでした」

 山岸が声をかける。

「帰るんですね。初日、どうでした?」

「まだ一日です。肩書きより、机の距離が気になります」

「遠い?」

「はい」

「近くへ移します?」

「人事へ確認します」

「本当に?」

「必要なら」

「部長席から出てきてもいいですよ」

「もちろんです」

 山岸は笑う。

「では、明日」

「はい」

     *

 会社を出ると、雨は止んでいた。道路に光が反射している。

 真尋は商店街を歩く。花屋。津田が店を閉める準備をしている。

「部長の日、終わった?」

「はい」

「おめでとう。花、買う?」

「今日は」

 真尋は店先を見る。白。赤。青。淡い桃色。

 何か一本欲しい。自分の就任祝い。誰かからもらうだけではなく、自分で選ぶ。

「これ」

 真尋は小さな紫色の花を指した。

「スカビオサ」

「はい」

「意味は?」

「聞かない」

 津田が笑う。

「自分に?」

「はい」

「いいね」

     *

 部屋へ戻る。

「ただいま」

 黄色いクラスペディアを花瓶から抜く。完全に乾いている。

 捨てるか。残すか。

 考え、紙へ包んだ。今日まで部屋にあった。それで十分。

 紫色のスカビオサを白い花瓶へ入れる。桃色の造花は別の器。

 真尋は父の時計を外し、机へ置いた。

 母へ電話する前に、まず食事。就任日でも、一人の夕食。

 簡単な鍋。米。冷蔵庫にあった野菜。

 食べる。自分の一日を、自分の体へ戻す。

     *

 午後八時、母へ電話をかける。

『おめでとう』

「ありがとうございます」

『時計、つけた?』

「はい」

『お父さんも喜んでる』

「わかりません」

『そうね』

 母は笑う。

『でも、私は嬉しい。寂しいけど』

「なぜ?」

『ますます大阪の人になる』

「東京へも戻ります」

『わかってる。今日は、誰かとお祝い?』

「一人です」

『俊介さんとは?』

「九時から電話」

『葵ちゃんも今日、全国が決まったって』

 真尋は驚く。

「連絡がありました?」

『はい』

「いつ?」

『夕方』

「私より先?」

 言ってから、自分でも気づく。母は黙った。

『何時に真尋へ送ったか知らない』

「はい」

『順番、気になる?』

「少し」

『葵ちゃんにも、真尋以外の場所がある』

「わかっています」

『私も、その一つ?』

「はい」

『なら、よかった』

 母は穏やかに答える。

     *

「葵は、何と?」

『全国が決まった。嬉しい。でも怖いって。責任者ではないことも。南雲さんから、次の責任者候補になるために経験を積めと言われたって』

「はい」

『よく頑張ってる。真尋も、今日よく頑張った』

「ありがとうございます」

『二人とも、相手に見てもらわなくても進んでる。でも、見てほしいんでしょう』

「はい」

『次に聞けばいい』

「はい」

     *

 午後九時、俊介からビデオ通話が入る。

「こんばんは」

『こんばんは。部長』

「やめてください」

『今日だけ。おめでとうございます』

「ありがとうございます」

 俊介は画面の向こうで、小さな箱を見せる。

「何ですか」

『次に会った時に渡します』

「今、見せるんですか」

『存在だけ。楽しみにしてください』

「ありがとうございます」

     *

 俊介は、就任式のことを最初から聞いた。辞令。挨拶。部長席。山岸の課長承認。森田の会議。花束。

 真尋は一つずつ話す。

『部長になった実感は?』

「机が遠いこと」

『それですか』

「はい」

『嬉しさは?』

「あります」

『怖さは?』

「あります」

『どちらが大きい?』

「今は、同じくらい。決める金額が増えました。人の評価も」

『はい』

「山岸さんを推薦しました。近いから、正しく見られていない可能性も考えました。それでも、推薦しました」

『信じている?』

「はい」

     *

『葵さんも、今日だったんですね』

 俊介が言う。

「全国展開が正式に決まりました」

『おめでとうございます。話しました?』

「土曜日に」

『今日ではなく?』

「はい」

『葵さんは、寂しいでしょうね。真尋も?』

「少し」

『なぜ?』

「母へ、先に詳しく話していました。私には、短い連絡だけ」

『葵さんから最初に聞きたかった?』

「わかりません。大切なことを、詳しく話す人でいたいです。でも、今日は互いに仕事中でした。母とは、葵のタイミングで話せた」

『はい』

「順番を求めるのは違うとわかっています」

『でも寂しい』

「はい」

     *

『僕も、今日のことを葵さんより先に聞きたかったです』

 俊介が言う。

「部長就任?」

『はい』

「今日は俊介と話す予定でした」

『だから安心していた?』

「少し」

『葵さんと先に話していたら、嫉妬したと思います。順番は、関係を測るものではないのに、気になります』

「はい」

『なくさなくていいですか』

「はい。ただ、順番を相手へ強制しない。寂しいとは言う」

『はい』

     *

「俊介。今日、葵と話すために予定を変えなかったことを、どう思いますか」

『僕との約束を守った。嬉しいです。でも、葵さんの大切な日だった。僕から、今日は葵さんと話していいと言うべきでしたか』

「それも違うと思います」

『なぜ?』

「私の予定を、俊介が譲る形になるので。私は、俊介との時間を選びました。葵とは次を決めました」

『それでいいと思います。でも、葵さんが傷ついても』

「傷つくと思います。関係があれば、誰も傷つけない選択はできません。傷つけたことを、小さくしない」

『はい』

「次に話します」

     *

 電話は三十分で終える予定だった。だが、少し延びた。

 部長としての不安。今後の二拠点生活。俊介の仕事。北川の転職。生活の話。

 最後に、俊介が言う。

『今日の真尋を、見られてよかったです』

「画面ですが。辞令の時は見ていません」

『でも、今聞きました。葵さんと同じですね』

「何が?」

『見ていなかった時間を、あとから知る。僕も、今日の真尋を全部見たわけではない。でも、今の顔は見ています』

「ありがとうございます」

     *

 電話を切った後、真尋は一人でテーブルへ座った。

 紫色の花。父の時計。辞令。山岸たちからのカード。葵の商品。

 いくつものものが同じ場所にある。

 今日、葵は全国展開を決めた。真尋は部長になった。

 二人とも、相手の大切な瞬間を見ていない。それでも、それぞれの一日があった。

     *

 翌日から、真尋の周囲の距離は少しずつ変わった。

 以前は、席の横から直接声をかけていた人が、山岸へ一度確認するようになった。簡単な相談が、メールで届く。文章が丁寧になる。

『お時間よろしいでしょうか』

『ご判断いただけますでしょうか』

 真尋は、敬語をやめてほしいとは言わない。立場が変われば、相手が感じる重さも変わる。

 ただ、必要以上に遠くならない方法を考える。

     *

 金曜日の午後、坂口が山岸の席で相談しているのが見えた。

 以前なら真尋へ来た内容。店舗研修の変更。

 山岸が聞く。質問する。判断する。

 真尋は部長席から見ている。声までは聞こえない。

 十分後、坂口が戻る。真尋へは何も来ない。

 少し寂しい。それで正しい。

     *

 午後三時、広島の岩瀬から直接電話が来た。

『部長へ相談があります。新しい店舗区分を、広島だけ先行して試したいです』

「理由は?」

『来月の販売計画に必要なので』

「大阪と福岡への影響は?」

『現時点ではありません』

「山岸さんと森田さんへは?」

『話しました。山岸さんは人員面で問題なし。森田さんは地域差の記録を条件に賛成』

「では、私へ何を求めますか」

『予算の承認です』

 必要な部分だけが来る。

「資料を送ってください」

『はい』

 以前なら、区分の設計から関わった。今は、現地で話し、最後に予算を決める。

 部長の仕事。

     *

 土曜日、葵との電話の日。午後八時。

 真尋は大阪の部屋で、ノートと飲み物を用意する。

 ビデオ通話が始まる。葵は自宅ではなく、会社近くの小さな会議室にいた。

「まだ会社ですか」

『会食の後、資料を取りに戻った』

「はい」

『全国が決まった』

「改めて、おめでとうございます」

『ありがとう』

 葵の顔は疲れている。だが、嬉しさもある。

『今日、最初から話す』

「聞きます」

     *

 葵は、経営会議の結果から話した。全国展開承認。販売開始は三か月後。初回数量。全国の対象店舗。広告。冬季限定。南雲。会食。皆から祝われた。

『石橋さん、少し泣いた。南雲さんは泣かない』

「はい」

『私は、会議室では泣かなかった。トイレで少し』

「はい」

『嬉しかった。責任者じゃないことは、まだ悔しい』

「はい」

『でも、全国へ行く。私の言葉が。私だけの言葉じゃないけど、始めた言葉が』

「はい」

     *

「昨日、詳しく話せなくて寂しかったですか」

 真尋が尋ねる。葵は考える。

『かなり』

「はい」

『真尋も大切な日だった。わかってた。でも、私のほうを見てほしかった』

「はい」

『部長は今日だけじゃない。全国が決まる日も、今日だけ』

 真尋の胸が痛む。葵の気持ちは理解できる。

「そうですね」

『でも、真尋に部長の日を小さくしてほしいわけじゃない。私も、自分の日を小さくしたくなかった。だから、母に電話した。美月にも。石橋さんたちと会食した』

「はい」

『真尋に話せなくても、祝った。それでよかったと思う』

「私より先に母へ詳しく話したことへ、少し寂しく感じました」

 真尋も正直に言う。葵が驚いた。

『順番?』

「はい」

『母へ電話したのは、経営会議の直後。真尋は仕事中だと思った。お母さんは出た。最初に話したい人を決めたわけじゃない』

「わかっています」

『でも寂しかった?』

「はい」

 葵が笑う。

『真尋も、そんなこと思うんだ。私だけじゃない』

「はい」

     *

『秋田で決めたこと』

 葵が言う。

「はい」

『大きな選択は、決める前に話す。全国展開は、ずっと話してきた。でも、決まった瞬間、最初に誰へ話すかは決めてない』

「はい」

『決める?』

 真尋は考える。

「決めません」

『なぜ?』

「順番が義務になるので。出られる人。その時、話したい人。状況によって変わる。ただ、後から知った側が寂しい時は言う」

『うん』

「それでよいと思います」

『私も』

     *

「葵。全国展開を決めた会議で、何を言いましたか」

 葵は資料を開く。

『経営会議では、部長が説明した。私は質問に答えた』

「どのような?」

『なぜ迷いを前へ出すのか。全国向けには重くないか。商品を食べて前向きになる表現へ変えないのか』

「何と?」

『迷いを消す商品ではないって。休む時間を渡す商品だって。答えが出た後にも迷う人がいる。前向きになれない日にも買える。それが、ほかの商品と違うって』

「誰か反対しましたか」

『役員の一人。暗いと言われた』

「はい」

『でも、アンケートを出した。売上も。感情だけじゃなく、仕事として説明した』

 葵の声に、少し誇りがある。

「よく頑張りました。責任者ではなくても、葵の役割でした。全国へ残すために必要な説明をした。見ていなくても、わかります」

『でも、見てほしかった。会議室で。無理だけど』

「今日、再現してもらえますか」

 葵が目を瞬く。

『再現?』

「役員に話したように」

『今? 真尋、役員役?』

「購入者でも」

『変』

「嫌ですか」

『やる』

     *

 葵は資料を整えた。

 画面越し。会社の小さな会議室。真尋は大阪の部屋。場所は違う。時間も、会議の日とは違う。

 それでも葵は、当日の説明を始めた。

「この商品は、悩みを解決するものではありません」

 仕事の声だった。

「食べた人が前向きになることを約束もしません」

 真尋は黙って聞く。

「迷っている自分を否定せず、短い休息を取るための商品です」

 葵はアンケートの例を話す。転職。介護。進路。別れ。

「答えを出した人にも、迷いは残ります」

 葵の声が変わる。自分自身のことを含んでいる。

「その迷いを、失敗の証拠にしない時間を渡したいと考えています」

 話し終える。画面越しに沈黙。

「どう?」

 葵が尋ねる。

「良いと思います」

『仕事として?』

「はい」

『葵として?』

「葵が、誰かに選ばれるためではなく、自分の言葉を仕事へ変えたことが伝わります」

 葵の目が潤む。

     *

「真尋の部長の日も聞かせて」

 葵が言う。

「はい」

 真尋は辞令から話す。父の時計。部長席。挨拶。山岸の課長承認。森田の会議。必要とされない寂しさ。紫色の花。母。俊介。

『部長席、遠い?』

「はい」

『寂しい?』

「はい」

『近くへ戻せば』

「人事と相談します」

『本当にするんだ』

「必要なら」

『真尋も、誰かに見てほしかった?』

「はい」

『誰に?』

 問いへ、真尋は考える。

「俊介。母。葵。山岸さんたち。一人ではありません」

『うん』

「皆に違う部分を見てほしかったです」

 葵は少し微笑む。

『私も。美月には泣いた私。母には嬉しい私。石橋さんには悔しい私』

「はい」

『真尋には、全部』

 真尋は少し息を止める。

「全部は見られません」

『わかってる』

「はい」

『でも、話したい範囲は全部』

「聞きます」

     *

 通話の終わり、次に会う日を決める。互いの予定を開く。

 真尋は部長として、出張と会議が増えている。葵は全国展開の準備。週末も店舗確認。

 最初の候補日は、真尋が東京へ戻れない。二つ目は、葵が広告撮影。三つ目は、俊介との予定。

 四つ目。三週間後の日曜日。午後四時から。

『三週間』

「はい」

『長い。電話は?』

「来週水曜日」

『一時間』

「はい」

『その次は?』

「必要なら決めます」

 葵は寂しそうに頷く。

『会いたい』

「私も」

『でも、三週間頑張る』

「頑張りすぎないでください」

『仕事はする。見てほしいこと、ためておく』

「はい」

『真尋も』

「話します」

     *

 通話を終えた後、葵は会社を出た。

 夜の廊下。警備員へ挨拶。エレベーター。外は少し寒い。駅へ向かう。

 全国展開が決まった。真尋は部長になった。二人の生活は、同じ日に大きく進んだ。

 互いに、その瞬間を見ていない。

 それでも、あとから話せた。再現した。知り直した。

     *

 真尋も、大阪の部屋でスマートフォンを置いた。

 紫色の花。辞令。山岸たちのカード。葵の商品。今日聞いた、経営会議での言葉。

 その場にはいなかった。だが、葵がどのように話したかを知った。

 見ていない時間を、あとから受け取る。

     *

 翌週から、真尋と葵はさらに忙しくなった。

 真尋は部長として、東京本社と三地域の間を行き来する会議へ入った。葵は全国広告の撮影準備。

 メッセージの回数は減った。

 以前なら、葵は不安になった。今も少しなる。だが、予定された水曜日がある。話す日。

 それまでは、自分の生活。

     *

 月曜日、葵は広告撮影の衣装とセット確認へ立ち会った。

 映像では、商品を食べた女性が翌朝窓を開ける。笑顔ではない。疲れが消えているわけでも。それでも、自分でカーテンを開ける。葵が提案した場面。

 撮影監督から、

「もう少し明るい表情に」

 と指示が入る。

 葵は止めた。

「笑顔にしないでください」

 現場が一瞬止まる。喉が乾いているのがわかる。

 南雲が葵を見た。

「理由は?」

「この人の迷いは、朝になっても残っています。でも、自分で窓を開ける。それが、この商品の変化です」

 監督が考える。

「無表情では?」

「少しだけ、息を吐くような」

 葵が自分で演じてみせる。窓を開ける。空気が入る。小さく息を吐く。笑わない。だが、昨日より少しだけ体を起こす。

「それで撮りましょう」

 南雲が言う。

     *

 撮影が終わった夜、葵は真尋へ送りたくなった。

『撮影で、笑顔にしないでと言えた』

 画面を開く。水曜日まで、あと二日。

 送ってもよい。だが今すぐ返事を求めたい気持ちがある。

 葵はノートへ先に書いた。

『広告撮影。最後の笑顔をなくした。窓を開け、息を吐く場面にした』

 その後、真尋へ短く送る。

『今日、広告撮影が終わりました。水曜日に話したいことがあります』

 真尋から夜遅く。

『わかりました。聞きます』

 それだけ。

 葵は少し寂しい。でも、水曜日がある。

     *

 同じ月曜日、真尋は山岸の課長就任発表を行った。

 会議室。山岸が前へ立つ。

「私は、話を聞くことだけで仕事をしたいと思っていました」

 山岸は言う。

「でも、聞いた後に決めなければ、誰かへ負担を残すことがあります」

 真尋は聞く。

「嫌われることを避けず、ただし、相手を小さく扱わずに判断できる課長になります」

 山岸自身の言葉。真尋が作った挨拶ではない。

 拍手。真尋も手を叩く。

 少し寂しい。山岸は、もう真尋の後ろにいる人ではない。

     *

 発表後、山岸が真尋へ来る。

「どうでした?」

「よかったです」

「修正は?」

「ありません」

「水口部長。私の挨拶を、全部聞いていました?」

「はい」

「途中、少し寂しそうでした」

 真尋は驚く。

「わかりました?」

「長く見ていますから。私が一人で立つと、寂しい?」

「少し」

「でも、嬉しい?」

「はい」

「両方でいいですか」

「はい」

 山岸は吹き出した。

「葵さんも、同じですか」

「何が?」

「水口部長に見てほしい。でも一人で立ちたい」

 真尋は考える。

「はい」

「水口部長も、見てほしい?」

「はい」

「誰に?」

「複数の人に」

 山岸は頷いた。

「私も、その一人でいいですか」

「もちろんです」

     *

 水曜日、真尋と葵の電話。

 葵は広告撮影のことを話した。笑顔をなくしたこと。息を吐く場面。南雲が葵の案を支持したこと。現場で自分の言葉を守れたこと。

 真尋は聞く。

「よく言えましたね。監督へ?」

『緊張した。南雲さんが助けてくれると思ったけど、最初は黙ってた。自分で説明した。その後、支持してくれた』

「責任者が何を見ているか、少しわかりましたか」

『うん』

「何を?」

『私が自分で話せるか。守りたいだけじゃなく、代案を出せるか。南雲さんに見られてた』

「はい」

『真尋にも見てほしかった』

「今、見ています」

『うん』

     *

 真尋は山岸の課長就任を話した。

『おめでとう。寂しかった?』

「山岸さんにも言われました」

『見抜かれてる。真尋、最近ずっと寂しいね。部長になったのに』

「役職と寂しさは別です。葵も、全国へ行くのに寂しいでしょう」

『うん』

「大きくなるほど、自分だけのものではなくなる。関係も」

『私たち?』

「はい」

『大きくなる?』

「生活が広がる。大切な人や仕事が増える。互いだけの時間が減る」

『うん』

「それでも、関係が小さくなったとは限らない」

『うん』

     *

 三週間後の日曜日。真尋と葵は予定通り会った。

 午後四時。東京のカフェ。

 葵は広告映像の完成前データを持ってきた。真尋は部長就任後のノート。互いに、見せたいものがある。

「どちらから?」

 葵が尋ねる。

「葵から」

「部長なのに?」

「関係ありません」

 葵の口元が緩んだ。

     *

 映像を見る。

 夜。仕事を終えた女性。商品。言葉。

『迷う日にも、ひと息。』

 翌朝。目覚まし。窓。手。カーテン。光。

 女性は笑わない。小さく息を吐く。画面が暗くなる。最後に商品。

 真尋はすぐに感想を言わない。もう一度見る。

「どう?」

 葵が待ちきれず聞く。

「良いです」

「どこが?」

「朝になっても、問題が残っていることがわかります。でも、起きた。誰かに起こされたのではなく、自分で窓を開けた」

「うん」

「葵ですね」

 葵の目が潤む。

「私?」

「はい」

「商品を作ったから?」

「それだけではなく」

「うん」

「会いたい人に会えない夜も、一人で食事をし、翌朝、会社へ行った。今の葵です」

     *

「真尋も」

 葵が言う。

「何が?」

「山岸さんが一人で課長になった時。寂しくても、止めなかった。次の日、仕事へ行った。窓を開けた人?」

「少し違います」

「同じところもある」

「はい」

 二人は笑う。

     *

 次に、真尋のノートを見る。

 部長就任の日。山岸の課長。森田の会議。受信箱が静かなこと。紫色の花。

 葵は一行ずつ読む。

「真尋、こんなに寂しいって書くんだ」

「人へ見せる予定ではありませんでした」

「見せてくれた。私に?」

「はい」

「見てほしかった?」

「はい」

 葵はノートを閉じる。

「見た。部長になった真尋。でも、何者でもない真尋も。寂しい真尋。嬉しい真尋」

「はい」

「全部は見られないけど、今日、知った」

「ありがとうございます」

     *

 カフェを出る頃には、外が暗くなり始めていた。二人は駅へ向かう。

「次は、いつ会える?」

 葵が尋ねる。

「確認します」

「今日?」

「はい」

 二人は歩きながら予定を開く。

 葵の全国発売日。真尋の出張。俊介との予定。母。山岸の研修。

 候補は一か月後。

「一か月。長い」

「はい」

「発売日は?」

「大阪です」

「来られない?」

「会議があります」

「夜だけでも?」

「難しいです」

 葵の顔が曇る。

「発売日、会いたい。今日みたいに、後からじゃなく。その日、見てほしい」

「はい」

「来てほしい」

 葵は、言葉を消さずに言った。

 真尋は立ち止まる。

「行けません」

 はっきり答える。葵の目が痛そうに揺れた。

「うん」

「会議を動かせません。夜は、俊介と約束があります」

「うん」

「でも、発売日の朝、十分なら電話できます」

「顔を見て?」

「はい」

「夜も?」

「夜は難しいです。翌週の日曜日に会えます」

「発売日から一週間後」

「はい」

「長い」

「はい」

 葵は唇を噛み、頷いた。

「朝、十分。その日に、発売の瞬間を話す。一週間後、全部見て」

「見ます」

     *

 改札前。葵は寂しそうなまま笑う。

「来てって言えた。断られた。でも、終わらない」

「はい」

「一週間後。それまでは、私の生活をする。発売日も。真尋がいなくても」

「はい」

「でも、見てほしい気持ちは消さない」

「消さなくていいです」

     *

 二人は別れた。葵は電車へ。真尋は俊介のいる場所へ。

 それぞれの帰る先。

     *

 電車の中で、葵は全国発売日の予定を確認した。

 朝。店舗確認。会社。取材。広告公開。売上速報。南雲。石橋。開発。

 多くの人と過ごす。真尋はいない。

 それでも、朝の十分がある。一週間後がある。

 真尋に見てほしい自分を、真尋がいないからと小さくしない。

     *

 真尋は俊介の部屋へ向かいながら、葵の表情を思い出した。

 発売日に行けない。傷つけた。

 それでも、自分の予定を変えなかった。俊介との約束。部長の会議。

 葵だけを選ばない。同時に、葵を大切にしていないわけではない。

 朝の十分。一週間後。できる形を選ぶ。

     *

 俊介の部屋へ着く。呼び鈴。扉が開く。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 俊介が真尋の顔を見る。

「葵さんと話しました? 何かありました?」

「全国発売日に来てほしいと言われました。行けないと」

「僕との予定も?」

「はい」

 俊介は黙る。

「僕との予定、動かしてもいいですよ」

「動かしません」

「本当に?」

「はい」

「葵さんは傷つく。それでも?」

「はい」

「なぜ?」

「今日は、俊介との時間を選んだからです」

 俊介の表情が揺れる。

「嬉しいです。でも、葵さんへ申し訳ない」

「私が向き合います」

「はい」

     *

 真尋は部屋へ入り、靴を脱ぐ。

 白いカップ。自分の部屋着。俊介の生活。ここにも帰る場所がある。

 どこか一つを選ぶたび、別の誰かが寂しくなる日がある。すべてへ同時に戻ることはできない。

 だから、次を決める。傷つかなかったことにしない。

 会えない日にも、相手の生活が続いていると信じる。

     *

 大阪へ戻った夜、真尋は生活ノートを開いた。

『部長になった日』

 その下へ書く。

『葵の全国展開が決まった日でもあった』

『互いの瞬間を見ていなかった』

『あとから、見ていなかった時間を知った』

『順番を、大切さの順位にしない』

『会いたい希望を言う』

『断られても、関係全体を否定しない』

『次に見てもらう日を決める』

 最後に。

『見ていない時間にも、相手は生きている』

     *

 葵も、自宅で新しいノートを開いた。

『全国発売まで』

 と書かれたページ。

『真尋は発売日に来られない』

 その下へ。

『会いたいと言えた』

『断られて、寂しかった』

『朝、十分話す』

『一週間後に会う』

『発売日の私は、真尋が見ていなくても消えない』

 考え、さらに書く。

『でも、一週間後に見てほしい』

     *

 二人は別々の場所で、同じようなことを書いていた。知ることはない。

 すべてを共有しなくても、二人は似た場所へたどり着くことがある。違う言葉で。違う生活の中で。

     *

 真尋は照明を消す前、紫色の花を見た。花びらが少し開いている。

 部長就任の日に、自分で選んだ花。誰かへ贈られたものではない。

 それでも、母、俊介、葵、山岸たちから祝われた日でもある。

 自分で受け取った一日。誰かに見てほしい一日。

 両方。

     *

 葵は全国発売版のパッケージを手に取った。まだ製造前の見本。青い色。変わらない言葉。

『迷う日にも、ひと息。』

 全国発売の日、真尋はいない。だが南雲がいる。石橋。美月からも連絡が来るだろう。母。会社の人たち。

 そして葵自身。

 誰か一人に見てもらえなければ、その日が成立しないわけではない。

 それでも、真尋にも見てほしい。

 その気持ちは、依存ではなく、大切に思うことの一つだと、今は少しわかる。



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